ムッシュKの日々の便り

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小牧近江のヴェトナムⅦ「仏印進駐」

 フランスがドイツに敗れて屈辱的な休戦協定を結んでから3日後の1940年6月25日、日本の大本営は仏領インドシナにある蒋介石の国民党軍支援のための物資輸送網を根絶するために、監視員として陸軍、海軍、外務省出身の30名を派遣した。さらに3カ月後の9月22日には、フランス領インドシナ総督府とのあいだで軍事細目に関する協定が成立した。松岡=アンリ協定で、日本側はあくまで平和的な進駐の形をとろうとしたのである。
 翌9月23日午前0時を期して、中国側国境にいた南支那派遣軍第五師団が国境をこえて進攻すると、仏印軍の一部が激しく抵抗して戦闘となり、数百人の死傷者をだした。だが日本軍は25日には国境の町ドンダンとランソンを制圧し、26日には本隊の仏印支那派遣軍がハイフォン港に上陸した。
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 大本営の情勢判断としては、中国国民党軍の兵力は300万を数えるが、援蒋ルートを遮断し、本拠地である重慶への攻撃作戦によって蒋介石政権を抑えられると考えていた。陸軍内部にはアメリカやイギリスの反応を考えて慎重論も根強かったが、この北部仏印進駐には参謀本部第一部長の強引な指示があったとされる。
 四つの主な援蒋ルートのうち最大規模のルートが仏印から中国へむかうルートだった。このルートはハイフォンの港で物資を揚陸し、鉄道に乗せてそのまま北の中国国境沿いを北上して、主にアメリカから、さらに一部はフランスから武器や燃料などの支援物資が中国に送られていた。
 国境を越えて進駐した部隊には、軍属の西川捨三郎が同行していた。西川は大川周明が主宰する満鉄東亜経済調査局附属研究所(通称大川塾)に学び、卒業後はフランス語の能力を買われて、陸軍の軍属として働いていたのである。大川塾に学んだ者は西川だけでなく、欧米列強からのアジアの解放を信じてインドシナの地で活動するものが少なくなかった。
 日本軍の到着を目前にして、現地ではアンナン人からなる軍の反仏武装決起が計画された。中心はチャン・チュン・ラップ将軍が率いる復国同盟軍で、軍の編成を援助したのが印度支那産業の山根道一であった。
 小牧近江の回想録『ある現代史』には山根について、印度支那産業には、「山根道一さんなどという手腕家の先輩がいました。山根さんは、民族運動に同情をもち、物質的援助も行っていました」という記述がある。先に触れた三日月直之の『台湾拓殖会社とその時代』の「台拓役職員名簿」(昭和18年10月1日現在)の印度支那産業ハノイ支店の最後に、嘱託の肩書きで山根道一の名前が記載されている。
 山根は台湾拓殖の重役をつとめ、のちに特務機関を率いたように軍と関係を保ちつつ隠密裏に行動していたから、小牧が彼の具体的行動を知らなかったことは十分考えられる。山根はチャン・チュン・ラップが日本軍と連絡をとる手引きをするなど、積極的な事前工作を展開した。
 復国同盟軍には3000人のアンナン人兵士がおり、越境してきた日本軍と歩調をあわせて決起した。彼らは日本軍の先導役をつとめただけでなく、仏印軍の兵営に潜入して、仏印軍の兵力を削るべくアンナン兵の離反を画策した。
 だがこうした仏印軍との対立の激化は、日本政府の思惑とは異なっていた。少ない兵力でインドシナに橋頭保を築くのが目的である以上、仏印軍といたずらに事を構えるのは得策ではないと判断した陸軍上層部は、復国同盟軍の行動を見殺しにした。そのためチャン・チュン・ラップはフランス軍に逮捕され処刑された。
 日本軍の進駐後もインドシナの統治権はあくまでフランス側にとどまり、フランス軍と日本軍の共同警備の形をとった上で、最大限フランス側から対日協力を引き出そうとした。具体的には、軍隊駐留の認可、滞留経費の負担、貿易面での仏印から日本への輸出の拡大、日本製品の輸入に際しての関税の優遇措置などについて、交渉によって仏印側にこれを認めさせた。軍事面では、日本軍は軍事協定にもとづいて、フランス側から提供された飛行場を拠点に中国南部への空爆を強め、南部仏印への進駐後に太平洋戦争がはじまると、サイゴン北部の飛行場から発進した航空部隊が、マレー沖海戦でイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋艦レパレスを撃沈したのはよく知られる。
 日本の北部仏印進駐は、タイをのぞく東南アジアのほとんどの地域を領有していたイギリスやアメリカ、オランダの警戒と反発をまねいた。依然としてドイツと戦争状態にあったイギリスは、ヴィシー政権をドイツの傀儡政権として承認せず、承認したアメリカも日本の行動を認めなかった。そして日本の行動への対抗手段として、イギリス領ビルマにあらたに援蒋ルートを建設して支援を続けた。
 日本は進駐直後の9月27日、日独伊三国協定をむすび、間接的にイギリス、アメリカへ圧力を加えようとした。アメリカはただちに鉄屑の対日禁輸をきめ、翌1941年(昭和16年)に入ると、銅などを制限品目に加え、蒋介石軍には対する資金や物資の援助を増大させた。
 日本軍は北部インドシナへの進駐についで、この年の夏、南部インドシナへも進出した。現地ヴェトナムでは、こうした日本の動きに抵抗する勢力が次第に姿をみせつつあった。ホー・チ・ミンを中心にしたヴェトナム共産党である。
 ホー・チ・ミンは1930年に、インドシナ共産党、アンナン共産党、インドシナ共産主義者同盟の3つに分裂していた組織を、単一のインドシナ共産党に統合することに成功し、フランス帝国主義、封建制、反動的なヴェトナム人資本家の打倒、インドシナの完全独立の達成、労働者、農民、兵士による政府の樹立、プランテーションなどの大土地を没収しそれを農民に配分し、民主的自由を確立し、普通選挙を実施し。男女の平等を確立などの10項目を掲げて、インドシナの独立を闘い取る方針の明確にした。
 こうしたインドシナでの共産主義者の活動は、カルト―将軍やあとを継いだジャン・ドクー提督のフランス総督府による弾圧にもかかわらず、労働者や農民のあいだに浸透していった。しかし彼らは日本の二度にわたる進駐によって、もう一つの敵に直面しなくてはならなくなった。しかも日本軍の方がよく組織されていただけに難敵だった。
 ホー・チ・ミンにとって厄介だったのは、1939年に突如ヒトラーとスターリンの間で独ソ不可侵条約が結ばれたことである。日本はドイツと三国同盟を締結しており、ソビエトと日本は互いに慎重な寛容政策をとった。そしてコミンテルンも日本に対して中立的な姿勢に終始した。
 そのためこのときから、ホー・チ・ミンはコミンテルンの方針に忠実であるよりは、祖国の独立を第一とする民族主義者の色合いを濃くしていった。彼にとって国際共産主義は手段であって目的ではなかった。彼がコミンテルンの方針にしたがってきたのは、国際共産主義運動の枠内でしか、民族的自由を実現することはできないと信じていたからである。
 1941年初め、ホー・チ・ミンは中国の抗日グループと協力関係を築き、中国領の国境の町である靖西(チンシー)に拠点をもうけた。国境の両側一帯はカルストでできた地域で、石灰石の丘陵には無数の鍾乳洞があり、密林におおわれた洞窟の一つに本部がおかれた。
 そして1941年5月に、この洞窟でのちに有名となる「ベトミン同盟」(VML)が誕生した。正式な名称は「ヴェトナム独立同盟」といったが、ホー・チ・ミンは短い方が同盟員の大半を占める農民には分かりやすいとして、「ベトミン」の名称を採用したのである。
 ホー・チ・ミンは6月6日に「国を愛するすべての世代、すべての職業、知識人、農民、労働者、事業家、兵士」へ呼びかけるとして、当面の政治情勢を次のよう要約した。
 「フランスはドイツに敗北し、フランス植民地主義者は日本に降伏し、日本がヴェトナム収奪の政策をつづけるのを全面的に支持している。いまや蜂起の旗をかかげるべき瞬間の直前にある、救国が共同目標とならなくてはならない。そしてすべてのヴェトナム人はこれに貢献すべきである。金のあるものは金を、身体の強いものはその身体を、才あるものはその腕前を役立てるべきだ。」
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by monsieurk | 2013-07-31 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(2)

