ムッシュKの日々の便り

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凱旋門(4)

 ラヴィックがパリへ戻るのに三月もかかったのは、国境の警備が厳しくなった上、スイスとフランスで一度ずつ捕まったからである。それでもなんとか不法に国境を越えてきたのだった。パリの「オテル・アンテルナショナル」の部屋は、ただひとり心を許したボリス・モロゾフの計らいで確保されていた。仕事の方も、もぐりの病院の代診を続けることができた。
 二週間ほどたった夜、フーケッツでギャルソンと話して振り向くと、二つ、三つ向こうのテーブルにジョアンが腰かけているのに気づいた。彼女は二人の男と一緒だった。彼が気づくと同時に、彼女の方も彼に気づいた。日焼けした顔がさっと青ざめた。
 パリへ帰るとすぐに、彼女がいたホテルや歌手をしていたキャバレーを訪ねたが、そこに彼女はいなかったのである。
 《女は、彼から目を放さずに、数秒の間じっとすわっていた。それから乱暴な手つきでテーブルを押しのけて、立ちあがり、彼のほうへやってきた。歩いている間に、顔つきが変わった。緊張が解けて、やさしくなった。ただ目だけはじっとすわって、水晶のようにすきとおっていた。その目は、ラヴィックにはいままでになかったほど輝いてみえた。ほとんど怒り狂っているように激しい力をもっていた。
 「帰ってらしたのね」女は息を殺したように、低い声でいった。(中略)・・・
 「いつ帰ってらしたの?」やがて女は、まえとおなじように低い声でたずねた。
 「二週間まえだ」
 「二週――だのに、わたしはちっとも――あなたは一度も――」
 「きみはどこにいるのか、だけもしらなかったんだ。きみのホテルでも、シェーラザードでも」
 「シェーラザード――でも、わたしは――」女はそういいさして、言葉をかえた。「どうして一度も手紙をくださらなかったの?」
 「書けなかったんだ」
 「うそです」
 「よろしい。書きたくなかったんだ。もう一度かえってこられるかどうか、わからなかったんだ」
 「まだうそをいってらっしゃる。そんなことは理由にならないわ」
 「なるとも。帰ってくることができたか、できなかったかだ。わからんかね?」
 「わかりません。でも、これだけはわかっています。あなたは帰ってらして、二週間にもなるのに、何一つ、わたしに――」
 「ジョアン」と、ラヴィックは落ち着いていった。「きみの肩は、パリでそんなに陽に焼けたわけじゃないだろう」
(中略)・・・・・
 「あなたはもう二度と帰っていらっしゃりはしないと思ってたの」と、女はくりかえした。
  ラヴィックは女をみた。「ジョアン――」
 「いいえ、ちがいます! 何もかも、ほんとうではありません! 何もかも、ほんとうではありません! 何もかもです!」
 「ジョアン」と、ラヴィックは用心しながらいった。「きみのテーブルへおかえり」
 ふいに女の目がうるんだ。「きみのテーブルへおかえり」
 「あなたが悪いんです!」女はだしぬけにいった。「あなたの責任です! あなたひとりの!」
 とつぜん、女はくるっと向こうを向いて、帰っていった。》(山西英一訳)
 ラヴィックはその夜、酒場を梯子したあと、ホテルに帰って寝ていると、誰か人の気配で目覚めた。ジョアンだった。こうして二人はまた関係をもつが、ラヴィックには彼女が男と暮らしているのが分かった。ジョアンは、ラヴィックがいなくなったあと若い俳優と知り合い、その紹介で映画に端役ででて金を稼げるようになっている。男とは別れるつもりだが、それには時間がいる。すぐに別れ話をもちだせば、彼女を愛している男がどんなことをするか分からないという。
 ラヴィックがゲシュタポのハーケを、シャンゼリゼ大通りの「フーケッツ」で偶然見かけたのは、それから数日後の夜のことである。忘れようにも忘れられない顔である。彼は隣のテーブルに腰かけ、ハーケとギャルソンの話に聞き耳をたてた。
 そのとき誰かが、「ラヴィック」と呼びかけた。ジョアンだった。同棲中の男と別れてラヴィックの許へ帰る決心をしたと語るジョアンの話も耳に入らない。ハーケから目を放すことができない彼が上の空なのを、女性と待ち合わせていると誤解したジョアンは、立ち上がって、「あなたは後悔なすってよ」と叫ぶと、止めようとするラヴィックの手を振り払って立ち去る。
 ラヴィックは、こうしてジョアンとの仲直りの機会を逸したが、この夜ハーケと近づきになることに成功する。息抜きにときどきパリへ来るハーケは、ラヴィックのことをまったく覚えていないようだった。彼はハーケが次にパリへ来たときは、よい女を紹介すると巧みに取り入り再会を約束する。
 二週間後にその機会はやってきた。嵐の夜、パリにふたたび現れたハーケを、偶然を装って自分の車に連れ込み、店から店へ連れまわしたあと、最後はブーローニュに乗り入れると、深い木立のなかの道で急ブレーキを踏んだ。つんのめって頭をフロントガラスにぶつけたハーケのぼんの窪を、重い自在スパナでなぐりつけた。車をとめ、まだ死んではいないハーケの身体を引きずり出し、人気のないのをたしかめると首を絞めて殺した。
 遺体はサンジェルマン・アン・レイの森に埋めた。復讐はなったが、ラヴィックに満足感はなかった。あるのは索漠とした悲しみだった。彼はまたホテルともぐりの病院を往復する生活に戻った。一度、シャンゼリゼ大通りを横切って、停車しているオープンカーの方へ、男と一緒に歩いて行くジョアンを見かけたが、声はかけなかった。
 ヨーロッパの事態は切迫していた。パリにも灯火管制が敷かれた。凱旋門も黒々とした闇に沈んでいた。ホテル・アンテルナショナルでも電燈が青電球に変えられた。入口の灯りも、やっと標札が見える程度の明るさだった。
 ラヴィックの部屋の電話が鳴った。ジョアンからだった。「すぐきてラヴィック」。ラヴィックは取り合わなかった。しばらくするとドアを叩く音がした。タキシードを着た若い男が立っていた。自分がジョアンを銃でうって怪我をさせた。死にかけているからすぐに来てほしいといった。
 男の車で駆けつけると、ジョアンは夜会服を着たまま自分のベッドに横たわっていた。ラヴィックは男を追い払うと、彼女を救急車で自分が代診する病院に運んだ。だが手遅れなのは分かっていた。
 《「きみがいなかったら、ぼくはもっと孤独な人間だったんだよ。きみはいっさいの光明であり、快い歓びであり、つらい思いだったんだよ――きみはぼくをゆり動かし、きみ自身とぼく自身をぼくにあたえたのだ。きみはぼくを生かしてくれたのだ――」ジョアンはしばらくの間、じっと静かに寝ていた。ラヴィックは女を見守った。女の手足は死んでいた。何もかも死んでいた。ただ目だけがまだ生きていた。それから、口と、呼吸が。
  咽喉がごろごろいう音、太い、恐ろしい、ごろごろという音。ついに叫び声がほとばしり出る。「ラヴィック」女は舌をもつれさせながらいった。「助けて!――助けて!――いますぐ――」
  眼瞼がぴくぴくした。それから、じっと動かなくなった。くちびるがゆがんだ。呼吸がとまった》
  街に出ると号外が出されていた。宣戦が布告されたのだ。翌日の夜、ホテルの前にトラックがとまった。不法滞在者を収容するためだった。ラヴィックは偽のパスポートを呉れようとするボリス・モロゾフの好意をことわって、収容所行きを決心する。戦争になれば、ドイツに強制送還されることはないだろうし、いずれ医者は必要となる。
 ラヴィックはボリスと最後の会話をかわす。
 《「ありがとう。じゃ、失敬、ボリス。ぼくの持ち物で、使えるものはなんでも使ってくれ。それから、ぼくの部屋へ移れよ。きみはいつもぼくの浴室をほしがっていたんだ。じゃ、もういくよ。失敬」
 「くそったれ!」と、モロゾフはいった。
 「いいとも。戦争がすんだら、フーケッツでまた会うよ」
 「どっち側だ? シャンゼリゼの方か? それともジュルジュ・サンク通りの方か?」》
 彼はトラックによじのぼった。大勢の難民をのせた車は動き出し、ワグラム通りを走って、エトワール広場へ抜けた。どこにも灯りはなかった。広場は闇に包まれ、あまり暗くて凱旋門さえ見えなかった。
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by monsieurk | 2013-01-31 23:30 | | Trackback | Comments(0)

