ムッシュKの日々の便り

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マラルメの肖像Ⅷ「メリー・ローランの客間」

 写真家アンリ・メレが撮影した写真である。
 メレは同業者のドルナックと同様、著名人を自宅に訪ねて写真を撮り、それでアルバムをつくって刊行した。彼はエヴァンス博士とメリー・ローランと親しく、彼らも被写体となった。このはその『アルバム』に掲載された一点で、マラルメがミューズと崇めたメリー・ローランとともに写っている珍しい写真である。
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 写真はメリー・ローランのアパルトマンで撮影された。ピアノの前に座るメリーと傍らに立つマラルメ、そして椅子に馬乗りに腰かけているのは画家のアンリ・ジェヴェックスである。興味深いのは、メリー・ローランのアパルトマンのサロンの様子がよく分かることで、壁には数多くの絵が飾られていて、左手上方にはエドゥアール・マネの名作《マクシミリン皇帝の処刑》がある。右手、大きな鏡の上に下がっているのは、ジェルヴェックスがメリーに捧げた《ヴィーナスの誕生》である。さらに写真左端に半分だけ見えるのはコローの風景画である。
 この写真については、メリー・ローランと親しかったアンリ・ド・レニエが、1931年に次のようなコメントを残している。
 「これらの映像資料以外にも、それほどよくは知られていないが、わたしは詩人オーギュスト・ドルシャンがくれた興味深い写真を持っている。それは大型の写真でメリー・ローランの家でのステファヌ・マラルメを写したで、メリー・ローランの、たしかローマ通り52番地にあったアパルトマンのサロンでのもので、わたしも幾度か行ったことがあるが、マラルメは毎日彼女の許を訪ねていた。サロンは家具や、壁掛け、珍しい品々など、当時の流行品で飾られていた。壁には多くの絵があり、その一枚はマネの《マキシミリアン皇帝の処刑》の下絵だった。部屋の中央にはピアノ式ハープシコードがあり、メリー・ローランは腰かけ、内側が白い服を着て、首には真珠の首飾りをして、椅子に跨り、手を椅子の背で組んでいる紳士の方に身体を向けている。この人物は画家のアンリ・ジェルヴェックスである。マラルメは彼の傍らに立って、楽譜立ての楽譜に見入るように身をかがめている。彼はこの家の女主人に惹かれていて、話し相手としての範囲で、その優雅さと友愛のこもった魅力的な言葉が、彼女を微笑ませたのだった。彼はマネのところで彼女と知り合い、彼女の崇拝者のなかでもっとも忠実な人となった。」
 もう一点の二人の写真は、1896年2月25日に、ポール・ナダールが撮影したものである。
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 今回の展覧会には出品されなかったが、マラルメとメリー・ローランの二人の写真としては、彼女の自宅で食事を共している珍しいものが存在する。二人の間で給仕をするのはメリーに忠実に仕えるエリザである。
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by monsieurk | 2014-04-30 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの肖像Ⅶ「ドルナックの写真」

 写真家ドルナック(本名、ポール・マルサン)が撮影した2点の写真である。これは1887年から1917年にかけて刊行されたシリーズ、『自宅におけるわが同時代人』に用いられたことでよく知られる。ただこれがドルナックが撮ったものであることは、2008年に行われた売り立てによってようやく判明した。写真は「火曜会」が開かれたローマ通り89番地のマラルメのアパルトマンで撮影された。
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 1893年4月22日、マラルメがマルサンに宛てて出した手紙(名前をポルPolと誤記)に、以下の一節がある。「もちろん、ムッシュ、わたしはいつでもお役にたちます。あなたの素敵な刊行物を存じ上げていますし、『自宅におけるわが同時代人』の価値も分かっています。お出でくださる日時を明後日月曜日の午前10時としてはどうでしょうか。必要ならもう少し前でも。」
 一枚目の写真では、マラルメはルイ15世風の椅子に腰かけ、左手に紙片を持ち、右手はポケットに入れている。暖炉の上には「日本の箪笥(じつは中国のもの)」が乗っており、中央の飾り棚には、ボードレールの写真とジョルジュ・ロッシュグロスによるテオドール・ド・バンヴィルの版画が飾られている。d0238372_13365893.jpg
 二枚目は食堂兼サロンで撮られたもので、マラルメは陶製の暖炉の前で、揺り椅子(ロッキング・チェア)に腰かけている。左手の人指し指と中指の間に、巻きたばこ煙草をつめたパイプをはさみ、左上方の壁には、マネが描いた彼自身の肖像画がかかっている。
 三枚目の写真(左)は今回の展覧会には出展されなかったが、同じく食堂兼サロンで撮られたもので、マラルメは暖炉と絵の間に立ち、丸テーブルには中国製の煙草入れの壺が見える。「火曜会」に集まった面々は、ここから煙草をつまんで紙巻煙草をつくり、狭い部屋はたちまち紫煙で一杯になった。なおこの写真の撮影者と撮影時期はいまのところ不明である。
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by monsieurk | 2014-04-27 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの肖像Ⅵ「ポール・ナダールの写真」

