フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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<   2013年 03月 ( 10 )   > この月の画像一覧

ピカソとプレヴェール

 画家のパブロ・ピカソ、写真家アンドレ・ヴィレール、そして詩人のジャック・プレヴェールが共同して制作した詩画集に『昼間(Diurnes)』(1962年)がある。diurneとは「夜の(nocturne)」に対する「昼間の」を意味する形容詞である。
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 プレヴェールが若い写真家のヴィレールを知ったのはピカソの紹介だった。ヴィレールは重いカルシュウム欠乏症を患い、5年もの間、南フランス、コート・ダジュールの避寒地ヴァロリスで入院生活を余儀なくされた。そして幸い快癒したとき、ピカソは新品のローライフレックスを贈り、ヴィレールが写真家として成功するきったけをつくったのである。
 ヴィレールはピカソの素晴らしい肖像写真を幾枚も撮り、ピカソはこれにテクストを寄せてくれるようにプレヴェールに頼んだ。こうして生まれたのが三人の共作になる最初のアルバム『ピカソの肖像』だった。これは1959年5月に、ミラノのミュジアーニ書店から出版された。
 3年後、画家と写真家と詩人は二作目のアルバムをつくり、パリ7区リュニヴェルシテ通り70番地で画廊を経営するベルグリューン(Heinz Berggruen)が刊行した。ベルグリューンはドイツ生まれのユダヤ人で、ヒトラーが政権を握った直後にパリへ来て画廊を開き、ピカソをはじめ多くの現代画家と親交をもった。彼は版画家浜口陽三の才能を見抜いて世に出した人物としても知られている。
 誌画集のタイトルを考えついたのはプレヴェールで、ヴィレールは、「みなは夜についてはもううんざりしていたからだ」(『ヴァロリスのピカソ』)と述べている。これは陽光を愛するピカソを大いに喜ばせた。画家と写真家が協同した30点の作品は、紙やリノリュウムを素材にしたデクパージュ(切り抜き)を、写真家が撮った、風景、顔、樹木などの写真と重ねあわせたコラージュや、さらにそれをもう一度写真に撮ったものなどで、それにプレヴェールがテクストを書いた。テクストの前半を訳してみる――


                        昼間

d0238372_8475531.jpg もしこの世に「世界」の七不思議しかないのなら、それをわざわざ見に行く必要はないだろう。
 
 海について、女性たちについて、あるいは太陽について語らなくても、石ころ一つ一つにも物語がある。個々の雑木には手つかずの森が、どの廃墟にもその万里の長城や、エトルタの断崖があり、そして道の小さな曲がり角には空中庭園がある。

 人間の梯子はごく大雑把な道具で、男たちのなかの一番の禿げ頭の上のシラミの一番醜い奴だって、何ものかだ。

 砂の極小の粒さえ自然の偉大さである。でも自然は誇大妄想ではない。それは自然だ。

 そして自然はその緑の部屋のなかでは、写真家と画家に力を貸し、さまざまな装飾をまとった肖像、その色彩の反響のすべて、自然の演じるバレエのすべての登場人物が大きく育つのを助ける。

 昼間・・・

 写真家の名前はアンドレ・ヴィレール。彼がつくった背景では、朝日がゴルフ・ジュアン〔ヴァロリスがある地域〕で伸びをして、カマレ〔ブルターニュの場所〕の娘たちと一緒に沈む前に、ヴァロリスとカリフォルニアを横断する。

 アナーキーな建築家は、石膏、米粒、小石、水鏡、地平線、雲、荷造りの箱、大聖堂のガラス、陸地、海、野ブドウ、伸び放題の草、アスパラガス、包帯、カーテン、雷に打たれたオリーブの木でオブジェをつくる。

 振付師はパブロ・ピカソ、音楽家でもある。

 彼は登場人物を、光と、ハサミと、ほかの場合同様、鉛筆と、筆と、手慣れた道具である仕事師の手、傑作を生み出す手とでつくった。
 そして彼が歪曲したり、変形したり、そのまま描いたりしても、自然は恨みはしない。
 自然は自然、秘密の自然、開かれた自然、自然のままの自然。
 それは私生児だ。

 昼間・・・

 彼は、馬に乗った女が歌った曲、男が小鳥から、猫どもから、魔術師が闘牛から取り返した曲を奏でた。
 彼は、既婚女性を美しすぎもせず、美しくなさすぎもせず、そのままの美しさで描いた。

 そしてこの小さな牧神たち、この小妖精たち。彼らの名前を知りたいというなら、彼らはイックとニュック、あるいはウルビとトルビという。彼らがそこにいるのは、良いことは、郷愁に対するのと同じほど絶望に対するアレルギーに思えるからだ。そして彼らは何ごとにも一言意見を述べる。

          ウルビd0238372_8474251.jpg

 おそらく、私はそうありうる者だ。

          トルビ

 多分、わたしはそれを疑う者だ。

          イック

 太陽の下には何も新しいらものはない。

          ニュック

 でも中では?

 ・・・・・
 ・・・・・

 こうしてプレヴェールお得意の、地口や洒落、語呂合わせを駆使して風刺のきいた会話が繰り広げられる。このテクストがピカソとヴィレールの作品と相まって、シュルレアリスム風味が横溢する奇跡の一冊を出現させたのだった。1962年に1000限定で出版されたアルバムは、ロンドンの有名なサザビーやパリの競売場オテル・ドゥルオにときどき出品されるが、驚くほどの高額で落札される。
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by monsieurk | 2013-03-28 23:30 | | Trackback | Comments(0)

ブラックとプレヴェール

 ジョルジュ・ブラックの18点の絵に、ジャック・プレヴェールの詩を添えた詩画集『ヴァランジュヴィル(Varengeville)』を入手した。刊行は1968年、マーグ出版である。
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 ブラックは1882年にパリ近郊で生まれ、8歳のとき一家は港町ル・アーヴルに移り、同時にル・アーヴルの夜間の美術学校で絵を学んだ。そして1929年にはル・アーヴルの東60キロにあるヴァランジュヴィルにアトリエを構え、夏休みなどをこの英仏海峡に臨む小さな街ですごした。彼は1963年パリで亡くなったが、いまはこの土地の海辺の墓地で眠っている。
d0238372_141662.jpg ブラックとプレヴェールの出会いは、ブラックがピカソと並んでキュビスムを牽引した時代にさかのぼる。プレヴェールは地中海沿岸生まれのピカソやホアン・ミロの、奔放で色彩豊かな絵とは異なり、北の海に親しんだブラックの、理知的で抑制のきいた作品とその人柄にも惹かれていた。ブラックが亡くなって5年後、マーグからヴァランジュヴィルを題材にした作品集に詩を寄せるよう依頼されたとき、彼は一も二もなくそれをこれ引き受けたのだった。

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  ブラック
  彼はなにを考えていたのか
  いつのことを夢見ていたのか
  海を前に
  この裸のモデルを前にして

  よごれた暗い雲 
  陽に照らされた砂浜
  犂〔すき〕の骨組み
  大地の漂流物
  そして舟の残骸
  海の瓦礫

  そしてカモメがいる海
  そして麦畑のなかの鳥
  一つ一つの小さなカンバスは大きな絵だ
  海全体がそのなかにある
  近く遠く
  いつもずっと遠くに
  いつでもすぐ近くに

