フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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<   2014年 02月 ( 10 )   > この月の画像一覧

 16世紀中葉のフランスの思想家エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ(Ētienne de La Boétie、1530-1563)の『自発的隷従論(Discours de la Servitude Volontaire)』が、「ちくま学芸文庫」から山上浩嗣の新訳で昨2013年11月に刊行され、12月には監修者の西谷修主催のシンポジウムが東京外国語大学で催され話題となっている。d0238372_1440417.jpg
 山上浩嗣の新訳は、もとは関西学院大学言語教育研究センターの「言語と文化」に、2004年から2007年にかけて3回にわたり連載されたものである。これに注目した西谷修の推奨で、翻訳に修正を加え、解題と付論を加えて「ちくま学芸文庫」に収められた。
 それにしても、なぜいま16世紀フランスの思想家の書が注目されるのか。西谷は文庫に付した解説「不易の書『自発的隷従論』について」で、こう述べている。
 「この小著の眼目は、圧政が支配者(しばしばただ一人の者)自身の持つ力によってではなく、むしろ支配に自ら服する者たちの加担によって支えられると論じた点にある。強権的支配や圧政が問われるとき、たいていの場合人は、支配者の側に圧倒的な力を想定しし、それによって弱者が受難を強いられると受けとめる。そして力の独占と専横、その圧政を被る犠牲者、言いかえれば加害者と被害者、強者と弱者といった図式があてがわれ、そこに善悪の判断を重ねて「強者=加害者」の悪を告発する、といった構えができる。
 だが著者〔ラ・ボエシ〕は、この図式よりも先に、支配秩序に関わる人びとの具体的な相を見る。支配者が一人ではそれほど強力で残忍だとは見えないにもかかわらず、古今東西どこでも「一者の圧政」が広まるのはなぜなのか。獣たちが檻を嫌うように人間の本性はもともと自由を好むものではないのか。それなのに、人びとは隷従を求めるかのように支配に甘んじ、支配されることのうちに自由や歓びを見出しているかのようだ。この不条理を前にラ・ボエシは、なぜ人びとはかくも従容として隷属を選びとり、ときにはそれを嬉々として支えさえするのか、と問う。要するにかれは、圧政の正邪を論じるのではなく、そのような支配を可能にしているからくりを「人間の本性」から探ろうとしている。その意味でかれは、政治論者であるよりも人文主義者(ユマニスト)なのである。そしてかれがそこに見出したのは「臆病と呼ばれるにも値せず、それにふさわしい卑しい名が見あたらない悪徳」であり、名指されることのなかったその悪徳にかれは「自発的隷属」という名前を与えたのである。」d0238372_14404594.jpg
 「自発的隷従」と訳されている原語はservitude volontaireで、辞書Petit Robertなどでは、servitudeはesclavage(奴隷状態)、servage(隷属)の同義語で、état de dépendance totale d'une personne soumise à une autre、「一人の人間が他の者に完全に服従している状態」と説明している。volontaireは「自由意志によって」、「自発的な」の意味だから、「自発的隷従」は逆説的表現である。ラ・ボエシは人間の本性は「自由」であるにもかかわらず、あえて自由を放棄して自ら進んで軛につながれようとする性(さが)を「自発的隷従」と名づけた。
 ラ・ボエシの名前はモンテーニュの『エセー』を読んだことがある人には馴染み深いはずである。二人の出会いは運命的なものだった。モンテーニュは『エセー』の第1巻第28節「友情について」で、「わたしたちは会う前からお互いの噂を聞いて、お互いに求め合っていた。わたしたちが耳にする噂はわたしたちの上に、単なる言葉以上の効果をもたらしていた。わたしはそれは何か天の配材だと信じている。わたしたちはお互いの名前を聞くことで抱きあっていた。そしてある街の大きなお祭りの集まりで、偶然はじめて出会ったとき、互いにすっかり魅了され、知り合い、結びつきあった。そしてそれ以来、わたしたちにとって、お互い同士ほど近しいものは何もなくなった。」(André Lanlyの現代フランス語訳による。)
 モンテーニュより3歳年上のラ・ボエシは1530年11月1日、フランス南西部のペリゴール地方の小邑サルラで生まれた。サルラはペリグー市から少し南に寄った小さいが昔から重要な街で、いまもルネサンス風の雰囲気を保ち、ラ・ボエシの生家もそのまま残っている。彼の父はペリゴール大法官代理職にあり、母はギュイエンヌ地方の法官の娘であった。しかし両親は彼が幼いときに亡くなり、聖職者である叔父のもとで法学、神学、ギリシャ・ローマの古典を学び、オルレアン大学法学部に進学した。
 1553年には法学士号を得た。モンテーニュは、ラ・ボエシが『自発的隷従論』を書いたのは16歳あるいは18歳のころとしているが、実際はオルレアン大学を卒業する際に書かれたという説が現在では有力である。
 その後、当時の慣例に則って高等法院評定官の職を購入し、1554年5月にはギュイエンヌ高等法院に評定官として着任した。1557年にはここでモンテーニュと同僚となり、友情を結んだ。モンテーニュが友人のラ・ボエシのなかでとくに高く評価したのは、その「古代の刻印を宿した魂」だった。ラ・ボエシはギリシャ、ローマの古典を読むだけでなく、進んで古代の人びとの知恵の秘密を解明し、その知恵を生き返らせ、生活のなかで実践していこうとする人文学者(ユマニスト)だった。古代の言語に魅せられた彼はラテン語やギリシャ語を愛し、自分でもラテン語で詩を書いた。
 ラ・ボエシが生きた時代は宗教戦争のただなかにあった。1560年12月にシャルル9世が14歳で王位について以後、新教徒ユグノーとカトリック教徒の衝突は激しくなり、その波はギュイエンヌ地方にも及ぶようになった。ラ・ボエシとモンテーニュは寛容を説いて両者の和解につとめたが、その最中の1563年8月、ラ・ボエシは突然病に倒れた。原因は赤痢か当時流行していたペストだと思われる。彼は妻の別荘へ向かう途中症状が悪化して、ボルドー近郊にあるモンテーニュの義弟の家に留まった。急いで駆けつけたモンテーニュは親友の床にずっと付き添ったが、看病の甲斐もなくラ・ボエシーは8月18日、モンテーニュに看取られながら33年の短い生涯を閉じた。死の床にあった彼はモンテーニュを相続人に指定し、蔵書と遺稿のすべてを託した。そのなかに「自発的隷従論」が含まれていたのである。(続) 
 

