フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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木村荘八「東京繁昌記」

d0238372_2256375.jpg 画家で随筆家の木村荘八の遺著『東京繁昌記』(演劇出版社版)を、池袋にある古書店「八勝堂」の販売カタログで見つけて入手した。横25・7センチ×縦32・3センチの箱入りの豪華本で、昭和34年(1959年)3月20日に、神田神保町にあった演劇出版社から刊行されたものである。
 木村荘八は前年の11月18日に癌で亡くなり、22日には青山葬儀場で、長年所属した春陽会主催で葬儀が行われた。68歳だった。彼はゲラに目を通して、完成を楽しみにしていた『東京繁昌記』を目にすることは出来なかった。
 「東京繁昌記」はもとは読売新聞の朝刊に、昭和30年6月22日から9月30日まで掲載されたもので、このときのタイトルは当用漢字の制限から「東京繁盛記」となっていた。さらに「号外」として、「戦後十年 東京風俗」が同年8月11日から14日まで4回掲載され、11月22日から12月31日まで32回にわたって、「師走風俗帖」が「続・東京繁盛記帳」の副題をつけて掲載された。
 これらが「読売新聞」に掲載されることになった経緯については、『東京繁昌記』の「序」で次のように書かれている。
d0238372_2301475.jpg 「今から三年前には間違いない、或る日のこと、僕は友人高木健夫(読売新聞・編輯手帖子)に手紙を書いた中に、・・・近頃又例の賽の神に憑かれたあんばいで、服部誠一の「東京新繁昌記」を読み出した、ところが、フト読み出したがそのままずるずるふかみへ曳っ込まれるようだ。ふかみとは・・・云々。それで僕の瓢箪の中に、コマも一匹〔瓢箪の中に馬が入っている図が描かれている〕しのぶようなんだがね・・・と、略図〔右の写真を参照〕をかいて――こいつが外へ飛出すと、心忙しくなる、云々。
 すると殆んど切返えすように高健子からそれも速達便の返事が届いて、君のその〔瓢箪の図〕の中の〔馬の図〕を今すぐ引張り出すことは出来ないかね。実は何気なく手紙のことを今日カイシャの社会部でK(景山社会部長)に話すと、いきなり乗り出して来て、そいつを貰えないか、というのだ。Kの性急なのはまた、出来れば来週からすぐ社会面のカコミへというのだが、云々(中略)
 そういう、トントンとした段取り・弾みで、ゆくりなくも僕の「東京繁昌記」は、読売新聞へ暫く連載という運びになったのだった。戯画が箴を成して〔「瓢箪から駒」の図〕となった。」
 「序」には、「瓢箪から駒」のたとえを戯画化した絵が挿入されていて、木村荘八の面目躍如といったところである。なお、「東京繁昌記」は『木村荘八全集第4巻、風俗(一)』に収録されているが、この「序」の部分は割愛されている。
 『東京繁昌記』は木村荘八の遺著となったが、これが貴重なのは、「東京繁昌記」の前に、「文学東京 名作の挿画を中心に」が置かれていることである。ここでは「名作の挿画」という副題の通り、荘八が手がけた、樋口一葉の『たけくらべ』、『にごりえ』、『わかれ道』、永井荷風の『濹東奇譚』、滝井孝作『無限抱擁』、森鷗外『雁』のために描いた挿画の代表作が、アート紙に別刷として収録されており、加えて、「たけくらべ絵巻について」、「濹東雑話『濹東奇譚』挿絵余談」、「文学東京」の三つの文章が収録されていている。
 「濹東雑話『濹東奇譚』挿絵余談」の一部を抜粋してみよう。
 「今度この小説の挿絵を引受けるに当って初めからぞっくりと全篇の原稿が完成されていたことは、挿絵冥利に尽きる喜びでした。その代り、又初めから背水の陣を覚悟の、難しいことでしたが、それは当り前として――予て私は挿画は本文に対する、浄瑠璃節の太夫と絃の関係でなければならないと思っていますので、出来るならば太夫より以上といってもいゝ程に、絃の挿画師はテキストに通暁しなければなりません。大多数の場合、殊に新聞の時には、これはたゞ望むべくして、実現出来ないことです。(中略)
d0238372_2256526.jpg ところが今度の私の場合の『濹東奇譚』は、どうでもファイン・プレー、少なくともフェア・プレーで乗切らない事には、挿絵師の一分立たぬコンディションに置かれました。予めテキストは初めから終り迄そっくりと揃って、どうこれに通暁しようとまゝに、そこに与えられていたのですから。云いかえればこれで多少ともましな挿画が出来なければ、絵は止めるに如きません。(中略)
 さきにいったようにとに角これは「隅田川」がバックになる世界だから、如何なる場合にも川のこっち河岸にはならぬように、女にしても男にしても、同じ新開地でも中野や五反田にはならぬようにと、そう思い、いつも絵に煙の匂いがするように、溝ッくさく、何となく水に縁があるようにと思って・・・亀井戸で玉の井と同じような娼家をやっている者に遠廻しの知縁ながらつてが一軒ありましたので、これをぶちまけては色気抜きの元を切った話ながら、有体は、まずそこへ出かけて、先方の邪魔にならない、午後の一時から四時まで、このショーバイの家の構造を入口から、内所、二階、戸棚から便所の中まで、帖面にぎっしりと一冊写生したのが、最初の仕事でした。(中略)
 ――と、まず、手初めにそんなこの材料の第一課からケンキウしましたが、次に、玉の井の地図を買って、小説本文の「わたくし」があの界隈の交番の在り場に印をしたという。私もそれを踏襲してから、前後十回ばかり、本文の叙述にある通り、或いは玉の井稲荷であるとか支那料理店であるとか・・・・これを小説全篇に渉って判明する固有名詞の個所を、残らず歩いて(同時に写生して)見た上で、地図にそれぞれ書き込み、それから、その地図を机辺の座右に拡げながら改めてテキストを幾度も読んで・・・この場合こうかもあろうかと眼に浮かぶさまを一つ一つ挿絵に描きました。
 これ等の用意は凡そ僕にとっては元々好ましくこそあれ、一向苦にはならないもので、挿絵のうち、殆ど写生の、原品のまま役立ちそうな個所は、ただその製版された場合の効果を案じながら、すらすら描いて行きました。
 ただ主人公の「お雪」が登場するたびに、これはすらすら行きません。というよりも、そうすらすら行かせることは好まなかった。何か仕事の潔癖心のようなものがあったので、度々煙草を咥えて楽しみました。苦労もしました。」
 この文章は、朝日新聞への『濹東奇譚』連載が終わった直後に、雑誌「改造」に求められて執筆された。本文のほかに、多くのスケッチ画も収録されていて、名作誕生の舞台を垣間見せてくれる。
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 木村は先に引用した「序」でも、挿絵制作に触れて次のように回想している。
 「永井荷風先生の名作「濹東奇譚」に添えてかいた絵は、その時筆者が四十四歳だった力の加減を、ありったけさらけだした芸当だけの、コケの一念であるが、災いも三年経てば何とやら、永井先生も何かに書かれていたように、その後廿一年にして、この材料の土地(玉の井)は、昔の影の一木一草も無い、別の土地に変じてしまった。それで、僕の絵は、名作濹東奇譚成れる頃の江東をしのぶ画材としては、「大切な」ドキュマンとなったことは、せがれがお役に立ったわやい、のようである。コケは脱し難しとするも、一念の仕事は、しておけば何かしらイミは有るものと見えた。」
 肝腎の「東京繁昌記」の本文の方も、東京を愛してやまなかった木村荘八が、移りゆく風景、風俗を活写しており、ドキュメントとしても貴重である。「東京の民家」にこんな個所がある。
「東京の町では、その初めには、電柱の方が家屋や町よりも丈け高かったものである。中略)
 読者の敏感はすでに察知されたことと思うが、何故僕が今さららしく「東京」を記すについて路上の電柱の高さなどせんさくしているのだろう? ということは、僕はその時々の「町」の景観――従って美感――の構成を考える場合、東京の町の電柱の高さが持っている、或いは暗示する意味を、風俗については、その時々の「人」の背丈の高さ・身長と、同じ単位と、考えているからである。近い半世紀について考えても、その間の女子風俗を知ろうとするためには、女子の体位・身長の年代別推移からまず調べないことには、風俗の動きは割り出されて来ない。(中略)