 写真家ナダールが撮影した4点の写真である。マラルメが著名なフェリックス・ナダールに出会ったのは1876年のことと思われる。マラルメは1877年2月3日付のナダール宛ての手紙で、「わたしの写真を撮ってくださるという貴方の好意ある申し出を(昨年の、ある日、二人の友人と貴方のところへいったとき)、大変厚かましくも思い出しました。・・・」(『書簡集』第2巻)と書いているのがその根拠である。
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 マラルメはこのときエドガー・ポーの婚約者であったサラ・ヘレン・ホイットマン夫人に写真を送る約束していて、ナダールの申し出を思い出し、彼に撮影を依頼しようとしたのだった。マラルメはホイットマン夫人へ、手紙とともに出版されたばかりの豪華詩集『半獣神の午後』を一冊送った。
 ナダールの娘マルト・ナダールが1942年に書いているように、4点の肖像写真すべてをフェリックス・ナダールが撮ったのではなく、一部はこの頃アトリエの仕事を父から任さていた息子のポール・ナダールによって撮影された。マラルメは父よりも息子との交流が深かった。
 写真が撮影された正確な日時は分からないが、1880年代半ばと考えられる。4点のうち、横顔のクローズ・アップと正面の顔写真は、1889年に撮影されたことは確かである。なおポール・ナダールは1890年から、マラルメの別荘があったヴァルヴァンに近い小邑サモアに別荘を所有していて、二人はセーヌ川にボートを浮かべて舟遊びを楽しんだ。
 マラルメは『状況詩(vers de circonstance)』の一つで次のようにうたっている。

 
  Le bachot privé d’avirons
  Dort au pieu qui le cadenasse ――
  Sur l’onde nous ne nous mirons
  Encore pour lever la nasse
 
  Le fleuve sans autres émois
  Que l’aube bleue avec paresse
  Coule de Valvins à Samois
  Frigidement sous la caresse
 
  Ce brusque mouvement pareil
  A secouer de quelque épaule
  La charge obscure du sommeil
  Que tout seul essaierait un saule
 
  Est Paul Nadar debout et vert
  Jetant l’épervier grand ouvert.

 
  わたしの所有するオール付のボートは
  杭につながれて眠っている――
  わたしたちは簗を引き上げために
  川面に姿を映すことはまだしない
 
  蒼い夜明けに愛撫される
  二つとない感動のもと
  冷たい川はゆっくりと
  ヴァルヴァンからサモアへと流れる
  
  そしてこの急な動きは
  眠りの暗闇の重さを荷なう肩を
  そっとゆするようだ
  それは枝垂れ柳だけがするものだ
 
  緑に染まったポール・ナダールは立ち上がり
  投網をいっぱいに広げて投げる
  (Mallarme:Œuvres ComplètesⅠ、P.145)
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by monsieurk | 2014-04-24 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの肖像Ⅴ「ゴーギャンの版画」