 
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by monsieurk | 2014-02-28 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)

「絶対のメチエ」展

 東京の日本橋蠣殻町にある「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」で、『絶対のメチエ――名作の条件』が開かれ、日本が世界に誇る三人の版画家、浜口陽三、長谷川潔、駒井哲郎の作品が並べて展示されている。
 
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 写真は会場一階奥の展示の様子で、左から長谷川の代表作である《幾何円錐型と宇宙方程式》(1962年)と《花(切子ガラスに挿したアネモネと草花》(1944-45年)の2点、そして駒井の《poisson ou poison(魚または毒)》(1951年)と《束の間の幻影》(同年)、さらに右へ浜口の《朝食》(1957年)と名作《パリの屋根》(1956年)である。長谷川、駒井、浜口の作品が同じ壁面に並べて展示されるのは画期的な出来事なのである。
 三人のうち最年長の長谷川は1891年生まれ、浜口が1909年、駒井が1920年生まれと、それぞれ年齢は10歳ほどの違いがあるが、フランスで銅版画の技術を学び、それを独自のものに仕上げた人たちである。
 彼らの制作に共通するのは、フランス語でmanière noir(黒の技法)とも呼ばれるメゾチントの技法を用いていることで、メゾチントとはイタリア語のmezza tintaからきていて、「中間の調子」という意味である。これはベルソーという道具を使って、銅版の表面に均質に無数の微小なささくれ(barbe)をつくり、そうして出来た穴にインクをつめてプレス機でかけて刷る。すると全面にわたって微妙な明暗濃淡の調子を生むことができる。このささくれを擦り落とせば、その部分だけは刷り上がったあとは白くなり、半分ほどとれば中間の濃さとなる。三人はこの技法をわがものにして、それぞれ独特の肌合いの作品を生み出したのだった。しかしこの技法の創意工夫をめぐって長谷川と浜口の間に軋轢があり、長い間二人の作品を並べて鑑賞する機会が失われていた。今度の展覧会では、企画者である神林菜穂子氏の熱意で、それが実現したのである。
 展示されている作品は55点。なかでは浜口陽三の14点がもっとも多く、彼が完成させたカラー・メゾチントはいずれも高い完成度を示している。駒井哲郎については《束の間の幻影》のもとになった《小さな幻影》を観ることができる。同じモチーフを扱ったサンドペーパーによるエッチングで、5.4×12.9センチの小品だが、温もりを感じさせる作品である。
 この他、加納光於の青のカラーメタル・プリントの2点、《soldered blue》は圧巻であり、田川喜久治の《地獄の入口》は、写真というマチエールの特徴を十分に生かした迫力に富む傑作である。展覧会のアドヴァイザーをつとめた北川健次の4点では、エッチング、アクアチント、フォトグラヴュールの技法を駆使した《F・カフカ 高等学校初学年時代》(1987年)のセピア色の色面が心をうつ。
 会場では、版画の歴史を牽引したオディロン・ルドン、ジョルジュ・ルオー、ジャン・フォートリ、ヴォルス、デイヴィッド・ホックニーなど外国人作家の良質の作品も鑑賞することができる。ヴォルスの作品《大きな悲しみ》(1949年)、《ヌードの花》(同年)、《街―横位置》(同年)は、作家ジャン=ポール。サルトルの豪華本『食糧』の挿画として製作されたもので、この本自体が稀覯本だが、さる日本人コレクターが所蔵しているものだという。サルトルは優れたヴァルス論を書いて、このアンフォルメルの先駆者を絶賛した。
 神林菜穂子氏は展覧会のカタログでこう書いている。「戦後、銅版画は新しい現代芸術として注目され、既存の美術にはない傑作を次々と生み出されました。本展では、そのパイオニア達の代表作を集め、揺るぎない魅力を紹介します。「絶対のメテイエ」は、銅版画の探究者達が真摯に追い求めた個々人の技法や作風を表しています。」
 版画という技法がいま一時の勢いを失いつつあるといわれるが、この展覧会で油彩とは異なるマチエール(肌合い)の魅力を再確認してほしい。展覧会は4月20日まで。なおミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクションの案内は、http://www.yamasa.com/musee/ でみることができる。
 
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by monsieurk | 2014-02-25 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

ヴァロットンの木版画Ⅲ

 フェリックス・ヴァロットンの木版画の特徴をよく示す作品集に、アルバム『小競り合い(L'Escarmouche)』がある。そのなかの一つ《婦人帽(La Modiste)》(1894年、写真上)d0238372_10134165.jpgを取り上げてみよう。これには制作の準備段階で描かれたデッサンが残されていて(写真下)d0238372_1016820.jpg、完成作と比較してみると、彼がどのような変形を加えて作品に象徴的意味をあたえるているかが分かる。
 デッサンでは、従来の遠近法に従って店の人物たちの位置が決められ、各人物の周囲や上方には空間が大きくとられている。一方の木版画では、ヴァロットンは水平の線と奥の壁を取り払い、登場人物の垂直線を強調し、頭の高さを揃えて画面にリズムを生みだして、帽子支えと女性たちの服の配置によって微妙な曲線を導入している。その結果、デッサンでは、わたしたちはただ眺めるだけだが、完成作では観ているわたしたちも絵のなかに加わっているような気持になる。
 ヴァロットンは絵を構成する要素を描写ではなく象徴に変容させて、束の間にすぎ去る日常の一瞬を描き出す。イマージュを鋭い線で縁取って単純な形に還元し、線の向きを調整し、白と黒の均衡を精密に軽量することによって完璧な画面を出現させるのである。
 ヴァロットンはパリで仕事をするようになった後も、頻繁に故郷へ帰った。そうした機会に、スイスの山々を素材に、北斎の《富嶽三十六景》を模して木版の連作をつくったが、彼の作品の多くは都会の一隅で見かける人びとの生活であった。幾つかを引用すれば――

