ムッシュKの日々の便り

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パブロ・ネルーダⅣ

 1970年、ネルーダはチリの大統領候補に指名されたが、最終的には社会党の候補者で左翼共同戦線の統一候補となったサルヴァドール・アジェンデの支持にまわった。この結果、アジェンデは民主的な選挙によるはじめてチリ大統領となった。d0238372_12112865.jpg写真はアジェンデ(左)と並ぶネルーダである。
 アジェンデはネルーダを駐フランス大使に任命し、2年にわたって大使をつとめ彼は、この間、チリがヨーロッパ諸国やアメリカに負った負債の軽減交渉に当たった。ただこの2年のパリ駐在中、ネルーダは健康を害し、肺疾患が次第に悪化した。
 1971年、ネルーダはノーベル文学賞を受賞した。選考にあたって異論がでたのは冒頭に紹介したとおりだが、彼の作品の多くをスウェーデン語に翻訳した、アルチュール・ランドヴィストなどの強力な推薦が功を奏した結果だった。そして何よりも、その長年にわたる文学的営為は、ノーベル文学賞に十分に値するものだった。彼はストックホルムでの授賞スピ-チで、「ひとりの詩人は同時に連帯と孤独への力だ」と語った。
 1973年9月11日、チリではピノチェト将軍によるク・デタが起こり、民主的に樹立されたアジェンデ政権は武力によって倒された。ネルーダが心臓病のために、祖国のサンタ・マリ病院で死去したのは、このク・デタの12日後、9月23日の夕方だった。埋葬の日には、多くの人たちが街頭に出てその死を悼んだ。
 これが政権への抗議の機会となることを恐れたピノチェトは、大量の警官を動員して取り締まりにあたった。さらに数週間後には、ネルーダの家が警官隊に襲われ、本や原稿は持ち去られるか破り捨てられた。d0238372_1213416.jpg
 1974年、彼の回想録が、『私は告白する 私は生きた』というタイトルで出版された。そこにはピノチェトや他の将軍たちによるモネダ宮殿(大統領官邸)襲撃と、アルバドール・アジェンデの最後に関する記述も含まれていた。
 ピノチェトが去り、チリが民主化された後の2011年6月、一人の判事が、ネルーダがピノチェト政権によって毒殺された疑いがあるとして、死因について調査を行うように命じた。12月、チリ共産党はマリオ・カロサ判事に、ピノチェト政権下の1973年から1990年までの間に虐殺されたとされる数百人の遺体を掘り出して、あらためて調査するように申請した。d0238372_12135626.jpg
 ネルーダが転々としたい3個所の家は、現在記念館として一般に公開されている。そして彼が生涯に残した多くの詩篇は、スペイン語で書かれたもっとも美しく力強いものとして民衆に愛唱されている。

 
 「おお、チリよ、海とぶどう酒と
  雪の細長い花びらよ
  ああ、いつ
  ああ、いつ いつ
  ああ、いつまたお前に会えるのだろう?
  また会うそのとき
  お前は白と黒の泡のリボンを
  俺の身にまきつけてくれるだろう
  そしてお前は、お前まえの領土に
  俺の詩を解き放とう
 
  あそこには、なかば風で、なかば魚の
  人たちもいれば
  また水でできている人たちもいる
  だが、俺は土でできているのだ・・・」(『ぶどう畑と風』)

 パブロ・ネルーダの祖国チリへの愛はどの詩篇にもあふれている。
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by monsieurk | 2014-07-29 22:30 | | Trackback | Comments(0)

パブロ・ネルーダⅢ

 1943年にチリに帰国したネルーダはペルーを旅行して、マチュ・ピチュを訪れて強い感銘をうけた。

 
  「マチュ・ピチュよ
   大地の梯子をよじのぼり
   消えうせた森の肌を刺す藪の中を
   わたしはおまえの処まで登ってきた
   山のてっぺんの都市よ 石の階段よ
   大地も死の経帷子のなかに隠さなかった者の住処よ
   おまえの中には二本の平行線のように
   稲妻の誕生と人間のそれとが
   棘のような嵐の中に息づいている
   ・・・・・」(『マチュ・ピチュの頂き』)

 
 ネルーダと同世代の左翼知識人は、スペイン内戦を通してスペイン共和派を支持し続けた。その代表的存在がイギリスのジョージ・オーウェル、アメリカのヘミングウェイ、フランスのアンドレ・マルローたちであった。しかし国際義勇兵の一員や飛行隊長としてスペインの戦場に立った彼らは、やがてソビエトの内部事情やスターリンの打算を見抜いて離れていく。
 一方ネルーダは、1945年3月、共産党に推されて立候補して上院議員に当選した。その4カ月後には正式に共産党に入党し、d0238372_10252697.jpg翌46年の大統領選挙では、左翼共同戦線の候補ゴンサレス・ヴィデラのためにキャンペーンを取り仕切り、ヴィデラは当選した。だが大統領になるとアメリカと手を握り、共産主義者を弾圧するようになった。ネルーダは上院でヴィデラの裏切りを弾劾する「私は告発する」という演説を行ったため、ヴィデラは逮捕令状をもってこれに応え、ネルーダは地下に潜らざるをえなかった。彼と妻は支持者の家から家を隠れ歩いた。やがて共産党は非合法化され、2万6千人が選挙権を剥奪された。
 ネルーダはやむなく外国に亡命して3年間を過ごすことになった。アルゼンチンのブエノス・アイレスにいたとき、将来のノーベル文学賞受賞者で、当時グアテマラ大使館の文化アタシェだったミグエル・アンヘル・アストゥリアスと顔形が似ていることを利用して、彼のパスポートを使ってヨーロッパへ行き、パリで開催された「国際平和会議」に突如姿をあらわした。ネルーダはその場で詩を朗読し、会場から熱烈な拍手をうけた。詩人のために色々と骨をおったのは画家のピカソだった。このニュースで面目を失ったチリ政府は、彼の出国という事実自体を否定した。
 ネルーダはその後も、フランス、イタリア、チェコスロバキア、ソビエト、中国を旅行してまわり、1952年に祖国へ戻った。この間もその後も彼の旺盛な創作意欲は衰えなかった。詩集『大いなる歌』(1950年)、『ぶどう畑と風』(1954年)、『エレメンタルなオード集』(同年)、『旅』(1955年)、『新しいエレメンタルなオード集』(同年)を次々に発表した。
 ネルーダは1953年に「スターリン平和賞」を受賞し、この年にスターリンが死去すると、スターリンを悼むオードを書いた。こうしたネルーダについて、長年の友人だったオクタヴィオ・パスは、「ネルーダは次第にスターリニストになっていった。一方、私は年々スターリンから離れた。それでもネルーダを彼の世代のもっとも偉大な詩人であるというのを惜しまない」と語っている。
 1956年のソビエト共産党第20回大会で、フルシチョフは有名なスターリン批判を行い、独裁や大粛清などの歴史的事実が公けにされ、ネルーダもスターリンへの個人崇拝を悔やむことになるが、コミュニズムへの信頼は揺らぐことはなかった。
 彼の詩集は世界の主要な言葉に翻訳され、その政治的立場にかかわらず高い評価をえた。ネルーダの自らの政治的立場を隠そうとはしなかった。d0238372_1028130.jpgキューバ危機やヴェトナム戦争ではアメリカの政策を正面から批判した。
 彼の発言は、政治的に敵対する勢力にとってきわめて厄介なものだった。アメリカのCIAが資金を出して設立された「文化の自由のための協会」という反共団体は、ネルーダを主要な標的にした。ネルーダが1964年のノーベル文学賞候補に押されたときには、彼が過去にトロツキー暗殺に加担したという虚偽の宣伝を広め、結局この年の文学賞はジャン=ポール・サルトルに決まったが、サルトルは授賞を辞退した。(続)



 
 
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by monsieurk | 2014-07-26 22:30 | | Trackback | Comments(0)

パブロ・ネルーダⅡ

 ネルーダは1921年には、アルベルト・ロハス・ヒメネスが編集長をつとめる学生新聞「クラリダード」に協力するとともに、多くの政治的デモに参加した。彼はのちに、「このときから、政治がわたしの詩と人生に入り込んで来た。詩から街の動きを閉めだすのは不可能だったし、同様に、若い詩人の心から愛と、人生の喜びと悲しみを閉めだすのも不可能だった」と述べている。
 そんな彼は1923年になる、持っていた家具と父親からプレゼントされた時計を売った金で、詩集『黄昏』を自費出版した。そして翌1924年には、d0238372_1114539.jpg
『20の愛の詩と1つの絶望の歌』が刊行された。「これは私が大好きな本だ。ここには深い憂鬱にもかかわらず、生きる歓びがある・・・『20の愛』には、学生街、大学、スイカズラの匂い、共有された愛の思い出など、サンチャゴの“ロマンス”がつまっている」と述べている。
 その冒頭の一篇「女の肉体」――

 「女の身体は、いくつもの白い丘と白い太腿
  お前は世界にも似て、降参して横たわっている
  ぼくのたくましい農夫の肉体はお前のなかを掘って
  大地の深みから息子を躍りあがらせる

  ぼくはただのトンネルだった。鳥たちはぼくから逃げさり
  夜はその破壊する力でぼくに襲いかかった。
  生き残るためにぼくはお前を武器のように鍛えなければならなかった
  いまやお前はぼくの弓につがえる矢となり、石弓に仕込む石となった。

  だが復讐の刻が過ぎ、ぼくはお前を愛すのだ
  なめらかな肌と苔と乳のある、貪欲でどっしりとした女の身体よ
  ああ、壺のような乳房! ああ、放心したようなその眼!
  ああ、恥骨のほとりの薔薇! ああ、お前のけだるそうでもの悲しげな声!

