ムッシュKの日々の便り

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梶井基次郎の文学碑

d0238372_130535.jpg 資料を整理していたら、「梶井基次郎文学碑」と題した小冊子が出てきた。畏友、廣田昌義氏が30年以上前に古書店でみつけて、梶井基次郎の評伝を書こうとしていた小生に贈ってくれたものである。
 文学碑が伊豆・湯ヶ島の瀬古の滝の旅館「湯川屋」の前の小高い丘の上に建てられたのは、昭和46年(1971)11月3日のことであった。非売品だった小冊子はいまや稀覯本になっているから、碑の建立にまつわる2つ文章を紹介してみよう。まずは梶井の親友で、文学碑建設の中心になった中谷孝雄の「除幕式を終って」。

「梶井基次郎の文学碑が彼に縁故の深い伊豆湯ヶ島温泉に建設され、去る十一月三日その除幕式に際して彼の旧友達やまた彼の文学を愛する多くの人びとの参列を得たことは、私の深く喜びとするところである。
 思えばもう一五、六年も前のことであった。湯川屋主人の安藤公夫氏から梶井の文学碑を建設したいという要望があり、淀野隆三と三好達治と私の三人でその相談のために湯ヶ島へ赴いたのであったが、諸種の事情で建設の準備がまだ整わないうちに三好と淀野とが相次いで世を去ったので、その実現ものびのびになってしまった。そのうちに三好の詩碑の方が先に建設されることになり、私としても梶井の文学碑のことがいよいよ気がかりになりだした。幸、このたび漸くその機が熟し多年の懸案が果たされるに到ったことは、これひとえに諸氏の熱心なご協力の賜物であり、われらの深く感謝するところである。d0238372_1334392.jpg
 ことに川端康成氏が、われらの願を容れて快く副碑の題字を執筆してくださったばかりか、同氏宛の梶井の書簡を貸与してその一節を彼の文学碑の碑面に刻する便をはかってくださったことは、われらのみならず、恐らく地下の梶井も大いに感謝していることであろう。生前、梶井は川端氏に傾倒すること深く、川端氏の方でもこの後輩に期待されるところは大きかったようだ。
 湯川屋の主人安藤氏の終始変わらぬ熱心さや梶井の長兄謙一氏始めその一家の協力も大きかったが、皆美社の関口弥重君や石川弘君の尽力にも銘記すべきものがあった。文学碑建設の事務一切は、殆どこの二人でやってくれたのであった。碑の設計者西瀬英一・英行の父子を紹介してくれたのも関口君であり、その後の西瀬父子との連絡には主として石川君が当たってくれた。私は事務一切をこの両君に任し、碑の設計に就いては西瀬父子にお任せして一切口出ししないことにした。聞けば西瀬父子も梶井文学の愛好者であり、碑の建設設計には献身的な努力を惜しまなかった。
 また除幕式の当日には、俳誌「秋」の主催者石原八束君が司会の労をとってくれた。石原君は三好達治の門下生であり、三好の詩碑の建設に与って大いに力を致したが、同君はまた梶井文学の愛好者でもあり、こんどの司会も快く引受けてくれた。聞けば同君はその夜の飛行機でアメリカへ立つことになっており、多忙な時間をやっと都合して会場へ駆けつけてくれたのであった。d0238372_1372832.jpg 
 こうして多くの人びとの協力により、梶井の文学碑は立派に完成しその除幕式もめでたく終わったが、私は何もしないのに妙に疲れてしまい、当日参集してくださったかたがたへのお礼もろくに述べないでしまったようだ。ここに改めてそれらのかたがたへ感謝の意を表したいと思う。」(写真手前左が中谷孝雄、その右、北川冬彦、その後ろは梶井謙一、マイクを持って挨拶するのは浅野晃)

