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内藤濯の留学日記Ⅵ

 2月22日、文部省から大使館に電報が入り、4月初旬にパリ大学ソルボンヌで開催される「図書館と愛書家の国際会議」に、日本代表として出席するように内藤濯に要請があった。第一次大戦で中断されてい図書館員による国際会議が再開される記念すべき会合で、責任は重大だった。妻に宛てた4月2日付けの手紙――
 「この一週間はかなり忙しい思ひをした。それは例の図書館会議があしたから始まるので、其の支度で気骨が折れたのである。とにかく旅先なので、文書をあつめる暇もない。頭にあるだけの事を十ページばかりの仏蘭西文にまとめて、それを会議の席上で演説しようといふのである。大統領をはじめお歴々の方々を向ふへまわしてしゃべり立てようといふのだから、ともかくも大芝居である。其の舞台は、d0238372_14394517.jpgソルボンヌ大学の千人もはいるというふ大講堂。会議は九日の夕方まで続く。日曜をのぞいて毎日午前九時半から午後の五時まで続けられるのである。かなり気骨も折れよう、疲れもしよう。しかし、巴里滞在中の一番大きな思ひ出になる事であるから、痩腕ながらうんと馬力をかける覚悟である。二万哩のそちらから、せめては拍手でもして欲しい。」
 内藤は大会三日目の4月5日木曜日に、日本の読書界を話題にして演説した。「高名な文学者であるポール・クローデル氏が在日フランス大使に着任されて以来、フランス語専修の学生数は急増しつつあります。なにとぞわが日本の現状に着目され、文化の交流に力を尽くしていただきたい、そう切望する次第であります」と述べると、満場は拍手で埋まった。
 8日の日曜日の夜には、参加者全員の宴会があり、内藤はアンリ・マルタン会長とレオン・ベラール文部大臣の正面に座らされて話が弾んだ。こうした機会は、内藤の大きな自信となった。それらはパリ到着以来の劇場通いや、ノエル・ヌエットとの交流の成果に他ならなかった。
 帰国する山田珠樹夫妻が、6月14日にパリをたってマルセイユへ向かった。17日に出航する船に乗船することになっていた。その3日後、石井柏亭が訪ねてきた。6月20日の日記――
 「石井氏(柏亭)がたずねてくる。此の秋、美術雑誌「L’amour de L’art」が日本号を出すことになった、それにのる氏の論文を仏訳してくれという、とにかく引き受けておく事にする。何かと話しているうちにヌエット氏がくる」。この翻訳もヌエットに見てもらうことになった。
 7月6日、「日本の現代の短歌をフランス語に移してみる気になる。・・・手元にある啄木の詩集の中から気に入ったのを訳してみる。思いの外にうまく行く。啄木、晶子、白秋などのものを二百ばかりあつめて一冊にまとめたらどんなに面白かろう。」
 9月1日、故国では関東大震災が起った。情報は大使館経由で知らされたが、留守宅がどんな状況かは知らせがなく心を痛めた。1カ月を過ぎた10月22日になって、ようやく手紙が届いた。投函された日付は震災に襲われた9月1日で、封筒の表に、「九月一日大地震、皆無事なれど家はめちゃめちゃ」と書かれていた。手紙は前日に書かれて封緘されたものと思われた。その後で地震に襲われ、それが鎮まるのを待って郵便局で投函する際に急いで書いたものと推測された。
 ひとまず安心した内藤は、日本新詩史をフランス語でまとめることにした。10月11日の日記には、「朝、ヌエット氏来る。柳沢健氏の記録を基にして日本新詩史をフランス語で編みはじめる。」これにもヌエットの協力を得て、代表的な文芸誌「メルキュール・ド・フランス」に投稿する予定だった。
 こうした数々の成果をあげた留学だったが、内藤濯は留学期間を短縮することを文部省に願い出て認められた。日記は12月24日の項で終わっている。彼は1924年(大正13)1月27日にマルセイユを発つ日本郵船の榛名丸で帰国の途についた。
 内藤を助けたノエル・ヌエットの生活にも転機が訪れた。内藤が帰国した翌1925年に、パリの日本大使館の外交官から情報がもたらされた。彼は大使館員にもフランス語を教えており、ある日、静岡高等学校がフランス人教師を探していて、適任者を推薦してほしいと外務省を通して在仏大使館に依頼してきたという情報を教えられたのである。ヌエットは正式なフランス語教師の資格をもっていたわけではなかったが、大使館員がもたらした未知の国での新たな生活が彼をひきつけた。
 話はとんとん拍子に進み、ヌエットは3年間の契約で旧制静岡高等学校へ赴任することになった。ヌエットはこの年にイヴォンヌと再婚しており、二人がマルセイユからフランス郵船の定期船に乗ったのは1926年(昭和元)1月のことだった。
 来日したノエル・ヌエットのその後については、雑誌「東京人」に、「東京を愛した文人画家ノエル・ヌエット」と題して、3回に渡り(2011年4月、5月、6月号)書いたことがある。

 短い夏休みをとって、次回は9月から再開します。
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by monsieurk | 2014-08-22 22:30 | | Trackback | Comments(0)