  ぼくの女の身体よ、ぼくはお前の美しさの虜になる
  この渇き、果てしない欲望、ぼくのくねる道。
  ほの暗い河床には、永遠の渇きが流れ
  疲れが流れ、はてしない苦悩が続く。」(翻訳は上の写真の、Claude Couffon et hristian Rinderknechtによるスペイン語とフランス語の対訳によった。)

 ネルーダが20歳で刊行したこの詩集は、多くの言語に翻訳されて国際的な評価をえた。「女の肉体」では、女の肉体を丘や道などに喩える暗喩(アナロジー)は具象的で分かりやすい。これはネルーダの特徴であって、各国語に訳された詩集は100万部をこすベストセラーとなる。だがチリで再版されるのは1932年のことであり、ネルーダはあいかわらず貧しかった。ネルーダは詩作をつづけ、1926年には詩集『無限なる人間の試み』と散文詩集『指輪』を続けて刊行した。
 大学を卒業したネルーダは、フランス語教師になる道をあきらめ、1927年にはミャンマー(旧ビルマ)のラングーン駐在の領事に任命されて、外交官生活をスタートさせた。なぜ外交官になったのか、彼は『回想』で次のように明かしている。
 チリ人はみな旅行好きで、ネルーダもご多分に漏れなかったが金がない。そこで外国へ行くために領事になることを思いつき、外務省へ行ってポストを与えてくれるように頼んだという。外務省の事務室には世界地図がかかげてあった。彼が赴任するように命じられたのは地図に穴の開いている場所だった。それがビルマのラングーンだったというのである。こうしてネルーダのアジア滞在がはじまった。
 ラングーンに赴任すると、旧ビルマだけでなくアジアの各地を訪れた。どこもこれまで名前を聞いたことがない土地だったが、この旅の体験は創作の上で多くの素材を提供してくれた。こうしてネルーダは外交官としてのかたわら、多くの詩を読み、詩作をつづけた。それらはやがて詩集『居住者とその希望』として結実することになる。
 アジア滞在が与えてくれたのは詩の素材だけでなく、ジャワでは最初の妻となる女性と出会った。彼女はマリカ・アントニエッタ・ハーゲナー・ヴォーゲルツァンクといい、オランダの銀行に勤めていた。
 一度、チリに帰国したネルーダは、次いでアルゼンチンのブエノス・アイレスの大使館に派遣され、その後1934年には、待望のマドリッド駐在の総領事として赴任した。奇しくも、彼が10代のときに詩を読んでくれて励まされた女流詩人、ガブリエラ・ミストラル(彼女はラテン・アメリカで初めて1945年にノーベル文学賞を受賞した)の後任だった。
 マドリッド滞在はネルーダにとって大きな幸運だった。赴任してまもなく、彼は多くの詩人や作家たちと交流するようになった。ラフェエル・アルベルティ、フェデリコ・ガルシア・ロルカ、ペルー生まれの詩人セザール・ヴァヘロたちで、ネルーダが編纂した雑誌「詩のための緑の馬」のまわりには、多くの若い詩人が集まった。なかでもガルシア・ロルカとは毎日のようにカフェで会い、このころ演劇を手がけていたロルカについて、よく舞台稽古を見に行った。そしてときには舞台装置や背景についてアイディアを出した。
 ネルーダが滞在したスペインは激動の最中にあった。スペインでは1931年4月、ブルボン王朝最後の国王アルフォンソ13世がフランスへ亡命し、共和政府が誕生した。しかし王党派や右派勢力は巻き返しをはかり、以後1936年の総選挙までの2年間は「暗黒の2年」と呼ばれるほど情勢は混乱した。
 1936年2月行われた総選挙は投票率が70パーセントに近く、人民戦線を組む共和派が勝利したが、世論は左右の陣営に二分され鋭く対立した。叛乱が起こったのはこの年7月17日のことである。地中海に面したスペイン領モロッコの街メリーリャで、セグイ大佐に率いられたムーア兵(北アフリカのイスラム教徒)と外国人傭兵がク・デタを起こした。共和政府によってカナリア諸島の閑職に追われていたフランシス・フランコ将軍がこれに呼応し、共和派政府とそれを支持する人たちと反乱軍との間で軍事衝突が起きた。スペイン内戦のはじまりだった。
 ネルーダに衝撃をあたえたのは、内戦が勃発した1カ月後の8月19日、親友のガルシア・ロルカが、フランコに忠誠を誓う叛乱軍によって逮捕され、銃殺されたことだった。ファシズムの暴挙を前にして、彼はスペイン共和派への支持を鮮明にし、政治的活動をするようなった。d0238372_1141686.jpg1937年には、マドリッドで開催予定の文化擁護作家会議の準備のためにパリへ赴き、共産主義者の詩人ルイ・アラゴンとともに、スペイン人民戦線支援集会で講演してスペインの状況を訴えた。
 「あのわれらの死者たちの膨大な森から、どうしてひとつの名を引きはなすことができよう! 記憶するにも値しない敵によって虐殺された鉱夫たち、アストリアスの死んだ鉱夫たち、大工や石工たち、町と野の賃金労働者たち、おなじく殺された数千の女たちよ! 虐殺された子どもたち・・・溌剌とした誇りに輝くスペイン、精神のスペイン、直観と伝統と発見のスペイン、フェデリコ・ガルシア・ロルカのスペイン。/ 彼は百合のように、手ななづけがたいギターのように、犠牲に供せられ、暗殺者どもが、彼の傷口を踏みつけ、彼のうえに投げつけた土のしたに、死ぬことになろう。・・・」(講演「フェデリコ・ガルシア・ロルカの思い出」)
 しかし、こうした活動はチリ政府を刺激して、ネルーダは本国に召還された。チリに帰った彼は、スペインの題材にした詩篇の創作を続け、それはスペイン人民戦線の兵士たちの手で詩集『心の中のスペイン』として1937年に発表された。
 1938年、チリでは大統領選挙が行われ、ネルーダも支援したペドロ・アグイレ・セルダが当選して人民戦線内閣が誕生した。新政府はスペイン共和派の難民をチリに受け入れることを決めると、翌39年、ネルーダをスペインからの移民を扱う特別領事に任命してパリに派遣した。こうして2000人をこす難民が海を渡った。
 1939年9月3日、第二次大戦が勃発すると、彼はチリに帰り、やがてメキシコ・シティ駐在の総領事に任命された。ここで43年まで3年間をすごしたが、その間にレオン・トロツキーが暗殺される事件が起きた。ロシア革命の功労者トロツキーはスターリンによって追放され、ヨーロッパを経由して1936年からメキシコに亡命していたが、1940年8月20日、トロツキーの秘書の恋人になりすましたラモン・メルカデルによって、ピッケルで後頭部を打ち砕かれ、翌日収容先の病院で死亡したのである。メルカデルは単独の犯行を主張して背後関係を隠したが、犯行はソビエト秘密警察(GPU)の仕組んだものだった。
 この事件でメキシコ人の画家ダヴィド・アルファロ・シケイロスが、暗殺を示唆した一人として逮捕された。ネルーダはメキシコのカマチョ大統領の依頼で、シケイロスへチリ入国ヴィザを発給し、画家はそれでチリに入国することができた。彼はチリでネルーダの私邸に滞在したが、このことがのちにネルーダにとって大きな問題となるのである。
 一方、ヨーロッパの戦火は、ナチス・ドイツの攻勢で連合国側は劣勢に立たされていた。だが1942年8月から43年2月にかけてに闘われたスターリングラード攻防戦で形勢は逆転。ネルーダはこの報に接すると、すぐに「スターリングラードに捧げる愛の歌」を創作した。ソビエトに対する情熱的な愛と支持をうたいあげた長編詩は印刷されてメキシコ市の壁という壁に張り出された。(続)
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by monsieurk | 2014-07-23 22:30 | | Trackback | Comments(0)

