ムッシュKの日々の便り

monsieurk.exblog.jp ブログトップ

<   2013年 10月 ( 11 )   > この月の画像一覧

ジャック・プレヴェール「歌の塔」Ⅵ

   お祭り(フィエスタ)

  グラスは空っぽ
  ビンは割れ
  ベッドはあけっぴろげ
  ドアは閉まっていて
  グラスの星という星は
  幸せの星も きれいな星も
  掃除をしていない部屋の
  ほこりのなかでキラキラ光っている
  ぼくは喜びの火に
  酔っぱらって死んで
  きみは酔っぱらったまま生きていて
  ぼくの腕のなかで 真っ裸。
  

 
[PR]
by monsieurk | 2013-10-31 22:30 | | Trackback | Comments(0)

ジャック・プレヴェール「歌の塔」Ⅴ

d0238372_1124527.jpg  まっすぐな道

一キロメートルごとに
毎年のように
額のせまい年寄りたちが
こどもに路を示す
鉄筋コンクリートのような身ぶりで。
[PR]
by monsieurk | 2013-10-28 22:30 | | Trackback | Comments(0)

ジャック・プレヴェール「歌の塔」Ⅳ

   お勘定

客――ボーイさん、お勘定!
ボーイ――はい、ただいま。(彼は鉛筆と帳面を取り出す)ええと、固ゆで卵が二つ、仔牛、グリンピース、アスパラガス、バターにチーズ、巴旦杏、スペシャル・コーヒー、電話が一通話。
客――それに煙草も!
ボーイ――そうでした、・・・煙草もと(彼は計算をはじめる)・・・そうしますと、全部で・・・
客――きみ、そんなことをしても無駄だよ、決して上手くいくはずはないよ。
ボーイ――!!!
客――きみは学校で教えられなかったんだね、種類の違うものを足し算することは、数―学―的に、不可能だってことを!
ボーイ――!!!
客(声を張り上げて)――出来ないんだよ、冗談もいいかげんにしたまえ・・・だいたい、仔牛と煙草を、煙草とスペシャル・コーヒーを、スペシャル・コーヒーと巴旦杏を、ゆで卵とグリンピースを、グリンピースと電話を「足そう」とするなんて、きみの流儀で行くなら、なぜレジョン・ドヌール勲章の将校とグリンピースを足さないんだね!(彼は立ち上がる)
 駄目だってば、強情をはりなさんな、きみ、くたびれるだけで、何にもならないよ、何にも・・・チップにもならんよ!
(そして彼はナプキン・リングをただで失敬して出て行く。)

d0238372_111781.jpg

[PR]
by monsieurk | 2013-10-25 22:30 | | Trackback | Comments(0)

ジャック・プレヴェール「歌の塔」Ⅲ

   小川

d0238372_194372.jpg たくさんの水が橋の下を流れた
 それに驚くほどの血も
 けれど恋の足元を
 流れるのは大きな白い川
 月光の庭では
 毎日がきみのお祭り
 その川は眠りながら歌い
 この月はぼくの頭
 大きな青い太陽がまわる頭
 そしてこの太陽はきみの眼

 写真はこの詩にクリスチアーヌ・ヴェルジェがつけた曲の楽譜である。
[PR]
by monsieurk | 2013-10-22 22:30 | | Trackback | Comments(0)

ジャック・プレヴェール「歌の塔」Ⅱ

    動物たちは悲しんでいる

 可哀そうなワニの C はÇ じゃない
 可哀そうなカエルのL は湿ってしまった
 ノコギリエイには悩みがあり
 ヒラメがそれを残念がる

 でも鳥はみな翼がある
 年寄の青い鳥にも
 緑色のカエルにさえ
 Eの前に二つもLがある

 小鳥は母鳥にまかせ
 小川は川床にまかせ
 ヒトデは気が向けば
 夜 出るにまかせ
 こどもたちが貯金箱をこわすにまかせ
 気がむけばコーヒーをいれるにまかせる
 
 ノルマンデーの古い戸棚と
 ブルターニュの牝牛は
 大笑いしながら荒野に出て行く
 見捨てられた子牛たちは
 見捨てられた子牛みたいに泣いている

 それは子牛には翼がないから
 年寄の青い鳥みたいに
 二匹の子牛にあるのは
 数本の足と二つの尻尾

 小鳥は母鳥にまかせ
 小川は川床にまかせ
 ヒトデは気がむけば
 夜出るにまかせ
 象たちは字を覚えないままにまかせ
 ツバメは往きつ戻りつするにまかせる。 

 この詩の第一節と二節はフランス語の語呂合わせで成りたっている。
 ワニ crocodilleの c はç(セー・セディーユ)ではなく、カエル grenouille(グルヌーユ)の最後の二つの ll はエルではなく、前に i があるため、ヌーユという湿った音になる。ノコギリエイ poisson scie には心配soucis の字が含まれ、ヒラメ poisson sole と悲しむ désole は語呂あわせになっている。
[PR]
by monsieurk | 2013-10-19 22:29 | | Trackback | Comments(0)

