ムッシュKの日々の便り

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ミストラル

 画家ヴァン・ゴッホのアルル時代については、2012年6月27日付けのブログ「海のサント・マリー」で触れたことがある。
 最近またアルル時代のゴッホの手紙を再読していて、面白い個所に気づいた。それは1888年6月末に書かれたと推定される、画家で作家のエミール・ベルナールに宛てて書かれた手紙の次のような一節である。ゴッホはパリで一時通っていたフェルナン・コルモンの画塾で、ロートレックやベルナールと知りあった。ベルナールは年下の仲間であった。d0238372_18404322.jpg
 「もしきみが私のキャンバスを見たら、それについて何というだろうか? きみはそこにセザンヌのおずおずしたと言ってもいい、丹念な筆使いを見出したくはないだろう。ところで私はいま、ラ・クロとカマルグの同じ風景――場所はわずかに異なるが――を描いているところだ。色彩の点では何らかの関係があると思うが、それについては知る由もない。私は時々セザンヌのことを考えざるを得ない。彼は幾つかの作品の筆使いが不器用なのは――不器用という言葉をゆるしてくれたまえ――多分ミストラルの吹き荒れるなかで描いたためだろう。これまで私の描いてきた時間の半分は風のなかの仕事だったが、同じ困難にぶつかって、なぜセザンヌのタッチがあるときは確かで、あるときはぎこちなく見えるのか、その理由が説明できる。彼の画架が揺れたのだ。時々、私は猛烈な早さで仕事をする。それは私の短所だとしても、ほかに方法はない。・・・やり直せといわれても、それはできない。それでは止めるべきか。どうして。ミストラルのなかで仕事をするために外出するのだ。私たちが求めるものは、落ち着いたタッチよりも強靭な思想だ。戸外の写生の現場に立って、果断な仕事に迫られるとき、いつも整って落ち着いたタッチで描けるだろうか。まあ、フェンシングで攻撃にうって出るようなものだ。」(エミール・ベルナール宛、第9信、1888年6月末)
 文中のミストラルとは、アルプス山脈からローヌ川渓やデュランス川流域を吹いて速度を増し、カマルグ周辺やプロヴァンス地方を吹き抜けて、地中海に達する激しい北風をさす。主に冬から春だが、一年中いつでも風が吹くことがあり、とくにローヌ川周辺では時速90キロに達することもある。
 ゴッホが南フランスの街アルルにやってきたのは、1888年2月21日のことだった。太陽を求めてきたはずのアルルは、この日、雪が降っていた。これも冷たい北風ミストラルがもたらす寒さのせいであった。
 アルル駅を降りたゴッホは、市街を囲む外壁のすぐそばに旅籠を見つけて旅装を解いた。冷たく激しいミストラルはなかなか止まなかったが、数日後には強い風のなかを、近くの果樹園を描くために戸外に出た。アルルでは春先には、五日に三日はミストラルが吹いた。絵を描くために来たゴッホは、ミストラルが吹くのを待つわけにはいかなかった。
 風のなかで描くにはどうしたらよいか。ゴッホは一計を案じた。画架の足を地面に深くさしこみ、さらに脇の方には50センチの長さの鉄の杭を差しこんで、それに画架を縄で縛りつける。こうして吹く募るミストラルのなかで、揺れるキャンバスに絵を描いた。この体験が、ベルナール宛の手紙に書かれ、セザンヌをめぐる感想を思いついたのである。
 はたしてゴッホの推察が正しいかどうかは、カマルグなどでセザンヌが描いた作品と、その他の作品のタッチを比較検討する必要があるが、一度はやってみたいこころみである。あるいは誰かがすでに実行しているだろうか。

                      *

 以前、朝日新聞が伝えたクロード・モネの《印象 日の出》についての記事も面白かった。記事は、アメリカ・テキサス州立大学の天文学者、ドナルド・オルソン教授たちが、モネが描いた光景は、1872年11月13日午前7時35分ごろの可能性が高いという調査結果を発表したという内容だった。d0238372_18415584.jpg
 《印象 日の出》は「印象派」という言葉を生み出すきっかけとなったことで知られる作品である。オルソン教授たちは、この作品が描かれた北フランスのルアーヴルの地図や写真、当時の気象状況を調べ、モネがこれを描いた港に近いホテルをまず特定した。そして、モネは南東方向に向いたホテルの部屋の窓からこれを描いたこと、港との関係から、太陽は日の出から20分ないし30分の後の位置にあると推定した。そして描かれている船の様子から潮位も調べて複数の候補日を割り出した上で、当時の気象記録から、雨の日、海が荒れていたと考えられる日を除外。風向きなどの条件が一致したのが、1872年11月13日と、1873年1月25日だったという。
 《印象 日の出》のキャンバスには、モネが「72」と記しており、そこから1872年11月13日午前7時35分という日時が割り出された――新聞記事はこう伝えている。
この作品は、アトリエを飛び出して戸外で絵を描くようになった「印象派」(ゴッホたち後期印象派の画家を含めて)の代表作であり、モネが見ていた風景が、オルソン教授たちの推定のように具体的に特定できるなら、戸外の光りを画布に定着しようとした印象派の画家たちが実行した美学を、あらためて強く裏づけることになる。
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by monsieurk | 2015-03-29 22:30 | 美術 | Trackback(1) | Comments(0)

堀口九萬一と大學Ⅵ

 九萬一は随筆集『游心録』(第一書房、1930年)や『外交と文藝』(第一書房、1934年)のなかで、フランス文学についてのエッセーやフランソワ・コペーやアナトール・フランスを訪問した逸話を披露しています。
 その中に、ステファヌ・マラルメが友人の名前や住所を四行詩に詠い込んで、それを実際に封筒の上に書いて投函したというエピソードを紹介したものです。
 九萬一はこの話を文芸雑誌「フランス共和国」の編集長だったアドルフ・ブリソン(九萬一はブリッソンと表記している)の記事から引用しています。ブリソンは1860年にパリで生まれ、高等中学校を卒業するとすぐに雑誌の世界に身を投じ、「アナル」や「祖国」、「ゴーロワ」といった雑誌の編集長をつとめました。そしてインタビューという形式の記事をはじめたのも彼だといわれます。
 そのブリソンにデンマーク人の友人がり、あるときマラルメの許を訪れてアルバムに一篇の詩を書いてもらいました。しかし、その意味がもう一つ分からなかったので、知り合いのマラルメの弟子筋にあたる著名な詩人3人に、明確な意味の教示を手紙で依頼しました。帰ってきた返事は、それぞれまるで別々の解釈であったというのです。
 この逸話はマラルメの詩の難解さを象徴するものだが、ブリソンはその上で、「マラルメが奇怪、異常を好んだことは豈にその詩ばかりではない。日常の行事が随分常規を脱して居たことは左の一事でもよく分かる。マラルメは手紙の宛名を御手のものの「詩」の型で書いて差出した事が屡ゝあった。例へば普通ならば、

 巴里、ボッカドール町六番地      アンリ・ド・レニエ殿

 と書くべき筈の處を、左の如き四行詩で書いたものだ、

Adieu l’orme et le châtaignier!
Malgré ce que leur cime a d’or
S’en revient Henri de Regnier
Rue, au 6 même, Boccador.

