フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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詩を訳すとはⅥ

 堀口大學の『対訳 フランス現代詩研究』から次に取り上げる一篇も、ポール・ヴァレリーのよく知られる詩で、詩集『魅惑(Charmes)』所収の「失われた酒(Le vin perdu)である。d0238372_6441173.jpg

J’ai, quelque jour, dans l’Océan,
(Mais je ne sais plus sous quells cieux),
Jeté, comme offrande au néant,
Tout un peu de vin précieux・・・

Qui voulut ta perte, ô liqueur ?
J’obéis peut-être au devin ?
Peut-être au souci de mon cœur,
Songeant au sang, versant le vin ?

Sa(1) transparence accoutumée
Après une rose fumée(2)
Reprit aussi pure la mer・・・

Perdu ce vin,(3) ivres les ondes !(4)・・・
J’ai vu bondir dans l’air amer(5)
Les figures les plus profondes(6)・・・

これに堀口大學は次のような注釈をほどこしている。

(1)第三連の sa はla mer《海》のajectif possessif.
(2)après une rose fumée《桃色の煙をたてた後で》――碧い水に一度きり桃色を発して消えてきまうた。
(3)Perdu ce vin=ce vin est-il perdu ? 《一体、この酒は失われたのか?》《この酒は無駄だったのか?》さにあらず、何故なら、
(4)ivres les ondes !=les ondes sont ivres ! 《波は酔ひたり!》
(5)l’air amer ――《海の風、潮風》の意。《海の波》のことをles ondes amèresと云ふ。
(6)les figures les plus profondes――《広大無辺のものの姿》

そして日本語訳――

 失われた美酒

一と日われ海を旅して
(いづこの空の下なりけん、今は覚えず)
美酒少し海へ流しぬ
「虚無」に捧ぐる供物にと。

おお酒よ、誰か汝が消失を欲したる?
あるはわれ易占に従ひたるか?
あるはまた酒流しつつ血を思ふ
わが胸の秘密の為にせしなるか?

つかのまは薔薇いろの煙たちしが
たちまちに常の如〔ごと〕すきとほり
清げにも海はのこりぬ・・・

この酒を空〔むな〕しと云ふや?・・・波は酔ひたり!
われは見き潮風のうちにさかまく
いと深きものの姿を!

 これを岩波文庫『フランス名詩選』(1998年)所収の安藤元雄氏の訳と比べてみよう。

消えうせた葡萄酒

いつだったか、私は、大海原に、
(どこの空の下だったかは忘れたが)
そそいでやった、虚無への捧げ物として、
ほんの少しの 貴重な葡萄酒を・・・

誰がおまえを捨てたりしようか、おお、酒よ?
あるいは私は占い師に従ったのか?
それとも 心の不安にかられながら、
血を流す思いで葡萄酒を流したか?

いつもながらの透明さを
一陣の薔薇色の煙のあとで
あんなにも純水に 海はふたたび取り戻し・・・

この葡萄酒の消えたとき、酔ったのだ 波が!・・・
私は見た 潮風の中へ躍り出る
底知れぬものの形の数々を・・・

 この岩波文庫の『フランス名詩選』では、フランス語の原テクストと翻訳が対置されていて、フランス語を解する人への配慮がなされている(ちなみに岩波文庫に収められた英、米、独の『名詩選』、ポー、バイロン、ブレイクなどの個人詩集でも同様の編集方針が貫かれている)。
安藤元雄氏の訳は、この詩をいま読むフランス人が汲み取るであろう意味を、日本語に正確に反映した優れた翻訳といえる。ただ一つ如何ともしがたいのは、ヴァレリーが苦心して原詩にほどこした脚韻の効果である。
原テクストを一読すれば明らかなように、この詩は4、4、3、3行の4節からなるソネット形式をとり、脚韻も第1節は順に、ocean, cieux, néant, précieux と、a / b / a / b、第2節は、liqueur, devin, cœur, vinと、c / d / c / d、第3節と4節は、accoutumée, fumée, mer, ondes, amer, profondes、e / e / f / g / f / gと見事な韻を踏んでいる。しかも韻を整えるヴァレリーの工夫に少しの無理もなく、音読する者はそこからえもいわれぬ心地よさを感じることができる。堀口訳、安藤訳はともに音調を整えるための苦心が払われているが、残念ながら、原詩の押韻の妙までは写し取ることは出来ない。
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by monsieurk | 2015-02-26 22:30 | | Trackback | Comments(0)

