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マラルメのErotismeⅢ

 この訳書には、原著作にないものを写真複製した。それは恩師鈴木信太郎先生の翻訳原稿である。d0238372_83195.jpg
 鈴木信太郎教授が、L'Apres Midi d'un Faune を初めて翻訳し、「フォオヌの午後」と題して雑誌「明星」に掲載したのは大正11年11月のことである。このときの翻訳は断片であったが、全篇は大正13年に春陽堂から出版された『近代佛蘭西象徴詩抄』に発表され、さらに昭和五年新潮社刊の『世界文学全集第37巻、近代詩人集』から表題は『半獣神の午後』と改められた。その上で昭和14年度の東京帝国大学の演習で「半獣神の午後」を取り上げて、一行一行について厳密な解釈をほどこした。それは『半獣神の午後研究』として昭和16年に一度印刷されたが、刊行されずに破棄されてしまった。昭和21年になってようやく雑誌「饗宴」に三回にわたって掲載され、翌22年に単行本(要書房)に収録されたのだった。
 そしてその後しばらくして、『半獣神の午後』の豪華本を作る計画が持ち上がったのである。この辺の事情について、昭森社の社主で、そのかたわら豪華本を数多く出版した故森山均氏が次のように語っている。「・・・もう一つ自分の限定版書肆としての別号蘭台山房本について少し書いておこうと思う。この房号は黄眠先生〔日夏耿之介〕から贈られたもので、終戦後もこの名によって鈴木信太郎先生訳川口軌外挿絵によるマラルメの『半獣神の午後』その他を造りつつある。」(「限定版手帖」吾八刊、第2号、昭和24年10月)
 複製した原稿はこの豪華限定本のための原稿である。鈴木先生はわざわざ縦25字、横10行、上部に S. Suzukiと筆記体で印刷した原稿用紙を特注し、緑色のインクで一字一字清書されたのである。原稿には茶色の色鉛筆で、「徐扉」、「奥附」といった指定やページ数が書き込まれていて、印刷寸前まで行っていたことを示している。しかしなんらかの事情によってこの豪華本出版の計画は実現せずに終わった。あるいは川口軌外画伯の挿絵が完成しなかったのであろうか。
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by monsieurk | 2015-01-30 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメのErotismeⅡ

 詩の舞台は正午の太陽が燦々と降りそそぎ、夏の熱い風が吹くシチリアの沼辺である。「灼熱の欲望の餌食」となった牧神は、今まで二人の水の精(ニンフ)との愛に、目眩めく思いをしていたのであった。

 私の過ちは、この隠しきれない恐怖を征服した喜びに、
 神々がたくみに絡ませた乱れた髪の房を
 接吻しつつ掻き分けたことだった。
 つまり、一人の方の好ましい身体のうねりの下に
 私が熱い笑みを押し隠そうとしたそのとき(幼く、初心な、
 顔を赤らめさえしない妹の方は、燃える姉の興奮につれて、
 羽のような純白さが色に染まるようにと
 指一本で押さえていた。)
 両腕の力がわずかに抜けて、
 まったく恩知らずのこの獲物たちは、身をひるがえした、
 私がまだすすり泣く陶酔の中にあることなど意にも介さず。

 詩句の描きだす場面は直截である。薔薇の茂みの陰でレスボスの快楽に耽ける二人の水の精を見つけた牧神は、焼けるような欲望につき動かされて、抱き合ったままの二人を抱えあげて、その絡みあった下半身に接吻する。牧神の荒々しい行為に、年上の水の精は心ならずも反応するが、小さい方、まだ「純真で赤くもならない妹」の方は、欲望の爆発に酔い痴れる牧神の腕の中から、とんで逃げてしまったのだった。d0238372_155634.jpg
 「牧神の独白」をマラルメに書かせた性的な衝動が、どれほど激しいものであったかは、ここに訳出した詩句の中の、“ Mon crime fut d'avoir, ・・・, divise la touffe echvelee/De baisers que les dieux avaient si bien melee : ”といった性行為を直接思わせる表現によく現れている。
 この箇所は、決定稿では次のように改稿された。

  Mon crime, c'est d'avoir, gai de vaincre ces peurs
  Traitresses, divise la touffe echevelee
  De baisers que les dieux gardaient si bien melee:

