フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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憧れの久我美子

 パリ滞在中にメールで送られてきた古本屋のカタログで辻征夫の詩集『かぜのひきかた』(書肆山田、1987年)を見つけ、帰国後に届くように注文した。辻征夫の6冊目の詩集で、八木幹夫が『余白の時間 辻征夫さんの思い出』のなかで絶賛している。これは八木が名古屋にある古書店「シマウマ書房」の招きで、敬愛する辻征夫について2010年に行った講演を本にしたものである。そのなかにこんな個所がある。
 「私の家内は、初めて辻さんがうちに遊びに来たとき、あの人がそんなに尊敬する詩人なの? 偉そうには見えないんだけどって(笑)。とんでもないよ、あの人はすごいんだよって私が言って、その後で辻さんの作品を読むようになったら、すぐに「ああ、辻さんはすごい」って(笑)。『かぜのひきかた』(書肆山田)だとかいろいろな作品を読んで、家内も「詩を読んで泣いたの初めて」とすっかり感動しちゃった。辻さんという人はなにかのんきそうに見える実態と、書いているものが釣り合わない感じがする、なんてことも言ってました。」(同書、35頁)
 その『かぜのひきかた』に、「向島金美館」と題する詩がある。少年の辻がよく映画を観に通った映画館の思い出をテーマにしたもので、そこに懐かしい名前が出てきた。

久我美子のはな声
あのはな声は
あのホクロから出すのかしら
日あたりのいい縁側のテーブル
テーブルの下のスリッパはいた
久我美子の足

ごにょごにょ

動いて

むきあっているスリッパはいた
男の片足

ごにょッ

おさえた

(あれがラブシーンだったなんて!)

日あたりのいい縁側の
ガラス戸の外は愛の砂丘* 
  だったのかな
久我美子のせりふもほかの場面(シーン)も
なにひとつおぼえていないけれど

忘れられないのはハモニカのメロディーと
歌のことば
〽ソラハ
ドーシテ
アオイノカ
ヒグレノマチヲ
カラコロト
カゼガトオッテ
ユクカラカ

   ――「愛の砂漠」というのがこの映画のタイトルだった。
     歌には二番もあったようだが、おぼえていない。

d0238372_103840100.jpg 久我美子(1931.1.21~)は大好きな女優だった。旧華族久我家の生まれで、学習院中等部に在学中に東宝の第1期ニューフェイスに採用された。同期には三船敏郎などがいた。「愛の砂丘」は木下恵介監督がオリジナル・シナリオを書き、1953年に公開された作品である。
 久我さんはデビュするや、その気品ある振る舞いで多くのファンを得た。木下恵介監督「風花」(1959)、小津安二郎監督「彼岸花」(1958)、同「お早う」(1959)など多くの監督が彼女を起用し、1950年公開の今井正監督の「また逢う日まで」での岡田英次との窓ガラス越しの接吻は大きな話題を呼んだ。
 この映画は当時住んでいた大森にあった映画館で観たが、ここは面白い映画館だった。二階が理髪店になっていて、髪を刈ってもらいながら、目の前にあいたガラス窓から一階のスクリーンを見下ろすことができた。散髪が終わると急いで階段を駆け降りて、満員の会場に潜り込んで映画の続きに見入った。辻征夫少年が通った向島金美館のように、新しい映画がかかると映画館はいつも満員だった。
 久我さんが俳優の平田明彦氏と結婚したときは、中学生ながら心底がっかりした記憶がある。お元気だろうか。

 今年2013年のブログはこれが最後です。みなさま良い歳をお迎えください。
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by monsieurk | 2013-12-30 22:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)

