ムッシュKの日々の便り

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詩集『女に』

 谷川俊太郎の詩選集が岩波文庫として刊行されて話題となっている。詩人の詩集が生前に岩波文庫に入ったのはこれが初めてではないだろうか。抒情詩人谷川俊太郎の業績の大きさを、あらためて実感させられる詩集である。
d0238372_1665646.jpg そしてほぼ時を同じくして、集英社から詩集『女に』が刊行された。これは1991年3月にマガジンハウスから出版された詩集の復刊だが、復刊にあたっては、36篇の一つ一つに添えられた佐野洋子の素敵なエッチングに、新たに詩の英語訳も加えられた。
 オリジナルの詩集が刊行されたとき、先ごろ亡くなった丸谷才一は、「特筆に価するのは、この恋愛詩集が年輩の男女の恋を歌うことである。それは、恋は青春のものといふ世界文学史の常識に平然と刃向ひ、現代日本の現実を取り上げる」と評したが、詩集『女に』は、誕生以前の未生の時代から、幼くして出会い、愛し合い、生活を共にし、そして死を迎えるまでの、一人の女性に寄せた想いをうたっている。36篇すべてを紹介したいが、そのうちの幾つかを引用してみよう。

 「未生」

 あなたがまだこの世にいなかったころ
 私はまだこの世にいなかったけれど
 私たちはいっしょに嗅いだ
 曇り空を稲妻が走ったときの空気の匂いを
 そして知ったのだ
 いつか突然私たちの出会う日がくると
 この世の何の変哲もない街角で

 「かくれんぼ」

 たった一本の立ち木が
 あなたを私からかくしていた
 「もういいよ」と叫ぼうとしてあなたはためらった
 もっと待たなければならないと知っていたから
 まだ目をつむって数えている私を

 「会う」
 
 始まりは一冊のぼやけた写真
 やがてある日ふたつの大きな目と
 そっけないこんにちは
 それからのびのびしたペン書きの文字
 私は少しずつあなたに会いにいった
 あなたの手に触れる前に
 魂に触れた

 「指先」
 
 指先はなお冒険をやめない
 ドン・キホーテのように
 おなかの平野をおへその盆地まで遠征し
 森林地帯を越えて火口へと突き進む

 「・・・・・」

 砂に血を吸うにまかせ
 死んでゆく兵士たちがいて
 ここでこうして私たちは抱きあう
 たとえ今めくるめく光に灼かれ
 一瞬にして白骨になろうとも悔いはない
 正義からこんなに遠く私たちは愛しあう

 「未来」

 たった今死んでもいいと思うのにまだ未来がある
 あなたが問いつめ私が絶句する未来
 原っぱでおむすびをぱくつく未来
 大声で笑いあったことを思い出す未来
 もう何も欲しいとは思わないのに
 まだあなたが欲しい

 「恍惚」

 あむつ代えるついでに
 あなたは私の尻をつねってくれる
 隣の寝たきりばあさんが美人だからだ
 私の脳細胞は恍惚として目覚めるだろう
 知性の遠く及ばぬものに

 「死」

 私ハ火ニナッタ
 燃エナガラ私ハアナタヲミツメル
 私ノ骨ハ白ク軽ク
 アナタノ舌ノ上デ溶ケルダロウ
 麻薬ノヨウニ

 素敵な一生ではないか。だが愛する二人の想いは死でも終わらない。

 「後生」

 きりのないふたつの旋律のようにからみあって
 私たちは虚空とたわむれる
 気まぐれにつけた日記 並んで眠った寝台
 訪れた廃墟と荒野 はきふるした揃いの靴
 地上に残した僅かなものを懐かしみながら

 “After We Die”

 Intertwined like two endless tunes,
we play around with empty space,
fondly recalling a few things we left behind on earth―
 the diary we kept at random, the bed we slept in,
ruins and wildernesses visited, two pairs of identical shoes
worn out together.

 岩波文庫版『自選 谷川俊太郎詩集』には、「未生」、「・・・・・」、「後生」の3篇が収録されている。
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by monsieurk | 2013-04-30 22:30 | | Trackback | Comments(0)

パイプオルガンの響きふたたび

 4月24日は忙しい一日だった。日中は六本木の新国立美術館で開幕した「貴婦人と一角獣」の展覧会を観て、一度帰宅した後、夜は降り出した雨のなかをミューザ川崎シンフォニーホールへ、3・11の震災後初めてのパイプオルガンの演奏会を聴きに行った。
 震災で天井が崩落したシンフォニーホールの改修には2年がかかり、今年4月にようやく再開にこぎつけたのである。崩落の原因については第三者委員会による調査報告が先ごろ公表されたが、川崎市と施工主との間の賠償交渉はまだ決着をみていない。
 川崎シンフォニーホールのパイプオルガンはスイスのクーン社製で、技術者が2004年3月に来日し、2カ月かけて5248本のパイプを組み立てた。ストップの数は71あり、5500通りのコンビネーションが演奏可能だという。ホールにはほかにフランス・ガルニエ社製のポジティヴ・オルガン1台がある。ポジティブとは持ち運びができるという意味で、この形式のオルガンは14世紀から15世紀に開発されて、貴族のサロンや小さな礼拝堂などで用いられた。足は用いずに手だけで演奏する一段鍵盤のオルガンである。震災でホールが使えない間、このポジティヴ・オルガンはいろいろなところへ運ばれて活躍したという。
 再開を記念する演奏会は、松井直美と近藤岳の二人のオルガニストの手で行われた。松井は国立音楽大学、西ドイツ国立フライブルク音楽大学で学び、2004年からはミューザ川崎シンフォニーホールのアドヴァイザーをつとめている。近藤はホールが開館した時からのホール専属のオルガニストをつとめてきた。東京藝大の音楽部作曲家を卒業ののち、修士課程では音楽研究科でオルガン演奏を学び、パリ・ノートルダム大聖堂の正オルガニスト、フィリップ・ルフェーブルに師事した経験もある。
 幕開きはヴィヴァルディの『四季』から「春」の第一楽章、第二楽章、第三楽章を、松井のアクティヴ・オルガン、近藤のリモート・コンソールによる大オルガンの合奏だった。春の季節にふさわしく、また再開の喜びをこめた選曲だった。
 次の『薄紅の刻』は、2010年に近藤岳が築地本願寺別院の委嘱をうけて作曲したもので、東洋的な静謐さをたたえた旋律で、鈴を思わせるフィンガー・シンバルが効果的に用いられていた。築地本願寺は仏教寺院には珍しくパイプオルガンが設置されていて、ときどきオルガンの演奏会が行われる。
 その他の曲目は、バッハより少し前の時代に活躍した作曲家、N・ブルーンスの『プレリューディウム ト長調』、シューマンの『ペダル・フリューゲルのための練習曲』、J・S・バッハのおなじみの『トッカータとフーガ ヘ長調 BWV540』、そして後期ロマン派のM・レーガーの『バッハの主題による幻想曲とフーガ op.46』で、期せずして時代を異にする5人のドイツ人作曲家の作品を聴き比べる結果になった。個人的には、楽器の王様と称せられるパイプオルガンの能力をすべて引き出した形のレーガーの曲に圧倒された。その余韻を耳に残しつつ雨の中を家路についた。幸せな一日だった。
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by monsieurk | 2013-04-28 23:10 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