 この下りについて、詩人の安東次男は「その背後には一組の男女のきわめてありふれた、秘められた情事、男が女の秘部の毛を接吻で以てかき分けるという、とうてい散文の表現では風儀上許されそうもないきわどいイメージが、重なり合って映っていると私にはたしかに受取れるのである。そしてこれは男女の愛に伴う媚態、秘戯の何たるかを知った人間には、右の詩句の物質感を読むかぎりさして困難な連想ではないはずである」(『ある鑑賞』安東次男著作集、第7巻、368頁)と喝破した。安東のいう「詩句の物質感」とは、いま流行の表現では「言葉のシニフィアン」を指している。フランス語を母国語とする人たちは、間違いなくそうしたイメージを抱くのである。
 こうした欲望の餌食となってシチリアの沼辺を徘徊する牧神は、マラルメの想像の中から生まれた存在ではなく、マラルメの現実の生に根ざしたものである。
 青春時代のマラルメに、女性との間に多情な関係をもった一時期があったことは、例えば1864年12月のある木曜日に、友人のカザリスに宛てた手紙の告白からも明らかである。創作の筆が進まないのを嘆いた一節で、「私は現在の魯鈍状態で、君だけが知っている青春の荒婬の手ひどい報いを受けている」と述べている。マラルメはこうした実際の性体験から、男性のエロティシズムのありようを汲みあげたのである。
 そして注目すべきことは、マラルメのエロスは、この頃からいつも決まって牧神の姿をとって表現されている点である。初期の詩篇を集めた『四壁に囲まれて』の中の一篇、「レダ、古代的牧歌」と題する習作は、野性的なエロスの横溢する作品だが、その一節に、はやくも「水の精たちは笑いながら淫らな牧神から逃れる/聖なる竪琴の一つは嘆きの節をかき鳴らし/もう一つは、ひらひらと舞う陽気な蝶をつかまえる」というイメージが登場する。このようにマラルメは少年の頃から、半ば無意識に牧神に男性的なエロスを象徴させてきた。そしてそれが1865年に『牧神』の構想を抱いたとき、牧神は生の欲望を追いつづけるエネルギーを一段と充電させて再び蘇ったのである。
 「牧神」は1876年の決定稿となるまでに、幾つかの変遷をへたことは、ネクトゥ氏の解説の通りである。その過程で最も変わったのは牧神と水の精の関係であった。「独白」では、「ニンフを抱く」という行為について、夢かあるいは錯覚ではないかという疑いこそ牧神のなかに兆すものの、水の精が存在したこと自体に疑問の余地はない。それにひきかえ、決定稿の「牧神の午後」では、水の精は牧神の夢の中に現れる美しい存在であって、それだからこそ、牧神は彼女たちを「永遠のものとしたい」と願わずにはいられないのである。
 “ est-ce un songe? ”「あれは夢か」が “ aime-je un reve? ”「俺は夢を愛しているのか」と変えられることによって、ニンフは、実体のない、牧神の内部に生起する想念へと変化したのである。こうした変化に伴って、牧神の性格も大きく変わった。「独白」の牧神が肉感的な快楽を愛してやまないリベルタンなのに対して、「午後」の牧神には、詩人としての色彩が濃厚である。「独白」の牧神は水の精との遊楽をなんとか思い出そうとするが、「午後」の牧神は、自らの夢を蘆笛の調べとしてうたうべく努力を傾注する。水の精との恋愛が夢にすぎなかったとしても、身体のうちに残っている官能のうずきは間違いなく存在していて、牧神はその感覚から出発して、詩を創造することで水の精を実在化しようとするのである。そしてこれこそ創造という行為の神髄にほかならない。
 「独白」から「午後」への変貌は、最終行にいたって判然とする。

              さらば、女たちよ、
  俺が来たときは二人組の処女だった者たちよ。

 「独白」の牧神は、こうしてあくまで現実の思い出に呼びかけるのだが、決定稿で牧神が語りかけるのは、夢の中の存在である。

  さらば、二人のニンフよ、幻となったお前たちを夢見るとしよう。

 こうして、冒頭に表明された牧神の願い、「水の精を永遠のものにしたい」という願望が、成就されるのである。
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 マネの挿絵四点をつけた豪華本『牧神の午後』は、1876年4月10日に刊行された。わずか195部の限定出版であった。マラルメはそのうちの幾冊かについて、献辞がわりの詩を添えて進呈したが、そうした一冊はさる夫人に贈られたものである。
 その扉に赤インクで書かれた交韻の四行詩は、

  Ce Faune, s'il vous eut assise
  Dans un bosquet, ce n'en serait pas
  A gonfler sa flute indecise
  Du trouble epars de ses vieux pas.

  この牧神が、貴女を茂みに
  座らせたとしても、それは彼の不実な蘆笛に
  息を吹き込むためではありますまい
  年寄ったよたよた歩きのせいなのです。

 ここにもマラルメのエロティシズムは隠されていて、これを読んだフランス人はそれを直ちに感得するはずである。それは蘆笛 fluteを gonflerするというところであって、この動詞は「膨らます」というのが本義である。その場合 fluteがなにを指すかはいうまでもない。これを訳者に譲ってくれた古書店主ヴラン氏が、「マラルメの官能的な詩」と呼んだのは当然なのである。(続)
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by monsieurk | 2015-01-27 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメのErotismeⅠ

 これから3回にわたって、「マラルメのエロティスム」を掲載する。かつて翻訳し刊行した『牧神の午後――マラルメ、ドビュッシー、ニジンスキー』(平凡社、1994年)の「あとがき」として発表したものである。本はすでに絶版で、古本もかなりの高値で取引されているようなので、「あとがき」だけでも読んでいただきたく、再録することにした。 

 パリのオルセー美術館は、1989年1月から5月にかけて、「マラルメ・・舞踏」と題する特別展を開催した。中心となってこれを組織したのは館長のネクトゥ氏で、マラルメの詩「牧神の午後」が触発した芸術の数々、とりわけドビュッシーの音楽とニジンスキーのバレー誕生の経緯を追求したものであった。そして展覧会の解説として刊行れたのがこの冊子である。
 展覧会の期間中は興味深い催しも同時に行われた。詩人でコレージュ・ド・フランス教授のイヴ・ボヌフォワ氏による講演「牧神の詩法」、ケンブリッジ大学名誉教授ジェイムス・ロイド・オースチン氏と作家マルスラン・プレイネ氏、それにネクトゥ氏が参加した討論「マラルメと諸芸術」、さらにはドビュッシーの「牧神の午後」、ラヴェルの「マラルメの三の詩」、ヒンデミット作曲の「エロディアード」の演奏などが関心を集めた。
 なかでも貴重だったのが、ニジンスキーの振付けによるバレー「牧神の午後」のビデオ上映である。d0238372_8354045.jpg これは1976年暮れから翌年にかけて、パリ・オペラ座での公演を撮影したもので、演出はマシーヌとロモラ・ニジンスキー、牧神をシャルル・ジュード、ニンフをヴェロニック・ヴィアラール、フロランス・クレルクたちが踊った舞台である。しかもこのときの公演は、このニジンスキー版のほかに、J・ロビンス振付けの現代版、さらにアメリカの舞踊団によるモダン・ダンスと、三通りの「牧神の午後」が競演されるという豪華版であった。当時パリに駐在していた訳者は、この舞台で初めてニジンスキーの振付けに接して、その官能性に圧倒される思いだった。
 パリ・オペラ座バレー団は、1992年1月に、日本でロシア・バレーの傑作「ペトルーシュカ」、「バラの精」、「春の祭典」とともに、「牧神の午後」を上演した。このときの「牧神の午後」でも、牧神をシャルル・ジュードが踊り、パトリシア・ルアンヌの演出は、ニジンスキーの振付けを忠実に守りし、舞台装置や衣装もバクスト考案のものを再現した、実に魅力的な舞台であった。牧神役のシャルル・ジュードはフランス人の父とベトナム人の母の間に生まれた人で、そのしなやかな身体は牧神に相応しく、素晴らしい舞台を出現させたのである。
 ところでネクトゥ氏の紹介の中に、ニンフが置き忘れた薄衣に牧神が恍惚として見入る終幕のシーンが猥雑だとして、削除を命じられたという下りがあるが、官憲の判断にも一半の道理はあって、バレー「牧神の午後」は大変にエロティックな作品である。そして勿論それはマラルメの原作に由来している。
 マラルメが詩のアイディアを最初に抱いたのは、1865年6月のトゥルノンであり、9月にはパリに赴いて、俳優のコクランたちの前で自作を朗読したのだった。このときの「牧神」がどんな作品だったのか。これを確定することはできない。しかし状況を考慮すれば、それは現在ジャック・ドゥセ文学文庫に所蔵されているモンドール・コレクションの一つ、「牧神の独白」に近いものであったと推定される。
 故バルビエ教授によれば、このオリジナル原稿は1873年か4年に、マラルメの手で改稿のために筆写されたもので、はたして1865年にバンヴィルたちに示された姿をどれほど忠実に伝えているかは議論のあるところだが、ト書のある106行の詩は、「牧神の午後」の前身として、はなはだ重要である。
 「牧神の独白」は次のように書きだされる。

