フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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 マルローたちを窮地に追い込んだ背景には、彼らが植民地行政の腐敗を容赦なく暴いたことに加えて、アジアを揺り動かしつつある革命の機運があった。
 「ランドシーヌ」紙とそれを継いだ「鎖につながれたランドシーヌ」は、ガンディーの独立運動と中国革命に関する記事をどこよりも多く載せ、かつ詳細に報じた。それが総統府に強い危機感を持たせたのである。「ランドシーヌ」はガンディーの運動を支持したが、フランス人植民者にとっては、ガンディーもまた「共産主義の手先」だった。
 実際に「ランドシーヌ」の記事を読んでみると、インドについてのルポルタージュが掲載されていて、その多くがガンディーが提唱し、実践する非暴力の抵抗に関するものである。その影響をうけて、インドシナでも固有の言語や伝統文化の復活、とくに学校での国語教育の機会の拡大が求められていた。されにこれを契機に、現地人による産業の振興を人びと考えていたのである。
 行政と結びついた保守派の新聞はそこに危険を察知して、しきりにガンディー批判をくりひろげた。体制側のこうした逆宣伝にたいして、マルローとモナンは、ガンディーは暴力には終始反対しており、「それ〔暴力〕は忍耐、寛容、友愛という彼の主義にまったく反するもの」だと反論した。さらにガンディーがもたらす精神は、必ずアジア全体に広がっていくと主張した。ただマルローたちは、インドの民族運動とインドシナのそれとは進め方の点で異なっていると考えていた。ガンディーはヨーロッパの植民地主義者と手をにぎることなく、独立を獲得しようとしていたのにたいして、インドシナの現地人指導者たちは、フランスの制度を通して目的を達成できると考えていた。それが大きな違いだというのである。
 ガンディーの独立運動は、1920年代のインドシナに影響をあたえたが、広東からはじまった中国革命の影響の方が比較にならないほど大きかった。インドシナは長く中国の支配下にあり、幾世代にもわたってここに住む中国人も多く、インドシナの知識人のほとんどは中国語を解した。
 アンナン人(ヴェトナム人)でパリ大学法学部教授のファン・ヴァン・トゥロンは、6月30日付けの「ランドシーヌ」紙に寄せた文章で、中国の現状をこう分析した。
 中国はつい最近まで征服された国民であった。アンナンと同様に、ヨーロッパの征服者の支配のもとに多くの屈辱をなめてきた。だがいまや、「自分の力を自覚し、その尊厳を取り戻しつつある」。中国は日一日と、国際舞台で重要な地位を占めつつあり、「世界が無視できない力となった。中国にたいしては、もはや昨日までのように、声高に脅しの身振りで話しかけることはできない。(中略)中国で起っている出来事を注意深くフォローしよう。それは必ずや世界に影響をあたえる結果を引き起こすであろう。われわれの運命は極東のすべてと分かちがたく結びついている。」
 スランス人植民者は、中国革命の余波がインドシナに押し寄せてくるのを恐れたから、マルローやモナンが中国情勢を積極的に伝えることに危機感を募らせた。事実、「ランドシーヌ」紙は、上海の五・三〇事件にはじまる激動をことこまかに報道した。6月17日付けの第1面には、北京発の電報が掲載されている。
 「さまざまな職業の人たちや商人からなる一万人の列が、反英デモを行った。中国人商人はイギリス商品のストックを焼き払った。(中略)次にストに突入するのは、イギリス人に雇われているボーイたちである。これは外国人の家に雇われているメイドの同情ストを誘発するであろう。中国人の大きなうねりが、外国人のあいだに強い懸念を生み出しつつある」。そして同じ号の最終ページには、香港で混乱を避けるために孤児院に避難した大勢の難民を写した写真も掲載されていた。
 この電報は香港の国民党政府が配信したもので、インドシナで発行されている各紙に届けられたが、掲載したのは「ランドシーヌ」紙だけであった。マルローたちの新聞は唯一、中国全土を巻き込むことになる政治的激動を現地からの電報の形で伝えつづけた。クララの回想によると、これらの英文電報をフランス語に翻訳したのはもっぱら彼女だったという。掲載された電報を一つ一つ読んでいくと、国民党と共産党に指導されたストライキやデモの波が、広東から香港、さらに沙面〔広州の珠江の島。英仏の租界があった〕へと拡大していく様子が手に取るようにわかる。
 彼らは日々変化する中国情勢をフォローするとともに、問題の本質をインドシナの人たちに理解してもらうことに努めた。その一つが孫文の息子孫科〔スゥン・コ〕との対談である。孫は、「国民党が共和主義政党であった共産主義の機関ではなく」、「中国の自由こそがその唯一の目的である」と語り、この目的を達成するには、「すべての人間を戦列に加えなければならない。共産主義者がそのなかに含まれているのは事実である。だがそれによって、国民党の政治綱領が曲げられることはあり得ない」と述べている。
 この対談にくわえて、モナンは国民党を擁護する文章を書いた。
 「フランスは反個々民党系の軍閥に武器を売っているが、こうした行為は内戦を激化させるだけである。国民党の勝利はすなわち民主的かつ民族的な政府の勝利なのだ」。中国革命にたいするこうした視点は、「ランドシーヌ」の基本線であって、一連の報道を共産主義の脅威とするのは誤りであると力説した。だが保守派の新聞はそうは受け取らなかった。
 そして中国の動向にも変化が起きていた。香港と広東のストは継続していたが、地方の反抗は下火になりつつあり、国民党と共産党の間でも深刻な対立が生じつつあった。この時期の中国を考える場合もっとも重要な国共の対立を、マルローとモナンはどう捉えていたのか。少なくとも新聞からは明らかにすることはできないが、やがてマルローは小説『征服者』では、この問題を中心のテーマにすえることになる。
 「ランドシーヌ」が廃刊に追い込まれた、それでもマルローが新たに活字を入手して、「鎖のつながれたランドシーヌ」を再刊したのはこうした時期であった。マルローは再刊第一号に論説を書き、副総督コニャックを嫉妬に狂う夫になぞらえ、「ここでは言論の自由とは、新聞を郵便局でかっぱらうことであり、あるいはその郵送そ拒否させることであり、治安警察をつかって印刷工を脅迫することである」と、漫画入りで揶揄した。
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by monsieurk | 2013-09-30 22:29 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)
 マルローとモナンが相手を鋭く突けばつくほど、体制側の反撃も厳しくなった。それでも彼らは怯むことはなかった。7月16日号掲載の「行政の役割について」――
 

 読者から大変興味ある手紙を受け取った。以下がその抜粋である。
 「フランス人が出す主要な新聞の一つが、行政を攻撃するのはインドシナでは初めてのことである。行政にたいするわれわれの敵意は、行政がいつも眼前に立ちふさがっていることを遺憾に思う気持からくる。あなた方の攻撃が確かなものとなり、秩序へのわれわれの不満に明確な形をあたえてくれることを期待する。あなた方がわれわれと同じ考えを持っているのが明らかになれば、あなた方についていく。だが事実以上に重要人物と考えられている役人を攻撃することには、あまり同調しないかもしれない。」
 私たちの攻撃は、それぞれの役人を標的にしているのではない。彼らは上の命令にしたがって行動しているのであって、その行動に責任はない。私たちが目標にするのは、遅々として進まないた改革である。征服が終わると、権力が軍事力のあとを引き継ぎ、彼らは法を実施し、その考えを押しつけた。だが彼らの考えほどこの国の経済的発展に有害なものはなかった。

