ムッシュKの日々の便り

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「瀬山の話」の位置Ⅰ

 かつて筑摩書房から出ていた「国語通信」の1985年(昭和60)11月号に、「『瀬山の話』の位置――梶井基次郎の習作」を載せたことがある。その2章以下をここに再録する。なお同様の主旨は、拙著『視ること それはもうなにかなのだ、評伝梶井基次郎』(左右社、2005年)でも展開している。

 ・・・梶井の作品には、デビュー作の『檸檬』以来、どれにも「物尽くし」と言えるほど多種多様な「物」が登場するが、それらは現実的な価値の点では、どれも大したものではない。だが、そこにはある一定の選択が働いていて、梶井は、出会った無数の物から放射されるパルスを識別し、独特の感性で篩にかける。彼が心を惹かれるのは、倦怠や優鬱を忘れさせ、一瞬の感動や快感を味あわせてくれる物に限られている。一言でいえば、それは想像力を解放する機縁となる何ものかなのである。
 その意味で、梶井の視線は「物」の表面に留まっていないと言えようか。物を眺めているうちに、梶井の意識は変容し、想像の世界に滑り込んで行く。同時に、眺められている物の方も現実的なものから、想像上〔イマジネール〕のものへ変貌をとげる。
そうした例を梶井の作品のなかに探そうとすれば、それこそ枚挙に暇がない。たとえば『城のある町にて』の一節――
 「私はお前にこんなものをやらうと思ふ。
 一つはゼリーだ。ちょっとした人の足音にさへいくつもの波紋が起り、風が吹いて来ると漣をたてる。色は海の青色で――御覧そのなかをいくつも魚が泳いでゐる。」(全集第1巻44ページ)
 そして『筧の話』では、自分の特異な感性に気づいてこう書く。
 「何といふ錯誤だろう! 私は物体が二つに見える酔つ払ひのやうに、同じ現実から二つの表象を見なければならなかったのだ。しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒の絶望を背負つてゐた。そしてそれらは私がはつきりと見ようとする途端一つに重なつて、またもとの退屈な現実に帰つてしまふのだった。」(全集第1巻169ページ)
 こうした外界との関係、意識のあり様は、まさしく幻視家〔ヴィジオネール〕特有のものだが、梶井にそれを自覚させた出来事が、一顆のレモンをめぐる体験であった。大正11年の夏、放蕩と狼藉の果てに、授業にも出ず、借金が嵩んで下宿にもいられない日々を過していた梶井は、ある日、二条寺町の果物屋で偶々見かけたレモンを購った。この一顆のレモンが、はしなくも自己の想像力の特質を自覚させるきっかけとなったのである。梶井は、この体験を『秘やかな楽しみ』と題する一篇の詩に書いた。

 「一顆の檸檬〔レモン〕を買ひ来て、
  それを玩ぶ男あり、
  電車の中にはマントの上に、
  道行くときは手拭〔タオル〕の間に、
  そを見 そを嗅げば、
  嬉しさ心に充つ、
  悲しくも友に離れて
  ひとり 唯独り 我が立つは丸善の洋書棚の前、
  ・・・・・・
  心に浮ぶ楽しみ、
  秘やかにレモンを探り、
  色よき本を積み重ね、
  その上にレモンをのせて見る、
  ・・・・・・
  丸善のほこりの中に、一顆のレモン澄みわたる、
  ・・・・・・
  奇しきことぞ 丸善の棚に澄むはレモン
  企みてその前を去り
  ほゝゑみて それを見ず、」(全集第1巻273ページ)

 これは詩というよりは、行分けの散文、あるいは日記の心覚えといった類のものだが、ここにはやがて『檸檬』で描かれる事柄がすべて示されている。梶井はこの日の体験に、激しく心を揺さぶられたのであった。d0238372_823030.jpg写真は梶井がレモンを買った「八百卯」だが、2009年1月に閉店した。
 そしてこのときから梶井の内面の探求がはじまるのである。わずか一顆のレモンを手にしただけで、なぜあれほど沈み込んでいた心が昂奮を覚えるのか。執拗につきまとう優鬱は消え去り、解放された気分になるのか。日頃あれほど疎ましく思えた丸善に入って、画集を次々と抜き出して、それを重ねて本の城を築き、その頂にレモンを置いたとき、一体何が起ったのか。レモン一顆のために、堅牢で、退屈な現実に穴が穿たれ、一瞬、想像上の世界が蜃気楼のように出現したのは、レモンのどんな働きによるのか。
 「心という不可思議な奴」を相手とする探求は、このあと、『瀬山の話』の草稿(全集の編者淀野隆三の命名によれば、「『檸檬』を挿話とする断片」)、習作『瀬山の話』、そして決定稿『檸檬』となった結実することになる。(続)
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by monsieurk | 2015-04-28 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

