ムッシュKの日々の便り

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マラルメの「賽の一振り」Ⅴ

 第3面を眺めると、そこには白地に黒く傾く難破船の形が見え、第4面では逆巻く渦が、第7面ではいままさに折れようとする羽、そして最終の第11面には天空にかかる北斗七星と見られる星座の形が、文字の配列によって白地に黒く点描されているのが分かる。d0238372_855625.jpg
 「賽の一振り」の紙面構成は、テクストのなかの各々の単語、各々の詩句の相関関係の違いを表すだけでなく、もう一つの役割を担っている。つまり、詩句の配置そのものによって、詩が喚起しようとする対象の形態や情景を暗示しようというのである。こうした仕掛けをもつ「賽の一振り」で、マラルメは何を物語ろうとしたのか。

 マラルメは詩篇の中心テーマ、「賽の一振りは / 断じて / 偶然を / 廃することはないだろう」を、第1面(右ページのみ)、第2面、第5面、第9面にわたって、異なる4箇所に分けて、もっとも大きな活字を用いて配置した。
 しかし、この中心テーマはマラルメがこれまでの詩作において追い求めてきた、「偶然を一語一語征服する」という目標と矛盾しないのか。それを考えるには、「断じて(JAMAIS)」という語を出発点として展開される、さまざまな副次的語群の意味を検討してみなければならない。それらの挿入句は、「賽の一振り」という唯一の行為が行われる状況を規定する、「たとえ難破の底から永久の状況にあって投げられたとしても」という句や、「すなわち・・主が」という文によって導入されるこの劇の主人公の性格などに関するものである。
 では、こうした唯一の主題をもつ詩篇は具体的にはどのような展開を見せるのか。第3の見開きページでは、大海原に擬せられる始原の「深淵」が白く泡立ち、大きな渦が口をあけ、それに翻弄される船体は右に左に傾き、往復運動を繰り返す帆は、飛翔も跳梁も無力であるような翼を連想させる。このページでは、右上から左下方へと流れるように配置された詩句全体の形態が、逆巻く白波や口をあける渦巻きを表現し、なによりも垂直に働く自然の力を暗示している。
 第4面は生と偶然のさまざまな力が働く嵐の場面である。その嵐のただなかにある日、「主」が姿を現わす。第四面の劈頭に、一段と太い活字で記された「主」は、文脈の上では難破船の「船長」とも受け取られるが、彼はマラルメが常々ハムレットに象徴させてきた英雄としての「人間」である。
 1886年に発表した散文「ハムレット」で、「なぜなら他のいかなる主題もないのであって、すなわち、人間における夢と、不運によって彼の人生に分け与えられた宿命との対立がそれである」と書いたが、この劇の唯一の主題は、人間における夢と、宿命との対立なのである。祖先である最初の英雄(主人公)は、自己の意志を宿命に対峙させるべく、「別の数ではありえない唯一の〈数〉」を嵐にむけて投げようとする。だが主は、偶然を必然に還元するこの試みを実行するのを躊躇する。そして、この瞬間に大波が彼を襲うのである。ここにきて主が賽を投げない理由が明らかになる。賽を投げて、たとえ「他ではありえない唯一の数」を出したとしても、それが偶然を廃棄したことにはならないのを知っており、むしろ投げないことで偶然性を止揚しようとするのである。現にそう決心したときに、宿命との対立を引き継ぐ者が出現する。
 第5面冒頭の7行は、「賽を投ずる」という行為(人間の宿命を超克するという夢をかけた冒険)が、波に飲み込まれようとする主〔船長〕から、「あどけない影 / 波しぶきから / 生まれた / 魔(デモン)」に譲られたことを示している。そしてこの存在にイジチュールやハムレットを重ねることは容易である。
 主のあとに出現した「あどけない影」は、人間にとっての根源的な冒険を引き継ぐのである。彼はこの世にあって、「偶然は決して廃棄することはないだろう」という掟を認めつつ、「小さいが男らしい理性」を唯一の頼りに、宿命に挑み続ける決意する。
 私たちはここで、マラルメが評論「音楽と文芸」で語った言葉を思い出す。「私たちは、ある絶対的な公式の虜であり、なるほど、存在するものしか存在しないということを知っている。・・・それでもなお私たちは、私たちのうちには、彼方に輝いているものが欠けているという意識を、ある種のトリックによって、雷鳴が轟く、禁断のある高みにまでいかにして投げ上げるか、そのことを崇めるのだ」。
 重ねて言えば、主あるいは暗礁の王子が、羽根飾りのついた縁なし帽を被っているのは、彼が芸術を手立てに運命に果敢に挑もうとしている証なのである。
 だが宿命の超克は、そう決意したからといってすぐ成就するほど簡単なことではない。第9面の小さまざまな状況を描く、最小の活字で印刷された詩句に囲まれた主文(3番目の大きさの活字で印刷されている)だけをたどると、以下のように読める。「もし(第8面のなかほどにある)・・・ / それが数ならば / それは実在したのか / それは始まったのかそして終わったのか / それは総和の明証性に達したのか / それは輝かせたのか / 〔もしそうであったとしても〕それは / 偶然であった」。つまり主を招き寄せた「確率との至高の交接」に拘泥するならば、それはしょせん「数であり・・・偶然であろう」というのである。このことは、さらに第10面でも違った形で駄目押しされる。
 「なにごとも / 起こること〔場をもつこと〕はないだろう / 〔何かが起こる〕場の外には/ ・・・ / あらゆる実在がそこへ溶け込んでいく / 波の / この海域においては」。
 だが、これがこの詩の結論ではない。第11面に到って、いつしか嵐はやみ、雲の切れた空に星座が輝き始める。
 「高みに / おそらくは / ひとつの場所が彼方と融合するほど遠くに / ・・・ / それは北極星と同じく北にあるはずの / ひとつの星座 / 忘却と衰亡によって冷えた星座 / ・・・/ 〔とはいえ〕ある空無な上方の表面のうえに / 次々と継起する衝突を / 星から来た形で列挙することはないほど / 冷えてはいない星座 / を除いては / ・・・ / あらゆる思考は賽の一振りを発する」。
 黙示録的難破によって、羽根は折れて海に落下し、すべてが「深淵の同じ中立状態」(第9面)のなかに没してしまう。つまり、人間がかかわる現実では、宿命を超克しようとして繰り返される努力にもかかわらず、すべては「偶然」が支配する深淵に飲み込まれてしまうのである。しかし、そのとき天空のはるか彼方に、ひとつの星座が輝きだす。それは人間の意志と努力を超えたものであるかもしれないが、それでも人間の営為を見守っているのだ。

