フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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<   2014年 09月 ( 10 )   > この月の画像一覧

  愛読書――漱石、直哉

  
 話は変わりますが、梶井さんが好きだった作家は誰でしょう。三高時代から色々よく読んでいますね。
中谷 梶井に本を読ませたのは、お兄さんの謙一さんです。北野中学の5年生になった4月、33日間という長い間休学するのですが、これが梶井が胸を悪くした最初の兆候だったのです。この時、謙一さんが、森鷗外の『水沫集』を買ってやったのです。これに梶井はひどく感心した。そして鷗外訳の『即興詩人』を読み、次いで謙一さんが友人から借りてきた『漱石全集』を片っ端から読んだ。
 漱石に対する傾倒ぶりは大変なもので、私たちが知りあった頃でも、話のなかに漱石のことが出てくると、第何巻の何ページには、これこれと書いてあると、文章を暗誦してみせましたからね。
 漱石の全集は、第一回の全集が大正6年に岩波から出版されましたから、梶井はそれで読んだのですね。漱石を読みはじめて、鷗外からは遠ざかり、一時、鷗外には思想がないと言っていましたが、晩年にはまた鷗外を認めるようになりました。
 その頃の日記や手紙にも、漱石の名前がしきりに出てきますね。それと白樺派の作家、なかでも志賀直哉のものをよく読んだようですね。評論家のなかには、志賀直哉と梶井さんの文体比較をこころみた人もいます。
中谷 たしかに志賀さんのものも読んでいました。もっとも当時の文学青年で、志賀直哉を読まない者など一人もいなかったのですから。
 梶井が志賀さんの短篇を原稿用紙に一字一字写したというのは有名な逸話ですが、それをやったあと、「志賀直哉も、すき間があるよ」と、私に言っておりました。
 影響というなら、梶井は三高で理科系の学問をやりましたね。そのことの影響が大きいと思います。初めはエンジニアを目指していたわけですから、素質も当然あったのでしょうが、物を見る上で理科系の学問を学んだことは大きいです。
平林 私たちは一種の勘で書きますけど、あの方は、何事もガッチリと自分の眼でみて書かれるのです。
 しかもそうして見たものを、じつに正確、的確な言葉で表現する能力がありますね。
中谷 梶井の文章には理科系の用語が交っておりましょう。あれなども独得の言葉遣いですね。
 いつでしたか、あれは梶井が湯ヶ島へ療養に出かけたあと、一週間ほどして見舞いに行きますと、「僕はいま雲を書こうと思っている」というのです。「そのために、毎日ここへ来て雲を観察しているんだが、いや、難しくてとても書けない」と語っていたことがあります。これには驚きましてね。
 私などは、「雲が出て、流れた」と書くだけですが、梶井は雲だけを、雲の変化だけを書こうと思い立ったのですね。遺稿に「雲」という断片があったと思いますが、多分あれがその時のものでしょう・・・
 梶井の文学は、あのまま行けばどんなものになっていたのでしょうかね。
 湯ヶ島時代に書かれた「闇の絵巻」や「交尾」、あるいは「愛撫」といった作品の延長ですね。
中谷 梶井が死ぬまでに、梶井のことを本当に認めてくれたのは萩原朔太郎さんですよ。そして詩の雑誌に、二、三篇、短いものを載せてくれたでしょう。
 萩原朔太郎氏が「評論」の昭和10年9月号に書いた、「本質的な文学者」というのは、熱意のこもった、じつにいい文章ですね。「彼は肉食獣の食慾で生活しつつ、一角獣の目をもって世界を見ていた・・・」というのは。
中谷 梶井は川端康成氏に夢中だったのですが、川端さんから梶井が褒められたというのは聞いたことがありません。
 ほう。
中谷 川端さんは、梶井の追悼式を目黒の蕎麦屋、「藪蕎麦」でやったのですが、その席で、「梶井さんのために何もできなくてすまなかった。当時の私には梶井さんの小説がよく分からなかったのです」と、こういう風に言いました。川端さんに分からないはずなどないのですが・・・
 梶井さんと川端さんというのは、本質的に違いますでしょう。梶井さんは精神的には健康な人ですし、川端さんは逆ですから。
中谷 それと川端さんは、ちょっとハイカラでしょう。ですから藤沢恒夫君など「辻馬車」の人たちの方が好きで、支持していたのではないでしょうか。(続)
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by monsieurk | 2014-09-28 22:30 | | Trackback | Comments(0)
  三高劇研究会(2)