 生前、マラルメの肖像を描いた画家はマネをはじめ幾人かおり、ポール・ゴーギャンもその一人である。彼は大鴉を背景に入れたマラルメ像をエッチングに刻んで進呈したが、これにはマラルメへの感謝がこめられていた。d0238372_16552928.jpg 
 ゴーギャンは1890年頃から、ヨーロッパを離れて「原始的かつ野蛮な状態で、自分自身のために芸術を育て上げたい」という希望のために再度タヒチへ行く決意を固め、その旅費と滞在費を捻出するために絵の競売を思い立った。これを知ったシャルル・モリスは敬愛してやまないマラルメに助力を頼み、意気に感じたマラルメは、有力な美術評論家のオクターヴ・ミルボーに手紙を書いた。「画家であり、彫刻家、陶芸家であるゴーギャン、誰だかお分かりですね、あの彼と親しく、大いなる才能と心情を備え持つ私の若い友人の一人が、彼に何か力添えのできる唯一の人である貴兄に、あるお願いをしてくれと私に頼んできたのです。この稀有な芸術家ゴーギャンにとって、パリは拷問にも等しいところだと、私は思うのですが、彼は孤独のなかでほとんど交際を絶って精神を集中する必要を感じて、間もなくタヒチへ出発しようとしています。・・・この文明からの脱走兵という稀なケースに、注意を惹きつけてくれる記事が必要なのです。」
 ミルボーはゴーギャンとは面識がなかったが、その作品は知っており、なによりもマラルメとモリスの熱意にうたれて、長文の紹介文を「エコー・ド・パリ」紙の1891年2月16日号に掲載した。そしてこの記事をきっかけに、ゴーギャンを扱った論文が次々とあらわれることになった。
 2月23日、ゴーギャン作品30点の売り立てが、パリの競売所「オテル・ドゥルオ」で行われ、売り上げは総額で9,395フランに達し、ゴーギャンの手元には7,000フランをこす利益が残った。ゴーギャンがタヒチへ出立する直前の3月23日に、カフェ・ヴォルテールで送別晩餐会が開かれ、その模様は雑誌「メルキュール・ド・フランス」の5月号で報告されている。およそ40人が出席した宴会の冒頭、マラルメが杯をとって立ち上がると、次のような挨拶をした。
 「諸君、先ずは、ポール・ゴーギャンの戻る日のために乾杯しましょう。その才能の輝きのうちに、自己を鍛え直すべく遙か遠く、そして自分自身の内部へと自らを追放するこの崇高な精神にたいして、賞讃の念を禁じえません。」
 タヒチに渡ったゴーギャンからは、やがてマラルメの『半獣神の午後』に触発された木彫りの彫刻が送られてきたし、帰国した際には、火曜会へ顔をだした。狷介との評判のあったゴーギャンだが、マラルメにたいしては終生尊敬の念をもって接した。、d0238372_1712341.jpg
 ゴーギャンの銅版画によるマラルメの肖像は、1891年1月に制作されたもので、マラルメは半獣神のようにとがった耳をし、頭の後ろには彼が翻訳したポーの詩集『大鴉』を象徴する鴉が描き込まれている。ゴーギャンはマラルメに2点の作品を贈り、それぞれに、「詩人マラルメに / 大いなる賞賛のしるしとして / ポール・ゴーギャン / 1891年1月」と、「詩人マラルメに / 愛情をこめた賞賛のしるしとして / ポール・ゴーギャン / 1891年1月」と署名されている。
 ただゴーギャンの作品はマネやホイスラー(右の石版画)の傑作と違って、マラルメを慕う人たちには不評だった。アンリ・ド・レニエは、d0238372_1524446.jpg「ルノアールは油彩による素描(左の作品)で、ゴーギャンは銅版画で彼の特徴を定着しようとしたが、一人の鉄筆も他の者の絵筆もそれには成功しなかった」と述べ、フランシス・ド・ミオマンドルは、「残念ながら、その美しい顔の肖像画はほとんどない。ゴーギャンのものは〔ルノアールのものより〕少しはましだが、それも皮相なものだ」と判断している。
 なお手元にある版には縦と斜めに線が入っている。これは銅板からこれ以上は刷らないことを示す証拠に、オリジナルの銅版の表面に筋を入れたものである。
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by monsieurk | 2014-04-21 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの肖像Ⅳ「農民姿」

 農夫の仮装をした2枚の写真は、1888年夏、女友だちのメリー・ローランの誘いでオーヴェルニュ地方のロワイヤでヴァカンスを過ごしたときに、旅先で撮影されたものである。
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 この年の夏、メリー・ローランはお手伝いのエリザとともに、庇護者のトーマス・W・エヴァンス博士に伴われてロヤイヤに避暑に出かけ、マラルメも汽車であとを追ったのだった。避暑先での様子はパリに残ったマラルメ夫人と娘のジュヌヴィエーヴに宛てた手紙で知ることができる。
 「・・・腕利きの医師〔エヴァンス博士〕とローラン夫人は、駅でランドー型馬車を用意して待っていてくれた。お祭りの最中のクレルモンを通ったが、わたしにはこの街は堅苦しく陰鬱に見えた。それから特別誂えのテーブルで、とても吟味された夕食。ローラン夫人はわたしに数分間でロワイヤという土地を教えてくれた。彼女はここで生まれたらしいのだ。〔これはマラルメの思い違いで、彼女は北フランスの都市ナンシーの生まれである〕部屋はすばらしい。山々が間近に見え、まるで指で触れることができそうだ。要するに、土地のすべてを見渡すことができるような、きわめて稀な部屋のひとつだ。私はその部屋へのちょっとした引越しを気持よくすませ、そして窓の前で煙草を吸い(心地よいパイプ! 暗闇のおかげだ)、こうして君たちにおやすみを言い、これから本を一、二頁本読み、 そして眠ろうと努めるつもりだ。
                         