 どんなに郵便配達夫を困らせたことやらと、マラルメの傳記々者は附け加へて居る。」と書いています。しかし、ブリッソンの心配は杞憂で、郵便はすべて宛て先にきちんと届けられたのでした。
 象徴派のステファヌ・マラルメの詩は、初期の詩篇の幾つかは上田敏などにより翻訳されていましたが、マラルメが扇の面や写真、復活祭の卵の上、そして相手の名前や所番地を詠み込んで角封の上に書いた四行詩について日本に紹介したのは、九萬一のこの文章が最初でした。九萬一はブリソンの記述に沿って、揶揄する意味で取り上げていますが、マラルメは洒落た言葉や思いもよらない韻律を駆使する短詩の制作に真剣に取り組んだのです。とくに宛名を詠み込んだ「郵便つれづれ」は出来上がるたびに手帳に控えておき、これらの内の27篇が、まずアメリカの雑誌「ザ・チャップ・ブック」にフランス語のまま掲載されました。
 これがまとまってフランスで出版されるのは1921年のことですが、ブリソンはそれよりも前にマラルメの試みを聞き知っており、それを雑誌で披露したのです。そしてそれに目をつけた九萬一のフランス文学に対する造詣の深さは、当時の日本の水準をはるかに超えていました。
 ちなみに、引用されているアンリ・ド・レニエ宛ての詩は、

 「さらば 楡の樹、栗の樹よ
  その頂は黄金に色づいてはいるが
  ボッカドール通り六番地の
  アンリ・ド・レニエを思い出そう」

 とでも訳せます。
 翻訳ではとうてい繊細な技巧と味わいを写すことはできないが、マラルメは次第にこうした技巧にのめり込んでいったのでした。そして、九萬一のこの文章がマラルメの四行詩を紹介した最初のものであったのは間違いありません。
 日本の詩歌に多大な影響をあたえた訳詩集としては、上田敏の『海潮音』、永井荷風の『珊瑚集』とともに堀口大學の『月下の一群』があげられるのが文学史の常識です。前の二冊は戦前すでに岩波文庫に入れられましたが、大學の『月下の一群』は今年2013年にようやく岩波文庫の一冊として刊行されました。
 この背景には、岩波書店の創始者、岩波茂雄と第一書房の長谷川巳之吉との確執や、堀口大學と東京大学フランス文学科との複雑な経緯があるのですが、これについてはブログ「堀口大學と岩波」(2013.9 .8 )に書いた通りです。 
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 上の写真は、スペイン時代に撮られたもので、座っている2人が堀口九萬一とスチナ夫妻,後列が、大學と義妹の岩子です。
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by monsieurk | 2015-03-26 22:30 | | Trackback | Comments(3)

堀口九萬一と大學Ⅴ

 大學は随筆集『詩と詩人』のなかの「『月下の一群』の頃」のなかで、こんな逸話を披露しています。
 「1913年、父がメキシコの任地を去つて、スペインに新しいポストをもつことになつた。僕も一緒に欧州に移り、勉学の都合上、ひとりベルギー・ブリュッセルに滞ることになつた。この頃から僕のサンボリズムに対する傾倒が始つた。その最初がまずグウルモンであつた。グウルモンによつて與へられた智的有頂天は、僕の一生を通じての精神上の最大の事件として残るだらうと僕は信じてゐる。最初に譯したのが『シモオヌ』に呼びかける一聯の詩であつた。『月下の一群』中これらの譯篇は、いはば僕の最初の譯詩の試みだ。
 丁度、その頃、グウルモンの詩集《Divertissements》(「消閑」)が出版された折だつたので、別に一冊初版本を求め、これに試譯の稿を添へて、今度はこちらが得意然として、この新発見の詩人をマドリッドの父に報じてやつたりしたものだつた。知性と感性の二つとも卓抜なこの詩人は父にも氣に入つて、「消閑」一巻の贈りものは大いによろこばれたことであつた。」
 メキシコ時代、大學は父の手引きでフランス近代詩を読んで、たちまちその魅力のとりこになりました。九萬一はフランス高踏派の詩人たち、シュリ・プリュドム、ルコント・ド・リール、アルフレッド・ミュッセなどの詩篇を愛好しており、それらを息子に読ませて、難解な箇所の解釈や説明をしてやったのですが、外国にあった大學は、これらの詩篇を1篇ずつ日本語に訳していきました。
 そんな彼が父より早く、象徴派の理論的支柱と目されていたレミ・ド・グールモンの新刊詩集を手に入れて、幾篇かを日本語に移したものを添えて送ったのです。息子の得意にもまして、父の満足は大きかったにちがいありません。
 大學が入手した詩集「Divertissements(気晴らし)」は、1914年に「メルキュール・ド・フランス」から出された版で、初版は1912年に出版社「クラ」から刊行され、当時のフランスで多くの愛読者を得た詩集でした。九萬一は息子から贈られた詩集から2篇を選んで、得意の漢詩に翻訳しました。その一篇は〈La Dame de l’ Autonne〉と題した詩です。この漢文訳は、昭和5年(1930)に、第一書房から刊行された九萬一の『随筆集 游心録』に収録されています。

  秋妃

 秋妃渉西園     秋の夫人
 繊腰依短垣     思い出の小道を渉り
 珊珊踏墜葉     落葉を踏む
 恍疑胡蝶魂     あの日 ここは花ざかり
 惜春感深花空散   またあの日 緑の陰が深かった
 緑陰情話烟籠岸   今 それなのに
 秋風起兮木葉飛   風に木の葉が散るばかり
 與吾情思一般亂   おお 秋風よ
 噫秋風       吹きやまぬ秋風よ
 颯颯吹不窮     お願いだ 吹き散らしてはくれまいか
 安得掃却深愁千萬斛 枯葉と一緒に 重いこの胸のほむらも
 直與墜葉飛成空   
 