ジャック・プレヴェール「歌の塔」Ⅰ

d0238372_2228306.jpg 『思い出しておくれ、幸せだった日々を 評伝 ジャック・プレヴェール』(2011年、左右社)でも紹介したが、プレヴェールには『歌の塔』という一冊の詩画集がある。
 「かつて」という序詩を含めた15篇の詩に、クリスチアーヌ・ヴェルジェが曲をつけ、表紙を含めてファビアンの絵4点を添えた『歌の塔』は、スイスのローザンヌ書籍組合から1953年4月30日に出版された。プレヴェールの各詩篇に次いで、ヴェルジェ作曲の手書きの楽譜が印刷された豪華本である。プレヴェールがクリスチアーヌ・ヴェルジェに最初に作曲の話をもちかけたのは1928年2月のことであった。
 本が出版されて間もなく、このうちの何曲かをジェルメーヌ・モンテロとファビアン・ロリスが歌い、プレヴェール自身の語りを入れたレコードがデッカ社から発売された。
 豪華本の原題は、JACQUES PREVERT: TOUR DE CHANT Musique de Christiane Verger Dessins de Loris, La Guilde du Livre Lausanne. 1953。所持しているのは限定5300部のうちのNo. 1909である。
 日本で最初にこの本に注目したのは小笠原豊樹で、15篇すべてを翻訳した『プレヴェール 唄のくさぐさ』を1958年に昭森社から出版した。原詩の意味をくんだ見事な訳だが、新たな翻訳をこころみ、ロリスのデッサンとヴェルジェの楽譜もいくつか採録してみたい。先ずは冒頭の「かつて」――

  
  かつて
  優しく 狂おしく 早く 穏やかに
  幸せに 悲しげに
  音楽は奏でた
  音楽は歌った
  昨日の もう新しい歌
  古くさい今日の
  明日の夜の
  昨日の朝の歌を奏で そして歌った
  かつて
  音楽は奏でた
  音楽は歌った
  奏でる人と歌う人は
  一緒に奏で
  一緒に歌い
  音楽のなかにいた
  かつて音楽は奏で
  音楽は歌った
  陽気に 絶望して
  素朴に
  そのころはまだ
  ソルフェージュの音階も
  アルファベットの文字もなく
  数字はかぞえることができず
  人びとはステップをかぞえずに踊った
  手拍子も打たずに踊りだした
  数字はかぞえることができず
  空はあけっぴろげ
  さもなければ嵐で真っ黒
  さもなければ一面ざわざわした青色だった
  かつて
  音楽は泉だった
  どんな魔法使いの杖の合図でも流れない泉
  ときどき ときたま
  とても新しく とても美しく
  このかつてがどこかに戻ってくる
  一瞬だけ
  音楽だって旅をする絵も同じ
  ところが知ったかぶりの人たちは
  この旅人 この浮浪者が大嫌い
  知らんぷりをするのが仕事だから彼らは知らんぷりをする

  
  何年か前のこと
  一人のすばらしく生きている人 すばらしく踊る人が
  生きて踊っていた
  ある日その人が知り合ったばかりの友だちに
  彼の娘たちのために
  歌の詞を書いてくれと頼んだ
  彼は教え子を娘たちと呼んでいたのだ
  でも友だちは歌の詞を書かなかった 書き方を知らなかったので
  彼が書いたのは悲しんでいる動物たちの物語
  ルフランと決まり文句の
  聞きふるされた哀しい歌
  彼は幼馴染の女ともだちに曲をつけてと頼んだ

  
  この踊り手の名はポミエ
  曲をつけた女性の名はクリスチアーヌ

  
  今日ポミエが死んで
  彼の二人の友は別の歌をつくった
  それでも二人の友の耳に聞こえるのはいつも同じ歌
  ポミエが引き連れて踊る
  可愛いバレエの一団がうたう歌
  舞台装置はいつも同じ装置で
  この舞台のしあわせな焔は
  ほかの沢山の死んだ舞台の灰の上で
  いつまでも生きていまも踊りつづける。

