ムッシュKの日々の便り

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新・著者自筆「ステファヌ・マラルメ詩集」Ⅱ

 詩集は、マラルメが自らテクストを確定した生前唯一の総合詩集であって、本文批判の上でもっとも重要なものだが、市販された40部のほかに著者用など7部の非売品が印刷されただけという稀覯本であった。筆者の知る限り、この10年間で古書市場に出たのはただ一度、1977年4月22日にピエール・クレティアン氏により、パリの競売所ドゥルオで競売に付されたのが唯一の機会である。このときの評価額が6万3000フラン、落札価格は10万フラン(日本円で700万円)をこえた。
 この幻の著者自筆写真石版『ステファヌ・マラルメ詩集』が、昨1981年の暮れに、パリの書肆ラムセーから復刻され、出版されたのである。
 ラムセー版の製作者ジャン・ギシャール=メイリたちが目指したのは、1887年版の単なる復刻ではなく、当時マラルメが望んだままの姿を完璧に実現することだった。というのも、マラルメはデュジャルダンが達成した成果に、内心では不満を抱いていたと信じられるからである。温厚な詩人は、不満をさりげない言葉の端々に漏らしている。「〔詩集は〕大変良い出来栄えだと思います。ただ、石版刷りは十分〔読者を〕惹きつけるとは思えません・・・
 しかしこれは大したことではありません。原版を破棄してください。」(9月28日、デュジャルダン宛)
 では、マラルメが理想と考え、実現を望んだのは一体どんな形態のものだったのか。それを解く鍵は、ラムセー版の責任者ギシャール=メイリが、後書きのなかで指摘しているように、デュジャルダン宛の5月24日付書簡の一節に示されている。
 「・・・幾つかの文字が石版複写の校正刷では〔うまく〕出ていません。インクをもっと濃くしてはいかがですか。縮小した方が一層好ましい効果が得られると思います。・・・貴方のアイディアは素晴しい、その結果テクストは自筆〔複写〕と活字の両方で示されることになるのですから。」
 つまり、マラルメは『詩集』において、テクストが自筆原稿の複写とそれを活字に組んだものとの両方が共存する形を望んでいたのである。しかし、結果的にはなぜか活字によるテクストはの割愛され、夢は実現されずに終わった。しかも、自筆原稿の複写も石版印刷という技術の限界から、試し刷りの段階では詩人の望んだ黒さを十分に得ることが出来なかった。そのため紙面の白と文字の黒の対照の妙を愛でるマラルメは、複写に際して自費地原稿をあえて縮小するように頼んだのである。
 ラムセー版は、この一節からヒントを得た、マラルメの本当の意図を実現しようとした。つまり、見開きの左ページに現代の印刷技術を駆使して、自筆原稿を寸分違わず再現し、右ページにはそれに見合うテクストを活字化したのである。
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 こうして自筆原稿のファクシミレは、1887年版と比較して25パーセント拡大して複写された。この数字はジャック・デゥーセ文学文庫に現存するオリジナル原稿と比較検討の結果、割り出されたものだという。
 また活字についてもマラルメの希望が生かされた。詩人は生前、好みの活字について、しばしば希望を語っているが、それは当時のパリの印刷所シモン・ランソンが使っていたものに似たもので、イタリック体ではないが、「限りなく手書きの文字に近いもの」である。ラムセー版では、このマラルメの希望に沿って、ランソン活字を参考にしつつ新たな活字体が考案された。ただ用紙だけは、日本鳥子紙を見つけることはもはや不可能で、特別に漉いたラナの網目紙(ヴェラン)が用いられた。
 こうして詩人が抱いた夢は、94年を経た今日、ほぼ完璧な姿で実現されたのである。
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by monsieurk | 2014-06-29 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

新・著者自筆「ステファヌ・マラルメ詩集」Ⅰ

 筑摩書房が出している雑誌「ちくま」の1982年3月号に、「新版・著者自筆『ステファヌ・マラルメ詩集』」と題する文章を書いた。一部は『生成するマラルメ』(青土社)に引用したが、マラルメ研究に少しでも資するために全文をここに再録しおく。

