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カタルーニャの住民投票

 前回のブログで書いたように、滞在しているトゥールーズから、スペインのカタルーニャ地方はピレネー山脈をこえるとすぐそこで、車で走ると2時間足らずで国境である。この地方一体はかつて同じ文化圏に属し、交流も深く、11月9日から25日まで行われた、カタルーニャ地方の独立をめぐる住民投票は大きな関心を呼んだ。
 独立をめぐる住民投票といえば、今年の9月18日にイギリス連邦のスコットランドで行われた住民投票では、僅差でイギリス連邦に留まるという結果になった。だがカタルーニャの場合は、中央政府が住民投票は憲法違反だとして実施に反対し、憲法裁判所も住民投票に待ったをかけた。
 スペインは地方の独自色が強い国で、とくにカタルーニャ州はマドリードが代表する中央とは歴史的にも文化的にも異なっている。1936年7月、フランコ将軍のクーデタではじまったスペイン内戦では、選挙で選ばれた共和派の人民戦線内閣は最後はカタルーニャの州都バルセロナに拠点を置いたが、1939年1月にフランコ軍に制圧されて、人民戦線を支持する多くの人びとが雪深い冬のピレネーを越えてフランス側に逃れた。そしてアサーニャ大統領も辞任し、政府自体もフランスへ亡命した。その後3月27日にはマドリードが陥落。4月1日、フランコ将軍は内戦の終結を宣言したのだった。
 こうした歴史からも、カタルーニャの人たちの独立の気持は強く、自分たちの将来は自分たちで決めたいとして、自治州政府のマス首相は中央政府の反対を押し切って住民投票を行ったのである。カタルーニャ州の住民は、定住している外国人も含めて凡そ500万人。投票した人は11月9日、1日だけで凡そ231万人だった。その後も投票は規模を縮小して25日まで続けられ、独立を望むとした人が全体の81%に達した。投票者の数は、先に行われたヨーロッパ議会選挙(これは公式な選挙)とほぼ同じだから、住民の意思は反映されたと言える。
 もう一つの特徴は、州全体で投票所が1317個所設けられて、運営はすべてボランティアの手で行われて、4万人の人たちが自主的に参加したことである。ここにも自分たちの将来は自分たちで決めたいという強い気持が見てとれる。
 中央政府がこの結果を認めないのは、スペインの憲法は住民投票を認めていないからだが、憲法は1960年以来一度も改正されたことがない。マス首相は2012年の州議会選挙で住民投票を公約に掲げ、今年9月に関連法を成立させた。そして今回の選挙で住民の意思を明らかにすることで、憲法を改正し、住民投票を可能にするべきだと主張している。
 中央政府がカタルーニャ州の独立を認めたくない理由の一つは、カタルーニャ州が独立するといった事態になれば、独立の機運の強いバスク地方などでも同じ動きが起きかねないという懸念がある。もう一つの大きな理由は経済力の問題で、この地方は昔から製造業が発達して経済力があり、それが離れて独立することはスペイン全体にとったは大きなマイナスとなる。逆に言えば、カタルーニャの人たちにしてみれば、自分たちの税金が他の地域には廻るのは納得できないというわけである。
 マス首相は最近フランスの新聞に投書して、その中で、「自分たちが目指すのは、自由で多様性を認める国をつくることだ、決して地域のまわりに国境の壁を築いて、その中に立て籠もるつもりはなく、EUという共同体のなかに抱かれた開かれたものを目指す」と訴えている。これは注目すべき考えで、EU・ヨーロッパ連合の理念の一つは、人間一人一人、あるいは各地域の多様性を認めることです。スペインの中央政府が、こうした要求にどう対応するのかに関心が集まっている。
 スコットランドでも9月の住民投票で事が終わったのではなく、11月14日には、女性弁護士で独立推進派のニコラ・スタージョン氏がスコットランド国民党の党首に選ばれ、自治政府の首相の座に着いた。さらに9月の住民投票から2カ月間で、党員は25,000人から80,000人に増え、いま住民投票を行えば独立派が多数になるのではないかと言われている。
 地域の多様性、自主性をどう考えるか、ヨーロッパでは大きな議論になっている。
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by monsieurk | 2014-11-30 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)

