フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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ロバート・キャパ(6)

 キャパはスペイン内戦が終わると、ヨーロッパを離れてアメリカに渡り、やがて「ライフ」の専属カメラマンとなった。以下に、先にも引用した『アンリ・カルティエ=ブレッソン伝』(青土社、2007年)から再度引用してみる。
 《第二次世界大戦は全世界をまきこんだ、二十世紀最大の出来事であった。この戦争では各国の報道カメラマンによって膨大な数の写真が撮られ、戦争の現実と人びとの苦しみを記録した。
 ロバート・キャパが、連合国軍のノルマンディー上陸作戦を撮影した写真は、それらのなかでも歴史に残るものとなった。彼はあの日、2台のコンタックスを用いて、浜辺で展開される戦闘場面を、35ミリ・フィルム2本、72コマの写真に撮った。そして岸から離れようとしていた上陸用舟艇に駆け寄り、それに乗せてもらって母船にもどった。キャパはこの船でポーツマスに着くと、イギリス陸軍の広報担当将校にフィルムを託して、「ライフ」社のロンドン支局に届けてもらった。
 フィルムが「ライフ」の届けられたのは7日の夜であった。写真を次の号に間に合わせるには、ロンドンで現像して検閲をすませて、翌日の飛行機に乗せなくてはならない。「ライフ」の現像係りは、すぐに現像にかかった。一刻を争う作業だった。ネガが現像液から引き上げられたとき、すばらしい写真であることが分かった。あとはプリント作業である。ところがここで間違いがおきた。時間を急ぐあまりに、乾燥キャビネットを高温にしてネガを入れ、扉を閉めたままにしておいた。これで空気の循環が遮断され、フィルムの感光乳剤がとけてしまったのである。救いだせたのは11カットだけだった(キャパ自身は自伝『ちょっとピンボケ』で、106枚の写真を撮り、8コマが生き残ったと書いている)。しかも、写真は少しブレていたが、これがかえって写真に緊迫感をあたえていた。》(同書、154頁-155頁)
 キャパがDデイで撮った写真が撮られた経緯については、当時「ライフ」のロンドン支局の写真編集者だったジョン・G・モリスが〔彼はその後、「マグナム」、「N・Y・タイムズ」の著名な写真編集者となる〕、その回想録『20世紀の瞬間、報道写真家―時代の目撃者たち』(光文社、1999年、John G・Morris“GET THE PICTURE”、random House、1998年)のなかで、詳細を明かしている。
 ノルマンディー上陸作戦の取材には、各通信社のために12人、「ライフ」のためには6人のカメラマンの枠が認められた。ただしDデイに進攻するアメリカ歩兵部隊の第一陣とともに上陸するのは4人だけとされ、「ライフ」は2カ所の取材地点を、ボブ・ランドリーとロバート・キャパに確保した。以下が、モリスが回想する顛末である。
 《水曜日〔1944年6月7日、Dデイの翌日〕の夕方6時半ころ、キャパの撮影したフィルムがそちらに向かったという電話での第一報がドーバー海峡の港から入った。「1、2時間後にはお手元に届くはずです」とはじけるような声がしたかと思うと、回線が途絶えた。(中略)
 夜の9時近くになって、メッセンジャーが息を切らしながらキャパからの小包を手にして到着した。中にはキャパがイギリス国内とドーバー海峡横断時に撮影した35ミリフィルムが4本と、120フィルム(2 1/4×2 1/4インチ)が12本入っていた。走り書きのメモによると、進攻時の模様はすべて35ミリフィルムに収められており、激戦だったという。またキャパ自身は退避の負傷兵と一緒に誤ってイギリスに戻ってきてしまったので、またノルマンディーに引き返すところだという。
 暗室主任のブラディが、そのフィルムを助手のデニス・バンクスに渡して現像させた。まだ現像液で濡れたままのフィルムに目を通したカメラマンのハンス・ワイルドが、私に電話をかけてきた。35ミリは粒子が粗いが、一見したところ「すばらしいぞ!」と叫んでいた。それを聞いて、わたしは「コンタクト〔ベタ焼き〕がほしい。急いでくれ、急いで、急いで!」とはっぱをかけた。(中略)
 数分後、デニスが階段を駆け上がって転がり込むようにしてわたしの部屋に入ってきた。泣きじゃくっている。
 「だめにしてしまいました! だめに! キャパのフィルムが全部だめになってしまって!」
 思いがけない事態に、あわててわたしは彼と一緒に暗室に駆けつけた。現場での説明によると、いつものように床の電熱コイルで暖房して、乾燥キャビネット代わりに使っている木製ロッカーの中にフィルムを吊るしてのだが、急ぐようにとのわたしの指示もあって、ドアを閉めきりにいていた。すると換気がされていなかったので、フィルムの感光乳剤が溶けてしまったというのだ。わたしはその4本のフィルムを、1本ずつ頭上にかざして点検した。
 そのうちの3本は何も見えず、手の下しようがなかった。しかし4本目は映像のはっきりしている部分が11駒あった。おそらく35ミリのすべての映像を代表するものだろうが、粒子が粗いという欠点が――暗室での事故が、それを増幅させたかもしれないが――かえって効果を増して、それらは過去に撮影された最も劇的な戦場写真に数えられるようになったのである。
 その連続写真はキャパが歩兵部隊と共に海水につかって歩きだしたところから始まり、浜辺のあちこちに据えられた対戦車障害物の脇を越えて前進し、それらの障害物がじきに左右に倒れてゆく兵士の墓石と化していく様子をとらえていた。これだ、これだ、これで申し分なし。というわけで、Dデイは永久にこの一組の写真を通して記憶されることになった。》(モリス、14頁-16頁)
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 キャパの写真は無事検閲を通過して、大西洋横断航路の航空機発着場になっていたスコットランドのプレストウィックを経由してワシントンに運ばれ、ニューヨークの「ライフ」に届けられ、1944年6月19日号(第16巻25号)に、以下のキャプションとともに掲載された。『アンリ・カルティエ=ブレッソン伝』の記述に戻れば――
 《「上のもの〔波のなかを匍匐前進する兵士の写真〕と以下6頁にわたって掲載されている写真は、『ライフ』の写真家ロバート・キャパによって撮影された。彼は最初の部隊に同行していた。上陸の最初の報告では抵抗は小さかったとされたが、彼の写真は戦闘がいかに激しいものだったか、ドイツ軍の防衛がいかに頑強だったかを示している。彼の最良の写真は、地獄のような敵の砲火のなかを、あがきながら進むアメリカ軍兵士がノルマンディー海岸に到達するところを撮影したものである。」
 「ライフ」のニューヨークの編集部はキャパの写真について、「その瞬間の激しい興奮が、写真家キャパのカメラを震わせ、写真にブレをもたらすことになった」というキャプションをつけていた。さらに責任者は最初のうち、写真がだめになったのはカメラを海水で濡らしたせいだと語っていた。こうした不誠実な編集者の姿勢はキャパを怒らせるとともに、撮影した写真の権利をカメラマン自身が確保する必要性を痛感させたのである。
 のちに「マグナム・フォト」と名づけられる写真通信社〔写真家による共同エージェント〕の構想が、キャパの主導で生まれたことはよく知られている。彼は「ライフ」がスタッフ・カメラマンの撮った写真のネガと著作権をすべて管理する体制に不信と不満をいだいていた。キャパはもはや「ライフ」の専属カメラマンになる気はなかった。
 彼は自分の写真が、世界中の雑誌に売れるようになることを望んでいたし、その使用方法を自分で管理したいと考えていた。それには志を同じくする仲間で、写真通信社をつくることである。そうなれば高い報酬を請求でき、通信社の運営経費を差し引いても、十分にやっていけるはずであった。この計画を打ち明けられた、カルティエ=ブレッソンやジョージ・ロジャー、それにシムも同意していた。