貴婦人と一角獣

 パリのクリュニー美術館が所蔵するタピスリー《貴婦人と一角獣(La Dame à la licorne)》6点すべてが、4月24日から東京・六本木の「国立新美術館」で展示されている。今回の展覧会ではタピスリー(綴織の壁掛け)を中心に、クリュニー美術館が誇るおよそ40点の品々も展示されていて、中世ヨーロッパの貴族の生活をしのばせてくれる。
 かつてフランス大統領シャルル・ドゴールは、この一群のタピスリー(tapisserie、英 tapestry)を、凱旋門のアーチから見る入日、サント・シャペル教会のステンドグラスと並んで、フランスの至宝と呼んだが、これが国外に貸し出されたのは、過去に一度、1974年にワシントンのメトロポリタン美術館で展示されただけである。今回の展示はそれ以来39年振りの出来事である。
 パリに住んでいたときは幾度となくクリュニー美術館を訪れて、このタピスリーの前にたたずんだものであった。パリ左岸のサン・ミシェル大通りはサン・ジェルマン大通りと交差して、サント・ジュヌヴィエーヴの丘へ向かって上がって行くが、交差点を過ぎるとすぐ左手に、鉄柵に囲まれたローマ時代の浴場跡が見える。クリュニーの館は、この遺跡の上に中世末に建てられたゴシック・フランボワヤン様式の建物である。1843年、ここにアレクサンドル・ソメラールが蒐集した中世期とルネサンス期の品々を、浴場の遺跡から出土した彫刻などと一緒に展示する美術館がこの館に開設された。美術館の入口はサン・ミシェル大通りをさらに上がって、最初の道を左手に入ったポール・パンルヴェ広場6番地にある。
 美術館の重い扉を押し、暗い廊下を通り抜けたところにある階段を二階(フランス流では一階)に上ると、そこは丸天井から光が一杯に差し込む円形部屋で、6帳からなる《貴婦人と一角獣》は、その部屋の白壁に垂れ下げられている。
 タピスリーはもともと遊牧民のテントでなかの空間を仕切りるために使われたものだが、やがてヨーロッパでは石造りの家の冷たさを防ぐために使われるようになった。そこに多彩な模様や絵柄を織り込んで、無機質な石壁の冷たさを視覚的にも和らげる効果を期待したのだった。
 《貴婦人と一角獣》は、小説家で歴史記念物監察官でもあったプロスペル・メリメが、現在のクルーズ県にあったブーサック城(Chateau de Boussac)で、1841年に発見した。保存状態が悪く傷んでいたのを修復して、1882年にクリュニー美術館に移したのである。6帳のタピスリーの制作年代は不明だが、パリで下絵が描かれ、15世紀末にフランドル地方で織られたと考えられている。
 6帳のタピスリーは暖かみを感じさせる赤地に、さまざまな草花が百花繚乱の態で色鮮やかに織り込まれている。これは千花模様(mille fleurs)と呼ばれ、この形式が最初に出現したのはフィリップ・ル・ボン(善良王)の注文によるとされ、ベルンの歴史美術館に作例が残されている。
 6帳のタピスリーは、どれも千花模様を背景に若い貴婦人が一角獣と獅子がいる場面が描かれ、そのほかに猿、犬、兎、狐、鵞鳥などの家禽が小宇宙を形づくっている。タピスリーでは、一角獣や獅子が捧げ持つ旗と楯が描かれているが、そこにはジャンヌ・ダルクの活躍でフランス王となったシャルル七世(1403-1461)の宮廷の実力者だったジャン・ル・ヴィスト(Jean Le Viste)の紋章である三つの三日月があり、彼が注文主ではないかとされる。
 ル・ヴィスト一族はリヨンで営んでいた手工業によって財をなし、政治的にも有力者となって貴族に叙せられた。一族の家長は1500年頃にはパリに住み、王室の財政管理の仕事を務めながら、ブルゴーニュにも領地をもっていた。
 タピスリーの副主人公である白い一角獣は空想の動物で、身体は馬だが蹄は二つに割れていて、尾は獅子、顎には山羊のような鬚がある。そして両耳のあいだには長い角が真っ直ぐに生えている。そしてこの長大な角には螺旋状のよじれが先端まで走っている。
 伝説では、一角獣は力が強く、勇敢で、足も速く、飼い馴らすことは難しいとされるが、なぜか乙女を好むとされる。だから一角獣を捕えるには、処女を連れていって誘惑するのである。このような性質から、古来、「純潔」や「貞淑」の象徴とされてきた。
 6帳のタピスリーには、それぞれ内容をあらわすタイトルがつけられている。写真の左上から順に、「味覚(le goût)」、「聴覚(l’ouïe)」、「視覚(la vue)」、「嗅覚(l’odorat)」、「触覚(le toucher)」、そして「わが唯一の望みに(A mon seul désir)」である。まずはこれらをじっくり眺めてみてほしい。画像はクリックすると、拡大して見ることができる。
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 タピスリーの主人公である貴婦人は、一帳ずつ顔つきが微妙に異なり、服装も違うことから同一人物ではないとされるが、長く豊かな金髪を頭上に編み上げ、細い身体を胸刳(デコルテ)でしめ、裾の長いローブを着て、さらに足まで隠すスカートをつけている。そして各々のタピスリーでの貴婦人の動作が、上にあげた人間の五感を表象しているのである。
 「味覚」。貴婦人は侍女が差し出す皿から菓子を取ろうとしている。彼女の視線は皮手袋をはめた左手に載る鷹に注がれていて、彼女の左右にいる一角獣と獅子は、両方とも後脚で立ち上がって旗をかかげている。貴婦人の足元では猿が菓子を食べている図柄である。
 「聴覚」。貴婦人はトルコ製(独特の図柄からそう特定される)の絨毯をかけた台の上の小型パイプオルガンを弾いている。侍女は反対側に立って、オルガンに空気をおくる鞴(ふいご)を動かしている。一角獣と獅子は同じように旗をかかげている。
 「視覚」。貴婦人は下半分ほどの黒い糸で織られた島(丘か?これはどのタピスリーにも共通していて、暗い地色のために草花は一層色鮮やかに見える)に置かれた椅子に腰をかけ、右手に手鏡をもっている。一角獣はおとなしく地面に身を伏せ、前肢を貴婦人の膝に乗せ、貴婦人が手にする鏡に顔を映している。「視覚」というタイトルは、ここでは貴婦人の動作ではなく、一角獣の顔が鏡に映っていることに由来する。左側の獅子はぶぜんとした様子で旗をかかげている。
 「嗅覚」。貴婦人は立ち上がり、花環づくりに夢中である。侍女は花を入れた籠を貴婦人にむけて捧げ持っている。一角獣と獅子は後脚で立ち、旗をかかげている。そして猿は籠から花を取り出しているようだ。
 「触覚」。ここでは貴婦人が自分で旗をかかげ、もう一方の手で一角獣に触れている。そして一角獣と獅子は、貴婦人がかかげる旗を見上げている。
 「わが唯一の望みに」。このタピスリーは「味覚」とともに他の4枚に比べて幅が広く、絵柄も異なっている。絵の中央には、深い青色の緞子に金の火炎模様が織り出された天幕が建てられていて、半開きの天幕の上の縁には、金色で「わが唯一の望みに(A Mon Seul Désir)と書かれている。
 天幕の半開きの入口に立つ貴婦人は、これまでのタピスリーでは身に着けていたネックレスを外して、侍女がささげ持つ櫃に、いままさに仕舞おうとしている。あるいはここで初めてそれを取り出して身に着けようとしているのかもしれない。そのどちらかの解釈によって、このタピスリーがシリーズの最初か最後かのどちらかに置かれることになる。
 あるいはこの一帳の大きさが異なることから、他の5帳とは別のものという説もある。いずれにせよ、このタピスリーが別名「宝石選び」と呼ばれるのは、彼女の動作によるのはいうまでもない。貴婦人の左側には、コインが入ったバッグが低い椅子に置かれ、獅子と一角獣は貴婦人の両側で旗をささげ持っている。それにしても貴婦人の「唯一の望み」とはいったい何だろうか。
 《貴婦人と一角獣》は、これまで多くの文学作品で取り上げられてきた。ドイツの詩人ライナー・マリア・リルケもこのタピスリーに魅せられた一人で、『マルテの手記』の第一部の最後で、孤独な主人公マルテの眼を通してタピスリーの印象を克明に描きだしている。
 「貴婦人が鷹に餌をやっている。なんときらびやかな衣装だろう。鳥は手袋をはめた手にとまって、羽ばたいている。彼女は鳥を見つめながら、侍女のさしだす高坏に手をのばし、餌やろうとしている。その右下、裾の上に、絹のような毛なみの小犬がすわり、彼女を見上げて、自分のことを思い出してほしいと言いたげな様子。それに、おまえは気づいたろうか、鳥の後ろを低いばらの垣根が区切っているね。旌を支える動物たちは、いかにも紋章ふうに昂然と前肢を跳ね上げている。着せられているマントもまた同じ旌だ。美しいブローチがその前をとめている。風が出ている。
 つぎの壁掛けに近づこうとして、貴婦人がもの想いに沈んでいるのに気づくと、思わず足音を忍ばせてしまうね。――彼女は花環を編んでいる。花でこしらえる、まるい小さな冠だ。いま手にとった花を糸に通しながら、つぎにはどの色にしようかと、侍女のさしだす浅い盤のなかのなでしこの花を考え深げに選んでいる。その背後の腰掛けには、ばらの花でいっぱいの籠が、まだ手もつけずに置かれている。獅子はもうそしらぬ顔をしている。だが右の一角獣には、彼女のすることが分かっている。
 この静けさに音楽が聞こえないはずがあろうか? もう堰きとめてはおけないのだ。重々しく静謐な装いに飾られて、貴婦人は(なんとゆっくりとした足取りだろうね?)持ち運びのできるオルガンに歩みより、立ったまま弾いている。むこう側でふいごを動かしている侍女とのあいだを、パイプの列が隔てている。彼女はこれまでにもまして美しい。髪は風変りにふたつに編んで前にまわされ、髪飾りの上で束ねられて、結び目からその両端がかぶとの羽飾りのようにつき出ている。獅子はふきげんそうにこの音楽を我慢し、不興げに、唸り声をこらえている。しかし、一角獣の方は律動に揺られているように美しい。
島がひろくなる。天蓋が張られている。青いどんすの天蓋で、・・・」(杉浦博訳)
 マルテが仔細に観察しているのは、「味覚」、「聴覚」、「嗅覚」、「わが唯一の望みに」の順なのは明らかで、他のタピスリーについても見事な描写を残しているが、これは皆さん自身がぜひ会場を訪れて、実物を自分の眼で確かめてほしい。
 《貴婦人と一角獣》は、日本で展示される前に一年をかけて、藍や栗などの天然染料で染めた糸で修復されたという。奇跡的に実現した海外で二度目の展覧会は、4月24日から7月15日まで東京の国立新美術館、その後は大阪・中之島の新国立国際美術館で、7月24日から10月20まで開催されるとのことである。必見。
 なお、タピスリーの映像については、http://www.lady-unicorn.jp/でも見ることができる。
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by monsieurk | 2013-04-25 22:30 | フランス(美術) | Trackback | Comments(2)