 次は湯川屋主人安藤公夫氏の回想、「除幕式を終えて」――

「お忙しいお仕事を持っておられる皆さんが夫々に帰られてから、製作の西瀬御父子を吉奈温泉東府屋にある、お万の方の腰かけ石に御案内して夕方家へ着いた頃から冷たい雨が降り出しました。親しい友人達が今までの労苦をねぎらってやろうと一席もうけてくれたので、そこへ出かけ家へ帰ったのが何時頃かわからない程に酔っぱらって寝てしまいました。翌朝七時頃起きて碑のまわりの掃除に行きました。雨はやんでいましたが、しっとり濡れた碑は心なしか、ずっしりと落ちついてずっと前から此処に建っているように思われました。間もなく西瀬先生方もいらしって〔ママ〕写真を撮って頂いたり色々のことを教えて頂いたりしながら碑を見つめていると改めてその立派さに惚れこんでしまいました。
 昔、ある朝のこと、川の方からもの凄く大きな声がきこえてくるので両親と雨戸を明けて見ると、まだ薄暗い川の真中にある大きな石の上に真裸になった梶井さんと三好さんがお互いの肩を抱き合って泣きながら何やらわめいていました。子供心にも何か鬼気迫るといった感じになったことをおぼえています。碑の二倍位の大きな石でしたが、狩野川台風の時流れてしまいました。その後ずいぶん探しましたが淵に沈んでしまったのか砕けてしまったのか全然見当たりません。こんなことを想い出しながら碑を見ていると、なんだか、見つからないあの石が能瀬の妙見山の渓谷から小さくなって帰って来たのではないかなど、あり得ないこと等も考えたりして、碑の傍にいる時間がつい長くなってしまいます。
 式の時はまだ沢山あった柿の葉もすっかり落ちて、更に赤味を増した実が冬空にくっきりと浮んでいます。植えたつつじ、石楠花、八重桜もみな元気です。出来ますことなら、年一度皆様方に又碑の周囲で赤飯のおにぎりでも食る会をつくって頂きたいと思います。西瀬先生に教わった竹燗の酒を差上げたいと思います。
 十一月十九日川端康成先生が奥様とこっそりお見えになりまして碑を御覧になりました。私は留守をしていてお会い出来ませんでしたが、家内に「梶井君も静かでいい所へ碑を建ててもらって喜んでいるでしょう」と御機嫌よく帰られましたことをお知らせ致します。」

 梶井の文学碑はいまもひっそりと立っているが、中谷孝雄氏、湯川屋のご主人安藤公夫氏など多くの人が鬼籍にはいられた。梶井が長く逗留して名作を幾つも執筆した湯川屋も店を閉じてしまった。
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by monsieurk | 2014-05-30 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

帙(ちつ)

 西欧では、本は各自の好みによって装幀して、書斎の棚に並べるのが普通だった。装幀は革で行われることが多く、これには高い技術が必要なため、装幀(reliure)という仕事が綿々と受け継がれてきた。フランスではパリだけでなく、地方都市でも装幀を生業とする店をいまでもよく見かける。
d0238372_15411469.jpg とくにフランス綴じの本は自前で装幀することを前提としていて、書店に並んでいるときは袋とじの状態で、読者はペーパー・ナイフで綴じられたページを切って読んだものである。読み終わって、保存に値すると思ったものは装幀を施したのである。だが今日では、フランス語の本もはじめからページの天地をカットした状態で製本され、読者はペーパ・ナイフを使う必要がない。
 一方、日本や中国の貴重な和綴じ本は、損傷を防ぐために厚紙に布を貼ってつくる帙に包んで保存するのが普通であった。
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 写真で紹介したのは、昨年暮れに刊行されたフランス語の本、“Le Guirlande à Méry ”(Ēdition établie et présentée par Bertrand Marchal, Malassis, 2013)を入れた帙である。帙は表装の専門家の古内都さんに制作していただいた。
 マラルメの専門家ベルトラン・マルシャルが編纂した「メリーに捧げる花束」というタイトルの本は、昨年2013年11月に刊行されたもので、マラルメの想い人であったメリー・ローランの『アルバム』に書入れられた文章や絵をファクシミリで復刻し、テクストの部分は活字でも再現したものである。裏表紙の紹介文を訳してみよう。
 「プルーストの、《貴女の好みの画家と作曲家は?》という口頭での質問に、メリー・ローランは、《私を描き、私を歌ってくれる人たち》と答えた。
 《竪琴そのもの》と渾名された彼女は、19世紀末の詩人、画家、音楽家たちの、もっとも光り輝く女王、助言者だった。マネのモデルで、マラルメの霊感の源であり、彼は数多くの状況詩を彼女に捧げた。彼女のサロンにはパリ中の名士が訪れた。
 アンヌ・ローズ・シュザンヌ・ルヴィオ(1849-1900)として生まれたマリー・ローランは、カンロベール将軍からナポレオン三世の歯科医だったエヴァンス博士まで、強力な庇護者に囲われたドミ・モンドだったが、ここにファクシミリで複製した『友情のアルバム』(友たちの手帳)は、この心の女王の宮廷の広がりを示している。最初の部分は1875年から1885年まで演劇の世界にいたときの華やかな時代のものであり、後半部分は、ユーモアを籠めてマラルメがつくった詩句による詞華集、「メリーに捧げる花束」である。それはまた波乱万丈の人生を送り、同時代の芸術家たちに生き生きとした色彩をふり撒いた女性への讃歌にほかならない。」
 このメリー・ローランの「アルバム」は、かねてからマラルメの研究者や愛好家から公開が待望されていたが、このたびようやく刊行の運びとなったものである。紹介文にもあるように、メリー・ローランの許を訪れた多くの文学者、画家、音楽家たちは、アルバムに彼女を讃える短い文章や詩、あるいはデッサンを書き入れた。なかでも圧巻なのは彼女を愛したマラルメの詩句やデッサンで、d0238372_16111229.jpg写真はマラルメの自筆による、本のタイトルになっている「メリーに捧げ花束」と言う文章とデッサンである。マラルメはメリーのことを「私の孔雀さん」と呼んでいた。d0238372_16125930.jpg
 貴重本は、美しい古裂を貼った帙を得て、一段と栄えることになった。
 古内さんには以前にも自著のために幾つか帙をつくってもらったことがあり、昨年末にパリでそれらを古書主に見せたところ、大いに羨ましがられた。愛書家の皆さんにもお勧めしたいが、いかがだろうか。
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by monsieurk | 2014-05-27 22:30 | | Trackback | Comments(0)