  海は絵と同様の
  秘密社会で その色を告げることは決してない
  ブラックは色と戯れることはない
  彼は戯れ好きではない
  彼は色を翻訳する
  色を光景にあたえる 厳粛に
  力強く
  独特の仕方で
  ・・・・
  ・・・・
  ヴァランジュヴィルではブラックは親戚づきあいで、海に向かって
  兄弟として語りかける
  海も同じように答える
  それはまるで自分を俺と呼び相手をお前と呼び
  知らないことを何でも知っているという子どもたちのようだ

  蜃気楼の宮殿 驚異の絵
  そこには人びとがウルトラマリーンという灰色の雀がいる

  砂に伏したひっくり返った舟は
  太陽に背を向けている女のように美しい

  大地は牛たちの床
  空は信心深い天井
  大地それはわたしのブルジョア女
  海は喜びお恐怖のそして悩みのわたしの娘
  そう船乗りの歌はいう
  でも海が風でわたしをだますなら
  そんなことはどうでもいい
  海が荒れているときでさえ
  それはいつも美しい

  ブラック
  海
  もし辞書を信じるならば
  海は塩辛い水の広大な集積
  そしてブラックは画家 語彙では彼のそばには
  粗忽者、おっちょこちょい、あるいは繋がれた犬がある
  それは奇妙な言い草だ
  ブラックはブラック
  ただそれだけ

 ブラックはいまもブラックいつもブラック
 海はいつも海
 海は彼に絵など期待しない
 彼は海に美しさなど期待しない
 絵のタロットカードではブラックは騎士
 本当の力とはただ美と生気を生み出すことだと心得ている

                        ジャック・プレヴェール

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by monsieurk | 2013-03-25 20:30 | | Trackback | Comments(0)

エピクロスの神(5)

 ディオゲネス・ラエルティオスは、エピクロスの死を次のように伝えている。
 「エピクロスは、第127オリュンピア暦年の第2年目、ピュタラトスがアルコン職のとき、72歳で歿した。かれの学校を受け継いだのは、アゲモルトスの子、ミュティレネのヘルマルコスである。このヘルマルコスもその手紙のなかで言っているように、エピクロスは、2週間の病気ののち、膀胱結石で死んだ。ヘルミポスによると、かれはそのとき、熱い湯の満ちた青銅づくりの浴槽に入り、強い葡萄酒をもってこさせてこれを飲み干し、友人たちに自分の教えを記憶するようにと勧めて死んだ、とのことである。」(岩崎允胤訳)
 カトリック教会は長年にわたって警戒をおこたらなかったが、エピクロスの思想は、甦ったルクレティウスの詩篇とともに、イタリアの人文主義者や芸術家たちに衝撃をもってむかえられた。サンドロ・ボッティチェッリの代表作《春(La Primavera)》(1482年頃)は、それを示す端的な例である。
 絵の中心にはヴィーナスがおり、その周りにいるのは古代の神々である。神々が見せるさまざまな動きは、春の到来による大地の復活をあらわしていて、ルクレティウスの詩句の再現にほかならない。
 「春はヴィーナスとともに訪れ、それに先立ちヴィーナスの
  翼ある先駆者がやってき、西風の足跡には
  母なる女神フローラがあらかじめ道いっぱいに、
  彼らのため妙なる色と香とをまきちらす。」(『物の本質について』5卷、737-740行)

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 影響はイタリアだけに留まらなかった。モンテーニュは『エセー』(初版は1580年)で、ルクレティウスをたびたび引用し、その英訳(1603年)を読んだシェイクスピアは、『ロメオとジュリエット』で、唯物論への共感を披露している。シェイクスピアの専門家であるグリーンブラッドによると、シェイクスピアはラテン語に堪能で、活字本として出版されたルクレティウスを直接読んだ可能性があるという。
 19世紀になると、さらに多くの人たちがエピクロスの思想に関心を寄せた。若きカール・マルクスは、「デモクリトスとエピクロスとの自然哲学の差異」という論文を書いて、イエーナ大学に提出して博士号を獲得した。この論文は失われてしまい、現在は準備のためのノート数冊が残されている(『マルクス=エンゲルス全集』第40巻、大月書店)。マルクスはヘーゲルの影響のもとで、唯物論の立場からエピクロスに関心をもったのだった。
 「神は死んだ」と宣言したニーチェも、ライプチヒ大学在学中にディオゲネスやルクレティウスを精読し、「ディオゲネス・ラエルティオスの資料について」という論文を書き、古典文献学の新鋭として一躍脚光をあびた。そしてこの仕事をきっかけに、大学を出る前に、スイスのバーゼル大学から教授として招かれたのである。
 1883年の夏、友人ペーター・ガストに宛てた手紙で、このころを回想している。
 「むかしデモクリトスとエピクロスの研究に没頭していたころの思い出を一筆。――このあたりは文献学者にとっては、いまなお汲めどもつきせぬ研究の世界です!
 君も知るように、(発掘された) ヘルクラネウムの文庫には、時間をかけ、苦心を重ねて、ようやく読めるようなパピルスがあります。それは過去の一エピキュリアンが持っていた文庫なのです。だからエピクロスのほんものの著作が発見される希望があるわけです!
 たとえばその中の一片は、ゴンベルツによって解読されました(ウィーン学士院紀要所収)。それは『意思の自由』を論じたもので、その結論は(たぶん)エピクロスは運命論のはげしい敵対者だが、同時に――決定論者ということでしょう。」(氷上英廣「ニーチェとエピクロス(2)」、岩波新書『ニーチェの顔』所収)
 氷上英廣は『ツァラトゥストラはこう言った』の翻訳で知られる優れたニーチェ学者で、「ニーチェとエピクロス」は、ニーチェが生涯繰りかえし思索の俎上にのせたエピクロスを論じたものである。彼は文中で、ニーチェの『華やぐ知恵』のある断章を引用している。
 「エピクロス。――そうだ。私はエピクロスの人物をおそらく誰とも違ったふうに風に感じていて、それを誇りに思っている。エピクロスについて、何を聞き、何を読んでも、わたしはそこに古代の午後の幸福を味わうのである。・・・エピクロスの眼は、日を浴びた岸辺の岩群のかなたに、広大にひろがる白く光った海をみている。大小の禽獣はこの日光の中で嬉戯し、その日光のように、またかの眼と同じように、悠々自適している。だがこうした幸福を編みだすことのできるのは、不断に苦悩している者だけだ。」(同) ニーチェが思い描く幸福な光景は、ステファヌ・マラルメの詩「牧神の午後」に通じる牧歌的理想郷「アルカディア」を思わせる。
 ニーチェは代々プロテスタントの牧師を出した家系につらなる者だが、「キリスト教によって高度に発展せしめられた誠実の感覚が、すべてのキリスト教的な世界解釈と歴史解釈に対して嘔吐を覚える」(『力への意志』)。つまり上の文中の、「こうした幸福を編みだすことのできるのは、不断に苦悩している者だけだ」とは、彼自身のことにほかならない。
 ニーチェは「神は死んだ」と宣言したが、そこには若いときに知ったエピクロスをめぐる葛藤があったのである。彼はその上でこう断言するにいたる。
 「科学は同時に死に関するあらゆる観念、あらゆる彼岸の生命を否定した。そのことによってわれわれの関心事はひとつ減った。すなわち『死後』はもはやわれわれとは関係がなくなった。これは言いようのない恩恵であって、恩恵としてあまねく感得されるには、まだあまりに新しすぎるものなのである。――ここにあらためてエピクロスが凱歌を上げる!」(『曙光』) 
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by monsieurk | 2013-03-22 20:25 | | Trackback | Comments(0)

