ムッシュKの日々の便り

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津軽言葉による太宰治

 津軽言葉による太宰治作『魚服記』の朗読を聴く機会があった。朗読したのはこの作品をみずから津軽言葉に「翻訳した」鎌田紳爾氏。鎌田氏は声楽家でフランス歌曲をパリのエコール・ノルマル音楽院声楽科で学び、ガブリエル・フォーレ国際歌曲コンクールで入選した本格派で、かたわら出身地津軽の風土と文化をこよなく愛し、太宰や寺山修司の研究家でもある。
 朗読会場は新宿のバー「風紋」。今年80才になった店主林聖子さんは、太宰治の『メリイクリスマス』の「シズエ子ちゃん」のモデルといわれ、古田晃に可愛がられ長く筑摩書房の編集者だったことから、文人や編集者たちが集まることで有名である。朗読会が催された夜も編集者、俳優、写真家などをまじえて30人ほどが集まった。
 鎌田氏は声量豊かなバリトンで、表情豊かに『魚服記』全篇を朗読し、普段読みなれた作品とはちがった魅力を聴くものにあたえてくれた。
 その魅力は活字では到底伝わらないが、鎌田訳の出だしは次のようなものである。
 
 「本州北のとっつぱれの山脈〔さんみゃぐ〕ア、ぽんじゅ山脈てすのし。だがだが三四百米〔ふゃぐメータ〕、丘陵が起伏してるばりだはんで、ふつうの地図さは載らさってね。むがし、このへん一帯、ふろぶろてへた海であったずはんで、義経が家来だぢば連〔つ〕いで北さ北さど亡命して行って、うって遠〔と〕げ蝦夷の土地さ渡〔わだ〕るってこごば船でとおったずおん。そのづぎ、彼等〔あいど〕の船コぁ此の山脈さ衝突ささったんず。突ぎあだった跡〔あど〕コ、今でも残〔のご〕ってらおん。山脈のまんながころのもんもらどした小山の中腹〔ちゅうふぐ〕ねそれェあれしたね。約一畝歩〔やぐふとせぶ〕ばりの赤土〔あがつぢ〕の崖〔がげ〕がそれだのし。」

 鎌田氏の朗読は抑揚をこめて情景を描きあげていく。耳で聴くだけでは三分の一は意味が通じないが、『魚服記』と『走れメロス(走っけろメロス)』の津軽語訳は、鎌田氏の朗読のCD付で、飯島徹氏の出版社「未知谷」から出ている。これには太宰の原文も並置されているから、それを見ながら朗読を聴くと耳に入りやすい。
 本の巻末にある「原初、メロスは津軽人であった――あとがきにかえて」によると、鎌田氏は2007年夏、北海道立文学館で開かれた企画展「太宰治の青春~島津修治であったころ~」で、津軽語に訳した『魚服記』を朗読したところ評判となり、地元弘前でも再演し、やがてこの翻訳と朗読を録音したCDが出版されたのである。ではなぜ『魚服記』と『走れメロス』なのか。その点について鎌田氏はこう述べている。
d0238372_12161864.jpg 「『魚服記』については、太宰が弘前高校を卒業した四年後の昭和八年、津島修治が初めて「太宰治」というペンネームを用いた年に書かれた初期の作品で、太宰自身の中にまだ津軽的なものが十分蓄積されたままに、自らの生地に近い梵球山金木寄りの藤の滝を舞台とし、スワ〔主人公〕と父親の会話も津軽弁で書かれているという、極めて「津軽的」作品であるということが要因としていえる。一方『走れメロス』は、太宰が師井伏鱒二の媒酌により石原美知子と結婚して生活も安定し、作家としても円熟期を迎えた頃に書かれた不朽の名作である。しかも津軽から遠く離れたギリシャを舞台にした「非津軽的」作品である。この一方は「津軽的」な作品、もう一方は「非津軽的」な作品、両者が津軽語に翻訳された場合、どのような差異が生じるかというところに大きな興味があった。」
 鎌田氏が関心よせる両者の差異は、一度耳で聴いただけでは簡単に論じられないが、少なくとも初期の『魚腹記』を書いている太宰治(津島修治)が、津軽語で発想していたことは容易に想像できる。私たちにとってのマザー・タングとはそうしたものであろう。
 これも鎌田氏が紹介しているところだが、上京したあとも太宰の訛りは相当強くコンプレックスに感じていた。それを矯正するために、彼は十五世市村羽左右衛門のレコードを買って、正調江戸弁の修得に努めたという。そしてある夜、自信を持ってカフェに出向き、女給を相手に羽左右衛門の口調そのままに話しかけると、女給はすぐに、「お客さん、田舎は津軽でしょう」と言ったというのである。
 津軽言葉で書かれた作品としては、詩人高木恭造の方言詩『まるめろ』(初版1931年、津軽書房、1953年、棟方志功装幀版)がよく知られている。同じ津軽出身の石坂洋次郎が、『石中先生行状記』のなかで、その幾篇かを紹介しているが、たとえば――

   まるめろ
    ――死ぬ時〔ドキ〕の夢――
 枯草の中の細い路〔ケド〕コ行たキヤ、泥濘〔ガチャマキ〕サ
 まあるめろァ落〔オゾ〕でだオン。死ンだ従兄〔イドコ〕ア
 そこで握飯〔ニギリママ〕バ喰てだオン。
 まるめろば拾〔フラ〕うどもて如何〔ナンボ〕しても拾〔フラ〕へネンだもの・・・

 あゝ故郷〔クニ〕もいま雪〔ユギ〕ァ降てべなあ

   春
 理髪店〔ジャンボヤ〕の横町〔ヨコチヨ〕バまがたら
 鰊〔ニス〕焼ぐ匂〔カマリ〕ァしてだ

 鎌田紳爾氏が朗読した太宰治作・津軽語訳の『魚服記』も同様に味わい深いものであった。
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by monsieurk | 2013-08-30 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

小牧近江のヴェトナムⅩⅥ「帰国」

 1946年4月中旬、インドシナの日本人の引き揚げが実現した。引き揚げ船はリヴァティ船という戦時中アメリカが大量に建造した1万トンの規格貨物船で、ハイフォンから出港することになった。出港前日には、小牧近江や小松清のために、港の酒場にヴェトナム人やその他の友人が集まって惜別の宴を催してくれた。その席で老妓が奏でる『金雲翹』の歌がみなの感傷をさそった。
 翌日は、彼らを見送るためにミソフ大尉やヴェトナム人の友が大勢きてくれた。持てるだけの荷物をつめたリュック・サックを担いだ男たちはタラップを上り、船に乗り込んだ。やがて船が埠頭を離れると、桟橋のヴェトナム人は別れを惜しんでハンケチを振ってくれた。現地にヴェトナム人の妻子を残していくために涙を流すものもあった。この地で生まれた子どもたちは甲板に集まって、ヴェトナム語の歌をうたった。
 のちに小松清はこう書いている。
 「終戦後、東亜の各地から引き揚げてきた日本人にたいして、現地人がどのような態度をとったか、私はよくしらない。罵言と投石の下に、その地を引き揚げた人々、身につけた一切を略奪され、着のみ着のままで、やっと生命だけを唯一の財産に発ってきた同胞も少なくないときいてる。それにくらべると、このインドシナは何という愛惜の地であったことか。吾が同胞をおくる彼らの胸の中の歌を私はよくしっている。彼らのうちに、日本人が再び帰ってくるのを心待ちにしている人々(もちろん今度は侵略民族としてではなく、平和な友人としての日本人を)は決して少なくないのを私はしっている。日本人が足跡を印した外地の到るところに、破壊と憎悪だけがのこされた(もちろんそうしたところもあったろうが)といった伝説が日本人の多くの人々によって普及され、日本人のうちに暗い鬱悶と自責と絶望の種がまかれているのを見聞するにつけ、少なくともインドシナに関しては、そのような伝説は通じないと私は云いたい。かつて在外にあった日本人を、私はここで弁護しようといった意図は毛頭ない。悪質な同胞の数の方が遙かに多かったことは疑うべくもなかろう。ただ、私がここで云っておきたいのは、日本人のすべてがそうではなかったということである。ヒューマニストとして、彼らの善き友として、良き種をまいた人々も、また少なくなかったことを私は自信をもって云っておきたいのである。」(小松清「マルロオの手紙」、「新潮」1948年5月号)
 こうした評価が独りよがりのものでないかどうかは、ヴェトナムの人たちが決めることである。ヴェトナムで刊行され、フランス語に翻訳された歴史書を読む限りでは、日本軍の進駐や3・9事変に言及しているが、その後の小牧や小松たちの行動に触れたものはない。

 この時期のフランスと日本の交渉についての資料に関しては、「外交資料館報」第22号(平成20年12月)掲載の、立川京一「第二次世界大戦における日本と仏印の関係について」附属の資料一「未刊行資料一覧」、資料三「在フランス仏印等関連資料(外務省・軍)が詳しく列挙している。この他フラン仏印現地の状況についてのフランス側の文書は、南仏エクス・アン・プロヴァンスにある旧植民地商の文書館に所蔵されている。またヴェトナムでは、ハノイの国立図書館とホー・チ・ミン(旧サイゴン)の国立第二文書館が関係資料を蒐集しているが未見である。(完)
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by monsieurk | 2013-08-27 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(1)

