フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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<   2014年 03月 ( 10 )   > この月の画像一覧

 ウィットに富む詩句では、音韻によるどんな印象的な旋律も、わざと場違いな位置に置かれるのはよく知られている。それによって言葉――イメージの総体が生み出す効果と相容れない心理状態を喚起しようとするのである。しかし詩的目的のために詩句が用いられる場合は、音韻の美しさは、単にそれが不適切でないばかりでなく、表現にふさわしい感情豊かな心理状態をつくり出すことで、言葉の効果を大いに高めることになる。(1)
 ここに、詩にとって可能な美学のきわめて重要な問題が横たわっている。この旋律の効果の重要性はきわめて大きく、それゆえ詩というものを規定する最も本質的かつ基本的なものと、しばしばなされるものである。
 これについては、三つの説明が可能であるように思われる。

 (1) 以上に私が記述しようとこころみた言葉――イメージの複合体は、詩の基本的な性質であり、旋律はそれを補助するもの、つまり詩的な理解を心理的に助けるものである。もしそうであるなら、詩の基本的な内容を、他の言語に翻訳することは翻訳することは可能だといったゲーテは正しかったのだ。
 (2) 旋律は詩の本質的な効果であり、言葉のイメージは、単に旋律によって引き起こされた漠然とした感情の流れのための道筋を形づくるにすぎない。
 (3) これら二つの事柄は、化学的な化合作用を引き起こす。それらは分離不可能なものであって、一緒になって一つの基本的な詩の本質をつくる。

 このうちの第二の仮説が間違っていることは、私には明白なことに思える。それを験すために、リア王のナンセンスな詩句を取り上げる必要はない。そこには言葉の旋律は少しもないからである。これらの詩句では、言葉のイメージの連続が、普通の詩とまったく同様に、詩句の上に作用する漠然とした感じがあるばかりで、むしろまったく知らない言葉で朗読された詩を耳にしたときに、私たちのうちに引き起こされる美的な感動がいったい何なのかを考えてみる必要がある。私たちは純粋で単純な旋律を理解する。だがその効果はごく小さなものに思われる。それは音楽が持つ効果に比べれば、比較にならないほど小さい。かろうじてこちらに伝わってくるにすぎず、私にはそれが歌における、言葉の主要な効果であるように思えるのだ。
 第三の仮定の諾否はもう少し難しい。しかし私には、二つの効果を完全に同一視することができるかどうかはなはだ疑わしい。
 はたして完全な化合物が生じるかどうかを疑う理由の一つは、旋律だけのものはそれだけ単調で、言葉の連続するイメージより変化の幅に乏しいからである。もう一つの理由は、私にとって純粋かつ完璧な詩的効果と見えるものが、ときに散文のなかに見出されるという事実である。それも聖書のある部分のように、旋律の効果が詩に似ているような散文ではなく、旋律的効果を強く印象づけるところのまったくない散文のなかに見出されるという事実である。とはいえ、詩的効果には不思議に旋律的なリズムが付随しており、しかもそれが言葉のイメージの連なりの効果を高める強い力を持つことから、私は言葉のイメージの連なりとその光暈は、詩というものの一番の基本だという考えに傾くのである。
 そこで詩の効果は、言葉が持つ完全な意味とそれが内包する感情のすべてが、はっきりしていることが大切だということになる。一方、文章の意味が事実に対して真実かどうか、人生にとって価値があるかどうか、その重要性、その関心事といって価値があるかどうか、その重要性、その関心事といったものは考慮のなかに入ってこない。例をあげれば、ダンテの詩を考える場合に、彼が提示する世界が、物事に関する私たちの経験と矛盾するといったことはまったく問題にならない。かくかくの意味が、言い換えによって、別の言葉によって、別の言葉によって、よりよく示唆されることがあったとしても、それは詩の効果とは無関係のことなのである。
 [もし私が正しければ、音の美しさは〔詩の〕本質的な性質というより、好ましい同伴者なのである。それは美的理解にたいする生理的な助力とされるべきであろう。もしそうなら、ゲーテが詩の本質は翻訳可能であると語ったのは正しかった。言葉や文章の意味は、このように詩的効果にとって本質的なもののように見えるのだが、意味の本質、事の真偽、人生への価値、その重要性、その関心事は考慮の対象とはならない。言い換えによってより良く、あるいはもっと上手く伝えられるかも知れないこうした意味は、詩的効果に関与することはない。この点では、どんな意味内容も、たとえそれがどんな内容であれ、一つの詩が結晶するための核となることが理論的には可能なのである。しかし純粋詩の視点からすれば、こうした性質は否定されるべきものである。
 言葉の光暈の累積的な効果こそが詩的芸術の本質だという私の考えが正しければ、マラルメは、それを意図的にかつ慎重に研究した詩人の一人と見なされるべきである。もちろんある芸術の本質について、意識的かつ慎重に焦点を合わせることは、芸術家にとって必ずしも幸せなことではないのが分かってこよう。最も偉大な芸術は、最も純粋なものではなく、豊かな形式は、内容の豊かさからのみ立ち現れるであろう。内容が最終目的だというのはさして重要なことではない。だが、これらは詩的理解の本質よりも、むしろ芸術作品を生み出すときの心理にかかわる問題なのである。間違いなく詩人なら誰でも、言葉を選んで、偉大な技術によって言葉を、それを取り巻くもののなかに配置し、それによって期待以上の、驚くような喚起力をあたえようとするのである。](2)

原注(1) 草稿には、「心の戦慄は正確に効果と一致する」とある。
   (2) カッコ内は草稿からの挿入。(続) 
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by monsieurk | 2014-03-30 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 一つの言葉が突然の変化をもたらすことはあろう。しかしその変化は、それに先だつ継続的な変化とリズミカルに結びついていなければならない。
 言葉の光暈〔オーラ〕の相互作用が、漸進的効果をあげた最高の例として、グレイの『エレジー』の碑銘の冒頭を引用してみよう。

 ‘Here rests head upon the lap of Earth
A Youth,’

 このところ地の畝を枕に憩えるは
  若者ぞ

  
 〔読者の〕心には、先行する数行によって、高名な人物の死と死後の生涯についての、ある特別な感情がすでに醸成されている。‘Here rests’「ここに憩う」は、碑銘としては普通の書き出しだが、ある種の物悲しさを生み出してもいる。
 しかし常套的な「誰それの身体」のかわりに「彼の頭」という言葉で、「とどまる」が他動詞として用いられているのを知った途端に、私たちはハッとするのである。この最初の効果は、小さなサスペンスの先触れであって、倒置法が、本当の主題がなにかを正確に知るために、私たちに待機するように強制する。もう一つの効果は、主題が亡くなった人であると察したときから、筋の運びに予期せざる活気と力をあたえることである。「畝の上」という言葉が、すでに心のなかで目に見えるようなった仕種の効果を規定し、効果を一層強める。全体の文章は、「地上」という言葉に含まれる擬人化と、共感を呼ぶ暗示によって強化され、完全なものとなる。最後に、「若者」が、普遍性、曖昧模糊とした感じ、悲哀といったものを加えることになる。そしてこれこそが詩句の鍵なのである。
 ここに分析したような、言葉のイメージが持つすべての意味を、それぞれの相対的な位置関係によって表出するという方法は、機知〔ウィット〕にも当てはまる。この点で機知と詩は大変近いものなのである。
 マラルメのエロディヤードが次のように語るとき、