 アメリカに渡ったキャパは、ニューヨークに拠点をもつウイリアム・ヴァンディヴァートとも話しあった。最初は「ヘラルド・イグザミナー」のために写真を撮り、のちに「ライフ」のスタッフ・カメラマンとして活躍してきたが、このときは「ライフ」をやめて、フリーで活動していた。
 キャパ、ヴァンディヴァート、彼の妻のリタ、戦前のパリで「アリアンス・フォト・エージェンシー」を経営していたマリア・アイスナーは、1947年の3月か4月のある日、近代美術館の最上階にある会員制のレストランで食事をとりながら、写真通信社設立の最終的な打ち合わせをおこなった。この重要な会合の正確な日付がわからないのは、だれも正確なメモをのこさなかったからである。
 この日の話し合いで、通信社の事業内容や「マグナム」という名称が決まった。「マグナム(Magnum)」とは、ラテン語から派生した言葉で、「大きい」という意味である。シャンパーニュやミネラル・ウォーターの壜の形容などに用いられ、普通の2本分、約1・6リットル入りの壜を指す。この日テーブルにシャンパーニュの大瓶がのっていたのかもしれない。だれがこの名称の提唱者かも不明だが、戦争報道で名をなした五人のカメラマンがつくる通信社の名前にはいかにもふさわしかった。会合にはカルティエ=ブレッソン、ロジャー、シムが欠けていたが、彼らは構想に基本的に合意していたから問題はなかった。このときカルティエ=ブレッソンは、ジョン・マルコム・プ゚リニンと本をつくる仕事でアメリカ各地をまわっており、シムはヨーロッパにあって破壊された都市をさまよう多くの浮浪兒の姿を追っていた。ジョージ・ロジャーはキプロス島に住居を移したばかりで、「イラストレイテッド」誌の依頼で、北アフリカに出発するべく準備中であった。
 その後の話し合いをへて、共同組合形式の写真通信社は5月22日に、ニューヨーク郡の役所で登記手続きがとられた。「マグナム」の創立50周年を期して刊行されたラッセル・ミラーの『マグナム、報道写真、半世紀の証言』(Russell Miller:MAGNUM / Fifty years at the front of history―the story of the legendary photo agency, Secker & Warburg, 1997、木下哲夫訳、白水社、1998年)に、登記されたマグナム社の定款が、以下のように引用されている。
 (a) 写真、肖像、画像、絵画に関連する事業を行う。・・・写真家、画家、芸術家の用具、素材、道具の売買、写真ならびにあらゆる種類の芸術作品の売買にたずさわる・・・写真に関するあらゆる種類の業務を、世界のすべての地域において遂行する。
 この定款に示されている通り、自分たちの作品を含めて会員の作品の著作権を管理し、それを売買することで利益をあげると同時に写真家や芸術家の権利を確保しようとしたのである。そのなかにはカルティエ=ブレッソンがもっとも固執した、絶対にトリミングをしないことも、条件に入っていた。
発足にあたって、発起人(5人のカメラマンと2人の女性)は、初期経費をまかなうために、それぞれ400ドルを出資することにした。通信社は会員のために手配した仕事については40パーセント、写真家自身がとってきた仕事は30パーセントの手数料をとる。さらに再掲載分のコミッションは50パーセントときめられた。
 戦前にエージェントの経験のあるマリア・アイスナーが年俸4000ドルで、事務局長兼経理部長兼パリ事務所の所長、夫の契約事務をあっかっていたリタ・ヴァンディヴァートが8000ドルで通信社の代表兼ニューヨーク事務所長に就任することになった。
 さらに、写真家にはカバーをする地域が割り当てられることになった。これは注文仕事をこなす上で、土地勘のある場所が有利であり、また移動のための旅費の節約にもなるはずだった。ヴァンディヴァートはアメリカ合衆国を受けもち、シムはヨーロッパ、カルティエ=ブレッソンはすでに撮影の経験のあるアジアと極東、ロジャーが中東とアフリカを選んだ。キャパは世界中どこへでも移動して仕事をこなす自由を認められた。》(同書、155頁-160頁)
 キャパはこうしてその後も世界を飛びまわり、戦争の現実と被害をうける民衆の姿を追い続けた。その彼が取材中のインドシナで死んだのは、1954年5月25日である。地雷に触れた爆死だった。 《この年の春、日本で取材をしていたキャパのもとに、「ライフ」から取材依頼が舞い込んだのは4月末のことである。「ライフ」のスタッフ・カメラマンの母親が病気になり、その代わりにインドシナ戦争を取材してほしいということだった。提示された報酬は、30日間の拘束に対して2000ドル。それに東京からの旅費と2万5000ドルの保険金をかけるという条件だった。
 キャパは「カメラ毎日」(この年に創刊)のために、5月1日のメーデーを撮影する約束があり、取材を済ませるとその夜にバンコクへ飛び、そこでヴィザが下りるのを待った。ハノイに着いたのは5月9日で、激戦のあとディエン・ビエン・フーが、ホ・チ・ミンの率いるヴェトミンの手に落ちた2日後であった。キャパはハノイを拠点に戦時下の市民の生活や、戦闘場面を取材した。
 5月25日、ナム・ディンという街の郊外で、フランス軍の掃討作戦が行われるのを取材するために、二人の仲間とジープででかけた。この日の午後、キャパは野原を前進する兵士たち撮影するため、草の生えた堤防を上ろうとして、ヴェトミンの地雷を踏んでしまったのである。仲間が駆けつけたとき、キャパは仰向けになっていた。左足は吹き飛ばされ、胸がえぐられた状態で、かすかに息があった。すぐ救急車両で五キロ離れたドンキトンに送られたが、そこでキャパは死んだ。40歳。アメリカ人特派員としては、インドシナ戦争で最初の犠牲者だった。
 キャパ死亡のニュースは、数時間後にはパリとニューヨークに届いた。みなが衝撃をうけた。たまたまこの日、「マグナム」のもう一人の仲間であるヴェルナー・ビショフが亡くなったという知らせが、ペルーから届いたばかりだった。ビショフが地理学者と同乗していたステーション・ワゴンが山道を走行中に、路面で横滑りして500メートル近い下の谷底へ転落したのである。事故がおこったのは5月16日だったが、悲報がニューヨークに届いたのがこの日だった。「マグナム」は同時に二人のカメラマンを失った。とりわけキャパの場合は、創設以来の中心メンバーだっただけに打撃は大きかった。
 カルティエ=ブレッソンは、ちょうどローマでの仕事を終えてパリにもどったとき、このニュースを電話で聞かされた。電話を最初にとったのは妻のラトナだった。彼女はビショフの事故を知っていたから、電話が鳴るとすぐに受話器をとった。だが、伝えられたのは思いがけないキャパの死だった。カルティエ=ブレッソンは、彼女が、「なんですって? どうして? キャパが? まさか!」と叫ぶのを聞いたという。
 キャパが亡くなって一週間後の日曜日に、ニューヨークの教会でキャパとビショフの追悼式がいとなまれた。カルティエ=ブレッソンは、のちにキャパのことをこう書いている。
 「私にとってのキャパは、輝かしいマタドールにふさわしい衣装をまとっていた。しかし、彼はけっして殺しはしなかった。偉大なるプレイヤー。彼は旋風のなかで、彼自身のために十分に闘った。栄光の頂点にいるときに打ち倒されるように運命づけられていたのがろうか。」》(同書、200頁-202頁)
 キャパはインドシナでは、2台の35ミリ判レンジファインダーカメラで仕事をしていた。ツァイス・イコン製のコンタックスⅡaにはモノクロフィルムを装填し、東京で贈られた日本光学製のニコンS(当時は34×24ミリという特殊なサイズだった)にはコダクロームを入れていた。こちらのカラーフィルムで撮った最後の写真には稲田を堤防に沿って進む大勢のフランス兵の後ろ姿が写っていた。
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by monsieurk | 2013-02-27 20:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

