フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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<   2013年 05月 ( 9 )   > この月の画像一覧

 こうした経緯をへてライス嬢からマラルメの許へ作品の依頼が寄せられた。マラルメは1876年4月4日付の彼女宛ての手紙で、記念碑の写真を贈られたことに感謝するとともに、『追悼記念文集(A Memoriam Volume)』への寄稿を喜んで承諾した。
 「セアラ・S・ライス嬢
  メリーランド州、ボルティモア、レキシントン通り129番地

 拝復
 ・・・貴女のおやりになったことは、この世で一人の女性にとって、この上ない名誉となる素敵な名誉となる業績の一つです。こう申しますのも、昔からほかでもなく、女性たちこそが、最も高貴な遺骸の埋葬者という立派な役割を務めてきたからです。貴女は、久しい以前からずっと私の共感と称賛をかち得ておられました。それだけではありません。貴女は、一冊の美しい書物が貴女のとくにお好きな詩人を讃美するのに役立つことを望んでおられます。私は微力をお貸しして、ご依頼を敬虔に成就いたしましょう。そして貴女に敬意を表して書かれた幾行かの詩を、お決め下さる日取りまでにお送りいたしましょう。私は昨年秋の盛典の記念文集のことを申し上げているのです。私の友人であり協力者であるマネは、一、二の文章によってよりもむしろ絵筆でもって、貴方の懇ろなお誘いに応じたいと望んでおりますが、そのような絵で書物を飾らせていただくことができるかどうかを訊ねております。木版でしょうか、それとも銅版でしょうか。ご指定くださるものを、彼は版画であれエッチングであれ、お送りするだろうと思います。(ここだけの話ですが、最後に申し上げた技法は、彼が秀でているものの一つなのです)。最後に、いや、以下に書きますことは、あくまでご賛同を得られればのことですが、わが国の亡き大詩人で私の師でもあるシャルル・ボードレールが『短篇小説集』の不滅の翻訳の巻頭に書きました散文の素晴らしい幾頁かのうちの一つのために、スペースをお割きくださるようにお願いしたく存じます。ご承知のことでそうが、フランスでポーを知らしめ、世に広めたのは、ほかでもなく彼なのです。
 大変長くなりましたこの手紙を書き終えるに当たって、この世にかつて現れた最も驚嘆すべき精神の一つにたいする、私たちの感嘆の念をさらにもう一度表現する機会を、貴女が私どもマネと私に提供してくださったことを、重ねて、いや、幾重にもお礼も仕上げる次第です。」
 一方『大鴉』の方は依然として行方知れずのままであった。ホイットマン夫人から1876年11月10日付けの英語で書かれた手紙が来た。
 「親愛なるマラルメ様、
 貴方の美しいお手紙と、『大鴉』をもう一冊お送りくださったというご親切にどうお礼を申しあげればよろしいでしょうか。私たちの「黒い鳥」が貴方に大変ご迷惑をおかけして恐縮に存じます。おそらく彼はノアの方舟の窓から飛び立たせたあの先祖の鳥のように、いまも海原の上をあちこちと彷徨っているのでしょう。ですから「ネヴァー・モア」という言葉を耳にしていないように見えます。創世記の第八章第十節でみられる通りです。
 ですが、貴方同様、私もこの運命を告げる鳥の行方不明を残念に思うだけではありません。といいますのも、それによって貴方の思いが大洋を越えて、それが宛てられた者の方へ飛んでくるはずだと申されたからです。・・・・(後略)」
 こうした手紙が大西洋を行き来しているうちに、『大鴉』が行方不明となった原因が判明した。その顛末を告げる、12月13日付けのマラルメの手紙。
 「・・・『大鴉』の不運な例の一冊に関して貴女が守っていらっしゃる沈黙、待ち望まれるお気持がヴェールにつつまれながら溢れている、得も言われぬ沈黙が、私にはよく分かります。っそれどころか、悲しげな沈黙です。仮にこの不幸をもたらす気まぐれな鳥が、(疑惑と神秘にむかって開け放たれている)十字窓から飛び込んでくるでもなく、貴女のお住まいの周りをかくも長いこと彷徨っているとしましても、どうかお信じください、この間違いは私に由来するものではありません。
 出版元はいまや破産しかかっており、私は滅多に顔を合せてはいないのですが、この男は私に、書物を再度発送し直したと、彼の偉大な〈神々〉にかけて断言したのです。それなのに、私はこの大切な小包を彼の家の一隅で見つけました。置き忘れられていたのです。私は自分である取次店に通報し、取次店はそれを取りに人をやり、発送させてくれました。今度こそは、さしもの不都合と非常識も終りを告げることを期待しております。・・・」
 R・レスクリードはマラルメのいう通り倒産の危機に瀕していた。マラルメやマネの要求が過大で、マネの挿画をするために極上の和紙を探し、さらに幾度も刷り直しをさせられるなどおおくの費用がかかったからである。その上宣伝に力をつくした豪華本は高額にすぎたのか売れ行きはかんばしくなかった。レスクリードは1,876年11月の初めになって、在庫の一部をマラルメの引き取らせようとしたが、詩人は何の手をうつことができず、1877年1月、ついに貸借対照表を提出して破産を申し立てたのである。
 2月、「黒い鳥」はようやく大西洋をこえてロード・アイランドのホイットマン夫人のもとに届いた。2月6日の夫人の手紙――
 「親愛なるマラルメ様、
 多くのことに感謝申しあげなければなりません。
 貴方にお手紙を差し上げて以来、『大鴉』が私のルーム・メートになりました。火の炉辺の友だちです。――私にとりましては、夢みている間は他のどんな夢よりも現実味を帯びた存在です。版画のうちの二枚を、私の小部屋の壁に飾ってあります。一つは塔のそそり立つ街の屋根の上を、開かれた詩人の窓の方へ、羽ばたいて向かってくるところのもの、もう一枚はパラスの胸像の上の影のなかで君臨しているものです。二枚とも実に独創的で、心魅かれます。大鴉の、「床の上のその影」と思われるものしか見えない他の一枚については、私の判断力を越えており、どう評価すべきか分かりません。貴方はどう思われますか。これについては、私としてはギリシア人たちが彼らの栄光の死について行ったようにしたいと思います。つまり、焼いてしまうのです。でも、これは私たちだけの秘密です。〔私が申したことは、マネ氏にはおっしゃらないでください。〕新しい芸術の一派は私を永遠に許されないでしょうか。
 貴方の翻訳は実に正確です。ただ《Stock and Store》〔「一切合財」に近い〕を《bagages》〔荷物〕と訳されたのには若干疑義があります。英語の読者にとっては、それは触れることができる、はっきりしすぎる何かを「暗示」するのではないでしょうか。そうお思いになりませんか。
 3月31日付けのマラルメの返事――
 「・・・『大鴉』がお気に召された由、幸せに存じます。原詩の持つ風合いを幾分なりともそこに留めようと試みた私の散文について貴女がお述べになっていることが、私を喜ばせます。きわめて強烈で同時にはなはだ現代的でもある挿画については、それらの絵が持つ、想像力に基づきながら現実味を帯びているという点で好まれるだろうと、私は考えておりました。最後の絵の鳥の影も、私は嫌いではありません。ゆらめくような動きに富んでいて、しかも的確だからです。けれども、椅子がそこに置いてあるのはそれほど好きではありません。貴女が、その全体〔の構図〕があまりに簡潔すぎるとお思いになった。ということも理解できます。マネは現代の芸術運動に完全に身を投じておりますし、(絵画の関しては)彼はその首領株なのです。・・・」
 こうして一冊の『大鴉』の行方をめぐる騒動は決着した。(続)
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by monsieurk | 2013-05-29 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 エドガー・アラン・ポーの詩は母国ではなかなか評価されなかった。清教徒的精神風土が色濃い19世紀半ばのアメリカでは、文学作品の良し悪しは、その倫理性や道徳性の有無にもとづいて判断されることが多く、耽美的、退嬰的なポーの作品は高い評価をうけなかった。
 ポーの作品がまとまった形で刊行されたのは、Rufus Wilmot Griswold(ルーファス・ウィルモット・グリスウォルド)の、The Works of Edgar Allan Poe( J.S.Redfield, New York, 1850)の2巻本である。グリスウォルドはその第3巻に当たるものとして、ポーの回想(The Literati)を執筆した。彼はポーが生前に選集を計画したとき協力を求めた人物で、そうした関係からポーの死後その遺著管理人になり、それを利用して回想録を書いたのである。だがこの回想録はポーをアルコールと麻薬に溺れた人間として描いており、それを強調するために、ポーの手紙を偽作することまでした。
 セアラ・ヘレン・ホイットマン夫人はこうした中傷からポーのイメージを護るために、Edgar Allan Poe and His Critics(Rudd and Carlton, New York、1860)を出版した。だがボルティモアのある新聞は、「この本は高貴な試みだが、・・・グリスウォルド博士の不名誉な記録を消し去ることができない」と書いた。
d0238372_1347593.jpg 一方フランスでは、アメリカでの悪評とは違い、ポーへの関心は彼の死後から一段と高まった。火つけ役の一人はシャルル・ボードレールである。彼が『催眠術の啓示』を翻訳して発表したのが1848年、その後もパリ中の書籍商やアメリカ人通信員を訪ねてポーの作品の載った雑誌のバックナンバーを探し求めた。こうして小説を精力的に翻訳するかたわら、「パリ評論」1852年3月、4月両号に、「エドガー・アラン・ポー、その生涯と著作」を発表した。
 ステファヌ・マラルメがポーの作品を読んだのはボードレールの翻訳が最初で、1862年には個人教授について英語の勉強をはじめた。「自叙伝」と呼び慣わされるヴェルレーヌ宛ての手紙で、「単にポーをもっとよく読もうとして英語を学んだ私は、20歳のときイギリスへ旅立ちました。主として遁れ去るためでしたが、その一方、この国語を話せるようになって、これを学校で教えて世の片隅で生活し、他の糊口の手段を強いられることを免れるためでもありました。私は結婚していたので、それは差し迫っていました」と告げていている。
 マラルメは中学生のときからボードレールが翻訳を思いとどまったポーの詩を訳し、『落穂集』と題したノートに書き溜め、推敲を重ねてきたが、その中の一篇「大鴉」を、大型豪華本として出版できた喜びは大きかった。彼がポーとの因縁浅からぬホイットマン夫人に進呈しようとしたのは当然で、出版元のリシャール・レスクリードに、ホイットマン夫人に宛てて『大鴉』一冊を送るように依頼したのである。
 レスクリードからは1876年3月8月付で手紙が届いた。
 「あなたがセアラ・ヘレン・ホイットマン夫人に贈られる『大鴉』は、(あなたの指示に従って)私の方から発送します、――ただし包装料、関税を含め費用はあなた持ちです。――本の代金ともで、50フランから60フランになると思います。」
 これを受けて、マラルメから4月4日の手紙がホイットマン夫人に送られたのだが、『大鴉』はどこかで行方不明になってしまったのである。
 日付はないが、おそらく1876年4月のものと思われる夫人からの手紙(英文)――
 「拝復、
 ご親切にも私にお送り下さったという『大鴉』は広い太平洋を越える道をいまだ見つけられずにいるようですが(それはまだ着いておりませんので)、貴方のご親切で美しい手紙が私にあたえてくれたれ歓びを表現する術を知りません。私たちの詩人にたいする貴方の雄弁なお言葉と、彼の名を彩るために貴方のお国の人たちがして下さるすべてを、深甚の感謝をこめて評価する者へのご関心は宝物にも劣りません。
 私の心は感謝で一杯ですし、貴方をあの並ぶもののない天才の専属の翻訳者として祝福いたします。
                                  セアラ・ヘレン・ホイットマン