秋の味覚2題

 今年は11月20日の木曜日が「ボジョレ・ヌヴォー」の解禁日で、私たちもさっそく買ってき夕食に飲んだ。今年ボジョレ地方は天候に恵まれて出来はよいとの評判だったが、飲んだボジョレ・ヴィラージュもすっきりとした飲み心地で美味しかった。
 日本でのボジョレ・ヌヴォー騒ぎは下火になったようだが、フランスでも年に一度新酒の出来を楽しむ習慣はすっかり定着して、酒屋の店先は賑わっていた。ボジョレ・ヌヴォーの浸透作戦を誰が考えたのか不明だが、プロモーションが大成功だったことは間違いない。
 昨年の今頃のブログ(「お昼の食卓」2013.11.25)にも書いたが、トゥールーズ近郊のガイヤック地方のワインにも、新酒を飲む習慣があり、一週間後には解禁になる。だが地元は別にして世界中の人たちが待ち望むといったことはない。ボジョレを横目に見て歯ぎしりしているのが現状である。
 今週の土曜日(22日)は、国境をこえてスペインのアラン渓谷(Valle de Arán)にある小さな街ボソス(Bossóst)へお昼を食べに行った。
 トゥールーズからは高速道路A64を南西に下り、サンゴダンスの先で降りて、ガロンヌ川の源流へ向かう川沿いの道をピレネー山脈の山懐へと入って行く。トゥ-ルーズ市内を流れるガロンヌは川幅120メートルに達する大河だが、この辺りまで来ると川幅は10メートルほどで急流が白波をたてている。スペインとの国境は税関もなく素通りして、やがて川沿いの街ボソスに着いた。トゥールーズを発って2時間ほどの距離である。この一帯もカタルーニャに属するが、渓一帯に住む人たちはカタラン(カタルーニャ語)ではなオクシタン(オック語)を話す。
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 目指すレストランはER OCCITAN。40代の夫婦がやっている店で、創作料理と手ごろな値段が評判で、休日はなかなか予約が取れないという。総勢8人の私たちには奥のテーブルが用意されていた。d0238372_18502323.jpg
 注文した料理はまちまちだったが、私が食べたのは――

 アミューズ2種類:魚のパテと、魚肉のソーセージをキャベツとピーマンの濃厚な温スープに入れたもの。
 アントレ:ラテン・アメリカ名物の"Ceveche" (シヴェッチ)。地元で獲れたマスの生を1センチ角に切ったもの、マスの卵、アボドカド、その他の野菜を、生クリームを主体にしたソースで和えたもの。
 メインディッシュ:ルジェ(金目鯛の一種)をチーズとともにソテーしたものの鶉の茹で卵ぞえ。
 デザート:ババ・オ・ウイスキー(普通はラム酒を使うのをウイスキーにしたババロア)
 パンはバターではなく、濃厚なオリーブオイルをつけて食べる。
 ワインは、白が"Silencis”、2013年。ドメーヌ名は Raventós i Blancとカタルーニャ語で書かれており、バルセロナの近くで、1497年からワインをつくっているという。
 赤はRioja産(リオハ、マドリードの北に広がるスペイン最大のブドウ産地)の "LAN a mano"、2010年。"LAN”は最近日本でも手に入るが、これは"a mano" つまり手で揉んでつくったもので珍しいという。
 そして最後のしめには、全員にパンとオリーブオイルをミキサーにかけたスープに、チョコレートの小さな玉を浮かせたものが供された。この地方では、子どもたちがお腹をすかせて学校から帰ってくると、パンにオリーブオイルを塗って食べさせたことから思いついたという。
 ワインを除き全部で31ユーロ。値段といい味といい最高に満足だった。ただし残念ながら料理の写真は撮影禁止。最近はインターネットにすぐ投稿され、それが食欲をそそるものでない場合が多く、店にはかえってダメージになるとのことだった。


  
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by monsieurk | 2014-11-27 22:30 | フランス(生活) | Trackback | Comments(0)