 (腰をおろした牧神は、その両方の腕から二人のニンフが逃げるにまかせる。
                            そして立ち上がって)

  俺は水の精たちを抱いたのだ!
                それともあれは夢か? いや。明るい
  膨らんだ胸の明るい紅が動かぬ空気を
  まだ赤く染めている
          (息をついで)
           そして俺は溜息を飲むのだ。
               (足を踏みならして)
                        あの女たちはどこだ!
          (舞台の背景に向かって)
  おお、茂みよ、もし女たちを保護しているなら、
  俺に女たちを返してくれ、・・・

 こうした詩句ではじまる「牧神の独白」は、以下全106行にわたって、男性的な荒々しいエロティシズムを情熱的にうたいあげる。(続)

 追伸―今日24日の午後、慶応の三田キャンパスで、「アムバルワリア祭」の催しとして、「西脇順三郎と萩原朔太郎――二人の詩法をめぐって」と題したシンポジウムがあった。「アムバルワリア祭」は慶応で長年教鞭をとった西脇を記念して毎年行われるもので、4回目の今年は、教え子の新倉俊一名誉教授と、八木幹夫、野村喜和夫、杉本徹の三人の詩人が、それぞれの視点から、萩原、西脇両詩人を論じて大変刺激的だった。
 シンポジウムについては、後日あらためて取り上げるつもりだが、感激したのは登壇者のお一人の八木幹夫さんが、私のためにわざわざご自身の詩集『さがみがわ』(1983年)を全編コピーして、下さったことである。詩集を専門に扱う古書店に頼んでいても手に入らない幻の詩集であり、小生が読みたがっているのを知ってのご厚意である。感謝をこめてここに記させていただく。
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by monsieurk | 2015-01-24 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

朱子の「色」

 今年の世田谷の「ボロ市」は1月15日、16日開催で、初日は雨だったが、二日目は晴天に恵まれたので出かけた。交差する二筋の通りにテント張りの店が並び、昔ながらの骨董品や古着をあつかう店から、漬物や地域の名産品を売る店まで、およそ750軒が軒を連ねる。その一軒に、戦前の国語、地理、算数などの教科書を売る店があり、そこで江戸時代に版行された朱子の『論語集註 新點』の完本を見つけた。前日の雨のせいで少々湿っていたため、交渉して三割引きで譲ってもらった。
 南宋の朱子すなわち朱憙(1130-1200)は、いうまでもなく中国のもっとも偉大な儒学者であり、朱子の『論語集註』は、元、明、清の時代、さらには日本でも江戸時代には国定教科書となったために広く読まれ、大きな影響をあたえた本である。
 朱子は「論語」を孔子自身の言行記録であるとして、これを人間のありかたの規範と考えた。だが吉川幸次郎教授によれば、こうした姿勢のために、「ときどき窮屈な解釈を生むこと、その保持する形而上学の体系にひきつけて読むために、無理な解釈を生むこと、古代言語学の知識の不足が、誤解をも生むこと、いずれもその欠点であって、それらの欠点が、やがて日本では、仁斎の、ついで徂徠の、また中国では、清朝の学者たちの反撥をまねくことになる。」(『論語』、朝日新聞社、中国古典選)とされる。
 さっそく冒頭の、「子曰學而時習之不亦説乎有朋自遠方来不亦樂乎人不知而不慍不亦君子乎(子曰わく、学びて時に之れを習う、亦た説(よろこ)ばずしからず乎。朋有りて遠方より来たる、亦た楽しからず乎。人知らずして慍(いか)らず、亦た君子ならず乎」から読みはじめた。
 そして學而篇の、「子夏曰賢賢易色事父母能竭其力事君能致其身與朋友交言而有信雖曰未學吾必謂之學矣(子夏曰わく、賢を賢として色に易(か)え、父母に事(つか)えて能く其の力を竭(つ)くし、君に事(つか)えて能く其の身を致し、朋友と交るに、言いて信有らば、未まだ学ばずと曰(い)うと雖(いえど)も、吾れは必ず之れを学びたりと謂わん。」まで来て、吉川幸次郎教授の説くところ思い至った。
 問題は、「賢賢易色」の解釈である。朱子の注は、「子夏孔子弟子姓卜名商賢人之賢而易其色之心好善有誠也・・・(子夏は孔子の弟子、姓は卜、名は商。人の賢を賢として、其の色を好むの心に易(か)えるは、善を好て誠有るなり。・・・)」となっている。
 先に引用した「論語」本文の読み下しは、吉川教授の『論語』によるものだが、この点について、教授は次のように注している。
 「賢を賢として色に易(か)えよ、もしくは、賢を賢とすること色の易(ごとく)せよ、つまり、賢人を賢人として尊重すること、美人を尊重するごとくなれ、というのが古注、すなわち、二、三世紀の漢魏人の、解釈である。また、賢を賢として色を易(あら)ためよ、つまり、賢者に遭遇した場合は、それを賢者として尊重すること、はっと顔色を易(か)えるほどであれ、というのが、それにつぐ時代である六朝人の解釈であり、わが仁斎の「論語古義」、荻生徂徠の「論語徴」、ともにそれを祖述する。さらにまた、賢を賢として色を易(かろ)んぜよ、賢人は尊重せよ、美人は軽蔑せよ、というのは、儒学に厳粛の気の加わった、十一、十二世紀、宋の朱子の新注の説である。私の学力では、どれがよいとも、定めかねるが、元来の儒学には、欲望を否定する思想は少なく、したがって女色は、否定されていないから、しばらくは、賢を賢とすること色よき美人のごとかれ、という、古注の説に従っておく。」(同前)
 孔子が説いた本来の儒学では、女色は否定されてはいないという点は注目すべきであり、それが否定されるきっかけとなったのが、朱子の新註だったわけである。
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by monsieurk | 2015-01-21 22:30 | | Trackback | Comments(0)

