ムッシュKの日々の便り

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高橋和巳の問題提起

 高橋和巳の遺作『白く塗りたる墓』(筑摩書房、1971年) はテレビ局を舞台にした小説で、学園紛争で校内を封鎖をした女子大生を取材したテレビ局の取材をめぐって展開する。d0238372_6575216.jpg
 学校側は取材方法に問題があったとして、テレビ局に抗議文を送ってくる。それによれば、取材班は封鎖派の学生を取材車に同乗させ、食糧や封鎖に用いる資財の搬入に便宜をあたえ、研究室から大量に書物が紛失した際にも同じ車が用いられた疑いがあるというものであった。
 テレビ局では、こうしたことが実際にあったかどうか、上層部による聴き取り調査が行われる。その結果、書物の紛失の件は無関係だが、食料を差し入れたこと、立て籠もった学生のなかに病人が出て、その学生を取材班の車で病院へ運んだことは事実であることが分かる。これは1963年10月に、成田空港建設反対闘争で、TBSの取材班がドキュメンタリー番組を取材した際に起きた事件を念頭においたものである。d0238372_701574.jpg
 小説では取材班を含めた社内討論集会が開かれることになる。注目したいのは、この場で展開される「事実の公正な報道」をめぐる議論で、参加した記者の一人がこう発言する。
 「やはり報道の中立性というか、いやむしろイデオロギー以前の事実性というものを大切にする立場はあると思うし、それを守りたい。たとえば大学問題に例をとれば、内ゲバというものがあるでしょ。あるわけですよ。先程の新田さんの立場からすれば、それにどう対処するのかな。それはまた新田さんにおうかがいしたいが、私の立場では、やはり、そうした矛盾も冷静に、事実性の重みそれ自体を押し出すかたちで報道すべきだと思うんですよ。いろんな運動体がある。それぞれの運動体は自己を正当化し情宣する権利をもつ。しかし、思想というものは、その公的な顔によって決まるのではなく、その運動体および運動体に属する個個の人の行動の軌跡によって判定されねばならないと思うからです。だから事実は、依然として事実として報道されねばならない。その場合に、やはり、客観的な立場の想定は必要なわけですよ。その客観性への固執は書いた文章や撮ってきたフィルムが、ハサミを入れたりお倉にされたりすることに対する抵抗の原理として役立つ。母親が愛の観念を抱くのではなく具体的存在である子どもを抱くのであるように、われわれは事実を抱きしめなければならないし、テレビはまさしく、そのための非常に強力な手段だと思うんですよ。」
 それに対して、新田さんと呼びかけられた若い女性カメラマン(彼女が校内に立て籠もった女子学生たちを撮影した)は、「事実は確かに大切だと思います」と前置きして、次のように反論する。
 「でも、映像は事実そのものでしょうか。そうじゃないでしょう。それは事実の模写にすぎないと思うんです。これはいつも班長が言っておられることですけど、映像はむしろ言語だと考える方がいいって。言葉は事実や観念を指示はしますけれど、それはあくまでシンボルであって、物それ自体でもイメージそのものでもない。言語表現の場合には、違いがはっきりしているから混同は起こらないわけです。でも、テレビの映像になると、模写の度合いが高いから、人々はひょっと錯覚するんです、映っていることが事実そのものだと。でも本当はそうじゃありません。(中略)あくまでシンボルをあやつる主体性の問題になると思うんです。主体性のないシンボル操作ではたった一つの事実も構成的に把握することはできないと思うんです。あれもこれもと博引傍証して、結局なにも言っていない論文のような事実の模写像を羅列するすることが、報道の客観性を保証するとは、私は思いません。カメラの、レンズを向けられた視界内でも無選択性が、事実性を保証するとも思いません。むしろ大事なのは映像の文脈であり、映像に文脈をもたらすこちらの態度の一貫性だと思うんです。」
 ここでは「事実の報道」をめぐる3つの重要な問題が指摘されている。1つ取材対象との関係。取材する側は対象とどのような距離を保つべきなのか。
 2つ目は女性カメラマンが主張するように、現実を伝える言葉や映像はシンボルであって、事実そのものではないという点。それにもかかわらず、受け手の側はそれを現に起っている現実と錯覚しがちで、とりわけ「模写の度合いが高い」映像の場合は、そう思い込みがちであること。
 もう1つは、言葉や映像が事実そのものではなくシンボルであるならば、伝え手は事実を伝えるために、単に現実を写し取った言葉や映像を羅列するのではなく、一貫した文脈をもって、それを構成する努力をしなければならないという主張である。この場合は言葉や映像を構成する人間の、現実と向き合う姿勢、資質、思想などが問われることになる。
 最近の朝日新聞やNHKをめぐる事態を見るにつけ、高橋和巳によって40年前に提起された、ジャーナリズムのあり方に関する基本的な問題をあらため考えてみる価値がある。
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by monsieurk | 2014-10-31 22:30 | メディア | Trackback | Comments(0)

