フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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<   2014年 01月 ( 10 )   > この月の画像一覧

 近くの古本屋で1冊100円の山のなかから、安田武・多田道太郎『「〈いき〉の構造」を読む』(朝日選書132、1979年)を見つけた。「〈いき〉の構造」は、言わずとしれた九鬼周造が雑誌「思想」に1930年(昭和5)1月号と2月号に発表し、同年11月に単行本として岩波書店から刊行されたものである。九鬼はこのとき京都帝国大学文学部講師だった。
 1882年(明治15)、東京に生まれた九鬼周造は東京帝国大学哲学科大学院を終了後ヨーロッパに留学、最初はドイツで新カント派を学んだがあきたらず、フランスに移ってアンリ・ベルクソンの影響を強く受けた。その後ふたたびドイツに戻り、今度はマルティン・ハイデガーから現象学の講義を直接うけるなど、留学は8年に及んだ。
d0238372_1226554.jpg 帰国すると京都帝国大学の倫理学教授だった天野禎祐が京大に呼んだのである。当時の京大哲学科は、西田幾多郎や田辺元などのへーゲルやカントに禅の思想を合体してつくられた独特の哲学が全盛で、フランス哲学やドイツでもハイデガーのような現象学を学んだ九鬼はなんとなく傍流とみられていた。
 私が京都大学文学部・文学研究科に赴任したのは1996年(平成8)のことだが、その数年前まで、文学部教授会では、哲・史・文というように席順が決まっていた。哲学には西洋哲学、日本思想史、中国哲学、インド思想の教授がおり、依然として重きをなしていた。
 九鬼が「〈いき〉の構造」の構想を得たのはパリ滞在中のことで、九鬼は「いき」という日本語に相当する外国語がないことから、「いき」という概念の考察をはじめる。「いき」はcoquetともraffinéとも違い、どちらかといえばchicが比較的近い。それでも「いき」は、フランス語の「シック」とはニュアンスが異なる。
 では「いき」とは何か。
 以下に、読み巧者の多田道太郎、安田武両氏のやりとりを引用する。

多田 「〈いき〉の構造」で九鬼さんが言いたかったこと、根本的発想は、

媚態とは、一元的の自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。

 これだと思うね。これを思いついたんじゃないかな、パリで。
 つまり女の媚態というのは実はベタッと行くのではなくて、異性というものを置いて、それとどういう可能的関係があるかを模索する二元的態度であると。俗に言えば男と女が一緒になって緊張感がなくなると、媚態はなくなってしまう。緊張しながら二元論でずうっと行くというのが、「いき」のなかの媚態の要素ですね。これが九鬼さんの発想の根本にあって、そこから、縦縞が「いき」だとか、いろいろな発想が出てくる。
 すぐあとに、「この二元的可能性は媚態の根本的存在規定であった」と書いているのは、媚態の本質がそういうものであることを言っているわけだし、それにつづいて、「異性が完全なる合一を遂げて」というのは、難しく言っているけれども、要するにやってしまってということだろうと思うのですが(笑)、「緊張性を失ふ場合には媚態はおのづから消滅する。」
安田 学者っていうのは難しいことを言うなと僕は思うんだけれども、(中略)「いき」っていうのは下品に陥ろうとするスレスレのところにあるものなんだな。上品で行こうとするぶんには別に問題はないけれども、「いき」で行こうとすると、下手をすると下品になる可能性を絶えず孕んでいる。
多田 頑張っているって感じがしたら駄目なわけね。女の媚びってのは、いやらしいとか下品になる可能性を含みながら、上品な媚態というのは、どことなく、はかない、もろい、動いていく、桜の花のようにすぐ散っていくような、そういうものがある。そういう場合は、「いき」な感じがたしかにしますね。

 九鬼は「いき」の特徴として、「媚態」、「意気地」、「諦め」をあげている。そして男女関係にあってはこの三つのなかでも「媚態」がもっとも大切だという。

 「いき」は媚態でありながらなほ異性に対して一種の反抗を示す強みを持った意識である。

 ところで、この『「〈いき〉の構造」を読む』には興味深い記述がある。それは安田武が指摘していることで、「いき」にも上方と江戸文化では違いがあるというのである。

安田 武智鉄二〔歌舞伎の演出家〕が西山松之助〔近世日本文化史が専門〕と、江戸文化と上方文化について対談して、そのかなで面白いことを言っています。僕の解釈を混じえて言うと、近松に代表される上方浄瑠璃の心中物に見られるように、上方文化では肉体の問題は肉体で解決する。心中しちゃう。それが江戸に来ると「心中立」になると言うんだな。心中はしない。心中立という、気持というか精神の問題に転化する。だから、媚態が霊化される〔九鬼の用語〕というときの「霊化」というもの・・・。
多田 転化させるんだな、精神の働きによって。
安田 うん、転化させている。上方では、男女の問題は肉体の問題なんだから、肉体を消滅させることで始末をつければよろしい。そこには近松の心中物がある。ところが江戸に来ると、心中しなくてもいいし、心中するほど深間にははまらないほうがいい。しかし心中立はするということで。芸者なら芸者が、どうしてもあの人と一緒になる、ならなければ死んでしまうとは言わないけれども、そのかわりほかの男にも絶対身は任せない。芸は売っても身は売らぬ、てなことを言って、慕っている男にひそかに心中立をする。
多田 それで、なんとかさまいのちなんて刺青をする。
安田 そうそう。「起請彫り」ね。「浮名ぼくろ」。そのへんの呼吸を、九鬼さんは、「意気地」によって媚態が霊化されているという言い方でいっているんじゃないかな。

 安田武・多田道太郎『「〈いき〉の構造」を読む』は、このほかにも卓抜な解釈が、平易な言葉で述べられていて読みごたえがある。難解な用語で装われた九鬼に文章の背後に、彼自身の日常的体験がかくされていることが明かされて興味はつきない。九鬼はお茶屋遊びや庭木いじりだけでなく、秀逸な春画の蒐集家でもあった。彼自身は粋人で、豊かな経験に裏打ちされた「〈いき〉の構造」を、今日ならエッセイ風の文章で綴るところを、いささか生硬な文章で書いたのは、昭和初期という時代と京大哲学科という環境に影響が大きく、さらに単なる趣味論と受け取られるのを嫌ったためだろうというのが、安田・多田両氏の見立てである。
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by monsieurk | 2014-01-29 22:30 | | Trackback | Comments(0)