鈴木信太郎「ステファヌ・マラルメ詩集考」

 いま雑誌「ユリイカ」(青土社)に、ステファヌ・マラルメの詩篇の翻訳を連載している。翻訳のもとになるフランス語のテクストは、1998年にガリマール社のプレイアード叢書として刊行された、ベルトラン・マルシャル編纂になる『マラルメ全集Ⅰ』(Mallarmé: Œuvres complètes Ⅰ. édition présentée, établie et annotée par Bertrand Marchal, Bibliothèque de la Pléiade, Gallimard,1998)に収録されたものに拠っている。これはマラルメの死後100年を記念して刊行された新たなマラルメ全集で、詳細かつ正確を期したものである。
 ただマラルメの詩のテクストに関しては、半世紀以上前に、鈴木信太郎先生によるテクスト・クリティック(本文批判)が行われていて、私たち日本の研究者はその恩恵に浴してきた。写真がその『ステファヌ・マラルメ詩集考』で、上巻は1948年9月、京都にあった高桐書院から、下巻は2年後の1951年4月に、東京の三笠書房から刊行された。d0238372_922077.jpg
 出版を企画したのは東京帝国大学仏文科で鈴木の教えを受けた淀野隆三で、上、下巻が別々の出版社なのは、淀野が発行人をつとめていた高桐書院が1948年に経営破綻し、その後淀野は三笠書房へ移り、企画を継続させからである。
 鈴木先生の『マラルメ詩集考』は、もともと学位論文として執筆されたものである。これについてご子息の鈴木道彦氏は、『フランス文学者の誕生 マラルメへの旅』(筑摩書房、2014年)で、こう述べている。
 「それら〔戦前の仕事〕のなかで特筆すべきものは、昭和十八年(一九四三)に東京帝国大学に提出された学位論文『ステファヌ・マラルメ詩集考』である。これは戦後に出版され、信太郎の主著と言ってもよいものになったが、マラルメの詩について可能は限りすべての異本を検討し、それらを厳密に比較して、あるべき『マラルメ詩集』とはどういうものかを探った研究である。
 信太郎がこのような研究方法に着目したそもそものきっかけは、大正十二年(一九二三)頃、絶版になっていたチボーデの『ステファヌ・マラルメの詩』をヴラン書店から入手して、「不遇の魔〔不運〕」という詩篇に夥しい異本があるのを知ったことにある。その後、昭和四年(一九二九)に発表されたマラルメの女婿の論文で、ほとんどすべての詩に数多くの異本があることが分かり、マラルメの詩の研究には、これらを精査することが不可欠であることを痛感したという。」、「これら〔詩のテクスト〕を文字通り一点一画も忽せにすることなく、厳密に検討し、それぞれの版について、カンマの有無、誤植の有無、行空きの有無、マラルメの書き癖の再現の仕方などの異同を指摘し、どのテクストに拠るべきかを述べたのが、この論文である。ここでは詩の分析や鑑賞ではなく、ひたすらテクストはどうあるべきかが問われていた。しかも問題になるのはフランス語原詩のテクストなのだから、これは専門的にマラルメを研究する者のみに向けた論文であり、本来ならフランス語で書かれるべき種類のものだった。」d0238372_94888.jpg
 この『ステファヌ・マラルメ詩集考』の出版のための清書原稿を、神田の古書店で入手したのはいまから10年ほど前のことである。それは200字詰め原稿用紙1464枚からなるが、清書をした人が誰かはいまのところ分からない。d0238372_955249.jpg
 学位論文として提出されたものを出版用に清書したものと思われ、フランス語のテクスト部分は、写真のようにタイプライターで打たれている。
 さらに鈴木先生自身による推敲、加筆も若干なされていて、さらに版元の赤鉛筆により指示も記入されている。そして本文とは別に「後記」が書かれているが、これは明らかに鈴木先生ご自身の書体である。最期には、
「戦災は蒙ったが本は焼かれなかった書庫に於いて、
 一九四七年一月二十一日」
と書かれている。
 『ステファヌ・マラルメ詩集考』は、マラルメの詩のテクスト確定作業のさきがけであり、道彦氏も指摘しているように、この研究がフランス語で発表されていれば驚異をもって迎えられ、世界のマラルメ研究を一歩も二歩も前に進めていたに違いない。いずれ歴史的な価値をもつこの生原稿は、どこかに寄贈したいと考えている。
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by monsieurk | 2015-01-18 22:30 | 収穫物 | Trackback | Comments(0)