                                             パパ
 
 ジュヌヴィエーヴ、私と同じくらい律儀な、可愛い秘書であっておくれ。」(1888年8月15日、水曜日夜、10時)
 手紙の宛先は「マラルメ家のご婦人方へ」となっているが、マラルメはこのときから家族への手紙は、ジュヌヴィエーヴに宛てて書くようになった。彼女が24歳になったこともあるが、メリー・ローランとのことがあって、妻マリーとの関係がぎくしゃくしたものになっていたのである。
 翌8月16日の手紙では、「ローラン夫人は気遣いの塊のような人だから、上の階、二階の、ちょうど彼女の頭の上にわたしの部屋をとることで、わたしが彼女の役に立つようにしてくれた。わたしなら静かで、彼女がよく眠れるだろうというわけだ」という一節がある。妻も当然読むことが分かっていながら、マラルメはそれを承知で書いたのである。
 18日の手紙、「ホテルは浴場の前にあって完璧だ。わたしは戻ってきて、若い女性向きのようなわたしの部屋で毛布にくるまった。あまりにも心地よく、湯浴みのよい作用もあって、読書することはできなかった。紗のカーテン越しに、ぶどう畑の緑が広がる丘のなだらかさを見ていた。もう一時間半も経つが――それほどわたしはゆっくり休んでいる――、ローラン夫人はまだ彼女のパラソルで天井をつついてこない。なんとやさしい心配りだろう。毎朝、彼女は自分で切って、バターを塗った全粒パンのタルティーヌをわたしに届けてくれる。わたしがそれを持って近所の牛舎に行き、一杯のミルクに浸して食るというわけだ。・・・昨日は一日中雨が降り、例の北風が吹いていた。・・・悪天候の間を使って、私たちは告白帳とでも言えるものを書いた。そこで人は容赦のない質問にさらされる。」
 この告白帳とは、メリー・ローランが親しい人に書き込みをしてもらったノートで、マラルメはあらかじめ決まった24の質問に、回答を書いたのである。これは『Document Stéphane MallarméⅠ』(Nizet, 1968)に収録されている。
 そしてロワイヤを離れる前に、彼らはクレルモン=フェランのレオポ-ルの写真館を訪ねて記念写真を撮った。
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 22日付けのジュヌヴィエーヴ宛ての手紙に、「オーヴェルニュに別れを告げる前に(そのためにまず、ヴィエール奏者の格好で写真機の前でポーズしなければならないようだ)」とある。ヴィエールといのはハンドルを回して奏でる中世の楽器だが、実際にオヴェルニュの農夫の仮装をして写真におさまったのである。なおメリー・ローランもこのとき同じように農婦姿で写真を撮った。
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by monsieurk | 2014-04-18 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの肖像Ⅲ「リュックの版画」