パリ古本屋の思い出Ⅱ

 前回のブログで書き洩らしたが、1993年11月にパリ市歴史図書館で開かれた「ボードレール、パリ」展はクロード・ピショワの監修で行われたもので、そのなかにマラルメが所有していた『悪の華』一冊が展示されていた。幸い主催者の厚意で、この貴重な書物を手に取って調べることができた。
 黒い布製の装幀を施された本は、1861年2月に初版と同じくプーレ=マラシ・エ・ド・ブロワーズ書店から出版された第二版で、表題が印刷された扉頁の左上に、S.Mallarméとサインがあり、詩集の最後には6篇の禁断詩集、「宝石」、「忘却の河」、「あまりに快活な女に」、「レスボス」、「地獄に堕ちた女たち」、「吸血鬼の変身」を、マラルメが独特の細かい書体で丁寧に筆写した紙片が綴じ込まれていた。これについてはマラルメの女婿エドモン・ボニオ博士が、家族間の言い伝えとして、「1861年、18歳のとき、マラルメは『悪の華』の再版を入手する件で、家族との間の慇懃だが粘り強い闘いで勝利をおさめた。彼はのちにそれに禁断詩集の筆写を合体して製本した」と述べているものである。いまはさる個人の所有になっている。
 ところでベルナール・ロリエと知り合ったのは、父マルクを通してであった。いまは亡きマルク・ロリエはパリの古書籍業界の指導的立場にあった人で、サン・ペール通りに、やはり小さな店構えの古書店を開いていた。私が19世紀象徴派の詩人ステファヌ・マラルメの本文批判(テクスト・クリティツク)をするために、詩の自筆原稿や雑誌に発表されたプレ・オリジナルを捜していることを知ると、協力を約束してくれたのだった。
 マルク・ロリエは大切な本を店の奥の書庫や自宅に置いていた。パリの古書店はどこも同じで、よほど親しくならないと見せてはもらえない。パリで古書を捜すには、店が定期的に出すカタログを取り寄せることだが、注文は早い者勝ちだから、せっかく必要な本を見つけても先を越される場合がしばしばである。一番いいのは信頼された古書店に欲しい本のリストを渡して気長に待つことである。ロリエは亡くなるまで、なにくれとなく助力してくれた。
 パリの古書店主には二種類あって、中心となるのは鑑札を持った人たちである。故マルク・ロリエも息子のベルナールも鑑札を持っており、彼らはパリ市経営の競売所「オテル・ドゥルオ」で古書の競売を主催することができる。
 「オテル・ドゥルオ」で月に一、二度開かれる古書の競売は、研究者や愛書家にとっては見逃せないものである。名の知れた蔵書家が亡くなって蔵書が処分さる場合や、鑑札を有する古書店主が集めた稀覯本がある程度揃うと競売が行われる。まず競売にかけられる本のカタログがつくられ、いつ競売が行われるかが新聞に公示される。競売に先だって下見をする日が二、三日設定され、このとき本の状態を見て、さらに競売の最低価格を教えてもらい、幾らまで競り上げるか、あらかじめ心積りをするわけである。
 競売には誰でも参加できるが、相手の多くが古書店主だったり、なうての蒐集家だったりするから、素人には競り落とす呼吸がなかなか難しい。
 1978年の6月、マラルメの詩の自筆原稿が数点競売に付されたことがあった。このときは仕事の都合でパリを留守にしていて競売に参加できなかったが、その後二年ほどして、競売を主催したピエール・クレティアンから、このとき落札した人物に事情ができて、詩篇「不遇の魔(Le Guignon)」の自筆原稿を手放してもよいと言っていると連絡があった。マラルメが1862年、20歳のときに創作した詩の自筆原稿がこうして招来されたのだった。この原稿については、拙著『マラルメ探し』(青土社、1992年)収録の「不遇の魔」を参照されたい。
d0238372_15224895.jpg マラルメの自筆原稿といえば、彼が心を寄せたメリー・ローランのために、自分でつくった楽譜挟みを見つけてくれたのはヴァレットだった。リュクサンブール公園に近いヴォジラール通りに店があったヴァレットは、19世紀末の有名な文芸誌「メルキュール・ド・フランス」を創刊したアルフレッド・ヴァレットの血筋を引き、自らも若いときは詩人として活躍して、フランシス・ポンジュなどと交遊のあった人である。その彼が捜してくれた楽譜挟みは、縦38センチ、横95センチという大型の帙で、表裏二枚の表紙を厚紙でつくり、その上に褐色のビロードを貼り、周囲を錦の小切れで縁取りしたものの間に楽譜を挟むようになっている。メリー・ローランは歌が好きで、よくピアノを弾いたことからマラルメは思い立ったのだが、単に楽譜挟みをつくっただけでなく、表紙に金粉でメリーを讃える四行詩を書いた手の込んだものである。いまも色鮮やかな金粉の四行詩を眺めていると、ひそかにこれを書いているマラルメの姿や、その心の奮えまでが伝わってくるようで、ほほえましい気持になる。メリー・ローランが所有していた「アルバム」が昨年暮れ、友人のベルトラン・マルシャルの手で復刻され、そこにもマラルメが幾つかのソネを書き込んでいるが、これはあらためて紹介することにする。
 ヴァレットはこの他にも、親友だったフランシス・ポンジュの大作『マレルブのために』の校正刷も譲ってくれた。この校正刷はガリマール書店から本が刊行されたあと、1965年2月にポンジュの手元に戻されたもので、詩人自身の手で多くの書き込みや訂正が施されている。残念なことにヴァレットは亡くなり、その後しばらくは奥さんがあとを引き継いでいたが、数年前に店は閉じられてしまった。
 そうしたなかで相変わらず親しくしているのが、サン・シュルピス通りに店をもつジャン=クロード・ヴランである。d0238372_1522384.jpg彼は半獣神を詠いこんだマラルメ自筆の短詩や、名刺の上に書いた四行詩、ナダールが撮影したマラルメの写真、それにゴーギャンの銅版画《マラルメの肖像》などを見つけてくれた。面白いのはこの銅版画には斜めに数本の線が刻まれていることである。つまりこれ以上は刷り増しはしない証に、原版に刻みをいれたことを示すものなのである。
 写真は昨年末パリへ行った折に、ヴランからもらってきた最新のカタログに載っているマラルメの『大鴉』の一冊である。これには挿画を描いたエドゥアール・マネが、ガシェ博士――絵画の蒐集家で、ゴッホの最後を診たことで知られる――に贈った献辞が書かれている。値段を聞いたが、とても手が出るものではなかった。
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by monsieurk | 2014-01-26 22:24 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)