天井桟敷の人びと(8)

d0238372_1229835.jpg 『天井桟敷の人びと』の上映会が開かれたのは1945年3月2日の夜である。会場はパリ16区にあるシャイヨー宮の劇場だった。上映会は、戦争中捕虜となったり、収容所に入れられたりした人たちを救済する夕べと銘打たれていた。プレヴェールとカルネは一階の椅子席で多くの招待客とともに観ることにした。映画の紹介アナウンスは俳優のジャン・ジューヴェが買って出てくれた。
 上映がはじまったが、カルネは音声を調整するために客席と映写室との間を幾度も往復しなければならなかった。劇場がざわざわしだしたのは、映画が第二部の後半にさしかかったところで、終わりまではまだ30分以上残っていた。椅子をきしませて立つものが一人、二人と増え、最後には半分以上が出て行ってしまったのである。あとで分かったことだが、パリではまだ車もガソリンが不足していて、夜遅く家に帰りつく手段は地下鉄しかなく、その時間を心配した人たちが心を残しつつも席をたったのだった。
 上映には全部で3時間8分かかり、途中の幕間をいれると、夜遅くはじまった試写会では、地下鉄の終電に間に合わなくなってしまうのである。カルネもプレヴェールもこの日の試写では、観客の本当の反応がどんなものかを知ることができずに不安だった。
 一週間もたたないうちに一般公開がはじまった。上映は最初、「マドレーヌ劇場」と「コリゼー劇場」の二館だけだったが、二館とも初日から満員になった。批評家のジョルジュ・サドゥールは、終戦後発行部数を10万部に伸ばしていた「フランス文芸」誌の3月17日号で次のように書いてくれた。
 「マルセル・カルネの傑作であり、ジャック・プレヴェールの傑作である。彼らはそれぞれその業と能力を自家薬籠中のものにしており、3時間を越える映画でもって、一般的には小説家の専売特許とされる複雑さでもって、さまざまな人物と状況を描き出すことに成功した。彼らは自分たちの才能を十全に開花させ、おそらく完璧さの点では、今後もこれを超えるものは出ないだろう。実在の人物と虚構の人物、台詞劇と無言劇、サイレント映画とトーキー映画、舞台と現実、芸人と庶民、ひとことで言うなら芸術と人生の壮大にしてデリケートな絡みが、この映画の魅力を生み出している。それが抽象的なテーマとしてではなく、肉体的なアクションとして生き生きと表現されている。この10年間に世界でつくられた映画のなかで、最も重要な作品の1本である、映画史のエポックを画す名作である。」
 さらにガブリエル・オーディジオは、「行動(アクション)」紙で、「もし映画に芸術という言葉が発せられるなら、これこそがその例だ」と絶賛した。
d0238372_12291637.jpg なおこの上映会に、ガランスを演じたアルレッティの姿はなかった。彼女は前年1944年10月20日、パリの有名な「ランカスター・ホテル」で逮捕されたのである。容疑は対独協力だった。
 逮捕後11日間は、かつてマリー・アントワネットも入れられた「コンシェルジュリ」に拘留され、その後はノルマンディーに所有する別荘で監視下におかれた。彼女が追放委員会の裁判で「1941年にドイツ人将校と知り合い、愛人関係にあった」として戒告処分をうけたのは1946年11月6日のことである。この間彼女は一切の活動はもとより、パリへ戻ることも許されなかった。アルレッティが、「私の心はいつもフランスにある、でもcul(お尻)はインタナショナルよ」と言ってのけたはこのときのことである(この件については、2011年12月11日のブログ「セリーヌとアルレッティ」を参照のこと)。
 この間、映画の方は大成功をおさめつつあった。そして世間は、映画ばかりではなくプレヴェールの詩に触れる機会が多くなった。
 これより前の1944年7月26日、プレヴェールはサン・ジェルマン・デ・プレにあるカフェ「フロール」気付で送られてきた一個の小包を受け取った。
 紐でしばった紙包を開けてみると、謄写版で印刷し、番号を打った22枚の紙片が厚紙の表紙にはさまれて入っていた。表紙にはラベルが張ってあり、丸まった美しい書体で、「ジャック・プレヴェール詩撰集」と書かれていて、次のような手紙が添えられていた。
 「昨年、私が「道徳」の時間に行った読書のあとで、私の学生たち(ランスの高等中学校の哲学級)がこの出版を思いつきました。彼らは幸運に支えられて、これを実現しました。まずテクストについていえば、私の書斎にあるもので満足しなければなりませんでした。私としては、「銃床を空に」が欠けているのが嘆かわしい限りです。野外学校が私たちに速記術を教えてくれなかったのが残念でなりません。次に印刷ですが、上々というわけにはいきません。奥付にある通り急いで印刷したものですから。・・・この初版は豪華出版というわけではなく、あなたのことを好きな若者たちの愛情の証しにすぎません。」(Œuvres complètesⅠ、pp.987-988)
 手紙にはエマニュエル・ペイエという署名があった。ペイエはランスの高等中学校の哲学教師で、以前からプレヴェールの詩に親炙していた。ペインの教え子たちは彼が所蔵していた雑誌からプレヴェールの詩8篇を探し出し、それをタイプライターで謄写版に打って200部印刷したのである。
 奥付によれば、印刷されたのは1944年7月10日。このとき連合軍はノルマンディーに上陸したあと、パリをめざして進軍中で、彼らが住むランスはまだドイツ占領下にあった。ランスが解放されるのは50日後である。
 プレヴェールの詩は、ドイツ占領軍やヴィシー政府ににらまれていたから、それを印刷し出版するのは大きな危険を伴った。収録されている8篇は、「フランス・パリにおける頭の晩餐会を描写する試み」(「コメルス」1931年夏)、「出来事」(「GLMノート」、1937年11月)、「朝寝坊」(「スート」1936年7月)、「風景変換係」(「試みと闘い」1938年2月)、「この愛」(ラジオ番組「ジャック・プレヴェールとの散歩」で、ピエール・ブラッスール〔『天井桟敷の人びと』でフレデリック・ルメートルを演じた〕が朗読。後に「フランス文学の横顔」1943年4月に収録)、「聖なる書」(「メリディアン」1943年6月中旬号)、「外出許可」(「学生の木霊」1943年9月18―25日号)、「果核の季節」(「スート」1936年2月)であった。
 このささやかな私家版の『ジャック・プレヴェール詩集』がもとになって、彼の最初の詩集『パロル(ことば)』が、若い友人のルネ・ベルトレの手で、「日の出書房(Le Point de Jour)」から出版されるのは1946年5月である。
 詩集は次々に読者の手にわたり、詩集としては空前の出版部数をやがて記録することになる。
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by monsieurk | 2013-04-22 22:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)

天井桟敷の人びと(7)