エピクロスの神(4)

 エピクロスは生涯に多くの著作を残したが、そのほとんどは失われてしまった。ただ、紀元3世紀ごろのディオゲネス・ラエルティオス(Diogenes Laertios)は、その『著名な哲学者たちの生涯と意見』の第10巻すべてを使って、エピクロスの生涯を述べた上で、彼の三つの書簡と、断片40条を集めた「主要説教」を紹介している。後世の人たちは、これによってエピクロスの思想を知ることができたのである。
 エピクロスはサモス島に移住していたアテナイ人の父母のもとで生まれた。父は子どもに読み書きを教える先生だったが、当時のギリシアで、教師は女性や家内奴隷と同じく社会的な地位が低く、経済的にも恵まれなかった。
 エピクロスは12歳、ないし14歳のときに哲学の勉強をはじめたとされる。その後、成年とされる18歳でサモスからアテナイへ移ったが、2年間の兵役義務をはたすためと考えられる。これは紀元前323年のことで、この年の夏、アレクサンドロスが遠征の途上バビュロンで没し、これを機にアテナイをはじめギリシア各地で武力蜂起がはじまった。しかしこの反マケドニア運動は1年足らずで弾圧され、マケドニアの軍政がさらに厳しさを増す結果に終わった。この間のエピクロスの動向は伝わっていない。
 ディオゲネスなどによると、エピクロスは35歳のころ、わずかな金で小さな土地を買って家族と住み、そこに多くの弟子を集めた。この集まりは「庭園学校」と呼ばれ、彼らは平静な心境を求めて哲学研究に努めたとされる。
 ディオゲネスの第10巻におさめられている3つの手紙、「ヘロドトス宛ての手紙」、「ピュトクレス宛ての手紙」(エピクロスの真作か否かについて議論がある)、「メノイケウス宛ての手紙」は、エピクロスの思想をよく伝えている。「ヘロドトス宛ての手紙」では、まず宇宙とその構成要素について次のように述べる。
 「(a)まず第一には、有らぬもの(ト・メー・オン)からは何ものも生じない、ということである。なぜなら、もしそうでないとすれば、何でもが何からでも任意に生じるということになって、種子は全く必要でないことになるだろうから。(b)もしまた、ものが見えなくなったとき、それはそのものが消滅して有らぬものに帰した(全くなくなった)とすれば、あらゆる事物はとうになくなってしまっているはずである。なぜなら、それが分解されていったさきのものは、有るものではないのだから。(c)さらにまた、全宇宙は、これまでもつねに、今あるとおりに有ったし、これからもつねに、そのとおり有ろう。(中略) 全宇宙は物体と場所とである。」(岩崎允胤訳)
 エピクロスが説くのは唯物論の基本命題である。何ものも「有らぬもの」からは生まれず、「有らぬもの」へと滅びることもない(nil e nilo, nil in nilum)。「有るもの・物体」は恒にあるという、物体とその運動の不滅性の主張である。そして物体についてこう定義する。
 「物体のうち、或るものは合成体であり、他のものは合成体をつくる要素である。そして、これらの要素は、――あらゆるものが消失して有らぬものに帰すべきではなく、かえって、合成体の分解のさいには、或る強固なものが残存すべきであるからには、――不可分(アトマ)であり、不転化である、つまり、それらは、本性上充実しており、どんなものへも分解されてゆきようがないのである。したがって、根本原理は、不可分な物体的な実在(原子)でなければならぬ。」(同)
 これはデモクリトスの原子論をうけついだものだが、エピクロスはデモクリトスの考えを発展させ、原子(アトム)に固有の重さをあたえた。原子はこの重さによって落下し、自己運動をする。さらに原子は落下する途中で、まったく定まらない時と場所で――つまり偶然に――わずかに方向がずれる(グリーンブラットが強調するswerve)。この考えは原子の運動に偶然という契機を導入したもので、事物の運動は必然と偶然の統一であるとした。そしてここから自由意志も生じる。
 エピクロスはこの原理を魂(プシュケー)にも当てはめる。魂はアトムから成る物体であって、人間という集合体全体に行きわたっており、身体ともよく共感している。もし魂が身体につつまれていなければ、魂は感覚をもつことはないだろう。逆に、魂が身体を離れ去ったときには、身体は感覚をもたない。魂と身体は隣接し、互いに共感しあっているから、身体にも感覚という付帯的能力をあたえることになったのである。
 こうしたエピクロスの思想から、「メノイケウス宛ての手紙」に述べられるような死生観が生まれることになる。
 「死はわれわれにとって何ものでもない、と考えることに慣れるべきである。というのは、善いものも悪いものもすべて感覚に属するが、死は感覚の欠如だからである。それゆえ、死がわれわれにとって何ものでもないことを正しく認識すれば、その認識はこの可死的な生を、かえって楽しいものとしてくれるのである。というのは、その認識は、この生にたいして限りない時間を付け加えるのではなく、不死へのむなしい願いを取り除いてくれるからである。(中略) 死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとってなにものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きているものにも、すでに死んだものにも関わりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものにはもはや存しないからである。」(同)
 当時のローマ帝国内にはさまざまな信仰があり、なかには悪人や救われない者が死後において地獄の刑罰をうけるといった教義もおこなわれていた。エピクロスはこうした妄説を一蹴するものであったが、新たに登場したキリスト教は、この死後という観念を取り上げて、永遠の脱地獄という不安と恐怖を強調して宣教に利用した。これは死が人間にとって最終的なものであるという考え以上に、人びとの心を激しく揺さぶった。しかしデモクリトス以来の原子論をうけついだエピクロスにすれば、「無からは何もの生じない(ex nihilo nihil)」のであって、神による「無からの創造(ex nihilo creatio)」という観念的主張は虚妄でしかない。
 「天界・気象界の諸事象の起こるのは、普通には、或る存在〔神〕が、不死性とともに完全無欠な至福性を有するものでありながら、しかも同時に、公的な任務をもち、これらの事象を現に主宰しているためか、あるいは、これまで主宰してきたためである、と考えられているが、そのように考えるべきではない。というのは、骨折り仕事や気遣いや怒りや恩恵などは、至福性と合致せず、むしろ、弱さや恐怖や隣人への依存などの存するところに生じることだからである。」(同)
 つまりエピクロスの神は、それ自体が至福の存在であるという本性上、万象を創造することには無関心であり、ましてや人間の生死、幸不幸などには見向きもしない存在なのである。
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by monsieurk | 2013-03-19 20:30 | | Trackback | Comments(0)

エピクロスの神(3)