名取洋之助Ⅴ「限界」

d0238372_10323617.jpg 「NIPPON」と軍部との関係は、1940年(昭和15)9月、日本軍が北部イントシナ(仏印)へ進駐して以降いっそう緊密になった。さらに日本は同年9月27日に日独伊三国協定を締結したが、直後の12月に刊行された第24号には三国同盟締結を祝う広告が掲載された。そして次の第25号(1941年3月)は、「日本―アメリカ特集」とされた。
 この号は仏文学者でインドシナに滞在した経験のある小松清(小松のインドシナとの関係については以前のブログを参照)が編集長をつとめ、巻頭には改造社社長の山本実彦が、「A LETTER TO MR. ROOSEVELT(ローズベルト氏への手紙)」を執筆している。山本はここで日本の南方進出の正統性を訴え、同時にイギリスやアメリカがアジアを圧迫してきた歴史を縷々述べている。記事としてはこの他に、「日米問題」と題する座談会、「日本におけるアメリカ文学」が載っているが取り立ててみるべきものはない。
 1941年(昭和16)7月、日本軍が南部仏印に進攻すると、「NIPPON」の海外での販売体制が大きく変わることになった。「NIPPON」は外務省、陸軍省、参謀本部が買い上げて海外で配布するほかに、時期によって異同はあるが、アメリカのニューヨーク、ドイツのハンブルク、フランス・パリ、南米のサンパウロ、ブエノスアイレス、北京、そして中東のテルアビヴに販売代理店を置いていた。それが1941年12月30日発行の第28号からは、雑誌にアメリカの書店が見当たらなくなる。中国での戦火が拡大し、やがて太平洋戦争が始まるとともにアメリカでの販売が打ち切られ、代わって日本軍が支配下に置いた東南アジアへ向けて送り出されることになったのである。
 さらに1942年(昭和17)9月の第29号からは、版型が見開きB3からA3のサイズへと縮小され、用紙もザラ紙となり、表紙には題字として漢字の「日本」が追加された。こうした体裁の変更にともなって内容も変化した。記事のほとんどが英語で書かれ、これまでのようなフランス語、スペイン語は姿を消し、「A Course in Nippongo」という日本語学習の欄が設けられた。この企画の2回目では、帽子をかぶった日本人の横顔、「日の丸」の国旗、翼に日の丸をつけた飛行機、桜の写真が掲載されて、簡単な日本語による説明が行われている。さらにはこれまで英語でJapanと表記していた国名を、すべてNipponと変えている。
 スタートにおいては、欧米の知識人や一般の人びとに日本の実情を紹介する目的をもっていた「NIPPON」は、当時のいわゆる大東亜共栄圏向けの宣伝雑誌に変質していったのである。日本工房に招かれて、第30号以降の編集長をつとめた三浦逸雄は、当時の状況をこう回想している。
 「雑誌「NIPPON」はプロアメリカで自由主義の雑誌といわれ、内閣情報局や軍報道部からにらまれていた。・・・言論の圧迫は厳しかったが、戦争記事は載せなかったし、東条英機の演説は絶対にとりあげなかった。部数1万部以上の雑誌の検閲は厳しかったが、「NIPPON」は小部数だったので、そうした反骨も示せた。それでもたびたび情報局へ呼ばれて叱られたが、まいったのは、内容が軍の気に入らない号だと宇品港〔広島〕に積まれたままで輸送船に乗せてくれなかったことだ。」(中西昭雄『名取洋之助の時代』所収、朝日新聞社、1981年)
 三浦はイタリア文学が専門で、文芸雑誌「セルパン」の編集長をつとめるかたわら、『ムッソリーニ全集』の翻訳も手がけて、右よりと見なされており、そうした人物に編集をまかせることで当局の検閲に対処しようとしたのであろう。「NIPPON」は敗戦の前年である1944年(昭和19)9月の第36号まで続くが、この年に刊行できたのはこの一号だけであった。
 名取洋之助自身は戦時中の「NIPPON」について多くを語っていない。1963年(昭和38)に書かれた『写真の読みかた』に述べられているのは、次のような評価である。
 「(前略)報道写真家の私が、こうして対世界的な仕事をしているのが刺激になって、日本に報道写真家が誕生することに成功したようです。今日一流の報道写真家といわれる土門拳、藤本四八、牧田仁などの諸氏が、当時、私と一緒に仕事をした人々の中から出ているのも、その一つの現れかもしれません。(中略)〔「NIPPON」は〕印刷の面で、グラフ雑誌のレイアウトの面では、最後まで注目される仕事をつづけました。レイアウトこそグラフ雑誌編集の心棒で、とくに組写真によって物を語るためには視覚を重視して組むことの重要性は第一に考えなければならなかったからです。「NIPPON」はそうした雑誌の校正と、それを的確に表現する印刷技術にはことに力を注いで、この二つの面では時代感覚の先駆をなしたといまも思っています。」
 雑誌「NIPPON」は、たしかに世界の潮流に伍して報道写真を日本に定着させ、フォト・ジャーナリズムの魁となった。さらにデザインのうえでも大木の足跡を残した。ただ「NIPPON」に掲載された写真をあらためて眺めてみると、そこには前線の兵士の実像や当時の日本占領下にあったアジアの民衆の姿は映っていない。国策に沿って発行せざるをえなかった雑誌の限界であった。