 下の絵はファビアン・ロリスの挿画である。
 
d0238372_173787.jpg

[PR]
by monsieurk | 2013-10-16 22:22 | | Trackback | Comments(0)

ブログの力

 今月初め、ブログ宛てに次のようなコメントが届いた。

 「ハノイ在住の新妻と申します。「小牧近江のヴェトナム」のブログを興味深く拝見させていただきました。実はわたしはハノイに暮らすようになって10年近くが過ぎました。こちらに来て小松清たちの活動を知り、ヴェトナムと日本の関係に関心を持ちました。小牧近江のことは今回のブログではじめて詳しく分かりました。
 私もたまたま手にしたベトナム語の歴史書で、「1944年TAKARAZUKAがハノイで公演」という記述を見つけ、それを調べてまとめたことがあります。

 http://www.geocities.jp/tniizuma/vn041.html
 http://www.geocities.jp/tniizuma/toho.html

 このホームページの記事が文藝春秋の編集部や、NHKのETV特集のディレクターの目にとまって、日米開戦秘話として取り上げられないかとのお話もいただきました。以来、日本軍の仏印進駐時代におけるハノイやサイゴンでの日本人の活動を調べることに夢中になり、小松清なども知ることになり、玄洋社の頭山満や大川周明らのアジア主義についても興味をもって調べてきました。日本にいれば図書館などで資料をあさることもできますが、ハノイに滞在していては、せいぜいインターネット上で閲覧できる資料をもとにするしかなく、隔靴掻痒の感が否めません。MKさんのブログの小牧近江についての記述は私にとってはたいへん嬉しいものでした。
 実は小松清からアンドレ・マルローにも興味をもっており、マルローに関するブログも拝見させていただいております。今後もブログを楽しみにしています。」
 投稿してくださった新妻東一さんとは、その後メールで連絡をとった。新妻さんのホームページtoichiniizuma.netによれば、新妻さんは1962年東京生まれ。1982年に東京外国語大学インドネシア語学科ベトナム語専攻に入学し、在学中に三進交易に入社。大学卒業後も三進交易で主に繊維製品の貿易を担当し、1988年にハノイとホーチミンの駐在員。2010年には三進ベトナムSCを設立して現在もハノイに住んでいる方である。
 上記のURLを開くと、最初のものは新妻さんの「ベトナム便り」第41回で、「日米開戦と日劇ダンシングチーム・ベトナム(仏印)公演」の見出しで、1941年(昭和16)に日本のダンシングチームが、日本軍が進駐した仏印で公演した事実を、雑誌「東寶」の翌年3月号の記事をもとに紹介している。
 雑誌「東寶」といえば、ブログ「小牧近江のヴェトナムⅩ 小松清3」(2013.8.9)で触れたように、小松清は翻訳した『金雲翹(KIM VAN KIĒOU)』の梗概をこの雑誌に掲載し、1943年(昭和18)には単行本として東寶発行所から上梓している。このことからもダンシングチームの仏印公演に小松清がなんらかの形でかかわっていた可能性が高い。実際、小松はこのころ日本映画を仏印に送って上映することに力を尽くしていた。
 二つ目のURLは、新妻さんの紹介がノンフィクション作家奥野修司氏の目にとまり、彼が「文藝春秋」の2010年1月号に、『「東宝舞踏隊」12・8 開戦秘話』と題した取材記事を発表したという報告である。
 奥村氏の取材によると、1941年(昭和16)11月から将兵の慰問のために仏印へ派遣された日劇ダンシングチームの公演が、開戦前日12月7日の夜、ハイフォンの市民劇場で行われた。小川総領事の招待もあって、ハイフォンにいた外国人のほとんどが観劇に来た。この夜の舞台はいつもより遅く開演され、終わったのは8日午前2時半をすぎていた。そしてこの間に、ハイフォンに駐留していた日本軍は行動を起こし、戦闘態勢を整えたのである。
 フランス軍の連絡将校が異変に気づいたのは午前4時で、この日9時に対英米戦争が布告された。20名の踊り子と宝塚歌劇団のスター1名、それに9名の男性スタッフからなる慰問団の公演が、日本軍の軍事作戦を助けるために利用されたのである。
 奥村氏は取材の過程で、当時ダンシングチームの一員だった枝野房枝さんと連絡を取り、ハノイやハイフォンで撮影された隊員(彼女たちはそう呼ばれた)や、街並の貴重な写真14点を提供されたという。新塚さんのURLではこの貴重な写真を見ることができる。
 書物とは異なって、世界に散らばった点と点をネットによって結びつける力はブログという表現手段の強みであり、今回もあらためてそれを痛感させられた。