パリ古本屋の思い出Ⅰ

 京都の画家林哲夫氏には、パリの古本屋を描いた「パリの古本屋」と題する水彩画の二つのシリーズがある。いずれも絵葉書にもなっていて人気が高い。この度第二シリーズのなかの一点、《L'Odeur du Book, rue Ramey》の原画をd0238372_9485976.jpg
分けていただいた。写真がそれで、林さんからの手紙には、「ユトリロが描いたコタン小路(サクレクールの東側)のすぐ近くにある古本屋です。まだ30代らしい夫婦がやっていました。まじめな品揃えでした。はじめて行ったときには外壁はボロボロだったのですが、昨年この絵のようにきれいに塗り替えられていました」と書かれていた。パリの下町の空気が絵のなかに漂うような作品である。「Bookの匂い」と英語まじりの店名にも若い店主の思いがうかがえる。
 林さんの手紙にある通り、コタン小路(passage Cottin)はパリ18区にあるサクレ・クール寺院の東側後方の石段を降りたところから続く短い道で、その先はラメ通り(rue Ramey)にぶつかる。ラメ通りはオルドゥネ通りとクリニャンクール通りを結ぶ比較的広い通りで、古書店はそこにある。手元の地図にはかつて訪ねた古書店の所在を点で印をつけてあるが、この通りには点がなく訪ねたことはない。
 パリの古書店については、かつて『世界の古書店』(丸善ライブラリー、1994年)に書いたことがあるが、重複するのを厭わず書いてみたい。
 パリ6区のゼーヌ通りは画廊が多いことで知られるが、この通りを北から南へ、サンジェルマン大通りを横切って少し行った右手に、ベルナール・ロリエの店がある。いまもパリに行った折は必ず立ち寄るところである。店の間口は3間ほどで、中央が入口のガラス扉、その左右は飾り窓になっている。この小さな空間を使って、ミニ展示会をやるのがロリエの趣味である。
 1993年の秋、店に足を踏み入れる前に窓越しに覗いてみると、ボードレールの『悪の華』初版本が2冊並べて展示されていた。そしてそれを見下ろすように、写真家のナダールが撮った、あの大きな目を見開いたボードレールの肖像写真が柱に飾られていた。
 扉を押して中に入るとベルナールがいて、はにかんだような、いつもの微笑で迎えてくれた。かつて仕事でパリに駐在していたときは毎週のように訪ねていたが、東京に帰任した後は年に2、3度会うだけだった。だが久し振りの再会でも久闊を叙すわけではなく、昨日別れたばかりのように、最近の収穫について話しはじめるのが常だった。この日は当然飾り窓の『悪の華』の初版本が話題の中心だった。ちょうどこのとき、パリ市歴史図書館では「ボードレール、パリ」と題する展覧会が開かれていて、自筆原稿など貴重な資料が展示され、研究者はもとより一般の人たちの関心を呼んでいた。ベルナール・ロリエはこれに合せて、手持ちのボードレール関連の本の一部を並べたということだった。
 フランス近代詩の礎となった『悪の華』の初版が刊行されたのは、1857年6月25日のことである。だがこの初版本は、その後8月に行われた裁判により、6篇の詩が良俗を損なう猥雑なものと断定され、当局に押収されてしまった。こうして『悪の華』の初版本は、滅多に手にすることができない稀覯本となってしまったのである。そうしたいわくつきの本が2冊並んだ様は壮観だった。
 じつはベルナールに『悪の華』初版本を見せられたのはこれが初めてではなく、以前にアンドレ・ショヴォ博士旧蔵本を譲ってもらったことがあった。これは当局の押収を免れた禁断詩篇6篇を含む完全本で、その上、詩人が作家某に1100フランの借金を申し込んだ自筆の手紙を、装幀の際一緒に挟み込んだ珍しいものである。ベルナールはもちろんこれを覚えていて、「お前のものと交換してやってもいいよ」と言ったが、当方はありがたく辞退した。(続)
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by monsieurk | 2014-01-23 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)

大英博物館「Shunga」展

 年末年始、ロンドンに滞在した友人が大英博物館(The British Museum)の“Shunga, sex and pleasure in Japanese art”展を観に行き、カタログを買って送ってくれた。 d0238372_949571.jpg
 ヨーロッパではこれまでに、1989年のブリュッセルをはじめとして、ダルムシュタット(1995年)、ヘルシンキ(2002~03年)、バルセロナ(2009-10年)、ミラノ(同年)と「春画展」が開かれてきたが、今回の展覧会は肉筆画や浮世絵から明治期の作品まで165点の作品が集められ、2013年10月3日から2014年1月5日まで開かれた。
 カタログは二種類用意され、大型本は536頁、重さ凡そ3キログラム。長大な折り込みが3枚もついている。これには「Shungaプロジェクト」を主導した、大英博物館アジア部門日本セクション長のティモシー・クラーク、ロンドン大学教授アンドリュー・ガーストル、同大学アジア・アフリカ研究学院研究員で日本美術史が専門の矢野明子など35名の研究者の論文や作品解説が収録されていて、今後の春画研究の基本的資料となるものである。展覧会ではもう一冊の図録も用意されており、ロシナ・バックランドの編纂したこちらは、展示された作品の図像と作品解説が169頁にわたって収めている。
 Shungaプロジェクトは、リバーヒューム財団(イギリス・オランダの合弁企業ユニリーバの母体)が研究費を出して2009年春にスタートし、今回の展覧会はその研究成果の上に企画された。当初2012年開催を予定していた展覧会が2013年にずれ込んだのは、スポンサー問題が大きかった。研究費はリバーヒュームの援助でまかなえたが、展覧会を開催する資金を確保するために、イギリスにある日本関係企業に支援を頼んだが、すべて断られたという。
 カタログでは、Shungaは次のように紹介されている。

 The term Shunga refers to a genre of erotic imagery, often explicit and usually beautiful produced, exploring endless variations of love-making, both male-female and same-sex, and extending to scenarios from the realms of fantasy. Images may also depict scenes of flirtation, arousal, foreplay and post-coital relaxation (or exhaustion). The subjects of Shunga are by and large the ordinary men and women of urban Japan, shown in everyday situations. The settings are varied as the characters, many encounters taking place in homes (often watched by other people in the house), as well as working environments and out of doors.
Shunga were popular in Japan from the early 1600s to the end 1800s.・・・・