  
 梶井さんは、「河岸」(大正12年)と「攀じ登る男」(大正13年)という二つの戯曲を書いていますし、原稿は散逸して残っていないのですが、「浦島太郎」という戯曲作品もあったらしい。これは表題を書いた一枚だけが残っているということです。
 外村さんも、三高文芸部の「嶽水会雑誌」に、「煉獄」という戯曲を発表しています。これが大正13年7月です。そして、この年の10月に、「劇研究会」が計画して、練習を積み重ねた公演が、校長の一言で中止されるという事件が起こるのですね。
中谷 そうです。あの事件については、私もそうですが、梶井が非常に憤慨しましてね。
 公演をやろうということになったのは6月頃で、実際に稽古にかかったのは、夏休みが明けてからです。出し物は、チェーホフの「熊」、シングの「鋳掛屋の婚礼」、それに山本有三氏の「海彦山彦」の三本で、「熊」は私が演出し、「鋳掛屋」は梶井、「海彦山彦」は外村が演出と主演を兼ねるということになりました。
 公演は「三高劇研究会」というのはまずかろうというので、多青社という劇団名をつくり、私たちも本名ではなく、梶井が瀬山極、例の「瀬山の話」に使われる名前で、画家のポール・セザンヌをもじったものです。そして私は加納健。
 「鋳掛屋の婚礼」には、ご存知の通り、女の人が幾人か出てきますが、老女の役は浅見篤がやることになりましたが、男だけでは駄目だというので、同志社女学校専門部の石田竹子さんと梅田アサ子さんという二人に応援してもらいました。ともかく皆が熱中していた。「青空」の同人になった小林馨は、「熊」の老僕の役。これは小林の東北訛りがぴったりなんです。
 もう一人、外村と仲のよかった熊谷直清が、外村の演出助手をやりました。熊谷は「青空」の同人にはならなかったのですが、彼の家は「鳩居堂」といって、筆や墨、あるいは外国製の文房具などを手広く扱う老舗でして、「青空」に広告を載せてくれて、資金をずいぶん援助してくれました。
 当時、京都で学生の演劇が舞台にのることなど、滅多にありませんでしたから、皆張り切って、寺町通丸太町にあった仏教青年館を借りて、舞台稽古も幾度かやりました。そうして衣装もそろう、公演のプログラムや街に貼るビラも刷り上がる、さていよいよ明日公演という前日になって、校長の森外三郎さんが、公演はいかん、中止せよと言ったのです。
 私たちはずいぶん抗議したのですが、中止せよの一点張りでしてね。関東大震災の直後だからというのが表向きの理由でした。そして後始末に使えということで、百円渡されました。
 やむなく中止したのですが、なにしろ公演前日ですからね。当日は、新聞に公演中止の広告を出すは、会場の前に立って、前売り券の払い戻しはするわで、後始末のために心身ともにくたくたになりました。
 外村さんによると、その日の夜、皆さんは例の祇園神社の石段下の「カフェ・レーヴン」で、痛飲されたのだそうですが、外村さんが酒を飲むようになったのは、それが切っかけだったということです。
中谷 悔しかったですね。
 梶井さんも、この事件はよほどこたえたとみえまして、昭和3年に「嶽水会雑誌」の百号記念号に原稿を請われた折に、「『青空』のことなど」という稿を寄せていますが、その中で、この公演中止に触れています。
 「・・・中止に気落ちした面々がまた心を取直して何の希望もない経済的なまた労力的なあと片づけを黙々とやりはじめたときの気持は今思い出しても涙が零れる。それのみか――これはだんだんあとになって耳に入って来たことであるが――私達の公演を援けたフロインディンに就いて下等な憶測が、学校当局ではどうであったか知らないが、生徒達のなかに働いてゐたらしいのである。これには胸が煮えたぎる程口惜しかった。恥あれ!恥あれ!かかる下等な奴等に!そこにはあらゆるものに賭けて汚すことを恐れた私達の魂があったのだ。彼等にはさふいふことがわからない。これが実に口惜しいことだった。それから何年も経ってからであったが、ある第三者からふとそのことに触れられた。場所も憶えてゐるが、それは大学の池のふちである。その瞬間、ながらく忘れてゐたその屈辱の記憶が不意に胸に迫って来て、私の顔色は見る見る変わったので、何も知らないその人を驚かしたことがあった。こんな屈辱は永らく拭はれることのないものである。」と書いています。
「『青空』のことなど」には、「〔劇研究会〕は名目通りの劇研究があったといふよりも、寧ろ広汎な文芸に対する私達に飽くなきアスピレイションが団結してゐたのであった。」という個所もあります。
中谷 梶井が書いている通りです。「嶽水会雑誌」というのは、文芸部の雑誌ですが、文芸部のメンバーと「劇研究会」のメンバーとは重なる部分が大分ありまして、私や梶井は違いましたが、外村は文芸部にも属して、「嶽水会雑誌」の編集もやっていました。そんな関係で、「劇研究会」の雑誌「眞素木(マシロギ)」に書いた、梶井の「矛盾の様な真実」や私のものなどが「嶽水会雑誌」に転載されたりしました。
 「眞素木」は、雑誌といっても会員の原稿をそのまま綴じて製本し、回覧したもので、たしか三冊ほどつくったと思います。「眞素木」という名前は、のちに「青空」の随筆欄の名称にのこしました。
 中谷先生たちが、三高から東大へ進学されたあとも、「劇研究会」は続いていたのですね。
中谷 ええ、一年下の淀野隆三、浅沼喜実、北神正たちが引き続いてやっておりました。
 「青空」の第1号三百部が刷り上がって、大正13年の暮れに、その三百部の半分を「青空社」の事務所を置いている東京の外村さんのお宅に送り、残りの半分を、中谷、梶井、外村の三人で担いで、意気揚々と(笑)京都へ向かわれましたね。そして先ず「あけぼの」に行くと、そこには劇研究会の後輩たちが待っていて、歓迎してくれたということですね。
中谷 皆が喜んでくれました。
 三百部の「青空」第1号は、どこへ行ってしまったのでしょう。
中谷 もう殆ど残っていないんじゃないでしょうか。
平林 後輩の方々も、義理で買わされたのでしょうけど、貴重なものとは思わず、読んだあとは捨てておしまいになったんでしょう。(笑)
中谷 私たちの作品はともかく、梶井の「檸檬」にしたって、何の反響もなかったですから。(笑)(続)
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by monsieurk | 2014-09-25 22:30 | | Trackback | Comments(0)
  三高劇研究会(1)

  
 梶井さんは映画が好きだったのではないかと思いますのは、未完に終わった「帰宅前後」(大正13年)の中の次のエピソードなどがあるからです。
 梶井さん自身とみられる主人公民哉は、頽廃生活に中で、教科書まで売ってつくった金を使いはたし、両親の家へ帰る以外に、にっちもさっちも行かないのだが、家に帰ってからの愁嘆場を考えるとふん切りがつかない。そこで、「彼の荒廃し切った心が求めた、寂しい享楽は何所かで気不味い都合をして来た金を握って活動写真館のじめじめした一隅で、スクリーンに上へけばけばしくうつされる、悪漢の追跡や、可憐な少女の恋や、馬鹿々々しい道化に彼の心を委ねることであった。」というのです。
 恐らく、こうした場面は梶井さんの実生活で、実際にあったのだろうと思います。
中谷 梶井は、よい意味で新しもの好きでしたね。私たちの学校時代、大正末期から昭和の初めは、西洋の文化や品物が盛んに日本に入ってきた時代だったのです。梶井はそれを享受した。金もあまりなかったから、希望通りにはなかなかいかなかったでしょうが、やり繰り算段して、絵も音楽も文学も活動写真も、あるいは石鹸も歯ブラシも、良いものを使い、それを身につけようと努力していましたね。そういう意味で、梶井の文学は、間違いなく、あの時代を体現した文学といえるのではないでしょうか。
 ここでもう一度「三高劇研究会」の話に戻りたいのですが、寮で同室となった梶井さんを研究会に誘われたのですね。
中谷 三年に進んだ頃だと思いますが、はっきりしません。私と梶井が、いつの間にか中心的存在ということになって、例会をやるようになりました。
 劇研究会については、外村茂さんがこんな回想を残しています。
 「ある日、二人の生徒が「三高劇研究会」のビラを貼ってゐる。その一人は色の浅黒い、いかつい顔をしてゐて、見るから不興気な表情である。こんな下らない仕事から一刻も早く離れたい、といふやうな態度であろ。実に厭さうである。
 私は劇研究会にも、ビラを貼ってゐた生徒にも妙に興味を覚え、当日、会の催される、円山公園の「あけぼの」へ行ってみる。その席に今一人、より魁偉な、極めて彫りの深い容貌の生徒がゐる。脚本が朗読されてゐる間、彼は厳然と腕を組み、その態度を崩さない。やはり興味を覚える。前者が中谷孝雄であり、後者が梶井基次郎である。」
 これは『澪標』の一節ですが、この時、外村さんは初めて中谷先生や梶井さんと知り合うことになるのですね。それにしても、この「あけぼの」での例会では、どんなことをされたのですか。
中谷 「あけぼの」というのは円山公園にあった料理屋なのですが、こことか校内の尚賢館に、月に一度有志が集って、戯曲の朗読会をやったわけです。当時は、今からは想像もできないほど戯曲文学が盛んでしてね、創作もされましたし、外国の戯曲がしきりに翻訳もされたのです。大きな戯曲全集が出版されたりしましてね。
 皆さんがお読みになった全集というのは、大正12年から刊行されはじめた『近代劇大系』というのではないでしょうか。全部で16巻ありまして、ヨーロッパの新しい作品から、中国の戯曲まで、収録された作品は60篇をこえます。
中谷 それだったかどうか、単行本もありましたし・・・まあ、そうした戯曲全集が企画され、出版されたということ自体が、当時の戯曲熱、芝居熱を反映しているわけです。
 「劇研究会」では、面白そうな作品を選んで、全員がかわるがわる読んでいく、というより、各々が役割を受け持って台詞を語るのです。
 私は忘れていたのですが、外村が書いているところによりますと、トルストイの『闇の力』、チェーホフの『熊』、『桜の園』、シングの『鋳掛屋の婚礼』、シュニツラーの『臨終の仮面』などを朗読したのですね。
 面白いのは、梶井がなぜか女の役をやりたがりましてね。あのごつい顔で、妙な声を出すのです。どうも、それが得意気なのですよ。(笑)
 梶井さんの女形ですか。(笑)中谷先生はどうされたのですか。
中谷 私はあまり熱心ではありませんでした。芝居には熱中して、よく観にいきましたが、「劇研」の朗読会ではあまり積極的ではありませんでした。
 梶井さんのむこうを張って、女の役はおやりにならなかったのですか。(笑)
中谷 いやいや。(笑)
 お二人はよく似ていらしたそうですね。
中谷 当時、友人だった大宅壮一が、私たち二人が並んで歩いているのを見て、「あいつらはまるで双子のおたまじゃくしみたいだ」と言ったというのですが、どちらも頭が大きくて背格好も似ていたんでしょう。(笑)(続)
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by monsieurk | 2014-09-22 22:30 | | Trackback | Comments(0)
  北寮第5室