 
[PR]
by monsieurk | 2013-10-13 22:29 | メディア | Trackback | Comments(0)

八木幹夫ふたたびⅡ

 長年親交のあった小沢信男は、八木という詩人をこんな風に観察していた。「八木幹夫は、多年、中学校の教師をしている。そして堅実な家庭を築いている。職場では信望が厚い。なにかとワリを食いながら生徒たちにも人気がある。そういう先生にちがいないのです。正直で卒直で心のあたたかい人だもの。けれども職場のことどもは、詩のなかにはほとんどナマには現れない。自制ないしは断念があるのかもしれません。
 家庭のことは、詩に現れる。頭の回転のはやい奥さんがいて、のびのび育った娘たちがいて、庭のある白塗りの二階家に住む。友人たちはこれをホワイトハウスと呼ぶ。円満具足。小市民の鑑のごとき八木家、です。
 はてね。私はさきに、過不足が人を詩人にする、というようなことを申しました。話がちょっとちがうのではないか。そうです。ものには例外がある。円満具足の詩人、それこそが八木幹夫なのだ。と、ひとまずは言っておいて、同時にやはり、そういうことはないのですね。
 この人には、過剰なものがある。ハートが温かすぎる。思いが溢れる。(中略)ところが、その詩をみよ。詩は溢れていない。いや、溢れるものをもののみごとに取りおさえている。数行ないし数十行に。たとえば〈身体詩鈔〉の各篇の、いきいきと簡潔に完結していることよ。」(小沢信男「詩という恩寵――八木幹夫詩集によせて」、『八木幹夫詩集』所収、思潮社)
 長い間、詩を発表しなかった八木幹夫は、2005年に『仏典詩抄 日本語で読むお経』(松柏社、2005年)を刊行して彼の詩の愛好者を驚かせたが、これも詩人八木の創作活動の一つなのである。
 彼は「訳者あとがき」で、「私は詩を書きつつも絶えず迷い、漂い続けている煩悩具足の者にすぎません。悟りなどというものからは遥かに無縁な人間ですが、これらのお経を訳しながら、経文のもつ言葉の力に一睡もできなくなる興奮を覚えた夜が何度かありました。
  しかも今更ながら、はっきり解ったことが一つあります。お経とは死者のためではなく、今まさにこの世に生きてさまざまな悩みをかかえている人々のためにこそあるのだということです。
  仏陀は私たちに光と音によるメッセージを残してくれたのです」と語っている。
 そして、2012年7月の講演集『余白の時間――辻征夫の思い出』(シマウマ書房)に続いて今年7月には、歌集『青き返信』(砂子屋書房)が刊行された。じつは八木にとって短歌は詩人の余技などではなく、厚木高校に通う学生のときから雑誌に投稿するなど最初の表現手段だったのである。その後も大学在学中に歌人山根謹爾に短歌を学び、それから折々の感慨を短歌にうたってきた。幾首かを紹介すると――

 
 江東区豊洲に住まいし師の居間は赤貧なるも歌書うず高き(豊洲 かの家〔四十八年前の山根謹爾先生の家〕)

 
  八木くんは歌やらんのか問われしも無言の返事詩を書くわれは(同)

  
  定型の怖さ果てなし韻律にのせて語れば居座る言の葉(つたなき歌論)

 
  わが胸を口語体にて満たしめよ啄木短歌にひそむ目の位置(同)

 
  わが父の家業はテーラー布地裁つ鋏さばきのその音や良し(鋏さばき――父に)

 
 
  父母は死なぬものとぞ思い成し遊び呆けてゐたりし頃よ(桜散る――母に)


 そして「詩集『野菜畑のソクラテス』に寄す」から、

 
  ハイヒール履いてよたよた細い脚俺はやっぱり大根が好き(大根)

 
  白き根を秘してふかぶか地に立てる葱よお前はいつも脇役(葱)

 
  ちと一本拝借するぜ蕗の葉を傘に旦那は雨の花街(蕗)

 
  釈迦牟尼の座す蓮華の根のもとは衆生の食の有り難き糧(蓮根)

 
[PR]
by monsieurk | 2013-10-10 22:30 | | Trackback | Comments(0)