凱旋門(3)

d0238372_13176.jpg 『凱旋門』で、難民のラヴィックが逮捕されるのは次のような次第である。
 彼はその日も、もぐりで勤務する病院へ行く途中だった。行く手の工事中のビルの足場が外れて、人が転落するのが見えた。彼は夢中で駆け寄り、医者だとことわって脈をみた。即死だった。近くには外れた梁が当たって怪我をした女がおり、野次馬が彼を連れに来た。彼はいつも携帯している包帯と小さな救急袋を出して手当てをした。
 そこへ若い巡査が来た。さらに新聞記者もやって来て、写真を撮りたいから包帯をあてるところをもう一度やってくれと頼む。ラヴィックは病院に患者がいるといって、なんとかその場を離れようとしたが、警察署に連行される。警察署では当直の役人が分かり切った事実を指摘するように、「君はフランス人じゃないね」といった。パスポートがない彼は留置され、結局スイスへの国外退去を言い渡される。
 ラヴィックは役人に伴われて国境へ向かう前に、かろうじてジョアンに電話をかけることができる。
 《「ジョアン――」
  「ラヴィック! まあ! どこにいるの? 出してもらえたの? どこにいるのか、いってちょうだい!」
  「ビストロだよ――」
  「よしてよ! ほんとにどこにいるのか、いってちょうだい!」
  「ほんとにビストロにいるんだよ」
  「どこなの? もう監獄にいるんじゃないの? いままでずうっとどこにいらしたの?・・・なぜビストロなんかから電話をかけたの? どうしてここにいらっしゃらないの?」
  「いけないんだ。ほんの二、三分しかないんだ。役人を説きつけて、やっとここでちょっとの間とめさせたんだよ、ジョアン。二、三日中にスイスへやられるんだ。そしたら――」ラヴィックは電話ボックスの窓からちらっと外をのぞいた。役人はカウンターによりかかって、話し込んでいた。
  「そしたら、すぐにかえってくるよ」(中略)・・・
  「もう切らなくちゃならない。きみはいま何をしているか、早く話してくれ」
  「なんですって? それはどういう意味?」
  「いま何を着ているんだい? どこにいるんだ?」
  「わたしの部屋よ。ベッドよ。昨夜はおそかったの。わたしすぐに着がえていくわ」
  昨夜はおそかった。もちろんだ! こっちが監獄へぶちこまれていても、万事はけっこううまくいくんだ。そんなことは忘れてしまって、ベッドに、半分眠って、枕の上に波うっている髪、椅子に放りだした靴下、肌着、 夜会服――いろんなものがぐらぐらゆらぎはじめる。自分の息で半分曇った、暑い電話室の窓、まるで水族館の中で泳いでいるように、その窓の中で、無限に遠いところにある役人の頭がぐらぐらゆれる――彼は気をひきしめた。「もう切らなくちゃならない、ジョアン」
 女の狼狽した声が聞こえた。「だって、そんなことはできないわ! そんなふうにしていってしまうことはできないわ! わたしになんにもしらせないで。どこへいくかも、どう――」ぱっとはねおき、枕をおしのけ、電話器を、武器みたいに、仇敵みたいに、手にひっつかむ、肩、興奮のあまり、深く、暗くなった目――
  「ぼくは何も戦争にいくわけじゃないよ。ただスイスへ旅行にいくだけだ。すぐもどってくるよ」(中略)・・・
  「ラヴィック! ラヴィック!」
  「なに――」
  「また帰って来てね! 帰って来てね! あなたがいなかったら、わたしはだめよ!」
  「帰ってくるよ」
  「そうよ――そうよ――」
  「さよなら、ジョアン、すぐ帰ってくるよ」》(山西英一訳)
 だが彼がふたたびパリに戻れたのは、三カ月後のことだった。
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by monsieurk | 2013-01-29 23:32 | | Trackback | Comments(0)