 ヒトラーの命令で、ディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍が、パリ防衛司令官として着任したのは1944年8月9日である。
d0238372_1217527.jpg コルティッツが、リボリ通りのホテル「ムーリス」に置かれた司令部で仕事をはじめて間もなく、警察隊長がゲシュタポ隊員1200名を連れてパリを脱出してしまった。それでなくても十分ではない占領軍は一層手薄になった。一方レジスタンスの武装勢力はフランス国内軍(FFI)に統合され、統一レジスタンス運動(CNR)の内部には軍事行動委員会がもうけられた。
 ノルマンディー上陸以後の戦いでは、連合軍と連動したフランス国内軍やマキ(レジスタンスのゲリラ組織)による自力解放が相次いだ。ただフランス国内軍は武器の調達に苦しみ、早すぎた蜂起と武器不足のために、数千人が犠牲となったヴェルコール(イタリア国境に近いアルプス地方)などの悲劇も起こった。
 8月中旬、パリの鉄道員、郵便局員、警察官がストライキに突入した。パリ一区のヴァンドーム広場に通じるカステグリオーンネ通りでは、大学生や高等中学生の有志に支援されたレジスタンスの兵士が、敷石をはがしてバリケードを築いて撤退する占領軍を阻止しようとした。
 フランクールにあるパテの撮影所では、ジャック・ベッケルの『装飾』の撮影が行われていたが、現場は興奮状態だった。カメラマンやスチール写真の担当者は、映画撮影のかたわら、生のフィルムや機材をいつでも持ち出せるように準備していた。連合軍はパリにむかって進軍しており、パリ突入の様子を記録したいと意気込んでいた。
 市内での最初の銃撃戦は8月18日に起きた。この模様はフィルムや写真に撮影された。自転車に乗った人たちが、フィルムをカルドゥッチ通りにある現像所に持ち込んで現像すると、こんどはそれをビュツト=ショーモンの作業場まで運び、ロジェ・マルカントンとシュザンヌ・ド・トロワが編集した。
 パリに残っていたアンリ・カルティエ=ブレッソンやロベール・ドアノーたち20人ほどの写真家も、カバーする地域を分担して、パリ解放の様子を取材することにした。カルティエ=ブレッソンが最初の銃撃戦で撮影した一枚の写真には、機関銃を掃射するレジスタンスの兵士の後ろに、背広にネクタイをしめ、帽子をかぶった男をはじめ、大勢の市民がそれぞれの格好で集まっている。地面にすえられた機関銃からは硝煙があがり、耳をふさいでいる男の姿もある。そして翌19日には、蜂起した人びとが警視庁やパリ市庁舎を占拠した。
 市民の蜂起は20日になって本格化し、中立国スウェーデンの外交官ノルドリング総領事はコルティッツ将軍と面会して、パリを破壊することは歴史が許さないと申し入れた。この日、占領軍との間で一時的に休戦協定が結ばれたが、抵抗派内部に対立があり、休戦を主張したグループも、22日には休戦協定を破棄して戦闘を再開した。
 連合軍総司令官アイゼンハウアーは、まさにこの日パリ進撃を決断し、自由フランス軍のルクレール将軍が指揮する第二フランス機甲師団に、パリへ一番乗りをはたす命令を下した。
 24日、第二機甲部隊は国道20号線を通ってオルレアン門からパリに入った。ドイツ占領軍は市の中心部にいる小規模の守備隊以外はほとんど退却しており、抵抗らしい抵抗はなかった。ルクレールの進軍を阻んだのは歓声をあげる群集だった。
d0238372_12165948.jpg 彼らは郊外から市内にかけて、機甲部隊がようやく通れるくらいの隙間をあけて、道の両側をびっしり埋めつくしていた。「ルクレール万歳」、「ドゴール万歳」と口々に叫び、「メルシー、メルシー」と繰り返した。女性はハンカチを振り、花や食べ物を投げ入れ、戦車によじ登って解放軍兵士に抱きついた。
 翌25日には、パリ地区ドイツ軍司令官コルティッツ将軍と連合軍の間で降伏文書が交わされて休戦が成立した。26日、ドゴールがシャンゼリゼ大通りを行進し、銃声が鳴り響くなかノートルダム寺院でミサをあげ、パリ解放を祝った。
 8月19日から解放の日まで、パリで展開された勇敢な戦いを記録したフィルムの編集は26日に終り、ピエール・ボストがコメンタリーを書き、ピエール・ブランシャールがそれを録音してドキュメンタリーは完成した。この記録映画が解放されたパリでの最初の上映作品となった。
 パリは電力が不足しいて夜間でも停電が起こったが、映画が上映される劇場への電力供給は最優先されて、このときパリにいた成人の半数は映画を観たといわれる。
 カルネが平和到来後の一番乗りを目指した『天井桟敷の人びと』はなかなか完成しなかった。解放前に組織された「フランス映画解放委員会(CLCF)」は、9月4日に占領中に、コンティナンタル社と契約した映画関係者8名の名前を公表し、リストの先頭にはマルセル・カルネの名前があげられていた。
 ノルマンディー上陸作戦から4カ月後の10月には、フランス全土がほぼ解放された。終戦後、政権を握ったドゴールは、秩序の回復と同時に国有化を含む社会の再編を徐々に行っていった。そうしたなかでヴィシー派を正式な裁判にかけることは、臨時政府にとって最重要の課題だった。粛清がはじまると、対独協力を理由におよそ1万人が略式処刑されたが、そのうちの半数は解放後の報復行為で殺されたとされる。ヴィシーの要人たちは特別高等裁判所で裁かれた。ドイツへ労働力を提供し、捕虜の銃殺名簿をドイツ側に提出したピュシューや、他の中心人物たちが裁判のあと処刑され、ペタンは死刑判決をうけたが、高齢を理由に無期禁固に減刑された。
 10月27日、ドゴールが要請し、彼の出席の下で、コメディー・フランセーズで、「レジスタンスの詩人たちに捧げる夕べ」が開催された。ドゴールは、詩人ルイ・アラゴンが「アカデミー・フランセーズ」入りをするのが望ましいと語り、アラゴンはいまや政府公認の作家となった。そして戦争中も何ごともなかったように絵を描き続けたパブロ・ピカソが、この3週間前に共産党へ入党した。
 粛清の動きが少しずつ沈静化するなかで、『天井桟敷の人びと』の残りの仕事が再開された。編集、映像と音声の同調作業、音楽取りと、台詞と音楽のミキシングなどがスタジオで行われ、終わったのは12月に入ってからだった。総製作費は4250万フラン、当初予算を1390万フランも超過していた。
 1944年12月22日に、パリ郊外のジョワンヴィルにある映画会社ゴーモンで、関係者だけの最初の試写が行われた。ゴーモンが映画の配給に関心をもっていたからである。試写に同席したカルネは、「私は文字通り熱狂的な〔試写の〕光景から帰ってきた」と書いている。試写のあとで、二つの時代を描いた二つの映画を一部、二部として同時に上映すること、入場料は通常の二倍の80フランとすることが決まった。
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by monsieurk | 2013-04-19 20:45 | 映画 | Trackback | Comments(0)

天井桟敷の人びと(6)

d0238372_0383998.jpg 第二部「白い男」の時代は1847年で、フュナンビュル座を去ったフレデリック・ルメートルは別の劇場で名声を博していた。フュナンビュル座のバティストのパントマイムの人気も高まる一方で、客席は天井桟敷までいつも満員だった。そして毎晩のように特別席にお忍びで来る女性がいた。モントレー伯爵夫人となったガランスだった。イギリスに渡っていた彼女は、一時パリに戻ってきたのである。
 自分の劇場が休演日の夜、ルメートルが楽屋にバティストを訪ねてきて、久しぶりの再会を喜ぶ。そこにはナタリーもいた。座長の娘である彼女はバティストと結婚して、一人息子をもうけていた。その場でルメートルは、バティストに耳打ちする。
 「毎晩、君を見に来る女に気づかなかったか? その女はガランスだ」
 「・・・・」
 「パリに来ているが、また旅立つそうだ。」
 舞台でナタリーと踊る場面がくる。舞台に出て行ったバティストは客席に気をとられて、パントマイムができない。とっさに袖に引っ込んだバティストに、ナタリーが思わず声をかける。
 「バティスト! バティスト!」。
 異変に気づいた観客が騒ぎだす。バティストは楽屋を飛び出して、ボックス席に駆けつけるが、ガランスの姿はもうなかった。
 バティストは宿に引き籠り、フュナンビュル座は休演となった。それでもある日、シェイクスピアの『オセロ』を演じているルメートルの評判を聞いて、バティストは舞台を見に行く。そして芝居が終り、観客が出てきたところで、バティストはガランスを見つける。
d0238372_0384225.jpg ガランス「もう会ってくれないものと思っていたの・・・」
 バティスト「ぼくこそ、あなたを永久に失ったものと・・・」
 ガランス「あなたのことを忘れたことはないわ。夢にまで見たわ。おかげで齢もとらず、馬鹿にもならず、堕落もしなかったのよ。空虚で孤独な生活だったけど、悲しんではいけない、幸せなのだと思っていたわ。私を本当に愛してくれた人もいたのだからと・・・」
 二人は熱い口づけを交わす。そこへナタリーが息子を連れてやって来る。部屋のドアを開けると、バティストとガランスが一緒にいるのに愕然とする。ガランスは黙って部屋を出て行く。「ガランス!」、バティストが叫ぶ。声もだせないバティストにナタリーがいう。「答えて、バティスト、ねえ、いつもあなたはあの女を想っていたの? いつも一緒だったの? 夜も・・・夜もそうだったの?」。バティストはナタリーをふりきり、部屋を飛び出していく。
d0238372_0385434.jpg 「ガランス!」、大声で叫びながら彼女の後を追うバティスト。だが大通りは人で溢れかえり、彼女の姿は見えない。紙ふぶきが舞い、人びとが踊る雑踏のなかを、なおも叫び続けるが、叫び声はむなしくかき消される。ガランスが乗り込んだ馬車は遠ざかっていき、バティストの声は届かない。そこへ古着屋のジェリコが現われ、バティストの腕をつかまえて、大声で笑いながら――
 ジェリコ「ガランスか! さあ、もうお帰り、バティスト、すべては終ったのだ! 家へ帰りな!」
 バティスト「放せ!」
 バティストはジェリコの手をふりはらって、なおもガランスを追いかけようとする。だが、ジェリコは腕を放さない。
 ジェリコ「恥を知れ、バティスト! わしは一人寝とも忠告屋とも恥ずかしがり屋とも申すのじゃ・・・身持ちのよさが誇りでな!(高笑い)」
 バティスト「放せ! お前は嫌いだ!」
 バティストはなおも必死に馬車を追いかけようとするが、カーニバルの群集はいよいよ狂乱のるつぼと化し、その渦の中にバティストを飲み込んでいく・・・そして幕が下りる。

 ところで、この最後のシーンは、今回の展覧会でも公開されたプレヴェールのもともとのシナリオでは、次のようになっていた。

 バティスト「黙れ!(彼は古着屋を壁に投げ飛ばす。ジェリコは崩れ落ち、うめく。連れている犬と、古着や古ぼけた傘などがまわりに散らばっている)」
 ジェリコ「(うめきながら)無防備な哀れな年寄りを叩くなんて、恥を知れ!」
 バティストとガランスが彼から離れると、立ち上がる。
 ジェリコ「これはみんな、なんのためだ、誰のせいだ? 淫売女のせいだ! 腐った世のなかには、モラルもなにもあったものじゃない・・・堕落と淫売女だけじゃないか。(怒って)やつたを閉じこめて、鞭打つ必要がある!(彼は杖を拾うと、それを振るわせながら)そう、鞭をくれてやるんだ!」
 そして彼はよろめく足で二人のあとを追い、犯罪大通りで追いつくと、
 ジェリコ「バティスト、よく聞くんだ。もう家へお帰り、ニンジンが煮えている、お祭りは終わりだ。お帰り、そしてお前の淫売女は、彼女に相応しい通りに置いていくんだ。
 バティストは次第に蒼白になり、彼につかみかかる。
 バティスト「黙れ!」
 ジェリコ「お前の女には通りこそが相応しい・・・」
 バティストはわれを忘れ、ジェリコの杖を奪うと、恐ろしい一撃を頭に見舞う。
 ジェリコ「(倒れながら)ああ、イエス様、マリア様・・・」
 ガランス「バティスト・・・」
 彼女はバティストに抱きつく彼は倒れて動かないジェリコをじっと見ている。
 バティスト「(夢のなかのように)」彼は死んだ・・・」
 ガランス「(彼の頸を抱きながら)可哀相なバティスト!」
 人びとがなにごとかと近づいてくる。そして幕。(Les enfants du paradis, un film de Marcel Carné、Editions Jean-Pierre Monza. p.159)
 