パブロ・ネルーダⅠ

 愛読する詩人の一人に南米チリのパブロ・ネルーダ(Pablo Neruda)がいる。
 ネルーダは、1971年にノーベル文学賞を与えられたが、その授賞理由は、「ひとつの大陸の運命と、多くの人びとの夢に生気をあたえる源となった、力強い詩的作品にたいして」というものだった。ただ選考に当たっては、委員の幾人かは受賞に難色をしめしたといわれる。かつてネルーダが、ソビエトの独裁者スターリンを讃美したためである。
 1960年代後半、ネルーダについて意見を求められたアルゼンチンの作家ルイス・ボルヘスは、「彼はきわめて繊細な詩人だと思う、大変繊細な詩人だ。だが人間としては称賛に値しない。彼は非常に低劣な人柄だと、私は思う」と語り、さらにネルーダは自分の評判を危険にさらすのを恐れて、アルゼンチンの独裁者ペロンに反対したことはないといい、「私はアルゼンチンの詩人で、彼はチリの詩人だった。彼は共産主義者の側であり、私は彼らに反対だった。だから彼が、私たち二人が出会うのを避けたのは賢明だったと思う。もし会えばきわめて不愉快なことになっただろうから」とつけ加えている。
 ボルヘスの評価の賛否は意見が分かれるところだが、ネルーダが終コミュニズムに信頼を寄せていたのは事実で、それは同世代のフランスの詩人ルイ・アラゴンが共産主義者として生きたのと同様であった。
 パブロ・ネルーダは本名をリカルド・エリエセール・ネフタリ・レイス・イ・バソアルト(Ricardo Eliecer Neftali Reyes y Basoalto)といい、1904年7月12日にチリ中部のパラルで生まれた。彼はその後両親とともにチリ南部の湿気の多い密林のなかの小さな村テムコに移り、そこで少年時代をすごした。
 ネルーダはこのころの思い出を、「少年時代の田舎」(『指輪』、1925年)で、次のように語っている。
 「・・・苔のふちを歩調をとって歩きまわり、大地と草を踏みつけた、少年時代の情熱よ。おまえはいつでもよみがえってくる。・・・北風が吹きすさび、冬枯れの寒さが身を刺す頃の、村の影は濃くて大きいのだ。だがまた雨季のさなかに、穂のように揺れて変わりやすい天気があらわれて、思いがけず太陽のかがやく日は、えも言えず気もちよかった。川の氾濫する冬の日よ、母とおれは吹き狂う風のしたでふるえていた。どっとあたり一面に降る、いつやむともわからぬ憂鬱などしゃ降りの雨よ。森のなかで立ち往生した汽車が 悲鳴をあげたり吼えたりしていた。板張りの家は、くらやみにすっぽりとつつまれてぎしぎしと鳴った。野生の馬のような疾風が窓をたたき、柵をひっくりかえし、やけっぱちに乱暴に。すべてを吹き倒して海に抜けた。だがまた、澄みわたった夜もあり、天気がよく木木の茂みがそよぎ、ほの暗い夜空は降るような星をちりばめていた。・・・ひそやかな時間のうえをすべり去った少年時代の田舎よ。降ったばかりの雨でしめった森羅万象のうえに横たわっている孤独な地帯よ、おれはおまえの処を、帰ってゆく憩いの場所として、おれの運命に提案するのだ。」(大島博光訳)
 村の情景を描いたこの詩に汽笛を鳴らす汽車がでてくるが、彼の父親は鉄道員であった。新しい鉄道線路を建設するために砂利などを運ぶ敷設列車の車掌で、そのかたわら敷設現場の監督のような仕事もしていた。そのために長らく家を留守にすることもあって、ネルーダは母と密林に囲まれた村で過ごすことが多かった。
 テムコの村のまわりはニロールの密林がうっそうと茂り、森や草原にはインディオのマプチュ族が住んでいた。テムコはもともとマプチュ族の土地だったが、19世紀末には、彼らは自分たちの土地を追われ、テムコのまわりに藁小屋を建てて暮らしていた。彼らは毛織物や卵や羊を売りに村へやってきて、夕暮になると、男たちは馬に乗り、女は徒歩で帰って行った。
 ネルーダには農民の伯父が二人いた。彼らは農民といっても牛飼いを兼ねた仕事で、馬を乗りまわし、ピストルを腰に、ギターを爪弾き、いつも女たちがつきまとっていた。少年時代のネルーダのまわりでは、大自然とそれと共存する生活が営まれていた。それらが多感な少年の心を育んだ。
 彼が詩を書き始めたのは10歳のときである。それは少年が母に贈った詩だった。だがそれを読んだ父親は、「そんな詩をどこで書き写してきたのだ」といった。息子が詩を書くことを苦々しく思っていた父は、あるとき彼の詩の本やノートを焼いてしまった。父親の望みは息子が技師や建築家になって世間並みに出世してくれることだった。
 だが詩作をあきらめない少年は、地方新聞や雑誌に投稿し続けた。その際、父親に知られないためにペンネームを考える必要があった。たまたま手にした雑誌に、チェコの作家ヤン・ネルダの名前を見つけ、それにあやかって、パブロ・ネルーダを筆名にすることにした。パブロはフランスの象徴派の詩人、ポール・ヴェルレーヌから頂戴したものである。
 ネルーダは1920年、16歳でチリの首都サンチャゴに出て、「チリ大学」に入学した。建築とフランス語を学ぶはずだったが、建築の勉強はそっちのけで、フランス象徴派の詩人の作品を読みふけった。d0238372_1322122.jpg
 彼は『回想』のなかで、こう述べている。「私は大学に入る前に、シュリ・プリュドムやヴェルレーヌを知っていた・・・その頃、美しいフランス詩の詞華集が出て流行となり、みんなが争うようにして手に入れた。私は貧乏で買えなかったので、人から借りて書き写した。・・・大学における文学生活は私を圧倒した。私のような田舎者にとって、フランスの詩人たちをよく知っていて、ボードレールを語るような人たちに会うことは、大きな魅力だった。私たちは夜を徹してフランスの詩人たちを論じあった。」
 彼は学生寮に住んで、フランス語の教師になる過程に進むとともに、友人たちから刺戟を受けて、毎日のように詩を書いた。そして最初の詩集『祭りの歌』を1921年に出版したが、そこにはヨーロッパで流行していたシュルレアリスム風の作品、歴史的叙事詩、政治的マニフェストのような内容のもの、自伝的要素をうたいこんだもの、エロティックなものが含まれており、詩集はこの年の「学生連合コンクール」で賞をうけた。(続)



 
 
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by monsieurk | 2014-07-20 22:30 | | Trackback | Comments(0)

マンガとバンド・デシネ

 フランスで日本の「マンガ」がブームであることは以前に紹介したが、フランスにも「バンド・デシネ(Bande dessinée)」と呼ぶ劇画の伝統がある。これは文字通りに訳せば「描かれた帯」、つまり長篇の「劇画」を指し、子どもだけでなく大人にも愛読者が多い。d0238372_157753.jpg
 その一つが、ベルギーの画家エルジェの『タンタンの冒険(Les aventures de Tintin)』で、タンタンとう名の少年が、犬の相棒ミルーを連れて世界中を冒険してまわるシリーズもので、1929年に最初の「タンタン、ソビエトへ行く」が出版されて以来、多くの世代に読みつがれてきた。もう一つのシリーズ『アステリックスの冒険(Une aventure d'Astérix, le Galois)』は、アルベール・ユデルゾがテクストを、ルネ・ゴシニが絵を担当して、1959年に最初の一冊が出版された。舞台は古代ローマ時代のガリヤ、つまり現在のフランスで、主人公アステリックスが大活躍し、それを通してフランスの歴史やフランス人気質を風刺をこめて描いている。作品は教科書にも載せられるほどフランス人の生活に根づいている。
 フランスのバンド・デシネは、社会的に高く評価されていて、年に一度、アングレームという街で大きな見本市が開かれ、真面目な批評の対象になる。少し前だが、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』もバンド・デシネになり大きな話題になった。プルーストの『失われた時を求めて』は、日本語に訳すと400字詰目原稿用紙で2万枚にもなる大作で、テーマや筋を忠実に再現した7冊のバンド・デシネとして刊行されたのである。d0238372_1592912.jpg
 最近のもので傑作と評判が高いのは、2004年に第1巻が刊行された『カメラマン(Le photographe)』である。これはカメラマンのギベール・ルフェーヴルが原案と写真を出し、フレデリック・ルメルシエが構成とテクストを担当したもので、全体は3部からなる。全巻がまとめて出版されたのは2010年のことである。この作品の最大の特徴は、写真と絵を組み合わせるという、d0238372_15123265.jpgバンド・デシネで初めての試みがなされたことだった。
 テーマは1978年に起きた「アフガニスタン紛争」で、写真家のルフェーブルが、現地で活動する「国境なき医師団」を追ったルポルタージュがもとになっている。アフガニスタン紛争では、1979年にソ連が軍事介入して、多くの犠牲者や難民を生んだが、現地の実情を「国境なき医師団」の活動に寄り添いつつ克明に記録し、写真で表現しきれない部分をリアルな絵にすることで伝えている。
 この作品を知ったのは偶然からだった。2004年2月に、放送大学のパネラーとして、香港で開催された「国際遠隔教育評議会(ICDE)」に出席したとき、ホテルで見ていたフランスのテレビで、読書案内の番組に登場した作者の二人が、自分たちのユニークなこころみを語っていた。帰国後すぐにフランスから作品を取り寄せて読んだ。
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 その後、作品は第2巻、第3巻がつけ加えられて、2010年に全264ページとして出版された。第1巻を読んだ直後、その内容と形式に感心し、知り合いの編集者に日本語版の出版を勧めたのだが、そのときは実現せず、10年後の今年2014年4月に、絵や写真部分は原作のまま、地の説明文と「ふきだし」を日本語に訳したものが出版された。
 日本でも最近、社会派のマンガが創作されるようになった。だが原発事故の放射能の影響をに踏み込んだ『美味しんぼ』は、風評被害を助長するなどの理由で雑誌掲載をストップされてしまった。
 それでも福島原発事故については、竜田一人(たつた・かずと)の『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記』が関心を集めている。竜田というのはペンネームで、作者は実際に福島第一原発の事故現場で作業員して働いた経験があり、外部からでは分からない福島第一原発の深刻な現状がくわしく描かれていている。
 マンガやバンド・デシネは、いまでは情報を伝える重要な媒体であり、問題意識をもって作品が創作されることを期待したい。知り合いのフランス人が、翻訳したといって、『いちえふ』を持って帰ったが、さてどうなることか。
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by monsieurk | 2014-07-17 22:30 | メディア | Trackback | Comments(0)