マラルメの肖像ⅩⅥ「モンドールの鉛筆画」

 アンリ・モンドールが鉛筆で描いた若き日のマラルメである。著名な外科医だったモンドールは、文学にも強い愛着と深い造詣をもっていた。彼は医師としての仕事を行うかたわら、ランボー、ポール・ヴァレリー、モーリス・バレス、ポール・クロデールについて多くの著書を書いた。なかでも一番愛したのがマラルメで、彼は暇の盗んでは古本屋をめぐり、マラルメの自筆原稿や書簡、初版本、さらには詩のプレオリジナルが載った小雑誌のバック・ナンバーを蒐集した。こうした努力は延々20年に及んだ。
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 モンドールはこうして集めた資料を駆使して、マラルメに関する最初の伝記『マラルメ伝(Vie de Mallarmé)』上、下二巻本を著したが、その上巻(1940年12月、Gallimard刊)の序文冒頭で次のように語っている。 「1940年6月14日、ドイツ軍がパリを占領したとき、残っていた人びとのある者は、この街への愛着から、あるいは義務から、あるいは出不精の気質から、どうせ幻想だろうが、苦痛をやわらげるために、どんな阿片がよいかと探し求めた。 わたしたちはこれまで誰も語ろうと企てなかった実在した一人の生涯の研究を選んだ。そして安らぎを得るために、またフランスの威光のために、その生涯に素晴らしい勇気を見出したのである。 すでに二十年間、私は古本屋から古本屋へ、出物から出物へ、偶然から驚きへと、原稿や手紙や遺品を蒐集してきた。そうした集積は徐々に一人の象牙の塔の詩人の、奇体なほど熱烈な生活を、熱烈ではあるが、表面的には華々しさも劇的な事件もない生活を復活させたのだった。(中略) マラルメの生涯は純粋で、平坦で、波乱のないものであった。口に糊するための職業と、妥協することなく望んだ洗練され垢抜けた芸術との間で、職業によって夢想を中断されないために、死ぬほどの酷使もいとわず、時間を按配したのである。」(ibid、p.7)なおこの前文については、以前のブログ「モンドールの『マラルメ伝』」(2012.12.17)でも触れている。
 モンドールは執念で蒐集したこれらの第一次資料を駆使して、ドイツ占領下のパリでその苦痛を紛らすために『マラルメ伝』全二巻を刊行した。そしてその努力と成果が認められて、1946年にフランス学士院(アカデミー・フランセーズ)会員に推挙された。その席はポール・ヴァレリーをつぐものであった。その後1961年には本業の外科医としての功績により、科学アカデミーの会員にも選ばれたのである。
 モンドールは文筆だけでなく、デッサンと版画を得意としたが、これには外科医として患者の病状を克明にスケッチする習慣が役だったのかもしれない。マラルメを敬愛してやまないモンドールは、1877年にエティエンヌ・カルジャが撮影した写真をもとに、若き日のマラルメの肖像を描いた。このデッサンを石版画として50部だけ刷られ、私が所蔵しているのは、そのうちの21番、Y・D・タルディフに献呈されたものである。デッサンのマラルメは視線を遠くに投げて、未来を見つめている。
 なおデッサンが最初に公開されたのは、「リベルテ」紙の1961年2月の日曜版である。その付録に、モンドール著『マラルメについて他に明らかになったこと及び未刊資料』についての批評とともに、モンドールの近影とデッサンの複写が掲載された。
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by monsieurk | 2014-05-24 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの肖像ⅩⅤ「ピカソの絵」