ロバート・キャパ(5)

 沢木耕太郎氏が着目したのが、キャパの写真集『THIS IS WAR』(Richard Whelan, ICP/STEIDL、2007)に発表された32枚の写真と、この本には収録されていないが、並行して開催された写真展で公表された9点、合計41点の写真で、これらはいずれも1936年夏にコルドバ戦線で撮影されたとされるものである。沢木氏はそのなかの一枚、「突撃する兵士」に注目した。
d0238372_11371562.jpg これは画面の中心に銃を水平に構えつつ、緩やかな斜面を駆けている帽子を被って兵士をほぼ真横から写してものである。沢木氏はこの兵士の背後に、もう一人の兵士が重なるようにして写っていることに気づいた。さらに画面の左端に、後から来る兵士の銃の先端も写っている。
 つまりこの写真は丘を駆け下りる兵士の一団を撮ったものだが、拡大してみると、前面の兵士の陰になっているもう一人の兵士は白いシャツを着ていることが分かる。しかも彼の姿勢は、なんらかの理由で腰を落とした形になっている。これらの事実から、沢木氏は以下のように推理する。
 《「手前の兵士」は斜面を駆け降りて突撃しようとしているのに対し、「奥の兵士」は深く腰を落としている。
 そして、「奥の兵士」の持っている銃は上を向いている。それは「手前の兵士」の銃の持ち方からもわかるとおり、銃に添えられている左手が離れたということを物語っている。さらに、銃のストラップが浮いているのは、その瞬間に、銃を持つ唯一の手になってしまった右手が大きく動いたということを意味している。その動きの勢いによって、銃は上下が逆さになっているにもかかわらず、ストラップが宙に浮くことになった。
 「奥の兵士」は、突撃の途中であるにもかかわらず、腰が落ち、銃から左手が離れ、右手が大きく動いている。「奥の兵士」に何らかの異変が起こったのだ。》(沢木、224-225頁)
 この場面で撮られた兵士で、白っぽい服を着ているのは「崩れ落ちる兵士」しかいないことから、「奥の兵士」はまさに彼だと推測できる。さらに「奥の兵士」の姿勢から、彼は何かの理由で腰を落とす姿勢になったが、その次の瞬間を左斜め前から撮ったのが「崩れ落ちる兵士」であるというのが、沢木氏の下した結論だった。
 この推論が成立するとすれば、兵士の集団の一連の動きを撮影したカメラは2台なくてはならない。なぜなら「奥の兵士」は横のカメラで撮影された瞬間には、もう腰を落として倒れかかっており、それを「崩れ落ちる兵士」のように斜め前から同じカメラで撮ることは時間的に不可能だからである。
 沢木氏はさらに推論を進めて、真横の低い位置から兵士たちを撮ったのがライカであり、「崩れ落ちる兵士」を撮ったのがローライフレックスではなかったかと考える。真横のカメラで撮られた「突撃する兵士」の写真はほぼ正方形に近く、縦横比からすればローライフレックスの可能性もあるが、それよりも「崩れ落ちる兵士」の画面構成の方がローライフレックスに特有のものなのではないか。
 ローライフレックスを使ったことのある者にはすぐに分かることだが、撮影者はファインダーを上から覗いて撮る。そのためにライカのように片目でファインダーを覗きつつ、もう一方の眼で、現実を見るといったことは難しい。さらにファインダーの動きはカメラの構造上左右が逆になる。だからローライフレックスは静止したものの撮影に向いているのだが、この場面で起きたことを想定してみると、カメラを構えている瞬間に、画面左奥から駆け降りてきた兵士の一人が、一瞬腰を落として倒れそうになった。それをファインダーのなかで見た撮影者は、兵士の動きを追いかけようとして、とっさにカメラを左に少しふった。その結果ファインダー上では右側、つまり兵士の前方の空間があくことになり、結果として、あたかも弾丸が飛んできた方向を暗示するような写真が撮れたのではないか。ローライフレックスの特徴を瞬間的に判断できなかったために、返って絶妙の構図が生まれたわけで、もしかするとこの写真を撮ったのは、カメラを扱いはじめて日の浅いゲルダだったかもしれない。
 沢木氏の推理のもう一つは、「崩れ落ちる兵士」が後ろに倒れていることをめぐるものである。彼が下した結論はこうである。当時スペインの前線で用いられていたのがモーゼル銃だったことを考えると、前方から弾を受けたとして、兵士に後ろに倒れるだけの物理的力をあたえることはできない。丘を駆け降りてきた兵士が銃弾を受けたとしても、その慣性によって必ず前に倒れるはずである。そうだとすると、彼が後ろに倒れたのは足を滑らせるなどして、自らの力で倒れたことを意味する。ススペレギ教授はヤラセ説を主張したが、兵士は足を滑らすなどして、偶然カメラの前で崩れ落ちた――これが沢木氏の推理である。
 1937年7月中旬、撮影したフィルムを持って一端パリに戻ったキャパと別れて、ゲルダ・タローは激しい戦闘が繰り広げられているマドリッド郊外のブルネテへ向かった。ブルネテの共和国軍の司令部に到着すると、すぐに反乱軍の攻撃がはじまったが、彼女は果敢に撮影を続けた。だが反乱軍の攻撃は激しく後退を余儀なくされた。彼女が隣村へ続く道を歩いていると、将校用のオープンカーが通りかかり、ゲルダはそのステップに飛び乗った。次の瞬間、近くを走行していた共和国軍の戦車が統御不能となり、暴走してオープンカーに突っ込んできて、ステップに足をかけた姿勢のゲルダの身体を引き裂いた。彼女はすぐに病院に運ばれ緊急の手術をうけが、翌朝息を引き取った。1937年7月26日、奇しくも「崩れ落ちる兵士」の写真が「ライフ」に掲載された二週間後のことだった。
 先に触れた写真集『生み出される死(Death in the Making)』(New York、Covici-Friede、1938年)は、ゲルダ・タローへのオマージュとして出版された一冊である。これは沢木氏も指摘していることだが、不思議なことに、「崩れ落ちる兵士」の写真は表紙のカバーに用いられているだけで本文には収録されていない。本文に収録されている他の写真にはすべてキャプションがつけられていることを考えると、これを避けるためにあえて収録しなかったのかも知れない。
 一枚の写真によって22歳の若さで伝説となったキャパは、名声にふさわしい本物の戦争カメラマンになるべく、ひたすら戦場を求めて仕事を続けることになる。(続)
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by monsieurk | 2013-02-25 20:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

ロバート・キャパ(4)

 沢木耕太郎氏は、リチャード・ウィーランの評伝『ロバート・キャパ』(『キャパ その青春』、『キャパ その死』)と、決定版写真集『フォトグラフス』を翻訳した経験をもつ。この仕事をするうちに、「崩れ落ちる兵士」の成り立ちに疑問をもつようになり、調査をはじめたのだという。
 沢木氏はまずこれまで発表された数々の文献を博捜して、それぞれの主張の真偽を検討する。その結果、ススペレギ教授の調査研究を重要と判断して、彼をスペイン・バスクの港町オンダビリアの自宅を訪れて、直接話を聞くことにした。教授はパイス・バスコ大学のオーディオ・コミュニケーション学部で映像論を専門とする研究者だった。
 ススペレギ教授が調査のすえに出した結論を、沢木氏は次の五つに要約している。

①「崩れ落ちる兵士」の写真が撮られた場所はセロ・ムリアーノではなくエスペホである。
②たとえ「崩れ落ちる兵士」の写真が戦闘中のものであったとしても、エスペホで戦闘が始まったのは九月二十三日〔二十二日?〕である以上、撮られたのは九月五日ではない。
③そこがセロ・ムリアーノでなく、撮られたのが九月五日でないのだから「崩れ落ちる兵士」はフェデリコ・ボレルではない。
④この「崩れ落ちる兵士」の写真はライカではなくローライフレックスで撮られている。
⑤「崩れ落ちる兵士」の写真は、三脚を使い、兵士にポーズを取らせて撮っている。