フランスの宿

 前回のブログで、フランスの豪華な宿泊施設「Relais & Châteux (ルレ・エ・シャトー)を紹介したが、d0238372_22404911.jpgそもそもの始まりは、ミュージック・ホールの有名なエンタテナー、マルセル・ティロワと妻のネリーが、ローヌ川沿いの館「ル・カルディナル」を手に入れたことだった。カルディナル(枢機卿)という呼び名の通りここは立派な屋敷で、夫妻はこれをホテルに改造するとともに、腕利きのシェフを雇って、美味しい料理を提供することにした。同時に、同じように優れた環境にあって、美味しい料理が自慢の宿のオーナーたちに呼びかけて、豪華な宿泊施設の連合をつくることを考えた。この呼びかけに応じた者のなかから選ばれた7軒とともに、1954年に最初の「ルレ・エ・シャトー」が誕生した。
 新幹線TGVがなかった1950年代には、パリ=リヨン間に「トラン・ブルー(ブルー・トレイン)」と呼ばれる特急列車が走っており、これに並行する形で、高速道路がパリからリヨンをこえて南下し、地中海のコート・ダジュール、そしてマルセイユを結んでいた。ティロワの呼びかけに応じた7軒はみなこの街道沿いにあり、「ルレ・ド・カンパーニュ(田舎の宿)」と称して、順番に一つ一つ泊まってあるく企画を提供した。宿はどこも自然豊かで由緒ある建物であり、料理もとびきり美味しかったから、誰いうとなくこれを「ルット・ド・ボヌール(幸せ街道)」と呼ぶようになった。
 その後厳しい審査に合格して「ルレ・エ・シャトー」に加わる宿やレストランが増え、1961年には初めてガイドブックが刊行された。その後はフランスだけでなく、ヨーロッパ各国、南北アメリカ、日本へとひろがっていった。2014年現在では、加盟している宿やレストランは世界64か国515に達している。
 写真はかつて友人が結婚式をあげたことがある、ロワール川沿いの「ルレ・エ・シャトー」の一軒、「ドメーヌ・デ・オ・ド・ロワール(Domaine des Hauts de Loire)」である。d0238372_22414913.jpgここは城で有名なブロワとトールの間のオンザンという小邑にあり、パリから車で2時間の距離である。建物は19世紀に改築された狩猟館(manoir、主人が友人を招いて狩猟をするときに利用した館)で、70ヘクタールの敷地には幾つも沼がある。2014年冬の料金は、スタンダードのシングルが300ユーロ、ダブルが410、デラックスがそれぞれ390ユーロと500ユーロ。すばらしい環境を考えればとびきり高いわけではないが、問題は昨今の円安で、円に換算すれば一時より1.5倍払わなくてはならない。観光客はともかく、円建てで海外で生活する人たちは悲鳴をあげている。
 こうした豪華なホテルでなくとも、フランスの地方の生活を味わいたい人には、民宿がお勧めである。これには中世の館を改築したところや、大きな農家の別棟を借りるものなどさまざまで、一週間単位で借りるのが原則だが、土日だけ過ごすなどさまざまなだ形があり、生活をするための設備はもちろん、食器などもそろっている。
 朝食付きが基本で、あとは自分たちで地元の食材や地酒のワインを仕入れて来て食事を楽しむシステムで、特色ある地方生活を味わうにはうってつけである。
 民宿の大きなチェーンとしては、La Maison des Gites France : www.gites-de france.fr
やChambre d'Hote、あるいはLogis de France : www.logis-de-france.fr/ などがある。急ぐ旅でなければ、ぜひお勧めする。
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by monsieurk | 2014-11-24 22:30 | フランス(生活) | Trackback | Comments(0)

エール・フランスとの縁

 11月16日、午前0時20分羽田発パリ行きエール・フランス293便は満席で、乗客の7割りがフランス人だった。待合室のロビーで会った年配者30人ほどのグループは、アヴィニョンから来たツアー客で、全員が日本は初めてだったという。東京、大阪、京都、広島とめぐる強行スケジュールで、「少々くたびれたが、今夜食べた焼肉は美味しかった」と、老婦人の一人が元気に話してくれた。
 夜間便なので、ベルト着用のサインが消えると食事が供されて、その後はすぐ消灯された。d0238372_1592536.jpgしばらくうとうとした後、機内の後部スペースで屈伸運動をしていると、日本人の乗務員の方が声をかけてくれ、しばらく話をした。
 ―― エール・フランスをご利用くださり、ありがとうございます。
 ―― もう40年以上、エール・フランスを利用しています。コンコルドが就航する前のテスト飛行のときも、取材でパリ=ダカール間を往復させてもらいました。午後1時にシャルル・ドゴール空港を飛び立ってセネガルのダカールへ行き、海で泳いだ後、運輸大臣主催の夕食会があり、そのあとダカールを発って午前1時にシャルル・ドゴールへ戻るといった日程でした。コンコルドの飛行距離がもう少し長くて、日本まで来られていれば、パリまで6、7時間で行けましたのに。
 ―― 私も何度かパリ=ニューヨーク間を乗りましたが、早かったですね。なにしろ時差を追い越すのですから。コンコルドは残念な終わり方をいたしました。
 ―― エール・フランスを利用するのは、客室乗務員の方の接客の仕方が気に入っているからです。
 ―― ありがとうございます。どんな点でしょう。
 ―― 乗客を適度に放って置いてくれるのがいい。手取り足取りするのをサービスを思っている航空会社が少なくありませんが、どうも煩わしさが先に立ちます。その点エール・フランスはヴェテランの乗務員も多く、いざという時はきちんと手助けしてくれる、そんな信頼感があります。
 ―― 同僚のフランス人乗務員は一見ちゃらんぽらんに見えますが、何かトラブルのあった場合の決断の速さ、的確さはすごいと思います。手前味噌ですけれど。
 ―― その辺のことが、私たち日本人にはなかなか理解できないですね。建物を建てるにしても、フランスの場合はなかなかスケジュール通りには進まない。それでも最終的には期日には出来上がるのですが、途中の進捗状況で、多くの日本人はイライラして胃が痛くなってしまう。日本人とフランス人の気質の違いですよね。
 ―― 私もフランス人の夫と結婚して、パリをベースにフランスと日本を行き来しておりますが、最初のうちは、フランスにいると日本人の欠点が目につき、日本にいけばフランス人のやり方に目くじらを立てるといった具合でした。でも27年も経った今は、両方のいいとこ取りをしようと思っております。お互いの欠点ではなく長所を認める、それで気持がずいぶん楽になりました。
 互いの違い違いとして認め合うということだろうが、実生活から得た彼女の言葉には重みがあった。あとでうかがうと、彼女の結婚相手は、週刊誌「l'Express」の創刊者で、著名なジャーナリストで政治家だった人の一族とのことであった。
 エール・フランスで長年お世話になったのは、東京支社の広報室長だった仲澤紀雄氏である。仲澤さんは東大教養学科の第一期生で、フランス政府の給費留学生として渡仏。パリでは森有正氏と親しく交流して、フランス哲学・思想を専攻した。帰国後は大学に戻ると信じられていたが、仲澤さんはエール・フランスに入り、その卓越した語学力と見識を実社会で活かす道を選んだ。
 そのかたわらフランス思想の翻訳に力を注がれ、孤高の哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィチの主著『死』や『道徳の逆説』、さらに生物学者ジャック・リュフィエの『性と死』などを翻訳して紹介した。リュフィエの本は、バクテリアから人間まで、進化論的にみて、性と死が、なぜ生物には必要なのかを解明した刺激的なものである。リュフィエが血液型の調査のために来日した折には、仲澤さんの手引きでこのユニークな生物学者の話を個人的に聴く機会をあたえられた。
 仲澤さんの企画で、作家の辻邦生氏を中心に各社のパリ特派員仲間5人が、フランス各地を旅して歩いたのは1988年10月のことである。この旅については、わたしたち参加者が思い思いに執筆した文章を、辻さんが編纂した『フランスの新しい風』(中央公論社、1988年)にくわしい。辻さんは、「こんどの旅は、現実に流動するフランスの社会現象を追うジャーナリストたちの手で書かれた紀行」、「動きつつあるフランス現代文化のプロフィルを、その流動のままにスケッチしてゆく試み」と紹介している。
 旅は仲澤さんがすべてお膳立てをしてくれ、泊まった宿はどこもルレ・エ・シャトー(Relais & Châteaux、豪華ホテルの連合体)に所属する城館(シャトー)や領主館(マノワール)を改造した豪華ホテルだった。仲澤さんの企画は、当時はまだフランスの地方の良さが日本に知られておらず、それを伝える意図もあったのである。
 収益競争に追われる今日の航空業界では、こんな贅沢な企画はエール・フランスならずともあり得ないだろう。思えば古き良き時代の出来事だった。
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by monsieurk | 2014-11-21 22:30 | フランス(生活) | Trackback | Comments(2)