小牧近江のヴェトナムⅩⅤ「仏越協定」

 カン・エンの収容所に多くの日本人とともに収容された小牧近江はどうしていたのか。『ある現代史』の記述によれば次のようであった。
 「中国軍の監視の目をくぐって、私のところへハノイから何回となく手紙が届きます。ぜひハノイへ帰って来い、という催促で、ハノイで私に会いたいという人が待っているからなんとかして機会をつくれ、という再三の要求でした。もちろん、収容所から出るなどということは、不可能な話でした。」
 ところが、1946年の正月になって収容所を出る好機がやってきた。日本軍の武装解除がほぼ決着し、次はインドシナにある日本商社の財産を接収する段階になった。そのために各商社の代表者は至急ハノイに戻れという命令が収容所に届いた。
 印度支那産業としては関係者が協議した結果、すでに会社を離れて日本文化会館の責任者になっていた小牧が適任だということになり、小牧は合法的に収容所を出ることができることになった。彼は数名の日本商社代表と中国の軍用トラックでハノイへ向かった。小牧は回想の続きでこう述べている。
 「ハノイに行ってみますと、白系ロシア人でフランス国籍のソロヴィエフと親父のフランス人フランソワ・アランが待っていました。私に会いたいといっているのは、なんとフランス側でした。私はフランス側の代表と会いました。(中略)
 ソロヴィエフは、帝政ロシアの主馬頭をしたとかいう名門出でハノイで仲買商をしていましたが、私とウマの合った親しい友人でした。収容所にいる私に「会いたい人が待っている、出て来い」と手紙を寄越したのは、このソロヴィエフだったのです。
 かれは、私に会いたがっている人のところへ、案内しました。案内された建物の入口には、フランスの海兵隊員が銃剣をもって立っていました。まだ、フランスが表面にでられない中国軍進駐下のフランス側であったため、建物は立派でしたが、隠れ家のような感じがしました。階段を上って、通された部屋に入ると、あかぬけした背広服の青年が、机からすっくりと立ってきて、私に手を差しのべました。「ボンジュール、ペール・オーミヤ」(「近江谷おやじせん、今日は。」)と、その青年はいとも慇懃な態度を示しました。」
 この青年こそフランス軍のフランソワ・ミソフ大尉で、8月15日にパラシュートでハノイに降下して、それ以来フランス側代表部の副責任者として現状分析にあたってきたといい、その上で小牧にぜひ力を貸してほしいということだった。
 ハノイのフランス代表部主席のサントニィと、革命臨時政府のホー主席との交渉はこの年の秋からはじまっていたが、ヴェトナム側はあくまでも独立を前提に協議の席に着こうとしたのに対して、フランス側は独立には応じられないとして、意見は対立したまま平行線をたどっていた。そのため北部トンキンでも武力衝突の可能性が高くなっていた。フランス代表部は、この事態を打開するための斡旋役を探していたのである。
 それには双方の立場をよく理解した上で、一方的な見解に流されない人物を見つける必要があった。ミソフ大尉がいろいろと当った結果、浮かんできたのが小牧近江であった。ミソフは初対面の小牧にこう切り出した。
 「なんとか打開策を講じないと、重慶からやってきた中国軍(蒋介石軍)ことに雲南の蘆漢軍がなかなか引揚げそうにもなく、ずるずるとこのまま居座りそうだ。安南の人たちも、雲南軍には早く引揚げてもらいたいと希望している。日本軍の武装解除をした中国軍を一日も早く撤退させること、それには進駐している意義をなくす必要がある。もし、フランスが、インドシナと和平協定を結ぶことに成功すれば、そうならざるを得なくなる。民心の不安を一掃し、この和平協定のために、安南人に知己の多いあなたにひと働きしてもらいたいのだ。」(同上)
 フランス側は日本兵の多くが脱走して越南独立運動軍に合流することを怖れており、もしそうしたことになれば、千数百人の在留日本人がいつ帰国できるかわからなくなる。小牧はこの役目を引き受ける決心をした。その上で小牧は、所在のわからない小松清をフランス側はどうしようとしているのかと訊ねた。ミソフの答えは、小松はフランスを愛しているようだし、なかなかのやり手のようなので、小牧と協力して事に当たってほしいということだった。
 フランスとしては分裂状態のヴェトナム側が統一政権をつくって、フランス側との交渉のテーブルに着くよう調整を進めてほしいと望んでいたのである。その後、小牧は小松清と会うことができ、事情を説明して協力をえることになった。こうして小松清も1946年1月21日にミソフと面会した。このときフランス側は、ヴェトナム側に提示できる最終条件を用意していた。
 1、インドシナにおけるフランス代表部は、ホー・チ・ミン主席を首班とする越南(ヴェトナム)臨時民主共和政府を交渉の相手と見なす。
 2、フランス代表部は、当該政府に一切の自治権を承認する用意があり、越南の財政、外交については、停戦後の協議によって取り決める。フランスの経済的、文化的利益についても同じ。
 3、フランス代表部は国土防衛の立場から越南共和国の軍隊を承認する。
 4、越南の統一、コーチシナの帰属問題については越南国民の国民投票に問うこととする。
 5、越南はラオス、カンボジアの二国とともにインドシナ連邦を構成し、かつフランス連合に参加する。
 6、将来のインドシナに関する諸々の規定については、一切の交戦状態の終始後、フランスとの友好的関係において直ちに正式の交渉を開始する。(小松清『ヴェトナムの血』)
 この条件をもって、小牧はおもに国民党の説得にむかい、小松はホー・チ・ミンの側へ行くと思うと、次には大越党に行くといった活動ぶりだった。そして埒〔らち〕があかないとなると、ハノイの労働者に働きかけてストライキを組織することまで考え、主として電気産業の労働者たちを説得して、交通機関をいっせいに停めて、電気を消すことを画策した。ストライキなど経験したことのないハノイの人たちにとっては、こうした噂が流れただけで大きな効果があった。
 小牧と小松はフランス側と接触するときはいつもジャロン・大通りにあるソロヴィエフの家をつかい、彼に証人役をつとめてもらった。
 ヴェトナム側の三つの勢力は、それぞれ自分たちの方針での独立をめざしており、各勢力の間の調整を進める二人の努力を有害と考えるものも少なくなく、絶えずテロに遭う危険があった。小松は外出のときはヴェトナム人の服装をしてリヴォルヴァーをもち、海南島からきた日本人青年を同道するなどの用心をおこたらなかった。
 小牧はハノイではホテルに泊まることができなかったが、仏日合弁の「大日本燐嚝」の事務所があり、その代表取締役のアランが友人だったことから、そこを宿舎がわりにしていた。事務所には同窓の山田や北村という女性が勤務していた。
 ある雨の夜、自室で小牧が本を読んでいると、うしろから肩を叩かれた。振りかえると中国軍の服装をした男が二人立っていた。一人はピストルをもち、もう一人は両刃の刃物をもっている。小牧に手錠をかけよとしたので、それを払いのけようとした小牧は刃物で掌の親指の下を刺された。幸い傷は動脈をそれていたため大事にはいたらなかったが、彼らは小牧を階下の山田の部屋に押し込めると、部屋にあった金庫を開けさせて金を奪って逃げて行った。のちに犯人たちは逮捕され、右翼のヴェトナム人とグルになった中国兵の物とりだったことが分かった。
 小牧や小松をふくむ当事者たちの努力が実をむすんで、ヴェトナムでは1946年2月左右の連立内閣ができ、その全権とフランス側が正式に交渉することになった。そして3月6日、フランスとヴェトナムと和平暫定協定が、アメリカ、イギリス、中国の代表が列席するなかで締結された。不可避とみられた軍事衝突は回避されたのである。小牧たちの達成感は大きかった。
 小牧はその後のハノイの様子を、「同年三月十七日、晴れて軍隊をもったヴェトナム民主共和国の軍は、三色旗のフランスと肩をならべ、市民の万雷の拍手に迎えられハノイに入場しました。そのときはすでに圧倒的な民衆の支持をうけたホー・チ・ミン政権の天下でした」(『ある現代史』)と述べている。
 この協定はこのあと一年も経たないうちにフランス側によって破棄され、フランスとのあいだで、独立をかけた戦闘が再開される運命にあった。だが少なくとも当初においては将来的希望をもったものであり、実際にトンキン・デルタ地域の平和をもたらしたのである。
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by monsieurk | 2013-08-24 22:29 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