隠された事実・中東混乱

 今日の「イスラム国」の台頭にいたる中東情勢は、1988年8月のイラン・イラク戦争が終結し、その結果として1990年8月2日に起ったサダム・フセインのクウェート侵攻、そしてそれを阻止しようとした1991年1月の湾岸戦争に端を発している。
 1991年1月の湾岸戦争のときはスタジオで解説にあたっていた。1月17日朝、アナウンサーの質問に答えている最中に、イラクの首都バグダッドを攻撃するミサイルの映像がとび込んできた。「砂漠の嵐」作戦の開始だった。湾岸戦争には多くの謎があったが、その一つはそもそもイラクのサダム・フセインが、なぜ隣国クエートへ侵攻したのかだった。
 1990年12月にフランスで緊急出版された『湾岸戦争』は、現在進行中の事態について数々の新情報をもたらしてくれた。著者のエリック・ローランは作家でルポラーター、もう一人のピエール・サリンジャーは、ケネディのスピーチライターをつとめたあと、ABCテレビのパリ特派員となり、取材先で顔をあわせたことがあった。d0238372_1592444.jpg
 当時フセインは経済再生のために、OPECに対して原油価格の値上げを要求していたが、アメリカのクラスピー駐イラク大使は面談したフセインに、「アメリカはイラクに対して経済戦争を宣言することはない」と発言し、イラクを訪問した農産地出身の上院議員のグループは、政府はアメリカ産小麦の買い入れに信用供与を約束したと伝えた。さらに国務次官補のジョン・ケリーは議会で、アメリカはクウェートを守るために軍事力を行使する義務を負っていないと証言した。この発言は英国BBCで放送され、バグダッドにも届いていた。これらがフセインに、アメリカがクエート合併に青信号を出したとの誤解を与えたという説を、サリンジャーたちは紹介していた。事実、イラクのクウェート侵攻はケリー発言の2日後に行われた。
 同書にはさらに、イラクに軍需物資を提供してきた西側企業の一覧が載っており、イラクを軍事大国に育て上げたのが他ならぬ西側やソビエトであったことを暴露した。取材対象に深く食い入って湾岸戦争の内側を暴露した本書は、それ自体が貴重な情報源だった。
 湾岸戦争は作戦開始から1か月余りの2月28日に終結した。その直後、シュワルツコフ総司令官の記者会見が衛星中継で送られてきた。そのなかで司令官は、「メディアが上陸作戦を書きたててくれて本当に助かった。メディアに感謝している」と語ったのである。当初アメリカ軍は海から上陸作戦を敢行すると見せかけて、陸上部隊を砂漠から進攻してイラク軍の側面をつき完璧な勝利を得たのである。
 記者会見のあと、記者たちがシュワルツコフに、「他にわれわれに隠したことはないのか」と食ってかかる映像が流れてきた。その場面を見ながら、湾岸戦争が徹底した情報管理の下で戦われ、メディアは結果として情報操作に協力したことを痛感させられた。政治権力だけでなくあらゆる権力は、都合の悪いことは隠したがる。メディアの側がそれを突き崩すには洞察力が必要だが、それはものごとを歴史的文脈で眺めることで養われる。
 次回は、そもそもメデイアが伝える事実とはなにかを考えてみたい。
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by monsieurk | 2014-10-28 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)

文献保存の話題2つ

 最近報道された文献保存に関する話題を2つ。
 ヴァチカン・ローマ法王庁の図書館は、今年2014年10月20日から、所蔵する手書き史料をデジタル化したものの一般公開をはじめた。Webサイト、https://www.vatlib.it/ からアクセスすることができる。
 ヴァチカンにある図書館には現在160万点をこえる蔵書が所蔵されているが、そのうちの手書き文献約8万冊、およそ4000万ページをすべてデジタル化する作業が進行中である。ヴァチカン図書館にある文献はキリスト教関連のもの以外にも貴重な史料が多く、ボッチチェルリが15世紀に描いたダンテの神曲の挿画や、江戸時代の弾圧のなかで殉教を誓った日本の信者たちの連判状などもあるという。d0238372_1011563.jpg 
 ヴァチカン図書館には江戸時代の潜伏キリシタンに関する史料を調査する「マレガ・プロジェクト」がある。マリオ・マレガ(1902-78)はイタリア出身の神父で、1929年に来日して長い間大分で伝道し、そのかたわら多くの古文書を蒐集して「豊後切支丹史料」を刊行した。
 ヴァチカン図書館の改修にともない、2011年に図書館に保管されていた21個の包みのなかから日本語の史料1万点が発見された。その内の2袋の史料はマレガ神父が「豊後切支丹史料」として刊行したものの原本で、他の19袋のものはこれまで公にされたことがない史料であることがわかった。
 これらの史料については、ヴァチカン図書館と日本の人間文化研究機構、大分県立哲史料館、東大史料編纂所が協定を結んで調査にあたることになっている。
 史料は1620年ころの文書が多く、殉教者や奉行所が置かれた長崎へ連行された信者の情報、踏み絵の方法、キリシタンから改宗したことを示す証文、逆に切支丹を信仰する農民たちの血判状もあるという。d0238372_104314.jpg
 進行中の作業は、こうした手書き史料などを一枚一枚スキャニングしてデジタル化していくのである。このデジタル化のシステムを提供しているのがNTTデータで、日本の国会図書館に導入したアーカイブソリューション「AMLD」をベースに、ヴァチカン図書館デジタルアーカイブシステムを構築したという。
 ヴァチカン図書館所蔵の史料は2世紀からのもので、羊皮紙やパピルスに書かれたもの、金銀で装飾されたものなどもあり、それらを傷つけないようにガラス板にはさんで、スキャニング作業を繰り返す。現在稼動しているスキャナーは3台だが、将来はこれを50台に増やす計画だという。それでもすべての文献をデジタル化するには、15年はかかる見込みで、必要な経費も5000万ユーロ(68億円)が必要で、これは世界中からの寄付による基金でまかなうことにしているという。
 募金用のホームページは、https://support.digitavaticana.org/contribution/language=ja)。
なお、「マレガ・プロジェクト」については、11月1日に、ヴァチカン図書館のパシーニ館長も参加して、大分県臼杵市の市民会館で調査の中間報告会が開かれる。