 現に中央区本町の通りに相並んだ東京の町の景観を見て、そこに老いてたけ低い明治の祖母が、八頭身美人的明朗な現代令嬢と並んだ「姿」を連想するといって、怪しむものがあるだろうか。されば、八頭身令嬢の現代を考えるについては、先に立って、五頭身祖母の明治や、六頭身母の大正を考えなければならない。「佃島」はつまり東京の祖母の「身の上話」と思いたいのである。」
 木村荘八の『東京繁昌記』は、文と絵で東京の変遷を記録した貴重な資料であり、生前にはまとまった画集を持たなかった彼の画業を俯瞰できる格好の作品集でもある。
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by monsieurk | 2013-06-28 22:29 | | Trackback | Comments(0)
 ドゴールが政権に復帰したとき、世界は東西冷戦の真っただ中だった。ドゴールはアメリカ、ソビエトを中心とした東西両陣営とは一線を画す、ヨーロッパによる第三極をつくるべきだと考えた。最初に手をさしのべたのが西ドイツだった。こうして戦後ヨーロッパの枠組みを決定することになる、西ドイツ首相コンラート・アデナウアーとの会談が1958年9月に実現した。
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 山口晶子さんはこの歴史的瞬間を、エピソードをまじえて紹介している。
 「アデナウアーは、コロンベイ・レ・ドゥゼグリーズの自宅に招かれた唯一の外国の首脳だ。アデナウアーを自宅に招待することを告げられたお手伝いさんが、当初、敵国のドイツ人のために料理を作ることを拒否したが、最後にはドゴールに説得された、という逸話が遺されている。アデナウアーは、1969年に発刊された『回想録』で、このときの会談について、「私は彼の簡潔で自然な非常に感じの良い態度に驚いた・・・。この会談の最重要点は二人のこの時点の現実に対する視点の調和が明らかになったことだ」と記し、二人が人間的信頼で結びあっていた点を強調している。」
 かつて3度の戦をまじえた仏独首脳の間に信頼関係が醸成されたのには、人間的資質が似ていたことに加えて、アデナウアーがプロイセンではなく、ライン河をはさんでフランスのすぐ東にあるラインラントの出身であり、大多数のドイツ人と違って、プロテスタントではなくカトリック教徒だったことが見逃せない。
 こうしてフランスと西ドイツの両国は協力してヨーロッパ共同体(EEC)を牽引するパートナーとなり、1963年にはエリゼ条約(仏独協力条約)を結んで安全保障の面でも緊密な同盟関係を築いた。 
 その一方、ドゴールはアメリカ、イギリスに対しては警戒的であった。その背景には第二次大戦終結時に、アメリカのローズベルト大統領がドゴールに対して冷ややかな態度に終始したこと、またイギリス首相チャーチルとの関係が次第にぎくしゃくしたことがあった。ドゴールの反アングロサクソンの姿勢が如実に示されたのが、ヨーロッパ共同体へのイギリスの加盟問題である。
 イギリス首相マクミランは、1961年8月、ECCへの加盟を申請するが、ドゴールはすぐには認めなかった。そしてドゴールが懸念するような事態が翌年に起きた。キューバ危機が回避された直後の1962年12月、カリブ海にあるバハマ諸島の首都ナッソーで会談したケネディーとマクミランは、アメリカがイギリスにポラリス型ミサイルを提供し、イギリスはそれに核弾頭を装備して原子力潜水艦に搭載し、これを米英共同の管理下に置くという協定に調印した。「ナッソー協定」と呼ばれるこの協定はキューバ危機を意識したものであった。
 この協定内容は、ドゴールがかねて抱いていた疑念を裏づけるものであった。イギリスがEECに加盟すれば、結局は巨大な大西洋共同体が出現して、EECはアメリカの支配下に置かれ、やがてはそのなかに吸収されかねない。ドゴールにはイギリスがアメリカの「トロイの馬」であると見えた。そのためドゴールは、イギリスの二度にわたる加盟申請を拒否した。
 イギリス、アメリカの世論はドゴール批判で湧きたち、フランス産のシャンパーニュやブドウ酒の不買運動がおこった。結局、イギリスの加盟はドゴールが退陣するまで待たなくてはならなかった。
 山口さんは、アングロサクソンのドゴール嫌いを象徴する一つに出来事を紹介している。20世紀が終わろうとする1998年4月、アメリカの週刊誌「タイム」は、20世紀で世界にもっとも影響をあたえた指導者は誰かという特集を組んだ。そこではチャーチル、ローズベルト、スターリン、ガンジー、毛沢東など20人があげられたが、ドゴールの名前はなかった。
 「この「タイム」のリストに対する当時のフランスのメディアの反応ぶりが興味深かった。
左派系の「リベラシオン」紙が真っ先に、4月9日発行の紙面で、《アメリカ人から忘れられた偉大なるドゴール》と皮肉を込めながらも、どこか悲しげな見出しを掲げた。
 「リベラシオン」は、1969年の5月革命後の1973年に創刊された。創刊当時のフランスの社会には、1969年に10年の長期政権の末に退陣したドゴールに批判的な反ドゴール主義が横溢していた。「リベラシオン」も反ドゴールが看板で、学生や若者層が読者対象だった。紙名の命名者は哲学者のジャン=ポール・サルトルである。この反ドゴール主義、つまり左派支持、反右派は創刊以来、一貫した方針である。
 しかし、この記事には明らかに、フランス人としての静かな怒りや、こういう見識のない選出を行ったアメリカ人への痛切な皮肉が読み取れる。「アメリカ人はいつも、何もわかってはいない。特にヨーロッパに関しては」との声が、この見出しからは聞こえてきそうだ。」
 フランス外交の基本は「自主外交」路線であり、これはドゴール以来、1981年に誕生した社会党のミッテラン大統領の時代も変わらなかった。1991年1月に、ジョージ・ブッシュとサッシャー首相が主導し開始された「湾岸戦争」で、ミッテラン大統領は最後までフセインのイラクとの話し合いによる解決の道を探った。さらに2003年の「イラク戦争」をめぐっては、当時のシラク政権のドミニク・ドビルパン外相は、国連安保理にアメリカが提出したイラク攻撃を容認する決議案に、拒否権をちらつかせて反対した。こうしたフランスの姿勢に対して、英米のメディアは一斉にフランス批判を展開した。
 「何よりも、フランス国内にはアメリカの、特に当時の大統領、ジョージ・W・ブッシュの「無法者は撃て」式のイラク戦争には拒否反応があった。アメリカ流の粗野な方式を嫌う反米気分は、常にフランス人の心の奥底に潜んでいる。これは米仏の文化の相違でもある。「唯一の超大国となったアメリカの一国主義による新世界秩序の危機」(フランス外務省高官)も強く叫ばれ、国民の共感を呼んだ。アメリカが開戦理由とした、核兵器など大量破壊兵器の存在に関しては、国防省は「確証が得られない」として、大いなる疑問符をつけていた。後に、大量破壊兵器は存在しないことが明らかになり、フランスの情報も判断も正しかったことが証明された。」これが当時パリにあって各方面を取材したジャーナリスト山口昌子さんが下した結論である。
d0238372_6212718.jpg 『ドゴールのいるフランス』では、この他にも興味深いフランス分析が幾つもこころみられている。その一つがフランスの知識階級の一部に厳として存在するドゴール嫌いをあつかった件〔くだり〕である。詳細は本書をぜひ読んでほしいが、山口さんによれば、その理由の一つはドゴールが軍人だったこと、さらにはドゴールが、「結局は自分たち「知識人」よりはるかに分析力も洞察力もある本来の意味での「知識人」だったことにあるとする。政治家ドゴールが本質的に「知性」の人であることに、いわゆる「知識人」は戸惑い、嫉妬していたのかもしれない」という。そしてこの「知性」こそが、危機の時代の政治家にもっとも求められる資質だというのが、本書での山口さんの結論である。