 この記事によって総督府との対立は決定的となった。事実これをきっかけに、コニャックは、「ランドシーヌ」を発禁処分にすることを決意した。彼は手をまわして、「ランドシーヌ」紙が地方へ発送されるのを差し止め、すべての印刷所が印刷を引き受けないようにさせた。こうしてマルローたちの新聞は、8月14日にいたって発行することができなくなった。
 「ランドシーヌ」の廃刊は二人にとって痛手だった。御用新聞の方は、ここぞとばかりに彼ら攻撃した。「ランパルシアル」紙は、「マルローとモナンは、読者からの一年分の購読料をポケットに入れ、2カ月ばかり申しわけ程度に新聞を出して逃げ出した」と書き、彼らは詐欺師で、2カ月で廃刊にするのは当初からの計画だったとした。こうした中傷記事にたいして、二人はいまや反撃する手段を持たなかったのである。
 9月末、シャヴィニーはパリの破毀院の判決文を入手すると、「9月26日の新聞の1面で、破毀院がマルローの上告を認めて判決を破棄したのは、審理に手続上の不備があったからである。つまり予審を公開しなかったためである。」、「マルローはもう一度サイゴンの控訴院で裁かれるだろうし、今度は手落ちはないから、決定的な判決が出されるだろう」と書いた。マルローはこれに反駁しようにも手立てがなかった。
 この年1925年8月の末、マルローとクララは、活字をなんとか手に入れるために香港へ渡った。香港に着いて新聞を開くと、たまたまジェズイット派の修道院が、「活字売りたし」という広告を出していた。修道院は布教用の新聞を発行していたが、最近新しい活字を購入したから、古いものを売りたいというのである。マルローとクララは丘の中腹にある修道院を訪れて、さっそく買入れの約束をかわした。
 マルローはのちにアメリカの評論家エドモンド・ウィルソンに宛てた手紙で、このときの香港旅行は、「国民党の委員としての任務を果たすためだった」と説明しているが、その可能性は少ない。クララはそうした事実は知らないと証言している。いずれにしろ、こうして待望の活字入手の目途がつくと、すぐに若さが頭をもたげた。二人は香港には数日いただけで、ポルトガル領のマカオへ遊びにいったという。
 だが彼らが安心して遊んでいる間に、マルローが香港で新たに活字を手に入れたことを知った副総督コニャックは、サイゴン港の税関に活字の押収を命じた。こうして修道院から購った活字は、一度も使用されることなく当局に押収されてしまったのである。やむなくマルローは香港にもう一度活字を注文した。
 二度目の活字がどうやって手に入ったのか、詳細はいまもって不明だが、10月末には活字の箱がサイゴンに届いた。ただこれは英語の活字だったために、フランス語特有のアクサン記号がなく、マルローとモナンは途方に暮れた。するとこれを知った現地人の仲間はすぐに手配して、政庁の印刷工場で働いている労働者に必要なアクサンつきの活字を盗みださせたという。現地の人たちは自分たちの唯一の味方であるこのフランス語の新聞を、危険をおかしてでも守ろうとしたのである。
 アクサン付きの活字を盗んできた労働者は次のように語ったと、マルローは新聞「プティ・パリジャン」のジャーナリスト、アンドレ・ヴィオリスの『S.O.S.インドシナ』(André Viollis: Indochine S.O.S. NRF、1935)に寄せた序文で書いている。
 「もし私が泥棒として逮捕されたら、ヨーロッパの人たちに伝えてください。ここでなにが起きているかを知らせるために、私たちはこうしたことをしたのだと。」
 マルローたちの新聞は11月初めに再刊された。新聞のタイトルは「ランドシーヌ」ではなく、「鎖につながれたランドシーヌ(L'Indochine enchainée)」であった。活字は香港から送られてきたものでは足りなかったので、不足分は木版活字を使い、小文字のエル“l”の代わりに、大文字のアイ“I”を流用するなど、苦心して紙面をつくった。
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by monsieurk | 2013-09-28 22:28 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)
 「ランドシーヌ」の論敵は、最大の発行部数を誇る「ランパルシアル(公平)」紙だった。同紙はマルローがクメールの宝物を盗み出した前科者で、そんな男が新聞を出すことを許していいはずはないと主張した。これに対して「ランドシーヌ」は、6月29日付けの紙面で、マルローとシュヴァッソンにたいする破毀院の判決では検察側の上告が破棄され、両名の無罪が証明されたと書いた。「ランパルシアル」は判決については沈黙したが、その代わりに攻撃の目標としたのが、パンルヴェ首相とのインタビュー記事だった。
 同紙主筆のシャヴィニーは、パリの知人に首相に直接会って真意を糺すように依頼し、その報告が届いたのは7月6日月曜日のことであるとし、パンルヴェ首相はマルローやモナンへの協力を否定していると主張した。7日の紙面には次のような記事を掲載した。
 「サイゴンの新しい新聞について、首相はモナン=マルローの策動のすべてを、関知していないとはっきり述べた。名前を使うことを許したことはなく、許可なしに用いるのを拒否するとパンルヴェは語った。このような事件にかかわりあいを持ったことはないと言明し、その旨を発表する許可を筆者にあたえたのである。」
 この記事は、首相はインタヴューに応じていず、記事が捏造されたような印象をあたえるものだったが、それがシャヴィニーの狙いであった。マルローは神殿の彫像泥棒であり、詐欺師である。そして今またサイゴンで新聞を出して民心を混乱させようとしている。
 「ランドシーヌ」側も同じ7日付けの紙面で反論した。まずパンルヴェ首相の件について、マルローはこう説明した。「ランパルシアル」からの問い合わせがあったとき、「ランドシーヌ」の会見記事はまだ首相の手元に届いていなかったために、そうした発言――「ランパルシアル」が伝えたことが事実だとして――になったのであろう。「会見記事が首相に届けば、首相からは同感と感謝の言葉がくるはずである」。そしてマルローは事実を証明するために、会見記事の原稿〔パリの特約記者が送ってきたもの〕の写真をサイゴンの目抜き通りのショーウィンドに張り出した。
 翌8日には、シャヴィニーに宛てた公開書簡が掲載されたが、これには「アンドレ・マルロー、山師にして有害なジャーナリスト」と署名され、シャヴィニーの漫画が添えられていた。マルローはこの辛辣な記事でシャヴィニーの前歴をすっぱ抜いた。
 それによると、シャヴィニーはサイゴン生まれの混血児で、父はセネガル人とフランス人の間に生まれた男で、母はアンナン(ヴェトナム)人だった。彼自身も最初はアンナンの女性と結婚して6人の子を得たが、のちには妻子を捨ててフランス人女性と再婚した。
 第一次大戦末期に召集されると、6人の子どもの養育費を仕送りしているという理由で出征をまぬがれようとしたが、嘘と分かって出征の船に乗せられた。しかし病気と称してセイロンで下船し、首尾よくサイゴンへ舞い戻った。その後は保守派の政治家にとりいって新聞をつくり、コニャックが副総督として赴任してきてから、彼の資産は倍増した。こうした男が、自分〔マルロー〕を「祖国の裏切り者」呼ばわりするのである。だが彼こそ「グロテスク」で「臆病者」だと、マルローは罵倒した。
 相手側も黙ってはいなかった。彼らはマルローとモナンに、「危険なボルシェヴィキ」のレッテルを貼って購読者の不信感をあおった。このころフランスの植民地では三つの反植民地運動が台頭していた。一つはフランス領モロッコにおける、アブドル・エルクリムが率いるリーフ人の反乱であり、他の二つはインドシナを舞台にしたものであった。アンナンの知識人には、インドでガンディーが実践する非暴力の運動に共鳴するものと、中国で進行しつつある革命から大きな影響をうける人たちがいた。とくに北のハイフォンとサイゴンには多くの中国人がおり、教育をうけたアンナンの人たちは大抵中国語の読み書きができた。
 マルローたちが「ランドシーヌ」紙を創刊する1カ月前には、上海で五・三〇事件がおこり、ストライキの波は中国各地に波及していた。こうした機運はサイゴンにも即座に伝わってきた。ただモナンやマルローの立場は、「ランパルシアル」紙がいうような「ボルシェヴィキ」を容認するものではなく、あくまで植民地インドシナの現状改革をめざすものであった。
 事実モナンは第3号(6月19日号)で、中国での事態をボルシェヴィキの策動によるものと考えるのは誤りである。中国の民衆はマルクシズムなどまったく知らず、もっぱら外国の銀行家と、中国民衆のことより自分の懐のことしか考えない者たちに対する、民族的怒りから立ち上がったものだと論評した。サイゴンのショロン地区にいる中国人商人層は国民党を支持しているが、彼らは労働者でも農民でもなく、国民党の最終目的が中国の共産化にあるなら、それを支持するなずはないと述べた。
 しかし「ランパルシアル」の7月17日の紙面には、「ポール・モナン、中国のボルシェヴィキに売る」という大きな活字が躍った。記事の内容は、サイゴンで開かれた国民党の集会で、ある者が、「中国人とアンナン人は、帝国主義者とくにフランスにたいして黄色人種を立ち上がらせるべく準備をしなければならない」と発言した場に、モナンも出席していたというものであった。そしてこの日以降、連日のようにモナン攻撃の記事が続いた。「インドシナのボルシェヴィキ」、「モナンの影響の新たな現場」、「階級闘争の組織」などで、モナンが国民党の買収されたエージェントで、「ランドシーヌ」紙はその宣伝機関であるとの印象を植えつけようとするものだった。
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by monsieurk | 2013-09-26 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)
 総督が空席の状態では、副総督のコニャックが植民地インドシナの最高権力者であった。彼は副総督に就任した際の最初の声明で、「この国に知識人は不要である」と語っていた。マルローの論説が「ランドシーヌ」紙に掲載されると、コニャックはさっそくマルローを呼びだして、最初は穏やかに切りだした。モナンは危険な男で、総督府にたいして陰謀をくわだてている。それを阻止するのに協力してほしいと頼んだという。
 マルローが拒否すると、今度は金を出すともちかけ、これにも乗らないと態度を一変させた。「『ランドシーヌ』は不穏な文書であり取り締まるつもりだ」、「政治についての自由な論争は、民度の低いこうした国では危険である。住民はなにが真に大切かを理解できない。社会変革を望むのなら、君はなぜモスクワへ行かないのか。コーチシナのフランス人は、秩序、すなわち総督府を支持している。君がいくら種をまいても、この国では実らない」と語り、さらに今後は監視をつけるとして、「コーチシナ全土が私の支配下にある。いつまでも強情をはるつもりなら、最後の手段も準備してあるのだ」と脅迫した。
 実際この言葉の通り、コニャックは「ランドシーヌ」紙を購読する者は投獄するといって現地人を恫喝し、治安警察をマルローとモナンの身辺に配置した。モナンがのちに「鎖につながれたインドシナ」紙で暴露している話だが、モナンがある夜目をさますと、私服の一人が剃刀を手にして、蚊帳のなかに入ろうとしている姿が見えた。殺す気ならチャンスは幾らでもあったのだから、威嚇が目的だったというのである。
だがこうしたあからさまな脅迫にもめずに、マルローたちは新聞を出しつづけた。1925年7月4日付けの第16号の記事――