 話題その2。
 以前、このブログで記録媒体としての石英ガラスについて書いたことがあるが、朝日新聞10月21日掲載の記事によると、日立製作所が熱や放射線に強い石英ガラスに、ブルーレイディスク並みの密度でデータを書き込む技術を京都大学と共同して開発したという。データは3億年とい気が遠くなるほど長い期間保存できる。
 技術的には、レーザーを細く絞って石英ガラスにごく短時間照射すると、内部に1000分の1ミリほどの泡ができる。これをデジタルデータの単位として、泡を1000分の3ミリほどのピッチで平面に並べ、0.06ミリ間隔で100層分重ねる。すると約2.5センチ角で厚さ8ミリの石英ガラスに約1.5ギガバイトを記録できた。1000度の熱を2時間加えてもデータは破損されることはなかった。なお読み出しには光学顕微鏡を使うという。
 やがて「はやぶさ2号」とともに、H2ロケットで宇宙に打ち出される石英ガラスには、未来の地球人か宇宙人に向けた衛星開発者のメッセージや現在の地球、人類の姿が刻まれることになっているとのことである。
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by monsieurk | 2014-10-25 22:30 | メディア | Trackback | Comments(0)

最近の書評(その3)

 フレデリック・ケンプ著『ベルリン危機 1961』(白水社、2014年)

 1989年11月9日、ベリンの壁が崩壊したとき、現地で取材していた。あの冬のベルリンは底冷えのする寒さにもかかわらず、歴史的出来事の興奮で、みなが頬を紅潮させていた。d0238372_6505243.jpg
 本書は1961年に壁が築かれ、東西冷戦下で世界の緊張がピークに達した事件を、徹底した資料調査とインタビューによって描いた歴史書である。本書が知的好奇心をかき立てる読み物になっているのは、著者の筆力と、巧みな場面転換など優れた構成力のおかげである。著者の両親は旧東独の出身で、壁への思いは特別なものだったという。
 冷戦下の危機といえば、ベルリンの壁構築の翌年に起きた「キューバ危機」とするのが通説であった。だが本書で、ケネディ政権の一員だったコーフマンは、「壁が作られたあとソ連とアメリカの戦車が文字通り対峙して砲口を向け合ったあの時は、ミサイル危機よりもいっそう危険な状況だと個人的には思った」と語っている。
 東西ベルリンは西側世界と社会主義圏のショー・ウインドーだった。西側の自由と繁栄にあこがれる東独からの難民は増える一方で、人口の流失は東独の内部崩壊を引き起こしかねず、ウルブリヒト東独評議会議長には見すごせない事態だった。これを阻止するには壁を築き、自由な往来を物理的に阻止する以外にないように思えた。フルシチョフはこの年の10月、共産党大会を控えており、ベルリン問題に決着をつけないと地位を失う危険があった。はたしてフルシチョフは壁の建設を許すか。ただウルブリヒトはスターリンとはちがい、年下のフルシチョフに服従するつもりはなかった。一方のケネディも、就任早々行ったキューバのピッグス湾進攻の失敗から立ち直る必要があり、ベルリン問題は正念場だった。
 著者はケネディ政権内部の対ソ柔軟派と強硬派の対立や、両首脳の間で交わされた書簡、ソ連諜報員の行動など、新資料を駆使して歴史的事件の真相を描ききっている。達意の翻訳で一気に読んだ。

 入江昭著「歴史家が見る現代世界」(講談社現代新書、2014年)

 社会が大きく転換しようとしている今日こそ、歴史を顧みる必要がある。「歴史とは現在と過去との尽きることのない対話である」といったのはイギリスの歴史家E・H・カーだが、対話には導きの糸が必要で、本書こそそれにふさわしい。d0238372_6533370.jpg
 著者は歴史を考えるにあたって、従来の国単位の歴史観にかわる「グローバル史観」を提唱する。それは世界全体の動きを捉える姿勢であり、国や文化などの境界を越えた人間同士のつながりをたどり、さらに地球規模の自然環境を歴史研究に取り込む問題意識である。
 今年は第一次大戦が始まって100年になるが、当時、世界には大国間の勢力争いだけでなく、植民地支配者と被支配者、西洋と非西洋、白人と有色人種、男性と女性の間に大きな溝があり、「地球全体が対立するいくつかの人間集団に分裂していた」ことが、未曽有の惨禍をもたらした戦争の原因だった。著者のいうグローバルな歴史観とはこうしたものである。この視点に立てば、「国家より全人類、分断より相互依存が主な枠組み」として見えてくる。これにより国家の発展や国家間の抗争を中心にすえて、戦争や外交に比重を置く歴史の見方を脱却することができる。
 現在も「国益」をふりかざし、「パワーゲーム」にこだわる歴史観が横行している。だが国内外の市民社会の成長や相互のつながりを見れば、「国益」を第一とする思考が、時代にそぐわないのは明らかである。
 著者は世界が相互に影響しあい、混合のなかから新たなものが生まれている一例に文学や芸術をあげる。世界の優れた作品は翻訳されて人々に感銘をあたえ、音楽の世界では国籍に関係なく演奏家が各地の聴衆を感動させている。いま世界では混合と新たな創造が起っている。「やがて社会、文化、国家など、あらゆる存在が自分と他者を区別する境界を取り外し、一つのアイデンティティが残る。」
 これが本書のメッセージであり、著者の願いである。
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by monsieurk | 2014-10-22 22:30 | | Trackback | Comments(0)

最近の書評(その2)

 パトリック・オウジェニーク『エウロペアナ』(白水社、2014年)