 産経新聞は20世紀が終わるにあたって、この時代を人物からふり返る大型連載を企画した。フランス駐在の山口昌子さんは、最初はデザイナーのココ・シャネルを担当して、フランス人の取材相手に企画の意図を説明した。すると取材相手は口々に、「20世紀を代表するのはドゴール将軍。どうして彼を取り上げないのか」と指摘したという。こうした体験がもとになって、この血の通った「ドゴール伝」が成立したのである。
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by monsieurk | 2013-06-25 20:29 | | Trackback | Comments(0)
d0238372_1313760.jpg 来年は東京・恵比寿にある日仏会館の開館90周年にあたり、それを記念する行事がいまから目白押しに開かれている。先日、雨模様の宵、元麻布で関係者の集まりがあり、山口昌子さんと席が隣になった。山口さんは産経新聞の特派員として、長年パリを拠点にヨーロッパ情勢を取材し、多くの貴重な情報を私たちに提供してくれている練達のジャーナリストである。その山口さんの書、『ドゴールのいるフランス――危機の時代のリーダーの条件』(河出書房新社)を紹介したい。
 なぜいまドゴールなのか。山口さんはその理由をこう書いている。「国難から二度も祖国フランスを救済した危機の政治家ドゴールは、フランスでは永遠のブームであり、永遠の存在だ。(中略)フランスはもとより、日本を含めて、いまほど世界がドゴールの果たした『危機の政治家』としての役割を振り返ることが必要とされているときはないと思える。」
 シャルル・ドゴールが死去した1970年11月9日、山口さんは留学生としてパリにいた。そしてドゴールの死を悼む大勢の人たちが、雨の降りしきる中コンコルド広場から凱旋門まで、シャンゼリゼ大通りを黙々と行進する姿を目撃したという。
 これより2年前の1968年5月、フランスではドゴール大統領のもとで、「五月革命」が起こった。3月22日にパリ大学ナンテール校に端を発した学生の反体制運動は、やがて現状に不満の労働者の共感を呼び、5月21日には、フランス全土で労働者、学生、知識人1千万人が参加するゼネストに発展した。これに対して機動隊が参加者に容赦ない殴打を加えたため、フランスはかつてない危機に直面した(ブログ「5月革命の『評価』」、2011.10.13を参照)。
 この事態にドゴール大統領は国民の意思を問うと表明、その後行われた議会選挙で圧勝して危機を乗り越えたのだった。しかし翌1969年4月、上院及び地方行政制度の改革案が国民投票で否決されると、大統領の職を辞して故郷のコロンベイ・レ・ドゥゼグリーズに隠棲して、もっぱら執筆に専念した。そしてドゴールは翌年11月、動脈瘤破裂で亡くなったのである。遺書には、「国葬は不要。勲章等は一切辞退。葬儀はコロンベイで、家族の手で簡素に行うように」と書かれていたが、フランス政府の肝いりで国葬が執り行われた。
 山口さんの著書は、ドゴールの生涯を縦糸に、その決断と行動がフランスにもたらした歴史的意味を、豊富な資料と関係者へのインタビューで明らかにする。
 1890年生まれのドゴールは、サン・シール陸軍士官学校で学び、第一次大戦では大尉として従軍し、1916年には最大の激戦地ヴェルダンでドイツ軍の砲撃をうけて重傷をおった。その後ドイツ軍の捕虜となり幾度か脱走をくわだてたが失敗、終戦まで捕虜生活を送った。こうした原体験がドゴールの強烈な愛国心を育てたことは想像に難くない。
d0238372_13121050.jpg 山口さんが「フランスの国難」と呼ぶ事態に、ドゴールは生涯で幾度も遭遇した。まずは第二次大戦の敗戦によって祖国がドイツに占領されたことである。敗戦を認めないドゴールはひそかにロンドンへ飛んで亡命政府「自由フランス」を結成し、英国国営放送・BBCのマイクを通して祖国の人びとに抵抗を呼びかけた。最初は放送を聴いたものはごく少数だったが、放送はやがて大きな谺〔こだま〕を生み、レジスタンス運動とも呼応してフランスを解放する力となったのである。
 ドゴールがフランスを救った二度目は、植民地アルジェリアの独立をめぐる危機のときであった。戦後、臨時政府の首相になったドゴールは、戦争中のレジスタンス運動で勢力を伸ばした共産党や社会党との政策の不一致から、1946年1月に首相を辞任して政治からの引退を表明した。だが戦後のフランス政界は小党の分立で機能不全に陥り、アルジェリアの民族自立を求める叛乱に対しても有効な手をうてなかった。この状況に不満をもったアルジェリアのフランス人植民者(コロン)が、現地駐留軍と結託して本国政府に反旗をひるがえし、1958年5月には本土への侵攻計画を立てるまでにいたった。
 この事態に対処できる人物はドゴール以外にないとして、民衆の多くはドゴールの復帰に期待した。この声をうけて大統領はドゴールを首相に任命し、ドゴールもこれを受諾。アルジェリア駐留軍の指揮官たちもこれを支持した。だが政権の座についたドゴールは、現地軍や植民者の期待とは裏腹に和解政策進め、アルジェリアの独立を認めたのである。このためにドゴール自身もテロの標的にされた。
 事件は1962年8月22日に起きた。週末をコロンベイ・レ・ドゥゼグリーズで過ごすために、ドゴールとイヴォンヌ夫人、それに娘婿が載った車がパリ郊外のプティ・クラマールの交差点に差しかかったとき、待ち伏せしていた軍人グループが車に数百発の銃弾を撃ち込んだ。車に防弾装置が施されていたことと、運転手が機転をきかせて猛スピードで現場を走りぬけたことで奇跡的に難を逃れたのである。
 アルジェリア問題解決の目途をつけたドゴールは、これを機会に大統領に強大な権限を持たせる新憲法を国民投票に付して、国民の圧倒的賛成を得て第五共和制をスタートさせた。
山口さんはアルジェリア問題について次のように書いている。
 「ドゴールは復帰時に、《フランスの足に刺さったトゲ》《悲しみの箱》と、泥沼化するアルジェリア戦争について述べた。この《足のトゲ》を抜かないかぎり、フランスという身体全体が化膿し、腐ってしまうかもしれない。しかし、一世紀以上もフランスの植民地だったアルジェリアは、フランスの身体の一部である。トゲを抜くには痛みも伴えば、トゲとともに抜かれてしまうものもある。約百万のコロンたちは、それまで慣れ親しみ、財産を築いた土地を手放し、引き揚げなければならなかった。石油の宝庫でもあるアルジェリアへの執着も経済界では大きかった。(中略)
 一方、アルジェリア民族解放戦線(FLN)の激しい抵抗に対する苛烈な拷問や、アルジェリア人ながらフランス軍側に付いたアルキ(民兵)への迫害など、いまだにフランスの現代史に遺した汚点は消えない。教科書に拷問の例が記載されたのは、1990年代も後半だ。それまでは「北アフリカにおける秩序維持のための作戦」と呼ばれた。この一事だけでも、「アルジェリア戦争」の欺瞞性が知れる」、「このようにアルジェリア問題にはいまだに、タブーがあり、暗い闇の中に閉ざされた部分がある。パンドラの箱のように、アルジェリアとフランスの関係には、一度、開けると収拾がつかなくなるほどの底なしの悲しみが閉じ込められている。」
 「歴史とは現在と過去とのあいだのたえざる対話である」と語ったのは、イギリスの歴史学者E・H・カーだが、山口昌子さんの『ドゴールのいるフランス』を特徴づけているのは、まさに今日のフランスや世界の状況を視野にいれたジャーナリストとしての問題関心である。タイトルが「ドゴールのいるフランス」と現在形になっている所以でもある。
 第五共和制下の最初の大統領として7年の任期を得たドゴールは、自らの信念に基づく「自立したフランス」の実現に乗り出す。(続)
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by monsieurk | 2013-06-22 21:00 | | Trackback | Comments(0)