 ‘O femme, un baiser me tûrait
  Si la beauté n'était la mort,’

  
  おお女よ、もし美が死でないのなら
  一つ接吻が私を殺すだろう

  
 私たちはこうした詩句が、別の意図のもとでは機知に富んだものとなるのを認める。(例としては、統治セシコトナカリセバ、統治ノ才アリト認メルコトナカラン)(1)
 パロディーがもっと簡単に効果を得るのは、型の類似に働きかけることである。同じ型を保ちつつ、しかも反対の意味を持たせることからパロディーは生まれる。
 詩の形式に整えられた言葉についていえば、少なくともその半分は、詩的目的よりもウィットを目標にしていることは、コミック・ジャーナルを読んでみればすぐに分かることだ。だから一般的には真実と考えられている、詩句のあるところには詩があるというのは、じつは半分の真理でしかない。詩と詩句の同一視は、低俗な詩を含めても、誤解でしかない。
 詩とウィットは、同一の理由から詩句という形式を用いる。相互関係を強調することによって、言葉のイメージの効果を強化する力を増すからである。リズムもまた、期待を呼び覚まし、驚いたための沈黙を生む力を持っている。そしてウィットの場合にあっては、未解決のショックをもたらす力を持っている。
 先に引用したマラルメの詩句では、「殺すだろう」という句切れが、この言葉の持つ暴力的な力を強調しているだけではなく、条件法に含まれる下降の効果と高めている。そこにはウィットの意図も含まれていて、句切れはまさにその目的にそった効果をおさめている。
 言語の詩的効果とウィットの効果の違いについては、詩的効果の場合は言葉のイメージの総体とその複合は、感応を生み出し、それを心のなかで持続させようとするのに対して、ウィットの方は多少とも感応を突然に中断する点にあると、私は言いたい。
 たとえば、中国語の「急収」〔ストップ・ショート〕は、警句とは正反対のものと定義される。そこでは言葉は急停止するが、意味はその先も続くのである。
 
 原注(1) ロジャー・フライはもう一つの例を、草稿の裏に残している。「大口を開いて、我らをおもう一度噛んでみよ・・・・」(続)
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by monsieurk | 2014-03-27 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 ではロジャー・フライの「マラルメ詩集への序文」の翻訳を読んでいただこう。

 マラルメは最初の純粋詩人と言われていたと伝えられている。これを意識的、計画的に純粋性を追求した最初の詩人だったと受け取るなら、彼の詩を理解する上で、多分有効な手がかりを得ることになろう。
 ほとんどすべての芸術作品は、多かれ少なかれ不純なものである。つまりそれらは、同情、恐れ、欲望、好奇心といった、日常生活によって引き起こされる感情が、鑑賞する人のうちに反響するのを許し、あるいはそれを引き起こしさえするからである。したがって、こうした作品に対する私たちの反応(さまざまな反応が一度に起こる)は、美的鑑賞に不可欠の〔実生活からは〕超然とした純粋な感情と、生活に直結したしかじかの複合体なのである。
 芸術作品において、純粋性が望ましいか否かという問題は、今はわきに置いておくことにしたい。そして芸術家は目的を意識すればするほど、純粋性に向かうものだ、――その関心と力を、超然とした美的感情の方に向けるものだと言うにとどめたい。
 マラルメはこの点で、美学上はなはだ興味深い例なのである。彼の作品では純粋な詩が持つべき形態を、他の場合より容易に特徴づけることができる。私たちの目標は、詩の本質にとって基本的に必要なもの、それなくしては一つの作品が、もはや詩とは言えないものを質〔ただ〕すことにある。私はなんとかこれを完全に見つけだしたい思う、そしてその幾つかの要素の縺〔もつ〕れを解いて、それを明るい光のもとに置きたいと願うのである。
 言葉というものは、連想によって生ずる漠とした光暈〔オーラ〕に囲まれた、あるイメージなり思想なりを運ぶものである。この光暈は、鮮明さや色彩の点で、個々人によってさまざまに変わるのは無論だが、ある言語に習熟した者にとっては、一般的で客観的な類似性を持っている。
 一つの言葉が理解されるとき、この光暈は心にはっきりと刻まれる。そして第二の言葉が最初の言葉に加わると(たとえば同格として、あるいは名詞にかかる形容詞として)、最初の言葉の光暈は変化する。場合によっては拡大され、あるいは対比され、色彩が加わって変化し、その結果生まれたものは、構文が完成したことで、一層明確になった〔言葉の〕全複合体との関係において、さらにまた変化をこうむることになる。
 私がここまで書いてきた文章の意図と本質は、使われている言葉の組合せや光暈に、できるだけわずかの強度しかあたえないことにある。そこから結果するのは、純粋に知的な展開であって、美的な喜びをあたえることではない。一方、詩の本質はといえば、言葉が喚起するエネルギーが最大値に達するように、言葉を駆使することにあるように思われる。詩人は、光暈が目一杯、豊かで、完全に目に見えるように、一つ一つの言葉を配置し、個々の言葉が全体との関係で生みだす変化が律動を持ち、それによって変貌が次第に意味を持つようにするのである。
 偉大な劇作品の、クライマックスでの感動的な台詞を考えてみれば、その印象がこうした複合による心の高まりに由来していることが理解されるであろう。リア王の台詞、

 ‘Didst thou give all to thy two daughters,
  And art thou come to this?’
  
  お前も二人の娘にすべて譲ってしまったのか、
  そしてこんな目に遇っているのか?
 
