フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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<   2013年 11月 ( 11 )   > この月の画像一覧

 「ルーヴル美術館のお尻の日」という記事を週刊誌「エクスプレス」の2013年11月13日-19日号で見つけた。筆者はアニック・コロナ=セザリ、写真撮影はベルトラン・デプレである。フランス語の記事は「エクスプレス」誌の電子版(http://www/lexpress.fr/culture/art/les-plus-belles-fesses-au-louvre/)でも読むことができる。
 コロナ=セザリ記者の見学体験記によれば、一般見学者が去った午後6時、ルーヴル美術館の入口であるガラスのピラミッドの団体入口で10数人の参加者とともに待っていると、案内人兼解説者のブリュノ・ド・ベックが現れた。ベックがこの夜、見学者たちを誘ったのは、「ルーヴル美術館で一番美しいお尻」を探して見てまわることだった。
 「見巧者」を自認する彼によれば、裸体は「ルイ15世様式の箪笥などより刺激的」だが、「視る喜びを呼び覚ます」には、視るための最適な角度を見つけなくてはならない。そこで見学者たちは、箸の先に、覗き穴をあけた三角形の厚紙をつけた道具をもたされる。この穴から片目で覗くと、絵や彫刻の全体像は捨象され、ある部分だけが切り取られて、そこに注意を集中することができる。さらに大理石やブロンズの彫刻や絵具で描かれたお尻は人間の肌へと変貌をとげる。「こうしてあなた方は戦慄が走るような視角を発見することができる」と、ベックは言う。
 この夜、見学者たちが先ず対面したのが、《モナ・リザ》へ行く手前の「ダリュの陳列室」に展示されている一群の大理石の古代彫刻だった。さらに進むと「ミケランジェロの陳列室」にバルトリーニの彫刻があり、普段なら一瞥して通りすぎる作品だが、彫刻の後ろにまわって、例の道具の覗き穴からお尻を眺めるとまるで違って見える。「ゴダールの映画『軽蔑』のなかで、ブリジット・バルドーがミシェル・ピコリに、《わたしのお尻、あなた好きでしょう? わたしのお尻》というが、誰がこれに異をとなえることができようか?」というわけである。
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 こうしてミロのヴィーナスなど古代ギリシャやローマの彫刻はもちろん、ミケランジェロ、写真で紹介したイタリア・ルネサンス期の巨匠ベルニーニの男性とも女性とも見える後ろ姿の彫刻、ドラクロワ、アングルなどの絵に描かれたお尻を眺めると、正面から見ていたときの作品、とりわけ人間のお尻の美しさを再発見することになる。ブリュノ・ド・ベックがこのツアーを企画した意図は、まさしく常識の目を取り払うことで新鮮な美を発見することなのである。
 ベックは1958年生まれで、ものを観察することが好きな少年だった。そんな彼は1994年に観光省の正式ガイドの免許を取得している。今年2013年9月には、『ルーヴルの一番美しいお尻(Les Plus Belles Fesses du Louvre)』(Séguier)を出版した。もっとも彼のガイドは「ルーヴルのお尻」だけではなく、「凱旋門」、「パリ、サン・ジェルマン・デプレ、修道院からボリス・ヴィアンまで」、「ペール・ラシェーズ墓地の彼方へ」、「いつも見るセーヌ川」、「古いパリの新しい見方」などのツアーがあり、いずれも新たなものの見方を教えてくれ、好評だという。
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by monsieurk | 2013-11-29 22:30 | フランス(美術) | Trackback | Comments(0)

