ムッシュKの日々の便り

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HOKUSAI展

 パリで観たもう一つの展覧会は、グランパレで開かれている「北斎展」である。この展覧会は、国際交流基金とフランス国立美術連合グラン・パレの共同主催で、日本に関連した2014年最大のイヴェントで、大きな反響を呼んでいる。
 
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 2014年は⦅北斎漫画⦆の初編が出版されて200周年にあたり、北斎を海外ではじめて認めたパリで、葛飾北斎の版画や肉筆画およそ700点を、2期にわたって展示したものである。詳細はウェヴ・サイト、http://www.jpf.go.jp/j/culture/exhibit/oversea/1405/05-01.h/ を参照されたい。
 19世紀半ばにパリで流行した日本趣味(ジャポニスム)は、現在の私たちの想像をはるかにこえるものだった。ゴンクール兄弟は、1851年に刊行した『千八百某年』で、日本の美術品に対する並々ならぬ関心を披歴しているが、その後1856年に版画家フェリックス・ブラックモンが、北斎漫画を偶然の機会から発見するにおよんで、パリの画家や文人たちの間に日本美術への関心が一挙にひろまった。d0238372_8555670.jpg
 ブラックモンと北斎漫画との出会いは、一説には、彼が印刷屋ドラートルの仕事場をたまたま訪れたとき、その片隅にほってあった赤表紙に画帳を目にしたことにはじまると言われる。この画帳は船積みされてきた日本の陶器の荷物の詰め物にされていたのだという。こうして北斎をはじめとする日本の浮世絵が、長い伝統をもつ西欧絵画に大きな影響をもたらすことになった。
 「HOKUSAI」展は2015年1月18日まで。正月の休みにパリを訪れる人は必見である。
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by monsieurk | 2014-12-30 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

1937年のパリ万国博覧会

 パリでは2つの展覧会を観た。1つはポンピドゥー・センターで開催中のロベール・ドローネ(Robert Delaunay、1885-1941)展である。
 ドローネは画家としての正規の教育はうけなかったが、18歳ころからゴーギャン、スーラ、セザンヌの絵を研究して制作をはじめた。同時に科学者で色彩の研究家だったミシェル=ウジェーヌ・シュヴェルールの色彩理論を学び、1909年にはキュビスムの運動に加わった。彼の代表作である⦅エッフェル塔⦆や⦅サン・セヴラン寺院⦆の連作は、このころに描かれたものである。d0238372_1562544.jpg
 彼の作品はエッフェル塔や飛行機といった機械的なものをテーマとしたものが多く、キュビスムの他の画家の作品がモノトーンに近かったのに対して、ドローネの絵は豊かな色彩が重要な要素となっている。彼はその後キュビスムの運動から離れ、より抽象性の高い作品を描くようになった。
 ドローネ展の一角で、1937年にパリで開かれた「万国博覧会」の資料が展示されていた。この博覧会は正式には、「現代生活における芸術と技術の1937年パリ国際博覧会」(Exposition International Paris 1937 des Art et Techniques dans la Vie Moderne)といった。d0238372_1585810.jpgドローネはこの万国博覧会で、航空館と鉄道館の巨大なフレスコ画を担当し、抽象画⦅リズムNo,1ーNo.3⦆を制作した。
 展示のなかで目を引いたのは、テーマ館や各国の展示館の位置を示した地図だった。写真は、博覧会会場の中心となった、エッフェル塔を望むシャイヨー宮付近の配置図である。
 シャイヨー宮から、セーヌ川に向かって坂を下りたところに2つの巨大な建物が建って居る。セーヌにかかるイエナ橋の手前左手には、ヒトラーが直々に任命した建築総監督シュペアの指揮のもとに、ブリンクマンの設計で建築されたドイツ館があった。正面に高さ52メートルの塔を建て、上にはドイツのシンボルである巨大な鷲と、ナチスのハーケンクロイツの旗がセーヌの川風にたなびいていた。d0238372_15102931.jpg
 塔に接して、長さ148メートル、幅22メートル、高さ18メートルの本館があり、そこにはドイツ科学の粋を結集した製品の数々が展示されていた。
 このドイツ館に張りあうように、道を挟んで反対側に対峙しているのがソヴィエト館だった。有名な建築家イョファンの手になるもので、こちらは流線を多用した優美な設計で、塔の頂にはムーキーナ夫人が創作した、男女2人の労働者の巨大な彫刻がのせられていた。この彫刻だけで凡そ20メートルの高さがあった。
 ドイツとソヴィエトは、前年1936年7月のフランコ将軍によるクーデタに端を発したスペイン内戦で対峙していた。万国博覧会を主宰したフランスの人民戦線内閣は、スペインの共和派政府を支援しており、スペインが共和国として依然健在であることを示す場を提供した。d0238372_15113227.jpg地図によると、スペイン館(写真のEspagne)は、シャイヨー宮からセーヌ川に向かって左手の斜面に建てられたことがわかる。ここにパブロ・ピカソが制作した大作⦅ゲルニカ⦆が展示されたのである。
 スペイン共和派政府から博覧会への出品を依頼されたピカソは、パリにアトリエを構えていたが、作品のテーマを決めかねていた。だが博覧会が開かれる直前の1937年4月26日、スペインのバスク地方の小都市ゲルニカがドイツ空軍によって無差別爆撃をうけ、大勢の市民が犠牲になったというニュースに接すると、すぐにこの大作に取りかかった。
 ドイツ館やソヴィエト館にくらべてスペイン館は規模こそ小さかったが、⦅ゲルニカ⦆をはじめ、ホアン・ミロの壁画⦅反逆したカタランの農夫、もしくは刈る人びと⦆、アルベルト・サンチェスの⦅スペイン人民は星に至る道を歩む⦆と題した高さ11・9メートルの彫刻が展示され、スペイン内戦をテーマにしたルイス・ブニュエルの映画「スペイン1937」やヘミングウエイがコメントを書いた「スペインの地」などが上映されて、多くの来場者を集め、スペイン内戦の現状を訴えたのである。
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by monsieurk | 2014-12-27 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