 「青空」の母体が、三高時代の「三高劇研究会」にあるという話が、さきほど出ましたが、この「劇研究会」はそもそもどういう経緯で誕生したのでしょうか。
中谷 これは私たちがつくったのではなく、三高に以前からあった会で、当時は「劇研究会」のほかにも、「文芸部」や「哲学研究会」などが盛んに活動していました。
 「劇研究会」といいましても、芝居にだけ熱中するのではなく、まあ、芝居を中心に、広く文芸一般を勉強しようということだったのです。梶井を誘ったのは私です。
 私と梶井の出会いというのは、大正8年の秋、三高へ入学した直後です。
 当時の高等学校は、ヨーロッパと同じで、夏休みが終わった9月が新学期だったのですね。
中谷 ええ、9月に入学宣誓式があって、私はすぐ北寮の第5室に入ったのです。室長は2年生の逸見重雄、新入生は私と東京の一中から来た飯島正でした。梶井は、理科甲類1組に入って、将来はエンジニアを目指していたのです。
 入学早々、知り合いになられたのではないのですか。
中谷 梶井は北野中学の出身で、三高入学当時は、北野中学の同窓生と親密につきあっていたのです。それに、梶井は京都に来て、母方の親戚筋にあたる家に下宿していましたから。そのうち、北寮5室に欠員が生じて、そこへ梶井が入ってきたのです。梶井は理科の学生らしく、よくものを考える学生でしたね。
 まだ、その時は文学青年ではなかったのですね。北野中学の同窓生の畠田敏夫宛ての手紙で、「・・・〔十月〕二日から入舎致しました、舎は随分やかましい、疑似赤痢が一人出来てゐます 沢田の室は中舎で私の室は北舎です、運動場に面した方で一番景色のよい所です」と書いています。
 入寮は10月2日だったのですね。
中谷 梶井は中学時代から本はよく読んでいたのですよ。文学だけでなく、絵もよく観ていたし、音楽にも関心を抱いていました。北野中学の仲間はとくに音楽好きが多く、矢野潔はバイオリンを弾いたし、下宿には蓄音機を持っていて、仲間は矢野の下宿に集まっては、よくレコードを鑑賞したようです。
 梶井は楽譜が読めて、楽譜をみながら歌うのが得意でした。太い声でよく歌っていました。
 中谷先生は、その頃からもう文学をやろうと考えておられたのですね。
中谷 小説家になろうという気持ちがあったかどうか、ただ、文学には魅かれていました。それに京都に来てからは、あちらの芝居小屋、こちらの芝居小屋と、よく芝居を観てまわりました。
 同室の飯島正さんは、芝居ではなくて映画一辺倒だったのですね。
中谷 そうです。
平林 あとで寮を出て、私たちのすぐ近くへ下宿なさったことがあるのですが、その時も、下宿の押入れは、外国の映画雑誌で一杯でした。
中谷 それは北寮にいたときからだよ。三高に入ったときには、もう映画評論をあちこちの雑誌に書いていました。評論を書く上でも必要だったのでしょう。外国に映画雑誌を注文して、取り寄せていたのですが、それが寮の受付に届くと、当時としては大変珍しいものですから、誰かが、飯島が目を通す前に勝手に開封して見てしまうわけです。飯島が怒りましてね。グラビアに載っている女優がシャンだとか何だとか、そんな興味で見るわけだが、飯島にとっては、神聖な雑誌なんですから。(笑)飯島は暇さえあれば、新京極あたりの映画館、活動写真館に通っていました。
平林 もちろん、当時は無声映画の時代で活動写真といったのです。でもなかなか盛んでしたね。
 中谷先生は、映画、その活動写真の方は。(笑)
中谷 私はもっぱら芝居でした。梶井は映画をよく観ていたようです。飯島は映画を観て来ると、一本一本についてストーリーはもとより、監督、主演の役者名、構成などを細かくノートに書くのですが、梶井はそれを笑いながら眺めていました。もっとも、二人が一緒に映画を観に行くといったことはなかったようです。
 私はかねてから梶井さんの文体が視覚的なのは、ひょっとすると映画の影響があるのではないかと考えているのです。「太郎と街」についてもちょっと触れましたが、映画の用語でいう「移動ショット」や「パーン・ショット」の技法が巧みに取り入れられています。無意識的なものかも知れませんが・・・
中谷 たしかにそれはあるかも知れません。
 たとえば、松阪の宮田家を訪れたあの夏、城址から眺めた模様をノートに覚書の形で書き残しています。これが「城のある町にて」に生かされることになるのですが、こんな一節があります。
 「目の下には町の瓦(甍)が並んでゐた。
 〔赤い〕白い橋が〔木の〕緑の〔木の〕茂みに口(ママ)切られて見える、〔その上を〕緑から出た自転車は橋の白い欄間を縫ってまた緑の中へ消へ川を越した瓦(甍)の中へ消えてゆく。・・・
 高い松の樹がうっそうとしたのがあり、その前にお堂らしい彎曲したpi(y)ramid の屋根がある、土蔵作りの銀行の黒い壁にそって道が私の下まで瓦(甍)にかくれたり、曲ったりして続いてゐる、・・・」
 実際に松阪の城址に立ってみますと、梶井さんは、左から右へ目を動かしながら、風景を描写していることが分かります。まず目にとび込んでくるものは街をうめる甍。そしてその甍の中に点々とある木の緑。梶井さんの視線は、その緑を区切る木橋を選びだす。そこだけが色彩が違って見えるから、目にとまったわけです。その時、橋の上を一台の自転車が横切っていく。すると視線はこの自転車の動きにつれて動きだす。映画などでは、これを「付けパーン」というのですが、パーン・ショットの典型です。移動する視線は特徴のある物を見逃しません。「高い松の木」、「ピラミッド形の屋根」、「土蔵作りの銀行」、そしてそこから手前の方に甍の間をのびてくる道筋に沿って視線が城址の足元まで戻ってきます。こうして視線を遊ばせているうちに、精神は対象と一体化して、高揚してくるわけです。どうも長口舌になりましたが。
中谷 たしかに、いま言われた視線の動きもそうですが、梶井は物の光と影を書き込んでいる場合が多いですね。これなども、映画の影響があるかも知れませんね。(続)
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by monsieurk | 2014-09-19 22:30 | | Trackback | Comments(0)
  「太郎と街」