 京都大学文学研究科で「20世紀学」講座を担当していたことがある。そのときにこれが出版されていれば、間違いなくテクストに使ったに違いない。d0238372_6452867.jpg副題に「20世紀史概説」とうたった本書は、刊行当初「誤って」歴史関係の書棚に並べられたという。だが著者はインタビューで、「この副題は古典的な反語です――皆さんが手にしているのは、20世紀の概説ではないのです」と述べているが、本書は20世紀に出現した事象、「世界大戦」から子ども用の「バービ―人形」まで、ナチスによる「ショア」(ユダヤ人絶滅政策)から麻薬の横行やセックスまで、私たちが経験した大小の出来事をとりあげて、それを風刺をこめて物語る。たとえば「第一次世界大戦の開戦から一年(中略)、ヴォークワにいたドイツ兵のもとにはよく訓練された犬がおり、ドイツ軍とイギリス軍のあいだを行ったり来たりして、パンや煙草やチョコレートやコニャックを運んでいたという。ドイツ軍には煙草やチョコレートがあったが、パンやコニャックがなかった」からだという。本書にはこうした意表をつく話が満載である。
 「(第一次大戦がはじまった1914年)、「あるフランス人女性がブラジャーを考案し、スポーティな現代のライフスタイルを望む女性たちに新しい生活をもたらし、かたやコルセットの消滅はそれまでありとあらゆる偏見に結びつけられていた古い世界の終焉を表していると新聞は論じた。1935年には、アメリカ人が胸の小さい女性向けにパッドのついたブラジャーを考案した。1968年には、西側の都市で女性の権利を主張するデモ行進が行われ、新聞記者たちの眼の前でわざとブラジャーを外し、男女平等を訴えた。」この数行で百年の女性の歩みの一面が鮮やかに浮かび上がる。著者オウジェドニークは風刺小説『兵士シュヴェイク』を生んだチェコ出身らしく、ヨーロッパの近現代を、コラージュの手法で百数十ページの本にまとめ、鮮やかに描いてみせた。本書を見つけた訳者と出版社に拍手。
副題に「20世紀史概説」とうたった本書は、刊行当初「誤って」歴史関係の書棚に並べられたという。だが著者はインタビューで、「この副題は古典的な反語です――皆さんが手にしているのは、20世紀の概説ではないのです」と述べているが、本書は20世紀に出現した事象、「世界大戦」から子ども用の「バービ―人形」まで、ナチスによる「ショア」(ユダヤ人絶滅政策)から麻薬の横行やセックスまで、私たちが経験した大小の出来事をとりあげて、それを風刺をこめて物語る。たとえば「第一次世界大戦の開戦から一年(中略)、ヴォークワにいたドイツ兵のもとにはよく訓練された犬がおり、ドイツ軍とイギリス軍のあいだを行ったり来たりして、パンや煙草やチョコレートやコニャックを運んでいたという。ドイツ軍には煙草やチョコレートがあったが、パンやコニャックがなかった」からだという。本書にはこうした意表をつく話が満載である。
 「(第一次大戦がはじまった1914年)、「あるフランス人女性がブラジャーを考案し、スポーティな現代のライフスタイルを望む女性たちに新しい生活をもたらし、かたやコルセットの消滅はそれまでありとあらゆる偏見に結びつけられていた古い世界の終焉を表していると新聞は論じた。1935年には、アメリカ人が胸の小さい女性向けにパッドのついたブラジャーを考案した。1968年には、西側の都市で女性の権利を主張するデモ行進が行われ、新聞記者たちの眼の前でわざとブラジャーを外し、男女平等を訴えた。」この数行で百年の女性の歩みの一面が鮮やかに浮かび上がる。著者オウジェドニークは風刺小説『兵士シュヴェイク』を生んだチェコ出身らしく、ヨーロッパの近現代を、コラージュの手法で百数十ページの本にまとめ、鮮やかに描いてみせた。本書を見つけた訳者と出版社に拍手。
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by monsieurk | 2014-10-19 22:30 | | Trackback | Comments(0)

最近の書評(そのⅠ)

 今回から最近書いた書評、「テクストのテクルト」を3回にわたって掲載する。

 野村正人著『風刺画家グランヴィル テクストのイメージの19世紀』(水声社、2014年)