 プレヴェールは、実在したジャン=バティスト・ドビュローが杖使いの名手であり、彼が酔漢を杖で殴り倒して裁判沙汰になった史実を生かし、それによってバティストとガランスの絶望的な先行きを示そうと考えたのである。だがカルネは、もう少し余韻を残して映画を終らせたかった。そのためにプレヴェールと話し合って、映画をいま見るような結末に変更したのだった。
 『天井桟敷の人びと』の撮影は、パリのスタジオでの撮影を終えると、一行はニースに移動した。ニースの「ヴィクトリーヌ撮影所」の野外セットは雨ざらしのまま放っておかれために、補修に80万フランの費用がかかった。
 数多くの夜間のシーンの撮影には、「犯罪大通り」のセット全体を照明する必要があった。だがドイツ占領当局は、灯火管制を理由に野外撮影を許可しなかった。それでも映画の進行上、最低でも二つの野外シーンは、どうしてもはずせなかった。
 一つはバティストが、「大劇場」で上演されている『オセロ』を観に行く場面で、これには劇場の正面を明々と照明する必要があった。もう一つは、フレデリック・ルメートルが、バティストに小さなホテルを紹介して、そこで彼がガランスに再会するシーンで、これらのセットをスタジオの内部に組む必要があったが、それには「ヴィクトリーヌ撮影所」のスタジオは小さすぎた。そのためカルネと一行は、またまたパリへ移動するはめになった。
 セットを組み、撮影をはじめるには二週間が必要だった。こうして仕事を再開した6月6日、自由フランス軍も参加した連合軍がノルマンディー上陸作戦を敢行したのである。
 カルネはこのニュースを知ると、『天井桟敷の人びと』を間もなく実現するはずのパリ解放後、最初に上映する映画にしたいと望んだ。マルセル・カルネは回想録でこう書いている。
 「事実、〔連合軍〕上陸のニュースを知るや、私にはたった一つの望みしかなかった。ようやく見いだされる平和の最初の映画とするために、映画を終わらせるのを出来るだけ長く引っ張ることだった。このときから、停電、輸送手段の不足、見つからない音響効果のための装置を探すこと等々、完成の遅延をもたらすものはすべて歓迎ということになった。この遅延を逆に利用して、一本の映画の代わりに二本の映画をつくろうとした。」(Marcel Carné: La Vie à belles dents、pp.191-192)
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by monsieurk | 2013-04-16 22:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)

天井桟敷の人びと(5)

 1943年8月16日、南仏ニースの「ヴィクトリーヌ撮影所」で、プレヴェールの脚本、マルセル・カルネ監督の映画の撮影が開始された。製作はフレッド・オラン、撮影は名カメラマンのロジェ・ユベールをマルク・フォサールが補佐した。
 そしてこのときから映画のタイトルは、「フュナンビュル座」から「天井桟敷の人びと」へと変更された。ジュール・ジャナンが書いたジャン=バティスト・ドビュローの評伝のタイトル、「天井桟敷」にヒントを得たものだった。「天井桟敷(le paradis 天国)」とは劇場の一番上の立見席を指し、そこにはボックス席や平土間の席の切符を買う金はないが、本物の芝居好きがつめかけることで知られていた。
 プレヴェールのシナリオが完成したとき、「犯罪大通り」の野外セットはまだ完成しておらず、撮影は室内シーンから開始されることになった。ただ撮影開始にあたって、もう一つの難問が未解決だった。映画のアイディアを提供したジャン=ルイ・バローがドビュロー役をやることになっていたが、コメディー・フランセーズ座との契約で、ポール・クローデルの『繻子の靴』を演出するため、身体が空かないというのである。
 マルセル・カルネは、一時ジャン=ルイ・バローの出演をあきらめて、当時ミュージック・ホールのパントマイム芸人として人気が出つつあったジャック・タチを、代役に立てることも考えた。しかしバローとコメディー・フランス座の話し合いがつき、予定通り彼がドビュローを演じることになった。こうして『天井桟敷の人びと』の第一話「犯罪大通り」の撮影がはじまった。
 1830年ごろのパリ。人、人でごった返す大通り。大小さまざまな劇場や寄席が軒を並べ、小屋の前では芸人たちが舞台衣装をつけて呼び込みに懸命である。とあるテント張りの小屋の表には、井戸から上半身を見せた女の裸体姿の絵がかかっていて、それを指しながら呼び込みの男が叫んでいる。
d0238372_0214220.jpg 「さあ、いらっしゃい! 見てらっしゃい! 〈真理〉はここにあり。一度ごらんになったら最後、昼はまぼろし、夜は夢・・・さあ、いらっしゃい、見てらっしゃい。一糸まとわぬ全裸の美女、生まれながらの艶姿・・・」
 呼び声につられて、二、三人の男が入っていく。奥には筒状の井戸が置かれ、そのなかに一人の女が身を沈めている。しかし見えるのは肩先だけである。
 呼び込みの男の声が、威勢よく聞こえてくる。「見てらっしゃい。目の保養をしたい殿方、美を解する殿方には絶対の見もの・・・」(Jacques Prévert, Les Enfants du Paradis, un film de Marcel Carné. Editions de Monza, p. 53)
 主人公ドビュローの登場は次のような次第である。派手な呼び込みが行われているフュルナンビュル座の前に、ガランスとラスネールがやってきて群がっている野次馬に加わる。呼び込みが行われている小さな舞台の片隅の酒樽に、静かに腰かけているピエロのバティストの目がガランスにじっと注がれる。
d0238372_0214792.jpg ガランスの隣にでっぷり太った商人風の男が立っている。彼を挟むようにシルク・ハットをかぶったラスネールが立ち、男の金の懐中時計をねらっている。舞台がはじまり、バティストを残して役者たちは小屋に引っ込み、野次馬も散りはじめる。すると商人風の男が懐中時計がないと騒ぎ出し、隣にいたガランスの腕を捉まえて、「泥棒だ」と叫ぶ。駆けつけた警官がガランスを連行しようとしたとき、ピエロのバティストが、「ぼくが・・・ぼくが証人だ!」と叫ぶ。
 警官「きみは何を見たのかね?」
 バティスト「何もかも!」
 バティストは樽から降りて、パントマイムを演じはじめる。
 ガランスと腹の突き出た中年男とラスネールの三人を一人芝居で演じながら、時計の盗んだのはガランスではなくラスネールであり、彼はもう逃げ去ってしまったことを、手振り身振りで見事に伝えて、野次馬たちの拍手喝采を浴びる。
 濡れ衣の晴れたガランスは、野次馬たち一緒に去りながら、舞台の下からにっこり笑って胸に挿した一輪のバラをバティストに投げる。バティストはハッとしながら、それを受け取る。彼も〈真理〉の小屋掛けで彼女を見て以来、その魅力のとりこになっていたのだ。
 やがて物語の舞台回し役である、古着を商う「ラッパのジェリコ」や、バティストを慕うフュナンビュル座の座長の娘ナタリー、盲人の乞食「絹糸」(実は目の見える)などが登場して、「犯罪大通り」で繰り広げられる人間模様が次第に織り上げられていく。
 夜眠れないバティストは「絹糸」に連れて行かれた酒場で、ラスネールと一緒に来たガランスを見かけてダンスに誘う。ラスネールの子分に絡まれて、一度は外に放り出されるが、戻ってきた彼はその子分を蹴りの一撃でやっつける。店を出た二人はパリが見下ろせる高台を散歩しながら、互いの気持を確かめ合う。
d0238372_0215135.jpg バティスト「ぼくの命はあなただ・・・名前は?」、「ガランス、花の名のようなね」、「・・・ガランス、愛しています。あなたも、ぼくを愛してくれますか?」、「子どもみたいね、そんな愛し方は夢の中よ」、「夢も現実も同じだ。だから生きていけるのだ」、「・・・好きよ」。二人は唇をかさねる。「恋なんて簡単よ」、そうガランスが言ったとき、突然、雷が鳴り、雨が降り始める。・・・(ibid.87)
 撮影は順調に進んで、1943年9月6日には戸外セットでの仕事がはじまった。だが二日後の9月8日、撮影は中止されてしまった。それには第二次大戦の戦況が影響していた。この年の7月25日、連合国軍がシチリア島に上陸し、イタリアのファシズム体制は崩壊、辞職したムッソリーニは逮捕された。モンゴメリー元帥指揮下のイギリス・カナダの合同軍はイタリア半島の南端カラブリアに上陸、一週間後にはアメリカ軍がこれに続いた。ムッソリーニのあとを継いで首相となったバドリオ元帥は、シチリア島のカッシビーレで停戦協定に調印し、これが9月8日に発表されたのである。
 イタリアが停戦したあともドイツ軍はあくまで抵抗する姿勢を示した。緊迫する情勢のなかで、ドイツに協力的なヴェシー政権は、カルネ監督以下の撮影隊に『天井桟敷の人びと』の撮影を中止して、撮影機材やフィルムとともにただちにパリへ引き上げるように命じた。降伏したイタリア系の「ヴィクトリーヌ」が共同出資者だというのが理由だった。
 カルネは戸外に組んだ巨大なセットを使って、あと一週間撮影が出来るように、映画産業組織員会のポール=エミール・ガレーに斡旋を頼んだが効果はなかった。こうして『天井桟敷の人びと』の製作は中断を余儀なくされたのである。プロデユーサーのアンドレ・ポールヴェは家系にユダヤ人の血が流れていることが発覚して、社会的活動を全面的に禁止された。それでも彼はひそかに人を介してパテ社と粘り強く交渉し、その結果パテ社が『天井桟敷の人びと』の製作を引き継ぐことになった。
 1944年3月15五日、パリ17区のフランクール通りのパテのスタジオで、撮影が再開され、バティスト役のジャン=ルイ・バロー、ルメートル役のピエール・ブラッスール、ガランスのアルレッティ、無頼詩人ラスネールのマルセル・エラン、ナタリー役のマリア・カザレスは元気な顔を見せた。ただ古着屋のジェリコを演じるロベール・ル・ヴィガンは、対独協力者として欠席裁判を受け、まだ全部のシーンを撮り終えないままドイツへ逃げてしまった。そこで急遽ベテランのピエール・ルノワール(ジャン・ルノワール監督の兄)をジェリコ役に起用して撮り直しが行われることになった。
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by monsieurk | 2013-04-13 22:21 | 映画 | Trackback | Comments(0)