 いまでもパリは稀覯本の宝庫である。左岸に多く店を構える老舗の古書店の書庫をのぞかせてもらえば、書棚には愛書家(ビブリオフィル)垂涎の書物がぎっしりと並んでいる。パリ滞在中は、薄暗い書庫のなかでモロッコ革装幀の本を手にとって、矯めつ眇めつしている愛書家をよく見かけたものであった。その姿はいかにも書物に淫するといった感じで、シャルル・ノディエやデュマが描いたビブリオマニアそのままである。
 だが稀覯本といっても、こうした愛書家の蒐集対象となる骨董的書物とは別に、その著者の文学を研究する上で、どうしても参照したい古書がある。19世紀フランス文学のなかでは、さしずめボードレールの『悪の華』や、1887年にわずか47部だけ印刷された、「著者自筆写真石版刷『ステファヌ・マラルメ詩集』」などがその代表的なものであろう。d0238372_15133820.jpg 
 初版本『悪の華』は、言うまでもなく6篇の禁断詩篇のゆえに、ナポレオン3世治下の軽犯罪裁判所から発禁命令が下され、その多くが押収された。そのため今日では滅多に手にすることのできない稀覯本となってしまった。しかし幸いにも、『悪の華』初版のテクストは、クレペ、ブラン両碩学の努力によって、詳細な注がほどこされて1942年に出版され、1968年にはジュネーブのスラトキン社から、初版のファクシミレ版が刊行されるに及んで、こと研究に関しては不便を感じることはなくなった。
 一方、この世に47部しか存在しないマラルメの『詩集』の方は、文字通り幻の存在であった。もちろんパリの国立図書館には、『詩集』の出版を計画したエドゥアール・デュジャルダン自身の献呈本と、他にもう1冊が収蔵されており、特別の許可を得た研究者に限って閲覧が許されるし、マイクロフィルムからの写真複製を入手することもできる。だが奇妙なことに、マイクロフィルムには、本来、『苦悩(Angoisse)』と『鐘撞く人(Le Sonneur)』の間にあるはずの詩篇『――ほろ苦き無為に倦じて(Las de l'amer repos où ma praresse offense)』一篇が欠落しており、せめて写真版で研究を進めようとする人々にとって悩みの種であった。
 マラルメの最初の総合詩集「著者自筆写真石版刷『ステファヌ・マラルメ詩集』」が、「独立評論」社から刊行されたのは、1887年5月から10月にかけてのことである。この年マラルメは45歳。絶唱「エロディヤード」や「半獣神の午後」をはじめ、象徴詩の真髄とされる数々の美しい小曲(ソネ)を発表し、ヴェルレーヌと並ぶ象徴派の総帥として、その文名は詩壇の枠をこえて世間一般に広がりつつあった。マラルメに心酔するデュジャルダンは、この機会にマラルメの詩業の全貌を見わたせるような詩集の編纂を思いたったのである。それまでマラルメの詩は、発行部数の少ない前衛雑誌に発表されたために、読者もごく限られていた。
 自作の詩篇を集大成した総合詩集をつくるというアイディアは、マラルメにとっても望むところで、二人の間で構想はすぐにまとまった。デュジャルダンが主宰する雑誌「独立評論」の第2号(1886年9月)の表紙に、次のような案内広告が掲載された。d0238372_1517982.jpg
 「作品の筆写はステファヌ・マラルメ氏自身の手になり、最高の石版技術によって大型の高級紙に複写されるはずである。―― 詩は一篇ずつ制作され、ごく少部数に限って印刷される。発行部数は前もって予告され、凸版は印刷後破棄される。―― シリーズは先ず詩から開始の予定である。・・・・」
 収録される作品は、20年前に創作された初期詩篇から最新作にいたる33篇。マラルメはこの機会に徹底的に改訂の筆を加えるともに、1篇ずつ入念に筆写していった。
 「・・・昨日から筆写をはじめました。ただ、『不遇の魔(Le Guignon)』の数々の欠点が、しばし私の筆の動きをとめてしまいました。昔の嗜好を残しつつ訂正を加えるのは大変です。内容見本はお手許にありますか。」(デュジャルダン宛、1887年4月27日付書簡)
 手紙のように、マラルメはこのとき、初期の詩篇に思い切った改稿の筆を加えたのだった。そのため全64行、545の単語からなる『不遇の魔』などは、そのうち217語が変更され、雑誌に発表された当初は、詩を色濃くおおっていたボードレールの影響は払拭されて、まさしくマラルメ自身の詩に生まれ変わった。マラルメはこうした推敲を、採録する33篇のすべてに加えたあと、美しい筆跡で清書していったのである。
 デュジャルダンは、詩人の自筆原稿をそのまま石版印刷したが、その際33篇を創作順に9輯に分けて順次出版した。各輯は33×26cmの二折型、用紙には日本鳥子紙が使われ、第1輯『初期詩篇』の冒頭には、フェリシアン・ロップスの「竪琴を持つ女」の銅版画2葉が挿まれた。(続)
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by monsieurk | 2014-06-26 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

