フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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 印象派を紹介するステファヌ・マラルメの文章は、雑誌「月刊美術評論」9月30日(第1巻第9号)の冒頭に掲載された。一頁を左右二段にわけて組まれた文章の劈頭に、「印象派の画家たち(Impressionistes)とエドゥアール・マネ」とタイトルが印刷され、次いで以下のように書き出されている。
 「いかなる前口上も、またこの記事の冒頭に掲げられた表題の意味をお判りにならない読者にたいする説明も省いて、私はいきなり本題に入ることにする。」 
 マラルメの語り口いささか挑発的で皮肉な調子だが、当時の読者、とくにイギリスの美術愛好家にとって、印象派(impressionist)という言葉は耳慣れないもので、おそらくマラルメのこの文章で初めて出会った新造語であった。そこでマラルメは、フランスにおける印象派の運動を説明するにあたって、1860年代の絵画の歴史をひもとくことからはじめる。一世紀にわたり西洋絵画を支配してきたロマン派に代わって、新しい地平を切りひいたのはクールベであった。
 「・・・1860年頃、クールベがその作品を展示しはじめるや、突然、ながく続く光が輝きだした。これはある程度まで、文学にあらわれはじめた運動と軌を一にするものだった。その運動とはリアリズム(自然主義)の名称をあたえられるもので、事物を見えるままに、生き生きと再現して心に刻みつけ、さらにおせっかいな想像力をきびしく捨象するものである。・・・そしてこの運動の最中に、官展〔の会場〕の壁の上には時たま、そして落選作品展の会場の壁には、それより多い頻度で、たしかに好奇心をそそる不思議な絵があらわれはじめた。それはまちがいなく大衆の失笑を買ったが、思慮深い真の批評家には、なにか心を不安にするものをもっていた。彼らは、これは一体どの流派〔エコール〕に属しているのか、作者はいかなる教義を説こうとしているのかと、その都度自問せざるをえなかったのである。というのも、この新たな教義を主張しようとする者は、頑固さの点で際立っていたからである。それらの作品には、当時はまだ新しく、世間的には無名のエドゥアール・マネという署名があった。」
 マラルメはマネの画壇への登場をたくみに描き出した後、マネの作品がたどった跡を簡潔に要約する。
マネの絵に対して、大衆は初めのうちは冷たかったが、具眼の士はそこに新たな意味を見抜いた。この具眼の士こそ詩人で批評家のシャルル・ボードレールであり、自ら自然主義文学を確立しつつあった作家エミール・ゾラであった。この二人の強力な支持もあって、マネの名前は一般大衆にも次第に浸透していったのである。
 「1867年、マネとその仲間の作品の特別展が開かれ、これまで無名だった流派が成長して、一派らしいものを形成していることが明らかになった。・・・〔そして〕、マネの作品の展覧会が、先ごろ彼自身のアトリエで開かれた。官展が同時に開催されていたにもかかわらず、観客はあからさまな好奇心と熱意を抱いて、1874年と1876年、イタリア大通りやデュラン=リュエルの画廊へ殺到した。以前は非妥協派(アントランジャン)と呼ばれ、今日では印象派(インプレッショニスト)と呼ばれるスタイルの作品を観るためである。彼らはそこで何を見出したのか。奇妙な様相をした一連の絵、最初の一瞥では、〔創作の〕動機は普通と変わらない印象をあたえる。だが作品は動機をこえて、単なる自然主義(レアリズム)とは異なる独特の性質のものとなっている。そしてここには、今日、芸術のうちに出現しつつある予期しない危機の一つが姿をみせている。その危機を、現在の条件と未来の展望のもとに研究し、そのアイディアを発展させるべく、いささか努力してみよう。」
 マラルメは、マネの出現はただ単に新しい画家が一人誕生したというだけではなく、芸術に革命をもたらすような事件だという。それは絵画芸術そのものを根底から破壊しかねない起爆力をはらんでいる。具体的には、先の「マネ擁護論」でも述べていたように、マネは三次元のものを二次元の平面に翻訳するという、絵画が本来的に抱えている矛盾に真正面から取り組もうとしているというのである。その上でマラルメは、マネが革新的なのは理論が先行するからではなく、彼が生来の画家だからにほかならないという。
 「マネは、芸術に関する心労を投げ捨てて、アトリエの光のなかで友人とおしゃべりをしているときなどには、溌剌として自己を表現する。そのときは絵画によって理解したことを披歴し、どんな新たな運命が待ちかまえているか、絵とは何か、彼は抗しがたい本能から絵を描いていること、彼がいまやっているように描いていることなどである。『一つの作品に取りかかるたびに』と、彼は語る。『そこに真っ逆さまに飛び込んでいく。泳ぐ術を会得するもっとも確実な方策(プラン)は、たとえそれがどれほど危険に見えようと、まずは水に飛び込むことだと心得ている人間のように』というのである。そして、ここからいつものような箴言の一つが生まれる。風景や肖像を決して同じプロセス、同じ知識、あるいは同じ様式(ファション)で描いてはならないというのである。一つ一つの作品は、心の新たな創作物でなければならない。手は、なるほど獲得した巧みな筆遣いの秘密の幾何かを維持するだろうが、眼は前に見たものをすべて忘れるべきなのだ。眼はいつでも物事をはじめて見るように、じっと見つめることで、注意を記憶から逸らすようにしなくてはならない。そうすれば、手は以前に習い覚えた技巧をすべて忘れ去って、ただ意志だけに導かれる。非個性的な抽象作用と化すはずである。芸術家自身と同様に、個人的感情、彼固有の嗜好は〔制作に〕われを忘れている状態では無視され、もっぱら個人生活の楽しみのために脇にとっておかれることになる。この状態こそが、一度には達成されないかもしれないが、最終的な目標なのだ。ここに到達し、自己隔離の状態を確立するまでには、巨匠は多くの段階を踏まなくてならない。だがこれにより芸術の新たな発展がもたらされるのである。」
 マネの言葉を引用し、それを敷衍して展開される創作論は、マネのものなのかマラルメの信念なのか、もはや見分けがつかないほどである。それほどここにはマラルメが年来抱き続けてきた思想が色濃くにじみでている。とくに後半の部分の、眼はひたすら眼であり続けてこそ事物の本質をとらえることができる。つまり芸術家は、感情や嗜好を排して感覚を全開状態にしえたとき、非個性と化した芸術家は、いわば一個の媒体となり、事物と事物の純粋な関係が、そこに姿をあらわすという考えは、マラルメがトゥルノンの高校の英語教師であったときから、繰り返し唱えてきたことであった。(続)

 今年のブログはこれで終わりにします。どうか良い年をお迎えください。
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by monsieurk | 2012-12-31 08:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 マラルメのマネ擁護論でもう一つ注目すべきなのは、絵画芸術を根源にまでさかのぼってとらえようとする徹底性である。彼によれば、絵画とは「絵具と香油からなる芸術」であるにもかかわらず、従来の西洋絵画は明暗法にしばりつけられてきた。この伝統にあっては、色彩の効果はもっぱら人物や物体の立体性を表現することを目標とし、光の当たる部分は明るい色彩で描かれ、陰影の部分は暗い色彩がもちいられる。そして中間色によって明から暗への漸進的移行がもたらされて、立体感が得られるというわけである。
 同時代の十九世紀の画家たちも、この明暗法を後生大事に守っていた。その結果が、マネが「グラーヴィー・ソースのような」と形容する、薄汚いハーフ・トーンにひたったような暗い絵が氾濫していた。
 この壁を打ち破ったのが、ドラクロアでありマネであった。彼らが目指したのは、視る者に三次元的錯覚をあたえることとから絵画を解放して、カンヴァスをあくまでも二次平面としてあつかう方向へ踏み出すことだった。マラルメは、マネはこの点で誰よりも革新的だったというのである。
 「ここ〔マネの《燕》〕では、その一切の構成要素がたがいに調和をたもち、それが画面に蟲惑的な美しさをあたえている。しかも、これに一筆でも余計な筆を加えようものなら、その美しさは台なしになることだろう。それなのにどうしてこの絵を、『十分に磨き上げられていない作品』などといえるのだろうか。」
 マネの作品は同時代の批評家から、「ごった塗りの美学」といった悪口をしばしばこうむったが、マネの新しさは、平面上に立体感をうみだすために、光と影を配置する従来の半濃淡画法〔ドゥミ・タント〕を脱却して、対象それぞれの固有の色を並置する彩色法をもちいたことだった。白色は、たとえば洗濯物の白さである以上に白そのものであり、女性がかぶる仮面の赤は、燕尾服の黒とのコントラストの上で、画面全体に色彩の交響楽を奏でている。マネにあっては、色彩画面をつくりだす喜びが、現実の対象を模倣する喜びに先行していて、それは観る側にとっても同じ態度を求めるものであった。「一切の構成要素がたがいに調和をたもち、それが画面に蟲惑的な美しさをあたえている」のであって、マネの単純化された筆致が絵画というものの本質を開示し、やがて後継者たちが、マネが先鞭をつけた道をさらにつきつめることになる。一八七四年の官展の審査委員たちがマネの作品に拒否反応を示したのは、そこに絵画芸術の伝統を壊そうとする革新性をうすうす感じとったからにほかならなかった。
 これから二年後の一八七六年の夏、マラルメはもう一篇の美術論を書きあげて、ロンドンの雑誌「月刊美術評論と写真集(Art Monthly Review and Photographic Protfolio)」に発表した。雑誌はジョージ・セシル・マンシーを編集長に、イギリスだけでなく、広くヨーロッパ各国の美術界の動向を伝えることを目的に、この年の初めに創刊されたものであった。