 1417年の恐らくは1月、ポッジョ・ブラッチョリーニはドイツの修道院を訪れた。それがどこだったかをポッジョは明らかにしていないが、研究者の間では、ベネディクト会のフルダ(Fulda)修道院だった可能性が高いとされている。8世紀に、ローヌ川とフォーゲスベルク山地の間にひろがる中部ドイツに建設され、裕福で代々学問を重んじる修道院だった。だがこの時期は衰退しつつあった。
 グリーンブラットは、ポッジョが訪れたのがフルダ修道院だったとすれば、そのときの様子は以下のようだったろうと想像している。
 「主任司書にアーチ型天井の広々とした部屋に案内され、司書の机に鎖でつながれた一冊の本を見せられたとき、ポッジョの胸は高鳴ったことだろう。その本は蔵書目録だった。ポッジョはページをめくっては熱心に目を走らせ、閲覧を希望する本を次々に指さした――図書館における沈黙の規則は厳格に守られていた。(中略)
 ポッジョの発見は、最も小さな発見を含めて、どれもきわめて重要性の高いものだった――何百年という長い歳月を経て出現したのだから、すべてが奇跡的な発見のように思われた――しかし、それらの発見はすべて、(現代のわれわれの観点からするとそうでもないのだが)あっという間に影が薄くなってしまった。それまで見つけた他のどの作品よりも、もっとずっと古い作品が見つかったからである。その写本の一つが、紀元前50年頃に書かれた長い作品で、作者は詩人で哲学者のティトゥス・ルクレティウス・カルスという人だった。その題名『デ・レルム・ナトゥラ(物の本質について)』は、ラバヌス・マウルスの有名な百科全書『デ・レルム・ナトゥラ』に驚くほどよく似ていた。しかし、修道士が書いたほうの作品は退屈で月並みな内容だったのに対して、ルクレティウスの作品は危険なまでに過激だった。(中略)・・・ポッジョにはすぐにわかっただろう。ルクレティウスのラテン語の詩は、びっくりするほど美しいと。そしてポッジュは、連れてきた筆写人に書き写すように命じ、すぐさまこの作品を修道院から解放したのだった。この本はその後、ポッジョの生きる世界をまるごと解体するのに一役買うことになるのだが、そんな作品を自分が世界に広めようとしているという予感がポッジョ自身にあったかどうか、定かではない。」(同書、65頁―67頁)
 このとき筆写されたのは7400行からなる六歩格(hexameter)のラテン詩で、6巻に分かれていた。そして詩全体はギリシアの哲学者エピクロスが論じた世界をうたっていたのである。このときポッジョによって発見された本は残されていないが、彼はニッコロ・ニッコリに写本を送り、ニッコリはそれをもとに美しい筆致でさらに筆写本をつくった。ニッコリは名筆家で、イタリック書体の創設者としても知られている。ニッコリの写本は50冊以上にのぼり、識者のあいだで珍重された。ポッジョはニッコリが彼のオリジナルの写本をなかなか返してくれないと嘆いているが、その後、ポッジョが送った写本は発見されて、いまはライデン大学に保存されている。
 ルクレティウスの生涯については、今日ほとんど知られていない。生年は紀元前94年、没年は紀元前54ないし51年、もう少し長く生きたとすれば紀元前40年代という説もある。そして彼はこの長篇詩を紀元前1世紀に書いたとされる。それというのも初期キリスト教がルクレティウスを敵視して、彼の生と死を貶めようとしていたからである。
 この事実からも分かる通り、彼の名と作品は同時代の人たちには注目されていた。キケロは紀元前54年2月11日付けの弟クィントゥスに宛てた手紙で、「ルクレティウスの詩は、君が手紙で書いていたように、素晴らしい才能に溢れているが、それでいて非常に芸術的だ」と述べている。またローマ最大の詩人ウェルギリウスは『田園詩』のなかで、「事物の原因を見つけることができた者は幸いである。そしてあらゆる恐怖と容赦ない運命と貪婪なアケロン(冥府の川)の轟音を踏みつけることができた者は幸いである」と書いている。これは明らかにルクレティウスを指しているが、ウェルギリウスは信仰心が篤く、その代表作『アエネイス』は、まさにルクレティウスの思想に対抗するために書かれたものであった。
 これらに加えて、ルクレティウスの『物の本質について』が当時広く読まれていた証拠が、1750年になって見つかった。ナポリ湾に臨むレジナは、紀元79年8月24日に起きたヴェスヴィオス火山の大爆発で、ポンペイなどとともに火山灰に埋まったが、この地にあった古代都市ヘルクラネウムが見つかり、ある別荘跡から黒焦げになった多くのパピルスの巻物が発掘された。これらを慎重に復元してみると、その一つが『物の本質について』であることが分かったのである。
 6巻に分かれた詩はきわめて綿密な構想のもとに書かれていて、宇宙の構成要素である原子と虚空、原子による世界の現象の説明、霊魂の本質と死すべき運命などをテーマにしつつ、物質世界のあり方、人間社会の発展、性の危うさと快楽、さらに死について説いている。とりわけ異彩を放つのは、そこに述べられている神に関する記述である。その点をグリーンブラットは、次のように要約している。
 「ルクレティウスがもたらした疫病の一つの簡潔な名前――彼の詩がふたたび読まれはじめたとき、たびたび向けられた非難の言葉――は、無神論である。だが、じつはルクレティウスは無神論者ではなかった。神々は存在すると信じていた。しかし、神々は神々であるがゆえに、人間や人間のすることにはまったく関心がない、とも信じていた。神は神々であるがゆえに、永遠の生命と平和を享受し、その生命と平和が苦悩や不安によって損なわれることはなく、人間の行為など神にとってはどうでもよいことだ、とルクレティウスは思っていた。(中略)
 ・・・もしも神々の荘厳な美しさに惹かれて神殿を訪れることにしたとしても、「平和と平穏のうち」に暮らす神々の姿を夢想するだけなら、害にはならないだろう(6巻78行)。しかし、これらの神々を怒らせたり、なだめたりすることができるなどとは一瞬たりとも考えてはならない。行列祈祷、動物の生け贄、熱狂的な踊り、太鼓やシンバルや笛、大量の真っ白なバラの花びら、去勢された神官、幼子の神の彫像。このような崇拝儀式は、それなりに荘厳で感動的なものではあるが、すべてまったく無意味である。なぜなら、そうした儀式によって彼らが触れようとしている神々は、われわれの世界から完全に切り離された、別の世界にいるからである。」(同書、228頁―229頁)
 ルクレティウスは本質的には無神論者であったといえる。そして彼はこの考えを古代ギリシアの哲学者、エピクロスから得たのである。彼は第1巻の冒頭近くで、エピクロスを、こう讃えている。
 「人間の生活が重苦しい迷信によって押しひしがれて、
  見るも無残に地上に倒れ横たわり、
  その迷信は空の領域から頭をのぞかせて
  死すべき人間らをその怖ろしい姿で上からおびやかしていた時、
  ひとりのギリシア人(エピクロス)がはじめてこれに向かって敢然と
  死すべき者の眼を上げ、はじめてこれに立ち向かったのである。
  神々の物語も電光も、威圧的な空の轟も
  彼をおさえなかった。かえってそれだけいっそう、
  彼のはげしい精神的勇気をかりたてては、自然の門の
  かたい閂をはじめて打ちやぶることに向かわせた。
  そこで宗教がこんどは踏みつけられてくずおれた
  ・・・・・・
  これによってこんどは宗教的恐怖が足の下にふみしかれ、
  勝利は私たちを天にまで高めた。」(De rerum natura、第1巻、62-79行、藤沢令夫、岩田義一訳)
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by monsieurk | 2013-03-16 20:29 | | Trackback | Comments(0)