フランス製を使おう

d0238372_14424466.jpg フランスの消費研究所が最近出した雑誌が、6000万人の消費者に、「フランス製を使おう」と呼びかけている。記事の一つで、有名なナイフのブランド「ラギオル」のことを扱っているのが目についた。
 かつてフランスの男は、ポケットに小さな折りたたみナイフを入れているが普通だった。家での食事のときに、それでパンのバゲットを小さく切る。庭仕事では枝の手入れをするなど何かにつけて必要だった。この折りたたみナイフの代表的なものが「ラギオル」で、フランス中部オーヴェルニュ地方の山岳地帯にあるラギオル(Laguiol)という小さな村でつくられるナイフである。柄は鋼部分を両側から木ではさみこみ、鋼の背には蜜蜂蜂(蝿か?)のマークが象嵌されている。小型ナイフのほかにも、プロのソムリエが使う栓抜き、食事用のナイフなども「ラギオル」製が多い。だが今日フランスで売られているナイフの多くは安いスペイン製やパキスタン製で、フランス国内産は5%にすぎず、しかもその多くはいわゆる「ラギオル」ではない。そもそも「本物のラギオル」というものが存在しないのである。
 もともとラギヨル村には農具をつくる有名な鍛冶屋がいて、彼らが19世紀初頭に折りたたみ式のナイフをつくったのがはじまりだった。それが人気を呼んで需要に応じきれなくなると、19世紀末には村から北へ150キロほど離れた街ティエールの工場へ下請けに出すようになった。ティエールはもともと刃物生産の中心地で、最盛期の1890年代では1万人のナイフ職人がいたのに対して、ラギオルの職人はわずかに30人ほどだったという。
 こうしてティエールでつくられるナイフが「ラギオル」の商標を名乗った時代が長く続いたが、1987年になって、ラギオルの職人たちが伝統ある村に新たな工場を建設して、「この村こそが有名ブランドの産地である」と宣言し、商標をティエールから取り戻す訴えを裁判所に起こした。裁判は10年続き、1998年になって最終判決が出た。その結論は、「ラギオル」という商標はナイフの一つの様式の呼称であって、どこかの地域の特定のブランドを指すものではないというものだった。ラギオル村の訴えはしりぞけられ、「ラギオル」はこの様式のナイフならどこでも名乗ることができることになった。「ラギオル」のナイフをつくるには40ほどの工程があるが、その工程さえ踏めば、安い鋼を用いた外国産が「ラギオル」を名乗っても違法ではなく、スペイン産やパキスタン製のものを含めて、2ユーロ(300円)から100ユーロ(14000円)を越える高級品まで、さまざまな「ラギオル」が店に並ぶことになった。
 その後、2006年に18の地元業者が集まって「エスプリ・ティエール(ティエール精神)」を宣言し、従来の「ラギオル」の素材や工程などを守って伝統的なナイフを製造することにした。現在、宣言に加盟している18の業者で、直接ナイフ製作にかかわる職人は150人。年間の売り上げは1000万ユーロ(13億5000万円)に達するという。一人当たり9000万円の売り上げということになる。
 トゥールーズにも「ラギオル」の専門店が1軒あり、ここで売られているのは「エスプリ・ラギオル」に基づいてつくられた製品である。「ラギオル」はフランス土産として人気があるが、購入に当たっては以上の経緯を知っておくのも無駄ではない。
 知人の一人に岐阜県関市に住むナイフ好きの女性がいる。関市は「関の孫六」で有名な刃物の産地で、ここには世界でも珍しい「ナイフ博物館」(関市平賀町)があり、世界30カ国の優れたナイフや珍しいナイフ凡そ1500点が展示されているという。一度見に来なさいと誘われているが、いまだその機会に恵まれずにいる。
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by monsieurk | 2013-11-27 22:30 | フランス(生活) | Trackback | Comments(0)

お昼の食卓

 フランスに着いた22日の夜は24時に就寝して朝7時まで熟睡した。いまは冬時間で日本とフランスとの間に8時間の時差があるが、こちらへ来るときには不思議にそれを感じない。その逆にフランスから日本へ戻ると、2、3日は時差に悩まされるのが通例である。
 滞在第一日目、土曜日の昼食をすませたとろで、テーブルの上を写真に撮って紹介しよう。生ハム、ブーダン(豚の血と脂身で作った腸詰)、ジャンボノ(豚のすね肉のハム、外側をパン粉で包んである)、ロモ(スペイン産の豚肉のハム)、それに生野菜のサラダ。これは持参した胡麻だれのソースで和えてある。それにバゲット。
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                                    photo par Aya Gibault     
 チーズは、サン・ヘリシヤン、カマンベール(いずれも牛のチーズ)、エメンタール(穴のあいた硬めのチーズ)、橙色をしたこれも硬めのミモレットの4種類。デザートは、スペイン産のミカン、洋梨、リンゴなどの果物である。
 ブドー酒は21日に解禁されたボジョレ・ヌヴォー。これにも幾つも種類があるが、飲んだのはSaint-Jean-d'Adièresで瓶詰されたものである。ボジョレ・ヌヴォーは日本でも一時ほどではないにしても、解禁日の11月第2木曜日を愛飲家は待ち受けている。今年は出発前日の21日が解禁日で、デパートへ行ってみると、酒の売り場には大勢の人が行列をつくっていた。普段はボジョレ・ヌヴォーを飲む習慣はないのだが、今年は解禁二日目に飲むことになった。今年の出来は上々で、すっきりとして飲みやすく、旬を味わうことができた。
 外は正午現在摂氏5度。トゥールーズはこのところ雨続きで、日本と同様に秋が短く冬の到来が早いとのことである。山荘のあるピレネー山中のマサットは、昨夜25センチの降雪があったという。
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by monsieurk | 2013-11-25 22:30 | フランス(生活) | Trackback | Comments(0)

『歌の塔』

 以前のブログで予告したように、フランスの国民的詩人ジャック・プレヴェールの訳詩集『歌の塔』(Tour de Chant)が、出版社「未知谷」から刊行された。とはいえ11月22日に成田を発ってフランスへ来たため、まだ本の実物は手にしていない。
 『思い出しておくれ、幸せだった日々を 評伝ジャック・プレヴェール』(2010年、左右社)でも紹介したが、1953年に刊行された『歌の塔』は、「かつて」という序詩を含めた15篇の詩に、クリスチアーヌ・ヴェルジェが曲をつけ、ファビアン・ロリスが6点のイラストをつけた豪華詩集で、この訳詩集では、ヴェルジェの自筆の楽譜とロリスのイラストもそのまま載せている。下の写真は出版社から送られてきた表紙のイメージで、フランス語の原本の表紙を忠実に再現したものである。月末には書店に並ぶはずなので、ぜひ手にとってみていただきたい。エスプリに溢れるプレヴェールの詩を上手く訳せたとひそかに自負しているのだが。
 今回は、成田からオランダのアムステルダム・スキポール(オランダ語ではスピップホル)空港を経由して、南フランスのトゥールーズへ来たが、乗り継ぎ時間も1時間半とスムースで快適な旅だった。スキポール空港はヨーロッパ1、2を誇るハブ空港で、各国各地と結ばれていて、発着便も多く乗降客は膨大だが、旅行に必要なすべての施設が一つのターミナル・ビルのなかで完結していて、出発、到着、乗り継ぎが歩いて行けるように設計されている。各ゲートを結ぶ通路の両側には店が並び、買い物や乗り継ぎ時間をすごす施設も充実していて利用しやすい。今回のトゥールース行きの゙乗り継ぎ便も定刻に出発、荷物も無事に届き快適な旅であった。これから3週間ほど、フランス便りをお届けしたい。 