「愛人/アマン」の家

 今年3月末にヴェトナムへ旅行したとき、機内で読んだ記事を再読したくて、ヴェトナム航空日本支店に頼んで、「Heritage ヘリテイジ・ジャパン」1月~3月号を送ってもらった。読みたかった記事は、「『愛人/アマン』の家に眠る記憶」で、「毎年、数多くの外国人観光客が、ドンタップ省サー・デックにあるフィン家の古い家を訪れる。フランス人の小説家マルグリット・デュラスの有名な小説『愛人/アマン』の舞台を訪れるためだ」とある。
 デュラスは1914年4月4日に生まれたから、今年4月は生誕100年に当たり、フランスでは新たな論文出版が相次ぎ、シンポジュウムも開かれるなど再評価が進んでいる。なかでも老舗ガリマール社が「Album Marguerite Duras」を出版したことは大きな出来事だった。
 この「アルバム」叢書は1966年のバルザック以来、毎年一人の作家を選び、写真資料とテクストとで作家の生涯を浮彫りにするもので、パスカル、モリエール、スタンダール、ランボー、ユーゴー、ボードレールなどから現代のアポリネール、プレヴェールまで、さらにはドストエフスキー、フォークナーといった外国人作家も入っている。叢書に選ばれたことは古典として認められたことを意味する。
 1984年に出版された『愛人/アマン』は、デュラスの半生を反映したいるといわれるが、「アルバム」の記述を参考に、彼女の生い立ちをたどってみる。
 デュラスは本名マルグリット=ジェルメーヌ=マリー・ドナデュ(Marguerite Germaine Marie Donnadieu)といい、1914年4月4日にサイゴン(現ホー・チ・ミン)市に近いジャーディン(Giadinh)で生まれた。父アンリ・ドナデュは中部フランスの職人の息子、母のマリー・ルグランは北フランスの農民の出だった。二人はともに再婚で、d0238372_2253418.jpg植民地コーチシナ(独立後のヴェトナム)へきた植民者だった。マルグリットの上には2人の兄がいた。
 マルグリットが生後4カ月のとき、第一次大戦がはじまり、父はすぐに動員された。母はやむなく3人の子どもを連れてフランスへ戻った。だが4年後の1918年11月の終戦で父が帰還すると、一家はふたたびハノイに移住し、父は現地のコレージュ(中学校)の校長、母は小学校の教員となった。夏のヴァカンスには一家で中国へ旅行するなど、恵まれた生活を取り戻した。
 不幸が襲ったのはマルグリットが7歳のときである。熱帯性の病に罹り、故郷デュラスで養生していた父アンリが亡くなったのである。マルグリットはのちに作家となったとき、父の故郷デュラスの名前をペンネームとすることになる。
 またも夫に先立たれた母マリーは、1921年、ふたたびインドシナへ渡った。今度腰を落ち着けたのは、サイゴンの南西、メコンデルタにあるヴィン・ロン(Vinh Long)で、ここはメコンの支流サー・デック(Sa Déc)川に面した街だった。d0238372_158410.jpg
 マルグリットが12歳のときの写真が残っている。アーモンド形をした目、黒く長い髪、利発そうな少女が写っている。そしてこの翌年、彼女はサイゴンにあるシャスレー=ロバ女子高等中学校に進学した。ヴィン・ロンとサイゴンはバスで4時間はかかり、普段は寄宿舎で生活して、週末には自宅へ帰った。その度にメコンの支流サー・デック川を船で渡らなくてはならなかった。運命的な出会いは、この渡し船のなかで起こった。『愛人/アマン』ではこう書かれている。
 「メコン川の一支流を渡し船で横断しているとき、ヴィン・ロンとサー・デックの間で、このメコンの支流はコーチシナ南部の一面の泥と稲田、あの「鳥たちの平野」のなかを流れて行く。
 わたしはバスを降り、船の手すりに寄りかかって、川を眺める。(中略)船の上には、バスの隣に、白い木綿のお仕着せを着た運転手がいる黒い大型リムジンがある。それはわたしの色々な本に出てくる陰鬱な大型自動車、モリス・レオン=ボレだ。(中略)リムジンにはとても上品な男が乗っていて、わたしをじっと見つめている。白人ではない。ヨーロッパ流の服装、サイゴンの銀行家たちのような明るい色の絹紬のスーツを着ている。わたしをじっと見ている。わたしはもう男の人からじっと見つめられるのに慣れている。植民地の男たちは白人の女たちをじっと見つめる。(中略)娘は男をまじまじと見る。どういう方なのかと尋ねる。男はパリで学校に行き、そこから帰ってきた者だという。自分もサー・デックの川に面した家に住んでいる。手すりに青い陶器のタイルを張った大きなテラスのある家です。娘は男になに人かときく。中国人です、と男は答える。家族は中国北部の撫順の出身です。よろしければ、サイゴンまで送らせてくださいませんか? 娘は承諾する。男は運転手に命じてバスから娘の荷物を取ってこさせ、黒塗りの自動車に積み込ませる。」
 『愛人/アマン』は自伝的要素が強いとはいえ、告白小説でも私小説でもない。ただここで語られている出会いは現実にあったことで、15歳半ばのデュラス(マルグリット・ドナデュ)は27歳の中国人男性と恋に落ちた。この初恋の相手はフィン・トゥイ・レーといい、華僑の大富豪フィン・カム・トゥアンの息子だった。d0238372_1524013.jpg
 小説で語られる通り、トゥイ・レーの父は1895年、サー・デックに木造の家を建て、1917年には東洋と西洋の折衷スタイルの家に建て直した。この家は現在もそのまま保存されていて、ヨーロッパ風の正面入り口や東洋的なモチーフが多数彫刻された金色に輝くインテリアを見ることができる。床にはフランス製の花柄のタイルが敷きつめられ、螺鈿細工の木製ベッドも当時のままで、トゥイ・レーもここで午睡を楽しんだという。
 写真週刊誌「パリ・マッチ」は、d0238372_1592975.jpg1992年に、「マルグリット・デュラス、愛人見つかる」と題した記事と一枚の写真を掲載した。それはパリ19区のクリシー大通り19番地にあった写真スタジオで、1931年に撮られたもので、なで肩のこの人物がフィン・トゥイ・レーであることが判明した。デュラスはこれを見たときの驚きを、「今朝の『マッチ』は本当に信じられない。トゥイ・レー、T.・H・U・Y・L・Ēという、わたしの中国人の愛人の写真だった」と述べている。
 1975年のサイゴン解放後、フィン家は政府の管理下に移されて、いまはホテルとして観光スポットにもなっている。当時のデユラスもこの家を知っていたが、一度も足を踏み入れることはなかった。トゥイ・レーには婚約者がおり、デュラスもやがてフランスに帰国することが決まっていた。彼らの関係は1年余りで終わりを告げたのだった。
 小説『愛人/アマン』は出版されると権威あるゴンクール賞を授賞し、1992年にはジャン=ジャック・アノー監督の手で映画化された。ヴェトナム南部の風景やかつてのサイゴンの郷愁にみちたたたずまいを背景に、12歳年が離れた中国人青年と白人の少女の道ならぬ恋を描いた映画は人気を呼んだ。ただデュラスは恋愛だけにスポットを当てた映画には不満で、7年後に同じく中国人男性と少女の愛を描いた『北の愛人』をあらためて書いたのだった。
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by monsieurk | 2014-06-23 22:29 | | Trackback | Comments(1)