詩を訳すとはⅤ

 堀口大學の名訳詩集『月下の一群』は、長谷川巳之吉が創設した「第一書房」から、1925年(大正14年)に出版された。フランス近代の詩人66人の、合計339篇の詩を収めたこの訳詩集は、変型の菊版760頁。詩篇のほかに、友人の長谷川潔の木版による口絵一点と、収録した66人の詩人の肖像を挿画として載せていた。背革天金の豪華な装丁で、初版は1200部、定価4円80銭と、当時としては破格の豪華本だった。d0238372_7293663.jpg
 この一冊によって詩の翻訳家堀口大學は世に知られることとなったが、大學はそれから7年後の1932年に、同じ第一書房から『対訳 フランス現代詩研究』を出版した。これはいわば翻訳の手の内を示すもので、愛唱してやまないフランス詩人10人の詩66篇の原詩と翻訳、それに主要な語句の解釈を示したもので、いわば翻訳の手の内を示すものであった。
 大學は「序」で、次のように書いている。「詩はもともと味ふ可きものであって、理解さる可きものではないかも知れない。然しまた多少の理解なしには十分に味ふことの出来ない詩も確かにある。云ひかへれば、理解が味ふことの必要な過程となってゐる場合が少なくない。少なくとも、文字以外、または文字と文字との間に現はれるその詩の事情を判然と見極めることに依って、俄然妙味が読者に感じられる詩が随分ある。殊にこの事実は、近時の詩に多い。これは近時の詩人等が、詩の技法に苦心し、表現に深く意を用ひる結果、彼等が極端に説明にやぶさかになったによることだが、また詩法上の大きな進歩であることも否み難い。しかもこの場合、進歩は一つの淘汰である。高所を目差す近時の詩が、一般人にとって、いよいよますます難解になって来るのも実にこの理由である。然しそれは難解であって、決して不可解や出鱈目ではない。作者が、読者の智能及び連想作用を、自己と同等またはそれ以上であると予想して詩を書いてゐるからである。(中略)
 然し、吾等にも、その作者が意図し、表現したその詩に近づくことは出来る。近時の詩の味ひ方は、その作品に及ぶ限り近づかうとする努力であり、意志であるかもしれない。作者だけが持ってゐるその詩の合鍵を、及ぶ限りのあらゆる智能上の手段方法をつくして発見しようとするパッズルであるかも知れない。(中略)
 まして、われわれ日本人が、普通の文学的教養を持った仏蘭西人にも解り兼ねるやうな作品に対する時の困難は思ひやられる。実に十倍二十倍だ。第一言葉に対する理解が違ふ、生活が違ふ、伝統が違ふ、歴史が違ふ、固有名詞の表情に対する感受性が違ふ・・・等々々。
私は詩に対する自分の愛に導かれて、二十年来、日夕この困難と闘って来た。」
まずは、ポール・ヴァレリー(Paul Valéry、1871-1945)の「蜂 L’Abeille(1)」――

Quelle, et si fine.,et si mortelle,
Que soit ta pointe,(2) blonde abeille,(3)
Je n’ai, sur ma tender corbeille,(4)
Jeté qu’un songe de dentelle.(5)

Pique du sein la gourde belle,(6)
Sur qui l’Amour(7) meurt ou sommeille,
Qu’un peu de moi-même vermeille(8)
Vienne à la chair ronde et rebelled!(9)

J’ai grand besoin d’un prompt tourment:(10)
Un mal vif et bien terminé(11)
Vaut mieux qu’un supplice dormant!

Soit donc mon sens illuminé!(12)
Par cette infime alerte d’or(13)
Sans qui l’Amour meurt et s’endort!

褐色〔かちいろ〕の蜂よ、汝〔な〕が針
かくも鋭く、かくも毒あるも
わが胸の美しき花籠を
われは思ひのダンテルをもて被〔おお〕ひたるのみ。

その上に「恋」の来て死にまた眠る
美しき瓢に似たる乳房をば刺せよ、蜂
かくて紅のわれをして、いささかは、
円〔まる〕みある反きがちなる肉の面に滲ましめよ!

われは速〔すみやか〕なる苦痛を希〔ねが〕ふ、
あらわに激しき痛み
故知らぬ悩みより堪へやすし!

わが感覚よ、痛ましきこの金色〔こんじき〕の針により
汝目さめてあれ、これなくば
恋は死に、恋は眠らんに!

(1)この詩は作者が一人の女の心になって、歌ったものであると云ふことを知って置く必要がある。即ち、篇中の第一人称単数《Je》は女である。
(2)《Quelle, et si fine, et si mortelle, que soit ta pointe》を普通の文体に置きかへると、《Qulle que ta pointe soit et si fine, et si mortelle》となる。《et・・・et》は語勢を強める為に、各形容詞の前にくりかえして使ったもの。この場合は《et si》が重なり、二重に強められてゐる。pointeは蜂の剣の先。
(3)《blonde abeille》は呼びかけた言葉。
(4) ma tender corbeille《わたしの優しい花籠》とは女のふくよかな乳房のこと、次の行に来るle sein《乳房》の意味である。蜂に向って云ってゐるのだからcorbeille《花籠》である。
(5)un songe de dentelleは《思ひと云ふダンテル》の意。即ち、乳房はただ思ひのダンテルで被はれてゐるばかり。美しい肉体は蜂の前に、恐れることなしにひろげられてゐるのである。
(6)du sein la gourde belleはla gourde belle du seinの倒置法。《乳房と云ふ美しい瓢》=《美しい瓢に似たる乳房》――乳房を瓢と云ったのも、前と同様、蜂に向って云ってゐるからである。
(7)l’AmourはCupidon即ち「愛の神」
(8)un peu de moi-même vermeille《虹の私自身の少量》とは、血液の少量のこと。
(9)la chair ronde et rebelle《円みある反〔そむ〕きがちなる肉》は乳房の意。ronde et rebelleと云って、若い女のふっくりして、反り身になってゐる、ひきしまった乳房のplastiqueな美を示してゐる。この二行で激しい恋を求める女の叫びが叫ばれている。
(10)un prompt tourment《速なる苦痛》――蜂に刺されて血が滲み出るやうに。
(11)bien terminé――半殺しなどでない所の。
(12)illuminé――《耀いて》、《はっきりと》、《目を覚して》
(13)Cette infime alerte d’orは針のこと。Infimeは《最下級の》、《悲惨な》、《痛  
ましい》。Alerteは《警告》。

 この著書で紹介されている詩篇は、2、3を除いて『月下の一群』とは重複しておらず、その意味では大學の新しい訳詩集としても読むことができる。注釈を読んだ上で翻訳を見てみると、堀口大學が原詩の意味を汲み取りつつ、それを日本語に移すために、時には原詩のテクストを離れて大胆な言い換えをしていることがよく分かる。
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by monsieurk | 2015-02-23 22:30 | | Trackback | Comments(0)

詩を訳とはⅣ

 今回も内藤濯の『佛蘭西近代詩評釈』から、フランシス・カルコの「なげきぶし」を取り上げる。まずはフランス語の原詩。

  Complaine

Maigre, boiteux,et ridicule,
Il s’assit au fond du café,
Par la vitre, le crépuscule,
Maintenant, tombait tout à fait.