 スペインの画家マニュエル・リュック(1854-1918)の版画である。d0238372_10351440.jpg
 出版人のレオン・ヴァニエは、当時の作家、画家、政治家など著名人を取り上げる『今日の人物』という見開き4頁のシリーズを出しており、その296号(1887年3月下旬刊行)でマラルメを取り上げた。本文をポール・ヴェルレーヌが執筆し、表紙を飾る版画をスペイン生まれの画家リュックにつくらせたのである。
 ヴェルレーヌはマラルメを紹介する本文を書くにあたっては、マラルメから送られてきた、通常「自伝」と呼び慣わされ1885年11月16日付の手紙を活用し、その上で「願い」以下マラルメの7篇の詩を再掲した。このときまで世間的にはあまり知られていなかったマラルメは、紹介の労をとってくれたヴェルレーヌに深く感謝した。
 ただ問題はこのシリーズ恒例である表紙絵だった。マラルメは計画を知ると、面識があり信頼する画家ダヴィッド・エストペを推薦した。だがヴァニエはエストペがこのシリーズに登場したことはなく、彼の住所も知らないことを理由にマラルメの申し出を断り、風刺画家のリュックを起用したのである。
 1870年にマドリッドで生まれたマニュエル・リュックは、最初にパリへ来たときは貧乏暮しを余儀なくされたが、1881年に友人の作家オイセビオ・ブラスコとともに再度パリに来てからは、風刺画の才でジャーナリズムの世界で認められるようになっていた。
d0238372_10354521.jpg リュックはマラルメに会ったことはなく、おそらくはヴァン・ボッシュが撮った写真をもとにこの版画を制作したと思われる。出版直前にこの表紙絵を見たマラルメは大いに不満で、2月14日付の手紙で、これは受け入れがたく自腹を切ってでも別の画家を探すつもりだと書き送ったが、ヴァニエはこれを無視して校正刷りも送らずに印刷出版したのだった。
 ヴァニエとの確執はその後も続いた。もう一点はポール・ヴェルレーヌの『呪われた詩人たち』(ヴァニエ出版、1888年)の口絵に用いられたものである。
 ヴェルレーヌは1883年に、『呪われた詩人たち』を出版するに当たって、マラルメに写真を送ってほしいと頼んだ。マラルメはこれに対して、マネが描いた肖像画を写真に撮って使ってはどうかと応じた。
 「・・・わたしは自分の写真を持っていません。いま取りかかっている文学上の仕事を無事に終えるまでは、レンズの前に立つことは考えてはおりませんので。ただ家にはマネがもうだいぶ前に私を描いた面白い小さな絵があります。もしそれでよろしければ、写真に撮らせてお送りいたしましょう。今はパリにいませんので、すぐにという訳には参りませんが。」
 そして実際に『呪われた詩人たち』の初版に用いられたのは、マネの絵の写真をブランシェ某が版画にした作品だった。ところが1888年に再版された際には、前年にリュクが「今日の人物」のために半獣神姿のものに、服を着せ、ネクタイをさせたものをメダルにして、竪琴や羽ペンともに描いたものであった。
 マラルメとヴァニエの関係は、ヴァニエの不誠実な対応のために訴訟にまで発展した。1885年10月に、訳詩集『ポー詩集』の出版計画をむすんだが、出版はなかなか実現せず、マラルメは校正刷の返還を要求してパリ第5区の治安裁判所に提訴した。このときは和解が成立するが、マラルメの不信感は解消せず、ヴェラーレンの勧めでベルギーの出版人エドモン・ドマンから『ポー詩集』と散文集『パージュ』を出版する決心をして原稿を送った。これを察知したヴァニエがドマンに宛てて契約違反を盾に訴訟を起こすと通達するといった事態に発展するのである。
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by monsieurk | 2014-04-15 22:23 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの肖像Ⅱ「ナダールの写真」

 画家エドゥアール・マネが描いた《マラルメの肖像》(1876年、2012.04.07のブログ「マラルメの肖像」を参照)と並んで、よく知られるポール・ナダールが撮影した肖像写真で、メリー・ローランが贈った肩掛けをかけしたマラルメである。所蔵している写真の右下には、インクで「Paul Nadar」とサインがある。

 
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 ナダールの娘マルト・ナダールによれば、1895年に撮影されたとされる。さらに彼女は、「仕事机に向かう詩人と同じよな肩掛けをもっていたP・ナダールは、親しい人たちがよく目にした友人である詩人の姿を定着しようと思った」と書いている。
 机に向かう詩人は当時よく見られた典型的なポーズで、ペンを手に仕事机に向かうマラルメの前には、伏せられた本、白い紙、インク壺がある。ただ肩に掛けた厚手のショールが、写真を個性的なものにしている。マラルメの寒がりはよく知られていて、火曜会の集いで、彼はいつも陶製の暖炉を背にして話をしたものだった。

 
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 展示されたもう一点は、この写真をもとに鉛筆で再現したもので、背景を壁に変え、そこにはクロード・モネの風景画《ジュフォスのセーヌ川》がかけられている。これは1890年に描かれたあと詩人に贈られたもので、ローマ通りのアパルトマンのサロン兼食堂に飾られていたものである。これも火曜会を訪れた客にはお馴染みのものであった。
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by monsieurk | 2014-04-12 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの肖像Ⅰ