凱旋門(2)

 レマルクとディートリヒが個人的関係になったのは、1937年9月初めにヴェネチアのリド島で出会ったときからだった。このときレマルクは39歳、ディートリヒ36歳だった。 ディートリヒは『嘆きの天使』以来つき合いがある監督ジョゼフ・フォン・スタンバーグとレストランで食事をしていた。それを見かけたレマルクが話しかけたのがきっかけだった。
 レマルクは妻のユッタとヴェネチアに滞在しており、ディートリヒはアメリカの映画会社パラマウントと契約していたが、薬物問題で映画出演は途絶えていた。この状況を打開するために、恋人の一人であるスタンバーグを訪ねてきたのである。
 ディートリヒは1923年に、チェコスロヴァキア出身で当時助監督だったルードルフ・ジーバーと結婚し、一年後には娘をもうけた。彼女はジーバーが亡くなるまで法律上の妻だったが、生涯多くの恋人がいた。魅力的な女優であると同時に、リルケの詩を愛読する知的な女性であり、料理が上手で子煩悩な顔も持っていた。
d0238372_15505544.jpg この出会いで意気投合した二人は、この年の秋にはパリの凱旋門に近い「オテル・プランス・ド・ガール」に投宿して愛を深めた。このころ故国ドイツでは、ヒトラーのナチスが政権の座に着いていた。ナチス政権はレマルクに帰国するように要請するが、彼がそれを拒否すると、『西部戦線異状なし』と第二作である『帰還への道』(1931年)を発禁処分にした。理由は、「本の内容が公の治安と秩序を危険にさらす」というものだった。
 映画を重要な宣伝手段と考えていたナチス政権は、世界的に名声を博すディートリヒにも帰国をうながしたが、彼女もこれを拒んだ。そして映画出演の機会を求めて、1937年末にはアメリカのハリウッドへ戻った。
 翌1938年3月12日朝、ドイツ軍は国境をこえてオーストリアに侵入し、オーストリアを併合した。彼ら二人がパリで再会したのは5月のことである。ディートリヒから、「クイーン・メリー号にて27日ニューヨークを発ち、5月2日パリ着」という電報が届いた。
 レマルクは5月1日日曜日の午後、スイスのポルト・ロンゴの自宅を愛車ランチアで出発し、途中国境近くで思いがけない吹雪に遭い難渋したが、その日のうちにパリの「オテル・ランカスター」に入った。ディートリヒが同じホテルに着いたのは3日の午前1時だった。
 5月のパリは新緑の季節である。足立邦夫氏の調査では、これから4日後の5月7日のレマルクの日記には、次のように書かれているという。「ホテルの窓の前に白いローソクをつけた大きな橡の木々。葉に落ちる風と光。部屋の中に入った木々の緑の光」(同書、123頁)。
d0238372_1551135.jpg 二人はランチアを駆って郊外を走り、市内のレストランで食事をした。パリでよく行ったのはホテルの近くの、ジョルジュ・サンク通りとシャンゼリゼ大通りの角にある「フーケッツ」だった。カフェとレストランを兼ねた店は、1899年に、ルイ・フーケが馬車の御者たちの溜り場だった酒場を買い取って開いたもので、名前の「Fouquet’s」は、自分の名前に所有を示す〈’s〉をつけ、当時流行だった英語風に「フーケッツ」と発音したのである。レマルクはパリに来ると、ディートリッヒだけでなく、友人たちとここで会い、食事を共にするのが常だった。
 「フーケッツ」は『凱旋門』で重要な舞台となるが、そこにはレマルクのディートリヒとの想い出がこめられている。
 小説では、主人公のラヴィックはドイツにいたとき、友人のユダヤ人をかくまって逃がした廉でゲシュタポに逮捕され、ハーケに拷問を受ける。彼が拷問に堪えて自白を拒むと、女友だちのシビルが連れてこられ、苛酷な尋問の果てに首をくくって死んだ。その後ラヴィックは強制収容所送りとなるが、そこを脱走し、国境をこえてパリに逃れてきたのである。彼は凱旋門からのびるワグラム通りを入ったところにあるホテルに部屋を借りている。ここはヨーロッパ中の避難民の溜り場で、白ロシアからの難民であるボリス・モロゾフは心を許したただ一人の友人だった。元将軍のボリスは「シエラザード」というキャバレーのドアマンをしていて、マドゥをキャバレーの歌い手に採用してもらったのも彼の口ききだった。
 ラヴィックの逃亡生活を支えるたった一つの情熱は、ハーケに対する復讐の念だった。そして、そのハーケがパリに現れる。ラヴィックが一人で食事を摂っているハーケを見かけるのが、シャンゼリゼ大通りの灯りに照らし出された「フーケッツ」の店先なのだ。
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by monsieurk | 2013-01-27 23:31 | | Trackback | Comments(0)

凱旋門(1)