 こうしたイントロダクションに次いで、Room1「春画の初期、1765年まで」、Room2「春画の名品、1765-1850年」、Room3「春画と検閲」、Room4「春画の用途、流通」、Room5「春画と近代世界」という順で展開されている。
 展示された作品の多くは大英博物館が所蔵している名品ぞろいである。
  大英博物館には、かつてシークレット・コレクションと呼ばれる、各国のエロティック・アートを蒐集した秘蔵品があり、そこには鳥井清長の《袖の巻》や喜多川歌麿の《歌満くら》も含まれていた。
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 これらの秘蔵品は1970年代半ばころから一般に公開されるようになり、今回のShunga展の実現につながって行くのである。
 大英博物館は全世界の人間の営みやその産物を広く紹介して、人びとがそれらを自分の目で確かめ、各文化への認識を深めることを使命と考えている。ただ性というテーマは、人間について考える際の中心にあるべきものなのに、長くタブー視されてきた。それを打破するのが今回の企画であった。
 展覧会を観た友人によれば、性別や年齢、人種を問わず、さまざまな人びとが訪れ、単にエロティックなものを興味本位というのではなく、アートとして鑑賞している様子だったという。わたしたちも、自分たちの祖先がつくり出した特別な芸術にぜひ接する機会を得たいものだが、ロンドンでの展示が終わった現在も、当初から計画に入っていた日本への巡回は未定のままである。
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by monsieurk | 2014-01-20 22:20 | 美術 | Trackback | Comments(0)

カミュの死

 アルベール・カミュは生粋の地中海人だった。アルジェからパリに出たカミュは、まずジャーナリズムの世界で活躍し、1942年に出したL'Ētranger(『異邦人』〉の成功によって、一躍文壇の寵児となった。以後はパリで作家生活を送ることになったが、北に位置するパリの生活にはなじめず、1958年、45歳のときに南フランス・プロヴァンス地方の小邑ルールマラン(Lourmarin)に家を購入して住みついた。
 私もひと夏をリュベロンと呼ばれるこの地域で過ごしたことがある。一帯は国立公園に指定されていて、赤銅色の岩山と森が混在する土地である。冬は温暖で、夏は強烈な太陽が照りつけるが、乾燥しているために屋内や木陰はしのぎやすい。カミュがここを選んだのは、詩人ルネ・シャールの勧めがあったほかに、故郷アルジェと同じ陽光を見出したからである。
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 カミュはルールマランに滞在しているときは、毎朝長い時間付近を散歩し、それから仕事に取りかかるのが習慣だった。1959年のクリスマスを一緒に祝うために、パリにいた妻フランスーヌが双子のジャンとカトリーヌをつれてルールマランにやってきた。こうしてクリスマス・イヴの食事を一家で楽しんだ。
 一度パリに戻った妻と子どもは、12月末にふたたびやってきて、そのすぐ後には、出版社ガリマール家の家族、ミシェルと妻ジャニーヌ、娘のアンヌが愛用の自家用車ファセル=ヴェガ(Facel-Vega、フランス製の高級スポーツカー)で到着した。ミシェルはガリマール書店の創設者ガストン・ガリマールの甥で当時の社主であり、カミュとは家族ぐるみのつき合いだった。
 大晦日の夜は一同のために、家事を任されていたマダム・ジヌーが、プロヴァンスのしきたりに則って13種類のデザートをつくり、果物も沢山でた。甘いものに目がないカミュは大喜びだった。
 明けて1960年1月2日、妻のフランシーヌは子どもたちを連れて先にパリへ帰った。そして翌1月3日、カミュはガリマール一家の車に同乗してパリへ戻ることにした。パリには1週間ほど滞在して、またルールマランへ戻ってくる予定だった。ミシェル・ガリマールがハンドルを握り、カミュは助手席に座った。ジャニーヌと娘アンヌ、それに愛犬は後部座席だった。こうして国道7号線をオランジュまで行き、そこで昼食をとった。そこからオーベルジュ・デュ・シャポンまで走って、この日はそこで一泊。
 1月4日、朝出発してヨーヌ県のサンスまで走り、そこで休息して軽い食事をとった。パリまではあと100キロ余りの道のりだった。出発後はシャンピニィ=シュル=ヨンヌとヴィルヌヴ=ラ=ギュイヤールを結ぶ国道6号線に道をとった。この街道は両側に丈の高いプラタナスの巨木が並ぶ美しい道だった。
 午後1時55分、快調に飛ばしていたファセル=ヴェガは道を飛出し、並木に激突した。後部座席のジャニーヌとアンヌは無事だったが、ミシェルは重傷を負い数日後に亡くなった。助手席のカミュは即死だった。
 このとき事故車の座席から散乱したカミュの未完の原稿が発見された。そして事故から30年余りを経た1994年に、遺族の承諾をえて『最初の人間』(Le Premier Homme)と題されて出版された。
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写真はルールマランにあるカミュの墓である。
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by monsieurk | 2014-01-17 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 昼少し前、ぼくたちは廃墟を通って港の端の小さなカフェに戻った。太陽と色彩のシンバルが鳴り響く頭には、影にみちた部屋や、緑色の冷えたペパーミントが入った大きなグラスほど、爽やかな歓待はない! 外は、海と埃っぽい焼けついた道路。テーブルの前に座って、しばたたく睫毛のあいだに、白熱の空の多彩な眩惑を捉えようとする。顔は汗でぬれているが、軽いシャツを着た身体はすがすがしく、ぼくたちはみな世界と結婚した一日の幸福な疲労をさらけ出す。
 このカフェの食事はまずい。でも果物は豊富だ――とくに桃は、齧って食べると汁が顎を滴る。桃にがぶりと噛りついたぼくは、血が耳までのぼってきて大きく脈打つのを聴き、目をこらして辺りを見つめる。海の上には、真昼の巨大な沈黙。美しい存在はみな自分の美しさに自然な矜恃をもっている。そして今日、世界はあらゆるところで、その矜恃を滲ませている。すべてを生きる歓びに閉じ込めることは出来ないと知ってはいても、世界を前にして、生きる歓びを否定できるだろうか? 幸せであることを恥じることはない。でもいまや、愚か者が王者だ。ぼくは愉しむことを怖れるものを愚か者と呼ぶ。人びとは傲慢さについて多くを語って聞かせてきた。きみ、それは悪魔の罪だ、用心したまえ、警戒することだ、自滅するよ、強い力を失うぞ、と警告した。そのときから、ぼくはある種の傲慢さを学んだ。・・・でも別のときには、世界全体が共謀してぼくにあたえようとしている、生きるという傲慢さを要求せずにはいられない。ティパサでは、見ることは信じることと同じだ。ぼくは手で触れ、唇が愛撫するものを敢えて否定しようとは思わない。ぼくはそこから一つの芸術作品をつくりだす必要を感じない。ただその違いが何かを語りたいとは思う。ティパサはぼくに、人が世界についてのある観点を、間接的に語るために描く作中人物のように見える。彼らと同様、ティパサは証言する、それも力強く。ティパサは今日は、ぼくの作中人物だ。一度それを愛撫し、それを描写すれば、ぼくの陶酔には限界がないように思える。生きるべき時があり、生きることを証言するべき時がある。同様に創造するための時もある、だがそれはそれほど自然ではない。全身で生き、全霊で証言するだけで十分だ。ティパサを生き、証言する、すると芸術作品は自ずとやってくるだろう。そこにこそ自由がある。
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 ぼくは決して一日以上ティパサに留まったことはない。ある風景を長く見すぎたという瞬間がいつもやってくる。もっとも、風景を十分に見たというには長い時間が必要だ。山々、空、海は人間の顔と同じで、見るというより凝視していると、そのつまらなさや輝かしさを発見するものだ。だが、どの顔も表情豊かであるには、絶えずある種の更新を必要とする。人はすぐ飽きてしまうと嘆くが、本当は、単に忘れてしまうだけで世界が新しく見えることに感嘆しなければならない。
 夕方、ぼくは他よりの整然とした公園の一角にもどった。そこは庭園になっていて、国道沿いにあった。香りと太陽のざわめきから抜け出して、夕方になって、いままた爽やかになった大気のなかで、精神は鎮まり、緊張から解き放たれた肉体は、満たされた愛から生まれる内なる沈黙を味わっていた。ぼくはベンチに座って、落日とともに丸味を帯びていく野原を眺めていた。ばくは満たされていた。頭上には、一本の柘榴が、固く握った小さな拳のような、閉ざされて筋張った花の蕾を垂れていたが、その蕾は春の希望のすべてを孕んでいるようだった。後ろにはローズマリーがあった。ぼくはそのアルコールの香りを嗅いだ。丘は樹木の額縁の間におさまり、そのさらに先では、海が縁取りとなって、その上では空が、立ち往生している帆舟のように、やさしさを一杯に湛えて憩っていた。ぼくは心に不思議な歓びを感じたが、それは穏やかな意識から生まれる歓びだった。俳優たちが、自分の役柄をうまく演じたと自覚するときに覚える感情がある。それは俳優たちが、より正確な意味では彼らの仕草を、身体で表現する理想の登場人物のそれと一致させ、前もって描かれたデッサン、つまり彼らが一瞬で生命をあたえ、彼ら自身の心臓で鼓動させるそのデッサンに入り込んだときに覚える感情だ。ぼくが感じたのはまさにそうした感情だった。ぼくは自分の役をうまく演じたのだ。ぼくは人間としての仕事を果たした。そして長い一日の間中歓びを覚えたことは、ぼくには例外的な成功とは思えず、むしろある状況のもとで、幸福になるという義務をぼくたちに課すある条件の感動的な成就のように思えるのだった。そのときぼくたちはまた孤独を見出すが、それも今度は満足のなかでだ。