 「アンナンの努力はいかなる現実の上に支えられるか・・・・

 あなたが昨日私に送ってこられた手紙に表明されている思い、さらにこの一週間、毎日のように、チョドックからバックリュまでのあらゆる地方、南アンナンを含むあらゆる地方の、未知のアンナン人から受け取る手紙に表明されている思いがある。それはフランス文化が育んだ、若い熱心な知識人が発する疑問である。彼らは現状に不満をもち、苦しんでいる。それは現状にたいする以上に、自分たちのエネルギーに方向と目的を与えられない苦みである。
 これこそあなたのご意見の中心にあるものだと私は考える。こうした不正があなたの心を傷つけ、自らの意志を持ちつつある国で、ある種の態度が堪えがたいものに思えるのは、それを阻止する術が分からないからだ。
 ここのところをよく理解する必要がある。アンナンをフランス領インドやアンチーユ諸島のように、二種類の人間〔フランス人とアンナン人〕が、平等〔の原則〕に立って生きることができる自由な国にするには、あなたの前半生が犠牲になるのはやむを得ないことかも知れない。そうやってこそ、あなたは真のアンナンをつくりだすことができるのだ。だがそれを目にするのは、あなたの子どもたちの世代だ。
 フランス人とアンナン人が真の相互理解に達するのに必要なのは、われわれフランス人が、〈ハッタリの宣伝〉と呼ぶものを完全になくすことである。フランス人は文明を拓くのではなく、アンナン人の労働によって金を稼ぐためにここにやって来た。それを隠すものはなにもない。
 正当に獲得された諸権利は護られるべきである。しかしだからといって、今日確立されている奇妙な作術の数々が正当化されるということは断じてない。
 『アンナンの人たちは、政治行動によって、彼らの権利要求をフランスに知らしめ、満足を得ることが出来るだろうか』と、あなたは問われた。
 そうした行動は行われるかも知れない。だが用心すべきは、それが不確実だという点だ。権利の名のもとに主張が聞き入れらても、短期間で終わってしまうなら誰が危険をおかしてそれを願い出るだろうか。
 あなたは粘り強く・・・一般の行政官以上に粘り強く発言することが必要だ。そして耳を傾けさせなければならない。あなた自身の正義の名のもとに、ここの人びとの権利が損なわれないようにする必要があるのだ。
 それにはまずは行政府の偏見こそ攻撃すべきだ。高官がその肩書通りに名誉なものと考えるなら、その下の職など狙っても意味はない。アンナン人の家では、それがなんであれ技術者の方が行政府の秘書よりもよいことを知っている。だがアンナン人の技術者は存在していないのだ。だから20年後には、多くの技術者が出るようにならなければならない。息子たちを技術者に、建設技師に、医者にすること。まずなにより農業技術者を生み出すこと、そのために彼らをフランスに送るのだ。もしそれが阻まれるなら、われわれは見逃しはしない。
 その上で彼らを職業ごとに結集するのだ。そうして出来あがったペアーから選ばれた50人の人材にアンナンの運命を託すのだ。商工会議所が精力的な人物に指揮されているときは、彼らが行政府に自分たちの意志を押しつけるのを忘れてはならない。それはこれまでに幾度もあったことだ。
 商工会議所がコーチシナの米の収穫のすべてを牛耳っているときに、どうやって農業組合をつくることができるか。
 それにはこう答えることができるだろう。
 『もし組織的に自由なフランス人の声が封じられるなら、議会が耳を傾けようとするわれわれの要求が、選ばれた数人によって永遠に〈拒否〉されるなら、学校も持てず、行政と司法の分離も行われず、われわれを苦しめる行政の圧力が働き続けるなら、もしわれわれが自由にフランスへ行くことが出来ないのなら、1週間後にはインドシナのすべての農作業は中止されるだろうと。そういうことが出来るだろう。』
 インドでの非暴力同様、この行動にはいかなる暴力も含まれない。自由なフランス人はみな、あなた方に同意する。なぜなら、それ〔労働の中止〕は、あなた方の労働に基づくものなのだから。
 しかしそれは多くの犠牲と長い時間を要するだろう。そして恐らく、私の答えはいささか性急で、砂上の楼閣の感なしとしない。
                アンドレ・マルロー」(L'Indochine 紙第16号、1925年7月4日)