パリの古書店再訪

 パリに行くと必ず立ち寄る古書店がいくつかある。パリ6区のリュクサンブール公園に近い、ヴォジラール通りとマダム通りが交わる角にある「ル・ポン・トラヴェルセ(Le Pont traversé)」もその一つで、こことは30年ほど前に、ステファヌ・マラルメに関する大量の新聞記事の切り抜きを譲ってもらって以来の付き合いである。d0238372_517283.jpg店は稀覯本を含めて、文学や美術関係の貴重な本を数多くそろえている。
 店の名前Le Pont traversée(渡ったられた橋)は、いまは亡き店主のマルセル・ベアリュ(Marcel Béalu)が、文学仲間ジャン・ポーランの小説のタイトルからとったものである。ベアリュは1908年生まれで、シュルレアリズムの影響を受けつつ詩人として文学生活をスタートし、第二次大戦中はピエール・セゲルスに協力して、雑誌「Poètes casqués・兜をかぶった詩人たち」を刊行した。
 多くの散文詩や小説を創作するかたわら、1949年に書店をサンセヴラン教会に近い7区のボーヌ通りに開いた。稀覯本などを扱うほかに、雑誌「Réalités secrètes・秘密の現実」を創刊した。いまの場所に店が移ったのは1955年のことである。
 写真で見るように、店の入り口は青いタイルを張った柱が立ち、そこに開閉する鉄格子の扉がはまっている。そしてヴォジラール通りに面したショー・ウインドーには、いつも詩人ジャック・プレヴェールの大きな顔写真が飾られている。d0238372_15425275.jpgd0238372_154444.jpg
 じつはこの店の前身は肉屋で、プレヴェールの一家は彼が子どもの頃この界隈に住んでいて、1912年にはヴィユ=コロンビエ通り7番地のアパルトマンに引っ越し、母親に頼まれてこの肉屋にはよく買い物に来ていた。彼の遊び場はいつもリュクサンブール公園だった。
 ベアリュはプレヴェールの8歳年下だが、詩人として彼を尊敬していた。プレヴェールの写真がいまも飾られているのにはそんな縁からである。
 生前、髪や太い眉毛も白いベアリュは、古書にまつわる逸話や文学談義を問わずず語りに聴かせてくれたが、1998年に亡くなった。いまは言うところの「年の差婚」だった妻のマリ=ジョゼが、訪ねるたびに元気な笑顔を見せてくれる。今度も彼女に会うのを楽しみにしている。
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by monsieurk | 2014-11-18 22:30 | フランス(文化) | Trackback | Comments(0)