 19世紀フランスの風刺画家グランヴィルの生涯と作品を軸に、当時の出版文化をたどる著作である。J・J・グランヴィルは、同世代の風刺画家ドーミエと比べて忘れられがちだが、400頁をこす本書では、その貴重な作品が随所に挿入されていて興味は尽きない。d0238372_14192389.jpg
 グランヴィル(本名、ジャン=イニャス=イシドール・ジェラール)は、1803年9月にフランス南東部のナンシー市に生まれた。22歳のときパリに来て、やがて左岸にある国立美術学校の近くの屋根裏部屋に住み、芸術家志望の若者たちと交流した。その中には、作家アレクサンドル・デュマや、絵入り新聞「イリュストラシオン」の代表となるファランバンなどがいた。とくに重要だったのは版画家シャルル・フィリポンとの出会だった。
 グランヴィルの風刺画家としての才能を見抜いた彼は、1830年に七月革命が起ると、国王ルイ=フィリップを糾弾する新聞「カリカチュール」を創刊して、グランヴィルの風刺画を掲載した。それが73枚のリトグラフ(石版画)からなる『今日の変身物語』のシリーズで、グランヴィルのデビュー作となった。
 この一連の風刺画は動物の頭をした人間たちの日常生活を描き、それを通して同時代の社会や風俗を痛烈に批判したものだった。だが1835年7月に起きたルイ=フィリップ暗殺未遂事件を期に、政府は言論弾圧に乗り出し、一切の政治風刺を禁止した。グランヴィルはこのときから、挿画本の仕事に重点を置くようになった。
 フランスではこのころ、新聞や雑誌の創刊が相次ぎ、多くの本が出版される時代を迎えていた。背景には幾つか要因があったが、その一つが印刷技術の革新だった。1846年にアメリカで開発された新型の輪転式印刷機は、1時間に8000枚を刷ることができた。これをフランスで最初に導入したのは、1863年に創刊された新聞「プティ・ジュルナル」で、一部一スーの新聞は飛ぶように売れた。挿画の分野では、小口木版や石版刷りという新しい技術の発展があり、さらに出版ブームを後押ししたのが、中産階級(ブルジョア)の台頭と教育の普及による新たな読者層の拡大だった。
 前世紀までは貴族や貴婦人たちの愛顧を受けて生活し、作品を書いていた作家は、ようやく原稿料で生活できるようになり、出版界は活況を呈することになった。1830年から40年代にはロマン主義が台頭し、ユゴー、バルザック、ノディエたちの小説が新聞や雑誌に連載されて、発行部数を伸ばすのに貢献した。彼らの小説は連載終了後、絵入りの挿画本として販売された。当時もっとも売れっ子だったウージェーヌ・シューの小説『パリの悲劇』の原稿料は26500フランであった。
 画家グランヴィルの関心は、表情を通して人間の内面に迫ることだった。彼は当時流行した観相学や骨相学にも興味をもち、その成果は1829年ごろに描かれた「44の顔」にあらわれている。ここには風刺画の先駆者ボアイイや、イギリスの画家ホガースの影響とともに、作家バルザックが唱えた「外側から見られた内面」理論との共通点をみることができる。
 バルザックは『人間喜劇』の序文で、動物が種によって分類できるように、人間も、医者、弁護士、お針子、年金生活者といった社会的階層やカテゴリーで分類することができ、それぞれは服装、顔つき、生活様式など独自の生態をもっており、小説はこうした特徴を描き分ける人間研究だとした。これはグランヴィルにも共通するもので、彼はそれを文章に添える挿画で表現しようとした。
 一方で、こうした挿画を忌避する文学者もいた。作家のフーローベールは、挿画は文学的な想像力をしぼませるといい、象徴派の詩人ステファヌ・マラルメは、「挿画本について」というアンケートに、「どんな挿画もないことに賛成です。一冊の本が呼び起こすほどのすべては読者の心の中で起こるはずですから。(中略)なぜいっそのこと映画にしないのですか。そのコマ繰りが絵も本文もひっくるめて多くの本の代わりを首尾よく勤めることでしょう」と、発明されたばかりの映画を引き合いに出して皮肉まじりに答えている。
 やがてグランヴィルの関心は、彼ら文筆家とは反対の立場から、挿画をテクストに従属するのではなく、独立した創作作品とすることへ移って行く。だがグランヴィルはその道半ばで、1847年3月にパリで歿した。

 ミルチャ・エリアーデ「ポルガル日記 1941-1945」(作品社、2014年)

 著名な宗教学者の若き日の日記である。東欧ルーマニア出身のエリアーデ は、この日記を書き始めた1941年4月にはポルトガルのリスボンに滞在中だった。この時34歳のエリアーデは、ブカレスト大学に提出した学位論文に手を加えて出版した『ヨーガ』や、エッセー、小説を精力的に発表し、知識人の間で知られるようになっていた。d0238372_14191276.png
 祖国ブルガリアでは20年代に台頭した知識人の間で、自分たちの民族的、文化的アイデンティティを、非西欧的なナショナリズムと東方正教に求める傾向が強 く、エリアーデの著作活動もその影響のもとにあった。 40年4月、エリアーデは有望な若手知識人として、最初はロンドンの公使館に文化担当官として派遣されたが、やがてポルトガルのリスボンに異動となった。 彼の仕事は中欧についての新聞の論評や各国の動向を報告すること であった。日 記には緊迫する国際情勢や個人生活が赤裸々につづられていて、第2次大戦下の激動の時代を生きた、若い知識人の精神の克明な記録として大きな意味をもつ。
 さらに今まさに生まれようとするエリアーデの学問の胎動を読むことができる。「壮大な計画を練っている。世界文化の新たな体系を描き出そうという試みだ。私は今日、姿を消した神話や象徴、人間精神の発達の過程でずっと以前に超克されたと考えられている霊的な感覚」を重視する学問である。(42年10月12日の日記)。
 この時期、エリアーデは辛い体験もした。12年間かたい愛で結ばれていた妻ニーナが、44年12月20日に突然亡くなったのである。この日の悲痛な日記は読む者の胸をうつ。翌45年5月1日夜、彼はラジオでヒトラーの死を聴いた。戦争は間もなく終わったが、ドイツに代わってソビエトの力が祖国におよぶのは明らかだった。エリアーデはパリに住む決意する。「ヴィザは私の手中にある。フランスで過ごす時間が私を待っている」。日記はここで終わっている。
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by monsieurk | 2014-10-16 22:30 | | Trackback | Comments(1)