 近ごろ、興味深い二冊の本に出会った。キルメン・ウリベ著、金子奈美訳『ビルバオ―ニューヨーク―ビルバオ』(白水社、2012年10月)と足立邦夫『レマルク 最も読まれ、最も攻撃された作家』(中央公論新社、2013年1月)である。
 前者はスペイン北部、バスク地方の作家キルメン・ウリベの作品を、東京外国語大学大学院総合国際研究科博士課程に在籍している金子奈美さんが、バスク語から直接翻訳したものである。バスク地方の港町オンダロアで漁師の息子として生まれたウリベの魅力あふれる作品で、バスクの言語で書かれた現代文学の秀作である。
 この本の紹介は後回しにして、先ずはノンフィクション作家足立邦夫氏が、丹念な資料蒐集の上で書いた、ドイツの作家エーリヒ・マリア・レマルクの評伝を取り上げることにする。
d0238372_1714676.jpg レマルクはギムナジウム(高校)の学生だった18歳の時、第一次大戦に兵士として参戦し、戦場での経験を踏まえて『西部戦線異状なし』(1929年)を発表した。この作品は今日まで世界45の言語に翻訳され、2000万部以上が売れて、世界的ベストセラーとなった。
 レマルクはその後も小説を発表し、第五作目にあたる小説『凱旋門』は1938年12月8日に執筆が開始された。足立氏の調査によると、レマルクの翌9日の日記に、「昨夜読書。音楽。夜遅くラヴィックの小説の最初の言葉を記す」と書かれているという(同書、139頁)。
 ラヴィックとは『凱旋門』の主人公で、彼はナチスが政権に着いた後、祖国ドイツを逃れてパリで難民として暮らしている。元はベルリンの有名病院の外科部長だが、フランスでは医師免許を持たないために、フランス人医師が経営する病院で、患者が麻酔をされて眠っている間に、フランス人医師と入れ替わって難しい手術を行い、わずかな報酬を得て生きのびている。
 ラヴィックは亡命したあと彼が名乗る変名の一つで、亡命の発端は友人の逃亡を助けたためにナチス・ドイツの秘密警察ゲシュタポに逮捕され、責任者のハーケから拷問をうけ、のちに強制収容所を脱走してフランスに不法入国し、もぐりの宿「オテル・アンテルナショナル」で不安な日々を送っている。
 ある雨の夜、ラヴィックはセーヌ川にかかる橋の上で女に出あう。それがジョアン・マドゥである。彼女はキャバレーの歌手で、ときどきは映画で端役も演じている。やはりパリに流れてきた天涯孤独のマドゥは、この出会をきっかけにラヴィックと絶望的な恋におちる。だが彼女は純真で誠実な魂をもちながら、一方では淋しさと肉体的欲求から、ラヴィックが逮捕され、パリから退去処分になったあとは、彼女を慕う若い男と生活を共にする。
 映画『凱旋門』(1947年製作、48年公開)では、マドゥ役を当時売出し中のスウェーデン出身の女優イングリット・バーグマンが演じたために、原作の『凱旋門』を読むとき、念頭にはバーグマンのイメージが浮かぶが、レマルクがこの小説を執筆する際に、女主人公のモデルとしたのは、当時恋人関係にあった女優マルレーネ・ディートリヒだったという。足立氏は『レマルク』でこの事実を掘り起こし、丹念に跡づけている(なお『レマルク』での表記はマレーネ・ディートリヒ)。
d0238372_17141181.jpg 足立氏によると、レマルクがディートリヒと実際に顔をあわせたのは1930年初め、彼女が『嘆きの天使』の撮影を終える前後のことで、場所は「エデン」というベルリンの高級ホテルのバーだった。レマルクは恋人のルート・アルプを連れていたが、アルプはウィーンでディートリヒと同じ舞台にたったことがあり、旧知の間柄だった。アルプはこのとき、ディートリヒを見るレマルクの目の色から、自分が彼を永久に失ったと感じたという。
ディートリヒはまだ『西部戦線異状なし』を読んではいず、レマルクの名前も知らなかった。彼女が本を読んだのは、映画『モロッコ』(1930年)の撮影のためにハリウッドに滞在しているときで、原作をもとにした映画を観たあとのことであった。
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by monsieurk | 2013-01-25 20:30 | | Trackback | Comments(0)

マラルメと印象派Ⅹ「印象派の画家たち」(8)