小牧近江のヴェトナムⅥ「印度支那産業」

d0238372_145284.jpg ハノイに着いて早々、小牧近江のフランスに対する立ち位置をはからずも示す出来事があった。到着して一週間ほどたったある日、支店長に連れられてナムディンへ出張することになった。ナムディンはハノイの南東75キロにあり、近代的な設備を誇る紡績工場があった。
 ナムディンに着いたのは昼ごろで、駅前のホテルで昼食をとっていると、軍楽隊の演奏が聞こえてきた。そして安南服を着た大官たちが駅を目指して駆けていく。ホテルの食堂にいる人に尋ねると、新らたにハノイに着任するカトルー総督が乗った列車が、ハイフォンからハノイへ向かう途中ナムディン駅にも停車するのだという。好奇心から窓の外を眺めていると、やがて列車がホームに入ってきて、フランス国歌ラ・マルセイエーズが演奏された。それを耳にした小牧は思わずその場で立ち上がった。同行していた支店長は妙な顔をしつつもこれにならった。
 食堂には大勢のフランス人がいたが、国歌が演奏されても最初はだれも立ち上がらなかったが、日本人の二人が立っているのを見て、まずフランスの軍人が立ち、やがて一般市民も立ち上がった。小牧のとっさの行動は、フランスの総督に敬意をあらわすものではなく、本来は革命歌であるラ・マルセイエーズへの親近の情から出たものであった。この小さな出来事がその後、小牧の仕事に思わぬ結果をもたらすことになった。
 小牧にあたえられた社宅に住んでいた前任者は、ヴェトナム特産の漆をあつかう貿易商を装っていたが、じつは特務機関に属する人物で、フランス側にはこの情報は筒抜けだった。しかも社宅はフランス軍の兵舎の前にあり、代わって入居した小牧も当然監視されていたのである。
 この日のナムディン行きにもフランス警察の尾行がついていて、小牧がフランス語に堪能なこと、他のフランス人が起立しないのに、彼が真っ先に起立したことなどは、総督府に逐一報告されていた。この内輪話は後に親しくなったフランス人の警察官から知らされたのである。
 統計によれば、1939年当時のフランス領インドシナの人口は2145万人。そのうちヨーロッパ人は4160人となっている。ちなみに総督府が置かれたハノイを含むトンキンの人口は809万6000人で、ヨーロッパ人は4万1600人であった。ヨーロッパ人の多くは宗主国のフランス人で、なかには1920年代にインドシナへ来て、植民地の現実を目にして、1925年6月にはハノイで反植民地主義の新聞「ランドシーヌ」を創刊した作家のアンドレ・マルローのような者もいたが、大多数のフランス人は植民地で一旗あげることをもくろむ人たちだった。圧倒的少数の彼らがヴェトナム人の上に君臨する構図は1930年代末でも変わらなかった。
 ハノイに着任した直後は、小牧には決まった仕事もなく、時間があればフランス人と交際することに努め、夜はダンスホールに通い彼らと酒を飲んだ。流暢なフランス語に加えて、パリ大学で学び、法学士の称号をえている経歴が分かると一目置かれるようになった。
 この時代、植民地にいるフランス人には、地方の大学を出たものはいても、パリの大学を出た者はほとんどいなかった。ハノイのフランス人弁護士会会長のラールは数少ない一人で、民法の権威であるブラニュール教授の講義をともに聴講したことがわかると、小牧を厚遇してくれるようになった。
 印度支那産業だけでなく、ヴェトナムに駐在する日本の商社が直面していた問題が、総督府から現地での労働許可をえることだった。さらに日本の会社が仕事をする場合、フランス国籍をもつ人間を三人以上雇用することが義務づけられていた。小牧も赴任直後は観光ヴィザで滞在していたが、間もなく労働許可証を取得し、印度支那産業の全社員14名の労働許可証を更新することができた。この点でも小牧がナムディンでとった行動やフランス人との交際が大いに役立った。これには赴任してまもなく知り合ったフランス人社会の有力者であるバロンドーの助力があった。
 小牧がヴェトナムに到着して一カ月も経たない9月1日、ヒトラーのドイツは突如ポーランドに侵入、3日にはイギリスに次いでフランスも宣戦を布告して第二次大戦がはじまった。ドイツの同盟関係にある日本への、フランス総督府のしめつけは当然厳しくなった。
 日本との連絡用の電報は、これまでのように日本語ではなくフランス語でしか打てなくなり、本社からの電報も同様だった。こうした作業は小牧の独壇場となった。余談だが、1973年2月、ヴェトナムとアメリカとの間に和平協定が締結されたとき、北ヴェトナムで取材をした経験があるが、東京のNHKとの連絡や取材した記事の送稿はすべてフランス語で行わなければならなかった。記事をフランス語で書いて、それを郵便局へ持っていき、検閲を受けた上で東京のNHKへ打電してもらうのだが、日本語が理解できる検閲官がいないため、すべてをフランス語で行う必要があったのである。
 第二次大戦下のヴェトナムでは為替の管理も厳しくなり、日本から印度支那産業への送金も不自由になり、いきおい現地で資金を調達する必要にせまられた。このときもインドシナ銀行総裁のガネーや総支配人ペランとの関係が大いに役に立った。 
 小牧は仕事が暇なときには、インドシナの歴史や民族史を勉強するために、ハノイにあるジャン・フィノ博物館や極東学院(L’Ecole franҫaise d’Extrème –Orient)をよく訪れた。極東学院はフランスがインドシナを植民地としたあと、ポール・ドゥメール総督が、インドやビルマでイギリスが行っている植民地政策にならって、1898年に設立したものである。
 言語研究のほかに、インドシナの考古学上の貴重な文物を調査し、目録をつくってそれを保護し、解読することを仕事としていた。なかでも重要だったのはカンボジアに残る一群の石造寺院の調査であった。
 ある日、小牧が極東学院を訪ねた折りに、司書の金永鍵と出会った。金は慶応義塾大学の松本信広教授に師事し、しかも滞日中に「文芸戦線」から分かれたプロレタリ雑誌「戦旗」の購読者で、この雑誌に書いたことがあるということだった。小牧は彼を通して、グエン・ヴァン・タム、カイ・フンといったヴェトナム人作家や評論家、詩人たちと知り合うことができた。彼らは「今日社」という文芸運動を展開しており、これはかつて小牧たちが始めた「種蒔く人」と同じような性格のものであった。
 彼らはヴェトナムの現状を理解するのに役立つフランス語で書かれた本を次々に紹介してくれた。こうして小牧はヴェトナムの人たちの独立運動にかかわるようになった。
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by monsieurk | 2013-07-28 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(1)

小牧近江のヴェトナムⅤ「フランスの植民地」

 木村鋭市はパリ講和会議のときの代表団の一員で、小牧はそのときから彼を知っていた。『ある現代史』には木村の思い出が書かれている。
 「パリ講和会議の年は、スペイン風邪が大流行でした。ある晩、廊下〔代表団が宿舎にしていたブリストル・ホテルの〕を通ると、部屋でうなり声がします。ドアをあけるとベッドの上で木村鋭市書記官がうなっていました。“二十一か条”とうわごとをいっているわけです。こんな人を死なしては“国家の損”だと感じた私は、好きな酒をやめ、三晩夜通し看護し、水でひたいを冷やしました。」
 木村はその後、外務省アジア局長、チェコスロバキア公使などを歴任し、小牧が築地本願寺で出会ったときは、外務省を退いて国策会社「台湾拓殖会社」の顧問をしていた。
d0238372_20381995.jpg 台湾拓殖会社は1936年(昭和11年)6月の帝国議会で制定された台湾拓殖法と、その後に公布された同法施行令によって、本社を当時の植民地台湾の台北に置く半官半民の国策機関であった。同社の人員や事業内容ついては、同社の社員だった三日月直之の『台湾拓殖とその時代』(葦書房、1993年)にくわしいが、巻末に掲げられている「台拓役職員名簿」(昭和18年10月1日現在)によれば、社長は加藤恭平で、木村鋭市は顧問の筆頭に名をつらねている。
 日本は満州の維持と経済的開発に力をそそぐ一方で、植民地台湾の経営と、南方地域に進出している企業を支援する役割を台湾拓殖会社に担わせたのである。こうして欧米諸国の監視のなかで、日本は仏印(フランス領インドシナ)、タイ、イギリス領マレー、オランダ領インドシナなどへの進出をはかった。台湾拓殖の出先機関の一つとして仏領インドシナに置かれていたのが「印度支那産業」で、支店をハノイとサイゴンに設けていた。
 築地本願寺での再会から数日して木村を会社に訪ねると、印度支那産業のハノイ支店がフランス語に堪能な人材を求めており、この際思い切って行ってみてはどうかという勧めであった。トルコ大使館を三月末でやめてから生活に困っていた小牧は、この申し出を喜んで承諾した。
 問題は旅券の入手である。申請をするとさっそく警視庁から横やりがはいった。だが今回は台湾拓殖会社という国策会社の正社員としての赴任であり、父の友人でパリの困窮時代に面倒をみてくれた内務大臣の田辺治通を訪ねて事情を説明した。田辺はその場で警視総監に電話をしてくれ、家に帰ってみると留守の間に管轄の警察署から警視庁に出頭するように連絡が入っていた。警視庁に行ってみるとすでに旅券は発行されているという早手回しだった。こうして小牧近江は1939年(昭和14年)8月、晴れてヴェトナムの地を踏んだのである。
 出発の際にこんなことがあった。フランス大使館通訳官のボンマルシャンに別れの挨拶に行くと、門出を祝福してくれ、君のような人間にとっていまの日本は住むところではないと激励してくれた。そして出発の日には、わざわざ東京駅まで花輪とブドー酒を持って見送りに来てくれた。
 小牧が乗った汽車が大船へ着くと、大佛次郎がホームで彼の名前を大声で呼びながら探していた。大佛とは同じ鎌倉に住んでいて交流があった。大佛は盃と日本酒の壜を持ってきていて、それで二人は乾杯した。気持としてはヴェトナム行きは「逃亡する」思いだったから、大佛の好意は身にしみた。
 フランスはナポレオン三世の時代にインドシナの植民地経営にのりだし、1859年にはサイゴン(現ホー・チミン)を占領し、以後その支配を北と西に拡大していった。そして二十世紀になるころには、インドシナ全域を支配下に置き、北部のトンキン、中部沿岸地帯のアンナン、南東部のコーチシナ、南西部のカンボジア、一番西側のラオスの五つの地域はフランスの植民地とされた。
 このうちカンボジアとラオスはもともと独立した共同体として存在してきた。山や川、人跡未踏のジャングルによって、二つの地域は外部からの侵入を受けなかったのである。一方、北のトンキン、中部のアンナン、南のコーチシナは、海陸ともに交通の便がよいために同質となり、統一されやすかった。
 この三つの地域が統一されたのは18世紀末のことで、皇帝ジアロン(嘉降)がこれらの地方を支配し、この地方全体をヴェトナムという古い名前で呼んだのである。これは「遠い南の国・越南」、つまり中国の南という意味であった。
 フランスはインドシナ一帯を征服すると、ハノイに植民地総督府を置き、フランス本国から総督と軍隊を派遣してインドシナ全体を支配した。フランスはこのとき「ヴェトナム」という呼び方をやめて、トンキン、アンナン、コーチシナという区分を地図に記し、住民すべてをアンナン(安南)人と呼んだ。住民に独立を保っていた時代を思い起こさせないための措置であった。
 ヴェトナムは中国の影響のもとで独特の家族制度や官僚制度を保っていたが、フランスはこうした伝統をうちこわした。なかでもフランスが打ち込んだ大きな楔〔くさび〕が、中国式にかわるフランス式教育の普及だった。漢字のかわりにフランス語を教え、現地の言葉であるヴェトナム語をローマ字化した。
 これは識字率を高める役をはたしたが、実際はこれまで村落に一つはあった寺子屋が廃止され、そのため学校の数は激減して、人びとが教育をうける機会が極端に減った。その一方でフランスの学校で教育され、フランス的思考を学び、フランス人社会に地位を得たいと望む少数のヴェトナム知識人を生み出した。しかしその彼らも平等に扱われる機会がないことを知っていて、フランスに反抗するエリートに育っていったのである。
 ローマ字のアルファベットを学んだ彼らは、それほど苦労せずにフランス語が読めるようになった。こうして第一次大戦後、西欧化されたインテリ階級を中心に、政治への参加、基本的自由の行使、新聞の発行、外国への移動の自由、フランスの大学への入学の機会を求める声が起った。
 これに加えて中国の革命運動の影響があった。孫文は日本に学んだ近代化路線とロシア革命の影響のもとで、1923年2月広東で革命政府を樹立した。この孫文の率いる国民党と、その革命運動は周辺に大きな波紋をおよぼし、インドシナのナショナリズム運動も盛んになった。中国国民党はインドシナにも勢力をのばし、サイゴンの中国人街ショロン地区に支部をおくとともに、学校を開いた。こうした情勢のなかで、インドシナ各地で若いインテリ層を中心に「若いアンナン」と呼ばれる運動が組織されたのである。
 小牧近江が赴いたヴェトナムの情勢はさらに複雑な様相をていしていた。
 1939年9月1日にはじまった第二次大戦で、ドイツ軍は翌年1940年5月にはフランスの防衛線であるマジノ線を突破、6月14日パリを占領した。ボルドーに撤退したフランスのルブラン大統領は、レノーに代ってペタン元帥を首席に指名した。そして6月22日、ドイツから屈辱的な休戦協定が提示され、ペタン政府これを受諾した。
 ドイツは戦争を継続しているイギリスからフランスを切り離すために、北海と英仏海峡の沿岸部すべてを立ち入り禁止地区とし、残りのフランスはドイツ軍の直接統治下に置く北の占領地域と、ヴィシーに移ったペタン政府の権限がおよぶ自由地域とに分けられることになった。北アフリカの植民地アルジェリアやインドシナなどアジア・アフリカの広大な海外領土はフランスに任せるのが得策と判断され、ヴィシー政権の管轄とされた。
 この事態をフランス統治から脱する好機と考えるヴェトナムの知識人が少なくなかった。そして日本は交戦中の中国に接するヴェトナムに足場を築く機会ととらえたのである。
 フランス総督府はドイツと同盟関係にある日本に対する警戒感が強く、明らかに親中国であった。そのためハノイにある日本総領事館や、この地に進出していた商社は仕事に支障をきたすほどだった。そんなかで、国策会社の台湾拓殖の子会社である印度支那産業は比較的順調に業務を遂行していた。
 小牧近江は台湾の基隆〔キールン〕を経由して、ハイフォンへ行く船でヴェトナムにむかった。ハイフォンはトンキン湾に面していて、中国国境に近いヴェトナム有数の港であった。海岸沿いには多くの倉庫が並び、そこには中国国民党の蒋介石軍を支援するためにアメリカやイギリスが送り込んだ物資が大量に保管されているとみられた。
 ハイフォンからハノイまではおよそ100キロ。汽車で二時間ほどの旅であった。列車はソンコイ川流域の平原を進み、車窓には水田やきび畑が広がっていた。ソンコイ川の鉄橋をこえるとハノイの市街だった。ソンコイ川は薄い赤茶けた色をした水が流れる大河で、フランス人たちはこれを紅河(Rivière Rouge)と呼んでいた。印度支那産業の事務所は、ハノイ駅に近いジャロン大通り(Boulevard Gialóng)街28番地にあり、自宅として社宅が用意されていた。
 2008年12月に、ヴェトナムでの小牧近江の足跡を調査するためにハノイの地を訪れた際に確認したのだが、ジャロン大通りは現在のTran Hung Dao通りで、かつて印度支那産業の社屋だった建物は健在で、いまは病院になっている。また社宅のあった場所は不明だが、小牧がまもなく家族と住んだカルノー大通り(Boulevard Carnot)78番地の家は庭のある瀟洒な2階建てでの建物で当時のまま残っていた。カルノー大通りは、Phan Dinh Phungと呼び名は変わっているものの、道の両側に街路樹が植わった大通りで、自動車やオートバイが行きかっていた。
 先にも引用した三日月直之『台湾拓殖会社とその時代』の巻末に掲載されている役職員名簿には、「仏領印度支那」として、「ハノイ支店」の項に、支店長参事 堤秀夫、支店長代理副参事 奥田松太郎、同 柳生真澄、調査課長副参事 近江谷駉とある。ハノイ事務所の人員は全部で44名、そのうち女性は技手の4名である。このほかに仏領インドシナ全体では、ハイフォン事務所に2名、北部仏印綿花試昨場に5名、仏印米・ジュート試作場に4名、サイゴン支店4名、南部仏印綿花試作場に5名の社員がいた。
 これから分かるように、印度支那産業はフランス領インドシナで鉄鉱石やクローム鉱石などの鉱産物、米、綿花、南京袋などをつくるジュート(綱麻)を現地の農民に栽培させて、それを日本に輸入する役割をはたしていたのである。
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by monsieurk | 2013-07-25 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