プレヴェールのコラージュⅡ

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 写真はマドレーヌ・シャプサルとプレヴェールで、これもシャプサルのコレクションにあったものである。
 プレヴェールがコラージュに興味をもち、精力的に制作するようになったのは、1950年代後半である。彼はかつてモーリス・バケが撮った、やがて妻となるジャニーヌの写真〔両手を広げて空中に飛び上がっている〕を、エキゾチックな花や葉っぱで縁取りをして素敵なコラージュをつくり、夢中だった踊り子の、はち切れんばかりの若さを見事に引き立たせたことがあった。1950年代になってから、写真家や画家と共同で詩画集をつくり、それらを通してコラージュという手法にふたたび関心が向いたのである。
 プレヴェールは映画のシナリオを書くとき、よく色鉛筆で花や小さな人間や滑稽な場面のスケッチなどを書き添えていたが、あるときそれを見たピカソは、「君は描くことも、デッサンする知識もないけれど、君は絵描きだよ・・・」といったことがある。
 プレヴァールはパリで放送局の2階から道路に転落するという事故を起こしたあと、静養のためにニースに近いサン・ポール・ド・ヴァンスに滞在したが、ここでは仕事以外に何か手作業をするように医者に言われ、コラージュが恰好の作業となった。
 ルネ・ベルトは映画『わが兄ジャック』のなかで、「ジャックは次第にコラージュで自分を表現するようになりました。彼はまず詩でそれを試みました。人びとは彼の詩の幾つかはすでに言葉のコラージュだと認めました。精神のあり様は同じです。それぞれ異なる、予想もしない要素を関係づけ、活性化する能力を、ジャック・プレヴェールは最初に言葉で示したのです。他の人たち、シュルレアリストたちのなかにも、コラージュを用いた人はいます。マックス・エルンストはとても美しいコラージュをつくりました。でもプレヴェールのものは、それと同じではありません。彼は彼にしか属していない現実の要素に生気を吹き込むのです。彼のコラージュは、知的形而上学のそれではありません。そこにはマックス・エルンストのコラージュのあるものが持っている、オブセッションや幻覚といった性格はありません。ジャックのコラージュは完全に彼の詩情に属するものなのです」と述べている。
 コラージュを本格的にはじめてからは、プレヴェールには材料を探すことが楽しみになった。色々なイメージや着色版画や写真を探しながら、セーヌ川畔の古本屋をみてまわり、一つ一つを吟味して、心に響くものがあれば購入した。そして時間があれば、パリにいるときは郊外のサン・トゥーアンなどで開かれているノミの市や、ジャコブ通り、サン・ペール通りなどの古本屋をまわって、めぼしい雑誌を飽きずに探し、これはと思う絵や写真の複製が掲載されているものを買ってきた。
 パリ18区のヴェロン小路にあるアパルトマンの大きな机や、サン・ポール・ド・ヴァンスの家の仕事机に座って、まずそれらの雑誌から絵を鋏で切り抜く。机にはそれらを入れる箱、糊、ピカソがくれたフエルトペン、色鉛筆、パステルがのっている。友人に進呈する本の献辞と、花や星やその他お気に入りの絵を描き、グアッシュや水彩画の効果を生み出すためのものだった。
 コラージュをつくるには、「語りかけてくる」イマージュを見つけることが重要で、それを他人まかせにすることはできなかった。「何か私を悦ばせるものがあれば、それを切り抜いて、引き出しに入れておく。大事なのはそれが私を悦ばせてくれることだ。ときどき綺麗な本や、古いカタログを、「ほら、君にだよ」といって、持ってきてくれる人たちがいる。でもそのなかには取っておくようなものは何も見つからない。それが私を悦ばせるものなら、すぐに分かった。」(L’Expess, le 19 septembre 1963)
 こうして何十、何百もの絵や写真が集まり、それらを組み合わせてコラージュが制作された。イマージュの意想外の組み合わせが、ナンセンスな笑いを誘い、現実の化けの皮をはがす鋭い風刺となった。頭が毛虫に齧られた果物になっている法王、雄山羊の頭をした天使たち、皮を剥いだ人体模型の頭をした幼いキリスト、猿の頭をした神父、猿の仮面と、歯をむき出し、馬鹿笑いをしている仮面を顔に張りつけられたポール・ロワヤルの二人の修道女。元になった絵は、パスカルの妹ジルベールが入っていた修道院の有名な二人を描いたものである。プレヴェールはさまざまの手法を駆使しながらコラージュをつくったが、そこには一貫して一つの主張が看て取れる。反軍、反ブルジョワ、反権力、反教会、反戦争の精神である。
 これらの作品はマーグ画廊の幕開けとして、「ジャック・プレヴェールのコラージュ」と題した展覧会で展示された。画廊を訪れた人たちは、シュルレアリスムの精神が横溢するモンタージュ、イメージの魅力、生き生きとした色彩に魅了された。展覧会ではルネ・ベルテが書いたテクストを添えたアルバムが販売された。このアルバム制作には、プレヴェールの経済的状態を慮ったアドリアン・マーグの配慮があったのである。
 マーグ画廊での展覧会に次いで、1963年から64年にかけて、「イマージュ」というタイトルのもとに、120点のコラージュの作品展が、フォーブール・サン・トノレ通りの「クヌードラー画廊」で開かれ、3回目は1966年に「ポシャード」画廊で開催された。このときは57点のコラージュが展示された。
 言葉による詩も映画の台詞もコラージュも、プレヴェールにとっては平凡な現実を彩る夢の実現であって、決して暇つぶしではなかった。彼の詩の数々は書物の形で残され、コラージュは死後に遺族の手で国立図書館に寄贈され、その多くはいま国の所有となっている。
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by monsieurk | 2014-12-24 22:30 | 収穫物 | Trackback | Comments(0)