 マラルメが印象派の特質を以上のように捉える背景には、自らの詩作体験があった。彼は以前にも、フランソワ・コペから詩集をもらった礼状のなかで、次のように述べている。
 「・・・完璧に画定された詩句とは(これこそ私たちが特に目指すべきものですが)、詩篇のなかで、言葉が、――外界からの印象をもはや受けつけないほど、十分に言葉そのものになっている言葉が、それぞれの語本来の色合をもっていないように見え、しかもそれらの語は、一色階が転移していく微妙な過度的過程の集積に他ならないように思える――そう思えるほど、語が互いに他の語の上に反映しあっている、ということだと思います。」ところがコペの詩では、「語と語の間に隙間がなく、一つ一つの語は見事に手を取り合ってはいますが、あなたの使用される語は、時として、宝石細工のモザイクに嵌められた宝石のように、その語本来の生き方をし過ぎているように思われます。」(1866年12月5日付けの手紙)
 マラルメには、語に対する不信があった。だからこそコペの詩が、一つ一つの語の力に頼りすぎていると批判するのである。一つ一つの語は、パレット上の絵具と同じように、それ自体として不完全であり、一語でもって、ある対象を表現することはできない。だからこそ不完全な語と語を組み合わせることで、対象に拮抗できる何ものかを再創造する、それが詩句の存在意義だというのである。こうした信念は、20年後に書かれる散文「詩の危機」や「音楽と文芸」で明確な表現をあたえられることになる。
 「音楽と文芸」のなかの、「〈自然〉はそこにあり、そこには何もつけ加えることはないでしょう、せいぜい、都市、鉄道、そして私たちの施設一式を形成するいくつかの発明を除いては」という文章の裏には、言語は現実を再現することはできないという思いが潜んでいる。
 マラルメは、「諸々の国語は、・・・不完全である。すなわち、絶対無二、最高の言葉というものがない」、「言語表現は、彩色法において、あるいは動きにおいて、それに相応しいタッチで十分に表現しない」ことに絶望する。しかしだからこそ、詩句の存在する余地があるのだと思い返すのだ。言語のもつこの根本的欠陥、語がそれの指し示す事物そのものとは無縁であり、事物の現実を所有していないという欠陥のうちにこそ、詩句の存在理由があるのではないか。つまり、「詩句は、国語の欠陥に対して哲学的に報いるものであって、それこそ〔国語を〕を補う最高のものなのであり、/ これは不思議な秘法なのである。」(「詩の危機」)
 「数個の単語を、一つの自己完結的な、まったく新しい、国語には属さない、いわば一つの呪文を形づくっているような語に作り変える詩句が、意味と音響性とに交互に加えられた用語の焼き入れ直しの技巧にもかかわらず、用語に残る偶然性を最後の一息によって否定し、言葉の独立を完成させる。そして、人びとに、通常語法の断片なのに、これらの断片はかつて耳にしたことがないという驚きを惹き起こし、同時に、〔詩句によって〕名指された対象のひそかな記憶が、まったく新しい雰囲気のなかに浸っているという驚きをあたえる。」(「詩の危機」)こうして言語の欠陥そのものが詩句を可能にしてくれる。この逆説的論理は、1876年夏、印象派の作品を前に、絵画の成立の秘密を考察しつつマラルメが展開したものだった。
 「自然の事象を言葉の働きに則して、あるかなきかの震えに移し変えるという行為は、それ自体一つの奇跡であるが、しかしそれも、身近で具体的な想起に妨げられることなく、そこから〔その事物の〕純粋観念が放射されるためでなければ、そもそも何の役に立つだろうか」(「詩の危機」)と書くとき、マラルメの脳裏には、1876年に英国の雑誌の求めに応じて書いた「印象派の画家たちとマネ」が思い浮かんでいたのに相違ない。
 このように「印象派の画家たちとマネ」は、マラルメの詩に関する思考の発展をたどる上でも、重要な文章なのだが、フランス語の原文が未発見であるという理由で、1945年に刊行された最初の『マラルメ著作全集』(ガリマール、プレイヤード叢書)には収録されなかった。『マラルメ書簡集』第二巻の編者は、この文章の英訳者ジョージ・T・ロビンソンに関する注記で、「ヴァルヴァンのE・ボニオ夫人のコレクションのなかに、1876年7月19日と8月19日に書かれたロビンソンがマラルメに宛てた二通の手紙が存在する。大変丁重なものだが、ロビンソン氏の手でなされた翻訳の正確さについて、不安を抱かずにはおかない」と書いている。一方、マラルメ自身は、同年8月19日付けの手紙で、「ロビンソン氏はあらゆる点で魅力的でした。いくつかの誤訳も容易に指摘できますが、(これは私たち二人の間だけのことです!)彼は素晴らしい翻訳は私の散文を裏切ってはいませんし、彼のお陰で私の仕事もまあまあのものになりました」と満足の意を表している。
 なお、ベルトラン・マレシャルが編纂した新版『マラルメ著作全集』第二巻には、「月刊芸術評論」の英語訳と、それをフランス語に逐語訳した文章が収録されていて、いまではこの重要な文章を読むことができるようになった。
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by monsieurk | 2013-01-22 20:16 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメと印象派Ⅸ「印象派の画家たち」(7)

 マラルメはいつものように、絵を描く行為を原点にさかのぼって考察しているが、印象派の絵画、さらには一般に絵画が目指すのは、自然の「模倣」(imitate)ではなく、「再創造」(recreate)だという。マラルメ以外に、こした主張をした者は誰一人いなかった。
 同じ一八七六年に、印象派擁護論を発表したデュランティはもとより、鋭い洞察に富む「印象主義論」を七年後に書くラフォルグさえ、絵画とは自然の再現だと信じていた。当のマネやモネ、ピサロたちでさえ、自分たちの仕事の目標は、自然を画布の上に再現することにあると素朴に信じていたのである。その意味では、彼ら印象派の画家たちもクールベの弟子であって、タッチの分割という新たな手法を導入したのも、絵画がさらに自然を見えるままに再現すると信じたからであった。しかしマラルメは、印象主義を例にとって、絵画という行為その源泉までさかのぼって考え、その結果、「再現する」という行為がいかに無意味であるかを見抜いた。
マラルメは、現実にある自然は画布の外に厳として存在し、いかなる「再現よりも優位にある」とする。彼はこれと同じ趣旨のことを、十年前にすでに詩について述べていた。マラルメは友人アンリ・カザリスに宛てた手紙の一節で、自らの詩篇「青空」に触れて、次のように書いている。
 「・・・絶えず脳裏につきまとう無数の抒情的な常套句と美辞麗句をしりぞけながら、私は執念深く自分の主題のなかに留まっていようとした。誓っていうが、ここには一語として、私に数時間の探究を払わせなかった言葉はない。そして、第一の観念を表現している第一番目の語は、それ自身、詩全体としての効果を目的としているほかに、最後の語を準備する役目をもはたしているのだ。一つの不協和音もなく、たとえ尊ぶものであろうとも、人を楽しませる一つの装飾音もなく産みだされる効果――これこそが私の求めているものなのだ。」(一八六四年一月七日付け)つまり、マラルメが理想とする詩は、単なる現実の抒情的な模倣などではなく、現実〔の自然〕があたえるのと同じ効果を読む者にあたえ、感動を呼び覚ます、言葉による構造体でなくてはならない。「詩」を「絵画」に、「語」を「絵具」に置き換えてみれば、この印象派論で彼が語っていることと同じなのである。
 それにしても絵画における「模倣」あるいは「再現」はなぜ不可能なのか。それはいかなる画家も、「彼らのパレットの上に、外光に対応する透明で中間色の絵具をもちあわせていない」からである。パレットに絞り出られる絵具の色は不完全で、絵がこうした絵具で描かれる以上、決して自然を完全に写しだすことはできない。この背理、この根本的欠陥に気づいた印象派の画家たちは、「所望する効果はタッチの軽重、あるいは色調を調節することで獲得するほかはない」と考えたのである。そのために、「マネとその流派は、単純な色彩、新鮮な、というか軽く置かれただけの色彩を用いる」のである。それ自体は不完全な絵具の色も、このようにして一つ一つのタッチとして並置することで、「永遠に生き続けるが、それでも一瞬ごとに死にゆくもの、〈理念〉の意志のみで存在し、私の領分では、唯一正統で確かな価値をなすもの」、言いかえれば、眺められた自然の「ある局面・アスペクト」を創りだすことに成功したのである。
 繰り返していえば、これは厳として存在する自然の「再現」ではなく、そのある局面を「再創造」することにほかならない。(続)
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by monsieurk | 2013-01-19 20:16 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメと印象派Ⅷ「印象派の画家たち」(6)