旅行案内書「ベデカー」

 最近、旅行案内書「ベデカー」を2冊、手に入れた。1冊はフランス語版の『パリとその周辺』、もう1冊は英語版の『南フランス』で、いずれも1914年発行の版である。第一次大戦で被害をこうむる以前のフランスの様子を知る上で、格好の資料である。
 『パリとその周辺』の序文の冒頭には、次のように書かれている。
 「われわれの旅行案内『パリとその周辺』は、1865年に初版が出版されたが、読者に実用的かつ信用できる案内を提供するのを目的としている。これによって時間と費用を節約しつつ、この街の主な観光場所を見てまわることが可能となる。景観の変化を考慮するだけでなく、案内書の客観的価値を高めるために、美術館や権威ある人たちの協力を仰いだ。それでも蒐集品の多くが更新され、バス、路面電車などの変更も頻繁に行われるため、完全な正確さを期すには、出版直前まで内容を見直しても十分ではない。」
 「ベデカー」はその名の通り、ドイツの作家で編集者のカール・ ベデカー(Karl Baedeker、1801-1859)d0238372_1181596.jpgが創刊したもので、第二次世界大戦までは、ヨーロッパでもっとも利用された旅行案内書だった。カール・ベデカーは最初、イギリスのジョン・マレーが出版した『大陸案内』をドイツ語に翻訳し出版していたが、やがて独自の方法で案内書をつくることにした。その最初が『ライン川案内』(1836年)であった。
 その後ベデカーはヨーロッパの主な地域の旅行案内書を、ドイツ語、フランス語、英語で次々に刊行した。ある書誌研究家の調査によれば、1842年から1944年の間の出版件数は、ドイツ語版447冊、フランス語版226冊、英語版266冊に上るという。d0238372_1193341.jpg
 創業者のカール・ベデカーが1859年に亡くなると、事業は三男のフリッツに引き継がれ、所在地もコブレンツからライプツィヒに移された。それでも持ち運びに便利な旅行案内として、コートのポケットに入るサイズ(8折り判、縦16・0×横11・5cm)や赤色の表紙、天、地、小口をマーブル模様に染めた形態は終始変わらなかった。
 「ベデカー」はいち早く日本にも輸入されて、洋行する人たちに重宝された。1900年(明治33)、文部省給費生としてロンドンに留学した夏目漱石、1913年(大正2)年に恋愛事件から逃れるようにパリへ渡った島崎藤村、1921年(大正10)精神医学を学ぶためにベルリンへ出かけた齋藤茂吉などは、滞在する都市の「ベデカー」を携えていた。漱石は渡欧してくる友人茨木清次郎に宛てた手紙(1901年12月18日付け)で、旅装や下宿の探し方を箇条書きにしてアドバイスしているが、そのなかに「ベデカーの倫敦案内は是非一部御持参の事」と書いている。彼らはみなベデカーの旅行案内を片手に、見知らぬ街を歩きまわったのである。
 1914年版の『パリとその周辺』に戻れば、市内の交通機関として、地下鉄、バスと並んで、路面電車(tramway)が出てくる。路面電車は1855年からパリ市内を走っていて、時代ととも動力は、馬車、蒸気機関、圧搾空気、電力と進化したが、市民や観光客の足として大いに利用されたが、1938年に姿を消した。公共交通機関としてはセーヌ川を行き来する船(bateau-omnibus)が2路線あった。1つはシャラントンとオトゥーユを結び、もう1つはテュイルリーとシュレーヌ間を運航していた。「ベデカー」によれば、利用者は船内で料金をはらい、鉄製の白いコインを受け取って、下船のときにそれを返す仕組みだった。料金は路線により異なるが、シャラントン~オトゥーユ間は、夏が20サンチーム、冬は10サンチームだった。寒い冬に船を利用する客は割引料金で乗れたのだろう。このセーヌの足は1900年のパリ万国博覧会のとき、多くの外国人観光客が利用しものだが、やがて他の交通機関の発展とともに廃止されてしまった。
 『パリとその周辺』には16枚の地図と、市街を細かく表示した図39枚、それに地下鉄やバスの路線図がついている。旅行者はこれらを頼りに目的地を探し出せるのだが、この正確な地図を利用したのは旅行者だけではなかった。
 第二次大戦中の1942年4月から5月にかけて、ドイツ軍はイギリスのカンタベリー、ヨーク、バース、エクセターを空爆した。これは連合軍によるリューベック爆撃への報復とされるが、このときドイツ軍が爆撃の目標として選んだのは、軍事施設ではなく、ベデカーの『イギリス案内』に載っている星印のついた名所旧跡だった。それを破壊することでイギリス国民の戦意を挫くのが目的だったことが、戦後のニュルンベルク裁判で明らかにされ、イギリスはこれを「ベデカー爆撃」と呼んで非難した。それほどベデカーの記述は正確だったのである。
 19世紀中葉から20世紀初めのフランスを研究テーマとする私などにとって、世の中の様相が一変した第一次大戦以前の「ベデカー」は貴重な資料である。
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by monsieurk | 2014-06-20 22:29 | 収穫物 | Trackback | Comments(0)

マチネ・ポエティクと三好達治の批判Ⅱ

 中村真一郎は雑誌「近代文学」1947年9月号に、「詩の革命――「マチネ・ポエチック」の定型詩について」を発表した。d0238372_99557.jpgそのなかで彼は、日本の叙情詩はこれまで3度の革命を経験したとして、近江朝廷時代の短歌形式の誕生、戦国時代に連歌から俳句が生まれたとき、さらに明治維新直後の新体詩の誕生をあげる。その上で、自分たちの押韻定型詩の試みが4回目の詩の革命になると宣言する。
 「現代の絶望的に安易な日本語の無政府状態を、矯め鍛へて、新しい詩人の宇宙の表現手段とするためには、厳密な定型詩の確立より以外に道はない。(それが如何に困難であらうと)『歌経標式』以来、千年にわたる我々の詩人たちの夢であった、韻の問題も、此処で始めて実現過程に入るであらう。中世以来、専ら西欧詩人達のみの形成に役立って来た此の「双生児の微笑」を、我国の抒情詩の第4回の革命のための武器として、我々は再び東洋の手に奪還する。」
 『マチネ・ポエティク詩集』にも、ほぼ同趣旨の「序」が付されていている。署名は「同人」とあるが、明らかに中村真一郎が書いたものである。では、彼らが「詩句を永遠の決定的配置にうつした」という詩は、どのようなものか。
 中村真一郎の「真昼の乙女たち」を引用してみよう。

  遠い心の洞のなか
  扉のひらく時を待ち
  乱れて眠る赤はだか
  緑の髪の娘たち

  
  白い泉の畔りには
  しじまを染めて立昇る
  炎 記憶の燃える岩
  仄かに明日は透きとほる

  
  《廻れ日時計、洩れよ砂!》
  真昼を響く天の声
  《夢は梢に、夜は散るな!》
  揺らめく水面 影はどこへ?