小牧近江のヴェトナムⅩⅣ「敗戦前後」

 インドシナでは日本軍とヴェト・ミンが対峙した状態で、1945年8月15日をむかえることになった。翌16日には、アメリカによってひそかに武器を援助されていたヴェトミン軍が総蜂起し、19日には部隊がハノイに進軍して、行政機関や工場、主要な道路を占拠し、市立劇場前の広場で大集会を開いた。
 5日後にはバオ・ダイ帝が退位し、ホー・チ・ミンは9月2日ハノイに到着すると、5日にはヴェトナム民主共和国樹立を宣言した。宣言はアメリカの独立宣言の引用ではじまり、日本については次のように述べていた。
 「1940年の秋、日本のファシストたちが連合軍に対する戦闘の目的で新しい軍事基地をつくるためにインドシナに侵略してきたとき、フランスの植民地主義者たちは彼らに膝を屈し、われわれの領土を彼らに引き渡した。この日からわれわれ人民は今までよりもいっそう苦しくなり、惨めになった。(中略)
 日本人の降伏ののち、われわれ人民は国家の主権を回復し、ヴェトナム民主共和国を樹立するためにこぞって立ちあがった。真実は、われわれ人民は独立をフランス人の手からではなく、日本人の手から奪い返したのだ。
 われわれヴェトナム民主共和国臨時政府の閣僚は、世界に向かっておごそかに宣言する。ヴェトナムは自由な独立国になる権利があり、事実、すでにそうなっている。すべての人民はその独立と自由を守るために、すべての物質的、精神的力を動員し、生命と財産をささげる決意である。」
 戦時中はバオ・ダイに対して不即不離の立場を貫いたサイゴンのファン・ニョック・タックのスポーツ連盟は、解放義勇軍としてホー・チ・ミン臨時政府の正規軍に加わった。
 小牧近江は『ある現代史』で、ハノイの様子を次のように述べている。
 「八月十七日、朝起きて巷をみると、家々にぜんぶ赤旗がなびいていました。たった一夜で、このおとなしい民族が、赤旗の天下を樹立している――私は呆然としていました。
 少し経って四、五人の越南の青年が、赤旗をおし立てた自動車に乗ってやってきました。「おやじさん、元気か。」みると、顔を知っている若い連中ばかりです。椅子をすすめるのですが、座りません。彼らは立ったまま、礼儀正しく、次のようにいいました。「まことに、あなたの国にとってはお気の毒であった。ながい間、われわれのためにいろいろと力を添えてくれたことに感謝の意を表わしたい。われわれは、たとえ日本が負けても、日本に対する同情は失なわない。いや、われわれは日本国民にたいしてむしろ一層の愛情すら感じているものである。今後もいっしょにやりましょう。
 私は答えました。「ありがとう、ありがとうよ。ろくにお役に立てなかった私たちに、それだけ言っていただけるとは感謝感激にたえない。ところで、今度は、諸君らが、私たちを、日本民族を援けてくれる番だよ。それを忘れてくれないように。まず、かけたまえ。」こんな話しをとりかわしましたが、青年の中の一人は、すでに警視総監に任命されていました。」
 小牧近江はまもなく敗戦国民として、国境をこえてきた中国軍(蒋介石軍)が管理する収容所に送られることになった。収容所はハイフォン港に近いカン・エンに設けられた。ポツダム宣言にもとづいて、北部ヴェトナムには10万人の中国兵が進駐して、日本軍の武装解除にあたっていた。
 一方、小松清はヴェトナム共産党のブラック・リストに載った親日派の越南国民党の人たちを安全地帯に逃すために、日本軍から提供された自動車やトラックで武装したキャラバンを編成して、ハノイからラオスを経由してサイゴンまで2000キロの道を縦断した。このサイゴン行には戦勝国となったフランスの勢力とヴェトナム人勢力の均衡を見きわめる目的もあった。さらには3月9日の刑務所襲撃で、ハノイにいるとフランス側に逮捕される危険もあったのである。
 サイゴンには3週間とどまったが、ホー・チ・ミン臨時政権の直轄下に入ったサイゴンの越南政庁の中心人物は、旧知のファン・ニョック・タックとチャン・ヴァン・ジャオだった。小松はこの二人に会い、懇談することができた。そのとき驚くべきことを聞かされた。ホー・チ・ミンは、かつてのグエン・アイ・コクその人だというのである。しかしグエン・アイ・コクは十年ほど前に、亡命先の香港で結核のため死亡したと伝えられ、フランス総督府もこれを公式に認めていた。
 小松は半信半疑のまま1945年9月22日に、サイゴンを発ってハノイにもどってきた。ハノイでは市内のほかに郊外にも二、三の隠れ家をもって、そこを転々とする生活をつづけた。
 南部ヴェトナムでは、その後10月9日にルクレルク将軍のフランス軍部隊がサイゴンに上陸した。ルクレルクはパリ解放のとき戦車部隊を率いて一番にパリへ入った人物だった。
11月中旬、ファン・ニョック・タックとチャン・ヴァン・ジャオがハノイにやってきた。すぐにファン・ニョック・タックが、小松清がホー・チ・ミンと会えるようにアレンジしてくれた。ヴェトナムをめぐる国際情勢を話し合うということだった。
 指定された日の午後、ハノイ市内の小湖の縁を通ってインドシナ銀行の向かいにあるヴェトナム臨時政府の官舎に行った。ここはかつてトンキン理事長官の官邸だった建物で、厳重に警戒されていた。
 入口まで行くとファン・ニョック・タックが迎えるために飛び出してきた。そして彼を中に導くと、二階の一番奥の部屋に連れて行った。ホー・チ・ミンが接客に使う部屋だった。
 「広い窓を背にして一人の小柄な男が立っていた。逆光線で顔の輪郭はよく見えなかった。相手の男は、落ち着いた足のはこびで、手をさしのべながら私の方に近寄ってきた。小さい。阮はもっと大きかった。少なくとも自分よりは大きかったのに、いま私の前にいる男は自分より小さい、阮ではない、と私は直覚的に思った。」(小松清「ホー・チミンに会うの記」、「朝日評論」1950年3月号)
d0238372_12365419.jpg 小松は目の前にいるホー・チ・ミンは、30数年前パリで出会い、よく話をしたグエン・アイ・コックを彷彿とさせるが、別人と判断したというのである。
 「実によく似ているけれども、パーソナリティとか性格とかといった内面的なものの外に表れた表情の面では、非常に異なったものがあった。阮は苛烈なまでに厳しいもの、鋭いものがあったが、いま眼の前にするホー・チ・ミンは秋日のように静かな穏やかさをもっている。彼の意志は他人を説得し、征服する力ではなく、むしろその正反対に自分に打ち克ちながら、他人を抱擁してゆく人格的な大きさとしてうけとれた。」(同上)
 これが小松の下した結論だった。しかし小松が書いている異人説をそのまま受け入れることはできない。グエン・アイ・コックは本名をグエン・タト・タインといい多くの変名を名のりつつ三十年近い外国生活をおくった。パリ時代のグエン・アイ・コック(阮愛国、愛国者グエン)もその一つで、その後の革命にささげた歳月が彼を大きく変貌させたことは大いにあり得る。チャールズ・フェンの『ホー・チ・ミン伝』(岩波新書)をはじめ、多くの評伝がグエン・アイ・コックとホー・チ・ミンが同一人物であることを疑ってはいない。
 この日、小松はホー・チ・ミン主席と三時間近く懇談した。そしてこの会談が、後に小松や小牧がフランスとヴェトナム民主共和国臨時政府との間の交渉の仲介役をはたすのに役立つことになったのである。
 1945年の暮、小松はまだ収容所行きを拒んでハノイにとどまっていた。このころ南部ではヴェトナム軍とフランス軍が戦闘をまじえ、フランス遠征軍は北上してトンキン地方にまで進出する勢いをしめしていた。
 終戦後まもなく、ハノイにはジャン・サントニィ少佐を主席とするフランス代表部が設けられたが、フランスは中国の力がインドシナにおよぶのを防ぐためにも、なんとか早くヴェトナム革命政府との間の妥協策を探り、交渉によって局面の打開をはかろうと考えたのである。中国軍とヴェトナムのナショナリストたちが手を組めば、事態はさらに複雑になることが避けられない。それはなんとしても避けたいというのがフランス側の本音だった。
 一方、樹立された臨時革命政府にとっても、フランスによって正式に交渉相手と認められ、和平協定を結ぶことは、臨時革命政府のなかでのホー・チ・ミンたちの立場を確かなものにする結果となる。そしてなによりも歴史的にヴェトナムを支配してきた中国の力を少しでも早く排除する必要があった。こうして1945年の秋には和平に向けた両者の交渉がはじまっていたのである。  
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by monsieurk | 2013-08-21 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