小牧近江のヴェトナムⅣ「国民新聞記者」

 国民新聞に入社する際に型通りの面接があった。面接員の一人である営業部長が、「君の奥さんは日本人ですか。以来、わが社の外報部員はみな外人を妻君にしているが、フランスに十年もいて、なぜ君は独りで帰ってきたのかね?」と訊いた。小牧は「あまり候補者が多すぎて、どれを連れて来てよいかわからなく、“公平”を期してみんな、やめることにしてきました」と答えると、くすくす笑いが起って面接は無事終了となった。
 入社後に配属されたのは外報部で、通信社が送ってくる外電を読んで記事にすることが主だが、国内の外国人関連のニュースの取材も手がけた。
 1928年(昭和3年)3月、二人のフランス人飛行家、デュドンヌ・コストとル・ブリが世界一周の途中来日したことがあった。前年にはリンドバーグが初の大西洋横断飛行に成功して、飛行機による世界一周競争のブームが巻き起こっていた。もっともフランス人の二人は、サンフランシスコから日本へは解体した飛行機を船に乗せてきたのである。
 彼らが横浜港に着いたのが3月31日。間もなく国民新聞主催の歓迎会が満開の桜のもと上野公園で開かれ、小牧近江は接待役を仰せつかった。式典では最初に望月逓信大臣が挨拶をしたが、小牧が通訳することになった。大臣の挨拶は漢文口調で巻紙に長々と書かれていた。それを即興で通訳するのは、いかにフランス語が達者な小牧でも心もとない。会場を見まわすと、旧知のフランス大使館の通訳官ボンマルシャンがいるのを見つけて、大臣の挨拶の要約を翻訳してもらった。
 ところが通訳をはじめると、フランス語のメモが一陣の風に飛ばされてしまった。小牧はあわてずにそれを拾い集めて通訳をつづけた。式典の様子はラジオで中継されており、それを聴いた友人たちは、「じつに落ち着いたものであった」とほめてくれたという。
 このフランス人飛行士の来日については後日談がある。二人の飛行士が立川の飛行場から次の目的地へ飛び立つ日に、それを記事にするために出かけると、警戒が厳重で新聞記者はだれも近づけない。フランス大使館づきの武官ルノンドー大佐をみつけた小牧は、彼に、自分の名刺の裏に日本国民への挨拶を書いてもらってほしいと頼んだ。やがて大佐がもってきてくれた名刺には、鉛筆で「日本の国土を去るにあたり“朝日”を通じ、全国民の皆さんにあつく御礼申し上げる」と書かれていた。小牧は“朝日”を消しゴムで消して、“国民”と書き直し、その写真が翌朝の新聞に出た。スクープだったが、“国民”のところだけは筆跡があきらかにちがっていた。
 こうした活躍はあったが、一年ほどたった1928年5月、国民新聞が東京日日と合併することになったのを機会に退社を決意した。
d0238372_12424256.jpg 国民新聞は1890年(明治23年)に徳富蘇峰が創設した新聞で、一時は東京の五大新聞の一角を占めていたが、関東大震災の被害が大きく、社業は傾いた。1926年(大正15年)、甲州財閥の根津嘉一郎に出資をあおぎ、その結果副社長として送り込まれた河西豊太郎と蘇峰の関係がぎくしゃくしたものになっていた。
 もとは平民主義を唱えていた徳富蘇峰も時勢の変化とともに右傾化し、経営的にも行きづまって合併に追い込まれたのである。小牧が採用されたのは、彼の語学力やパリ大学法学部出身という経歴を買われたのだったが、主義主張は水と油であった。合併騒ぎは踏ん切りをつける潮時であった。こうして小牧はまた浪人生活にもどった。
 1920年代、世界も日本も大きな変化に直面した。1923年10月、ドイツのハンブルクでは共産党が蜂起したが、警察によって鎮圧され、11月にはミュンヘンでヒトラーたちが一揆をくわだてて失敗。ヒトラーは逮捕されて禁固5年の判決をうけた。これらはこの年1月に、フランスとベルギーの軍隊がルール地方に侵入し、占拠するという事件の余波であった。第一次大戦後に過酷な講和条件を飲まされたドイツ国民のあいだには憤懣が鬱積しており、社会は左右両極に分裂する様相をみせていた。
 中国では1921年7月1日に共産等の創設大会が開かれ、急速に勢力をのばしつつあった。1923年になると、国民党を率いる孫文はソビエトと連携し、共産党と共存して、工業と農業の発展に力をいれるという3つの政策、「連ソ、容共、扶助工農」を決定して国民党の改組を宣言した。翌1924年1月には国民党の第1回大会で、国共合作が承認された。
 この方針のもとで中国での反日抗争は激化し、1925年5月15日、上海の共同租界で学生2000人あまりが、日本の内外綿紡績工場の労働者が虐殺されたことに抗議して、租界の返還と帝国主義打倒を叫んでデモを行い、これに対してイギリスの警察隊が発砲してこれを弾圧する事件がおこった。いわゆる5・30事件である。デモは各地に飛び火し、列国は共同租界に戒厳令を敷き、対立は深刻になっていった。
 第一次大戦で敗戦国となったトルコでも、1920年4月には臨時政府がアンカラに樹立され、8月にはムスタファ・ケマルが独立戦争をおこした。翌年、ケマルはソビエトとのあいだで軍事協定をむすび、1922年9月にはイスミルへ入城。11月スルタン制を廃止し、1923年にはアンカラを首都とするトルコ共和国の樹立を宣言して、ケマルが大統領に就任した。
 小牧近江が駐日トルコ大使館の書記官から、大使館の業務を手伝ってほしいと頼まれたのは偶然の出会いからだった。このとき鎌倉の稲村ケ崎に住んでいた小牧は、1929年の夏のある日、由比ケ浜であった酒宴の席でトルコ大使館のセラハッティン書記官と知り合った。彼は通訳を探していて、フランス語が堪能な小牧に大使館の仕事を手伝ってくれないかと話をもちかけた。一度は断ったが、後日、今度は自宅を訪ねてきて、「毎朝一、二時間でよいから勤めてくれ。新聞を読んで、その要旨を大使に話すだけでよい」と執拗に迫った。小牧は彼が持参した「ラクー」というトルコ酒が美味いこともあって、最後には承諾した。聞くと「ラクー」はケマル大統領が愛飲しているということだった。
 こうして1929年9月から1938年3月まで、足かけ9年におよぶトルコ大使館勤務がはじまった。最初は一日数時間という約束も、すぐにフルタイムの勤務となった。
 1929年10月の世界大恐慌にはじまり、1931年9月18日の関東軍による柳条湖での満鉄爆破事件に端を発した満州事変、1933年の日本の国際連盟脱退、1936年2月の「ニ・ニ六事件」、そして1937年7月には日中戦争がはじまった。この激動の時代を、「日本の中の外国」ですごせたことは、小牧にとっては幸いだった。給料はアンカラのトルコ政府から直接支給されていた。
 ただ小牧はこの間も「文芸戦線」に文章を発表し、1930年11月には『異国の戦争』(日本評論社)、1934年にはシャルル・ルイ・フィリップの短編集『ビュビュ・ド・モンパルナス』を翻訳して新潮社から刊行するなど執筆活動は活発に行った。
 小牧はあいかわらず要注意人物であり、大使館の勤務中にも特高の刑事が顔をだした。トルコがソビエトと親密な関係にあり、両国大使の交流も盛んだったことから、彼がトルコ大使館を隠れ蓑にして国内の地下活動とモスクワとの連絡役をはたしているのではないかという疑念をもたれたのである。
 そうした要監視人のわずらわしさを一挙に解消したのが、ニ・ニ六事件の際のトルコ大使館の本国への報告だった。日本に着任して間もないヒュスレフ・ゲレデ大使は、親日派の書記官の報告にもとづいて、事件の直後に、「東京平常のごとく平静、詳細後便」という公電をうった。これを傍受していた憲兵隊が小牧のもとにやってきて、「トルコ大使館の電報は一番光っていた」と感謝されて、以後、特高は大使館に足を踏み入れなくなったという。
 1890年(明治23年)9月、トルコ帝国の木造の軍艦エルトグロール号が紀伊半島沖の熊野灘で波浪のために沈没、587人の溺死者を出した。このとき地元の漁師たちが懸命の救助にあたったことがあった。ゲレデ大使の最大の目的は、紀州樫の崎に眠っているトルコ兵たちの慰霊塔を建てることであり、小牧はこの件で中心となって働いた。そして慰霊碑が完成したのを機にトルコ大使館を退職した。三度目の浪人生活であった。
d0238372_12425357.jpg 駐米大使斎藤博が、任地アメリカで死去したのは1939年2月26日のことである。緊張をます日米間の折衝に身心を削ったすえに結核をわずらい49歳の若さで亡くなったのだった。アメリカ大統領ローズベルトは斎藤の努力を多として、国賓としてその遺骨を軍艦で日本に送った。d0238372_12424867.jpg遺骨を乗せた軍艦は4月17日に横浜港に入港、大勢の人びとに迎えられた。小牧はこの様子をたまたま床屋で髭を剃らせていてラジオで聞いた。斎藤博とはパリ講和会議のときに同じ新聞係りとして働いた仲であった。
 それから間もなく外務省葬が築地本願寺で執り行われ、焼香に訪れた小牧は旧知の木村鋭市に声をかけられ、これをきっかけにヴェトナムへ行く道がひらけれることになった。
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by monsieurk | 2013-07-22 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