プレヴェールのコラージュⅠ

 今回パリには4日間滞在したが、その間の最大の収穫は、ヴィーニュ古書店でジヤック・プレヴェールのコラージュを1点譲ってもらったことである。
 パリの定宿は5区のHôtel des Grandes Ecolesといって、パンテオンの裏手にある静かなホテルで、カルティエ・ラタンに近く、周辺には美味いレストランも多い。アンリ・ヴィーニュが開いている古書店は、サン・ジャック通りの坂をセーヌ川に向かって降りて行った右手にある。
 あいにくその日は雨だったが、会議が始まるまでの時間、2、3の古書店を覗いてみようと思いたって、最初に訪れたのがヴィーニュの店だった。ウインドーを見るとプレヴェールの詩集『ことば』の初版本と、彼が晩年に打ち込んだコラージュが1点飾られていた。さっそく扉を押して中に入ると、幸い旧知のアンリ・ヴィーニュがいた。
 挨拶もそこそこにコラージュを見せてもらう。写真がそれである。d0238372_8585697.jpg
 コラージュは、21×29.7センチの台紙に、10.5×15センチのコラージュが貼りつけられている。青い服を着た女が、口をあけれ迫る大蛇から逃れようと、木の幹の洞に身を隠そうとしている場面である。プレヴェーは女性、蛇、木の幹などを雑誌や新聞のなかから見つけては切り抜いて、それらを巧みに組み合わせて思ってもみない場面を出現させる。
 コラージュの下には、プレヴェールの自筆で、「À Madeleine Chapsal, de tout ♥ Jacques Prévert, Antibes été 1963 (マドレーヌ・シャプサルへ、♥から、アンティーブ、1963年夏)」と書かれている。
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 ヴィーニュによれば、女性ジャーナリストでのちに作家となったマドレーヌ・シャプサルから譲ってもらったコレクションのなかの1つで、彼女宛ての献辞がついていることに価値があるという。シャプサルがヴィーニュに譲ったコレクションはすべて、2013年5月に出たカタログに掲載されており、カタログにはシャプサル自身が序文を寄せている。
 「雑誌L'Express(レクスプレス)が創刊されたときから、夫のジャン=ジャック・セルヴァン=シュレヴェールは、新刊本を出した作家たちにインタビュする役割を私にあたえた。彼らの言葉を雑誌に掲載するためである。1960年代、70年代に私が出会った人たちは、アルベール・カミュ、モンテルラン、ルネ・シャール、ジャック・プレヴェール、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、ジャン=ポール・サルトル、トルーマン・カポーティなど大勢にのぼった。世界的に著名な作家たちに親切に迎えられる機会が、若いジャーナリストにとってどれほど貴重なものか、私は十分意識していなかった。彼らが語る言葉は、知的で、深みがあり、ときに面白く、また感動的だった。
 雑誌に掲載されたインタビュー記事を本にしないかと提案してくれたのは、偉大な出版人ルネ・ジュリアールである。これが私にとって貴重な原石を選び出す機会となった。それは他に比べるもののない宝物だった。(『個人としての作家』、ジュリアール社、1960年。『小さな音楽を送って下さい』、グラッセ、1984年)
 そして今、学識豊かな古書店主で蒐集家でもあるアンリ・ヴィーニュが、これまで活用されて来なかった貴重な資料が、私の書棚に眠っていることを教えてくれたのである。それはこれらの作家から私宛てに送られてきた自筆の手紙などである。手紙は大きさも筆跡もさまざまだが、いずれも私への献辞、挨拶、お礼などで、どれもエレガントな調子や独特の文体に溢れている。
 こうした貴重な証言類が散逸してしまうのを恐れて、アンリ・ヴィーニュと私は、これらの価値を認めて、それを大事に保存してくれる人たちに提供することにしたのである。」
 マドレーヌ・シャプサルは1925年パリで生まれた。母は有名なオートクチュールのデザイナー、父は高級官僚だあった。22再のときジャン=ジャック・セルヴァン=シュレヴェールと結婚。1953年に夫が知識人を読者に持つ週刊誌「レクスプレス」を創刊したのをきっかけに、文芸ジャーナリストとして参加し、以後25年にわたって同誌に記事を書いた。 
 こうした取材の過程でシャプサルの手元に保存された作家の自筆原稿、手紙、あるいはインタビュを録音したテープなどが、コレクターの手に渡ることになった。プレヴェールのコラージュが売り出しから1年以上たった今まで残っていたのは奇蹟のようなものである。
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by monsieurk | 2014-12-21 22:30 | 収穫物 | Trackback | Comments(3)