天井桟敷の人びと(4)

 プレヴェールは1943年2月17日、ディシナ社と2本の映画を製作する契約を交わした。『フュルナンビュル座』の準備を進めていたカルネとプレヴェールには、映画を構成する要素が多く、登場人物も大勢になることが予想された。
 ドビュローとフレデリック・ルメートルの舞台を描くのには、彼ら二人のスターを取り囲むさまざまな人物を登場させる必要があった。そのため映画は通常の長さではとても納まりきらない。『悪魔が夜来る』の成功をうけて、プロデューサーのポールヴェは、大抵のことは認めてくれたが、採算が確保できるかが最大の問題であり、映画の長さは直接これに関係した。二人から話を聞いたポールヴェは、このテーマで時代を異にする2部からなる映画を製作することにした。
 契約を結んでからは、プレヴェールは本格的に脚本に取りかかった。今度の作品はこれまでのような原作の脚色ではなく、シナリオも台詞もすべてオリジナルなものを創作しなければならないが、それだけにやり甲斐もあった。
 『フュルナンビュル座』のテーマは彼に馴染みの世界だった。1830年代の芝居の世界は遠い過去ではなく、子ども時代に垣間見たものだった。18歳のときサッシャ・ギトリが演じる『ドビュロー』の舞台を観ていた。さらに彼が25歳のとき、ジャン・エプスタイン監督の映画『ロベール・マケールの冒険』が上映され、これは19世紀の芝居の世界で起こった史実をもとにした作品だった。
 1823年7月、アンビギュ=コミック座で初演された三幕物のメロドラマ『アドレの宿』は、ならず者の主人公ロベール・マケールがさまざまな悪事を働くが、最後は天罰が下るという勧善懲悪の芝居だった。ところがこの芝居でフレデリック・ルメートルが演じたマケールが人気者となり、復活を望む声が多く寄せられたことから、ルメートルを中心にした新たに四幕六景の『ロベール・マケール』が上演された。これはマケールと相棒のベルトランが次々に引き起こす騒動と、彼らが繰り返す政治や社会批判が人気を呼んで大ヒットとなった。
 ロベール・マケールは社会の既成秩序に反抗する一典型として、バルザック、ヴィクトル・ユゴー、フロベールといった作家も感心を寄せ、エプスタインはこの芝居をもとにして1929年に映画を製作したのである。
 プレヴェールがこの映画を通してロベール・マケールの存在を知り、どれほど興味を惹かれたかは、親友のイヴ・タンギーの結婚式の証人になったとき、マケールの扮装をまねて右目に黒い眼帯をしていたことでも分かる。プレヴェールはやがて『フュルナンビュル座』のシナリオに、ルメートル役の役者が劇中劇の『アドレの宿』の場面で、ロベール・マケールを演じる場面を挿入することになる。
 19世紀の芝居の世界は、若いときに舞台俳優を志したプレヴェールの父の世代にまでつながっていた。芝居の世界に生きる夢がかなわなかった父は、一時息子が跡を継いでくれることを望んだように、フレデリック・ルメートルやドビュローの世界は、父を通して彼の子ども時代まで続いていたのである。
 プレヴェールは、19世紀の20年代から30年代の「犯罪大通り」の人間模様を描くために、ドビュローとルメートルという実在した演劇界の大立物に加えて、第三の人物ラスネールを見つけ出した。そのモデルになったピエール=フランソワ・ラスネールは、1800年12月にリヨンで生まれ、少年のころから窃盗などの犯罪を重ね、父親に「お前の行く末はギロチン台だ」といわれた。
 長じては刑務所入りを繰り返し、そこから雑誌にシャンソンや詩、あるいは時事評論を投稿して一部の人たちに注目され、最後は金を奪うためにパリで老婦人とその息子を殺害して逮捕された。そして裁判では父親の予言通りにギロチンで処刑されたのだった。プレヴェールはこのラスニエールを物語に登場させることで、犯罪大通りのもう一つの側面、悪と破壊の情念を表現しようとしたのである(実在の彼については2012年2月20日のブログ「ピエール=フランソワ・ラスネール」を参照)。
 そしてこれら三人の人物の運命を結びつけ、複雑にからみあわせる役として、どうしても一人の女性を生み出す必要がった。プレヴェールがこの役柄を思いつくのに大きな影響をあたえたのが、妖艶な女優アルレッティの存在だった。
 彼は最初からアルレッティの出演を想定して、ガランスという謎にみちた魅力的な主人公をつけ加えることにした。『フュルナンビュル座』のシナリオの骨格は、こうして次第に固まっていった。
 プレヴェールの回想によれば、ヴァレットの小修道院付属の住居で、プレヴェールを中心に、美術担当のアレクサンドル・トロ-ネ、作曲家のジョゼフ・コスマはアイディアを出し合いながら、シナリオ制作の作業を行った。占領下で、いつ警察のユダヤ人探索の手が伸びるかもしれない緊迫した状況のなかで、彼らは一カ所に集まって生活しつつ仕事を進めたのだが、これが団結を強め、仕事の濃度を高めるのに役立った。      
d0238372_838445.jpg プレヴェールがあるシーンのストーリーを書くと、そのシーンに合わせてコスマが音楽をつくり、メロディーをその場でピアノで聞かせる。メロディーに合わせて、プレヴェールがまたストーリーを変えていくというやり方だった。そしてトローネがこれに相応しい舞台装置のデッサンを描く。それがまたプレヴェールの想像力を刺激した。こうした相互作用の効果は抜群だった。
 南の自由地域とパリの間を一番往復したのはマルセル・カルネだった。1830年代の「犯罪大通り」の風俗や歴史を知るのに欠かせない資料を、パリに関する豊富な歴史資料を所蔵する「カルナバレ博物館」へ行って集めてくるのが彼の主な仕事だった。こうして集められた材料は仕事場に変わった食堂に集められ、みながそれを活用した。
 プレヴェールとトローネの友人である画家のマイヨが衣装を担当することを引き受けた。彼にはこれが最初の映画の仕事だったが、さまざまなアイディアを出した。女主人公ガランスのハート形のイヤリング、ナタリーが首のまわりつける十字架、バティストのぴったりした服、ラスネールのしゃれた服装。だがそれもエドゥアール・ド・モントレー伯爵の前では輝きを失ってしまう・・・こうした登場人物を象徴し、プレヴェールが考える物語の展開に意味をあたえることになった。さらにマヨの彼の妻は服飾店のランヴァンの勤めていて、布地のストックを融通してくれることができた。
d0238372_8383779.jpg トローネの装置にはデッサンと建設で3カ月を要した。一番重要なのは「犯罪大通り」で、大勢の登場人物を仕込むために、80メートルの大通りのセットに加えて、その先にさらに20メートルのだまし絵の書割をつくる必要があった。トローネはこのための色彩による下絵を描いた。彼は建築家である前に画家だったから、装置はいつも模型ではなく絵で示された。
 このデッサンに基づいて、カンヌのラ・ヴィクトリーヌ撮影所では、『悪魔が夜来る』のセットに代わって、映画『フェナンビュル座』の巨大なセットが出来上がりつつあった。装置の組立はレオン・バルサックが指揮した。トローネは小修道院の住居を離れることができなかったからである。
プレヴェールは映画の封切り後の1945年4月、「アクシオン」誌上で、セシール・アゲの質問にこう答えている。
 「あなたはこの物語を書くのに長い時間を費やしたのですね。
 ――6か月。長い時間です。でも映画も長いものです。
 ――仕事はどんな具合に進めたのですか?
 ――共同で・・・いつもの通り。
 ――共同で?
d0238372_8383242.jpg ――そう、他の人たちと、同じ家で・・・監督のマルセル・カルネ、衣装をデザインしたマヨ、装置を担当したバルサックとトローネ、彼は働くのを禁じられていたんだが、そして音楽家のジョゼフ・コスマたちと一緒に。コスマもトローネ同様働く権利はなかったのだけれどね。彼らはみなこの仕事を愛していたし、そのやり方を心得ていた。・・・
 ――みなさんはお互いによく理解し合っていたのですか?
 ――奇跡みたいにね。シナリオが出来上がり、映画の準備が整ったとき、カルネが撮影をはじめたわけだ。それは恐ろしく困難な仕事だったが、彼はこれまで以上に見事にやってのけた。間違いなく最良の出来だった。彼は驚くべき監督だよ。その上、人間としてはとても謙虚なのだ。私は彼が大好きで、もう7本も一緒に映画をつくった。」
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by monsieurk | 2013-04-10 22:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)

天井桟敷の人びと(3)