 いまや、樹木には鳥が群がっていた。大地は闇に没する前にゆっくりと息づいていた。まもなく一番星とともに、夜が世界の情景に帳を降ろすだろう。昼間のきらびやかな神々は、やがて彼らの日常の死に立ち返るだろう。そして別の神々がやってくる。もっと暗くなるために、彼らの荒廃した顔が、大地のさなかで生まれてくる。
 少なくともいまは、砂浜に砕ける間断ない波音が、金粉が舞う空間を通してぼくのところまで聞こえてくる。海、野原、沈黙、この大地の香り、ぼくは芳香のある生に満たされていた。ぼくは世界の黄金色に色づいた果物にかぶりつき、その甘い強烈な果汁が唇のあたりを滴るのを感じて狼狽した。そうだ、大切なのはぼくでもなければんけ世界でもなかった。ただ単に、調和であり、沈黙だった。その沈黙こそが世界からぼくのために、愛を生まれさせたのだ。その愛を、自分一人のために要求する弱さは、ぼくにはなかった。ぼくは、それを一つの種族全体と分かちあうことを自覚し、そのことを誇りにもしていた。その種族とは太陽と海から生まれ、生き生きとして味わいがあり、自らの偉大さを自ら単純さのなかに汲みとり、海辺に立って、共犯の微笑みを、空の輝かしい微笑みにむけて投げかける種族だ。
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by monsieurk | 2014-01-14 22:23 | | Trackback | Comments(0)
d0238372_10251955.jpg アプサントを踏みしだき、廃墟を愛撫し、自分の呼吸を世界の激しい息づかいに合致させようとして、どれほどの時間が過ぎたことだろう! 野生の匂いや眠気を誘う虫の合奏に埋もれて、ぼくは眼と心を、熱気でむせかえる堪えがたい大空にむけて開く。あるがままのものになろうとし、自分の深い節度を探り出すのはそれほど容易ではない。ただ、シュヌアの堅固な骨格を見ていると、ぼくの心は不思議な確信で鎮まるのだ。ぼくは息をすることをができ、自分に同化し、自分自身を成就するのだった。ぼくは丘を一つまた一つよじ登っていったが、丘はそれぞれご褒美を用意してくれていた。この寺院などがそれで、その柱の一本一本が太陽の運行を教えてくれたし、そこからは村全体、白やバラ色の壁やヴェランダが見渡すことができた。東の丘の上のバジリカ会堂もその一つで、壁はかつてのまま、周りの広い範囲には、発掘された大理石の石棺が列をなし、そのほとんどは地面からわずかに顔をのぞかせているだけで、まだ土に埋もれている。なかには死者たちが納められていて、そこにはいまサルビアとニオイアラセイトウの新芽が生えている。聖サルサ教会堂はキリスト教のもので、入口から覗くたびに聴こえてくるのはこの世のメロディー、松や糸杉が植わった丘、あるいは二十メートルごとに白い犬を転がしている海が奏でるメロディーである。聖サルサ教会堂が建つ丘の頂は平らで、風が柱廊を吹き抜けて広がっていく。朝の太陽の下で、大いなる幸せが大気のなかで揺れている。
 本当に貧しいものは、神話を必要とする人たちだ。ここでは神々が床をしつらえ、あるいは一日の運行の目印の役をはたす。ぼくは書き、語りもする。「これは赤、青、緑。これは海、山、花」。ぼくが鼻の下で乳香の玉をつぶすのが好きだからといって、ディオニソスについて話す必要があるだろうか? 後にぼくが心置きなく思いを馳せることになる古の讃歌、「地上に生きる者にして、これらの事を見し者に幸あれ」は、デメテのものなのだろうか? 見ること、この地上にあって見るという教訓を忘れることなどありえようか? エレシウスの秘儀では、凝視することで十分だった。ここでも、世界に近づくことはあり得ないのは、ぼくも分かっている。裸になって、大地の精気を全身に着けたまま海に飛び込み、それを海中で洗い流し、大地と海が太古の昔から唇と唇を重ねながらする抱擁を、わが肌の上に出現させなければならない。水に入ると、冷たさを感じる、冷たく不透明な糯〔もち〕がせり上がってくる。次いで潜る、耳が鳴り、鼻から水が流れ、口が苦い。――泳ぐ、海面から出した腕は水にぬれて太陽に金色に耀く、すべての筋肉をねじってそれをまた打ち下ろす。身体の上を流れる水、脚で波をはげしく掴む――すると、水平線が没する。岸にあがり、砂の上に倒れこむ。世界に身をゆだねる。自分の肉と骨の重さを取りもどし、太陽に酔い痴れ、両腕をときどき眺めやる。そこでは水が滑り落ちて乾いて斑模様になった肌を、金色の和毛と塩の粉が被っている。
 ぼくはここで、人が栄光と呼ぶものを理解する。それは際限なく愛する権利のことだ。この世にはたった一つの愛しかない。女の身体を抱きしめること。それはまた、空から海へ降ってくるこの不思議な歓びをわが身に引きとめることだ。もうすぐ、ぼくはアプサントのなかに身を投げ、その香りを身体に染み込ませると、あらゆる偏見に逆らって、一つの真実を達成したいと意識するだろう。それは太陽の真実であり、死の真実ともなるだろう。ある意味では、いまここでぼくが演じている生だ。熱せられた石の味と、海やいままさに鳴きはじめた蝉の吐息に満ちた生だ。微風はさわやかで、空は青い。ぼくは手ばなしでこの生を愛している。そして、それについて自由に語りたい。それはぼくに、人間としての条件という誇りをあたえてくれる。ただ、ぼくは人からよくこう聞かされた。誇るに足るようなものは何もないと。いや、あるとも。この太陽、この海、青春に躍動するぼくの心、塩辛い味がするぼくの身体、そして、優しさと栄光が黄色と青の世界で落ち合う、この果てしない背景こそ誇るに足るものだ。それらを獲得するためにこそ、ぼくは力と手段を講じなくてはならない。ここではあらゆるものが、ぼくの手には触れず、ぼくは自分のものは何一つ放棄しない。ぼくはどんな仮面も被らない。生きるための難しい知恵を忍耐強く学ぶだけで十分なのだ。それは世の人びとの処世術に匹敵するものだ。(続)
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by monsieurk | 2014-01-11 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 昔から良い作品や文章を読んだとき、感動の証に背筋が震えることがときどきある。その最初の経験が、高等学校のときに読んだアルベール・カミュのエッセイ集『結婚』だった。古文の授業時間に教科書に隠すようにして読んでいて、突然背中がぶるっと震えた。新潮社から出ていた窪田啓作訳だが、すぐにガリマール社から出版されていたフランス語原本を手に入れて読んだ。本には、「ティパサでの結婚」、「ジェミラの風」、「アルジェの夏」「砂漠」の4篇の詩的エッセイが収録されているが、冒頭の「ティパサでの結婚」の印象は強烈だった。
d0238372_1518691.jpg 昨2013年はカミュ生誕100年にあたり、フランスでは評伝や批評書が数多く出版されて、「カミュ・ブーム」再来の感があった。カミュは1913年に当時フランスの植民地だったアルジェリアの首都アルジェに生まれ、アルジェリア大学を卒業して文章を書き始めた。
 「ティパサでの結婚」は、1936年にまず鉛筆で草稿が書かれ、1937年に修正されて1938年にアルジェで小部数出版された。それが新たにガリマール社から刊行されたのは1950年のことである。
 「ティパサでの結婚」を初めて読んでから凡そ60年、窪田啓作、高畠正明両氏の既訳があるが、あえて自分なりの翻訳をこころみてみる。なお、ティパサはアルジェの西70キロにある沿岸の村で、カミュは1935年から36年にかけてよく訪れた。ここにはシュヌア(Chenoua)の古代遺跡がある。