小牧近江のヴェトナムⅩⅢ「二人の学生」

 3・9事変後には、日本に亡命中のクオン・デ侯を帰国させる案やファン・ボイ・チュウを支持する者もいたが、いずれも東京の日本政府が承認せず、民衆に人望のあるゴ・ジンジェムに白羽の矢が立った。しかし目先の利く彼は固辞してうけず、やむをえず不人気のバオ・ダイ帝をたてることになった。
 内閣を組織したチャン・チョン・キム(陳重金)は小牧の友人で、日本の軍部からはあまり買われていなかった。チャンの娘夫婦はホー・チ・ミンのヴェト・ミンの党員で、閣僚の多くもかつての親フランス派だった。
 ヴェトナムの民衆は最初この独立を好意的にとらえていた。ヴェト・ミンの行動もしばらくはなりをひそめた。しかしこれはフランスからの独立は意味しても、外国からのすべての干渉を排除したものではなく、バオ・ダイの体制が日本軍の傀儡であることはすぐに明らかになった。このからくりを見抜いたヴェト・ミンは対日ゲリラ作戦に出ようとした。
 3・9事変では、ハノイの大学生二十六人が不穏分子として日本の憲兵隊に逮捕された。チャン・チョン・キム内閣の長老のドアン法務大臣が彼らの釈放を憲兵隊に掛けあってほしいと小牧に頼んできた。
 小牧はドアンに策をさずけて、ヴェトナムはもともと儒教精神の国であるから、子どもの過ちは親が監視するので、親の慈愛に任せてほしいと訴えさせた。ドアン法相はその方法で憲兵隊と交渉し、無事に二十六人の学生を解放してもらうことができた。
 3月9日の夜、日本軍とともに行動した若者のなかには不幸にして亡くなったものもあった。小牧が可愛がっていたチャン・ヴァン・ニョンもその一人で、放送局を襲撃する一隊に加わり銃弾に倒れたのだった。
 小牧近江がハノイで出版したリーフレット「une date(ある日)・・・」の巻末の「覚書」には次のように書かれている。
 「私は運命論者ではないが、グェン・チェン・ジェム(阮天覧)とチャン・ヴァン・ニョン(陳文戒)に二人の若い友人が、ちょうど二カ月をへだてて死を迎えたとき、はかないこの世にも何か超現実的なものが存在すると考えざるをえなかった。つまりこれは単なる偶然と軽く考えることができなかったのである。
 彼らは二人ともハノイ大学で法律を学ぶ学生で、友人というよりも、離れがたい兄弟という間柄だった。チャン・ヴァン・ニョンは3月9日のあの悲劇の夜、華々しい最後をとげた。そしてグェン・チェン・ジェムは、ちょうど二カ月後に、兄弟たちの血が流されるのを全力で阻止しようとして自らの命を捧げたのだった。そのことはまったく不当なその死の三日前に書かれた手紙が示している。・・・」
 チャン・ヴァン・ニョンはハノイ大学法学部の学生で、親友のグェン・チェン・ジェムと連れだって、小牧のもとをよく訪ねてきた。兄貴分はグェンの方で、チャン・ヴァン・ニョンの妹とは相思の仲で、いずれ結婚することになっていた。そのグェンも越同盟(ヴェト・ミン)と交渉するために、日本軍の支援をうけて北の地帯へ出かけていて命を落としたのである。それが奇しくも二カ月後の5月9日だった。
 北部ヴェトナムのハジャンには、日本軍の決起に抵抗する越南同盟(ヴェト・ミン)の部隊があり、日本軍は事変直後は交渉により彼らとの戦闘を回避しようとした。その説得のために送りこまれたのが、グェン・チャン・ジェムだった。同行したのは大川塾の第一期生で、応召して軍に所属していた原田俊明と若い丸山義雄中尉だった。原田は現地に来て大川周明が唱える大アジア主義に疑問を持ち、その分真のヴェトナム民族の独立運動に共感しつつあった。三人はヴェト・ミン軍と連絡をつけるべく北の山岳地帯へ踏み込んだのである。
 小牧がグェンのフランス語で書かれた手紙とは、ジェムが死ぬ三日目の5月6日、大原省のフ・ダイー・フーで投函したもので、「覚書」には全文が収録されている。その一部を小牧自身が『ある現代史』のなかで翻訳し、紹介しているので、それを引用してみよう。
 小牧はヴェトナムの青年たちからは本名で、「Père OMIYA (近江谷おやじ)」と呼ばれて親しまれていた。ちなみに彼はこのとき五十歳だった。
 「近江谷おやじ、私たちはここ大原にいますが、事件はますます急迫するばかり。朝から晩まで、農村と山岳と森林地帯に苦労しています。ハノイからもどこからも音信なく、まるで無関心な世界。不安な農民たちは混沌とした世界にいるようです。果たして目的を達するかどうか、心もとない次第で、でも一縷の望みをかけております。というのは、越盟(ヴェト・ミン)の副部隊長と会うことができ、どうやら彼らの仲間と話し合いをする段階に達したからです。彼らの回答を待ちながら、はやる心を抑え、“つねに落着け”とかねがね教えて下さったおやじさんに一筆啓上することをたいへんにうれしく思います。(中略)
 ・・・私たち安南人と、あの思慮深い人たち(註・ヴェト・ミンのこと)は、生死をかけているのですが、祖国を思うそのちがいはなんと大げさに考えられていることでしょう。すると、私は豁然として悟ったのでした。あの真理、生命のたった一つの美、すなわち働くことを愛する心、いうなれば自己を盛り上げる意志、労働による人格の自由な発揚にあるということ、そして、それは現段階において常に祖国のために捧げねばならぬということ。 
 午前一時になりました。外では雨が降っています。回答はまだ来ません。もっとお話ししたいことがありますが、これ以上、ご多忙のあなたをわずらわしたくありません。最後にたった一つのお願いを聞き届けて下さい。農村においては、まだまだ民衆解放の啓発がなされておりません。そのために民衆の心を目覚ますために、移動劇場は緊急を要する唯一の効果と存じます。なにとぞ、ハノイ市シャロン街四十五番地に居住のチャン・ホン君をお呼び出しになり、かれにこの仕事をお任せ下さい。すでにかれはこの道の技術家であるのですからきっと成功させるでしょう。
 終りにのぞんで、あなたに尊敬と心からなる感謝をおくります。」
 グェン・チャン・ジェムはこの手紙を書いた三日後に、二人の日本人とともに殺された。誰が犯人か、なぜ殺されたのかは不明だった。小牧たちはグェンの同志たちと相談して、彼の最後の望みだった移動劇場を実現させた。
 事件後に日本文化会館としては何ができるか。小牧たちがまず考えたのが、民衆が食糧に困らないようにできるだけのことをすることだった。北部ヴェトナムは飢饉に襲われて、多くの餓死者が出る状況だった。しかも日本軍の進駐以後、米の値段は高騰していた。その背景には現地人の一部とフランス人の闇商人が結託して米の買占めをしているという噂であった。
 ク・デタ後に、日本文化会館が各所で米の炊き出しをはじめると、小牧たちに信頼をよせるハノイの市民がかくまっていた米を送ってくれるようになり、たちまち十九トンの米が集まった。これを炊き出しに使ったあとは、残りは日本軍を通さずに樹立されたばかりの現地政権に渡した。
 小松清は小説仕立ての『ヴェトナムの血』で、小牧近江を次のように描写している。
 「志村老の貧乏人好き、子供好きは、彼の越南〔ヴェトナム〕好きとともに、ハノイでは有名だった。この老人ほど、利欲から離れて、越南への愛情をこった異国人は少ないだろう。ハノイのインテリ青年たちは彼を《志村老〔ペール・シムラ〕》という愛称をもって呼んでいた。人道主義者でもあり、社会主義者でもある志村は、喰うや喰わずの人間たちが群をなしているこのハノイの街を、フランス人や日本人たちが、わが物顔にすごく豪奢な自動車で砂塵を捲きあげて疾走するのをみて、彼らの傍若無人さを日ごろからひんしゅくしていた。ひとさまの家に無理やり乗りこんできていながら、お行儀のわるいこと! と口癖のように云っていた。戦争中は、インドシナの日本文化会館の事務局長という重要な地位についていたのに、彼は官邸もいらぬ、自動車も不要と云い張って、現在いるハノイ郊外の貧乏街の入口に小さな別荘風の邸宅を借り、ここから会館に三輪車で通っていた。(中略)志村は前後不覚に酔うと、いつもところ構わず「インターナショナル」を調子外れの大声で、怒鳴るように唄った。日ごろ胸の底に鬱積している憤りや、不満、悲しみ、屈辱が、酔うと必ず排け口を見出して、歌声となって外にとび出すのだった。(中略)彼が越南の青年たちや大学生にとりまかれ、敬愛の的のような生活をしてきたのは、これらの若者たちの愛国心の純粋さに心打たれるからでもあったろうが、それ以上に彼が哺育している若者たちが、将来どんな働きをするだろうかと、さまざまな空想に耽る瞬間を楽しんできたからでもあったろう。もし越南が完全に独立したとき、この国に残留することが許されるなら、(政府は勿論、賓客として志村を待遇するだろうが)志村はハノイから二、三十キロのところで、農場をもちたいと秘かな希望をもっていた。これも彼の無償の空想だと云えるかも知れぬが・・・」
 志村老というのが小牧で、先にも述べたようにこのときはまだ五十歳だった。
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by monsieurk | 2013-08-18 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

小牧近江のヴェトナムⅩⅡ「3・9事変」

 小牧近江の回想録『ある現代史』には、「水煙草」と題した章があり、そこには次のように記されている。
 「いろいろな事件があったときに、私は、その日その日のことを、はじめは日記に書きとっていましたが、どうも、いざとなって、日記につけていることがどうかと思って、フランス語で、簡単なメモをとっておくことにしました。
 詩でも散文でもない、そういう書き集めが十三篇ほど〔収録されているのは十二編〕できましたので、私を守ってくれた友人、井田鱶司さんのハノイ日南印刷から出版してもらいました。敗戦の直前に刊行された“あの日”と題するリーフレットがそれで、たどたどしい仏文です。
 そこに、どういうことを書いているかといいますと、一と口にいって、戦争中、勇ましいことを書きつらねている人が多かったようですが、私には、そういうことは書けなかった。たとえば、こんな遣瀬ないことを書いたものです。

          “水煙草”
  
  私は夜の静寂に
  水煙草を吸うのが好きである
  よく、むっくりとベッドからとびおり
  豆ランプに灯をともす
  大きな真鍮の盆にゴタゴタ並べられているあのひとつだ
  ジューッと油がもえ
  さむざむと明りをはなつ
  水煙草の白い煙りが
  むくむくと立ちこめる
  とぼけた道化役者があらわれてくる
  まるで幻覚のように
  私そっくりじゃないか
  あわれなイメージ
  私は思わず吹き出したくなる
  いいんだよ
  いいんだよ
  私は夜の静寂に
  水煙草を吸うのが好きである」
 これは“LA PIPE À EUA”と題された詩を小牧自身が訳したもので、「道化役者云々」のくだりは、原詩では、
  “Tout à l’heure
   dans les bouffons blanches apparaîtra
   comme une hallucination,
   un bouffon bien drôle.
triste image de mon espèce,”となっている。
 hallucinationはここではアヘンや薬物などの吸引で生じる幻覚をさしている。
d0238372_23452994.jpg ハノイで印刷された“une date・・・”は文字通りの稀覯本だが、小牧家に所蔵されていた一冊が、遺族の桐山香苗氏によって「あきた文学資料館」に寄託され、2008年(平成20年)9月から開催された「小牧近江資料展Ⅰ」で公開された。その折に資料館の厚意で写真に撮ることを許された。
 リーフレットは裏表の表紙が縦23センチ、横14.8センチで、その間に縦21・7センチ×横13.8センチの、詩を印刷した紙を綴じこんだ形になっている。
 収録された散文詩は、「わが兄弟を失う」、「要塞」、「傷ついた馬たち」、「海賊たち」、「学徒兵」、「寄宿生たち」、「母と子」、「こおろぎ」、「告訴人への答え」、「リヴォルバーの歌」、「水煙草」、「三人の殉教者」の十二篇である。この貴重な作品を読み解きながら、小牧近江の心情とヴェトナムの若者との交遊をたどってみることにする。