 梶井さんの年譜を見ますと、松阪の滞在を終えて大阪へ戻るのですが、あまりの暑さにとても筆を持つ気になれず、9月10日前後に上京しますね。そして「檸檬」の前身である「瀬山の話」を書きはじめます。そしてこれと平行して、習作「帰宅前後」と「太郎と街」が書かれます。前者は未完に終わりましたが、「太郎と街」の方は、10月4日に擱筆したようですね。筑摩版全集の編者の注、これは淀野隆三さんのお仕事だということですが、それによりますと、原稿には、「大正甲子拾月四日(十三年)」という日付があるそうです。あれは、初期の梶井さんを考える上で重要な作品だと思うのですが。
中谷 そうです。作品としてもよい出来で、私は好きなんです。それで、戦後に編纂した梶井の作品集には収録したのですが、他のものには、どこにも入っておりません。
 酣燈社の学生文庫の一冊として出版された『檸檬』ですね。あれは昭和26年の刊行で、私も大切に持っています。筑摩の全集が刊行される以前は、戦前の全集は別として、「太郎と街」が読める数少ない版でした。私もあれでこの作品をはじめて知ったのです。「檸檬」、「太郎と街」、「城のある町にて」という順に並んでいますね。
中谷 四百字詰めの原稿用紙で10枚くらいの小品ですが、文学的にも斬新な作品です。
 少なくともこの作品で、梶井さんの感覚の働き方といいますか、感性の構造がよく分かると思います。
 「秋は洗いたての敷布(シーツ)の様に快かった。太郎は第一の街で夏服を質に入れ、第二の街で牛肉を食った。」という文章ではじまるわけですが、大震災のあと急速に復旧しつつあった東京の街を散歩する喜びに溢れていると言ってよいかも知れません。
中谷 松阪という落ち着いた雰囲気のなかで、しばらく過ごしたあとだっただけに、都会の活気によけい敏感だったのかも知れません。
 実際、大正13年という年は、関東大震災の直後で、大学なども被害がひどく、校舎もバラック建てで、窓ガラスが破れたりして、風が吹き込んだりしました。こんなことを言うと、授業によく出席していたように聞えるかも知れませんけど。(笑)
 句読点などで短く文章を切って行く、店づくしの描写は、そのリズムからいっても、映画やテレビでいう移動ショットなんですね。「呉服屋があった。菓子屋があった。和洋煙草屋があり、罐詰屋があった。街は美しく、太郎の胸はわくわくした。眼は眼で楽しんだ。耳は耳で楽しんだ。」と続きます。ただ、このあとで梶井さんらしいところが出てきます。風景は、すぐに客観的で、カチッとしたものであることをやめ、バイアスがかかって歪みを帯びてきます。続きをもう少し読んでみますと――
 「太郎は巨大な眼を願望した。街は定まらない絵画であった。幻想的なといえば幻想的な、・・・菓子屋のドロップやゼリビンズは點描派(ポアンチュリスト)の畫布の様だし、洋酒瓶の並んだ棚はバグダッドの祭の様だ。」とあります。
 梶井さんの心は、眼にし耳にした現実を薪にして燃え上がる。すると今度は見られている現実の方が、あたかも熱せられた空気を透かして見られているかのように、ゆらゆらと揺れだすのです。そうした錯覚をまた梶井さん自身が、秘かに楽しんでいる。そんな微妙な感覚の動きが、じつによく捉えられておりますね、「太郎と街」では。
中谷 梶井としては、自分の心の動きに忠実に、あれを書いたと思います。ですから、梶井としては、他のものと違って、比較的短時間で出来上がったのだと思います。
 作家というのは、簡単に書けたものは、どうも出来がよくないのではないかと思い込む悪い癖がありましてね。(笑)それで梶井は、「青空」にも発表しませんでしたし、生前出版した単行本の『檸檬』にも入れなかったのです。しかし、あれは立派な作品ですよ。
 梶井さんについては、数多くの評論や作品論が書かれておりますが、いま国際基督教大学でフランス文学を教えておられる小玉クリスティーヌさん、この方は日本人のご主人と結婚されたフランス人ですが、彼女がフランス語で書いた論文「梶井基次郎の詩的世界、あるいは視線の循環」という、パリ第7大学に提出された博士論文があります。その一部がご主人の小玉斎夫さんの翻訳で、大学の紀要に発表されておりますが、これは梶井文学を、その視線のあり方を中心に分析した、大変面白いものです。
平林 たしかに、梶井さんの文学は、案外、外国人の方にも分かりやすかも知れませんね。
中谷 戦前にも、ヴォルフというドイツ人が、「城のある町にて」の中の「勝子」の章を独訳したことがりました。
 小玉クリスティーヌさんの論文も、近くフランスで、本として出版されるということです。
平林 梶井さんの文章がどんなフランス語の本になって紹介されるのか楽しみですね。
中谷 とにかく梶井は、日本の近代文学の完成者の観がありますね。戦後の日本文学は、小説から評論に移ったみたいですね。(続)

 
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by monsieurk | 2014-09-16 22:30 | | Trackback | Comments(0)
   梶井の処女作

 今でも、この第1号のことは鮮明に覚えていらっしゃるでしょうね。
中谷 どうも・・・なにしろ昔のことですから。私は「初歩」とか何とかいうのを書いているでしょう。
 ええ。
中谷 それを後に書き直したのが、川端康成氏に褒められたりした「春」という作品です。
 私の場合は、同人雑誌を「手習い草紙」ぐらいのつもりで書いていたものですから、本にも入れておりません。外村もそうですが。しかし、みな同じ材料をあとで書き直しておりますね。
 梶井はあれだけ立派な本が出ているのですから、あれは偉い男ですよ。
 大正13年というと、数え年で25歳ですか。梶井さんは、「檸檬」はもちろんですけれども、あの頃の手紙にしても、あるいは「日記」や「草稿」にしましても、じつに達者ですね。
平林 字もきれいですしね。とてもきれいな字でしたね。
中谷 「檸檬」なんかでも長いものを書いて、その一部をちょっと抜いただけでしてね。それを幾度も書き直して、・・・実際そんなことを、あの若い時代にやっているのですから驚きますよ。
平林 六、七回は書き直したんでしたね。とっても凝り性というんですかね。
中谷 彼は、あの頃から「作家」というのことを非常に意識しています。
 創刊号が出る前、夏休みに入って早々、七月に大阪から外村茂さん宛てに出した手紙に、「僕は中谷――鴉(例のレーヴン)を通じて一番作家的修養を気にしてゐるやうに思ふ、つまり音楽でも美術でも自然科学でもなんでも詰め込むだけ詰め込む」という決意のほどを述べています。
中谷 当時、私などはそうと気づかなかったのですが、梶井は本気でそう思っていたのでしょうね。そこへいくと私などは、暢気なものでしてね。締切が来ないと書かないんですから。悪い癖がついてしまったものです。(笑)
 ところで、中谷先生は、どこかで「もしかすると梶井は、創刊号に「檸檬」ではなくて「城のある町にて」を最初に出そうとしたのではないか」と述べられておられましたね。
中谷 それは、こういうことなのです。第1号の締切は秋だったのですが、梶井は夏休みに姉の冨士さんのいる松阪へ、療養を兼ねて行って、あそこで「城のある町にて」のもとになるノートをとったり、いろいろするわけです。
 梶井の生涯で、あれが一番明るいときなんです。東大へ入って最初の夏休みを、都会を離れて松阪で過ごしたわけですね。梶井は、そういうことから出発しようとしたのではないかと、私は考えたのです。
 ところが、梶井はいざ書こうとすると、やはり三高時代のことが、すぐ浮かんできますからね。それで、何もかも洗いざらい書いてやろうというんで、まず頽廃時代を書いておいて、それからあそこへ行くという順序だったのではないですか。
 「城のある町にて」を好きだという人は多いですね。
 じつは、この夏も松阪へ一日だけ行ってきたのですが、梶井さんがひと夏を過ごした宮田家〔姉冨士の嫁ぎ先〕のあった殿町の六軒長屋は、60年前と同じ姿で残っています。d0238372_17145925.jpg
 殿町というのは、松阪城址の東南側のすぐ目の下にある町ですが、城址の搦手口を出て、護城番長屋と呼ばれる、瓦屋根が長々と続く二筋の長屋の間の道をさがって行くと、松阪工業高校の正門の前にでます。この正門前の四辻を左に曲がって、さらに30メートルほど歩くと、左手に宮田家のあった六軒長屋に着きます。宮田家は向かって左から三軒目だったのですね。
 城址の石垣の上から見下ろしますと、すぐ目の下に、長屋の裏側、梶井さんが滞在中に使っていた二階の窓が眺められます。あゝ、夜半の夕立に足を濡らしながら、この窓から城址を眺めたんだなと、あらためて感慨一入でした。d0238372_17162344.jpg
 城址には「城のある町にて」の一節を、中谷先生が書かれた文学碑が建っておりますね。その日も、文庫本を手に、じっと松阪の風景に見入っている青年がおりました。
中谷 そうですか。梶井とちがって私の悪筆では申しわけないようなものですが、梶井の文章に免じて勘弁していただくんですね。
平林 文学碑は湯ヶ島にもありまして、あちらの方には、伊豆へ行った折りに、立ち寄るという方は多いのですが、松阪まで足をのばされる人は、あまりありません。松阪は、今では和田金の肉で有名ですけど。(笑)本当に落ち着いた街ですね。(続)
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by monsieurk | 2014-09-13 22:30 | | Trackback | Comments(0)
   同人