内藤濯の留学日記Ⅴ

  ノエル・ペリの追悼会を実施するに当たっては、内藤初穂の評伝に興味深いエピソードが紹介されている。
 「能楽の準備については、シテ役の石本巳四雄が礼装用の黒紋付に袴や扇子を持ちあわせていたが、能面なしで扇子を舞扇がわりにするとしても、能衣装なしでは能の形がつかない。囃子方は省略するとしても、地謡抜きというわけにはいかない。能舞台になりそうな板敷きはどこかの講堂の演壇を都合できそうだったが、その背景の鏡板をどうするか。
 能衣装や鏡版を何とかそれらしく用意しようと申し出たのは、裸婦の「乳白色の肌」と「流麗な黒の輪郭線」とでパリ画壇に旋風を起こしていた異色の画家藤田嗣治であった。」
 内藤濯は留学する際に乗船した諏訪丸で藤田の兄と同船していたが、藤田に助力を頼んだのは追悼会を企画した朝日の町田梓楼だった。鏡板をそれらしく描くのは画家の藤田にとって問題でではなかった。だが能衣装はどうするか。演目は狂女ものの「花筐」、男物の「屋島」、鬼がでる「春日龍神」と決まり、「屋島」と「春日龍神」は黒紋付と袴で演じるにして、華やかな「花筐」用の衣装をつくることになった。
 内藤がギメ美術館へ行って能衣装の図録を借り出し、それを参考にデパートで相応しい布地を調達した。それをホテルのマダムに頼んで縫い合わせてもらった。それをモンパルナスにあった藤田のアトリエに持ち込むと、藤田はそれに色彩をほどこした。ただこの制作の過程は誰にも見せなかった。
 内藤が二、三日してアトリエを訪ねると、衣装はすでに出来上がっていた。衣装の一面に松や竹の葉、梅の花を綾どり、それを金箔や銀箔で隈どってあり、目が覚めるほどの美しさだった。だが来合わせた石本が着て動いてみると、胡粉を塗ってこわばった生地がばさばさ音をたてる。それを見た藤田は衣装全体を揉みはじめた。すると地の胡粉も絵具、金箔銀箔の適度に剥落して音がしなくなるとともに、味のある美しさが出た。藤田をはじめ皆は大いに満足だった。
 舞台の書割も出来上がり、あとは地謡の謡い手だった。ところが当時のパリには謡曲の心得のあるものが一人もいない。そこで内藤が有志数名を集めて、石本から口移しで謡を習った。
 日仏文化交流のさきがけである「ノエル・ペリ追悼記念集会」は、1923年3月18日の日曜日に、サン・ジェルマン大通りに面した地理学協会の講堂で行われた。会場はすぐに満員となり、「東洋友の会」のスネール会長と松田道一公使の挨拶のあと、発起人の町田梓楼が、能楽とペリについて解説し、次いで石本巳四雄の能楽三番が演じられた。
 圧巻は藤田が丹精を込めた衣装と鏡板で、内藤たちの地謡は冷や汗ものだったが、内藤の回想によれば、「来会したフランス人の中には、まるでグレゴリー聖歌を聞くようだと、まじめに言った人がいた」といい、大いに面目をほどこした。
 内藤はこの翌日から四日間の予定で、山田珠樹、森茉莉夫妻と同道して、東部フランスをめぐる旅行に出た。印象的だったのは第一次大戦の痕も生々しいヴェルダンの要塞だった。戦火がやんでまだ4年4カ月しか経っていなかった。アルザス・ロレーヌ一帯は普仏戦争以来、戦争の度にドイツ領になったりフランス領になったりした地域で、住民の多くはフランス語でもなくドイツ語でもないアルザス語を話すことを知ったことも収穫だった。(続)ノエル・ペリの追悼会を実施するに当たっては、内藤初穂の評伝に興味深いエピソードが紹介されている。
 「能楽の準備については、シテ役の石本巳四雄が礼装用の黒紋付に袴や扇子を持ちあわせていたが、能面なしで扇子を舞扇がわりにするとしても、能衣装なしでは能の形がつかない。囃子方は省略するとしても、地謡抜きというわけにはいかない。能舞台になりそうな板敷きはどこかの講堂の演壇を都合できそうだったが、その背景の鏡板をどうするか。
 能衣装や鏡版を何とかそれらしく用意しようと申し出たのは、裸婦の「乳白色の肌」と「流麗な黒の輪郭線」とでパリ画壇に旋風を起こしていた異色の画家藤田嗣治であった。」d0238372_1433434.jpg
 内藤濯は留学する際に乗船した諏訪丸で藤田の兄と同船していたが、藤田に助力を頼んだのは追悼会を企画した朝日の町田梓楼だった。鏡板をそれらしく描くのは画家の藤田にとって問題でではなかった。だが能衣装はどうするか。演目は狂女ものの「花筐」、男物の「屋島」、鬼がでる「春日龍神」と決まり、「屋島」と「春日龍神」は黒紋付と袴で演じるにして、華やかな「花筐」用の衣装をつくることになった。
 内藤がギメ美術館へ行って能衣装の図録を借り出し、それを参考にデパートで相応しい布地を調達した。それをホテルのマダムに頼んで縫い合わせてもらった。それをモンパルナスにあった藤田のアトリエに持ち込むと、藤田はそれに色彩をほどこした。ただこの制作の過程は誰にも見せなかった。
 内藤が二、三日してアトリエを訪ねると、衣装はすでに出来上がっていた。衣装の一面に松や竹の葉、梅の花を綾どり、それを金箔や銀箔で隈どってあり、目が覚めるほどの美しさだった。だが来合わせた石本が着て動いてみると、胡粉を塗ってこわばった生地がばさばさ音をたてる。それを見た藤田は衣装全体を揉みはじめた。すると地の胡粉も絵具、金箔銀箔の適度に剥落して音がしなくなるとともに、味のある美しさが出た。藤田をはじめ皆は大いに満足だった。
 舞台の書割も出来上がり、あとは地謡の謡い手だった。ところが当時のパリには謡曲の心得のあるものが一人もいない。そこで内藤が有志数名を集めて、石本から口移しで謡を習った。
 日仏文化交流のさきがけである「ノエル・ペリ追悼記念集会」は、1923年3月18日の日曜日に、サン・ジェルマン大通りに面した地理学協会の講堂で行われた。会場はすぐに満員となり、「東洋友の会」のスネール会長と松田道一公使の挨拶のあと、発起人の町田梓楼が、能楽とペリについて解説し、次いで石本巳四雄の能楽三番が演じられた。
 圧巻は藤田が丹精を込めた衣装と鏡板で、内藤たちの地謡は冷や汗ものだったが、内藤の回想によれば、「来会したフランス人の中には、まるでグレゴリー聖歌を聞くようだと、まじめに言った人がいた」といい、大いに面目をほどこした。
 内藤はこの翌日から四日間の予定で、山田珠樹、森茉莉夫妻と同道して、東部フランスをめぐる旅行に出た。印象的だったのは第一次大戦の痕も生々しいヴェルダンの要塞だった。戦火がやんでまだ4年4カ月しか経っていなかった。アルザス・ロレーヌ一帯は普仏戦争以来、戦争の度にドイツ領になったりフランス領になったりした地域で、住民の多くはフランス語でもなくドイツ語でもないアルザス語を話すことを知ったことも収穫だった。(続)
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by monsieurk | 2014-08-19 22:30 | | Trackback | Comments(0)