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by monsieurk | 2013-11-24 22:30 | | Trackback | Comments(0)

折口信夫の旅

 折口信夫の『死者の書』を読んだのは大学に入って間もなくのことであった。大学の新聞部に属し、安保反対を叫んで連日のように国会周辺のデモに参加したが、そのときもポケットに文庫本を忍ばせていた。そんな一冊が『死者の書』で、太古の雫がしたたる墓の中で目覚めた死者が語る物語に異様な興奮を覚えた。以来、折口信夫(釈迢空)の著作は愛読書の一つとなり、中央公論社から刊行された旧版『折口信夫全集』も揃えてほぼ全巻を読んだ。
 折口信夫は広辞苑でこう解説されている。
 「国文学者・歌人、大阪生まれ、国学院卒。国学院、慶大教授。民俗学を国文学に導入して新境地を開き、歌人としては釈迢空の名で知られた。主著「古代研究」、歌集「春のことぶれ」、詩集「古代感愛集」など。(1887-1958)。
 今回必要があって、折口最晩年の弟子である西村亨の著書『折口信夫と古代学』(中央公論新社、1991年)をあらためて読み、若き日の折口がこころみた旅の特徴を述べた件に目が留まった。折口は柳田国男が提唱した新しい民俗学という学問に触れて研究をスタートさせ、柳田に倣って伝承や習俗を採訪するために全国の僻地を旅したことはよく知られている。西村は折口の旅のあり方を次のように述べている。長くなるが引用してみよう。
 「折口の旅の場合、・・・土地を歩くこと自体に意味があり、歩くこと自体が目的だったと言っていいかも知れない。峠の茶屋で出会った炭山師や魚売りの女が、上方の景気のいい工場へ誘われて毎日のように家を抜け出て行く若い男女がいることを話しているのも、世間の動きと土地のありようとして折口の心に留まっているし、町や村のたたずまいを目にするにつけ「村の変遷、住民の交替などといふことを、考へない訣にはいなかつた」と言う。あるいは豆腐屋の看板の土地ごとの違いや、馬の餌にするおからの形の違いに目を留めたりしている。それらのすべてが土地土地の人間生活の表象であり、その背景に息づく庶民生活の哀歓を思わずにいられないからだ。
 もうひとつ、折口の関心の対象になるのが「古代」だった。速呼の迫門〔岡山県瀬戸内虫明迫門・むしあけせと。曙の風景が美しいことで知られる〕を通過する際の緊張は、同時に、速呼の迫門に感じた古代日本人の心を自身の上に再現しようとする。

  此迫門の名を思ふと、わたつみとの交渉の深かった時代の祖先の生活が、汐騒の漲り 
 充ちた勢ひで胸にせまって来る。われらの祖〔おや〕たちが、その又祖の世の記憶とし
 て、長く忘れなかつた名詞の一つは、速吸〔はやすい〕ノ門であつたのである。(「海道
 の砂 その一」、全集28巻)