小林秀雄と「類推の魔」Ⅳ

 散文詩「類推の魔」で語られているのは、詩の誕生をめぐる機微といってよいが、それは常識とは逆に、イニシアティヴを握っているのは詩人の意識ではなく、楽器のようになった詩人の身体、それに共鳴するある感覚、そしてそれが音として翻訳された言葉なのである。
 この点で、詩人と語との関係は完全に逆転しており、詩人が語に主導権を譲り渡す事態が生じている。こうした事態は、彼が「エロディアード」や、美をめぐる思索に没頭していたときにしばしば起ったことで、語が次第に音と意味とに分離していく体験も、この散文詩が生まれるきっかけとなったとも推察される。
 「類推の魔」はここで完結することもできたはずである。だがマラルメは最後にもうひとつの超自然的なエピソードを書き加えた。ただここで展開される神秘体験が、実際に彼の身に起こったことなのか、あるいはロバート・グリア・コーンが主張するように、奇怪な印象を強調するべく、エドガー・ポーの短編小説の手法に倣ったフィクションであるかどうかは、にわかには判断し難い。

 「すると、なんと恐ろしいことか!―― たやすく推論しうる神経性の魔術によって ―― 一軒の店のショーウインドーに映った私の手が、何物を上から下へと愛撫する仕草をしており、私は自分がまさしくあの声(それこそ疑いもなく唯一のものであった最初の声)を有しているのだと感じたのである。
  だが、超自然的なものの避けられない介入が起こり、つい先ほどまでは支配者として君臨していた私の精神の死にいたる苦悩が始まったのは、本能的にたどって来た骨董店の立ち並ぶ通りで、ふと眼を上げて見ると、自分が壁に吊るした古楽器を売っている弦楽器店の前にいて、その床には、黄ばんだ棕櫚と古の鳥たちが置かれ、その翼が闇のなかに埋もれているのを認めた時だったのである。恐らくは、あの説明のつかない「ペニュルティエーム」の喪に服する宿命を背負った人間として、奇態にも、私はその場から逃れ去った
。」

 気がついてみると、詩人は骨董店が並ぶ通りに差しかかつて、ある一軒の店の前で立ち止まっていた。そしてショーウインドー(これは詩篇「窓」のときのように、店内を見せるガラスであるとともに、立ち止まった姿を映す鏡でもある)の中を見ると、壁には弦を張った古楽器合が吊るされ、半ば陰になった床には黄ばんだ棕櫚と鳥の羽が置かれているのを眼にしたのである。しかも詩人はショーウインドーのガラスに映った自分が、まるで弦を撫で下ろすような仕草をしているのを眼にして愕然とした。これこそ「ペニュルティエームは死んだ」という最初の文句が予言したイメージが実現したものに他ならない。すべてはあの言葉から出発して、言葉に内包されていることが次々に実現し、詩人はそれに操られるように発話し、行動していたことになる。こうした既視感を前にしては、理性による説明はもはや不可能である。詩人は死にいたるような苦しみを抱きつつ、その場から逃げ去る以外になかった。d0238372_8324790.jpg 
 この最後の部分で語られている事態こそ、イヴ=アラン・ファーヴルが指摘しているように、やがてアンドレ・ブルトンたちシュルレアリストが発見する「客観的偶然(hazard objectif)」 と呼ばれるものである。
 ブルトンは1934年5月29日の夜に、二番目の妻となるジャクリーヌ・ランバに出会うが、彼によればこの出会いのすべてが、11年前に刊行した詩集『地の光(Clair de Terre)』 に収録された自動筆記による詩「ひまわり(Tournesol)」に、そっくり描かれていたという。 
 ブルトンは「類推の魔」をマラルメの「貴重な打ち明け話」だとして、「自分だけに告げられた書くという行為の秘密だ」と語り、このように後に起こる現実を詩が先取りしている事態を、ブルトンは「客観的偶然」と名付けた。マラルメはブルトンより半世紀以上前に、この奇妙な符号を「類推の魔」で描いていたことになる。
 類推とは、想像力によって二つあるいはそれ以上の対象の間に確立された類似であり、マラルメがこの能力に長けていたことは多く人々が証言している。後年のことだが、マラルメに親炙したカミーユ・モークレールは、「彼が持っていた信じがたいほどの特殊な能力は、類推のそれであった。彼は世界の無限の豊穣さを感得する大きな力を生来もっていたから、彼の精神にとっては、なにひとつとして切り離されて現前するということはなかった」と述べている。これこそが「類推の魔」であって、ここから「詩人は語に主導権を譲る」という驚くべき逆転が起こったのである。
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by monsieurk | 2015-01-15 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

小林秀雄と「類推の魔」Ⅲ

 「私は通りに歩を進め、ニュル nul という音のうちに、楽器のぴんと張られた弦を認めた。この楽器は忘れられていたのだが、栄光ある「思い出」がいま確かにその羽根、あるいは棕櫚の小枝で、触れたのだった。神秘の巧妙なやり方の上に指をおいて、私は微笑を浮かべ、知的な願いをこめて別の推測を切望した。」

 
 詩人はなぜ弦の上を翼(弓)が滑るような感じを得たのか、その理由を考えようとする。するとpénultième という単語の中に含まれる nul という音が、ぴんとはった弦を連想させることに気づいた。しかし、実際に起こった過程はこの逆で、ぴんと張った弦の感覚からペニュルティエームという単語が浮かんできたのである。
 こうして「ペニュルティエームは死んだ」という奇怪なフレーズが思い浮かんできた原因の一端をつきとめ、それが本人の意志とは無関係な心の仕組みにあることを得心した。この成果に一度は満足して、「私」は微笑を浮かべる。しかしそれでも依然として居心地の悪さは解消されない。そこで知性を働かせて、自らの体験を論理的に究明しようとする。