 フランス絵画の新しい傾向について、マラルメに論じさせるという発想を誰が思いついたのか。このころ詩集『大鴉』の紹介記事を通して知り合いとなった週刊誌「アシニーアム」の協力者の一人、アーサー・オショーネシーの紹介があったのであろう。ジョージ・T・ロビンソンという人物からマラルメに執筆依頼の手紙が来たのは七月十九日のことである。
 マラルメはこの申し出に、さっそく了承する旨の返事を出した。こうしてこの年の夏休みの間に書き上げられたのが、『印象派の画家たちとエドゥアール・マネ(the Impressionistes and Edouard Manet)』である。記事はできあがるとすぐにロンドンへ郵送され、ロビンソンの手で英訳されて「月刊美術評論と写真集」の9月30日号に掲載された。
 残念なことに、マラルメが書いたもの文章のフランス語の原文はその後散逸してしまった。だがこの文章はマラルメの美術論としてはもとより、彼がこの時期芸術一般についてどんな考えを抱いていたかを知る一つの鍵としてはなはだ重要で、幸いにも大英博物館所蔵の雑誌のファクシミリを入手することができた。これは1959年に、マリリーン・バースレムによって仏訳されて、雑誌「新フランス評論(NRF)」8月号に掲載されたが、翻訳は全文ではなく部分訳である。このバースレム訳も参照しつつ、英文から翻訳、紹介してみよう。
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by monsieurk | 2012-12-28 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 エドゥアール・マネの作品が官展(サロン)から出点を拒否された事件は、マラルメに絵画について考えさせる機会をあたえることになった。その結果は、「1874年の絵画審査員会とマネ氏(Le Jury de peinture de 1874 et M. Manet)』として、雑誌「文学・芸術復興(La renaissance littéraire et artistique)」の4月12日号に発表された。官展が開幕した直後のことで、審査委員会のあり方に託して絵画の本質を論じた文章は、マラルメ独特の屈折した文体にもかかわらず多くの読者の注目を集めた。
 マラルメはまずマネの絵画が不当に拒否された事実を指摘する。
 「官展が近づくにつれて、好奇心でわくわくしていた人、また新しいアトリエに目を向けていた絵画愛好家は、ここ数日、まったく突然、絵画部門の審査委員会が、マネ氏が送った三点のうち二点を退けたことを知った。
 多くの人たちにとって、たとえ彼が群衆の一人であれ、今年は一つの秀でた才能の完全な発現を学びえないことは、大きな落胆だった。一方、新しい標的を不倶戴天の敵と狙う人たちは、こう叫ばざるをえなかった。『彼らはなぜ送られてきた作品全部を拒否しなかったのか?』と。
 私はといえば、前者と感情を同じくする。そして後者の叫びにも無条件で同意する者だ。」
 官展の審査委員会は三点のうち二点を拒否し、《鉄道》だけを採用したのだが、マラルメはこうした中途半端な態度を、筋の通らないものとして論断するのである。
 「もしも彼らが官展を訪れた人たちから、(どう言葉に表現してよいか分からない啓示の場合と同じように)人を不安に陥れる絵を目にする機会を取り上げて、その輝かしい特質によって、人びとが徐々に征服されるがままにしておく危険を遠ざけたいと望むなら、目的によっては好ましい権力を、完全かつ絶対的に行使する勇気をもつべきなのだ。群衆の趣味を支配するという、ここしばらくは忘れられていたが、それ自体は昔からある習慣を、なぜ中途半端に、三分の二だけ持ち出すようなことをするのだろう?(恐らくは、それで芸術を救う気なのだ。)」
 皮肉で、揶揄するような調子にもかかわらず、マラルメは真剣である。彼が自分をかつてマネを擁護したボードレールに自らをなぞらえていたことは容易に想像でき、とくに観衆の視点から問題をとらえようとする姿勢にそれはあらわれている。マラルメによれば、この問題の焦点は、審査委員会がはたして自分たちの判定を大衆におしつける権利があるか否かである。時代の流行に敏感な大衆の好みこそが、よき絵画を選択するのであって、」権威によってそれを無理やり捻じ曲げようとする審査委員会のやり方は不当なのではないか。マネ拒絶事件の本質をマラルメは鋭くえぐりだす。
 「マネ氏はアカデミーにとって(不幸にも、わが国では公的な秘密会議をこう呼ぶので、それに従っているわけだが)、絵画についての考えと同様、その実現した点からも〔マネ氏の絵は〕危険なのである。つまり、彼の見者(voyant)の眼が、絵画のある種の手法にもたらした単純化は、見かけのやさしさに誘惑されやすい愚者どもを魅了することができるから〔危険〕なのだが、絵画における誤りの最たるものは、それが絵具と〔それを溶かす〕香油でつくられているという、この芸術の起源を覆いかくすことである。公衆(public)はといえば、自分たちの多様な個性がそのまま再現されているのを前にして釘づけとなり、もはやこの背徳的な鏡から眼をそらすことも、天井〔画〕の寓意的な素晴らしさや、風景画〔が描かれているため〕に深められた羽目板の数々、つまり理想的で崇高な『芸術』に、もう一度眼を向けなおすことは決してしない。万一、現代的なるものが、永遠なるものを損なうようなことにでもなったら!
明らかにこれが審査委員会を構成するメンバーの大多数の考えである。・・・」
 ここに表明されているのは、素朴なまでの公衆への信頼である。彼らはすぐれた絵に接する機会さえあたえられれば、本物を見分ける能力を本質的にもっている。しかもその趣向は時代とともに確実に変化する。いまや過去の寓意画や風景画では満足せず、産業革命をへて爛熟期にさしかかった十九世紀中葉の社会の諸相を、忠実に描いた風俗画に魅せられずにはいられない。彼らは教会や美術館の天井を飾る寓意画や壁にかけられた古色蒼然とした風景画などは見向きもせずに、「自分たちの多様な個性がそのまま再現されている作品を前にして釘づけとなり」、自らの姿を映す鏡のような現代風俗画の前を離れようとはしないというのである。それにもかかわらず、絵画の専門家を自認する審査委員たちは、大衆の趣向が変化したことも知らずに、過去の価値基準を後生大事に守っている。
 公衆に重要な役割をあたえようとするマラルメの主張は、たとえばボードレールが、「1864年の官展」で開陳してみせた、新しい芸術の擁護者として新興ブルジョアジーに期待するという考えを進展させたものである。公衆を構成するブルジョアは、ボードレールにとっても、マネやマラルメにとっても同時代をともに生きる人びとであり、なによりも彼ら自身がブルジョア階級に属していた。マネの絵の新しさは、技法上の革新性に加えて、描く対象の新しさにもあった。マネは周囲で展開する十九世紀半ばのパリの生活、なかでも気心の知れたブルジョアたちの風俗を積極的に画題としてとりあげた。
 そしてもう一つ注目すべきなのは、絵が鏡と見なされている点である。絵は群衆が自らの姿を認める姿見であり、群衆とは絵を観る存在であるとともに、絵のなかに描かれる対象でもある。そしてこの二重性こそが、群衆が現代的なもの主人公の証なのだ。
 マラルメは官展に提出された三点について論じるなかで、とくに群衆を映す鏡として《オペラ座の仮面舞踏会》をとりあげる。
d0238372_1523321.jpg 「オペラ座の舞踏会の一隅を描くこと、この大胆は行為を実現するにあたって、避けるべき危険はなんだったのか? 服装ともいえない仮装の不調和な喧騒。いつの時代、どこの国のものとも分からない、しかも造形芸術にたいして、生きた人間がとるさまざまな姿勢の目録を提供するでもなく、そこにはただ泡をくった身振りがあるばかりである。だから仮面は、絵のなかではまるで新鮮な花束のようにいくつもの色彩でもって、黒い燕尾服を基調とする単調さをやぶる役割だけをはたしている。仮面は見る人たちの目から消えうせ、人びとはオペラ座の休憩室を漫歩する男たちが立ちどまっているこの真面目な光景のなかに、現代の群衆の姿をしめす出会いを観ることができるのである。しかしその群衆の姿は快活さをそえる明るい色どりなしには描ききれないものである。非のうちどころのない美学であって、作品の色彩についていえば、〔燕尾服という〕現代の制服が強要する〔黒一色という〕困難さが、黒のさまざまな色調のなかに見いだされる色階の甘美さのうちに解消されていることに、ただただ驚嘆するほかはない。燕尾服と黒い仮装服、帽子と仮面、ビロード、羅紗、繻子と絹。仮装によって加えられた生き生きとした色彩がなぜ必要だったか、眼はようやくに気がつく。眼はまず、ほとんど排他的に男だけからなる一群がつくりだす、厳粛で、調和の取れた色彩の魅力にひきつけられ、引き止められたあと、ようやく〔仮装服の〕華やかな色彩を見わけるのである。だから絵画としては、無秩序や顰蹙を買うようなもの、画布の外へはみだすようなものはここには何もない。それどころか、これこそが絵画芸術に望まれる手段だけを駆使して、現代のあらゆる視像(ヴィジョン)を定着させようという高貴なくわだてなのだ。」
 マラルメの文意は、その特徴である反語的な用法のために必ずしも分かりやすくはないが、論旨は明快である。《オペラ座の仮面舞踏会》でマネが描こうとうとしたのは、時代の刻印を捺された群衆の姿である。主役はシルクハットと燕尾服に身をかためたブルジョアたちであり、さまざまなポーズを示す男たちにうかがえるのは、ブルジョア社会の特徴である「無名性」への志向である。画面いっぱいに描かれている無数のシルクハットと燕尾服は、「真っ黒で醜い現代の衣服にもそれなちの美しさがある」とボードレールが述べたように、この時代の制服であって、この制服をまとった男たち、「ほとんど排他的に男のみから成り立っている一群」は、互いに入れかえることができる、いわば平等な存在である。