 ・・・旅に疲れた神経を張り詰めながら、少し靄のかかったよう心持ちを昂揚させながら、目に映る外界の事象、耳に入る自然の物音や人間のことばに注意を凝らしている。刺戟に対して極度に感じやすく、思索はほとんど直覚として本質の把握に向かってゆく。そういう状態が折口の旅の真骨頂だったのだ。」(西村亨「折口信夫と古代学」120-121頁)
 明日から3週間ほどフランスに出かけるが、「パリ日本文化会館」の審議会をはじめ、ほぼ毎日のスケジュールが決まっており、旅自体が目的といったものにはなりそうにない。それでも耳目を敏感にして気づいたものをブログで報告したい。
 西村亨は折口信夫との出会いを「あとがき」で次のように回想している。
 「折口信夫先生の風貌に初めて接したのは、昭和18年の11月、三田山上で行われた出陣学徒壮行会の場のことだった。
 演説館前の木立に囲まれた広場で、折口先生は小さな壇上に立って、戦場へ赴く学生たちのために、はなむけの詩を朗読された。「教へ子をいくさに立てゝ、明日よりや、我は思はむ」と始まる長詩は後に全集にも収録されたが、ややかん高い声で朗読されるその声は決して大きくはない。初めのうち、後ろのほうから「聞こえません」という声が起ったりしたが、たちまちのうちに魅せられたような静寂があたり一帯を覆って、その中で先生の声だけが響き続けた。
 その異様な雰囲気は経験したことのないものだった。その年の春予科一年に入学したばかりの私は、三田新聞の記者としてその場に居合わせたのだが、その晩ガリ版刷りで配布された詩を新聞用の原稿用紙に写しながらも、興奮はなお醒めなかった。」
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by monsieurk | 2013-11-21 22:30 | | Trackback | Comments(0)
d0238372_21443335.jpg アンドレ・マルロー(André Malraux)についてはこのブログでも幾度か書いてきたが、マルローが1970年代初めに試みた小説『Non〔ノン・否〕』の草稿の断片が、今年2013年3月にガリマール社(Gallimard)から出版された。マルローは第二次大戦中の自らのレジスタンス運動の体験を盛り込んだ長篇小説を1944年から1945年にかけて書きかけたが、その後の政治活動や、美術評論の執筆などで中断した。それを70年代になってふたたび取り上げようとしたのである。完成していれば、1943年に発表された『アルテンブルクのくるみの木(Les Noyers de l’Altenburg)』以来、6冊目の小説になるはずであった。
 マルローはスペイン内戦では、国際義勇軍の飛行集団指揮官として現地義勇軍組織の重要な役割をはたした。この飛行集団は最初スペイン飛行隊と呼ばれたが、後にはマルロー飛行隊の名称となり、市民戦争中参加した戦闘飛行は65回におよんだ。この体験から生まれたのが小説『希望(L’Espoir)』である。だが1939年3月マドリッドが陥落して、スペイン市民戦争は終わりを告げた。
 この年の8月23日、突然独ソ不可侵条約が公表され、フランスの知識人に大きな衝撃をあたえた。そして一週間後の9月1日ドイツ軍はポーランドに侵攻。9月日、イギリス、フランスはドイツに対して宣戦を布告、戦火は一気にヨーロッパ全体へ拡大した。
 マルローは二等兵として戦車部隊に入隊して戦場に赴いたが、6月パリの南100キロほどのヨーヌ県での戦闘で負傷し、サンスの捕虜収容所に送られた。そして6月14日、ドイツ軍はパリに入場してフランスは敗北し、22日にはロトンドで休戦条約が結ばれ戦争は終わった。
 マルローの収容所生活はその後も続いたが、11月に捕虜収容所を脱走して南の非占領地域(フランスのヴィシー政府が統治にあたっていた)に入り、12月には創設されたばかりのレジスタンスと最初の接触をもった。
 1941年は読書と執筆に力を注ぎ、『アルテンブルクのくるみの木』の完成を目指すかたわら、ガリマール書店の出版委員に復帰して、アルベール・カミュの文壇登場を強力に支援するなど文学活動に力を入れた。