― Qui es-tu? ― Laissez-moi tranquille,
― Veux-tu boire? Veux-tu manger?
Il but, mangea, troussa la fille
Et chanta comme un enrangé.

― Adieu! ―Ne t’en va pas! ―Qu’importe?
A minuit juste, il disparut,
Et la belle, contre sa porte,
Lendemain, le trouva pendu.

Le diable était à la croisée
Qui riat et tenait sa proie,
Depuis, il tourne sur le toit
Et pisse par la cheminée.

ばげきぶし

痩せた、跋足の、をかしな男、
キャッフェの奥に来て座る。
窓硝子からとっぷりと、
ゆふべの色が落ちるころ。

―名前お言ひな ―うるさいよ。
―食べたかないの、飲まないの―
飲んで食〔くら〕っていちゃついて、
唄ひ狂うたその男。

―あばよ―およしよ―このうへ、ゐたって何になる。
夜中の丁度十二時に男の影が消えてゆく。
翌朝、女が戸をあけた途端、
みると男が縊〔くく〕ってゐる。

窓では悪魔がからから笑ひ、
餌食の男を掴んでた。
その日このかた、屋根踏みめぐり、
煙突の穴から小便〔いばり〕する悪魔。

 フランシス・カルコ(Francis Carco、本名はフランソワ・カルコピノ=テュゾリ、François Carcopino=Tusoli)は、1886年にフランス領ニューカレドニアの首都ヌメアで生まれ、少年時代をここですごした。父は植民地監視官だった。共和国通りにあった家の窓からは、毎日のようにヌウ島に送られる囚人たちが、鎖に繋がれて通るのを眼にした。このイメージが「不幸せへの嗜好」として、彼のなかに終生とどまることになる。そして躾が厳格で、時には暴力を振るう父に対する内心の抵抗として詩に書くようになる。d0238372_12161439.jpg
 1901年、彼は父の転勤でフランスの地を踏み、故国の高等中学校に入学した。ここで若い詩人たちと出会い、彼らと「幻想派(L’École fataisiste)」を結成して、本格的に詩作をはじめた。そして1910年、23歳のときパリに上り、当時随一の盛り場だったモンマルトルで、アポリネール、マックス・ジャコブ、モーリス・ユトリロ、モディリアニ、パスキンなどの詩人や作家、画家たちと交流するようになった。
 間もなく雑誌「自由人」や「ジル・ブラス」に美術批評を書くようになり、最初の詩集『La Bohême et mon cœeur(ボヘミアンとわが心)』を1913年に、翌1914年には『Chansons aigres-douces(甘酸っぱい歌)』を出し、さらに同年、ホモセクシャルな売春婦を主人公にした小説『街の女イエス』を、老舗の「メルキュール・ド・フランス」から刊行した。
 この処女小説でも見られるとおり、カルコは下層社会、とりわけパリのモンマルトル界隈の浮浪者、売春婦、無頼漢たちの世界を舞台に、人間の内面に照明をあてるのを得意とした作家だが、詩を書くことから文学活動をスタートさせ、終生、詩作を続けた人でもあった。
 内藤濯はカルコの詩を評して、「彼はFantaisistesの一人であった。時には処女に見るような羞恥と、また時には皮肉を帯びた洒脱を、詩心の動くまま匂はしい繊細な節奏に託する詩人の一人であった。彼は折に触れての感情を露出することを好まない。たとへば、相逢うて相別れる悲しみをさりげなく衷〔うち〕に抑へて、パイプを燻らしながら朝の街を歩いていくのが彼である。そこには気取りよりもむしろ、おのれの感情に対する皮肉が見える。けだし其の皮肉は、涙と紙一重の皮肉にほかならぬ。
 カルコに詩の或るものが、取材の点からして俗なるべくしてしかも俗ならざる所以は、この独特の皮肉の動きにある。」と述べている。
 「嘆きぶし」の評釈については、後半部分を抜き出してみる。

 「 Qui es-tu? これは問題の男のそばに座り合った女の言葉だ。「あんた、誰なの?」である。それに応ずる男の言葉はそっけない。Laissez-moi tranquille「構わずに置いてくれ」「うるさい」「やかましい」である。だが女の方はしきりにちやほやする。そこで男の方もしまいには憂鬱を破って、かつ飲み、かつ唄う。店の戸を押してはいって来た時とは打って変ったふざけようだ。Trousser la flle とは、「女の裾をまくる」のである。こんな淫らな言葉をさりげなく持ち込んできて、たわけた気分よりは寧ろ物すごい気分を作るところが、カルコの腕である。
さんざ女と遊んだ挙句、男は後髪を引かれる思ひもなく帰って行ってしまふ。(中略)
 翌日――散文の場合だと、lendmainは必ず定冠詞を採る――くだんの男は、女の家の戸口ちかくで首を縊ってゐるのである。女が捉える袖を振り切って、真夜中に何処ともなく行ってしまった其の男である。女に未練があったとは無論考えられない。それでも自分の死にざまを当の女に見せてやらうとした男の心に、突拍子もない皮肉があったことは疑われない。不具な俺の死にざまを笑って貰はうとでもいった類ひである。人間の世の中に対する嘲笑、おのれ自身に対する嘲笑、それをもって涙に代える。カルコの皮肉はやはり、涙と紙一重の皮肉であった。(中略)
 皮肉嘲笑はそれのみではない。男を攫〔さら〕った悪魔が、煙突の穴から放尿するといふに到って、嘲笑はつひに喝破の域に迫っている。
 これはたしかに、巴里の場末町のむさくるしい酒亭で聞かれさう「嘆きぶし」である。」
 
 カルコはパリで亡くなった。1958年5月26日のことであった。カルコの作品の幾つかは日本語にも翻訳されているが、なかでも『巴里芸術家放浪記』がよく知られている。
 
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by monsieurk | 2015-02-20 22:30 | | Trackback | Comments(0)