 パブロ・ピカソが描いたマラルメの肖像画である。
 
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 第一(左のもの)はインクで描かれたもので、1943年4月20日の日付が記されている。これは1891年にゴーギャンが制作した銅版画をもとにしたもので、左右を逆にして、肩のところにいる大鴉を取り去っている。ピカソはこれを、友人である作家で人類学者のミシェル・レリスに進呈した。レリスはその後これを「国立現代美術館」に寄贈した。d0238372_1732231.jpg
 第二は1945年4月25日に描かれた。この肖像画でもインクが用いられていて、明暗が描き分けられている。さらに特徴的なのは、マラルメがポーを讃えた詩篇「エドガー・ポーの墓」を筆写していることで、これは詩人ポール・エリュアールが所蔵していた。
 第三(冒頭右のもの)は、1948年6月29日の日付のあるもので、短気な印象をあたえるマラルメである。マラルメは1863年から1867年の間、アルデーシュ県の県庁所在地であるトウルノンの高等中学校の教師をしていた。マラルメの死後50周年を機に、「マラルメの死後50年トゥルノン記念委員会」が結成されて、さまざまな催しが企画された。その一つとして、街にマラルメの記念碑を建てる資金を得るための競売会が1948年6月28日に開催され、詩人関連の資料などの売り立が行われた。
 協力を依頼されたピカソは、まさにこの日に肖像画を描き上げて、競売会に間に合うように速達で送ったのだった。
 幸運にも、これを手に入れたジャンヌ・ド・フランドレシは、次のように述べている。
 「わたしは1948年に、トゥールノンで、蒐集家には貴重な品々を「マラルメの友たち」が競売に付したとき、これを手に入れた。競売はローヌ川沿いの小さら街の、詩人の名を冠した通りに記念プレートを建てるのに必要な基金を得るためであった。寄附を頼まれたピカソは、まさにこの日の朝に完成させて速達で送り、その夜にはもうわたしのものになっていた。トゥールノン美術館の館長はどれほど悔やんだことか。」
 競売会には、画家のラウール・デュフィも詩人の記念メダルをつくる基金を得るために水彩画を提供し、それらは城に建つ美術館に所蔵された。
 ピカソはこの時期、詩に興味を持ち、自分でも詩作を行った。そしてマラルメやヴェルレーヌ以外にも、アンドレ・ブルトン、ポール・ヴァレリー、ピエール・ルヴェルディの肖像も描いている。
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by monsieurk | 2014-05-21 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの肖像ⅩⅣ「記念プレートとメダル」