 このマルローの記事を補足するように、盗掘事件でシュヴァッソンの弁護をつとめたルイ・ガロア=モンブランとのインタビュー記事が2日後に掲載された。ガロア=モンブランはそこで、この地に27年間滞在した経験から、総督府の行政は腐りきっており、吸血鬼たちはこの国の生き血を吸いつづけていると証言した。
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by monsieurk | 2013-09-24 22:26 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)
 ポール・パンルヴェ(Paul Painlevée) は著名な数学者兼物理学者で、微分方程式や解析関数の分野で業績があり、物理では流体力学の権威として航空機の発達に貢献した。そのすぐれた仕事が評価されて、1896年には最高学府コレージュ・ド・フランスの教授に就任し、1900年には科学アカデミーの会員に選ばれている。その後政界に転じた彼は社会共和派に属して、第1次大戦がはじまると陸軍大臣となって戦争を指揮した。その後1916年6月から翌17年11月までは首相の座にあった。
 そのパンルヴェが首相の座に返り咲いたのは1925年のことである。それまで左翼連合内閣を率いたエドゥアール・エリオは文人政治家として有名で、国際政治の面ではフランス軍のルール撤退やソビエト連邦を承認するなど数々の実績を重ねたが、内政面では財界の反対にあって改革の実をあげることができなかった。そしてこの年春の総選挙の結果、社会共和派のパンルヴェが政権を引き継ぐことになったのである。
 パンルヴェは首相就任の2カ月前、マルローたちが発刊を予定している新聞とのインタビューに応じたのだった。マルローとモナンは新聞の1面にフランス本国の著名人との対談記事を載せる方針で、その第1回目に選んだのが次期首相が濃厚といわれたポール・パンルヴェであった。彼らの目論見はみごとに当たり、インタビューのあとで彼が首相となり、結果として首相が新たに植民地インドシナで刊行される新聞の門出を祝福する形となった。
 インタビューは創刊号の第1面トップに、「われわれの目論見に、首相パンルヴェ氏が考えること」のタイトルで、パンルヴェの似顔絵とともに掲載された。パンルヴェは元々は教育者であり、インタビューのなかで、「フランス人とアンナン人との協力体制の確立こそがわれわれの急務である」と語って、マルローとモナンの方針を支持するような意見を述べていた。
 これは副総督コニャックにとって捨てておけない事態だった。自分を露骨に攻撃している新参の新聞を新首相が支持している。しかもこの時期、インドシナ総督は空席であって、次ぎの総督を誰れにするかは未定だった。発行部数が伸びている「ランドシーヌ」紙の影響力は無視できなかった。
 パンルヴェはまたインタビューで、「教育、共通の教育は、さまざまな人種の同化にとって最良かつ完全な方法である。精神の相互参入なくしては理解も同意もあり得ない・・・われわれの教育のあらゆる段階が、アンナン人にたいして開かれていなければならない。・・・フランスと現地の新聞は、自らの意見を表明する自由を持つべきである」とも語っていた。
 しかしパンルヴェがこのときインドシナの現状にどれほど通じていたかは疑問である。たとえば教育についていえば、インドシナ全体で2000万人を数える子どもたちのための学校は、ほんのわずかあるにすぎなかった。しかもそのほとんどはカトリック教会がつくったミッション・スクールであった。大学はハノイに1校あったが、その卒業資格はインドシナだけで通用するものであり、フランス本国では有効と認められなかった。しかもフランスへの留学は、たとえ経済的に余裕のある者でもほとんど不可能という状態だった。第一海外へ旅行することさえ膨大な書類を必要とし、極端に制限されていた。それでいて第一次大戦のさなかには10万人の現地人が兵士や労働者として徴用され、あるいは「志願兵」としてフランス本国や戦場におくられたのである。
 政治の上でも植民地の権限は極端に制限されていた。フランス本土の議会には、インドシナ全体を代表する国会議員が1名選出されたが、有権者はフランス人4000人(クララの回想による)に限られ、しかもそのうち3000人は行政関係の役人であった。
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by monsieurk | 2013-09-22 22:29 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)
 マルローとモナンがインドシナで発行した二つの新聞、「ランドシーヌ(L'Indochine)と「鎖につながれたランドシーヌ(L'Indochine enchainée)」をはじめ、当時、植民地インドシナで刊行されていたフランス語の新聞の多くはパリの国立図書館に所蔵されているが、その多くがマイクロフィルムに復刻されて読むことができる。その後プレイヤード版マルロー全集第6巻「エッセー」(André Marlaux:Essais,Vol.6,Gallimard, 2010)に収録され、さらに最近立ち上げられたインターネットのサイト、Site littéraire André Marlaux(http://www.marlaux.org)に登録すると、マルローが書いた記事はネットを通して読むことが可能になった。
 当時サイゴンで発行されていたフランス語新聞のうち最大のものは、アンリ・ド・ラシュヴロティエールが経営する「ランパルシアル(L'Impartial・公平) 」紙で、固定読者は1800人であった。このころインドシナにいたフランス人は4000人とされるから、凡そ半数を読者にしていたことになる。もちろん新聞の読者にはフランス語が読める現地の人たちも含まれていたが、それはごく少数の知識階級にすぎなかった。
 発行部数でいえば、2番目は「オピニオン(L'Opinion) 」紙で読者は1200人。3番目が「サイゴン通信(Le Courrier Saigonais) 」の400人で、このほかに現地人が発行するフランス語の新聞が3紙あり、残りの購読者を分けあっていた。
 1925年6月17日に「ランドシーヌ」紙が創刊されると、新聞「サイゴン通信」は1面に、「新しい新聞の永遠と繁栄を祈る」と祝辞を載せた。この新聞は1888年の創刊と歴史もあり、保守系だが植民地を支配するフランス行政府とは一線を画していた。マルロー裁判のときも中立的な姿勢を保った。
 だが一度は歓迎記事を掲載した「サイゴン通信」が、翌日には「祝福は取り消す」という訂正記事を掲載したのである。これには裏の事情があって、マルローたちの新聞が創刊される直前、新聞は副総督モーリス・コニャック(Maurice Cognacq) の友人であるジャン・ド・ラ・ポムレーに買い取られて、政府の御用新聞となっていた。ド・ラ・ポムレーは商工会議所会頭でホテル協会の会長もつとめ、インドシナでの酒類の独占販売権をもつ蒸留酒製造業者協会の事務局長でもあった。植民地体制に反抗的な姿勢を明確にする「ランドシーヌ」紙にエールを送ったことに激怒したド・ラ・ポムレーは、ただちに記事の取り消しを命じたのである。こうした状況から判断すると、祝辞は現地人の編集局員が責任者には内緒で勝手に載せたのではないかと思われる。いずれにせよ、1面に載った歓迎記事が一夜にして引っくり返るというのは、いくら植民地インドシナのこととはいえ前代未聞の出来事だった。
 この事件をきっかけに、マルローたちと「サイゴン通信」紙との対立は、彼らの新聞が廃刊となるときまで続くことになる。論争を買ってでたのはもっぱらマルローで、しかも攻撃の的としたのは新聞の編集長よりも社主のド・ラ・ポムレーであった。
 ド・ラ・ポムレーは植民地経済を食い物にして富を増やし、その力でフランス人社会を牛耳る典型的な人物で、サイゴン市の演劇や演奏会の企画委員も兼ねていた。その彼が演劇と音楽会開催のために計上された総督府予算のうちの8万ピアストルを着服し、そのためにサイゴンのフランス人社会では数少ない楽しみである芝居と音楽会が、この年には開かれないという事態に陥った。マルローは創刊して間もない新聞で、さっそくこれを問題にした。6月18日付けの第2号には次のような記事が載っている。無署名だが、風刺をきかせた文体から見て、筆者はあきらかにマルローである。