 以上は、「文藝春秋」に掲載後に単行本として刊行された『キャパの十字架』(文芸春秋、2013年2月)の85頁に記されている。その上で、沢木氏は次のように述べている。
 《ススペレギ教授の見解の中で、①から③までは私も問題なく同意できる。教授が撮影した写真にあるエスペホから見える山の稜線はキャパの写真に写っている山の稜線とまったく同じだったからだ。(中略)しかし、④と⑤についてはまだ詰めていかなくてはならない部分がいくつもあるように思えた。まず、④のローライフレックス説である。
 ススペレギ教授が、「崩れ落ちる兵士」を撮ったカメラを、通説に反してライカではなくローライフレックスだというのはなぜか。
 尋ねると、ススペレギ教授はこう答えた。
 「この写真はネガが消えてしまっているので、オリジナルに近いと思われるプリントや印刷物から判断しなくてはなりません。私が注目したのは、最初に世に出た〈ヴュ〉の写真と〈ライフ〉に載った写真との画面の縦横比の違いです」
 そう言って、二枚の写真を指し示した。》(沢木、86頁―87頁)
d0238372_11534210.jpg 教授が示した二枚の写真とは、雑誌「ヴュ」の1936年9月23日号と「ライフ」の1937年7月12日号に掲載された「崩れ落ちる兵士」の写真である。この二枚の写真は縦と横の比率が異なる。教授は「ライフ」の写真の縦横の比が2・3対3であり、これは比率が2対3のライカで撮影されたフィルムからはプリントできないことから、縦横比が1対1、つまり正方形のローライフラックスで撮られたと主張するのである。1936年の夏、キャパとゲルダがライカとローライフレックスを使っていたことは既知の事実である。
 沢木氏はススペレギ教授の説を検証するために、自らエスペホに足を運んで、キャパたちが立ったであろう丘から周囲の景色を確認する。さらにキャパたちが使ったと推測される当時のライカⅢA(先に紹介したゲルダ・タローが構えているカメラ)で写真を撮り、そのサイズを「ライフ」の写真や「ヴュ」の写真と比較してみて、ススペレギ教授の説を支持する。
 ところで、2012年にフランスで刊行されたベルナール・ルブラン、ミシェル・ルフェーブル著『ロバート・キャパ』(太田佐絵子訳、原書房、2013年)には、この写真に関して次のような記述がある。
 《この写真のネガは失われたが、二枚の古いプリントが存在する。その一枚はスペインの首相だったフアン・ネグリンが所有していた、プリントをおさめたスーツケースの中にあったもので、サラマンカ国立公文書館に所蔵されている。24×36ミリのネガから焼き付けられたオーソドックスなサイズで、裏書はなく、何の情報も得られない。2枚目はニューヨーク近代美術館(MoMA)所蔵のもので、より興味深い写真である。四隅を画鋲でとめてあったに違いないクリーム色の厚紙に貼りつけられている。(中略)フレーミングについては、左端の銃床や兵士のエスパドリーユ〔縄底のズック靴〕の下部がわずかに切れている――右足の靴裏が見える。写真上部の空は、とくに両端が下部より暗い。厚紙には黒鉛筆で「ロバート・キャパ撮影(オリジナル・ネガからプリント)」と書かれている。ほかにもところどころ消された書きこみがあるが、判読できない。保管番号は1261959である。》(同書、101頁)
d0238372_11534947.jpg しかしこの本にも写真が掲載されているが、「崩れ落ちる兵士」にはもう一点、1938年にニューヨークで刊行された『生み出される死(Death in the Making)』の表紙を飾った別のヴァージョンがあり、これは兵士を中心にくるようにトリミングされているのだが、注目されるのは、「MoMA」の写真や、「ヴュ」、「ライフ」では途中で切れている、倒れ込む兵士がもつ銃床がほとんど完全な形で写っていることである。これは失われたこの写真のネガは、縦横が別の比率だった可能性を示すものである。
 沢木氏もこの写真の存在を知った上で、《〈ライフ〉に載ったものやMoMAに所蔵されている写真は、フィルムからそのままプリントされたものではなく、少なくとも横の部分のどくかがトリミングされたものであったのだ。
 だとすると、「崩れ落ちる兵士」がローライフレックスで撮られたということを、〈ヴュ〉と〈ライフ〉における画面の縦横比から証明するのは不可能ということになってしまう。ローライフレックス説を証明するためには、もう少し確固とした、いわば「物証」に近いものが必要なのではないか・・・》(沢木、259頁)と書いている。
 はたしてそうした物証は見つかるのか。(続)
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by monsieurk | 2013-02-23 20:45 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

ロバート・キャパ(3)

 2009年7月17日付けのスペイン・バルセロナの新聞「エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ」の電子版は、キャパの問題の写真は、実際にはセロ・ムリアーノではなく、そこから凡そ56キロ離れたエスペホ(Espejo)付近で撮影されたものだという記事を掲載した。さらにエスペホ付近で戦闘が行われたのは、1936年9月22日から25日だけであり、したがってこの写真は本当に前線からは離れたところで撮られたとする説を報じたのである。
 この報道をうけて、アメリカの「ニューヨークタイムズ」紙は、2009年8月18日号に、ラリー・ローターの、「有名な戦争写真に持ち上がった新たな疑惑」と題した記事を掲載した。これは「エル・ベリオディコ」の記事のもとになったスペイン・バスク地方の「パイス・ヴァスコ大学」のコミュニケーション学部教授ホセ・マニュエル・ススペレギ(JoseManuel Susperregui)の調査研究を要約したものだった。
 ススペレギは調査結果を、著書の『写真の影(Sombras de la fotografia)』のなかでで公表していて、キャパの「崩れ落ちる兵士」についての新事実を明かしていて興味深い。以下にラリー・ローターの記事の主要な部分を訳出してみる。                     

 《スペイン内戦中のロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」は、撮影されてからほぼ四分の三世紀たったいまも、戦争写真のなかで最も有名な写真である。そしてもっとも議論を呼んできた写真でもあった。一人の兵士の死の瞬間のように見える写真はヤラセだった(faked)だという批判に絶えずさらされてきた。そして今日、スペインの一研究者による本が断言するところでは、キャパの賛美者や後継者が主張しているような場所、時期、そして、いかにして撮影されたかというという主張は、あり得ないというのである。
 パイス・ヴァスコ大学のコミュニケーション学部の教授、ホセ・マニュエル・ススペレギはその著書『写真の影』で、キャパの写真は、コルドバの北のセロ・ムリアーノで撮られたのではなく、凡そ35マイル離れた別の街の近くで撮られたと結論づけた。当時キャパがいたときは、ここは戦闘の前線からは離れており、ススペレギ氏は、「この《崩れ落ちる兵士》の写真は、この前線で撮られた他の一連の写真とともに演出されたことを意味する」と語っている。
 マンハッタンの「国際写真センター(ICP)」にはキャパの資料が保存されているが、そこの専門家たちは、ススペレギ氏の調査の見方の幾つかは興味深く、説得的でさえある。だが《崩れ落ちる兵士》のイメージは正真正銘のものであり、〔ススペレギ氏〕の結論にいきなり飛躍するのは躊躇するとしている。「難しいのは、人びとが言うように、もしここではなかったとしても、あそこであり、それは神によって、生み出されたものなのです」、「これを飛び越えるには、さらなる多く調査と研究が必要だと思います」と、センター所長のウィリス・E・ハーツホーンはインタビューで答えた。
 ススペレギ氏はその探究を、「崩れ落ちる兵士」と同じ状況で撮られた他の写真の背景を調べることからはじめたという。これらの写真では遠くに山の稜線が見える。そこで彼は、これらの鮮明なものを、E-メールでコルドバの周辺の街の図書館員や歴史家に送り、この風景を知らないかと訊ねた。するとエスペホ(Espejo)という地域から肯定的な返事が返ってきた。
 「私はこれが《崩れ落ちる兵士》に関係したものだとは、誰にも告げませんでした。というのも、この写真には思想的、感情的な問題が深くからんでいるからです」と、彼はビルバオの東部にある自宅での電話インタビューで言った。「しかし、一人の教師が送った写真を教室で見せたところ、一人の生徒がまさにその場所を知っていたのです」。
 ススペレギ氏がし残したことを取り上げたのはスペイン・バルセロナの新聞「エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ」だった。同紙は最近、エルペホに数人のリポーターを派遣した。彼らは写真を持ち帰ったが、それら写真では、現在の地平線がスペイン内戦がはじまって二か月も経たない1936年9月に撮られたキャパの写真の背景に写っているものとほぼ一致したのである。
 ICPのロバート・キャパ資料のキュレーター、シンシア・ヤングは、「崩れ落ちる兵士」がエスペホで撮影されたことを示す新たな証拠は、「強力であり、説得的ですらある」と語っている。そして彼女は、撮影場所に関して起こった混乱は、キャパが戦争カメラマンとしての最初の旅の間、「自分の写真のごくわずかなものにしかキャプションをつけず」、パリに戻って、エージェントや編集者が彼の写真を現像した時、「写真を撮った場所をほとんど思い出せなかった可能性が高い」とつけ加えた。「崩れ落ちる兵士」のネガの存在は知られていない。
 スペインの歴史家たちは、エスペホで激しい戦闘があったのは9月の終わりであって、22歳のキャパと、同僚で同伴者のゲルダ・タローがここに来たであろう、この月の初めには、いかなる戦闘も行われなかったと述べている。「9月末までは、ここでは一発の弾も発射されず、幾回かの空襲があっただけだ」と、このとき9歳だった村人の一人、フランシスコ・カストロは「エル・ペリオディコ」紙に語っている。「民兵は通りを散歩し、街の一番美味いハムを食べていたよ」。
 「崩れ落ちる兵士」に関する別の説明、ハーツホーン氏のように、同センターが賛意を示す説明の一つは、ハーツホーン氏のように、キャパの写真は、「戦闘の間に撮られたものではないが」、おそらくはキャパのために行われた訓練中、「訓練が実際の戦闘に変わった瞬間があり、この写真はその結果なのです」というものである。ハーツホーン氏は、「離れたところから民兵を狙った狙撃者(スナイパー)がいたという仮定はずっとあったのです」とつけ加えた。
 しかしススペレギ氏は、この意見は「完全に誤りだ」という。反対派の前線はここから遠く離れていただけでなく、この仮説を可能とするような「射撃能力は当時はなかった」として、コルドバの戦線で「狙撃銃が使われたという資料は、文書でも映像でも存在しない」と述べている。(中略)
 「崩れ落ちる兵士」の正統性に対する根拠に基づいた疑問は、1970年代の半ばに、フィリップ・ナイトリー(Philip Knightley)の著書『最初の 犠牲者(The First Casualty)』で出されたものだった。しかし民兵の死から20年後の1936年9月5日に、犠牲者がセロ・ムリアーノで死んだフェデリオ・ボレルというアナーキストの兵士だったと身元が確認されたことで、こうした論争に終止符を打ったように見えた。
 だがススペレギ氏はセロ・ムリアーノの場所を訪れて、そこが「一世紀をこえるような樹木が生い茂る森」で、キャパの写真に見られるような、ひらけた丘ではないことに気づいた。さらに彼の本では、あまり知られないアナーキスト系の雑誌に、1937年に発表されたフェデリコ・ボレルに関する記事を取り上げている。それによると仲間だった兵士が、ボレルは、「樹を楯にして射っていたが」、彼が殺されたときは、「楯にしていた樹の後ろで伸びあがり、乱れた髪が顔に落ちかかり、血が口から点々と滴っているのを見ることができた」とつけ加えている。(後略)》