 私はこの地方の郵便局長を通して、ニューヨークの郵便局長に、失われた『大鴉』を真剣に探させるように指示いたしました。彼らが直ちに私たちの行方不明の大鴉を見つけてくれるように期待しております。彼らが私たちの「黒い鳥」の上に光を投げかけてくれますように。見つけてくれたときは、またお手紙を差し上げます。
 私はスウィンバーン氏が昨年10月、ボルティモアの記念式典のために書いた手紙の中で、貴方のご本について触れられたものを読み、うっとりといたしました。また貴方が現在批評文の幾つかを翻訳なさっていると知って、大変幸せに存じます。」
 このときホイッマン夫人は73歳だったが、ポーゆかりの人からの手紙はマラルメを大いに喜ばせた。マラルメから次の手紙が夫人宛てに書かれたのは10月19日である。
 「奥様、
 事もあろうに貴女にたいして、これほどの遅延をいたしまして、誠に申しわけなく存じます。ただ私が自分を責めていること、そしてお手紙を頂戴したときは長期にわたる仕事の最中で、次いで旅に出てしまったことをお話しするならば、(私の親愛の情のすべてが私に、そう告げておりますように) 赦しと優しさそのものである貴女のことですから、私の罪は半分だけとお考えくださるでしょう。出版者のなかで最も怠慢な、これが『大鴉』の出版元なのですが、この男は、私どもの出版物をロード・アイランド宛てに送ることも、したがって、それが途中で紛失したかも知れないことも、要するにこうした事態をはっきりさせる術を心得てはいませんでした。ですから、今から11月まで新たなことが何か判明しなかった場合には、私自身で、自分の所有する数少ない部数の中から一冊お送りすることにいたします。そして本が決して行方不明にならないよう、あらゆる予防策を講じておくつもりです。こうして、みなが殆ど1年間を無駄にしてしまったのかも知れません。これは大きなことです。しかしその解決を早めなかったせいで、私が常に感じていた心苦しさと、少しずつ貴女の方へ向けられるのが習いとなった私の思いと、(貴女の方へ、と申しましたが、それはもはや、いわば私が少年のときのすべてを通して尊敬していた観念的な存在の方に向けてだけでなく、それどころか、たとえ遠くからであっても、生涯に滅多にない幸運なめぐり合せがその人と近づきになることを可能にしてくれた、そういう方にたいして感じられる新たな感情を伴っていました・・・)こうしたことすべてが、少なくとも私の側では悔やむべきものではありません、そうではないでしょうか。貴女にこう申し上げるのをお許しください、誰かがパリで実にしばしば、貴女のことを思い、そして、おそらく今世紀の知的な神であった天才にたいして貴女が抱き続けておられる深い崇拝の念を同じくしているということを。亡き彼に着せられた汚名は、今では、私たちの友のイングラムがものした崇高な伝記と、贖罪の一記念碑の建立に熱心に携わられたライス嬢のお陰で濯がれました。貴女の国を同じくする方が刊行される『追悼記念文集』に、一篇は私の仲間の一人であるものを、もう一つは私のソネ二篇をお送りいたします。それと、ボードレールの素晴らしい幾頁か、そして最後が、イングラムが発表した肖像写真にしたがってマネが制作したポーの肖像画です。この冬、遅くとも春には、「詩篇」の全訳を刊行するつもりでおります。
 以上、細々と書き連ねたことをお許しください。これらのことは(少なくとも最後にあげましたものは)、次に申し上げることに関わりのある一つの目的があってのことなのです。私はJ・H・イングラムのひそみにならって、できればこうお願いしたいと思います。この翻訳を、本当に、ポーのあとを生き続けておられる方に捧げるように、貴女に捧げることをお許しいただけますでしょうか。私が貴女とお近づきになり、またそうすることが可能な今日、それが自分にとっては一つの義務の成就である、と私が見なしていることを、どうかお拒みになりませんように。とりわけ、これが私の最も古い望みの一つであると貴女に申し上げ、またかつて、貴女とお知り合いになる幸運に恵まれず、それでも何とかなるであろうと、私がそれを実行した場合には。
 親愛なる奥様、これで失礼いたします。なにとぞ、私の長いご無沙汰を真似などなさいませんように。私がご無沙汰を重ねましたのは、専制的な夢想の数々と、目下続けております大きな仕事のせいなのですから・・・」
d0238372_1347109.jpg 手紙の内容について注釈を加えれば、マラルメとホイットマン夫人の間の手紙の往来と並行して、ポーの終焉の地ボルティモアで高等学校の教師をしているセアラ・シガニー・ライス嬢が中心になって、ウエストミンスター寺院にあるポーの墓地に、記念碑を建立する計画が進められていた。そして1875年11月17日に記念碑の完成を祝う式典が行われ、ライス嬢はアメリカやイギリスの詩人を多数招待したが、参加した詩人としてはウォルター・ホイットマン一人だった。母国アメリカでは、ポーにたいする偏見が死後26年たっても、まだ払拭されていなかった結果である。
 ライス嬢は記念碑の建設と並んで、ポーを追悼する書物の編纂を企画し、イギリスの文学者にも記念式典の通知とともに寄稿を依頼した。そのなかにスウィンバーンがいて、彼はライス嬢に宛てた手紙で寄稿を承諾するとともに、フランスにおけるポーをめぐる評価に触れて、ボードレールのポー論とマラルメによる最近の『大鴉』の翻訳のことを知らせたのである。(続)
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by monsieurk | 2013-05-26 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 ポーとホイッマン夫人の関係はこうして不幸にうちに終わったが、そこから一篇の作品が生まれた。To Helen〔Whitman〕で、二人の出会から別れまでをうたった絶唱である。