メキシコ革命Ⅱ

 マデロ政権の樹立は比較的スムースに行われ、政情は安定したか見えた。大土地所有者などの支配層は、その後着々と態勢を立て直し、一方で革命派は分裂を深めた。
 大統領選挙では国民の90パーセントの支持を得て政権の座についたマデロ(写真左)だったが、d0238372_8552539.jpg行政能力に乏しく大統領としては凡庸だった。彼は暴力ではなく秩序を保って改革を進めると宣言したが、ピリャやサパタに率いられる農民層は、すぐにも土地改革を行うことを要求した。しかしマデロには真の意味の土地改革を進める意思はなく、それが明らかになると、革命派はマデロを革命の裏切り者と断じ、大地主が所有する土地の3分の1を収用し、さらには革命に反対する者の財産を没収するとして、ふたたび武装闘争を開始した。
 マデロは政権を握ると、ピリャやサパタの農民を中心とした部隊を政府軍に組み込み、その指揮をディアス時代からの軍人であるウエルタ将軍に委ねた。ピジャたちは当然これに不満だった。ウエルタは彼らを烏合の衆として、彼らの戦力をいまだに続く反革命派との戦闘のなかで削ごうとした。写真は農民軍を率いるパンチョ・ビリャである。d0238372_8571451.jpg
 こうした戦いの最中、ピジャは規律違反を理由に逮捕され、ウエルタによって処刑される寸前、事態を知ったマデロドの指示で危うく死刑を免れるという事件も起った。映画『戦うパンチョ・ビラ』が描いているのは、まさにこの時点のメキシコである。
 一方でマデロ政権は、言論や労働運動の自由を保障したため、労働運動は都市を中心として労働運動は空前の盛り上がりをみせた。首都でアナーキスト系の労働運動の指導者たちによって「世界労働者の家」という組織もつくられた。こうした機運が経営者や外国資本に強い危機感を抱かせ、反マデロの動きを加速させる原因となった。左右からの反マデロの機運をとらえて動いたのが、駐メキシコ米国大使ヘンリー=レーン・ウィルソンだった。彼はマデロ政権の軍事的支えであるウエルタ将軍に働きかけてマデロから離反させ、政権転覆に踏み切らせたのである。こうして第2次革命ののろしは1913年2月9日、メキシコ市であがった。
 以後のメキシコの政情をめぐる混乱については、堀口九萬一を扱った拙著『敗れし國の秋のはて 評伝 堀口九萬一』(左右社、2008年)で詳しく書いたことがある。堀口九萬一はこのとき駐メキシコ臨時公使をつとめていたのである。
 2月9日は日曜日で、メキシコ市は朝から晴れていた。数日前から戦闘がまた始まるのではないかという風説が流れていたが、この日の早朝、市内で砲声が響いた。亡命したディアス前大統領の甥のフェリックス・ディアスと前陸軍大臣レイエスを獄中から救い出し、彼らを首領に戴いてマデロ政権を転覆させようとする武力蜂起だった。そして情勢が緊迫した午後2時頃、突然、マデロ大統領夫人の一行が日本公使館を訪ねてきた。
 東京の港区飯倉にある外務省外交資料館には、駐メキシコ臨時代理公使、堀口九萬一から発せられた公電や、本省からの訓電が所蔵されており、その主要なものは、『日本外交文書』大正2年(第1冊)中に、事項14「メキシコ革命動乱一件」としてまとめられている。
 堀口臨時代理公使から加藤高明外務大臣宛に、2月10日に打たれた公電は次のようなものである。
 「二月九日朝突然当市ニ革命騒動起リ曽テ Vera Cruz 叛乱ニ失敗シ入獄中ノ Felix Diazヲ戴キ政府ヲ顚覆セント企テ形勢容易ナラサリシカバ大統領夫人ノ父母ハ華族一同ト共ニ本官外出中ニ当公使館ヘ避難シ来リ居レリ右ハ如何取計フヘキカ何分ノ義御電訓ヲ国府尤モ勝敗ハ目下尚予見シ難シ帝國臣民中ニハ死傷ナシ其ノ保護ニハ十分注意シ居レリ」
 堀口九萬一が再婚した妻のスチナはベルギー人で、日ごろからマデロ大統領夫人と昵懇の間柄であった。そして公使館には九萬一の先妻との間の息子で、やがて詩人として有名になる大學も生活を共にしていた。
 この九萬一の報告に接した外務省は、2月12日付けで訓電を送った。内容は、大統領の両親一行が(大統領夫人だけは、その日のうちに大統領官邸に戻った)日本公使館に避難してきたのは、身辺の危害から逃れるためのものと思われるので、そのまま滞在させても差し支えない。ただし公使館に避難している間に政治的活動などをしないように十分注意ありたいというものであった。
 これに対して九萬一は翌日の公電で、彼らが当館に避難してきたのは、「平素ノ極メテ親密ナル交情ニ信頼シテ」のことであり、政治的な活動への懸念は皆無だと伝えている。
 9日に起きた軍事クーデタは、九萬一の公電にもあるとおり、モンドラゴン将軍とルイス将軍に率いられた部隊が、軍事刑務所に収監されている前大統領の甥で死刑判決を受けていたフェリックス・ディアスと、前大統領の側近であったベルナルド・レイエスを奪還する行動に出たことに端を発する。そして刑務所をまもる政府軍の抵抗にあって目的を達しないまま市街戦がはじまった。
 情勢は政府軍が優勢で、一進一退を繰り返してこの日は暮れた。ただ政府軍にとって痛手だったのは、戦闘で司令官のヒラール将軍が重症を負ったことである。マデロはその後任にヴィクトリアーノ・ウエルタ将軍を司令官に起用したが、これが大きな誤算だった。d0238372_913154.jpg
 ウエルタは反乱軍を包囲する一方、包囲されたモンドラゴンたちにひそかに使者を送って取引を行った。そしてこの陰謀の仲介役をつとめたのが、アメリカ大使のウィリアム=レーン・ウィルソンであった。
 マデロは政権につくと、メキシコで産出する石油に課税する方針を打ち出し、アメリカ資本の石油会社「タンピコ」の経営に大きな影響をあたえていた。さらにアメリカとの間ではコロラド川の船舶の航行とトラウァリロの水の供給の件で紛争が起っていたのである。
 マデロにツキがなかったのは、前年1912年11月、アメリカの大統領選挙でマデロに好意的な民主党のウドロー・ウィルソン(同名のアメリカ大使とは血縁関係はない)が大統領に選出されたが、彼の任期は3月から始まることだった。このときはまだ共和党のタフト大統領が政権の座にあり、大使の反マデロの行動を支持していた。
 メキシコでは内乱勃発以来一週間で死傷者は5千人をこえ、その多くは非戦闘員の市民だった。メキシコ市郊外のバルブエナの野原では、連日遺体を焼く煙がたなびいていた。
メキシコをめぐっては、いまだに石油の利権をもつイギリスや、内乱に乗じて武器を売りこもうとするドイツや日本の利害がからみあっていたが、アメリカのタフト政権は、ウィルソン大使の進言にもとづいて、ウエルタを大統領にすえ、これまでの投資を守ろうとしたのである。
 数日後、マデロ大統領と副大統領スアレスは、ウエルタ側に寝返った官邸の守備隊長アウレリアーノ・ブランケル将軍によって逮捕された。2月19日、ウエルタは大統領に辞職を迫ったが、マデロは殺されても断じて辞職はしないとはねつけた。この前日、大統領の兄のグスタヴォはウエルタから昼食に招待され、出向いたところをその場で逮捕され、その夜殺害された。
 その後の事態の推移は、堀口九萬一が書き残した「メキシコ革命騒動体験記」(『世界と世界人』、第一書房、1936年)に、日を追って詳しく述べられている。
 2月18日の夜、マデロはヴェラ・クルスへ送られ、そこからキューバへ国外追放になるというニュースが伝わり、日本公使館に非難していた大統領の家族は、一目大統領に会うために駅頭へ出かけて行った。だが大統領は姿を見せず、一同はむなしく公使館へ引き上げてきた。
 マデロは頑として辞職を受け入れなかったが、遂には、身の安全を保障するのと引き換えに辞表に署名させ、それを一時外務大臣のラスクラインがあずかり、無事国外へ出たのを見届けたのちに、ウエルタに手渡される手はずになっていた。しかしウエルタは約束を履行せず、この夜、マデロの辞職と自らが仮大統領となったことを公表した。そしてマデロと副大統領のピノ・スアレスは、22日の夜、逃亡をくわだてたとして殺害されたのである。
 九萬一の外務大臣宛の公電では、官報に「2月22日午後11時政庁監禁室ヨリ監獄ニ護送セラルル途中「マデロ」党員之レヲ奪ヒ取ラントシ其闘中殺害セラレタル旨」が発表されたと伝えている。同じ公電のなかで、北部において「マデロ」党が新政府に対して反旗を翻したことも述べられている。
 2月24日、前大統領フランシスコ・マデロの葬儀が行われた。九萬一は家族全員を連れて列席し、日本人居留民の多くも出席した。式は時勢をおもんばかって簡素なものであったが、多くのものが出席することで抗議の意を示したのだった。前内閣の閣僚の逮捕や逃亡のニュースが、しきりに新聞に報じられた。
 2月25日、九萬一は前日に続いてシリオン邸にマデロ未亡人を訪ねて、お悔やみと慰問の気持を伝えた。なおこの日の行動については、息子の堀口大學がのちに記した「白い花束」では記述が異なっている。
 大學によると、この日火曜日の朝、乗馬でメ故マデロ夫人の家へ行ってみると、「夫人の忠僕日本人黛某が出て来て、昨夜ヴェラ・クルスへ向けて出発されたと云ふ。そんなわけはない筈。多分何かの事情があって、身を隠されたものであろう。哀れな人の上に安き日あれ!」(「白い花束」堀口大學全集第6巻)。
 九萬一がマデロ夫人に会ったのは前日が最後であって、夫人は前日の夜にはどこかへ身を隠したというのが事実であろう。
 2月26日の午後、九萬一は妻のスチナや大學たちとともに、フランス墓地につくられたマデロの墓に詣でて献花をした。彼の墓は兄グスタヴォのものと隣り合っていて、労働者と見られる人たちが大勢墓にやってきて花環を置いていった。その一つには、「デモクラシーの犠牲」と書かれていた。
 一度は政権を握ったウエルタ将軍だったが、その後に独裁化がはじまると、アメリカのウィルソン大統領はウエルタ政権の不承認に転じて、駐メキシコ大使を更迭した。さらに武器援助も停止したため、1914年末には、ビリャとサパタは相次いで首都メキシコ市に乗り込み政権を掌握した。映画「戦うパンチョ・ビラ」は、彼らが政権奪取する寸前で終わっているが、彼らにも統治能力はなくメキシコは三度混乱に陥った。
 メキシコ革命が一つの終わりを告げたのは、革命派のなかでも立憲的な考えをもつカサランが政権の座に着いた1917年のことである。このとき「1917年憲法」といわれる憲法が制定され、そこでは土地、地下資源は国家に帰属すること、大土地所有の分割、農民や労働者の基本的権利の保護(8時間労働、最低賃金、ストライキ権、団体権の承認)、信仰の自由の保障、教会の特権的地位の否定など、世界初の民主的な内容を盛り込こまれ、メキシコ革命は大きな成果をあげたのだった。
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by monsieurk | 2015-04-25 22:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)