小牧近江のヴェトナムⅢ「浪人時代」

 雑誌「種蒔く人」は1923年(大正12年)9月の関東大震災のために廃刊に追い込まれた。「種蒔く人」は毎号そのときどきの時流にあわせた形で編集しており、大震災の直前には朝鮮人問題をテーマとして、原稿をすべて印刷所に渡していたが大震災で印刷所は焼失、原稿もすべて失われてしまった。
 小牧近江と金子洋文は再建につとめたが、同人が集まった会議では意見がまとまらなかった。そこで震災後故郷の秋田に避難していた今野賢三に、「休刊の辞」と「朝鮮人虐殺に抗議」を書くように依頼した。その上で金子も秋田に戻り、「帝都震災号外」を印刷して、今野とともに汽車で東京に運んだのだった。
 その後、臨時号として『種蒔き雑記』を刊行した。内容は巻頭の「日本の労働者農民及び青年学生諸君に激す」のほか、入手した「青年共産主義インタナショナル宣言」の翻訳、さらに亀戸事件をあつかった「亀戸の殉難記」などであった。
 大震災の直後、戒厳令が出されるなかで朝鮮人暴動の流言がひろがり、朝鮮人と中国人数千人が殺された。亀戸事件は震災の混乱のさなか、労働争議などで目をつけられていた南葛労働会の川合義虎、純労働者組合の平沢計七たち10名が亀戸警察に拘留され、9月5日の未明に千葉の習志野騎兵第13連隊の兵士によって殺された事件である。この事実は総同盟が調査して分ったもので、それをもとに金子洋文が作品にまとめたものであった。
 『雑記』の奥付には「転載許可」とわざわざ書き、プロレタリア文学雑誌「戦旗」がこれを転載したが、たちまち発禁処分をうけた。そしてこの『雑記』が、小牧近江たちが刊行した雑誌の最終号となった。
 小牧近江は文筆活動のかたわら3年数カ月外務省に勤務して、松岡洋右、広田弘毅など5人の課長のもとで仕事をした。この間、筆禍事件のために罰金刑をいい渡され、小牧が知るだけでも警視庁から3度追放令が出されたが、そのたびに勤務する課が変わるだけで首にはならなかった。小牧がパリ以来外務省幹部に知り合いが多く、日独講和会議への貢で勲6等瑞宝章を叙勲者だったことが幸いした。さらには霞ヶ関クラブの目が光っていて、彼を首にすれば批判にさらされることを外務省が嫌ったからである。しかし1923年、関東大震災の年の3月、外務省は人員削減を迫られ、彼も馘首された。
 小牧の私生活にも変化があった。大震災のあとの11月、見合をした前田福子と結婚して家庭をもった。震災のあとはしばらく親の家に居候していたが、パリ時代の知人の斡旋で当時の社会局長官から、ジュネーヴで開かれる第6回国際労働会議の政府側随員として出席するように要請された。会議には労働代表としてはじめて労働組合から鈴木文治が送られることになったが、フランス語で労働問題を論じられる人材がいず、小牧に白羽の矢がたったのである。
 彼はこうして1924年(大正13年)、久しぶりヨーロッパの地を踏んだ。会議での小牧の仕事は政府の声明や報告書の翻訳、そして会議の討議内容をノートにとることなどだった。そのうち委員に欠員がでて、正式の委員としてパン焼き業務の深夜労働の廃止を討議する小委員会に出席したりした。
 会議の終了後パリへ行くと、ジャン・ジョレス暗殺10周年を記念するデモがあり、それに飛び入り参加したりした。フランス社会党の創設者ジャン・ジョレスは第一次大戦に反対して、1914年7月31日、狂信的な国粋主義者の凶弾に倒れたのだった。
 そんなある日、フランス共産党の機関誌「ユマニテ」紙の編集部に立ち寄り、『種蒔き雑記』を一部贈呈した。以下は小牧の『ある現代史』の回想である。
 「同紙主宰で代議士の老カシャンの室へ、タイピストを一人つけて罐詰にされ、その抜萃を訳せといわれました。
 8月4日から3日にわたって連載しました。
 その時のこぼれ話しがあります。“ユマニテ紙”の経済記者のフルニエ君は私のパリ時代からの友人でしたが、談文学におよぶと、「戦後の新しい文学として、レイモン・ラディゲの“肉体の悪魔”を読んでみろ」というのです。
 この少年作家を読んでみると、主人公はアンリ四世校生であるのと、反戦気分もあるので、私は土井逸雄君とふたりで、夕食前の仕事としました。出来あがって夏の稲村ヶ崎海岸を散歩すると、波が立っていました。「どうだ、ものがものだから危ない、訳者を波達夫としようじゃないか」
 気の毒に“アルス”から出版された最初の“肉体の悪魔”はすぐに発禁になってしまいました。」(ブログ「反戦小説としての『肉体の悪魔』」2012.1.5を参照)
 引用文にあるとおり、『肉体の悪魔』は1925年10月に、北原白秋の弟北原鉄雄が創設したアルス社から出版された、夫を戦場に送り出している年上の女性と高校生の恋愛を描いた内容が時流を乱すとして発禁処分をうけたのである。
 小牧近江が翻訳したフランス文学としては、アンリ・バルビュスの『クラルテ』(佐々木孝丸との共訳、1923年4月、叢文社)、シャルル・ルイ・フィリップ『小さな町』(1925年10月、新潮社)に次いでこれが3冊目で、このあとにもカザノヴ『カザノヴ情史』(1926年8月、国際文献刊行会)などを翻訳した。
  「種蒔く人」が廃刊になったあと、プロレタリア文学の新たな受け皿として、1924年(大正13年)6月、雑誌「文芸戦線」が創刊された。小牧近江をはじめ、青野季吉、平林初之助、葉山嘉樹、黒岩伝治など13人が最初のメンバーだった。小牧は1926年1月の「文芸戦線」第3巻第1号に「排日主義者」を掲載して以後、26年に3本、27年は4月までに3本の論文を掲載した。
 この年4月、「汎太平洋反帝会議」が中国の上海で開かれることになり、アンリ・バルビュスから手紙がきて、自分も行くのでぜひ出席するようにといってきた。小牧は「文芸戦線」の編集会議で、雑誌の特派員の肩書きで派遣してほしいと要請した。この提案は了承されて、中国事情に詳しい里村欣三とともに行くことになった。旅費は朝日新聞と中央公論が原稿料の前払いの形で、150円ずつ出してくれた。
 このときの中国の政治情勢は混沌としていた。北伐を進める蒋介石軍は上海まで進出し、一方で国民党左派は武漢に独立した政府を樹立しており、コミンテルンから派遣されたボロディンは漢口にいてこれを指揮していた。さらに1921年に結成された中国共産党は、上海などで労働者を組織して蜂起の機会をうかがっていた。
 小牧たちの中国行は当然警戒された。下関で乗船するときには警視庁から出向いてきた特高が船客を一人一人チェックしたが、警戒の対象は主に同時期に漢口で開催される労働者会議への出席者で、小牧たちは無事に乗船できた。すると船内で東亜同文書院の新入生を引率して上海に行く一団をみつけ、彼らは先生になりすまして一行と行動をともにして警戒の目をのがれた。
 ただ上海では蒋介石の国民党軍による左派への弾圧が厳しく、上海旅行の目的であった反帝会議も中止された。小牧たちの周辺にも危険が迫り、いつ逮捕され、あるいはその場で射殺されるかもしれなかった。そこで二人は比較的安全なフランス租界に身を隠し、北四川路に書店を構えていた内山完造の紹介で、郁達夫、田漢、周作人といった人たちと連絡がとれ、中国人作家や知識人二十人ほどと話し合いを持つことができた。そしてこの交流を記念して「共同宣言」をつくり、帰国後これを「文芸戦線」第4巻第5号(1927年5月号)に、「太平洋の争奪戦と沿岸労働組合会議」と題して発表した。
 こうした文筆活動はしていたものの、小牧は基本的には失業者だった。子どもも二人に増え生活は苦しかった。そんな彼に徳富蘇峰の「国民新聞」への就職を斡旋をしてくれたのが、早稲田大学の仏文教授の山内義雄とその友人宝田通元であった。
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by monsieurk | 2013-07-19 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