 I was thee once――once only――years ago :
I must not say how many――but not many.
It was a July midnight ; and from out
A full-orbed moon, that, like thine own soul, soaring,
Sought a precipitate pathway up through heaven,
There fell a silver-silken veil of light,
With quietude, and sultriness, and slumber,
Upon the upturn’d faces of a thousand
Roses that grew in an enchanted garden,
 Where no wind dared to stir, unless on tiptoe――
 Fell on the upturn’d faces of these roses
 That gave out, in return for the love-light,
Their odorous souls in an ecstatic death――
 Fell on the upturn’d faces of these roses
 That smiled and died in this parterre, enchanted
By thee, and by the poetry of thy presence.

Clad all in white, upon a violet bank
I saw thee half reclining ; while the moon
Fell on the upturn’d faces of roses,
And on thine own, upturn’d――alas, in sorrow!

 Was it not Fate, that, on this July midnight――
 Was it not fate,(whose name is also Sorrow,)
・・・・・・

 But now, at length, dear Dian sank from sight,
Into a western couch of thunder-cloud ;
And thou, a ghost, amid the entombing trees
Didst glide away. Only thine eyes remained.
They would not go――they never yet have gone.
Lighting my lonely pathway home that night,
They have not left me (as my hope have) since.
They follow me――they lead me through the years.
They are my ministers――yet I their slave.
 ・・・・・・

「私が貴女を見たのは一度―― 一度だけ――何年も前のこと
 どれほど前かといえば――それほど以前のことではない。
 あれは7月の夜更け、それも外から
 満月が、貴女の魂のように、空へと高く昇っていき、
 そこから白絹のヴェールを通したような光りが降りそそいでいた、
 あたりは静寂で、蒸し暑く、眠たげだった。
 魅惑の庭に生い茂る千のバラの花々はみな上を向き
 その顔に光りを受けていた、あたりでは
 あるかなきかの風がそっと忍び足で動くだけ――
 バラの花々はみな上を向き、愛の光りを受けたお返しに
 陶酔して死ぬときの高い香を放ち
 月の光りを受けて、いっせいに、
 あお向けた花々の顔は微笑み、この庭で死ぬかのようだった
 貴女に魅せられ――貴女の存在の詩的な美しさに魅せられて。

 白い服につつまれ、菫の咲く花壇に、
 半ば身を横たえた貴女を、私は目にした、
 月はバラの花々の上の向いた顔におちていた、
 そして貴女自身の顔を照らしていた――ああ、その悲しげな顔の上を!