フランス・3つの話題

 およそ1カ月のフランス滞在から12月12日の夜帰国した。急きょ決まった総選挙で投票するためである。留守中の郵便物をすべて郵便局留めにしていたから、その間に送られてきたであろう投票用紙が届くかどうか気がもめたが、投票日前日に配達があり、14日日は無事投票をすますことができた。ただ結果として、投票した候補者は落選。死に票となった。
 フランス滞在中は色々な出来事があった。南フランスのアルプスの麓一帯に広がるアルプ・オリアンタル県では長雨が続き、川が氾濫して多くの街が水浸しとなった。5人が亡くなり、3000人が避難生活を余儀なくされた。テレビは昨今の異常気象が原因と伝えていた。
 トゥールーズを発ってパリへ向かう日の朝、車の中で聴いていたラジオ「France Info」が、トウ-ルーズのブラニャック空港が中国企業に買収されたというニュースを伝えた。トゥールーズの空港は、サンテグジュペリの時代からフランスの航空産業の拠点であり、民間航空が利用する建物から、滑走路を挟んで反対側にはエアバス社の工場がある。今回中国資本が投下されたのは空港の建物とエアバス産業で、ニュースは、「航空産業の中心、トゥールーズが中国に買われる」と繰り返し伝えていた。d0238372_10231669.jpg 
 パリに出て、友人とこれを話題すると、パリでは最近、「カフェ Café」や「タバ Tabac」(煙草を売るだけでなくコーヒーや軽食を提供する店)が軒並み中国人に買われているという。多くは中国人の自己資金だが、フランスの銀行も借り手が中国人なら間違いなく融資する。返済が焦げつく心配がないからだという。
 現在フランスに投資された中国資金は全外国資本の0.9%に達し、今後ますます増えると予想される。12月8日に開催されたパリ日本文化会館の審議会でも、フランスと日本の間の文化交流だけでなく、こうした現実を前に両国の戦略的関係を構築する必要性が強調された。
 フランス滞在中のもっとも衝撃的だったのは、12月2日、パリ近郊のクレテーユに住む、若いカップルのアパルトマンが3組の男たちの襲われ、家が荒らされた上、女性がパートナーの目の前で暴行されるという事件だった。襲撃は彼らがユダヤ人だったためで、この事件はフランスの反ユダヤ主義(L'Antisémitisme)が依然として根深いことを示すものだった。ベルナール・カズヌーヴ内務大臣はすぐに、「すべての人種差別を断固糾弾する」という声明をだした。
 ただこのクレテーユの事件は例外ではなく、2014年の上半期だけで、フランス全土で527件のユダヤ人を対象にした、襲撃、暴行、言葉による脅しなどが起っている。しかもこうした人種差別は年々増える傾向にある。
 さらにユダヤ人だけでなく、フランスに住むアラブ人に対しても同じような攻撃や嫌がらせが起きており、フランスの人種差別が根深いことを示している。
 それにしても円安の影響は深刻だった。街中の両替所で交換すれば、1ユーロ=150円もした。昨年の今ごろは130円台で、一時は1ユーロ=100円台ということもあった。この時に比べれば、円の価値は3分の2に下落したことになる。この事態は旅行者はともかく、ヨーロッパにいて円建てで生活している人たちは悲鳴を上げている。この点でもいわゆる「アベノミックス」が、経済によい結果をもたらたとはとても言えない。
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by monsieurk | 2014-12-18 22:30 | フランス(社会・政治) | Trackback | Comments(0)