続・詩を訳すとは

 詩を翻訳するとは何かを考える場合、一つの手掛りとなるのが漢詩の訓読である。漢文訓読がいつのころから始まったか、浅学にして不明だが、荻生徂徠(1666-1728)ははっきりとこの方法で漢文の詩を読むことを否定していた。
 著書『読書の学』で、宣長とともに徂徠を称揚した中国文学者吉川幸次郎は、岩波思想体系36『荻生徂徠』につけた長文の解説「徂徠学案」のなかで、徂徠の「古文辞の学」を引用しつつ、こう述べている。
 「中国後世の注釈の中国古代の原典に対する関係は、「冗にして俚なる」冗長で卑俗な中国後代語をもって、「簡にして文なる」簡潔で文学的な中国古代語を翻訳するものであって、原形の破壊であることは、日本語の「訓読」の中国語に対する関係と、同様であり、原文の「意」は伝え得ても、原文の「文采の粲然たる者」は、「得て訳す可からず矣」とする。」
 吉川によれば、徂徠は中国古代の散文や詩を、訓読ではなく中国人のように、原語として読んだ。そして吉川幸次郎自身も、専門である杜甫の詩をはじめ中国の文献を、訓読ではなく中国語として読むことを常とした。d0238372_11592427.jpg
 手許に吉川幸次郎の『杜甫講義』(1963年、筑摩書房)と『華音杜詩抄』(1971年、筑摩書房)がある。前者は、杜甫の生涯をたどったあとに、「房兵曹胡馬」以下、9篇の原詩の読みを発音記号で記し、それを吉川自身が朗読した音声を、当時用いられたソノシート(薄いるビニール製のシート)に録音したもの4枚がついている。
 後者の『華音杜詩抄』は、1978年(昭和53年)4月から9月にかけて、NHK教育テレビの大学講座「杜甫詩抄」として26回にわたり放送したテクストと、講座のなかで朗誦された詩篇をカセット・テープに収録したものが付録として収められている。放送にあたっては教室での授業形式を再現して、深沢一幸と金文京の両氏が対話の相手をつとめた。そして第24回では、「秋野」をヴェトナム人のグエン・ハオが、ヴェトナム漢字音で読んだものも収録されている。
 有名な「絶句」を例に引けば――

 
 江碧鳥逾白 jiang bi niao yu bo
 山青花慾然 shan qing hua yu ran
 今春看又過 jin chun kan you guo
 何日是帰年 he ri shi gui nian

 
 抑揚を示すアクセント記号を省略しているが、凡その原音は分かると思う。これを日本人は次のように訓読してきたのである。

 
 江は碧にして鳥は逾(いよいよ)白く
 山青くして花は然(も)えんと欲す
 今春も看(みるみる)又過ぐ
 何の日か是れ帰る年ぞ

 
 まさに「「意」は伝え得ても、原文の「文采の粲然たる者」は、「得て訳す可からず矣」」であり、詩を他言語に翻訳することの絶望的な壁である。いっそのこと、佐藤春夫が中国の閨秀詩人の作品を翻訳した『車塵集』の例のように、現代日本語に訳すのがよいのではなかろうか。

 
 「夏の日の恋人」

 
 日永倦遊賞         つれづれの夏の日ねもす
 枕箪集涼颸         うたたねの枕すずしや
 便欲甘同夢         かよへかし夢はかたみに 
 那堪日落遅 (李琑)    君来ます夜をまちがて

 
 「乳房をうたひて」

 
 浴罷檀郎捫弄処        湯あがりを
 露華涼沁紫葡萄 (趙鶯鶯) うれしき人になぶられて
                   露にじむ時
                   むらさきの葡萄の玉ぞ

 
 こうした反問を繰り返しつつ、この度、ステファヌ・マラルメが自選した49篇の詩を翻訳し終えた。近く何らかの形で公表したいと思っている。
 (このブログの公開後1時間して、羽田からフランスに向かい凡そ1か月滞在する。次回からはしばらく「フランス便り」を書くつもりでいる。)
 
 
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by monsieurk | 2014-11-15 22:30 | | Trackback | Comments(0)

詩を訳すとは

 これまで多くの詩、とくにフランス語の詩を翻訳してきたが、詩を外国語に翻訳するとは一体どういうことだろう。1971年にノーベル文学賞を受賞した南米チリの詩人、パブロ・ネルーダ(Pablo Neruda)の初期詩集“Veinte poemas de amor”(『二十の愛の詩』、1924)を例にあげてみる。
 彼は『回想』のなかで、こう述べている。「私は大学に入る前に、シュリ・プリュドムやヴェルレーヌを知っていた・・・その頃、美しいフランス詩の詞華集が出て流行となり、みんなが争うようにして手に入れた。私は貧乏で買えなかったので、人から借りて書き写した。・・・大学における文学生活は私を圧倒した。私のような田舎者にとって、フランスの詩人たちをよく知っていて、ボードレールを語るような人たちに会うことは、大きな魅力だった。私たちは夜を徹してフランスの詩人たちを論じあった。」
 新たな生活のなかでさまざまな影響を受けたネルーダは詩作にはげんだ。最初の詩集『祭りの秋』を1921年に出版したが、そこには当時ヨーロッパで流行しているシュルレアリスム風の作品、歴史的な叙事詩、政治的マニフェストのような内容のもの、自伝的要素をうたいこんだもの、エロティックなものが含まれている。
 そして1924年に、愛の詩篇を集めた『二十の愛の詩と一つの絶望の歌』が刊行された。その中の一篇「女の肉体」をスペイン語の原詩、フランス語訳、そして拙訳を並べてみる。
 なおこの詩の拙訳は、ネルーダを論じた以前のブログ「パブロ・ネルーダⅡ」(2014.07.23)でも引用してる。
 