 2013年12月1日のブログ「マラルメの肖像画展」で紹介したように、セーヌ河畔にある「県立ステファヌ・マラルメ博物館」では、昨年12月14日までマラルメの肖像画を集めた展覧会が開かれていた。その折に企画されたカタログ、『マラルメの肖像画、マネからピカソまで(Portraits de Mallarmé de Manet à Picasso)』がようやく刊行された。d0238372_2264516.jpg これからしばらくは、カタログに掲載された主だった詩人の肖像画を紹介してみたい。まずは企画の中心となったエレーヌ・オブランとエルヴェ・ジュボーの記事、「マラルメの肖像画」を訳してみる。

 「有名になった多くの人たちと同じように、マラルメは幾度も肖像画に描かれた。もちろん写真も数多く存在する。これは19世紀後半、ブルジョアの社会では普通に行われたことで、彼が所属する中産階級でも同様だった。1860年代の写真もあり、世間的にはまだ無名だったが、明らかに自分を好ましく見せようとする若者を写し出している。もっと後の写真は、詩人の肉体的変貌をたどるのに役立つだけでなく、家族や友人のなかで、寛いだマラルメについて興味深い証言をもたらしてくれる。それはさらに、作家、画家、学者、当時よく目にした政治家と並んで、ドルナックの⦅自宅でのわれらが同時代人⦆というシリーズを飾るほど、彼が有名になったことを示している。彼はコンスタンタンや他の無名の写真家だけでなく、ポール・ナダールの才能をわずらわすほどの存在となっていたのである。

 詩人の油彩による肖像画、彫刻、版画とともに、画家たちとの関係の拡がりと質を示す全リストがここにはある。幼少のマラルメを描いたカミーユ・ド・ラグランジュの愛らしく物語風のパステル画を除けば、自嘲気味のニュアンスを帯びた言葉を用いるなら、これらの《似顔絵画家たち》のリストは印象的である。同時代では、マネ、ルノアール、ドガ、ゴーギャン、ホイスラー、トウールーズ=ロートレック、ムンク、ヴァロットン、ヴュイヤールのモデルになったことを自慢できものが、誰か他にいるだろうか。たしかにすべてが傑作ではなく、目立たないクロッキー(その一つは面白い自画像(1)で、詩人にはその才能があった!)や、平凡な版画や写真もあり、ある油彩などは作者の評判に何ものもつけ加えるものではないというのが衆目の意見である。・・・それでもこうした肖像画が存在するのは、マラルメが彼ら画家たちと、緊密であつい友情で結ばれていたからにほかならない。そしてリストに、あまり知られていないが、品位に欠けてはいないロッシュグロス(2)が描いた師の横顔や、ホウキンスの顔のない驚くべき肖像画、そして予期せざる、ヴェルレーヌやヴァレリーといった、その才能は別のところにある人たち、加えて後世の説得力に乏しいアントニウス・ヨハネス・デルキンデレン(3)からフランソワ・ナルディ(4)といった名前を加える必要がある。ただしこれは、《ヴァルヴァンの師》の同世代の作品と比較して、その魅力を強調するものでは決してない。さまざまなカリカチュア(リュキュ、カザルス、ラ・ジュネス)は、〔描かれた〕「犠牲者」をいつも面白がらせたわけではないが、こうした肖像画は、19世紀末に流行した無数の文学的肖像で語られた議論の余地のないオーラを補う表象なのである。

 1898年のマラルメの死も、画家たちのインスピレーションは涸らすことはなかった。そのとき記念として描かれたもの、あるいは注文されたもの(師の死の直後のレイモン・ド・ブルテルのものや、25周年に描かれたラムールデデュのもの)、あるいは多少なりともそれに触発された挿画(カルロ・カルラからカレル・ヴォトリュカまで)など、死後に描かれた肖像画は、偉大な詩人が20世紀、21世紀の画家たちにとって占めている地位を示しており、マラルメは西欧文明の偉大な名前が並ぶ神殿(パンテオン)に安置されているのである。モンドールの感動的なリトグラフは、詩人にもっとも忠実だった人の崇拝の果実である。モンドールの最大の貢献は、マラルメに関する数多くの著作を刊行して、彼を世に知らしめたことだった。ジャン・マサジエによる肖像や、フェルディナン・バックが描いた思い出は、絵画史のページに書き込まれることはないかも知れないが、20世紀全絵画を一人で象徴するピカソの興味をひいたのだった。展覧会ではエリック・ロメールの映画による肖像や、ピエール・ブーレーズの音楽的肖像も公開されている。いったい同時代の誰が、これほどの賛辞に浴しただろうか。マラルメの肖像を描く人たちは世代が変わっても出現する。現代の作家のなかでも、国際的な才能を持つスペインの画家ミケル・バルセロも〔マラルメの肖像を描いて〕貢献している。こうした顕彰が今後も引き継がれていくることは間違いない。」(原題:Portraits de Mallarmé par Hélène Oblin et Hervé Joubeaux)(続)