内藤濯の留学日記Ⅳ

 幕末の日本は諸外国と修好通商条約を結び、1859年(安政6)にフランスの初代公使としてデュシェーヌ・ド・ベルクールが赴任した。ベルクールは日本滞在中に広重の浮世絵の美しさに魅せられて蒐集した。広重がコレラで世を去ったのは、ベルクールが着任する1年前の1858年である。
 広重は1833年に刊行した『東海道五十三次で一躍人気浮世絵師となり、その後『木曾街道六十九次』、『近江八景』、『名所江戸百景』を次々に発表して人気を博した。ベルクールが集めたのは『江戸百景』で、1864年に帰国するときにフランスへ持って帰ったのである。d0238372_14482551.jpg
 ベルクールは晩年になって、このコレクションを姪に譲り、ヌエットの母がこの姪の親しい友人であったことから、広重版画はヌエット家の所有となった。箱の中に大切にしまわれていた版画を少年ヌエットは目にした。
 「私がいつか日本に住み、東京の中で広重の描いた場所にめぐり会い、皇居となった将軍の古城の姿を私自身も描くということを誰がいったい予想できたであろう? まことに運命とはかくのごときものである」「私はとくに、広重が興にまかせて最初の構図として描いた風景のある版画をさがし求めるのを楽しみにする。きわめて大胆なこれらの作品はスナップ写真を想わせる。思うに、広重はわれわれに『突然眼に映った物』の印象をあたえることを歓びとした唯一の、(あるいはほとんど唯一の)芸術家である。即興的に作られたこれらの下画の中には偉大なる巧みさが認められる。構図のないことが優れた構図となっている。」(『東京のシルエット』)だが後に、そこに描かれた極東の国へ行き、絵の対象となった風景を自分が描くことになるとは想像もしていなかった。
 ノエル・ヌエットは1920年、35歳のときに結婚したが、新婚生活をはじめて間もなく新妻が病気で亡くなった。悲嘆は大きくしばらくは何も手につかない状態が続いた。
 辰野隆、山田珠樹、内藤濯たちがヌエットと交遊を深め、フランス語の個人教授をうけるようになったのはこうした時期であった。
 内藤の日記から、パリでのはじめての正月を迎えた1923年(大正12)のヌエットにかかわる記述を抜き出してみると、――
 1月5日「ヌエット氏から其の詩集を貰う。」
 1月6日「午後コメディー・フランセーズのマチネー・ポエチックへ行く。だんだんこちらの耳が肥えてきて、必ずしも同感のできないものが二つ三つある。・・・ヌエット氏の二つの詩はデュサーヌによって可なり巧みに読まれた。連中はさかんに喝采した。かえりに廊下でヌエット氏に会う。」d0238372_14252138.jpg
 1月17日「朝はヌエット氏の来るのを迎えて話を交わす。」
 1月24日「ヌエット氏を迎えて、アナトル・フランスの『プチ・ピエール』を読みはじめる。」
 以下、同じような記述があって、毎日のようにヌエットと出会っていることが分かる。この間1月21日に辰野隆が帰国の途についた。望郷の念にかられた内藤は、第一高等学校の校長宛てに、留学期間の短縮の是非を打診する手紙を送ったりしている。それでも劇場通いは怠らなかった。さらにヌエットとフランシス・カルコの『ロンム・トラケ(追いつめられた男)』を読んで宗教対芸術の問題を議論し、同道してパリ市内や郊外を散策することもあった。さらに山田珠樹とともに、ラシーヌの『ブリタニキュス』の翻訳をこころざすなど意欲は衰えていなかった。
 2月4日、パリに滞在中の東久邇稔彦から夕食に招かれる機会があった。内藤は陸軍士官学校の教官だったとき、東久邇にフランス語を教えた縁であった。この夕食会の席で、秋に開かれる「サロン・ドトーヌ」に、日本画が展示するためにやってきた画家石井柏亭と出会った。初対面だったが、柏亭夫人が内藤の妻と梅花女学校で同級だったことや、彼の宿がかつて内藤が暮らしたソムラール通りのホテルであることが分かって、以後親しく交際するようになった。
 さらに2月17日には、東京朝日新聞社の特派員、町田梓楼が計画した「ノエル・ペリ追悼記念会」への協力を求められて発起人に名をつらねた。ノエル・ペリは明治末に来日して、長野や東京で宣教師として活動するかたわら、東京音楽学校で教鞭をとり、能楽を海外に紹介したことで知られる。日本を離れたあとはヴェトナムのハノイで宣教していたが、1922年6月に、そこで交通事故で亡くなったのである。
 彼を追悼するには能楽がふさわしいとして、仕舞の心得がある石本巳四雄に話がきた。辰野隆の友人である石本は、振動学を研究する物理学者で趣味人でもあり、そんな石本と親しく交流していた内藤にも協力の要請があった。(続)
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by monsieurk | 2014-08-16 16:30 | | Trackback | Comments(0)