 マルローが実際にレジスタンスと接触を持ったのは1942年になったからで、まずイギリス諜報部と接触し、さらにパラシュート隊と関係をもち、次いでトゥールーズ地方でダイナマイトを用いてドイツ軍の列車を爆破する工作に従事し、次第に整いつつあったレジスタンス組織で重要な役割を果たすようになった。そして1944年には、ロー、ドルドーニュ、コレーズ三県のマキ(レジスタンスの抵抗組織)の隊長となり、ヴェルジェ大佐と名乗った。だがこの年に行われたドイツ軍のダス・ライヒ師団を討伐する戦闘で脚に傷を負って、ふたたび捕虜となり、トゥールーズの牢獄に囚われの身となった。
 幸いにも投獄生活は長くは続かなかった。8月20日にはフランス国内軍(F・F・I、レジスタンス各派が統合されたもの)が同市を解放するにおよんで救出され、アルザス・ロレーヌ旅団の指揮官に任命されて、アルザス戦線の戦闘に参加した。マルローが亡命先のロンドンから帰国したドゴール将軍に会ったのはこのアルザスの戦線でのことである。
 1945年4月、マルローの率いる旅団は撤退するドイツ軍を追ってドイツのシュトゥットガルト近郊まで進撃し、5月8日の休戦協定樹立はその地で迎えた。そして11月にドゴールと首班とする各党連立の内閣が成立すると、情報宣伝相として入閣した。無所属、無議席の閣僚だった。これがアンドレ・マルローのレジスタンスとしての経歴で、マルローはこれらの生々しい記憶を小説にしようと考えたのである。
 なぜ一度は放棄した小説を1970年代はじめに手を染めたのか。以下は『ノン』の草稿の編纂したアンリ・ゴダール(Henri Godard)の序文を参考にしつつ考えてみる。
 ゴダールはきっかとして二つの事実をあげている。その一つは1960年代にフランスの文学界を席巻したアンチ・ロマン(反小説)の登場である。それによって作中人物や物語を主流とする従来の小説は無効とされた。しかしマルローはこうした文学観には否定的であった。小説は読者の体験に訴えるべきものであり、小説家が緊迫した場面を描き出すことに成功すれば、作中人物の造形と物語の展開によって読者の想像力を喚起して、さまざまな感情を追体験させることができると確信していた。そして作品の舞台として彼が選んだのが革命であり、戦争であった。マルローは『侮蔑の時代』の序文で次のように述べて居る。「一人の人間であることはむずかしい。しかし、お互いの差異をきわだたせることによって人間となるより、お互いのつながりを深化することによって人間となることがむずかしいわけではない。そして人間のつながりは、少なくとも人間同士の差異と同じ力をもって、人間が人間たる所以のものを、人間がそれによって自己を超克し、ものを創造し、案出し、また自己をはっきり捉えるものを育ててくれるのだ。」レジスタンス運動はまさに人間が互いの絆を確認する場であり、彼が『ノン』を取り上げようとした理由であった。
 そしてもう一つは、この頃幾度かレジスタンスの記憶を呼び覚ます出来事が続いたことである。なかでも1964年12月、レジスタンス運動の指導者の一人だったジャン・ムーラン(Jean Moulin)が国家の英雄としてパンテオンに祭られた際、彼は追悼演説をおこなった。さらにはレジスタンスの犠牲者たちの記念碑の建立や、強制収容所解放30周年記念の際にも演説を行なう機会があり(この3つの演説は、草稿とともに本に収録されている)、これらを通してかつて身を投じたレジスタンス活動をふたたび考えるきっかけをあたえたのである。
 ただ戦後25年が過ぎたこの時期、レジスタンスで示された英雄的活動は過去の物語となりつつあった。アンリ・ゴダールは、「マルローが執筆を開始した時期は、戦時以来世間を支配していた英雄待望の機運はまさに終わろうとしていた。歴史的に見ても、レジスタンスは少数のフランス人が行なった事実にすぎず、「ノン」という叫びをあげた人たちの犠牲にもかかわらず、他の大多数は消極的であったことを思い知らされ、彼は苦々しく思ったのだった」と述べている。こうした動機から、マルローはレジスタンスを主題に再度取り上げよとしたが、結局は最終的に放棄されてしまった。
 残された草稿では、『ノン』は、「パリ」、「マキ〔抵抗運動に従事した人びと〕」、「アルザス・ロレーヌ旅団の進軍」の三つの部分からなる。『ノン』はパルチザンたちと「影の人びと」、そしてドゴールへのオマージュ(「将軍は最初の日の《Non》を引き受けたのだ」)になるはずであった。
 しかしマルローは『Non』の完成することはなく、その代わりにこの時代の思い出を含めたエセー集、『反回想録(Antimemoire』や『冥府の鏡(Le Miroir des Limbes)』などを書くことになる。