 名取によれば戦前に撮影された写真の多くが終戦の際に焼却されたという。だが今回の展覧会では名取が撮った写真の貴重なコンタクト(ベタ焼き)なども展示されていて注目される。名取は戦後も「週間サンニュース」や「岩波写真文庫」などを企画し、編集長格として写真ジャーナリズムの世界をリードした。
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by monsieurk | 2013-12-28 22:30 | メディア | Trackback | Comments(0)
 「NIPPON」は1934年(昭和9)10月の創刊号から1944年(昭和19)9月に最終号となった第36号を出すまでの9年11カ月の間、年間ほぼ4冊の割合で刊行された。合計36冊の雑誌は、その傾向から三つの時期に分けられる。創刊号から第12号(1937年7月)の第1期、第13号(37年10月)から第28号(41年12月)の第2期、そして第29号(42年9月)から最終第36号(44年9月)に至る第3期である。
 1937年(昭和12年)は世界の緊張が一気に高まった年である。前年7月に始まったスペイン内戦では、この年4月26日にスペイン北東部の山間の街ゲルニカがドイツ空軍のコンドル部隊の空襲をうけて、一日で人口7000人の街が破壊された。これは都市に向けて行われた初めての無差別爆撃であり、ニュースに接したパブロ・ピカソは、5月1日からパリで始まる万国博覧会のスペイン館のために、壁面を飾る大作《ゲルニカ》を制作した。そしてこの年7月7日の深夜には、盧溝橋で日本軍と中国軍が衝突して日中戦争が始まった。
 時代の変化は雑誌「NIPPON」の内容に敏感に反映された。名取洋之助はこの時期になると中国に滞在することが多くなり、雑誌の編集は飯島実、小林正寿、除村一学たちの手で行われるようになった。そして雑誌には中国関係の写真と記事が目立って多くなった。対象とする読者の対象も、第一期が主にヨーロッパや中南米であったのに対して、アメリカへと移っていった。
 「NIPPON」は第9号以降、毎号主なテーマを決めて編集するスタイルをとり、日中戦争に世界の関心が集まるなかで、中国に関する写真報道と記事が多くなっていった。こうした写真や記事がどんな視点で撮影され、執筆されているかを検証してみると、明らかに日本の国策に沿ったものになっていることが分かる。
 第14号(1938年2月)では、「中国(当時の呼称は支那)の農民」という特集が組まれている。写真の撮影は名取洋之助で、記事は中国通として知られる尾崎秀実が書いている。尾崎は中国共産党が行っている土地政策を評価し、中国での日本政府の政策を暗に批判した。これは日本に対して友好的な農民の姿を取り上げている名取の写真とは明らかに視点が異なっていた。尾崎はこのほかにも、第15号では「中国はいずこへ」、第16号「黄河と中国文明」を執筆している。
 このように一冊の雑誌で、写真と記事、あるいは記事と記事の間で、問題を取り上げる姿勢が統一されず、しかも政治や軍事に関するテーマが次第に少なくなっていった。編集には、評論家の長谷川如是閑、哲学者の谷川徹三、朝日新聞のコラムニスト杉山平助などが顧問として参加して、名取のブレーン役を果たした。当時彼らは自由主義者として知られ、テーマの選択には彼らの意見が反映されたと考えられるが、同時に日本の現状を世界に向けて発信するという雑誌の性格から検閲を意識していた。第18号(1939年7月)は「朝鮮特集」、第19号(同年10月)は「満州特集号」として発行され、友好的な「満州国」をアピールしている。写真は五族協和を謳いあげるために、日本人を中心に満面に笑みを浮かべた五つの民族の顔が並んでいる。満州問題をきっかけに国際的孤立を深める日本の満州政策を世界に認めさせようとする意図が明白である。雑誌は戦争の劇化とともに政府や軍の政策に沿った編集を行うようになっていた。
 この間、名取洋之助は軍との話し合いで、「上海事変」の取材許可を手に入れて、カメラマンを戦場に送り込むことに成功した。並行して、1938年(昭和13)11月には上海にプレス・ユニオン・フォトサーヴィスを設立し、外国へ写真を提供する仕事の拠点とした。さらに英文のグラフ雑誌「SHANGHAI」も創刊したが、この雑誌は反蒋介石の主張を打ち出す目的をもっていた。そして翌39年4月には、南支那派遣報道部をスポンサーにした英文の月刊誌「CANTON」が発刊された。これは香港の佳境や中国在住の外国人を対象に、日本がいかに中国を理解し、中国の近代化を援けているかを宣伝するものであった。
 1939年(昭和14)5月、これまで名取洋之助が主宰してきた日本工房は、「国際報道工芸株式会社」に改組され、組織強化と財政のテコ入れが行われた。(続)
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by monsieurk | 2013-12-26 22:30 | メディア | Trackback | Comments(0)