 
        “傷ついた馬たち”
 
   お前たちは苦しんだにちがいない
     機関銃のはぜる音や
     砲弾の炸裂する下で
     傷ついた馬たち、
     背中の痛々しい肉には、
     苦労の痕が刻まれている。
   お前、鎖につながれた哀れな馬よ、
     お前は不安な夜をすごしたのだ。
   お前は運命の瞬間までは
     のほほんと生きてきた
     でも、一夜のうちにお前の涙は干上がった
   私はお前の運命に思いをはせる
     哀れなわが盲目の馬よ。
   お前は苦しんだにちがいない、
     傷ついた馬たちよ。
   いまは安んじているがいい、
     お前たちは戦友のように
     絆で結ばれた新たな主人がいる
   あそこではもう、一人の兵士が
     お前の泥だらけの脚を洗っている、
     別の兵士は梳いた鬣を野の花で飾っている。
   光り輝く空のもと、
     人と馬は一瞬すべてを忘れる
     まるで何事もなかったように、
     過ぎ去った夜の数々の不幸を。
 
 戦場で働き傷ついた軍馬に注ぐ小牧の眼は優しく、馬たちが感じたであろう恐怖までを慮る。そしてその想いは馬の世話をする日本軍の兵士の上にもおよんでいる。
 小牧は日本軍のインドシナ進駐をどうに受けとめていたか。それは、「お前たちは戦友のように絆で結ばれた新たな主人がいる」以下の言葉の解釈にかかわるが、日本の政策を強く批判をしているようには受けとれない。彼は現実を現実として肯定しているようにみえる。
 もう一篇「学徒兵」を読んでみよう。

 
            “学徒兵”
 
   これは内側から閉じられた
     あるカフェでのこと。
   たまたま私は常連客たちの
     真ん中に座った。
     私だけがよそ者だった。
   私は引きつった彼らの顔を、
     血走った目を見やった。
     それはショックがあまりにも大きく
     明日のことも定かでないためだった。
   離れたテーブルに
     老人が一人、
     一夜で髪は真っ白くなり
   彼は黙って、コップを見つめていたが、
     それさえ見てはいなかった。
   私は彼が行方不明になった学生の
     父親なのを知っていた。
   他の大勢の学生とおなじく
     若さゆえの情熱が
     この悲劇の夜、彼を行方知れずにしたのだ。
   私はまた彼は引退した官吏で
     年老いた彼のたった一つの希望が
     息子である学生だったことを知っていた。
   私はたった一人の息子、学徒兵からの燃えるような手紙を
     読んでばかりだから、
     この単調な世界にあって
     私はもう自分が孤独だとは感じなかった。
   いまは私たち父親たちから
     遠く離れ、遠方にいる
     今日の青春の熱い魂を
     よりよく理解できると思った。

 この学徒兵とはヴェトナム独立のために身を挺して戦っている若者である。小牧の周囲にはそうした若者たちが多く集まっていた。そんな学生の幾人かが、「悲劇の夜」に行方不明になり、あるいは命を落としたのである。この悲劇の夜とは、日本軍が1945年3月9日に突如起こした軍事行動である。
 1944年秋から45年の春にかけて、アメリカ軍はサイパン、レイテ、ルソン、硫黄島、マニラと攻略していった。次の上陸地点はインドシナだろうというのが大方の見方だった。 
 ヨーロッパでも1944年6月にはノルマンディー上陸作戦が行われ、8月25日ついにパリが解放された。フランスではヴィシー政権が消滅し、戦争中ロンドンにあった亡命政府「自由フランス」のシャルル・ドゴールが帰国して臨時政府を樹立した。ただドゴールは戦力上の配慮から、インドシナは当分の間はヴィシー時代と同様な状態におくことにした。
 翌1945年2月4日にはヤルタ会談が開かれて、ドイツや日本の敗戦は時間の問題と考えられた。この情勢のなかで、インドシナのフランス人たちが希望を持ったのは当然である。日本軍の進駐後、その政策に順応していたフランス総督府と軍は次第に抵抗の機運をみせるようになった。アメリカ軍の上陸に呼応して立ち上がるといった話がまことしやかにささやかれた。
 3月9日の夜、日本軍が先手をうってフランス軍の武装解除のためにク・デタを断行した最大の理由はこうした情勢の変化にあった。日本軍はフランス側の要人を拘束し、その一方、拘束されていたヴェトナム人の独立運動家などを釈放した。
 親フランス派と目されていた小牧近江や小松清には、ク・デタ決行の情報は事前には知らされなかった。しかし何かことが起きそうだという雰囲気は十分に感じられた。小松には日本軍のク・デタはヴェトナム独立の前触れに思えた。彼は事件の勃発を知ると、アンナン人の青年たちやかねて関係のあった海南島を経由して物資の輸送にあたっていた日本の青年たち(彼らは俗に海賊と呼ばれていた)を指揮してフランスの刑務所を襲い、政治犯を解放させた。このように日本軍のク・デタを独立の好機ととらえて、日本軍と行動をともにしたヴェトナムの若者たちがいたのである。
 しかし日本軍がこのとき親日派のバオ・ダイ(保大)帝を擁立して、ヴェトナムの独立を宣言させたのはあくまで日本側が起こした軍事行動の副産物にすぎなかった。3.・9事変後、ヴェトナム、ラオス、カンボジアは独立の方向に向かったが、ヴェトナム、ラオス、カンボジアはフランス統治時代の形のままで、ヴェトナムはバオ・ダイ皇帝の国となり、カンボジアではシアヌーク国王が、ラオスではルアンブラバンの王室が残った。
 これは独立運動家たちが夢見たものとはまったく異なっていた。そうしたなかで、ホー・チ・ミンが指導する越南(ヴェト・ミン)が彼らの不満を吸収し、勢力を拡大していった。
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by monsieurk | 2013-08-15 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

小牧近江のヴェトナムⅩⅠ「日本文化会館」

 小牧近江はその後も印度支那産業で仕事をしていたが、日本軍進駐のあとは、「フランス領インドシナ(仏印)」は、単に「インドシナ」と呼ばれるようになった。彼は1944年になると、印度支那産業を辞職して、ハノイに設けられた日本文化会館の事務局長に転じた。
 日本文化会館は大東亜省の管轄下にあった機関で、軍の進駐と平行して、なるべく穏便に治安を維持し、同時に日本文化を広めることを目的にしていた。そのために日本語学校を運営し、同時に情報収集や宣撫工作の役も担っていた。文化会館はハノイとサイゴンにあり、館長は元公使の横山正幸がつとめていた。横山もまたヴェトナムの独立に理解をしめす人物だった。
 この時期、インドシナでは大勢の日本人がさまざまな資格で活動していた。日本軍が進駐してフランスと共同統治の形を整えたとはいえ、フランス語を話すことができる人材はほとんどいなかった。そのため先に触れた大川塾の出身者だけでなく、フランス文学を専攻する若手の学者や、パリにながく住んでフランス語が堪能な画家などが、軍情報部の通訳や情報収集の役目をおびてインドシナに渡ってきていた。第二次大戦に突入したあとの日本は、彼らにとって決して住みよい場所ではなかったから、伝〔つて〕があれば半ば自発的にインドシナへ来ていたのである。
 そうした人びとにとって有力な職場の一つが日本文化会館だった。サイゴンの大使館府を辞めた小松清もハノイに移って、小牧のもとで私設顧問のようなかたちで仕事をすることになった。
 小松は得意分野の美術展を企画するなどの文化事業を行いながら、フランス総督府やフランス軍に関する資料を読んで報告書をつくり、あるいはヴェトナム人の協力者とあって情報を交換することを日課としていた。
 先に引用した文章で、那須国男はこの時期の小松清や小牧近江の様子にも触れている。貴重な証言なので長くなるが引用してみよう。
 「インドシナに長く在勤して、安南人との接触も多く、小松清にゴ・ジンジェム大統領を紹介したこともある当時の大使館府のベテラン書記官は、彼をT・E・ロレンスのようなタイプだったと評している。ロレンスがみずからのアラブ人大同団結というイメージを追い、英国はもちろん、アラブ人指導者とのずれに気づかずに軍事作戦と政治に突進したように、小松清も安南独立の夢を追ったというのである。(中略)
 小松清はみずから認めているように、「波の高い荒波のような人間」であり、海と友情のなかに無邪気に埋没していく小牧近江とは対照的だったが、小牧近江の安南人との交渉をどん欲に吸収し、ことごとに相談していた。のちに北部の越南政庁の情報部で活躍したトワイという青年なども、小牧近江が息子のように可愛がっていた男で、小松清も彼を秘書のように重視していた。半年ばかり筆者がハノイに行っていたころ、二人に誘われてこのトワイ青年のハノイ近郊の家に招かれたことがあるが、途中で空襲を受け草むらに逃げなければならない激しい状況があったにもかかわらず、小牧近江はまむし入りの地酒に陶然として、その酒に馴れていない私たちにもしきりにすすめた。
 小松清は小牧近江のそうした異民族との共存をたのしそうに眺めていたが、動きを求める彼の血はこの和やかな境地に安住してはいられなかった。酒に酔えば安南人の上に君臨するフランス人や、その政庁と妥協している日本の大使府を痛罵した。そのはげしさを、「小松清はやはり淡路島の人だ」と評した人々もいたが、出身地との関係はともかくとして、みずからの情念に周囲があわないことのもどかしさが、ふだんは人のいい彼を非社交的な攻撃に走らせた。ハノイでも、郊外にカムテンという遊興街があり、私たちは夜おそくまでそこで暇つぶしをしていたが、彼は酒の上の話の調子に不意に苛立たしさを示し、唐突に去ってゆくことがあった。安南の独立を望むことでは同じ立場の人々とも、彼は性急さで対立したりした。恐らく小牧近江とも、ときには不協和を生じることがあったようで、彼が文化会館に出てこない日もあった。」
 那須の観察はここでも透徹していて、小牧近江と小松清の気質のちがい、そこからくる現地の人たちとの異なる交流のありようをよく示している。
 彼らが勤める日本文化会館(Mission Japonaise)は、51 Boulevard Henri Rivièreに建つ大きな石造りの建物に入っていた。この大通りの先にはハノイ随一の規模を誇るホテル・メトロポリタンがあった。この通りは現在のPhon Ngo Quyen通りで、建物にはいま教育省が入っている。大通りに面して鉄の柵がぐるりとめぐらされていて、2008年にハノイを訪れたときには、その柵に小さな鏡をかけて、何人かの散髪屋が路上で営業していた。
 1944年の夏、小松は焦燥を紛らせるために、日本人とヴェトナム人の友情を主題にした小説を書きはじめた。題名を「解逅(ヴェトナム語ではコク・タイ・ゴー)」とつけた。パリで知り合った日本人の作家とヴェトナム人の詩人が、太平洋戦争の直前にハノイで再会し、二人はヴェトナム独立運動の黒子として尽力するという内容である。小松はこれをフランス語で書き、友人のグエン・ジャンがそれをヴェトナム語に翻訳して、最初はハノイの有力週刊誌「チコンバク・チューニャト」に連載された。そののち日本の敗戦間際に週刊誌の版元の出版社から単行本として刊行される。
 一方の小牧近江は、このころみずからの身辺や若いヴェトナム人たちとの交遊をフランス語の詩にして書きとめていた。彼はこれらの詩篇を集めて、「une date・・・(あの日・・・)」と題して、井田鱶司がやっていた「ハノイ日南印刷(l’imprimerie NITINAN)」で印刷してもらう。印刷が終わるのは敗戦直前の1945年7月2日のことである。
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by monsieurk | 2013-08-12 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