 《デモ(La Manifestation)》。1893年制作。203×320mm
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  《一陣の風(Le Coup de vent)》。1894年制作。180×224mm
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  《パリの叫び(Cri de Paris)の表紙》。d0238372_10341716.jpg「パリの叫び」の1898年1月23日号の表紙に掲載された作品で、ドレフュス事件で被告の無罪を訴えたエミール・ゾラの「わたしは弾劾する」を載せた「オロール紙」を読む人たちを描いている。 
 ヴァロットンは「白色評論」などを通して文学者との交流が深く、彼らの肖像を多くつくった。《アルチュール・ランボー》は詩人のステファヌ・マラルメが、1896年にアメリカ・シカゴの雑誌「The Chap Book」に、ランボーについて評論を載せるにあたって依頼されたものである。そしてマラルメ自身の肖像も2点制作していている。d0238372_10362795.jpgやがてヴァロットンは、肖像とならんで室内の光景もテーマに取り上げるようになる。そこには親友ヴュイヤールの影響があったとされるが、《親密(Intimités)》のシリーズはとくに秀作揃いで、長椅子で抱きあう男女の絵には「嘘(Le Mensonge)」という皮肉が題名が彫られている。
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さらに「フルート」、「ヴァイオリン」、「ピアノ」などの楽器を演奏する場面を刻した作品も有名だが、彼の木版画の傑作と評されるのが、「怠惰(La Paresse)」(1896年、177×222mm)である。
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 テーマはよくあるベッドに横たわる女性で、ポーズもごく自然である。ただ彼女の裸体と、じゃれかかる白猫の頭を撫でる伸ばした腕が艶めかしく印象的で、それを浮き立たせるためのバッド・カバーやクッションの模様は計算し尽くされている。ここでは白と黒のコントラストが抜群の効果を生み、女性の裸体や猫の身体は丸みを帯びて生きているように浮かび上がり、画面全体が女性の抱える倦怠感を観るものに感得させる。
 日本の浮世絵に触発されてはじまったフェリックス・ヴァロットンの木版画の、これが到達点の一つであった。6月に東京で開催される展覧会での再会がいまから待ち遠しい。
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by monsieurk | 2014-02-22 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

ヴァロットンの木版画Ⅱ

 フェリックス・ヴァロットンは1865年12月にスイスのローザンヌで生まれた。パリではマネの《オランピア》が官展でスキャンダルを巻き起こした年であった。彼がパリに来たのは1882年で、印象派は絶頂期を迎えていた。だが絵画の世界ではアカデミーが相変わらず権威をにぎっており、官展で展示される作品は伝統墨守の保守的なものが圧倒的に多かった。
 ヴァラットンは画塾アカデミー・ジュリアンに入って、ジュール・ルフェーブルのもとで伝統的な手法を学んだ。この絵は初期の作品で伝統的な作風だが、d0238372_20134968.jpgまもなく彼はルーヴルに通って、デューラー、ホルバイン、アングルの絵に魅せられ、構成や明確な線の重要性を学んだ。これらやがて彼のグラフィック作品の特徴となるものである。
 パリで制作をはじめたヴァロットンは、周囲で展開する新たな芸術運動からも強い刺激をうけた。モネをはじめ印象派の画家たちは、純粋な色彩や自由なタッチで、神話や歴史ではなく日常生活をテーマにして、絵画の伝統に反旗をひるがえした。彼らは束の間の印象を描くことで自然主義とは決別してしていたが、それでも、ある瞬間、特別な光の条件のもとで目に映じた外界の事物を描くことには違いなかった。
 後期印象派のゴーギャン、ゴッホ、スーラ、セザンヌたちは、自然主義とさらに距離をおく姿勢を明確にした。そこには文芸の世界で台頭した象徴主義が影響していたのは言うまでもない。象徴主義者によれば、芸術のめざすのは外にある現実の描写ではなく、外見の下に埋まっている真実を表現することだった。マラルメやランボー、ヴェルレーヌがこうした考えのもとに象徴主義文学の道を開いたが、それは絵画の世界にも採り入れられた。
 ブルターニュのポン・タヴェンで制作を続けていたゴーギャンは、これらの概念をさらに練り上げて新たなスタイルを確立した。彼によれば、芸術は自然を目に見える事物を象徴(symboles)に変え、それによって隠された意味を顕在化することを目指すべきものとされた。そしてその実現には直観に導かれた変形(déformation)が重要であり、自然を模写するのではなく、自由な線と形と色彩を用いて自己のうちなる感情や観念を暗示することである。
 1889年にパリで開かれた世界万国博覧会で、ゴーギャンと彼のポン・タヴェンの仲間は新たな様式の絵を展示し、さらに「カフェ・ヴォルピニ」では彼らだけの作品の展覧会を開いた。官展の足を運ぶような多くの観衆には無視されたが、ゴーギャンたちの作品は若い前衛的は画家にとっては衝撃だった。ポン・タヴェンでゴーギャンに学んだポール・セリュジエはゴーギャンの絵画理論を公式化し、それに応じて若い画家たちがグループをつくって、ヘブライ語で「預言者」を意味する「ナビ派」と名乗った。
 ナビ派の主要なメンバーは、ピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤール、モーリス・ドニ、ポール・セリュジエ、ケル・グザビエ・ルーセル、ポール・ランソン、アリスディッド・マイヨといった人たちだった。d0238372_2026041.jpg絵はヴァロットンの《5人の画家たち》(1903年)で、左端に立っているのがヴァロットンで、腰かけているのは左からボナール、ヴュイヤール、ルーセル、そして右端がコテットである。
 ヴァロットンは日常生活を描くことに関心を持っている点でボナールやヴュイヤールと近く、ドニやセリュジエなどの神秘的傾向とは距離をおいていた。ヴァロットンとヴュイヤールは内省的で穏やかな気質の点でよく似ており、親友になった。二人は頻繁に手紙を交換し、夏休みを一緒に過ごした。
 ヴァロットンの木版画を世に広く知らせる努力をしたのはヴュイヤールで、作家ロマン・コールスの肖像を制作するよう依頼し、その木版画を雑誌「白色評論(La Revue Blanche)」の創設者で編集者のタデ・ナタンソンに購入させた。
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 「白色評論」はマラルメなどの象徴派の詩人やイプセンを擁護し、その作品を積極的に掲載するとともに、トゥールーズ・ロートレックやナビ派の版画を掲載した。ヴァロットンもすぐに「白色評論」に協力する主要な画家の一人となり、毎号作品を発表するようになった。(続)



 
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by monsieurk | 2014-02-19 22:29 | 美術 | Trackback | Comments(0)