ラジオ・ドラマ「不安の夜」Ⅵ

(N) 道路の反対側から細い道が丘に向かって通じていた。やっと一人になれたことが嬉しかった。昨夜からの一連の体験から解き放たれたわけではなかったが、さわやかに息づく田園のなかを、一歩一歩足を踏みしめるように歩いていった。
 丘の上には、兵士たちの墓場が見えた。パラノフスキーもここに自分の場所を見出すのだ。他の兵士たちの並びではなく、墓地のはずれだろうが、そこにも安らぎはあるだろう。・・・

SE(近づく飛行機の爆音)

(N) 突然、飛行機の爆音がした。そう、ここには飛行場があるのだ。丘の上を超低空で飛び去る飛行機からパイロットが顔を出し、わたしに合図を送ってよこした。そうだ、飛行場に行ってみよう。・・・

SE(飛行場の騒音)

(N) あの恋人たちは、もう部屋にいないのは確かだが、国防軍宿舎へ帰るのはよそう。メラニー看護婦はきっと朝早く部屋を出たにちがいない。ブレンターノは彼女を送って行き、それから部屋にもどっただろう。そしていま頃は飛行場にいるかもしれない。いますぐ滑走路に行けば、彼に会えるかもしれない。

SE(飛行場の騒音、さらに強く)

(N) 飛行場は立ち入り禁止だったが、軍隊手帳をみせて、なかへ入ることができた。多くの小型機が飛び立つ準備をととのえ、整備員が右往左往していた。

空軍中佐 Good morning, chaplain.

(N) ヴィニツァ空軍基地司令官の中佐だった。彼とは職務上、ときどき顔を合わせ、親しくなっていた。彼は高潔な異教徒とでもいうべき人物で、わたしたちは音楽への愛と、ヒトラーとその一味への憎しみを共有していた。

空軍中佐 牧師さん、こんなところで何をしているんです?
私 ここで職務上の仕事があったのです、中佐殿。
空軍中佐 誰かが往生したんですか?
 往生させられたのです。
空軍中佐 ああ、そうですか。あの悪党どもめ。何もかも年貢を納めるときが来ますよ。
私 もちろんです。ただ、あそこに眠っている人たちは、残念ながら、もう生き返ることはありません。
空軍中佐 そう・・・奴らが冥府へ行くときは、亡霊たちが音楽を奏でますよ。もちろん、グルックだ・・・。われわれはきっとそれを体験しますよ。
 ところで、これからどこへ行かれるのです?
 ヴィニツァへ帰ります。
空軍中佐 自動車の手配はすんでいますか?
 いいえ、後ほど問い合わせてみます。
空軍中佐 それなら一緒に飛行機で帰りましょう。1時間後に飛びますから。
 それは有り難い。ただ、荷物を国防軍宿舎に残してあるのですが。
空軍中佐 よろしい、すぐに取っていらっしゃい。車をつかまえて街へ行きましょう。

SE(自動車がスタートする音、走行音)

(N) 中佐は司令部に用事があった。カルトッシュケのことを彼に話そうかと思ったが、言うのをやめた。ブレンターノの握手、メラニーの笑い声、そしてあの囚人の接吻。いま思い出すのはそれだけだった。

SE(自動車の停まる音)

(N)国防軍宿舎のそばで中佐はわたしを下ろしてくれた。

空軍中佐 30分後に、司令部で落ち合いましょう。それでいいですね?
 結構です。

音楽(少し明るい)

(N) わたしは裏門から中へ入った。誰にも出会わずに階段を上がって廊下を歩いて行った。部屋のドアの前で、一瞬耳をすませたが、物音一つしなかった。部屋はからっぽで、昨夜の営みの気配は何も残っていなかった。ここがあの恋人たちが愛しあい、わたしがまんじりともせずに書類を読んだところだろうか? 昨夜のあの不安と至福とを暗示するものは何もなかった。だが胸の奥にはある感覚が残っており、それを忘れることは決してないだろう。
 わたしはドアを閉めて、鍵を返しに行った。食堂では数人の将校がコーヒーを飲んでいた。ブレンターノ大尉の姿はそこにはなかった。
 司令部の建物の方へ歩いていくと、ちょうど中佐が戸口から出てきた。

空軍中佐 Evviva il pastore、牧師さん、ようこそ!

(N) 中佐はイタリア語を好んでいた。いや、すべての言語を愛していた。もとは技術者の彼は、世界を旅行してまわった経験の持ち主だった。現在の職務で彼を楽しませるものといえば、技術の進歩がもたらす魅力だけだった。とくに飛行機に関しては目がなかった。そして彼は夜になるとピアノに向かって、ヴィヴァルディーを弾いた。「私はどうも一貫性を欠いているんです、シニョール。どうもムッソリーニには反感を持てないんです。というのも、奴さんはダンテの言葉を話すんですからね」というのが、彼の十八番〔おはこ〕だった。
 Avanti、出発! と彼が叫んで、私たちの車は来たときと同じように、猛スピードで飛行場へ引き返した。

SE(飛行場の騒音)

(N)中佐は自動車を返しに行った。滑走路にはJU〔ユンカー〕52が一機とまっていた。それがスターリングラードへ向けて飛ぶ飛行機だとすぐに分かった。ブレンターノ大尉はこれに乗って、死のなかへ飛んでいくのだ。ブレンターノ中尉の姿を探したが見つからなかった。
 プロペラが回転しはじめた。その瞬間、ブレンターノ大尉の姿を見つけた。彼はしばらく前から機体の向こう側に立っていたにちがいない。このプロスクロールの土を、少しでも長く踏みしめていたかったのだろう。この街には無量の感慨があったのだから。彼は歩いてきてタラップへ向かったが、ふとこちらを見た。
その視線ははじめは、あやふやだったが、やがてわたしをはっきりと認めた。一瞬、彼はわたしの方へ駆けだそうとしたように見えた。だが搭乗員か誰かが、大声で、もうそんな時間はないと言ったのだろう。彼はやむなく立ち止まって、タラップから敬礼を送った。この敬礼は、わたしがブレンターノ大尉のなかに見受けたもの、つまり落ち着いた態度、軽やかさ、忍び寄る死のなかの朝の光、それらすべてを総括したようなものだった。すべての戦争とすべての混乱からほとんど解脱しているように見えた。・・・・
 ヒトラー式の敬礼のとげとげしい身振りは、いつもなら敵意を含んだものに思えるのだが、この時ばかりは、その身振りにこめられた厳しさがよく分かった。メラニーへの愛、恋人との一夜、そして死・・・口では表せないそうした思いを表現するのにふさわしい唯一の方法だった。わたしは敬礼を返した。やがてドアが閉じられた。そして飛行機は舞い上がった。

SE(飛行機の離陸音、次第に遠ざかる)

空軍中佐 牧師さん、お待たせしました。向こうにわたしの飛行機があります。行きましょう。出発します。

(N)それは急降下爆撃機型の複座機で、中佐は万一のために救命装置を着せてくれ、パラシュートやバンドや開き綱を説明してから、自分の座席に乗り込んだ。わたしは偵察員用の座席に乗り込んだ。
   
SE(始動するプロペラ音)

(N)プロスクロールの街はたちまち視界から飛び去った。司令部、砂利の道、最後に墓地。
 わたしたちは上空にあった。飛行機は速度をあげ、広々とした濃い褐色の大地は光りを浴びて下にあった。下界では、いつ果てるともしれない苦しい戦いが、これからどのくらい続くのだろうか? カルトゥシュケのような輩が、どのくらいの間、支配するのだろう? 罪を背負った無辜〔むこ〕の人びとが死んでいく・・・。だが、心があり、憂慮する人びとは目覚めており、最後の審判の日まで、おのれを責め続けるのだ。
 空に浮かぶ白い雲が、一瞬子どもの顔に見えた。それはリューバの息子だろうか? 私はかならず二人を探しだすだろう。やがて雲は横にのび広がった。それは眠っている人間の姿だった。棺に入っているパラノフスキーかもしれない。それとも、いまはまだ隠されているが、やがて明らかになる未来を意味しているのだろうか? メラニーは昨夜身ごもっただろうか? 
 かなりの間、低くたれこめた雲の下を、同じ高度をたもって飛び続けた。しかし、やがて密雲をやぶって、完全に澄みきった大気圏に突入した。わたしはガラスの覆いをはねのけて、大気を深く吸い込みながら身をのり出した。それは一種の歓びだった。しばらくすると中佐は機首を下げて、雲の中へ突っ込んでいった。驟雨がまるで鞭で打つように、いや針で刺すように真っ向からたたきつけてきた。覆いのガラスの天蓋を閉じることも考えず、わたしは一切のものと、荒れすさぶ嵐とも和解していた。

音楽(エンディングの音楽)

ナレーション  クレジット
                            (完)
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by monsieurk | 2014-07-14 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(4)

ラジオ・ドラマ「不安の夜」Ⅴ


M(短い悲痛な音楽が続き、そこに会話がかぶり、やがてFO)

特務曹長 君の荷物はどこへ送ればいいんだ? 宛先は申告してあるか?
 宛先はわたしが聞いている。
特務曹長 コーヒーを一杯どうだい?
パラノフスキー はい、いただきます。
特務曹長 もう一度、手錠をはずしてやれ。
野戦警察隊員 それは規則に反します。
特務曹長 馬鹿な真似はしやしないよ、はずしてやれ。

SE(手錠をはずす音)

特務曹長 パンを一切れどうだい?
パラノフスキー いいえ、結構です。
特務曹長 じゃあ、煙草は?