 秋妃緩緩歩     秋の夫人
 手浥菊花露     菊を摘む
 花容易一何衰    うらぶれた残菊一枝
 園荒斜陽暮     荒れ果てた園の夕に
 此苑昔曾賞薔薇   あの日 ここで ふたりで薔薇を楽しんだ
 薔薇花心赤於緋   花心の真赤な薔薇でした
 我今来兮花凋落   今日来て見れば薔薇はなく
 苔蘚満地覆痕稀   地は一面の苔じとね
 噫斜日       おお 夕陽よ いつになったら
 菊遶環堵室     菊にまがきを
 嗚呼何日春光度薔薇 薔薇に春光を
 使吾情思甘於蜜   妾〔わらわ〕の心に蜜の甘さを返しておくれか

 秋妃立黄昏     秋の夫人
 低囘暗銷魂     黄昏の思いに沈む
 金風吹衣袂     秋風衣袂に入り
 暮禽啼不喧     ここに遊んだあの時の楽しさは
 此地清遊今尚記   今も思い出にさやかだが
 仰數流星舞態媚   過ぎてははかない夢の中
 一夢追懐跡如烟   一々語るも鳥滸〔おこ〕の沙汰
 殷勤怯語意中事   
 噫碧空       おお 青空よ きかせておくれ
 誰栖水晶宮     かの水晶宮に栖むのは誰か
 何時伴得牽牛訪織女 牽中が織女を訪ねるのはいつか
 零露溥溥満天風   こぼれる露が冷たくて空吹く風が荒れ狂う

 秋妃立荒園     秋の夫人 廃園に佇〔た〕つ
 落葉埋履痕     落葉が足跡を埋めつくす
 満目荒涼處     忽ちすさぶ秋風が肌身にささる
 黄草招幽魂     ひと思い あの世の道を辿ろうか
 疇昔新盟膠漆固   おお 秋風よ
 情緒宛如合歓樹   吹きやまぬ秋風よ
 秋風起兮粟我肌   お願いだ 吹き散らしては呉れまいか
 魂欲飛越清郊路   枯葉もろとも 重いこの胸のほむらも
 噫秋風       目に余るここな荒れよう
 颯颯吹不窮     枯れすすき 幽霊が出て来そう
 寄語掃却深愁千萬斛 なれそめのあの頃は幸せだった
 直與墜葉飛成空   合歓樹の胸一ぱいのうれしさだった

 和訓は大學で、この漢詩を『長城詩抄』(この九萬一の漢詩集は息子大學の手で、1975年、昭和50年に、私家版として100部が株式会社大門出版から刊行されました)に収めるにあたってつけられたものです。ちなみに原詩は次の通りです。

La dame de l’automne écrase les feuilles mortes
Dans l’allée des souvenirs:
C’était ici ou là... le vent passe et emporte
Les feuilles et nos désires.

O vent, emporte aussi mon cœur: il est si lourd!

La dame de l’automne cueille des chrysanthèmes
Dans le jardin sans soleil.
C’est là que fleurissent les roses pâlies que j’aime,
Les roses pâles au cœur vermeil.

O soleil , feras-tu fleurir encore mes roses?

La dame de l’automne tremble comme un oiseau
Dans l’air incertain du soir:
C’ était ici et là, et le ciel était beau
Et nos yeux remplis d’espoir.

O ciel, as-tu encore des étoiles et des songes?

La dame de l’automne a laissé son jardin
Tout dépeuplé par l’automne
C’ était là… Nos cœurs eurent des moments divins...
Le vent passé et je frissonne...

O vent qui passé, emporte mon cœur il est lourd!

 グールモンの詩句については、大學がフランス語の原文から直接翻訳したものが『グウルモン詩集』(新潮文庫、昭和26年)に載っています。これと比べてみても、九萬一の漢訳はグールモンの詩想をじつに上手く汲んで翻訳されています。九萬一は息子大學から贈られたレミ・ド・グールモンの詩集がよほど気に入ったのでしょう。
 グールモンの原詩、九萬一の漢訳、そして大學によるその和訳、さらにはフランス語からの直接訳の四つを並べて鑑賞すると、それぞれの言語のもつ感性の違いが分かって大変興味深いものです。(続)
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by monsieurk | 2015-03-24 22:30 | | Trackback | Comments(2)

堀口九萬一と大學Ⅳ

 九萬一、妻のスチナ、岩子、瑞典(この二人はスチナが母親)の4人は、しばらくパリに滞在したあと、大學を一人残してルーマニアのブカレストに向いました。大學はパリに宿を定めると、先に渡仏していた画家の旧知の版画家長谷川潔や画家の鈴木龍一と再会し、鈴木の案内で藤田嗣治のアトリエを訪問しました。
 父の九萬一は、その後スペイン公使となり、1914年7月に第一次大戦が勃発すると、パリの大學を呼び寄せました。このスペイン滞在中に大學が親しくなったのが画家のマリー・ローランサンです。
 1883年10月パリに生れたローランサンは、パリの南の郊外セーヴルにある国立製陶所で陶器の絵つけを学び、さらにパリ市立の学校でデッサンを学び、1903年には画塾アンベール・アカデミーに入って本格的に絵の勉強をはじめました。当時の画塾には、ジョルジュ・ブラックやジョルジュ・ルパープが画学生として通っており、彼らを通してキュビスムの影響をうけました。
 ローランサンが1907年に、「アンデパンダン展」に出品した《招待》が好評で、その後、画商クロヴィス・サゴでパブロ・ピカソと知り合い、ピカソは彼女をモンマルトルにあった若手芸術化の住まいだった「洗濯船」へ連れて行き、美術評論を書いていたギヨーム・アポリネールに紹介しました。二人はたちまち恋に落ちます。
 ところが1911年、アポリネールはルーヴル美術館から《モナリザ》を盗んだ嫌疑を受けて逮捕、拘留されるという事件が起ります。彼は無罪となりましたが、ローランサンの気持はこれをきっかけに冷めてしまいます。しかしアポリネールの方は彼女が忘れられず、その想いをうたったのが、名作「ミラボー橋」です。ローランサンは間もなく、エコール・ド・パリの画家として世に知られる存在となります。
 そんな彼女の転機となったのが、1914年6月にドイツ人の画家オットー・フォン・ヴェツチェンと結婚したことです。彼女たちが新婚旅行をかねてスペインとの国境に近いアルカションに滞在していた8月3日、フランスがドイツに宣戦布告して第一次大戦がはじまりました。結婚によってドイツ国籍となったローランサンはフランスに留まることができず、二人はピレネー山脈を越えてスペインへ亡命しました。
堀口九萬一が公使としてスペインに赴任したのはまさにこの時期です。そして第二次大戦が勃発すると、パリにいた大學をマドリッドに呼び寄せたのでした。
 ある日、大學は弟の瑞典の肖像画を描いてもらうために、画家たちが共同でアトリエを構える建物を訪ね、そこで知り合ったのがマリー・ローランサンでした。二人はお互いのなかに同じ感性を見出し、たちまち意気投合しました。
 大學はやがて彼女から絵の手ほどきをうけるとともに、アポリネールをはじめ、「エスプリ・ヌーヴォー」と呼ばれるフランスの詩人たちの情報を教えられます。戦禍を避けて異郷に暮らす二人の交流は、1916年に、ローランサン夫妻がバルセロナに居を移すまで続きました。ある日、ローランサンは「日本の鶯」と題した詩を大學にくれたということです。