八木幹夫ふたたびⅠ

d0238372_2034272.jpg 詩人の八木幹夫については、2011年9月25日のブログで、「ライト・ヴァース」と題して紹介したことがある。書き出しはこんな風だった。

 ライト・ヴァース(light verse)、軽い詩。そんな分類をされる詩群があるが、じつはその多くは人生の機微をうがって少しも軽くはない。久しぶりに本棚から取り出して読んだ八木幹夫氏の詩集、『野菜畑のソクラテス』(ふらんす堂、1995年)もそう称せられるものだが、そこから三篇だけを紹介しよう。本当は全篇を写したいのだが、著作権に触れるから、興味をもたれたら是非詩集を探してみてください。 まずは冒頭に置かれた「だいこん」  なに 生き方を変えろだって  ふざけんじゃねいやい  こちとら ご先祖様代々  ぴりっと からくて ぶかっこう  ああ ぶかっこうで いいともよ  そこらの西洋かぶれのねえちゃんみてえに  ハイヒールはいてよたよた歩く  やわな あんよたあ  どだい 根性がちがわあな  泥がついてきたねえだと  とっとと消えろ  この すの入った入った大根役者

 八木幹夫は『野菜畑のソクラテス』のあと、『めにはさやかに』(書肆 山田、1998年)と『夏空、そこへ着くまで』(思潮社、2002年)、『八木幹夫詩集』(思潮社、2005年)の三冊の詩集を出した。最後のものは自費出版だった第一詩集『さがみがわ』以降の全作品から選りすぐったもので、八木幹夫の全容を読むことができる。
 第一詩集のタイトルにもなっている相模川は、八木にとって特別な場所である。「考えてみれば、大学時代の一時期を除いて、私はこの相模川水系から遠く離れて生活したことがない。幼い頃は津久井湖底の清流で遊び、中学時代は小倉橋近くで釣りをし、高校時代は相模大橋を渡って厚木の高校へ通った。成人して最初の勤務校が相模原市の田奈〔たな〕にあった。田奈には水にまつわるさまざまな伝説や説話がそれぞれの地域に残っていて、農業に従事する人々の悲喜こもごもの歴史を語る。(中略)この雨を降らす山が、丹沢山系の大山〔おおやま〕、阿夫利嶺山〔あふりねやま〕で、雨降り、天降りの山とも呼ばれ、相模川沿いに住む人々の信仰の山となっている。父が亡くなった折、母は阿夫利神社に詣で、百ヶ日参りをした。大山名物の湯豆腐を食べ、その途中、死者によく似た人に出会うという言い伝え通り、父に参道ですれ違ったと母はいった。数年前、母が亡くなって、大山参りをしたが、母に似た人に出会うことはなかった。」(「相模川――水の声を聞きに」、『八木幹夫詩集』所収、思潮社)
 この文章を読んで思い出すのは、『めにはさやかに』に収められている詩篇「家の外」である。

 「外は雨が降っているらしい
  「おやすみなさい」
  妻がいう
  「おやすみなさい」
  娘がいう
  スタンドの明かりを消して
  わたしも目を閉じる
  読んでいた本の内容を少し
  反芻するうちに
  妻の寝息がしはじめて
  わたしも眠る


  だれかがわたしの家のドアを開けて出ていく


  この家のひとはみんな眠った


  雨ガヤンデ星ガ出テイル
  冷タク気持ノヨイ風ガ
  庭ノ楓ト椿ノ葉ヲソヨガセテ走ル
  

  この家のひとはみんな眠った


  ヒトツノ家ニソレゾレガ別ノ眠リヲネムッテイル
  明日ノ朝
  女ハアワタダシク起キ出スダロウ
  ソシテ台所ニ立ツダロウ
  娘ハ目覚マシ時計ヲナラシツヅケテモ起キナイダロウ
  男ハ布団カラ這イ出シテ娘ヲ越コシ
  アワテテ時刻ヲシラセルダロウ
  キットアノドアヲ勢イヨクアケテ
  ソレゾレガソレゾレノ思イデ飛ビ出シテイクダロウ


  この家のひとはみんな眠った


  ドアをそっと開けて
  だれかが階段を上がっていき
  娘の寝室は覗かずに
  男と女の寝室に入っていく

 
  この家のひとはみんな眠った」

  
 階段を上っていったのは、いったい誰なのだろう。(続)
[PR]
by monsieurk | 2013-10-07 22:29 | | Trackback | Comments(0)