 詩人の死後25周年にあたる1923年に、彫刻家ラウール・ラムールドゥデユがつくった銅版の肖像である。この年6月、「マラルメ協会」が設立され、その記念に彫刻家に制作が依頼された。
 「マラルメ協会」は詩人の思い出をもつ人々や、マラルメの詩を愛好する人たちによって結成された。会長は置かず、マラルメの女婿(ジュヌヴィエーヴの夫)のボニオ博士が会員の筆頭に名を連ねた。「マラルメ協会」は設立の記念に、ヴァルヴァンの別荘に記念プレートを掲げることを決め、その制作を彫刻家に依頼した。マラルメが亡くなったのは9月9日であり、制作期間は3カ月しかなかった。
 記念式典は25周年から1カ月遅れて、1923年10月14日にヴァルヴァンで行われた。会員以外にも多くの参列者があり、アンドレ・ブルトン、アンリ・ド・レニエ、マルグリット・モレロ、ジュール・シュペルヴィエルなどの顔もあったが、ヴァレリーやポール・フォールは出席しなかった。d0238372_9212869.jpg
 一同はサモロの墓地を訪れたあと、マラルメの家の隣に店を開いたレストラン「ヴァルヴァン橋」で昼食をとり、その後、マラルメが愛した別荘の正面の壁に記念プレートをはめ込んだ。d0238372_9231726.jpg記念プレートには、「ステファヌ・マラルメは / 1874年から1898年まで / 彼が愛したこの家に住み / ここで亡くなった」と彫り込まれていた。
 同年、同じ彫刻家の手でマラルメの横顔を彫刻したメダルが200個つくられた。鋳造を担当したのは、パリオルロージュ河岸37番地の「A.ゴダール」で、裏面には、「ステファヌ・マラルメ / 1842年ー1898年 / マラルメの死後25周年を期に / マラルメ協会の支援のもとで鋳造された」と刻まれている。
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by monsieurk | 2014-05-18 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの肖像ⅩⅢ「ヴァレリーの彫像」

 ポール・ヴァレリーによるマラルメの彫像2点である。
 詩人のヴァレリーはマラルメの最晩年に親炙した一人で、ヴァルヴァンの別荘を訪れた際には、『賽の一振り』の原稿を見せられた。d0238372_8273679.jpg
 マラルメは1898年9月9日午前11時、急に喉をつまされて絶命した。夫人と娘ジュヌヴィエーヴの衝撃は大きかった。それでもジュヌヴィエーヴは、健気にもマラルメと親しかった人びとに電報で父の死を知らせた。
 ヴァレリーが電報を目にしたのは、この日の夜11時ころだった。外出から戻ると恐ろしい事実を告げる電報が待っていた。「ああ、父が今朝亡くなりました。日曜日の午後埋葬します。」ヴァレリーは、まんじりともせずに一夜をすごし、翌朝友人のアンドレ・ジッドに葉書でこれを知らせ、他の友人にも電報を打った。追いかけるように、会葬案内が送られてきた。「葬儀は9月11日の日曜日、ヴァルヴァンにて午後4時から行われる。皆さまのご参列を乞う」とあった。
 日曜日は暑い日で、会葬者は30人ほどだった。文学者や画家にまじって近隣の農家の人たちの姿もあった。部屋に安置された棺は白い布で覆われ、花で飾られて、穏和な微笑ををたたえたマラルメの写真が飾られていた。皆が棺につぎつぎと花を捧げ、ヴァレリーはパリを出るときにオーギュスタン通りの花屋でつくらせた薔薇の花環を置いた。
 会葬者はそのあと凡そ1・3キロの道を歩いてサモロの教会に行き、そこで簡素な式があり、埋葬はセーヌ川を見下ろすサモロの墓地で行われた。「白色評論」と「メルキュール・ド・フランス」の大きな花環が捧げられていた。カチュール・マンデス、アンリ・ルージョン、ディエルックス、タデ・ナタンソンと妻のミシア、ルノアール、ロダン、メリー・ローラン、ジュリ・マネ、ポールとジャニーのゴビヤール姉妹たちが見守るなか、年長者を代表してアンリ・ルージョンが心のこもった弔辞を述べた。
 詩人のキヤールがヴァレリーを墓穴のわきに連れて行き、若い世代を代表して弔辞を述べるように促したが、ヴァレリーは口ごもるばかりで言葉にならなかった。ヴァレリーはマラルメの死後2週間たって、ジッドに、「わたしは世界で一番愛していた人を失った」と書いた。。d0238372_8293487.jpg
 ヴァレリーはマラルメについて思い出など多くの文章を残したが、彼は文筆以外にもさまざまな才能に恵まれていて、デッサン、水彩画、油彩、版画をよくし、あまり知られていないが彫刻もつくった。なかでも彼が尊敬した二人、マラルメとドガの彫像は傑作と評判が高く、マラルメの彫像は詩人の死の12年後につくられた。
 ヴァレリーの妻となったジャニーは、オリジナルの塑像を1948年7月にヴァレリーの故郷のセット市美術館に寄贈し、これから2つのブロンズ像をつくることに同意した。このブロンズ像は美術館に「ポール・ヴァレリーの部屋」がつくられた1949年5月に、一般に公開された。その後1994年になって、オリジナルの塑像はヴァレリーの子どもたちによって、オルセー美術館に寄贈された。
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by monsieurk | 2014-05-15 22:25 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの肖像ⅩⅡ「ムンクの石版画」