詩を訳すとはⅢ

 以前のブログ、「詩を訳すとは」(2014.11.12と11.15)の続編をしばらく掲載する。
いまステファヌ・マラルメの詩篇の翻訳を雑誌に掲載しているが、外国語の翻訳、とりわけ詩を訳に当たっては数々の困難に直面する。翻訳では詩人が詩句にこめた意味は伝えられても、詩がもつ音韻効果は伝えるべくもない。象形文字である漢字と音をあらわす仮名を併用する私たちの言語とは違って、アルファベット26文字の組み合わせで書かれる欧文の詩は、本来、耳で聴いて理解するものである。
 ただ、こうした言語の違いをこえて、詩の翻訳に情熱を燃やし、みごとな訳詩を残した名翻訳家たちは、『海潮音』の上田敏にはじまり、日夏耿之助、佐藤春夫、山内義雄、齋藤磯雄、鈴木信太郎、堀口大學など枚挙にいとまがない。なかには日本語の訳だけでなく、原詩を示した上で、それに評釈を加えるという方法をとった著作がある。その幾つかを紹介して、詩を翻訳する意味と提示方法を考えてみたい。最初は『星の王子さま』の訳で知られる内藤濯の『佛蘭西近代詩評釈』(白水社、1933)である。d0238372_9134185.jpg
 内藤濯は「序」でこう書いている。
 「この小冊子は、フランス近代詩をフランス語で読み始めてみよと思う人々を目ざして編んだものだ。フランスの近代詩への一つの手引である。
 近代といっても、ここに蒐めたものは、謂わゆる高踏派から現代に到るまでの詩家凡そ十五人の作品である。
 短くて易しいものという建前が、多くは長い形を持つ浪漫派の詩を全く除外した。しかし退いて考えれば、フランス近代詩は、ここに集めた十五人あたりから食いつくのが、かえって便利であるかも知れない。(中略)
 フランスの詩殊に其の近代詩の日本語訳を作ることは、評釈者にとってはもはや二十何年かの間の道楽である。評釈者は、くだんの道楽を此の小冊子の出版によって清算せんとする意図がないわけでもない。」
 選ばれた15人とは、テオフィル・ゴーティエ、ルコント・ド・リール、ジョゼ=マリア・ド・エレディア、フランソワ・コペ、シャルル・ボードレール、ポール・ヴェルレーヌ、ジャン・モレアス、アルベール・サンタマン、アンリ・ド・レニエ、フランシス・カルコ、トリスタン・ドレーム、ジョルジュ・シュヌヴィエール、トリスタン・クリングソル、シャルル・ヴィルドラック、ポール・ヴァレリである。
 このなかからまず一篇を取り上げてみる。フランソワ・コペのLe pêcheur à la ligne の原詩――

    Le pêcheur à la ligne

Assis les pieds pendants sous l’arche d’un vieux pont,
Et sourd aux bruits lointains à qui l’écho répond,
Le pêcheur suit des yeux le petit flotteur rouge.

L’eau du fleuve pétille au soleil. Rien ne bouge,
Le liège soudain fait un plongeon trompeur,
La ligne sauté, ―― Avec un hoquet de vapeur,
Passe un joyeux bateau tout pavoisé d’ombrelles;

Et tandis que les flots apaisent leurs querelles,
L’homme, un instant tiré de son rêve engourdi,
Met une amorce neuve, et songe; ――Il est midi.

 そして内藤濯訳――

    釣りする男

とある古橋の桁の下に脚をぶらりと、
釣りする男が小さな赤塗の浮標を見つめている、
あたりに谺する遠い巷の響も彼には聞えない。

河水が日光にきらきらする、何ひとつとして動く物もない。
不図、浮標のキルクがから沈みする、
絲が撥ねる、その途端、ぽっぽと蒸気を吐きながら、
日傘を一杯に飾った軽快な小蒸気が通って行く。

入り乱れた波の静まるあいだに、
一瞬間、ぐったりとした夢から覚めた男は、
餌をつけ代えて、また夢を見る――真昼である。

 内藤はこの訳のあとに次のような評釈を加えている。
 「フランソワ・コッペ〔ママ〕(François Coppée,1842-1908)は、エデヂヤ〔ママ〕と同じくパアルナス派に属した一人である。しかし彼は、エレヂヤが、時間的には歴史的回顧、空間的には異邦風景を詩材としたのに反して、多くの場合、彼の生まれた巴里に詩味をあさる。
 とはいえ彼の眼は、ブウルヴァールに捲返す車と人の大浪を見るに堪えられない。とかく人通りの疎らな町を選んで、郊外からとぼとぼ歩いてくる花売娘の姿に見とれたり、小さなくすんだ家の中から響いてくる葬儀屋の鉋〔かんな〕の音に聴き入ったりするのが彼である。そのうちに彼の足は知らず識らず、入市税関の前を通りぬけて、水に沿った緑の道をたどる。巴里に生れ、巴里に住んでいたにしても、彼はまるで籠の鳥のような気持で、せまい格子の間から遥かな野の緑へ郷愁の眼を向けていたのである。(中略)
 sourd はもともと「聾の」という意味の形容詞である。sourd aux bruits lointains といつた工具に、前置詞à がそれに続くと、「・・・に聾の」という言葉ひとつの意味が、「・・・に耳を籍さない」「・・・が聞こえない」という意味を引き出す。bruits lointains とは遠くの物音である。市街のざわめきである。à qui l’écho répond それに――市街のざわめきに――反響が応ずる。川べりの丘に遠い市街のざわめきが谺しているのである。第二行は、俗事の一切を忘じて釣糸を垂れている人の文字化である。(中略)
 河水に持ち込んである動詞pétiller は、briller de’un vif éclat である。ぴかぴかするのである。きらきらするのである。ここでは視覚に関係した意味だが、聴覚に関係した意味にも用いられる動詞である。炭火などの撥ねる音。
 un plongeon trompeur うその沈み。から沈み。謂うところの「だまし」である。
 La ligne sauté 釣糸が撥ねあがる。それ来たとばかりに竿を引くのである。
 un hoquet de vapeur 蒸気のしゃっくり。ぽっぽと吐き出される蒸気。
 un joyeux bateau 愉快な船とは、晴れやかに走る川蒸汽のこと。セエヌ〔ママ〕では、la mouche という名で知られている。まさに「蠅船」である。
 un bateau tout pavoisé d’ombrelles 日傘で一杯に飾られた船。彩旗に装飾することが pavoiser であることを知れば、まるで初夏の日光を謳歌するように、一斉にかざされたパラソルの彩りが、自然目さきにちらつく。由来色彩を詩化することに長けたパルナス詩派の技巧が、ここにも本能的に揮われているわけである。しかも、くだんの技巧が静的な色に向ってではなしに、時間的に絡まった、「動く色」に向って乗り出してきているところに、特殊な美しさが感じられるのである。銀幕の上を辷る天然色のフィルムであろう。
 les flots apaisent leurs querelles 波がその争いをしづめる。川蒸汽が疾走して行った為に、一しきり揉み合った波がもとの静かさに返るのである。
 ぞいに続くポプラの倒影、その水々しい緑の色も、入り乱れた波に揉み砕かれて見えなくなる。だが、川蒸汽が遠のくにつれて、二たび緑の倒影が水中にいくつかの線を揺らめかせはじめる。そのあいだに、今まで動くとも見えなかった釣する男は、針に餌をつけかえ、再び糸を水中に投げ入れると、またそのまま、瞼も重たそうにじっと浮標に眼を注ぐ。時は真昼。明るい爽やかな光りの中に釣する人の姿が夢のように浮いているのである。
 Il est midi・・・詩は小さくとも、結びがすばらしい。
 ありふれた風景を、よくも生かした詩だと思う。」