(N) みなが急に親切になった。最後の施しで、わたしたちはみな、罪を清算しようとしている。生きていることの罪を。

SE(自動車が来て、止まる音)

野戦警察隊員 出発!
パラノフスキー 牧師さん、わたしと一緒にいてくださるのですか?
 ああ、ずっと君のそばにいるよ。
特務曹長 従軍牧師殿は、軍法会議判事殿と一緒の乗用車で行かれますか?
 いや、わたしはパラノフスキーのそばについていましょう。
特務曹長 結構です。前の貨物自動車に4人分の座席があります。

SE(自動車が走り出す音、しばらくガタガタいう音)

野戦警察隊員 つまらないことになったなあ、君は。
別の隊員 さあ、元気を出せ! 俺たちはみな、どうせ一度は死ななきゃならないんだ。

SE(車の走る音、続く)

(N) 車はしばらくの間、わたしが昨日来たのと同じ道を走った。誰にも出会わなかった。車はやがて左に折れ、そこから先は道らしい道はなく、車はあえいだ。すると突然前方に、灰色の鉄かぶとをかぶった兵士たちが並んでいるのが目に入った。左側に一個中隊が配置され、中央には小隊が立っていた。右側には数人の将校がいて、前方には木の杭が立っていた。

SE(車が停まる音)

(N) パラノフスキーは、ゆっくりした足取りで杭の方へ歩いて行った。彼がそこに立つと、目隠しをされた。

軍法会議判事 フョードル・パラノフスキー、ウクライナ方面国防軍司令官閣下により、次のごとく決定された旨、君に通告しなければならない。パラノフスキーの減刑請願は却下された。君は銃殺される。
カルトゥシュケ中佐(大声で) 国防軍牧師が発言される。

(N) 明らかに、故意のいやがらせだった。百人以上もの目が自分に向けられているのを感じた。しかし、わたしの念頭にはただ一人の人間のことしかなかった。わたしはパラノフスキーの方へ歩いて行き、彼のかたわらに立つと、彼にだけ聞こえるように、小声で言った。

 さあ、もうこのことだけを考えていなさい。御身の御手にわが魂をゆだねる。御身はわれを救いたまいぬ。主よ、まことなる神よ。
パラノフスキー 牧師さん、もう一度握手してください。

(N) わたしは引き返した・・・

SE(一斉射撃の銃声)

軍医大尉 カルトゥシュケ中佐殿、死亡時刻は5時57分であります。

(N) 振り向くと、パラノフスキーはうつ伏せに倒れていた。・・・白木のままの棺桶が運ばれてきた。2人の兵士が死者の長靴を脱がせた。国防軍には革が必要というわけだ。それからパラノフスキーの遺体を持ち上げて、棺に入れた。広い血糊が砂の上に残った。

SE(棺に釘を打ちつける音)

(N) 釘、金槌、すべてが計算しつくされていた。ドイツの軍隊はじつに至れり尽くせりにできている。銃殺されるところまで至れり尽くせりに。
 軍法会議判事がわたしの方へ歩いてきた。

軍法会議判事 わたしの車で街まで送りましょうか?

(N)わたしは最初断ろうとした。だが彼は運転手を去らせて、自分で運転台に座ったのに気づいた。しばらくの間、わたしと二人っきりになりたいと思ったのだろう。

SE(車の走り出す音、走行音)

軍法会議判事 申し分なくやってのけられましたな・・・おお、寒い・・・
 わたしたちはいま気分がよくないのですよ。実際また、気分がよくてはならないのです。
軍法会議判事 へえ、どうしてです?
 正義のためです。
軍法会議判事(大声で) えい、くそおもしろくもない!・・・ありがたいことに、宿舎へ帰れば結構上等なウォトカが残っているんですよ。とっておきの瓶でしてね。ちびちび飲むためのものです。特別の場合だけに。銃殺酒と、わたしの従卒は言っています。ひとつご馳走しましょう、牧師さん。
 折角ですが、参れません。
軍法会議判事 どうして駄目ないんです? 道徳的な懸念ですか?・・・軍隊にきてどれくらいになりますか?
 3年です。
軍法会議判事 3年経って、まだ駄目になっていない? あなたは天国へ行かれますよ。見上げたものだ。
 それは、わたしがウォトカを飲まないから、という意味ですか? 普段なら喜んで一杯やります。ただ、今はそんな気持になれないのです。何もかもがあべこべだったから。
軍法会議判事 あべこべとは、どういうことですか? わたしが戦争を望んだわけじゃない。しかし、毒くわば皿までというわけです。ヒトラーがいつも言っているように、二者択一しかない。自動車か棺桶か、それならば自動車の方がましですからね。
 どうか、その先で降ろしてください。1時間ほど歩いてから帰りたいのです。
軍法会議判事 いい思いつきだ。歩いていらっしゃい。神と共にね。あらためて、感心したと申し上げましょう。あなたは、自分の職務をわきまえていらっしゃる。

SE(車の停まる音)

 ごきげんよう、軍法会議判事殿。

SE(車がスタートして遠ざかる音)
         (続)
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by monsieurk | 2014-07-12 22:29 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

ラジオ・ドラマ「不安の夜」Ⅳ


SE(吹きすさぶ嵐)

歩哨 暗号は?
 オデッサ

(N) 歩哨が扉を開いた。衛兵所にはマッシャー特務曹長が待っていて、不動の姿勢で敬礼した。外套を脱ごうとすると、彼が言った。

特務曹長 あちらは寒いですよ。
 構いません。外套を着ていると、まるでほんのちょっと覗きにきたように思われかねませんから。
特務曹長 では、参りましょう。

SE(廊下を行く二人の足音)

特務曹長 彼には従軍牧師殿から言っていただけますか?
 承知しました。
特務曹長 わたしが先に入ります。

SE(独房の扉があき、閉る音)

特務曹長 起きたまえ、パラノフスキー。・・・服を着るんだ、君にお客さまだ。
パラノフスキー 一体どうしたんです? 
特務曹長 質問はなしだ、早くし給え。
パラノフスキー ほんのちょっと待って下さい。

SE(便器に小便をする音)

特務曹長 さあ、毛布を片付けるのだ。・・・どうぞ、牧師殿。
 なぜこんなに早い時間にもう一度やってきたか、分からないだろうね?
パラノフスキー 死刑判決のことですか?
 そう。
パラノフスキー 減刑の請願は却下されたんですね?
 そうだ。
パラノフスキー それで、ぼくは何時にやられるのですか?
 今日。
パラノフスキー 今日・・・何時に?
 1時間後だ。
パラノフスキー どこで?
 ここの郊外だ。
パラノフスキー 首を刎ねられるのですか?
 とんでもない。君は軍人じゃないか、パラノフスキー。
パラノフスキー では銃殺ですね。
 そう。
パラノフスキー ああ、・・・じゃあ請願は却下されたんだ。・・・(しばらく沈黙)ほんの2、3週間でいいから、人間らしい暮らしがしてみたかった。ただそれだけで、死ななければならないんですね。・・・ぼくは何にも悪いことはしませんでした。牧師さん。・・・ぼくは懲罰中隊へ放り込まれるのは絶対にいやだったんです。われわれの隊にいた2人の兵隊が、懲罰中隊のことを話していました。こんな小さなパンひと切れとキャベツのスープ、それで労働は朝4時半から夕方7時まで。騎馬曹長の監視がついて、しょっちゅう駆け足なんです。それじゃあ、確実にくたばってしまいますよ。
 パラノフスキー、あと1時間、わたしたちは一緒にいられる。それを有効に使うことが大事だと思うのだが・・・何か頼みがあれば、ぜひかなえてあげたい。・・・君が愛していて、何か伝えたいに人に、手紙を書いてはどうだろう。
パラノススキー(しばし逡巡のあと) いえ、結構です。誰もいません。
 わたしは一部だが裁判の書類を読んだ。そうしなければならなかったのだ・・・
パラノフスキー そうですか。ではよくご存じなんですね。
 知っている。でもあんな書類では、本当のことが伝えられているとは思えない。
パラノフスキー まあ、どうだっていいですよ、いまとなれば・・・
 もちろんそうだ。わたしが言いたいのは・・・君は・・・リューバに、ひと言書いておきたくないかね?
パラノフスキー 手紙を書いても意味がありません。手紙は届きはしません。
 そんなことはない。
パラノフスキー どうやって届けるのですか。
 わたしが届くように取りはからう。
パラノフスキー あなたが?
 そう、約束する。
パラノススキー(間を置いて)まだ時間はありますか?
 ああ、充分あるとも。
パラノフスキー 便箋をお持ちですか? 牧師さん。
 ここにある。・・・君の代わりにわたしが書いてあげようか?
パラノフスキー そうしていただけるのなら・・・あなたはロシア語がお出来になりますか?
 いや。ロシア文字は書けないが、キリル文字なら書ける。だからゆっくりと口述してほしい・・・。
パラノフスキー それじゃあ、手紙の内容があなたにはお分かりになりません。
 それは構わない。これは君たち二人のことなのだから。