エピクロスの神(2)

 ルクレティウスの詩篇『物の本質について(De Rerum Natura)』の中心的テーマは、死の恐怖に関する深遠かつ癒しにみちた観想である。大学生グリーンブラットが、これに惹かれた背景には個人的事情があった。それは彼の母が、自分は早死にする運命にあると思い込んでいたことだった。
 母親は彼が生まれる以前に、妹を咽頭炎のために16歳で亡くしていた。そして母親自身も心臓に病いをかかえていて、ときどき激しい動悸に襲われ、絶えず死の恐怖に脅えていた。彼女が89歳まで長生きしたことを考えると、これは恐れている死のリハーサルであるとともに、周囲の人の注意を引きつけ、愛を求める方法だったかもしれない。しかし幼いグリーンブラットにとっては、母の死が切迫した現実に思え、死は彼にとって強迫観念にまでなったという。
 「私が『物の本質について』に初めて出会ったとき、母は50代だった。このときすでに、母の死をおそれる私の気持ちは、死の恐怖に取りつかれた母が人生の大半を損なってしまった――そして私自身の人生には影を投げかけた――という痛ましい認識と絡み合っていた。だから、ルクレティウスの次の言葉は怖ろしいほどの明瞭さで心に響いた。「死はわれわれにとってなにものでもない」と、ルクレティウスは書いている。死の不安にとらわれて一生を送るのはまったく愚かなことである。それは人生を楽しむことなく、未完のままに終える確実な方法である、と。ルクレティウスは、まだ私が心の中でさえ言葉にするのをためらっていた考えをも明言していた。他者に死の不安を押しつけるのは、ごまかしであり、残酷なことである、と。
 私の場合、それがこの詩への入り口であり、私の心をとらえた力の直接の源だった。」(同書、11頁―12頁)
 グリーンブラットが愛し、専門とするのはシェイクスピアだが、彼はイギリスの大劇作家を広くルネサンスの文化運動の一環としてとらえ、「美と愉悦の享受というルクレティウスの考えをもっともよく体現し、それを理にかなった価値ある人間関係探究として推し進めたのが、ルネサンス文化である」(同書、16頁)という。
 原著のメイン・タイトルである“Swerve”とは「逸脱」の意味である。ルクレティウスは、万物はそれを構成する原子の運動の「逸脱・ずれ」(declinatio)の結果生じるとしたが、グリーンブラットはこれを受けて、ルネサンスの運動をあえてキリスト教の教えからの「逸脱」ととらえ、この「逸脱」を促した大きなきっかけが、イタリア人ポッジョ・ブラッチョリーニ(Poggio Bracciolini、 1380年―1459年)による『物の本質について』の再発見だとする。
 「この再発見の物語の長所は、近代の生活と思想の起源となる文化的転換を指し示すのに用いられる言葉〈古代の再生と復活〉を地で行くところである。もちろん、たった一つの詩が、すべての知的、道徳的、社会的な転換をもたらしたわけではない――そんな芸術作品は一つもない。まして何百年もの間、人前で自由かつ安全に語ることのできなかった作品である。だが、まさにこの古代の書が、突然ふたたび姿をあらわし、一つの重要な変化をもたらしたのだ。」(同書、19頁) 本のサブ・タイトル“ How the world became modern”「いかの世界は近代となったか」とは、この逸脱・転換を指している。
 ポッジョ・ブラッチョリーニは、ボニファティウス9世以下7人の法王の許で、法王庁の公文書書記官(スクリプトール)として働いた人物である。彼はその後、法王の秘書となり、間近にいて発言を書きとめ、その意思決定を記録し、優雅なラテン語に外交文書に認める役をはたした。
 『エンサイクロペディア・ブリタニカ』によれば、ポッジョ・ブラッチョリーニは、1416年の春に、コンスタンツで開催される公会議に出席する法王ヨハネス23世に随行して北ドイツまで行き、会議の合間を利用してバーデンの温泉を訪れた。彼はイタリアの友人ニッコロ・ニッコリに宛てた手紙で、温泉での見聞を伝えている。ここでは男と女はわずかに隔てられた温泉で、身体のごく一部を覆っただけで湯に入るとして、「エピキュリアンの多くの学校が、ここバーデンでは出来上がっていると考えてよいのではないか。こここそが最初の人間がつくられた場所であり、ヘブライ人が快楽の園と呼んだところに違いないと私は思う。もし快楽が人を幸福にするのならば、この場所は至福を増進するのに必要なすべてのものを間違いなくそなえている」と書いている。
 ポッジョはエピキュリアン(このころは快楽主義と解釈されて、キリスト教はこれを抑圧していた)の生き方が、イタリアを遠く離れたドイツでは生きていると考えたのである。
 翌年1417年の冬、彼が秘書として仕えてきたヨハネス23世は、コンスタンツ公会議で、「忌まわしくい見苦しい生活」で教会とキリスト教世界に不名誉をもたらしたと弾劾されて法王の地位を追われ、ハイデルベルク帝国の牢獄につながれてしまった。このためにポッジョ自身も職を失ったが、イタリアへ帰ることをせずに、この地にいるのを幸い未知の本を探すことをはじめたのである。
 この時期、人文主義者と呼ばれる人たちは残された古代ローマの古典を熟読し、競って行方不明の作品の探索に努めていた。彼らの探索のターゲットは各地にある古い修道院であった。イタリアの修道院はすでに徹底的に調べ尽くされ、フランス各地にも調査の手がのびていた。いまやスイスとドイツが残された未見の地であった。ポッジョは法王秘書という名誉ある地位を突然失ったが、はるばる北ドイツまで来た機会を利用して、埋もれた書物(羊皮紙に筆写されたもの)を探すことにしたのである。
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by monsieurk | 2013-03-13 20:30 | | Trackback | Comments(0)

エピクロスの神(1)

 これから何回か、ギリシャの哲学者エピクロス(Epikouros、紀元前341年―前270年)の神について考えてみることにする。
 発端はハーヴァード大学教授で、著名なシェイクスピア学者スティーヴン・グリーンブラットの『一四一七年、その一冊がすべてを変えた(Stephen Greenblatt:The SWERVE, How the World Became Modern)』(河野純治訳、柏書房、2012年12月)を読んだことである。
 これは15世紀の初め、ローマ法王の秘書として古典の写本の蒐集と翻訳にたずさわったポッジョ・ブラッチョリーニが、キリスト教の教えが支配的になって以後、長らく埋もれていた一冊の本を発見する物語である。この本とはルクレティウス(Titus Lecretius Carus、紀元前99年頃―紀元前55年)作の哲学詩『物の本質について(De rerum natura)』で、ルクレティウスはこのなかで、キリスト教支配のもとで忘れさせられたエピクロスの思想を美しい詩句にうたっていた。
 そもそもグリーンブラッドがルクレティウスに興味を持ったのには、偶然が作用していた。イエール大学に学んでいた彼は、ある年の夏休みを前に、大学生協に休みの間に読む本を探しに行った。生協の書店ではこの時期、在庫処分品をとんでもなく安い値段で売り出すからだった。そんな本が詰め込まれている箱をかきまわしていた彼は、奇妙なペーパーバックの表紙に出くわした。それはシュルレアリスムの画家マックス・エルンストの絵の一部で、地表のはるか上に出た三日月の下に、胴体のない二本の足があり、どうやら天上界での性行為らしき行いを描いたものだった。
 本はルクレティウスが2000年前に書いた『物の本質について』の散文訳で、10セントの値段がついていた。グリーンブラットは、これを購入したのは古代の物質観を知りたいという思いと同時に、表紙に惹かれたからだと正直に告白している。
 彼は読みはじめるとたちまち夢中になった。ルクレティウスの詩は、愛の女神、ヴィーナスへの賛歌からはじまっていた。以下をグリーンブラットの本から引用すると――
 「春になってヴィーナスが訪れると、雲は晴れ、空には光があふれ、全世界が狂おしい性的衝動で満たされる。