メキシコ革命Ⅰ

 4月14日の午後、NHKの「BSプレミアム」で放送された映画『戦うパンチョ・ビラ』(原題はVilla Rises)を観た。これは1910年から10年間続いた南米メキシコの革命を舞台にした作品で、革命軍のリーダーの一人パンチョ・ビラ(スペイン語の発音はパンチョ・ビリャ)と、彼に従った農民革命軍の行動を描いたものである。d0238372_784254.jpg
 舞台は動乱の続く1912年のメキシコ。アメリカ人の武器商人リーは、密輸の機関銃を政府軍に売り渡すため、メキシコの荒野に複葉機を着陸させる。取引は成功するが、着陸の際に車輪を壊したリーは、町の鍛冶屋ゴンサレスに修理を頼む。だが修理に一日かかると言われて、一晩彼の家に厄介になり、そこで出会った彼の娘フィナーに一目惚する。
 飛行機は無事に直って飛び立とうとするとき、町は政府軍に襲われ、ゴンサレスは大勢の人たちと共に捕らえられ、吊るし首にされてしまう。この一部始終を町の外から偵察していた反乱軍の一隊が逆襲をしかけ、銃撃戦の末に政府軍兵士を捕虜にし、リーも武器を売ったとして逮捕される。この反乱軍のリーダーこそがパンチョ・ビリャだった。飛行機は戦闘に役立つという副官フィエロの意見を聞き入れたビリャはリーを解放し、以後リーは反乱軍に加わって飛行機を使って味方を有利に導く・・・。
 映画の監督はバズ・クリーク。配役はビリャをユル・ブリナー、アメリカ人飛行士リーをロバート・ミッチャム、副官フィエロをチャールス・ブロンソンと、当時の人気俳優が演じている。
 メキシコ革命をテーマにした映画としては、1931年に『戦艦ポチョムキン』を製作したエイゼンシュテインたちが、凡そ1年間メキシコに滞在して撮影した『メキシコ万歳』が有名だが、これは諸々の事情から未完に終わり、1979年になって、ただ一人の生存者アレクサンドロフの手で完成、公開された。モンタージュ理論を実践したドキュメンタリー・タッチの傑作として知られている。
 1951年にアメリカで製作された『革命児サパタ』は、監督はエリア・カザンで、マーロン・ブランドが主人公のサパタを演じ、脚本を『怒りとブドウ』のノーベル賞作家ジョン・スタインベックが担当した。主人公エミリアーノ・サパタはビリャとともに、メキシコ南部で革命軍を率いた人物で、彼を通して反植民地運動と土地開放を主眼とするメキシコ革命の実態と歴史的意義を描こうとした力作である。
これに比べて、『戦うパンチョ・ビラ』は西部劇の色彩が濃く、映画としては二流だが、テーマであるメキシコ革命の時代背景は正確に設定されている。
 19世紀末から30年続いたディアス将軍の独裁政権が倒れ、フランシスコ・マデロが大統領の座に着いたのは1911年11月のことである。
 マデロはメキシコ北部コアウィラ州の大地主の長男として生れ、フランスとアメリカで高等教育を受けた。大学を卒業後は、父からアシエンダと呼ばれる広大な土地の経営を引き継ぎ、やがて政治活動に身を入れるようになった。
 ディアスが一度は民主化を宣言しながら、1910年に行われる大統領選挙に再度立候補し、他の候補を力で抑えようとするのを見て、マデロは結成された「再選反対党」の大会で大統領候補になった。ディアスは最初こうした動きを黙認していたが、選挙が近づき、国内で暴動事件が起るなど状況が緊迫すると、態度を一変してマデロを逮捕した。
 ディアスが7月10日に実施された大統領選挙で6選を果たすと、翌日に釈放されたマデロは10月にアメリカへ亡命した。マデロはアメリカから大統領選挙の不正を指弾し、11月20日を期して、武装蜂起するようにメキシコ全土に呼びかけた。動きを事前に察知したディアスは、武力を政府軍を動員して押さえ込みにかかったが、反乱は日を追って勢いを増し、政府軍と反乱軍の間で戦闘が頻発するようになる。
 北部ではパンチョ・ビリャ(本名ドロテオ・アランゴ)が貧農層を組織して勢力を拡大し、南部では小作人エミリアーノ・サパタが立ち上がって、大土地所有者から土地を奪取して、これを農民に配分することで力を急速に蓄えて、政府軍にゲリラ戦を挑んだ。農民を中心にしたビジャやザパタの戦闘部隊には、兵士の妻や子どもたちがつき従っており、彼女たちも銃をとって戦闘に加わり、負傷者を勇敢に助けた。
 マデロはこうした反乱のなか、翌1911年2月に帰国。反乱軍は各地で政府軍を破り、首都のメキシコ市でもディアスに退陣を迫るデモが起った。そして3月には、マデロを中心にすべての反ディアス派の軍事指導者が、北部メキシコのシウダード・フェレス(リオ・グランデ川を挟んで、アメリカの町エル・パソの対岸にある)近くに集まり、ディアス打倒の意志を確認した。
 事態がここに到って、ディアスは5月25日議会に辞表を提出し、フランスへ亡命した。この半年後の11月6日、マデロが大統領に就任した。これがメキシコ革命の前半期の出来事だが、アメリカ人ジャーナリストのジョン・リードは、1910年にメキシコで反乱が起こると、いち早くフランシスコ・ピリャが率いる農民革命軍のもとを訪れて、寝食をともにしつつ、その取材記事をアメリカの雑誌に送った。このルポルタージュをまとめたものが『反乱するメキシコ』で、ここには優れたルポルタージュの基本である、現場主義、徹底した資料の蒐集、深い洞察、優れた文体など、必要な要件がそなわっている。
 リードは後に1917年のロシア10月革命を取材して、世に知られたルポルタージュ『世界をゆるがした十日間』を書くことになるが、その実力はメキシコ革命のルポですでに証明されていた。(続)
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by monsieurk | 2015-04-22 22:30 | 映画 | Trackback | Comments(0)