ヴァロットンの木版画Ⅰ

 パリの展示場「グラン・パレ」で1月20日まで開かれた、スイス生まれの画家フェリックス・ヴァロットン(Félix Vallotton、1865-1925)の大回顧展が大きな反響を呼んだ。d0238372_1024428.jpgこの回顧展はオランダの「ゴッホ美術館」での展示を経て、4月から東京の「三菱一号美術館」で開催される。
 ヴァロットンはその斬新な版画で知られるが、今回の展覧会では多くの油彩作品を観ることができた。d0238372_10194348.jpg主題の多くは風景と人物で、タッチよりも線を重視する画風はのちの版画へとつながっていく。ヴァラットンは才気とユーモアでパリの生活や著名な人物の肖像を造形し、それによって新しい木版画の基をきずいた。
 その画風は後期印象派やアール・ヌヴォー、「ナビ派」の総合主義(synthétisme)と密接に関係していたが(これについてはブログ「画家ヴュイヤールⅠ~ⅩⅣ」2012.6を参照)、彼の歩みは独特なもので、トゥールーズ・ロートレックやピエール・ボナール、エドゥアール・ヴュイヤールたちが色刷りの石版画の刷新に努めたのに対して、基本的には線を強調し、深い黒と純粋な白の並置によって画面をつくることに力をつくした。そしてその独自の木版画は、版画の世界を革新するものとして高く評価されたのだった。
 1890年代は、ヴィクトル・ユゴーの葬儀と印象派の最後の展覧会で幕を閉じ、やがて「ベル・エポック」と呼ばれる新たな時代の幕が開こうとしていた。それはまたマラルメの象徴主義の時代であり、前衛的な雑誌が次々に創刊され、後期印象派の画家たちが台頭し、エッフェル塔がパリの空に姿をあらわした時代であった。その巨大な影の下では、カフェが新たな芸術家たちの交流の場となり、フレンチ・カンカンが評判の「ムーラン・ルージュ」がにぎわい、「作品座」では北欧のイブセンやストリンドベリの作品がしきりに上演され、やがてドレフュス事件が世論を二分するようになる。
 こうした時代にあって、ヴァロットンは木版画をつくった。そしてその作品は「アルバム」に収録されて販売されたほか、フランスだけでなく、イギリス、ドイツ、アメリカの新聞や本に掲載された。
 木版画の分野では、ポール・ゴーギャンはこの時期はまだほとんど知られておらず、エドヴァルト・ムンクが木版画をはじめるのは1896年からで、木版画の分野では、ヴァロットンが前衛的な旗手と認められるようになった。
 彼が「単純化」と「総合」という新たな手法を自覚するきっかけとなったのは、小さな画廊での日本の浮世絵との出会いだった。浮世絵は一世代前のマネをはじめとする印象派の画家たちに大きな影響をあたえ、彼が多くを学んだポール・ゴーギャンもその一人だった。ヴァロットンもはじめて目にした浮世絵の、大胆な省略と構成に衝撃を受けた。d0238372_784314.jpgとくに1890年にパリ国立美術学校(l'Ēcole des Beaux-Arts)で開催された浮世絵の展覧会では100点余りの木版刷りの作品が展示され、これに刺激されたヴァロットンは間もなく木版画の制作をはじめた。
d0238372_21263288.jpg 浮世絵を見た彼は、木版という新たな技術を学んだだけでなく、新しいテーマを教えられたのである。それは同時代の日常生活を描くことだった。ヴァロットンの浮世絵コレクションのなかに、写真で示した国貞の市川団十郎と海老蔵が演じる歌舞伎の舞台を描いた作品(1820年頃)があるが、ヴァラットンには、路上での喧嘩を生き生きと捉えたものと思われたのである。日常的に繰拡げられるこうした光景を、瞬間的に切り取り、それを単純化された形、明確な輪郭、明るい部分と暗い部分の劇的なコントラストによって、登場人物や状況をくっきりと浮かび上がらせる。d0238372_10203523.jpg浮世絵ではデッサンこそが本源的なものであった。こうして1891年以降、ヴァロットンは版画とりわけ木版画の世界に没入することになる。(続)
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by monsieurk | 2014-02-16 22:29 | 美術 | Trackback | Comments(0)
 シュペルヴィエルは宇宙規模の幻視者だが、同時に人体という小宇宙にも強い関心をもっていた。人体は彼にとって宇宙の全体性を理解するもう一つの場だからである。

  ここでは宇宙は人間の奥深い体温にかくれ
  皮膚が乗り越えられたときからの掟となった闇になかで
  かぼそい星々も天の歩みを進める。
  ここですべてはぼくらの静かな沈黙の足音をともない
  ぼくらのまわりに音ひとつ立てないひそかな雪崩の響きをともなう。
  ここでは中味はこれほど大きい
  窮屈な肉体 このみじめな入れ物よりも・・・(「肉体」『世界の寓話』1938年所収)

  ぼくの心臓がぼくを目ざめさせ、話しかけようとして
  遠慮深い他人のようにぼくの扉にさわる
  何を言おうか分からなくて 僕の前にとどまっている
  《やあ、わかるよ、君じゃないか。
  ことばを探したり弁解したりするには及ばない。
  ぼくらの夜更けに ぼくらの森へもう一度わけ入ろう、
  まだ生命があるようだから、もうしばらくは
  危険に待ち伏せされながらも 生きた心臓でいてくれたまえ》(「ぼくの心臓が・・・」
  『未知の友だち』1934年所収)

  
 ここに描かれているように、シュペルヴィエルは心臓病を患っていて、それだけ身体の調子には敏感だった。自分の心臓はもとより小さな筋肉の動きなど、肉体が伝える声を聴き逃さなかった。彼にとって肉体とその感覚とが、宇宙を感覚的に軽量するための尺度であり、そこに宇宙の謎を解くしるしを見出したのである。
 だからといって彼は、死を恐れているわけではない。死とは距離を保ち、ユーモアをもって死の恐怖をしりぞける。

  ぼくにこの世界をどうしろというんだ
  すぐにでも立ち去らなければならないというのに。
  まわりの皆に軽く挨拶して、
  終えるべきものを眺め、
  一人か二人の女性が登場するのを見て
  ぼくらが立ち会えないその青春を思う時間しかないのに
  それはもうぼくらの魂の問題なのだ。
  肉体はその障害で死んでいるだろうから。(「ぼくにこの世界を・・・」
  『未知の友だち』1934年所収)