横浜「ゲーテ座」Ⅳ

 横浜・山手の外人墓地には、幕末から明治にかけて日本の近代化に貢献した多くの外国人が眠っている。「ゲーテ座」をつくったヘフトもその一人だが、激動の時代の日と居留民の動向を綴った回想録『ヤング・ジャパン(Young Japan)』(翻訳は「東洋文庫」刊)の著者ジョン・レディー・ブラック(John Reddie Black)の墓もここにある。イギリス人の彼は、妻や息子とともに幕末の日本へやってきた。
 スコットランド生まれの海軍士官だったブラックはオーストラリアに渡って事業に乗り出すが失敗。帰国途中たまたま立ち寄った日本に強い印象を受け、この異国がすっかり気に入った。日本人が印象的で、その歴史や組織だった社会構造、そして独特の宗教にも興味をひかれたのだった。
 最初は長崎にいたジョン・ブラックは1865年5月には横浜へ移り、新聞「ジャパン・ヘラルド(The Japan Herald)」の編集に参加、経営権を譲り受けて主筆として健筆をふるうようになった。当時の外字新聞を見ると、祖国の動向や日々のニュースのほかに、横浜で開かれるバザーや古道具市の広告が目につく。來日する外国人が増え、家具や品物をここで買いととのえたのである。
 ブラックの回想録では、居留地で娯楽について自分たちで種々の催しを企画した様子が描かれている。ジョン・ブラックは歌が大好きで、オーストラリアにいたときもそうだったが、横浜で集まりがあると、歌を歌ったり朗読を行ったりした。彼は素人とはいえ名の知られたテノール歌手で、これはのちのブラック親子の活動を考える上で見逃せない点であった。
 『ヤング・ジャパン』には、彼らが開いたアマチュアの慈善音楽会が思わぬ効用をもたらしたエピソードが紹介されている。開港後の横浜には「浮浪者」と呼ばれる外国人が存在した。多くは港で船を降りると酒浸りになり、出港する船にも帰らない。そうして居留地をうろつき、偶然知り合いになった船員に酒や飯をおごらせる。しまいには海岸の村にあらわれて人びとをゆすったりした。開設された各国の領事館でも資金がなくて、こうした厄介者に手を焼いていたとき、慈善音楽会が大盛況で、その利益を彼らの帰国費用にあてたというのである。
 ジョン・ブラックはやがて英字新聞の発行だけでなく、ポルトガル人F・ダ・ローザの全面的な助力をえて、明治5年(1872年)には日本語の新聞「日新真事誌」(The Reliable Daily Newsを日本語に訳したもの)を創刊して、イギリス流の新聞を日本に根づかせようとした。最初は木製の活字を用い、のちにはダ・ローサの奔走で、鉛活字で印刷するようになった。
 新聞は日本の言論界で認められるようになり、ブラックは板垣退助や後藤象二郎といった自由民権運動の中心人物と知り合い、明治7年(1874年)1月18日号に、自由民権派が前日左院に提出した民撰議院設立県白書を掲載した。これはブラックのスクープだった。
そして彼は、「新聞」を通して啓蒙するだけでなく、横浜や東京で集会があると日本人の聴衆を前に演説をするようになった。このころには息子のヘンリー・ジェイムズ・ブラック(Henry James Black)も日本語が上達し、弁士の役がつとまるまでになった。彼ら演者をつとめる集会には、1000人もの聴衆が集まることもあったという。
 こうしたブラック親子の活動は、明治新政府にとって目障りなものであった。そこで政府は巧妙な手を打った。まず父のジョン・ブラックを、明治7年に左院の行政部門の顧問に任命し、「日新真事誌」を左院の官許機関紙とした。左院というのは明治4年に設けられた太政官の構成機関の一つで、立法について審議して、その議決を正院に上申する機関であった。ブラックの見識をぜひ役立てて欲しいというのが表向きの採用理由だった。
 だがジョン・ブラックの在任は長くは続かなかった。体制の中に一度は取り込んだ上で、明治政府は翌明治8年6月、「新聞紙条例」を改正して、日本で外国人が新聞の発行人となることを禁じた。そしてこの年9月、ジョン・ブラックの左院顧問の職を解いてしまった。こうしてブラックは新聞発行から手を引かされた上に官職まで奪われてしまったのである。
 失意のジョン・ブラックは病をえたこともあって、翌年4月、妻を連れて一時的に日本を離れて上海に向かった。日本に一人残った息子のヘンリーはこのとき18歳で、日本の生活にも慣れ、日本語も日本人と同じように話せるようになっていた。
 記録によると、彼は両親が日本を離れた3カ月後には、浅草の芳川亭という寄席で、西洋奇術を披露している。これは柳川一蝶斎という手品師との共演で、その後ヘンリーは何度も寄席の舞台に上り、流暢な日本語のせいもあって人気者となった。
 当時は政治結社が数多くつくられ、彼らは頻繁に演説会を開いて、自分たちの主義主張を大衆に説いていた。演説会には娯楽の一面もあり、毎回大勢の聴衆が集まったのである。変わり種のヘンリーはよく演説会に呼ばれるようになった。
 そんなある日の演説会で、彼は当時一流といわれた講釈師の松林伯圓と出会った。白圓は講釈師といっても、自分の芸を大衆を教育する有効な手段であると考えているような人物だった。そのため伯圓は新作の講談をつくり、そのなかには外国の話を翻案して取り入れたものも数多くあった。明治4年(1871年には、コロンブスの伝記をもとにした話を高座にのせて、世界一周旅行をテーマにした「世界一周オチリア草紙」という講談をつくっている。興味深いのは、この世界一周をテーマにした講演が、フランスの作家ジュール・ヴェルヌの有名な『八十日間世界一周』が日本で翻訳出版されるよりも8年も前に行われていることである。ヴェルヌの原作は1873年にパリで出版されているから、ほぼ同時期に日本とフランスで同じような発想が生まれていたことになる。
 記録によると、ヘンリー・ブラックが講談師として舞台にあがった最初は、明治11年(1878年)12月のことである。場所は横浜の馬車道にあった富竹座で、伯圓が自分の高座の飛び入りとしてヘンリーを舞台に乗せたという。このときヘンリーはイギリスのチャールズ一世の事跡とジャンヌ・ダルクの物語を講談に仕立てたものを語った。どちらもヨーロッパでは有名な人物で、おそらく日本で初めて取り上げられたものである。
 前年は西南戦争が起こり、田原坂の激戦で官軍に敗れた西郷隆盛たちが鹿児島で自決し、勝利した官軍は11月に帝都東京に帰還するという激動の時代であった。さらに世間では大久保利通殺害や竹橋騒動が起こり、そうした雰囲気のなかでヘンリーが取り上げる西洋の政治講談は大いに民衆の関心を呼んだ。
 ヘンリーはその後も積極的に演説会を開き、松林伯圓と一緒に舞台から民衆に語りかけた。当時の新聞記事によると、ヘンリーがとりあげたのは「ナポレオン論」、「日本開化の害」、「日本政体論」、「治外法権」、「証拠裁判の説」、「吉原を廃すべきの論」、「コレラ予防の説」などで、いずれも文明開化を進めよとしている日本社会の急所となるようなテーマであった。
 だがヘンリーの演説会も順調とはいかない事態が持ち上がった。明治12年(1879年)4月5日、政府は集会条例を制定して、ヘンリーたちが催すような大勢の聴衆を相手に、政治を話題とする集会を禁止する手段に打って出た。このために4月末に箱根で開催を予定していた演説会は中止させられてしまった。
 こうして文字が読める知識層を新聞という媒体を通して覚醒させ、批判精神を植えつけようとした父のジョンのこころみも、話し言葉を武器に、演説という形で新しい海外の知識を伝え、大衆を啓発しようとした息子ヘンリーのこころみも、両方とも明治政府の干渉によって挫折せざるをえないことになったのである。
 ヘンリーはこのころ「快楽亭ブラック」という芸名を名乗るようになった。「やまと新聞」は、「落語家中に一種毛色の変わったところをもって売り出した英人ブラック氏は、昨今おいおい弟子が増えるにつれ家号がなくては不都合なりとて、今度、快楽亭と称号を付したるよし」と伝えている。
 ヘンリーが亡くなったのは大正12年(1923年)9月19日。関東地方を襲った大地震の直後のことで、彼が愛してやまなかった横浜や東京はこの大地震で灰燼に帰した。

 ブラック親子については、放送大学の特別講義「ジャーナリストの父、落語家の息子」でも述べたことがあるが、横浜「ゲーテ」座とも関連する事柄として採録した。
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by monsieurk | 2013-06-19 22:26 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