 以上が、ラリー・ローターが「ニューヨークタイムズ」紙で要約している、「崩れ落ちる兵士」をめぐって明らかになった事実である。
沢木耕太郎氏は新著『キャパの十字架』で、海外でのこうした議論や調査、研究の成果を活用しつつ、新たな事実を見つけ出そうとした。(続)
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by monsieurk | 2013-02-21 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

ロバート・キャパ(2)

 キャパの「崩れ落ちる兵士」は、フランスの雑誌「ヴュ」に載ったあと、購読者100万を誇る写真週刊誌「ライフ」が1937年7月12日号に掲載して、報道写真史上もっとも有名な一枚となった。スペイン共和国を守ろうとして叛乱軍の凶弾に倒れた兵士の死の一瞬は、スペインのその後の運命を象徴する作品として世界中に流布されたのである。
 ところが1975年になって、イギリス人ジャーナリスト、フィリップ・ナイトリーが、この写真はプロパガンダで、実際に兵士が撃たれた瞬間を撮ったものではないのではないかと疑義を呈した。だがこの疑問も、1996年に解消したかに思えた。崩れ落ちる兵士の身元が確認されたのである。
 この事実を見つけたのはスペインの郷土史家マリオ・ブロトンス・ホルダで、その調査によると、兵士はスペイン東南部の都市アリカンテに近いアルコイ出身のフェデリコ・ボレル(母方の姓はガルシア)で、当時24歳の青年だった。共和国軍の民兵となる前は製粉所で働いていたが、スペイン内戦が勃発して7週目の1936年9月5日、コルドバに近いセロ・ムリアーノの前線で戦死したことが判明した。
 マリオ・ブロトンス・ホルダもアルコイ出身で、自らも十代のとき前線で戦った経験があった。彼はマドリッドとサラマンカの軍事資料館で調査を行い、この日セロ・ムリアーノの戦線で負傷した者は大勢いたが、死んだのはただ一人フェデリコ・ボレルだけだった事実をつきとめたのである。
 フェデリコには、同じく兵士だったエヴェリストという弟がいた。この発見を受けて、イギリス人ジャーナリストのリタ・グロヴナーは、「オブザーバー」紙のために、エヴァリストの未亡人マリアにインタビューを行った。
 同紙の記事によれば、マリアは、「エヴァリストからフェデリコは戦死したと聞きました。夫は別の陣地にいたので、何が起こったか見ていません。でも、フェデリコが頭を撃たれ、とたんに両手を高くあげたまま地面に崩れ落ちるさまが見えたと、仲間から告げられたのです。即死だったという話です」と語っている。しかしインタビューでのマリアの話(エヴァリストが生前に語っていたこと)には、世界的に有名になったキャパの写真の影響がなかっただろうか。
 いずれにせよ、雑誌「ヴュ」によってスペインに送り込まれた1936年8月から、写真が雑誌の第445号(9月23日発行)に掲載されるまでの間に(おそらく9月初め)、キャパ(アンドレ・フリードマン)とゲルダ・タローは、スペインの戦線であの写真を撮ったのである。
d0238372_033367.jpg ゲルダは本名をゲルタ・ポホリといい、1910年、ドイツ・シュトゥットガルトのユダヤ系ポーランド人の中流家庭に生まれた。一家は1929年にライプツィヒに移り、二人の兄弟が反ナチス組織に加わり、百貨店の屋上から反ヒトラーのビラを撒いた。二人はすぐに地下にもぐったが、ゲルダはナチス突撃隊による一斉摘発で逮捕された。その後保護観察処分となって釈放されると、すぐに祖国を離れる決断をして1933年秋にパリにやってきた。
 パリに亡命した彼女は、1934年にハンガリー出身のユダヤ系で個性的な写真家アンドレ・フリーマンと出会って恋におちるとともに、彼から撮影技術を教えられた。そして最初はマリア・アイズナーが経営する「アライアンス・フォト」の写真編集者をしていたが、彼女のアイディアで二人は、「ロバート・キャパ」というアメリカ風の名前で、自分たちの写真を売り込むことを思いついた。写真の市場はヨーロッパよりもアメリカの方がずっと大きかったからである。
 こうして彼らの写真が注目されるようになると、やがてフリードマンが「キャパ」となり、彼女の方も、「写真家ゲルダ・タロー」という名前を使うようになり、二人はコンビでスペイン内戦の取材に送り込まれたのだった。
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 彼らは取材対象を求めてスペイン内戦の前線をめぐるうち、コルドバに近いセロ・ムリアーノの丘で、共和派の民兵フェデリコ・ボレルの死に遭遇し、「崩れ落ちる兵士」を撮影したと信じられてきた。だがこれもまた事実ではなかったのである。(続)
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by monsieurk | 2013-02-19 20:27 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

ロバート・キャパ(1)

 このところ、報道写真家ロバート・キャパが話題である。
 横浜美術館では、2013年3月24日まで、《ロバート・キャパ+ゲルダ・タロー「二人の写真家」》展が開かれていて、展覧会の案内にはこうある。「1934年、パリで出会い意気投合した二人は、1936年に「ロバート・キャパ」という架空の名を使って報道写真の撮影と売り込みをはじめた。仕事が軌道に乗りはじめてほどなく、フリードマン〔キャパの本名〕自身が「キャパ」に取って代わり、タローも写真家として自立していくが、その矢先の1937年、タローはスペイン内戦の取材中に命を落とす。・・・」
 展覧会では、キャパの写真194点と、ICP(国際写真センター)が所有するゲルダ・タローの写真85点が展示されている。
 そして「文藝春秋」創刊90周年記念号には、ノンフィクション作家沢木耕太郎氏の「キャパの十字架」が掲載され、これをもとにしたドキュメンタリー「NHKスペシャル・沢木耕太郎推理ドキュメント運命の一枚」が2月3日に放送された。
 沢木氏の推理は、スペイン内戦で撮影され、報道写真家「キャパ」の名前を一躍有名にした「崩れ落ちる兵士」をめぐるもので、この一枚と前後して撮られた当時の写真(最近公表された)を分析して、新説を展開したものである。
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 沢木氏の推理を検討する前に、以前に書いた『アンリ・カルティエ=ブレッソン伝』(青土社、2007年)から、キャパに関係する部分を再掲することにする。