 女神よ、最初に空の鳥たちが、あなたの強力な槍に心臓を貫かれて、あなたの到来を告げる。次に野生の獣や牛の群れが、草生い茂る牧草地を跳ねるように越え、急流を泳ぎ渡る。まちがいなく、彼らはみな、あなたの魅力の虜となり、あなたの後を必死でついていくのだ。そしてあなたは、海、山、渓流、茂みに住む、ありとあらゆる生き物に魅惑の愛を注入して、子孫を繁殖させようとする熱い衝動を植えつける。

 冒頭部分の強烈さに不意を突かれた私は、その先を読みつづけた。ヴィーナスの膝を枕に眠るマルス――「けっして癒えることのない愛の傷に打ち負かされ、その美しい首をそらせて、あなたを見あげる」。平和への祈り。哲学者エピクロスの英知への賛辞。迷信的な恐れに対する断固たる非難。しかし、哲学上の基本原則に関する長い説明が始まったところで、きっと自分は興味を失うだろうと予想した。誰かに読めといわれたわけでもなく、ただ楽しみのための読書だったし、すでに私は10セントの価値をはるかに超えるものを手にしていた。ところが驚いたことに、その後も私はわくわくしながら読みつづけたのである。」(同書、7頁―8頁)
 ルクレティウスの『物の本質について』は、樋口勝彦訳の岩波文庫青版はいま絶版で、アマゾンでは古本になんと12,600円の値がついている。一方名訳の誉れが高いCyril Bailey:“On the Nature of Things”(Oxford University Press)の電子版は396円で手に入る。そこでKindleにダウンロードして読んでいる。(続)
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by monsieurk | 2013-03-10 18:05 | | Trackback | Comments(0)

「牧神の午後」

 3月1日(2013年)の夜10時から、NHK・Eテレで放送された「日本舞踊×オーケストラ――伝統の競演』を観た。去年12月に東京文化会館での舞台を中継録画したものだが、放送された3つの演目のうち、ドビュッシーの「牧神の午後前奏曲」を、花柳寿輔と井上八千代が素舞で演じた舞台は抜群の出来栄えだった。舞台装置は千住博、音楽は大井剛史の指揮で、東京フィルハーモニー交響楽団が演奏した。
 この「牧神の午後前奏曲」は、ステファヌ・マラルメが1874年に発表した詩「牧神の午後(L’Après-midi d’un Faune)」に触発されたクロード・ドビュッシーが作曲し、初演は1894年12月22日である。演奏を聴きに来たマラルメも満足したといわれている。
 その後この作品はさらなる発展をとげる。今世紀初めパリなどで活躍した「バレエ・リュス(ロシア・バレエ)」の花形ダンサー、ヴァーツラフ・ニジンスキーが、曲にきわめて斬新な振付をほどこし、1912年5月から6月にかけてパリ・シャトレ劇場で上演されたのである。
 ニジンスキーのコリオグラフ(振付)では、主人公の牧神やニンフは、顔を横向きにして、手足を直角に折り曲げる形で動くことが多いが、彼はこの動作を、たまたま訪れたルーヴル美術館に展示されていた古代ギリシアの壺の絵から思いついたとされる。
 牧神(立方、振付)花柳寿輔、ニンフ(立方、振付)井上八千代の動きには、ニジンスキーのコリオグラフが二重写しになる場面もあったが、二人の素舞はきっちりと所作がきまり、ドビュッシーの音楽に乗って清新な「牧神の午後」を出現させた。

 ところでそもそもの元となった、ステファヌ・マラルメの詩篇「牧神の午後(半獣神の午後)」は、どんな内容をうたっているのか。翻訳をお目にかけることにする。なお、これは4点の版画をつけて、2010年に左右社から130部限定で出版したものだが、いまは手元に数部しか残っていない。

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             牧 神 の 午 後
                
               田園詩

            ステファヌ・マラルメ


               牧 神

あのニンフたちを、永遠のものとしたい。
 
                         あんなに明るい、
彼女たちの肌の薄紅色が、
群がりくる眠気で気だるい大気の中でちらちらする。

                         私は夢を愛していたのか?

私の懐疑は、古くからの夜の堆積で、いまや無数の細かな
小枝となり、真実の森のままとどまって、
ああ、私が独りよがりにも観念の薔薇を思いあやまって
勝利として自らに捧げたことを証し立てる――

とくと思い返してみよう・・・

                  お前が述べたてる女たちは
 
お前の官能の望みが激しいあまり、それを象ったのではないのか!
牧神よ! 幻影はいとも純潔なニンフの、涙の泉のような、青く
冷たい眼からは消え失せる。
だが、もう一人の吐息ばかり漏らすニンフの方は違って、
お前の肌毛にこもる真昼の熱い微風のようだと、お前は言うのか?
そうではない! いかに競うとも、さわやかな朝は熱気に息がつまり
身動きもならず、ぐったりと失神するなか、水音は囁かず
私の葦笛だけが調べを茂みに注ぐ。そして唯一の風は
葦笛の対の管から洩れ出でて
乾いた雨の中へ音を撒き散らすより前に立ち昇り、
なびくもの一つない地平線のあたりで、
眼に見える、晴れやかな
霊感の人工の息吹となって、空へとまた還っていく。
 
おお、静まりかえったシチリアの沼の岸辺よ、
日々の太陽と競って、私の自惚れが掻き乱そうと
火花のような光のもとで静まりかえる岸辺よ、語ってくれ
「私はここで、力量にあった空ろな葦の茎を
手折っていた。そのとき、金緑色の木が葡萄の房を
泉に捧げるように垂らしているはるか遠くで、
真っ白な生きものが憩いながら揺らいでいた。
葦笛がゆるやかな序曲を奏ではじめるや、
白鳥たちが飛び立つ、いや! ニンフが逃げたのだ、
それは水に潜り・・・」


              なにも動かず、すべてが鹿毛色の時の中で燃え
蘆笛で調音のLaを探るお前の強引な合体の願いが
どんな仕業で一斉に消え失せたのか分からない。
だがこの時こそ、私は初めての意欲に目覚めるはずではないのか、
太古の光の波の下で、ひとり、すっくと立ち、
百合よ! 私も穢れなく、お前たちの一つとなって。
二人の唇がもらす甘い虚しさではなく
不実なものさえそっと安心させる口づけは、
私の胸には何のしるしもないのに
おごそかな歯の神秘な噛み痕をたしかに実感させる。
だが、それよりも、秘法が心を許す友として選ぶのは
青空のもとで奏でる一対の太い葦笛。
それは、頬に感じる悩みを引き受け、
長い独奏のうちに、まわりの美しさと
私たちのつまらぬ歌の美を混同して
楽しむことを夢見る。
そして、愛がその模様を指で描くのと同じあたりを
私は閉じた眼で追い、背中や
あるいは純白の脇腹の月並な夢から、
よく響くが、むなしい単調な線を消し去ってしまうのだ。