 
 「潜在的な、例のフレーズは先の羽根か小枝の落下から解放され、その後は耳に聴こえる声を通し戻ってきて、それ自身の個性で生きながら、ついにはひとりでに分節されるまでになった。私は(もはや知覚では満足することができなくなって)それを詩句の終わりで朗読してみたり、一度は試しに、自分の普段の話し方にあてはめてみたりした。やがて「ペニュルティエーム」のあとにちょっとした沈黙を置いて発音してみた。するとこの沈黙のなかに苦痛に満ちた喜びを見出した。つまり、「ペニュルティエーム」と言って、次いで「ニュル」という音のうえで、忘却のうちにあれほど張りつめていた楽器の弦はおそらくは切れてしまい、私は祈りのように「は死んだ」とつけ加えたのだった。」

 
 奇怪なフレーズは、いまやはっきりと、声として耳に聴こえるまでになる。もちろんこれを発音しているのは詩人である「私」自身なのだが、それはあたかも他人の声のような確固なものとして聴こえてくる。この矛盾した事態に混乱した彼は、奇怪なフレーズを、詩作するときの普段のやり方でさまざまに発音してみる。これは主導権を言葉から取り戻す努力でもある。しかしこのフレーズはそれ自体が自存するもののように、「ペニュルティエーム」の後に一瞬のポーズを強要し、そこで緊張が切れて、「は死んだ」を、祈るように続ける以外の調子はあり得ないことが分かる。詩人は主体性を語に奪われてしまったかのようである。そしてこの調子で発話してみると、途中に置かれた一瞬の沈黙のなかに「苦痛に満ちた喜び」が感じられたというのである。それはなぜか。
 pénultième という単語には、nul (無の)という単語の他にも、この言葉を構成する音素の組み合わせから、楽器となった詩人に触れたとされるplume (羽)、aile (翼)が含まれていて、これらはいずれも事態の発端にあった下降=滑空の感覚に対応するものである。さらに母音の〈a〉を加えれば、palme(棕櫚)を取り出すこともできる。
 plume は詩句を書きとる「ペン」でもある。さらに、ここに欠けている[a]と[o]の音を補うと、詩人の身体にほかならない「楽器」を訪れたとされるpalme(棕櫚)や、枝=弓もしくは羽=ペンを握るpaume (手のひら)さえ隠されていたことが分かる。
 その上ここには nu (裸の)という形容詞が隠れている。そもそも pénultièmeという単語が女性名詞(それを強調するように女性形を示す定冠詞 la が添えられている)であり、それと nul (無の)という形容詞が相まって、亡くなった女性が暗々裏に想起されているとも考えられる。
 そしてpénultième という語の中心にある nul は、その鋭い緊張した音がヴァイオリンのぴんと張った弦の印象を与えるだけでなく、「無の」という語意によって、なんらかの「死」へと結びつく。「苦痛にみちた喜び」の感情は、おそらくそこから来ているのであろう。だから詩人である「私」は、祈るように、「は死んだ」とつけ加えるのである。
 このように知覚レヴェルでは一応満足できる説明にたどり着いたが、これだけでは「私」は満足できない。そこでさらに論理的な解明の努力が続けられる。

 
 「私は好みである思惟へ立ち戻る試みをやめず、自分を落ち着かせるためにも、確かに、ペニュルティエームとは語の最後から二番目の音節を意味する辞書にある用語であり、それが現れたのは、私の高尚な詩的能力が日々中断されてはすすり泣く原因となっている語学上の労苦が払拭しきれずに残っているからだと、主張しようとした。」

 
 「ペニュルティエーム」という単語は、いわばその意味を考えるまでもなく自然に浮かんできたのだが、語意を知るためにあらためて辞書を繰ってみれば、これはラテン語のpaene(殆ど)とultimus(最後の)が合体したもので、「終わりから二つ目の」を意味する。
 日常生活では地方のしがない学校の教師である詩人は、詩作に打ち込もうと努力するが、しばしば校務でその仕事を中断され、高尚な詩的能力が発揮できずにすすりなく状態が続いている。言葉をめぐるこうした苦労(「語学上の労苦」とは詩作の苦しみだけでなく、1866年から翌年にかけて取り組んだ言語研究を指しているとも考えられる)が成就しないために、詩句に関して、脚韻から一つ前の音節を意味する語が出現したのだと考えようとした。そうすることで、思っても見なかった文句が不意に口をついて出た現象を、論理的に説明できたかに思えた。

 
 「この語の響きそのものと、安易な性急さに伴う虚言じみた感じが、煩悶の原因だったのだ。執拗に憑きまとわれて、私はついにこの悲しい性質の語たちが私の口のうえをさまようままに任せることにした。そして、哀悼の意が感じられるイントネーションでもって、「ペニュルティエームは死んだ、それは死んだ、すっかり死んだ、絶望したペニュルティエームは」と、つぶやきながら歩いた。そうすることで不安を鎮められると思い、さらにはもっと一本調子に唱えることで、これを葬ってしまいたいというひそかな期待がないわけではなかった。」

 
 マラルメが実際に体験した事態は、以上のようなものであったと推察される。
 ロバート・グリア・コーンは Mallarmé’s Prose en Poems, Cambridge University Press,1987.で、「この結晶過程こそが作品の要点である、・・・それはマラルメの心の働きがいかなるものであるのか、もつれ合う諸々の言葉とイメージの引力作用を通して、誌的現実が発展していくかを示している」と語っている。またステンメッツは、「この言葉〔無意識〕は、1869年以降、〔ドイツの哲学者〕ハルトマンの『無意識の哲学』に帰せられるものであり、この本は象徴主義者たちには知られていたが、そこからは何も進展せず、やがてフロイトの発見、無意識という特別な用語となるのである。1880年頃になって、潜在意識という言葉がピエール・ジャネによって広く用いられ、彼の仕事はオートマティスムの発見と直接かかわることになる。ただ、マラルメはそれをずっと前に発見していた」と指摘している。(続)
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by monsieurk | 2015-01-12 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