 マネはこの作品を制作するにあたって、友人たちにポーズを頼み、それぞれの姿を画面忠実に再現した。眼を画布に近づけて仔細に眺めると、たしかに描かれた人物の一人一人に、マネを取りまく友人たちの容貌を見分けることができる。ただ友人たちの肖像を集めたはずのこの絵では、登場人物の個性ははぎとられ、ブルジョア社会の一員であることを示す燕尾服をまとった画一的な姿に描かれている。
 これを同じように群衆を描いたギュスターヴ・クールベの《画家のアトリエ》(1854-1855)と比べてみると、その特徴は一層明らかとなる。
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 クールベの絵にあっては、カンバス中央に描かれた絵筆をもつ画家自身を中心に、右半分にはクールベの芸術を理解し、支援してくれる人々の顔を識別することができる。そこには批評家のシャンフルーリ、彼が信奉した社会主義者のプルードン、クールベの庇護者で蒐集家のアルフレッド・プリュイアス、そして本を手にしたボードレールなどが描き込まれている。そして反対側の左手には絵に無理解の司祭、猟師、道化役者、草刈り人夫などが、その特徴とともに描かれている。
 マネに頼まれてポーズをした一人であるテオドール・デュレは、彼の特徴はわずかに、「片方の耳と髯の生えた方頬」だけが生かされただけだと語ったが、デュレが美術批評を生業とすることを示すようなものは、絵からすべて捨象されてしまっている。そしてこの点にこそマネの絵の斬新さがあったのである。
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by monsieurk | 2012-12-25 08:00 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの「大鴉」

 ステファヌ・マラルメがフランス語に翻訳したエドガー・アラン・ポーの長篇詩『Corbeau(大鴉)』は1875年6月に刊行された。
 エドゥアール・マネの作品が、前年の官展(サロン)で出品を拒否された際に、マラルメはマネを擁護する文章を書いて発表した。これに感激したマネは、年少の友であるマラルメがかねてから暖めていたエドガー・アラン・ポーの詩の訳の出版に協力することを申し出た。こうして二人の友情から生まれたのが、書肆レスクリードから刊行された詩画集『大鴉』である。d0238372_10505184.jpg
 マラルメは学生だったときからポーの詩を翻訳して出版する意図を抱き、詩篇のいくつかを翻訳して、長年それに手を入れてきた。なかでもポーの代表作である「大鴉」には特別な思い入れがあった。マネはマラルメ訳の「大鴉」の原稿を読むと、新たな試みを実行してみる気になった。それは十年来興味をひかれ、有形無形に影響を蒙ってきた日本の浮世絵の手法を採用することだった。こうして、内表紙のための大鴉の頭部、エクス・リブリス用の羽を広げた大鴉、それに詩の本文が語る四つの情景を、墨を用いて素早いタッチで描き出し、豪華詩集を飾るべく石版で刷られたのである。
 一枚目では、机の上の火屋(ほや)がかかったランプと、机の上に広げられた書物、横顔を見せつつそれに眼を走らせる詩人が描かれる。モデルは明らかにマラルメである。
 二枚目の挿画は、夜の街に向かって大きく開かれた窓のかたわらに佇む詩人を描き出す。窓の外をじっと見入る詩人。シルエットになった街を背景に、一羽の大鴉がいままさに部屋に飛び込もうとする瞬間である。
 三枚目も詩句にうたわれた情景で、大鴉は部屋の扉の上部に飾られた智恵の神パラスの胸像の兜の上とまって身じろぎもしない。マネは一筆書きのような筆致で、緊張をはらんだ部屋の雰囲気を描き出している。
 四枚目は、真白な余白の中に、扉とその前に置かれた椅子、そして扉から床にかけて流れるような大鴉の不吉な影を映している。そして最後の一枚は、黒檀のように黒々とした大鴉のクローズアップである。さらにマネはエクス・リブリスのために大きく羽を広げた大鴉の姿も描いた。マネの精魂こめたこれらの傑作は、マラルメを大いに喜ばせた。
 五枚の大判の挿画と一枚の蔵書票を得たマラルメは、訳詩を単行本として出版すべく、旧知の大手出版社のルメールに刊行を依頼した。だがルメールはこの申し出をすげなく拒否した。
 ルメールは再考を促すマラルメに、3月11日と13日の二度にわたって断りの手紙を送りつけた。その上で、マネにはなんの釈明もしないまま、挿画を送り返さした。マネが理由を糺すと、3月15日付けで次のような手紙を送ってきた。
 「貴方のお手紙は小生にはかかわりがないと存じます。私が交渉したいと望んだのは、貴方ではなくマラルメ氏でしたから。
 マラルメ氏が私を貴方のところへ連れていったとき、詩については何も知らされておりませんでしたが、彼の訳詩は支離滅裂で、真面目な出版社で出版するのは不可能です。
 もし貴方の絵が、本の中心である詩の成り行きに左右されるのであれば、絵を協力者から引き上げられますように。  敬具。   A・ルメール」
 ルメールの慇懃無礼な手紙を受け取ったマラルメとマネは、ルメールに代わって豪華本の出版を引き受けてくれそうな出版者探すために奔走した。
 パリ9区ラフィット通り61番地に店を構えるリシャール・レスクリードという出版者がいた。1825年にボルドーで生まれた彼は、ヴィクトル・ユゴーの熱心な信奉者で、やがてユゴーの無給の秘書となり、1860年にパリに出て来てからは、新聞「プティ・ジュルナル」の輸送部門の責任者となった。同時に小説や戯曲を出版し、エミール・ブレモンが主筆をつとめる雑誌「文芸・芸術復興」の出版元ともなった。
 アイディアに富むレスクリードは、1873年には高級美術誌「版画のパリ」を刊行し、これにはアルマン・ギヨマンやレガメー兄弟、ジャン=ルイ・フォランなど多くの画家がオリジナルの版画を提供した。画家のフェリックス・レガメーは、「ギメ博物館」をつくったことで有名なギメに随って来日するが、日本滞在中の見聞を手紙で伝えた相手こそ、このレスクリードであった。
 マラルメとマネがどんなきっかけでレスクリードと知り合い、やがて豪華本『大鴉』が誕生することになったのか。この点はながらく謎であったが、書誌学者ミカエル・パッケナムは、1994年になってリシャール・レスクリードが残した大量の手紙を見つけて出版した。これまでマラルメの手紙は知られていたが、レスクリードの手紙の所在は一切不明だったが、これにより豪華本『大鴉』誕生の経緯と、その後の運命が明らかになったのである。パッケンナムが公表した手紙については、全編を翻訳した上で解説をつけ、京都の臨川書店から出版したので(『マラルメの「大鴉」 エドガー・A・ポーの豪華詩集が生まれるまで』臨川書店、1998年)を参照して欲しい。なおレスクリードの手紙のオリジナルは、パリ東郊のニュイイ・シュル・セーヌ市の図書館に所蔵されている。
 今日残されている資料によると、マネは4月半ばにまず、計画をバシュランという出版者に持ち込んだが捗々しくなく、14日にはマラルメに、「今夜レスクリードに会い、貴兄の意見は保留したまま、彼にすべてを話しました。バシュランに原稿を見せたことを言わないように」と伝えてきた。これがレスクリードとの接触をうかがわせる最初のものである。
 5日後の19日、レスクリードは妻に宛てて、「私は必ずやマラルメの『大鴉』を、好条件で出版することになるだろう」と述べている。この間にマラルメもレスクリードと会って、両者の間で出版について基本的な合意ができたと推察される。そして4月25日に出た「版画のパリ」誌には以下のような予告が載った。
 「版画社は、アメリカの詩人の『大鴉』の二つ折豪華版を近く出版の予定である。『大鴉』はイギリスとアメリカではもっともポピュラーな詩の一つである。この本はマネによる五葉の大変印象的な大版デッサンで飾られるはずである。 / この本では英語の原詩とフランス語訳が見開き頁に向かい合わせに印刷されることになろう。」
 こうして『大鴉』の出版は決まったが、これが実現するまでに、レスクリードは予想外の忍耐を強いられることになった。マラルメは一度仕上げた訳稿に手を入れ、さらに最初の校正刷にも加筆と訂正が加えられ、新たな校正刷をつくらなければならなかった。マネは石版刷の出来栄えに不満で、本刷用の校正刷に応じず、仕事のやり直しを要求した。その上、一度中国紙に刷ったものをオランダ紙に刷り直させたりした。そのため詩人が窓辺に立っている絵柄のものは、五種類の異なった版が摺られたほどである。この間のレスクリードとマラルメやマネ、あるいは石版画の摺りを請け負ったレフマンなどとのやりとりは、パッケンナムが公表した手紙で詳細にたどることができる。
 待望の『大鴉』(Le Corbeau / The Raven / poème / par / Edgar Poe / Traduction française de Stéphane Mallarmé / avec illustration / par / Edouard Manet. // Paris / Richard Lesclide, Editeur, 61, rue de Lafayette / 1875) は紆余曲折をへてようやく印刷された。6月1日に、150冊の法定出版登録が行われたが、実際には印刷されたのは240部である。
 印刷にあたったのはアルカン・レヴィで、二折型七頁の超大型冊子である。羊皮紙を用いた表紙に文字はなく、大鴉の胸から上が墨色で描かれている。こうした表紙に包まれて、綴じられてないオランダ特漉の紙に、まず表題が赤と黒の文字で印刷され、次いで見開きの左側には英語の原詩がロマン体で、右頁にはフランス語訳がイタリック体で印刷されている。これとは別に五枚の石版画と、半透明の紙に羽を広げた大鴉を印刷したエクス・リブリス一枚がテクストの間に挟まれていた。奥附頁には番号が付され、マラルメとマネの自筆の署名が朱色のインクでなされていた。
 定価は挿画を中国紙に石版印刷したものが三十五フラン、オランダ紙の方は二十五フランであった。同じくマネの挿画入りのシャルル・クロの『河』が二十五フランであったことを考えれば、ことさら高いとはいえなかった。