だから、遁走の楽器よ、おお、意地悪なシュリンクス、パンの笛よ、
お前が私を待っていてくれる沼辺で、また葦に生え変われ!
この私は、自分の噂を自慢にしながら、ニンフたち女神のことを
いつまでも語るとしよう。そして偶像のように描いた
彼女たちの影から腰帯をまた抜き取ろう。
そうして、葡萄から透明な光の汁をすすったとき、
私は見せかけの陽気さで悔しさを追い払うために
笑いながら空っぽの房を夏空に差し上げて
輝く皮の中へ息を吹き込み、酔いを
渇望しつつ、夕暮れまでそれを透かし眺める。

おお、ニンフたち、さまざまな思い出をまた膨らませよう。
「私の眼が葦の間をつらぬいて、不死の二人のうなじを突き刺せば、
怒りの声を森の空に響かせて、ニンフたちは熱い傷口を波にひたす。
そしてまばゆい髪の沐浴は
煌きと慄きの中に消えうせる、おお、宝石よ!
かけ寄ってみれば、私の足元に、抱き合って(二人で
いる邪な喜びがもたらす気だるさに死んだようにぐったりとして)
大胆に絡んだ腕の中で眠っている二人。
私は彼女たちを引き離しもせずに抱えあげ、飛び込んだのは
わずかな木陰も嫌う、あの薔薇の茂み、
薔薇は太陽に芳香をことごとく涸らし、
そこでの私たちの戯れは真昼日が燃えつきるのにも似ていたか。」

私は処女たちの怒りを讃える、おお、野生の快楽よ
裸の聖なる重荷は私の燃える唇をさけようと
するりと滑り抜ける、稲妻のように!
肉の秘密の恐れを飲み下して。
非情な女の足許から、内気な女の心へと伝っていけば
両方ともに無垢な気持を捨て去り、
狂おしい涙か、悲しみの少ない湿り気に濡れる。
「私の過ちは、この隠しきれない恐怖を征服した喜びで
神々がたくみに絡ませた乱れた髪の房を
接吻しつつ掻き分けたことだった。
つまり、一人の方の好ましい身体のうねりの下に
私が熱い笑みを押し隠そうとしたそのとき(幼くて、初心な、
顔を赤らめさえしない妹の方は、燃える姉の興奮につれて、
羽のような純白さが色に染まるように、
一本の指だけで押さえていた。)
両腕の力がわずかに抜けて、
まったく恩知らずのこの獲物たちは、身をひるがえした、
私がまだすすり泣く陶酔のなかにあることなど意にも介さず。」


残念だが仕方がない! 別のニンフたちが私の額の角に
結びつけた編髪で、私を幸福へと連れて行ってくれるだろう。
私の情念よ、分かっているだろう、赤紫色に熟れた
石榴は弾け、蜜蜂は唸り、
そして私たちの血は、それを吸い取ろうとするものに夢中となり、
次々に生じる欲望の塊に向かって流れて行く。
森が黄金色とそして灰色に染まる時刻
暗くかげった葉陰では祭りが高潮に達する。
エトナ! 悲しき眠りが突如轟き、炎が燃え尽きようとするその時
ヴィーナスが訪れて、その清純な踵を降ろしたのは、
お前の山中の溶岩の上だ。
私は女王を抱く!

            おお 罰は必至だ・・・

                         いや、少なくとも
 
魂は言葉を失って空っぽとなり、身体はぐったりと重くなって、
やがて真昼の勝ち誇った沈黙に屈伏する。
いっそこのまま、冒涜の言葉も忘れ、乾いた砂に打ち伏して
ただ眠ることだ、葡萄酒を芳醇にするお天道さまに向けて
口を開けているのは、なんと快いことか!

さらば、二人のニンフよ、幻となったお前たちを夢見るとしよう。

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by monsieurk | 2013-03-07 20:13 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