岩波文庫版「辻征夫詩集」Ⅱ

 岩波文庫版『辻征夫詩集』に収められている谷川俊太郎さんとの対談のテーマは多岐にわたるが、作品と実生活の関係について言及されている個所がある。辻はそこで、金子光晴の「信頼」という作品を例にあげて、次のように語っている。
 「金子光晴では『愛情69』(この詩集については、いずれこのブログでも取り上げる)の対極にあるような詩で「信頼」というのがとても好きです。清岡卓行さん選の岩波文庫には採られていないので、アンソロジーには入っていないのかと思っていたら、茨木のり子さん選の弥生書房版には入っていました。あれが好きなんだと言うと皆びっくりするけれども、いい詩なんですよ。二十行ぐらいで、世の中に住んでいる普通の人――妻というのは絶対裏切らないもの、人生は慎ましく職人仕事などしながらじっと静かに生きていくような人、そういう人が大切なんだ、たとえば芸術をやっているような奴はそういう人のそばを通る時は息をひそめてそっと通りすぎなきゃいけない、そういう人をおどかしちゃいけない、という詩です。」
 この共感には辻の本質がよくあらわれている。1939年(昭和14)に浅草に生まれ、墨田区立言問国民学校に入学した翌年には、父の尚が伊豆七島の三宅島に支庁長として赴任したのに伴い、島の小学校に転校した。三宅島での3年間、辻は豊かな自然のなかでのびのびと育った。この体験は後の詩集『ボートを漕ぐおばさんの肖像』(書肆山田、1992年)などに描かれている。
 父の転勤でふたたび下町にもどった辻は、都立隅田川高校在学中に詩作をはじめ、「若人」や「文芸首都」などの雑誌に投稿して、自作が活字になる喜びを味わった。
1958年に明治大学文学部仏文科に入学、在学中の1962年に、詩作を止めるつもりで、第一の「詩集『学校の思い出』を自費出版した。収録したのは7篇であった。
 大学を1年留年して卒業すると、幾つかの小さな出版社を経て思潮社に就職し、「現代詩大系」や「現代詩文庫」などの編集にたずさわり、そのかたわら少しずつ詩を書きはじめた。やがて詩の書き手の側に身をおく決心をするとともに、堅気の職業につくことを考えて、都営住宅サービス公社に応募して採用され、60歳で亡くなる前年の1999年まで勤めて家族の生活を支えた。
 こうして年譜をざっと辿ってみると、辻征夫は「慎ましく職人仕事などをしながらじっと静かに生き」、その一方で、「芸術をやっているような奴」であり続けたのである。谷川俊太郎さんは、あとがきの「辻さんの言葉を頼りに」のなかで書いている。
 「『詩で大事なことの一つは厳密さということなんだね。曖昧なのは詩ではない。』

 辻さんは近所の人に話しかけるような口調で詩を書きます。実生活でもそうであるように、詩でもいい加減なことは言いません。いい加減な言葉は使いません。荒唐無稽な幻想を書くときも正確に、誠実に自分の身の丈に合った言葉で書きます。妙な言い方ですが、詩の骨格が散文なんです。
 いわゆる詩的な表現を、辻さんは生理的に受け付けなかったと思います。詩は言葉の上にあるわけではなく、言葉と言葉を組み合わせた見えない構造から生れる。その構造は詩人自身の生き方と切り離せません。曖昧な花というものが存在しないように、一篇の詩は一輪の花と同じく、独自な姿、独自な色、独自な香りをもつものだと辻さんは(多分)考えていました。(中略)

 『私は両手で銃を持ち、一発々々に思いを込めて数十発撃ったが、それでもなお胸に残る撃ち足りない思い、あの列島での日々を思うたびにこみあげてくるもの、この思いのために私はさらに新しい詩集を出そうと思った』

 〈こみあげてくるもの〉とはいったい何か、それは辻さん自身にも、名付けることが出来ない、説明することも出来ない何かではないかと思います。一九三九年から二〇〇〇年まで、二〇世紀の日本という国で、穏やかな家庭生活を送りながらも〈労働〉と〈詩〉の相克を生きたわけですが、時代と社会の圧力に苦しみつつ、辻さんは個人にひそむ〈業〉とでも言うべきものを無視する人ではなかった、と私は思います。
 生きることを歓びながらも、辻さんは趣味や、スポーツや、賭事に気を紛らわすことの出来ない人でした。読書も辻さんにとっては、楽しみと言うより世界をより正確に捉えるための、また詩はどうあるべきかを探るための手だての一つだったのではないでしょか。穏やかで、呑気にすら見える風貌の奥の辻さんの内面を知るのは難しい。(中略)
 辻さんは実生活とバランスを取りながら、その〈高貴な現実〉を繊細で優雅な詩に変換していきました。辻征夫という詩人に対する私の人間的信頼は、彼がいなくなった今も深まるばかりです。」
 辻征夫と親しかった詩人の八木幹夫さんが、車で相模川まで案内してくれたことがある。そのとき八木さんは、辻さんや中上哲夫さんと、ときどき相模川の上流に釣りに来たと話をしてくれた。辻征夫にとって、釣りは数少ない気晴らしだったのかもしれない。
 『河口眺望』(書肆山田、1993年)のなかの「そしてきみたちが寡黙な影となって」――

そしてきみたちが寡黙な影となって
さらに上流へ行ってしまってから
もちろんぼくも竿をのべて
いくつかのポイントを探ったのだが

ひとりになると激しい水音の奥に
知らないひとたちのさわめきが混じりはじめ
ぼくは現実の川を見ているのか夢を
見ているのかわからなくなってしまったのだ

青い羽の鳥が暗い木の枝から
水に突き刺さり魚をくわえて飛び立ったが
そのとき鋭い痛みを感じたのはぼくが
すでに川になっていたからだろうか

普段のぼくなら鳥は一篇の詩を
創り出そうと尖鋭化したぼくの意識で
魚は意識下にうごめくものの断片
ぼくの夢の原形だと語るところだが

一瞬心臓を直撃した悲哀は意外におおきくて
ぼくは竿とびくを川原に置き
渓流の石の間に沈めておいた
ウィスキーの小瓶を取り出した

育ちすぎた野生の独活〔うど〕は固くて食べられないが
齧ると鮮烈な香りが口中にひろがり
ぼくはきわめて現実的な姿勢で魚をもとめて
水を見つめているにちがいない二人の友