  
  遠い寝息に聞き耽る
  鳥の翼に風の立ち
  明るく窓を押し開ける
  赤い巻毛の乙女たち

  
 第1節から第4節まで、頭韻は、「と、と、み、み、 し、し、ほ、ほ、 ま、ま、ゆ、ゆ、 と、と、あ、あ」とAABBという形式を踏み、脚韻は、「か、ち、か、ち、 は、る、は、る、 な、え、な、え る、ち、る、ち」とABABとなっている。一定の音数と押韻を踏まえ、技巧をこらしたつくりだが、一読して詩から受けるのは、藤村などの新体詩に通じる甘美だが古めかしい印象である。
 詩集が刊行された直後、三好達治は、d0238372_9105754.jpg「マチネ・ポエテイクの試作に就いて」(「世界文學」、1948年4月号)で、次のように批判した。
 「奥歯にもののはさまつた辞令は、性分ではないから、最初にごめんを蒙つて、失礼なことをいはしてもらはう。まづ、同人諸君の作品は、例外なく、甚だ、つまらないということ。諸君が危惧してゐられるやうに、決してそう難解ではないが、私にはいつかうつまらなかつたといふこと。詩に於ける難解といふことはその詩の魅力と並立してこそ、はじめて成立ちうる性質の難解であつて、魅力を欠いた孤立した難解といふやうなものは、昼まのお化けで、ありつこない。」
 三好はこう一刀両断にした上で、日本語で押韻定型詩を書くことが難しい理由を3つあげる。第1は日本語の声韻的性質である。日本語は「常に均等の1子音1母音の組合わせで、フィルムの1コマ1コマのやうに正しく寸法がきまつて、それが無限に単調に連続する」ために、押韻は「読者の注意を喚起しない」。つまり脚韻の効果自体が乏しいのである。
 第2に、「命題の末尾(原則として脚韻の位置)を占める動詞の数は、中国語や欧羅波〔ヨーロッパ〕語の場合当然その位置を占めるべき名詞の数に比して、比較にもならぬ位その語彙は少数」であるため、窮屈な貧しさを露呈してしまう。主語・述語・目的語の語順をとるヨーロッパの言語では、文末には名詞がくることがほとんどで、名詞の数が圧倒的に多く音も多様である。一方、主語・目的語・述語となる日本語では文末に動詞がくるが、それは名詞に比して数が少ないうえに、子音プラス母音でなりたつために、脚韻は、a、i、u、e、o、などごく限られたものとなる。三好が指摘するのはこうした事実である。
 三好はその上で、マチネ・ポエティクの人たちの実作には、「文章語脈ないし翻訳口調の、入り乱れて混在する」といい、そのため「いかにも不熟で、ぎこちなく、支離滅裂で、不自然」な印象を免れないと批判した。これは長年日本語を用いた詩作に苦心してきた三好自身の苦悩の表明でもあった。
 それは「文章語脈の形式性」が、十分に「きり崩されて」おらず、だからといって、「現在の口語脈」は未成熟であり、加えて「翻訳語脈」が日常語に不用意に侵入している日本語の現状への危惧であった。こうした不備を意識してきた抒情詩人には、マチネ・ポエティクの試みは、いかにも安直なものにみえた。そこには必然性がなく、詩的感動も認められなかった。
 三好達治の批判を受けた「マチネ・ポエティク」は、その後グループを解散した。福永武彦は三好達治への追悼文で、「戦後、私が友人たちと定型詩を試み「マチネ・ポエチック詩集」を出した時に、三好さんは鋭い批評を下された。好意的悪評といったものだったが、三好さんの位置が、その発言に権威あらしめたために、この批評は決定的に私たちを敗北させた」(「天上の花」、文藝、1964年6月号)と回顧している。
 ただ、三好が提起した日本語の特徴は、一グループを解散に追い込んだだけでなく、そもそも日本語で詩を書くことの根本的困難を詩人たちに突きつけるものだった。中村真一郎は雑誌「詩学」の1950年4月号に載せた「マチネ・ポエチックその後」で、こう書いた。
 「戦後に書かれた、幾多の人の作品を手にして見る時、筆者はそこに、現代日本語の持つ複雑な難関の中に殆ど大部分の偉れた作品が、陥没して、詩的完成が妨げられてゐるを発見する。勿論、言語の混乱は、殆ど、世界的現象である。(中略)T・S・エリオットのやうな人は、ジェームス・ジョイスが小説で行ったのと同じやうに、凡ゆる時代の凡ゆる国語を、現代の自分の生活する環境の中で捉へられるかぎり集めて、そこから強い現実的感情を表現する素材を発見したやうに思はれる。又、一方、それと対極にあると思はれるヴァレリイのやうな人は、最も永持ちする確かな言葉だけで、可能な限り純粋な作品を結晶させた。しかし、エリオットもヴァレリイも、いずれの場合も、根底に、完成した美しい自国語を持つてゐる。その土台の上で、此の両極端が成立し得た。
 それに反して、我々の現代日本語(口語)は、成立以来、僅かに百年、しかも、その百年間は、国民全体の上に、歴史にとつて全くと云へる程の非連続な異質の文明が押しかかり、暴力的と思へるまでに、急速で無理な発展が行われてゐた時期である。国語は新事態に適応するために、次々と新陳代謝を繰り返し、愈々不様なものとなりつつある。美しい格調と品位のある現代語は、これを、宮廷にも舞台にも街頭にも、家庭にも工場にも、農園にもどこにも、発見することは出来ない。(中略)日本語は、文学語としてのみでなく、日常語としても殆ど耐え難い程、悲惨なことになつた。
 冷酷な評者が、現状に於いては賢人ならば、詩を書かぬだらうと断定するのも、当然である。」
 中村真一郎はこう述べた上で、それでも「美学的信念として、定型こそ、詩の不可欠の必要条件であると信じてゐる。そして、定型への模索は、実作によつて、一歩一歩進められるべきであることも疑はない。」と書いている。
 同号には、グループ解散後もただ一人、押韻定型詩を探求し続けた原條あき子の、「やがて麗しい五月が訪れ・・・」が載っている。

  
   やがて 麗しい五月が訪れ
   白い泡に燃えるリラの花花
   香にむせぶくちなしは窓の外れ
   夕 沈む陽の赫さ おだやかな
   やがて 麗しい五月が訪れ

  
   あなたはその雄雄しい頭をあげ
   疲れた腕のかたち 靄にうるみ
   胡桃の椅子の彫に浮くおもかげ
   わたしを抱く胸は果てしない海
   あなたはその雄々しい頭をあげ

  
   流れるゆるやかなメロディに酔ひ
   想ひみる船出 波の色増して
   わたしたちが憧れるはるかな世界
   傾ける玻璃の盃を透かして
   流れるゆるやかなメロディに酔ひ

  
   わたしたちの後に 愛の灯り
   頬よせ並ぶ優しい心の輪
   ひそかに囁かれる昔語り
   あどけない天使もまざる団欒は
   わたしたちの後に 愛の灯り

  
   ながい一日の終わり 言葉なく
   匂ふ着物の襞飾りかかげて
   神秘の夜を待ちながら またたく
   睫毛の翳 さながら望み濡れて
   ながい一日の終わり 言葉なく

  
   やがて 麗しい五月訪れ
   わたちたちをかこむととのひの時
   かなしみはたそがれる茂みに隠れ
   すべては融けるくちづけに この時
   風のためらひ甘い夕訪れ