ティパサでの結婚

 春、ティパサには神々が住み、神々は太陽とアプサントの香りのなかで語る。海は銀の鎧をまとい、空は真っ青で、廃墟は花でおおわれ、光は石の堆積の間で煮えたぎる。ある時刻、野原は太陽のせいで黒く見える。眼は睫毛の先でふるえる光と色彩の雫以外のものを捉えようとするが無駄だ。芳香性の植物の豊饒な香りが喉を刺し、並外れた暑さのせいで息がつまる。風景の彼方に、村を取りまく丘陵に発して、確実でしかも重々しいリズムで海中に蹲ろうとするシュヌア岬の黒い塊を、ぼくは辛うじて目にすることができる。
 わたしたちは入り江に臨む村を通ってやってきた。アルジェリアの夏の大地の激しくむせるような息ずかいが待ち受けている。黄色と青の世界に入っていく。いたる所でブーゲンビリアがヴィラの壁を越えていて、庭には、いまは白いがやがて赤い花をつけるハイビスカスや、クリームのように濃いティーローズ、繊細な縁取りをもつ丈の高い青いアイリスがおびただしく咲いている。石という石が熱い。わたしたちがキンポウゲ色をしたバスから降りると、肉屋が赤い車で朝売りの一巡をしている最中で、吹き鳴らすラッパが住民たちを呼んでいた。
 港の左手では、乾いた石段が乳香樹とエニシダの間を廃墟へと通じている。道は小さな灯台の前を通って、やがて広々とした平野へ下って行く。灯台の足元では、すでに菫色や黄色や赤い花をつけた肉厚の植物の叢が、一番手前の岩の方へさがっていき、その岩を海が口づけの音を立てて舐めている。微風のなかに立っていると、顔の片方だけが太陽に熱せられてあつい。ぼくらは、空から落ちてくる光、さざ波一つ起たない海、その輝く歯をみせる微笑を眺める。廃墟の王国に入る前に、ばくらは最後にもう一度あたりを見まわす。
 少し歩くと、アプサントがぼくらの喉をとらえる。その灰色の縮毛が見渡すかぎり廃墟を被っている。そのエキスが熱気で発酵し、強いアルコールがあたり一面に立ち昇り、それが大気をゆらめかす。ぼくらは恋と欲望の出会いを求めて歩いていく。ぼくらは、教訓や人が偉大さに求める苦い哲学を求めない。太陽と、キスと、野生の香り以外は、すべてが無用に思える。ぼくはそこで独りでいたいとは思わない。そこへはよく愛していた人たちと行き、恋をしている顔が浮かべる明るい微笑みをその表情の上に読み取ったものだった。ここでは秩序や節度は他人にまかせておけばいい。ぼくの全身をとらえるのは、自然と海のあの偉大な放縦だ。廃墟と春が結婚するなかで、廃墟はふたたび石と化し、人間が加えた光沢を失って自然に還った。この放蕩娘の帰還を祝して、自然は花を惜しみなくふりまく。広場の敷石のあいだで、ヘリオトロープが丸くて白い頭を伸ばし、赤いジェラニウムが、かつては家だったり、寺院だったり、公共の場所だったりした所に、その赤い血を注いでいる。多くの知恵が神へと導いた人びと同じように、多くの歳月が廃墟をその母なる家へと導いたのだ。ついに今日、その過去が廃墟から去っていく。落下する事物の中心へと導くこの深遠な力から、廃墟の気をそらすものは何もない。(続)
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by monsieurk | 2014-01-08 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 いまベッド・サイドの小型テーブルに乗っているのは、『文語訳聖書』、田川建三訳著『新約聖書 訳と注 5 ヨハネ福音書』、井伏鱒二『随筆集』、それにフィリップ・フォレスト著、澤田直・小黒昌文訳『夢、ゆきかひて』(白水社、2013)である。
 フォレストの本は刊行直後に訳者澤田氏から贈られていたのだが、正月にようやく読み終えた。フランスの作家でナント大学で比較文学を講じるフィリップ・フォレストが、これまで発表した日本関連の評論やエッセイを、澤田氏が著者と相談の上で独自に編纂したもので、刺激的な評論集である。
d0238372_10352474.jpg フォレストの小説家としてのデビュは1997年に発表した『永遠の子ども』で、愛娘ポーリーヌを白血病のため4歳で亡くした喪失感を描いたものである。20世紀の前衛的文学を研究対象とし、高度な文学理論を発表してきた彼にとって、娘を失ったという辛い実体験をそのまま物語ることはありえなかった。ではいかなる手法をとるか。このとき導きの糸となったのが、大江健三郎や島津祐子など日本の小説だった。障害児として生まれた息子や子どもを失った体験を描きながら、悲愴感を排し、時にユーモラスでさえある彼らの作品と出会ったのである。
 澤田氏はその経緯を解説してこう述べている。