 エドヴァルド・ムンクの石版画である。
 d0238372_15315839.jpg ムンクは1889年から92年までパリに滞在し、一度帰国した後、1896年から97年にかけて再びパリにやってきた。このときはサミュエル・ビングの「アール・ヌーヴォの家」で個展を開き、アンデパンダン展にも初めて出品した。彼がマラルメと会ったのはこの二度目の滞在中で、おろらく「白色評論」を刊行していたタデ・ナタンソンの紹介だったと思われる。ナタンソンはムンクの有名な《叫び》の石版刷りを、「白色評論」の1895年11月15日号に掲載していた。
 ムンクはこの時期、マラルメの肖像を石版による2点とアクアチント(腐蝕銅版画)で制作した。二人の間では手紙がやりとりされたが、そのうちの一通、ムンクがマラルメに宛てた1897年3月25日付けの手紙によって、ムンクはマラルメから借りた写真をもとに自宅で制作したことが分かる。この写真は間違いなくポール・ナダールが1895年に撮影したものである。写真は1896年12月には返却する約束だったが、ムンクが体調を崩したために、翌年97年1月になってマラルメに返された。
 ジュヌヴィエーヴは、一人でヴァルヴァンに滞在していた父に宛てた1897年5月23日の手紙で、「冬に〔仕事を〕はじめたノルウェーのデッサン画家のムンクさんが、あなたを描いた肖像画を送ってきました。とても美しく、さる聖女のハンケチに印されたキリストの顔に似ています。その像の下には、〈長い間見ていなさい、すると目が閉じられるのが見えるでしょう〉と書かれているものです。」
 マラルメは6月15日にムンクに宛てて手紙を送り、こう礼を述べている。
 「わたしは、貴兄の見事な肖像についてお礼を申し上げた手紙がパリにどこかでなくなってしまったと思いました。その手紙では、そこ〔肖像画〕には自分がいると心から感じたことを申し上げ、デッサンの率直さと大胆さを嘆賞するより前に、その理由で、貴兄に愛情のこもった握手を送っていたのです。」
 ムンクからマラルメに送られた石版画には、下にSTEPHANEMALLARMEの文字が添えられている。これはこげ茶のインクで刷られたものと思われる。またムンクが制作したアクアチントによる肖像画を、マラルメが持っていたかどうかは不明である。
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by monsieurk | 2014-05-12 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(2)

マラルメの肖像ⅩⅠ「ヴュイヤールのデッサン」

 エドゥアール・ヴュイヤールのデッサン2点である。d0238372_7163936.jpg
 ヴュイヤールがデッサンしたマラルメは窶〔やつ〕れが目立ち、何かに気を取られているように見える。マラルメはこのころは高等中学校の英語教師をやめており、詩作に時間を割けるようになっていたが、文壇での交際が増え、それに時間を取られるようになっていた。d0238372_7181265.jpg
  その上、親しい友だちが相次いで亡くなり(ベルト・モリゾ、ポール・ヴェルレーヌ、画家ホイスラーの夫人)、出版が希望通りに進まないなど、仕事の面でも困難に突き当たっていた。そのために不眠症になり、妻のマリーも体調不良に陥っていた。これには彼とメリー・ローランとの関係が影を落としていたのも事実だった。そんななかで健康に不安を持つようになり、金銭的な心配もあった。ヴュイヤールのデッサンは、マラルメのこうした心痛を反映しているのかも知れない。
 ヴュイヤールは1891年からマラルメの「火曜会」に出席するようになった。最初は同じナビ派の画家モーリス・ドニの紹介でローマ通りのアパルトマンを訪ねたのだが、それ以前に二人はタデザ・ナタンソンが主宰する雑誌「白色評論」に詩と絵を掲載していたから、互いの作品はよく知っていた。二人の関係については、ヴュイヤールに対するマラルメの影響についてはブログ「画家ヴュイヤールⅠ~ⅩⅣ」(2012.05.22~06.20)を参照してほしい。マラルメはヴュイヤールの作風が気に入り、ヴュイヤールに散文集『ディヴァガシオン』に署名して進呈した。
 画商のアンブロワーズ・ヴォラールは、マラルメの詩篇「エロディヤード」の豪華本の出版を計画して、その挿画をヴュイヤールに頼むことを考え、詩人もこれに同意した。また1895年には、フェリックス・フェネオンが自ら編集長をつとめる雑誌のために、ヴュイヤールにマラルメの肖像を描かせることを考えた。彼はこの年の9月23日付けのマラルメ宛ての手紙でこう書いている。
 「あなたの数ページを掲載できれば、わたくしたちの雑誌の宝物になります。――たとえば12月25日号に。それは可能でしょうか? そしてお厭でなければ、ヴュイヤールに貴方の肖像を依頼して、それを同じときに掲載したいと思うのですが。」
 ナタンソンはヴァルヴァンのマラルメの別荘のすぐ近くに、「グランジェット」という名の別荘を所有していて、「白色評論」に関係する若い芸術家たちが、パリからよく訪ねてきた。
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 ヴュイヤールも1896年には幾度か滞在し、その度にマラルメに会い、一緒に散歩したり食事を共にしたりした。ヴュイヤールはマラルメの別荘も油彩で描いている。
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by monsieurk | 2014-05-09 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの肖像Ⅹ「ドガの写真」