 散々手間をかけさせられただけに、レスクリードはこの豪華本をなんとかして売りつくしたいと考え、書店用に赤黒二色刷りのポスターをつくった。そして仏英の新聞雑誌の書評担当者に四十冊の本を送り、取り上げてくれるように依頼した。翻訳者と画家も、ヴィクトル・ユゴーに和紙に摺った特別製を贈呈したほか、友人たちに献辞を添えて本を送った。
 マネの挿画は好評だったが、マラルメの翻訳は評価と批判が相半ばし、本が高価だったこともあって『大鴉』は売れ残った。1876年11月初め、レスクリードは在庫の一部をマラルメに引き取らせようとしたが、詩人には金銭的余裕がなかった。レスクリードはついに翌1877年1月、貸借対照表を提出して破産を申告した。その後在庫分がどう処理されたのかは定かではないが、やがて出版人レオン・ヴァニエの手に渡り、彼の手で売りに出されたことは分かっている。
 一度だけ『Corbeau(大鴉)』のオリジナルを手にしたことがある。それはパリの7区のサン・ペール通りに店があったマルク・ロリエ(Marc Loliée)のところで、1974年のある日訪ねて行くと、当方がマラルメ研究のために資料を蒐集していることを知っていたロリエは、よいものを見せてあげるといって、奥の書庫から美しく装幀された『大鴉』を持ってきてくれたのである。これは当時すでに滅多に目にすることができない稀覯本だった。机の上にひろげて、ページを慎重に繰りつつ小一時間も眺めていただろうか。ロリエはその間、にこにこしながら若い外国人のわがままを許してくれたのだった。この本はその後まもなくニューヨーク市立図書館が購入したということだった。
 この後1996年になって、アメリカ議会図書館の稀覯本部所蔵の『大鴉』(No.63)の完全複製本が、図書館の許可のもとにザ・イーストン・プレス(The Easton Press)から刊行された。その他に小生がマラルメ没後100年に当たる1998年に、京都の臨川書房の協力を得て、福井産の和紙を用いてつくった十部限定複製本が存在する。
 『大鴉』のオリジナルは、恩師鈴木信太郎先生が一冊所蔵されていたが、これはいま独協大学附属図書館の蔵書となっている。
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by monsieurk | 2012-12-21 08:00 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 パリ左岸のジュヌヴィエーヴの丘に、「ジャック・ドゥセ文学文庫(Bibliothèque littéraire Jacques Doucet)がある。パリ5区のスフロ通り(rue Soufflot)を、パンテオンを正面に見ながら上がって行くと、左手にサント・ジュヌヴィエーヴ国立図書館があり、その分館である「ジャック・ドゥセ文学文庫」は、国立図書館の数番地先の建物に入っている。
 「文学文庫」の基礎となったのは、19世紀半ばから世紀末に活躍したファッション・デザイナー、ジャック・ドゥセが蒐集した、著名な詩人や小説家の原稿、初版本などで、研究者にとっては宝庫である。象徴派の詩人ステファヌ・マラルメを研究する身として、時間があれば文庫をここ訪れて原資料に当たってきた。
ただマラルメの資料に関しては、文学文庫のなかに「モンドール・コレクション」と称せられる一群の資料があり、そこにはマラルメの自筆原稿、膨大な自筆の書簡、貴重な写真などが収蔵されている。これらの貴重な資料はその名の通り、アンリ・モンドール(Henri Mondor、1885 -1962)が集めたものである。
 モンドールは自ら集めた資料を駆使して、マラルメに関する最初の伝記『マラルメ伝(Vie de Mallarmé)』上、下二巻本を著したが、その上巻(1940年12月、Gallimard刊)の序文冒頭で次のように書いている。
 「1940年6月14日、ドイツ軍がパリを占領したとき、ここに残っていた人びとのある者は、この都市への愛着から、あるいは義務から、あるいは出不精の気質から、どうせ幻想だろうが、苦痛をやわらげるために、どんな阿片がよいかと探し求めた。
 私たちはこれまで誰も語ろうと企てなかった実在した一生涯の研究を選んだ。そして安らぎを得るために、またフランスの威光のために、その生涯に素晴らしい勇気を見出したのである。
 すでに二十年間、私は古本屋から古本屋へ、出物から出物へ、偶然から驚きへと、原稿や手紙や遺品を蒐集してきた。そうした集積は徐々に一人の象牙の塔の詩人の、奇体なほど熱烈な生活を、熱烈ではあるが、表面的には華々しさも劇的な事件もない生活を復活させたのだった。(中略)
 マラルメの生涯は純粋で、平坦で、波乱のないものであった。口に糊するための職業と、妥協することなく望んだ洗練され垢抜けた芸術との間で、職業によって夢想を中断されないために、死ぬほどの酷使もいとわず、時間を按配したのである。」(ibid、p.7 )
 この文章については、モンドールと親交のあった鈴木信太郎先生も随筆「勇気あることば」で取り上げているが、これがドイツ占領当局に知られれば、危害が及ぶことも十分に予想されたのである。
 フランスは1939年9月30日にナチス・ドイツに対して宣戦布告したが、戦況は不利で、40年6月10日、パリは無防備都市を宣言し、14日にはドイツ軍に占領された。パリには500万人が生活していたが、占領の2日前にはすでに300万人が脱出していた。
 このときモンドールはパリ大学医学部の外科病理学の主任教授で、同時に慈善病院サルペトリエールの外科部長を兼任していた。彼は占領下に貴重な医者として、ドイツ軍への協力を強制される危険を承知しつつ、人たちを守るという責任感からパリに留まる決心をした。そしてドイツ軍の占領という悪夢を振り払うために、彼はかねてから関心をもち、残された資料を収集してきた象徴派の詩人ステファヌ・マラルメの評伝を書く決心をしたのである。それに先立つ20年、モンドールは医師としての仕事のかたわら、古書店や催し物会場などを熱心にまわり、自筆原稿や手紙を一つ一つ集めてきたのだった。そしてそれらの資料にもとづいて、詩人としての名声のわりには、あまり知られていなかったマラルメの生涯を再現したのだあった。
 318頁におよぶ『マラルメ伝』上巻の最後には、「1940年6月15日~12月15日」と執筆の時期が明記されている。モンドールはドイツ軍による占領の翌日から執筆にかかり、半年でこれを脱稿したことになる。さらに本文が804頁に及ぶ同下巻は、索引を加えて翌1942年に刊行された。モンドールはこの著書によって、文学者の最高の栄誉であるアカデミー・フランセーズ会員に推挙された。
 私が所有している『マラルメ伝』上巻の扉には、モンドールの自筆で、“Pour le poète Louis de Gonzaque Frick maître des mots”(「詩人のルイ・ド・ゴンザック・フリック、言葉の達人へ アンリ・モンドール」いう献辞がついている。ゴンザック・フリックはダンディで鳴らした詩人で、象徴主義、キュビスム、シュルレアリスムなど時代の潮流に掉さし、から受け継いだ潤沢な遺産で、これらの運動を経済的に支援した。彼の一連のエロティックな詩篇は『ウェーヴした貿易風(Le calamiste alizé)』(Ed. Kra、1921)に収められている。
 ステファヌ・マラルメの伝記としては、没後100年を記念して、Jean=Luc Steinmetz: Stéphane Mallarmé. L’absolu au jour le jour (Fayard、1998)が出版された。これは若手のマラルメ研究者二人の協力を得て邦訳したが(ジャン=リュック・ステンメッツ著『マラルメ伝~絶対の日々』、筑摩書房、2004年)、アンリ・モンドールの『マラルメ伝』(未訳)は依然その重要性と輝きを失っていない。彼のマラルメ研究の発端には、「苦痛をやわらげるための阿片」を求めなくては生きていけない、絶望的な状況があったのである。
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by monsieurk | 2012-12-17 08:00 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

梶井基次郎と資本論

 珠玉の短篇「檸檬」や「城のある町にて」を書いた梶井基次郎が、早逝する前に『資本論』を愛読したことをご存じだろうか。梶井基次郎の生涯と作品については、『視ること、それはもうなにかなのだ 評伝梶井基次郎』(左右社、2010年)に詳述したが、その経緯は以下のようである。
 梶井は第三高等学校在学中に発病した結核が次第に重くなり、年号が大正から昭和へ変わった昭和元年(1926年)の大晦日に伊豆湯ヶ島へ行き、旅館「湯川屋」に逗留した。この間も療養のかたわら伊豆での見聞を素材にした作品を創作した。しかし1年半にわたる温暖な伊豆での転地療養でも病勢は好転せず、昭和3年(1928年)5月上旬ふたたび上京して、飯倉のかつての下宿に滞在した。
 この後も病状は重くなるばかりで、友人たちの勧めもあって、9月3日、生まれ故郷の大阪に帰り、住吉区阿倍野町の両親のもとに落ち着いたのだった。だがそれから3月後の昭和4年1月4日、父が突然亡くなった。梶井の父宗太郎は59歳で、正月2日の夜遅くまで好きな酒を飲んでいたほどで、普段と変わったところはなかった。それが4日の午前3時半に亡くなったのである。寝床を共にしていた母さへ気がつかなかったほど静かな死であった。
 葬儀をようやく終えた1月8日、弟の勇が広島の部隊に入営した。日清、日露と戦役を重ねてきた日本は、久しぶりに戦争のない時代をすごしていたが、ロシア革命をへて誕生したソビエト連邦や、蒋介石が主導権を握りつつある中国への警戒心が高まっていた。
こうした状況のなかで、病床の梶井が読んだのがマルクスの『資本論』である。友人の淀野隆三に宛てて近況を伝えた3月9日付けの手紙にはこうある。