中野重治の詩「ポール・クローデル」Ⅱ

 中野重治が「ポール・クローデル」を書いたきっかけは、大正11年(1922)12月2日、東京神田の明治会館で、フランスの作家シャルル=ルイ・フィリップの没後13年を記念する講演会が開かれたことだった。
 この講演会は小牧近江が中心になって企画したもので、生前のフィリップを知っている駐日フランス大使で詩人のポール・クローデルにも出席を依頼した。
 小牧近江については以前のブログ「小牧近江のヴェトナム」(Ⅰ~ⅩⅥ、2013.7.13~8.27)で詳しく書いたが、小牧はフランス滞在中に第一次大戦を体験した。そして戦後、作家アンリ・バルビュスが提唱した世界平和をめざす「クラルテ運動」に共鳴し、1919年暮れに帰国すると、故郷秋田の土崎で小学校の同級生だった今野賢三や金子洋文と語らって、雑誌「種蒔く人」を創刊した。これは日本のプロレタリア運動のさきがけとなったもので、小牧は雑誌で世界の動きを積極的に紹介し、日本にプロレタリア運動を根づかせようとした。
 発足当初から「種蒔く人」には二つの路線が併存していた。一つは小牧が考える世界主義、もうひとつは地方の独自性を大事にしようとする地方主義である。秋田はもともと農民運動の盛んな土地で、「種蒔く人」は世界の思想の新たな潮流とともに、秋田の現実に根ざした農民運動や農民文学を盛んにとりあげた。
 小牧近江はパリにいたときに、古本屋を営むアドリエンヌ・モニエの店に出入りし、女性店主のモニエから、地方出身の作家フィリップの読むように勧められた。フィリップの作品は貧しい庶民の生活を哀歓をこめて描いており、小牧はたちまちその魅力の虜になった。
 小牧がプロレタリア運動やその芸術を全国に広げようと考えたとき、脳裏に浮かんだのはフィリップの存在だった。彼を日本に紹介することで、都会の下町や地方に住む大衆の意識を呼び覚まそうとしたのである。明治会館での講演会に先立って、東京朝日新聞に3回にわたって掲載された文章のなかで、小牧はこう述べている。
 「大衆運動の最も重要な芸術は完全な中央集権であるべきではあるが、とくに地方の芸術にとつて、多少の自由が許されてゐると思ふ。地方の階級意識の色彩をもう少し地方的に濃厚にし、やがて中央集権の傘下に参加するために〔ママ〕の準備として、芸術上の分権は当分已むを得ぬ必要だと思ふ。僕らの手段として、芸術上のレジオナリスムに向かつて当分進まなければならぬものであることを肯定する。」(「地方で生まれる芸術の要求(三)」、「東京朝日新聞」、1922年10月5日朝刊)d0238372_252887.jpg
 小牧はこうした意図のもとに記念講演会を催し、生前フィリップと交流があり、前年大正10年(1921)11月に大使として日本に赴任してきていたポール・クローデル(写真)に声をかけたのである。フランス帰りの小牧としては、これに何の問題も感じなかった。実際にはクローデルは当日登壇せず、詩が読まれただけだったが、中野重治は詩人大使クローデルをフィリップと結びつけることに強く反発した。
 中野は政治と文化が決して別物ではないことを認識していた。いわばその代表が大使クローデルであって、彼は詩を書くとともに外交を行った。政治と芸術はクローデルという一人格のなかで結びついており、決して別物ではあり得ない。それは社会主義を信じる中野重治の場合も同様で、ただクローデルと中野では向かう方向が逆なだけである。
 中野にとって、あたかも政治と芸術を切り離せると考えているかのように、シャルル=ルイ・フィリップの記念講演会に、体制側のクローデルを呼ぶ小牧の鈍感さはとうてい認めることはできなかった。
 その上、能や歌舞伎を愛で、三味線を弾いてみせるクローデルの姿は、西欧エスタブリッシュメントのオリエンタリズムの典型と映った。中野にとっては、三味線も歌舞伎も皇居も否定され、克服されるべき存在だった。

  「ポール・クローデルは詩を書いた
  ポール・クローデルはお濠にはまった
  ポール・クローデルは三味線を奏いた
  ポール・クローデルは歌舞伎を踊った
  ポール・クローデルは外交した

  
  おゝ そして
  ついに或る日
  ポール・クローデルがシャルル・ルイ・フィリップを追悼した
  大使がフィリップを!」

  
 一度は交わったフィリップとクローデル。一人はつねに庶民の側に立って作品を書き、もう一人は戯曲や詩の大作を次々に発表し、やがて大使になった。

  「おお 偉大なポール・クローデル!大使で詩人だと言ふポール・クローデル
  我らの小さなフィリップは
  彼の貧しい墓の下で言ふだろう
  「ポール・クローデルは大使になった」。」

  
 詩篇「ポール・クローデル」は、「夜明け前のさよなら」や「帝国ホテル」などともに、『中野重治詩集』(ナウカ、1935年)に収録され、いまは岩波文庫でも読むことができる。
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by monsieurk | 2014-12-15 22:30 | | Trackback | Comments(0)

中野重治の詩「ポール・クローデル」Ⅰ

 トゥールーズの家の書棚にある、Anthologie de poèsie japonaise contemporaine、Gallimard、1986(「日本現代詩アンソロジー」、ガリマール社、1986)を久し振りに読んだ。
高村光太郎から吉松剛造まで90人の詩128篇を訳したものである。取り上げられた詩人はほぼ時代順には並んでおり、そのなかで中野重治の「Paul Claudel(ポール・クローデル)」に目がとまった。

  Paul Claudel était poète
  Paul Claudel était ambassadeur
  Et la France a occupé la Ruhr

  
  Les paysans français ont fait des économies
  Et les riches ont tout pris
  Et les riches ont prié la Vierge Marie
  Et Paul Claudel a prié la Vierge Marie
  Et Paul Claudel est devenu ambassadeur
  Et Paul Claudel a écrit des poèmes

  
  Paul Claudel a écrit des poèmes
  Paul Claudel a tourné autour des douves impériales
  Paul Claudel a joué du shamisen
  Paul Claudel a dansé le kabuki
  Paul Claudel a fait de la diplomatie

  
  Et alors, oh mon Dieu!
  Un jour
  Paul Claudel
  A fait l'éloge posthume de Charles-Louis Philippe

  
  Oh! Grand Paul !
  Claudel, ambassadeur et poète !
  ⦅Notre petit Philippe⦆
  Dit peut-être maintenant dans son pauvre tombeau :
  Paul Claudel est ambassadeur !