 画家のエドガー・ドガは絵や彫刻のかたわら、19世紀の新しい技術だった写真に熱中した。これはドガが1895年12月16日の夜、パリ16区のヴィルジュスト通り(現ポール・ヴァレリー通り)40番地にあった亡きベルト・モリゾの家で撮った写真である。
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 大きな鏡の前で写るのはマラルメと画家ルノアールで、鏡のなかにはカメラを構えるドガと、マラルメの妻マリーと娘のジュヌヴィエーヴがぼっとではあるが写っている。この日はベルト・モリゾの娘ジュリーと従姉妹のポールとジャニー・ゴビヤール姉妹、それに彼女たちの後見役だった、マラルメの一家、ルノアール、ドガが集まっていた。
 この写真を焼き付けた1枚を持っていたヴァレリーは、台紙に次のような覚書を書いている。「大きな鏡の脇に、壁に寄りかかるマラルメと、椅子に腰かけて正面を向くルノアールを見ることができる。鏡のなかには、ぼっとした状態だが、ドガとカメラ、マラルメ夫人とマラルメ嬢が見える。9つの石油ランプと、15分間動かずにじっと同じ姿勢を保つことが、この傑作を生み出すのに必要な条件だった。これがわたしが持っている一番美しいマラルメの肖像である。・・・」
 ドガは晩年目を患い視力が落ちたが、1895年から96年にかけて写真に熱中し、周囲の人たちの肖像や自画像を撮影した。彼はモデルに思い通りのポーズを命じ、光と影のコントラストをつくり出すように光源のランプを配置した。そうして絵画のような写真を撮ることに成功したのである。そのなかでもこの一枚はドガの傑作とされる。d0238372_16551666.jpg
 なおこの日、マラルメとポール・ゴビヤイールの二人の写真も撮っている。背景として写っているのはマネの《庭の若い娘》である。
 マラルメは1874年に発表した評論「印象派の画家たちとエドゥアール・マネ」で、ドガの名前をあげて賞賛し、それ以来詩人と画家は友情を結んだ。彼らはベルト・モリゾの死後、1896年3月には協力して、彼女の回顧展をデュラン=リュエル画廊で開催し、マラルメはそのカタログに序文を書いた。



 
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by monsieurk | 2014-05-06 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの肖像Ⅸ「ヴァルヴァンにて」