横浜「ゲーテ座」Ⅲ

 横浜山手に新設された「パブリック・ホール」(「ゲーテ座」)で最初に芝居が上演されたのは6月23日のことで、アマチュア劇団が演じたマッケイ作の『ヘイゼル・カーク』であった。そしてこの年の夏には、マスコット歌劇団が来日して、ギルバート/ サリバンのサボイ・オペラ3篇をはじめ、『マスコット』、『ボッカチョ』、『コルヌヴィルの鐘』などの人気作品を上演した。サボイ・オペラとは19世紀後期のヴィクトリア朝時代、イギリスで華ひらいたコミック・オペラで、台本作家のW.S.ギルバートと作曲家アーサー・サリヴァンのコンビが、サヴォイ劇場で上演したことからこの名前がついたものである。
 「パブリック・ホール」に出演した最初のプロの劇団は、明治20年(1887年)5月に来日したジョン・シェリダン一座である。シェリダンは女役が得意な喜劇役者で、メロドラマ『アンクル・トムの小屋』などを上演した。翌明治21年(1888年)5月に来日したルイーズ・クロフォードは、抜粋ではあったがシェイクスピアの『ハムレット』を演じた。
 シェイクスピアの作品を専門とする劇団としては、明治24年(1891年)5月にクリシュトン・ミルンが率いる一座が来日し、5月28日の『ハムレット』にはじまり、8夜にわたって、『ヴェニスの商人』、『ロミオとジュリエット』、『マクベス』、『オセロ』、『ジュリアス・シーザー』、『リチャード三世』をたてつづけに上演した。ロンドンに生まれたミルンは、アメリカに渡って牧師となったが、31歳のときに俳優になる道を選び、やがて女優のルイーズ・ジョーダンと結婚すると一座を組んでシェイクスピアを中心とするレパートリーをもってアメリカ国内を公演してまわった。1891年の日本公演は、イギリスでの公演に向かう途中のアジア巡業の一環であった。
d0238372_23374392.jpg 坪内逍遥はミルン一座が演じたこのシェイクスピアの舞台を観た一人だった。逍遥は明治22年(1889年)に小説『細君』を発表したあとは小説の執筆をやめ、シェイクスピアの本格的な研究をはじめていた。彼が山手の「ゲーテ座」で観たのは、5月30日夜の『ヴェニスの商人』と、翌6月1日の『ハムレット』だった。
 逍遥は「内地で初めて観た外国俳優のシェークスピヤ劇の印象」でこう書いている。
 「その一座の長は、ミルンといって、ずんぐりした小柄の男で、普通の旅役者たるに過ぎなかったが、・・・決して我流ではなく、慥かにシェークスピヤ劇の古い型に従っての演出であったことが想起される。私はわざわざ二晩東京の宅からから出張して、「ハムレット」と「ヴェニスの商人」とだけを観た。古い型に従った演出であったゞけに、私をして観た二、三によって他の十、二十を類推せしめるに足り、テキストを読む上に有利であるのみならず、後年「ヴェニスの商人」や「ハムレット」を土肥、東儀、水口などの交友を指導して実演せしめる場合にも役に立った。其際、邦人で観に往ってゐた者は、私の外には、「ハムレット」の時には、たしか、僅かに一人、それは北村透谷であった。「ヴェニスの商人」の時にも、たかゞ、一人か二人、それは見知らぬ人であった。」
d0238372_23433934.jpg 「ハムレット」の舞台を観た北村透谷は、明治26年(1893年)7月に、雑誌「文学界」の同人である戸川秋骨、平田禿木、島崎藤村と箱根芦ノ湖の宿に出かけた際、2年前に観た「ハムレット」の舞台の思い出を披露した。平田禿木は「文学界前後」でこの日のことを次のように回想している。
 「浅酌中、透谷君は横浜谷戸坂上のゲーティー座で見たハムレット劇の思い出を語った。座頭というのは、もと牧師であったのが役者になって、東洋へ放浪にてきたということであった。興に入ると、透谷君は起ってハンケチを頭へ載せ、
  いづれを君が恋人と
     わきて知るべきすべやある
の、オフェリヤ狂乱の舞を一とさし舞うのであった。」
 この箱根での出来事は、島崎藤村も自伝的小説『春』のなかで詳しく描写している。やがて優れた英文学者や小説家となる3人は、最年長の戸川秋骨が22歳、藤村21歳、一番若い平田禿木は20歳だった。
 坪内逍遥の「文芸協会」とならんで新劇運動の先駆となった「自由劇場」の主催者である小山内薫も、山手の「パブリック・ホール」(「ゲーテ座」)に足を運んだ一人だった。彼がここで最初に芝居を観たのは明治40年(1907年)5月18日で、バンドマン劇団の『あっぱれクライトン』だった。
 小山内薫はパブリック・ホールの様子が分からず、外国へ来たのだとあきらめて左端の椅子に腰をかけて舞台をみた。第二幕がおわったとき、時間はすでに夜11時になっていた。「時計を見るともう十一だ。まだ後二幕あるのだがこれを見て居た日には、一時にもなるだろう。泊るに宿もない田舎者の事だから、思い切って公会堂を出る」とある。
 ハブリック・ホール(「ゲーテ座」)の公演は、西洋の劇場の例にもれず午後9時開演だった。観客の多くが周辺の居住者だったから、それでも困らなかったのである。ただ東京からわざわざ横浜まで出かけていった逍遥、透谷、小山内薫たちは泊りがけの観劇だった。そんな不便にもかかわらず、西洋の芝居に関心をいだく彼らは足繁く横浜へ通ったのである。
 若い日の和辻哲郎や谷崎潤一郎、一高生の芥川龍之介もそうした仲間だった。明治43年(1910年)10月10日から18日まで、来日中のウオリック・メイジャー一座がイギリス喜劇を連日上演した。和辻はこのうち4つの舞台を泊りがけで観た。
 第二次「新思潮」第3号(明治43年11月号)に、和辻哲郎(写真)が書いた「Real Conversation」が掲載されている。
 「人物。和辻哲郎、木村荘大、谷崎潤一郎
時。十月十八日夜。
場所。芝浦、新思潮編輯の用に宛つる木村の書斎。
d0238372_234425.jpg 一面に青い月光を浴びている庭に臨む縁側の障子を明け放して、木村と谷崎と、その上に洋書、雑誌、原稿等を雑然と積み重ねて、室の中央に据えてある机を隔てゝ相対している。隻方稍次墜落な態度で、木村は谷崎の角帽を冠っている。
 和辻哲郎登場。借り物だが素的によく似合う制服姿。

谷崎 昨夜も君は横浜へ泊ったのかい。大分どうも御熱心だね。
和辻 ああ。
谷崎 どうだった、面白かつたかい。
和辻 面白かったね。(ポケットからプログラムを出して机の上に投げる)これが立女形の写真なんだ。
木村 (手に取って見る、谷崎も覗き込む)メエジヨアス、コメデイ、コムパニイのミス、ジヨオジイ、コルラスか。昨夜は何を演ったんだ。
和辻 オオルド、ハイデルベルヒ。
木村 どうだったい。
和辻 うむ。よかったよ。(得意そうににやにやする。シヨオの芝居を観たのは俺だけだという自慢が顔から隠し切れない)とにかくあれっ位いな脚本が、あの連中には丁度手頃な処だね。
木村 だが無論こないだ当てられた新社会劇団の口直しにはなったろう。
和辻 (この間に縁先へ来て窓に腰かける)なったどころか、ミス、ジヨオジイの顔が今でも眼の先にチラついている。此案配じゃあ立て続けに三晩位い夢にみるこったろう。(後略)」
 ここに出てくる木村荘太は、木村荘平の四男で明治22年(1889年)生まれ。画家木村荘八にとっては母親を同じくする兄にあたる。明治41年(1908年)に亰華中学を卒業して、東京外語学校でフランス語を学ぶことを希望したが、父荘平の方針で牛鍋屋「いろは」を継いだ長兄荘藏(父荘平の死後は二代目荘平となる)の手助けをしながら、文学書に読みふけった。やがて生田葵山の文学会に参加し、処女作が第一次「新思潮」に掲載された。明治43年(1910年)には中学の同級生だった後藤末雄たちと第二次「新思潮」を結成して、彼の家が編集所となっていたのである。弟の荘八はこの兄から文学や芸術の面で大きな影響をうけた。
 このとき木村と和辻はともに21歳、谷崎は三つ上の24歳で、彼らが洋書を読んで想像する世界が、「ゲーテ座」の舞台では俳優たちの肉体を通して再現されていた。加えて芝居を見に来ている西欧人の男女の姿が彼らの想像を一層刺激した。
 横浜馬車道の大店に育った北林透馬は、16歳のときにはじめて「ゲーテ座」の扉をくぐったが、そこのいる女性たちの香水の香りにむせる思いをしたことをいつまでも忘れなかった。和辻哲郎が「三晩くらいは夢にみるだろう」というのも同じ気持に違いなかった。和辻にしても筋は分かっても台詞は十分には理解できなかった。それでも魅了されたのは、そこに出現している西洋の空気であり、女優や観客の女性たちの美しさだった。
 ゲーテ座で観劇するには、東京から横浜(現在の桜木町駅)まで汽車に乗り、そこから歩いて山手まで行く必要があった。しかも開演は夜9時と決まっていたから、宿が取れない場合には駅などで夜をすごす覚悟で、毛布持参のものも少なくなかったという。
 だがこのころから山手のゲーテ座を訪れる日本人は次第に少なくなっていった。明治41年(1908年)11月には、本格的な西洋式劇場である「有楽座」が、3年後の明治44年(1911年)3月には「帝国劇場」が建設されて、来朝する劇団は必ず東京でも上演するようになったからである。(続)
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by monsieurk | 2013-06-16 22:28 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

横浜「ゲーテ座」Ⅱ

 本町通り68番地にあった最初の「ゲーテ座」は建坪125坪の小劇場で、当初から居留者の間ではもう少し大きい劇場の建設が望まれていた。この動きが本格化したのは明治14年(1881年)6月で、新劇場建設の第一回会合が開かれた。このとき2万メキシコドルの予算で、500人を収容する劇場の建設が計画された。その後計画は資金難などで度々変更されたが、明治18年(1885年)春、山手256、257番地(現中区山手町254番地)に、フランス人の建築家ポール=ピエール・サルダ(Paul-Pierre Sarda)の設計で新劇場が出来上がった。
 サルダはフランスの名門「エコール・サントラル(中央大学校)」を卒業後、海軍省に横須賀造船学校の機械学教官として雇われて、明治6年10月に来日した。そして造船学校、東京帝国大学理学部で教鞭をとったあとは、三菱財閥に技術者として就職し、横浜や東京で数々の建物を設計・建築した。
 新劇場のこけら落としは、明治18年(1885年)4月18日に行われたヨコハマ・アマチュア管弦楽団による記念演奏会であった。新劇場は建坪270坪、レンガ造り、地下1階、地上2階の建物であった。升本匡彦の『横浜ゲーテ座』に、劇場の内部を紹介する「ジャパン・ウィークリー・メイル(Japan Weekly Mail)」の記事が引用されている。
 「三方に扉があるポーチを通って中へ入る。ポーチの正面は車寄せである。入ってすぐの部屋は、両端に暖炉が設けてあり、56フィート×20フィートの広さ。真上二階に同じ大きさの部屋がある。客席との間にもう一つ、54フィート×12フィートの部屋がある。そこに階段があり、将来は切符売場が設けられる予定である。
 客席へ通じる二つの自在ドアがある。右側は奇数番席、左側は偶数番席の入口である。観客席は、62フィート×54フィートの広さで、壁のガス灯と天井からの日光と天井に吊るされたガス灯とによって明るくされている。天井からの照明が充分なので、壁のガス灯はあまり使われることはないだろう。天井は放物線状で、中央部の高さは45フィートである。床には新しい工夫がこらしてある。地下室のねじボルトの操作により、床はステージと同じ高さに持ち上げられ、きわめて短時間の中に、舞踏会の会場に変えることが出来る。客席は、現在のところ籐椅子で、ゆっくりとして涼しく、快適である。必要な場合には簡単に取りはずせるようになっている。
 オーケストラ・ボックスは、31フィート×9フィートの広さ、緞帳には、湖に浮かぶ小島という大変美しい日本の風景が描かれている。・・・
 舞台の大きさは54×26フィート。照明はフットライトと天井からの4基のスポットによってなされる。俳優休憩室は舞台背後にある。舞台左側のプロンプター席とその反対側は、使われない時にはかなりの観客を入れることができるだろう。グリーン・ルームは54フィート×18フィート、そして広い楽屋が4室ある。大道具、小道具、衣装などの倉庫は地下にある。」
 こうして見ると新しい劇場はオーケストラ・ピットまで備えた本格的なもので、目的に応じて居留民の社交の場とすることもできるようになっていた。事実、開場後の2回目の集まりは、4月23日に開かれたパブリック・ホール基金募集舞踏会で、3回目は同月29日にパブリック・ホール・アソシエイション定例総会が開かれている。こうした会合の際には、客席の籐椅子は取り払われたのであろう。
 パブリック・ホール・アソシエイション(The Public Hall Association)が劇場を建設するための組織だったことから、劇場は「パブリック・ホール(Public Hall)」と名づけられ、日本人の間では、「横浜山手公立戯場」あるいは「横浜公堂」と呼ばれた。
 横浜の居留地は明治32年(1899年)に廃止されたが、劇場は明治40年(1907年)に商業劇場に衣替えして「ゲイェティ座」の名称が復活し、その後も居留民を中心とした在日外国人の社交や娯楽の場として活用された。やがて来日するようになった海外の本格的劇団の出し物を観るために、日本人もやって来るようになった。(続)
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by monsieurk | 2013-06-13 22:03 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