 「西洋的な自我の告白とはまったく異なる「私語り」が可能だということを発見し、それが『永遠の子ども』がもつ、個人的でありながらきわめて清澄な、独特なスタイルにつながったという。自己をさらけ出すよりは、非個人的な記述のほうが高尚だという風潮がフランスの現代文学にはあったが、日本研究のおかげで、それとは異なる方向が見えてきたのである。「それまでわたしが研究してきた作家たちの場合、人間の卒直な感情や自伝的な要素が遠ざけられる傾向にありましたが、実体験から出発しながらも、それを反転させ、乗り越えていくかのような日本の小説に触れた時、フランスとは別の伝統をそこに見いだし、刺激を覚えました」と述べるフォレストは、日本文学に関心を寄せ、そのなかでも〈私小説〉の発生と展開に着目した。」(220頁)
 『夢、ゆきかひて』には、フォレストが最初に日本文学を論じた「大江健三郎の小説をめぐる最初の覚え書」や、「薄闇の海のうえで 大江健三郎と津島祐子」などと並んで、「私小説と自伝的虚構(オートフィクション) 小林秀雄『私小説論』の余白に」が収められている。これはフォレストが2012年7月に、フランスのスリジーで開かれたシンポジウム「文化と自伝的虚構」で行った講演で、彼はそこで次のように語っている。
 「わたしが〈私小説〉と呼ぶものは、この語が通常指し示すものに限定されません。わたしにとって、それははるかに幅広いもので、日本文学における、あるいは少なくとも注目に値する日本の作家たちの作品に見られる、個人的なエクリチュールの主要な諸形式に適用されるものなのです。その特徴は、西洋文学(近代小説)から借用されたとされる形式に、古くからある日本の書き方を結びつけている点にあります。(中略)このように、広い意味で、そしてかなり間違ったかたちで理解する場合、日本の〈私小説〉は一部の西洋人作家にとって、参照点として、さらにはお手本(モデル)と見なすことができるでしょう。」(134-135頁)
 ここでフォレストがいう「かなり間違ったかたちで理解する場合」とは、小林秀雄の〈私小説〉批判を十分考慮した上で、日本の〈私小説〉は一つの手本になるという意味である。
 フォレストは小林秀雄の〈私小説〉批判を以下のように要約する。「小林によれば、日本の作家は、西洋文学の影響を受け、ヨーロッパの偉大な小説に固有な技術と形式をそのまま輸入したが、彼らはこの小説を、かなりは妄想の混じった手本に照らして解釈した。ある種のロマン主義的観念と自然主義的観念とが混ざりあってしまい、それと意識しないままに、ワーズワースやゾラ、モーパッサン、フロベールを模倣したものの、このような模倣は、効果もなく不毛だったということが明らかになった。というのも、西洋には主体という観念があり、それを出発点として、またそれに反撥することによって、〈私〉のエクリチュールは発展したのに対して、日本文学には、主体に関する哲学的・イデオロギー的観念が構築されていなかったからだ。その結果として、小林秀雄が説明するように、新しく輸入された自我の観念は、近代以前の日本文学に固有な技術と形式の混交のなかに解体してしまうことになります。そして、これこそが、まさに〈私小説〉の特質であり、告白体の小説の装いのもとに、自我に関する他のさまざまな表現方法が――その多くは日本古典文学に固有な主体化の課程が継続したものです――相変わらず活気に満ちた現実として隠れているのです。」(139-140頁)
 フォレストによれば、小林が同時代の〈私小説〉を批判したのは、それが新自然主義的な形式のなかで憔悴していたからであって、ジッド、プルースト、ジョイスの文学のといった〈私〉への回帰をめざす新たな文学の動向が分かっていた小林秀雄は、〈私小説〉の再生を積極的に促すために批判したというのである。
 「ある意味で、〈私小説〉の失敗は、明々白々です。しかし小林秀雄が認めるこの失敗自体が、日本の小説のいくつかにその力を授け、それを真正な文学的記念碑に仕立て上げていると言えましょう。それらの作品の奇妙さそのものが、わたしたちにとっては既成の価値を覆すほどの意味をもつのです。それが暗々裡のうちに、西欧文化の主体性がもっていながら気づかずにいた自明の理に疑義をていするからです。その意味で、日本文学が賢明に行った主体構築の試みは、同じ時代に西洋文学が専心していた主体解体の試みと合流するのです。しかし、西洋文学が主体を完全には解体できなかったように、日本文学はそれを完全に作り上げることに失敗しました。それでも、この二つの未完成によって、文学的な主題を検討すること自体が可能になったのです。」(144-145頁)
 これこそがフォレストのいう、「夢のゆきかひ」にほかならない。「文学とは、個人がそれをとおして真実の経験へと到達しうるような主体性の表現される場そのもの」(140頁)であって、20世紀初頭に日本の〈私小説〉が、西洋文学の「取り違え」から生まれたように、20世紀末から今日にかけて、西洋文学は日本の〈私小説〉を敢えて「取り違え」ることで、新たな「自伝的虚構」を生み出しつつある。
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by monsieurk | 2014-01-05 22:30 | | Trackback | Comments(0)