 「青空」の第1号は、大正13年の12月20日すぎに印刷があがり、翌14年1月に創刊されたのですが、目次はこうなっています。
 「檸檬」梶井基次郎、「信」忽那吉之助、「暑熱」小林馨、「折にふれて」蠑螈子、「母の子等」外村茂、「初歩」中谷孝雄。同人は以上の6人で、発行所は東京市麻布区市市兵衛町2-55の青空社、発売所は帝大正門前、郁文堂、そして印刷所は岐阜刑務所作業部。(笑)「折にふれて」以外はみな小説ですが、この蠑螈子が稲村宗太郎さんですね。
中谷 そうです。ご存知のように、「青空」は京都の第三高等学校の同窓生ではじめた同人雑誌ですが、稲森君だけは別で、私の三重県立第一中学校の同窓生で、二年後輩なんです。もっとも私が高等学校で二年足踏みしている間に、同じ学年になってしまいましたが。(笑)
 稲森は中学を卒業すると、上京して第一早稲田高等学院に入学し、その後、早稲田の国文に進んだ男です。高等学院時代から窪田空穂氏に師事して、歌を作っていました。
 私は上京して直ぐ稲森に連絡し、梶井達にも紹介して、同人に推薦したのです。稲森は、そのとき既にいろいろな雑誌に和歌を発表していて、一部で注目される存在でしたが、私は彼に小説を書かせたかったのです。
 それでも創刊号には、小説ではなく和歌を発表されたのですね。
中谷 ええ、結局、小説は出来ずに和歌を載せたんですね。歌なら、もう既にあちこちに出ているわけですよ。それにその頃稲森は女の人と一緒になったりして、不如意な生活を送っていましたからね。和歌なら、なにも金を出して同人雑誌に載せることはないじゃないかということで、第一号でやめたのです。
 「青空」には十一首発表されていますが、「心に憂ひを持ちつつ」と題して、「庭くまのこごれる雪に眼をやりぬなごまぬ心人におさへつつ」など、みないい歌ですね。
中谷 稲森は、梶井の亡くなる前年に死んだのですが、『水枕』という遺歌集を一巻残しています。その後、改造社からだったと思いますが、『現代万葉集』といったような厚い本が出版されたのです。その中に、『水枕』からもかなり多く採られているはずです。
 そうですか。
中谷 十首ぐらい選ばれていたと思います。彼は非常な才人でしたが、惜しいことに早逝してしまいました。
 惜しいですね。
中谷 稲森というのは、じつに惜しいことをしました。
 それから忽那吉之助さんですが・・・この方の姓も珍しいですね。
中谷 四国に忽那島という島があるのです。ここは倭寇の根拠地なんですが、そこが出身です。ただ、当時はもう忽那の家はこの島にはなくて、伊豫のどこかの町に移っていたんですがね。
 忽那さんについては、大正15年の6月号(通算17号)に梶井さんが書いていますね。
 「忽那はクツナと読む。奇妙な名だ。(中略)忽那の生国は伊豫だ。彼は犬神の話を持ってゐる。闘鶏の話。海上の婚礼の話。おこぜの話――そんなところから郷土的な「肥料盗人」のやうなものが生まれた。(中略)情に脆い人なつっこい性質とその反面の孤独――時として彼はまいまいつぶらの様に蓋を閉じていまふ。」
 忽那さんは、創刊号の「信」にはじまって「肥料盗人」など、都合十一篇の小説を発表されていますね。
中谷 そうです。後に野村吉之助と改名しましてね。結局、彼は小説をやめてしまいました。学校の先生をやっていたのです。
平林 じつはつい二、三日前、野村先生に教えられたという方が、歌をみてくださいと言って、来られたのですよ。野村先生から中谷先生のことをお聞きしているということでした。ただ、野村さんは去年亡くなったそうです。
中谷 毎年三月、梶井の命日に大阪で集まりがあるのですが、その席で忽那の甥という方から、叔父が去年亡くなりましたと知らされました。
 中谷先生、梶井さん、外村さんは作家になられたのですが、もう一人小林馨さんは・・・
中谷 彼は仏文です。東北の出身で茫洋としたところのある男でしたね。
 先の梶井さんの寸評みたいに、中谷先生が、小林馨さんの人物評をやっておられます。
 「あたかも、白熊を思わせる様に、色が白く太ってゐる。(中略)ユーモアと云えば、彼自身の存在が、既に多量のユーモアを持ってゐる様に、彼の作品にも、いたる所にユーモアが満ちてゐる」と書いておられますね。(笑)
中谷 彼はあまり作品は書いていないでしょ。
K ええ、調べてみたのですが、小説は三篇だけですね。「暑熱」、「HALLUCIATION MAUVAISE」、「春の感情――我が影に花と思の嘆きを――」というものです。
平林 あの方は、比較的早くどちらかへ行かれたのでしたね。
中谷 そう、大学を卒業して、東北へ先生に行ったんだが、仏文では・・・高等学校ならいいんですが、中学校でしょ。仏文では駄目だというので、もう一遍、ずいぶん経ってから東大へ再入学しましてね。そして今度は日本史かなんかを、またやっていました。その折、保田与重郎君などと同じ学年だったらしくて、「中谷さん、小林馨というのは中谷さんと同級だったんですってね」と、保田が私に言っておりました。
平林 小林さんも文学をやめましたね。
中谷 文学をやめて正式の歴史の先生になろうとしたのでしょうけれども・・・もう彼も亡くなりました。「青空」をはじめた6人のうち、生きているのは、もう私だけになりました。(続)
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by monsieurk | 2014-09-10 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 『評伝梶井基次郎 視ること、それはもうなにかなのだ』(左右社、2010年)の前身『「青空」の青春』を雑誌「文芸広場」に連載したのは、1984年(昭和59)4月号から1990年(平成2年12月号までで、82回に及んだ。400字詰原稿用紙30枚ほどを毎月かかさず書いたが、それでも梶井が湯ヶ島へ療養に出かけたところまでしか書けなかった。
 それ以前、梶井の生涯の友であった中谷孝雄氏と妻平林英子さんから色々お聞きする機会があり、それも「文芸広場」に掲載した。1981年(平成3)4月号から6月号までで、手許に録音を起こして清書し、中谷孝雄氏が手を入れた元原稿が残っている。d0238372_17563573.jpg『「青空」のこと、梶井基次郎のこと』と題した対談で、貴重な資料なので、これから数回にわたって再録しておくことにする。
 右の写真は第三高等学校時代のもので、中谷孝雄を中心に、左が梶井基次郎、右が外村茂である。