 ‘daughter’「娘」という言葉は、劇中のこの時点では特別の力を獲得している。他の幾千という文脈にあっては、同じこの言葉はおよそ平凡なものでしかあり得ない。
 ある種の愕き、少なくとも予期せざることが、私たちの集中力を十全に保つのだと言われてきた。しかしこの驚きとて、やがては文章としての全体的な光暈のなかに溶けこみ、緩和されるべきものなのである。

 なお、マラルメの詩の原文は以下のホーム・ページで読むことができる。これはマラルメが用い単語が、Deman版に掲載されている詩篇のどの箇所にあるかをすべて示したものである。
 Index des mots des poésies de Stéphane Mallarmé (http://www.campus.ouj.ac.jp/~kashiwa/)
(続)


  
   
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by monsieurk | 2014-03-24 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 マラルメの詩篇には、フライの指摘のように室内風景をうたったものが少なくない。たとえば一般に「不在の三部作」と呼びならわされる後期の小篇、「この夕べ、誇らしい自負心はすべて・・・」、「かりそめのダラス器の尻からひと跳びに・・・」、「窓掛けのレースはいつしか消えて・・・」ではじまる三つのソネは、それぞれ最初の草稿から幾つかの段階をへて最終稿にいたるが、それぞれのヴェルシオンを詳細にたどり直してみると、これらの詩が最初はどれも詩人が熟知した室内風景から出発していることが分かる。同時に詩句のなかの緊張が高まるにしたがって、構文上の必要から次第に原型が消え、ぼんやりとしたイマージュに解体されていく過程が明らかになる。そして最終稿にいたって、ついに出発点にあった具体的な現実は推定不可能になってしまう。フライはまさにこうしたマラルメの詩の誕生の秘密を解明しているわけだが、ここには単に詩の翻訳だけではなく、別の経験が働いているように思える。それはかねてから愛好し、研究していたセザンヌの絵の存在である。
 フライは1910年11月、ロンドンのブルームズベリー地区にあるグラフトン画廊で、セザンヌ以後のフランス現代画家の作品展を開いたことがある。展示されたのはセザンヌをはじめ、ゴーギャン、ヴァン・ゴッホ、マティス、ドランなど、後に「後期印象派」と呼ばれる画家たちだったが、そもそも彼らをこう呼ぶことになったのは、このときフライの命名によるものだった。
 彼は美術評論家として、かねてセザンヌを高く評価しており、1927年には単行本『ポール・セザンヌ』を出版した。そのなかに次のような一節がある。
 「画家の視覚に映る現実の対象物はまず最初に、われわれが通常それによって感知する特定の特徴をすべて取り去られ、それらは空間とヴォリュームという純粋な要素に還元される。この抽象世界において、これらの要素は画家の感覚的知性によって完全に秩序立てられ、組織化され、論理的一貫性を獲得する。さらに再び、これらの抽象化された要素は現実の事物の具体的世界へと送り返されるのであるが、もとの固有の特殊性を回復させるわけではなく、絶えず変化し、移り変わる画面組成の中でそれらを表現するわけである。こうした各対象物は抽象化された分かり易さを、また人間の心にとっての感じのよさを確保し、しかもあらゆる抽象物には欠けている現実の事物がもつリアリティを再び獲得するのである。」(ホガース・プレス版、58-59頁。辻井忠男訳による)
 この一節と彼のマラルメ論とを比べてみれば、フライがなぜマラルメの詩にあれほど魅かれたのか、その秘密の一端をうかがうことができるように思うのだ。事実、フライはセザンヌにはじまる後期印象派の画家たちの仕事と、マラルメの間に深い類似性を認めていた。マラルメの詩法とキュビスムを関係づけるフライの見解は、後年のカーンワイラーの同じ議論のはるかに早い先駆である。
 フライが予言したように、マラルメの詩の英訳はその後数多くなされているが、フライの翻訳は今日にあっても少しも古びていない。そしてマラルメの革新性を、美術との関係で鋭くえぐった論旨は傾聴に値する。この「序文」の翻訳紹介が、新たなマラルメ論の地平を拓くことを期待したい。(続)
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by monsieurk | 2014-03-21 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 青土社から出ている雑誌「ユリイカ」の1993年7月号に、特別掲載として⦅R・フライ「マラルメ詩集の初期序文」⦆を掲載したことがある。これはロジャー・フライによる英訳詩集の序文の翻訳と解説からなるが、雑誌のバックナンバーが入手しにくくなっており、ブログに再掲することにする。雑誌発表のときとは順序を逆にして、先ずは解説を読んでいただく。d0238372_11564687.jpg

 ここに訳出したのは、イギリスの美術評論家ロジャー・フライ(Roger Fry)が残したマラルメ論で、死後に出版された訳書『ステファヌ・マラルメの詩』( Stéphane Mallarmé Poems)の巻末に印刷された。マラルメの詩篇のまとまった英訳としては、このフライのものが最初である。
 1866年12月にロンドンで生まれたフライは、ケンブリッジを卒業後、パリで絵を修行し、やがてその広い知識と鋭い感性で、美術評論家として知られるようになった。自らも絵を描き、芸術家の創作集団「オメガ工房」を主宰するかたわら、彼は二つの趣味を持っていた。一つはチェス、もう一つはフランスの詩人ステファヌ・マラルメを読むことであった。彼は旅行中でも鞄にマラルメの詩集を一冊いれることを忘れなかった。
 フライがマラルメの詩を翻訳しようと思いたったのは、1918年のことだったと推定される。この頃彼の家を訪ねた者は、一人の例外もなく翻訳し終わったばかりのマラルメの詩の朗読を聞かされ、意見を徴されたらしい。1925年頃には、翻訳は印刷ができるところまで来たようである。ところが出版社が翻訳だけでなく、マラルメについて紹介文を書くように言い出した。この注文がフライにとって思いがけない機会をあたえることになったのである。
 彼は翻訳とは別に、マラルメの詩の本質をつきとめるべく、短い序文を執筆する決心をした。フライのマラルメへの没頭ぶりは、こうして年を追うごとに深まっていった。翻訳された詩篇はおよそ30篇に達し、それに注と序文をつけて出版する計画がようやく実現しつつあった。
 しかしこの段階にきて、もう一つ厄介な問題が出来〔しゅったい〕した。フライは出版にあたって、自らの英訳とともに、フランス語の原詩も一緒に載せることを考えていたが、あろうことか、原文の掲載をマラルメの女婿であるボニオ博士が断ったてきたのである。さらに1933年6月には、なによりも大切にしていた翻訳を書きつけたノートが、パリのサン・ラザール駅構内で盗まれるという事件が起こった。フライが受けたショックは大きかった。このノートは結局戻ってこなかったが、草稿の写しを持っていた友人たちの協力で、すべての翻訳はやがて復元することができた。
 こうした曲折を経たフライの翻訳が出版されのは、彼が1934年に亡くなってから2年後のことである。ロンドンのChatto & Windus社から刊行された本の表紙は、ブルームズベリー・グループの仲間のヴァネッサ・ベルが、マラルメの詩の主題を描いた絵が飾っていた。
 流布本に収録されているマラルメの詩64篇のうち、フライが翻訳したのは29篇である。出版にあたって、かねて親交があり、翻訳について相談に乗ってくれたフランスのマラルメ学者シャルル・モーロンが新たに序文を執筆したが、同時に彼はフライが遺したマラルメ論を高く評価し、巻末に「初期序文」と題して収録したのだった。
 フライが遺した「序文」は、行数にしておよそ440行と決して長いものではない。だがその執筆時期や独特の観点からいって、無数のマラルメ論のなかでもひときわ異彩を放つものである。ロジャー・フライはマラルメの詩を繰り返し読み、それを自分が熟知した言葉に翻訳する過程で、注目に値するユニークな視点を獲得したのだった。(続) 
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by monsieurk | 2014-03-18 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 「アルチュール・ランボー」