   仏訳、イヴ=ーマリ・アリュ

  
 原詩は以下のとおりである。

  ポール・クローデルは詩人であった
  ポール・クロデールは大使であった
  そしてフランスはルールを占領した

  
  ロマン・ローランはスイスに逃げた
  ウラジミール・イリイッチはロシアに帰った
  そしてポール・クローデルは詩を書いた

  
  フランスの百姓は貯金した
  それを金持が取り上げた
  そして金持はマリヤを拝んだ
  そしてポール・クローデルはマリヤを拝んだ
  そしてポール・クローデルは駐日大使になった
  そしてポール・クローデルは詩を書いた

  
  ポール・クローデルは詩を書いた
  ポール・クローデルはお濠にはまった
  ポール・クローデルは三味線を奏いた
  ポール・クローデルは歌舞伎を踊った
  ポール・クローデルは外交した

  
  おゝ そして
  ついに或る日
  ポール・クローデルがシャルル・ルイ・フィリップを追悼した
  大使がフィリップを!

  
  おお偉大なポール・クローデル!大使で詩人といふポール・クローデル
  我らの小さなフィリップは
  彼の貧しい墓の下で言ふだろう
  「ポール・クローデルは大使になった」。

  
 原詩と訳詩を比べると、原詩の第二節が省略されている。ロマン・ローランやイリッチの当時の状況説明が、本筋から逸れると訳者が判断したためである。もう一つの変更は、第4節の、「ポール・クローデルはお濠にはまった」が翻訳では、「ポール・クローデルは皇居のお濠の周りをまわった」と訳されていて、クローデルが皇居のお濠に落ちたことは当時日本で話題になったが、これの逸話をフランス語の読者に分からせるには説明が必要になるため、ここは意訳したのである。イヴ=ーマリ・アリュの翻訳は、詩の意味だけでなく音韻の点でも上手くフランス語に移している。それにしても、中野重治はこの「ポール・クローデル」で何を意図したのだろうか。(続)
 
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by monsieurk | 2014-12-12 22:30 | | Trackback | Comments(0)

カミュ「レトランジェ」の出版Ⅱ

 カミュが書き上げた『レトランジェ』は1年たっても出版されなかった。カミュはその後「パリ・ソワール」紙を解雇され、アルジェリアのオランに戻った。そして結婚したばかりのフランシーヌと、オラン市アルゼウ通67番地で暮らしていた。ドイツ占領下のアルジェシアは、ドイツに協力するヴィシー政権のもとにあり、フランス本土との連絡は困難をきわめた。さらに占領下ではすべての物資が不足しており、出版用の紙の供給も極度に制限されていた。
 カミュにとっての救いは、原稿を読んでくれた高校時代の師ジャン・グルニエや、親友のパスカル・ピアが、『レトランジェ』がフランスの文学で新らたな場所を占めるべき作品だと請け合ってくれたことだった。彼らはそれぞれNRF社の社主ガストン・ガリマールに連絡を取る役を買って出てくれた。
 パスカル・ピアはこのとき、新たな雑誌「プロメテウス(Prométhée)」の創刊を計画しており、数週間前からその準備中で、ジャン・ポーランの助力を頼むつもりだった。ポーランは長らくつとめた編集長の座を1940年の夏に、対独協力派の作家ドリュ・ラ・ロシェルに譲っていた。
 カミュは『レトランジェ』を二度目にタイプした原稿をパスカル・ピアに送り、強い印象を受けたピアは、1941年4月25付のカミュ宛ての手紙で、「これはカフカの最良のページに匹敵する」と書いてきた。そして彼は4月28日に、それをジャン・ポーランにまわした。これを読んだポーランはそれをアンドレ・マルローに送った。d0238372_18204065.jpg
 マルロー(左の写真)はパリで一度カミュに会ったことがあった。彼は無名の作者の原稿を高く評価し、その上で、「太陽とアバブ人のナイフとの関係について」もう少し書き込んだ方がいいといった助言をあたえた。さらに、「よき助言者」であるロジェ・マルタン・デュ・ガールヘも原稿を送るように言ってくれた。デュ・ガールはニースにおり、NRFの社主ガストン・ガリマール(右の写真)も、毎月ニースに来ては数日をすごす習慣だった。、d0238372_18214550.jpgだがはたしてデュ・ガールが『レトランジェ』の原稿を読む機会があったかどうかは不明である。
 いずれにせよカミュの原稿をガストン・ガリマールに推薦したのはジャン・ポーランだった。ポーランはガストン・ガリマールに宛てて、きわめて好意的な読後評を送り、11月12日に開催されたNRFの編集委員会で、この小説の出版を支持した。そしてポーランはこの2日前に、パスカル・ピアに自分の考えを伝え、作品はおそらくドリュ・ラ・ロシェルが編集長をつとめる雑誌に掲載されるだろうと伝えた。
 これと並行して、アンドレ・マルローは11月8日付けの葉書で、ガストン・ガリマールに、「カミュの原稿を読まれましたか? ご注意あれ:私の意見では、これは重要な作家です。」と書き送った。
 こうした助言の結果、ガリマールはマルローへ11月19日に、原稿を読んだが出版についてはなんの問題もない。ただ作者の連絡先が分からないと返事をした。マルローは折り返しカミュの住所を手紙で知らせた。
 ガストン・ガリマールはカミュに宛てて作品の出版を承諾することを伝え、慣例に従って、最初の1万部については印税10%、それ以後のものについては12%。前金として5000フランを支払うという条件を提示した。さらに今後書かれる10冊の著作については、出版権をガリマールが持つという条項もつけ加えられた。
 カミュの側がに異存はなかった。契約は1942年2月16日に交わされ、カミュは『レトランジェ』と同時、ないしはその出版直後に、哲学的エッセー『シジフォスの神話』も出版したいという希望を出した。ガリマールは『シジフォスの神話』のなかのカフカに関する章を削るように助言した上で、この申し出を了承した。戯曲の『カリギュラ』については、マルローの意見もあって出版は後にのばされた。
 『レトランジェ』が、ガリマール社から出版されたのは1942年4月1日のことである。
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by monsieurk | 2014-12-09 22:30 | | Trackback | Comments(0)