(N) 彼は口述し、わたしは筆記した。ときどきわたしにもわかる言葉があった。それは相手を思いやる言葉だった。軍事機密の漏洩になるようなことはなに一つなかった。

 さあ、これで出来た。名前は君に書いてもらわなくては・・・それでないと、リューバは、これが君からの手紙だと信じないだろうからね。

(N) 彼は名前を書こうとして、手がふるえた。それでもなんとか署名した。彼は村の名前を言い、わたしはそれをひかえた。彼は家の様子をこまごまと語った。

 わたしたちがここで出会ったことを、やはりリリエンタール牧師に言った方がよいのじゃないだろうか?
パラノフスキー よろしく仰って下さい。でも、それであの方が喜んで下さるとは思えません。
 君の堅信礼のとき、リリエンタール牧師が与えてくれた言葉を覚えているかな?
パラノフスキー いいえ、もう覚えていません。
 なにか覚えていないかな。とっかかりがあれば二人で確かめることができるのだが・・・
パラノフスキー ちょっと待ってください・・・なんでも、飲むという言葉がなかにありました。
 こうだったのではないか・・・「渇ける者はわが許に来りて飲め」。
パラノフスキー そうだったかもしれません。正直に言って、宗教や教会といったものを、あまり気にかけていなかったんです。でもお祈りだけは少しは覚えていました。そしてここ何日か、こんなことをしきりに考えました。・・・これはどうしてなんだろう。もう一遍はじめからやり直すことができないのは、どうしてなんだろう。・・・でも、いまはそれも問題じゃありませんね。
 いや、いま問題にすべきは、そのことだよ。

SE(5時を打つ時計の音が遠く聞こえる)

パラノフスキー まだ時間があるでしょうか?
 あるとも。
パラノフスキー 早く済むでしょうか? すぐに当ててくれるでしょうか?
 当てるだろう。

SE(監房の中を歩きまわるパラノフスキーの足音)

パラノフスキー これがリューバです。・・・あなたは彼女に会ってくださるでしょう。・・・これが男の子。可愛い子なんです。・・・残念です。

(N) 彼は写真を引き裂いた。その瞬間、彼はまるで愛おしい命から、永久に別れ去る人のようだった。突然、彼は立ち上がると、わたしに抱きついてきた。

パラノフスキー ありがとうございます。 ありがとう、牧師さん。・・・
 手紙はきっと届けるから。安心して。

SE(廊下を近づいてくる複数の足音。扉の開く音)

軍法会議判事 フョードル・パラノフスキー、ウクライナ方面国防軍司令官閣下により、次のごとく決定された旨、君に通告しなければならない。パラノフスキーの減刑請願は却下された。判決は執行されるべきである。この決定に従って、君は今日、銃殺される。態度を取り乱さぬように! あくまでも軍人らしく死にたまえ!

M(短い悲痛な)
                               (続)
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by monsieurk | 2014-07-10 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

ラジオ・ドラマ「不安の夜」Ⅲ

音楽(時間経過を示す)

(N) 宿舎にもどると、部屋は暖められていた。寒い刑務所にいて、風の強いなかを歩いて来た身には暖かさがありがたかった。わたしは長靴を脱いで、本物のコーヒーを2杯つくることにした。そのとき扉をノックする音がした。

SE(ドアをノックする音)

 どうぞ。
兵士 当番兵です。牧師殿、まことに残念ですが、どうしてもこの部屋に、もう一人泊り客を入れなくてはならなくなりました。ブレンターノ大尉が、明朝、ここから東部戦線へ飛行機を乗り継がなければならないのです。今ここにおられます。
 どうぞ。
ブレンターノ大尉 ブレンターノです。(兵士に)すまないが、明朝6時半にノックしてくれたまえ。
兵士 承知しました、大尉殿。6時半にノックいたします。
ブレンターノ大尉 下の食堂では、何時からコーヒーが飲めるかな?
兵士 7時15分からであります。
ブレンターノ大尉 結構だ。それならちょうど間に合う。ありがとう。
兵士 失礼します。

SE(ドアの閉る音)

ブレンターノ大尉 お邪魔することをお詫びします。お邪魔するのは不本意なのですが。
 あなたがここにお泊りになるのは当然です。優先権などあるはずがありません。ところで、あなたはこの壁の奥まったところをお選びになられてはどうでしょう。そうして下さるなら、お休みになれるように、明かりを少し被いたしましょう。わたしはまだ2、3、どうしてもやらなくてはならない仕事があるものですから。

SE(ブレンターノ大尉が近づいてくる足音)

ブレンターノ大尉 牧師殿の手の中にあるローマ数字の3――それは決してよいことを意味するものではありませんね。
 ご推察の通りですよ。
ブレンターノ大尉 (かすれた声で)見てください。これがいわばわたしの死刑判決文です。
「ブレンターノ大尉は、ただちに空路、第6軍に赴くべし。陸軍中佐、師団副官。」ごたごた書くにはおよばない・・・これはこんな風に読めばいいんです。「ブレンターノ大尉は、永久に還らざることを期し、飛行機にてスターリングラードの第6軍に赴くべし」。決して誇張ではありません。死の確率はどのくらいでしょう? 95パーセントといったところでしょうか。

SE(窓に吹きつける風の音)

ブレンターノ大尉 申し上げなければならないことがあります。今夜ここでどんな人に出会うことになるのか、わたしには分かりませんでした。と言うより、わたし専用の部屋を見つけたいと願っていたのです。でも、それは無理でした。そこでお願いがあるのです。聖職者の方に向かって、こんなお願いをするのは、心苦しいかぎりなのですが、・・・いや、・・・どうしても申し上げなければなりません。・・・婚約者のメラニー看護婦が下にいます。彼女はビヤラ=ヴェルコフ野戦病院から駆けつけてきたのです。わたしがここに12時間だけいることを、テレタイプで彼女に知らせました。わたしは明日の朝、スターリングラードへ飛びます。この不安な夜に、わたしたちはここ以外に泊まるところがありません。それも、あなたが了承して、わたしたちをかくまってくださればです。厄介をおかけすることは、よくわかっているのですが・・・
 わたしのことは気になさる必要はありません。もちろん、あなた方は一緒にこの部屋に泊まってください。ただわたしは・・・いますぐ出て行って、二人きりにして差し上げたいが、それができないのです。
 ブレンターノさん、この書類をどうしても読まなくてはなりません。それも今からすぐに。ここに書かれている男は、明朝6時には、みすぼらしい棺のなかに横たわるのです。その前に、彼と話をしなければなりません。・・・こちらの方も、あなた方の場合と同様、本当に猶予がならないのです。
 奇妙な巡りあわせになったものです。あなた方お二人は、わたしがここにいないもののように、この部屋を使われることにすればどうでしょう。
 さあ、メラニー看護婦が嵐の中に立っていますよ。
ブレンターノ大尉 はい、すぐ行きます。ただ一言だけ。わたしは生活の苦しい家庭に――、言いかえれば、楽には暮らしてはいけない家庭に育ちました。しかし、父はわたしを戦争へ送り出すにあたって、詩人のクラウディウスの言葉を与えてくれました。「娘に危害を加えるな。そしてお前の母もかつては娘であったことを想え」。わたしはこの言葉をいつも思い起こしました。ただ、いまは・・・
 ブレンターノさん、いまは看護婦さんを連れてきてあげなくてはなりません。彼女に、こわがらなくてもいい、と言ってあげてください。
ブレンターノ大尉 感謝します。牧師さん。

SE(部屋の中を遠ざかる足音、扉が開閉する音)

(N) 彼は出て行った。わたしはパラノフスキーの書類を開いた。だが、精神を集中することができなかった。・・・恋人たちを助けてやらなくてはならない。宿舎は静まり返っているが、彼らが階段や廊下で、誰かに出くわさないとも限らない。急いで部屋を出ると、階段を降りて、戸外に出た。そのとき闇の向こうから大尉が姿をあらわした。彼の後ろには雨合羽にくるまれた大柄な人影が、しっかりした足取りでついてきていた。

SE(階段を静かにのぼる三人の足音)

(N) わたしたちは下手に急いだりせずに階段を上った。廊下を歩いているとき、かすかな足音を聞いたような気がしたが、無事に部屋にたどりついた。わたしは扉に鍵をかけ、かんぬきを下した。彼女はくるまっていた雨合羽を脱いで、わたしに挨拶するためにこちらを向いた。彼女は輝いていた。その存在自体が輝きだった。

 まるでモーツァルトのフィガロの一場面のようですね。これほど深刻でなければね。

SE(ブレンターノ大尉とメラニー看護婦の笑い声)