内藤濯の留学日記Ⅲ

 内藤濯が留学した当時、パリには20ほどの劇場があった。d0238372_9515439.jpg彼が辰野隆や山田珠樹のアドヴァイスを受けて先ず足を運んだのは、パレ・ロワヤルにあるフランス座(コメディー・フランセーズ)だった。そこでコルネイユ、ラシーヌ、モリエールなどの古典劇や、ボーマルシェ、マリヴォなど18世紀の芝居を堪能した。
 フランス座では、2年前からヴェテラン女優スゴン・ヴェルベールが音頭をとって、「詩の朗読」の会が、毎週土曜日の午後に開かれていて、内藤の日記には度々これを聴きに行ったことが記されている。
 内藤が留学した1922年、右岸のシェトレ広場にある「サラ・ベルナール劇場」では、78歳になる大女優サラ・ベルナールが一座を率いていた。d0238372_948243.jpg彼女は負傷した右足を切断した後も木製の義足で舞台に立っていたが、これは当時の舞台の中心が台詞にあったことを示す証拠である。サラはその「金の声」でパリの観客を魅了してきたが、さすがに衰えは隠せず、翌年3月には亡くなってしまう。
 一方、この年の暮にパリ公演を打ち上げたスタニスラフスキーの「モスクワ芸術座」は、リアリズム演劇でフランス演劇界に旋風を巻き起こした。刺激を受けたジャック・コポーは、新しい演劇をめざして「ヴィユ・コロンビエ座」を立ち上げ、19世紀以降の新しい作家の戯曲を積極的に作品を取り上げた。なかでもシャルル・ヴィドラックなど内面派の詩人の作品は、台詞に重き置く古典とは一味違う境地を切り開こうとしていた。
 内藤の日記の12月6日の項に、次のような記述がある。「辰野としばらく話しているうちに、詩人ノエル・ヌエット氏がたずねてくる。すぐに紹介される。大変まじめな人らしい。好きな人である。滞在中の話相手にしたい。」さらに12月21日には、「夕刻、山田君の室へヌエット氏夫妻がお茶に招かれる。自分も同席して2時間近く話し込む。ヌエット氏を益々よい詩人だと思う」とあり、同日付の妻宛ての手紙でも、「こちらへ来てもうやがて1ケ月になる。詩人のノエル・ヌウェトという三十いくつかのフランス人と知り合いになり、ブーランジューといふ老文学者の講義を聴いたり、フランスの古典劇や現代劇を舞台なり書物なりで味わったりしてゐるうちに、もう大分獲物ができた。」と伝えている。
 日記で言及されているノエル・ヌエットは、1885年(明治18)にフランス北西部ブルターニュ地方のモルビアン県ヴァンヌ市に近いロクミネで生まれた人物である。父のアンジュは医師、母はマリーといい、彼の本名はフレデリック=アンジェス・ヌエットである。十代で詩人になることを夢見て、パリ大学文学部(ソルボンヌ)で文学を専攻してモンマルトルに住んだ。
 卒業後は出版社に勤務し、高校時代から書きはじめた詩が著名な雑誌「レエルミタージュ」などに掲載された。このとき用いたペンネームがノエル・ヌエットだった。ノエルとはフランス語でクリスマスを意味するが、もともとはキリストの生誕を喜ぶ叫びで、中世では国王が街に入場する際にも叫ばれた言葉でもあった。
 彼は自作の詩を集めて、1910年に、第一詩集『 葉がくれの星』(Les Ētoiles entre les feuilles)を出版し、スピリチュアリスト賞を受賞した。さらに翌1911年には第二詩集『無限を渇望する心』(Le Cœur avide d’infini)、1913年には第三詩集『野原の鐘』(Les Cloches des champs)を立て続けに刊行した。これらの詩集は好評で、評論家のモーリス・アレムは、「彼の芸術は即興性と単純さと静謐さからなっている。感情や印象は彼の詩の糧であり、彼はそれを感じた瞬間に、ほとんど加工しない形のもとに翻訳する。だから彼の詩句にはいかなる技巧もない」と評している。第三詩集の裏表紙には、次の詩集『Paulo majora』の刊行が予告されていたが、この詩集は戦争のために出版されなかった。
 1914年7月、第一次大戦が勃発すると、ヌエットも動員されて軍隊に入った。戦争はフランスのみならずヨーロッパ全土に未曾有の惨禍をもたらした。フランスはドイツの侵攻を食い止めるために、東部ヴェルダンに要塞を築いていたが、ドイツ軍はこれを迂回する作戦をとったために役に立たず、やがて戦線は膠着し、各地で塹壕戦が繰り広げられた。幸いヌエットは前線に送られることはなかったが、とても詩を書く気にはならなかったのである。
 戦火は1918年11月に止み、ヌエットも日常の生活を取り戻した。パリでは戦前にもましてさまざまな文化活動が行われ、文学サロンも再開された。ヌエットもサロンに出入りする機会があり、フランシス・ジャム、アンリ・ド・レニエ、女流詩人のアンナ・ド・ノアイユなどと知り合いになった。そしてその詩が、先に触れた「コメディー・フランセーズ」の「詩の会」で朗読されるという光栄に浴したのである。
 ノエル・ヌエットは、パリを訪れた日本の歌人与謝野晶子と鉄幹夫妻と知り合い、さらに留学していた辰野や山田珠樹とも親しく交流することになった。内藤がヌエットと知り合ったのは彼らのお陰だった。
 ただヌエットが最初に日本と触れたのは、これよりもずっと早く、少年時代に母マリーが所有していた日本の浮世絵を目にしたときだった。(続)
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by monsieurk | 2014-08-13 22:30 | | Trackback | Comments(0)