 この年の夏、ジャン=ルイ・バローとマドレーヌ・ルノーの俳優夫妻は、息子のジャン=ピエールを連れてサン・トロペへやって来た。ジャン・グレミヨン監督の『夏の光』の撮影が1942年8月から翌年1月まで行われ、マドレーヌ・ルノーが城主のかつての愛人役を演じる間、一家はポンペロンヌにあるブドウ畑のなかの小屋に泊まることにした。
d0238372_11103251.jpg プレヴェールは、ジャン=ルイ・バロー(写真)がパリのオーギュスタン通りに稽古場をもっていた1936年ころからの友人だった。カルネとプレヴェールがジャン=ルイ・バローと出会ったのはこの夏の日のことである。二人は、『悪魔が夜来る』の次の作品のテーマを求めて話し合いを重ねていた。カルネはプロデューサーのポールヴェが、ニースに近いネグレスコに持っているペンションに滞在していて、プレヴェールがそちらへ行くか、カルネがプレヴェールの所へやってくるかして、毎日のように顔を合わせた。
 プレヴェールはトゥレット・シュル・ルーの上の方にある小修道院に附属する住居を借り、パリから同伴した女友だちのクローディ・カーターと、トローネ一家やコスマ一家と共同生活を営んでいた。ここはトゥレット・シュル・ルーから5キロほど離れた人里離れた場所で、静かだし安全だった。というのはオリーヴ畑に囲まれた住居には裏側にも出入り口があり、警察が来襲したときは、トローネたちは逃げ出して、15キロほど北に離れたグレゴリエールのアンドレ・ヴェルデの叔母の家まで行って隠れることができた。ヴェルデはプレヴェールの年若い友人で、詩を書くとともにレジスタンスの責任者として活動していた。
 1942年4月にラヴァルがペタン将軍の下で政権に返り咲いて以来、ヴィシー政府の対独協力は一層明確になった。内務大臣を兼務したラヴァルは警察長官にブスケを起用し、フランス警察はドイツ親衛隊への協力姿勢を示した。その最たるものが、占領地域での「ユダヤ人狩り」であった。そして自由地域でも8月26日から28日にかけて、ユダヤ人の一斉検挙が行われて1万500人が逮捕された。
 ドイツはこの年1月に、「ユダヤ人問題の最終的解決」を決定していた。これはそれを実行するもので、逮捕されたユダヤ人は強制収容所に送られたのである。パリ北東部のドランシー収容所からは連日のように、アウシュヴィッツなどに向けてユダヤ人を詰め込んだ列車が出発した。強制収容所に送られたユダヤ人は7万6000人にのぼり、南フランスでも危険がいつ及ぶかもしれず、油断はできなかった。
 占領が長引くに連れて、占領地域でも自由地域でも物資の不足が目立つようになった。植民地との交易は中断され、フランス本国でも分断された南北の間の物資の流通は滞り、加えてドイツ軍の徴発であらゆるものが払底した。生産の低下、賃金の凍結が人びとの生活を脅かした。配給制度の下ですべてのフランス人は、年齢と職業によって8種類に分類され、それぞれについて品目別に配給の量が決められた。しかも折角手にした配給切符が、物資の不足からただの紙切れになってしまうこともあった。みなが生きることに必死だった。
 そうしたなかでレジスタンの動きも活発化にしつつあった。自由フランスの要人の一人ジャン・ムーランは、まずは南部自由地域での抵抗運動の統一をはかり、やがて南北の運動の統一をめざした。彼は1943年1月には、南部の三大抵抗組織、「戦闘」、「解放」、「フラン=ティルール」を「統一レジスタンス運動」へとまとめ上げることに成功する。
 こうした情勢のなかで、カルネとプレヴェールは次回作の構想をねっていたのだが、いいアイディアは浮かばなかった。そうした折も折り、プレヴェールが書き上げた『シルヴィーと幽霊』の脚本を、アルフレッド・アダムが拒否したと知らされ、プレヴェールは腹を立てた。シナリオを仕上げるのには多くのシーンを考え出さなければならなかったし、トローネはすでに装置の下図をこしらえていた。二人がバローと出会ったのはこうした最悪の精神状態のときだった。
 プレヴェールはたまたま出会ったバローに向かって、何かいいテーマはないかと出し抜けに訊ねたという。以下はバローが書いているこのときの様子である。
 「私たちはカフェのテラスでビールを飲んだ。イギリス人たちがよく散歩で立ち寄る場所(私の祖父もかつてよく行ったところ)だ。プレヴェールが私に言う。
 ――何かテーマはないかい?
 ――あるよ。トーキー映画用に、パントマイム役者の話を撮ればいい。科白を話す役者と対比させてね。たとえば、ドビュローとフレデリック・ルメートル。
 ドビュローは妻を守るために、誤って杖の一撃で暴漢を殺してしまったのだ。犯罪大通りの連中はこぞって裁判に出かけた。裁かれる彼を見るためではなく、彼の声の調子を聴きにいったのさ。
 トーキー映画用にマイム役者? 犯罪大通り? そのどれもがプレヴェールの気に入った。
 ――それを四、五枚に書いてくれ。それをもとに私がシナリオを作り、一緒に映画を作ってみようじゃないか。
 ――興味が湧いたのなら、ぼくが持っている本を全部、君に渡すよ。」(Jean=Louis Barrault: Souvenirs pour demain、p196)
 ジャン=ルイ・バローは役者になる前、エチエンヌ・ドゥクロワからパントマイムと身体を用いる表現の技を学んでいて、ドゥクロワは彼にジャン=バティスト・ガスパール・ドビュローの存在を教えたのだった。
 ドビュローは1830年代に一世を風靡したパントマイム役者で、バティストの愛称で呼ばれていた。彼は真っ白なキャラコ地のたっぷりとした衣装を羽織り、同じく白いズボンをはいて、黒いナイト・キャップをかぶって舞台でパントマイムを披露した。ドビュローは、それまではピエロの一種とみなされていたパントマイムの芸を一つの芸術に仕上げて、劇場が立ち並ぶ「犯罪大通り」に君臨した。
 「犯罪大通り」はパリの古い城壁に沿って、三区から十一区にかけて延びる「タンプル(寺院)大通り」の俗称で、当時好んで上演されたメロドラマが、暴行、強盗、殺人といった事件を盛り込んだことから、こう呼ばれるようになったのである。
 「フュナンビュール座」は「犯罪大通り」にあったパントマイムやヴォードヴィル専門の芝居小屋で、「フュナンビュール」とは綱渡り芸人や軽業師を意味し、ドビュローが演じるピエロの夢幻劇が、パリ中の人気を集めるにおよんでパントマイムの殿堂となった。
 ジャン=ルイ・バローがプレヴェールたちに、ドビュローと対比して語ったフレデリック・ルメートルは、「ブールヴァールの獅子」と綽名される「犯罪大通り」のもう一人のヒーローだった。ルメートルは音吐朗々とした科白まわしが評判で、大衆受けする犯罪がからんだロマン主義の悲劇の主役を演じて評判を得ていた。
 ドビュローが杖の一撃で人を殺したという逸話は事実だった。ある日、彼は妻とバティニョルにピクニックに出かけた。一人の労働者が、彼がパントマイム役者のドビュローだと分かると、現実と舞台とを混同して、弱虫のピエロの妻を侮辱するようなことをした。だが実際のドビュローは杖使いの名手で、この恥知らずをぶちのめした。
 彼の裁判にはパリ中の人たちが傍聴につめかけた。それは彼の無罪を支持するというよりも、当代切っての物言わぬパントマイム役者がいったいどんな声をしているのかを知りたがったのである。
ジャン=ルイ・バローがカフェで何気なく披露したアイディアは、プレヴェールを魅了した。そしてここからフランス映画最大の傑作といわれる作品が生まれることになる。
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by monsieurk | 2013-04-07 22:15 | 映画 | Trackback | Comments(0)

天井桟敷の人びと(2)