 あれは「運命」ではなかったのか、この7月の夜更けに――
 あれは(またの名を「悲しみ」という)「運命」では
 ・・・・・

 でも今や、ついに、月の女神ダイアナは沈んだ、
 雷雲のそびえる西の果てに、そして、
 貴女は、ひとつの幻は、墓のように生い茂った木々の中へ
 ゆっくりと消えた。そして貴女の二つの眼だけは残った。
 それは去ろうとはしなかった――決して消え去ろうとはしなかった。
 あの夜の私の寂しい帰り道を照らし、
 あれ以来ずっと、私の許を去りはしなかった(私の希望は去ってしまったが)。
 その眼は私につき添い――もう何年も私を導いてくれている。
 それは私の主人であり――私はその奴隷だ。
 ・・・・・・」(続)
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by monsieurk | 2013-05-20 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 ポーは肉体的にはともかく、精神的にはいつも誰か女性を愛していなくてはならない性分だった。ヴァージニアが亡くなったあとも、ミセス・ショーやミセス・オズグッドなどの女性がその対象となり、彼女たちの方も精神的、物質的援助を惜しまなかった。ただポーの飲酒が増し、そのためか虚言癖が昂ずるようになると、彼女たちも次第に遠ざかるようになった。
d0238372_8425198.jpg こうしたなかで登場したのが、セアラ・ヘレン・ホイットマン夫人(Mrs. Sarah Helen Whitman)だった。彼女は父ニコラス・パワーと母アンナ・マーシュの間に、1803年に生まれた。父のニコラスはイギリス海軍に勤務していたが、1813年アメリカへ移住。その後も船乗りの仕事を続け、セイラ・ヘレンは妹とともに、ロードアイランド州プロヴィデンスで、母親の手で育てられた。
 彼女は1825年に詩人で作家のジョン・ウィンスロウ・ホイッオマンと婚約し、雑誌の共同編集者になった。そして3年後の1828年7月に結婚、同年にヘレンのペンネームで最初の詩集を刊行した。だが夫は1833年7月に亡くなり、わずか5年の結婚生活だった。以下、イギリスの伝記作家John H. Ingram: Edgar Allan Poe;His Life, Letters, and Opinions. (Ward, Lock, and Bowden, & Co. 1891) をもとに、ポーと彼女の交際をたどってみることにする。この本はステファヌ・マラルメも生前に読んでいたものである。
 ポーは1845年にプロヴィデンスへ旅行したことがあり、そのときたまたま自宅の門口に立っているホイットマン夫人を見かけたというが、その後はすっかり忘れていた。ところが1847年から48年にかけての冬に、ニューヨークの文学者たちの間で開かれたヴァレンタイン・パーテイの際に、ホイットマン夫人は友人の頼みをうけて、無著名の詩をいくつか「大鴉」の著者に贈った。すると間もなく、ポーから詩篇「To Helen(ヘレンへ)」が送られてきた。これは彼が14歳のときに出会った美しい女性をうたった旧作で、名前が同じことから、それを再利用したのだった。
 ホイットマン夫人に興味を持ったポーは、6月10日には、プロヴィデンスを訪れたことのある、さるイギリス人に手紙で彼女のことを尋ねている。
 「ホイットマン夫人をご存知ですか? 私は彼女の詩と人物に深い興味を感じます。彼女に会ったことはなく―― 一度見かけたことがあるだけです。彼女の人柄の空想的なところが特に興味があり、私の好奇心を刺激します。・・・彼女について何でも――ご存知のことはすべて話し下さいますか――ただし秘密はお守りください――私があなたにお願いしたことは誰に知らせないでください。あなたを信用してよろしいですね?」
 この手紙が書かれてからしばらく後の8月上旬、ホイットマン夫人は2連の詩をポーに宛ててフォーダムの住所へ送った。手紙には差出人の名前が書かれていず、しかもフォーダムには郵便局がなかったから、一番近いウエスト・ファームズの郵便局に数週間留め置かれていた。そしてこのことを知らされたクレム夫人は、手紙をリッチモンドにいるポーに転送したのである。手紙に署名はなかったが、ポーは筆跡からそれがホイットマン夫人からのものと了解して、9月5日付けで次のような返事を送った。
 「親愛なる夫人、
 アメリカのもっとも著名な著者たちの自筆を蒐集しているものとして、貴女の自筆を入手できるかどうか心配です。そしてもし、貴女が、短くとも、この覚書にお返事をくださるなら、それを特別なご厚意と受け取ることでしょう。」
 ポーはこの手紙をEdward S.T.Greyの変名で送り、この後9月21日には、当時は名前を知られた女性詩人のミス・マリア・マッキントッシュの紹介状をもって、彼女の家を訪ねたのである。ミス・マッキントッシュは夫人に宛てた手紙で、「一カ月ほど前の夜、私はポー氏にフォーダムのさる紳士の家で会いましたが、彼が話したのはすべて貴女のことでした」と伝えていた。
 ポーはプロヴィデンスに25日まで滞在し、二晩つづけてホイットマン夫人に会った。のちの手紙の様子では、そのうち一度は墓場を歩きながら、ポーは自分の気持を打ち明けたものと推測される。だが彼女ははっきりとした返事をしなかったようである。
 彼女からの返事は30日になってようやく届いた。この手紙は残されていないが、ポーが出した手紙から推察すると、「もし私がもっと若く、健康だったら」といった理由で、婉曲に断ったらしい。だが諦めきれないポーは、10月1日の日曜日夜、愛を切々と訴える長い長い手紙を書いた。
 「やさしいヘレン、貴女の手紙をいくど唇に押し当てたことでしょう――それが歓びの、そして『神聖な絶望』の涙にぬれるまで。でも、いまの私には単なる言葉がなんでしょう――先日、お会いしたときは、『言葉の力』を誇った私ですが。もし天の神への祈りの力が信じられるならば、私はいまこそ跪いて――心から跪いて――わが人生におけるもっとも真剣なこのときに――言葉を懇願するために跪き――心のたけを貴女に伝えることができる言葉――ただそれだけを願いたい想いです。・・・、おお、ヘレン! ヘレン! 貴女がその純粋な霊的な眼で、いまの私の心の底を見通してくださるなら、ああ、未だどうしても口にしてくださらない一言を拒むことはなさらないでしょう。――私の愛の深さのためだけにでも、私を愛すると言ってくださるはずです。愛されることは、この冷たい荒んだ世界にあって、どれほど貴いことでしょう。――おお、私がアンダーラインを引いたこの三文字〔愛されること〕の深い――本当の意味を、貴女の心に焼きつけることができさえすれば!――ああ、でも、すべては無駄でした。『私は生き、そして誰にも聴かれることなく死ぬ』のです。」
 手紙はこうした書き出しで延々と続くのだが、ヘレンを見初めた最初の出会いの部分はこうなっている。
 「私はできるだけ率直な言葉で、初めてお会いしたときの印象を記してみます。――貴女が部屋に入ってこられたときは、青ざめ、おずおずとして、ためらいがちで、明らかに何か心に悩みがあるようにお見受けしました。そして貴女の眼が、ほんの一瞬でしたが、訴えるような眼差しで私をご覧になったとき、私は生まれて初めて、理性を超えた霊的な力の存在を感じ、震えるような気持でそれを認めました。ヘレン、私は貴女を――私のヘレン――数知れぬ夢想を通して夢みつづけていたヘレン――素晴しい恍惚の中で、幾度もその幻の唇と私の唇が触れ合ったかもしれないヘレン――ああ、たとえこの世ではなくとも、少なくとも未来では永遠に――私のもの――いえ、私だけのものであるべく、偉大なる神によって宿命づけられているヘレン――そのヘレンだと気づきました。・・・・」
 この手紙に対する返事は10月10日ごろ届き(これも残されていない)、ポーの素行について警告する人があるなどの理由をあげて、またも求愛を断ってきた。こうした手紙の往来が二、三度あったあと、業をにやしたポーは11月2日に、またプロヴィデンスに向った。だがその途中で自殺未遂事件を引き起こしたのである。
ポーは出発するとすぐに酒を飲みはじめ、ついには泥酔状態に陥って、プロヴィデンスに着くまで何も覚えていないありさまだった。そんな一夜をすごした彼は、夜が明けると阿片2オンスを買い、ホイットマン宅を訪問する代わりにボストンへ行き、阿片半オンスを飲んだのである。だが飲んだ量が致死量をはるかに超えていたためにすぐに吐いてもどし、命だけはとりとめた。
 こうして11月4日に彼女と会う約束は果たされず、半病人のポーが姿をあらわしたのは7日のことだった。ホイットマン夫人は4日間待ちぼうけを喰わされたのである。ポーはまたしても執拗に求愛を繰り返した。彼女の方はポーを中傷する手紙を見せるなどして難色を示したが、自殺未遂まで起こした人を救えるのは自分しかないと最後に思ったのだろうか、11月13日、今後は絶対に禁酒することを約束させた上で婚約を受け入れた。このときホイッマン夫人は45歳、ポーより6つ年上だった。
 難題は夫人の母親の同意を得ることだったが、家の財産相続権を母親に書き換えることを条件にようやく了解してもらうことができた。
 こうした紆余曲折のすえに婚約が整い、最後の取り決めのために、ポーは11月22日夜、夫人の家に姿をみせた。このときも約束を破って酒を飲んでいたが、相続権を放棄するという屈辱的な証書に署名し、24日に教会に結婚の公告を出し、25日挙式という最終的段取りがきめられた。
 翌23日、二人は準備のために外出したが、ここに至っても、夫人にポーの不行跡を注進するものがあり、加えてポーが前夜宿泊したホテルのバーで泥酔していた知らされた夫人は、外出から引き返すとその場で婚約の解消を申し渡した。
 ポーは翌1849年1月21日付けの夫人宛ての手紙で関係の解消を認めつつ、自分に対する非難はすべて中傷だと弁明した上で、最後は、「こうしてこの不幸な事件もやがて静かに消えて行くことでしょうと」と結ばれている。これが最後の手紙だった。
 ポーはこれから半年ほどして亡くなるのだが、婚約解消後は悪夢の連続だった。乱酒と貧困のためにときどき意識の混濁が起こったが、正気に戻ったときは執筆を続け、評論の代表作『ユリーカ』や『詩の原理』が書かれた。彼は1849年10月7日早朝、路上に倒れているところを発見された。行き倒れ同然の最後で、自殺ではないかとも疑われた。(続)
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by monsieurk | 2013-05-17 22:28 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 ホイットマン夫人は一時エドガー・アラン・ポーの婚約者だったことがあり、マラルメが手紙で、「貴女のお名前が彼の名としっかり結びついている」というのはこの事実を指している。ただこの婚約にいたるまでのポーの行動には不可解な点が少なくない。
 ポーの妻ヴァージニアが亡くなったのは1847年1月30日で、このときポーは38歳、ヴァージニアは24歳の若さだった。ヴァージニアは父の妹マライア・クレムの娘で、彼にとっては従妹にあたった。
d0238372_840133.jpg ポーは1809年に俳優のデイヴィッド・ポーと女優エリザベス・アーノルドの子としてボストンで生まれた。だが2歳のとき両親が死亡し、リッチモンドの商人ジョン・アランの家に引き取られた。アラン・ポー(Allan Poe)という二重の姓をもつのはそのためである。17歳でヴァージニア大学に入学するが、賭博の借金のために養父と不和になり、大学もやめてしまった。その後は陸軍に入隊し、除隊後は陸軍士官学校へ入学するが1年後には退学。養父母との不和から、20歳のときに寡婦だったクレム叔母を頼った。そこで幼いヴァージニアに初めて出会った。この間ポーは詩を書き、文学での立身を目指すが世間的な成功は得られず、生活もたち行かない窮状に陥った。そんな彼がようやく心の安定をえたのが叔母クレムのもとだった。そして1835年夏には雑誌Southern Literary Messengerの編集者の職を得て、リッチモンドに赴任することになると、翌年にヴァージニアと結婚した。このときポー27歳、一方のヴァージニアはわずか13歳だった。
 ただはたして二人の間に正常な結婚生活があったかどうかを疑う研究者もおり、ポーは過度の飲酒癖から、若くして強度の性的虚弱ないし不能になっていたというのである。一方で、クレム夫人にとってポーは唯一の稼ぎ手であり、手元に置くために娘の結婚を認めたという説や、ポーが叔母(父の妹)のなかに亡き実母の面影を求めていたという説をなすものもある。
 ポーはその後ニューヨークへ出て詩篇「大鴉」や、今日では傑作として知られる短篇の代表作を発表し、一部の文学愛好家の間では評判となったが、経済的に報われることはなかった。ただポーがおさない妻を愛していたことは間違いなく、死の前年に書かれた最後の詩篇“Annabel Lee”(1849年)で、彼女はこううたわれている。