 この度刊行されたのは次の本である。Andre Malraux: 《Non》, Fragments d’un roman sur la Résistance, Ēdition établi par Henri Godard et Jean-Louis Jeannelle, Gallimard, 2013.
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by monsieurk | 2013-11-18 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 ヴェトナム戦争の末期、戦争が継続される一方で和平の道をさぐる会談がパリで行われた。参加したのはアメリカ、北ヴェトナム、南ヴェトナム、それに南ヴェトナム解放民族戦線の代表団である。会場となったのはパリ16区のクレベール国際会議場。凱旋門から100メートルと離れていない場所にある。
d0238372_2142233.jpg グエン・ティ・ビン女史は南ヴェトナム解放民族戦線の代表団の団長をつとめた人で、ヴェトナム戦争を取材した者にとっては忘れられない名前である。彼女の回想録、『家族、仲間、そして祖国』が、日本ヴェトナム国交樹立40周年の今年8月、ヴェトナム語から翻訳して出版された。この本のことを最初に教えてくれたのは、ヴェトナム・ハノイ在住の新妻東一氏だった。
 グエン・ティ・ビンはインドシナ半島南部のクアン・ナムに生まれた。稲田が緑に香り、いたるところに水路が広がる豊饒な田園地帯である。公務員の父は測量部門で働いていたが、一家はやがて首都プノンペンに移り住み、彼女はカンボジアで一番大きいフランス系の高校、リセ・シゾワで学んだ。学生の大部分はフランス人の公務員の子どもか、フランス国籍の子どもだった。彼女の民族意識は、この学校のヨーロッパ人の学友との些細な衝突のなかで生まれた。彼女は書いている。
 「一度遊びに出掛けた時にフランス人の学友らが彼らの家のお手伝いさんについて〈安南の奴らは皆泥棒だ〉と言いました。私は聞くに耐え難く彼らのところに行って〈お前達、何を言ったんだ〉と問いました。彼らは唖然としていました。私は直ぐにペーパーケースを取り彼らに叩きつけました。私を迎えに来ていた弟達も跳び込んで来て私に加勢してくれました。殴り合いになりましたが幸いにもさほどの負傷者はできませんでした。」(17-18頁)
 回想録では、父の職場に実習生として来ていたディン・カンとの恋愛(彼女はやがて彼と結婚する)、抗仏戦争中の生活などが語られる。グエン・ティ・ビンが初めて社会的活動を行ったのは、敗戦によって日本軍を武装解除するためにサイゴンにやってきたイギリス・インド同盟の代表を出迎える一員となったことであつた。英語ができると思われたからである。グエン・ティ・ビンはその後、1960年1月に結成されたヴェトナム南部解放民族戦線の活動に身を投じることになった。
 回想録は、彼女の人生を通してヴェトナム現代史をたどるもので、どの部分も興味は尽きない。そのなかでも貴重なのは、パリのヴェトナム和平会談の内幕を語った部分である。
 「四者が揃っての会議が正式に始まったのは、翌年〔1969年〕1月25日になってのことでした。チャン・ブウ・キエム同志が団長、私とチャン・ホアイ・ナアム同志が副団長を務めました。ヴェトナム民主共和国〔北ヴェトナム〕とヴェトナム南部解放民族戦線の二団体が参加していたことは特別なことであり、国際外交史上未だかつてないことのようです。このことははっきり述べておく必要があると思います。それは、ヴェトナム共産党の統一的指導の下における、ひとつの戦闘を代表する、二つの主体の存在ということです。政治と外交の面では、我々は既に“ふたつでありながらひとつ、ひとつでありながらふたつ”という陣立てを確立していました。ヴェトナム南部解放民族戦線とヴェトナム民主共和国は、異なる二つの角度に立つ二つの派であり、自身の力を発揮することで、外交の場を広く活発なものにしてきました。」(74頁)
 和平会談は世界的に注目され、大勢のジャーナリストが取材にあたった。会場の周囲にはパリ市民とともにフランスに居るヴェトナム人が、金星紅旗や南部解放民族戦線の青と赤の旗をもって代表団を迎えた。なかでも最も注目されたのは、ただ一人の女性メンバーであるグエン・ティ・ビンだった。ジャングルでのゲリラ戦を戦っている「ベトコン」の女性兵士が突然パリに姿を現したといった扱いだった。
 彼女たちヴェトナム南部解放民族戦線の代表団は、ヴィリエール・ル・ビュイッソン通りにある古い別荘を駐在事務所とし、一部はそこから5、6キロ離れた労働者居住区にあるマシー通りに滞在した。グエン・ティ・ビンはこの別荘で、数人のスタッフや護衛役の同士たちと暮らした。別荘は白鳥が遊ぶ湖を見下ろす丘の上にあり、裏手の庭には数十本のサクランボの木が植えられていた。彼女たちは季節になると、サクランボを摘んで食べるのを楽しみにした。同僚の特派員は、この別荘で自由な時間にピアノを弾くグエン・ティ・ビンの姿を目撃している。彼女たちが滞在中、警護や自動車の運転といった日常の世話はフランス共産党が力を貸した。
 和平会談は5年にわたり、毎週木曜日に開かれた。北側の代表団の移動にはフランス政府が手配した警察が警護にあたり、団長は警察の車に乗り、警護用の4台のオートバイが両側についた。クレベールでの会談がある日など、代表団が全体で動くときは8台のオートバイが伴走した。
 和平交渉は難航の連続だったが、北側は次第に世界の世論を味方につけ、1968年1月30日のテト攻勢をきっかけとした軍事的優勢を背景に、アメリカと北ヴェトナムの間で秘密会談が行われることになり、1973年2月23日、ついにアメリカのキッシンジャー顧問と北ヴェトナムのレ・ドク・ト代表の間で和平のための仮協定が調印された。本協定の調印はその4日後であった。
 「1973年1月27日の朝、クレベールの会議場はまばゆい照明で輝いていました。会場前には、何千もの我々の同胞やフランスをはじめ各国の友人達が、金星紅旗と青と赤の旗の林立する中で、ヴェトナム民主共和国(グエン・ズイ・チン)、ヴェトナム南部共和国臨時革命政府(グエン・ティ・ビン)、アメリカ(ウイリアム・P・ロジャーズ)、ヴェトナム共和国(チャン・ヴァン・ラム)の四人の外相が席に着きました。全員が協定の32の文書に署名しました。
 歴史的なパリ協定にサインをし、筆を置いたとき、私はこの上なく感動し、南北両地方の同胞、同志、友人達のことを考えました。もうこの世にいない人々がこの出来事を知った時のことを考えると、涙が溢れました。」
 この協定でアメリカ軍と北ヴェトナム軍双方は南ヴェトナムから撤退することが決まったが、その後戦闘は再発。本当の和平が実現したのは1975年4月30日に、サイゴンが武力で解放されたときであった。
 グエン・ティ・ビンはその後国会議員に選ばれ、さらに統一なったヴェトナム社会主義共和国の教育大臣、副首相を歴任することになる。