  
 この後も、日本語で詩を書くことに意識的な人たちの苦闘は続いた。中村稔の『無言歌』(1950年)や、谷川俊太郎の『六十二のソネット』(1953年)などがその成果の一つであり、飯島耕一なち「中庭」のグループの押韻定型の実験(1991年以降)も、新たな定型詩をめざす果敢なこころみであった。
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by monsieurk | 2014-06-17 22:30 | | Trackback | Comments(0)

マチネ・ポエティクと三好達治の批判Ⅰ

 水声社から、『マチネ・ポエティク詩集』が再刊された。原本はフランス装、174頁で、眞善美社から1948年7月に出版されたものである。定価は100円で、学生時代に夕方の散歩の途中、本郷通りを東大正門から弥生町交差点に向かって少し行った左手の古本屋の棚で見つけたのを覚えている。古本屋はずいぶん前に店じまいしてしまった。
d0238372_15272033.jpg  この度の再刊を知らせる水声社の広告にはこうある。「戦中期を生きた若き詩人たちによる日本語定型押韻詩の反時代的的試みが今甦る。」
  マチネ・ポエティクは、1942年秋から毎月一回、同人の加藤周一の家で、各人が自作を朗読して披露する集まりだった。参加者は、福永武彦、中村真一郎、白井健三郎、中西哲吉、窪田啓作、加藤周一、山崎剛太郎、小山正孝、原條あき子、枝野和夫であった。発表された作品はほとんどが詩で、それも脚韻をもつ定型詩だった。それは例えば次のようなものである。福永武彦の「火の鳥」の第一節、第二節を引用してみよう。

   死の馬車のゆらぎ行く碑はめぐる
   旅のはて いにしへの美に通ひ
   花と香料と夜とは眠る
   不可思議な遠い風土の憩ひ
  

   漆黒の森の無窮をとざし
   夢をこえ樹樹はみどりを歌ふ
   約束を染める微笑の日射
   この生の長いわだちを洗ふ
   ・・・・・・・・
  
  ここでは句末が、「る、ひ、る、ひ、 し、ふ、し、ふ」と、ABABと交韻を踏んでいる。
彼らが戦時中に押韻定型詩の創作に固執したのには理由があった。
  日本の文壇、とりわけ詩人たちが、星や菫をうたうだけで、政治的社会的批判を避けて保身を計って来たが、彼らが学んだフランスのフランスの詩人たち、たとえばルイ・アラゴンなどは、「平和な時代の彼自身がそうであったよりも、はるかに意識的な態度で、詩作に臨んだのである。おどろくべきことだが、アラゴンは、抵抗を通じて自己を国民的感情のなかにおくとともに、フランスの詩の伝統のなかに身をおき、詩作の厳密な方法をわがものとした。」そして、「詩の形式の制約が厳しければ厳しいほどその形式のなかで自己を実現する自由もまた大きいという原理」を示したと、加藤周一は『抵抗の文学』(1951年3月刊)と指摘している。
  加藤が頭に浮かべていたのは、アラゴンの代表的詩集『エルザの瞳』(Louis Aragon:Les Yeux d'Elsa, Neuchâtel, Edition de la Baconnière,1942) の緒詩篇である。恋人エルザ・トリオレに仮託しつつ創作された詩篇は、愛する人とドイツに蹂躙された祖国フランスをうたったもので、中立国スイスで刊行された詩集は多くの読者の手から手に渡った。
 中村真一郎、福永武彦、加藤周一たちはこうした例から刺戟をうけて、押韻定型詩をこの国にも誕生させることを考えたのである。そして彼らは敗戦直後、戦中に書き溜めた詩篇を発表し、それを起爆剤として、戦後社会で文学がはたすべき役割と詩の革新を主導しようとした。(続)
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by monsieurk | 2014-06-14 22:30 | | Trackback | Comments(0)