 It was many and many a year ago,
In a kingdom by the sea,
That a maiden there lived whom you may know
By the name of Annabel Lee;―
 And this maiden she lived with no other thought
Than to love and be loved by me.

・・・・・
 The angels, no half so happy in Heaven,
Went envying her and me:―
 Yes! that was the reason(as all men know,
In this kingdom by the sea)
That the wind came out the cloud, chilling
And killing my Annabel Lee.
 ・・・・・・

「何年も何年も前のこと
 海辺の王国に
 乙女がひとり暮らしていた、その人の名は、
 アナベル・リー ―
 そしてこの乙女の想いはほかでもなく
 ただ、ぼくを愛し、ぼくに愛されることだった。

 ・・・・・
 天使たちは、天国でもぼくたちの半分も幸せではなかったから
 ぼくと彼女を羨んだのだ ―
 そうだ! それこそが理由だ(それは
 海辺の王国の人はみな知っている)
 ある夜、雲から風が吹きおりてきて
 凍えさせ、殺してしまった、ぼくのアナベル・リーを。
 ・・・・・・」

 このアナベル・リーこそヴァージニアに他ならない。詩が伝えるように、ヴァージニアは結核を患い、ニューヨーク郊外のフォーダムの陋屋で、5年間の苦しい闘病のすえに寒さと貧窮のうちに亡くなったのである。
 彼女の死の少し前に一家を見舞ったある女性の証言では、藁だけのベッドに臥せっていた病人は掛布団もなく、ただポーの外套にくるまって寒さと発熱の悪寒に震えていたという。その胸の上には大きな三毛猫が一匹、主人をかばうようにうずくまっていた。
 若い妻の死がポーにあたえたダメージは大きかった。ジャーナリズムの世界で成功する夢は追い続けつつも、飲酒癖はさらに深まり、生活はますます困窮した。