 キャパは本名をアンドレ・エルネー・フリードマンという1913年10月23日にハンガリー(当時はオーストリア=ハンガリーに二重帝国)のブダペストで生まれた。ユダヤ人の両親は洋服屋を営んでいた。ドイツ系のギムナジウムを終えたあと、1931年にはドイツ政治高等専門学校へ入学したが、在学中に共産党活動を行った嫌疑で逮捕された。釈放後はドイツに逃れ、ベルリンの写真通信社「デフォト」の暗室係りとなった。しかしナチスの進出とともにユダヤ人排斥が激しくなると、ベルリンを脱出してふたたび故郷にもどり、ヴェレッシュという旅行社のカメラマンの職をえた。さらにこの翌年には通信社の臨時雇いになることができた。
 彼の名前が注目されたのは、コペンハーゲンで演説するレオン・トロツキーを撮影することに成功したことである。そして1933年にはパリに移り、この年モンマルトルでシム(デヴィッド・シミン)と出会い、さらに彼の仲介で、アンリ・カルティエ=ブレッソンとも知り合い、彼らの友情は生涯つづくことになった。
 フリードマンは1936年ころから、ロバート・キャパの名前で写真を発表するようになった。スペイン内戦がはじまると、キャパは一緒に住んでいたゲルダ・タローとともにスペイン行きの途をさぐっていた。
 1936年8月、フランスの写真週刊誌「ヴュ(Vue)」のリュシアン・ヴォジェルが、ジャーナリストの一団をバルセロナまで飛行機で運び、そこから彼らを「ヴュ」の内戦特別号のための取材に向かわせるという計画をたて、キャパにも誘いがきた。彼はゲルダとともにこの飛行機でバルセロナに行き、すっかり変わった街の様子や、銃をもつ民兵たちの姿を撮影した。彼らはライカとローライフレックスの二台のカメラをもっていたが、ライカはおもにキャパが使い、ゲルダはローライフレックスで撮影した。彼らがバルセロナや戦線から送ってくる写真は「ヴュ」の紙面を飾り、スペインの現実を読者に強く印象づけた。
d0238372_0281971.jpg なかでも「ヴュ」の第445号(1936年9月23日発行)に、2頁にわたり、「スペインにおける市民戦争」のタイトルのもとに掲載された7枚の写真は、強いインパクトをはなっていた。左頁の5枚は、「彼らはいかに逃れたか」と題されたもので、それぞれが子どもを抱いて逃げる親や裸足の子どもたちの姿をとらえている。写真につけられたキャプションには、「聖書から写されたような場面、苦悩に満ちた面差しの避難する人びとの姿は旧約聖書の出エジプト記を思わせる」、「これはある地方の人びと全員が移住する姿である。彼らは重い足どりで歩んでいく・・・」とあった。
 そして右の頁は「彼らはいかに倒れたか」と題して、有名な「崩れ落ちる兵士」の写真2枚が載っていた。キャプションには、「強靭な膝裏〔ひかがみ〕、風を胸にうけ、銃を握り、彼らは切り株の覆われた斜面を下りていた・・・突然、その躍動が打ち砕かれた。弾が風をきって飛んできたのだ ―― 流れ弾が ―― そして彼らの血は祖国の土に飲み干された」と書かれ、「写真キャパ」とクレジットがあった。
 スペイン市民戦争のなかでもっとも迫力のある写真といわれるこの作品を、キャパはコルドバの戦線で撮影したとされる。添えられているキャプションからして、同一人物が撃たれた瞬間と、その直後に崩れ落ちるように見える2枚の写真は、添えられたキャプションが「彼ら」と述べているように、二人の別々の兵士を撮ったものと考えられる。だがはたして、このような偶然が二度も同じ戦線で、同じカメラマンの前で起こるものだろうか。
 しかも場所が同じであることは、斜面をおおう切り株や、雲のようす、遠くの背景からも容易に推察できる。ここからキャパのヤラセ説がささやかれることになるのである。(続)
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by monsieurk | 2013-02-17 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

キルメン・ウリベ詩選

 先のブログ(「バスクの作家、キルメン・ウリベ」)で紹介した、『ビルバオ―ニューヨーク―ビルバオ』の翻訳者、金子奈美さんから、『キルメン・ウリベ「詩選」(Poema hautatuak)』を頂戴した。
  お手紙によると、昨2012年11月、ウリベが来日した折に、沖縄で現地の詩人たちと行った朗読会のためにつくられたもので、まだ一般の読者の手にわたるような形では刊行されていないとのことである。薄緑の表紙には、UとKの文字を象った模様の上に、KIRMEN URIBE Poema hautatuak とある。
 本文では3冊の詩集から選ばれた12篇の詩が、左ページにバスク語の原詩、右ページには日本語訳という形でおさめられている。翻訳はもちろん金子さんである。
 どの詩もウリベらしい優しさに溢れているが、上記の小説作品の背景を詠ったともいえる一篇を紹介しよう(ただしバスク語の原詩は最初の二節のみ)。

  APARTE―APARTEAN

Sei urterekin egin zuten lehen itsasoratzea aitak eta osabak,
eta patroitza Bustio baporean ikasi.
Gogorrak ziren garai hartako patroiak,

ekaitz egunetan ukabilak estutu eta zerura begira
《bizarrik badaukazu etorri hona! 》
  Jainkoari amenazu egiten zieten horietakoak.
・・・・・