 「ジャック・トゥルヌブロッシュからジェローム・コワニャールへの第一の手紙

 ・・・多くの出会いが私の人生を彩ってきました。祖国フランスでの美しく、不思議な出会いについてはすでにお話しました。でもツグミがしゃべり、女がパンタロンをはくこの不思議な土地での出会い、祖国でのものよりよほど素晴らしい出会いについては、まだお話しておりません。
 師よ、わたしは今日は、ジュムノット(Je-Menotte、私ハ手錠ヲカケルの意味) 総督についてお話したいと思います。
 私が彼に会ったといって大騒ぎすることはありません。じつは私の方から彼に会いに行ったのです。あなたに教えられた人間への無私の愛と、私の本質であるナイーヴさにつき動かされて、会いに行ったのです。・・・私の心は好意に溢れていました。私はこの高官に、控えめな調子で話かけました。思い上がるどころか、文人に相応しい、もったいぶった親密さをとることを自分に許しさえしたのです。
 『総督閣下』と私はいいました。『罪はあなたにあります。傲慢さがあなたに最悪の決心をさせたのです。あなたはやがて困ることになりましょう』
 私はこう言いました。彼はびっくりして私を見つめていました。私を気がちがったと思ったのか、私にそのまま続けさせました。
 『あなたが抱えこんでいる誤りを片づけるには』と私は続けました。『あなたはブドウ酒の味と放蕩とで寛大さを持つようになった、尊敬すべき聖職者のお一人の方針を信ずればいいのです。つまり、わが師ジェローム・コワニャールの方針です。それこそあなたが参考にすべきものです。閣下、師のもったいぶった態度は比類ないものです。師の神聖な生き方が、すべての汚れをぬぐい去るものではないにしても、師は比類ない優雅さで、それを悔いることで消し去ったことを知るべきです』
 ・・・・・・・・
 これにたいしてジュムノット総督はこう言いました。
 『秩序の原則、これまで君が行動するにあたって用いてきた秩序の原則は、仮面にすぎないことは皆が承知している。この国でそれを望まないものがあろうか。政治にたずさわる者はすべからく管理しなければならない。選挙に干渉するのは、この国の経済的将来に不安があるからだ。この国の将来など憐れな空想にすぎん・・・
 ・・・お前は投票所を苦境にある黒人たちの争いの場に変えることを知っている。・・・お前は、インドのフランス人たちが、お前が彼らの投票用紙を揃えるのを見て喜ぶとでも思っているのか。
 アンナン人については、君は彼らにどんな感情を吹き込んだのだ。彼らはお前を見たときと同じように、私にとっても大きな驚きだった。息子よ、君は他人ほど醜くはない。君の容貌、愛嬌のあるその上を向いた鼻からも、君が自らに暴力を振るうという評判は理解できなかった。』
 ここまで言うと、総督は私を扉のところへ連れていきました。私はまたすぐ窓から入って行って、彼が唖然としているのを幸い、こう続けました。
 『じつのところあなたが代表している原則とは権威のそれです。あなたの権威です。そんなものに興味はありません。秩序をもたらさない権威は馬鹿げています。しかしわれわれが教育したアンナン人たちが沈黙する権利しかもたないと思うのなら、彼らを叫ばせるためにどんなことをしようというのですか。』」(L'Indochine 紙第2号、1925年6月18日)

 「ランドシーヌ」は6月20日付けの第4号からは有料とし、1部10サンチームで売ることにした。はたしてどのくらい売れるか不安だったが、心配はすぐに吹き飛んだ。新聞は現地の知識人に大歓迎されたのである。
 マルローはこの第4号では、政庁からの援助金の割当をめぐってシャヴィニーとド・ラ・ボムレーが決闘するという記事を載せた。マルローの先制パンチはさらに続いた。6月22日付けの紙面では、サイゴン港の開発にからむ行政府の不動産汚職をあばき、さらにハノイのインドシナ総督府に宛てた公開書簡を載せて、自分たちの新聞の講読予約をしようとする現地人読者にたいして、コーチシナの多くの地方で行政府から圧力が加えられていると告発した。
 さらに6月25日付け第8号には、「ジュムノット氏へ」と題された次のような記事が掲載された。これはマルローが書いた2つ目の論説で、このとき初めてA.M.と署名がなされている。

 「あたなたが私に与えてくださった恩恵に、お礼を申し上げるのが遅くなってはなりません。あなた方の学校で習った自然な品位と礼儀正しさを完璧に身につけた者として、ただちに賛辞を表明したいと望むものです。
 ・・・・・
 あなたは本当に偉大です。それはあなたの最大の長所です。ポリ公たちが活躍する小説を読んで成長したあなたは、いまも彼らの気質を少しは保っておられる。あなたは過日、あの有名な悪漢小説をわたしに貸してくださった。あなたはたしかに偉大です。だがあなたの手はいささか汚れている。・・・
 あなたは気に入らない新聞をボイコットさせる術などご存じないでしょう。そんなことは下僕のやることで、およそ総督のなさることではありません。勿論あなたはなさらないでしょう。
 あなたは統治しているのです。あなたはご自分が面白い人物で、秩序を守らせているが故に愛されていることを、フランス人に知らしめました。市議会はあなたを賛美していると申される。植民地議会も同様だと。
 ・・・・・
                A.M.」(L'Indochine 紙第8号、1925年6月25日)

 翌26日の第9号の1面には、今度はポール・モナンが、「インドシナがこれまで目にしたこともないような不出来な役人」を標的にした、「無秩序,不平等,アナーキー」と題する論説を書いた。攻撃相手の名前は伏せられていたがコニャックを指しているのは明らかである。

 「ラ・ポムレー某やダルル某の手に握られている商工会議所が、どうなったかは周知のことである。闇の一団は市参事会を握ろうとした。だがこのくわだてはルエル市長の強烈な個性と衝突して頓挫した。一方植民地参事会の方は籠絡され、買収されたのである。・・・髭を生やした貪欲な鼠(ベルナール・ラバスト)は、決まった任期より17カ月も長く農業会議所の会長の座にしがみつき、その魂を売り渡した。彼は地位を利用して13万ピアストルもの不当利益をあげた。いったい共和国政府は、いつまでこの国のモラルを低下させ続けるのか。いつまでこうしたスキャンダルを放置しておくのか。」(L'Indochine 紙第9号、1925年6月26日)