コンクラーベ

 ローマ法王、ベネディクト16世は今年85歳となり、去る2月28日、健康上十分な活動が出来なくなったとして、新たらしい法王に座をゆずる決断をした。法王が生前に退位した例は1415年以来凡そ600年ぶりであり、自発的な退位となれば、720年前の1294年のケレスティヌス5世にまでさかのぼる。いまは法王がいない異例事態で、20日以内に新法王を選ぶ選挙が行われる決まりである。
 法王を選出する会議はラテン語で「コンクラーベ」といい、現在117人いる枢機卿のうち80歳未満の人たちで互選を行い、3分の2以上の支持を得て、誰かが選出されるまで投票が繰り返される。
 前のヨハネ・パウロ2世が法王に選ばれた1978年10月、家族とたまたまローマを訪れていて、新法王が決まる瞬間を目にした。投票で新法王が決まった場合は、バチカンの小さな煙突から白い煙がのぼり、決まらなかった場合は黒い煙があがってサンピエトロの広場に集まった人びとに知らせる決まりだが、目にした煙は灰色で戸惑った記憶がある。やがて大聖堂の鐘が鳴りだし新報王の誕生を知ったのだった。
 ローマ法王には二つの顔がある。一つは全世界におよぶカトリック教会の首長としてのもの。もう一つは世界で一番小さな国土のバチカン市国の主権者である。バチカン市国は住民が800人余り、そのほとんどが聖職者で、広さはわずかに44ヘクタールだが、れっきとした独立国である。
 もちろん最も重要なのは、全世界で11億3000万人のカトリック教徒を教え導くことで、そのためにローマ法王を補佐する中央機関がローマ法王庁である。法王庁には会計院という大蔵省に当たる組織があって、莫大な資金が投資され運用されているといわれ、また情報網も世界中に張り巡らされていて、教会やトップクラスの信者から様々な情報が入ってくる。
 最初の法王はイエスの12人の弟子の一人だった聖ペトロで、ヨハネ・パウロ2世が264代目、退位したベネディクト16世は265代目である。ヨハネ・パウロ2世は、宗教的には保守主義者で、避妊や自殺などを強く非難したが、一方でキリスト教にとって節目の2000年には、歴史上の十字軍のイスラム教徒に対する行為や、ユダヤ人への差別を謝罪するなど和解と平和を大切にした。1990年に起きた湾岸戦争では、43回も戦争に反対する声明を出した。
 なかでも注目されたのが、ヨハネ・パウロ2世がポーランドの出身だったことである。当時のヨーロッパは、ソビエトを中心とする東側の共産主義の国々と、アメリカが後押しをする西側に分かれて対立していた。ヨハネ・パウロ2世は社会主義国であった祖国ポーランドを訪問して、ミサに集まった数十万の国民を前に、「あらゆるものを恐れる必要はない」と述べた。これがポーランドの人たちには、共産主義を恐れることはないという意味だと受け取れられ、そこからポーランドの労働者を中心にした「連帯」の民主化を求める運動が始まったのだった。これは当時のソビエトから見れば最悪の事態である。そんな中で起きたのが、1981 年5月13日の法王暗殺未遂事件だった。
 サンピエトロ広場で信者に祝福をあたえていた法王はピストルで撃たれ、2発の銃弾が当たったが、その後奇跡的に回復した。犯人はトルコ出身のメフメト・アリ・アジャで、イスラム教徒だったことから、当初は宗教的な理由ではないかとも考えられた。しかし当時イタリアの議会に作られた調査委員会の報告では、ソビエトの秘密機関の関与が示唆された。
 この暗殺未遂事件のあと、ポーランドの民主化運動は大きな盛り上がりを見せることになった。8年後には連帯の指導者ワレサがポーランドの大統領となり、民主化の波は東ヨーロッパ全体に広がり、やがて1989年11月のベルリンの壁崩壊をもたらした。ローマ法王暗殺未遂事件が、東西冷戦を終らせる一つの引き金となったのである。
 2005年2月、法王は自身の著書で、事件は共産主義者による犯行だったと認め、同じ頃、旧東ドイツの秘密機関スタージの文書のなかから、それを裏づける証拠が見つかった。そこには旧ソビエトのKGBが計画し、ブルガリアや東ドイツの秘密警察が関与したことが記されていた。
 こうした前任者のヨハネ・パウロ2世と比べて、ベネディクト16世は学者肌の法王で、信仰に徹した姿は熱心な信者からは信頼された。ただ、変化の激しい現代社会に対応する信仰の道を示し得たかどうかという点では、批判する声も少なくない。
 ベネディクト16世の在位中には、イスラム教世界でテロが激化するなどの動きがあったが、聖戦・ジハードを批判し、イスラム圏との間で摩擦を生んだ。またエイズに感染している人が多いアフリカで、避妊具を配布することはキリスト教の教義に反するとして、発言が問題視されたこともる。去年は法王庁の内部の権力闘争が背景にあると見られる、機密文書の大量流失が起こり、そうした心労も法王が健康を損ねた原因となって今回の退位につながったといわれる。
 ヨーロッパでは洗礼を受けたカトリック信者でも、日曜日に教会へ行く人が減っている。新法王はこうした課題を背負って船出するわけだが、枢機卿の多くはイタリアをはじめヨーロッパの出身で、これまで通りヨーロッパ出身の枢機卿が選ばれるのか。いま11億3000万の信者の6割近くを占めるのはアフリカや中南米だが、こうした地域出身の枢機卿が選ばれるか。さらには、離婚、避妊、中絶などを認めない従来の教義を重視する保守派か、それとも女性司祭を認めるなど、変化する現代社会の要請にもっと応えるべきだとする改革派が選ばれるのかも注目される。
 バチカンの煙突から白い煙が上がり、サンピエトロ大聖堂の鐘が新法王誕生を告げる日には、大聖堂前の広場は十数万の信者で埋め尽くされるはずである。
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by monsieurk | 2013-03-04 19:00 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)

岩永てるみ 日本画展

 東京京橋の春風洞画廊で、日本画家岩永てるみ氏の展覧会「光を映す」を観る機会があった。画廊が制作した図録は、冒頭で作者をこう紹介している。
 「岩永先生は大分県にお生まれになり、愛知県立芸術大学大学院と東京藝術大学大学院で日本画を学ばれ、現在は愛知県立芸術大学で准教授として後進の指導とともに日本画の研究に努められています。また、気鋭の女流画家として日本美術院を中心に作品を発表されて高い評価を受けておられます。
 本展では、ここ数年に取材されたヨーロッパの風景を中心に、刻々と変わる光の表情を、卓越した技術と独特の感性で、先生固有の空間として描いておられます。」
 今回展示されている20点は、鳴門海峡の逆光のなかをいく一艘の船を描いた《海峡》(P10)、西表島の猫を描いた《おひるね》(F6)、ヴェトナム・ハノイの木陰につるされた《鳥かご》(絹本、F4)、そして台北市の植物園に咲く《睡蓮》(SM)の4点以外は、パリ、ローマ、フィレンツェ、ヴェネチア、ロンドン、プラハなど、ヨーロッパの大都会の建物や街角の風景を描いた作品である。
 《雪のルーヴル》(F50)は、ルーヴル美術館の象徴である大小2つのガラスのピラミッドと、旧ルーヴル宮の重厚な建物を背景に、雪がしんしんと舞う風景がとらえられている。《La fenêtre du musée(博物館の窓)》(F30)は、パリ5区の国立自然博物館(Musée d’histoire naturelle)の窓の一つが描かれている。ここは劇作家ポール・クローデルが、「パリでもっとも美しいミュゼだ」と評したように、赤味の勝ったレンガを積んだ建物に大きな窓がはまり、その窓からは、内部に展示示されている標本の白い骨組や、影になった標本の数々が覗き見える。そして窓ガラスには、茜色に染まりかけた空と、手前にある冬枯れの小枝が写っている。こうした一瞬の光景に心惹かれた作者は、それを繊細な筆遣いで画布(今回の作品では和紙が用いられている)に写しとるのである。
 同様の光景は、ローマの古い建物のウインドーに飾られた純白のウェヂング・ドレスを描いた《ローマの休日》(F15)や、イタリア・フィレンツェの有名なベッキオ橋に並ぶ宝飾店の店先を切り取った《橋上の商店》(F10)にも見ることができる。
 なかでも気に入ったのが《La tour Eiffel(エッフェル塔)》(F10)、《Gare de Lyon(リヨン駅)》(F20)、そして写真を載せた《帰郷―リヨン駅―》(F12)の3点である。いずれも画面の上部3分の2ほどを、エッフェル塔の鉄の骨組やリヨン駅の屋根が覆い、《エッフェル塔》の場合はその先に、セーヌ川を挟んで建つトロカデロの薄黄色の建物が見え、《リヨン駅》では、長いコンコースの先に、朝のパリの街がのぞいている。コンコースの柱の時計は午前9時20分をさしている。乗客たちはいましも、遠く南フランスを目指して出発する長距離列車に乗り込もうとしている。
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 一見写真と見紛うこれらの具象画は、写真では決して表現できない立体感をかもしだす。春風洞の赤田清氏によれば、ここには日本画の伝統が培ってきた技法が駆使されているという。墨のような黒色は、よくみると瀝青を焼いて特別につくった絵具が用いられており、天井を走る無数の細い線は面相筆(藤田嗣治が用いてヨーロッパの人たちを驚嘆させた日本画特有の細筆)で描かれており、列車に乗り込もうとしている影のような乗客たちは、「たらし」の技法で大胆に処理されている。
 岩永てるみ氏は、東京藝大では文化財保存学科の保存修復専攻に学び、文化財修復で博士号をとっている。日本画のさまざまな技法に通じているのは当然であり、それがヨーロッパの風景と出会って、稀有の効果を生みだしたのである。氏自身も、「もともと日本画には光の概念というものはあまりありません。しかし、風景を映し出し、かたちを創り、美しく輝かせる要素として光は大きな役割を果たします」と述べている。
 残念なのは、春風洞での会期が3月2日までしかないことである。次にまたこれらの作品に出会える機会を待ちたい。
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by monsieurk | 2013-03-01 05:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)