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by monsieurk | 2014-04-09 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

ロジャー・フライのマラルメ論Ⅶ

 ごくつまらないテーマのなかにもあり得る詩的関係を、すべて抽出しようというこの欲望が、マラルメの構文法と同時に、そこから結果する難解さの理由を明らかにしてくれる。言葉のさまざまなイメージの相互照応と、相互貫入を表出することが彼の本質である。それ実現するには、通常の言説の場合よりも、言葉を接近させ、かつ対立状態に置くことが必要である。あるいは一つの言葉が長い時間、次の言葉によってその振動が受け継がれるまで、震えさせ続けることが必要なのだ。もちろん、これはほとんどの詩において、語順を転倒したり歪曲したりして実行されているのを見ることができる。しかしマラルメにあっては、それが極限にまで押し進められており、その結果読者はしばしば骨の折れる知的なアクロバットを強いられることになる。事実マラルメの場合、テーマは詩的分析の過程で、一度さまざまな断片に分解される。その上で再構築されるのだが、それは〔日常の〕経験とは関係なく、純粋に詩的な必要性にしたがって行われる。この点で彼はキュビスムの画家を何年も先取りしていたのである。
 この方法において、マラルメはフランス語文法の構造的な可能性を極限まで駆使するが、それは言葉とイメージの間の、一時的に停止された関係を再度確立するのに、フランス語特有の〔単語の〕性別を当てにできるからである。これは当然のことながら、フランス語に比べてより分析的な性質を持つ英語に翻訳する場合、大変な困難、ときには克服不可能な困難をもたらすことになる。私は幾つかの詩の試訳に、注釈をつけ加えることが望ましいと考えた。そしてそれがマラルメの詩法の本質を、一層明らかにすることを望むものである。しかし私は注釈を、あくまでも詩の第一義に限ることにした。彼の詩に含まれる第二の意味、あるいは形而上的な意味を、それぞれの思想に則って解明する努力は、読者に残すことにした。マラルメの詩は素晴らしい高さで、心をゆさぶる力を持っていると思う。心の倍音は思想の羽根を通して鳴り、詩が表面的にかかわっている事柄から遙かに離れた感情を生み出すのである。だが批評する側にとっては、なにか一つの思想の線上にマラルメを固定っしてしまう危険がある。チボーデ氏は、マラルメの詩に関する大著において、マラルメをヘーゲル弁証法の深化として説明している。しかし私は瞑想的な心の飛翔の方向は、読者自身の考えにまかせる方が賢明だと考えたのである。だから注釈は、詩句の字句の一義的な理解にだけ役立つと考えるべきなのである。私は翻訳にあっては、なによりも先ず過剰になることを避けつつ、音声におけるリズムの順序をできるだけ尊重し、字句の正確な翻訳を目指した。字句の翻訳の正確さは、〔原詩で〕確立された律動が要求するものに途をひらくものでなければならない。この場合、読者はこの二つの要素を調和させるのに失敗しないように注意する必要がある。マラルメは大変難解だから、完璧な翻訳は絶えざる見直しと、多くの人の参加があってはじめて可能である。聖書と同じように、彼の翻訳は協会の手でもって行われるべきなのだ。この出版は協会の会員を増やすことに役立つ思う。――とはいえ、すでに私は多くの友人から助言を得た。それらすべての人々に感謝したい。とくに次の方々に対して謝意を表したい。P・ストレッチー夫人(彼女は他の誰よりもマラルメの謎の多くを解読したと私は考える)。アンドレ・ジッド、ポール・ヴァレリーの両氏は、二、三の致命的な誤訳から私を救ってくれたし、マラルメの「室内装飾」について直接的な情報をあたえてくれた。そしてエリック・マクラガン氏。氏は大間違いを見つけてくれた。ただこうした見直しにもかかわらず、幾つかの間違いがその目を逃れているに違いない。したがってこの翻訳は、最終的な翻訳への初歩的な一歩とみなされるべきである。
 