『家族、仲間、そして祖国――ベトナム社会主義共和国・元国家副主席、グエン・ティ・ビン女史回想録』(Nguyên Thi Binh: Hoi Ky Gia Dinh, Ban Bè Va Dât Nuóc)は、ヴェトナム人3名を含む多くの訳者によってヴェトナム語から翻訳された。出版は「コールサック社」。
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by monsieurk | 2013-11-15 22:30 | | Trackback | Comments(0)

オルハン・パムク

 以前、スペインの地方語であるバスク語の作家、キルメン・ウリベの作品を紹介したが(2013/2/5、2/7、2/9)、いまや各国語に通じた人たちが出てきて、さまざまな言語で書かれた文学作品を翻訳してくれるおかげで、世界の広範な文学を日本語で読めるようになった。
 トルコ語の作家としてオルハン・パムク(Orhan Pamuk)の作品もその一つで、彼の代表作、『わたしの名は赤』(Benim Adim Kirmizi)と『雪』(Kar)には和久井路子氏(藤原書店)と宮下遼氏(早川書房)による二種類の翻訳が刊行されている。
 オルハン・パムクがトルコ人作家として初めてのノーベル文学賞を授賞したのは2006年である。授賞理由は、「生まれた街のメランコリックな心情に応じて、諸文化の破壊と絡み合いのための新たなシンボルを発見した」というものであった。
 オルハン・パムクは1952年にトルコの首都イスタンブールで生まれた。イスタンブールは長い歴史のなかで東西の文明が交差する国際都市である。彼の経済的に恵まれた環境のなかで成長した。そうした経験は小説『ジェヴデッド氏と息子たち』(1982年)や『黒い書』(1990年)で、イスタンブールの個人的な思い出として描かれている。
 彼の家族はイスタンブールのヨーロッパ側で暮していたから「ロバート・カレッジ」で中等教育をうけたのち、イスタンブール工科大学に入学して建築学を専攻した。将来の夢は画家になることだった。3年後には工科大学をやめて、イスタンブール大学でジャーナリズムを学びなおし、1976年に卒業した。22歳から30歳まで、彼は母親と生活をともにしながら最初の小説を書いて、出版してくれるところを探した。
 こうした努力によって、彼は1974年からは毎年作品を発表し、最初の小説『闇と光』が、1979年に新聞社ミチエット紙が催した小説コンクールで一位を獲得した。これがのちにタイトルを変えて出版された『ジェヴデッド氏と息子たち』である。彼が育ったイスタンブールのニサンタシ地区に住む裕福な一家の三代にわたる物語だった。
 パムクの初期の作品はトルコ国内で数々の文学賞を得ているが、1985年に出版された歴史小説『白い城』は欧米の言葉に翻訳されて、彼の名前は世界的に知られるようになった。アメリカの代表的な新聞「ニューヨーク・タイムズ」はその書評で、「東方に輝く星があらわれた」とまで絶賛した。
 この評判を裏打ちするように彼の文名を一段と高めたのが、1998年に出版された『わたしの名は赤』である。この小説は32カ国の出版者が翻訳権をとり、いままでに25カ国以上で翻訳出版されている。英訳だけでも20万部近くが売れたという。
 この長篇小説はミステリーと恋物語と哲学的瞑想を織り交ぜた物語で、その舞台は16世紀オスマン・トルコのスルタン、ムラト三世治下のイスタンブール。時は1591年の雪模様の冬の9日間である。このころのオスマン・トルコは絶頂期をすぎて、政治的にも経済的にも文化的にも難題が生じていた。長びく戦争、疫病の流行、大火、そして敗北しらなかったトルコ軍はこの少し前に、ヴェネツィア共和国とスペイン王国のキリスト教連合艦隊に敗北を喫した。イスラム原理主義者は、こうした災厄は異教徒に寛大な態度をとり、ぶどう酒の販売をみとめるなど、予言者の言葉に背いたためだと説いて民衆の心をつかみはじめていた。
 細密画家のカラは、叔父にあたるエニシテ(カラだけでなく皆が「おじ上」と呼ぶ)に呼び戻されて、12年ぶりにイスタンブールに戻ってくる。オスマン帝国第12代皇帝ムラト三世は、翌年の1592年がイスラム暦の千年目にあたることから、これを寿ぐために祝賀本の作成を命じる。元高官で細密画の造詣が深いエニシテに監督を命じ、豪華本を飾る細密画を4人の細密画師に描かせることになる。
 カラにとっては細密画の制作もさることながら、軍人に嫁いだエニシテの美貌の娘シェキュレが二人の子どもを連れて、婚家から父エニシテの許へ帰ってきているのが気になってしかたがない。カラは12年前に彼女に結婚を申し入れたが、手ひどく断られ、それが原因で12年もの間諸国を放浪していたのである。シェキュレの軍人の夫は生死もわからないまま戦場からは戻ってきていない。・・・
 作品の軸となるのは、細密画の技法をめぐって展開される議論である。皇帝から制作を任された依頼された頭領のエニシデは、ヨーロッパの技法を取り入れて陰影や遠近法を使って新しい細密画を制作しようというのに対して、これをアラーの神への冒涜とみなす守旧派(これを代表するのが皇帝の細密画工房を統括する筆頭絵師のオスマン棟梁である)は激しく抵抗する。そしてこれが原因で細密画師の一人が殺され、さらにはエニシテも殺されてしまう。はたしてこの犯人は誰か。殺人の理由はなにか。
 パムクはこうした謎を仕掛けつつ、画師たちの議論を通して東西文明の衝突というテーマを取り上げたのである。結論から言えば、パムクは「東は東、西は西」をいう考え哲学を全篇で展開している。さらにこうした文明論のほかにも、細密画の世界や当時のイスラム世界の風俗や生活が克明に描かれていて興味深い。この作品の特質のもう一つは構成上の工夫で、全59章のすべてで語り手が異なる。登場人物はもとより、死体や犬、木までが語り手となって、複数の視点から物語が進行していく。そこにはカラとシェキュレの結婚話もからんでくる。