小牧近江のヴェトナムⅡ「クラルテ運動」

 第一次大戦が終結した1918年11月18日から8カ月がたった翌年の6月26日、フランス社会党の機関紙「ユマニテ」は、作家ロマン・ロランの名前で「精神の独立宣言」を掲載した。
 ロランは宣言で、「戦争はわれわれの隊伍に混乱をひきおこした。大多数の知識人は、彼らの知識や芸術や理性を用いて自国の政府に奉仕した。(中略)〔大戦中〕思想の代表者でありながら、思想を堕落させ、思想を変じて一つの党派、国家、祖国、あるいは一つの階級と、我利我欲の道具と化した」と自己批判した上で、「このような危険や卑しい結託やひそかなる隷従から精神を脱却させよう」と訴え、「われわれこそ精神の従者であり、(中略)他に主(あるじ)を持たないわれわれは、人類のために、ただ全人類のためにのみ働く」との決意を示した。
 この宣言には、アラン、アインシュタイン、マクシム・ゴリキー、ヘルマン・ヘッセ、バートランド・ラッセル、アプトン・シンクレア、タゴール、ステファン・ツヴァイクなど世界各国136名の知識人が署名していた。
 国土の10分の1が戦場となったフランスでは、総人口の16%にあたる人命が失われた。負傷者は330万を数え、国庫の負債は300億フランをこえた。この結果、国は勝利の翌日から未曽有のインフレに襲われ、人びとの生活は困難をきわめた。
 1919年11月に行われた戦後初の総選挙では、賠償などで対ドイツ強硬策を主張し、帰還した兵士の多くが参加していたナショナリストの政党「国民団結(Block National) 」が大勝し、社会党をはじめ左翼政党の多くが議席を失った。
 この間ハンガリーでは革命政権が生まれ、ドイツでも4月から5月にかけて、バイエルン州にソビエト政府が出現し、他の都市でも革命の機運は収まらなかった。
 翌1920年になると、北イタリアではストライキが続発し、工場占拠がはじまった。こうしたヨーロッパ全体の雰囲気はフランスにも影響をあたえずにはおかなかった。
 戦争に協力した社会党や労働組織に不信感をもつ若い活動家たちは、1920年2月の社会党大会で、第2インタナショナル(ソビエトが主導した国際共産主義運動の組織)から脱退する決議を採択し、CGT(労働総同盟)を動かして5月から次々にストを打った。こうして社会的不安が高まり、フランスも革命前夜という雰囲気に包まれた。だがこの動きは、政府が軍を動員する強行策をとったために挫折し、6月には国内の秩序は一応の回復をみた。
 ただこの年12月25日から4日間トゥールで開かれたフランス社会党大会では、第3インタナショナルへの加盟が、3028票対1022票で可決され、多数派は党名をフランス共
産党に変更することを支持し、これに不満の少数派は分裂してフランス社会党をそのまま名乗って、第2インタナショナルに留まることになった。当時のフランス社会党員は18万人で、そのうち13万人が共産党に移った。
 こうした社会状況のなかで、作家アンリ・バルビュスを中心に一つの運動がはじまった。バルビュスは1919年5月10日の「ユマニテ」紙に、「グル-プ・クラルテについて」という文章を発表し、「作家と芸術家たちは、有志の熱望に応え、また教育者として、また先導役としての大きな義務から、一丸となって社会的行動を起こそうと決意した」と述べて、自らの小説の題名「クラルテ(光)」をグループ名に掲げ、運動の目的を「人間の解放」であるとした。その上でフランス以外の作家や思想家たちにも呼びかけて、「人民のインタナショナル」と平行して、「思想のインタナショナル」の結成を訴えたのである。
 「クラルテ」グループは翌6月、シリルを事務局長として「真理の勝利のための知識人の連帯の国際連盟」として正式に発足。隔週発行の機関紙「クラルテ」を10月11日に創刊した。
 発足当時の「クラルテ」運動には三つのグループが混在していた。一つは、バルビュスをはじめとする平和主義者の既成作家ないし大学教授たち。二つ目は、第3インタナショナルに加盟している戦闘的コミュニストのグループ。三つ目が、第2の過激分子に理解を示しつつも、自らの戦争体験をなによりも重要視する青年たちであった。「クラルテ」運動はこの三者の微妙なバランスの上にたっており、1920年12月に社会党から分かれて結成された共産党とは一線を画しつつ、反戦主義にもとづく文化運動として歩みだしたのである。
 近江谷駉(おうみや・こまき)は、パリ講和会議が終わって間もない1919年10月のある金曜日、旧知のスヴェリーヌの尽力で、フランス滞在中の吉江喬松とともに、「ル・ポピュレール」社の三階にあった「クラルテ」社を訪れて、アンリ・バルビュスに面会した。このときバルビュスは、戦争中フランスの作家たちは何をやったかと口火を切り、こう語ったと駉は小説風の自著の『異国の戦争』で述べている。
 バルビュスは思想の国際化・インタナショナルを説き、労働者には労働者の、農民には農民の、兵士には兵士の任務があるように、思想の鉾(ほこ)もまた世界的に結束されなければならないと説いたという。会見は駉に強い印象をあたえ、帰国してこの運動を日本にも広めようと決心した。
 そう決心はしたものの、17歳のときから苦労を重ねたパリを去るとなると、駉の胸のうちは複雑だった。彼は夜な夜なモンパルナス界隈で過ごすうちに画家の藤田嗣治と知り合い、パリの思い出に、これまで書き溜めた詩に挿画を描いてくれることになった。藤田はまだ無名だったが、その才能に目をつけていた豪華版の出版を手がけるベルノワールが自分で活字を組み、藤田嗣治の挿絵入りのフランス語の限定版詩集『Quelques poèmes(詩篇いくつか)』を出版してくれた。(この詩集についてはブログ「誌画集Quelques poèmes(詩篇いくつか)2012.10.26および2012.11.1を参照)
 駉の回想録『ある現代史』によれば、バルビュスから、「反戦運動を広めるために、広く世界の同志を糾合するように」委嘱された彼は1919年暮に10年振りで帰国し、真っ先に宮崎県日向の「新しき村」に武者小路実篤を訪ねた。「クラルテ運動」の趣旨を熱心に説く駉にむかって、武者小路は趣旨には賛成だが、団体運動には参加しないことにしているとして有島武郎を推薦した。
d0238372_215557.jpg 帰国後の駉はパリ時代のつてで、翌1920年(大正9年)外務省情報局に嘱託として採用され、そのかたわら小学校以来の友であるの金子洋文と東京で会い、仲間たちで雑誌を出すことにした。二人は郷里の友人今野賢三を誘い、さらに近江谷友治、畠山松治郎らを加えて、故郷土崎港で菊版18ページの小冊子を刊行した。これが日本のプロレタリア運動の魁となった雑誌、土崎版「種蒔く人」である。創刊号は1921年2月、部数は200部であった。編輯後記にはこうある。
 「偽りと欺瞞に充ちた現代の生活に我慢しきれなくなって「何うにかしなければならない」という気持が一つとなって生れたのがこの雑誌です。その気持をこゝで説明する必要ありません。読んで下さるとよく了解されることゝ思います。
 最初の目標が少し違っていたので本号は程度は低いが、次号からずつと高めたいと思っています。そしてこの雑誌は主として文学的に進み外に月一回位宛パンフレツトを発行します。今その計画中ですが、クロポトキンの「戦争」バルビュスの「光」ロランの「賭殺されし人民に」トロツキーの「手紙」等続々発行いたします。」(原文は旧字旧かな)
 編輯兼発行人は近江谷駉、印刷人 寺内林治、発行所は秋田県南秋田郡土崎港清水八九 寺林印刷所、発行所は種蒔き社。定価は二十銭だった。
 第2号は同年3月、3号は4月に刊行されたが、新聞紙条例に決められた発行保証金が払えず、雑誌は3号で打ち切りとなった。当時の外務省さえ実態をつかんでいなかった第三インタナショナルを、堺利彦と並んで日本に紹介した最初の文献であった。
 大戦中の好景気の反動で1920年には恐慌が起き、翌21年には戦後恐慌が続いて失業者が増え、ストライキの波が日本全国をおそった。大戦中に起こった「ロシア革命」の影響もようやく顕著になりはじめていた。雑誌は一度廃刊に追い込まれたが、駉たちが本格的な雑誌を東京で出版したいと考えるようになったのには、こうした時代背景があった。
 1921年10月、雑誌「種蒔く人」の再刊第1号は、発行所を東京に移して刊行された。第1号は56ページ。『ある現代史』によれば、「戦時中ジュネーヴ発行、禁断のアンリ・ギルボーの編集の“Demain(明日)”誌の体裁を借りた」ものであった。
 表紙には横文字で「種蒔く人」と書かれ、その上にエスペラントで、「LA SEMANTO」と記されている。さらに題字下には「行動と批判」とあり、表紙のカットは同人の柳瀬正夢が描いた「爆弾」であった。再刊第1号には赤い帯がついていて、ここには「世界主義文芸雑誌」とあった。
 東京版「種蒔く人」は1921年(大正10年)10月から、関東大震災直前の1923年8月まで都合21冊が刊行され、各巻の裏表紙には、最初は日本語で、検閲による削除が行われるようになってからはエスペラントで宣言が印刷されていた。
 「嘗つて人間は神を造った。今や人間は神を殺した。造られたものゝ運命は死ぬべきである・・・」
 「真理は絶対的である。故に僕たちは他人のいえない真理をうふ・・・」
 「僕たちは生活のために革命の心理を擁護する。“種蒔く人”はここにおいて起つ――世界の同志と共に」
 創刊号はスタートと同時に発禁処分をうけた。近江谷駉は雑誌では本名をひっくり返したペンネームを用い、作家小牧近江が誕生したのである。
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by monsieurk | 2013-07-16 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