 「小説は書かず。一日中尤も少ない時間を讀書に費やしてゐる 然しこの方はまあ最も有用と思ふ勉強なので、下らない本を讀んでゐるのではない。」同じ淀野宛ての別の手紙では、「僕は正月から躄の善光寺詣の如く、資本論を讀んでゐた、岩波本の分冊は追付いてしまつて、次がないので、『労賃、價格、利潤』や『賃労働と資本』や『資本論入門』などを讀んでゐる、知識の整理がすめば高畠譯と共にカウツキーの民衆版へ直ちにかゝらうかなどとも思つてゐる、まあ早急な批評は避けるが こんな面白いものはトルストイの『戦争と平和』以来だ、經済の本にして經済の本ではない、何シリング何ペニイといふやうなことが書いてあるので 經済学のこととばかり思つてゐて讀まなかつた以前がうらめしくなる位だ、左傾右傾の問題ではなく大さう面白いのだから讀まざるを得ない。」とある。
 梶井がこのときに読んだのは河上肇、宮川實訳の岩波文庫版『資本論』で、第一巻の最初の四分冊は昭和2年に出版され、昭和3年から4年にかけて次の第一巻五分冊が刊行中であった。しかし第五分冊が出たところで河上肇と岩波との間で確執が生じ、岩波は発行を中止し、既刊分も絶版にしてしまうのである。
 『資本論』の翻訳は、安部磯雄が明治42年から翌43年にかけて、「週間社会新聞」にごく一部を翻訳掲載したのが最初とされる。その大正8年9月には、中央大学の教員だった松浦要訳が出版され、生田長江訳のものが同年12月に出されたが、それぞれ誤訳が多いと批判されて刊行は第一巻だけで終わった。
 『資本論』の本格的な翻訳としては、高畠素之が第一巻を大鐙社から大正9年から10年にかけて刊行し、第二巻を両立社から大正12年から13年に、さらに大正14年から15年にかけて以上のものを全面改訂して新潮社から出版した。高畠はさらに昭和3年には改訂版を改造社から刊行した。梶井が、「知りえた知識を整理したのちに取りかかりたい」といっているのは、この高畠訳の改造社版のことである。このほかに岩波文庫には長谷川文雄訳の『賃労働と資本』(1927年)が入っていた。
 梶井はマルクスの『資本論』に真剣に取り組んだが、それはこれから書こうとする作品の文体を研くためにも役立つと思われた。「僕は最近自分の文體を研いてゆくのにマルクスのそれ、和辻譯のストリントベルヒのそれ、吉江喬松譯のモーパッサンの『水の上』のそれを手本だと思つてゐます、マルクスは非常に魅力の多い文體です」と、4月9日付けの近藤直人宛の手紙に書いている。この手紙では、4月になってまた小説を書きはじめたことも伝えた。そうなると『資本論』の方は一時休止となった。執筆と読書が両立するほど、『資本論』は簡単ではなかったからである。
 このとき書きはじめられたのは闇を主題とするもので、やがて遺稿として残される「闇の書」の最初の草稿と推測される。4月14日付けの淀野へ手紙では、次のように報告している。「材料は昔の材料だ。湯本館(作家の川端康成が滞在っしていた)から湯川屋までの夜の暗い路を丹念に書かうとしてゐるのだ。闇の風景が書けたらいいので、それだけのものだけに非常に書き難いのだ。書く緒口が四つ出来てゐる、みな氣が進まない。十五枚位のものが何故こんなに書けないのかとつくづくいやになる。書いたら文藝レビューへ送るつもりなのだが。」
 この手紙を読む限り、主題といい文体といい、『資本論』を読んだ影響が作品には投影されることはまだなかったのであろう。そしてこのときは梶井の希望とは裏腹に、作品を書き上げることができなかった。しばらくすると疲れから以前のように咳が出るようになり、結局は放棄してしまった。
 梶井の気持を重くするもう一つの出来事があった。1月に入隊した弟の勇が肺尖を悪くして、4月13日には除隊になって帰ってきたのである。肺患が弟も蝕みはじめていると思うと心配で、一家の皆は父の百ケ日の法事も忘れそうになった。一方で弟と同じ時期に入隊した親友の中谷孝雄が、3月末に3日間の休暇を得て大阪の梶井の家に泊った。宵には連日道頓堀をぶらつき、その後は明け方までつもる話をした。中谷は少し太り元気そうだった。それに比べて自分が弱っていることを実感させられた。
 労働農民党の代議士である山宣こと山本宣治は、かねて治安維持法改悪反対の運動の先頭に立っていたが、この年の3月5日夜に、右翼「七生義団」の団員黒田保久二によって刺殺された。東京では本郷の仏教青年会館で告別式がおこなわれ、4月になって追悼演説会が大阪の中ノ島公会堂で開かれた。
 長く京都に住んで書斎生活を送ってきた川上肇は、この山宣の追悼集会を期に上京すると大山郁夫たちとともに、治安維持法反対運動の先頭に立つようになった。川上は大阪の集会では、大衆を前に初めて演説を行った。梶井は『資本論』の訳者で、『貧乏物語』の著者に大いに関心があり、演説を聴きにいった。河上の演説は感情を抑えたもので、会場の拍手にも無頓着な態度で簡単で激烈な演説だった。梶井は河上肇がやがて山宣のような非業の死をとげるのではないかと、ふと思った。こうして昭和4年の春はすぎていった。
 『資本論』を読んだことが影響していると思えるのが、梶井の遺作となった「のんきな患者」である。これは「中央公論」昭和7年の新年特別号に掲載された。
 「吉田は肺が悪い」という一句ではじまる「のんきな患者」は、大阪に戻って以来の闘病の苦しさと死の不安、自分が住む町で見聞した肺病患者やその家族の様子を色濃く反映した作品で、四百字詰め五十枚ほどの作品は三章にわかれている。
 第一章では、寒さで病状の進んだ主人公吉田は、「胸の臓器を全部押上げて出してしまはうとしてゐるかのやうな咳」にたびたび襲われる。そのためほとんど身動きもできず、不安だった。この不安は、「檸檬」の主人公の心を始終抑えつけていた「えたいの知れない不吉な塊」とはちがった具体的な死の不安である。
 第二章では、冬の日々の出来事が語られる。床から離れられない吉田は、草木の枯れた庭を鏡に映して眺める。ある日、庭の櫟の木に沢山の渡り鳥が来たのが声で分かった。母親は「あれは一體何やろ」といってガラス障子のところへ出て行った。これまでは見ることが出来なのが分っているのに、そんなことをいう母親に対して癇癪をたてるのだが、この朝は気持がさっぱりしているせいもあって黙って聞いていた。
 「すると母親は吉田がそんなことを考えてゐるといふことに氣がつかずにまたこんなことを云ふのだった。
 『なんやらヒヨヒヨした鳥やわ』
 『そんなら鵯〔ひよ〕ですやらうかい』
 吉田は母親がそれを鵯に極めたがつてそんな形容詞を使ふのだといふことが大抵わかるやうな氣がするのでそんな返事をしたのだつたが、しばらくすると母親はまた吉田がそんなことを思つてゐるとは氣づかずに、
 『なんやら毛がムクムクしてゐるわ』
 吉田はもう癇癪を起すよりも母親の思つてゐることが如何にも滑稽になつて来たので、
 『そんなら椋鳥〔むく〕ですやらうかい』
 と云つて笑ひ度くなつて来るのだつた。」
 この箇所 によく現れているが、梶井は「のんきな患者」でも、病気のせいで行動を奪われている主人公の心の動きをじっと見つめる。これはこれまでの作品と変わりはない。しかしここでは母親をはじめ周囲の人たちは、主人公の思惑とは別に、生きた人間として行動する。梶井はそうした人びとの反応ぶりと生活の実態を描こうとした。「のんきな患者」がこれまでの作品と大きく異なるのはその点にある。
 これまでの作品に登場する他者が、いわば主人公の分身であったのに、「のんきな患者」では他者は独立した存在として描かれている。このために文体にも変化がみられる。具体的にいえばセンテンスが長くなり、なんでも写し取れる散文としての性格を強めているのである。
 もう一つの例は第二章で取り上げられる、見舞いに来た弟が伝えた一つの挿話である。弟によると、以前主人公も住んでいた町の荒物屋の娘が同じ病気で亡くなったという。吉田は以前からその娘が肺を悪くして寝ていることは知っていた。近所の人の話では、娘は二階に一人で寝たきりで、家のものも寄りつかず母親だけが看病していた。ただ父親は十日に一度はメダカを獲ってきて、娘は毎日食後に五匹ほどそれを飲むという話を聞いてから、他人事とは思えなくなっていたのである。あるときその家の嫁が来て、「網は何時でも空いてますよつて、お家の病人さんにもちつと取つて来て飲ましてあげはつたらどうです」といっているのを聞いた。主人公の吉田は、自分の病気が近所の人たちの間で知れ渡っていることにショックをうける。その娘の母親が突然死んでしまい、その後二ヶ月もしないうちに娘も亡くなったというのであった。
 主人公は娘の話からさまざまなことを思い出す。彼が田舎の家に転居してからも、母は月に一、二度は実家へ行っていたが、その度に町の誰かが死んだという話を持ち帰った。学校の先生の娘、毛糸雑貨家の主人。みな元気にしていたかと思うと、床につくと間もなくあっという間に亡くなってしまうのだった。彼は先の荒物屋の娘のメダカのように、自分も勧められた肺病の薬と称するものを通して、世間がこの病気と闘っている暗さを知る思いがするのだった。
 勧められた薬というのは、死んだ人間の脳味噌を黒焼きにしたものであり、そのほかにも結核患者が首をくくった縄を短く切ったもの、あるいは鼠の仔の黒焼きといったものである。首くくりの縄には大勢の買い手がついて、大家はその金で男の葬式を出し、家賃まで回収したという話だった。そして「のんきな患者」は次のように結ばれる。
 「統計によると肺結核で死んだ人間百人についてそのうちの九十人以上は極貧者、上流階級の人間はそのうちの一人にもまだ足りないという統計であつた。勿論これは単に『肺結核によつて死んだ人間』の統計で肺結核に對する極貧者の死亡率や上流階級の者の死亡率といふやうなものを意味してゐないのだ、また極貧者と云つたり上流階級と云つたりしてゐても、それがどの程度までを指してゐるかはわからないのであるが、 しかしそれは吉田に次のやうなことを想像せしめるには充分であつた。