 副総督のモーリス・コニャックを怒らせ、危険を感じさせたのは、こうしたモナンの直截な弾劾やマルローの風刺のきいた記事ばかりではなかった。創刊号の第1面に掲載された首相ポール・パンルヴェとのインタービューも、彼の地位を危うくする点では同じであった。こうして当局からの圧力はマルローやモナンの編集部だけではなく、印刷所や新聞販売店にまでおよぶことになった。
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by monsieurk | 2013-09-20 22:29 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)
 1920年代のインドシナで、現地人による最大の政党はコーチシナ立憲党だった。党の創設者であるグエン・ファン・ロンは、「安南人の木霊(L'Echo annamite) 」紙を経営していた。彼は第2次大戦中フランスに亡命し、戦後は一時バオ・ダイ帝のもとでヴェトナム政府の首相をつとめることになる。
 コーチシナ立憲党の創設に当たっては、グエンのほかに地主で農業技師のビュイ・クアン・チュウと弁護士のドゥオン・ヴァン・ジャオが協力した。党首だったビュイ・クアン・チュウは1917年以来、「トリビューン・アンディジェーヌ(La Tribune indigène) 」紙を刊行し続けていた。モナンの周辺にいた有力な現地人はこうした人びとである。
 彼らは総督府のやりかたを激しく非難したが、思想的には穏健派で、要求したのはフランス人とインドシナ人の平等だった。彼らはフランスの支配とともに新しく生まれた地主層出身の知識人で、この時点ではインドシナの独立を要求しているわけではなかった。
 第一次大戦後、インドシナでも西欧化されたインテリ階級を中心に、政治参加、基本的自由の行使、新聞の発行、外国への移動の自由、フランス本国の大学への入学の機会を求める声があがった。これには隣国中国での革命運動の影響があった。
 孫文が率いる国民党の行動はは周辺に大きな波紋をおよぼし、インドシナのナショナリズムも盛んになった。中国国民党はインドシナにも勢力をのばし、サイゴンの中国人街ショロン地区に支部をつくり、代表を置くとともに学校も開いた。こうした情勢のなかでインドシナでは、若いインテリを中心に「若いアンナン」の運動が組織されたのである。
 植民地インドシナでの権利拡大の動きを勢いづかせたもう一つの要因は、本国フランスで行われた1924年の総選挙で、左翼が政権の座についたことである。マルローとモナンはこうした盛り上がりを背景に、サイゴンで新聞を発行する決心をした。
 この年6月15日、パリの最高裁判所はバントアイ・スレ事件に関して、原判決を破棄して第2審に差し戻すという判決を下した。これは事実上の無罪判決を意味した。そしてこれより前の4月、中国国民党による孫文追悼の記念集会がショロンで開かれ、これをきっかけにマルローは国民党へ入党することを決意した。
 5月中旬、モナン、マルロー、クララの三人はショロンでの昼食会に招かれた。招待したのは国民党のメンバーだった。これはマルローたちにとって忘れられない経験となった。赤、緑、金の幕が張りめぐらされた部屋で、三人は大きな卓に座らされた。招待の目的は全インドシナの国民党の支持者から寄せられた基金を、モナンへ正式に手渡すことであった。その上で三人は国民党の正式なメンバーとして受け入れられたのである。
 席上、モナンがまずスピーチをしたが、彼はそのなかで、最近ロシアとドイツの政府が中国でもっている領土上の特権を放棄したことを称賛した。ついでマルローが立ち上がり、「私たちはともに新聞をつくろう、ともに闘おう。私たちの目的がまったく同じだと考えるのは、おそらく茶番だ。だが私たちに隊列を組ませるもの、私たちを結びつけるもの、それは私たちの共通の敵である」と語った。
 インドシナに在住する中国人から寄せられた基金は、マルローがパリで契約を結んだアシェット社やファイヤール出版に払い込まれて、新聞を出す条件が整った。さらにクララはシンガポールに赴いて、英字新聞の二人の編集人と会い、記事を転載する許可を得ることに成功した。
d0238372_20523760.jpg こうして彼らの新聞「ランドシーヌ(L'indochine) 」は、1925年6月17日に創刊された。題字下には、「フランスとアンナンの親善のための日刊新聞」とあり、マルローとモナンの名前も書かれていた。印刷はルイ・ヴィンが経営する印刷所で行われ、3号までは無料で配布された。発行責任者は年長のジャーナリストのドジャン・ド・ラ・バティ。彼の父親はフランス本国からこちらへ派遣された全権公使で、母は現地人という混血児だったが、フランス国籍を持ち、投票権もあった。当時の法律では、インドシナで新聞を発行するには政府の許可が必要であり、発行責任者の名前を最終頁に記すことが義務づけられていた。それに発行責任者はフランス市民である必要があった。公使の息子からの出願では、総督府も拒否することはできないというのが、バティを担ぎだしたマロルーとモナンの狙いだった。
 「ランドシーヌ」の発行部数は5000。創刊号第1面の中央の囲みには、「ランドシーヌ紙はあらゆる人に開かれた自由な新聞で、銀行や商業グループなどいかなるものとも関係がない。原則として寄稿者の気質を尊重するものである。・・・論争は辛辣に、穏健には穏健をもってする」という宣言が書かれていた。
 第1面では、植民者と現地人の格差の解消こそが、インドシナ政策の原則であるべきだと主張した。これはモナンやマルローの当時の考えを反映しており、彼らの立場はコーチシナ立憲党の人たちに近いものであった。
 「ランドシーヌ」は最初6頁建てで、記事の内容についていえば、第1面が論説と政治記事。2、3面は外電が占め、4面にはインドシナ各地のローカルニュースが載っていた。5面は「エリートの頁」と題して本国の新聞や通信社から買った記事に加えて、ロシアの文豪レオ・トルストイの未発表の小説や、外交官で詩人のポール・クローデルとの対談など内容は充実している。6面は文化面で、しばしば中国やその他アジア各地の都会や名所を写真入りで紹介する記事が掲載された。
 6月22日(月曜日)の第5号からは2頁増えて全8頁建てとなったが、増えた分は広告にあてられることになる。
 新聞の印刷は活字をすべて手で拾う旧式な方式で、編集室代わりのモナンの家の一室は熱気がたちこめ、天井でまわる大きな扇風機も役に立たなかった。クララはこの初号の印刷の様子をこう述べている。
 「ゼロ号〔見本号〕は一度組まれ、崩され、また組まれた・・・暑かったが、それでも私たちの作業はゆるまなかった。だが手の湿気で紙がのびてしまう。活字の組版や、活字がつまった箱は、天井に開けられたガラス窓の光で照らされていた。ヴェンチレーターはまったく役にたたなかった。」
 創刊号の印刷が終わったのは午後5時すぎである。日中の暑さがようやく和らいだこの時間に、モナン、マルロー、クララ、それにヴィンたち現地人の協力者は、刷り上がったばかりの新聞をかかえてキオスクや書店へ配ってまわった。ようやく念願の新聞が出せて、みなが幸せだった。
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by monsieurk | 2013-09-18 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)
 パリに戻ったマルローは、その足でオルレアンにいる父親を訪ね、再度インドシナに渡って新聞を出す計画をうち明けた。父はもし本気でやるなら一度だけ5万フランの資金を出すことを約束してくれた。こうして計画は実現へむけて動きだした。
 マルローは新聞社や雑誌社をまわって、サイゴンで出す予定の新聞に記事を転載する権利をもらう交渉をした。その結果、「スポーツの鏡(Le Miroir des Sports)」、「鎖につながれたアヒル(Le Canard enchainé)」、「挿画入り日曜新聞(Dimanche illustré)」などと契約が成立した。
 年が改まった1926年、2度目のインドシナ行きの準備をしていた1月12日、出版社を営むベルナール・グラッセから一通の電報が届いた。至急面談したいので訪ねて来てほしいという内容であった。翌13日、マルローが彼の事務所を訪ねると、グラッセは以下の条件で出版契約を結びたいと提案した。条件とは、マルローが3冊の本をグラッセのために書く。それぞれの初版発行部数は1万部。著者は最初の本が出版された時点で1万フランを手にする、そのうちの3000フランは契約が成立した時点で支払うというものだった。
 このときの3000フランは米ドルにして凡そ200ドルの価値があり、インドシナ行きを直前にしたマルローにとっては願ってもない申し出であった。契約はその場で交わされたが、グラッセの申し出の裏には、マルローの才能を買い、裁判でも支援してくれたフランソワ・モーリヤックの口ききがあったとされる。出版人として独特の勘をもっていたグラッセは、マルローがこれまでに発表した、『紙の月』や『キュビスムの詩の起源』は評価しなかったが、「遺跡泥棒」としての彼には大いに興味をそそられたのである。そこにモーリヤックの勧めもあって、この冒険家らしい若者の将来に賭けてみる気になったというのが真相であった。
 マルローとクララはグラッセと契約をすませたその足でパリを発ち、マルセイユに向った。マルセイユではちょうどインドシナへ向けて出航する船があり、その船をつかまえるという慌ただしさだった。
 シンガポールで約束通り父からの5万フランを銀行で引出し、汽車でクアラルンプールを経由してバンコクまで行った。マレー半島を南から北へ縦断するこの旅は、アジアの人びとの現実を知るまたとない機会となった。
 バンコクからは、季節風で波立つシャム湾を船で渡り、サイゴンへ入港したのは2月中旬である。マルセイユを発ってほぼ1カ月が経過していた。サイゴン港の埠頭にはポール・モナンが出迎えにきてくれていた。
 ここでその後マルローに大きな影響をあたえることになるモナンについて、少し触れておきたい。モナンはリヨンのブルジョア家庭に生まれ、第一次大戦が勃発するとすぐに戦線に身を投じた。このとき18歳だったという。戦場でのモナンは災難つづきで、幾度も負傷し、とくにヴェルダンの攻防戦では頭に重傷を負った。この傷からは奇蹟的に回復したが、以後は杖をつく生活を余儀なくされ、1917年には妻と生まれたばかりの子どもを連れてインドシナに渡った。彼がなぜ植民地での生活を選んだのか、その理由は定かではない。
 サイゴンではじめは植民地総督府に勤務していたが、1923年ころに弁護士事務所を開いた。彼の雄弁さと才能は誰の目にも明らかで、弁護士としてたちまち頭角をあらわした。その上、彼はコーチシナ植民地評議会の議員に立候補して評議員に選ばれ、サイゴンでは有名になった。モナンの政治姿勢は終始インドシナの原住民の味方であり、植民地でのフランス人の横暴と身勝手さを鋭く攻撃した。こうした彼の姿勢は現地の人たちを喜ばせたが、当然ながらフランス人の間には多くの敵をつくることになった。
 モナンは1924年初め、本国の国民議会で、コーチシナ選出の代議士に立候補したが、これが保守派のモナン嫌いをさらに助長する結果となった。保守派の新聞,なかでも「公平(L'impartial)」紙はモナン攻撃の急先鋒だった。同紙によれば、モナンはフランスへの裏切り者、共産主義者だった。彼の行動がそれを証明しているというのである。
 だがはたしてモナンは「公平」紙がレッテルを貼ったような革命の信奉者だったのか。実際には、ジャン・ラクチュールがマルローの評伝のなかで述べているように、彼は「社会を煽動することはなかった」し、彼にとって「植民地問題は、階級や構造やイデオロギーの問題ではなく、人間としての人格を尊重するかどうかの問題だった」というのが正確なところであろう。モナンがマルクシズムを学んだ形跡は見あたらない。
 1924年の冬の終わりか翌年の春、モナンはサイゴンからパリへ行ったが、それは植民地の最高行政議会である植民地評議会のメンバーとしてなのか、誰か市井の人物を弁護するためだったのかは分からない。そしてこの船中で、不起訴処分となったのを利用して、夫マルローとシュヴァッソンに対する支援活動を進めるために帰国するクララから声をかけられたのである。
 