小牧近江のヴェトナムⅩ「小松清3」

 小松清はクオン・デとの関係について、「新潮一時間文庫」の一冊として刊行した『ヴェトナム』(新潮社、昭和30年)で詳細に語っている。そのなかに次のような一節がある。 
 「インドシナではD王国とまでいわれたほど手広く商売をしていたM氏は、戦争中彊柢〔クオン・デ〕侯の仏印探題とも云うべき位置にあった。一種の政商とも云える風格をもった実業家で、ヴェトナムの独立運動とは最も因縁の深い日本人の一人だった。ことに親日系のナショナリストたちや、そのうちの大物の亡命者で、多かれ少なかれ、M氏の庇護をうけなかったものは少ない。」(原文、旧字旧かな)
 このMとは松下光広のことで、インドシナで事業を展開する一方でクオン・デの独立運動を支援し続けた。この他にも政治家の犬養毅や,、新宿中村屋の創業者相馬愛蔵が、娘婿のインド独立運動家チャンドラ・ボースとともにクオン・デを支援していた。ただ小松が同書で云うように、当時の日本では政治家であれ、軍人であれ、外交官、実業家であれ、日本の利益から建前として関心を寄せるだけで、その地に生きる人たちが置かれている状況には無関心であった。例外は大アジア主義の立場をとる石井石根や大川周明や、参謀本部の将校や外務省のインドシナ問題に関心をもつごく少数の人たちだけだったった。
 小松は国内での支援体制を一応つくりあげると、ふたたびインドシナの地を訪れることを画策した。今度は改造社社長の山本実彦に同道して、改造社特派員の肩書きで1941年(昭和16年)12月12日に神戸を発つ予定をたて、それを通知する挨拶状までつくった。
 ところが直前の12月8日、真珠湾急襲が行われ太平洋戦争が勃発した。小松はこの日の早朝、特高に寝込みを襲われ、一日の取調べのあと翌9日留置所に連行された。逮捕の理由は、人民戦線派の危険思想の持つ主ということであった。こうして彼は1941年から42年にかけての冬を牢獄ですごしたが、監房では非合法ながらヴェトナム語の学習をおこたらなかった。
 小松が釈放されたのは1942年3月である。出所するとすぐに旅券を申請したが、希望がかなうはずはなかった。彼は特高の監視下にあり、霞ヶ関の東京刑事地方裁判所検事局思想部に定期的に出頭することを義務づけられていた。
 こうした状況下ではできる仕事も限られていた。手をつけていた『金雲翹』の梗概を雑誌「東寶」に載せたあと、先にも触れたように、翻訳を単行本として東寶発行所から刊行した。巻頭には「松岡洋右先生に捧ぐ」と献辞が印刷されている。さらに松井石根と大川周明にも本を送り、二人から直筆の礼状をうけとった。インドシナへ行くために仏印に関心をもつ人物にできるだけ接触したいという焦りのあらわれであった。
 小松は次いでフランス人ロラン・ドルジュレスの『マンダリン・ルートにて』を翻訳し、これは「安南のきのうきょふ」という題で、雑誌「創造」(1942年12月号)に掲載したあと、タイトルを「印度支那」を変えて翌年には金星堂から出版した。
 その上で南洋映画協会の嘱託となり、映画『田園交響曲』(アンドレ・ジッドの原作を映画化した山本薩夫監督、原節子主演の作品。ジッドや出版元のNRFへ無断で製作して問題となったが、小松が仲介して不問にふされた)や李香蘭主演の『支那の夜』を仏印へ配給することに尽力した。小松の念頭にはいまや仏印行きしかなかった。
 事態が好転したのは1943年の春になってからである。外務省の田代重徳がサイゴンの日本大使府に公使として赴任することになったのである。田代は外務省のなかでインドシナ問題に関心をよせる数少ない人物で、小松とは昵懇の間柄だった。小松はこの好機に自分を私設秘書にしてほしいと頼み、田代はこのことを外務省につないでくれた。こうして小松は、「仏印問題に対する私見」を書いて外務省に提出した。
 これが功を奏したのだろうか、小松は田代公使の私設秘書(滞在経費は現地公使館の負担)の肩書きで旅券が交付され、田代とともに1943年4月、福岡から飛行機でサイゴンへ向った。
 サイゴンの日本大使府では私設秘書として情報の収集に当たるほかに、積極的にヴェトナム人の中に入って、現地の要人との接触をはかった。その一人がクオン・デの復国運動の同志で、ヴェトナム南部のカトリック信徒を掌握していたグオ・ディン・ジェムだった。グオはフランス官憲にマークされ、日本軍参謀部の庇護のもとにショロン地区にある日本衛戍病院にかくまわれており、小松はよくここを訪れて彼や日本軍参謀たちと情勢分析にあたった。
 小松が親交を結んでもう一人が社会主義者のファン・ニョック・タックである。ファンはフランスで医学博士号を取ったインテリで、サイゴンにもどった後は呼吸器の専門病院を経営していた。二人は互いに抱く信念とともに、ともに青年時代をフランスですごした経験から、すぐに肝胆あい照らす仲となった。ファン・ニョック・タックは何年も前から合法的にヴェトナム人を束ねる準備をしていた。それがサイゴンのスポーツ連盟だった。会長や名誉役員にはフランス人の有力者を担いだが、実際の実権は彼が握っており、集まっていたのはサイゴンのインテリ・グループで、いざというときには独立運動の中核をになう者たちだった。
 小松としては民族独立を熱望するヴェトナム人への共感から、ヴェトナム人たちからすれば、日本軍の進駐が独立の機会となることへの期待から互いに結びつきを強めたのである。実際、現地にいる陸軍参謀の一部にはク・デタの準備を画策する動きもあったが、東京の大本営や政府はそれを許さなかった。仏印におけるフランスとの協調政策を崩してまで、ヴェトナムに独立と主権をあたえることは考えもしなかったのである。そして本国の方針が明らかになるにつれて、心情的には小松と同じ側に立っていた田代公使も、現状維持の線で動かざるをえなかった。その結果小松は大使府のなかで次第に孤立していった。
 同じころ大使府情報部にいて、小松の言動を冷静に観察していた那須国男は次のように述べている。
 「彼〔小松清〕の政治的行動なるものも、肌を触れ合った友情の範囲内の力しかもたなかったので、日本軍と仏印政庁という二つの権威のしたに生きる安南人たちには、小松清の呼びかけは扇動一方の裏づけのないものと受け取られていたようである。(中略)
 また安南の独立を求める人々にしても、小松清の呼びかける日本との協力による独立ではなく、日本の敗退に伴う行動として独立を考える動きもあったようだ。仏印政庁が傍受する短波放送は日本の大使府情報部あたりにも回されていたから、一部の安南人もソロモン海戦の結末や、カサブラン会談、スターリングラード戦の終了の模様の機微を知っていたはずである。みずからイメージの孤独に焦燥するのか、小松清は夜の酔いと、若い友人たちとの交わりに耽ることが多かった。」(「大東亜共栄圏下のベトナム――小松清をめぐって」、「思想の科学」1963年第57号)
 若い友人たちとは、仏印に進出している貿易会社の社員たちで、彼らの多くは農村出の若者で、大川周明塾で学んだ人たちが多かった。ヴェトナム語を学び現地にとけこもうとする彼らは、大東亜共栄圏というスローガン以上に、現地での体験からヴェトナムの現状を理解しようとしていた。小松は彼らの先生格としてヴェトナム問題を説き、彼らの行動力に期待した。
 こうしてヴェトナム独立運動に肩入れすればするほど、彼の大使府での立場は微妙なものになっていった。やがてこれ以上田代に迷惑をかけることはできないとして、1944年1月、小松清は在サイゴン日本大使府を辞めた。
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by monsieurk | 2013-08-09 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