 (Edgar Allan Poeのすべての詩、物語、エッセー、それに書簡は、Edgar Allan Poe Society of Baltimoreが提供しているサイト、The Collected Works of Edgar Allan Poe, A Comprehensive Collection of E-Textsで読むことができる。)(続)
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by monsieurk | 2013-05-14 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 ステファヌ・マラルメが、画家エドゥアール・マネの協力を得て、エドガー・アラン・ポーの詩を翻訳した豪華な詩画集『大鴉(Corbeau)』125部を刊行したのは、1875年のことである。この出版については、ブログ「マラルメの『大鴉』」(2012.12.21付)と、『マラルメの「大鴉」エドガー・A・ポーの豪華詩集が生まれるまで』(臨川書店、1998年)で紹介した通りである。
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 マラルメは出来上がった『大鴉』を友人や知人に贈ったが、その一人にアメリカに住むセアラ・ヘレン・ホイットマン夫人がいた。1876年4月4日付の彼女宛ての手紙にはこう書かれている。
 「拝啓、
 協力者のマネと私が貴女に呈上いたしますのを、喜びだけでなく一つの義務と考えております『大鴉』の一冊が、ロード・アイランドに着きますよりも、この手紙が幾日か先行するのか、あるいは遅くなるのか、それは私には分かりません。
 世界がこれまでに識った最も神々しいこの天才の思い出に敬意を表すにも、いかなることをするよりも、その者は第一に貴女のご賛同を得るべきではないでしょうか。
 わが偉大なるボードレールが翻訳することなく残したポーの作品、すなわち緒詩篇と数多くの批評的小品を、私はフランスに知らしめたいと願っております。そして貴女がその見本をすぐにも受け取られるはずの私の最初の試みが目的とするのは、現在ほぼ完成している未来の書物に世人の注意を惹きつけることです。
 私はこの試みが貴女のご賛同を得ることを期待していますが、将来、私の計画がどれほど成功しても、イングラム氏が私に送って下さった貴女の一通のお手紙によって惹き起こされた、生生しく、深く、絶対的なあの歓びに等しい満足の気持を貴女の心に惹き起こすことは到底できないでしょう。あのお手紙の中で、貴女は私どもの『大鴉』の一冊をご覧になりたいとお書きになっておられます。
 遠くは離れているばかりでなく――それはなにほどのことでもありません――私たち各々にとって、その思い出によく釣り合っていると思われる時の隔たりの中を、貴女のご要望は遙か彼方から私の許に届いたような気がいたしました。しかもそれは、もう久しい以前から大切に慈しまれてきた数々の思い出の回帰もたずさえているように思えたのです。それは私がかつて覚えた最も甘美なものです。と申しますのも、少年のときから、ポーの諸作品に魅了され、すでに久しい昔から、私の心からの共感の中で、貴女のお名前が彼の名前にしっかりと結びついていたからです。
 ですから、貴女の詩人としての魂で理解されるままに、私の感謝の念の表明をお受けとり下さいますように。貴女に感謝しておりますのは、他でもなく私の心の最も心の奥深い部分なのですから。」(Stéphane Mallarmé:CorrespondanceⅡ、Gallimard、pp.111-112)
 この敬意のこもった手紙によれば、刊行したばかりの『大鴉』をホイットマン夫人が見たいと望んでいるのを知ったのは、イギリス人の友人ジョン・ヘンリー・イングラムを介してのことだったことが分かる。イングラムは1875年から定期的にホイットマン夫人と手紙をやりとりしてきたのだった。それにしても、マラルメがこれほど恭しい態度で接しようとするホイットマン夫人とは何者なのか。(続)
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by monsieurk | 2013-05-11 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 気鋭のマラルメ研究家、東北大学の坂巻康司氏から「明治・大正期日本文壇におけるマラルメ受容」が載った冊子を送っていただいた。これは日本学術振興会の科学研究助成金の助成を得て、2011年から5年にわたって行われている共同研究「近代日本におけるフランス象徴主義受容に関する総合的研究」の中間報告の一つである。
 坂巻氏の論考は表題の通り、明治・大正期のステファヌ・マラルメの詩の翻訳を時系列に沿ってたどり、受容の実態を検討したものである。
 論考の最後に一覧表としてまとめられているが、マラルメの翻訳は、上田敏が明治38年9月に、雑誌「明星」に“Soupir”を「嗟嘆(といき)」と題して発表したのが最初である。その後の主だった翻訳をみると、上田敏が“Soupir”“Quelle soie aux baumes de temps”“Une dentelle s’abolit”“Hérodiade”“Le vierge, le vivace et le bel aujourd’hui”の5篇、岩野泡鳴が“Soupir”“Brise marine”“Painte d’automne”“Salut”“Le vierge, le vivace et le bel aujourd’hui”の同じく5篇、蒲原有明が“Painte d’automne”“Frisson d’hiver”“Brise marine”“Angoisse”の4篇、三富朽葉、“Painte d’automne”“Pauvre enfant pâle”の2篇、鈴木信太郎は“Les Fenêtres”“Apparition”“L’après-midi d’un faune―églogue”“Autrefois en marge d’un volume de Baudelaire” “Victorieusement fui le suicide beau”の5篇で、堀口大學が同じく“L’après-midi d’un faune”“Apparition”“Soupir” “Eventail”“Pauvre enfant pâle”の5篇を訳している。
 数えてみると、韻文詩が13篇、散文詩が4篇で、同じ作品が違う翻訳者によって重ねて翻訳されていることがわかる。このなかでは後に精緻なマラルメ研究を完成させる鈴木信太郎が、まだ誰も手を付けていない作品の翻訳を心がけていることが注目される。
 こうした翻訳を発表したうえで、マラルメを上田敏は、「佛蘭西象徴詩派の翹楚にして、且つ最も難解の詩人と稱せられる」とし、岩野泡鳴は、「その声には、実に重畳圧迫の力満ち満ちた雰囲気の中で、心的情緒と心的感覚を運搬して居たのである。微妙な情緒、魔的風景、模糊たる表象、これらの物が自然に相交叉して、純美の詩篇が成り立って居る」と紹介した。
 坂巻氏は上田敏や岩野泡鳴のほかにも、長谷川天渓、野口米次郎などのマラルメ理解をつぶさに検証したのちに、明治・大正期のマラルメ理解は、ほとんどがイギリスの文芸評論家アーサー・シモンズの『象徴主義の文学運動』(Arthur William Symons “The Symbolist Movement in Literature”、William Heinemann、1899)に依拠したものであると結論づけている。
 この本は泡鳴によって『表象主義の文学運動』(新潮社)として、1913年に紹介されたが、上田敏にしても、長谷川、野口にしてもみな英語が達者であり、翻訳を待つまでもなく、シモンズを原文で読んでいた。坂巻氏は、「端的に言えば、これまでの論者が知識不足ゆえにマラルメに対して誤解、あるいは曲解をしていたとしたら、泡鳴は確信犯的にマラルメを自分の理論の中に引きつけようとしたといえる」という。
 坂巻氏はその傍証として、一つの興味深い事例をとりあげる。それは夏目漱石が大正元年から翌二年にかけて「朝日新聞」に連載した『行人』である。その第38で、小説の語り手である「私」の手紙のなかの一挿話として、マラルメの話がでてくる。長くなるが引用してみよう。
 「私が兄さんにマラルメの話をしたのは修善寺を立って小田原へ来た晩のことです。専門の違う貴方だから、あるいは失礼にもなるまいと思って書き添えますが、マラルメというのは有名な仏蘭西の詩人の名前です。こういう私もその名前だけしか知らないのです。だから話といったところで作物の批評などではありません。東京を立つ前に、取りつけの外国雑誌の封を切って、ちょっと眼を通したら、そのうちにこの詩人の逸話があったのを、面白いと思って覚えていたので、私はついそれを挙げて、兄さんの反省を促してみたくなったのです。
 このマラルメという人にも多くの若い崇拝者がありました。その人たちはよく彼の家に集まって、彼の談話に耳を傾ける宵を更かしたのですが、如何に多くの人が押し懸けても、彼の坐るべき場所は必ず暖炉の傍で、彼の腰を卸〔おろ〕すのは必ず一箇の揺椅子と極〔きま〕っていました。これは長い習慣で定まられた規則のように、誰も犯すものがなかったという事です。ところがある晩新しい客が来ました。慥か英吉利〔イギリス〕のシモンズだったという話ですが、その客は今日までの習慣をまるで知らないで、どの席もどの椅子も同じ価と心得たのでしょう、当然マラルメの坐るべきかの椅子へ腰を掛けてしまいました。マラルメは不安になりました。何時ものよいに話に実が入りませんでした。一座は白けました。
 「何という窮屈な事だろう」
 私はマラルメの話をした後で、こう一句の断案を下しました。そうして兄さんに向かって、「君の窮屈な程度はマラルメよりも烈しい」といいました。」(『行人』、岩波文庫、367-368頁)
 「私」が「兄さん」をマラルメ以上に窮屈だというのは、物事に対する姿勢のことを言っているのだが、これは漱石自身の自戒でもある。さらに漱石がマラルメの有名な火曜会でのエピソードに着目したのには、弟子たちによって彼の周囲に出来上がっていた「木曜会」のことが念頭にあったのは間違いない。
 ところで、漱石はこのマラルメのエピソードをどこで読んだかである。シモンズがこのエピソードを最初に披露したのは、「ローマ通りの劇場」という文章であって、そこには、「私はある晩のことを思い出す。すごく遅く、ド・エレディア氏が突然闖入してきた。晩餐会の帰りで、太った身体を立派な夜会服につつんでいた。彼はマラルメのお気に入りの椅子に腰をかけた。彼は愉快で、おしゃべりで、実に生き生きしていた。間違いなく、マラルメは再会を喜んでいた。よく響く声がそれを感じさせないわけではなかった。その上、彼は椅子を取り上げられて、どうしたらいいのか分からなかった。お好みの隅から追われた猫みたいに、部屋の中を歩きまわり、暖炉にぎこちなく肘をつき、あきらかに居心地が悪そうだった」と書いている。
 これは拙訳のゴードン・ミラン著『マラルメの火曜会 神話と現実』(行路社、2012年)にも引用されていて、シモンズは、『文学における象徴主義運動』でも同じエピソードを伝えている。漱石はシモンズの“The Symbolist Movement in Literature”を一冊所蔵しており、坂巻氏は勤務先の東北大学附属図書館が所蔵する夏目漱石の旧蔵書(弟子の一人小宮豊隆がかつて勤務した関係で、第二次大戦中、東京への爆撃による焼失を防ぐために漱石の自宅から移した3000冊)を調査し、シモンズの本には漱石の自筆の書きこみが多数なされていることを確認したという。