 オスグッドがいまもって不明の理由から、「郵便の気晴らし」の出版を最終的に断ったために、マラルメの重要な一面を示す、遊び心に充ちた、雅びな四行詩は、1920年になってガリマール社が出版するまで陽の目を見ることはなかった。それを考えれば、たとえ27篇とはいえ、これがアメリカの雑誌に発表された意味は大きかった。マラルメが出版のために準備した序文を縮めて、「ザ・チャップ・ブック」にまわしたことを考えれば、この時点では他の出版の目処はなかったと考えられる。
 ローズのマラルメへのこだわりは、年が変わった1895年1月1日号に、詩篇「エロディヤード」の抜粋をリチャード・ハーヴェーの翻訳で掲載したことからも、うかがい知ることができる。それは「エロディアード 舞台」の第九八行目のエロディヤードの科白、「そう、それは私のため、私のために咲き匂う、寂しきものよ! 」から、詩篇の最後までの部分訳であったが、「エロディアード」が英語に翻訳された最初のものであった。(10)
 さらに1895年8月15日号には、スイスの若い画家フェリックス・ヴァロトンがインクで描いた「マラルメの肖像」を木版刷りにしたものを掲載している。(11)マラルメが2月27日付けでヴァロトンに出した手紙が残っていて、ヴァロトンはこの頃マラルメの火曜会に行ってこれを描いたと推察される。この絵の原画は現在ローザンヌの美術学校地方美術館に、また木版刷りの方は大英博物館に所蔵されている。
 その後、「ザ・チャップ・ブック」の1896年5月15日号には、「アルチュール・ランボー ハリソン・ローズ氏への手紙」が、フェリックス・ヴァロットンのランボーの挿画とともに掲載された。d0238372_10565942.jpgこれはローズの依頼に答えた形で執筆されたもので、こう書き出れている。
 
 「たまに開かれた火曜会のある一夜、わが家で、あなたがわが友人たちの語らいに、光栄にも耳を傾けて下さった折りに、アルチュール・ランボーの名前が、何本かの煙草の煙につれて、ふとゆらめき出たことでもあったのかと想像します。あなたの好奇心を惹く、何か漠としたものを留めながら。

 どんな人物か、とあなたはお尋ねです。・・・・」

 マラルメはいまだアメリカではよく知られていない詩人について、世間に流布されている逸話を含めた略歴と比類ない詩業について語るのだが、この文章でも明らかにしているように、一度だけランボーに会ったことがあった。それは1872年6月1日土曜日の夜のことで、この頃、文学者たちは毎月、「醜いが気のいい男たちの晩餐会」という夕食会を定期的に開いていた。パリに居を定めたマラルメは、この夜はカセット街のカモエンス・ホテルで開かれた会に招待されて出かけていき、そこでヴェルレーヌが連れてきていたランボーを見かけたのである。ヴェルレーヌは『呪われた詩人たち』のなかで、ランボーのことを、「その男は背が高く、がっしりとして、ほとんど運動選手のようであり、完全な卵形の流浪の天使の顔だちをして、髪は明るい栗色でもじゃもじゃで、眼は不気味な淡いブルーだった」と書いているが、マラルメはこれを引用しつつ、「なにかしら誇らしげに、あるいは悪く誇張された庶民の娘のようなところもありました」とつけ加えている。そしてランボーの描いた軌跡は、「芸術の歴史における唯一無二の冒険」であり、「あまりにも早熟に、また激しく文学の翼に触れられ、ほとんど存在する間もなく、嵐のような、また堂々たる運命を遣い尽くし、未来に頼ることもなかった一人の子どもの冒険」(12) だったと語っている。
 マラルメは身近にいた文学者や画家、さらには文学的衣鉢を継いたと信じていたエドガー・アラン・ポーのなどの肖像を独特の視点で活写したが、ハリソン・ローズの依頼によって、過去に一度だけ出会い、生死も不明なまま流星のような光芒を放つ作品によって記憶されるランボーについて書く機会を得たのだった。
 同じ号の「ノート」で、ローズは最近のフランス文壇の動向を伝えている。「ステファヌ・マラルメはいまや“詩王”であり、フランスの詩人の王冠をかぶせられた。ルコント・ド・リールが亡くなると、雑誌『プリューム』が詩人たちの会議を催し、組合員の心の中では、彼に代わるリーダーとしては誰がふさわしいか、投票を行った。ポール・ヴェルレーヌが選ばれたが、彼が死ぬと、『プリューム』はふたたび詩人たちを招集して、『師』を選出するよう呼びかけた。こんどはマラルメがその栄誉に相応しいとされたのである。いまや彼が語るのは〈権威アルモノ〉としてである。」(13)
 ローズがマラルメに急遽寄稿を依頼したのも、こうした事情があったからと推測される。ところでローズは「ランボー論」もまたフランス語のまま掲載したが、これは「ザ・チャップ・ブック」としては例外的な措置であった。「郵便つれづれ」の場合は、詩句の性格上翻訳してしまえば、しゃれた香気が失せてしまうという理由があったが、「アルチュール・ランボー」は、マラルメ独特の文体とはいえ散文であって、決して翻訳不可能ではない。あえて原文のまま発表したのは、著者との間で約束があったのであろうか。ローズはフランス象徴派の詩人のなかで、ヴェルレーヌをもっとも尊重し、その詩を紹介し、「ノート」で幾たびか言及している。例えば発刊5号目の1894年7月1日号では、ヴェルレーヌの詩篇「月光」と、アナトール・フランスの評論「ポール・ヴェルレーヌ」を載せているが、いずれも翻訳であった。(14)
 ヴェルレーヌはこの年の1月8日に没した。そして彼の像をリュクサンブール公園に建設する話が持ち上がり、マラルメは建設実行委員会の会長になるように要請された。しかしこの件では紆余曲折があって、結局はフランソワ・コペーが就任することで決着したが、建設資金を広く集めることになり、アメリカでの募金の取りまとめを「ザ・チャップ・ブック」が引き受けることになった。これに関して、マラルメは七月にハリソン・ローズ宛てに手紙を出したことが分かっている。手紙は散逸してしまったが、建設実行委員会の事務局長をつとめるフレデリック=オーギュスト・カザル宛ての7月19日付けの手紙の一節で、「『チャップ・ブック』はシカゴの、前衛的な文学の雑誌だが、アメリカの申し込みを取りまとめるように手紙を書いた」(15)と述べている。
 これに呼応するような、次の記事が「ザ・チャップ・ブック」の8月15日号の「ノート」に出ている。「パリからの最新の手紙は、『ザ・チャップ・ブック』が、委員会のアメリカ代表として活動して、申し込みを募るとともにそれを受け取るように要請している。この件には著名な人物たちが参加している。委員長は、詩人たちの王である、ステファヌ・マラルメ氏、副委員長は著名な彫刻家のオーギュスト・ロダン氏である。像はすでに完成しており、ニーデルハウゼルンの作品である。
 私は『ザ・チャップ・ブック』の読者諸氏がこの「ノート」〔の訴え〕に直ちに応えられることを希望する。この国で、ヴェルレーヌの作品を知り、それを評価している人々の数は決して多くはない。それでも現代フランスのもっとも偉大な詩人、そしてあらゆる時代の詩人のなかでもっとも完璧な詩人の記念碑を建立することに参加する機会があるのは素晴らしいことである。『ザ・チャップ・ブック』はどんな小切手でも受けつけ、お金は直ちにパリへ送られる。」(16)
 こうした努力にもかかわらず、実際にヴェルレーヌの記念碑がリュクサンブール公園に建てられるのは1911年5月になるのを待たなければならなかった。