 コーヒーがもう1杯分あるのですが、コップがない・・・
メラニー わたし、紅茶の入った水筒をもっていますわ。
ブレンターノ大尉 わたしはブドー酒をもっています。
メラニー じゃあ、ほんものの宴会ができますわ。
 明かりをどんな具合にしようか、ブレンターノ?・・・これからアパートをつくらなければならない。
 メラニーさん、いささかお粗末な住まいだが、アドロン・ホテルなら、もっと快適な部屋に泊まってもらえるのですが・・・

音楽(甘美な)

(N) 本当に難しい場面では、軽やかな物の云い方だけが、局面を打開するというのは、おそらく本当だ。恋人たちの計画では、まさかこんな風になろうとは想像しなかったにちがいない。赤の他人からわずか3歩離れただけ、しかもドアで仕切られてもいないところで、別れを惜しまなくてはならないとは。しかもその別れたるや、婚礼であり、同時にほとんど死を意味しているのだ。

音楽(音楽つづく)

SE(音楽にかぶって戸外の烈風の音)

(N) わたしは書類を読みはじめると、周囲のことはまったく気にならなくなった。書類にはフョードル・パラノフスキーの犯罪を構成する事実が淡々と記されていた。
 1920年11月19日、ある女事務員の私生児として生まれている。父はドイツ国籍の、ポーランド語を話す職人。母親は彼を産んで間もなく、ホフマンという織物商人と結婚した。成人したフョードルはさまざまな職業を転々とし、戦争が勃発すると同時に軍に入隊した。添付されたある証言によれば、「パラノフスキーはどこといって特徴のない、おとなしい、まじめな兵士で、生活態度は控え目、女のもとへは決していかなかった」と書かれている。戦場では2度負傷し、2度目は膝の骨に貫通銃創を受けたために、後方の占領地区の建設部隊に移され、そこで炊事場勤務を命じられた。
 そして仕事柄、村へ卵や野菜を買い出しに行くうちに、ウクライナ女性のリューバと知り合った。リューバは若い未亡人で、幼い息子が1人いて、夫は戦闘で戦死していた。パラノフスキーが最初に魅かれたのは、子どもの方だった。
 建設部隊の駐屯地は工事とともに転々とし、その都度、駐屯地をリューバに知らせた。その手紙がナチス親衛隊・SSの臨検で発見されてしまったのだ。手紙の内容は無害なものだったが、結果として、国防軍の部隊の駐屯地をウクライナ人に知らせてしまったのだ。パルチザンの活動は、この地帯では絶えざる脅威だった。
 パラノフスキーは「軍機漏洩」の罪で逮捕され、ドゥブノーの刑務所へ送られた。判決の結果は目に見えていたから、彼は護送される途中の列車から飛び降りて、奇跡的に脱走に成功した。土地の言葉が話せる彼は、住民のなかに紛れ込み、その行方は杳〔よう〕として知れなかった。
 書類によると、3週間後、次のようなことが起こった。パルチザンの一隊がひそんでいるとされた森林地帯がしらみつぶしに捜索され、そこに住む多くの男女や子どもと一緒にパラノフスキーも捕えられた。彼らは尋問のために1カ所に集められたが、たまたまその村に、以前パラノフスキーが配属されていた部隊が駐屯していた。両手を挙げて尋問を待つパルチザンの中に、以前、部隊にいた炊事係長を見つけて、びっくりした曹長が、「おい、パラノフスキー、貴様、こんなところで何をしているんだ?」と叫んだ。
 以上が事の顛末〔てんまつ〕だった。この日狩り集められた者たちのなかに、リューバと子はいなかったが、彼らがその後どうなったかは分からない。パラノフスキーはその場で逮捕され、プロスクロールへ送られた。裁判は至極簡単なものだったらしい。彼は脱走罪で死刑を宣告された。(少しの間)
 わたしは書類を閉じた。ここに書かれているのは、愛されたことがない一つの人生の外面的な歴史だ。しかし、その内面の歴史はどのようなものなのだろう。・・・わたしは宙を見つめた。この若者がリューバとその子どもとともに、森のなかで過ごした8月の数週間の生活を、わたしは想像した。・・・・(しばらくの間を置いて)

ブレンターノ大尉(低い声で) 牧師さん、いま何時ですか?
 1時ですよ。
ブレンターノ大尉 (メラニーに向かって、ささやくように)あと6時間だね。
メラニー (ささやき声で)もう6時間だけ。
ブレンターノ大尉 6秒だ。
メラニー あと6年だわ。

SE(一段と激しく窓に吹きつける風音。窓がガタガタ揺れる音)

(N) 目をあげると、メラニー看護婦が外套をはおって立っていた。たがその様子はさっきとはちがい、黒い髪をほどいたまま、たらしていた。彼女はもはや看護婦ではなく、一人の娘、一人の女性だった。

メラニー 窓のよろい戸がやかましくって。あれをしっかりとめることはできませんかしら。
 難しいでしょうね、なにしろこの嵐だから。でも、やってみましょう。このぼろ布を押し込んでみましょう。

SE(窓を開ける。激しい風が吹き込む。窓の隙間に布を差し込み、閉める音。窓のガタガタいう音は少し小さくなる)

メラニー あの人、眠っていますわ。

 あなたも、もうしばらくお休みなさい。メラニーさん。
メラニー でも、眠る暇でしたら、これから冬じゅうありますわ。
 いまから1時間ほど、明かりを消しますよ。

(N) 彼女は別れを告げるように、黙って手を差し出し、顔をそむけた。きっと、いまにもこぼれ落ちそうな涙を見せたくなかったのだろう。
 わたしは、兄弟たち、友人たち、最愛の人たち、この夜にじっと耳をすましているすべての人びとのことを想った。疲労が目蓋におおいかぶさって来ても、眠ることを許されない人たち・・・別れを告げる人も、時には眠さに耐えきれなくなって、やがて彼らも眠る。深く、安らかに。パラノフスキーも眠っているだろう。
 嵐よ、夜の激しい嵐よ、吼え猛けり、窓をゆさぶる嵐よ、だが死に捧げられている人たちだけは、揺り起こさないでくれ。

音楽(間奏風の)

(N) いま、3時半だ。わたしは眠気を追い払うために、濡らしたタオルを目と額におしつけた。書類をかかえると、そっと部屋を出て、階段を降りた。外では嵐が吹きつのっていた。

                                                (続) 
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by monsieurk | 2014-07-08 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

ラジオ・ドラマ「不安の夜」Ⅱ

SE(吹きつのる風の音。こちらに向かってくる足音)

歩哨 誰だ、外にいるのは?
 従軍牧師です。
歩哨 暗号は?
 ヴィニツァから、いま来たばかりなのです。わたしは福音派の従軍牧師だ。マッシャー特務軍曹にお目にかかりたいのだが。
歩哨 承知しました。

SE(二人が長い石の廊下を歩く音)

歩哨 従軍牧師殿をお連れしました。
 遅くにご迷惑でしょうが、お手数をかけなくてはなりません。ご存知でしょうが、明日の早朝、兵士パラノフスキーの処刑が行われます。わたしは彼に、死に対する心構えもたせるために、命令を受けて来たのです。
特務曹長 わかりました、従軍牧師殿。
 ところでわたしは今夜のうちに、パラノフスキーと会っておく必要があります。それもわたしがここへ来た理由を、彼に前もって知られたくはないのです。知らせるのは明朝、――明日の早朝がよいと思います。そこで、どうしたらいいか、相談に乗ってほしいのですが・・・
特務曹長 兵営の祈祷会を催してはどうでしょうか。以前も祈祷会を行ったことがありますから、気付くことはないと思います。囚人たちは少しでも寝る時間が短くなれば大喜びです。そのときどの男がパラノフスキーか分かりますよ。なかなか真面目な若者です。
 そうですね。そうしましょう。
特務曹長 囚人たちを一つの監房に集めましょう。
 結構です。
特務曹長 準備がととのうまで、ここでお待ち願えますか。
 いや、わたしは先にその部屋に入れていただきましょう。

音楽(時間の経過を示す)

(N) 看守たちがベンチを3つならべ、そのそばに机を置いてくれた。私はその上に十字架と、ポケットに入れておいた2本の蝋燭を立てた。

SE(大勢の囚人たちが部屋に入ってくる足音)

 プロテスタント派の従軍牧師です。どうか、一人ずつ名前と出身地を教えてください。
囚人一 兵士シュミット、バイエルン州出身。
囚人二 兵士バイヤー、ミュンヘン出身。無職。
囚人三(パラノフスキー) 兵士パラノフスキー、無職、キュストリン出身です。
 わたしの友人にキュストリン出身の人がいるのだが、東教会のリリエンタール牧師だ。
パラノフスキー 本当ですか? あの方がわたしに堅信礼をほどこしてくれたのです。
 そうでしたか! 彼はいま、わたしの勤務地の近くの大隊で上等兵になっていますよ。
パラノフスキー そうですか、リリエンタール牧師が・・・。あの人にはもう一度お会いしたかった。立派な方でした。
 君からよろしくと、彼に伝えましょうか、パラノフスキー?
パラノフスキー(間があって) いいえ結構です。もう7年も経っていますから、もう覚えておられないでしょう。あれから沢山の人たちが堅信礼を受けたでしょうし・・・
 いや、きっと覚えていますよ。彼は人の顔や名前、およそ人間のことなら何でも、大変な記憶の持ち主だから。
パラノフスキー いいえ、やはりお伝え下さらない方がよさそうです。