Je suis Charlie

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 1月9日、南フランスの都市トゥールーズに住む娘から電話があった。「今度の事件はいつ何処で起るか分からないし、不安はある。でもこうした事件を二度と起こさせないためには、私たちは決してテロに屈しないという意思表示をすることだ。表現の自由を守るために立ち上がるフランス人は立派だし、誇りに思う」と話していた。
 そして、これからフランス人の夫と大学生と高校生の2人の娘とともに、「Charlie Hebdo」事件への抗議のための集会に参加するということだった。
 その後の報道によると、1月10日土曜日の午後2時30分から、自主的な呼びかけによる集会がトゥールーズ市の中心である、ジャン・ジョレス通りと市役所前のキャピトル広場で開かれ、10万人をこえる人たちが集まったという。
 この日は同様の集会が、ナント、ポー、ニース、オルレアンなど各都市で行われた。夕方に内務省は、フランス全土で70万人が集会に参加したと伝えた。写真は集会のなかで掲げられた一枚のプラカードで、「風刺(カリカチュア)、それは私たちの文化だ!!! シャルリー・エブドに連帯を。決して絵筆を棄てはしない」と書かれている。d0238372_824594.jpg
 参加者の多くは、「Je suis Charlie(私がシャルリー)」という、黒地に白で文字が書かれた紙を掲げていたが、これは無料配布のファッション・マガジンのアート・ディレクター、Joachim Roncinが、事件発生の1時間後にインターネットに掲載したもので、たちまち世界中に広まった。Charlieはもちろん襲われた新聞社の名前だが、そもそもはチャーリー・チャップリンのファーストネームで、新聞社も彼の風刺精神にちなんで命名したものである。デモの参加者のなかには、同じプラカードを掲げたスカーフ姿のイスラム教徒の若い女性たちも多く見かけられたという。
 渡辺一夫先生のエッセーに、「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という長いタイトルの一篇がある。「寛容と不寛容とが相対峙した時、寛容は最悪の場合に、涙をふるって最低の暴力を用いることがあるかもしれぬのに対して、不寛容は、初めから終わりまで、何の躊躇もなしに、暴力を用いるように思われる。今最悪の場合にと記したが、それ以外の時は、寛容の武器としては、ただ説得と自己反省しかないのである。従って、寛容は不寛容に対する時、常に無力であり、敗れ去るものであるが、それはあたかもジャングルのなかで人間が猛獣に喰われるのと同じことかもしれない。ただ違うところは、猛獣に対して人間は説得の道が皆無であるのに反し、不寛容な人々に対しては、説得のチャンスが皆無ではないということである。そこに若干の光明もある。」、「人間を対峙せしめる様々な口実・信念・思想があるわけであるが、そのいずれでも、寛容精神によって克服されないわけはない。そして、不寛容に報いるに不寛容を以てすることは、寛容の自殺であり、不寛容を肥大させるにすぎないのであるし、たとえ不寛容的暴力に圧倒されるかもしれない寛容も、個人の生命を乗り越えて、必ず人間とともに歩み続けるであろう、と僕は思っている。」(岩波文庫「渡辺一夫評論選 狂気について」)
 テロに屈しない強い姿勢とともに、寛容の精神を決して失わないこと、それが求められている。
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by monsieurk | 2015-01-11 09:00 | 時事 | Trackback | Comments(2)

小林秀雄と「類推の魔」Ⅱ

 「類推の魔(Le Demon de l'Analogie)」は、マラルメの散文詩のなかでも重要な作品のひとつで、多くの評者が解釈につとめてきた。従来、この作品も他の初期散文詩とともに1864年にトゥルノンで創作されたとされてきた。d0238372_9545271.jpg だがこの事実を確認する資料は存在しない。むしろ内容からみて、「エロディアード」の創作にはじまる精神的動乱のなかで、マラルメが体験した奇妙な現象を、そのまま散文詩の形で描いたとも考えられるのである。
「類推の魔」はヴィリエ・ド・リラダンの求めに応じて、1867年9月に雑誌「文芸・芸術評論」へ、幾つかの散文詩とともに送られたが掲載されず、初出はシャルル・クロが主筆をつとめる「新世界評論」の1874年3月1日号となった。こときのテクストと、『ディヴァガシオン(Divagation)』に掲載されたものとの間では、冒頭の2行の他に、2つの単語の修正、1箇所のダッシュ記号の追加、それに句点の位置の変更が6箇所ある。
 最近の研究では、ジャン=リュック・ステンメッツが、これを「オートマティスムへの序奏」と捉え、イヴ=アラン・ファーヴルも、「ここにあるのは、のちにシュルレアリストたちが客観的偶然と呼ぶことになるものの完璧な例証である」と評価している。
 散文詩は次のように始まる。初出のテクストによって訳してみる。

 「かつて君たちは、君たちのくちびるの上で歌をうたった未知なる言葉を得たことがあったか、ばかげたフレーズの呪われた断片を。」

  詩人とおぼしき主人公は、楽器の弦のうえを滑る翼に固有の、引きずるような、軽やかな感覚を抱いて自分のアパルトマンを出た。その感覚に、「ペニュルティエームは死んだ」という言葉を尻下がりの調子で発するひとつの声がとって代わった。

  「         ラ・ペニュルティエーム

 で詩句は終わり、そして

            は死んだ
                は、意味の欠落で一層無益になっていく運命的な中断により、自分自身から切り離されていた
。」

 マラルメは冒頭で詩の主題を以上のように提示する。それは自分の知らない言葉の切れ端が頭に浮かび、それが執拗にまとわり憑き、しかもそれが口をついて出るという奇妙な体験である。
 「私」は先ずある微かな感覚を身内に感じている。それは弦楽器の弦を、翼のようなもので擦ったときに似た感じなのだが、この感覚はすぐに、「ペニュルティエームは死んだ」 La Pénultième est morte という意味不明の言葉に取って代わられ、それが本人の意志とは関係なしに、尻下がりの調子で口をついて出たのである。しかもこのフレーズは2行にわたる詩句の断片のように、「ラ・ペニュルティエーム」が脚韻の位置にあり、「は死んだ」は次の行頭に置かれている形で発音されたというのである。
 この記述からすぐ思い出されるのは、「心で仕事をしよう」という友人ルフェビュールに伝えた決意である。この頃のマラルメにとって、自らの身体をヴァイオリンのような楽器に擬えるのは、いわばオブセッションであって、ここでもそうしたイメージが表明されている。彼は身体を感覚に鋭敏に共鳴する楽器のような状態に保つことで、そこから世界の真実(あるいは美)を読み解く素材を得ようとした。その結果生じたのが上記の感覚であり、奇怪な言葉だった。
 しかしこうした事態は、創作の過程で偶然を排除しようとする立場からすれば、居心地の悪いものであり、詩人は違和感を抱きつつ通りを歩き始める。そしてここから、「類推の魔」をめぐるドラマは始まる。(続)