ぼくを渓流に誘ってきた
nakagomiとyagiのことを考えながら
乾いたおおきな石に腰をおろした

 辻征夫は1998年、脊髄小脳変性症と診断され、2000年(平成12)1月14日、喀血障害で逝去した。還暦を迎えたばかりだった。
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by monsieurk | 2015-04-19 22:30 | | Trackback | Comments(0)

岩波文庫「辻征夫詩集」Ⅰ

 詩人の八木幹夫さんから、辻征夫の詩集が岩波文庫から出版されることは聞かされていた。辻征夫については、2013年12月30日のブログ「憧れの久我美子」で書いたことがある。
八木さんは、「今度、辻征夫の詩集が岩波文庫に入ることになったんですよ。谷川俊太郎さんの強い推薦のおかげです。生前、われわれのような詩人の作品が岩波文庫になることなんかないよなと、二人で話していたのですが、それが入ることになったんです。まったく谷川さんのお陰です」と、わが事のように喜んでいた。
 岩波文庫版『辻征夫詩集』は、八木さんから聞いていたとおり、今年2月に世に出た。谷川俊太郎氏は詩篇を選び、1996年1月30日に行なわれた二人の対談を採録し、その上で「辻さんの言葉を頼りに」と題した丁寧な解説を書いている。
 収録されている詩は、第一詩集『学校の思い出』(思潮社、1962年)から、死後出版の『辻征夫詩集成 新版』(書肆山田2003年)までの詩集から71篇で、そこには単行詩集には未収録の8篇も含まれている。引用したい作品ばかりだが、眼をつぶって、前半、中ごろ、後半を適当に開き、たまたまそこに載っている3篇を書き写してみよう。
 まずは『隅田川まで』(思潮社、1977年)に収められた「春の問題」。

また春になってしまった
これが何回めの春であるのか
ぼくにはわからない
人類出現前の春もまた
春だったのだろうか
原始時代には ひとは
これが春だなんて知らずに
(ただ要するにいまなのだと思って)
そこらにやたらに咲く春の花を
ぼんやり 原始的な眼つきで
眺めていたりしたのだろうか
微風にひらひら舞い落ちるちいさな花
あるいはドサッと頭上に落下する巨大な花
ああこの花々が主食だったらくらしはどんなにらくだろう
どだいおれに恐龍なんかが
殺せるわけがないじゃないか ちきしょう
などと原始語でつぶやき
石斧や 棍棒などにちらりと眼をやり
膝をかかえてかんがえこむ
そんな男もいただろうか
でもしかたがないやがんばらなくちゃと
かれがまた洞窟の外の花々に眼をもどすと・・・
おどろくべし!
そのちょっとした瞬間に
日はすでにとっぷりと暮れ
鼻先まで ぶあつい闇と
亡霊のマンモスなどが
鬼気迫るように
迫っていたのだ
髯や鬚の
原始時代の
原始人よ
不安や
いろんな種類の
おっかなさに
よくそ耐えてこんにちまで
生きてきたなと誉めてやりたいが
きみは
すなわちぼくでぼくはきみなので
自画自賛はつつしみたい

 次にあてずっぽに開いたページには、「昼の月」が載っている。これは1990年に思潮社から出た『ヴェルレーヌの余白に』(思潮社、1990年)に収められたもの。オーデンの「子守歌」の一節をエピグラフとして引用したあとに、

恋人よ ぼくのからだの下で
暫く眠り 疲れを癒しなさい
きみの姿勢は だれが見ても
お行儀がいいとはいえないが
気にしないで眠りなさい
ひろげられたきみのゆたかな
腿と腿のあいだにも
ぼくのからだがあるのだもの
だれも見てはいないから
このままの姿勢で眠りなさい

愛って ほんとうはどんなものか
知らないけれど
恋情ならばけんとうがつく
きみと離れているとき
ぼくのなかにあいている
おおきな闇 そこを吹き抜けて
希望を凍らせ 憎しみのように強く
渇望をかきたてる風のことさ
だからぼくはきみと会えば
言葉もなくきみを摑み ぼくの空虚を
きみで塞ごうとするんだ

じゃ 眠りなさい
感情の亀裂と氾濫 肉体の悲しみは去り
きみは息を整えて眠ろうとしている
ぼくはきみに重みをかけないように
静かにかさなり
からだで子守歌をうたってあげよう
こうしていると きみが一段一段
眠りの深みに降りて行くのが
そこだけが別の小動物のような
きみのあたたかい襞の反応でわかるのだ

おやすみ いとしいひと
きみが微かな寝息をたてはじめると
ぼくはきみから離れて
細くあけた窓から外を見ている
そしてさびしさでいっぱいになって
かんがえている
ひとりぼっちでいるときの
ぼくの空虚は
あの青い空の
月のようだ

 最後に開いたところは、「野球場で」だった。

詩はどうやって
かくのだったか
忘れてしまった
(詩の外には雲や丘が
都市や樹木が
すなわち全世界が
ちゃんとあるのに)
詩はどうやって
かくのだったか
忘れてしまったのだ
(詩の外ではあなたやぼくが
そうぼく自身でさえが
生きているのに)
詩はどうやって
かくのだったか
その日暮れの江戸川の
草ぼうぼうの野球場で
わすれてしまっている

 この詩は初めて読んだが、初出は「流行通信」の1977年2月号とのことである。(続)
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by monsieurk | 2015-04-16 22:30 | | Trackback | Comments(0)