 
 詩人に期待されているのは世界の意味の解明である。そしてそれを可能にするのは彼の武器である「ことば」であり「想像力」である。
 「小さな仙女には棒が、魔術師には何か魔法の品物が必要であるとき、詩人には自分に不足しているものをすべて創りだすには、その頭のなかの言葉だけで充分である。詩人にダイヤモンドが必要ならば、一番立派なものを取る。嵐が必要ならば、一番ものすごいやつを取る。魔法の絨毯が必要なら、自分で飛んでみる。詩とは詩人にとって、何ものも放棄しない、そしてそのことによって、わたしたちの不足を充たすことのできる技術なのである。こうして詩人は、自分を創造主と取り違えるような事態が起きる。なぜなら詩人は、地上の楽園のすべての動物たちを見出すことのできる宇宙を統治するからであり、そこでは動物たちは、その場所につきものの二、三の怪物たちと隣り合って暮らしている。」
 シュペルヴィエルの世界には、ウルグアイの森の牝牛やパンパスの野生の馬、星座の間のエーテル地帯で迷ってしまい、地球に帰ろうとする鳥たち、世界が終わったあと、神様だけだその声を認めるであろうカナリヤ、まぐさ桶の動物たち、福音書のなかの牡牛や驢馬が生きていて、彼らはみな詩人の親しい友であり、動物たちは人間の生活を温めてくれる。シュペルヴィエルの動物たちは豊かな感情や情愛を秘めている。こうした動物たちとの交流や、日々の生活のディテールから、彼は詩をつむいだ。。d0238372_12142230.jpg
 「ぼくは一生のあいだ目に拡大鏡をつけて仕事をするささやかな時計職人の一族だ。詩篇全体がぼくらの目の前で動きだすようにしたいのなら、どんな小さなバネもあるべき位置になければならない。
 ぼくは書くのに霊感を待たない。それに出会うの道を半ば以上進んでからだ。詩人はあたかも書き取りをするような、ごく稀れああした瞬間をあてにするわけにはいかない。その点、詩人は霊感など待たずに仕事にとりかかる科学者をみならうべきだと思う。科学はその意味で、逆の場合でない限り、すばらしい謙譲の学校である。なぜならそれはある種の特権的瞬間だけでなく、人間の恒常的な価値に信頼を置いているからだ。一篇の詩がぼくらのなかで、一枚の薄い霧の幕の後ろに待ちかまえているとき、言うべきことが何もないように思えることが何度かあるかも知れないが、この詩が幕をとりはらって現れるには偶然性の雑音を沈黙させるだけで十分なのである。」(「詩法についた考えながら」『誕生』1951年)
 それだからこそ、詩人はこの世になくてはならない存在なのである。

  詩人にはよくしてやりなさい、
  一番おとなしい生き物なのだから、
  その心臓も頭も貸してくれるし、
  悪いことはみな引き受けてくれ、
  ぼくらの双子の兄弟になってもくれる。
  形容詞の砂漠では
  その痛々しい駱駝に乗って
  預言者たちの先をいく。
  律儀だから、いつもせっせと
  惨めさを見舞い、墓参りもかかさない、
  お人よしだから、ぼくらのために
  自分の哀れな身体を鴉にあたえる。
  ぼくらのほんの些細なものまで
  はっきりとした言葉に翻訳してくれる。
  そう! 彼の誕生日には、
  通訳の帽子をやるとしよう!(「詩人には・・・」『悲しいユーモア詩集』1919年)
  
 シュペルヴィエルは多くの詩やコントをわたしたちに残して、1960年5月17日に亡くなった。この直前の4月30日、人びとは「通訳の帽子」ではなく、「詩王(Prince des poètes)」の称号を贈った。



  
 
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by monsieurk | 2014-02-13 22:30 | | Trackback | Comments(0)
  ぼくが生まれた、すると窓の外を
  さわやかな四輪馬車が通って行った。
  
  馭者が鞭を鳴らして
  曙の目をさましていく。
  
  まだ夜の島々が
  透明な日の上を漂っていた。
  
  壁という壁が目をさまし
  壁のなかで押しつぶされて眠る砂粒も目ざめた。
  
  ぼくの魂の一部は
  青いレールの上を空へ向かって滑り
  
  別の一部は 一枚の
  紙切れと一緒になって風に飛び
  
  それから、石につまずいて、
  囚われの熱意を保っていた。
  
  朝は自分たちの鳥を数えるが
  決して数を間違えることはない。
  
  ユーカリの木の香りが
  ひろがる大気に身をゆだねる。
  
  ここは大西洋岸のウルグアイ
  大気がこんなにしなやかで気さくだから
  水平線の色という色が
  家を見ようと寄ってくるのだ。
  
  こうやって生まれたのがぼくだった、音も聞こえぬ森の奥
  若芽の芽吹くのも遅いあたり
  また海の底、海藻がもすそをひるがえして
  ここまでおいでと風を誘っているあたり。
  
  そして地球は進むのだった、絶えずその回転を続け
  自分に属するすべてのものを気圏のうちに確かめながら
  ときには波の上、深い真水の上で、そっと触ってみるのだった
  泳いでいる人の頭や、潜ろうとする人の足などに。(「モンテヴィデオ」『引力』 
  1925年刊)
  
 自分が誕生した日をうたったこの一篇には、シュペルヴィエルの詩の特徴がよく示されている。d0238372_124185.jpgその一つが空間意識であり、もう一つが同時性の感覚である。彼にはわたしたちは継ぎ目のない世界に存在し、生存しているという確信であり、それを一篇の詩に織りあげるのに用いられているのが、映画制作でいうオーヴァラップの手法である。小説の世界では、アメリカの作家ドス・パソスが『U.S.A.』(1938年)で多用したもので、毎日の新聞紙面がそうであるように、ウルグアイで一人の赤ん坊が誕生したニュースが、一行変わるとニューヨークや上海やの株式市場に飛び、さらに大気や海のなかにもこだまするのである。
 評論家アルベール・ベガンは「二つの夜の詩人、シュペルヴィエル」で、詩人のこの特質を、「彼は遠いところまで届く手をもった、いや手どころか視線だけで届く巨人であって、遠い距離をとび越えて、ここにある一つの色の補色を地球の反対側まで探しに行き、あるいはわたしたちの足元から始まる一本の線の延長を、わたしたちの手の届かない星座にまで探しに行く」と述べている。
 シュペルヴィエルのこの特徴は、次のような詩句にあらわれる。

  家畜小屋で横になっている
  中国の灰色の牛が
  背を伸ばす
  すると、同じ瞬間に
  ウルグアイの牛が、
  後ろを振り向く
  誰かが動きはしなかったかを
  見ようとして。
  この両方の牛の上を
  夜と昼を通して
  音も立てずに飛び
  地球のまわりをまわる鳥がいる
  いつになっても下りてこず
  いつになっても止まりもしない。(「中国の灰色の牛が・・・」『無実の囚人』1930年所収)
  