内藤濯の留学日記Ⅱ

 内藤濯が神戸から乗った諏訪丸は、門司、上海、香港、シンガポール、ペナン、コロンボ、スエズ、ポートサイドに寄港しながら、42日をかけて大正11年(1922)11月26日にフランス・マルセイユ港に到着した。下船したのは午後1時であった。内藤はこの初めての海外旅行のあいだ日記をつけている。これに関して初穂は次のように述べている。
 「もともと日記をつける習慣のない父だったにもかかわらず、唯一の例外として、留学時のポケット判日記を残している。外国旅行そのものが、今ほど手軽ではない時代であった。晩婚の父は当時結婚二年あまりの三九歳、妊娠中の母と一歳一〇カ月の私とを残してゆく洋行は、それこそ水盃をしたいほどの緊迫感を与え、ゆれ動く気持を落ち着かせる工夫の一つとして、生涯で唯一の日記を書く気にさせたのであろう。」
 内藤濯の日記は1920年代の留学を知る上で大変貴重な資料で、1984年に『星の王子パリ日記』としてグラフ社から刊行された。初穂の評伝は、この留学日記と母宛てに投函された40通をこえる書簡をもとにして、父濯の留学生活を描いている。
 濯はマルセイユに上陸すると、その日の夜行列車でパリに向かった。パリ到着は翌11月27日の朝8時55分で、もっぱら南からの列車が発着するリヨン駅であった。
 駅では大学の2年先輩の折竹錫(おりたけ・たまう)が出迎えてくれた。冬のパリは日照時間が短く、明るくなりはじめたばかりのセーヌ川を南に渡って、パリ5区のソムラール通り9番地にあるホテルの一室に荷物をといた。そこはカルチエ・ラタンと呼ばれる学生街にあり、東西に走るサン・ジェルマン大通りの一本南側に位置する通りで、坂道であるサン・ジャック通りから東へ少しはいったところだった。近くにはパリ大学ソルボンヌや、名門ルイ・ルグン高等中学校、コレージュ・ド・フランスに近い静かな一角だった。
 折竹は内藤との会話はすべて日本語ではなくフランス語で通した。やむなく内藤も怪しげなフランス語で返答した。留学の第一の目的は、これまで修得した書き言葉のフランス語を、生きたフランス語、つまり話し言葉(パロル)として身につけることにあった。
 到着の翌々日の29日、大学の4年先輩である辰野隆(たつの・ゆたか)がホテルを訪ねてきた。d0238372_1541359.jpg辰野は東京駅などの設計で有名な辰野金吾の息子で、1年半前からパリに来ており、翌1923年1月には帰国して、4月から母校の仏蘭西文学科で教鞭をとることが決まっていた。折竹はそれより早くこの年の暮れには帰国の予定であった。
 内藤は長い船旅の疲れも見せず、この日から二人に連れられてさっそく芝居見物をはじめた。舞台の俳優が話す正確で美しいフランス語を聴くことが、音韻としてのフランス語を習得する近道と考えたからである。そして10日ほどのちには、ソムラール通りのホテルを引き払って、同じ5区のラ・クレ通りあるホテル「ジャンヌ・ダルク」へ移った。ここは辰野が1年ほど前から下宿しているところで、植物園の南西にあたった。折よく一部屋が空いたのである。
 「一週間ほど前にこの宿へ引越してきた。折竹のところほど奇麗ではないが、きたないと云ふほどではない。一寸した食堂があって、そこで同宿の者が一緒に食事をするのである。皆で二十三、四人ほどゐるが、日本人は辰野と私と、それに森鷗外氏のお嬢さんと結婚した山田珠樹(やまだ・たまき)という人の夫妻、合せて四人。其の他は多数がフランス人で、医学生もゐれば軍人もゐれば理学者もゐると云った風である。従ってフランス人と話す機会が多くて、何より仕合はせである。そのうへ宿の主人夫妻が堅気で、親切と来てゐろのだから申分はない。殊に主人のデュフォールは筆をとる趣味があるところから、私の書いたものを喜んで直してくれるといふ利益さえ与へられたわけである。」(妻優子宛、12月15日付)
 ホテルを移った最大の理由は、食堂があって外食をしないですむこと、それに宿代が安いことだった。これまでのホテルでは月900フラン(150円)かかるところ、こちらでは600フラン(100円)ですみ、文部省から支給される月360円の留学費の7割り方を、本代や芝居見物などにつかえる計算だった。
 同宿の山田珠樹は文学部哲学科(心理学専修)を卒業し、その後2年足らずで鷗外の長女の茉莉と結婚し、やがて長男爵(じゃっく)が生まれた。爵という名は祖父鷗外の命名で、鷗外は自分の子どもと同様、孫にも西欧で通用しやすい名前を付けたのである。
 山田珠樹がパリに留学たのは、爵が誕生した半年後の1921年4月である。最初はパリ大学ソルボンヌで心理学を学んだが、間もなくフランス文学研究に転向した。その後間もなくして、茉莉が息子を置いて夫の元にやってきたのである。のちに作家となる茉莉は、ホテル「ジャンヌ・ダルク」時代を回想してこう書いている。
d0238372_15425021.jpg 「ホテル、ジャンヌ・ダルクほど汚い下宿でなくてもよかったらしかったが、凱旋門辺りのホテルに宿って、ルウヴルとエッフェル塔を見物して帰る、といういわゆる巴里の旅行者になることを厭がって、巴里のカルチエ・ラタンに住んで、本当の巴里を味わうのだ、という私の夫や友人たちの中の二、三の人々の一種の誇り、だったようだ。金はある人々だったからだ」(『記憶の絵』)
 山田珠樹の父は貿易商、辰野は先にも触れた建築家の息子で金に不自由はなかったが、内藤の場合は文部省からの留学費で生活をまかなう状態だったから、二人とは自ずと違っていた。だがそんなことはおくびにも感じさせない仲間だった。
 山田珠樹はパリで念願のスタンダールの資料を集めて、帰国後学位論文「スタンダール研究」を書き上げたが、思うところがあったのか提出しなかった。長男爵や教え子の小林正東大教授の手で出版されたのは戦後の昭和23年(1949)のことである。
 同書の序で、辰野隆はこう書いている。「昭和七年の頃、偶々重い病に罹って、彼は東大を退き、湘南に瘂を養ふこととなったが、或日、僕は彼を訪れて、彼に学位論文を提出するやうに薦めたのであるが、彼は僕の進言を拒けて、『近頃、自分はスタンダールに興味を持つことが出来なくなった。彼の人物が嫌ひになったのだ。つくづく厭な奴だと思ふ。彼の生涯と制作に就いて論考した研究も一應書いては見たが、今では提出する氣がなくなって了った』といふ挨拶であった。僕は事の意外に驚いて、病に蒼ざめた彼の顔を暫し見詰めるほかはなかった。」
 珠樹の長男、山田爵ものちに東京大学文学部フランス文学科で、フローベールと中世フランス文学を講じた。私は本郷の学生のとき、山田爵助教授から中世フランス語を教授され、試験では中世フランス語を現代フランス語に訳す問題を課せられたことがある。(続)
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by monsieurk | 2014-08-10 22:30 | | Trackback | Comments(0)