活版印刷

 大分の友人が車で出勤の途中に聞いた、FM放送の内容を知らせてくれた。この前会ったとき、活版印刷のことが話題になっていたからである。放送は金沢で活版印刷をはじめた松永紗耶加さんという女性の話題だった。
 松永さんは自分の作品を活版印刷で出版しようとして、富山の高橋印刷を探し当てて印刷を依頼した。その後、もう一度自作の印刷を頼むと、高橋さんから、道路の拡張工事のため印刷所をやめると云われた。活字は溶かされて金属として売られると聞き、松永さんは印刷の道具を譲り受け、その後高橋さんの許に通って、版の組み方、活字の並べ方など一から教えてもらった。こうして2012年に、金沢市で印刷所「ユートピアノ」を立ち上げ、いまは注文をうけて名刺などを活版印刷でつくっている。放送はこんな内容だったという。
 活版印刷は凸状に文字を彫った金属(主に鉛合金)の活字の一字一字に、インクをつけて紙に写す印刷方法で、明治初期からずっと印刷の主流だった。d0238372_1540473.jpg だが1970年代にオフセット印刷がはじまると急速にすたれ、いまではほとんど用いられなくなった。活版印刷では紙に活字を押しつけて印刷するので、紙にかすかに凹凸がのこり、その手触りや風合いはオフセット印刷とはまったく別物である。70年代以前の古書からは、こうした手触りを感じることができる。
 安保反対運動が盛んだった1960年代初め、編集長をつとめた「東大教養学部新聞」は、新橋にあった「時事新報」系の印刷所で刷ってもらっていた。当時すでに「時事新報」は印刷しておらず、主に学生新聞やチラシなどの印刷を行っていたが、月に一度、輪転機の騒音につつまれながら、ベニア板で仕切られた校正室で赤インクまみれに校正をしたものだった。たしかゲラを4校まで取り、そのたびに年輩の植字工の人が活字をひろって版組を修正してくれた。d0238372_15424294.jpg 4校に朱を入れて、校了のしるしに、ゲラをまるめて旗のようにして版組の端に立てた瞬間の安堵感を忘れないでいる。
 宮澤賢治はこうした植字作業を、『銀河鉄道の夜』で描いている。主人公のジョバンニがアルバイトをしている活版処での場面――
 「中はまだ昼なのに電燈がついてたくさんの輪転器がばたりばたりとまわり、きれで頭をしばったりラムプシェードをかけたりした人たちが、何か歌うように読んだり数えたりしながらたくさん働いて居りました。
 ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子に座った人の所へ行っておじぎをしました。その人はしばらく棚をさがしてから、
「これだけ拾って行けるかね。」と云いながら、一枚の紙切れを渡しました。ジョバンニはその人の卓子の足もとから一つの小さな平たい函をとりだして向うの電燈のたくさんついた、たてかけてある壁の隅の所へしゃがみ込むと小さなピンセットでまるで粟粒ぐらいの活字を次から次と拾いはじめました。」
 文字が左右反対になった大小の活字がいっぱい並ぶ活字棚(ウマと呼ぶ)から、必要な活字を探し出して文章を組み立てる作業は、慣れないと簡単にはできない。宮澤賢治は1921年(大正10) 1月、上京して日蓮宗の国柱会本部で高知尾智耀と会い、本郷菊坂に下宿して、街頭布教を手伝うとともに、印刷の校正や筆耕をし、時間があると童話を書いた。
 そして1924年(大正13)4月には、詩集『春と修羅』を自費出版した際は、印刷を頼んだ花巻の「大正印刷所」で活字拾いの手伝いをした。こうした体験が、『銀河鉄道の夜』の印刷所の場面に生かされている。ちなみに『銀河鉄道の夜』の初稿が書かれたのは1924年12月のことである。
 活版印刷をめぐるもう一つの話題――
 2011年3月11日の大震災は各地に大きな被害をもたらした。群馬県高崎市にある広栄社印刷所は、オフセット印刷と平行して活版印刷も行っていたが、高崎は震度5強の地震に襲われ、厖大な活字がすべて活字棚から落下してしまった。これを元に戻すのは至難で、活版印刷をやめることを考えたという。
 この話がネットなどで伝わると、群馬県を中心として活動しているNPO法人「ジョウモウ大学」が、d0238372_1544529.jpg成人を対象とした授業の一環として、広栄社印刷所の活字を元にもどす作業をすることにした。授業では2011年12月から希望者を募り、復旧作業がはじまった。やがて印刷所は活版印刷を続けることができ、いまでは「ジョウモウ大学」に「活字部」が誕生して、活版印刷の技術を継承して印刷の依頼にも応じているという。活版印刷で刷らるものは仕上がりが違い、そのよさを知った人たちから注文が増えている。
 調べてみると、活版印刷を行っている印刷所は各地に点在する。念願であるステファヌ・マラルメの詩篇を翻訳し終えたら、小部数を活版印刷で刷って本をつくるのが夢である。
 
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by monsieurk | 2014-06-11 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)

論文点検ビジネス

 今回もIT技術の進歩が教育分野にあたえている影響について取り上げる。
 朝日新聞の2014年5月29日付け朝刊の科学面に、「論文 広がる点検ビジネス」というタイトルの記事が載った。リードには、「論文不正問題が注目される中、他の論文を写した部分の点検など論文不正を調べるシステムを導入する大学が増えている。新しいサービスも始まり、点検ビジネスは拡大中だ。」とある。d0238372_10121531.jpg
 こうした点検ビジネスを利用することは、欧米の大学ではいまや当たり前になっている。フランスのグラン・ゼコールでマーケティングの講座の教師をしている娘から聞いた話では、期末試験では、学生に論文の提出を課しているが、提出された論文は教師の手に渡る前に、点検を専門とする企業に送られて事前の確認が行われる。企業はアメリカ製のソフトを導入していて、このソフトにかけると、これまで蓄積された文書と類似のものを検出して、類似度のそかコピーしと思われる元の論文名を知らせてくるという。教員は結果を受けて、類似度が3%から5%以下の論文だけを採点し、コピー部分がそれ以上のものは、最初から採点の対象とせずに赤点をつける。このシステムを使い始めてほぼ10年になるという。d0238372_10134063.jpg
 以下は朝日新聞の記事を参考にして、点検の仕組みを見てみよう。日本を含めて多くの大学で採用されているのは、アメリカのiParadigm社製のシステム「iThenticate(アイセンティケイト)」で、このシステムはインターネット上の450億以上のウェブページ、ジャーナルや本に掲載されている3880万件以上の理系・医学系の論文やレポート、文系の9200万件の論文、リポート、要旨をデータ・ベース化していて、研究者や学生の論文をネット経由で送ると、運営会社はデータ・ベースと照らし合わせて、数分で既存の文書との類似個所を検出してくれる。欧文の場合は文中の単語がスペースで区切られているので、検索は比較的簡単である。この他にも同じ企業が主に学生の論文の点検用に製作した「Turnitin(ターンイットイン)」というソフトも存在する。
 日本語の論文に関しても、国産ソフト「コピペルナー」が開発されていて、300以上の大学で教員が利用しているという。日本語の論文の場合は単語ごとに区切られていないため、長い文章を単語に分けて、各語を含む文章をネットやデータ・ベースのなかで探す。この作業を繰り返して、類似の文章(コピーをした可能性のある文章)を検出する仕組みで、利用の費用は凡そ4万円である。
 日本では最近になって利用が急速に増えたが、きっかけはSTAP細胞に関する論文問題がきっかけだったのは言うまでもない。iThenticateの場合は、利用条件にもよるが、年間80万円から300万円で、早稲田大学が2012年にはじめて導入し、現在12大学と4つの研究機関が契約して活用しているとのことである。
 こうした点検ビジネスが繁盛するのも、研究者のモラルの問題ともに、簡単に他人の研究成果をコピー・アンド・ペイストできるようになったIT技術の進歩が少なからず影響している。ちなみに2点の写真はネット上で公開されているものをコピ-・アンド・ペイストしたものである。

  
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by monsieurk | 2014-06-08 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)