テクストのテクスト

 蓮實重彦の『「ボヴァリ―夫人」論』を読みはじめた。注を含めれば800頁を超える大作だから、読み終えるには時間がかかるが、序章「読むことの始まりにむけて」に、こんな文章がある。d0238372_10324544.jpg 
 「『「ボヴァリ―夫人」論』の著者は、「テクストをめぐるテクスト」が煽りたてがちなこの「倒錯」に加担することだけは自粛したいと思っている。読まれるべき書物は何よりもまず『ボヴァリ-夫人』でなければならず、それ以前に『「ボヴァリー夫人」論』のページがめくられることなどあってはならないと確信しているからである。」
 『「ボヴァリ―夫人」論』の著者つまり蓮實重彦は、膨大な批評的エッセイを書いたが、この本を読む読者は、まずはフーローベールが書いた『ボヴァリー夫人』を読んでいることが前提だというのである。
 蓮實がいう「倒錯」とは、「「テクストをめぐるテクスト」を読んでから、そこで対象とされていた当の書物におもむろに目を向ける――あるいは向けずにおく――という文学的な倒錯」のことである。そしてこうした読書態度が社会に定着したのは、19世紀半ばに勃興しつつあったジャーナリズムの要請によって、新聞の文芸欄に掲載されるようになった時評であった。
 蓮實はこうした現象について、「テクストの読者ならどの時代にも存在しただろうが、「テクストをめぐるテクスト」の読者という存在は、「近代」のいささか病的ともいえる歴史的な産物にほかならない。文学作品をめぐる「研究」が、古典的な「修辞学」の文脈を離れて二十世紀にかろうじて成立するより遙か以前に、文学の「倒錯」は、まぎれもない十九世紀的な現象として、新たに生まれた読者たちの読み方をいささか不健康に拘束することなった」と述べている。
 こうした読書の「倒錯」化のきっかけをつくった批評家がサント=ブーヴだった。サント=ブーヴは、1849年から日刊紙「ル・オンスティテューショネル」に、毎週月曜日に「月曜閑談」を掲載し、多くの読者がサント=ブーヴのこの時評を読み、そこで言及されているテクスト(書物)を読む、あるいは読まずにおくという習慣を身につけていったのである。サント=ブーヴの時評は、1852年から「ル・モニトゥール・ユニヴェルセル」紙に移り、ますます多くの読者を獲得した。
 蓮實はフローベールの最初も長編小説『ボヴァリー夫人』の執筆が、このサント=ヴーブの活動と重なることを指摘している。文学の大衆化がはじまった時期に書かれた『ボヴァリー夫人』に、当時の文学環境があたえた影響や、『ボヴァリー夫人』をテクストとしていかに読むかについては、800頁を超えるこの「批評的エッセイ」のページを一枚一枚繰る努力が必要である。
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by monsieurk | 2014-10-13 22:30 | | Trackback | Comments(0)

オジョーチャン学校

 一時期、中島健蔵の秘書をつとめたいた蘆野徳子さんの『メタセコイアの光、中島健蔵の像』(筑摩書房、1986年)を読む機会があった。d0238372_955964.jpg中島健蔵は東京大学フランス文学科の講師を長年つとめ、評論をはじめ多彩な文化活動で知られた人である。
 蘆野さんが中島と知り合ったのは、彼女が幼少のころ、たまたま家が隣同士になったのがきっかけだった。その後、蔵書を読ませてもらうために、中島家に気軽に出入りしているうちに、私設秘書のような役回りを頼まれることになったという。この本には多忙をきわめても、面倒見のすこぶるよかった中島の人間味あふれる素顔が活写されている。
 中島は人付き合いのよさから、皆に「ケンチ」の愛称で呼ばれていたが、そんな「ケンチ」の面影を彷彿とさせるエピソードの一つが、「オジヨーチャン学校」の章である。
 ある日、蘆野さんの母親が中島に、若い人たちのためにときどき何か講義をしてやってくれないかと頼んだのだという。蘆野さんの注釈によると、若い人たちというのは、「私たち姉妹を含めて、同じように戦後の混乱期と学校卒業期が重なって、無教育無教養状態のままで、“およめにいく”までを自宅待機しているといった境遇の者」であった。
 「お忙しいのは、わかっているけど、無理のようなら、ケンチのお友だちとか、お知り合いで、若い人たちに話をしてくださるような方、ないかしら?」という頼みを、中島は即座に聞き入れた。中島は、「よし。忙しいことは忙しいが、なんとかしてみよう。おれ一人でなく、なるべく、いろんな人の話を聞く方がいい。辰野のおやじも、くどいてみるかな。」こうして世にも贅沢な学校が誕生した。戦後3年目、1948年春のことであった。
 校長兼専任講師は中島健蔵、講師との連絡役および生徒の募集などは蘆野さんの姉が引き受けた。講座名は「ル・ディマンシュ(日曜日)」、開講日は日曜日の午後と決まった。こうして蘆野家の客間と食堂が一続きになった20畳ほどの空間に、20名ほどの男女が集まって当代一流の人たちの話を聴講した。
 中島によって「招聘された」講師は、東大仏文科の辰野隆、渡辺一夫の両教授、英文科助教授でシェイクスピアが専門の小津次郎、仏文科講師で哲学者の森有正、マティネ・ポエティックの新進作家中村真一郎など錚々たる顔ぶれであった。公正取引委員会の委員だった蘆野さんたちの父弘氏は、米国史の講義を引き受けた。
 辰野隆教授はこの会を、「オジョーチャン学校」と呼んでいたが、フランス18世紀の劇作家ボーマルシェとフランス大革命について、「初夜権」などの用語もまじえて、絶妙の話術で語ってきかせた。一番多く講義をしてくれたのは中島健蔵で、フランス文学概論の連続講義のほかに、近代絵画史、書物の歴史、新聞の成り立ちと読み方、宮澤賢治についてなど多岐にわたった。どの講師も終わった後の団欒で一杯やるのが楽しみで、渡辺一夫教授などは最初から、「お礼は必要ありません。そのかわり、終ってからビールを一本だけ飲ませてください」というのが条件だった。それでも聴講生は乏しい小遣いを出しあったが、金一封にはほど遠く、新しく登場したばかりの高級煙草「ピース」の包みを謝礼のかわりに渡し、講師の方も照れたような、くすぐったいような顔で受け取ったという。
 この寺子屋は1951年まで続いた。蘆野さんによると、ユニークだったのは後にフランスに永住する森有正だった。森は「学校」で音楽の授業を終えると隣の中島家に席を移し、中島の懇請を受け入れてひとしきりピアノでバッハを演奏した。そのあと皆の前で異様なかくし芸を披露したというのである。d0238372_9552032.jpg
 「彼は「せんせぇ」と健蔵氏に向って「寄り目っていうのがあるでしょ、目を寄せるの。」「うん。」「はなし目って、できますか。」「なんだい、ハナシメって?」「目玉を両側へ離すんです。」「ばかいえ、そんなこと、できてたまるかい。」「ぼく、できるんですよ。やってみましょうか?」「・・・・」「これは、とってもむずかしいんです。ぼく、やりますからね、いいですか、ちゃんと見ててください。」こういって哲学者は両手の人指し指を揃えて、目の前に立てた。それから思い詰めたような表情になって、小さい二つの眼が二本の指を凝視する。二本の指はそろそろと引き離されて顔面に近づきながら両耳の方へ向かって動いてゆく。「ねっ」という音が口から、かすかに洩れた。二個の黒目は左右から吊り上げられたように、白眼の両端に貼りついていた。それは正視し難い奇怪な形相であった。次の瞬間、吊り糸が切れたように目玉は正常な位置に戻って、その顔に文明人の表情が甦った。“芸”がうまくいった満足感で、その頬がゆるんでいた。だが、座はしんとして、観客は薄気味悪そうな眼を向けるばかりで拍手も嘆声もわかない、とみると、あたりを睨めまわすようにして「これはとってもむずかしいんです。ぼく、いっしょうけんめい練習したんです」と、むきになって訴えた。」(同書、96-07頁)
 森有正さんとは、氏がパリの日本館の館長をしているときに幾度かお目にかかったが、あるとき館を訪ねると、一人椅子に座っている後ろ姿がみえた。普段は話し好きの快活な森さんの背中がひどく弧度に見え、しばらく声をかけられなかった。蘆野さんの伝える逸話を読んでそのときのことを思い出した。
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by monsieurk | 2014-10-10 22:30 | | Trackback | Comments(0)