 このようにアメリカの現代作家に積極的に作品発表の舞台を提供し、フランス象徴派やマラルメとも緊密な関係を築いていた「ザ・チャップ・ブック」は、1898年7月15日号をもって廃刊した。マラルメが亡くなる57日前のことである。雑誌が存続していれば、ローズは当然これに多くの頁を割いたに相違ないが、それもかなわなかった。
 ただその後、彼は1933年になって、当時は稀覯本となっていたマラルメの『最新流行』から多くの記事を抜粋した本を、詳細な序文をつけて刊行した。出版元はニューヨークの「フランス研究所」で、ジョン・シモン・グッゲンハイム記念財団とニューヨーク市コレッジの支援によるとある。
 詩人アンドレ・テリーヴに宛てた、「ある雨もよいの午後の思い出に」というフランス語の献辞が書かれた一冊を所持しているが、『最新流行』のもとの表紙の青色をそのまま再現した本は、生前に交流のあったマラルメに対する彼の深い思いを表している。 

 注記

(1) “The Chap Book ”vol.3, p.3.
(2) 『詩と散文』には1893年出版とあるが、実際には1892年12月末に刊行された。口絵に用いられたホイスラーの原画は現在グラスゴー大学に所蔵されている。
(3) C.P.Barbier:“Mallarme・・Whistler Correspondance ”, A.G.Nizet, p.167.
(4) Stephane Mallarme:“Correspndance ”vol.5, p.129.
(5) ヴェルレーヌやマラルメの多くの詩を含むこのアンソロジーは、スチュアート・メルイルの序文が書かれなかったために、結局は出版されなかった。『詩と散文』の翻訳は行われなかった。
(6) Stephane Mallarme:“Correspondance”vol.7, p.60.
(7) “The Chap Book ”vol.2, p.37.
(8) ibid. p.77.
(9) ibid. p.111. なお筑摩書房版「マラルメ全集」IIIには、「折ふしの詩」の詩句の翻訳と解説が収められ、そこにはオスグッド・アンド・マッキルヴェーン社用に準備された「序文」と「ザ・チャック・ブック」の序文が翻訳・紹介されていて、参考にさせていただいた。ただそこでは「ザ・チャック・ブック」の序文の署名が「作者」とされているが「編集者」の方が正しい。
(10)“The Chap Book ”vol.2, pp.177-179.
(11)ibid. vol.3, p.253.
(12)ibid. vol.5, pp.8-17.
(13)ibid. vol.5, p.33.
(14)ibid. vol.1, pp.79-84.
(15)Stephane Mallarme:“Correspondance”vol.8, pp.198-199.
(16)“The Chap Book ”vol.5, p.336.
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by monsieurk | 2014-03-15 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 ローズの依頼