本を読まない大学生

 最近、本を読む大学生が極端に少なくなっている。全国大学生活協同組合連合会が行った学生生活調査によると、本を一日平均10分から30分読む大学生が16.2%、30分から60分が20.7%。では一番多いのはどのくらいの時間か? 40.5%の学生が一日に本を読むのは0時間、d0238372_8385592.jpgつまり一日にまったく本を読まないと答えたという。大学生協は大抵大学内に書店を開いているから、学生に本を読ん欲しいわけだが、調査をはじめた10年前の2004年以来、一日にまったく本を読まない学生が4割を越えたのは初めのことである。
 学生のほとんどが携帯を持っていて、それで頻繁に情報を交換する。メール、ライン、ツイッター、フェイスブックなどの手段は、いま起きている事柄についての情報交換に便利で、その意味では横のコミュニケーションに適している。それと比べて、本は情報や知識の縦の伝達を担うものである。
 これはフランスの思想家レジス・ドブレの考えで、コミュニケーション(communication)とは、基本的には空間内で情報をやりとりすることであり、伝達(transmission)は、時間を通じて情報を伝えるものと、両者を区別している。時間を通しての情報や知識の伝達は、過去に蓄積された知識や情報を後の世に伝えることで、文化は主にこの形で伝えられる。本はそうした過去の文化的蓄積を今日に伝える重要な手段である。
 この場合、本とは紙に印刷されたものばかりでなく、電子化されたものを読むのでもいい。本が電子化されることで、遠くの図書館にしかないものでも、自宅のパソコンで読めるようになれば大変便利である。これはIT技術がもたらす恩恵だが、さらにネットの活用は教育の分野で新しい動きを生み出している。
 授業を大学のキャンパス内に閉じ込めるのではなく、広く世間に公開することで高度な知識を広める動きが、世界の大学で広まっている。オンライン公開講座と呼ばれるもので、日本でも新学期の4月14日から、「日本オープン教育推進協議会」が授業の公開をはじめた。例えば「放送大学」は、授業をテレビとラジオで視聴して学ぶシステムだが、いまでは多くの講義をインターネットでも公開している。こうした「オープン・オンライン教育」(略してMOOC・ムーク)はアメリカの大学が進んでいて、たとえばカリフォルニア大学アーバイン校では1200以上の講義がネット上に公開されている。
 学生以外も授業をネットで受講でき、一つのコースをとるとリポートや試験が課され、それをクリアーすれば単位も与える仕組みである。ただ試験やリポートの部分は有償の場合が多いが、世界中の大学のすぐれた授業を外国からも受けることができる。そこに競争が生まれて、自ずと授業の質も改善されることが大いに期待できる。
 そうなると大学に通うことはなくなるのか? 授業を受けるだけなら、大学に足を運ばなくてもよいかもしれないが、大学教育の大きな目的は、話し合い、議論をぶつけ合って知識を深め、物事を考える、その仕方を身に着けることである。IT技術の発達でこうした意見交換(インターラクテイビティ)が可能になった。それでも教師と学生、学生同志が同じ場を共有して顔をあわせ、対話することは欠かせない。教育は単に知識のやりとりではなく、人格的な形成の場なのである。
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by monsieurk | 2014-06-05 22:30 | | Trackback | Comments(0)

 横浜本牧にある三溪園に蛍を観に行ってきた。三溪園は横浜の生糸貿易で財を成した実業家、原三渓(富太郎)が遺した庭園で、17・5hある日本式庭園に、17棟の日本建築が点在する。岸辺に杜若が植わる大池の東側、旧燈明寺から移築した三重塔の先の小川の周囲に闇が迫るころ、蛍がほのかな明かりを点滅しはじめる。d0238372_1652965.jpg
 鑑賞のための道には、所々小さな蛍光灯が置かれているだけで、蛍は川とそれを被う木々の間を低く高く飛び交い、灯りを点滅させる。そのたびに周囲で遠慮がちな歓声があがる。
 たまたま一匹が近くに飛んできて、葉の先にとまった。両手でそっとつつみ込むと、上手く捕えることができた。それを2歳半の孫の掌に移すと、逃げずにそこでも点滅を繰り返す。小さな掌を組み合わせた内側が明るくなったり暗くなったりする。灯りは幼い指を透かして外側へも洩れてくる。それを見ながら、梶井基次郎の「橡の花」の一節を想った。
 「しばらくして私達はAの家を出ました。快い雨あがりでした。まだ宵の口の町を私は友の一人と霊南坂を通って帰ってきました。(中略)我善坊の方へ来たとき私達は一つの面白い事件に打(ぶつ)かりました。それは蛍を捕まえた一人の男です。だしぬけに「これ蛍ですか」と云って組合わせた両の掌の隙を私達の鼻先に突出しました。蛍がそのなかに美しい光を灯していました。「あそこで捕ったんだ」と聞きもしないのに説明しています。私と友は顔を見合わせて変な笑顔になりました。やや遠離(とおざ)ってから私達はお互いに笑い合ったことです。「きっと捕まえてあがってしまったんだよ」と私は云いました。なにか云わずにはいられなかったのだと思います。」
 友人への手紙の形式をとった小説で語られる逸話である。孫が掌をひろげると、蛍は闇の空間に飛び去った。
 意図して蛍を見た最初は、いま孫を連れている息子がまだ幼稚園児で、夏休みに大分の湯布院へ出かけたときだった。わたしが子どものころは、吊った蚊帳のなかに蛍を放した記憶がある。焼け跡が残る東京でも、梅雨前にはあちこちで蛍が飛ぶのが見られた。採った場所の記憶がないのは、どこにでもいたからだろう。d0238372_1664631.jpg
 京都の岡崎ですごした6年間は、毎年すぐ近くの哲学の道沿いの疎水へ蛍がりに出かけた。蛍が飛びはじめると、どこからか情報が伝わってくる。若王子から銀閣寺参道までの間をゆっくりと蛍を見てあるく。途中、橋の袂に大きな桜が水面近くまで枝をのばしている処があり、そこは一段と闇が深く、蛍の光も栄えた。蛍の数は年によって多少があるが、疎水には蛍が好むカワニタが多く、京都名所の一つだった。今回はそれ以来の蛍見物だった。

 草を打(うつ)て蛍いつはる団(うちわ)かな
 堀川の蛍や鍛冶が火かとこそ
 ほたる籠破(や)れよとおもふこゝろかな

 いずれも蕪村の「夜半叟句集」から。
 
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by monsieurk | 2014-06-02 22:29 | 取材体験 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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