 対談『「青空」のこと、梶井基次郎のこと』

 お二人にお目にかかったら、ぜひ伺いたいと思っていたのですが、「青空」という誌名の発案者は、中谷夫人の平林さんだそうですね。
平林 発案者といいますか、言いだしたのは私なんです。武者小路先生が、宮崎県の日向で実践されていた「新しい村」に、少しの間、いっていたことがあり、また先生を尊敬もし、ご本も読んでいたのですが、その先生の詩の一節に、「騒ぐものは騒げ、俺は青空」というのがあるんです。梶井さんや中谷達が、同人雑誌を出そうと相談していたとき、肝腎の名前がなかなか決まらないんです。みなさんが議論しているのを傍で聞いていて、ふと、「青空」という名前が頭に浮かびまして、それを中谷に申したのです。
中谷 毎日のように僕のところへ集まって議論するんですが、議論ばかりで決まらないんですよ。
 当時、大正13年(1924)の秋、お二人は本郷菊坂の下宿で、一緒に生活されておられたのですね。あそこは今もそのまま残っておりますね。
中谷 そうです。僕のところは女手があるということで、みなが集まったんです。この年の4月に、私達は東大に進学して、上京したわけです。そして、入学早々、同人雑誌を出そうということになったのですが、誰も原稿が出来ず、創刊号は現行の締切を10月末として、さて、それでは雑誌の名前をどうしようという段になって、これが容易に決まらないんです。みながそれぞれ勝手なことを言い出してね。(笑)
 京都時代から同人雑誌の計画はあって、みなさん達の間では、何となく「レーヴン」という名前で話し合われていたということですね。
中谷 ええ、みなと言っても、主に、梶井と私と外村の3人ですが、京都の三高時代、私達がよく行くカフェが祇園神社の石段の下にありまして、そこが「レーヴン」といったのです。
 私達は仲間のあいだで雑誌のことを話すときは、その名前を借りて、「レーヴン」と呼んでいたのです。エドガー・アラン・ポーの詩の「レーヴン」「鴉」というのがありましょう、そんなこともあって、気に入っていたんです。
 それはあくまで「レーヴン」で、「鴉」ではなかったのですね。
中谷 ええ、「レーヴン」です。
 そのまま「レーヴン」ではいけなかったのですか。
中谷 まあ、それでも良かったんですが、他の同人も加わることですし、何か考えようということになったのです。
平林 梶井さんは、「薊(あざみ)」というのはどうだろうとおっしゃいましたね。d0238372_1831072.jpg
中谷 そう、議論は幾日も続いたのですが、最後の方になって、梶井が「薊」はどうだと言ったんです。それで一度は決まりかけたのです。
平林 そうしたら、稲森(宗太郎)さんが、薊というのは水揚げしない花ですよといいだして、それじゃ一人前になれないから駄目だということになってしまったのです。薊だって水揚げしないわけではないんでしょうけど、稲盛さんの一言であっさり否決されてしまったのです。梶井さんはしゅんとしてしまうし、あれは可笑しかったですね。(笑)
 平林さんも、そうした議論に加わっておられたのですか。
平林 いえいえ、みなさん偉い方ばかりですから、私は飯炊きとお茶を出す係りで、傍でじっと聞いていたんです。
中谷 梶井は薊という植物に、なにか特別の関心を持っていたのじゃないかと思いますね。のちになって、「闇の絵巻」で、「はだしで薊を踏んずける」などと書くでしょう。
 ええ、「闇の絵巻」の冒頭、一本の棒を身体の前へ突きだして、暗闇の中を疾走する強盗の話を新聞記事で読んだ感想という形で出てきます。闇の中へ踏み出す一歩は、「苦渋や不安や恐怖の感情で一ぱいになった一歩だ。その一歩を敢然と踏み出すためには・・・裸足で薊を踏んづける! その絶望への情熱がなくてはならない」と書いています。
中谷 なにかよほど特別の体験があったんですかね。
 「闇の絵巻」が書かれたのは、ずっと後の昭和5年ですが、じつは京都時代の大正12年に書かれた日記の一節に、「あたりは真暗だった。・・・私には新しい一歩を踏み出す弧とが高まって来る恐怖の感情で凝り固らされてしまった。まるでゴルゴンの鬼面を見せられた人の様に。」という個所がありまして、ごく早い時期から「闇」を意識していたことがうかがえます。もっとも、まだこの時は、闇への一歩が薊を踏んずけるという表現を得るまでにはいたっていないのですが。
平林 薊の花と梶井さんは、どこがどうというのではないのですけど、共通点がありそうですね。
 それはどういうことでしょうか。
平林 薊というのは頑丈な花でしょ、長いあいだ咲いているんですよ。葉の棘はともかく、そうした野草のしたたかな強さというものが、梶井さんを彷彿とさせますね。まあ、これはあとで考えたことなのですけれど。
中谷 ともかく議論百出、みながいい加減疲れていたんですよ。そんなとき偶々、隣りの部屋へ行くと、この人が「青空」というのはどうでしょうと言ったんです。私もこれは良いと思ったものですから、みなに諮ると、賛成賛成ということで、ばたばたっと決まってしまったのです。もう議論するのがいやになっていたんですね。
平林 あの頃は、本郷の下宿の窓からのよく晴れた青空が見えた時代だったんです。でも、私が最初に「青空」と言いだしたことは、梶井さんなどは死ぬまでご存知じゃなかったでしょう。
中谷 いや、知っていたさ。僕らの話をすぐそばで聞いていて、僕がそのことを諮った時、最初に賛成したのが梶井だよ。
平林 あら、そうですか。私は中谷にだけこっそり言ったつもりでしたから、今まで梶井さんなどはご存知なかったと思い込んでいました。
 中谷さんのご本『同人』でも、お二人のあいだで青空をまぐる会話があったとき、梶井さんは襖のすぐ近くに座っていたから、いやでも耳に入ったはずだと書いておられますね。
 ところで、そうした経緯で同人雑誌の名前は「青空」と決まったわけですが、同人の方々はこの誌名をどう思っておられたのでしょう。
中谷 それはもう梶井をはじめ同人のみなが、この名前を大切にし、愛していました。
平林 みなさんお好きでしたね。
中谷 誌名に対して批判的な者は誰もいなかったですね。(続)
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by monsieurk | 2014-09-07 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 もう一つの資料は、雑誌「独立評論(La Revue Indépendante )」の1888年4月号(第7巻、18号)に掲載されたCrémaillère と題した記事である。d0238372_8384085.jpg
 この単語は炉などに鍋をかける自在鈎をさすが、「自在鈎を吊るす」という表現は、客に食事を供して新居祝いをする意味である。この号は巻頭に「ジュール・ラフォルグの未刊の詩篇の一冊に関する書誌」を載せて、ラフォルグの20篇の詩をまとめた未刊行の一冊が見つかったことを伝えている。そして問題の記事はこの号の最後、202頁から203頁にかけて、6行分の説明と、それに続いて4行3節からなるマラルメの手になる一篇の状況詩が紹介されている。
 「『独立評論』の創立のお祝いに編集者たちが集った。そのための招待状をルイ・アンクティヌ氏がドライポイント(銅版画)で和紙につくり、それを詩句と組み合わせたものが、ここに復刻したのであるが、製版とテクストにあわせるために縮小したせいで美しさが損なわれたのが残念である。なお、テクストはマラルメ氏である。」
 こうした説明のあとに、アンクティヌがドライポイントで、ポダグリアとおぼしい葉や囀る二羽の小鳥、それににこにこ顔の太陽を描いた絵の上に、以下のようなマラルメに詩句が印刷されている。