名取洋之助Ⅲ「NIPPON」

d0238372_1018013.jpg 名取洋之助が中心となったグラフ雑誌「NIPPON」の創刊号は、1934年(昭和9)に刊行された。巻頭には「軽井沢・日本」と題したルポルタージュを掲載したが、これは避暑地で過ごすイギリスやフランスの駐日大使館関係者を扱ったもので、多くの写真によって、避暑地の優雅な光景が写し出されている。このほかに特集として、「東京市と市長」、「日本の近代建築」があり、さらに文学、美術、舞踏、音楽、産業界の現状を伝えている。これに「日本経済飛躍の概括的原因」と題する論文、「日本の織物工業」をめぐるルポルタージュ、歌舞伎、新劇、映画、日蝕、自動車道路、水泳、旅行案内と続いている。
 画期的なのは、詩人堀口大學のスペイン語による詩「印象」が掲載されていることである。堀口大學は外交官の父九萬一の任地である南米で過ごしたことから、スペイン語に堪能だった。
 これらの多様な内容が、120点の写真と英語、フランス語、スペイン語の記事とで紹介された。全体は64ページ、アート紙を用いた豪華な写真入り雑誌がこうして誕生した。文化の分野を中心とした内容は初期には大体踏襲されており、欧米諸国の読者をターゲットとしていたことがわかる。
 「日本工房」は雑誌発行と並んで、スタッフが撮影した報道写真を世界中の通信社に販売する体制も整えた。名取がドイツで学んだ「写真通信社(エージェント)」の日本版であった。工房は宣伝部をもたない会社や商店の宣伝広告の企画、ポスター、パンフレットの制作を手がけたが、これだけでは事業を継続する資金が足りなかった。そこで名取は知り合いの鐘紡社長の津田信吾に、雑誌発行の資金を援助してくれるように頼んだ。鐘紡は商品の多くを外国に輸出しおり、日本は近代的工業国のイメージに乏しく、品質が悪いという先入観を打破する上でも、日本の現実を紹介する雑誌は役立つと考えたのである。これは当時の産業界全体の願望でもあった。
 だが日本を海外に紹介する豪華雑誌の出版は、自助努力や私企業からの援助だけでは成り立たなかった。そのため名取と営業担当の影山稔雄は、外務省情報部や陸軍省の新聞班と接触した。「日本工房」の側には資金調達のほかにもう一つの思惑があったと、影山は述べている。
 「時代の雲行きがあやしいので、創刊号ができたときから軍部をバックにして応援してもらおうと考えた。参謀本部、陸軍省新聞班、海軍省軍事普及部の将校を赤坂の星カ丘茶寮に呼んで、名取さんと一席設けたことがあった。海外への輸送がむずかしくなったときに便宜をはかってもらうためと、できれば財政支援も頼みたかった。海軍は乗り気でなかったのを覚えている」(日本工房の会編、「NIPPON 先駆者の青春 名取洋之助とスタッフの記録」1980年)
 「NIPPON」刊行に当たっては、陸軍省が資金援助をあたえたほかに、外務省の外郭団体である「財団法人国際文化振興会」も、関係者が記事を書き、一定部数を買い上げ、やがて日本工房の経営が苦しくなると資金を提供した。こうして写真家たちの熱意から企画された雑誌「NIPPON」は、資金調達の面で、陸軍省、外務省、さらに財界の一部と深い結びつきを持つことになった。(続)
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by monsieurk | 2013-12-24 22:30 | メディア | Trackback | Comments(0)

名取洋之助Ⅱ「組写真」

d0238372_12324765.jpg 名取洋之助を中心にした「日本工房」は1933年(昭和8)8月に設立された。同人として集まったのは名取のほかに、写真家の木村伊兵衛、写真評論家の伊奈信男、グラフィック・デザイナー原弘、プランナー役の俳優、山内光(岡田桑三)であった。名取はさっそく「ライカによる文芸家写真展」や「報道写真展」を開催し、こうした活動を通して報道写真を日本に根づかせようとした。
 報道写真とはもともとドイツの新即物主義の芸術運動から生まれた「ルポルタージュ・フォト」という言葉を翻訳したものである。報道写真は写真の即物性を生かして、現実の伝達に徹しようとするものだった。だが一枚の写真は、観る人の知識の程度や置かれた環境によって解釈が異なる。こうした写真の性質が、ときに伝達手段として混乱を引き起こす。これは報道写真にとってはの見逃せない宿命だった。
 この弱点を克服するために考え出されたのが「組写真」である。一枚では多義的である写真を何枚か並べることで、その意味を限定し、しかもある物語を表現できるようになる。さらにカメラマン、あるいは編集者の意図したように読ませることも可能となる。こうして「組写真」が報道の有力な手段として活用されるようになった。しかもこの方法を用いれば、表面的な事実だけでなく、人間の内面や抽象概念までも表現できると考えられた。
 ソビエトの映画作家プドフキン(Vsevolod I. Pudovkin)は、「街頭をいくデモ行進について、明瞭な観察を得ようとする傍観者は、まず屋根にのぼって全体をみわたし、規模を見定めたあと、三階から彼らが持っているプラカードやポスターの文字を読む。そしてその後で、行進の列の中に入って参加者の顔を見る。すなわち正確な状況を把握するためには、三度その位置を変えるが、カメラはこの観察者の立場にたつことによって、能動的な観察者に変わる」と述べている。
 これは現実を撮影する基本であり、組写真の意図にそっくり当てはまる。写真は一枚では使いにくい表象記号だが、幾枚かを組み合わせることによって、この使いにくさ、曖昧さからある程度脱することができた。
 名取たちがドイツで学び、日本に輸入しようとした報道写真とはこうしたものであった。しかし「日本工房」は同人の対立から、設立からわずか一年足らずの1934年3月には解散してしまった。名取と別れた伊奈、原たちは「中央工房」をつくり、名取は解散の2カ月後には「日本工房」を再建して、メンバーを新しくするとともに、報道写真雑誌「NIPPON」を創刊した。新たなメンバーは写真を名取洋之助、渡辺義雄、堀野正雄らが撮り、雑誌のレイアウトは資生堂宣伝部で活躍していた山名文夫が担当した。この他には営業と実務を飯島実と影山稔雄が受け持った。その後、デザイナーの河野鷹思、亀倉雄策、カメラマンに土門拳が参加するが、20歳前半の彼らは、この第二次日本工房で育っていったのである。(続)
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by monsieurk | 2013-12-22 22:30 | メディア | Trackback | Comments(0)
 日本に「報道写真」の考えを持ち込み、新しいデザインと写真の発展に大きく寄与した名取洋之助(1910-1962)の生涯と仕事を紹介する回顧展「報道写真とデザインの父 名取洋之助展」が、東京・日本橋の高島屋で12月18日から29日まで開かれている。
 名取洋之助とはいかなる人物だったのか。以下に放送大学で行った講義「報道写真雑誌『NIPPON』」を要約して紹介する。