 彼は御飯を食べる
 彼は歌を歌ふ
 彼は鳥です
 彼は勝手な氣まぐれからわざとだびしい歌を歌ふ

 大學はローランサンから得た情報で、マックス・ジャコブ、アンドレ・サルモン、ピエール・ルヴェルディ、ジャン・コクトーたちの詩を知り、それらを翻訳することになります。
 父の九萬一は1925年(大正14)に外交官生活から引退し、一家は帰国します。大學はこの年の4月から、東京神田の文化学院大学部の教授となり、フランス近代詩の講座を担当することになりました。33歳にして初めて定職に就いたのです。
 彼が長谷川巳之吉の来訪を受けたのはこの頃のことです。長谷川は大學より1歳年上で、大正12年の初めに、出版社「第一書房」を立ち上げていました。第一書房から出た堀口大學の最初の本は、ポール・モラン著堀口大學訳『レヰスとイレエン』でした。
 長谷川は帰国した大學を訪ねると、大學は1年半も上梓されずそのままになっていた「月下の一群」の原稿を新潮社から取り戻し、新しい訳を加えて配列をやりなおしているところでした。「月下の一群」という表題は、フランス象徴派の詩人ポール・ヴェルレーヌの詩からインスピレーションを得たものでした。
 長谷川は原稿を見せてもらうと、即座に出版を申し入れました。書物は、長谷川自身が装釘し、ノート用の上質フールス紙大判750ページの本文に、16葉の別刷挿絵の詩人たちの肖像入りという豪華本でした。値段は4円80銭でした。
 訳詩集『月下の一群』の出現は、フランスの新詩人の作品を紹介したというだけでなく、これまでになかった詩情と新たな日本語を文学にもたらした点で画期的なものとなりました。上田敏、鷗外、荷風の訳詩に連なるものとして世間に迎えられました。事実、高い定価にもかかわらず初版1200部は数ケ月で品切れとなり、長谷川巳之吉はすぐに廉価版を出しました。    
 大學の異母弟瑞典は、「母スチナのことなど」で、こんなエピソードを伝えています。
 「言葉の問題は、日本に戻ってから母にとっては不幸でした。家の中では会話はいつもフランス語でしたから、外に余り出ることのなかった母は、日本語に接する機会も少なく苦労していました。
とはいっても、兄の文名が高まっていくのは肌で敏感に感じと取っていたようで、「ニコが偉くなった」という言葉をしばしば耳にしました。
 銀座の松屋デパートが開店した時のことだったと思います。銀ブラに出た母と私は、松屋のショーウインドの中に美しい装丁の『月下の一群』を見つけました。その時の母の喜びよう、ハシャギようは今でもはっきり記憶にあります。「ニコの本がある、ニコの本がある」という言葉が耳元で聞こえます。」(「思い出の堀口大學」、別冊かまくら春秋、1987年)
 堀口大學は詩人としての地位を不動のものとしたのでした。彼はこれ以後、詩集や訳詩集の刊行を長谷川巳之吉に任せるようになります。(続)
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by monsieurk | 2015-03-22 22:30 | | Trackback | Comments(4)