安井曽太郎の肖像画Ⅲ

 《金蓉》とともに、1934年秋の第21会の二科展に出品された《玉蟲先生像》は、最初のタイトルが《T先生の像》であった。安井曽太郎は仙台の第二高等学校から、同校の校長をつとめた玉蟲一郎一の肖像画の制作を依頼された。仲介したのは旧知の小宮豊隆である。
 玉蟲は1868年(明治元)4月に仙台で生れ、1892年(明治25)に第二高等中学校本科を出て、東京帝国大学英文科の入学。1895年(明治28)同校を卒業後は松山中学などに勤務した。その後は、第二高等学校の教授を経て、1928年(昭和3)9月から1932年(昭和7)3月まで、第18代目の校長をつとめた。
 二高では歴代の校長の栄誉をたたえるために、退任後に肖像画を学校に残すのが慣例であり、それを安井に依頼することにした。当時の二高には、小宮のほかに、安井をよく知る児島喜久雄や太田正雄(木下杢太郎)がいて、彼らも進んで推薦した。
 安井は仙台まで出かけ、ホテルに泊まりながら玉蟲先生の自宅でスケッチをすることになった。朝10時に行き正午までポーズ。昼食は近くの東三番町のカフェで食べ、そのあと夕方遅くまで描く毎日だった。玉蟲先生は仙台藩の家老の血筋をひく人で、古武士のような性格と風貌の持ち主で、長いポーズの間も身じろぎひとつしなかった。ポーズは9日間ほどで終わったが、その間、先生は一度も絵を見ようとしなかったという。
 安井は《金蓉》や《玉蟲先生像》を描く前年、1933年1月に「美術新論」に載せた「私のレアリズム」でこう語っている。
「自分はあるものを、あるが儘に現したい。迫真的なものを描きたい。本当の自然そのものをカンバスにはりつけたい。樹を描くとしたら、風が吹けば木の葉の音がする木を描きたいし、歩くことが出来る道路を描きたい。自動車が通っている道をかくのだったら、自動車の通る道を描きたい。人の住むことの出来る家、触れば冷たい川、湖水の深さまで現したい。人ならば、話し、動き、生活する人を描きたい。その人の性格、場合によっては職業まで充分現したい。」
 こうした考えのもとで、《玉蟲先生像》は完成した。まさに玉蟲先生の古武士然とした性格や、教師という職業に長年いそしんだ経歴がにじみ出るような作品だった。ところがこの絵に関しては面白いエピソードが残されている。俳人水原秋桜子が、評伝『安井曽太郎』(石原求龍堂、1944年)の中で、小宮豊隆の聞き書きとして伝えているものである。
d0238372_15375948.jpg 「安井君の玉蟲先生像は先生が二高の校長をやめられた時、記念として学校から依頼したもので、これは二高の教授と学生とが集まる割合小さな部屋に今も掲げてありますが、あれとは別に小さな肖像画を先生自身にさし上げることになってゐました。それが二高に着いたときにね、荷を解いてこの画を見た事務員が思はずぷつと噴き出してしまったといふのです。つまり事務員の眼には戯画のやうに見えたのでせうね。これは大変とだといふので、すぐに校長のところへ持ってゆくと、校長の阿刀令造氏も一眼見ておどろいて、そのまゝ画をしまひ込んで人に見せなかったといふのです。」――
 これからが面白い。校長さんはその後毎日食堂に出る毎に、集まる諸教授をとらへて、安井曽太郎の偉さを説明しはじめた。まづ二科会が日本の洋画界で最も清新溌剌たる団体であること、その二科の中でも特に安井曽太郎の傑出した作者であること、又、かつて滞欧作がいかに大いなる刺激を画壇に与へたかといふこと、その他数々の例をあげて、教授諸氏に予備知識を与へたのである。一般に何処の学校でも、教授たちはあまり油画に関心を持たぬから、当時二科の画風を知ってゐる先生などおそらく一人も居なかったであらうと想像される。そこに校長の苦心もあったわけであるが、そのうちに東京朝日紙上に児島喜久雄氏の執筆した二科展評が出て、「玉蟲先生の肖像」は非常に好評であったから、校長も時到れりとばかりに、はじめてかの画を公開したのださうである。
 しかし、この苦心の予備説法がどれ程役に立ったか? それはたいてい想像できることで、おそらくは不思議な表情をしつゝ、兎見角見(とみこうみ)した人が多かったことゝ思はれる。そこに描かれた玉蟲先生自身も、あまり会心の笑みを洩らされなかったさうである。」
 だが安井曽太郎に肖像を描いてもらうことは願ってもない名誉なことであった。その証拠に、安井が依頼されて描いた記念肖像画は、《玉蟲先生像》の他は次の5点を数えるだけである。
《本田光太郎肖像画》 1934年、東北帝国大学在職25周年記念
《深井英五氏像》   1937年、日本銀行総裁退官記念
《徳川圀順氏肖像画》 1948年、貴族院議員退任記念
《大内兵衛像》    1950年、還暦記念
《安倍能成君像》   1953-55年、古稀記念
 いずれも安井芸術の高い完成度を示す傑作である。
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by monsieurk | 2015-04-13 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

安井曽太郎の肖像画Ⅱ

 同じように人から推薦された女性を気に入り、モデルにして描いた作品に《金蓉》(96.5×74.5cm)がある。
これは1934年(昭和9)9月にはじまった二科会第21回展に《玉蟲先生像》とともに出品されたもので、制作の経緯については、制作中の1934年8月28日付けの「東京日日新聞」に、安井曽太郎本人が、「新秋画壇 出品画の下絵を見る」と題した文章を寄せている。d0238372_1192318.jpg
 「現代の支那服の美しいのに驚きました。実に簡単な形で、それでゐてかなり技巧的です。からだに沿って垂れたなだらかな線は繊細なものです。立像が殊によくその線を生かすやうでしたが、立つポーズはつかれるので腰かけにしました。最初いろいろデッサンをとりました。これはその一つです。
 モデルは知人で支那服のよく似合ふきれいな人です。その性格の表現や、服の美しい形と色などに苦心しました。人物をはつきり強く現すために附属物を幾分調子弱く扱ひました。五月の末から六月の二十日までポーズに来てもらってその後はモデルなしで仕上げました。僕は近頃よくこの方法をとります。自由に描き上げたいためです。」
 モデルの小田切峯子を紹介したのは細川護立であった。安井は画家仲間の児島喜久雄を介して細川と知り合い、何かと支援をうけていた。小田切峰子と細川がどう関係であったか詳しいことは分からないが、細川は安井にチャイナドレスの似合う彼女を描いてくれるように依頼したのである。
 小田切峰子は1903年(明治36)東京生まれで、父万寿之助は外交官として上海総領事などを歴任したあと、横浜正金銀行取締役をつとめた人である。峰子は聖心女学院高等女学校のあと、高等専門学校英文科を卒業し、1937年(昭和12)に満鉄に入社。終戦まで旧満州のハルピンヤマトホテルに勤務した。英語と中国語を含めて5カ国語を話す才媛だった。d0238372_1112223.jpg
 彼女は女学校のときからチャイナドレスがすきで、満州へ行ってから普段はそれを着てとおした。帰京した折も、東京の街を歩くその姿は目立つ存在だった。《金蓉》のモデルになったときは31歳だった。このときの彼女自身の回想が残されている。
 「安井先生に「金蓉」を描いて頂いたのは、昭和九年の春、私が父の病気見舞いの為、当時住んでいたハルピンから二ヶ月程東京に留っていた間の事である。初めて先生の御宅に伺ったのは五月二十七日。此の日をはっきり記憶しているのは、先生に私を紹介して下さった細川さんが、「必ず日を間違いない様に。」と、道順を記した紙に五月二十七日海軍記念日と書いて、更にその横に赤鉛筆で丸をつけて渡されたからである。
 画室に通ったのは十回位であったかと思う。先生は、私が椅子に腰かけたポーズを脚の組み方丈を違えたデッサンを二枚とられた。仕事と取り組んでおられる先生は、普段のあの温和な先生とは別人の感があって、絵筆にこめられる鋭い気迫は、時折目に見えない矢の様にカンバスを貫いてポーズしている私の処にとんで来る。思わずはっとした事も再三ではなかった。
 六月の末、私は帰満する日が来たが、「金蓉」は完成しなかった。私は着ていた支那服を先生のお手許に残して出発したのである。然し、八月に病人重態の電報で再び東京に呼戻される事になったのだが、先生は最後の仕上げに苦心しておられると云う話を聞いて、看病の合間に二度ばかりポーズに伺った。「金蓉」の支那服が現在の鮮やかな色になったのは、この時の事である。」
 安井は主人公が際立つように、背景の色を自在にかえたが、《金蓉》では、壁も床もうす桃色を基調にした色に塗られているが、モデルを中心に左右で色調が異なり、藍色のチャイナドレスが一層鮮やかに浮きでる工夫がなされている。椅子にゆったりと腰かけるモデルの身体の線に沿って、藍の色が右上方から左下にかけて流れるような曲線を描きだされる。さらにそれが椅子の脚や背もたれの直線とのコントラストによって艶麗さが強調され、下部の服の裏地の明るい青によって受け止められる。
 黒髪につつまれた顔は明るく、モデルの理知的な性格を表し、半袖から見える腕は白く、途中に嵌められた腕輪がアクセントになっている。少し上から眺められた視点は安井の肖像画の特徴で、左の肩先や、ところどころに敢えて残されたタッチは計算されたもので、画面に躍動感をあたえる役目をはたしている。《金蓉》は安井曾一郎の名を一層高める傑作となった。(続)
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by monsieurk | 2015-04-10 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