内藤濯の留学日記Ⅰ

 最近は専ら評伝や自伝に興味をもって読んでいる。先日の新宿駅西口の広場で開かれた古本市で、内藤初穂著『星の王子の影とかたちと』(筑摩書房、2006)を見つけた。『星の王子さま』の訳者として有名な内藤濯(ないとう・あろう)の長男初穂が書いた父の評伝である。d0238372_21345933.jpg
 内藤濯はフランス17世紀のラシーヌやコルネイユをはじめ、フランス演劇を日本に紹介した人で、明治16年(1883)熊本に生まれた。初穂も指摘しているように、これは明治政府誕生の後ろ盾だったイギリス公使パークスが離日し、近代化をめざして官営社交場「鹿鳴館」が開場した年である。
 日本の近代化とともに生まれ育った青年は、第一高等学校を卒業後、明治40年(1907)9月、東京帝国大学の仏蘭西文学科に入学した。当時は欧米と同じく夏休み明けの9月が新学期だった。
 東京帝大の前身である文科大学に、仏蘭西文学科が創設されたのは明治22年12月だが、最初は入学希望者がなく、最初の学生が来たのは7年後の明治29年のことである。それから内藤濯が入学する明治40年までの12年間、ずっと定員割れの状態が続き、入学した学生は総計でも11名にすぎず、この年はじめて入学者3名を数えた。主任教授はフランス人のエミール・エックで、在日16年のベテラン教師だった。
 同期生は秋田出身での一高で同級の福岡易之助、それに広島出身で英語もよくできた和田仙太郎である。和田は蚕の研究を志していて、そのためにはフランス語の修得が必要ということで、卒業すると信州上田の蚕糸専門学校へ赴任した。一方、福岡は大学を卒業すると一時帰京したが、1年半後にふたたび上京して、フランス語やフランス文学の普及に力をいれる出版社「白水社」を創設した。
 内藤は在学中に同人誌「帝国文学」に入会して、フランス近代詩の翻訳を発表した。フランスの詩の翻訳としては、上田敏の『海潮音』が明治38年(1905 )に本郷書院から出版されていて、内藤もその強い影響のもとで、気に入った詩人30数名の詩を訳しては「帝国文学」に発表した。d0238372_21374921.jpg
 そして卒業後は、陸軍幼年学校のフランス語教師として赴任。次いで第一高等学校に移ってフランス語とフランス文学を講じた。その間、大正9年(1920 )3月に澤村優子と結婚した。澤村家は熱心なカトリック教徒で、優子は大阪の梅花女学校に学び、在学中に少女雑誌に作品を投稿するなどの才媛だった。
 内藤一家に長男初穂が誕生したのが大正10年(1921)年。翌大正11年には、文部省在外研究員としてフランス留学を命じられ、8月1日に留学期間を2年半とした公用旅券が発給された。留学手当は毎月360円で、2カ月半を要した準備のあと、10月14日、東京駅を夜行列車で発って神戸に向かい、翌日正午には神戸で日本郵船の諏訪丸1万トンに乗船し、皆に送られつつ留学の途についた。(続)
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by monsieurk | 2014-08-07 22:30 | | Trackback | Comments(0)