堀口九萬一と大學Ⅲ

 九萬一は1909年(明治42年)にメキシコに赴任し、ここでスチナとの間に、次男の瑞典(よしのり)が生れました。そして2年後の1911年10月、本国にいる長男の大學がメキシコにやって来ました。大學は数え歳で20歳になっていました。
 九萬一が日本を留守にしていた間に、大學は文学好きの青年に育っていていました。そのきっかけは、明治42年(1909)に、育ての親の祖母千代が亡くなり、遺骨を長岡へ納骨するために、汽車を待つ間に上野駅前の本屋でたまたま手にした「スバル」を購入したことでした。そこには吉井勇の「夏の思ひ出」が載っており、これを通して明星派の短歌の魅力を知って、すぐに新詩社に入門したのでした。
 大學はそこで新詩社の同門である佐藤春夫を知り、生涯にわたる親交を結びました。そして、鉄幹、晶子夫妻の勧めもあって、短歌のほかに詩作もはじめました。
 この年の7月、大學は佐藤春夫と一緒に第一高等学校を受験しますが、二人とも失敗。大學にとってはこれが2度目の挑戦でした。この結果、やむなく鉄幹が友人の永井荷風に推薦してくれた慶応大学文学部予科に、二人は補欠入学することができました。
 大學の1年目の成績は、歴史が良、フランス語は不可、あとは可で、かろうじて進級がみとめられ、翌年4月には予科の2年に進学します。しかし授業には身が入らず、その分だけ文学への傾倒が深まり、「スバル」の他に、文学科主任の永井荷風が明治43年5月に創刊した「三田文学」にも詩歌作品を発表するようになります。
 こうした大學の行状はメキシコにも伝えられ、息子を外交官にするつもりだった九萬一は、大學をメキシコに呼び寄せることにしたのです。
 息子を外交官の道に進ませたい九萬一は、フランス語を勉強したのち義母の国ベルギーへ留学させるという約束で、大學をメキシコに呼び寄せました。
 海外で生活する機会は滅多にない当時としては、これは願ってもないチャンスでした。新詩社での活動を始めたところでしたが、詩稿ができれば海外から送ればよいわけですし、心を許した春夫との別離はつらかったのですが、それも、まだ見たことのない海外の魅力の前には堪えられるものでした。
 ただ困ったのは、父、九萬一の家庭では、日常会話がすべてフランス語であったことです。母違いの妹の岩子や小さな瑞典(よしのり)は日本語も分かったが、義母のスチナはまったく日本語を話しませんでしたから、どうしてもフランス語を習得する必要がありました。それにメキシコの上流階級の人たちはほとんどがフランス語ができ、とくに外交官の家庭の者にとってフランス語は必須でした。
 そこで九萬一は息子にフランス語の特訓をほどこすことにしました。公使館には毎朝フランス語教師がやってきて、ベルリッツの初級読本を教科書に、みっちり2時間授業をしてくれました。その先にフランスの詩人たちの詩があると思えば、それも苦痛ではなかったのです。しばらくすると義母のスチナも、会話を中心に大學にフランス語を教え、父も時間を見つけては、フランスの詩人や散文作家をテクストに講じてくれました。
 大學によれば、「教養課程(語学)を継母が受け持ち、専門課程(仏文学)を父が受け持った」のです。
 堀口一家は任地へ行く間は、日本に戻って待機するという生活を繰り返しましたが、ブラジルの次のルーマニアに赴任するまでの4カ月ほどを、いつものように東京大森の望翠楼ホテルを宿にしました。九萬一は、毎日のように外務省に通い、大學は訳詩にはげみ、文学仲間との交友も復活しました。
 そうしたなかで、彼にとって後に大きな意味をもつことになる出会いがありました。文玄社の詩歌部門の責任者だった長谷川巳之吉と接点をもったことです。そして大學は、この頃、書き溜めてきたフランス詩の訳稿をまとめ、「月下の一群」というタイトルをつけて新潮社に託しました。
 堀口一家が日本に滞在中の、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が起ります。幸い大森の望翠楼ホテルは被災をまぬがれ、堀口一家は前の晩から大學を訪ねてホテルに宿泊していた佐藤春夫ともども無事でした。望翠楼は高台の固い地盤の上に建っており、それが幸いしたのです。
 堀口一家は12月初旬に熱田丸で横浜を発ち、パリ経由で任地のルーマニアへ向かいました。日本とヨーロッパ間の船旅は1カ月余りかかり、時間をもてあました大學は、最近買い込んだフランスの新進作家ポール・モーランの小説『夜ひらく』を翻訳することにしました。
熱田丸がスエズ運河を通り、地中海に出て、マルセイユに到着したのは1月中旬です。堀口一家はここで 下船すると、マルセイユに一泊したあと汽車でパリに向かいました。パリ到着は1924年1月末のことでした。(続)
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by monsieurk | 2015-03-20 22:30 | | Trackback | Comments(0)

堀口九萬一と大學Ⅱ

 大學誕生の翌年7月、堀口九萬一は晴れて東京帝国大学法学部を卒業します。東京帝国大学を卒業したのは、司法学校が途中で東大法学部と合併したためで、卒業後はただちに司法官試補に任ぜられて新潟へ赴任しました。
 その後、朝鮮の公使館へ外交官補として赴任しますが、ここで日本人が、朝鮮王妃、閔妃(びんぴ)を殺害するという前代未聞の事件に巻き込まれます。
ロシアの朝鮮南下政策を警戒する日本は、軍人出身の三浦梧郎が公使として朝鮮に赴任すると、引退している朝鮮国王の父、大院君(だいいんくん)を担いでクーデタを計画します。九萬一は漢文が出来ることから、大院君の説得役を担わされます。
 計画は1895年(明治28)10月8日未明、日本軍の軍人と民間人が王宮に乱入して、ロシアに好意的な王妃、閔妃を殺害するという暴挙にまで発展します。この暴挙には、当時朝鮮王宮にいた侍衛隊のロシア人教官ジェネラル・ダイや、建築家サバティンなどの目撃者がおり、その情報がたまたま京城にいた、「ニューヨーク・ヘラルド」の特派員ジョン・アルバート・コッカリルによって報道され、世界中が知ることになりました。
 事件は伊藤博文内閣に衝撃をあたえました。事件に関係した三浦公使、杉村一等書記官、朝鮮政府顧問の岡本柳之介、漢城日報社長の安達謙蔵など、役人、軍人、それに民間人あわせて56人は日本に護送されました。そのなかには堀口九萬一も含まれていました。彼らは広島の刑務所に収監された後、軍人は軍法会議、民間人は通常の裁判にかけられましたが、明治29年2月19日、軍法会議は8名の将校に対して無罪の判決を、裁判所でも三浦以下48名のすべてに免訴の決定が下り、被告たちは全員釈放されました。犯罪は3人の朝鮮人の仕業ということにされて、真相は闇に葬られたのです。
 九萬一が獄に繋がれていた間に、妻の政が故郷長岡で病死し、九萬一は葬儀にも立ち会えず、3歳の大學が喪主として葬儀を行ないました。大學の娘のさくら子さんによれば、堀口家ではこの事件の話は、ずっとタブーとされてきたそうです。
 無罪となった九萬一は外交官の職に復帰しますが、この事件は彼のその後の進路に影響を与えました。九萬一が外交官として、その後、赴任するのは、中国(清)、ベルギー、ブラジル、メキシコ、スペインなどで、アメリカ、イギリス、ドイツといった大国ではありませんでした。
 ただ運命的な出会いが、明治31年(1898年)に赴任したベルギーでありました。世紀末のベルギーではジャポニスムがもてはやされ、その影響でアール・ヌヴォの美術が起りますが、九萬一たちはこの日本ブームの恩恵にあずかり、ベルギーの人たちとも交流する機会がありました。そうした交際のなかから、九萬一はリグール家の娘であるスチナ・ジュッテルランドと知り合い、明治31年に結婚します。九萬一34歳、新妻のスチナは31歳です。
 スチナの父シャルルはベルギーの法曹界では知られた人物で、かつてベルギーを旅行中のヴェルレーヌが、ランボーをピストルで撃って軽傷を負わせた事件(1873年7月)を引きおこし、懲役2年の実刑を言い渡されますが、その判決文に名前が載っているということです。
 九萬一が外交官として認められる働きをしたのは、ベルギーの次に臨時公使として赴任したブラジルでのことです。赴任から3年目の明治36年(1903年)12月20日、外務大臣の小村寿太郎から暗号電報が届きます。電報の内容は、ブラジルの隣国アルゼンチンがイタリアの造船所で2隻の軍艦を建造中だが、これをロシアに先んじて譲り受ける交渉を行うようにというものでした。このとき日本とロシアの間で緊張が高まっていました。
 アルゼンチンが軍艦建造をイタリアに注文したのは、隣国チリとの間で戦争の危機があったからですが、その後ブラジルが仲裁に入って危機が回避されたために軍艦は不要となり、この情報を知った日本とロシアはともにこれをアルゼンチンから譲り受けようと競争になりました。
 九萬一は『世界の思い出』(第一書房、1936年)のなかで披露して回顧談によると、電報に接した九萬一は、すぐにリオデジャネイロを船で発って、12月25日の夜にブエノス・アイレス港に着き、そのまま馬車を駆って外務大臣の私邸をめざしました。幸いこの日はクリスマスで、外務大臣邸では夜遅くにもかかわらずパーティーが続いており、外務大臣は遠来の客を迎えてくれたといいます。
 九萬一はさっそく、日本としてはどうしても2隻の軍艦を入手したいこと、代金は即時にどこででも支払う用意のあることを伝えました。結果として、アルゼンチンは、軍艦を日本に売却することに同意しました。この成功の陰には、九萬一の抜群の語学力もさることながら、果敢な行動力、相手に好かれ信用される独特の魅力が大きく働いていました。
 日本のものとなり、「日進」、「春日」と命名された2隻は日本海会戦に参戦し、バルチック艦隊は全滅しました。明治維新以来最大の危機である対ロシア戦争に貢献できたことは、堀口九萬一にとって外交官としての仕事冥利であり、祖国を遠く離れていただけに満足感もひとしおであったに違いありません。(続)
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by monsieurk | 2015-03-18 22:30 | | Trackback | Comments(0)