 それにしても奇妙な事がある。漱石の『行人』では、マラルメ愛用の揺椅子を占拠したのが、ジョゼ=マリア・ド・エレディアではなく、シモンズその人とされているのである。
 なぜこうした混同が起こったのか。一つは、漱石が他の文献からこの挿話を知ったという可能性である。岩波文庫版『行人』で、この個所に付された注には、《「『行人』の材料」(小宮豊隆)に〈雑誌(“Die neue Rundschau”)の1913年の8月号には、Aldert Haasの“Pariser Bohemezeitscriften”という、そうして「千八百九十六年の思い出」という小見出しをつけた随筆が載っている。「塵労」〔『行人』の最終篇〕第三十八のマラルメの話は、此所から出たものである〉》と記されている。そうだとすると、『行人』の中の、「東京を立つ前に、取りつけの外国雑誌の封を切って、ちょっと眼を通した」というのは、この雑誌を指すことになる。
 漱石がこのドイツの雑誌を定期的に読んでいたことは、同年2月発行の同誌の表紙に刷り込まれた「メーテルリンク、死後の生に就いて」の下にアンダーラインをして、「英米にオケルSpiritualismノ紹介ノヤウナモノナリ」と書かれていることからも明らかである。ただし、小宮豊隆が材料だというHaasの文章は未見で、そこにマラルメの椅子を占拠した人物をシモンズと記されているかどうかは分からない。
 一方、坂巻氏はシモンズ以外に情報源があったとしても、漱石がここでマラルメの椅子を占拠した人物をシモンズとしたのには、彼一流の揶揄が籠められているのではないかと推測している。以下、引用してみよう。
 「漱石は故意にこの失礼な人物の名を変更したのではないか、と思われる。つまり、自分の作品の中で密かにシモンズに対する冷やかし、日本文壇に対する冷やかしを行ったのではないかと考えられるのだ。つまりこういうことである。上田敏がマラルメを翻訳し、『海潮音』を出版した明治38年(1905年)は、漱石が『吾輩は猫である』の連載を開始し、文壇にデビューをした年である。それから亡くなるまでの十年間が漱石の作家活動の時期となるわけだが、それは象徴主義が日本に浸透していく過程と重なっている。そしてそこには常にシモンズの本があり、『海潮音』があったわけである。つまり、そこにあるのはマラルメそのものではなく、既に我々が見たようにシモンズによって紹介されたマラルメでしかなかった。『行人』でのマラルメへの言及は、このような日本文壇に対する漱石の皮肉ではなかったかと考えられる。つまり、日本では「マラルメが座るはずの席にシモンズが座っている」ということだ。」
 興味深く刺激的な解釈だが、当否を論じる前に、先ずは漱石に材料を提供したとされるAldert Haasの文章を確認する作業をしなくてはならない。
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by monsieurk | 2013-05-08 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
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 アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ(Antoine de Saint=Exupéry)の『星の王子さま(Le Petit Prince)』が出版されて、今年は70年になる。祖国フランスではこれを記念して、版元のガリマール社(Editions Gallimard)から幾つかの本が刊行された。
 『星の王子さま』の初版は、サン=テグジュペリが第二次大戦中に滞在していたアメリカの出版社「レイナル・アンド・ヒッチコック(Reynal & Hitchcock)」から、1943年2月に出版された。
 民間航空機の操縦士である「ぼく」はサハラ砂漠に不時着してしまうが、一週間分の水しかなく、周囲1000マイルには誰もいそうもない。そんな不安な夜をすごした「ぼく」は、翌日、一人の少年と出会う。話をするうちに、少年がある小惑星から来た王子であることを知る・・・
 マルクスの『資本論』に次いで世界中で読まれたというこの物語は、サン=テグジュペリが郵便を運ぶ飛行機のパイロットだった1935年、リビア砂漠で起こした墜落事故の実体験に基づいている(ブログ「トゥールーズとの出会い」、2011.7.03を参照)。
 “La belle histoire du Petit Prince”(par Alban Cerisier, Delphine Lacroix, Olivier Odaert et Virgil Tanase)は、サン=テグジュペリのテクストに加えて、未刊行の資料、研究、未発表の自筆デッサン、作品誕生に関する多くの証言が集められている。
 アルバムにCDのついた“Le Petit Prince”は、初版本のテクストに俳優ジェラール・フィリップの朗読を収録した35分のCDと映像資料を収録した7分のヴィデオがついている。
 Folio版(新書版)のハード・カバー限定本“Le Petit Prince”は、サン=テグジュペリのデッサン帳が添えられたものである。
 興味深いもう一冊は、“Le Petit Prince”の1年前に、同じくアメリカで出版した“Pilote de guerre”(『戦う操縦士』)に関するシンポジウムの記録である。
 1939年9月1日、ヒトラーのポーランド侵攻によってヨーロッパの平和は破られ、イギリスに次いでフランスもドイツに宣戦を布告した。だが開戦後の8カ月間は両陣営とも動こうとしなかった。
d0238372_11154418.jpg 予備役大尉のサン=テグジュペリは、9月4日、航空指導教官としてトゥールーズ=フランカザルに召集され、情報局の仕事を提供された。しかしこれに不満な彼は戦場で飛行機に乗ることを志願。それが受け入れられて、11月にはシャンパーニュ地方のオルコントに駐留する偵察飛行集団所属の第33飛行連隊第2大隊に転属された。偵察飛行は3人1組の50組でフランス全土を担当していた。
 年が明けて1940年になると、ドイツ軍は電撃作戦を開始、それとともにフランス軍の偵察飛行が再開されたが、戦況は不利で、3週間のあいだに第2大隊所属の23組のうち17組が失われる始末だった。
 5月22日、サン=テグジュペリは北フランス・ノルマンディーの街アラスまで飛び、上空からドイツ軍の進撃状況を探った。眼下に展開する光景は衝撃的なものだった。すぐにも進撃できるように村の南に結集した何百台ものドイツ軍の戦車と、追われるように逃げて行く人や車で埋まった街道だった。
 6月9日の偵察飛行を最後に、33-2部隊はまずボルドーに、次いで地中海をこえてアルジェに撤退した。彼らはその後も闘い続けるつもりだったが、6月22日には休戦協定が結ばれ、フランスはドイツ軍に占領された。サン=テグジュペリは、7月31日、他の同僚とともに動員を解除された。
 敗戦後に樹立されたヴィシー政権のもとにあって、彼はロンドンに亡命したドゴールの「自由フランス」に合流する道を選ばず、アメリカへ行くことを考えた。ヨーロッパの窮状を打開するには、アメリカの支援を求める以外にないと考えたのである。
 10月になってアメリカ入国のヴィザを手に入れた彼は、アルジェリア、ポルトガルのリスボン経由で、船でニューヨークへ向かった。
 ニューヨークでは、出版社社長の妻のエリザベス・レイナルが、英語を話そうとしないサン=テグジュペリの通訳を買って出てくれ、マンハッタンにアパルトマンも探してくれた。そしてフランスの戦意がいまだに失われていないことを示すような作品を書くように促した。こうした要請に応える形で執筆されたのが、『戦う操縦士』(英語版のタイトルは“Flight to Arras”「アラスへの飛行」)である。執筆にかかった時間はわずか8か月だった。
 作品は明確な目的をもっていた。当時のアメリカでは、簡単に敗北したフランスの戦意に疑問を持つ人が多かったが、そうしたアメリカの世論にたいして祖国の立場を弁明し、アメリカをヨーロッパの戦争に参戦させることだった。作品は1942年2月に出版された、この2カ月前にアメリカは参戦に踏み切っており好評で迎えられた。
 ドイツ占領下のフランスでも、記述の一部を削除することを条件にドイツ占領当局の出版許可がおり、同年11月にガリマール社から出版された。だが3カ月後には、ほかならぬフランスの反ユダヤ主義者の抗議によって出版許可が撤回され発禁処分となった。それでも『戦う操縦士』は、リヨンとリールで出された地下出版によってひそかに人の手から手に渡って読み継がれた。
 サン=テグジュペリは『戦う操縦士』で、戦争の現実を語るだけでなく、生と死の間にあって行われた省察を通して、人間精神の再興と文明再生の条件を語り、「抑圧の地下室になかでこそ、新たな真実を準備するのだ」と呼びかけていた。
 Les Cahiers de NRF叢書の一冊“Saint-Exupéry / Pilote de guerre / L’engagement singulier de Saint-Exupéry”(Gallimard、2013.3)は、2012年6月にサン=モーリス=ド=レマンで、デルピーヌ・ラクロワの主宰で開かれた『戦う操縦士』をめぐるシンポジウムの記録である。
 サン=テグジュペリは1944年7月31日、ライトニングP38に乗ってアメリカ軍が上陸することになっていたプロヴァンス地方の偵察飛行に飛び立った。飛行機の航続時間は6時間だったが、その時間を過ぎても戻らなかった。この一冊は、第二次大戦中の彼が単独でおこなった行動の意味を問うとともに、これまで未刊行テクストの断片も含まれていて貴重である。
 そして、『戦う操縦士』の1年後に出版された『星の王子さま』についても、これまでとは異なった読みがあり得るのはないだろうか。それはたとえば塚崎幹夫が『星の王子さまの世界~読み比べへの招待』(中公新書)で展開しているもので、この作品は、「ファンタジーの衣をまとっているが、きわめて政治的な告発の書」だとするものである。塚崎は論拠として、3本のバオバブの樹を放置したばかりに破壊した星とは、まさに第二次大戦を引き起こした世界であり、3本のバオバブの樹は、ドイツ、イタリア、日本の枢軸側3国を指す。世界は台頭するファシズムに適切に対応できなかったために、戦争を引き起こした。さらに、作中に501622731という具体的な数字が出現するが、これは第二次大戦を引き起こした国々の国民の総計にほかならない。
 このように『星の王子さま』で語られるエピソードの多くには、世界で起こりつつあった具体的出来事が反映されており、『星の王子さま』は、戦禍に巻き込まれて辛い思いをしている人びとを勇気づけるためのメッセージでもあったという塚本幹夫の説は、『戦う操縦士』に引き寄せて読んでみると十分納得力がある。
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by monsieurk | 2013-05-05 22:27 | | Trackback | Comments(0)