 
 Caressé par la réussite        成功にくすぐられ
 Et dans les gants les plus étroits,    ぴったりの手袋をはめた
 Ēdouard Dujardin sollicite       エドゥアール・デュジャルダンが懇願するには
 Qu’autour de neuf heures, les trios   凡そ九時ごろ、三月の
 
 Mars, par même l’ombre endossée   三日、飾り立てた盛装は
 D’un habit à crachats divers!      唾棄されるもと!
 Vous visitez, onze, Chaussée      お訪ねください、十一番、ショセ・
 D’Antin, son magasin de vers :     ダンタンの、彼の詩の店を、
 
 La Revue avec bruit qu’on nomme   噂も高いこの「雑誌」 名づけて
 INDEPENDANTE, Monsieur, pend  「独立評論」が、皆さん、賑々しい
 Une crémaillère d’or comme      新居祝いをいたします
 Le gaz en son local pimpant.   ガス灯のように金色に煌く粋な部屋。

 
 マラルメはデュジャルダンの求めに応じて、当初、1887年11月26日に予定されていたパーティーのために、もう一つのテクスト(ベルトラン・マルシャル編纂の新プレイヤード版『マラルメ全集』第1巻の355-356頁)をつくったが、パーティーが翌年の3月3日に延期になったために、新しい日付にあわせて韻を踏みなおして、このテクストにつくり直したのである。説明文にあるとおり、招待状は雑誌掲載にあたって縮小された上で印刷されたため、鮮明さにかけるうらみがある。オリジナルをぜひ目にしたいものである。