伊豆の宿

 年末年始を熱海と伊豆長岡の南山荘で過ごした。かつて大和館と呼ばれた老舗旅館で、明治40年(1907)10月の創業である。昭和40年(1965)、ここを愛した北原白秋の命名によって南山荘と名前を変えたのだという。
 離れの客室が22部屋。それぞれが丘の斜面に建てられ、長い廊下でつながっている。そのため玄関から部屋へ行くにも、部屋から風呂へ行くにも、廊下を伝い階段を上り下りしなくてはならない。ただその分各部屋は独立していて、隣に煩わされことはない。そうした環境が長期滞留者に好まれたのであろう、伊豆を愛した川端康成もここに滞在して作品を執筆した。
d0238372_1041496.jpg 川端が初めて伊豆を訪れたのは大正7年、旧制高等学校2年生のときである。彼はそれ以来、伊豆半島のほとんどの場所に足跡を残している。『伊豆の踊子』が書かれたのは24歳のときで、その4年後の1931年には『伊豆温泉記』を発表しているが、ここで取り上げられている伊豆の温泉場は33個所におよぶ。大和館にも触れてこう書いている。
 「温泉は勿論丸裸の皮膚で、ずぼりとつかるのだから、触覚の世界だ。肌ざわりの喜びだ。湯にもいろんな肌のあることは、女と同じである。
 私の知る伊豆の湯で、一番肌にいいのは長岡だった。宿は大和館だったと覚える。これは卵の白身のように、つるつると粘っている。女が入湯すれば、いかにも肌理が細かくなり、滑らかになりそうな感じだ。長岡へよく行く人に話すと、お世辞かもしれないが彼は、「ほんとうにそうらしいですよ。」と言う。(中略)
 湯ヶ島の西平温泉は、天城の山気らしく厳しい肌ざわりだ。
 熱海の湯ざわりには、黒潮の暖流が流れている。
 しかし私には、湯の肌ざわりよりも先ずは湯の匂いだ。
 宿のどてらに着替えると、袖に鼻をこすりつけて、綿にしみ込んだ湯の匂いを嗅ぐ。湯船に身を沈めて、湯の匂いを一ぱいに吸い込む。
 「この匂いが嫌いかね。それじゃ君は温泉が嫌いなんだよ。――煙草好きが匂いを楽しむように、いろんな温泉のちがった匂いを嗅ぎ分け給え。」と、私は同行の友人に言う。鼻が曲がる程烈しい匂いの温泉は、伊豆にはないようだ。
 湯の匂いばかりではない。温泉場程いろんな匂いのあるところはない。岩の匂い、樹木の匂い、壁の匂い、猫の匂い、土の匂い、女の匂い、包丁の匂い、竹林の匂い、神社の匂い、馬車の匂い――。温泉がもろもろの匂いを感じさせるのだ。東京の銭湯でも、上がったばかりの時は、鼻がよき利く理屈だ。
 「あの女は今・・・。」と、私はよく言って、友人に笑われる。全く温泉宿では、女のその匂いが感じられるのだ。温泉に長くいると、温泉を離れてもその匂いが鼻につくようになるのだ。」(「改造」昭和4年2月号初出)
 温泉好きだった川端の面目躍如といったところだが、この感じは『伊豆の踊子』というよりは、越後の湯沢温泉を舞台に芸者駒子との情交を描いた『雪国』の世界のものである。しかし伊豆の温泉場は最近どこも客が少ないという。
 川端康成が『伊豆の踊子』を書くために滞在した湯ヶ島西平温泉の落合楼こそ健在だが、川端が滞在しているのを知って、無名だった梶井基次郎が昭和元年の大晦日に訪れて、川端の紹介で翌日昭和二年元旦から逗留したのが湯川屋だった。梶井の滞在は1年5カ月に及び、毎日のように落合楼の川端を訪れては碁を打ち、『伊豆の踊子』のゲラの校正を手伝った。そのあと梶井は歩いて湯川屋まで帰ってくるのだが、真っ暗な夜道の記憶から名作『闇の絵巻』が生まれた。いまはその湯川屋も廃業してしまった。なお湯川屋に遺されていたいた梶井基次郎関係の資料は大妻女子大学に寄贈され、現在同大学の所蔵となっている。
 
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by monsieurk | 2014-01-03 22:30 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)