d0238372_12301323.jpg 1920年代前半、ワイマール共和国時代のドイツでは、ベルリンを中心に自由で革新的な芸術が華ひらき、現代文化の発信地となった。この時代はまた写真ジャーナリズムの黄金期でもあった。「 ベルリーナ・イリュストリールテ・プレッセ(Berliner Illustrierte Presse)」や「ミュンヘンナー・イリュストリールテ・プレッセ(Műnchener Illustrierte Presse)」は、200万部の発行部数をほこり、ドイツ国内だけでなく全世界に販売された。
 そんな世界で一人日本人が仕事をしていた。名取洋之助である。名取は1910年(明治43)に東京で生まれ、慶応義塾普通部に進み、やがて17歳でドイツ・ミュンヘン美術工芸学校に留学した。在学中に演劇や美術工芸に興味をもったが、やがて名器と呼ばれる手持のカメラ「ライカ」と出会って、写真に熱中するようになった。そして1930年(昭和5)にエルナ・メクレンブルクと結婚。彼女は機能美を追及するバウハウス(Bauhaus)系のグラフィック・デザイナーであった。バウハウスは1919年に設立された総合的な造形学校で、ワルター・グロビウスを校長に、パウル・クレー、ワシリ・カンディンスキー、オスカー・シュレーマーといった芸術家が教授陣に名を連ねる現代芸術の拠点であった。ここでは機会や技術によってもたらされる感覚や思想を評価し、この考え方は建築や造形芸術に大きな影響をあたえつつあった。名取洋之助がドイツへ渡った理由の一つもこうした新しい芸術理念に興味を惹かれたからである。
 ある日、妻のメクレンブルクがたまたま撮影した「焼け跡で自分の作品を探す工芸家」の写真が、週間グラフ雑誌「ミュンヘンナー・イリュストリールテ・プレッセ」に掲載されたことから、写真で金が稼げることを実感した名取は、写真を一生の仕事にすることを決意したという。
 名取は写真家として実績を積み、やがてドイツ有数の出版社ウルシュタイン社の契約カメラマンとなり、1932年(昭和7)には同社の特派員として日本に送られて、祖国の生活や文化をあらわす写真を撮った。3カ月におよぶ滞在と外国の出版社のために日本の現実を取材した経験が、2年後に創刊する写真雑誌「NIPPON」に結びついていく。
 1933年はヒトラーが政権の座についた年である。ヒトラーのナチス政権はドイツ国内での外国人ジャーナリストの活動を厳しく制限する政策をとり、ドイツの写真雑誌の編集社も体制に忠実であるかどうかで選別された。その結果ドイツの雑誌はトップの座を、フランスの写真誌「Vu」(1928年創刊)とアメリカの「ライフ」(1936年創刊)にとって代わられることになる。「 ベルリーナ・イリュストリールテ・プレッセ」の編集長をしていたユダヤ人のコルフはドイツを追われるとニューヨークに渡り、週刊誌「タイム」と経済紙「フォーチュン」を出版していたタイム社の社長ヘンリー・ルースの要請に応えて、アメリカ向きの週間グラビア誌を企画し、1年がかりで創刊した。これが「ライフ」だった。
 ヒトラーが政権を握った1933年8月、名取洋之助は中国東北部(満州)を中心に取材中に、ウルシュタイン社特派員の肩書きのまま日本に戻り、祖国で写真家として仕事をする決意を固めた。「生きた現代の日本を、新しい写真で外国に知らせる仕事を組織的にやってみよう」(名取洋之助『写真の読み方』、岩波新書、131頁)と考えたのである。
 時あたかも「満州事変」が起こり、孤立を深める日本の動向に世界の注目が集まるようになっていた。(続)
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by monsieurk | 2013-12-20 22:24 | メディア | Trackback | Comments(0)