 1894年9月25日、ヴァルヴァンにいたマラルメは、『詩と散文』の出版元のペラン書店を経て送られてきた英文の手紙を受け取った。一週間前にハリソン・ローズがケンブリッジで投函したものであった。ローズはまず手紙の前半で、先の冬パリに滞在したおり、『詩と散文』を翻訳してアメリカで出版する件について詩人の同意を得て、スチュアート・メリルに翻訳を依頼することで合意したが、メリルが取りかかっているフランス象徴派詩人のアンソロジーの翻訳が遅々として進まず、しかも進捗状況について何の連絡もないため、マラルメの作品の出版計画の目処がたたないが諦めてはいないと述べている。メリルは幼くしてフランスに渡り、かつてマラルメが英語教師をしていたコンドルセ高等中学校で学び、やがて象徴派の理論家となるルネ・ギルと同窓だったこともあって、マラルメの知遇を得ていた。マラルメもメリルの詩人としての力量を認めており、彼に翻訳を頼む手紙を書いたが、これが目下のところ難しくなったというのである。(5)
 そしてローズは手紙の後半で、別の希望をマラルメに伝えている。
 「私たちが最近創刊した新たな雑誌『ザ・チャップ・ブック』を何冊かお送りいたします。私たちの目的は、アメリカの若い人たちを紹介し、さらに他の国々のもっとも前衛的な思想や運動と連絡を取ることです。アメリカでは同種の雑誌は皆無ですし、限られているとはいえ、好ましい読者層をすでに獲得しています。あなたがお友だちへの手紙に書かれた宛て先を読み込んだ詩について、私に話して下さったのを覚えておられますか。ホイスラー氏とオスグッド氏が、それらを小型本として出版されたのだと思いますが、そのなかの数篇を、私たちの『ザ・チャップ・ブック』に掲載させていただくことは可能でしょうか。一、二頁分で十分なのです。フランス語のまま載せ、翻訳はいたしません。読者の多くが興味を持って、読むに相違ありません。ホイスラー氏はこの本のために挿画を描かれたのでしょうか。それをこの二頁に複製できれば幸いです。若い雑誌は決して豊かではありませんが、ご提供いただければ、相応の、ご希望の金額をお支払いしたいと存じます。」(6)
 この申し出に対してマラルメがどのような返事を与えたかは不明だが、このときすでに「郵便の気晴らし」を出版する件は頓挫していたから、ローズの申し出は、たとえ部分的な発表に留まるとはいえ、願わしいものであった。
 「ザ・チャップ・ブック」の1894年11月15日号の最終頁の「ノート」には、「A・コナン・ドイル博士、ステファヌ・マラルメ氏、それにケネス・グラハム氏は『ザ・チャップ・ブック』の新たな号の寄稿者の仲間入りをされた。」(7) という記事が載った。署名はないが、「ノート」の筆者は編集責任者のローズであるのは間違いなく、マラルメは雑誌への協力を了承したのである。そして次の12月1日号の「ノート」では、こんな予告がなされている。
 「ここ数年、ステファヌ・マラルメは友人たちへの手紙を、四行詩の形で宛て名書きをする習慣を持ってきた。贈呈の文句とともに、友人の名前、通り、番地を詠み込み、不思議なことに、これらの手紙はきちんと宛て先に届いたのである。彼はこうしたこれらの四行詩の多くを蒐集した。それらは『郵便つれづれ』の表題のもとに、『ザ・チャップ・ブック』の次号に発表させる。これに添された覚書で、マラルメ氏はこの発表はまさに郵便の名誉となるものだと述べている。そしてマラルメ氏は象徴派のなかで、もっとも単純な詩人というにはほど遠く、しかも象徴派詩人の最良のフランス語でもほとんど理解不能であるのを思い起こせば、郵便配達夫への絶対的信頼を私たちにもたらすものである。」(8)
 このノートの記述から、マラルメは1894年12月の段階で「郵便つれづれ」の掲載に同意し、それに付すための序文を送っていたことが分かる。そして「ザ・チャップ・ブック」の12月15日号の巻頭に、序文とともに27篇の四行詩が4頁にわたって掲載された。
 序文には、「[この発表は郵便の名誉を思ってのものである。ここに再現された韻文の宛名書きのどれ一つとして、受取人に届かなかったものはない。
 詩人が加えて言うには、この思いつきが浮かんだのは、角封筒の形と四行詩の配列との間の明らかな関連のせいであり・・・純粋な美的感情によるものである。 彼は関係者の望むままにそれを増やしていったのである。]・・・編集者。」(9) とあり、筆者は明らかにマラルメ自身で、オスグッド・アンド・マッキルヴェーン社から出版されるはずの本のために書かれた序文(これについてはベルトラン・マルシャル編『折ふしの詩句』(ガリマール社ポエジー叢書に採録されている)を短くしたものである。
 27篇の詩句は、ホイスラー夫妻、画家のドガ、モネ、ルノワール、ベルト・モリゾ、女友だちのメリー・ローラン、作家のコペー、マンデス、ミルボー、ディエルックス、ヴェルレーヌ、ピアニストのオギュスタ・オルメス、音楽家のショーソン、世話になった医師のロバンやフルニエなど多彩な人々に宛てたものである。
最初に掲げられたホイスラー夫妻宛てのものを仮に訳してみれば・・・

    
 Leur rire avec la même gamme
 Sonnera si tu te rendis
 Chez Monsieur Whistler et Madame,
 Rue antique du Bac 110.

 もし君がホイスラー氏と夫人の家を
 訪ねて呼び鈴を鳴らせば
 バック街の古めかしい通りの110番では
 それと同じ音階の笑い声が響くだろう

 ホイスラーの高笑いは有名だったし、彼はまた病弱な妻を慈しんでいたから、いつも笑いを絶やさなかった。マラルメは狷介といわれるホイスラーの優しい心遣いを見抜いていたのだろう。詩は交韻を踏んでいて、四行目末尾の110(cent dix) は二行目の文末の rendis と見事に対応している。呼び鈴を押すのはもちろん郵便配達夫。配達夫はこの不思議な宛て名書きの封書を、間違いなくホイスラーのもとへ届けたのである。
 なお、「ザ・チャップ・ブック」は一年間の定期購読料が1年で1ドル、この巻は12,500部刊行された。(続)

 
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by monsieurk | 2014-03-12 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(1)
 これから3回にわたって、2003年に雑誌「ユリイカ」に載せた、マラルメとシカゴから刊行されていた雑誌「ザ・チャップ・ブック」に関する記事を再録する。

 長い間探していたマラルメ関連の資料を最近入手することができた。19世紀にアメリカのシカゴで出版された雑誌「ザ・チャップ・ブック(The Chap-Book) 」の復刻版で、1894年5月1日号から1898年7月1日号まで、毎月1日と15日に刊行されていた文学雑誌である。
 フランスの象徴派の詩人ステファヌ・マラルメが、この雑誌に二度原稿を寄せ、それがフランス語のまま載ったことはよく知られた事実だが、一体それがどのような形で掲載されたのか、マラルメはどのような経緯でこの雑誌と関係ができたのか、そもそも「ザ・チャップ・ブック」とはいかなる雑誌だったかを知るには、雑誌全体の内容を検討する必要があったのである。
 「チャップ・ブック」とは何か。これについては、1895年5月15日号に、ジョン・アシュトンが「チャック・ブック」と題した記事を寄せて、次のように述べている。d0238372_9201421.jpg
 「この不思議な小雑誌は、18世紀および19世紀初めの英国で、多くは農民や彼らの階層の人々を読者に持っていたもので、大変興味深い研究対象である。雑誌の名称は、他のさまざまな物とともに、雑誌を持って、村から村へ、農家から農家へ売り歩いた行商人(chapman) に由来する。彼らは最新のニュースを受け売りする者として、いたるところで歓迎された。」(1)
 こうした行商人の姿は、シェイクスピアの『冬物語』に登場する。そしてアシュトンの考証によれば、「シャップ・ブック」という名前をもつ雑誌は、最初17世紀末に刊行されて、25年間続いたほかに幾度かの刊行を見るという。20世紀に入っても、1919年から25年までロンドンのポエトリー・ブックショップから出版された「チャック・ブック」が有名で、これにはT.S.エリオットやA.ハックスリーなどが執筆し、新しい詩や演劇を追求したことで知られている。しかしこれらはいずれも、私たちが問題にしているシカゴで出版された雑誌とは別のものである。
 シカゴ版「ザ・チャップ・ブック」は、1894年5月1日に第1号が、マサチューセッツ・ケンブリッジの「ストーン・アンド・キンバル(Stone and Kimball) 」社から出版された。H.S.ストーンとC.P.キンバルの二人は、ハーヴァード・カレッジの学部時代の同級生で、本好きが嵩じて出版社を設立し、同時に小型の前衛的な雑誌の出版を思い立った。その後雑誌は、1896年5月1日号からは、H.S.ストーン一人が発行人となり、1897年1月15日号からは、版型を小型本から四つ折り版に改め、同時に読書案内の欄を新設している。このように雑誌の出版業務は最初からストーンが握っていたが、編集に関しては初号あるいは第二号まではブリス・カーマンが当たったものの、その後はハリソン・ガーフィールド・ローズ(Harrison Garfield Rhodes)が責任者となり、このことが「ザ・チャップ・ブック」とフランス文壇、ひいてはマラルメとの関係を生むことになったのである。