  もっと、もっと遠くへ

  父と叔父は、六歳ではじめて海に出て
  帆船ブスティオ号で航海術を学んだ
  当時の船員たちは荒くれ者で

  嵐の日には拳を握りしめ、空を見上げて
  「かかって来られるものなら来るがいい!」
  と神をも脅すような連中だった

  父や叔父がまだ幼かった頃、上の四人の兄弟は
  日曜のミサに順繰りに行かなければならなかった
  家にあった子供用のスーツは一着だけで 一人が教会から戻ると

  スーツを脱ぎ、次の子に渡す
  そうして彼らはミサに行った
  順番を守り、靴は自分のを履いて

  子供の頃、父が海から戻ってくる日になると
  僕らは港の埠頭の先で
  西の方角を見つめながら待っていた はじめのうちは

  何も見えなかったけれど、すぐに
  誰かが水平線上に黒い点を見つけ
  それが次第に船のかたちを帯びてくる

  一時間もすると船は埠頭に到着し
  港に入ろうとして、僕らの目の前で大きく方向転換した
  父は僕らに手を振った

  船がやってくると、僕らは急いで
  接岸する場所へと駆け寄ったものだった
  父は、病床にあった最後の日々ですら

  人生の素晴らしさを讃え、僕らにこう言った
  その日、その瞬間を生きるんだ いつも心配ばかりしていたら
  人生はお前たちのもとから逃げ去ってしまう

  そしてこう言った つねにもっと北へ
  船を進めるんだ、魚が獲れるとわかっているところに
  網を投げてはいけない

  もっと、もっと遠くへ探しに行くんだ
  すでに手にしたもので満足せずに
  《死はすべてを打ち負かしはしない》

  とディラン・トマスは書いた
  しかし、ときには死が勝ち
  父の人生もそうして終わった

  西へ向かい
  水平線に消えていく船のように
  その航跡に思い出を描き出しながら

 海にかこまれた沖縄で、バスク語の詩人とウチナーグチの詩人たちの間で、どんな話が交わされたのだろうか。泡盛の杯が行きかい、三線が美しい旋律を奏でたのだろうか。
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by monsieurk | 2013-02-14 16:30 | | Trackback | Comments(0)
 ナンシーは『侵入者』で、《よそ者=外国人を受け入れるということはまた、よそ者の侵入という試練を受け入れることでなければならない。たいていの場合、ひとはそのことを認めたがらない。侵入者というモチーフがすでにそれ自体、我々の道徳的適正(それは政治的に適正ということの顕著な例でもある)というものへの侵入なのだ。・・・この道徳的適正は、よそ者を迎え入れるには、それがよそ者である所以を門口で抹消することを前提にしている。だから、よそ者をまったく受け入れなかったと同じことにしたいのだ》と述べている。
 これは私たちの社会が直面している外国人移民の問題を考えてみれば、容易に納得できるものである。社会に「よそ者」を受け入れなければならないとき、その「よそ者性」を自分たちの社会規範に合わせよとする。つまり「同化」させようとするのである。だが澤田氏が強調するように、この「よそ者性」をそのまま受け入れるという「試練épreuve」こそが、このテーマの本質なのである。
 澤田氏は、この問いかけは単に外国人や移民問題にとどまらず、私たちにとって「他なるものは何か」という、もっと広い問いかけだと指摘する。前述したように、ナンシーは50歳のときに心臓疾患で死ぬか、生体移植をうけるかの二者択一を迫られ、最終的に心臓手術を受けたのだが、これは文字通り自分のなかに他人が入り込む試練を受け入れることであった。
 《私の心臓が私にとってよそ者になろうとしていた。それが内部にあるからこそ、まさによそ者なのだ。よそ者というのは、まずは内部に出現したからこそ、外からやってくることになる。》
 この選択を通して、ナンシーは「私とは誰か」という問いを究極的な形でつきつけられることになった。臓器移植をうけた生体はかならず拒否反応を示す。これはいかなる事態なのか。
 《すぐによそ者としての他者が顕在化してくる。それは女性、黒人、若者、バスク人などではなく、免疫学的な他者、置き換えられないはずなのに置き換えられてしまった他者だ。その他者の顕在化が「拒否反応」と呼ばれる。私の免疫システムが他者のそれを拒否するのだ(ということは二つのシステム、二つの免疫上のアイデンティティが「私にはある」ということだ)。》
 澤田氏は、ナンシーの記述をうけて、問題の所在を次のように指摘する。「免疫とは不思議なものである。生きるとは絶え間なく他者と接することであるが、その接触によって私たちは絶えず変化しながら、しかし同一性を保つ。新たに遭遇する他者に対応できるシステムが免疫である。生きることとは様々なレベルでの免疫作用の連鎖にほかならない。・・・免疫の問題とは、そのままアイデンティティの問題と言ってもよかろう。」
 その上で、免疫学者多田富雄の新しい考え方を紹介しつつ、こう述べている。「私たちはごく自然に、というか無自覚に、内部を外部という発想をしている。食べ物は外部から私たちの内部に入り、糞尿の形で外部に排出される、と思いがちだ。だが、・・・私たち人間を含む動物の構造は基本的には管(チューブ)なのであって、管の内部には、じつは外界が保存されているという。そして〈外界は破壊してはならない。しかし、あるところで境界を作っておかなければ自己と他の区別がつかなくなってしまう。管(チューブ)の免疫系は、生物が外界と共存するための素晴らしい知恵である〉(多田富雄『免疫の意味論』)。
 つまり、生物が存在するためには自己と他者のあいだにある種の境界を作っておかなくてはならない。だがその境界は、私たちが考えているほど明確なものではなく、また自他の境界が曖昧であるという事実こそが生存の条件でもあるのだ。ナンシーはこれを次のような言葉で要約している。
 《侵入者とは私自身、そして人間それ自身とちがう誰かではない。研ぎ澄まされると同時に汲みつくされ、剥き出しにされるとともに過剰装備になり、いつまでも変質することをやめない同じもの。自己自身の内部への、そして世界への侵入者。不安を誘う異様なものの高まり、無限に過剰増大しようとするコナトゥス。》
 異質性を保ったまま、私たち個体は侵入者を受け入れつつアイデンティティを保ち続け、社会という組織体も、外国人=よそ者の「侵入」によって変貌しつつ生き延びていく。これはいずれもコナトゥスのあらわれにほかならない。澤田氏はナンシーが言わんとすることを以下のように注釈している。
 「コナトゥスはスピノザが『エチカ』で用いた用語で〈自己保有の力〉のことだ。あらゆるものが自己の存在に固執しようとする努力、つまり生きようとする力のことである。だとすれば、ここで問題になっているのは、生、生命への介入をつづける私たちの生のあり方だと言えよう。生命体、生活、人生――フランス語のvieや英語のlife――は、これらすべての意味を含む包括的な言葉だが、生という言葉ほど時代と場所によってその内実が変わってきたものもない。人類史上で未曽有のあり方で生への介入が行われている現在、はたして生という言葉をこれまでどおりの意味で用いることはできるのだろうか。ナンシーが投げかけている問いはこれである。」
 その上で、澤田氏はナンシーが提起した問題を次のように敷衍する。
 「西欧近代文明は、〈私とは私であるIch bin Ich〉とカリカチュア化されたヘーゲル的同一性というフィクションの上に構築され、近代的な帝国主義、植民地主義などもその延長線上に発展してきた。だが、その後の人間精神の歩みはまさに、この同一性を崩す方向に進んできたように思われる。19世紀後半から文学の世界の主要な主題のひとつは、この〈私〉の否定というか、解体にほかならない。確固たる私など存在しない、私はない。〈私とは一人の他者である〉とランボーは言い、〈私たちのなかには 無数のものが生きている〉とフェルナンド・ペソアは言った」。そう、じつは私たちは内部に無数の「他」を抱え込みながら、「一人の私」として生きているのである。
 澤田氏は『侵入者』をあつかった「プレリュード」に次いで、第Ⅰ部「特異存在と共同性」、第Ⅱ部「イメージをめぐって」、第Ⅲ部「世界とは」で、ナンシーの多岐にわたる問題系を丁寧かつ鋭利に分析し解説してくれる。
 哲学は、私たち自身が直面している現実の本質を抽出し、それを考察する作業である。1936年から41年まで東北帝国大学で教鞭をとった哲学史家のカール・レーヴィトは、当時の日本の学生について、「学生は懸命にヨーロッパの書籍を研究して、事実またその知性の力で理解している。しかし彼等はその研究から自分たち自身の日本的な自我を肥やすべき何等の結果をも引き出さない。・・・二階建の家に住んでいるようなもので、二階にはプラトンからハイデッガーに至るまでのヨーロッパの学問が紐で通したように並べてある。そしてヨーロッパ人の教師は、これで二階と階下〔日本の現実〕を行き来する梯子は何処にあるだろうと疑問に思う」と書いていた。
 レーヴィットの危惧はいまや解消されつつある。一つには彼我が同じ問題を抱え込むにいたったこと、もう一つは二階と階下を行き来する梯子が存在しているからである。本書がナンシーの魅力的な思想と私たちをつなぐ堅固な梯子であるのはいうまでもない。
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by monsieurk | 2013-02-13 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 澤田直氏の近著、『ジャン=リュック・ナンシー 分有のためのエチュード』(白水社、2013年2月)は刺激的な本である。氏の最近の仕事振りは、『〈呼びかけ〉の経験 サルトルのモラル論』をはじめ、そのジャン=ポール・サルトルの『言葉』や『自由への道』(共訳)、ポルトガルの詩人・作家フェルナンド・ペルソナの翻訳など、目を見張るものがある。
 澤田氏の専門はフランス現代思想で、いま最も注目されるフランスの思想家J.=R・ナンシーを論じた本書は、多岐にわたる彼の思想の核心をときほぐしてくれる。
 ジャン=リュック・ナンシーは1940年にボルドー近郊で生まれ、ソルボンヌに学び、1962年に哲学の学士号、翌63年には修士号を取得した。指導教官はポール・リクールだった。1964年には哲学の教授資格を得て、ストラスブール大学で長く哲学を講じてきた。
 澤田氏はナンシーの代表的な著書『自由の経験』を翻訳したあと、出版社から本書の執筆を依頼されという。それから刊行までに長い時間がかかった理由を、ナンシーの難解な哲学に取り組んでいる間に、本人の思想が格段の飛躍をとげ、領域を広げ、一年に数冊の割合で著作が刊行されて、最初の構成案は古びてしまうという事情があったと、「あとがき」で述べている。たしかにナンシーの著書は多く、本書の主要著作一覧にあげられているだけで、“Le Title de la lettre”(『文字のタイトル』、1972、未訳)から、昨2012年刊行の“L’Ēquivalence des catastrophes. Après Fukusima”(『破局の等価性』、「フクシマの後で」所収)まで52冊、そのうち26冊が日本語で読むことができる。