 つまりそれは、今非常に多くの肺結核患者が死に急ぎつゝある。そしてそのなかで人間の望み得る最も行き届いた手當をうけてゐる人間は百人に一人もいない位で、そのうちの九十何人かは殆ど薬らしい薬ものまずに死に急いでゐるといふことであつた。(中略) 病氣といふものは決して學校の行軍のやうに弱いそれに堪へることの出来ない人間をその行軍から除外してくれるものではなく、最後の死のゴールへ行くまではそんな豪傑でも弱蟲でもみんな同列にならばして嫌應なしに引摺つてゆく――といふことであった。」
 梶井基次郎は「のんきな患者」が中央公論に載った2月1日、飯島正に宛てて、この作品の続きとして、「『のんきな患者』が『のんきな患者』でゐられなくなるところまで書いてあの題材を大きく完成したい」と書いた。また2月5日には中谷孝雄に宛てて、「のんきな患者で、これまでの自分の文学からはちがつて来た、またちがつてゆくつもりも持つている」としたあと、「やはり人間といふものはやけくそではいけないものといふことが僕にもわかつて来たので、それは文学とはいはず僕の生活全体をその方に向けるつもりだ」と決意を伝えた。だがこの2カ月後の3月24日、梶井基次郎は亡くなった。
 もう少し生きながらえていたら、これまでとは違った社会的な視点をもつ作品が書かれたかもしれない。そこには愛読した『資本論』の影響も予想される。だがそれは幻に終ってしまった。
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by monsieurk | 2012-12-12 23:30 | | Trackback | Comments(0)

フランス語版『資本論』

 古書店の老舗「雄松堂」が開店80周年を記念して、稀覯本の展示即売会をさる11月26日、27日の二日間開催した。そこにグーテンベルクとフスト印行の『42行聖書』(1455年頃、マインツ刊)の三つの章が出品されて人目をひいた。このほかにも15世紀のフランスで刊行されたラテン語の『彩飾写本時祷書』や、コーベルガー印行『ラテン語聖書』(ニュルンベルグ刊、1477年7月30日)など、滅多に見ることが出来ない書物が並んでいた。
 そんななかでとくに興味をひかれたのが、カール・マルクスの『資本論』(Das Kapital)の16冊のコレクションである。これにはドイツ語版の第一部初版から第四版までの揃いと、第二部、第三部の初版本、最初の翻訳版であるロシア語版、マルクスが自ら積極的に翻訳にたずさわったフランス語版、さらにアメリカ版、中国語版、日本語版、セルビア=クロアチア語版が含まれていた。
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 マルクスの『資本論』の第1部がドイツ語で出版されたのは1867年である。マルクスは序言で、この著作の目的は資本主義社会の経済的構造の分析であると述べているのは周知のことである。マルクスは『資本論』を全四部三巻本で出す予定だったが、生前に出版されたのは第一部第一巻だけで、第二部(1885年)、第三部(1894年)は、マルクスの遺稿をもとにエンゲルスが編集して刊行されたものである。
 時間的経緯からすると、マルクスは第1部のドイツ語版を出版した後すぐに改訂作業をはじめ、並行して1872年にはロシア語版を刊行し、1872年から1875年にかけてはフランス語版の翻訳にとりかかった。つまり『資本論』の第一部に関しては、ドイツ語版第一版以上に、フランス語版がマルクスの意図をよりよく反映しているといえるのである。なおフランス語版の翻訳になぜ3年の歳月を要したかといえば、フランス語版は最初、この本を読んでもらいたい労働者階級の経済的負担を考えて、分冊の形で出版されたからである。
 フランス語版の版元であるモーリス・ラシャトルに宛てて、マルクスが1872年3月18日付で書いた手紙が残っていて、羽ペンで書かれた手紙の複写はフランス語版の冒頭に掲載されている。
 「市民モーリス・ラシャトルへ
 
 親愛なる市民、
 『資本論』の翻訳を定期的な分冊で刊行するというあなたの考えに、拍手を送ります。この形であれば、この著作は労働者階級にもより近づきやすいでしょうし、私にはこの点の配慮がほかのなによりも重要です。
 このことは、あなたのメダルの良い側面ですが、その反面もあります。すなわち、私の用いた分析方法は、まだ経済学上の問題に適用されたことのなかったもので、最初の諸章を読むのをかなり困難にしています。そこで心配なのは、フランスの読者が結論を待ちかねて、一般原理と自分を熱中させる直接的な問題との関連を知ろうと熱望するあまり、冒頭から先へ進むことができないために尻込みするのではないか、ということです。
 これは不利な点ですが、これには真理を切望する読者にまず予告をして、心の準備をさせるほかには、私には何ともしようがありません。学問には平坦な王道はありません。学問の急峻な細道をよじのぼるのに疲れ果てるのをいとわない人たちだけが、輝かしい絶頂に到達する幸運をもつのです。
                                      敬具
                                             カール・マルクス」
 これにたいして、出版元のラシャトルは、次のような返事を書いた。なおラシャトルは歴史家で、教権主義や君主制に反対し、彼の出版物はしばしば弾圧をうけ、1871年のパリ・コミューンの敗北後は一時スペインに逃れていた反骨漢であった。
「カール・マルクス殿
 貴著『資本論』はドイツでは、労働者階級のあいだで大いなる共鳴を呼び起こしましたので、当然のことですが、フランスの出版社は、このみごとな著作を自国で翻訳することを思いつきました。
 この重要な著作の再生という点では、なるほどロシアがフランスに先んじました。だが、わが国は、ドイツ語第二版のドイツでの出版にさえ先んじて、ドイツ語第二版の草稿にもとづいて行われた著者によって校閲された翻訳を、手にするという幸運に、恵まれることになるでしょう。(中略)
 一〇サンチームの分冊によるという私たちが採用した刊行方式には、次のような利点があるでしょう。すなわち、貧しい人々はわずかな金額しか学問に支払えないので、私たちの仲間であなたの著書を手に入れる者がますます増える可能性がある、ということです。あなたの著作が誰の手にも入りやすくなるというあなたの目的が、達成されることでしょう。
 最初の諸章で扱われる経済学上のテーマが無味乾燥であることに直面して、読者が立ちどまるのではないかと、あなたが示された懸念については、それが根拠のあるものかどうかは、未来が私たちに知らせてくれることでしょう。(後略)
                    
                                          モーリス・ラシャトル」
 ラシャトル版の『資本論』の全44冊(一分冊は大判一印刷紙、つまり8頁建)は、第一シリーズが1872年9月、最後の第九シリーズが1875年11月に出版され、その後直ちに一冊にまとめられて刊行された。マルクスもラシャトルも、挫折したとはいえ、一度はパリ・コミューンを成立させたフランスこそ、ヨーロッパでプロレタリア革命をおこ可能性がもっとも高いと考えてた。そのためにもフランス版の出版は急務だった。
d0238372_1744311.jpg マルクスはこのフランス語版をつくるにあたり、ドイツ語第一版に修正を加えたものをジュゼフ・ロアにフランス語に翻訳させたのだが、ロアの訳文がドイツ語原文の逐語訳だったために、彼自身が全面にわたって改稿せざるをえなかった。ロアはボルドーに住む教師で、フォイエルバッハの『宗教・死・不朽』をフランス語訳し、その翻訳をフォイエルバッハ自身が褒めていると聞いた人たちがマルクスに推薦したのである。
 だがマルクスは、ラシャトル版の「読者へ」で、「この書き変え〔あまりにも直訳すぎるロア訳の改訂〕は、毎日のようになされた・・・ひとたびこの改訂の仕事に着手してからは、私は、底本にした原本にも改訂を加えることになってしまった」と述べている。
 マルクスはフランス語に堪能で、『哲学の貧困』など多くの著作をフランス語で書いている。そんな彼にとってこの修正は、「翻訳全体を自分でやるほうがはるかに楽だ」と思うほど時間と根気のいる仕事だった。このように心血を注いでなった『フランス語版資本論』は、用語も洗練され、論理の筋もよく通り、それだけ読みやすくなった。
 第一章の「商品」の冒頭を引用してみる。

 La richesse des sociétiés dans lesquelles règne le mode de production capitaliste s’annonce comme une 《immense accumulation de marchandises.》L’analyse de la marchandise, forme élémentaire de cette richesse, sera par consequent le point de départ de nos recherches.
La merchandise est d’abord un objet extérieur, une chose qui par ses propriétiés satisfait des besoins humains de n’importe quelle espèce. Que ces besoins aient pour origine l’estomac ou la fantaisie, leur nature ne change rien à l’affaire. Il ne s’agit pas non plus ici de savoir comment ces besoins sont satisfaits, soit immédiatement, si l’objet est un moyen de subsistence, soit par une voie détournée, si c’est un moyen de production.