三度 キルメン・ウリベ

 キルメン・ウリベは2012年11月に来日した際、独自の歴史と文化をもつ沖縄に特に魅かれた。その旅行記が雑誌「すばる」2013年4月号に載っている。
 キルメン・ウリベは沖縄旅行中、沖縄の現在の風景の背後にかつて存在した何かの影をたえず感じている。金子奈美さんとともに同行した今福竜太東京外国語大学教授は、ウリベにとっては、沖縄の古い墓や、御獄(おたき)や、洞窟(ガマ)や、た軍事基地までもが、未知のなにものかへ結ばれた秘密の通路である」と述べている。こうした感性のありかたは、彼の小説『ビルバオ――ニューヨーク――ビルバオ』に、よくあらわれている。
 旅行記の中から、印象的なものを引用してみよう。翻訳は金子奈美さんである。
 「車で那覇からコザへ向かう。道中、小さな港に立ち寄った。漁師が一人、家へ帰る前に足を洗っている。漁船の名前は「セルフィッシュ」Selfish。僕の祖父は、第二次世界大戦中、海にはかつてなく魚がたくさんいたと言っていた。漁をする人が誰もいないので、海がタラで溢れんばかりだった、と。
 港の前を、海兵隊員の乗った車が、けたたましく音楽を鳴らしながら走り去っていった。・・・」
 「僕らは大きな洞窟のなかに入った。金武(きん)鍾乳洞だ。d0238372_1736686.jpgそこで、人々は蒸留酒の瓶を五年間貯蔵してもらうのだ。受け取りに戻ってくるつもりで、ラベルには彼らの名前と瓶を置いて行った動機が書かれている。たとえば、新婚の夫婦や、病気の男性。彼らは酒瓶を買って、洞窟のなかに、その貯蔵庫に置いていく。すると、五年の歳月のあいだに願いが叶い、持ち主は願望を満たされて、その酒を受け取りに戻ってくるとされている。
 ずらちと並べられた、何千もの瓶。そしてそこに込められた、幾千の願い事。
 洞窟のなかの地下道を通っていくと、驚くほど天井が高くなっている場所がいくつかある。戦後、そこではアメリカ軍兵士のためのダンスパーティーが開かれていた。」d0238372_17394014.jpg
 「沖縄大学での朗読と対話が終わってから、夕食に出かけた。イベントはとても実り多いものとなった。沖縄詩人たちが、彼らの言語と日本語で詩を読んだのだ。バスク語に訳された自分の詩の朗読を聴いた詩人もいた。彼らはバスク語に大きな関心を示した。標準語の制定、方言の統一のプロセスはいかなるものだったのか。どのような言語政策が取られてきたのか。そして、それらをゼロから始めるにあたって、次々と立ちはだかる多大な困難をいかにして乗り越えてきたのか。「ある鳥の種が失われつつあるとき、その種を救うための方策が取られますよね。言語にも同じことをする必要があるんです」
 夕食の席では、詩人たちと一緒のテーブルにつくことになり、彼らと話をした。僕は年配の人たちと話すのが好きだ。話すというよりも、彼らの話を聞くことが。そうしていると、ユウゴウ・サトナカが、子供時代、家での会話はウチナーグチだったと言う。しかし、彼がまだ若い頃、日本への愛国主義がラジオや新聞をつうじて社会全体に広がり始め、人々は、いつしか威信を失っていた古い言語で話すのをやめてしまった。
 シンイチ・カワミツは、さらに痛ましい体験を聞かせてくれた。彼の話によると、戦前は学校で、「私は方言を使いました」と書かれた札を首に掛けさせられ、笑い者にされたという。戦後になっても、日本語使用の強要とともに同じことが起った。・・・」
 「食事が終わって店の外でお別れしようというとき、僕たちは翌朝早く飛行機で帰ることになっているのに、彼は僕をなかなかホテルに返そうとしない。「朝まで飲み明かさなければ」。この老詩人のエネルギーにはまったく驚かされる。僕も彼の齢になったら、あんなふうになっていたいものだ。」 
 バスクと沖縄、ともに巨大な言語圏(文化圏というのと同じだが)の圧力に抗しながら、独自の言語・文化を失わずに育んできた。その出会いは印象的である。残りの部分もぜひ読むことをお勧めする。
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by monsieurk | 2014-08-04 22:30 | | Trackback | Comments(0)