小牧近江のヴェトナムⅠ「一枚の写真」

 20世紀は第一次大戦からはじまるといわれる。
 日本は第一次大戦に連合国側で参戦し、大きなダメージを受けないまま、戦後五大国の一つとして世界に乗りだすことになった。じつは日本が今日も抱える国際化の原点が、第一大戦後にパリで開かれた「パリ講和会議」にあると考えて取材したことがある(『ドキュメント昭和、世界への登場、第1集「ベルサイユの日章旗」』、角川書店、1986年)。
d0238372_11523697.jpg 取材の過程で外務省飯倉公館で一枚の写真をみつけた。日本が参加した最初の国際会議に出席した代表団を撮影したもので、場所は宿舎にした「ホテル・ブリストル」の中庭。撮影日は会議が終わった1919年6月30日で、パリ講和条約が調印された2日後のことである。
 このときの日本代表団は64名で、その多くはパリのほか、ロンドン、ローマなどヨーロッパ各地に駐在する外務省のスタッフであった。このほかに医師、タイピスト、日本料理の板前などを入れれば総勢106名にのぼった。
 代表団の首席全権は元老西園寺公望、69歳。次席全権に牧野伸顕58歳。明治の元勲大久保利通の次男で、実質的な全権代表をつとめた。写真にはこの二人をはじめとして、大正、昭和をリードする外交官、政治家の多くが顔をそろえている。
 講和会議の目的は、ドイツなど敗戦国への制裁だけでなく、この場で戦後の世界秩序の大枠を決めようということであった。戦後処理だけを念頭においていた日本にとっては予想外の事態であった。講和会議では、総会をはじめさまざまな分科会が設置され、期間中に開かれた大小の会議はのべ1646回にもおよんだが、準備のない日本代表団は、領土問題と人種差別問題に関する以外はほとん発言せず、ついにはメンバーだった五大国による首脳会議の場にも呼ばれなくなる有様だった。
 会議を取材したアメリカ人ジャーナリストのエミール・ディロンは、『講和会議の内幕』という著書のなかで、「彼らは滅多にフットライトを浴びることなく、自国の利害に関係する事柄に鋭い関心を示すほかは、つねに沈黙を守り、事態の推移を眺めていた」と書いている。日本代表団はやがて「サイレント・パーナー」と呼ばれるようになり、若手の代表団員も先輩に対して同じような感想をもった。ただ彼らの悲憤慷慨も酒が入った席だけで、対外的にはサイレント・パートナーであることに変わりはなかった。
 こうした外交団のなかに小牧近江がいた。写真の最後列左から二人目が彼で、このとき24歳だった。彼は本名を近江谷駉(おうみや・こまき)といい、1894年(明治27年)5月11日、秋田の土崎港で生まれた。
 父、近江谷栄次は代々の家業を営むかたわら、若いときから政治に関心をもち、満30歳のときに衆議院議員に初当選した。かねてからフランス贔屓で、子どもや眷属11人を、フランスのカトリック系マリア会の宣教師たちが運営する東京の暁星学園に進学させた。
 駉も曉星で寄宿生として学び、1910年(明治43年)に、ベルギーのブリュッセルで開かれた万国議員会議に出席する代議士の父に連れられて、17歳でヨーロッパへ渡った。 シベリア鉄道経由でパリに着いた彼は、パリの名門校アンリ四世校に寄宿生として入学し、ブリュッセルでの会議を終えた父は帰国したが、駉は父親の帰国後もフランスに残った。
 学校では同学年の少年たちよりも年長だった彼に、まもなくピエール・ド・サン=プリという友人ができ、ピエールの家にしばしば呼ばれるようになった。ピエールの父はセーヌ県裁判長次席で、母は元首相である大統領エミール・ルーベ(首相のときドレフュス事件が起こった)の娘という名門であった。
 帰国した父栄次は事業に失敗し、そのために送金も途絶えて授業料も滞納するようになり、学校は止めざるをえなかった。しかし幸いにも逓信省から在仏大使館へ出向してきていた人の斡旋でパテ商会で働くことができ、仕事を終えると夜間の労働学校へ通った。やがて父の知人だった石井菊次郎大使のおかげで、大使館で仕事の口を得ることができた。その後、駉は働きながらパリ大学法学部に入学して民法を学び、1918年6月には卒業試験に合格してして学士号をえることができた。
 こうして彼はパリで第一次大戦を経験したのだが、これらの経緯については、『異国の戦争』(日本評論社、1930年。のち「かまくら春秋社」)や『ある現代史~“種蒔く人”前後~』(法政大学出版局、1965年)にくわしく記述されている。
 そんなある日、駉はピエールの兄ジャン・ド・サン=プリが書いた戯曲『ラ・パンシオン(寮にて)』を、パリ6区オデオン通りにある古本屋兼貸本屋の「書物の友の家」のショーウインドーで見かけた。ここはアドリアンヌ・モニエが開いていた店で、多くの作家たちも出入りすることで有名だった。
 そしてこの発見をきっかけに、ふたたびド・サン=プリ家を訪れたことから交遊が復活したのだった。ジャン・ド・サン=プリは詩を書くとともに、「La Vie ouvrière(労働者の生活)」社に出入りする反戦活動家で、ロマン・ロランに傾倒していた駉も、このころアナーキスト系の新聞「Le Journal du Peuple (人民新聞)」の記者ボリス・スヴァリーヌを通して反戦集会に参加し、レモン・ルフェーヴルやジャン・ロンゲといった活動家と知り合いになった。
 その一方で彼は、1919年1月に「パリ講和会議」がはじまると、代表団の現地雇員として、はじめはフランス人運転手たちの取りまとめ役を命じられたが、やがて外務省から来た松岡洋右が率いる新聞係の一員として働くことになった。
 新聞係は全部で7人、手分けして毎朝40種類ほどの新聞に目を通し、主要な記事を切り抜いて全権たちにまわす仕事のほか、内外記者団への対応や他国の代表団との会合のアレンジなど広報・渉外を担当した。
 じつは先に触れた取材の過程で、駉が残した貴重な写真アルバムを見つけたのだが、現在は鎌倉文学館に保存されている。これは代表団の仕事ぶり記録した唯一の写真資料で、さらにもう一つ駉たち新聞係のメンバーがフランス語で書いた「八時間労働日誌」も見つかった。この日誌には新聞係で働く一人一人の写真にあだ名が書き込まれていた。
 伊藤真一書記官、いつもしかかめ面をしていることから「哲学者」。仕事に夢中の野本盛一書記官は「失業者」、ロシア革命に関心を持ち、事務所にまで左翼関係の本を持ち込む駉自身は「ボルシェビキ」。これは外務省から来ていた斎藤博の命名だった。そして他国の代表団や外国人記者との会合をこなし、ほとんど事務所にいない松岡洋右新聞課長は、その神出鬼没振りから「コメット・彗星」であった。
 ドイツの賠償問題、民族自決、国際連盟の創設などを決めたパリ講和会議は1919年6月28日をもって終わり、日本代表団は帰国したが近江谷駉は、その後もパリに残った。(続)

 (「小牧近江のヴェトナム」はしばらく続くが、資料蒐集の面で秋田市在住の天雲成津子さんの助力を得た。天雲さんは小牧近江や金子洋文の研究者である。)
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by monsieurk | 2013-07-13 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