ネルソン・マンデラの友

 「ネルソン・マンデラ氏、死去」のニュースは世界中で大きな反響を呼んだ。第一報をうけて、フランスではテレビやラジオが一日中このニュースを流し、関係者や識者をスタジオに呼んでマンデラ氏の業績とその不屈の精神を讃えた。「ル・モンド」、「リベラシオン」、「ル・フィガロ」などすべての新聞が、第一面から数ページぶち抜きの特集を組んだ。
 12月8日付の「ル・フィガロ」は「論説」欄で、「他のいかなる人物に対して、祖国はもとより、アメリカ、フランス、英国、そしてアフリカ大陸のほとんどの国が、半旗を掲げるようなことがあるだろうか。ネルソン・マンデラの死去は、人種、文化、イデオロギーの違いを超えた、いわば全人類にかかわる出来事なのである。木曜日の夜以降、わたしたちみなが南アフリカ人になった。それはケネディー暗殺や2001年9月11日のテロ攻撃のあと、アメリカ人になったのと同様である」と書いた。
d0238372_19184877.jpg 新聞には、自由のために戦ったマンデラの生涯を記録した数々の写真が掲載されたが、そのなかにマンデラと親しげに話す白人女性の写真があった。1991年にノーベルに文学賞を受賞した南アフリカの作家ナディン・ゴーディマである。
 ゴーディマの小説『バーカーの娘』(1979年)は、南アフリカのアパルトヘイト(人種分離法)と戦い続けた白人一家の物語である。ゴーディマはアフリカ国民会議(ANC)が非合法の時代から運動に加わり、アパルトヘイトに反対するデモに積極的に参加した。1990年、ネルソン・マンデラが27年におよぶ投獄生活から釈放され、アパルトヘイト体制崩壊がはじまるが、作品はフィクションながらこの歴史的事実を忠実に描いており、南アフリカの現実を知る手がかりをあたえてくれる。
 さらにもう一つの小説『この道を行く人なしに(None of Accompany Me)』(1994年、このタイトルは芭蕉一句からとられた)の主人公ヴェラ・スタークは女性弁護士で、アパルトヘイト廃止後に、白人地主に奪われていた土地を取り戻そうとする黒人たちの側に立って問題解決に奔走する。追い込まれた白人たちの強硬派は、テロや暗殺で運動のリーダーたちを消し去ろうとする。そうした情況のなかで改革が進められたのには、少数の白人改革派の努力があった。これもまた南アフリカでの歴史的事実で、作品はそれを描き出す。
 ネルソン・マンデラが大統領に選らばれたあと、南アフリカは1995年にラグビーのワールドカップを開催した。この大会で白人と黒人で構成された南アのナショナルチームは優勝をはたし、人種の違いをこえた国民の一体感をつくりだすことに成功した。小説の主人公ヴェラは、こうした新体制のもとで憲法制定委員会の委員に抜擢される。
 ヴェラは公的活動の一方で、私生活では問題をかかえている。年下の青年と関係をもち、最後には夫と子どもと別れて、ともに闘ってきた男性と同居生活をはじめる。彼女はここでも性や人種の違いをこえた新しい人間関係を築こうとする。
 「友とはなにか。友とは、異なった個人でありながら、告白や秘密を打ち明けられる存在のことだ。こうした友情という行為では、自己のさまざまな面のすべてを一人の友人に託すことはできないけれども、しかし相手の内部に自己の重荷を下ろすことはできる。ヴェラがかつてそう定義した性行為とまったく同じだ。」(福島富士男訳『この道を行く人なしに』)ヴェラは南アフリカの現実を見据えつつ、女性としての性の欲望もふくめた自己を肯定し、その上で人種をこえた友情に未来を託そうとする。ここにはナディン・ゴーディマ自身の体験と思想が色濃く投影されている。
 ノーベル文学賞授賞の翌年、彼女は来日した際に開かれた座談会で、こう語っている。「何世代にもわたって小説は死んだといわれてきましたが、いつも死者は蘇ってきました。なぜかというと、なぜかというと、物語というのは、有史以来ずっと続いてきたものです。人間の意識の一部に物語があるのです。しかし物語にとってかわってテレビが出てきたことは、文学にとってたしかに大きな脅威となっていることは事実です。(中略)しかし、逆のような現象もあります。文学というのは、多くの戦いを経て芸術の民主的な一つの形態になったのです。識字率が高まるにつれて文学が広く読まれるようになりました。ところが識字率が現在ではかえって落ちてきているのです。単に開発途上国だけでなく、全体の、ほんとうの意味での読み書きの能力が落ちてきているのです。それで、かつて文学は、字の読めるエリートだけのものだったのですが、そういう時代に戻りつつあるのかもしれませんね。」(岩波ブックレット『ナディン・ゴーディマは語る』)
 ネルソン・マンデラは故郷である東ケープ州クヌの地に埋葬された。カリスマ的存在を失った南アフリカは、いままた広がりつつある経済的、文化的格差をいかにして埋めようとするのか。
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by monsieurk | 2013-12-18 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)