再び キルメン・ウリベ

 スペイン・バスクの作家、キルメン・ウリベについては、「バスクの文学、キルメン・ウリベ」のタイトルで、ブログに3回(2013.02.06、02.07、02.09)紹介し、さらに「キルメン・ウリベ詩集」(2013.02.09)では、翻訳者の金子美奈さんから贈られた『キルメン・ウリベ詩集』について書いた。 d0238372_19184670.jpg
 薄い青色の表紙の『キルメン・ウリベ詩集』は、作者の来日を記念して金子さんが編んだ私家版で、「川(Ibaia)」以下、「海と陸のあいだで(Ez eman hautatzeko)」まで、12篇の訳詩が収録されている。
 その金子美奈さんから次のようなメールをいただいた。
 「お元気にしていらっしゃいますか? じつは昨年(2013年)9月から、スペイン・バスクの街サンセバスティアンに来ております。まもなく約1年の滞在を終え、8月上旬に日本に帰国する予定です。その前にフランス側(バイヨンヌ、ボルドー)にも少し足を伸ばしてみたいと思っております。
 偶然ですが、ちょうど昨日キルメン・ウリベと会ってきたところでした。すでにご存知かもしれませんが、「現代詩手帖」今年3月号に、ウリベの詩が数篇とエッセイが掲載されております。「詩選」に載せたいくつかの詩は少し訂正が加えてあり、新しい詩も一篇追加しました。スペイン内戦で亡命したバスク自治州首班のアギーレについてのものです。もし時間がありましたら、どうぞそちらもご覧ください。以下のページでは、原文を見ながらウリベ自身の朗読を聞くことができます。
http://www.shichosha.co.jp/editor/item_1103.html 
 添付の写真は昨年秋にウリベの町オンダロアで撮ったものです。町の雰囲気が少しわかるかと思います。」
 メールにある通り、金子さんは『詩集』の訳詩のいくつかに手を入れて、「川(Ibaia)」、「見舞い(Bisita)」、「言うことはできない(Ezin esan)」、「言語(Hizkuntza bat)」、「金の指輪(Urrezko eraztuna)」、「もっと、もっと遠く(Aparte-apartean)」の6篇と、新たに訳した、「バスク自治州アギーレ、亡命先にて(Lehendakaria deserrian)」を、雑誌「現代詩手帳」2014年3月号に発表している。これによってキルメン・ウリベの詩に関心をもつ読者に訳詩が届けられたのである。「手帳」には、エッセイ「夏の少年少女」も掲載されている。そして上記のホーム・ページでは、「川」、「言うことはできない」、[見舞い」の3篇のバスク語の原詩のテクストと、ウリベ自身の声による朗読、さらにバスク音楽にのせてウリベが詩を朗読している様子を映像として見ることができる。
 詩篇のうち、以前のブログでは「もっと、もっと遠くへ」を紹介したが、今回は、「金の指輪」と新しく翻訳された「バスク自治州アギーレ、亡命先にて」を引用してみよう。

   バスク自治州アギーレ、亡命先にて

  アギーレは亡命先で、怪物の腹のなかを隠れ家とした。
  ナチスから逃れてベルリンへと向かったのだ。
  そこならば誰にも見つからないだろうと信じて。
  
  そこで、彼は南米のとある国の領事を名乗る。
  そして今、政治集会に何千人もの人々を動員した
  あの確信に満ちた男、前線へ向かう若者たちに
  
  カールトン・ホテルのバルコニーから語りかけたあの勇敢な男は
  今、たった一人で列車に乗っている。
  逃亡の途中でスーツケースをなくし、
  そしておそらく、祖国をも失ったのだ。

  
  アギーレは亡命先で、たった一冊の本を
  携えている。プルタルコスの『対比列伝』
  それだけが夜、眠りにつくときの支えとなってくれる。

  
  彼はある箇所を幾度となく読み返す。
  アレクサンダー大王がいかにして、
  誰一人手なずけることのできなかった荒れ馬をなだめてみせたか。

  
  大王は馬の耳元でこう言って聞かせたという。
  「怖がることはない、たえず背後から
  追ってくるあれは、お前自身の影にほかならないのだ」

  
  アギーレは、いつか祖国の人々に向かって、
  アレクサンダー大王が馬に言ったのと同じように
  耳元で語りかけようと思う。

  
  そっと優しく。「安心しなさい。怖れることはありません。
  背後からやってくるあれは、あなた自身の影、
  私たち自身の影にほかならないのです。

  
  バスク出身の政治家ホセ・アントニオ・アギーレは、スペイン第2共和政のもとで成立したバスク自治州政府の初代首相となった。だが1936年7月にはじまった内戦で、フランコ将軍率いる叛乱軍が勝利すると、亡命を余儀なくされた。最初はフランスに逃れるが、フランスがナチス・ドイツに占領されると、大戦中は、詩にあるように、しばらくなんとベルリンに潜み、次いでスウェーデンを経由して南米に渡った。その後ニューヨークやパリで、亡命バスク政府を組織し、フランコ総統の独裁政権と戦ったが、故国の地を踏むことなく1960年にパリで客死した。
  もう一篇の「金の指輪」は、代々漁師を営んできたキルメン・ウリベの一家に伝わる話しである。
  
      金の指輪

  
    父は海で結婚指輪を失くした。船乗りたちの習慣で、網を投げるとき指が引っかか 
    らないように、指輪を外して首に掛けていたのだ。
    それから何度目かの漁のあと、タラの身をあらっていた叔母は、魚の腹のなかに金
    の指輪を見つけた。
    指輪を洗い、そこに刻まれた文字と数字をよく見てみた。信じられないことに、それは僕の両親のイニ シャルと結婚の日付だった。
    事の次第からすると、父は結婚指輪を飲み込んだ魚を自分で仕留めたのだ。あの広大な海で。

 
    夏の穏やかな夜は、内陸から風とともに思い出を運んでくる。
    僕は空を見上げながら、偶然というのは大きな、大きな軌道をめぐる惑星のようだと思う。
    ごく稀にしか出会うことのない。

 
    その指輪の話はあまりに出来すぎた偶然だ。でも、それが何だろう。今大事なのは、長年のあいだ、その指輪の話は僕ら子どもの小さな頭のなかで、本当の出来事だったということだ。

 
    夜、海はまるで魚のような輝きを見せる。
    星々が鱗のようにきらめき、流れる。

 
 キルメン・ウリベが生まれ育った港町オンダロアは、金子さんが撮って送ってくれた写真で、その雰囲気を知ることができる。

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by monsieurk | 2014-08-01 22:30 | | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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