[美祭」、日本画の世界

 東京京橋にある美術店「加島美術」の二代目とは、彼が京都の老舗美術商「鉄斎堂」で修行をしていたときに知り合った。それ以来「加島美術」が発行する豪華なカタログ「美祭」を送ってもらっている。
 この秋に出た「美祭」16号は、店が所蔵する多くの名品を掲載しているが、巻頭には石川大波(いしかわ・たいろう)が描いた《プレンク像》(絹本、水墨、128×56cm)の軸装の写真版で載っている。d0238372_1504967.jpg
 石川大波は江戸時代後期の幕臣で、江戸城のほかに、大阪城、京都二条城の警備の任にあたった。大波はこうした任務のかたわら、大槻玄沢や木村兼葭堂、谷文晁などと交流し、当時の知識人の常として画を学び、やがて洋風画も手がけるようになった。そしてその研究のために蘭学者とも友誼を結び、オランダ語の書物の挿絵である銅版画を参考にして、その技法を習得した。その打ち込みようは、Tarfelberg というオランダ名を画号の一つにしたほどである。
 大波の作品としては、重要文化財に指定されている《杉田玄白肖像》や《ヒポクラテス像》などが知られている。《プレンク像》は同じ系統のもので、描かれているヨセフ・ヤコブ・プレンクはウィーン陸軍軍医学校の教官で、杉田玄白の次男である杉田立卿が翻訳した『眼科新書』の著者として当時知られていた。この作品は、こうした類の書物に挿入されていた肖像画を模写したものと思われる。ひょっとすると杉田立卿の依頼によって描かれたものかも知れない。
 「美祭」16号には伊東深水の小特集もあり、深水の肖像画や素描を楽しむことができる。
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 写真の《夏日》(絹本、着色、45×50cm)は昭和30年頃の作品で、深水が現代的な人物画のを完成させた時期のものの一つである。深水は、「少しもの足りないくらいの絵」を描くのがいいとして、線も構図も冗漫なものを極力省き、それによって格調高い作品を生み出した。
 真っ赤な背の椅子に座り、黄色の着物の衿をととのえる洋髪の女性。もともと浮世絵美人画の伝統につらなる伊東深水の新たな境地を伝える一品である。
 東京深川の商人の家に生まれた彼は、小学校3年生のときに父親が事業に失敗し、家計を助けるために小学校を中退して東京印刷株式会社の活版職工となった。10歳のときであった。仕事の必要上、絵の手ほどきをうけた彼は、間もなく図案部に移り、会社の顧問をしていた結城素明に画才を認められて、その紹介で13歳のときに日本画家鏑木清方に入門した。
 こうして画業の道に進んだ深水が初めて入選をはたしたのは、14歳のときの第12回巽画会である。出品作は《のどか》と題したもので、木陰で憩う砂利馬車と眠り込む御者、2人の遊ぶ子どもたちを描いた風俗画であった。そして大正8年21歳のときに結婚。翌9年には初めての個展を催し、そこに出品した《指》は、妻の好子が夏の夕方、床几に腰かけて薬指にはめた指輪を満足そうに見つめる姿を描いていて、美人画の技法を確立したと評価された。このときから昭和47年に74歳で亡くなるまで多くの傑作を残した。
 深水は終生スケッチをおろそかにしなかった。下の《裸婦図》(紙本、素描、22×34cm)は、彼の引く線の確かさを示す好例で、素描ながら女体の美しさを表現した愛すべき小品である。
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by monsieurk | 2014-10-07 21:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