堀口九萬一と大學Ⅰ

 3月14、15日の二日間、「近代日本におけるフランス象徴主義――受容・模倣・創造――」というタイトルのシンポジウムが、学習院大学を会場にして開かれた。気鋭の若手の学者たちによる、科学研究費(基盤研究C)の締めくくりのシンポジウムで、私も招待されて、「堀口九萬一と大學、二人のフランス詩翻訳」と題して講演した。
 内容は、以前に刊行した『敗れし國の秋のはて 評伝 堀口九萬一』(左右社、2008)の要約といったものだったが、未読の方のために、以後数回にわたって掲載することにする。なおシンポジウムの発表は、やがて書物の形で出版されるという。

 詩人で翻訳家の堀口大學はよく知れられています。とくに大學が1925 年(大正14)に第一書房から刊行した訳詩集『月下の一群』は、フランスの近代詩を美しい日本語に移すことに成功した点で特筆すべきものです。ところで大學を大學たらしめた彼の父、堀口九萬一のことについては、あまり知られてはいないのではないでしょうか。
 堀口九萬一の生涯は、懸命に近代化を急いだ日本の歩みとぴったり重なります。幕末、わが国は欧米列強の圧力を辛うじて撥ねのけて、近代化の道を推し進めましたが、これには優れた人材が必要でした。このため明治新政府は多くの外国人を雇い入れ、同時に人材をひろく全国に求めて、試験により優秀な若者を選抜しました。九萬一は学力を唯一の武器に東北の新潟・長岡から中央を目指した一人でした。
 九萬一は、慶応元年(1865年)、越後長岡の藩士、堀口良治右衛門、母千代の長男として長岡城下で生まれました。良治右衛門の身分は足軽でした。
 慶應4年、戊辰戦争が勃発し、4月11日に江戸城が無血開城されたあと、掃討戦は4月末には長岡藩の藩境に達しました。
 河井継之助が率いる長岡藩は奥羽北越列藩同盟に加盟し、官軍と戦う決意をかためます。5月19日にはじまった長岡をめぐる攻防では、人口6000を数えた城下一帯が戦場となり、そのほとんどが灰燼にきしました。この戦のなかで、銃卒隊の一人として戦った堀口良治右衛門は戦闘で命を落とます。
 長岡藩の人びとは、明治維新後、辛酸をなめますが、「苦境を乗り越えるには、教育が大事」と、食べるものを節約して教育の充実にあてます。長岡藩の惨状に、支藩の三根山藩救援に米百票が送られてきますが、大参事、小林虎三郎たちの方針で、この米を旧藩士へ配らず、それを売った資金で学校を設立することにしました。この逸話は山本有三の「米一俵」という戯曲で描かれたとおりで、九萬一もこの恩恵をうけて成長しました。
 母一人となった堀口九萬一は、寺子屋で読み書きを学び、明治になって学区制が整うと、小学校に入学。賊軍だった長岡藩の遺児は、教育をたった一の武器として逆境を乗り越えようとします。彼は優秀で、よく漢学を勉強しました。その後は学校に通うかたわら、代用教員として生活します。
 やがて明治18年1月、司法省法学校が学生を募集するとの公示がありました。彼が数え年で21歳のときです。司法省学校は、正式に司法省仏国法律科専門学校といい、フランス法学の修得する準備過程で、フランス語を教授するところでした。司法省の嘱託として来日したデュ・ブスケや、のちに日本の民法制定に貢献したギュスターヴ・ボアソナードなどのフランス人教師が、フランス語と並んで、自然法哲学、刑法、商法など法学教育をほどこしました。
 入学試験は「論語」と「資治通鑑」の白文訓点で、入学試験には全国から1500人余りの受験者がありました。九萬一は難関を突破して、10月には、晴れて司法学校の官費生となり、フランス語や法学の基礎を徹底的に叩き込まれることになりました。
 そして25歳になった明治22年(1889年)に、友人の妹である江坂政と結婚しました。このとき政は数えの18歳で、結婚後まもなく、二人は東京市本郷区森川町1番地に、借家をみつけて移り住みました。ここは東京帝国大学の赤門のまん前で、この家で明治25年1月8日に、長男大學が生まれました。(続)
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by monsieurk | 2015-03-16 22:30 | | Trackback | Comments(0)