横浜「ゲーテ座」Ⅰ

 前回のブログでは明治・大正の東京にあった牛鍋屋「いろは」のことを書いたが、当時の牛鍋を味わおうとすれば、横浜市中区末吉町に店を構える「太田なわのれん」を訪ねることである。ここは明治元年(1868年)、高橋音吉がはじめて牛鍋屋を開いて以来、伝統の味をまもっている。
 音吉は最初、牛肉を串に刺して焼いたものを出していたが、やがて生の牛肉を醤油か味噌のタレで煮て、臭みを葱で消すなどの工夫を凝らすことを考えつき、やがてこれが「太田の牛屋」と評判になった。「太田」の入口には当時用いられた底の浅い鉄鍋が飾ってある。
 横浜には開港直後から外国人が住む居留地(settlement)が設けられ、そこには学校、病院、教会、競馬場、ビール工場、劇場などがつくられて西洋風の街が出現した。それらは関東大震災で灰燼に帰したが、面影はいまも偲ぶことができる。そんな一つが「ゲーテ座」である。
 いま山手の外人墓地の隣に岩崎記念館「ゲーテ座」があるが、横浜に居留した外国人の社交場であった劇場「ゲーテ座」は、もともとは本町通り68番地にあった。本町通りが元町の高速道路にぶつかる左手前のあたりで、「旧ヘボン邸」の標識がたっている近辺である。
 幕末に横浜へやってきた居留民は娯楽に飢えており、自分たちで芝居を演じては楽しんだ。これはどの開港場も同じで、欧米列強のアジア進出にともない、イギリス人やフランス人が住みついた港町には、アマチュア・ドラマチック・クラブ(ADC)がつくられるのが常だった。1833年にはシンガポールで最初の素人芝居が行われ、1850年には上海でADCが最初の芝居を上演した記録が残っている。
 安政5年(1858年)7月29日、日米修好通商条約が締結されて横浜に居留地がつくられると、まずは港に停泊中の軍艦の乗組員たちが陸に上がって音楽を演奏し、やがて芝居をみせて人気者になった。
 横浜の劇場の歴史については、イギリス近代演劇が専門の升本匡彦『横浜ゲーテ座―明治・大正の西洋劇場―』(横浜市教育委員会、1978年)が詳しく、この貴重な研究をもとに横浜の芝居の歴史をたどってみることにする。
 横浜の居留地には慶応元年(1865年)に、ロイヤル・オリンピック劇場(The Royal Olympic Theater)が出現した。ただ劇場とはいえ、これは空き倉庫を借りた臨時のもので、ここで1865年から66年にかけて、イギリス軍将兵がしばしば芝居を演じ、音楽会なども催された。横浜居留地の中国人は欧米人の日本進出にともないやって来たが、彼らは欧米人に先だって、自分たちが娯楽を楽しむ劇場を居留地135番につくった。これが「同志戯院」で、のちには「和親戯院」とも呼ばれ、普段は賑やかな音曲の中国芝居が演じられたが、ときには欧米のアマチュア・クラブもここを借りて自分たちの芝居を観せたのである。
 こうなると自分たち専用の劇場がほしくなるのが人情である。そこでオランダ人の商人ノールトフーク・ヘフト(M.J.B. Noordhoek Hegt)が、本町通り68番地にあった彼の事務所の裏に、慶応2年(1866年)に劇場の設備をもった倉庫を建て、アマチュア劇団もここで芝居を上演するようになった。
 当時横浜で刊行されていた英字新聞「デイリー・ジャパン・ヘラルド(The Daily Japan Herald)」の慶応3年(1867年)3月の紙面に、新劇場建設のための出資を呼びかける記事が載っている。
 「コンサートや演劇、その他の公演が行われる劇場の建設の必要性が長きにわたって痛感されてきた。小さな劇場の建設は、単に居留地のアマチュアたちの芝居や音楽の才能を発展させるだけでなく、世界中からプロフェショナルを呼ぶことを可能にする。これによって居住者やこの地を訪れる多くの人たちに、夏の数カ月のあいだの娯楽と楽しみを提供することが期待される」として、建設資金を調達するためにヨコハマ劇場株式会社を設立して、一株25ドルで320株を発行して、8000ドルの資本金を集めるとしている。
 次いで明治元年(1868年)6月27日付けの新聞「ジャパン・タイムズ・オーバーランド・メイル(The Japan Times Overland Mail)」は、新しい劇場が生まれたことを伝えている。だが残された資料からは、この劇場がどこにつくられたかは分からない。
 横浜の居留地でイギリス人やフランス人のアマチュア劇団が結成されたのは、慶応3年(1867年)のことであった。明治元年9月の「ジャパン・ガゼット(The Japan Gazette)」紙によると、欧米人の居留民の合計は570人で、内訳はイギリス人260人、アメリカ人80人、フランス人60人、ドイツ人70人、オランダ人50人、その他50人となっており、それが2年後の1870年には942名に増えている。居留民の他にも、1863年以降は居留地警護の名目でイギリスとフランスの軍隊が駐屯しており、アマチュア劇団は芝居好きの居留民に加えて、駐屯する将兵や横浜の港に錨をおろした船の乗組員もメンバーだった。
d0238372_081919.jpg 明治3年(1870年)12月には、先の資本金募集が功をそうして、本町通りに石造り平屋の新たな劇場が完成した。場所は本町通り68番地、ヘフトが芝居も上演できる倉庫をつくったのと同じ場所で、最初のものとの関係は目下のところ不明だが、これが最初の「ゲーテ座」だった。
 新聞「ファー・イースト(Far East)」の12月16日号には、次のような記事が載っている。
 「アマチュア劇団は、バーレスク『アラディン――素敵な悪漢――』と笑劇『可愛い坊や』をみごとに上演して、シーズンと新劇場の幕をあけた。
 とくにアマチュア劇団のために建てられ、非常に有利な条件で貸しだされるこの劇場は、間取りが十分にとられ、音響効果も良好である。舞台は十分に広いので、劇団はどのような作品も上演できるであろう。大道具や小道具類は数も多く、立派である。
 劇団員の大部分は私たちの古くからの友人で、私たちはしばしば好意的な批評を行なってきた。初日の意気込みと成功は、彼らがすでに得ている支持をさらに増す良い兆しとなるに違いない。・・・
 イギリス第10連隊第1大隊の軍楽隊が幕間に演奏した。しかしバーレスクの劇中音楽は、コラード・アンド・コラード社の素晴らしいピアノによって伴奏され、この種の芝居で聴きなれたどの演奏にも優る出来ばえであった。バーレスクが終わったとき、観客は全員大変楽しい一夜をすごしたと語っていた。」
 ところで、ここまで劇場の名前を通称通り「ゲーテ座」と書き、実際いま山手の外人墓地の隣にある岩崎記念館「ゲーテ座」の案内板にも、〈The Goethe Theatre〉と書かれているが、これは明らかに間違いである。外国人居留民が楽しんで通ったのは、「The Gaiety Theatre」であり、正確には「ゲイェティ」と発音すべきものである。英語のgaietyとは、「楽しみ」、「陽気」、「華美」などの意味で、さしずめ「有楽座」といったところだろうか。
 当時ロンドンにあった有名な「ゲイェティ座」を懐かしんで命名したもので、この劇場は、「エンパイア座」、「アルハンブラー座」と並ぶ人気劇場の一つで、一流の俳優たちはこれらのうちのどこかに出演して、流行だったオペラ・コミックを演じて芝居好きのロンドンっ児を楽しませた。なお、いま「ゲーテ座」が建つ山手256、257番地に「ゲイェティ座」が移ったのは明治18年(1885年)のことである。
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 故国を遠く離れて極東の港町に住んだ人たちは、天井から吊るされたガス灯がゆらめくもとで、自分たちの仲間が演じる芝居に、望郷の念をひととき忘れたのである。(続)
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by monsieurk | 2013-06-10 22:26 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