  Cuerpo de mujer, blancas colinas, muslos blancos,
  Te pareces al mundo en tu actitud de entrega.
  Mi cuerpo de labriego salvaje te socava
  Y hace saltar el hijo del fondo de la tierra.

  Fui solo como un túnel. De mí huían los pάjaros,
  Y en mí la noche entraba su invasión poderosa.
  Para sobrevivime te forjé como un arma,
  Como una flecha en mi arco, como una piedra en mi honda.
  
  Pero cae la hora de la venganza, y te amo.
  Cuerpo de piel, de musgo, de leche άvida y firme.
  Ah los vasos del pecho! Ah los ojos de ausencia !
  Ah las rosas del pubis! Ah tu voz lenta y triste !
  
  Cuerpo de mujer mía, persistiré en tu gracia,
  Mi sed, mi ansia sin límite, mi camino indeciso !
  Oscuros cauces donde la sed eterna sigue,
  Y la fatiga sigue, y el dolor infinito.

  
  フランス語訳
  Corps de femme, blanches collines, cuisses blanches,
  Tu ressembles au monde dans ton attitude d'abandon.
  Mon corps de laboureur sauvage te creuse
  Et fait jaillir le fils du fond de la terre.
  
  Je fus seul comme un tunnel. Les oiseaux me fuyaient,
  Et en moi la nuit pénétrait de son invasion puissante.
  Pour me survivre je t'ai forgée comme une arme,
  Comme une flèche à mon arc, comme une pierre à ma fronde.
  
  Mais l'heure de la vengeance tombe à pic, et je t'aime.
  Corps de peau, de mousse, de lait avide et ferme.
  Ah les vases de la poitrine ! Ah les yeux de l'absence !
  Ah les roses du pubis ! Ah ta voix lente et triste !
  
  Corps de femme mienne, je persistrai en ta grâce.
  Ma soif, mon désir sans bornes, mon chemin indécis !
  Lits de rivières obscurs où la soif éternelle continue,
  Et la fatigue continue, et la douleur infinie.

  
  拙訳
  女の身体は、いくつもの白い丘、白い太腿
  お前は世界にも似て、任せ切って横たわっている
  俺のたくましい農夫の肉体はお前の中を掘って
  大地の深みから息子を躍りあがらせる

  俺はトンネルのように一人だった。鳥たちは俺から逃げ去り
  夜はその破壊する力で俺に襲いかかった。
  生き残るために俺はお前を武器として鍛えた
  いまやお前は俺の弓につがえる矢となり、石弓に仕込む石となった。

  だが復讐の刻がちょうど来て、俺はお前を愛す
  なめらかな肌と苔と乳のある、貪欲でどっしりとした女の身体よ
  ああ、壺のような乳房! ああ、放心したようなその眼!
  ああ、恥骨のほとりの薔薇! ああ、お前のけだるそうで物悲しい声!

  俺の女の身体よ、俺はお前の美しさの虜になる
  この渇き、果てしない欲望、俺のくねる道。
  ほの暗い河床には、永遠の渇きが流れ
  疲れが流れ、はてしない苦悩が続く。

  
  フランス語訳は“Vingt poèmes d'amour et une chanson désespérée traduction de Claude Couffin et Christian Rinderknecht, Edition bilingue"(Gallimard)による。

 ネルーダが20歳で刊行したこの詩集は、多くの言語に翻訳されて国際的な評価をえた。「女の肉体」では、女の肉体を丘や道などに喩えるアナロジーは具象的で分かりやすい。
それでもこうして原詩と二つの言語への訳を並べてみると、詩を翻訳するとは何かというな根本的な疑問が湧いてくる。
 翻訳では、詩人がこめた意味は伝えられても、詩句がもつ音韻の効果は伝えるべくもない。象形文字である漢字と音をしめす仮名とを用いる私たちの言語と違い、音を示す24の文字の組み合わせで書かれた欧文の詩や散文は、もっぱら耳で聴いて理解し鑑賞するものである。それを日本語へ移すのは、意味の伝達を主眼とする散文はさておき、詩を翻訳することにどんな意味があるか。詩を訳すものは、こうした後ろめたさに絶えずつきまとわれる。
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by monsieurk | 2014-11-12 22:30 | | Trackback | Comments(0)