 マラルメは次いで印象派の画家を一人一人とりあげて、その特徴を指摘する。最初はモネ――
 「クロード・モネは水を愛する、そして海であろうと川であろうと、それが灰色で単調、もしくは空によって着色されていようと、その動きや透明さを描写するのは、彼の特別の才能である。私は彼の絵におけるほど軽やかに水に浮かんでいる舟を見たことはないし、その動く大気のなか以上に、ヴェールが軽くそよいでいるのを見たことがない。これは本当に驚異である。」
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 「シスレーは一日の移ろいゆく瞬間々々を捉える。逃れ去る雲を観察して、それが飛ぶさまを描くようにみえる。彼のカンヴァスの上には新鮮な空気が流れ、木の葉がまだ慄き、震えている。彼はとりわけ春にそれを描くことを好む、“疎らな森で、若葉がみな意志をもって成長するとき”、あるいは、赤や黄金色、そしてあずき色になって、最後の葉が落ちる秋に。」
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 「三人のうちの最年長者であるピサロは、夏の森の厚い蔭と緑の大地を愛し、堅固さを怖れることはない。堅固さはときとして、眼に見える大気を日光で飽和状態の輝く靄を描くのに役立つ。」
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 マラルメはこのほかに、ドガ、ベルト・モリゾ〔ウージェーヌ・マネ夫人〕、ルノワール、ホイスラー、さらにマネの直弟子のエヴァ・ゴンザレスの名前をあげて、それぞれの画業を紹介したあと、印象派について論じてきた文章を次のように締めくくるのである。
 「さて結論を下すにあたって、私は急いで美学の領域に立ち戻らなくてはならない。現在の危機――〈印象派〉の出現と、絵画の現実の諸原理との関係――重要な点である――を示せば、私たちは主題をひととおり検討したことになると思う。
 極度に文明化した時代にあっては、芸術と思想の発展がほとんどその限界に達しているので、芸術と思想はその歩みをたどり直して、実際の発端とは一致するが決してない、それらの理想の起源へと回帰することを強制される。英国のラファエル前派は、私が間違っていなければ、中世の素朴な単純さに立ち戻った。マネと彼に従う者たちが提案している目標、狙いは(教理(ドグマ)の権威をもって宣言されてはいないが、明白でないわけではない)、絵画をその原理のなかに、そして自然との関係のなかに、浸し直さなければならないということである。ただ、大広間や宮殿の天井を、華麗な短縮法でもって描かれた理想化された典型の群れでもって飾ることを除いて、日々の自然を前にして、画家の目的としては何があるだろうか? 自然を模倣することか? もしそうだとしたら彼の最善の努力が、生命と空間という計り知れない利点をもつ本物〔自然そのもの〕に匹敵することは決してないだろう。――〈いや、違う! この美しい顔、あの緑の風景は、年老いて萎れてしまうだろう、だが、自然のように真実で、思い出のように美しく、そして朽ちることなく私自身のものとして、それらをいつまでも持つことだろう。あるいは、私の創造的な芸術家としての本能を満足させるためには、こちらの方が良いのだが、私が印象主義の力によって保存するもの、それはすでに存在し、何にせよその単なる表象に勝る、物質的な一部ではなくて、自然を一つ一つのタッチによって再創造したという喜びなのである。私は、量感をもち、手で触れることのできる堅固さは、一層適した解釈の手段、つまり彫刻にゆだねる。私は絵画という明るく長持ちする鏡に反映させるだけで満足する、永遠に生き続けるが、それでも一瞬ごとに死にゆくもの、〈理念〉の意志のみで存在し、私の領分では、唯一正統で確かな価値をなすもの――〈ある様相・アスペクト〉を。・・・〉
 これが印象派の絵画から、マラルメが導き出した結論だった。それにしても驚くべき結論である。(続)
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by monsieurk | 2013-01-16 20:25 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメと印象派Ⅶ「印象派の画家たち」(5)