浄瑠璃の美しさ

d0238372_1949214.jpg 帰国する機内で映画「最後の忠臣蔵」を観た。池宮彰一郎の小説を映画化したもので、2010年に公開されたが、これまで観る機会がなかった。監督は杉田成道。役所広司、佐藤浩一主演で、討ち入り前夜に逃亡し、卑怯者とされた瀬尾孫左衛門が、じつは大石内蔵助に頼まれて、大石の隠し子、可音(かね)を守るために身を隠したのが真相だったというストーリーである。映画それ自体も面白かったが、映画の中に挿入される文楽『曽根崎心中』の語りの美しさにうたれた。イヤホーンで聴き入るうちに、飛行機の爆音もまったく気にならなくなるほど惹きこまれた。
 映画では、芝居小屋で演じられている人形浄瑠璃『曽根崎心中』を、16歳になった可音が観に行き、その可憐な美しさを豪商茶屋四郎次郎の息子が見初めたことから話しが展開する。そして場面の随所に挿入されるお初・徳兵衛の道行が、いつしか歳の離れた孫左衛門を慕うようになった可音の心情を伝える役をはたしている。
 「この世の名残り 世も名残り 死に行く身をたとふれば あだしが原の道の霜 一足ずつに消えて行く夢の夢こそ あわれなれ・・・」と語る豊竹咲太夫の語り口は明瞭で独特の艶があり、太棹三味線の旋律と絡みあって譬えようもなく美しく聴こえた。
 じつはこれには布石があって、パリ日本文化会館の審議会が終わったあと、出席者一同は駐仏日本大使公邸で、鈴木庸一大使から和食の晩餐をご馳走になったのだが、その席で審議委員の一人から、歌舞伎や文楽の現状を聴かされたのである。彼は10歳のとき父親に連れられて歌舞伎を見に行き、以来歌舞伎や文楽を観つづけてきた人である。
 話しは今年9月から10月にかけて、マドリッド、ローマ、パリで公演された文楽に及んだ。現代美術の杉本博司氏が構成・演出し、桐竹勘十郎らが出演した『曽根崎心中』はヨーロッパの人びとに狂的に迎えられたという。それに比べて日本での文楽人気には翳りが見え、知事が助成金を出さないなどの問題が尾をひいて、大阪の文楽座は空席がある状態だという。「杉本文楽」の海外での成功が、文楽を救うことになるかもしれないというのが同氏の見立てであった。そんな話を聞いたあとの『曽根崎心中』はよけい心に沁みた。
 1931年(昭和6)、アンドレ・マルローは妻のクララと連れ立って、近東、ペルシャ、インド、蒙古、中国を経て、10月7日に日本に着いた。マルローこのとき上海から神戸に来る長安丸の船中で、たまたま耳にしたレコードにすっかり魅せられた。それが浄瑠璃だった。京都、奈良を旅行したあと滞在した東京で、同行した小松清とともにそのレコードを探しまわったという。小松が紹介している逸話だが(「人間マルロオ」、『アンドレ・マルロー』所収、新樹社、1949年)、これが単なるマルローの異国趣味(エキゾシズム)でなかったことが今回の体験でよく分かった。
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by monsieurk | 2013-12-15 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

「侍」の日本人論

 こちらに置いてある遠藤周作の小説『侍』を久しぶりに読んだ。慶長遣欧使節団の支倉常長(六右衛門)の長く苦しい旅を題材にして、人の運命と信仰の意味を問う作品にあらためて感銘をうけた。今年は慶応の遣欧使節団一行が仙台藩の港月の浦(現石巻)を1613年10月に出帆してからちょうど400年目にあたる。
 遠藤の作品は、主人公の「侍」が藩主の命により、通訳兼案内人の宣教師ベラスコ(実在のフランシスコ会の宣教師ルイス・ソテロをモデルにしている)に伴われて、太平洋を渡り、ノビスパニア(メキシコ)を横断、エスパニア(スペイン)そしてローマまで旅して、ローマ教皇に謁見したあと帰国する物語である。長い旅の末に「侍」は形の上だけとはいえキリスト教に帰依するが、帰国した故国ではキリスト教禁教令が出されており、それを理由に処刑されてしまう。だが死を控えた彼は、最期にはキリストへの信仰に目覚める。
 フランスに来てこの小説を読んで考えさせられたのは、宣教師ベラスコが日本での布教の可能性について、対立するペテロ会(イエズス会がモデル)のヴァレンテ神父と議論を交わすくだりである。日本で30年の布教経験があるヴァレンテ神父は、居並ぶ大勢の司教を前にこう言う。
 
「あの日本人たちは・・・私の長い滞在生活でわかったことですが・・・この世界のなかで最も我々の信仰に向かぬ者たちだと思うからです」
 神父はその時、皮肉な苦笑を頬から消して、今度は悲しそうな眼差しでベラスコを眺めた。
「日本人には本質的に、人間を超えた絶対的なもの、自然を超えた存在、我々が超自然と呼んでいるものにたいする感覚がないからです。三十年の布教生活で・・・私はやっとそれに気づきました。この世のはかなさを彼らに教えることは容易しかった。もともと彼らにはその感覚があったからです。だが、怖ろしいことに日本人たちはこの世のはかなさを楽しみ享楽する能力をあわせ持っているのです。その能力があまりに深いゆえに彼らはそこに留まることのほうを楽しみ、その感情から多くの詩を作っております。だが日本人はそこから決して飛躍しようとはしない。飛躍して更に絶対的なものを求めようとは思わない。彼らは人間と神を区分けする明確な境界が嫌いなのです。彼らにとって、もし、人間以上のものがあったとしても、それは人間がいつかはなれるものです。たとえば彼らの仏とは人間が迷いを棄てた時になれる存在です。我々にとって人間とはまったく別のあの自然さえも、人間を包みこむ全体なのです。私たちは・・・彼らのそのような感覚を治すことに失敗したのです」
 司教たちは思いがけないヴァレンテ神父の言葉に重く沈黙した。遠い国に送られた宣教師のなかでこれほど絶望的な言葉を洩らした者は今までなかった。
「彼らの感性はいつも自然的な次元にとどまっていて、決してそれ以上、飛躍しないのです。自然的な次元のなかでその感性は驚くほど微妙で精緻です。が、それを超える別の次元では把えることのできぬ感性です。だから日本人は、人間とは次元を異にした我々の神を考えることはできません」(新潮文庫版、246-247頁)