 行き届いたみごとな評釈である。翻訳も意味を正確に写し取りつつ、一つの調子を保っている。そのために、flotteur rouge(赤い浮標)を「赤塗りの浮標」と訳すなど細かい工夫がこらされている。フランス語の初心者を対象にしたものだが、一般の読者にもよく分かる興味深い翻訳の提示の仕方といえる。(元の旧漢字旧仮名は現代用字に改めた)。
 
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by monsieurk | 2015-02-17 22:30 | | Trackback | Comments(0)

ワイツゼッカーの遺言

 リヒャルト・フォン・ワイツゼッカー氏が1月31日に亡くなった。ワイツゼッカー氏は西ドイツ時代の1984年に大統領になり、それから10年間、大統領の地位にあった。その間、第2次大戦の敗戦から40周年目にあたる1985年5月8日に、連邦議会で行った演説で、「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目となる」と語って、ドイツ国民にナチス・ドイツが過去に冒した過ちを直視するように訴えたことはよく知られている。d0238372_9461639.jpg 
 今年は終戦から70年目にあたるが、ワイツゼッカー氏の訴えは、彼の遺言として、現在の世界を考える上で大変重要である。
「荒野の40年」と呼ばれるこの演説は、世界中の言葉に翻訳され、日本でも永井清彦氏の翻訳で岩波ブックレットなどで読むことができる。ワイツゼッカー氏はこの中で、「罪の有無、老若いずれを問わず、私たち全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わり合っており、過去に対する責任を負わされているのです。問題は過去を克服することではありません。そんなことが出来るわけはありません。後になって過去を変えたり、起らなかったことにするわけには行きません。しかし過去に目を閉ざす者は、結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」と語っている。
 戦争中、ナチス・ドイツは600万ともいわれるユダヤ人を殺した過去がある、そうした忌まわしい過去に対して、戦争中の犯罪に直接関わらなかった若い世代も、過去の歴史をしっかりと学ぶことで、自分たちが生きている現在、さらに将来の方向も見すえることが出来るという考えである。
 イギリスの歴史学者E・H・カーも、『歴史とは何か』で、「歴史とは現在と過去との絶えざる対話だ」と、同じような考えを述べている。
「イスラム国」が現在行なっているテロ行為はおぞましい限りで、決して認めることはできない。同時に、私たちがいま現実に起っていることを正確に理解するには、「イスラム国」がなぜ生まれてきたのかを歴史的に見ることが必要である。
 中東は第1次大戦中の1916年5月、イギリス、フランス、ロシアの間で秘密に結ばれた「サイクス・ピコ条約」によって、戦後にオスマントルコ帝国が崩壊すると、不自然な国境で分断された。この事実も、「イスラク国」の武装闘争の動機の1つである。
 2001年の同時多発デロを受けて、アメリカのブッシュ政権は2003年にイラク戦争を行い、フセイン政権を倒した。その結果、この地域には権力の真空状態が生まれ、イスラム過激派の台頭を招いた。中東問題の専門家によれば、「イスラム国」の中枢には、かつてフセイン政権にいた人たちが多いといわれる。当時アメリカにも、現在の事態を懸念する人たちもいたが、同時テロの恐怖と復讐心に支配されていたブッシュ政権には、こういた声は届かなかったのである。
 テロの再生産を防ぐのは簡単ではない。しかしその第一歩は、現実を正確に理解することである。目の前で起っている事実を歴史的な文脈の中で理解すること、そこから「寛容の精神」が生まれ、「憎しみの連鎖」を断ち切ること、それを期待したい。
以前のブログ「Je suis Charlie」(2015.1.11)でも触れたが、大学時代の恩師、渡辺一夫先生は、あるエッセーで、「寛容は不寛容に対する時、常に無力であり、敗れ去るものであるが、それはあたかもジャングルのなかで人間が猛獣に喰われるのと同じことかもしれない。ただ違うところは、猛獣に対して人間は説得の道が皆無であるのに反し、不寛容な人々に対しては、説得のチャンスが皆無ではないということである。そこに若干の光明もある」と述べていす。テロに屈しない強い姿勢とともに、寛容の精神を決して失わないこと、それがいま求められているのだ。
 ワイツゼッカー氏も、先の演説の最後で、「若い人たちにお願いしたい。他の人たちに対する敵意や憎悪を駆り立てられることがないようにしてほしい。互いに敵対するのではなく、互いに手を取り合って生きていくことを学んでいただきたい」と訴えている。理不尽な蛮行に出会うと、私たちは感情的な行動に出がちだが、それを立ちどまらせるのは理性の力以外にない。二人が訴えているのは、「知ること」の大切さであり、理性的に行動する勇気なのだ。
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by monsieurk | 2015-02-14 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)