 ここでは空間は楽々と越えられ、ひと続きてである。時間については次のような詩句がある。
  
  「横をむいたその馬は、
  誰一人として見なかったものを見た、
  それからその馬は、ユーカリの樹の下で、
  また草を喰べつづけた・・・・
  ・・・・その馬の見たものは、
  その時よりも二十万年前に、
  他の馬が、横をむいて、ちょうど同じ時刻に
  見たものだった。」(「動作」、『引力』1932年所収)
  
 シュペルヴィエルの世界ではすべてが一つ続きで、時間的にも空間的にも切れ目がなく、人間と動物にも隔たりはない。彼のコントの傑作の一つが、大洪水の際に、すべての動物が集まった「ノアの方舟」であるのは偶然ではない。そこにこんな場面がある。d0238372_1244042.jpg
 「方舟に乗れなかった動物もいた。ノアは嘘の出航時刻を教えておいたのだ。乗船用の渡し板がはずされてから、オオナマケモノがやってきた。
「ノアともあろうものが、俺を忘れて出発するなんてひどいじゃないか」
 力自慢のオオナマケモノは叫んだ。
 ノアは悲しそうに答えた。
「忘れたんじゃないんだ。君の運命は、洪水前の世界で終わっているんだよ。洪水が始まった以上、もうどうしようもないんだ」
「どうして、俺が方舟に乗れないんだ。おれは重要な動物だぞ。とんでもない話だ。ノア、お前のせいだ。このままじゃ、俺が生きていたことなんて、いつか皆に忘れられてしまうじゃないか」
「安心したたまえ、オオナマケモ君、君たちの頸椎が残って、研究の対象になるよ」
 方舟が扉を閉め、スピードをあげて遠ざかり始めると、オオナマケモノは船を追いかけて海に飛び込んだだが、ひどく不器用なうえに、怒りあまり度を失っていたから、すぐに水の底へと沈んでいってしまった。」
 オオナマケモノ(mégathérium)は既に絶滅しているが、かつては樹上ではなく地上で生活していたナマケモノで、体重は3.8トン、体長は6メートルにも及んだ。その化石は北はテキサスから南はアルゼンチンに及ぶ範囲で見つかっている。彼らはかつて存在した証に骨を残したのだが、シュペルヴィエルの世界にはいまや存在しなくなった動物までが含まれているのだ。(続)
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by monsieurk | 2014-02-10 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 シュペルヴィエルは紀行文『泉で飲む』(1933年)のなかで、「私は母からバスクの血を、父からはベアルヌの血を引いている」と書いている。バスクもベアルヌもともにフランス南西部ピレネー地方の一部で、この地方出身者の多くは南米のアルゼンチンやウルグアイに移住したが、シュペルヴィエルの一家も詩人の祖父の代にウルグアイへ渡った。
 シュペルヴィエル一族はウルグアイで銀行を経営し、そこで働いていた二人の兄弟は、フランスのバスク地方出身で、同じようにウルグアイに移住していたムンヨ姉妹とそれぞれ結婚した。
 ジュール・シュペルヴィエルは1884年1月16日にウルグアイの首都モンテヴィデオで生まれた。この年の夏休みに、父と母は生後8カ月のジュールを連れて、故国フランスを旅行するために戻ってきた。だが楽しいはずのこの旅は突然終わりを迎えた。両親が緑青を含む水を飲んだかあるいはコレラのせいで亡くなった。まず母のマリーが、その8日後に父親ジュール(彼は息子に同じ名前をつけていた)が後を追ってしまったのである。
 生後8カ月で孤児となったジュールは、サン=ジャン=ピエ=ド=ポールに住む母方の祖母のもとで育てられた。その後、父の兄ベルナールがジュールを引き取ってモンテヴィデオに連れていき、自分たちの4人の子とともに分け隔てなく育てた。だが9歳になったとき、ジュールは偶然から自分が実子でないことを知った。ショックは大きかった。彼はこう語っている。
 「わたしはモンテヴィデオで生まれた。そして8カ月になったばかりのある日、母の腕に抱かれてフランスに出発した。そこで母は亡くなり、同じ週に父も亡くなったのである。そう、それは文章にすれば一行の出来事、一日の出来事だが、旅と死の双子の徴のもとに生まれた者にとっては全人生に匹敵することではなかろうか?」、「ある日(わたしは9歳だったはずだ)、母だと思っている人のところを訪ねてきたひとりの夫人が、“この男の子が、あなたのお姉さんの息子さんなの?”というのを聞いた。この一言で、一瞬にしてわたしはすべてを悟った。・・・両親の死、わたしが親だと思っていたのに、そうではなかったのだ。遊び仲間は私の兄弟や姉妹ではなかったのだ。」
 この経験はシュペルヴィエルに、よそもの意識を植えけることになった。それは最初の詩的エッセイ『寓話の本』(Livre de fables)によくあらわれている。これはシュペルヴィエル少年が失ったものの一覧表であり、それを言葉にすることで補うとしたものである。
 衝撃的事実を知った直後にもう一つの離別があった。一家はウルグアイを離れて、第二の祖国フランスに向けて出発した。パリに住むことになったジュールは、名門校の一つのパリ16区にあるジャンソン=ド=サイイ高等中学校に入学して、ここで8年間の中等教育をうけた。その間、彼はミュッセ、ユゴー、ラマルティーヌ、ルコント・ド・リールなど多くの本を読んだ。そして1901年17歳のとき、最初の詩集『過去の霧(Brumes du passé)』を自費出版した。これに収められた詩の多くは亡き両親に捧げられている。
 この薄い詩集を含めて初期の詩で描かれるのは、シュペルヴィエル一家がモンテヴィデオの近くに所有していた屋敷で過ごした幸福なヴァカンスの思い出であり、自由、豊饒な自然、さまざまな動物や大草原〔パンパ〕の男たちとの出会いであり、広大な空間の印象である。
 バスク地方の血統をもつ彼は、三つの世界のまじわるところに位置している。フランスと、ピレネ山脈の向こうのスペインと、大西洋の彼方のラテンアメリカである。子どものころ、彼は詩や文章をフランス語やスペイン語で無頓着に書いていた。詩人としての彼は、イベリア半島風の「ロマンス」形式、つまり、短い歌うような詩句でできている詩を本能的に再発見して、その形式を愛用した。さらに多言語を使うことがのきる能力が、その詩の世界は豊かなものにした。そして幼くして愛着の土地を離れざるをえなかったことが、彼の世界の地理的地平線を大きくし、その詩を宇宙的な広さに拡大したのである。d0238372_943185.jpg
 シュペルヴィエルには空間が必要だった。空間こそが精神の糧であり、冒険の場だった。地図帳を前にして、船の甲板に吊られたハンモックや南米の大草原を疾駆する馬を空想し、砂漠に魅了される。