 ヴィシー政権の政治的協力として一番大きかったのは、ユダヤ人への差別政策である。プレヴェールとコンビを組むトローネやコスマはユダヤ人であるために仕事から締め出されたが、それはドイツ占領軍が占領地域でユダヤ人取締法を施行し、ヴィシー政権も自由地域で同じような法律を決めた結果だった。
 1941年の夏には「ユダヤ人定員法」が実施されて、法律家と医師は全体の2パーセント、大学教授は3パーセントというように、フランス国籍を持つユダヤ人の就職を厳しく制限した。ユダヤ人は公職から追放され、公共の場からも締め出された。しかもユダヤ人は買物も午後の一定の時間に制限されるといった差別をうけた。
 文化面でもドイツへの協力体制がつくりあげられた。ジャーナリストや作家、芸術家が、論文や講演で占領軍への協力を呼びかけ、ナチズムを賛美し、反ユダヤ主義を宣伝した。「NRF(新フランス評論)」の編集はドリュ・ラ・ロシェルの手にゆだねられ、対独協力の作家たちの作品を多く掲載するようになった。有力な出版社グラッセも、ドリオ、ドリュ・ラ・ロシェル、ジョルジュ・シュアレスなどの熱烈な対独協力派の作品をすすんで刊行した。
 各出版社が協力して「オットー・リスト」がつくられた。これはユダヤ人作家や亡命作家の出版物を絶版にするための禁書リスト〔オットーはドイツ大使の名前〕で、ドイツのハイネ、フロイト、ブレヒト、ツヴァイク、トーマス・マン、フランスではレオン・ブルム、ジュリアン・バンダ、ルイ・アラゴンなどが対象となった。さらにシェイクスピア、ミルトンなどイギリスの作品も書店の店頭から姿を消した。こうして千点以上の書物が破棄され、図書館からは反ナチズムを訴える書物が没収された。
 ラジオでは、占領地域の「ラジオ・パリ」、自由地域の「ラジオ・ヴィシー」がしきりに親独的なプロパガンダを流し、親独的な作家や芸術家がドイツに招待された。その一方で、「サラ・ベルナール劇場」は、彼女がユダヤ人であったという理由で、「シテ劇場」と名称を変更させられた。同じフォビスムの画家としてスタートしたヴラマンクは、反ナチスのピカソを、「フランス絵画をまったく致命的な袋小路へ・・・否定、無力、死へと引き込んだ元凶である」と非難した。それぞれの芸術上の立場とは別に、ナチスとどのような距離を保つかで、かつての仲間が対立し合った。
 1942年2月、ジャック・ルコント=ボワネは、「レジスタンスの人びとの運動」をひそかに設立した。そしてカメラマンのアンリ・アルカンは、「ニース映画青年芸術技術センター」の同僚や、ラ・ヴィクトリーヌ撮影所の写真カメラマンとともに連絡網をつくり、抵抗運動の支援に動き出した。彼らは偽の身分証明書をつくり、お手のものの映像を用いた呼びかけを行った。その一つがルネ・クレマンの製作したドキュメンタリー映画『鉄路の戦い(鉄路の人びと)』である。
 これはニースとマルセイユの間で撮影され、ドイツの軍隊輸送を妨害する抵抗運動を描いたものだった。ただ映画の場合は、公開には検閲を通す必要があったから、一般の人びとがこの映画が目にしたのは戦後になってからだった。
 出版の世界では事情が若干異なっていた。ナチスを擁護する出版物しか許可されなかったなかで、外国に亡命しなかった知識人の多くは沈黙を余儀なくされた。紙とインクは配給制で、印刷所には当局の監視の目が光っていた。しかしこうした困難にもかかわらず、ヴェルコールが「深夜叢書」を創刊し、彼自身の『海の沈黙』が叢書の第一号となった。次いでフランソワ・モーリアックの『黒い手帳』、エリザ・トリオレの『アヴィニョンの恋人』が出版されて、監視の目をくぐって人びとの手から手に渡っていった。ジャン・ゲーノ、アラゴン、エリュアールたちの「深夜叢書」は、人びとの士気を高めるのに大きな役割をはたした。
 『悪魔が夜来る』の撮影が1942年4月22日からはじまるという予告がリヨンの新聞に載った。新聞はドイツ協力派のもので、4月18日号にニコラ・ヴェドレが書いた、「ジャック・プレヴェールとの会見」という記事のなかで伝えたものであった。
 記事によれば、城のセットがようやく完成したが、監督のカルネはそれを真っ白にして欲しいと注文を出したといった内明け話が披露されていた。中世の城は建造された当初、すべて輝くような真新しさだったことを、みなは忘れているというのである。
 だが撮影を開始するにはまだ多くの問題がった。映画には多くの馬が登場するが、ニースの周辺でこれを確保することができず、ヴィシーに駐留する憲兵隊の馬を借りる交渉をしなければならなかった。さらに衣装を揃えるのも一苦労だった。中世の豪華な衣装をつくるのに欠かせない、絹、ビロード、金襴がなく、発明されて間がない化学繊維で仕上げるしかなかった。そのため撮影では出来るだけアップを避ける必要があった。さらには晩餐会のシーンで、テーブルに山と盛られる鳥獣の肉や果物を調達するのも大変だった。占領下でこれらを実現するには大変な費用と手間がかかる。そこでプロデユーサーのポールヴェはカルネに、プレヴェールのシナリをできるだけカットするように要求する始末だった。
d0238372_21462790.jpg 『悪魔が夜来る』は予定より3週間遅れて5月13日にクランク・インした。映画について、主演の一人アルレッティはクリスチャン・ジルとの対談でこう語っている。
 「――カルネとプレヴェールとあなたとの忘れがたい共同作業の一つだった『悪魔が夜来る』は、意表をつく独特の雰囲気に満ちた映画でしたね。
 不思議な登場人物がいっぱい出てきてね。神秘さが、奇妙で独自の空気を支配しているの。こんな雰囲気をもった映画は他にないでしょう。
 ――あなたの演じた役は不可思議を通り越して、正体が掴めないといった感じでした。
 ジャックはそれを私の性格の中に感じ取ってあの役を書いたんですって。“ドミニク”という名前も性の区別がなくて、曖昧に両性具有の存在を暗示しているわ。(中略)
 ――『悪魔が夜来る』の特異な役を演じることには、最初不安はありませんでしたか?
 全然! プレヴェールのような大詩人がくれた、あれほど素敵な役は思わず抱き締めたくなるほどよ。それに外見や人格を変えるのは役者の仕事ですもの・・・
 ――ドイツ軍の占領期間中、映画製作への規制はなかったのですか?
 大俳優たちの参加を妨げるようなことはなかったわ。財政はすかんぴんだったけど、彼らにはしっかりギャラがおりたの。それは占領者側に向かって、私たちがいい映画を作れることを示さなくてはならなかったからよ。(中略)
 ――特に好きな場面はありますか?
 いいえ、すべてが美しいから。映像自体が素敵なの。カルネという、優れた指揮者によって完璧に演奏された映画なのよ。」(クリスチャン・ジル『女優アルレッティ――天井桟敷のミューズ』松浦まみ訳、一二九-一三〇頁)
 アルレッティは、プレヴェールを「大詩人」と呼んでいるが、これは彼の『ことば(パロール)』が出版されたあとにインタビューがなされたためで、戦前のこの時期、彼の詩が広く知られていたわけではない。そしてプレヴェール自身は、「詩人」と呼ばれることを嫌っていた。
d0238372_21463052.jpg 1942年6月17日、『悪魔が夜来る』の製作責任者だったジョルジュ・ランパンが、撮影開始の直後に辞めることになった。映画監督の仕事がまわってきたからである。そこでランパンは、プレヴェールに、アルフレッド・アダムが書いたばかりの『シルヴィーと幽霊』を脚色してくれるよう依頼した。プレヴェールはこの仕事を引き受けるとともに、『悪魔が夜来る』の撮影現場にもよく顔を見せた。二人の恋人が最後に抱擁する泉は、プレヴェールたちが住むトゥレット=シュル=ルーの丘の麓につくられ、ここは彼にとっても馴染みの場所だった。
 プレヴェールは1960年に行ったインタビューで、「戦争に立ち向かえる唯一の映画、それは恋愛映画だ」(Libération、1960年8月12日号)と語ったように、困難のなかで製作されつつある映画に大いに期待していた。ただし予定よりかさむ制作費を切りつめる必要から、ポールヴェが彼が考え出したシーンの幾つかを削るように要求するのには閉口した。彼の抵抗もむなしく、ユグー男爵の城全体が、最後に崩壊してしまう大掛かりなシーンは撮影されなかった。こうして『悪魔が夜来る』の撮影は9月まで続けられた。
d0238372_21463376.jpg 『悪魔が夜来る』が、パリの「マドレーヌ映画館」で封切られたのは年も押しつまった12月5日である。映画が上映されると、新聞の批評はどれも好意的で、地下鉄やバー、美容院など人が集まるところはどこでも、この映画の話題で持ちきりだった。
 発行部数50万部を誇る「ル・プティ・パリジャン」誌で、映画評論家のフランソワ・ヴァンヌイユ(政治評論は本名のリュシアン・ラバテで執筆していた)は、「『悪魔が夜来る』は、私たちの願いをかなえてくれた。忠実な脚本家のジャック・プレヴェールとともに、マルセル・カルネは伝説の国の美しい世界でしばしば見られる、泥臭いドラマを見事に逃れている。・・・カルネは繊細さと本物らしさを十分に取り入れて、象徴と暗示と不思議な味わいを結婚させることに成功した。そして絶妙な照明技術を駆使して撮影された、ごく限られた映像で構成される映画の隅々にまで、偉大な愛の詩が表現されている。・・・カルネの映画は一時代を劃した。それは映画をして高貴な文芸にまで高めたといえる」と激賞した。
 また「タン」紙では、詩人で小説家のエミール・アンリオが、「『悪魔が夜来る』の作者たちは真の詩人と劇作家の作品をつくりあげた。私がこの快挙に真っ先に拍手したいのはその点である。それは映画を詩の高みに、つまり、創意、想像力、「夢想と魅惑の森」のなかの精神の偉大なる自由にまで高めた」と評価した。
当局もこの映画のなかに非難されるべき箇所を見出すことはなく、ヴィシー政権の息がかかった映画産業組織委員会は、「グランプリ」を授与した。
 ただスペインに駐在していたフランス大使だけは、この映画にひそむ危険な臭いをかぎ当てた。フランス文化を海外に宣伝するために、映画がドイツ領事の支援の下でスペイン大使館に送られたとき、これを試写した大使は、ヴィシー政権のラヴァル首相に宛てた1944年4月8日付けの手紙で、次のように警告してきた。
 「宣伝のためのデモンストレーションとして、この映画を上映するのは時宜に適わず、また危険でさえあると考える。(中略)小職はこの映画に、道徳のまったくの欠如、非宗教性、無宗教といった側面を見出す者である。映画の作者は、十字架や「教会」を観客に示すことを一瞬たりとも考えてはいない。(中略)ここで展開されるのは、情熱的な接吻、感情の昂ぶり、恋愛の恍惚の笑うべき悪習だけである。」(Album Prévert. p.176)
 しかしこの大使のように、映画の真の狙いを見抜いたのはごくわずかの人たちだけだった。評判は上々で、カルネは「新聞はみな一様に、私にたいしていまだかつてないほどの賛辞を送ってくれている。今後もこんなことは決してないだろう。」(Marcel Carné:La Vie à belles dents. p.176)と書いている。その意味ではプレヴェールが語ったように、これは戦争に対抗できる唯一の恋愛映画だったのである。
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by monsieurk | 2013-04-04 20:10 | 映画 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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