 「折りふしの詩句」

 ステファヌ・マラルメが「折りふしの詩句」と呼ばれる四行詩を意識してつくるようになったのは、1880年代半ば以降のことである。これらは四行ないし二行の短詩で、扇の面や蘆笛のまわりに巻かれた小旗や、写真、復活祭の卵の贈り物の上などに書かれて、親しい人たちに進呈された。なかでも手紙の相手の名前や所番地を詠み込み、角封筒の上に書かれた四行詩は、実際に投函されて配達された。これらは、相手の名前、住所、あるいは先方の属性を示す言葉が巧みに折り込まれていることが肝心で、洒落た言葉や思いもよらない韻律が駆使されている。最初は思いつきで始めたマラルメは、次第にこうした技巧に夢中になった。とくに宛名を詠み込んだ「郵便つれづれ」は、出来上がるたびに控えを取っておいたらしく、1892年には手元に溜まった68篇を、赤いモロッコ革の手帳に自筆で清書した。
 この手帳の魅力に最初に惹かれたのは、アメリカ生まれの画家マクニール・ホイスラーである。詩人と画家はこのころ深い友情で結ばれており、ホイスラーの大作《母の肖像》をフランス政府が買い上げるのにマラルメが尽力したこともあって、ホイスラーはパリに来るとマラルメの自宅で催される火曜会に顔をだした。そして1892年の秋には、詩人の肖像を描き、これは1892年12月にペラン書店から出版された詩人の初めての総合詩集『詩と散文』の口絵に用いられた。(2)
 ホイスラーは「郵便つれづれ」の出版を、知り合いのロンドンの出版人ウイリアム・ハイネマンにもちかけ、1892年6月23日には、彼に宛てて次のような手紙を送っている。
 「貴兄に宝石のコレクションを託します。私見では、これは貴兄に金と名声をもたらすでしょう。もちろん貴兄自身がご判断されることですし、私が完全に間違っていることもあり得ます・・・いずれにせよ、私のインスピレーションの最初の迸りを貴兄にお送りすることで、私は自分を役割を果たしたことになります。
 小冊子は宝石にする必要があります・・・その形態の上からも・・・
 まずは貴兄へのマラルメの説明が充分ではなかったことを強調したいと思います。それは宛て先がすべて詠み込まれていて、彼はそれを手紙の上に書いて、すでに何年もの間、実際に郵便で配達されたのです。しかも一通として先方に届かなかった例はありませんでした。・・・あの不可解なマラルメが、郵便配達夫にとっては少しも判読困難ではなかったのがお分かりでしょう!」(3)
 ホイスラーは7月には、マラルメから取り寄せた手帳をハイネマンに送りつけた。そしてこの出版計画はマラルメを大いに喜ばせた。彼は9月29日付けのメリー・ローラン宛ての手紙で、こう伝えている。
 「ところで、事件が出来しました。四行詩集、私のです、ロンドンで。彼の地から、ホイスラーが、あちらで友情に溢れた素敵な粘り強さを発揮してくれていて、四行詩が見事な小型本として出版されるだろうと知らせてきました。貴女は当然の権利としてやがてこれを受けとられることになるでしょう、なぜならそれは貴女の家から出ているのですから・・・」(4)
 この手紙によると、四行詩を本にして出版する計画は、ホイスラーを交えたメリー・ローランの家での話し合いのなかから生まれたとも考えられる。だが、皆の期待にもかかわらずハイネマンは出版を受け入れなかった。
 ホイスラーが次に計画を持ち込んだのは、雑誌「ハーパーズ・マガジン」のヨーロッパの代理店をつとめるオスグッド=マッキルヴェーン社であった。ホイスラーは1892年11月14日には、マラルメにパリのレクリューズ通りの同社の住所を連絡している。最初のうちジェイムス・R・オスグッドとクラレンス・W・マッキルヴェーンは出版に乗り気のように見えた。そこでマラルメは、翌93年の初めには、赤いモロッコ革の手帳の69篇(のちに追加の1篇が糊りづけされた)に、さらに20篇を加えて、それを宛先によって、「詩人」、「画家」、「文学者」、「数人の夫人たち」など10に分類し、「郵便の気晴らし(Récréations Postales)」という総題をつけて清書原稿をつくった。
 その上で序文を準備し、出版用の表裏の表紙のデザインまで考えたのである。デザインの原画はグラスゴー大学に所蔵されているが、マラルメのアイディアでは、小冊子は角封筒を模した横長で、表表紙はまさに手紙の表書きそのままに、右上にホイスラーにデザインを頼む予定の切手が描かれ、中央の宛て先の部分に「ステファヌ・マラルメ/の/郵便の気晴らし」とある。そして右下には「ジェイムス・R・オスグッド/ロンドン マッキルヴェーン・アンド・カンパニー/出版社」と書かれている。裏表紙のデザインも、封筒を閉じたように四隅から斜線が引かれ、真ん中にはSとMの字を組み合わせた封印が描かれるという凝りようであった。
 出版交渉は1893年の4月まで続けられたが、結局は実現せずに終わった。序文まで準備したマラルメの落胆は大きかった。(続)
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by monsieurk | 2014-03-09 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

墓を買う

 連れ合いの叔父の49日の法事で、静岡県清水の寺へ行った。本堂の壁には軍服姿の遺影が30枚ほども飾られていた。ほとんどが陸軍二等兵の徽章をつけており、この地区から出征した人たちとのことであった。裏手の小高い丘にある墓へ参ったが、まわりの墓はみな同じ集落のもので、一つの墓には享保時代から平成に埋葬された人まで、ざっと300年間の一族が眠っていた。
 墓といえば、今年の正月は自分たちの墓に詣でた。墓を買ったのはもう十年前のことである。墓は寺ではなくいし寺に出入りの石屋が場所の選定から建立まで一切をしてくれたのだが、「ここは大きな桜の木の下で、春は眺めをいいです」というのが、石屋の勧誘の言葉だった。そこで当方は、「なかから花見がでくるように、ぜひお墓に潜望鏡をつけておいてください」と頼んで、大笑いになった。
 d0238372_11125042.jpg天野忠さんの晩年の詩集『長い夜の牧歌』(書肆山田、1987年)に「商品」という詩がある。