  
  クリスタルの小さい球体、
  土の小さな球体、
  ぼくは君をとおして眺める
  ぼくのきれいなガラス球を。
  
  ぼくたちはみな閉じ込められている
  硬い厳しい君の胸のなかに
  でもそれはピカピカで、輝き
  光によって丸くなっている。
  
  そこでは、馬が駆け
  ひとりの夫人が立ちどまる
  装身具のなかの花
  惑星の上の子ども。
  
  別のところでは、テーブルに座り
  あるいは煙草を吸い、
  砂の上に寝そべり
  あるいは手を火にかざしている、
  
  そしてぼくたちは自分の上で回転する
  眩暈も努力もせずに
  空とおなじく、石とおなじく
  ぼくたちは死のように輝く。(「地球」『船着場』1922年所収)

 シュペルヴィエルはクローデル、ランボー、マラルメを識り、やがてフランスの同時代の詩人たちと交わるようになるが、彼がうたう詩の特徴は変わらなかった。事象をうたった彼の詩は一見平明に見えるが、本質的な神秘は深いところに隠されている。(続)
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by monsieurk | 2014-02-07 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 『沖のこども』の先を読んでみよう。
 d0238372_9354492.jpg汽船が近づくと、船の姿がまだ水平線にも見えない前に、少女は深い眠りにおち、村は波の下に沈んでしまうのだった。だから望遠鏡でのぞいている水夫も、これまで村を認めたことがなく、こんな村があろうなどと疑ったこともなかった。
 少女はけっして歳をとらず、いつまでたっても十二歳のままだった。どうして生きてきたかといえば、食べ物は自然に台所の戸棚にあったし、朝になってパン屋へいけば、売り場の大理石の上には焼きたてのパン半斤が紙に包まれて置かれてあった。でも店に人の気配はまったくなかった。
 彼女はあるとき、村の役場の広間の隅に置かれている太鼓を持ち出して鳴らしてみた。海の隅々にまで聞こえる大きな声で、何事かを叫びたい衝動にかられたのである。でも咽喉がつまり声はまったく出なかった。あまり力を入れたせいで、彼女の顔と首がまるで水死人のように薄黒くなっただけだった。
 少女の部屋にはトランクが置かれていて、なかには大切な書類と一緒に、ダカール、リオデジャネイロ、香港などから届いた、シャルルまたはC・リエヴァンスと署名してスティーンヴォールドへ宛てられた絵葉書が幾枚か入っていた。でも彼女にはそれが何かさっぱり分からなかった。
 戸棚には写真帳があった。写真の一枚には自分とよく似た少女が写っていて、それを見るとなんだか恥ずかしい気持になった。写真のなかの少女の方が、かえって本物のように思えたからである。別の写真には自分に似たその少女が、水夫の服装をした男と、よそゆきの身なりをした痩せた女性の間にはさまって写っていた。沖の少女は、この男も女の人も見たことはなかったが、夜ふけにふと目覚めたとき、この二人が何者なのかと長いこと考え込むのだった。
 そしてある日、運命の意志がゆるみでもしたような奇妙なことが起きた。堀口大學訳――
 「荷物もあまり積んでいないくせに、たいして揺れもせず(喫水線のところに赤い横線が日光に耀いて見えていた)、ブルドックのように強情ぱりらしい本物の貨物船が、煙を吐きながらこの村の海の往来を通るのであったが、その時ばかりは、家々も波に沈まず、小娘も睡気に襲われはしなかった。
 時刻はちょうど正午であった。その貨物船はサイレンを鳴らしたが、その響きは鐘楼の金の音とは混じらなかった。各々が独立を保って響いた。
 小娘は人間が立てる物音をこの時はじめて聞いて、窓に駆け寄ると、あらん限りの大きな声を立てて叫んだ、
 「助けて下さい!」
 そして彼女は汽船の方へ向けて、自分の小さなエプロンを投げつけた。
 舵取りの男は顧みようともしなかった。また口から煙を出していた一人の水夫は、何事もない様子でデッキを歩き続けた。他の水夫たちは洗濯をつづけていた、その間じゅう 舳の両側では、海豚の群れが、急いで通り過ぎるこの貨物船のために、道をひらいて左右にとびのいていた。」
 沖の少女はむなしく家に帰った。そして自分が「助けて下さい!」と叫んだことに驚くとともに、初めてこの言葉の深い意味を理解した。彼女にはその意味が恐ろしかった。
 そんな彼女の切ない心を知った大きな波がやってきて、自分の底の方へと巻き込み、死の協力を得て、彼女を亡き者にしてやろうとこころみた。少女も波の意図を理解して、自分でも息を殺してみたが願いはかなわなかった。
 なんとしても死をあたえられないとみると、波は涙と詫び言で少女をつつみ、彼女の家に連れて戻った。こうしてまた水平線に汽船のマストの先がのぞくと同時に、しばらく海のなかへ姿を消すことを繰り返さなければならなかったのである。
 コントは次のように結ばれている。今度は拙訳で――
 「沖合で、船べりに肘をついて夢想にひたる船乗りたちよ、夜の闇のなかで、いつまでも愛する者の面影を想い描くことを止めたほうがいい。さもないと君たちは、およそ人気のない場所に、人間のあらゆる感受をそなえながら、生きることも、死ぬことも、愛することもできずに、しかもまるで生きて、愛し、絶えず臨終の瞬間にあるように苦しんでいる存在を生み出してしまう危険があるのだ。海のなかで孤独で、なにもかも奪われてしまった存在、四本マストの豪胆丸〔ル・アルディ丸〕の下級船員、スティーンヴォールドのシャルル・リエヴァンスが、航海で留守のあいだに自分の十二歳の娘を亡くし、ある夜、北緯五十五度、西経三十五度の海の上で、その面影を長いあいだ激しく思いつめたあまりに、彼の脳髄から生み出してしまった、この太洋のこどものような存在を。」
 沖の少女が住む場所は北緯五十五度、西経三十五度にあるという。ここはカナダ・ニューファンドランド島の北東はるか沖合、レイキャネス海嶺の西のはずれの位置である。そして幼いときから幾度も大西洋を行き来したシュペルヴィエルにとってはよく知った場所だった。(続)
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by monsieurk | 2014-02-04 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 若いころ、フランスの詩人ジュール・シュペルヴィエル(Jules Supervielle、1818-1960)を集中的に読んだことがある。d0238372_927371.jpgきっかけは高等学校時代に、堀口大學訳の短編集『ノアの方舟』(昭和14 年、第一書房)を神田神保町の古本屋で見つけ、すっかり魅了されたことだった。