牛鍋屋「いろは」

 2013年は、移りゆく東京の姿を大正から昭和にかけて情趣豊かに写した画家、木村荘八の生誕120年にあたり、それを記念する回顧展が新装なった東京駅の「ステーション・ギャラリー」で開かれた。
 赤レンガの色もよみがえった駅舎にあるギャラリーは、近代化していく東京を見つめ、日々変化する風景や風俗を、ときには旧懐の情をこめて描きのこした生粋の東京っ子、木村荘八にふさわしい場所であった。「木村荘八展」はこの後、豊橋市美術博物館で5月25日~7月7日、小杉放菴記念日光美術館で7月13日~8月25日の日程で開催される。
 今回は油彩画、挿画の原画などおよそ100点が展示されたが、なでも永井荷風の『濹東奇譚』の有名な挿画の全原画34点(国立近代美術館藏)や、『東京繁昌記』の原画は初めて目にしたが、墨、ペン、鉛筆、胡粉を巧みに使い分けていて、一筆書きのような線の見事さに感嘆した。
 もう一点目をひいたのが、木村荘八の油彩の代表作の一つ《牛肉店帳場》(150号)である。これは昭和7年(1932年)の第10回春陽会展に出品された作品で、普段は長野の「北野美術館」に展示されているものである。
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 絵の右半分は広い階段。そこでは階段を上がる女中と下りる女中がすれ違っている。上がる途中の女中は後ろ姿を見せ、慣れた手つきで牛鍋の材料を載せた膳を運んでおり、階段を踏む足音がいまにも聞こえてきそうである。
 一方下りる女中は、片手で肩に載せた膳をささえている。膳はすでに客が食べ終わったもので、いかにも軽そうにみえる。廊下の床や階段はよく拭きこまれていて、いままさに足をつこうとする女中の白足袋の少し汚れた裏が映るほどである。
 この絵には解説として、友人だった画家岡鹿之助宛ての手紙が添えられていて、それによると降りてくる方の女中のモデルは、かつて下谷の花街で鳴らした名妓で、そのころは荘八の内妻だった君〔きみ〕とある。
 画面の左半分は階段下の帳場。そこに坐っているのは荘八の自画像で、客待ち顔の下足番のモデルは、古い画友の横堀角次郎である。絵の右手上部、階段の踊り場の柱には、「第八いろは」という文字が描かれている。しかし実際に中学を終えた荘八が、帳場見習いとして座っていたのは、両国にあった「第八いろは」ではなく、その後に浅草の「第十いろは」へ移ったあとで、ここにはフィクションが混じっているとのことである。
 牛鍋屋の「いろは」は、京都から上京した荘八の父木村荘平が、明治14年の暮れに、第一号店を、芝区三田四国町(いまの慶応義塾の前の場所)に開いたのが最初で、最盛期には東京市内に20以上の店があった。そして各店は、荘平の本妻とお妾さんが経営にあたっており、荘平が彼女たちに産ませて認知した実子は、女17人、男13人で、荘八はその8番目の子で、そのために荘八と名づけられたのである。
 いまでいう牛鍋屋のチェーン店「いろは」は、荘平の死とともに左前となり、荘八がこの絵を発表した20年前に倒産し、すべてなくなっていた。
 ところで日本人が牛肉を食べはじめたのは、明治藩閥政府が文明開化政策を強力にすすめた結果である。慶応4年8月27日、明治と改元されて新政府が政権運営に乗り出したが、人びとは新政権を信用していなかった。大名屋敷はのきなみ空っぽとなり、市民も江戸の繁栄に見切りをつけて、田舎へ逃げ出す者も少なくなかった。明治3年7月の東京の人口は67万4264人で、幕末に比べて50万から60万人も激減した。
 こうした人心を一新するために、新政権の藩閥官僚は次々に西洋文明をとりいれる政策を展開した。それを象徴したのが、断髪、牛肉、洋服の三つである。そしてこれらの普及の先頭にたったのが明治天皇だった。天皇は明治3年3月には頭髪を切り、この年春には山城屋和助に洋服をつくることを命じた。
 明治天皇の膳に、はじめて牛肉が供されたが明治5年1月24日で、大久保利通の進言によるものだった。これを機に政府は食肉を奨励することになった。4月には僧侶の肉食妻帯がゆるされ、このとき敦賀県が出した通達書には、牛肉の儀は人生の元気をまし、血力を強壮にする養生物であり、とかく旧習をまもって、牛肉はけがれがあり、神前などをはばかるなどというのは、「却テ開花ノ妨碍ヲナス輩不堪哉ノ趣、右ハ固陋因習ノ弊ニミナラズ、方今ノ御注意ニ戻リ以ノ外ニ候」といましめている。
 江戸時代にもごく一部で食肉は行われていたが、統計によれば明治初年の東京府下の一日の屠牛は1頭半、それが明治5年末には20頭となった。これは1人半斤として、5000人分に相当する量である。明治6年には、牛肉商規則という官令がだされ、翌年には、「肉食ノ開クルヤ、上ハ大臣ヲ始メ下民ノ吾々迄之ヲ嗜ムニ、就中牛肉ハ人ノ健康ヲ助ケ補益タルコト真ニ験アリト雖モ其肉ニ善悪アリテ、悪肉ヲ喰フトキハ大害立処ニ至ル、亦畏ルベキナリ。故ニ本年格別御世話在ヲセラレ府下六大区、結社ヲ設ケラレ、牛肉商人悉ク其社ニ入ラザルハナシ」という記事が新聞に載った。東京府下の牛肉店が結社をつくり、すべての店は政府の許可の札をかかげて、品質を保証した牛肉を売ることにしたのである。
 以上の情報は主に読売新聞の名物記者だった高木健夫の『東京の顔』(光書房、1959年)によるが、本の「あとがき」には、「東京の風俗の采訪は、木村荘八氏を頂点とし、安藤鶴夫氏やわたくしなどがその底辺にあって、プロデューサーみたいな役割をしてつづけられたようなものであった。そのころの木村邸には、進駐軍の少佐でグラウワーという日本風俗の研究家があらわれたりして、いかにも多彩な「東京風俗研究学校」の風景があった」と書かれている。いわばこの「風俗研究学校」の校長だった木村荘八が描いたのが『濹東奇譚』の挿画であり、『東京繁昌記』や『銀座界隈』だった。
 東京風俗の探索者、木村荘八の伝記をいま執筆中である。彼が残した数々の文章や日記と並んで、高木健夫の本も資料の一つである。
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by monsieurk | 2013-06-07 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

消える篳篥のリード?