カミュ「レトランジェ」の出版Ⅰ

 トゥールーズの街の中心は「キャピトール」と呼ばれる市役所前の広場で、ここには週に4日ほどタント張りの市がたつ。その数は100軒を優にこえるが、多くは衣類、革製品、土産物などを商う店である。そんな中に6、7軒、古本やDVD、昔のレコードを並べている店があり、その一軒で『アルベール・カミュ「L'Etranger (レトランジェ・異邦人)」の出版に関する短い物語、挿画付』という冊子を見つけた。フォリオ版(文庫本)の『レトランジェ』と組で3ユーロというので、さっそく購入した。
 去年2013年は作家カミュが生まれて100年にあたり、フランスでは彼に関する出版があいついだ。これはそのなかの一冊で、版元のガリマール書店から刊行された。写真のものがそれで、40頁足らずの小冊子だが、「レトランジェ」の2種類の手書き原稿やカミュのガリマール宛ての手紙、当時この出版に関わった人たちの写真などが収められている。「レトランジェ」の誕生についてはすでに多くの本が書かれているが、この小冊子に載っているアラン・セリジエの研究を参考にして辿ってみたい。

 カミュは1913年11月、フランスからの植民者で農業労働者だった父リュシアン・オーギュストとスペイン系の家族の娘カトリーヌ・サンテスの間の次男として生まれた。父親はカミュが生まれた翌年、第一次大戦のマルヌの会戦で戦死したため、その後はアルジェ市内の母方の実家で育った。家は大家族で貧しく高等学校(リセ)に進学する希望はなかったが、カミュの才能を認めた教師のルイ=ジェルマンが家族を説得してくれ、奨学金を得ながら高校へ進学した。ここで哲学の教師で作家のジャン・グルニエと出会い、その影響から文学に強い関心を持つようになったのは有名な話である。1932年には大学入学資格試験(バカロレア)に合格。アルジェ大学文学部に入学し、アルバイトをしながら創作の道を志した。
 1936年に大学を卒業。このころカミュは、「ぼくはこの世界にあって幸福だ。なぜならぼくの王国はこの世界だから。・・・人は自分がこの世界から引き離されているを思ってが、こうした抵抗感が自分の中で溶けていくには、金色に輝く埃になかに一本のオリーブの樹氏が立っているだけで十分だし、朝の太陽の下で耀く砂浜だけで十分だ」と書いている。こうした感性から生み出されたエッセーは、1937年と39年に、地元の出版社「シャルロ」から『裏と表』、『結婚』の二冊にまとめられた出版された
 この間、1938年には知人のパスカル・ピアに誘われてアルジェで刊行されていた新聞「アルジェ・レピュブリカン(のちに「ソワール・レピュブリカン」)の記者となり、人民戦線に賛同する記事を書き、かたわら『レトランジェ』の原型となる『ルイ・ランジャール』、さらに『幸福な死』を創作した。だがこれは完成度に不満で、1939年には放棄されてしまった。ここには主人公の名前のムルソーや老人ホームの訪問など、『レトランジェ』に出てくる要素はあるものの、これが母体ではない。『レトランジェ』は独自のスタイルの身に着けた本物の作家の作品であり、『幸福な死』はまだ習作の段階に留まっている。
 1939年7月25日付けの女友だちクリスティアーヌ・ガランゴ宛てた手紙で、カミュはアルジェの母の家で新たに小説を書き始めたことを伝えている。だが同じ年の10月には、将来彼の妻となるフランシーヌ・フォールに、小説は進んでいないかわりに、不条理についての哲学的エッセー(やがて『シジフォスの神話』となるもの)の方は、「ぼくのうちでは小説よりもずっとの熟しつつある」と伝えている。d0238372_1528615.jpg写真は左からカミュ、フランシーヌ、パスカル・ピアである。
 『エトランジェ』の構想が固まったのは1940年の1月から3月にかけて、アルジェとオランにいたときで、書きはじめられたのは、カミュが1940年3月14日に、パリへ発つ直前だったと思われる。
 パリで職を探していた彼は、またもパスカル・ピアの手引きで「パリ・ソワール」紙の編集部に就職することができた。このときからカミュは小説の執筆に本腰をいれたのである。1940年5月1日付のフランシーヌへの手紙には、「ぼくは小説を書きおえたところだ。・・・無論、ぼくの仕事が終わったわけではない。まだ修正したり、書き足したり、書き直したりすることがある。それでも書き上げたのは事実で、最後の文句を書いた。・・・ぼくはこれに2年前から取りかかってきた。そしてぼくの裡で思い描かれていた通りのことを目にすることができた」と伝えている。d0238372_15335656.jpg
 『レトランジェ』の原稿には、あとからの訂正の跡はあるにせよ、1940年5月の日付が書き込まれている。
 その後、注意深く読んでくれる人たちの助言を受けて、カミュは原稿に若干の手入れを施して、2度目の自筆原稿をつくった。これには1941年2月の日付があるが、これは『手帳』の1941年2月21日の、「シジフォスの神話を終える。3つの「不条理」が完成した。自由のはじまり。」という記述と時期的に一致する。(続)
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by monsieurk | 2014-12-06 22:30 | | Trackback | Comments(0)