マルローのインドシナⅩⅠ「帰国」

 マルローは裁判という個人的経験から植民地インドシナでのフランス人の横暴と不正を知り、これに復讐する気持で二度目のサイゴンにやってきた。その後新聞の発行を通して植民地行政の実態を知り、言論によってそれを糺そうとした。だが改革を進めるには、直接相手にする出先機関だけでなく、本国の植民地政策そのものが問題なのを痛感させられた。そしてこの思いを決定的にする事件が起こった。
 フランスの海外植民地では、法律によって地元の農民が税金を納められない場合は、村の有力者がその責任を負わされることになっていた。この法律は第一次大戦中は厳格に施行されたが、平時では大目にみられていた。ところがサイゴンの南にあるミトで大量の未納者が出て、地元の有力者がその責任を問われて代理納税を要求された。未納者の多くは都会に流出してそちらで税金を払っていたのだが、地元の役所は税収が減ることを嫌って、彼らを納税者名簿から削除せずにしていた。地主たちは陳情し抗議したが、当局はとりあわなかった。何人かの地主は家産を失い、フランスへの恨みが残った。
 カンボジア農民への課税は、直轄地であるコーチシナの2倍だった。しかもカンボジアの高等弁務官は、シャム湾に臨むホテル建設の費用を捻出しようとして、この年(1925年)に税額を引き上げた。おとなしいカンボジア人もこれには激昂して、バルデスという村で徴税使を殺す事件が起こった。
 軍隊が派遣されて300人の村人が検束され、10日間にわたる厳重な尋問の末に18人が起訴された。裁判の結果は死刑1名、無期懲役4人、7名が重労働となった。
 マルローはこの裁判を取材するためにプノンペンまで行った。サイゴンに戻った彼は皮肉をこめて次のような記事を書いた。

 われわれはこれ〔判決〕を繰り返すことはないだろう。法律が植民地で発布される前に、さまざまな規則が手直しされる必要がある。私としては、次のような原則にそった規則が望ましいと考える。
 (1)有罪となったものは、すべて断首される。
 (2)しかるのちに弁護士によって弁明される。
 (3) 弁護士は断首される。
 (4)そしてさらに・・・・
  さらになにかを追加するとすれば、
 (5)弁護士に雇われた速記者はみな、わずかな財産をも没収され、契約は破棄される。
 (6)もし速記者に子どもがあれば、貧しいド・ラ・ポムレー氏の損害とその利益のた
  めに、子ども一人当たり千ピアストルを支払う。
 (7)その夫は断首される。
  そしてまた上記の(1)へ戻る。(「鎖につながれたランドシーヌ」第14号、1925年12 月17日または19日)

  
 マルロー帰国のニュースが「鎖につながれたランドシーヌ」紙上に載ったのは、この記事が書かれた直後のことである。そこには、「アンナン人の求める自由を政府から手に入れるよう、フランス人に働きかける遊説を行うために」マルローはフランスへ戻ると書かれていた。だが本当にそうだったのか。
 「インドシナの地を脱出することは、周囲の人びとに申しわけないと思った」とクララは書いている。「鎖につながれたランドシーヌ」は、その後2ヵ月間はグエン・フォーによって継続され、マルローの書いた記事は、彼が去ったあとも第19号と第21号に掲載されたが、新聞そのものはその後廃刊となった。そしてモナンはこの後、「青年アンナン党」の仕事に打ち込むことになる。
 マルローはインドシナでの新聞発行をどう考えていたのか。1974年になって、ジャン・ラクチュールに宛てた手紙でこう書いている。「ジャーナリズムは、われわれの文明にあっては、今日性(アクチュアリテ)がもたらす力でもって生きている。それは特別な力であって、1ヵ月前の日常はもはや死んでいる。衰弱ではなく死なのだ。」
 インドシナへ赴く前にマルローが志したのは評論やエセーの執筆だった。だがサイゴンで新聞を発行してみて、集団で仕事を行い(「ランドシーヌ」は7、8人の編集者でつくられていたという)、締切り時間に追われる仕事に魅せられた。なにより購読者からの直かに反響が寄せられることが大きな魅力だった。こうしてマルローは新聞発行という「叙事詩的な行為」にのめり込んでいった。
 しかし帰国する船中で彼が書こうとしたのは、インドシナに関するルポルタージュではなく、往復書簡の形をとったエッセーだった。それがマルローの作家としての第一作となる『西欧の誘惑(La Tentation de l'Occident)』である。
[PR]
by monsieurk | 2013-10-04 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)
line

フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31