アムバルワリア祭Ⅳ

 野村喜和夫氏は、萩原朔太郎が『月に吼える』を刊行する直前にこころみた言語的実験について紹介した。朔太郎は1914年(大正3)6月、室生犀星、山村暮鳥とともに「人魚詩社」を設立した。d0238372_22301338.jpg
 これより前の2月、東京に住んでいた犀星(右写真)が前橋に朔太郎を訪ねて来た。朔太郎は味噌倉を改造した書斎に案内して、自慢の蓄音機を鳴らし、ウイスキーをたらした紅茶をふるまった。二人はたちまち意気投合した。以後、朔太郎はたびたび上京して犀星と会い、連れ立って街を彷徨い、書いた詩を見せ合ったりした。二人は山村暮鳥に声をかけて結社をつくったのである。野村氏は著書『萩原朔太郎』(中公選書、2011年)でも、「人魚詩社」の活動を取り上げているので、それを引用してみよう。)d0238372_2233152.jpg
 「〔大正3年〕6月には、室生犀星に山村暮鳥(左写真)を加えた三人で「人魚詩社」を設立した。暮鳥は、のちに素朴なキリスト教詩人」となるが、まだこの頃は、日本アヴァンギャルド詩の黎明とされる詩集『聖三稜玻璃』を準備している先鋭的な書き手である。そういう詩人と組んで、朔太郎が大いに刺激されたであろうことは想像にかたくない。事実、北川透の労作『萩原朔太郎〈言語革命〉』によれば、この「人魚詩社」が創刊した雑誌「卓上噴水」を中心に、きわめて短期間とはいえ、口語自由詩の限界をも見すえた未聞の「言語実験」が行われたというのである。」
 このときの「言語実験」の具体例としては、散文形式の「SENTIMENTARISM」(「詩歌」大正3年10月)と「感傷詩論(同、12月」、劇詩「魚と人と幼児」、散文詩としては「聖餐余禄」(「地上巡礼」、大正4年1月)があるが、後のどの詩集にも収録されなかった。そして今は筑摩書房版『萩原朔太郎全集』の第3巻の「拾遺詩集」と、第5巻の「対話詩・劇詩他」で読むことができる。「聖餐余禄」の一節、

 愛する兄弟よ。
 而して汝は氷海に霊魚を獲んとするところの人物である。
 肉親の骨肉を負ひて道路に蹌行し、肉を以て氷を割らんとするの孝子傳奇蹟人物である。
 みよ、汝が葡行するところに汝が蒼白の血痕はあり。師走に及び、汝は恆に磨ける裸軆
 である。汝が念念祈祷するときに、菓子の如きものの味覚を失ひ、自働電話機の如きさ 
 へ甚だしく憔悴に及ぶことあり。
 汝は電線を渡りてその愛人の陰部に没入に及ばんとし、反撥され、而して狂奔する。況
 や爾がその肉親のために得るところの鯉魚は、必ずともに霊界天人の感應せる、或いそ
 の神秘を啓示するところにならざるべからず。
 愛する兄弟よ、まことに師走におよび、爾は裸軆にして氷上に匍匐し、手に金無垢の魚
 を抱きて慟哭するところの列傳孝子軆である。・・・

 野村氏は、朔太郎のこの時期の詩篇にいち早く注目した大岡信を引用する。「朔太郎はひたすら語と語の鋭角的な衝突から生じる運動感に身を任せつつ、情緒的なハーモニーではなく、論理的錯乱の世界を生みだそうとしているように思われる。もし彼がこうしたスタイルをその後も保ちつづけたなら、おそらく『月に吠える』のあのような詩壇的成功はあり得なかったであろう。それは人魚詩社の仲間である山村暮鳥の『聖三稜玻璃』が蒙った運命が端的に証明しているところだ。」
 萩原朔太郎が「言語実験」を行った時期は短かったし、彼はその後詩法を転換し、大正4年には、「竹」の連作が書かれる。ただ確認しなければならないのは、野村氏が強調したように、萩原朔太郎がこの時期に行った大胆な言語実験は、時間的に見ればヨーロッパのダダやシュルレアリスムの運動に先立つもので、当時ダダやシュルレアリスムの実態はもとより、そうした名称すら伝わっていなかつた。トリスタン・ツァラが自分たちの芸術運動をダダイスムと名づけたのは1916年、アンドレ・ブルトンの「シュルレアリスム宣言」が出版されるのは1924年のことである。
 西脇順三郎はのちに、「超現実主義詩論」のなかで、朔太郎のこの時期の作品の本質を「連想の暴風」と名づけるが、この経験を経なければ、『月に吠える』の緒詩篇は生まれなかったのは間違いない。そして西脇は朔太郎が一度はこころみながら、詩の成熟のために手放した「連想の暴風」を自らの詩法の礎に据えて、それによって独自の詩情を生み出すことに成功するのだ。
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by monsieurk | 2015-02-11 22:30 | | Trackback | Comments(0)

アムバルワリア祭報告Ⅲ

 
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 登壇者の三人目は野村喜和夫氏で、事前に、「何でも比較――西脇VS萩原」という資料料が配布された。野村氏は講演ではこの資料には細かく触れなかったが、両者の類似と差異を考える上で興味深いので一部を採録しておく。