小牧近江のヴェトナムⅨ「小松清2」

d0238372_15222873.jpg 6年ぶりのパリには、特派員として取材すべき事柄は山積していた。1年前の1936年7月には、隣国スペインでフランコ将軍を中心とした反乱がおこり、これを支援するナチス・ドイツやイタリアのファシズム側と、ソビエトが支持する人民戦線内閣の政府軍とのあいだで激しい内戦が繰りひろげられていた。
 フランスではスペインと同じく人民戦線内閣が成立していたが、イギリスの強い意向でスペイン政府への支援を見送った。このため政府軍とともに闘う国際義勇軍が組織され、ヨーロッパ各地やアメリカから個人の資格で多くの人たちがスペインにおもむき、戦闘に身を投じた。小松の友人である作家アンドレ・マルローも、自ら飛行隊を率いてスペインで戦っているはずであった。
 ところが10月初め、NRFへ行く途中のバック通りで、スペインにいるはずのマルローとばったり出会った。スペインでの戦闘の模様を記録した映画を完成し、同じくスペイン内戦を描く小説『希望』を執筆するために帰国したということだった。
 小松は翌日からNRF近くのカフェや自宅でマルローと会い、ヨーロッパ情勢について話を聞いた。これらは報知新聞紙上に、「六年ぶりの再会」、「卒直な友情」、「驚くべき精神力」、「彼の支那事変観」、「支那空軍参加を断る」というルポルタージュとして掲載された。行動主義を唱える小松としては、この際スペインの現場に行って、自分の眼で見たルポルタージュを書きたいと願い、パリにいるスペイン政府の代表者に接触したが希望はかなわなかった。
 そうしたなかで、日本を発つ前に新庄嘉章と一緒に翻訳したマルローの『人間の条件』が、『上海の嵐――人間の条件―』というタイトルで、大陸文学叢書の一冊として改造社から1938年(昭和13年)7月に刊行された。タイトルを「上海の嵐」としたのは、英訳にならったこともあったが、時流に乗ることで発禁を免れようとする配慮でもあった。それでも出版に際しては、全体で140個所以上の削除をよぎなくされた。
 小松は「あとがき」で、「国際都市上海の、光と闇の両面に踊り蠢く人間の像は、宿命的な人間悲劇を背負った人間の標本のように思われる。この作品の裏には、これらの人間の動きにじっと見入っている、ペシムスムの影濃い、然し力強い意欲をひそめたあのマルロオの眼が感じられる。 / 一口に言って、この作品は、動乱の支那にひき起された外的悲劇と、人間が負わされている諸条件から生まれた内的悲劇とが、渾然と一つに融合された一大叙事詩である。この作品を目して、単なる報告文学的作品、或いは単なる左翼的小説と断ずる者があれば、それは随分不注意な読者だと言わなければなるまい」(原文、旧字旧かな)と書いた。
 1939年8月3日、突如として独ソ不可侵条約が結ばれ、9月1日にはドイツがポーランドに侵攻。3日にはイギリスについでフランスがドイツに対して宣戦を布告し、ヨーロッパは戦場と化した。小松は戦時下のパリの様子、人びとの暮らしや心情をルポにして日本に届けた。これらの文章は単なる報告文にとどまらない実在感をもつ貴重なものとなった。
 さらに小松はパリで創刊された日仏文化交流のための雑誌「France-Japon 日仏文化」の編集にたずさわることになった。雑誌の資金は満鉄のパリ事務所が出し、責任者は満鉄のヨーロッパ事務所長、坂本直道がつとめていた。坂本は龍馬の姉乙女の孫で坂本家の当主だった。彼は日本の戦争に反対の立場をとっていた。
 年が変わって1940年5月、ドイツ軍の攻勢が明らかとなり、小松はパリが占領される前に、日本大使館が用意してくれたトラックでパリを脱出した。ポルト・オルレアンから南に通じる道路は避難民であふれていた。彼はその後フランス政府が移動したボルドーを経由し、国境を越えてスペイン、ポルトガルへ行き、リスボンから榛名丸に乗船してヨーロッパを離れた。帰国したのは1940年9月2日のことであった。
 だが三年ぶりに神戸港についた途端、小松は特高の尋問をうけることになった。帰途のシンガポールで英字新聞のインタビューをうけ、ドイツ空軍の空襲によってもロンドンは陥落することはないと答えたことが利敵行為にあたるというのであった。幸い特高の拘束は長くは続かず、間もなく父と妻子が待つ東京井荻の家に帰ることができた。
 小松は大戦中の体験を次々にルポルタージュルに書き、それらは『沈黙の戦士――戦時巴里日記』(改造社、1940年)、『フランスより還る』(育生社、1941年)として刊行することができた。
 そして1941年4月、小松は改造社の特派員の肩書きで、フランス領インドシナへ行くことになった。フランス領インドシナは、かつて親友のアンドレ・マルローが反植民地の運動を展開したところであり、最初のパリ滞在のときに知り合ったグエン・アイ・コォク(ホー・チ・ミン)が、「私の同胞がどんな条件の下で生きているか、それをみてもらいたい」と訴えた土地であった。インドシナ行きには特高の厳しい監視の目がゆき届かない場所で生活したいという思いもあった。この年の初めに治安維持法が改正されて、思想犯の検挙や予防拘束は当局の意志でいつでも行える状況になっていたのである。
 小松は4月19日に神戸を発って、5月1日にハイフォンに着いた。ハノイではヴェトナムの伝統と歴史を知るためにまずルイ・フィノ博物館を訪れ、パリ時代の友人の一人だった画家仲間のリュ・ヴァン・タイ(劉文泰)と接触した。リュウの家はアンナンでも屈指の名門だった。父親はアンナンの近代文学の権威で、出版社を経営して、「新アンナン」という新聞や雑誌「現代思想」を刊行するなどアンナン言論界のリーダーだった。しかしこの父親は息子がパリから帰国して間もなく急逝してしまい、いまはリュ・ヴァン・タイがその跡を継いでいた。
 リュウは小松をヴェトナムの上流階級から一般市民にいたるまで、積極的に紹介してくれた。日本人との交際はフランス総督府ににらまれる行為だったが、彼は意に介さなかった。さらにヴェトナム人の心を理解するには古典である『キン・バン・キュウ(金雲翹)』を読む必要があるといって、フランス語訳を貸してくれた。
 これは阮攸が19世紀初頭に書いた6音節と8音節の詩句を交互に用いて綴られた3260節からなる叙情詩で、翹という女性が初恋の思い出を胸に秘めつつ送った、忍従と悲しみと諦めの生涯をうたっており、ヴェトナムの人びとの歴史や宗教観が色濃く投影されていた。小松はやがてこれを翻訳して東寶発行所から1943年(昭和18年)に出版する。またリュウは小松がのちにフランス語で書く小説『邂逅』をヴェトナム語に翻訳して出版することになる。
 小松は一カ月ほどハノイに滞在して、この間に先輩作家の小牧近江とも会って、ヴェトナムの現状について意見を聞くことができた。その後は古都ユエ、ニャ・チャン、サイゴン、バンコクと移動して現地情勢の蒐集と分析につとめた。
 小松は7月14日、三カ月にわたるフランス領インドシナ訪問から帰国したが、待っていたのは二歳の息子晃が留守中に突然亡くなったという知らせだった。
 彼は悲しみを忘れるように、ヴェトナムでの見聞をルポルタージュに書いて次々に発表し、かたわら実践活動に没頭した。それは「改造」の編集長水島治男と協力して、日本にすでに存在するヴェトナム民族解放運動と、現地の活動家たちを結びつけるための組織をつくることであった。そのためにハノイにいる小牧近江とも連絡をとりあって水曜会をつくり、東京では在住ヴェトナム人によるヴェトナム民族解放組織である越南復国同盟会のリーダー、クオン・デ(彊柢)と会った。
d0238372_15223293.jpg クオン・デはグエン王朝の皇太子で、祖国が1887年にフランスの保護領となると、地下に潜入し、1907年には妻子を残して24歳の若さで東京に亡命してきたのである。彼は祖国復国の象徴として運動を担ったが 、フランス、日本、ドイツを巻き込んだ政治的駆け引きに翻弄されて、さんざん辛酸をなめさせられてきた。それでも小松が接触した1941年秋には世田谷区松原の自宅にあって、祖国独立を期す思いにはいささかのかげりもなかった。
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by monsieurk | 2013-08-06 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