Chaque chose utile, comme le fer, le papier,etc., peut être considérée sous un double point de vue, celui de la qualité et celui de la quantité. Chacune est un ensemble de propriétés diverses et peut par conséquent être utile par différents côtés. Découvrir ces côtés divers et en même temps les divers usages des choses est une œuvre de l’histoire. Telle est la découverte de mesures sociales pour la quantité des choses utiles.・・・(Karl Marx: Le Capital, Paris Ēditeurs, Maurice Lachatre, et Cie 38, Boulevard de Sébastopol,p.13)

 (資本主義的な生産様式が支配している社会の富は、《膨大な商品の集積》として示されている。だからこの富の基本的形態である商品の分析が、われわれの研究の出発点である。
 商品はなにより外的な物体であり、その属性によって人間のいかなる種類の必要をもみたすものである。その必要が胃袋からのものであろうと幻想から生じたものであろうと、それに変わりはない。その必要がいかにして満足させられるかを、――その物が生活の手段であればただちに、生産手段であれば回り道をして――知ることは、ここでは問題ではない。
 鉄、紙などのような有用な物はどれも、質と量の二重の観点から考察することができる。それぞれはさまざまな属性の総体であり、したがって、さまざまな面で役に立っている。物のこうしたさまざまな面と、同時に物のさまざまな用途を発見することは歴史の仕事である。それはまた有用な物の量を測るための社会的尺度の発見である。・・・)

 注目すべきなのは、「商品は・・・人間のいかなる種類の必要をもみたすもの」という個所で、ドイツ語原文はBedürfnisse「欠乏」という言葉が用いられている。これまでの日本語訳では「いかなる種類の欲望をも」となっており、「欲望」という訳語が当てられてきた。しかしこの意味は人間が生活していく上での「欠乏」、そこから生まれる「必要」であって、人間が抱く単なる「欲望」ではない。こうした点を明確にしてくれる点でフランス語版の『資本論』を読むことは大いに役立つ。
 もう一つの例をあげれば、ドイツ語のmehr、フランス語では surplusで、日本語訳では「剰余」と訳されてきた単語である。surplusは sur(・・の上に)とplus(より多く)が一つになった単語で、辞書を引くと、1) Ce qui excède la quantité voulue, Excédent,Eexcès, Reste.(望みの量を越えるもの、超過、過剰分、余り)2) Ce qui vient s’ajouter à qui a déjà été mentionné,Reste.(すでに言及された量に加えられたもの、残り)と説明されている。つまりsurplusは特殊な単語ではなく、日常的に使われるごく普通の言葉なのである。これは英語でも同様である。
 一方日本語では、この概念をあらわすのに「剰余」(現在進行中の中山元訳『資本論』(日経BP刊では、「増殖」という新語が用いられている)という非日常的な単語が用いられてきた。ここにも、近代的な概念をあらわす用語を一つ一つつくりださなければならなかった歴史的課題あらわれていて、それが『資本論』を読む上でも、理解への一つの壁として立ちはだかっている。なおフランス語版の『資本論』は、法政大学出版局から、『カール・マルクス フランス語版資本論』上、下巻(江夏美千穂、上杉聰彦訳、1979年)として刊行されているが、ここでも「剰余」の訳語が用いられている。
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by monsieurk | 2012-12-07 23:30 | | Trackback | Comments(0)
 三蔵法師に従う三人について、沙悟浄は次のように思っている。
 「悟空、八戒、俺と我々三人は、まったくおかしいくらいそれぞれ違っている。日が暮れて宿がなく、路傍の廃寺に泊まることに相談が一決するときでも、三人はそれぞれ違った考えのもとに一致しているのである。悟空はかかる廃寺こそ究竟の妖怪退治の場所だとして、進んで選ぶのだ。八戒は、いまさらよそを尋ねるのも億劫だし、早く家にはいって食事もしたいし、眠くもあるし、というのだし、俺の場合は、『どうせこのへんは邪悪な妖精に満ちているのだろう。どこへ行ったって遭うのだとすれば、ここを災難の場所として選んでもいいではないか』と考えるのだ」、というのである。
 華やかな悟空の陰にかくれて、いささか影は薄いが、猪悟能八戒はこの生を、この世を愛している。嗅覚、味覚、触覚のすべてをあげて、この世に執着している。八戒がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え上げたことがあるが、それは「夏の木陰の午睡。渓流の水浴。月夜の吹笛。春暁の朝寝。冬夜の炉辺歓談。(中略)ことに、若い女人の肉体の美しさと、四季それぞれの食物の味に言い及んだとき、彼の言葉はいつまで経っても尽きぬもののように思われた。」
 では、彼らが仕える三蔵法師はどうか。法師はただひ弱く、純粋で、悲劇的な存在である。それにもかかわらず三人が師に惹かれるのは、師が世界のなかの自分の位置を自覚していて、正しく美しいものを勇敢に求めようとしているからにほかならない。このうちなる尊さこそが彼の魅力なのだ。
 師と悟空は一見すると対蹠的な存在である。それにもかかわらず、二人はお互いに敬愛しあい、協力して旅を続けている。それは彼らに一つの共通するところがあるからにほかならない。「それは、二人がその生き方において、ともに、所与を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。さらには、その必然を自由と看做してしること」なのである。
 この「必然と自由の等置」こそが、三蔵法師と孫悟空が天才であることのしるしなのである。
 旅の野宿のある夜、沙悟浄ひとりが目覚めていた。「流れ星が尾をひいて、消える。なぜか知らないが、そのときふと俺は、三蔵法師の澄んだ寂しげな眼を思い出した。常に遠くを見つめているような・何物かに対する憫みをいつも湛えているような眼である。それが何に対する憫みなのか、平生はいっこう見当がつかないでいたが、今、ひょいと、判った気がした。師父はいつも永遠を見ていられる。それから、その永遠と対比された地上のなべてのものの運命をもはっきりと見ておられる。いつかは来る滅亡の前に、それでも可憐に花開こうとする叡智や愛情や、そうした数々の善きものの上に、師父は絶えず凝乎と憫みの眼差しを注いでおられるのではなかろうか。(中略)俺は起ち上がって、隣に寝ておられる師父の顔をのぞき込む。しばらくその安らかな寝顔を見、静かな寝息を聞いているうちに、俺は、心の奥に何かがポッと点火されたようなほの温かさを感じて来きた。」
 沙悟浄はここに至ってようやく、自分のめざすべき方向を見きわめえたようである。『悟浄嘆異』の文末には、「『わが西遊記』の中」と書かれている。中島敦は経典を求める旅のなかで、沙悟浄がどう変わっていくかをたどる続篇を考えていたと思われるが、それは書かれずに終わった。昭和17年(1942年)12月4日、心臓衰弱のために亡くなった。『わが西遊記』を含む『南海譚』が「今日の問題社」から刊行されてから1カ月後のことだった。
 追記――「わが西遊記」の『悟浄出世』と『悟浄歎異』は中島敦の内面の反映でもある。彼は漢学者の祖父中島撫山と漢文教師の父中島田人の影響のもとで、幼い時から中国文学の世界に親しんだ。さらに第一高等学校、東京帝国大学国文科へ進むとともに、関心の範囲は西洋の文学や哲学にもおよんだ。残されている「ノート第一」には、「Men and Books / Anatole France / D.H. Lawrence / F. Villon / R.L. Stevenson / F. Kafka / A. Huxley / 夏目漱石 / 上田秋成 / 森鷗外」という記述があり、中島の関心の広さを示している。
 彼はこのうち、オルダス・ハックスレイについては、彼の著した『パスカル』、『スピノザの蟲』、『クラットン家の人々』を翻訳し、スティヴンスンを主人公とした『光と風と夢』を書いている。そしてアナトール・フランスについては、「過去帳」と総題された『かめれおん日記』と『狼疾記』との関連を指摘することができる。
『かめれおん日記』と『狼疾記』は、中島敦が抱えていた根源的不安を知る上で重要な作品だが、『狼疾記』のなかに、フランツ・カフカの小説に関する注目すべき個所がある。 
 「今彼の読んでいるのは、フランツ・カフカという男の「穴」という小説である。小説といったが、しかし、何という奇妙な小説であろう。その主人公というのが、土竜か鼬か、とにかくそういう類のものに違いないが、それが結局最後まで明かされではいない。その俺が地下に、ありったけの知能をしぼって自己の住処――穴を営む。想像され得る限りのあらゆる敵や災害に対して細心周到な注意がはらわれ安全が計られるのだが、しかもなお常に小心翼々として防備の不完全おそれなければならない。ことに俺を取り囲む大きな「未知」の恐ろしさと、その前に立つ俺自身の無力さとが、俺を絶えざる強迫観念に陥らせる。(中略)この作家はいつもこんな奇体な小説ばかり書く。読んでいくうちに、夢の中で正体の分からないもののために脅されているような気持がどうしてもつきまとってくるのである。」(『中島敦全集』第一巻、121-122頁)