 「すべてのもののなかに浸透し、それらに影響をあたえる昼間の自然光は、眼には見えないものでありながら、《洗濯》というタイトルのこの典型的な絵のなかでも君臨しているが、これは目下のところすべての理念と、それを実行に移す手段の、完全なそして究極の目録〔レペルトワール〕であるから、次にこれを研究してみよう。
 やわらかな、しかし同じ色の叢が――街中のある庭のそれである――夏の朝の空気の流れを閉じ込めている。一人の若い女性が、青い服を着て、リネンなどを少し洗っている。その一部はすでに干されていて、花のなかから出てきた一人の子どもが、母親を見ている――これが画題のすべてだ。絵は等身大の大きさ〔1.45×1.15メートル〕だが、この尺度は中景では若干縮小されていて、これは画家が、観衆に強制される恣意的に定められた視点によって強いられる人工的な要件を、画家が賢明にも認識しているからである。そこには空気が横溢している。いたるところで明るく透明な空気が、人物、服、叢と闘い、それらのものの実体と堅固さのいくばくかを溶け込ませているように見える。それらのものの輪郭が、隠された太陽によって焼き尽くされ、空間によって解体され、震え、溶け、周囲の大気のなかへ蒸発する一方で、大気は形象から現実性〔リアリティー〕を奪っているのだが、それはものの真実の様相を保つために、そうしているように見える。空気は最高の真実のものとして君臨し、あたかも芸術の魔法によって授けられた魅惑的な生命を持っているかのようである。(中略)外光――これこそが、私たちがいま検討しつつある問題の発端であり結末である。美学的には、外光のなかにおいてだけ、モデルの肌の色合いは、あらゆる側から、ほとんど同じように光をうけることで、その真の特質を保てるという単純な事実が、その答えである。一方、画塾で用いられる、実際のあるいは人工の薄明りのなかで描くならば、光が強く当たって過度の凹凸を無理につけられた顔の造作が、画家にとって一つの姿を自分の気まぐれに都合よくしたがわせるだけの、そして従来の様式に立ち戻るための安直な手段をあたえることになる。
 真実の追及は現代の芸術家たちに特有のもので、そのおかげで彼らは、自然が正確で純粋な眼にあらわれる通りに自然を観て、それを再現できるのだが、この追及は媒体をほとんど排他的に空気のなかに見出すように彼を導いて、いずれにせよ、空気のなかで自由に、束縛なしに仕事をすることに慣れるようにさせなくてはならない。」
 マネをはじめとして印象派の画家たちは、事物の本質を捉えるには、それを自然の光のなかに置くのが最良の方法であることを知った。だが、そうして捉えられた対象を、彼らはどんな筆法で画布の上に定着しようとするのか。
 「どんな芸術家も彼らのパレットの上に、外光に対応する透明で中間色の絵具をもちあわせていない以上、望みの効果はタッチの軽重、あるいは色調を調節することで獲得するほかはない。さて、マネとその流派は、単純な色彩、新鮮な、というか軽く置かれただけの色彩を用いる。彼らの成果は最初のひと筆で達成されたかのように見え、常に存在する光があらゆる物と混じりあって、それらを活性化しているように見える。絵の細部についていえば、何ものも絶対的に定着されてはならず、それは私たちが画面を照らす明るい輝き、あるいはそれを覆う透明な影は、それが通りすぎるときにだけ、しかも観客が表象された主題を見るまさにその瞬間にだけ見えたと感じることができるためである。主題は常に変わりつつある反射光の調和からなっていて、いつも同じように見えると考えることはできず、運動、光、そして生命をもって動悸を打っている。」
 この文章が書かれたのが一八七六年で、後に第一回印象派展と呼ばれることになる、写真家ナダールのアトリエで開かれたグループ展からわずか二年しか経っていないことを、あらためて思い出す必要がある。当時あらゆる方面から嘲笑と罵声を浴びせられ、それに堪えて、ようやく一派を形成しかかっていた彼らの画業の本質を、マラルメは鋭く見抜いている。これは文字通り、印象派の光の美学の最初の宣言(マニフェスト)であった。「絵の細部についていえば、何ものも絶対的に定着されてはならず、・・・常に変わりつつある反射光の調和からなっている」。マラルメは印象派の画家たち、なかんずくマネの最新作が目指すものをこう定義するのである。そしてマネがいまやこうした考えを持つにいたったのは、もっぱら自らの内なる欲求に促されて、一作一作と積み重ねてきた結果だとする。
 「だが、この時代のもっとも特異な人たちの一人の、主な魅力、真の特性とは、マネ(フランスと外国の主要な美術館の訪問者で、絵画の題材の研究を好む)が、芸術において他の人びとによってなされたことのすべてを無視するように見え、彼自身の内面の意識から、単純化の効果のすべてを引き出し、異論の余地のない新しさである光の効果によってすべては啓示される。これこそは独創性(オリジナリティ)を二重に否認しながら、自らの個性を自然そのもののうちに、あるいはこれまで自然の魅力を知らずにいた群衆の凝視のうちに、埋没させてしまおうとする一人の画家の至高の独創性である。(中略) だが、このような画家が弟子を持つことができるだろうか。」
 マラルメはこう問いかける。答えは明白である。ここ一、二年のフランスの画壇の趨勢を見れば、「外光の理論」はいまでは大きな潮流になりつつある。
 「彼の影響は、友から友へといった具合に、師が弟子に及ぼす影響よりもずっと広く普及して、今日の画家たちすべてに作用している。というのも、その理念が彼の理論とは根本的に対立する芸術家たちの画風も、彼の実践によってある程度まで左右されているからだ。実際、重要な画家で、ここ過去数年のあいだに、〈印象派〉によって前進した理論のなにか一つ、とくに現代のあらゆる芸術思想に影響をおよぼしている外光の理論を採用し、少なくともそれについて考えなかった者はいない。」
 この結果、ファンタン=ラトゥールや故シャントルイユといった、およそ印象派とは共通点のない古典派の画家たちの仕事の上にも変化の兆しがあらわれはじめていると、マラルメはいう。
 「印象派の画家たち自身は、アトリエでの私的な会話や友情にみちたアイディアの交換のおかげで、思ってもみない新たな地平へ、そして形づくられたばかりの真実の方へと、そろって前進することができたのであり、クロード・モネ氏、シスレー氏、ピサロ〔英訳ではPizzaroと誤記〕氏といった人びとは、驚くほど似かよった方法で描いている。実際、〈印象派〉だけの展示を、どちらかと言えば皮相な観察者が見た場合は、彼らみなの作品を一人の男の作品だと思うだろう。――その一人の男がマネ氏というわけである。」(続)
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by monsieurk | 2013-01-13 21:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメと印象派Ⅵ「印象派の画家たち」(4)