 クララの自伝によると、マルローはある日クララにこう云った。「私と君は必要な資金が手に入り次第、サイゴインへ戻ろう・・・アンナンの人たちは自由な新聞を必要としている。モナンと私はそれを出そうと思っている」。保釈されて帰国したマルローはクララの紹介でモナンと会い、インドシナで新聞を発行したいとの希望を打ち明けたのである。モナンはその場でマルローの計画に同意した。
 このころマルローは、インドシナの新聞で、泥棒、インドシナの財宝を外国に売り払う悪徳漢と書き立てられていた。こうした新聞や総督府関係者に復讐するには、新聞を発行して反撃するしかなかった。新聞を発行すれば、単なる浮浪人ではないことを立証できるし名誉も回復できる。そして新聞を発行するには、モナンのようにインドシナ情勢に明るい人物の協力が是非とも必要だった。
 モナンの方も、「公平」紙以下の保守系の新聞にさんざん攻撃されていたから、新聞発行には賛成だった。考えてみると二人は絶妙のコンビだったといえる。一人は理論には強くないが、現実に明るい正義漢で弁護士。もう一人は作家を目指すインテリ。一方が集団的な行動を好むなら、もう一方は骨の髄まで個人主義が染み込んでいた。モナンがかつて新聞(「真実(Vérité) 」)を発行していた経験も役立つはずであった。
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by monsieurk | 2013-09-16 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)
 先に連載したブログ「小牧近江のヴェトナム」で触れたように、小牧とともにインドシナの独立を目標に尽力した小松清は、若くしてフランスの作家アンドレ・マルロー(André Malraux)と出会い、その影響でインドシナに関心を持ったのだった。
 今回からしばらくは、アンドレ・マルローがフランス領インドシナで刊行した2つの新聞を読むことで、彼が1920年代の植民地インドシナの現実にどう対応したかを跡づけてみることにする。この点については、拙著『若き日のアンドレ・マルロー 盗掘、革命、そして作家へ』(行路社、2008)にも書いたが、そのほかミッテラン大統領の下で文部大臣をつとめたジャック・ラングの『アンドレ・マルローへの手紙』(Jack Lang:Lettre à MALRAUX、塩谷敬訳、未来社、1999)でも触れられている。
 
 インドシナへ行く前のマルローは、美術と詩と冒険に熱中する若者で、政治への関心はほとんど持っていなかった。そんなマルローが植民地インドシナで行われている政治に強い憎悪を抱くようになったのは、ある裁判がきっかけであった。
d0238372_13656.jpg 1920年10月、20歳で、3歳年上のクララ・ゴールドシュミット(Clara Goldschmidt) と結婚したマルローは、その後定職に就かずに、妻が相続した資産と株の運用で生活を支えていたが、1924年に起こったメキシコ株の大暴落で財産をなくし困窮した。そのとき彼が思いついたのが、カンボジアの密林に埋もれた古代クメール王国のバントアイ・スレイ(Banteai-Srey、「女たちの避難所」の意味)の遺跡を発掘して、その浮彫り彫刻をアメリカの古美術商に売って金を儲けることであった。
 彼は少年時代にパリのギュメ美術館で仏像を見たときから、アジアの仏像芸術に強く惹かれ、独学で考古学を学んだ。国立図書館で専門書を読みあさったが、そんななかにクメール遺跡の専門家アンリ・パルマンティエ が、1919年に「フランス極東学院会報」第19号に発表した論文があり、これを通してバントアイ・スレイには密林に埋もれた石造寺院があることを知ったのである。
d0238372_1361818.jpg 彼は妻のクララとともに、1923年11月にマルセイユを出発、 船でシンガポールを経由してインドシナに向かい、サイゴンで小学校以来の親友ルイ・シュヴァッソンと合流した。その後ハノイの極東学院を訪ね、そこで必要な知識と助言と発掘許可を得て、カンボジアのジャングルを目指した。ジャングルを行く長く苦しい旅のすえに、バントアイ・スレイ神殿の遺跡にたどりついたのは12月中旬だったと思われる。
 そこで3日間を費やして7つの石像を外すのに成功し、湖岸の町シェムリアップから船で湖を渡ってプノンペンへ向かった。だが接岸前夜の12月24日夜、突然警察官の臨検にあい、600キロの石像を差押えられるとともに、三人は「記念建造物破壊および浮彫り断片横領」の罪で逮捕された。これがバントアイ・スレイ事件といわれるもので、彼らの逮捕は植民地インドシナはもとより、本国フランスや当時のニューヨーク・タイムズでも報じられた。
 彼らは半年近くプノンペンのホテルに軟禁されたあと、妻のクララは不起訴となったが、マルローとシュヴァッソンの二人は起訴され、裁判は半年後の1924年6月にようやくはじまった。裁判はプノンペンとサイゴンでの審理を経て、最終的には1925年10月に、マルローには懲役1年執行猶予つき、シュヴァッソンは懲役8か月、同じく執行猶予つきの判決が下った。彼らは上告する決心をすると同時に、一度はパリへ帰ることに決め、12月に出航する船に乗船してサイゴンを離れたのである。
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by monsieurk | 2013-09-14 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)