 
 
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by monsieurk | 2015-01-08 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

小林秀雄と「類推の魔」Ⅰ

 昨年暮れに、新潮文庫から『この人を見よ、小林秀雄全集月報集成』が刊行された。副題の通り、創元社版全集にはじまり、新潮社の三次にわたる全集の月報を集めたものである。多くの人が小林秀雄の人や文学、あるいは思い出を語っているが、そのなかに東大フランス文学科で小林秀雄を教えた鈴木信太郎教授の「『類推の魔』の思出」が載っている。新潮社の第三次全集第一巻の月報(1967年・昭和42年11月)として書かれたもので、単行本『虚の焦點』(中央大学出版会、1970年・昭和45年)にも収録された。書き出しは次のようなものである。d0238372_16162510.jpg
 「――小林秀雄さんの大学時代の風貌など書いてくれませんか。
 と、電話で頼まれて、小林君のことだから何か書けるだろう、又、書きたいものだ、と咄嗟に感じて引き受けたが、さて書こうとすると何も覚えていない。それはその筈である。彼は何処かに引籠って勉強していて、大学へは出て来ないのだから、顔の覚えようもなかったのだ。そこで原稿は書けないと、翌日電話で断って置いて、改めて東大生としての小林君の姿を追想してみると、私がはっきりと認識しているのは、卒業直前の口述試験を研究室でやって、アンベルクロード先生がいろいろと質問して苦しめたのを、辰野隆と私が立会って聴いていた時である。それだけである。」d0238372_16192776.jpg
 そして文章は次のように続く。「それから四十年に近い歳月が経った。その間に私の家は戦災で母屋と書庫の屋上とを焼かれたが、書庫だけは残った。これに手を入れて今まで居住して来たが、家の主体が書庫であるから、書いたものは皆その中に在った。特に私宛ての手紙などで、微かにでも気に懸るものは、破り捨てず、さりとて整理もせず、ただ本箱に抛り込んで溜めて置いた。恐らくそういう中に、小林君のレポートも隠れているような気が、いつの間にかし始めた。」
 こうして鈴木先生は暑い一日、本や手紙を整理しながら探し始める。探そうとしていたのは、小林がある年の試験で、ステファヌ・マラルメの散文詩「類推の魔」について書いたリポートである。この試験の経緯については、『記憶の蜃気楼』(文芸春秋社、1961年・昭和36年)に収録された「教師冥利」という随筆でこう書かれている。
 「小林は普段講義になんか出て来ないが、試験には顔を出し、ある時の答案に「こんなくだらない問題には答へられねえ」と書いた。そこで私は零点をつけたが、翌年の試験の「マラルメ、類推の魔について」といふ問題には、如何なるフランスの文学者よりも立派な解説を書いた。私は「類推の魔」の本質について、完全に教へられて、すっかり敬服し、満点をつけた。そして去年の出題が愚劣であったことを一年振りで納得した。はなはだ鈍根である。」
 鈴木先生を感心させた小林秀雄の答案とはどんなものだったのか。「『類推の魔』の思出」に、その一部が引用されている。
 「〈・・・僕はこの間、ベルグ[ママ]ソンの『フォス・ルコネッサンス』(誤った再認、或は、疑似記憶)に関する論文を読んで、このマラルメの『類推の魔』が大変面白かった。・・・(ベルグソンによると)・・・〔中略〕知覚と記憶とは同じ能力の両面に過ぎぬ。人間が生きている限り知覚は休みなく前方に走る。記憶はこの尻にぶら下って同じ速力で追って行く。この知覚が瞬間進行を止めた時記憶が惰性で前にのめる。そこで疑似記憶という現象が起る・・・〔中略〕
 さて僕が非常に面白いと思うのは、マラルメ原文の最後の処「然しながら、超自然の不可避な干渉の・・・」以下の解釈である。これをベルグソンの疑似記憶の説明から解することは出来ないだろうかと考えて見た。チボーデの此の処の解釈は頗る苦しい。・・・〉
 こう述べてから、この時に於けるマラルメの思索過程の迅速さと、魂の緊張と眩暈とを点検して、疑似記憶の可能性に言及し、これがマラルメが「魔(デモン)」と呼んだのだと解釈した。
 これはチボーデの解説よりも遙かに説得力があり、フランス批評家の誰も言わぬ説であり、ヴァレリーさえこの小林説より後年、一九三七年に、律動と歩行と観念産出とを、マラルメの名を挙げずにその思考を、そのまま引き写しにして発表したりしているが、嘗て青年時の小林君のデモンの説の方が遙かに面白い。これが彼の『様々なる意匠』よりも更に以前に私を敬服せしめたのであった。
 然もそのレポートの最後に、青年学徒の純粋さから、ポツンと一行、遅刻して申し訳がありません、と書かれていた。それに続いて私の赤鉛筆の、きたならしい乱れ書きで、
「非常に面白い。遅刻より僕の方でこれを読んだ」ことがうれしい」
 と、余計な感想が書かれていた。」
 小林秀雄の解釈が、これほど鈴木先生を感服させたマラルメの「類推の魔」とは、そもそもどんな散文詩だろうか。(続)
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by monsieurk | 2015-01-05 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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