 年譜によると、中島は1933年(昭和8年)春に、英訳でカフカの短篇集『支那の長城、その他』(“The Great Wall of Chine and other pieces”translated by Willa and Edwin Muir, London: Martin Secker, 1933)を読み、そのなかのアフォリズムの一部、「罪・苦痛・希望・及び真実の未知についての考察」を翻訳している。当時カフカの邦訳はなく、中島はドイツ語で書くこのユダヤ人作家の作品に注目した数少ない一人である。それはカフカの作品に、自分と同じ心情を感じ取ったからにほかならない。
ただ中島敦は、カフカのように夢を思わせる小説によって根源的不安を描くのではなく、祖父以来慣れ親しんできた中国の奇伝小説の枠組みを借りて、いわば外側から不安のありようを造形したのだった。そこには諧謔が大いなる味付けとなっていることを忘れてはならない。
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by monsieurk | 2012-12-05 23:41 | | Trackback | Comments(0)
 『中島敦全集』第一巻の解題によると、『悟浄嘆異』には草稿(28枚)と清書原稿(33枚)が残されていて、原稿の文末には「昭和十四・一・十五」の記入があり、この日付は赤鉛筆の二本線で消されているとのことである。この日付と抹消が何を意味するのか。一部の研究者は、これから『悟浄嘆異』の執筆時期を昭和十三年から十四年とするが、仮にしこの説を採れば、『悟浄嘆異』は『悟浄出世』に先立つ二、三年前に創作されたことになる。完成の時期を確定するには、赤線の意味を推測する必要があるが、中島敦はまず『悟浄嘆異』を書き、そのあとで悟浄の懐疑と悩みの実態を明かす『悟浄出世』を創作したと考えてまちがいない。
 『悟浄嘆異』は、「紗門悟浄の手記」と副題されているように、三蔵法師に出会い、その力で水から出て人間となりかわることができた(これが「出世」の意味である)沙悟浄が、三蔵法師や孫悟空などの現実界の存在に触れて、考え、触発された事柄が率直に吐露される。そそしてこれはそのまま当時の中島自身の内的体験にほかならない。
 沙悟浄が先ず感じるのは、懐疑的な自分とは正反対の孫悟空の生き方に対する驚異と羨望である。彼は悟空を真の天才だと思う。
 「初め、赭顔・鬚面のその容貌を醜いと感じた俺も、次の瞬間には、彼の内から溢れ出るものに圧倒されて、容貌のことなど、すっかり忘れてしまった。今では、ときにこの猿の容貌を美しい(とは言えぬまでも少なくとも立派だ)とさえ感じるくらいだ。その面魂にもその言葉つきにも、悟空が自己に対して抱いている信頼が、生き生きと溢れている。」
 悟空の体内には豊かな激しい火が燃えている。その火はすぐにかたわらにいる者に移る。彼の言葉を聞いているうちに、自然にこちらもその信じる通りに信じないではいられなくなり、こちらまでが何か豊かな自信に満ちてくる、そんな存在である。
 彼は火種であって、世界は彼のために用意された薪であり、世界は彼によって燃やされるためにある。もともと意味をもった外の世界が彼の注意をひくのではなく、むしろ彼の方で世界に一つ一つ意味をあたえていく。彼のうちなる火が、外の世界に空しく冷えたまま眠っている火種に、火を点じていくのだ。だから彼にとって平凡陳腐なものは何一つなく、すべてが新しく賛美の的なのだ。
 火である悟空にとって、災厄は油だともいえる。困難に出会うと、彼の全身は(精神も肉体も)燃え上がる。逆に平穏無事のときは、おかしいほどしょ気ている。彼は独楽のようにいつも全速力でまわっていなければ倒れてしまう。だから困難な現実に出会ったときでも、彼には目的地への最短の道筋しか見えず、その間に引かれた太い線の上を、困難を踏み越えて進もうとする。
 悟空は考えるのに先立って行動する。目的への最短の道に向かって歩き出している。彼の場合は思慮や判断は渾然と腕力行為のなかに溶け込んでいるのだ。
 沙悟浄は悟空が文盲で、無学なことを知っている。かつて天上で弼馬温〔ひつばおん〕という馬方の任にあったのだが、それをどう書くのか、その役目の内容も知らなかった。それでも沙悟浄は、「悟空の(力と調和された)知慧と判断の高さとを何ものにも優〔ま〕して高く買う。悟空は教養が高いとさえ思うこともある」、「目に一丁字のないこの猴〔さる〕の前にいるときほど、文字による教養の哀れさを感じさせられることはない」、これが沙悟浄の率直な思いである。
 かつて流紗河の川底で悩みに悩んでいた沙悟浄にとって、無意識に体験を完全に吸収する不思議な能力をもつ悟空、懐疑を知らない自然人、行動人である悟空は驚異の存在である。
 悟空のもう一つの特徴は、決して過去を語らないことである。彼は過ぎ去ったことは忘れてしまうらしい。少なくとも過去の具体的な出来事は忘れてしまうが、そこから得られた教訓は、その都度彼の血液のなかに吸収され、ただちに彼の精神と肉体の一部と化す。だから悟空はそうした教訓を、いつ、どんな苦い経験から得たかさえすっかり忘れ果てている。(続)
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by monsieurk | 2012-12-03 23:30 | | Trackback | Comments(0)
 女偊は一見するところきわめて平凡な仙人で、悟浄が来ても別に彼に教えることもなかった。ただときどき誰に言うでもなく、なにごとかを呟くのだった。沙悟浄はいそいで聞き耳をたてた。
 「賢者が他人について知るよりも、愚者が己について知るほうが多いものゆえ、自分の病は自分で治さねばならぬ」というのが、女偊の許にきて3カ月のあいだに聞いた唯一の言葉だった。諦めて去ろうとしたとき、女偊は、「一概に考えることが悪いとは言えないのであって、考えない者の幸福は、船酔いを知らぬ豚のようなものだが、ただ考えることについて考えることだけは禁物である」と、悟浄に教えを垂れた。
 そして最後にこう言った。「聖なる狂気を知る者は幸いじゃ。彼はみずからを殺すことによって、みずからを救うからじゃ。聖なる狂気を知らぬ者は禍いじゃ。彼は、みずからを殺しも生かしもせぬことによって、徐々に亡びるからじゃ。愛するとは、より高貴な理解のしかた。行なうとは、より明確な思索のしかたであると知れ。何事も意識の毒汁の中に浸さずにはいられぬ憐れな悟浄よ。我々の運命を決定する大きな変化は、みんな我々の意識を伴わずに行われるのだぞ。考えてもみよ。お前が生まれたとき、お前はそれを意識しておったか?」
 悟浄は長年の遍歴のあいだに、思索だけでは泥沼に陥るばかりであることを感じているけれども、いまなお自分を突破して生まれ変わることができずに苦しんでいると、率直に答えた。すると女偊は言った。
 「お前は渦巻きつつ落ちて行く者どもを恐れと憐れみをもって眺めながら、自分も思い切って飛び込もうか、どうしようかと躊躇しているのだな。遅かれ早かれ自分は谷底に落ちねばならぬとは十分に承知しているくせに。渦巻にまき込まれないからとて、けっして幸福ではないことも承知しているくせに。それでもまだお前は、傍観者の地位に恋々として離れられないのか。物凄い生の渦巻の中で喘いでいる連中が、案外、はたで見るほど不幸ではない(少なくとも懐疑的な傍観者より何倍もしあわせだ)ということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか。」
 師の教えが骨身に徹したが、それでもどこか釈然としないものを残したまま、沙悟浄は女偊の許を辞した。悟浄は、誰も彼も偉そうに見えて、じつは何も分かっていない。もう誰の意見も糺すまいと心に決めた。彼はようやく躊躇する前に試みてみよう、結果の成否は忖度せずに努力してみよと決心をしたのである。
そして肉体の疲れからか、いつしか眠りにおちた。空腹も忘れ、夢もみなかった。
 ふと眼を覚ますと、大きな春の満月の光が浅い河底を穏やかな白い明るさで満たしていた。悟浄はまわりを泳いでいる魚を五、六匹手掴みにしてムシャムシャ頬ばり、腰に下げていた瓢から酒をラッパ飲みした。ただただ美味く、反省の気持も湧かなかった。
 するとそこへ観世音菩薩があらわれ、悟浄は夢うつつに菩薩の声を聞いた。「汝の求むるところは、阿羅漢も辟支仏〔びゃくしぶつ〕もいまだ求むる能〔あた〕わず、また求めんともせざるところじゃ。(中略)身のほど知らぬ『なぜ』は、向後一切打捨てることじゃ。」
 菩薩は悟浄に対して、今後は一切の思念を捨て、ただただ身を働かせることによって、自らを救おうと心がける必要がある。それ以外にお前の救いはないと諭した。そのためには、今年の秋、この流沙河を横切るであろう玄奘法師に従うことだ。それこそがお前にふさわしい唯一の勤めだ。苦しくとも疑わず、ただ勤めることだ。玄奘法師の弟子のひとりである孫悟空は、無知無識、ただ信じて疑わない者で、汝はこの者に学ぶところが多いだろうと告げて、観世音菩薩は立ち去った。
 その年の秋、はたして沙悟浄は大唐の玄奘法師に会い、その力で水から出て人間になりかわることができた。そして勇敢で天真爛漫な孫悟空や、怠惰な楽天家の猪悟能とともに新しい遍歴の途に上ることになった。だがその途上でも、まだ完全には懐疑から脱していない沙悟浄は、依然として独りごとを言う癖があった。
 「どうもへんだな、どうも腑に落ちない。分からないことを強いて尋ねようとしなくなることが、結局、分かったことになるのか? どうも曖昧だな! あまりみごとな脱皮ではないな! フン、フン、どうも、うまく納得がいかぬ。とにかく、以前ほど、苦にならなくなったのだけは、ありがたいが・・・」
 「わが西遊記」の前篇『悟浄出世』は、この思いで終わる。しかしこの段階でも、悟浄の懐疑が解消されたわけではない。誰も分かっていないのなら、お互いに分かっているふりをすることだ。分かっていないことを、お互いに分かりきっているという約束のもとで、みなが生きているのだとすれば、それをいまさら分からない、分からないと騒ぎ立てる自分はなんと気の利かない困り者だろうというのが、彼の自省の念だった。(続)
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by monsieurk | 2012-12-01 23:33 | | Trackback | Comments(0)