堀口大學とローランサン

 『長岡★堀口大學を語る会』の機関誌「月下」の第14号に掲載された、関容子さんの「大學先生と『日本の鶯』」には興味深いエピソードが語られている。それは大學とフランス人の画家マリー・ローランサンとの恋物語である。
 大學とローランサンの関係については、拙著『敗れし國の秋のはて 評伝堀口九萬一』でも書いたので、その部分を要約してみる。
d0238372_1655388.jpg ローランサンは1914年6月、ドイツ人の画家オットー・フォン・ヴェッチェン男爵(Baron Otto von Wätjen)と結婚し、新婚旅行をかねた旅行でスペインとの国境に近いアルカションにいたとき、フランスがドイツに宣戦布告して第一次大戦が勃発した。結婚してドイツ国籍となったローランサンはフランスにいることができず、二人はピレネー山脈をこえてスペインへの亡命を余儀なくされた。大學が傷心の彼女と出会ったのはそんなときであった。大學の父九萬一はこのとき駐スペイン公使でマドリッドにおり、大學も第一時大戦の戦火をさけて、父のもとで暮していた。
 大學はマリー・ローランサンについて幾つも文章を書いているが、その一つ「キュビズムの女神」によれば、その経緯は次のようなものであった。
 1915年(大正4)1月20日、大學は両親とともに、異母弟の瑞典の肖像を依頼するために、あるペイン人画家を訪ねたが、大學はこの画家の絵が気に入らなかった。そんなとき、そこに居合わせた知人の画家ペニャから、隣のアトリエで絵を描いているフランス人画家がいることを聞かされた。この日は会えなかったが、数日後ペニャの仲介でアトリエを訪問する約束ができた。
 「私は一人高い高い木造の階段を、私を待っている画室の方へ上がっていった。画室の前に立ち止って、私は呼鈴の釦に指を置いた。静かに中から戸が開いて中から水晶のように透明な顔をもった、未だうら若い女が姿を現わした。これが「キュビズムの女神」マリ・ロオランサン・ド・ワッツェン夫人であった。」
 この日はアトリエで絵に関するさまざまな話がでて、二人は同じ感性を相手に感じた。このとき大學は23歳、ローランサンは7つ年上だった。南国スペインとしてはうすら寒いこの一月の宵、大學は彼女が宿泊するホテルまで送っていった。
 その後大學はローランサンから絵を習い、アポリネールをはじめフランス現代詩人について、貴重な情報を彼女を通して教えられたのである。彼らは「エスプリ・ヌヴォー(新精神)」と呼ばれる一群の詩人たちで、大學は彼らの新しい詩の多くを『月下の一群』で訳すことになる。
 二人の交際は、ローランサン夫妻がバルセロナへ移るまで続いた。散歩の途中で雨に降られ、逃げ込んだプラド美術館でゴヤの《裸のマヤ》を見ながら、大學がぼくはこれを女の眼でまともに正視したかったと言うと、彼女は、あら私は男の眼で眺めてみたいわ、と言い返したという。
 ローランサンはパリにいたとき、ピカソやマックス・ジャコブと親しく交わり、詩人のアポリネールとは恋人同士だったことも打ち明けた。アポリネールは1911年にルーヴル美術館から《モナリザ》を盗んだ嫌疑をかけられ、逮捕、拘留される事件を起こし、これをきっかけにローランサンは彼の許を去ったが、アポリネールの方は彼女を忘れられず、その想いをうたったのが、名作「ミラボー橋」である。
 ところで、マドリッドでのローランサンと大學の関係はどれほど親密だったのか。関容子さんも、そのことをインタビューのなかで訊ねた。以下は関さんの話である。
 「今日はわざわざ葉山から堀口すみれ子さんもいらっしゃっていただいていて、先ほどびっくりしたり恐縮したりしたばかりで、ちょっとお父様の恋の話は話しづらくなりましたが、私が連載中〔『日本の鶯』の〕は先生はもちろんのこと、もっとお若い奥様も当然お元気だったので、先生は明治生まれの男として、過去の恋愛の話などを得々と話すものではない、という美意識をお持ちでした。それで私がいくら迫っても、答えをあやふやにしてお逃げになるので、私もそのうちにそのことを追及しなくなるのですが、(中略)それから聞書きの取材も進んで、マリーのことが話題に登らなくなったころ、先生は何となくそれが物足らなくなったのか、あるとき「こんな本がありますよ」と戦前に出版された『月光とピエロ』という詩集を貸してくださったのですが、帰りの横須賀線の中で開いた本のページを繰るうちに、ピタリと釘づけになったところがありました。それは「遠き恋人」と題された詩でした」と述べている。
 関さんの目にとまったのは、こんな詩である。

  その年月のことについては
  お前が私を愛し
  (桃色と白のお前を)
  私がお前に愛されたとよりほか、
  私には何も思ひ出せぬ。
  
  それで今私は思ふよ、
  この私にとつて
  生きると云うは愛することであると。
  すべて都合のいい
  日と夜とがつづいて
  何んなにその頃、
  二人が幸福であつたであらう!
  
  お前は思ひ出さぬか?
  あの頃私たち二人の
  心は心と溶け合ひ
  唇は唇に溺れ
  手は秒に千万の愛撫の花を咲かせたことを?
  
  お前はまた思ひ出さぬか?
  その頃私たち二人の云つた事を?
  「神さまは二人の愛のために
  戦争をお望みになつたのだ」と、
  こんな風にすべてのものが
  ――カイゼルの始めた戦争までが――
  二人の愛の為めに都合がよかつたのだ。
  お前は思ひ出さぬか?
  
  それなのに、それなのに、
  お前はここに居らぬ
  私は叫びたく思ふよ、
  『お前が目に見
  お前の手が触れたものは
  今でも私の周囲にあるのに
  何故お前ばかりが
  ここにをらぬのかと・・・』
  
 老詩人は慎み深さから、関さんに事実を告げなかったが、打ち明けたい気持との相克に悩んだあげく、詩集の『月光とピエロ』を貸すという形で真実を伝えたのである。
 関さんの聞き書きに「日本の鶯」というタイトルをつけたのは丸谷才一氏とのことだが、それは次のエピソードから採られたものである。
 堀口大學はある日アトリエからの帰りがけに、ローランサンから紙切れを手渡された。そこにはこんなことが書かれていた。

  この鶯 餌はお米です
  歌好きは生まれつきです
  でもやはり小鳥です
  わがままな気紛れから
  わざとさびしく歌います
  
  
     
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by monsieurk | 2013-09-11 22:29 | | Trackback | Comments(0)