豪華詩画集の展覧会

 ブログという表現手段が筆者にもたらす喜びの一つは、読んでくれた方が感想や批評を直接寄せてくれることである。最近も箱根にあるポーラ美術館の今井敬子さんが連絡をくださった。ブログを読んで筆者の関心領域を察してくださり、現在開催中の展覧会にお誘いいただいたのである。その後送くられてきたパンフレットが興味深いので、ここに紹介させていただく。
 展覧会のタイトルは、「紙片の宇宙 めくるめく〈絵画〉と〈書物〉の出逢い―」。
 ポーラ美術館が所蔵するコレクションのなかから、版画による挿画本の作品を展示するものである。
 「画家たちは絵筆を手に、絵画のなかにひとつの世界を出現させます。絵画は壁にかけられ、しばしば窓のような存在として眺められます。そのような絵画を描く画家たちの多くが抱いた夢があります。それは、より身近に絵画と向き合える作品を作ることです。手に触れ、幾枚もの絵画を自由に広げて鑑賞することができる、コンパクトなかたち―「本」の制作です。d0238372_14422094.jpg20世紀絵画において冒険を試みたシャガール、マティス、ミロ、ダリをはじめとする画家たちは、版画の技法による、豪華な挿画本の制作にも取り組んでいます。19世紀末から20世紀中葉にかけて成熟を極めたさまざまな版画の技法を活かし、物語や詩、もしくわ言葉の断片と響きあうように、無数の紙片により広がるイメージの宇宙が生みだされました。」
 この解説文にあるとおり、展覧会ではトゥールーズ=ロートレック/イヴェット・ギルベール画、ギュスターヴ・ジェフロワのテクストによる作品(1894年)にはじまって、アンリ・マティスが線描による見事な挿画を描いたステファヌ・マラルメ『詩集』(1932年)〔この詩画集についてはブログ「マラルメとマチス」2012.5.2を参照〕、d0238372_1444396.jpgアンドレ・ドランの挿画によるラブレーの『パンタグリュエル』(1943年)、ホアン・ミロ挿画のポール・エリュアール『詩集』(1958年)、マルク・シャガールが挿画を制作した『ダフニスとクロエ』(1961年)など、世評の高い詩画集およそ50点を目にすることができるという。d0238372_14464980.jpg 
 期間は来年2015年3月29日まで。機会をみつけてぜひ訪れるつもりでいる。
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by monsieurk | 2014-11-09 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

日本画家 久保田米僊

 京都東山区の神宮道三条上ルにある「星野画廊」は、星野桂三、万美子夫妻が経営する店で、京都にいたときはよく訪れて珍しい絵を目にする機会を得た。星野夫妻がなかでもち力を入れているのが、京都や関西に縁が深く、しかも今日忘れられた画家の発掘で、これまでにも多くの画家の作品が二人の努力でよみがえり、再認識されてきた。
 そうした作品は画廊で展示されるとともに、「忘れられた画家シリーズ」という図録で紹介されているが、今回の「シリーズ35」で紹介されるのは、明治の鬼才と呼ばれる久保田米僊(くぼた・べいせん)で、11月5日から12月6日まで代表作が展示される。案内には次のようにある。d0238372_11372624.jpg
 「『我楽多珍報』(1880)などの風刺画や徳富蘇峰の『国民新聞』での挿画、日清戦争に従軍し出版した『日清戦闘画報』(1895)などを通して、近代ジャーナリズムの世界では著名な久保田米僊。一方、京都府画学校の開設(1880)に功績があり、パリ万博(1889)やシカゴ万博(1893)での活躍も忘れられた。古書の世界では米僊関連の出版物が多数出回っているのに、本業の美術世界では全く無視されてきた。名前は知っているが、実作品を目にした美術史の研究者がどれほどいることだろう。本展では、約50点の日本画作品と関連資料を展覧することにより、明治日本画の鬼才・久保田米僊の顕彰再評価への一里塚にしたい。」
 ここで図録に載っている星野万美子さんの解説を参考にしつつ、米僊の足跡をたどってみたい。米僊は1852年(嘉永5)、京都市中京区錦通東洞院に生まれた。ペリーの黒船来航の1年前である。米僊は幼名を米吉、本名を満寛といい、生家は京都の有名な料理屋「山城屋」で、一人息子の彼は店の家業を継がなければならない立場だったが、寺子屋にいっても手習いをそっちのけで、絵ばかり描いていた。そしてついには親の反対を押し切って、16歳のとき京都四条派の鈴木百年のもとに弟子入りして日本画を学ぶことになった。
 画才に恵まれた米僊はすぐに絵の腕をあげるとともに、漢学、漢詩を学んで広い知識を身につけていった。画業の上では、日本画の伝統にとどまらずに南画や洋画の技法も積極的に採り入れた。
 1878年(明治11)に、幸野楳嶺たちと図って京都府画学校設立の建白書を上申し、2年後に実現すると進んで教鞭をとった。上村松園は日本で最初とされるこの画学校で学んだ一人である。
 このころは自由民権運動が盛んな時代で、米僊は立憲政党に加わり、帝国議会開設の請願運動に身をいれた。だがこうした政治活動がわざわいして、京都府画学校の教壇を追われてしまう。それでも創作意欲は衰えることなく、1882年(明治15)に開催された第1回内国絵画共進会では銅賞を受賞し、d0238372_1140126.jpg1889年(明治22)に、フランス革命100周年を記念して開かれた第4回パリ万国博覧会に、推薦されて出品した《水中遊魚》(写真)が金賞を受賞したという知らせを受けると、自らも特派報道記者の肩書きを得てパリに赴き、博覧会の様子とともに、船旅の模様、フランス人の日常生活などを記事と巧みなスケッチで伝えた。
 こうした久保田米僊の才能に注目したのが、翌1890年(明治23)に『国民新聞』を創刊した徳富蘇峰だった。d0238372_11424790.jpg彼はこの年1月23日に、恩師である新島襄が亡くなると、米僊に依頼して、臨終の場面を描いてもらった(写真)。その後、米僊は『国民新聞』から日清戦争の従軍画家として派遣されるなど、ジャーナリストとしても活躍した。《日清戦闘画報》は日本画家の枠をこえて、久保田米僊の名声を高める一作となった。
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 星野画廊での今回の展示は、さまざまな分野で活躍した「忘れられた画家」久保田米僊の業績を知るよい機会である。
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by monsieurk | 2014-11-06 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