 その後、ガリマール書店から出ているこのコント集と幾つかの詩集の原書を入手して読んだ。やがて卒業論文のテーマを決める際、スタンダール学者の小林正助教授に、「マラルメにするかシュペルヴィエルのコントにするか悩んでいる」と相談すると、「まだシュペルヴィエルのコントで論文を書いた者はいないから、ぜひシュペルヴィエルを選んだらいい」と助言された。だがこのときは東大を定年退職されて、中央大学でマラルメの後期ソネを講じておられた鈴木信太郎先生の講義の聴講を許されており、結局マラルメをテーマに選んだ。ただシュペルヴィエルはその後も事あるごとに手にしてきたし、3・11の大震災直後は、宮沢賢治とともに読み返しては心を癒されたものだった。
 最初に読んだシュペルヴィエルの短編集『沖のこども(L’Enfant de la haute mer)』は、1930年12月23日に、当時はNRF・新フランス評論社と称していた「ガリマール書店」から刊行された。ここには表題の「沖のこども」(「沖の小娘」、「沖の少女」、「海に住む少女」などとも訳されている)以下10篇のコントが収められている。まずは「沖のこども」の冒頭を、懐かしい堀口大學訳で引用してみる。
 「この、水に浮かんだ道路が、どうして出来たものか? どんな水夫たちが、どんな建築師の手を借りて、大西洋の遥か沖合の海面、六千メートルもある深海の上に、これを造ったものか? 今ではすっかり褪せてしまって、仏蘭西鼠に近い色に見えている赤煉瓦のこれらの家々も、瓦葺きの、スレート葺きのこれらの屋根も、いつ見ても変りない貧しげなこれらの店々も? また透し彫りのどっさりしてあるお寺のあの鐘楼も? それから、見たところでは、ただ海の水が満たしてあるだけだが、どうやらそれでも、壁をめぐらしたり、壜の底を置き並べて飾りにしたりした庭のつもりらしく、そこでときどき魚がはねているこの庭も?
 波にも揺れずに、いったいどうしてこれが立っているのだろう?
 それから、固い地べたを歩くと同じように、確かな歩調で、木靴の歩みを運んで通る、ひとりぼっちの十二になるあの小娘にしても? いったいこれは、どうしたことなのであろうか?
 それらのことがおいおい目の前に見えて来るにしたがって、また、それらが分かってくるにしたって説明するとしよう。それでもまだ分からないことがあるかも知れないけれど、それは仕方のないことだ。」
 堀口大學のあとにも幾人かが翻訳をこころみているが、みなが上記の一節、un jardin clos de murs, garnis de tessons de bouteilles を、「壜の破片で飾った壁」の意味に解しているが、ここでは壜の破片は飾りではなく、よそ者の侵入を防ぐために壁の上に埋め込まれているのである。追々判るのだが、少女が住む大西洋の沖にある街は、彼女以外だれも住人はおらず、そんな用心は不要なのにもかかわらず、家をめぐる壁には侵入を防ぐ策がほどこされていて、それが一層彼女の孤独ぶりを際立たせるのである。
 だがこれは例外であって、堀口大學とシュペルヴィエルとの相性は抜群で、両者の夢の波長が重なっているために読んでいて快い。堀口大學は外交官だった父九萬一がブラジルに赴任していたとき、父のもとで青年時代をすごした経験があり、シュペルヴィエルの描く世界は馴染みのものであったのである。
 ところで詩人のシュペルヴィエルにとって、コント(短篇)を書くことはどのような意味をもっていたのか。彼は1951年に刊行した詩集『誕生(Naissances)』に付属の形で、自らの詩論ともいうべき「詩法について考えながら」を発表した。そこで次のように述べている。
 「私は大部分の作家につきまとっている低俗さへの恐怖をほとんど持っていない。むしろ理解されないこと、異常なものとされることを恐れてきた。私は神秘の専門家のために書いてきたのではなく、感受性のある人が私の詩篇の一つでも理解してくれなかったときは、いつも苦しんできた。・・・
 説明ということに関しては、人はそれを反詩的なものだという。そしてそれが論理学者が理解しているような意味での説明ならば、それは本当だ。しかし夢のなかに沈潜している説明のなかには、ポエジーの領域をはみ出すことなく姿をあらわすような説明もあるのだ。
 だから詩人は、表面が透明になる一方、神秘がますます底の方へ深められていくような詩篇のもつ緊密さ、整合性を切望することもありうる。私は自分の詩がイマージュを秩序づけて、それらを正しくうたわせるものであることを期待する。詩篇は私のなかでは、内部の夢にひたっているものだから、私は時にはそれに物語(récit)の形式をとらせることも恐れない。コント作者の論理が、詩人のさまよう夢想を監視するのだ。詩篇全体の緊密さは、それによってその魔法の力を打ち壊すどころか、逆にその土台を固めるのだ。コント作者が私のなかの詩人を見張るというとき、もちろん私は、さまざまな文学のジャンルの相違を見落としているわけではない。コントは一つの点から他の点へまっすぐ進むが、詩篇は、私が一般に理解している限りでは、同心円を重ねて進行する。」
 シュペルヴィエルは、当時一世を風靡していたシュルレアリストのように過度に神秘的であることを嫌い、何よりも読者がテクストを理解してくれることを望んだ。その彼が選んだ表現形式が詩句でありコントなのだが、「コント作者の論理が、詩人のさまよう夢想を監視し」、「一つの点から他の点へまっすぐ進む」分だけ、コントは読者に理解されやすいという。
 シュペルヴィエルにとって、詩句もコントもともに重要なものだが、彼の詩的世界への参入するには、私がたまたまそうであったように、まずはコントを読むのがいいかも知れない。そこでは生と死、現実と夢想、地上と天上、人間、動物、植物を隔てる垣根が取りはらわれていて、私たちはシュペルヴィエルの宇宙を自由に行き来することになる。
 「詩法について考えつつ」は、シュペルヴィエルの詩業を理解する上で一つの鍵となる文章であり、これからも引用することになるが、そもそもジュール・シュペルヴィエルとはいかなる詩人なのか、フランス現代詩に何をもたらしたのだろうか。(続)
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by monsieurk | 2014-02-01 22:23 | | Trackback | Comments(0)