 出身校と出自と学校
 西脇=越後小千谷の商家(豪商) / 慶應義塾大学理財科卒業
 萩原=上州前橋の医家(旧士族) / 五高ほか中退

 詩的出発
 西脇=英語で詩を書くことから
 萩原=短歌を投稿することから

 西洋
 西脇=イギリスに3年留学 / 英米的教養
 萩原=「ふらんすへ行きたしと思へども / ふらんすはあまりに遠し」/ ドイツ的教養

 趣味
 西脇=絵画
 萩原=音楽

 
 宗教的なるもの
 西脇=(キリスト教からみて)異教的、古代的、土俗的、やがて老荘と仏教的空観へ
 萩原=上州のプロテスタント的風土のなかで、洗礼寸前まで行く

 
 言語
 西脇=日本語内外国語 /「わが言語は(・・・)トリカブトの毒草の如きもの(・・・)学校の作文よ、にげよ」
 萩原=和語中心から漢語中心へ / 「詩とは言葉以上の言葉である」

 遠さの詩学
 西脇=遠く離れたもの同士の連結(ややシュルレアリスム)
 萩原=「遠い遠い実在への涙ぐましい憧れ」(ややプラトン主義)

 彷徨
 西脇=水平的 / 野原、生垣、フローラとの交流 / 「山査子の実」参照
 萩原=垂直的 / 鉄橋、断崖、ときに異界(「猫町」) / 「漂泊者の歌」参照

 影響
 萩原→西脇=日本語で詩を書く可能性
 西脇→萩原=散文詩「虫」における「超現実主義」の導入

 相互批評
 両者には奇妙なキアスム〔見るものと見られるものが相互に可逆的に侵食し合っている状態〕が生じてい
る。すなわち、西脇は萩原にウィットや諧謔の詩人を、つまり笑いを、萩原は西脇に「悲惨な血まみれの戦士」を、つまり涙をみていた。まるで願望そのもののように。あるいは、相手の作品を鏡として扱い、そこに映る自分をみていたかったかのように。

 箇条書きの形を取りつつ、萩原と西脇の特質をじつに的確に描きだしていて、いちいち納得させられる。その上で、野村氏は用意してきた「西脇は萩原を脱構築する」という文章を読みあげた。
 「西脇は『月の吼える』を笑いながら読んだ。それがすべての始まりである。地面から顔があらわれたり、竹がやたら勢いよく生えたり、「これは何語であるか」というような奇異な日本語が生まれたりというのは、それ自体ではたんなる生成の過剰であり、生成の過剰はなにはさておき笑いとエロスを――ついでにいうなら、不気味さのへの感覚も――誘うものであろう。しかしながら、そのあと、朔太郎の詩的言説が「あわれ」や「つみとがのしるし」に転じてしまうことには、少なからぬ違和感をおぼえたにちがいない。そこで、「竹」の生成や奇異な日本語をフローラと諧謔の詩学へと勝手に(?)拡大解釈し、同時に「つみとがのしるし」のほうはあたうかぎり見えないレベルにまで縮小させること。」つまり、いうなれば『月に吼える』の脱構築こそ、西脇における詩的実践の方向=意味のひとつになった。」
 西脇にとって萩原朔太郎の『月に吼える』と出会ったことが大きな意味をもった。上記の「影響」にあるとおり、「日本語で詩を書く可能性」を確信させた。野村氏は両者における『月の吼える』がもつ意味について、「当時の用いられていた詩的言語のサークル(円)を想定したとき、短歌の創作から出発した朔太郎が、このサークルを突き抜けようとしたところに『月に吼える』が誕生し、最初英語で詩を書いてサークルの外にいた西脇は、『月に吼える』と出会ったことで、日本語による詩語というサークルのなかへ戻る決断をした」と言う。そして朔太郎が、第一詩集『月に吼える』刊行以前に行なった「言語実験」について興味深い知見を披露したが、これは次回に取り上げることとする。(続)
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by monsieurk | 2015-02-08 22:30 | | Trackback | Comments(0)

アムバルワリア祭報告Ⅱ

 二番目の登壇者、詩人の杉本徹氏は慶応大学の出身で、『ステーション・エデン』(思潮社、2009年)で歴程新鋭賞をうけ、昨年2014年には『ルウ・ルウ』を発表した。この詩集でも示されているように、「散歩の詩人」である杉本氏は、萩原、西脇の両者とも散歩を好み、二人の詩情にあって散策(さまようこと)が原動力、重要な要素だったと指摘した。d0238372_14301317.jpg
 その論拠として、萩原の「閑雅な食慾、」と「荒寥地方」、西脇の「旅人かえらず」の「第10」を取り上げて比較した。
  それぞれの詩篇の一部を引用すれば、

 
  散歩者はうろうろと歩いてゐる
  十八世紀頃の物さびしい裏街の通りがあるではないか
  青や赤や黄色の旗がびらびらして
  むかしの出窓に鉄葉(ぶりき)の帽子が飾つてある。
  ・・・・・(荒寥地方)

 
  一二月の末頃
  落葉の林にさまよふ
  ・・・・・
  億万年の思ひが結ぶ
  数知れぬ実がなつてゐる
  人の生命より古い種子が埋もれてゐる
  人の感じ得る最大の美しさ
  淋しさがこの小さな実の中に
  うるみひそむ
  かすかにふるへてゐる
  このふるへてゐる詩が
  本当の詩であるか
  この実こそ詩であらう
  王城にひばり鳴く物語も詩でない(旅人かへらず、一〇)
 