よみがえる特派員報告 Ⅳ

 よみがえるNHK特派員報告 第4回
 「サイゴン陥落の記録」(1975年6月17日放送)

d0238372_652217.jpg 今回ご覧いただくのは1975年6月17日に放送されたNHK特派員報告「サイゴン陥落の記録」です。北ヴェトナムの正規軍は1975年4月30日、首都サイゴンに入城し、南のヴェトナム共和国は消滅しました。「サイゴン陥落の記録」は、特派員がこのとき最後まで現地に踏みとどまって取材した番組です。
 1973年1月にパリ停戦協定が合意され、ヴェトナムに一時平和が訪れたことは、前回お話した通りです。しかし協定で決まった国際会議の開催や、国際監視委員会の仕事は進まず、協定で実現したのはアメリカ軍の撤退だけでした。
 軍事顧問団7900人を除いて、アメリカ軍がいなくなったヴェトナムでは、皆が敵意をあらわにして、停戦協定はまったく無視されました。
 南ヴェトナムを実質的に支配するのは誰か。その後もサイゴン政府と南ヴェトナム解放戦線を中心とする臨時革命政府との間で陣取り合戦が続き、政治、軍事の両面で最後の闘争がはじまりました。その上、停戦協定の枠組みの外にあった隣国カンボジアでは、ロン・ノル政権に対する解放勢力クメール・ルージュの攻勢が激しく、これに対するアメリカ軍は爆撃を継続していました。
 この間アメリカ本国でも大きな変化がありました。1972年6月、民主党の全国委員会本部に盗聴器を仕かけようとした工作員が逮捕される「ウォーターゲイト事件」が起こり、大統領がこれを直接指示したことがジャーナリズムによって暴露されて、ニクソン政権は次第に力を失いつつありました。そしてパリでの停戦協定が結ばれた翌1974年8月、ニクソンは大統領を辞任、代わってフォード大統領が誕生しました。
 この年の暮れ、北ヴェトナムでは重要な決議がなされます。12月8日から翌年1月8日まで断続的に開かれた北ヴェトナム労働党の政治局会議では、南の状況を検討して、総攻撃をするかどうかが議論されました。戦争の指揮をとった北ヴェトナムのボー・グエン・ザップ将軍はこのときの決断をのちにこう語っています。
 「南部解放戦略、サイゴン攻撃作戦は党政治局会議で決定された。南ヴェトナム、サイゴンを解放することについて、2カ年計画を作成した。このあとただちに政治局拡大会議を74年12月の終わりに開き、そこではっきりと南部での総攻撃計画を決定した。」
 この攻撃計画にしたがって、1975年1月1日には南ヴェトナム解放戦線がフォックロン省のドンソアイを攻撃。これが大攻勢の合図となりました。3月には北ヴェトナム正規軍がダイグエン高原で本格的な攻勢にでて、南ヴェトナム政府軍は中部海岸沿いの都市を次々に放棄、3月25日には古都フエが陥落しました。28日には南部12省陥落。29日、ダナン陥落。そしてこの日、北ヴェトナム政治局は雨期が来る前の4月30日までに、サイゴンを解放する方針を決定したのです。
 こうして4月30日の決定的瞬間を迎えます。では、「サイゴン陥落の記録」をご覧いただきます。

 VTR「サイゴン陥落の記録」(1975年6月17日放送)

 アメリカの参戦から13年。この間ヴェトナム側300万人、アメリカ側に6万人の戦死者を出した戦争はいったい何だったのか。第2次大戦後の冷戦構造のなかで起きたこの戦争は防ぐことができなかったのか。
 こうした疑問をめぐって、かつて敵味方に分かれて熾烈な戦いを繰り広げたアメリカとヴェトナムの指導者たちが30年振りに会って話し合う会議が、1997年6月20日から4日間ハノイで開かれました。出席者はアメリカ側からマクナマラ元国務長官以下13名、ヴェトナム側は外務次官で和平交渉の中心人物だったグエン・コ・タックやジャングル戦を戦い抜いたダン・ゴーヒエップ将軍など13名。彼らは互いに相手の意図をどう判断していたか、主な事件の真相、和平をめぐる秘密交渉、この戦争の教訓などについて率直な議論を交わしました。
 議論の内容は、NHKスペシャル「我々はなぜ戦争をしたのか、ベトナム戦争・敵との対話」として1998年8月に放送され、この番組を企画・構成した東大作(ひがし・だいさく)氏が本でくわしく伝えています。
 この対話はその後1998年にも、ハノイやイタリアで継続され、ヴェトナム戦争の真実が次第に明らかになってきています。結論は、この戦争が数知れない誤解のもとに戦われたということです。
 アメリカが北ヴェトナムへの本格的空爆を開始し、大量の地上軍投入を決意させた1965年2月のプレイク基地攻撃は、マクジョージ・バンディ大統領補佐官をはじめとする調査団のサイゴン滞在を狙ったものではなく、現場の指揮官の判断による偶然の一致だったと分かりました。
 さらにアメリカは、この戦争がヴェトナムにとっては日本やフランスの支配以来の悲願であった民族独立の戦いだったことを最後まで理解できませんでした。アメリカはあくまで冷戦のもとで、ソビエトや中国の後押しをうけた共産主義の北ヴェトナムが、インドシナ半島に覇権を確立しようとしていると見ていたのです。
 しかし私が戦時中のハノイで見聞したことは、明らかにそれとは異なったものです。当時の北ヴェトナムでは、戦時物資とともに多くのソビエト人や中国人の姿を見かけましたが、一般市民はもとより政府要人も、支援を受けていた彼ら外国人に対して、決して友好的ではありませんでした。こうした感情は中国の支配下に長らく置かれたヴェトナムの歴史を考えれば当然のことです。ヴェトナムにとって独立こそが目的だったのですが、アメリカにはそれが分からなかったのです。
 私が北ヴェトナムに行った当時、ハノイ市全体でエレベーターは2基しかなく、しかもそのうちの1基は故障で動きませんでした。そんな状態でも北ヴェトナムはアメリカとの戦争を戦い抜きました。それが出来たのはヴェトナムが基本的に農村社会だったからです。空爆が激しくなると、老人、子どもはみな知り合いを頼って農村へ疎開し、ジャングルに隠れ、多くの犠牲を出しつつ堪え抜いたのです。工業化されたアメリカにとっては、これもまた理解するのが難しいことでした。
 第1回の冒頭で、ヴェトナム戦争の報道に携わることで、ジャーナリズム、とりわけテレビの海外報道が強化されたと申しました。テレビの映像を撮るためには、どうしても現場に足を踏み入れ、戦場を取材し、民衆とじかに接しなければなりません。NHK特派員報告はどれもそうですが、この時期もっとも多く放送されたヴェトナムに関する番組の一本一本がそうして制作されました。
 そしてもう一つ強調したいのは、それが日本人特派員の目で見た現実であったという点です。取材のほとんどはアメリカ軍や南ヴェトナム軍の側から行わざるを得なかったのですが、そこには私たちのアジア観、歴史認識を反映していたと自負しています。
 20世紀の大きな分岐点であったヴェトナム戦争を考える上で、ご覧いただきたい番組はまだまだ沢山ありますが、今回のシリーズで取り上げた4本が、歴史を振り返るきっかけになるとすれば、かつて取材にあたった同僚たちも満足なのではないでしょうか。

 なお、1973年1月の北ヴェトナム取材については、以前、ブログ「ホアビン・ゾイ(平和が来た)~北ヴェトナム報告~」(2012.2.16)でも詳しく書いている。参照されたい。
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by monsieurk | 2013-07-10 22:30 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)

よみがえる特派員報告 Ⅲ

 よみがえるNHK特派員報告 第3回
 「停戦・その後」(1973年1月30日放送)

 ニクソン政権が「ヴェトナム戦争のヴェトナム化」、つまりヴェトナムからアメリカ軍の名誉ある撤退を計画したことは、前回にお話した通りです。アメリカはこの政策に沿った和平を探るために、1968年5月、パリで北ヴェトナム側と第一回の準備会議をもち、5月12日からは正式会議が開始されました。場所はパリの凱旋門広場からのびる12本の通りの1つであるクレベール通りに面した国際会議場でした。
 しかし和平会談の場では、互いに相手を非難することに終始して進展がなく、これを打開するために、アメリカと北ヴェトナムはこの年の9月に秘密会談を開き、パリ会談をアメリカ、南ヴェトナム、北ヴェトナム、それに南ヴェトナム解放戦線を中心とした南臨時革命政府の4者からなる拡大会議に格上げすることで合意しました。会談はここにいたるまで28回、拡大会議になってからも、会談終了までになお174回の四者会談が続けられました。
d0238372_21464795.jpg 1969年9月2日、ヴェトナムの統一を念願していた北ヴェトナムの指導者ホー・チ・ミンが死去。このころアメリカのキッシンジャー大統領特別補佐官と北ヴェトナム代表団のレ・ドク・ト特別顧問は、状況を打開するために秘密会談を行います。これは1970年2月から1973年まで、23回にわたって行われました。
 1973年1月、当時NHK外信部長だった磯村尚徳氏と私は、北ヴェトナム政府の取材許可を得て、ラオスのビエンチャン経由でハノイに入りました。北側には和平協定の調印が近いことが分かっていて、許可を出したのではないかと推測しています。
 NHKでは南ヴェトナムへは現地特派員の他に、東京から取材陣を送り込んでいました。紆余曲折の末1973年1月23日に、レ・ドク・トとキッシンジャーの間で、和平協定の仮調印が行われ、27日にはすべての当事者がヴェトナム和平協定に調印しました。停戦発効は、現地時間1月28日午前8時とされたのです。
 これからご覧いただくNHK特派員報告「停戦・その後」は、この日の南ヴェトナムでの動きを追ったものです。

 VTR 「停戦・その後」(1973年1月30日放送)