(N) わたしは他の囚人に移った。そして彼らに、ルカの使徒行伝の、「夜中に、パウロとシラスは祈り、神を讃美するのを囚人〔めしうど〕ら聞きたるに」の箇所について話をした。わたしはここへ来る途中、これを準備していた。
 大切なのは、囚人たちが今おかれている特別な時間と、特別な運命であって、生きることの意味を教え、真夜中に讃美歌を歌うことが、自分たち自身への贈り物であるのを示すことだった。

音楽(複数の人が歌う讃美歌)

(N、讃美歌にかぶって)彼らは故国ドイツの市民社会にいれば、決して刑務所に入れられる羽目に陥ることなどなかっただろう。
 戦争が悪いのだ。若者たちは林のなかで恋人たちに出会えたはずだし、みずみずしい果物にかじりつくような接吻を唇に感じられたはずなのだ。それが、いまはこの刑務所に収監されている。・・・

 マッシャー軍曹、わたしは明日の朝早く、4時ちょうどに来ます。パラノフスキーと話をするのに1時間は必要です。軍法会議判事は5時15分に来るといっていますから。
マッシャー軍曹 わかりました。従軍牧師殿。
 おやすみ。
マッシャー軍曹 おやすみなさい。
 今日の合言葉は何でしたか?
マッシャー軍曹 オデッサ、です。
 合言葉は・・・オデッサ・・・ね。

音楽(間奏風の)

SE(烈風の音)

(N) 刑務所の扉を押して外に出ると、そこで声をかけられた。わたしを待っている人がいた。

エルンスト中尉 牧師殿ですか?
 そうです。
エルンスト中尉 エルンスト中尉です。
 今晩は、エルンストさん。
エルンスト中尉 わたしはある建設大隊の中隊長です。わたしたちは明朝のために、銃殺分遺隊を組織せよとの命令を受けました。わたしが分遺隊の指揮官に任命されたのです。
 憂鬱な任務ですね。
エルンスト中尉 お察しするところ、わたしたちどちらも、お互い羨ましがるような任務ではなさそうですね。ご同役。
 すると、あなたは・・・
エルンスト大尉 ええ、わたしも牧師なのです。ゾーストの近くの村の。ご同役、こう呼ぶのをお許しください。・・わたしは・・・この命令は、わたしには堪えられません。

SE(激しい風音)

エルンスト中尉(疲れて重い口調で) わたしには、できない。・・・なにもかも嫌がらせなんです。カルトゥシュケ少佐の嫌がらせです。
 少佐は何か、あなたに含むところがあるのですか?
エルンスト中尉 わたしたちは、カルトゥシュケとわたしは知り合いなんです。それも浅いとは決して言えない間柄です。・・・22年前、1920年のことですが、カルトゥシュケは数カ月間、わたしの家の同居人で、わたしの代理牧師をしていたのです。
(思わず大声で) そうだったんですか! しかし、まさかカルトゥシュケが聖職者だなんて!
エルンスト中尉 そんな大声を立ててはいけません。風に耳ありです。カルトゥシュケは聖職者だったのです。ほんの短期間・・・1年か2年でしたけれど。彼が聖職者になったのは間違いでした。彼自身がしばらくしてから、それを悟りました。彼はすぐに方向転換しました。転々とさまざまな職業に就いたのだと思います。彼はわたしたちの前から姿を消しました。
 ところが1933年にヒトラーが現れると、カルトゥシュケもふたたび姿を現しました。教会の僕〔しもべ〕が去って、教会の密偵〔いぬ〕が現れたのです。悪い時代です。2年後に兵役義務が復活し、カルトゥシュケがやっと一廉〔ひとかど〕の者になる機会を見出したとき、わたしたちはほっとしたものです。その彼が今では少佐です。だがそれはわたしの知ったことじゃない。それにしても、こんな風に出会おうとは、人生が、彼にわたしを苦しめる機会を与えようなどと、思ってもみなかったことです。

SE(しばらく沈黙、風の音)

エルンスト中尉 わたしは今日の午後も、この任務をのがれようとしたのですが、カルトゥシュケはいませんでした。たぶん居留守をつかったのでしょう。おめおめと、彼の前にひざまずいたりはしません。ああ、こんな仕打ちをする機会を、彼はどんなに喜んでいることか。・・・何もおっしゃらないのですね?
 わたしには信じられません。カルトゥシュケがわたしたちと同じ聖職授与式の宣誓をしたとは・・・
エルンスト中尉 お言葉をさえぎって恐縮ですが、カルトゥシュケのことは、もうよしましょう。明日の朝、わたしは「撃て」と言わなくてはなりません。あなたがうまい具合に罪人をつくりあげる。そこで今度はわたしが完全にとどめをさす。ヒトラーのパンを食べて、ヒトラーの歌をうたうというわけです。
 あなたに課せられた邪悪な任務に対して、良心のやましさを取り除くようなものを、何か差しあげるべきなのでしょうが、あなたに何を言えばいいのでしょう? ・・・エルンストさん、あなたが命令しなくても、パラノフスキーには何の役にも立ちません。彼はやはり死ななければならないのです。そしてあなたは将校の階級を剥奪される、いや、それだけでは済まないかもしれません。そんなことをお望みですか?   結局、この陰惨な戦争で、人間的な将校の方が少なく、非人間的な将校の方が多くなるだけのことでしょう。なぜなら、補充はすぐつくからです。補充など、砂糖大根みたいに安いのですから。
エルンスト中尉 なるほど。もっと悪いことが起こるのを防ぐために悪事をなす、というわけですね。しかしわたしたちはこの戦争で、一体どんな秩序を維持しようというのでしょう? 墓場の秩序ですよ。そして最後の、それも最大の墓場を、わたしたちは自分たちのために予約しているんです。それに、よしんばわたしたちが将来生き残ったとしても、誰かが尋ねるでしょう。「お前たちは何をしてきたんだ?」と。そのときわたしたちは言うでしょう。「わたしたちは何の責任もありません。命令されたことをしただけです」と。わたしはあなたにお尋ねしたい。わたしたちはカルトゥシュケやその同類たちに比べて、どこが優れているのですか? わたしたちの方が彼らより、もっと堕落しているのではないのですか? なぜならわたしたちは自分の行為のなんたるかを知っているのですから。(沈黙)・・・   
 それでも結局わたしたちは、義務と責任をはたすというわけです。あなたが慰めにみちた言葉のビスケットを与える、そしてわたしはあまり砂糖気はないけれど、慰めにみちた銃弾を与えるわけです。
 エルンストさん、わたしは明朝4時に、パラノフスキーに会いに監房へ行き、彼に、ビスケットではなく、もし事情が許せば、キリストのパンと葡萄酒を与えます。それが同じものではないことはご存じでしょう。
エルンスト中尉 ええ、よく承知しています。わたしが辻褄の合わないことを喋っているとしたら、途方にくれている気持に免じてお許しください。しかし、あなたご自身の答えを言ってください。・・・これは天、人ともに許さざる行為ではないでしょうか? わたしたちは神の僕〔しもべ〕でありながら、忌まわしい扮装をして、襟に人殺しのしるしを縫いつけて、ロシアの街を走りまわり、そして明日の朝、一人の若者を銃殺するんです・・・。
 あなたはカルトゥシュケやその同類と、わたしたちはどう違うのだ、わたしたちは何をなすべきかとお尋ねになりました。おそらくわたしたちが異なるのは、いつ、いかなるときでも、よくないことは決して是認しないという、まさにその点だけでしょう。魔女の饗宴のような今日の混乱は、わたしたちみなを罪ある者にしています。わたしたちの罪は、わたしたちが生きているということです。わたしたちは自分の罪を担って生きてゆかねばなりません。 
 やがていつの日か、戦争もヒトラーも、何もかもが過ぎ去ってしまうでしょう。そうすれば、わたしたちは新しい使命を持つのです。わたしたちは真剣にそれと取りくみましょう。そのときには、すべての出来事や、この戦争全体の内面的な姿が問題になるでしょう。 
 戦争を憎むことは重要ではありません。憎しみとは、一種の攻撃的な欲望です。憎悪の魔力を取り除くことが必要です。明日になれば、みなが戦争の愚かしさを思い知るでしょう。そして10年ほどは覚えているでしょう。だが、そのうちにまたもや幾つかの神話の種が撒かれ、タンポポのように生い茂ろうとする。そのときわたしたちはお互いに草刈り人として、その場に踏みとどまっていなくてはなりません。
エルンスト中尉 国防軍宿舎につきました。ありがとう、牧師さん。あの若者に臨終の聖餐を施してやってください。そしてわたしのあわれな魂のために祈ってください。
 わたしたちの哀れな魂のために、祈りましょう。
エルンスト中尉 ではまた。「グーテン・ナハト、おやすみなさい」、でもどうやら二人とも安らかな夜は望めそうにありませんね。

(N) わたしたちは握手して別れた。彼は重い荷物を担っている人のように、少し前かがみになって歩いて行った。「ではまた」という言葉が、彼が自分の受けた命令に従おうと決心したことを意味していた。

                                             (続)
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by monsieurk | 2014-07-06 22:30 | 芸術 | Trackback(1) | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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