 「哲学の現代を読む」というシリーズの一冊である本書は、「ナンシーの思想を、言葉の広い意味で翻訳すること、つまり、横断的に別の場所へと導くこと、そして解釈することを通して、読者をナンシー思想のうちに招じ入れることを目指している」と述べている。具体的には、どのようなスタイルでそれは行われるのか。「プレリュード」で取り上げられる、『侵入者(L’Intrus)』(2000年)の場合を見てみよう。
 ナンシーの論考のあり様をよく示すこの小論は、チュニジアの詩人アブデルワブ・メッデーブの求めに応じて、1999年秋の雑誌「デダール(Dédale・迷宮)」の、「異邦人の訪れ」という特集号に掲載されたものである。この特集号は副題にあるように、移民問題や外国人排斥の風潮を論じる目的で編まれたものだったが、ナンシーは自らの、ある特別な体験を通して、移民や外国人問題という社会が直面する現象をこえた普遍的問題を俎上にのせたのである。「侵入者」というタイトルがその狙いを端的に示していた。
 澤田氏はその主題を、「他者とは誰か」あるいはその裏返しである「私とは誰か」という問いであるといい、冒頭近くのナンシーの文章を引用する。
 《外国人=よそ者(étranger)のうちには侵入者(intrus)がいるはずだ、そうでなければ、彼の外国人性=異質性(étrangeté)はなくなってしまう。彼がすでに入国権や滞在権を得ていたり、彼を待ち迎える人がいて、彼があますことなく待たれ迎え入れられるなら、彼はもはや侵入者ではなくなるが、同時にまた、外国人=よそ者でもなくなってしまう。つまり、外国人=よそ者の到来から侵入という性格を排除しようとするのは論理的に受け入れがたいし、倫理的にも認めえない。》
 ナンシーの指摘は、一見すると、「外国人=よそ者」排斥を取り上げて、それを肯定しているように見えるが、決してそうではない。
 澤田氏によれば、ここには「私たちが日常様々な機会に出会う外国人のみならず、他者一般との関係の本質が要約されている」という。「外国人=よそ者を無化しようというあらゆる試みが無駄であるのみならず、有害でもあるのは、他者の他性を否認したり、排除したりすることは問題の解決でなく、回避にすぎないからだ。他者を他者として認めること、言葉で言うのは容易いが、私たちはそれをできずにいる。」なぜなら、「外国人=よそ者は多かれ少なかれ得体の知れないもの、無気味なものとして、強烈な〈よそよそしさétrangeté〉を帯びて私たちの前に現れる」からである。そしてナンシーは、この〈よそよそしさ・異質性〉こそが、「他者とは誰か」、「私とは誰か」を考える鍵語なのだという。そして、彼がこの〈よそよそしさ〉について考えるきっかけとなったのが、じつは1991年に受けた心臓移植手術であった。(続)
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by monsieurk | 2013-02-11 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 1975年11月のフランコ総統の死去の前から、バスク地方の独立運動は激しさを増していた。フランコ独裁政権に反発して、1959年に結成されたETA(バスク語:Euskadi Ta Askatasuna「バスク祖国と自由」)は、1960年代に入ると、バスク民族主義に反対する政治家や、実業家、知識人などを標的にテロ活動を展開した。1973年にはフランコの後継者と目された当時の首相、ルイス・カレロ・ブランコの車をマドリッドで爆破して殺害した。これに対して、フランコ政権側もETAの活動メンバーを摘発して処刑するという強硬手段で応じた。
 友人のフランス人ジャーナリストを介して、ETAの幹部と接触できることになったのは、1976年春、テレビ番組『ゲルニカの帰郷』の取材を前にしたときである。国境に近いフランス側の街サン・ジャン・ド・リュッツのホテルで待ち合わせる約束ができた。私たちはカメラマン、それに案内役の友人の三人、やがてコンタクト相手のスペイン人があらわれ、車で出発した。国境を越えてしばらく走ったところで、袋を頭から被るよう指示された。場所を特定できないようにする用心だという。
 そこからどう走ったのか。1時間ほどで車は停まり、降りるように云われた。頭巾を脱ぐと、そこは林を切り開いた窪地で、同じように目の部分だけが開いた頭巾姿の2人の男が来ていた。フランス人の友人の通訳で30分ほどインタビューしたが、その間、ETAの幹部だという彼らは、バスクの人たちがいかに政治的、文化的に差別されてきたか。こうした現状を打開するには力に訴える以外に手段はないと、彼らの考えを語った。
 帰りも頭巾を被らされたために、自分たちがどこに行ったのか、ついに分からなかった。インタビューはテレビ番組の一部として放送された。
 キルメン・ウリベも、『ビルバオーニューヨークービルバオ』のなかで、当時のバスクの緊迫した状況を思い出している。
 《僕は、子供の頃のある出来事を思い出した。フランコの死が近づいていたとき、バスク人二人を含む反体制派の活動家五名が処刑された。バスクに非常事態宣言が出されるなか、警察は家々を隈なく捜索して回っていた。僕の家でも母が、家族を危険に陥れる可能性のあるポスターやチラシ、パンフレットといったものをかき集めて処分した。他の数知れぬ人びとがしたのと同じように。
 そうこうするうちに、窓の外に目を光らせていた母は、家の前の通りに警察の黒塗りの車が停まったのに気づいた。たちまち、そこかしこから警官たちがまるでヤモリのように現れた。一瞬のちには警察が戸口にたちはだかり、家のドアを開けるよう命じていた。
 警視は自信たっぷりに家に踏み込んだ。明らかな嫌疑があり、この家で何らかの証拠が見つかると確信していたのだろう。(中略)・・・
 捜索はあとひと部屋を残すのみとなった。「それは娘の部屋です。病気で寝ているんです」と母はスペイン語で懇願した。姉が寝込んでいたにもかかわらず、彼らは一瞬もためらわずにその部屋に立ち入った。
 すると突然、警官の一人が、姉のベッドの横に置かれていたナイトテーブルの抽斗に何かを見つけ、上司を呼んだ。警官は足早に近づいた。母は恐怖に駆られた。そして疑念が頭のなかを駆け巡った。ひとつ残らず集めたと思ったのに、まだ残っていたのだろうか。何か書類を忘れていたのだろうか。もう頭が真っ白だった。母は娘のことを哀れむような目で見つめた。
 「大丈夫よママ、歌詞だから(ラシヤイ・アマ、カンタク・デイラ)」と姉が、病人の弱々しい声でささやいた。警視は動揺した。そして娘は何と言ったのかと訊ねた。
 「熱があるようです。水がほしいと」と母はスペイン語で伝えた。
 警察は何も見つけられないまま立ち去った。
 あの暗黒の年月に、疎外され、身を潜めるようにして生き延びていた言語が、母と姉をあの苦境から救った。彼女たちは自分の身を守るために、古い言語を使った。それが今、蝶を捕まえに行ったあの二人の女の子は、同じ言語を遊びのなかで使っている。》
 二人の女の子とは、ウリベが知人の映画監督を故郷オンダロアに案内したとき出会った地元の子どもたちである。
 2010年9月5日、ETAはビデオの声明を出して、武装闘争の停止を決めたと発表し、1年後には武装闘争を最終的に放棄すると宣言した。
 『ビルバオーニューヨークービルバオ』には、美しく、ほほえましい逸話も随所に散りばめられている。ニューヨークに向かうために、ウリベが搭乗した旅客機はビルバオを飛び立つと、一度ヴィスケ湾に出たあと旋回して内陸に航路をとり、ゲルニカ、オンダロア、ムトリクといった街の上空を通過する。ウリベは自分が新聞に書いたコラムを思い出す。
 「2005年の秋、僕は『聖ヒエロニムス』と題したコラムを書いた。そこで僕は、十代の頃、サン・ヘロニモ地区〔オンダロアとムトリクの間の土地〕の巡礼祭に両親と行ったときのことを綴った。(中略)・・・いきさつはこうだ。僕はそのとき、カシアノという盲人のアコーデオン弾きが地区の広場で演奏するところを見るために両親と出かけていった。すると入口のところで、他の男の子たちと同様、トランプのカードを一枚手渡された。トランプは二組あって、男の子には一組から、女の子にはもう一組から配られていた。若者たちは各自、自分と同じカードを持つ男女と踊ることになっていたのだ。何てことだろう!
 僕は恥ずかしさに耐えきれなくなって、その幸運のカードをどこか隅のほうに捨ててしまい、結局誰とも踊らなかった。
 僕はずっと、自分と同じカードを手にしたまま、待ちぼうけを食わされた女の子は誰だったのだろう、と思っていた。彼女はその後、恋人を見つけることができたのだろうか、それとも今もまだ、カードの持ち主が現れるのを待ち続けているのだろうか、と。
 それがコラムの内容だった。
 記事は2005年の秋に掲載された。その冬のある夜、ネレアが僕のところにやってきて言った。「サン・ヘロニモのお祭りで、あなたと同じカードを持っていたのはわたしよ」
 それ以来、僕らはずっと一緒だ。》
 ウリベはニューヨークに着くと、入国管理の質問票に、アメリカ合衆国での滞在先として、NY10019、ニューヨーク市コロンバス・サークルのカルメンチュ・パスクアルの住所を書く。そこはニューヨークに来たときいつも泊めてもらう家なのだ。
 カルメンチュは14歳でバスクを離れてニューヨークへやってきたのだが、彼女を迎えてくれたのはデザイナーの二人の叔母だった。彼女たちは、バスク自治州政府の初代首班で、内戦の最後の時期にニューヨークへ亡命したホセ・アントニオ・アギーレのスーツを仕立てたという人たちだった。カルメンチュはその時からニューヨークに住んでいて、翻訳を生業にしている。
 《彼女はプロの翻訳家だ。引退したらサンセバスチィアンに帰りたいの、と彼女は僕に言った。
 というのも、ニューヨークに住んでいても、故郷のことが忘れられないからだ。何か勘違いすると、「このところ、イガラブル家のマルティナの驢馬みたいな調子なの。荷車を引きどうしで」とよく言っていた。
 カルメンチュはサンセバスティアンに戻ったら、長年の夢を実現したいと思っている。バスク語を勉強するのだ。彼女のバスク語の知識はごくわずかだったが、なかでも「ゴシュア」という単語をよく使った。その言葉だけを、彼女はしっかりと記憶していた。彼女の考えでは、それが意味することこそが人生でもっとも大切なことだった。「甘美」や「優しさ」、そして「喜び」が。》(金子美奈訳)
 樹や魚の鱗に刻まれた年輪のように、バスクの人たちも歳月を重ねた。キルメン・ウリベの世代には、「ゴシュア」という言葉が象徴する、融和と共生を求める気持が確実に育っているように見える。『ビルバオーニューヨークービルバオ』がその何よりの証拠である。
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by monsieurk | 2013-02-09 22:30 | | Trackback | Comments(0)