 マラルメが避暑先として所有したヴァルヴァンの別荘や、その周辺のセーヌ川で撮影された一群の写真である。撮影者の名前は確認されていないが、このうち幾葉かはジュリー・マネによって1896年秋に撮られたものと考えられる。ジュリー・マネは画家ベルト・モリゾとマネの弟ウージェーヌの一人娘で、母のベルト・モリゾが1895年3月に亡くなり、一人ぽっちになったあとは、マラルメが後見人をつとめた。
 1896年の秋、ジュリーの従姉妹のポール・ゴビヤールはマラルメ宛ての手紙で、「ジュリーは彼女の写真を貼っています。マラルメ夫人のものはよいでしょう? あなたのものはとても暗いですが、見習い水夫のほっそりしたエレガントさをどう思われますか?」(『書簡集』第8巻、258頁)と書いている。そして同じ日に、ジュリーはマラルメにヴァルヴァンで撮った写真を送り、同封した手紙で、「ナタンソンさんは、あまり細くは見えません」と心配している。
 まずはヴァルヴァンの別荘の庭での写真である。
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 マラルメは椅子に座って横顔をみせ、三人の女性とともに写っている。彼から右へ順に、アンリ・ノルマン夫人、娘のジュヌヴィエーヴ、妻のマリーで、ノルマン夫人は結婚前はマルグリット・ルージョンといい、マラメとした親しかったアンリ・ルージョンの姉である。
 作家・ジャーナリストで、美術省の責任者だったアンリ・ルージョンは、同じくヴァルヴァンに別荘をもっていて、さまざまな機会にマラルメに、親身になって手を差しのべた人である。彼らは1870年代からの知り合いで、家族ぐるみのつき合いを続けていた。そもそもアンリ・ルージョンが妻となる女性と知り合い婚約したのは、マラルメ夫妻の仲立ちだった。マラルメはパリのローマ通りのアパルトマンやヴァルヴァンの別荘で、たびたびルージョン一家をもてなした。
 二枚目の写真は1896年の夏の終わりに撮影されたものである。 
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 このときジュリーは従姉妹のポールとジャニーのゴビヤール姉妹とともに、ヴァルヴァンにいたマラルメ一家を訪ねて、8月中旬から9月24日まで滞在したと思われる。前列の腰かけている女性たちは、左から右へ、オクターヴ・セアイユ、娘ジュヌヴィエーヴ、妻マリー、ノルマン夫人。そして後列は左から、ジュリー・マネ、ジャニー・ゴビヤール、マラルメ、ガブリエル・セアイユ、ポール・ゴビヤールである。ジュリーとゴビヤール姉妹は3人とも両親を失い、いつも一緒で、マラルメは彼女たちを「スカートをひらめかす一隊」と呼んでいた。。d0238372_941221.jpg
 ポール・ゴビヤールは画家としての道を歩み、ジェニーはやがてポール・ヴァレリーと結婚した。ガブリエル・セアイユは哲学史の教師で画家ウージェーヌ・カリエールの友人だあった。ヴァルヴァンに近いフォンテーヌブローの森のなかのバルビゾンに家を建てさせ、マラルメの許をよく訪れた。彼の妻オクターヴも画家で、フォンテーヌブローの森の風景をよく描いた。
 三枚目は、マラルメと娘のジュヌヴィエーヴ。彼女は父の腕を取っている。他の写真は、ヴァルヴァンの別荘の前を流れるセーヌ川で舟遊びをするアラルメのさまざまな姿である。
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 マラルメは舟を「ヨット(yole)」と呼んだが、じつは一本の帆柱と帆をもつ小舟で、1876年にノルマンディーの避暑地オンフルールで造らせたもので、定期的にニスを塗っていた。舟は第二次大戦中までセーヌ川に浮かべられていたが、現在は水をくみ出す柄杓と錨が残っていて、「マラルメ博物館」に保存されている。
 舟遊びは、パイプで吸う煙草とともにマラルメの大きな歓びで、天気のよい日は朝から舟をセーヌ川に浮かべて下流のサモロやシェルトレットへ、風向きによっては上流のトメリやモレまで舟を走らせた。そしてときには岸辺に舟をとめて夢想にふけった。
 白い帆にはイニシャルの「SM」と書かれていたが、トゥールーズ=ロートレックはこれを「Sa Majesté(陛下)」の略だと言ってからかった。マラルメはこの真っ白い帆を、なにも書かれていない白紙になぞらえていた。マラルメの舟遊びについては、ブログ「ヴァルヴァンの思い出Ⅱ、舟遊び」(2012.01.24)に詳しく書いたことがある。次の写真はセーヌに浮かべた舟を操るマラルメや、ヴァルヴァンの別荘の目の前にある舟着場で巻煙草を手にするマラルメ。そして娘ジュヌヴィエーともう一人の婦人と一緒に川岸に立つマラルメなどである。
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by monsieurk | 2014-05-03 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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