安井曽太郎の肖像画Ⅰ

 玄関の壁に飾る絵を、安井曽太郎の木版の風景画に変えた。京都で手に入れたものである。京都といえば、住んでいた岡崎北御所町は平安神宮のすぐ東隣にある町で、安井が最初に絵を学んだ聖護院洋画研究所は、丸太町通りを少し西へ行ったところにあった。d0238372_8415970.jpg
 1888年(明治21)に京都中京区の木綿問屋の五男に生れた安井曽太郎は、生祥尋常小学校を卒業後、京都市立商業学校に入学するが、洋画家になりたくて、1903年に同校を退学。翌年、写生中に知り合った中林僲(せん)の紹介で聖護院洋画研究所に入所し、浅井忠や鹿子木猛郎らから本格的に洋画の技法を習った。そして1907年(明治40)、友人の津田清風が海外実習生としてヨーロッパへ行くことが決まると、両親に頼んで同行を許された。
 こうしてこの年6月から、第一次大戦が始まる1914年夏までフランスに滞在し、戦禍を避けて避難していたロンドンから船で帰国した。この間7年、画塾アカデミー・ジュリアンなどで洋画を修得した。
 帰国して京都の自宅に落ち着いた安井がまず描いたのが、父常三郎と母よねの肖像画である。安井が1951年4月、「文藝春秋」に発表した「私の描いた肖像画」にはこうある。
 「私は一九一四年フランスから帰朝直後、父の像、母の像を描き、その後、弟の像、叔父の像、某夫人像なども描いたが、少し大きなものでは玉蟲一郎一氏(30号)の像が最初である。」
 安井の証言のとおり、《父の像》と《母の像》は、1915年に60.8×50.3cmという同じ大きさの一対の肖像として描かれた。これは安井が得意とした肖像画の先駆であり、フランスに留学させてくれた両親に対する感謝の念とともに、7年間の遊学で培った確かな技量を両親に示す意味があった。この絵には、多くの人たちが指摘するように、フランス滞在の後期に傾倒したセザンヌの影響が観て取れる。安井はここで早くも、対象の実在感を的確に表現する力量を発揮している。
 帰国した翌年、1915年10月に開催された「第2回二科展」に、ヨーロッパ滞在中の作品44点を特別出品した安井は一躍有名となり、二科会の会員に迎えられた。
そして安井の肖像画が、「安井スタイル」として一般に広く認められることになったのは、1929年9月の第16回二科展に出品された《坐像》(81.0×63.3cm)である。モデルになった女性は、陸軍大将乃木希典の姪にあたる人の長女、野瀬由伎子(藤子)である。
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 俳人水原秋桜子がのちに野瀬本人から聞き出したところでは、絵が描かれたとき彼女は二十歳だった。モデルになったときに着ていた着物は青地の絹で、制作は毎日七八時間、十五分毎に一休憩があった。
こうしてモデルを前にした写生を繰り返した安井は、それをもとにデフォルメや省略を施し、画面全体の色彩を調整して完成させた。この間6カ月を要したという。気品ある若い女性の匂いたつような全身像は、二科展で見るものを魅了し、同時に「安井の肖像画」の様式を確立する記念的作品になった。(続)
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by monsieurk | 2015-04-07 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

ガリア書房閉店

 今月初め、京都のガリア書房の右衛門佐(よもさ)時雄さんから、今年7月をもって店を閉めることにしたという電話があり、追いかけるようにして、「フランス書目録104号」が送られてきた。
 京都大学に勤務したときから、百万遍にあるガリア書房には、本の取り寄せなど大変世話になってきたから、まことに残念な知らせだった。
 最終号となるカタログ104号の表紙裏には、右衛門佐さんの次のような挨拶が印刷されている。ご本人の了解のもとに、一部を紹介させていただく。d0238372_1110552.jpg
 「新年度早々残念なお知らせで恐縮ですが、当ガリア書房は本年7月をもちまして閉店することになりました。インターネットの普及にともない洋書輸入の業態も大きな変容を余儀なくされてまいりましたが、ネット販売の隆盛やネット上でも文献データの公開、大学研究費予算の大幅な削減、フランス学習者研究者の減少など複合的な要因が重なり、ガリア書房も遂に幕を下ろす時が参りました。
 京都百万遍の地に熱い想いを込めて当社を設立しましたのが革命二百周年祝祭前夜の1989年4月、あれから26年という年月が経過しましたが、閉店するにいたった今年は奇しくも帝政崩壊の二百周年にあたり、いささか運命的なものを感じない訳にはいきません。ただこの間、季刊として欠号なく発行して参りましたこの「フランス書目録」を始め、各種の書誌情報を恒常的にご提供できましたことは、多少なりとも皆様方のご学習ご研究のの一助になったのではと、自らに言い聞かせている次第です。」
 右衛門佐さんは夫人と二人三脚でガリア書房を経営し、関西を中心に全国のフランス語・フランス文学の研究者や学生に、フランス関係の新刊情報を提供し続けてくれた。
 最終号を見ても、書誌情報のカバー範囲は、歴史、法律、経済、社会、教育、フェミニズム、哲学・思想、文学、語学・言語学、芸術・演劇・映画におよび、しかも文学関係で言えば、文学全般・比較文学、古典文学・中世文学、16世紀文学、17世紀文学、18世紀文学、20~21世紀文学と細分されていて、各時代の作家や詩人の作品、さらに著者や作品を対象とした研究書がリストアップされている。
 私たち読者や研究者は、自分が専門とする文学はもとより、その周辺にかかわる最新の研究を知ることができ、必要があればガリア書房を通して、フランスその他海外から本を取り寄せてもらうこともできた。
 挨拶文にある通り、日本におけるフランス文化・フランス文学をめぐる状況は、ここ10年ほど大きく変わった。それも年を経るごとに厳しくなる一方である。
これに加えてインターネットが普及し、個人が海外の出版元へ直接本を注文し取り寄せることが出来るようになった。本の取次ぎ販売を主とするガリア書房が閉店を決断されたのもやむを得ない事情と拝察する。ただ一フランス文学の研究者としては、今後、必要な書誌情報をどうやって手に入れればよいのか、途方に暮れている。海外の出版社も、ネット上に新刊案内を公開しているが、個人が毎年出版される膨大な本の情報を探し、必要なものを選び出すことは至難の業である。
 右衛門佐さんは最終号の編集後記で、こんな苦労話も披露している。
「想い起せば当初はまだタイプライターでしたので版下の制作には大変な苦労がございました。(中略)毎号最終頁を打ち終わる頃には疲労困憊しておりました。/ 数年が経ちガリア書房もコンピューターの導入を目指しましたが、日本語と仏語など欧州特殊文字の混在したデータを扱えるソフトが見つからず行き詰まっていたところ、遂にマッキントッシュ用の「ファイルメーカー」というデータベースソフトに辿り着きます。当時は2万件程度のデータしか扱えませんでしたが、丸一年まけて書籍管理や販売管理などのシステムを独学で構築しました。これが極めて優れもののソフトで、その後データも無制限に扱えるようになり、目録の制作にもこの最終号まで充分威力を発揮してくれました。」
 こうした努力のお陰で、フランスをはじめ世界各地で出版される本の情報をいち早く知ることができた。26年間、大いに助けられました。有難うございました。
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by monsieurk | 2015-04-04 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)