 こうした引用から読み取れるのは、萩原朔太郎の場合は散歩のなかで出会った対象は、一度思い出や夢想のなかに封じこまれて、それを現時点から望見するという構造をもっている。d0238372_14305394.jpg
 一方、西脇の場合は散歩の途次に出合う事物は、現実の存在として詩にうたわれるが、そのプロセスで散歩する主体は「非人称化」する。個人的な散歩でありながら、主体の意識は出会う事物へと移っていき、散歩は永遠なものになる。そして西脇がとくにときに愛する道端の草や花は、女神的なもの(彼はフローラFloraと呼ぶ)に変貌する。いわば永遠なものに染め上げられていくというのが、杉本徹氏の発言の要旨であった。(続)

 
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by monsieurk | 2015-02-05 22:30 | | Trackback | Comments(0)

アンバルワリア祭報告Ⅰ

 先のブログでも触れたように、1月24日の午後に慶応義塾大学三田キャンパスで開かれた西脇順三郎を記念する「アムバルワリア」祭りは、日本語での第一詩集『Ambarvalia』(1933年、椎の木社)に由来するもので、第4回目の今年は、「西脇順三郎と萩原朔太郎――二人の詩法をめぐって」と題して行なわれた。d0238372_1417799.jpg
 西脇順三郎は1922年(大正3)にイギリスへ留学し、その地で英語を用いて詩を書きはじめ、それらは詩集『スペクトラム(spectrum)』(The Cayme Press、1925)として刊行された。帰国後は慶応大学で教壇に立つとともに日本語で詩作をはじめたが、そのきっかけは萩原朔太郎の詩集『月に吼える』(感情詩社・白日社、1917)に出会ったことだった。
 当日配布されたリーフレットには、西脇の「我が言語はドーリアンの語でもないアルタイの言である、そのまたスタイルは文語体と口語体とを混じたトリカブトの毒草の如きものである。学校の作文よ、にげよけれども女はこの毒草を猪の如く好むことは永遠の習慣である」という『Ambarvalia』のなかの詩篇の言葉が引用されていた。西脇に「トリカブトの毒草の如き」日本語で詩を書く気にさせたのは、朔太郎の詩との出会いだった。
 1886年(明治19)生まれの朔太郎と、1894年(明治27)生まれの西脇の間には8歳の差があるが、二人はともに日本の詩的言語の革新者として屹立している。それなのに二人の相似と差異が論じられたことはこれまで多くはなかった。西脇の詩業については、慶應義塾大学アートセンターで、新倉教授を中心にこれまで隔月に西脇順三郎研究会が開かれてきたという。今回のシンポジウムはその線上で開かれたもので大変刺激的であった。
 シンポジウムでは、英文学者で西脇研究の第一人者新倉俊一氏のイントロダクションのあと、3人の詩人、八木幹夫氏の「詩篇に現れた精神風土のちがい」、杉本徹氏の「永遠の女のゆくえ」、野村喜和夫氏の「西脇は萩原を脱構築する――詩的言語の敬称と乗り越え」という講演があり、そのあと4人でのトーク・セッションが行なわれた。d0238372_1417529.jpg
 八木幹夫氏は昨年9月に『渡し場にしゃがむ女――詩人西脇順三郎の魅力』(ミドナイト・プレス)を刊行して、西脇の独自性について論じているが、とくに『Ambarvalia』の世界については、「〈くつろぐ〉こと。西脇詩を読むとき、この態度がもっとも相応しいのではないか。西洋の文化・思想に明るい人ですが、ほとんどキリスト教への傾斜をしていません。(中略)ヨーロッパのキリスト教社会の中では認めがたい異端的な裸体崇拝、性と肉体の開放に対して大らかな受容態度があります。それは新潟の土地が同時に持つ北国の陰の閉鎖性と陽の開放性に触発されているのではないかと推論します。」、「西脇さんはギリシャへ行ったことはないのです。これはあくまでも、西脇さんの深い教養の中で夢見られたもの、西脇流にいえば、脳髄の中で夢見られたギリシャです。」と述べている。
 今回のレクチャーでも、『Ambarvalia』の中の一篇、「皿」を資料として引用して説明した。
 
 黄色い菫が咲く頃の昔、
 海豚は天にも海にも頭をもたげ、
 尖つた船に花が飾られ
 デイオニソスは夢みつゝ航海する
 模様のある皿の中で顔を洗つて
 宝石商人と一緒に地中海を渡つた
 その少年の名は忘れられた。
 麗な忘却の朝。
 
 八木氏によれば、萩原朔太郎は西脇のこの詩の発想源を見抜いていたという。それはタイトルにも示されているように、西脇が目にした皿がヒントになっていて、詩で語られるような図柄が皿に描かれていたというのである。詩篇「皿」はまさに、「脳髄の中で夢見られたギリシャ」なのである。
 八木氏は朔太郎についても、『月に吼える』の中の有名な詩「竹」を引用して、その特徴を具体的に解説した。

 ますぐなるもの地面に生え、 (7・6)
 するどき青きもの地面に生え  (9・6)
 凍れる冬をつらぬきて、 (7・5)
 そのみどり葉光る朝の空路に、 (9・7)
 なみだたれ、 (5)
 なみだをたれ、 (6)
 いまはや懺悔をはれる肩の上より、(4・7・7)
 けぶれる竹の根はひろごり、 (7・6)
 するどき青きもの地面に生え。 (9・6)

 
 朔太郎は、島崎藤村から北原白秋へと繋がる日本近代詩の、文語体の余韻を残す詩語を受け継ぎつつ、当時日常的に用いられていた日本語とは異なる言葉で詩を書いた。朔太郎の詩は、感覚まかせではなく、「竹」に見られる独特の音韻(各行のあとの数字は音数律)や、「生え」、「きて」、「たれ」など連体形の連弾などに見られるように、その詩法はきわめて意識的であるというのが八木氏の見解であった。
 朔太郎にとって、詩とは遠い自分への憧れであり、西脇にあっては、詩は一つの意識的な夢――これが八木氏の語った結論だった。(続)


 
 
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by monsieurk | 2015-02-02 22:30 | | Trackback | Comments(0)