 「この有名な絵〔《洗濯》〕を分析しようとこころみる前に、私は、明日は自明の理となるだろうが、今日のところは奇説(パラドックス)とされる、アトリエの隠語では「外光の理論(the theory of open air)」と呼ばれる理論、少なくともマネの近年の努力によって権威ある明証性をもつようになったものについて、いささか注解をこころみたい。しかし何よりもまず、一つの反論に打ち勝たなくてはならない。なぜ庭園や、海辺や、街路などの外光を表象しなければならないのか、現代の生活の大部分は屋内ですごされることは誰もが知っているというのに? 答えは沢山ある。その中から一つを取り上げるなら、家具調度が入っているか、いないかにかかわらず、どんな室内の空気の中でも、反射光が混じりあい、ぼかされて、あまりにしばしば肌の色合いを損じることになるからである」。
 人間の視覚が持つ複雑な機構は、マネを中心としたグループがもっとも関心を寄せたことであった。彼らはすでに一八六〇年代、カフェ・ゲルボアに集まった当時から、これについて熱心に論じあった。そして、彼らに啓示をあたえる一冊の著作があらわれた。
 ゴブラン工場の染色部長をつとめる化学者ユージェーヌ・シュヴェルールは、一連の実験をもとに、「色の調和と対象の原理、およびその絵画への応用」と題する書物を公にした。彼はこの中で、並置した色が人間の眼に対して互いに作用しあうことを実証したのである。実験によると、あらゆる色彩は眼にその色の補色の残像をのこす。したがって、互いに補色関係にある二つの色を並べて置けば引き立つし、逆に似かよった色を並べればぼかしあう。シュヴェルールはこの現象を指摘するとともに、画家がもし強い色彩効果を望むなら、パレットやカンヴァスの上で絵具を混ぜずに、純色のまま使い、観る者の眼の中で混ざるようにした方が効果的であるとした。彼はさらに研究を進めて、光がプリズムを通過する際に生じるスペクトルの色の純色を用いれば、こうした視覚がもっとも効果的に行われることも発見した。
 この光の理論は、かつてカフェ・ゲルボアに集まった画家、とくにモネ、ピサロ、シスレー、ルノアールといった人たちに少なからぬ影響をあたえた。それというのも、一八七二年ころからセーヌ河畔のアルジャントゥイユに移り住んだモネは、毎日眼にするセーヌ川の反射からこの事実を体験的に学びとった。川面は無数の光の反射によって、もはや同じ色調の平面としては捉えられない。
 水という自然のプリズムによって光は屈折し、反射して一層強まり、光はあらゆるものに浸透し、影さえも明るくなったように思える。すべてが軽く、即興的なものとなり、あらゆるものの表面で、光の粒子が震えているように見える。そうして光の奇跡が、モネをはじめ、アルジャントゥイユに集まった仲間たち、ピサロ、シスレー、ルノアールを虜にし、彼らは発見したばかりの色彩の驚異を夢中になって画布に表現した。
 年下の若い画家たちの新たな仕事がマネにとっても大きな刺激となった。一八七四年、マネは同じアルジャントゥイユで描いた、ボートに腰かける男女を描いた《アルジャントゥイユ》や《船上で描くモネ》が、それを雄弁に物語っている。《洗濯》はまさにこの延長線上でこころみられた作品であった。
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by monsieurk | 2013-01-10 20:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメと印象派Ⅴ「印象派の画家たち」(3)

 「それら〔マネの絵の主題〕の中に、なにか風変わりなものがあるとしても、曖昧な、一般的な、因襲にとらわれた、もしくは陳腐なものは何もない。・・・もしもこれから、彼が十分に長く絵を描き続け、公衆の――いまだに因襲にとらわれている――眼を教化しつづけるならば、そのときこれらの公衆が、民衆の真の美しさを、健康で、堅実な、あるがままの姿で見ることに同意するならば、そのときは市民階級(ブルジョワジー)のなかに存在する優美さが認識され、芸術の価値あるモデルとして取り上げられるだろうし、そして平和な時がやってくることだろう。」
 「・・・私たちが、彼は真実を描くという事実を認めて、彼がその探求の中で出会った諸々の困難に出会い、それをいかに乗り越えたかを想起さえすれば、〔彼への非難は〕地に倒れ伏す。《草上の昼食》、《マクシミリアンの処刑》、《テーブルの一隅》、《窓辺の社交人士たち》、《ル・ボンボック》、《オペラ座の仮面舞踏会》、《鉄道》、そして二点の《ボート遊びをする人びと》――これらの絵は、この大胆な革新者が一段一段よじ登った梯子の段であって、ついには本当に素晴らしい作品で到達した点にまで彼を導いたのである。彼の作品は今年の官展で落選したが、そのうちの一点だけは公衆に展示された、《洗濯》と題された作品で――おそらく一人の生涯に一つの年号を画するものだが、きっと芸術の歴史の中にも一つの年号をしるすにちがいない。」
 マラルメが一時代を画す傑作と推奨する《洗濯》は、1875年に制作されたものである。この年の夏、マネはマラルメに宛てた手紙で制作の模様をこう伝えている。
 「私は大作に取りかかりました。これは貴兄が〔休暇先から〕戻られ次第お見せできるでしょう。幸い天気に恵まれ、午前中は怠けずに仕事をしています。晴天が九月末まで続くことを願っています。ルクヴェ夫人は献身的にポーズをとってくれています。」
d0238372_133429.jpg 制作は列車がサン・ラザール駅へ入って行く線路を見下ろす、画家アルフォンス・イルシュの家の小さな裏庭で行われた。手紙にあるとおり、アンリ・ルクヴェ夫人が扮する母親が、洗濯を終えたばかりのリネンや服を、庭に張り渡した洗濯綱に干していて、そのまわりで子ども(これは門番の子どもを借りてきた)が遊んでいるという構図である。アントナン・プルーストをはじめ友人たちがこぞってマネの傑作と認めたこの作品が、翌1876年の官展で出品を拒否されたのである。この仕打ちに激怒したマネは、サン・ストラスブール通り四番地のアトリエで「落選展」を開催し、《洗濯》を展示した。マラルメが「公衆に展示された」というのは、この「落選展」のことを指す。
 このときイルシュに伴われてアトリエを訪れたメリー・ローランが、展示されている《洗濯》を見て、「これ素敵じゃない、これ」と叫んだ。それをカーテンの裏で聞いたマネは、すぐにアトリエへ出て行って、それが金髪の豊満な女性であるのを認めた。これが社交界の華とうたわれたメリー・ローランとの出会だった。
 「先に列挙した一連の作品〔《草上の昼食》以下〕は、そこここに例外はあるが、この画家の目標をきわめて正確に示している。その目標とは、気晴らしや一時的なセンセーションではなく、自分の作品に自然で一般的な法則を刻印するために、たゆまず努力するで、個性よりもむしろ一つの典型(タイプ)を探し出そう、そしてそれを光と空気にひたそうというのである。それにしてもなんという空気だろう! その他のものすべてを専制的に支配する空気なのだ。」
 こうしてマラルメは、マネの作品の第一の特色として、主題が戸外に求められている点を指摘する。マネの最近の努力は、あげて「戸外の理論」の確立にあるというのである。マラルメの文章はいよいよ印象派を特徴づける核心に触れる。(続)
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by monsieurk | 2013-01-07 08:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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