Title: An Early Introduction in Stéphane Mallarmé Poems(Chatto & Windus,1936) pp.295-308.
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by monsieurk | 2014-04-06 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

ロジャー・フライのマラルメ論Ⅵ

 マラルメの関心は、言葉のイメージと思想との純粋に詩的な関係にある。この関係についての彼の認識は、まったく独特のものである。彼は誰をも味方にしたことはなく、なにかの主義に与したこともない。多くの詩が、扱う対象を故意に高くまた大きくすることで、感情の詩的ピッチを強めることに努めている。こうした詩人たちは、調子を高めるための形容詞や直喩を用いるのだ。それが正しく用いられているかどうかという以上に、修辞上の効果をあげるのに優れているというのがその理由である。

  ‘Nor dim, nor red, like God's own head、
  The glorious sun uprist’
  
   神自身の頭のように、鈍くも赤くもなく、
  神々しい太陽が昇る
  
 こうした常套が誇張されると大言壮語となり、それはシェイクスピアの時代から絶えず非難の的となってきたものであった。だがロマン主義以降、このことから完全に自由だった詩はごく稀であった。こうした誤りの急激な反動として、こんどは作家が対象の価値を下落させてしまうような関係を見つけるという、正反対の過ちを冒す事態がしばしば起った。たとえばジョイス氏が「鼻汁の青い海」というとき、たしかに形容詞としては正確だが、対象を輝かすというよりは、不快感の方が強くなってしまうのである。
 [マラルメは、「純粋詩」を最初に書いたのは自分だと語ったが、たしかに彼は私たちが知っている最も純粋な詩人である。つまり、おそらく彼はもっとも詩的でない詩人だと言い換えることもできるだろう。あるいは彼はもっとも古典的な詩人だということである。誰でもいい、「詩的な」詩人の一人、たとえばラッセル・アベルクロンビー氏を取り上げてみよう。彼の『聖トマス』のなかで、船は「痩せた猟犬」として描かれている。
 直喩は、ここでは(言葉の選択によって強調された)感情の負荷を負わされている。そしてその感情は描写された対象に押しつけられており、対象についてのある感情の結果ではなく、単に一つの感情的な雰囲気をつくり出しているにすぎない。そして私たちはそれを通して対象を見ることになる。詩的な詩人は、作詩法によってすでに認知された言葉や材料を使い、彼固有のテーマを飾り、潤色する。マラルメの方法は、まさにその反対である。彼の方法は、テーマに内在するなにものかを開花させることにある。テーマを凝視することによって、予期せざる新たな関係を発見する。テーマ自体、あるいはそれが含む対象が、詩的な性質を持っているべきだといったことは問題ではない。すでに感情を帯びたものとの関係を見つけるというのも彼の関心外である。](1)
 マラルメはただ一人、このような先入観から自由である。その態度は超然としており、客観的で、純粋詩人にとっては当然のことだが、テーマが感情に訴えるものかどうかは問題ではなく、それが詩的関係について考える情熱を、己のうちに呼び覚ますかどうかだけが問題なのである。したがって、主題が一般に詩的だといわれる組合わせ、つまり高貴だったり印象的であったり、あるいは逆にまったく平凡で、ありふれたものだといったことは問題ではない。これほどまでに、その作品の多くを、絵画でいえば静物画の範疇に分類されるテーマに捧げた詩人は稀れである。日常的な事物を指し示す言葉――窓、窓ガラス、卓子、ガラス製のランプ、天井――にあれほど豊かな詩的震えをあたえ得た人は皆無であった。しかも彼は人を驚かすような諧調を強制したり、言葉を技巧過剰にねじ曲げて使ったりするのではなく、観察と言葉同士が調和する能力を正確に計量することで、それを達成したのである。彼が自転車に乗った男を、「足と足の間に終わりのないレールのイメージを繰り出している人物」として描写するとき、彼はおそらく面白がりながら、意識的にこの方法を極限にまで用いたのである。そしてこのカリカチュアのなかに、彼の方法の基本的な性質を見出すことができる。

 原注(1) カッコ内は草稿からの挿入。(続)
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by monsieurk | 2014-04-03 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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