  今日はお日柄がよいので
  夫婦でいそいそ
  お墓を買いに行く。
  先祖代々の古いお墓はもう大方壊れているので
  この際思いきって
  新しいのをフンパツするのである。
  見本のいろいろ並んだ墓石の前で
  「ま、一番よろこばれるのは
   これなんかでして・・・」
  店の円満な主人は
  大きな掌で冷たい石を撫でる。
  可愛い外孫の悧巧な頭を撫でるみたいに。
  
  そろっと
  子の無い夫婦も撫でてみる。
  
 京都に住んでいたときは周囲に寺が多く、門前には石屋があって、店頭には大小さまざまな墓石が並んでいた。墓石も総じて国産品は高く、輸入物は手頃の値段のものが多かったように思う。
 天野さんの詩集は、副題に「老いについての五十片」とあるように、いまやどれも身につまされる作品である。

  「用意」

  
  たくさんあるから
  心配無用。
  いつでも間にあうよ。
  急いで箪笥の中を探したり
  色の褪せた時代ものなんかごめんだよ。
  つい最近までの
  ピンピンしていたイキのいいのが
  どっさりあるよ。
  ニコニコ笑っているのもあるよ。
  これが
  そのアルバムだ。
  いつでも役に立つ。
  
  俺の葬式に。

  「あの世」

  こないだ、ひょっと
  死んだうちのひとの夢みたんどっせ。
  それがあんさんおかしおすやおへんか。
  あのひと
  ひっくり返された亀の子みたいに
  手足をバタバタさせはって
  ちっちゃい、ちっちゃい声で
  まるで内緒ごとみたいに云わはるのどっせ。
  「あの世たらいうても
    たいしたとこやあらへんわ」やて(笑い)
  ・・・・・・
  ・・・・・・
  ほんまは
  どんなでっしゃろなあ、あの世は――

  
  「清水正一という
  蒲鉾屋の詩人がいた」

  
  「ええカマボコは
   材料の吟味と
   塩加減できまるもんや」
  一日十一時間働き抜いた職人
  清水正一七十歳の
  おいしいカマボコは貰わずじまい。
  いま遺族の贈って呉れた
  大事なもう一つの仕事を味わう。
  
  ええ材料に
  ええ塩加減をきかせた
  おいしい君の詩をたっぷり
  一冊分。

  
 天野忠の詩は『天野忠詩集』(永井出版企画、1974年)、『続天野忠詩集』(編集工房ノア、1986年)の二つの大冊で読むことができる。

  
  
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by monsieurk | 2014-03-06 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 ラ・ボエシからモンテーニュに託された遺稿には『自発的隷従論』の草稿もあった。モンテーニュは「友情について」で、こう書いている。d0238372_14475765.jpg「 それは彼が、「自発的隷従」と名づけた論文であるが、それを知らぬ人たちがあとで「反体制論」とたいへん上手に名前をつけ変えた。これは彼がきわめて若い頃に、習作のつもりで、圧政者に対する自由を讃えて書いたものである。」d0238372_1448198.jpg
 モンテーニュは友人のこの著作を一度は公表することを考えたが、それを思いとどまった。「わたしは、この著作が、国家の社会的秩序を改良するどころか、それを変え、混乱させようとする人たちによって、自分たちで勝手に作り上げた書き物と一緒に――悪い目的のために――刊行されたのを見たので、それをここ〔『エセー』〕に入れることを断念した。」「自発的隷従」は1574年に一部が雑誌に掲載され、1576年にはその全文がMémoires de l'état de France sous Charles neuvième に載り、新教徒の手で書かれたヴァロア王朝攻撃の文書と一緒にされて利用された。モンテーニュはこうした事態をラ・ボエシの真意ではないと考えたのである。
 ラ・ボエシは自らの目的を次のようにのべている。
 「ここで私は、これほど多くの人、村、町、そして国が、しばしばただひとりの圧政者を耐え忍ぶなどということがありうるのはどのようなわけか、ということを理解したいだけである。その者の力は人々がみずから与えている力にほかならないのであり、その者が人々を害することができるのは、みながそれを好んでいるからにほかならない。」(山上浩嗣訳)
 ラ・ボエシによれば、「われわれは生まれながらにして自由を保持しているばかりであり、自由を保護する情熱をももっているのである。」自由は人間の本性なのである。その人間がなぜ自由を放棄して、自分から隷従することになるのか。それは教育の結果生じる習慣のせいであるという。
 「人間においては、教育と習慣によって身につくあらゆることがらが自然と化すのであって、生来のものといえば、もとのままの本性が命じるわずかなことしかないのだ、と。したがって、自発的隷従の第一の原因は、習慣である。(中略)さきの人々〔生まれながらにして首に軛をつけられている人々〕は、自分たちはずっと隷従してきたし、祖父たちもまたそのように生きてきたと言う。彼らは、自分たちが悪を辛抱するように定められていると考えており、これまでの例によってそのように信じこまされている。こうして彼らは、みずからの手で、長い時間かけて、自分たちに暴虐をはたらく者の支配を基礎づけているのだ。」
 こうして人びとは人間の本性であるはずの自由を棄てて、一人の者の言いなりになる。それどころか、ピラミッド型の隷従のメカニズムを進んで担うようになる。こうした事態はラ・ボエシの生きた16世紀だけでなく、21世紀のいまにも当てはまる。それも独裁者が支配する世界だけでなく、多様な意見が許容されているように見える私たちの世界でも行われている。だがラ・ボエシは事態を打ち破るのは難しくないという。
 「このただひとりの圧政者には、立ち向かう必要はなく、うち負かす必要もない。国民が隷従に合意しないかぎり、その者はみずから破滅するのだ。なにかを奪う必要などない、ただなにかを与えなければよい。国民が自分たちのためになにかをなすという手間も不要だ。ただ自分のためにならないことをしないだけでよいのだ。(中略)彼らは隷従をやめるだけで解放されるはずだ。みずから隷従し喉を抉らせているのも、隷従か自由かを選択する権利をもちながら、自由を放棄してあえて軛につながれているのも、みずからの悲惨な境遇を受けいれるどころか、進んでそれを求めているのも、みな民衆自身なのである。」
 わたしたちは心して耳を傾ける必要がある。 
ラ・ボエシの『自発的隷従論』は、モンテーニュの専門家、関根秀雄(『奴隷根性について』、白水社、1983年)と荒木昭太郎(『自発的隷従を排す』、「世界文學体系」第74巻、筑摩書房、1964年)によっても翻訳されている。
 フランス語の原文は、Ētienne de La Boétie: Discours de la Servitude volontaire( Vrin, 2002)他の版がある。またフランス国立図書館に所蔵されている写本、Manuscrit De Mesmes, conservé à la Bibliothèque Nationale de France. Fonds français 839.は http://gallica.bnf.frで見ることができる。またフランス語原文は、Kindleを用いれば99円で購入して読むことができる。
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by monsieurk | 2014-03-03 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)