フランスの宿題論争

 フランスでは昨年から、小学校で宿題を出すべきか出さない方がよいかをめぐって論争が続いている。事の発端は、昨年3月にフランス最大の保護者の団体が行った2週間の「宿題ボイコット」だった。小学校で出された宿題を、保護者が子どもたちにやらせなかったのである。そしてその結果を検証し、宿題は子どもに苦痛を与えるだけで成績にはさして影響がなく、むしろ家庭の状況、たとえば両親が移民であるためにフランス語が不十分だったり、親が共働きで宿題を見てやる時間がないなど、家庭によって格差が大きくなり、教育の平等を損なうと主張した。さらに去年秋には、オランド大統領が2013年度からはじめる教育改革の一環として、小学校の授業をサルコジ政権のもとで週4日としたものを、週4日プラス半日(月、火、木、金と土曜半日)に戻すとともに、宿題を廃止することを提案した。ちなみにフランスの小学校は水曜日が休みで、この日は教会で教理問答をおしえられる日とされてきた。
 しかし世論調査では、回答者の68%の人たちがこの大統領の提案には反対。つまり学校が宿題を出すことに賛成という意見だった。それも学歴の高い親や所得の多い親ほど宿題に賛成という結果が出た。
 フランスでは小学校はほとんどが公立で、もともと記述式の宿題を出すことは禁止されている。フランスの小学校は5年間で、その先に4年の中学校、3年の高等学校と続くが、こうした学校制度と理念は、1789年のフランス革命以来200年以上続いてきたもので、その大原則は、公私を厳密に分けること、そして公の学校は知育を担当し、徳育は家庭や教会が担うという考えである。
 わが家の娘と息子は小学校をパリ郊外ですごし、いま南フランスのトゥールーズに住む二人の孫も家の近くの小学校に通ったが、学校の登下校には必ず肉親がつき添う必要がある。そして一端、校門をくぐれば、それからは学校が全責任を負うという原則が固く守られている。
 フランスの小学校教育では国語の学習が重視され、詩人や文豪の詩や散文など、お手本となる文章を徹底的に暗記させられる。正しい国語で自分の考えを正確に表現できることが、教育の最大の眼目とされているためで、子どもや孫たちは、家でヴィクトル・ユゴーやラ・フォンテーヌの詩などを暗唱していたが、宿題はそれだけだった。夏休みにも宿題は出されなかった。
 フランスは夏休みの後で新しい年度を迎える秋入学であることが、その理由の一つだが、もう一つには、学校が宿題を出すのは家庭の領分を冒すことになりかねないという考え方がある。知育は学校が責任をもって行い、家庭は徳育を担うという考えが生きていたわけです。人は知的に成長するとともに、良き市民としての価値観を身につけてこそ人間として完成していくもので、学校と家庭は役割を分担して子どもを育てるという伝統が続いてきた。
 フランスでは小学校から中学校(コレージュ)へ進むときに試験はなく、住んでいる地域によって進学する中学が決まっているから、入試の準備のための塾通いはない。もっともドリル、練習帳などは市販されて、それで勉強する小学生はいるが、それをやるかどうかは、あくまで親の責任のもとでの選択である。しかしこの場合も親の学歴や経済的余裕などの要素が反映されるわけで、教育の平等をどこまで保障できるかは大きな問題となっている。だからこそ知的教育は学校内で完結すべきだというのが、社会党政権の宿題無用論の主張なのである。
 ただフランスも国際化の波にさらされていて、小学生のときに学ぶべき事柄が増えている。そのために学校で学ぶ時間だけでは十分ではないとして、独自の判断で宿題を出して、生徒の学力向上を目指す教師が増えてきているのも事実である。2013年秋の新学期を前に、この宿題論争ははたしてどんな決着をみるだろうか。
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by monsieurk | 2013-05-03 22:00 | フランス(教育) | Trackback | Comments(0)