 この番組では停戦調印前後の北ヴェトナムの様子は出てきませんでしたが、私が取材した事実をお話いたします。
 ビエンチャンからハノイ入りした私たちは、凡そ1カ月のあいだ、首都ハノイや北部の重要な街ハイフォンなどを取材したのですが、1月26日になって急遽ハノイへ戻るように通告されました。なぜか、ハノイで何があるのか、いくら訊ねても、取材に同行している北ヴァトナム側のスタッフは、その理由を云いません。明日になれば分かるの一点張りです。
 翌1月27日の朝、ハノイは朝霧が濃く立ち込めていました。私たち外国人ジャーナリストは宿舎にあてられていた「トンニャット(統一)ホテル」(いまのホテル「メトロポリタン」です)の玄関の前に、6時に集合するように云われていました。
 乗用車で連れていかれたのは外務省でした。建物は古びていましたが、入口の石段には赤い絨毯が敷かれていて、上の部屋からは惶々と明かりがもれてきます。これは何かあると思い階段を駆け上がりました。
 そこは大広間で、アメリカとの戦争を戦い抜いた北ヴェトナムの首脳が全員顔を揃えていたのです。ファン・バン・ドン首相、ホー・チ・ミンなきあとの理論的指導者といわれるレ・ジュアン第一書記、そしてジャングル戦でさんざんアメリカ軍を悩まし、「赤いナポレオン」とあだ名されたボー・グエン・ザップ将軍などが笑顔で迎えてくれました。
 彼らはすでにシャンパン・グラスを手にしていましたが、私たちにもすぐにグラスが配られ、「じつは今日パリで、アメリカとの間で停戦協定が調印される。それを皆さんと一緒に祝いたいと思い来て頂いたのだ」というスピーチがありました。その後は、要人たちが私たちの中に入ってきて乾杯し、誰かれとなく握手するという光景が繰り広げられました。カメラマンは建物に入った時から一部始終をフィルムで撮影していました。当時は今とちがってフィルムの時代です。
 やがてボー・グエン・ザップ将軍と握手をし、そのうちファン・バン・ドン首相が寄ってきて、流暢なフランス語で“Tout est bien qui finit bien."「終わり良ければすべて良し」と云って、にっこり笑いました。いまでもあの声が耳に残っています。
 そしてこの日の午前10時から、市民に停戦合意の発表がありました。ハノイの全市民が、市内のところどころの木にくくりつけられたスピーカーの下に集まっていました。
走っている市内電車も止まり、人びとは電車から降りて耳をしませていました。やがてスピーカーから、「わがヴェトナムとアメリカは停戦条約に調印した」というアナウンスが流れると、聞いていた老人、菅笠の農民、アオザイ姿の女性たち、・・・集まっている皆の顔を涙が伝わりました。そして誰が言うとなく“Hoa bin zoi" という言葉がさざ波のように聞こえてきました。「ついに平和がきた」という意味です。じつに感動的な光景でした。
 北ヴェトナムの取材では、この他にも意外なことが色々とありました。ハノイに着いたその日、最初にいわれたのは、空襲警報が鳴ったなら、すぐに防空壕に入らなければならないということでした。そしてホテルの裏庭にある大きな防空壕に案内され、そこには数日前まで、アメリカのフォーク・ソング歌手のジョン・バエズが入っていたということでした。
 ハノイ入りした当初はアメリカ軍の北爆が続いていたのですが、ハノイ市内では午後2時ごろになると、家の窓に一斉に覆いが下げられます。聞いてみると、この時間市民はシエスタ、昼寝をする習慣を守っているというのです。これは戦場でも同じで、北でも南でも、兵士たちはこの昼寝をしますから、この時間にはあまり弾は飛んでこないということでした。
 取材中のある日、ソビエトのアエロフロート航空の制服を着たパイロットたちがホテルに着いたことがありました。誰か要人を運んできたのかとたずねると、運んできたのは旧正月を祝うための桃の花で、南ヴェトナムで育った花をラオスのビエンチャン経由で持ってきたということでした。激しい戦火を交わす一方で、同じ民族の間ではこうした交流も続いていたのです。
 私たちはこうした状況をすべて取材し、停戦協定が調印された翌日アエロフロートの定期便でビエンチャンに出て、そこからはタイ航空の民間機をチャーターして、タイの首都バンコクまで飛び、当時はまだ貴重だった衛星回線を使って、取材した映像を日本に届けました。これは世界的な特種となりました。30年前のことです。
 ただ、ご覧いただいた番組のなかで平山健太郎特派員が述べていたように、この停戦は「終わりの始まり」でしかありませんでした。アメリカ軍は撤退しましたが、1975年の正月早々、戦火が再燃し、ヴェトナム戦争は1975年4月30日のサイゴン陥落まで続くことになります。
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by monsieurk | 2013-07-07 22:30 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)

よみがえる特派員報告 Ⅱ

 よみがえるNHK特派員報告 第2回
 「クリスマス・新年休戦」

 ヴェトナム戦争に関する報道は膨大な数に上りました。新聞やテレビから毎日伝わる情報やすぐれたルポルタージュが、ヴェトナムで戦われている戦争の実態を世界中に知らせる役をはたしました。そうしたなかで、映像のもつ力をあらためて認識させた一枚の写真があります。それがこれです。
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 男の頭にむけて銃弾が打ち込まれた瞬間を撮ったものです。撮影したのはアメリカのAP通信のカメラマン、エディ・アダムスです。
 1968年2月のテト攻勢のとき、サイゴンの中国人街ショロンで、一人の解放戦線の幹部が逮捕されました。男はシャツに半ズボン姿で一般市民のように見えましたが、ピストルを持っており、幹部であることが分かりました。捕まって国家警察本部長官グエン・ゴック・ロアンの前に連行されてきたとき、ロアンはいきなり腰のピストルを引き抜いて男のこめかみめがけて引き金を引いたのです。路上の処刑は明らかにリンチでした。
 この決定的瞬間を撮影した写真は世界中の新聞に掲載され、テレビで放送されました。それまではヴェトナムで行っているのは「正義の戦争」であり、それに自分たちの夫や息子が参戦していると信じていた多くのアメリカ国民は衝撃を受けました。この一枚の写真で、ヴェトナムで起こっていることは一体なにかと疑問を抱いたのです。
 テト攻勢はアメリカ国民が、直接ヴェトナム戦争の実態に触れた最初の機会となりました。東京を経由し、衛星を使って生々しい戦闘場面がアメリカの茶の間に飛び込んできました。新聞も連日、テト攻勢の深刻な現実を報道しました。すでに50万人を越えるアメリカ兵が投入されており、ヴェトナム戦争が厳しい状況にあることを人びとは知ったのです。
 アメリカ国民はこのときから、政府発表よりもテレビの映像を信じるようになりました。 衝撃はアメリカだけに留まりませんでした。1968年5月にフランスで起こった、いわゆる「5月革命」に端を発して、瞬く間に世界中を巻き込んだ反体制運動の底流には、こうしたヴェトナム戦争に反対する感情がありました。
 ジョンソンのあとを継いだリチャード・ニクソン大統領は、1969年1月の就任演説で、「対決から対話」への方針転換を打ち出しました。アメリカでは若者たちが戦争反対を唱えて体制に反撥し、社会は分裂の兆しを見せていました。そして何よりも重荷だったのが戦費の増大によるドルの下落です。
 こうした状況を打開するためにニクソンがとったのが、ヴェトナムからの名誉ある離脱です。それは戦争の主体をアメリカから南ヴェトナム政府軍に肩代わりさせる「戦争のヴェトナム化」、「米軍の撤退」、「平定作戦」、そして「パリでの和平交渉」を同時に進める政策でした。
 ニクソン戦略の焦点は、北ヴェトナム正規軍と正面から戦い、これを叩くことで和平交渉を有利にすることでした。そのため北ヴェトナムの正規軍が駐屯しているカンボジアや、ラオス領内にある南への補給ルートを徹底的に攻撃する決断を下しました。こうして和平交渉の一方で、戦果は一挙にインドシナ全体へ拡大したのです。
 これから見ていただくNHK特派員報告「クリスマス・新年休戦」は、1973年1月9日に放送されましたが、まさにいま申し上げたニクソン戦略が実行に移されていた1972年の暮れから正月にかけての、南ヴェトナムの様子を取材しています。

 VTR「クリスマス・新年休戦」(1973年1月9日放送)

 ヴェトナム戦争は日本にも大きな影響をもたらしました。
 戦争景気で束の間の繁栄を享受していたサイゴンには、番組でも紹介されたように、あらゆる物資が溢れていました。アメリカ軍から流れてきた酒や食料が、豊富な野菜や果物とともに、中国人街ショロンの市場では所せましと並び、品物の豊富さは戦時下であることを忘れさせるほどした。そしてこうした表面的な繁栄には日本製品も一役買っていました。
 戦時下のヴェトナムに進出した日本の商社は、バイク、テレビ、電気冷蔵庫などを売り込みました。当時、ヴェトナム人記者の一人は、「サイゴンを制圧したのは南ヴェトナム政権でも、解放戦線でもなく、日本のバイクだ」と云ったことがあります。
 こうした戦争特需で日本経済は潤う一方で、沖縄がアメリカ軍の爆撃基地になっている実態があらためて浮き彫りになり、1965年の北爆開始をきっかけに、アメリカのヴェトナム介入に反対する声が日本でも高まりました。この年の4月には知識人が戦争反対の声明を出し、6月にはヴェトナム戦争反対のための国民行動が行われました。「一日共闘」という言葉が生まれたのはこのときからです。
 市民運動としては、ベ平連と略称される、「ヴェトナムに平和を! 市民文化団体連合」が結成されて、これには知識人、一般市民、学生などが自主的に参加しました。ベ平連の若者たちは、1967年10月に、アメリカの航空母艦イントレピットから脱走した4人の水兵をひそかにかくまい、彼らがスウェーデンへ脱走するのを手助けするという事件が起きました。ベ平連の運動は、組織よりも個人の自主性を尊重するものとして、平和運動に新風を吹き込んだといわれます。
 新聞の投書欄には一般市民から多くの意見が寄せられ、その大半がヴェトナム戦争反対を訴えるものでした。こうした世論を背景に、革新政党や総評などは、10月21日を「国際反戦デー」として、毎年大規模な戦争反対運動をくりひろげました。1966年10月21日には、総評系の労働組合が戦争反対のストライキを行いましたが、労働者がストライキで戦争反対の意思表示をしたのは、これが世界で初めてのことでした。
 国際的な連帯も進みました。イギリス人の哲学者バートランド・ラッセルの呼びかけよって設けられた国際法廷が、1967年5月にスウェーデンのストックホルムで開かれ、ヴェトナムにおける戦争犯罪を裁きました。これには日本からも知識人が参加しました。
 こうした運動の高まりに、日本政府は神経を尖らせました。1965年5月に日本テレビの牛山純一氏が制作した「南ベトナム海兵大隊戦記」は、内容が南ヴェトナム政府に批判的だったことや、海兵大隊員が解放戦線の容疑者の首を切るシーンが問題とされ、政府、アメリカ大使館、南ヴェトナム大使館から抗議をうけて、第一回の再放送と予定されていた第二回、第三回が放送中止に追い込まれました。戦争が深刻化するにつれて、報道が世論にあたえる影響の大きさに、体制の側は強い懸念を抱きはじめていたのです。

 次回はご覧いただいたこの「クリスマス・新年休戦」のおよそ1カ月後の、1973年1月末に訪れた停戦をめぐってお伝えいたします。
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by monsieurk | 2013-07-04 22:32 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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