 2001年9月11日の「9・11」事件が起ると、この作品はイスラム原理主義や文明間の衝突と共存、世界におけるイスラムの役割を考える上で大いに役立つとみなされて、欧米で多くの読者が手にとったといわれる。その点ではパムクの七冊目の小説『雪』(2002年)も同様で、彼の文名を大いに高めた。
 『雪』の主人公のKa(本名はケリム・アラクシュオウルというが、学生時代から頭文字をとってこう呼ばれている)は42歳の詩人で、かつて左翼新聞に記事を書いた責任を問われて有罪判決をうけ、ドイツに亡命していたが、母親が死んだというので12年ぶりに帰国したのだった。だが生まれ育ったイスタンブールの風物はすっかり変っていて馴染むことができず、思い出を取り戻すこともできない。イスラムの社会も文化も亡命の間に急速に変化したように感じられる。
 帰国後まもなく、昔の学生運動の仲間がKaに仕事を頼んでくる。「共和国新聞」にカルスの市長選挙を取材してほしいというのである。カルスで少女たちの連続殺人事件が起っているらしいので、それもついでに取材してほしいという依頼だった。カルスはトルコの北東部にありアルメニアと国境を接していて、ここは古代以来さまざまな文明が通りすぎたところで、一時はロシア帝国の統治下にも置かれた。この物語が繰り広げられる1990年代半ばには、貧困にあえぐ地方都市のひとつとなっている。
 Kaはここ数年いい詩が書けずに悩んでおり、辺境にいけばかつてのイスラム社会と自分を見出せるかもしれないと考えて、友人の申し出を受け入れる。カルスには分離派のテロリストが活動しているらしいことも気になった。
 ただしカルスにはイスタンブール大学時代に学生運動をともにして、想いを寄せていたイペキがいることがカルス行きを引き受けた最大の理由だった。彼女は詩人のムフタルと結婚したが、その後離婚して、いまは一人暮しをしているはずだった。
 Kaはこうしてカルスに向う。途中吹雪に見舞われ、雪の中を二日間バスにゆられてようやくカルスに着く。街に入るとロシア風建築の「カルバラス(雪の宮殿)」に宿をとった。そこはイペキが父親と妹とで経営しているホテルだった。
 雪はいっこうにやまず、Kaは雪のカルスに閉じ込められることになる。・・・これが物語の発端で、イペキとのその後が大いに気になるのだが、事態は意外な方向に展開する。連続殺人と思われた少女たちの死は自殺で、それを扇動するイスラム過激派がいるらしいこと、そのトップは「紺青」という名で呼ばれ、イペキの妹が少女たちの自殺と深くかかわっているらしいことが分かってくる。さらに市長が殺害され、その背後ではイスラム主義と欧化主義の対立があるらしい。例年にない大雪で交通が遮断され陸の孤島と化したカルスで、Kaはいやおうなく宗教と暴力の渦に巻き込まれて行く。
 著者オルハン・パムクはこの小説のエピグラムとして、「文学作品において政治とは、コンサートの最中に発射された拳銃のように、耳障りだが、無視することもできないものである。今や、このひどく醜悪なものに触れることになるのである」というスタンダールの『パルムの僧院』の一節を引用し、それと並べてドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の創作ノートから、「民衆を片付けてしまえ、殺ってしまえ、奴らを黙らせよ。/ 何故なら、ヨーロッパ啓蒙運動こそ民衆より遥かに重要なのだから」という文句を書きつけている。
 『雪』は芸術や詩や恋を語るとともに、現代イスラム社会(なかでもケマル・アタチュルクの革命によっていち早く近代化と政教分離を達成したトルコ社会)における宗教と政治、異なる文明との出会いとイスラム原理主義の台頭といった今日的問題をあつかっている。しかもパムクは、それをスリリングな一篇の小説に見事に仕立てあげたのである。
 パムクは9.11事件のあとで、イギリスの新聞「ガーディアン」とのインタビューで、「テロを引き起こしているのはイスラムでもなければ貧困でもない、彼らの言うことに誰も耳を貸そうとしないことだ」と語っている。パムクの一連の作品はイスラムの人たちの思いに耳を傾けるための絶好のツールである。
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by monsieurk | 2013-11-12 22:30 | | Trackback | Comments(0)
予告 

 これまでジャック・プレヴェールの豪華詩集『歌の塔』の詩の訳を一つずつ掲載してきたが、この度、出版社「未知谷」から刊行することになった。残りのものを含めて、すべての詩篇をその本で読んでいただくことにする。翻訳詩集にはフランス語版のデッサンと楽譜も収録する予定である。

M.K.
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by monsieurk | 2013-11-09 22:30 | | Trackback | Comments(0)
    流れ星

営倉の格子の間を
一個のオレンジが
閃光のようにすり抜けて
糞壺のなかへ落ちる
石ころのように
すると囚人
全身糞まみれになった囚人は
顔を輝かす
喜びに照らされて
彼女は俺を忘れていなかった
彼女はいまも俺のことを思ってくれてるんだ。
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by monsieurk | 2013-11-06 22:30 | | Trackback | Comments(0)