いまこそ日本語教育を

 NHKのラジオ番組、「地球ラジオ」は毎週の土曜日と日曜日の夕方に放送され、そのなかの「悠稀のもっと聴きたい」というコーナーに、5年前から定期的に出演してきた。この春の番組改定でコーナーがなくなることになり、3月28日が最後の出演だった。そこで最終回に話したことを採録する。

Q(倉益悠稀さん) 「悠稀のもっと聴きたい」も今回で最後です。今日は、「いまこそ日本語教育を」と題して、放送大学名誉教授のKさんに話をうかがいます。去年、日本を訪れた外国人観光客が1,340万人に達し、日本への関心が高まっていますが、日本語への関心も同じように高くなっているのでしょうか。

K 交際交流基金が運営する、パリにある日本文化会館の審議委員もつとめているのですが、ここは日本の文化を広く知らせる役割を果たしています。主な活動としては、展示会、講演会などと並んで、日本語教室を設け、フランス人をはじめ多くの外国人が日本語を学んでいます。

Q 先週の土、日は、この番組をタイのバンコクから生放送をしたのですが、日本語がわかる人たちが大勢集まってくださいました。いま外国で日本語を学んでいる人たちはどのくらいいるのでしょうか。

K 国際交流基金が3年ごとに行なっている調査では、前回2012年の時点で、世界の136の国と地域で、日本語を学んでいる人は398万5000人に達しました。この調査は、「語学教育として日本語を教えている学校やその他の機関」を対象にしたもので、テレビやラジオ、マンガ、雑誌、インターネットなどを利用して、日本語を独学で勉強している人を入れればもっと多いはずで、しかも最近は急速に増えているはずです。

Q 外国の人たちが日本語を学ぶ目的は何なのでしょうか。

K その点も調査がありまして、目的の一番は、「日本語そのものへの興味」で62.2%。2番目が「日本語でコミュニケーションをとるため」、これが55.5%。3番目が、「マンガやアニメ、J.POPなどが好きだから」が54.0%です。次いで「歴史・文学などへの関心」49.7%。「将来の就職のため」は42.3%で5位。「日本への留学」は34%で全体の7位です。
こうしてみますと、日本への知識面での興味が、実利的な目的を上回っています。また「マンガやアニメ、JPOP」への関心が「歴史や文学」の上に来ていて、日本のポップカルチャーが世界的に浸透していて、日本や日本語への興味や関心の入口になっていることが分かります。

Q 最近では日本の食文化への関心も高くなっていまね。

K 和食が去年の暮れに世界遺産になりましたし、寿司、ラーメン、餃子を食べたいという外国人によく出会います。ただ問題は、そうした興味や関心をどうやって日本語を学んでみようという気持にまでもっていくか。何と言っても文化を理解するには、言葉を学ぶのが一番ですから。

Q 私の場合も、英語を話したり読んだり出来るようになって、理解が深まった気がします。外国の人にもぜひ日本語を学ぶチャンスがあるといいですよね。

K 例をフランスにとれば、フランスの中学や高校でも外国語を教えますが、学生が学んでいる外国語の第1位は英語です。英語が世界の共通語になりつつあり、英語は別格として、ではその他の言葉はどうかというと、英語に次ぐ外国語の第2位が39.7%のスペイン語です。

Q 第3位以下はどうなっているのですか。

K 第3位がドイツ語。第4位がイタリア語です。そして、なんと第5位が中国語なのです。中国語を選択する学生が急速に増えていて、アルファベットを使うポルトガル語やロシア語の上で、全国で485の学校で中国語が教えられています。学校教育以外にも、中国は「孔子学院」という施設を世界中につくって中国語の普及に努めています。フランスでも全国に12箇所あります。
フランスにおける日本語の普及に関しては、高等教育機関「東洋語学校」に教師を派遣して、優秀な日本語や日本文化の研究者が育ってきましたが、中学校や高等学校のレヴェルで日本語を普及させるための日本側の協力が、もっともっと行われる必要があります。

Q 具体的には、どんな点の強化が必要なのでしょう。

K 日本語の学習者の398万人の内訳は、東アジアが54%、東南アジアが28%で、この両地域が圧倒的に多く、北アメリカの4.5%、ヨーロッパの2%と続きますが、日本語教育の問題点としては、教材が足りない、教師が足りない、施設や設備が不十分といった問題があります。とくに日本語教育が急激に拡大している東南アジアや、まだ日本語教育が余り行なわれていない、インドなどの南アジア、中米、アフリカなどのでは、教師、教材、施設などすべてが足りないという結果になっています。

Q 私も中東で生活した経験がありますが、日本のアニメなどへの関心は高いのに、日本語を学ぶ機会が余りないというのが実情ですね。

K 日本への関心が高まっている今こそ、外国の人たちに日本語を学んでもらう絶好の機会です。それにもかかわらず、教育にかける予算が絶対的に少ない。パリの日本文化会館でも予算が削られて、いままで購入していた図書や雑誌を削らざるを得ないという現状です。一国がどんな国を目指すかは、私たちの税金をどの分野により多く使うかで決まるわけで、こうした分野にもっともっと国の予算を投入してほしいと思います。

Q 「いまこそ日本語教育を」と題して、放送大学名誉教授のKさんに話をうかがいました。

K このコーナーも今日が最後ですね。

Q ええ、2年半やりました。お世話になりました。有難うございました。

K こちらこそ有難うございました。
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by monsieurk | 2015-04-01 22:30 | メディア | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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