文名Ⅱ

 後白河法王の院宣をうけて、藤原俊成が編む第七番目の勅撰集『千載集』は、戦乱のために遅れて、文治4年(1188)にようやく完成した。「平家物語」では、こう語られている。
 「其後、世しづまッて、千載集を撰ぜられけるに、忠教(度)のありしあり様、言ひおきしことの葉、今更思ひ出でて哀也ければ、彼巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれ共、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、故郷花といふ題にてよまれたりける歌一首ぞ、「読人知らず」と入られける。
   さゞなみや志賀の都はあれにしをむかしながらの山ざくらかな
其身、朝敵となりし上は、子細に及ばずと言ひながら、うらめしかりし事ども也。」
 俊成は千載集のなかに、忠度より託された巻物から一首を選んで載せることにしたが、このとき忠度は、一の谷の戦場で死をとげていた。時代は源氏の世となり、平家の公達の歌を勅撰和歌集に載せるのは憚られ、あえて「読人知らず」としたのである。俊成は心の内で、このことを、「うらめしい」、つまり、不本意で悲しいことに思ったというのである。
 こうして忠度の、自作が勅撰和歌集に載るという望みは達せられたが、世の変転のために、「読人知らず」として、文名を残すという念願までは果たすことができなかった。忠度のこの無念をテーマにしたのが、「平家物語」から200年後に世阿弥が書いた謡曲「忠度」である。d0238372_946584.jpg
 舞台は忠度が討ち死にした一の谷の須磨の浦、合戦から20年余り後のある年の春という設定である。
俊成もすでになく、彼に仕えていた男が俊成の菩提を弔うために、僧となって西国行脚に出る。その途中、須磨の浦にさしかかると、磯辺の桜が満開の花をつけている。日が暮れてきたので、桜に手向ける潮汲みの老人に一夜の宿を乞う。すると老人は「うたてやなこの花の蔭ほどのお宿の候ふべきか」と応じ、
   行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主ならまし
 と、忠度の歌をとなえる。そしてこの桜は、この場所で討たれた忠度を葬ったあとに植えたものだと明かし、僧が回向の経を読むのを聞くと、嬉しそうにして夕闇に姿を消す。
 その夜、僧形の男が桜の花の下で仮寝をしていると、夢に亡霊が現れる。
 シテ〽「〈サシ〉恥かしや亡き跡に、姿を返す夢のうち、覚むる心は古に、迷ふ雨夜の
物語、申さんために魂魄に、うつしかはりて来りたり。さなきだに妄執多き娑婆なるに、なになかなかの千載集の、歌の品には入りたれども、勅勘の身の悲しさは、読人知らずと書かれし事、妄執の中の第一なり。されどもそれを撰じ給ひし、俊成さえ空しくなり給へば、御身は御内にありし人なれば、今の定家君に申し、しかるべくは作者を付けて賜び給へと、夢物語申すに須磨の、浦風も心せよ、・・・」
 「千載集」では「読人知らず」とされた歌の作者が、忠度であったことは、「平家物語」や謡曲「忠度」を通して世に知られることになった。その後の勅撰集には、彼の作11首がとられ、それらはみな忠度の名で載せられた。文名を残したいという彼の願いはかなったのだった。
 忠度の執念は、歌の一首、俳句の一句、あるいは詩や文章の一篇でも残すことで、この世に自分が生きた証としたいと願う人たちの想いを示している。忠度の霊魂は最期にその想いがとげられて救われたにちがいない。
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by monsieurk | 2015-03-13 22:30 | | Trackback | Comments(0)

文名Ⅰ

 「薩摩守忠度(さつまのかみ・ただのり)」の名前は、定期券を使って、高等学校に通うようになるとすぐ覚えた。言うまでもなく、「煙管(きせる)」同様、定期を悪用した「ただ乗り」の隠語だが、ご本人の薩摩守が本当はどんな人物かは、その後、「平家物語」を読むまで知らなかった。薩摩守平忠度は忠盛の息子で、清盛の異母弟である。
 忠度は血統からして清盛直系の子どもたちの補佐役を期待されていた。関東で源頼朝が挙兵すると、重盛の長男維盛(これもり)を大将軍として、平家の軍勢3万余りが鎮圧に向った。このとき維盛は若干23歳、36歳の忠度が補佐役の副将軍に任命された。だが忠度は優れた歌人だったが、武張ったことは不得手だった。
 東に軍を進め富士川をはさんで源氏の軍勢と対峙した平家軍は、ある日の明け方、いっせいに飛び立った水鳥の羽音に驚いて、命からがら都へ逃げ帰ってしまう。平家物語が語る有名な「富士川の合戦」のくだりである。
 都に戻った忠度たち平家の一党は、都をめざして北陸道を進軍してくる木曽義仲の勢いに気おされて都を落ちていく。忠度もいったんは都を離れるが、供まわりの者を連れて、敵軍が迫るなか洛中へ引き返す。平家物語の「忠教都落(平家物語では「のり」に教の字を当てている)」の段では、次のように語られている。d0238372_7304113.jpg
 「薩摩守忠教は、いづくよりやかへられたりけん、侍五騎、童一人、わが身とともに七騎取ッて返し、五条の三位俊成卿の宿所におはして見給へば、門戸をとぢて開かず。「忠教」と名のり給へば、「おちうと帰りきたり」とて、その内さわぎあへり。薩摩守馬よりおり、みづからたからかにの給けるは、「別の子細候はず、三位殿に申すべき事あッて、忠教がかへりまゐッて候。門をひらかれずとも、此きはまで立よらせ給へ」との給へば、俊成卿、「さる事あるらん、其ひとならばくるしかるまじ。入れ申せ」とて、門をあけて対面あり。事の体、何となう哀也。薩摩守の給ひけるは、「年来申承ッて後、おろかならぬ御事に思ひまゐらせ候へ共、この二三年は京都のさわぎ、国ゝのみだれ、併当家の身の上の事に候間、粗略を存ぜずといへども、常に参りよる事も候はず。君既に都を出させ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ぬ。撰集のあるべき由承候しかば、生涯の面目に、一首なり共、御恩をかうぶらうと存じて候しに、やがて世のみだれ出できて、其沙汰なく候条、たゞ一身の嘆と存る候。世しずまり候なば、勅撰の御沙汰候はんずらむ。是に候巻物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩を蒙ッて、草の陰にてもうれしと存候はば、遠き御まもりでこそ候はんずれ」とて、日比読おかれたる歌共のなかに、秀歌とおぼしきを百余首書あつめられたる巻物を、今はとてうッたゝける時、是をとッてもたれたりしが、鎧のひきあわせより取出でて、俊成卿に奉る。三位是をあけて見て、「かゝる忘れがたみを給うおき候ぬる上は、ゆめゝゝ疎略を存じまじう候。御疑いあるべからず。さても唯今の御わたりこそ、情もすぐれてふかう、哀もことに思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ」との給へば、薩摩守悦ンで、「今は西海の波の底にしづまば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮世に思ひおく事候はず。さらばいとま申すて」とて、馬にうち乗り、甲の緒をしめ、西をさいてずあゆませ給ふ。」(「平家物語」、巻七、岩波文庫、第三巻)
 当代最大の歌人であった三位藤原俊成は、このとき後白河法皇から勅撰和歌集の編纂を命じられて、和歌集に入れる歌の選択に取りかかっていた。そのことを聞き知った忠度は、一度離れた都へ引き返して、俊成の屋敷の門をたたき、これまで詠んだ歌から百首余りを選んで清書した巻物を託したのである。
忠度には平家の行く末は予想できていたにちがいない。遠くない将来、自分も平家と運命をともにするだろう。しかし自分の死とともに、これまで詠んできた歌も滅んでしまうとすれば、死んでも死にきれない。たとえ一首なりとも後世に残したい。それが京へ引き返してまで、俊成のもとを訪ねた理由だった。
 俊成は、去ってゆく忠度を門口で見送る。
「三位うしろを遥に見送ッて、たゝれたれば、忠教の声とおぼしくて、「前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳」とたからかに口ずさみ給へば、俊成卿、いとゞ名残をしうおぼえて、涙をおさへてぞ入給ふ。」(続)
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by monsieurk | 2015-03-10 22:30 | | Trackback | Comments(1)