手漉き和紙

 ユネスコの補助機関が、「和紙 日本の手漉和紙技術」を無形文化遺産に登録するように勧告し、11月にパリで開かれる政府間委員会での登録決定が確実となった。去年の「和食」についで、和紙を漉く技術が世界の文化遺産として認められることになる。
 植物の繊維から紙をつくることは、紙のルーツといわれる中国をはじめ、世界各地で行われてきた。紙の専門メーカー「株式会社竹尾」が創立80周年を記念して、1979年11月に発行した『Handmade Papers of the World(世界の手漉き紙)』を寄贈されたことがある。d0238372_914912.jpg
 これは世界各地の手漉きの紙のサンプルを集めた貴重なコレクションで、その多様さは驚きだが、なかでも日本の和紙は、手触り、薄さ、丈夫さの点で群を抜いている。
 世界文化遺産としては、2009年に雅楽や京都祇園祭の山鉾行事、小千谷縮などとともに、島根県の石州半紙が登録されているが、今回は和紙を漉く技術そのものが登録の対象で、和紙としては、「本美濃紙」(岐阜県美濃市)と「細川紙」(埼玉県小川町、東秩父村)が加わることになる。
 美濃紙はコウゾを原料として、縦と横に交互に揺らしながら紙を漉く。そのために繊維が複雑にからみあい、丈夫でしかも薄い紙を漉くことができるのが特徴とされる。現在この技術を保持している職人さんは8人。これを機に後継者の養成に力を入れるという。
 一方の細川紙もコウゾだけを原料にして漉き、柔軟で丈夫なことから、江戸時代には商人の大福帳として多く用いられて重宝された。だが明治になって洋紙の生産がはじまると、需要はその方にとられて次第に生産量が落ち、いまでは職人はわずか7名という状態だという。
 日本の和紙は19世紀のヨーロッパで、画家や作家、詩人のあいだで垂涎の的であった。浮世絵の流行が、日本から輸入した陶器などの輸送の際の詰め物にされた北斎マンガや浮世絵の版画が切っ掛けだったことはよく知られるが、じつはこれらの木版が刷られていら和紙の丈夫さも、いち早く注目されたのである。ヨーロッパでは中世以来、羊皮紙(犢皮紙)がもっとも長もちする印刷媒体だったが、和紙もこれに劣らず長い保存にたえ、しかもはるかに軽量で大冊をつくることができることから珍重された。��
 フランス語の辞書には、大文字のJapon は「日本」、小文字の japonには、「日本製陶器」とならんで「和紙」という語釈があてられている。和紙を用いた印刷物はこのように一般化したが、なにせ輸入品だったから和紙を用いた本は特別なものであった。
 19世紀フランスの詩人ステファヌ・マラルメの詩集『半獣神の午後(牧神の午後)』は、画家エドゥアール・マネの挿画4点を添えた豪華本で、1876年4月、195部限定で出版された。この詩集の広告に、「日本の奉書紙に、金で表題が箔押しされ、椿色と黒の紐で結ばれている」とあるように、表紙には少し厚手の灰色の和紙が、詩句を印刷した頁には薄手の和紙が用いられていた。
 これほど世界で珍重されてきた日本の手漉き和紙の伝統が、あらためて認められることは慶賀すべきことである。
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by monsieurk | 2014-11-03 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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