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by monsieurk | 2014-09-04 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 かつて上梓した『生成するマラルメ』(青土社、2005年)の記述を補完する資料を新たに2点入手した。それに基づいて誤りをただし、曖昧だった点を明らかにしたい。
 第1は同書の182頁の、「一周忌を期してルニョーの作品の回顧展を催し、カザリスとアルチュール・デュパルクが、短かった画家の生涯を扱った伝記を執筆して、ルメール書店から刊行した」という記述にかかわるものである。このとき書肆ルメールから刊行されたのは、アンリ・カザリスが著した『アンリ・ルニョー、その生涯と作品』(Henri Cazalis: Henri Regnault sa vie et son œuvres, Alponse Lemerre,1872)であって、デュパルクは同じ年に、ルニョーの残された書簡を集めて刊行したというのが正確な事実である。カザリスはこの本によって、ナポレオン高等中学校の同級生だった画家の短かった生涯と画業を、皆の記憶にととどめようとしたのである。
 カザリスは冒頭にアンリの父ヴィクトール・ルニョーへの献辞を載せ、これが子息を亡くした父にたいするせめてもの慰めになればと述べている。
 アンリ・ルニョーは1843年10月30日に生まれた。 d0238372_10594860.jpgステファヌ・マラルメの1歳年下で、『生成するマラルメ』で「1歳年上」としたのは誤りである。彼の父ヴィクトール・ルニョーは、コレージュ・ド・フランスの教授で、科学アカデミーの会員。有名なセーヴル陶器の製造所の所長を25五年にわたってつとめたから、アンリは幼いときはパリ南郊のセーヴルやムードンの森を駆けまわって過ごした。
 家族の友人には著名な文学者や科学者が多く、よくルニョー家を訪ねてきた。彼は高等中学校は名門ナポレオン校に入学し、そこで同級生のカザリスや先輩のエマニュエル・デ・ゼッサールと知り合いになった。早くから画家になることを目指していたアンリは、17歳でラモットの画塾に入学し、ここでアングルとフランドランから手ほどきをうけた。先ずは当時の主流だった古典派のもとで絵を描き始めたのである。
 マラルメが初めてルニョーと出会ったの、前書で述べた通り、1862年5月11日に行ったフォンテーヌブローへの遠出のときである。この日の遊楽はマラルメが卒業したサンス高等中学校の教師で、詩作の先輩であったエマニュエル・デ・ゼッサールの肝いりで行われ、アンリ・カザリス、ルニョー、マラルメ、さらには4人の女性たちが参加した。彼らはこの日の出会いを機会に友人となり、生涯にわたって交友を重ねることになった。
 ルニョーは翌1863年には国立美術学校へ入学し、同時にカバネルのアトリエに通い、1864年には「サロン」に出品し、翌65年には、若手画家の登竜門である「ローマ賞」の審査に応募した。このときは賞こそ逃したが、審査員たちはルニョーの才能を認めてメダルを授与した。
 カザリスは著書の中で、ルニョーがこの年にマラルメ宛てに書いた手紙を紹介している。「不思議な変貌が私のうちで起こっている。私は夢想家となり、内に籠っている。・・・日常の、世間の言葉が嫌でたまらない。画家や詩人にとっては雲の彼方に住むことが必要だろう。そこで狂気の叫びのなかにすべてを忘れ、降り注ぐ純粋性のなかで忘我状態になることが必要なのだ。世間の物音はない一つ聞こえず、下界の煙は一筋たりと目にすることはない。ただ、聞こえるか聞こえないかの微かな鐘の音が昇ってくるばかりだ。青空と無限が完璧に調和し、私たち生者にとっては繊細にすぎて堪えがたい感覚を味わうために、生きることを止めることが出来ないのだろうか。そう、私は芸術へと飛翔しようと努めているのだ。だが、私は大変な不能の時期にいるのだと思う。君もまたそうした時期を通り過ぎたに違いない。それはまた、これまでは隠されていた世界全体が私たちの前で展開される瞬間でもあるのだ。山々の頂を覆っていた巨大な雲は消え去り、深淵の暗い影さえも光輝きだす。前代未聞の神秘の奥義に自分が到達したと感じる瞬間でもある。長い間、盲目だった者が、突然、はるか彼方まで見通せ、その豊饒な光景に息を詰まらせるようだ。私は自分が大きくなり成長しつつあることを実感している。・・・」
 マラルメはルニョーが述べている感覚に共感を覚えた。詩と絵画の違いこそあれ、二人は同じ道を歩みだしつつあった。
 ルニョーが待望の「ローマ賞」を得たのは1866年のことである。彼は友人宛の手紙でこう書いている。「幸運を得た大変幸せだ。私はついに自分自身のために制作し、思うままに勉強し、大家たちの水準を探求する自由を得た。審査員たちは全員一致で私に「賞」をくれただけでなく、加えて、ルーヴル美術館での授与という晴れの舞台を用意してくれた。
 「ローマ賞」を得たルニョーは、副賞であるローマへの留学を翌年はたし、イタリヤ・ルネサンス期の傑作の数々を直接目にするとともに制作に励んだ。《アキレウスの馬を御す御者》(ボストン美術館蔵)がこの時期の代表作だが、この作品は題材や技法、色彩の豊かさの点でも、形骸化したアカデミズムから離れて、ロマン主義とりわけドラクロアへの傾斜が見られる。事実、この頃の手紙には東方へ強い憧れが記されている。
 ルニョーは2年間のローマ滞在ののち、1868年から70年まで、親友の画家ジョルジュ・クレランとともにスペインのマドリッドに滞在して、ヴェラスケスとゴヤの作品を学び、南国の強い光のなかにある風光と人々の情熱的な生きざまを堪能した。
 ルニョーが伝説的な人物プリム将軍と出会ったのは、マドリッドのあるサロンでのことである。この出会いから彼の傑作の一つでルーヴルに展示されている《プリム将軍》が生まれた。ルニョーとクレランはジブラルタルからモロッコのタンジールまで足を延して、待望久しい東方の雰囲気を味わった。d0238372_112447.jpg 今日ニューヨークの「メトロポリタン美術館」に収蔵されている《サロメ》は、タンジールで仕上げられた。作品では黒髪で胸をはだけた野生的な女性が箱に座り、薄物をはいた膝の上に大きな銅の皿をのせている。皿の上にはアラブ風の刀があり、女はそれを左手で握っている。彼女はこの刀でやがてヨハネの首を切ることになるのである。ルニョーは伝説のサロメを、ローマ郊外で見つけた田舎娘をモデルに描き始め、タンジールで完成させたのだった。ルニョーの描いた《サロメ》は、やがて詩篇「エロディヤード」を創作するマラルメにも影響を与えた。
  アンリ・カザリスがもっとも筆を費やしているのは、ルニューの最後である。ルニョーは1870年7月19日に普仏戦争が始まると、すべてを投げ捨てて帰国し、兵士として戦場に赴いた。配属されたのは第69歩兵連隊であった。アンリ・カザリスは、戦場でのルニョーの姿を正確に伝えるべく、彼の戦友たちから聞き取りを行って、数々の事実を明らかにしている。
 ルニョーはこの年の11月にはセーヌ河畔の街アスニエールの前線おり、12月末にはコロンブの前哨に立っていた。クリスマスはここで過ごした。彼の勇敢な行動はきわだっていて、直属の上官であるステンメッツ大尉はルニョーを将校に昇格させようとした。しかし彼は手紙で、「有難うございます、閣下。しかし、私はあなたのよき兵であり、平凡な士官をつくるために、それを失うべきではありません」と述べて、せっかくの申し出を辞退したのだった。カザリスは、「事実、戦火の下ではいつも先頭に立ち、撤退の際は常にしんがりをつとめた」と、兵士ルニョーの勇敢なふるまいに言及している。
 カザリスはまた、ルニョーが戦場から婚約者のジュヌヴィエーヴ・ブレトンに宛てた手紙を幾つか引用している。そのなかの一通で、鉛筆で記された前哨からの手紙。「いつ終わるともしれない夜がようやく明けた。いとしい人よ、本当に恐ろしかった。でも嘆くまい。私よりももっと苦しんだ者がいるのだろうから。・・・一瞬毎に、凍った風がテントを持ち上げそうになった。私たちは氷の嵐の中にさらされていた。水筒の水はコチコチに凍り、足は無感覚になってしまった。隣のテントでは、可哀想な仲間たちのうめき声がする。・・・いつか君の部屋で温まることが出来るだろうか。君を愛し、祖国を愛している。それが支えだ。さようなら。」
 年が変わって、ルニョーは一時パリへ戻ることを許可された。夢にまで見た暖かい暖炉のそばでの日々に、彼はふたたび力を取り戻した。ジュヌヴィエーヴのかたわらでは過酷な現実を忘れ、二人でする旅に思いをはせた。タンジール、そしていつかはインドへも行ってみたい。将来、友人たちを迎える自分たちの家の設計図さえ出来上がった。だが、夜間には敵機が爆弾を投下し、砲弾が炸裂する音が次第に近く聞こえるようになった。プロシャの攻勢は明らかで、敵はパリに近づきつつあった。離別の刻が迫っていた。
 1871年1月17日火曜日、ルニョーに再度戦場へ出動するよう命令が届いた。正午、彼はみなに別れを告げると、パリ近郊のビュザンバルへ向かった。カザリスの伝えるところによれば、ルニョーは軍帽の裏に、身元を示す布を縫い付けていたという。そこには「アンリ・ルニョー、画家、学士院会員ヴィクトール・ルニョー氏の息子」とあり、万一負傷あるいは死亡したときに、運んでほしい自宅の住所も書かれていた。さらに彼は手紙と写真をしのばせた封筒を小さなマフのポケットに入れており、封筒の上にはドイツ語で、「für meine Braut (わが婚約者へ)」と書かれていた。マフは寒い夜に指が凍傷にかからないようにと、ジュヌヴィエーヴがどうしても持たせた品であった。しかし、わざわざドイツ語で書かれた封筒は恋人のもとには届けられなかった。
 戦闘は1月19日木曜日の夜明けとともに始まった。ルニョーのそばには画家で親友のジョウルジュ・クレレンや他の戦友たちがいた。お昼ころ、心配しているジュヌヴィエーヴのもとに、馬で様子を見に行った友人の使用人から、戦況は味方に有利だというニュースが届けられた。午後4時、冬に陽はすでに暮れ、ビュザンバルの公園前の林のなかで激しい銃撃戦が起こった。ルニョーとクレランはいつしかちりぢりになった。退却のラッパが鳴った。クレランはルニョーを探したが見つからない。やがて退却した部隊に合流することができたが、ルニョーの姿はそこにもなかった。部隊の誰彼にルニョーの消息を尋ねたが、誰も知らなかった。負傷してプロシャ軍の捕虜になったのに相違ない、そう自分に言い聞かせてみても、彼の不安は鎮まらなかった。
 その日のうちにパリへ帰還したクレランは、夜の6時ごろ、ルニョーが戦場で遺体で見つかったとの知らせをうけた。遺体は戦場に放置されていたが、帽子の裏の書付から身元が分かり、希望どおりに指定の住所に運ばれてきたのである。翌週の金曜日、1月27日の朝、パリは降伏した。ルニョーの葬儀は同じ日にサン=オーギュスタン教会で行われた。このときルニョーの父ヴィクトールは田舎に疎開していたために息子の死を知らず、葬儀の一切はブルトン家の手で行われた。葬儀にはアンリ・カザリスは出席できたが、トゥルノンにいたマラルメは、フォンテーヌブローの遊楽以来、深く親しんだ友の葬儀に参列することができなかった。
 
 (なお、今回と次回のブログの内容は、機関誌「情報化社会・メディア研究」の第5巻 2008年に掲載したものの再録である。)
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by monsieurk | 2014-09-01 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)