d0238372_17302023.jpg これは遠藤周作が自らの内に見出したわたくしたちの本質であり、幼い時に洗礼をうけながら、キリスト教徒としてあるときは苦しんだ遠藤の実感だったにちがいない。いささか類型的な日本人観にも思えるが、信仰篤いフランス人と会い、確信をもって語るその話を聴く度に思い当たる点でもある。壮麗な教会、壮麗な内陣、そこにある架刑のイエス・キリスト像(遠藤が「侍」をして言わせる、「痩せこけ、両手を釘づけにされた男)を目にしながら、わたくし自身は「絶対的なもの」の存在をいまだ信じられないでいる。
 明日はシャルル・ドゴール空港から帰国する。羽田着は午前6時過ぎの予定で11時間半のフライトである。支倉常長たち使節団は、ローマを1616年1月7日に発って仙台に帰り着いたのは1620年9月22日だった。
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by monsieurk | 2013-12-12 22:30 | | Trackback | Comments(0)

パリ日本文化会館の活動

d0238372_17262883.jpg パリにある「日本文化会館」の審議委員会が12月9日に開かれ、委員の一人として出席した。日本文化会館は国際交流基金が運営に当たっており、1982年に当時のミッテラン大統領と鈴木首相の間で、パリに日本の文化会館をつくることが合意され、1997年9月に開館した。それから丸15年がたつ。
 ここは日本の文化をフランスだけでなくヨーロッパの人たちに知ってもらうための窓口を目指しており、展覧会、舞台公演、日本映画の上映、日本語教室、さまざなま分野の人たちの講演や討論会などを行ってきた。
 いま海外の若い人たちを中心に「クール・ジャパン」が流行していて、マンガなどのポップ・カルチャーやファッションを中心に、日本の新しい文化が受け入れられている。フランスでも本屋には必ずといってよいほど「Manga」のコーナーがあり、パリなどで日本週間が開催されると、人気アニメにあやかったコスチュームの若い人たちが大勢集まる。こうした「クール・ジャパン」が日本への関心を広めた功績は大きいが、日本文化会館の活動は日本に対して関心を持つ人に対する、伝統的な文化の紹介と普及に力を入れてきた。
 大きな反響を呼んだ一つに「縄文展」がある。縄文時代の土器や埴輪を展示した展覧会には当時のシラク大統領が訪れて、予定の時間をオーバーして熱心に見てまわった。フランスと日本の交流を示した「黒田清輝から藤田嗣治まで~パリに学んだ洋画家たち」も大きな反響を呼んだ。
 今年2013年の目玉は、「加賀百万石―金沢に花ひらいたもう一つの武家文化」で、加賀宝生流のお能、加賀象嵌と呼ばれる金工細工の実演などが12月14日まで行われている。加賀象嵌には19世紀末に流行した「アール・ヌヴォー」が影響をあたえるなどの交流があり、展覧会や講演会は日本人の美意識がよく理解できると好評である。
 今年2013年の来館者は18万人に達すると予想され、一番多いのは図書館の利用。次いで日本語講座、映画会、展覧会の順だが、公演では文楽の舞台が大きな関心を呼びんだ。また桂文枝氏が襲名記念に行った公演では、落語の面白さが十分伝わったし、知的な交流としては、ノーベル賞文学賞を受賞した大江健三郎さんの話が関心を呼んだ。大江氏はフランスの作家で哲学者のジャン=ポール・サルトルを読んで文学をやろうと決心し、大学では16世紀の作家ラブレーの専門家の渡辺一夫先生に師事して、ユマニスムの精神を学んだことが、後の大江さんの文学に影響をあたえた。その意味でフランスと深くつながっている。
 フランスの「ヌヴェル・キュイジーヌ」は、フランス人のシェフたちが日本食の味付けや盛り付けの美しさにショックをうけて、フランス料理の改革がはじまったものだが、いまでは味噌を隠し味にするシェフが沢山おり、家庭料理にも和食の味が取り入れられつつある。日本文化会館にあるキッチンを利用した料理教室では、多くのマダムやムッシュが日本料理を学んでいる。去る12月4日にアゼルバイジャンで開かれた会議で、和食がユネスコの無形文化遺産に正式に登録されたこともあり、ますます関心を呼ぶと予想される。
 9日に開かれた審議委員会は竹内佐和子館長の諮問機関で、フランス側、日本側それぞれ10人ほどの委員がおり、会館の運営や事業について来年以降も力を発揮するための方針を話し合った。フランスの中学や高校で日本語を教えるところを増やす方策や、フランスの研究機関との連携、あるいは日本文化をフランスの地方やアフリカ諸国にむけてどう発信するかなどが課題として浮かび上がった。こうした拠点は世界中に22あるが、パリの日本文化会館が一番大きく、これまでここを訪れた人は開館以来130万人に達する。日本の文化やその精神を広く世界の人たちに知ってもらえるのは嬉しいことである。
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by monsieurk | 2013-12-10 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)