 雅楽の篳篥(ひちりき)のリードに用いられる植物のヨシが自生する大阪府高槻市の淀川に沿った鵜殿地区の真上に、新名神高速度道路の建設が実行される運びとなった。これにたいして海外の管楽器の演奏者や愛好家の団体から、建設計画の見直しとヨシの原の保全を求める声明文が出されて、いま海外でも大きな反響を呼んでいる。
 篳篥は日本のもっとも古い音楽とされ、ユネスコの世界無形文化財にも指定されている雅楽の演奏などに用いられる。オーボエやファゴットと同じ木管楽器で、穴をあけた竹の筒にヨシを削ってつくったリード(蘆舌という)を刺し込み、息を吸ったり吐いたりしてこのリードを振動させて音を出す。このリード(蘆舌)をつくるヨシは、1200年以上の昔から、鵜殿のヨシだけが用いられてきた。
 ヨシは関東ではアシと呼ばれ、利根川水系やそのほかの川沿いにも自生するが、雅楽奏者によると淀川沿いに生える鵜殿のヨシは適度な厚みがあり、弾力もあって他のところのヨシとは異なり、外径が1センチを少し超えるヨシが最適なのだが、鵜殿でもこうした条件に合うものはごくまれで、良いヨシを探すことは至難だという。
 地元の人たちはヨシ原に愛着を持っていて、春には野焼きをして地質を保ち、自作の測定道具でヨシを計っては、リードに適したと思われるものを刈り取って保存しておいてくれる。演奏者はそこから良質のものを選別して、自分に適したリードをつくるのである。
 鵜殿のヨシの危機はすでに1970年代からはじまっていた。この頃行われた河川改修工事で、川幅が広げられ、川底が掘り下げられた。その結果、鵜殿のヨシ原が冠水することがなくなり、湿地の植物であるヨシの生育面積は激減した。その上で今度は道路が通ることになると、古典楽器の用いられるヨシの原が激減してしまう危機が現実のものとなっている。
 地元の人たちや雅楽の演奏家たちが保護・保存の運動を行なってきたが、今年3月末にアメリカに本部がある「国際ダブルリード協会(International Double Reed Society)」から、会長のマーチン・シュリング氏の名前で、保護運動を支持する声明が出された。これが国際的な反響を呼ぶとともに、日本でも管楽器専門の雑誌「パイパース」5月号に掲載されて、日本でも運動の後押しとなっている。
 英語で出された声明の趣旨は、「篳篥のリードの良質な材料の産地が失われる可能性があるという悲劇的なニュースに接して衝撃を受けている。ヨシ原の破壊は雅楽の演奏と日本の音楽文化に決定的なマイナス効果をもたらすだろう。世界中のリード楽器の演奏者は、みなが南フランス・プロヴァンスのヴァール地方で育つヨシで作ったリードを使っているといっても過言ではない。もしこのヴァール地域の資源が破壊され全滅すれば、西洋音楽文化に壊滅的な影響をあたえることであろう。私たちが淀川河川敷に育つヨシの危機を他人事とは思えないゆえんである。私たちの会員は世界50か国に及び、篳篥の魂が宿っている、淀川河畔の保護と保存の要求を断固として支持する。」
 声明はインターネット上にも発信されて、世界中の音楽愛好家でこれに賛同する人たちから、保存運動を支援するという署名が寄せられている。日本でも声明の翻訳が雑誌「パイパース」5月号に掲載されると、鵜殿のヨシ原の保全を求めて署名活動をしている市民団体の「SAVE THE 鵜殿ヨシ原」に数多くの署名が寄せられ、市民団体ではすでに6万人の署名を集めたという。そして7末までには10万の署名を集めて、計画の見直しを訴えたいとしている。道路建設か伝統文化の保存か、私たちがどんな答えを出すか世界が注目している。

 追加――

 東京新聞は5月28日の朝刊で、「豊かさの裏 嘆く若狭」という水上勉さんの特集を組んだ。この記事を読んで水上氏とかつて講演旅行をしたときのことを思い出した。
 1986年に、NHK特集「ドキュメント昭和」という9本シリーズの番組を仲間とつくり、それを基にした9巻本を角川書店から刊行したが、その宣伝のために角川書店後援の講演会を全国各地で開いた。1986年9月24日は三重県津市教育文化会館で行い、このとき一緒に講演をしてくれたのが水上勉氏だった。名古屋で合流し、名鉄で津へ行く間、隣の席で色々と話をうかがったことを鮮明に憶えている。
 講演会は午後5時からで、水上さんが「昭和を思う」、私が「歴史を追う」というタイトルで、それぞれ1時間ほど話をしたが、水上氏は講演の名手で、文壇の人たちは彼と一緒の講演会は嫌がるという評判だった。
 この日の話も抜群の出来で、貧しかった少年時代、大工だった父親が仕事の合間に家で棺桶をつくり、埋葬の手伝いもしたこと、土葬が行われる若狭では遺体が埋められた周囲の桜が、春になると色の濃い見事な花を咲かせるという話などを披露した。そのあとで、会場を明るく照らす照明を見回し、それらを指さしながら、「こうした電気は私の故郷の若狭でつくられ、都会へ送られてきているのだ。貧しいがゆえにリスクを追いながら原子力発電をやっている地方のことを忘れないでほしい」と語ると、会場は静まり返った。その光景と水上氏の声を27年たったいまもありありと思い出す。
 東京新聞の記事では、京都の瑞春院で小僧をしていた水上氏は、「原発サイトに、よりによって「もんじゅ」や「ふげん」でといった仏様の名前をつけたことを怒っていた」と書かれている。私が水上さんとご一緒した年にはチェルノブイリの原発事故が起き、翌87年、水上さんは小説『故郷』を新聞に連載している。水上氏は小説のなかで、「発電炉はぼくらが死んだあとも燃えつづけてゆく。燃える棺桶だ」と書いている。
 以上のような詳細を思い出したのは、水上さんが署名してくださった自著『画文集 達磨の縄跳び』に、「ドキュメント昭和発刊記念文化講演会」のチラシがはさんであったからである。この本は水上さんが自ら立ち上げた「若州一滴文庫」から刊行されている。
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by monsieurk | 2013-06-04 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)
 詩篇「Le Tombeau d’Edgar Poe(エドガー・ポーの墓)」がいつ創られたか明らかではないが、1876年10月19日付のホイットマン夫人への手紙から、ソネの原稿がこの時点ですでにライス嬢へ送られていたことが分かる。
d0238372_1473979.jpg 「エドガー・ポーの墓」を収めた『追悼記念文集(Edgar Allan Poe / A Memorial Volume, Turnbull Brothers, Baltimore)』は、1876年12月に(奥付の発行年は1877年となっている)刊行された。
 これにはライス嬢の短い序文につづいて、J・H・イングラムによるポーの簡単な伝記、記念碑除幕に際して行われた参列者たちの演説、テニソンやスウィンバーンの自筆の手紙の複製のほかに、マラルメの詩とともに地元ボルティモアの二人の詩人の作品が収録された。文集の93頁に「ソネ」と副題されて載っている初稿によって、「エドガー・ポーの墓」を訳してみる。

 永遠がついに彼を彼自身に変えたように、
 詩人は赤裸な讃歌によって呼び起こす
 あの奇妙な声のなかでは死が称揚されているのを
 知らなかったことに驚いている彼の世紀を。

 だが、ヒドラの卑しいとぐろのように、かつて天使が
 種族の言葉に一層純粋な意味をあたえるのを聴いて
 彼らの間ではみながこの妖術は名誉にも値しない黒い混ぜ物の
 波から飲まれたものだと考えたのだった。

 敵意のこもった土とそしてエーテルの、おお、禍いよ!
 たとえ私の観念がポーの眩い墓を飾る
 ひとつの浮彫を刻んではいないとしても、

 暗澹たる災厄から永遠に落下してきた不吉な塊、
 せめてこの花崗岩が、未来にも撒き散らされかねない
 冒涜の昔からの飛翔に対して、永久にその境界を示さんことを。

 マラルメはポーの詩業を隕石の落下運動になぞらえ、永遠(死)がポーを彼そのものともいうべき隕石でつくられた墓石に変えたが、無知な同時代の人たちは、ポーの詩に死への讃美を見てとって非難する。そしてポーの詩をまるで妖術のように見なすのである。こうした状況のなかで、マラルメは一篇のソネを捧げて、ライス嬢から送られてきた写真で見るような記念碑の浮彫をこの詩で実現しようとする。たとえそれがかなわないとしても、せめて詩によって、稀有の詩人を冒涜してきたこれまでの非難の言葉が未来においてもまき散らされることの境界を示するものとなることを願うのである。
 ホイッマン夫人は、マラルメの詩を英語に翻訳することを考え、それに添える写真を送るよう彼に求めた。そこでマラルメは自作の「エドガー・ポーの墓」を英訳して、有名な写真家ナダールに撮影してもらった写真とともに、1877年7月31日付の夫人宛ての手紙に同封して送った。自ら「粗削りで暫定的」という訳は次のようなものである。

 Such as into himself at last Eternity changes him,
The Poet arouses with a naked hymn
His century overawed not to have known
That death extolled itself in this strange voice :

But, in a vile writhing of an hydra, (they) once hearing the Angel
To give too pure a meaning to the words of tribe,
They (between themselves) thought (by him) the spell drunk
In the honourless flood of some dark mixture

Of the soil and ether (which are) enemies, O Struggle!
If with it my idea does not carve a bas relief
Of which Poe’s dazzling tomb be adorned,

 A Stern block here fallen from a mysterious disaster,
Let this granite at least show forever their bound
To the old flights on Blasphemy (still) spread in the future.

 ホイットマン夫人は、その後これを参考にした自分の「自由模作」と、イギリスの批評家オショーネシーの知人ルイス・チャンドラー・モートン夫人によるフランス語の原詩の忠実な英訳をマラルメに贈った。夫人はその1年後の1878年6月27日に亡くなった。
 マラルメは10年後の1888年に、ポーの詩の散文訳を集めた『エドガー・ポー詩集(Poèmes d’Edgar Poe)』をブリュッセルのドマン書店から出版するが、モートン夫人による英訳をそこに収録した。

(翻訳は手元のSarah Sigourney Rice: Edgar Allan Poe / A Memorial Volumeによったが、New York Public Library所蔵本が、ここで公開されている。)
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by monsieurk | 2013-06-01 22:26 | マラルメ | Trackback | Comments(0)