対談「青空のこと、梶井のこと」Ⅹ

  手紙

 いま宇野千代さんの話が出ましたが・・・
中谷 あはゝゝ・・・
 オフ・ザ・レコードでも結構ですが、二人の関係はどうだったのですか。梶井さんの片思いだったのでしょうか。
中谷 そんなことはないのです。宇野さんも承知の上ですけどね。
 その点について、宇野さんは黙して語らないわけですが・・・
中谷 語らないわけではなくて語ってはいますが、何でもない、ただの友情みたいに話していますが、梶井の方はそうではなかったのです。
 梶井は宇野さんに宛てて沢山手紙を出しています。筑摩の全集を出版する折に、それを出してくれと宇野さんに頼んだのです。そうしましたら、宇野さんは転々としている間に焼いてしまいましたとか何とか言って、・・・あるいはそれは本当かも分かりませんけどね。
平林 そうでしょう。あの当時は、梶井さんといったって、単なる文学青年ですからね。そんな手紙は何とも思われなかったでしょうし、読んだら捨ててしまわれたんでしょ。
 私たちにとっては残念な話ですね。梶井さんの別の面がそこからうかがえたかも知れませんし、一大恋愛文学があったのかも知れませんのに。
中谷 そんなわけで、梶井の恋文もなくなってしまいましたし、保田与重郎のラブレターも出てこないのです。
 保田の全集も近く出すのですけれど、それには書簡は全部入れないことになりました。保田もいっぱい手紙を書いているのですが、出さないことになったようです。
 手紙を公けにすると、批評であんな難しいことを書いている裏がみな分かってしまうということですかね。(笑)
平林 うちにも保田さんの手紙や壇一雄さんの手紙が沢山ありますが、手紙は大変面白いですね。
 梶井さんの手紙は面白いのもさることながら、後期のものは、発表されることを予期していたのではないかと思えるほど、整った立派なものですね。
平林 手紙も小説を書くのと同じように、幾度も書きつぶしたあと、ようやく書き上げたのでしょう。
中谷 手紙を書き直すのですから。いい手紙が書けないからといってね。私などは滅多に手紙を書きませんし、書いたって用件だけしか書きませんが。
平林 梶井さんがあまりいい手紙を書いてしまわれたからでしょう。(笑)
 それにしても、あれだけ数多くの手紙が散佚もせずに保存されているというのも、梶井さんはよいお友達を持っていたからですね。
 これはかつて角川文庫から出版された『若き詩人の手紙』という、梶井さんの手紙を集めた文庫本ですが、読み物としてもじつに面白いものです。梶井さんのと言いますより、一人の多感な青年の内面の記録としても白眉です。いまは残念なことに絶版となっているようですが。
中谷 いまでも梶井の全集は毎年増刷されているようですよ。もちろん、数は多くはなく、千部ずつぐらいですが、それでも全集が毎年増刷される作家がほかにいるでしょうか。この一事をもってしても、梶井は稀有の作家だということが分かります。
 愛読者が次々にあらわれるのですね。

中谷追記――K〔原文は本名が記されている〕さんとのこの対談は、大そう快いものであった。Kさんは大学時代から梶井の文学に深く傾倒し、社会人になってからも常に梶井文学への関心を怠らず、広く梶井に関する研究書などにも眼を通している人である。だから、
ある点では、私などよりずっと梶井のことに明るく、教えられるところが少なくなかったことを感謝したい。
 対談の原稿は、Kさんがまとめたものを、私が読んで見て手を加えるということになっていたが、Kさんの草稿がよく出来ているので、私は全く手を加える余地がなかった。老人のもたもたした話を、よく上手にまとめてくれたものであった。
 私は久しぶりに、六十年前の「青空」のことを回想し、今は大分故人になってしまった同人達の若かりし日の姿を思い浮かべ、懐旧の情に堪えないものがあったが、しかしこの対談では梶井のことが主となっているので、他の同人達のことは殆ど語られていない。そこで、これらの人々のことに就いて少しばかり追記して置きたいと思う。
 「青空」を支えるのに最も功労のあったのは、外村繁(茂)と淀野隆三との二人であった。二人は家が豊かであったので、雑誌の費用の不足をよく補ってくれたものであった。また編集その他のことにも精力的によく働いてくれた。もし彼ら二人がいなかったならば、「青空」は或いは三号雑誌で終わってしまったかも知れないのである。
 話は飛ぶが、後に淀野は梶井の『檸檬』の出版や、また『梶井基次郎全集』の刊行に殆ど独力で尽力した。彼の尽力がなかったならば、悪くすると梶井の作品は散佚してしまったかも知れないのである。今日、梶井文学の愛読者は、淀野の貢献の大きさに思いを至して欲しいものである。
 外村繁が作家として大成したことは、読者のよくご存知のことであるが、梶井の全集が今尚、毎年必ず増刷され、梶井文学の研究熱がいよいよ盛んなのに比し、外村文学に対する評価はそう高くないようである。これは一つには、梶井文学が青春文学であり、外村文学が主として中年文学であることにもよるだろう。なぜなら我が日本では、若ものしか殆ど小説を読まず、若ものの関心はとかく青春文学に傾き勝だからである。
 外村文学の代表作は、筏三部作、『澪標』『濡れにぞぬれし』などといわれているが、私はむしろ晩年の短篇に好いものが多いように思う。ここで一つ一つの作品に就いて語っているひまはないが、それらの緒短篇はいずれも私小説であり、日本に多い私小説群のなかの第一級のものだと私は思っている。誰か外村文学の研究者は生まれないものか。私はその出現を期待して止まないのである。
 尚、「青空」の生き残りは北川冬彦と飯島正が東京に在住しているが、彼らに逢って旧を語り合う機会は殆どない。老懶、彼らを訪れることもしないが、健在を祈るや切である。大阪には北神正が健在で、梶井の命日には毎年、梶井家の菩提寺の常国寺で行われる梶井文学愛好者の会を主宰している。私も二度ほどこの会に出席したが、参会者はいつも三、四十人で、熱心に梶井文学に就いての討論が行われていた。
 「青空」の生き残りにもう一人、浅沼喜実が鳥取にいる。戦前は銀座の「たくみ工芸店」の店主をしていたが、戦後は故郷の鳥取に帰り、「たくみ」という料理屋を経営しながら、地方文化の為に尽し、山陰文化賞を受賞した。しかし昨年、老齢の為に「たくみ」の経営を人に譲り、その後は専ら読書に日を送っているとのことである。彼の自愛を祈って、この追記を終ることにする。

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  中谷孝雄氏の「追記」の自筆原稿 (完)
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by monsieurk | 2014-10-04 22:30 | | Trackback | Comments(3)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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