小牧近江のヴェトナムⅧ「小松清1」

d0238372_193943100.jpg 小松清は1900年(明治23年)6月、神戸に生まれた。小牧近江より6歳年下である。画家を志した小松は21歳だった1921年の夏に、日本郵船のクライスト号でパリをめざした。画家の坂本繁二郎、小出楢重、硲伊之助などが同じ船だった。
 パリについた小松は画塾で絵を学ぶかたわら、カルチエ・ラタンにあるフランス語学校に通い、左翼系の新聞「リュマニテ」を買っては辞書を引き引き読むことを日課とした。パリに落ち着いて1カ月ほどがたった7月、アメリカでサッコとヴァンゼッティの二人のアナキストにたいして死刑判決が下され、パリでも彼らの即時釈放を求める大々的な集会が開かれた。小松も8月23日に、集会が開かれる17区の「ワグラム会館」へ行くと、さまざまな政治組織の代表が次々と立って演説をした。
 フランス共産党中央執行委員マルセル・カシャンが演説をはじめたとき、後ろから声をかけてきた者があった。振りむくと精悍な顔つきの東洋人の青年で、グエン・アイ・コォクと名乗った。後のホー・チ・ミンで、これをきっかけに二人は互いの下宿を訪ねあう仲となった。
 小松清に転機が訪れたのは1931年2月のことである。そのころモンパルナスのグラン・ショミエール絵画研究所で学んでいた彼は、同じ教室仲間のフランソワーズ・ジレから借りたアンドレ・マルローの『征服者』を読んで感動した。
 1925年の広東動乱を背景にした小説では、中国で生まれつつあった革命の現実、行動による権力を掌握しようとする意志、死や苦悩や屈辱に抗する人間の自由などが緊迫感を持って描かれていた。それは従来のヨーロッパの小説がもつ異国趣味とはまったくちがう作品であった。
 感激した小松は出版元のグラッセ社気付けでマルローに宛てて手紙を出した。するとマルローからすぐに返事が来た。2月20日付けの手紙にはこう書かれていた。
 「拝啓、
 現在のところ、水曜日と土曜日を除いては、ほとんど毎日、5時ごろには、NRF〔ガリマール社〕にいます。近いうちにお会いできたらと思います。     敬具」
 2月末の夕方、グラン・ショミエールでのデッサンをすませた小松は、パリ7区のセバスチャン・ボタン通りにあるNRFまで歩いて行った。
 「私はその日の夕刻までモンパルナスのアカデミイでの絵画の仕事を済ませてから、歩いても十分ばかしのところにあるNRFまで散歩かたがた歩いて行った。面会の時間はたしか六時すぎだった。NRFの事務は土曜日を除くほか六時に終わるからである。入口の重い扉を押して這入ると、内部は随分思い切ったモダァンな構えで、一寸外国映画のセットを想はず感じた。
 受付の若い女が卓上電話でマルロオ〔ママ〕に私の来訪を伝えてくれた。まだ書きものをしているからもう十五分ばかり待っていてくれとの返事であったので、私はそこらの椅子に腰をかけて待っていた。それから数分たってから、私もマルロオに会うべく階段を登って行った。(中略)扉を叩くと神経質な甲高い声が響いて、這入って下さいといった。声だけきいても何か胸にぎっくり刺されるような気がした。
d0238372_19393855.jpg 扉をあけた瞬間、よく写真でみた彼の俊鋭な風貌が眼のまえに強く克明に浮かんできた。そして瞬くまに、メスのように鋭利に優美に、しかも悲痛な力で私に迫ってくるものを私は全身で感じた。」(小松清「NRFの思い出」、『創造の魔神』所収)
 これが三十年におよぶ二人の友情の出発点だった。この夜彼らは凱旋門に近いバーで夜遅くまで話し合った。話題は東西文明について、文芸復興期の巨匠や印象派以後の絵画について、さらには中国革命にもおよんだ。
 このあと二人の交渉は急速に進み、小松が紹介した近藤浩一路をまじえて深まった。近藤浩一路は東京美術学校で藤田嗣治の同級生で、この年の三月下旬に個展を開く目的でパリにやってきていた。
 近藤は油彩から水墨画に転じていて、彼の水墨画はマルローを強く惹きつけたのである。ヨーロッパの絵画とちがい、中国や日本の伝統をうけついでいるが、その感覚は主観的かつ情緒的なリズムのままに現代の空気と光を自由には反映していて、それがマルローには不思議でもあり魅力でもあった。
 出版社NRFの美術部門の責任者だったマルローは、これをきっかけに夫人のクララとともに、ペルシャ、インド、中国をまわって最後には日本へ行き、展覧会を催すために現代の日本美術の作品を探すことにした。
 二人がマルセイユを出発したのが1931年の5月中旬。日本には1カ月滞在の予定だったが途中の旅程がのび、彼らが神戸に到着したのは、10月7日のことだった。港では近藤浩一路と、一足先に帰国した小松清が出迎えた。
 マルローは神戸港で小松の通訳で記者会見をすますと、一同は舞子の浜までドライブし、料亭萬亀楼で昼食、夜は京都の都ホテルで宿泊した。関西滞在中は太秦の撮影所、伏見稲荷、醍醐寺、桂離宮などを見学し、近藤浩一路のアトリエ墨心舎を訪問して会話を楽しんだ。このときも小松が通訳したが、近藤の風貌と彼との間で交わされた話は、このとき構想されていた『人間の条件』のなかの蒲(カマ)画伯、クラビック男爵、ジゾール教授の会話として活かされることになる。小説の主人公は日本人の母とジゾール教授との間に日本で生まれたという設定で、名前のキヨは小松清からとられたものである。
 マルローと小松の一行はその後大阪で開催中の南画展を訪れて、水越松南の《化粧》に感激して、やがてマルローは水越に関するの批評文を書いた。
 10月13日には東京に移り、銀座の楽器店で雅楽などのレコードを探し、神田の洋書店ではマルクスの仏訳版『資本論』を買った。これからの船旅の道連れのつもりだったが、『資本論』は日本滞在で得た印象とともに、『人間の条件』の全体のトーンに色濃く反映されることになる。
 マルローは10月15日午後3時、横浜港から氷川丸でバンクーバーに向けて出航した。船中から小松宛に手紙には、「君のおかげで日本で味わうことのできた数々の気配りや親切について、僕が自分の名声のせいだなどと思ってなんかいないことは理解してください。この国についてどう考えるかは、自分でもまだはっきりとは分からない。しかし君とフランスで再会するころまでには、分かっているだろう。・・・。
 さようなら。つぎは女給の迎えも、人もいないレストランで一緒に夕食をとろう。だがレストランから出たときに歩道に立っている娼婦たちは、京都のほど見栄えがしないと思うが。
 妻から君と妹さんへよろしくとのことだ。僕も同じく。                                 
                    アンドレ・マルロー」と書かれていた。
 マルローの日本滞在はわずか9日間だったが、収穫は大きかった。それはこの旅行の間中構想を練り、草稿を書きついでいた次作『人間の条件』に活かされることになる。小松清は1932年にマルローから受け取った手紙を紹介している。
 「日本を旅行しながら君に『征服者』の続編のことを話したことがあるだろう。僕はいまその制作の最中だ。詳しいことは手紙では書けぬ。けれども技巧の問題は愈々発展しつつある。この点だけでも、今度の作品はからり変わったものになるだろうと思う。十人あまりの人物が作中に活動する。それがみな重要人物だ。が、登場人物は全体で約四十人位になる。自分の希は、悲劇的(トラヂック)なるものをずっと深く進めて行きたいことだ。悲劇的事実の描写だけに作品を局限したくないのだ。自分は思う静寂(セレニテ)は悲劇よりも悲痛となり得る。(小松清「アンドレ・マルロオの行動と文学」)
 マルローとの交流は小松の進む道に影響をあたえた。彼はやがて絵筆をペンに持ち替えて、積極的にマルローの存在と作品を日本に紹介することをはじめ、『征服者』やNRF系の文学を紹介する一方、「行動主義」を標榜してヨーロッパや日本で進むファシズム体制に対抗してヒューマニズムの立場を鮮明にして、思想統制に反対し、文化の擁護のために積極的に活動するようになった。
 その典型的な例が、小松清が編集にあたり、1935年(昭和10年)11月に第一書房から刊行した『文化の擁護』である。これには「国際作家会議報告」という副題がついている通り、この年の6月21日から25日の5日間。パリのミュチュアリテ会館を会場に、「文化擁護のための国際作家会議」が開催された会議の報告である。
 会議には世界38カ国を代表する250名の作家たち、イギリスのオルダス・ハクスレー、ドイツのローベルト・ムジール、ベルトルト・ブレヒト、ハインリッヒ・マンなどが参加し、フランスからはロジェ・マルタン・デュ・ガール、アンドレ・マルロー、アンドレ・ジッド、アランたちが彼らを迎えた。もちろんアンリ・バルビュスやロマン・ロランの顔もあった。
 大会では、文学者、芸術家、知識人の立場と役割、個人と社会、知的労働と肉体労働、作者と読者の関係といった問題にはじまって、民族と文化、階級と文化、思想の尊厳と言論の自由などを中心に、芸術と政治の関係が多角的に議論された。小松はいち早く会議のテクストを入手して、これを翻訳して日本に紹介したのである。だが日本の政治社会情勢は、こうした活動の余地を奪いつつあった。
 小松が報知新聞特派員の肩書きをえて、ふたたびフランスへ向ったのは1937年8月のことである。実質は国外脱出であり、6年ぶりのパリであった。
 
 (なおインドシナ時代以後のアンドレ・マルローについては、拙著『若き日のアンドレ・マルロー 盗掘、革命、そして作家へ』(行路社、2008年)に詳しく書いた。)
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by monsieurk | 2013-08-03 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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