詩を訳すとはⅨ

 ステファヌ・マラルメは、エドガー・アラン・ポーの詩をよく読むために英語を学んだ。少なくともマラルメ自身は、「自伝」と呼びならわされる、1885年11月16日付けのポール・ヴェルレーヌ宛書簡で、イギリスに渡ったのはエドガー・ポーをよりよく読むためだったと語っている。
実際、彼がポーの詩に魅せられて、その翻訳を思い立ったのは、サンスの高等中学校の最終学年(論理学級)在学中の18歳のときであった。1860年につくった『落穂集(Glanes)』の第1冊に、「エドガー・ポー詩抄」として「ヘレン」、「ユーラルーム」、「大鴉」など8篇の原詩を引用した上で、それを逐語訳し、浄書している。
 『落穂集』のオリジナルは、いまジャック・ドゥーセ文学文庫に収蔵されているが、かつて館長だったフランソワ・シャポン氏の特別の計らいで、全ページを詳しく点検した上で写真に撮ることを許された。d0238372_10321252.jpg
 マラルメの訳稿は写真に示す通り、細字のペン書き、その上に太いペンによる訂正、さらに細字の鉛筆書きによる訂正、加筆、そして赤鉛筆による加筆と、3種類の訂正と加筆がほどこされている。太いペン字の書体は年代的にはかなり後のものと推察される。
8篇の翻訳のなかで、「大鴉」の訳のあとに鉛筆で書かれた覚書は、「大鴉」と次の「レノア」の訳の間のわずかな隙間に、後から書き加えられたように、小さな字で書き込まれていているが、そこにはこうある。
 「あまねく傑作と目されるこの詩篇〔大鴉〕に比肩し得るのは「レノア」しかない。だが、まったくの逐語訳は、アメリカ人にとっては新鮮でバラ色をした娘から、若い娘の骸骨を作るにすぎない。骸骨はただ彼女が傴僂でも、がに股でもなかったことを示すのみである。またこれらのフランス語の詩句は、作品が内容的には欠けるところがないことを明らかにしている。人びとはこの一篇を読んで、骨を覆っている肉体がいかに新鮮でバラ色をしているかは分からないとしても、他を読めば、その悲痛な律動の美しさに疑念をさしはさむ余地はない《二度と決して》は、英語では絶大な効果を発揮している。それは“Nevermore”と書かれ、“ニヴェール・モール”と発音される。これは大変悲しい思いを表現する、もっとも美しい英語の一つであり、その悲痛な音は、不吉な訪問者〔大鴉〕の鳴き声を見事に擬えている。字句としては以上のごとくだ。あとは各人がその心で判断するのだ。」
 ここからうかがえるのは、マラルメが詩の翻訳はしょせん骨格を伝えるだけにすぎないことを自覚しつつも、敢えてそれに挑んだということである。
 マラルメ訳による豪華詩集『大鴉(Le Corbeau)』は、エドゥアール・マネの4点の挿画と、EX-LIBLISを添えた豪華本として1875年に刊行された。マラルメはポーの原詩と自らのフランス語訳を、左右のページに、対となる形で印刷した。そこには以上のような思いから来る配慮があったと推察される。
 ところで堀口大學は、直感に頼って外国語を読む危険をいましめているが、同時に行間の余白を理解する必要を強調して、「文字で現されたものは文字で解け」とし、詩を翻訳するのは、「半ば創作することだ」とした。
また、ボードレールの『悪の華』や『ヴィリエ・ド・リラダン』の名訳者として知られる齋藤磯雄も、詩の翻訳について次のような所感を述べている。
 「すぐれた訳詩は一般に信じられているよりも遥かに創作であり、その詩的価値は殆ど訳者自身のものであると言っても過言ではない。大詩人によってその驚くべき可能性を現に明示されてはいるものの、凡庸な手中にあってはみすぼらしく、往々にして危険な要素――こういう要素を手渡された訳詩家は、全く異質な言語の、全く異質な秩序の中に、所要の美の条件を満たすべき全く新たな手段を探し索〔もと〕めねばならないのである。このような営みを前にして、外国語の知識の如きは(もとより必要欠くべからざるものではあるが)、詩以前、というよりはむしろ散文以前の資格にすぎない。」(「果実と詩と」、『ピモダン館』、廣済堂出版、1970年、所収)
 しかし詩を訳すにあたっては、こうした心意気は抱きつつも、先ずは可能な限り原詩に忠実な訳をこころがける――それが翻訳者の務めなのではないか。その上で、こうした志の証として、原詩と翻訳を同時に示し、その上で、出来れば原詩の朗読も聴けるようにするのがよいのではなかろうか。これは従来の紙媒体である本では不可能だが、例えばCD=ROMならば、原詩と翻訳のテクスト、さらにプロによる原詩の朗読の3つを提示することで、原詩の言語を母国語としない読者も、詩篇の風味もふくめて味わうことができるのではなかろうか。いま「ユリイカ」に連載中の新訳「ステファヌ・マラルメ詩集」が完成したときは、ぜひこの形式をこころみたいと考えている。
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by monsieurk | 2015-03-07 22:30 | | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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