テレビ映画「シモーヌ・ヴェイユ」

 11月26日の夜、フランスの公共放送「フランス2」で、「シモーヌ・ウェイユ」というドキュメンタリー・ドラマの放送があった。高い視聴率を記録し、とくに女性の視聴が目立ったという。
 40年前のこの日、1974年11月26日、ジャック・シラク内閣の健康相だったシモーヌ・ヴェイユは、下院(日本の衆議院に当たる)に「妊娠中絶合法化法案」(IVG、Interruption volontaire de la grossesse)を提出して、趣旨説明を行った。カトリックの国であるフランスではこのときまで妊娠中絶は認められていず、法案は大きな議論を呼んだ。特派員として取材にあたったから、このときの世論の紛糾振りはよく覚えている。
 シモーヌ・ヴェイユは、1927年7月にニースでユダヤ系の建築家ジャコブ氏の長女として生まれた。彼女は自身のことをあまり語ったことはないが、1943年に大学入学資格試験(バカロレア)を通り、大学で法学と政治学を専攻した。そこで将来夫となるアントニー・ヴェイユと出会った。
 だがその直後の1944年3月、一家はドイツ軍によってアウシュヴィッツ=ビルケナウの強制収容所に送られ、1945年1月27日に連合軍によって解放されるまで収容された。その間に両親は殺され、生き残ったのは彼女と妹の二人だけだった。終戦1年後の1946年10月にヴェイユと結婚、判事の職に就いたあと政界に身を転じたのだった。
 ヴェイユが提出した法案は、妊娠中絶を合法化する理由を、「女性の健康を守るため」としていたが、女性問題担当の閣外相だったフランソワーズ・ジルーは、もっと踏み込んで「女性の権利」として法案を提出すべきだという考えだった。しかし下院では、議員481人のうち女性議員はわずか9名にすぎず、「女性の権利」として中絶を認めさせることは到底不可能だった。d0238372_22111390.jpg 案の定、議会はヴェイユの提案をめぐつて紛糾した。社会党など左翼は法案に賛成、政権のバックにある保守や中道の議員の多くは反対だった。議論は3日にわたって続いた。この間終始ヴェイユを支持し続けたのは大統領のジスカール・デスタンだった。
 映画は議会での議論、男性議員の無理解やあからさまな罵倒を、当時の実写フィルムをまじえて克明に再現する。それを毅然とした態度で説得するヴェイユ(写真は演説する当日のヴェイユ。彼女の役を演じたエマニュエル・ドゥボスはヴェイユによく似ていた)。こうした態度から、彼女は「毅然としたシモーヌ」、「勇敢なシモーヌ」と呼ばれた。法案は下院で辛うじて賛成多数を得た。そして1975年1月17日に行われた上院の投票でも、賛成多数で成立した。
 この法案は女性の権利拡大に大きな一歩を画した歴史的なものであり、今日では「ヴェイユ法」の名で知られている。その後ヨーロツパ議会の議長などをつとめたシモーヌ・ヴェイユは、フランスではもっとも尊敬される女性の一人である。
 なお、現在のフランスにおける中絶のあり方については、立命館大学大学院先端総合研究所、山本由美子「現代フランスにおける医学的人口妊娠中絶(IMG)と「死産」の技法」(http://www-ritsumeihuman.com)をインターネット上で読むことができる。
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by monsieurk | 2014-12-03 22:30 | フランス(社会・政治) | Trackback | Comments(1)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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