 以上が「賽の一振り」の主要なテーマ、マラルメが「コスモポリス」の序文で語っていた言葉を用いれば、「潜在的な導きの糸」である。
 主〔老船長〕が賽を握った腕を頭上高く掲げたまま、賽を投げずに逆巻く海に没したのは、あとに続く人間への信頼の証であり、「あらゆる「思考」は「賽の一振り」を発する」のであり、人間が絶えず、思考が継続する限り、「偶然を廃する」努力は継続されるのである。
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by monsieurk | 2015-05-31 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの「賽の一振り」Ⅳ

 ポール・ヴァレリー(写真)は1898年の革命記念日7月14日にヴァルヴァンを訪れた。以下がそのときの思い出である。d0238372_8245383.jpg
 「昼食がすむと、彼は私を「仕事部屋」に連れていきました。奥行き四歩、横幅は二歩。光によって寸断された木の葉越しに、セーヌと森に向かって開かれていた。そして眩い川面のささやかなふるえが、壁にかすかに繰り返されていた。/ マラルメは「賽の一振り」の細部の仕上げに心労していた。ラユールが組み立てを引き受けたこの最新機械を、発明家は眺めかつ鉛筆で修正していた」。
 机の上には、「エロディアード」の原稿と「賽の一振り」の校正刷がひろげられていて、それには幾つかの訂正や活字印刷上の注意が書き込まれていたというのである。文中で「ラユール」が印刷を引き受けたとあるが、「ラユール」は当時有名な出版者で、フィルマン・ディド印刷所への橋渡しをしたのかもしれない。
 校正刷の検討と書き込み執筆は8月になっても続けられた。8月のレオポルド・ドーファンに宛てた手紙では、「鎧戸を閉めきって、違った仕事を二つの時間にわけて、午前中は昔からの夢の記述、午後は詩句とやろうとしているのですが、なかなかうまくいきません」と伝えている。この「夢の記述」が印刷の形で刊行されるのはマラルメの死後のことだが、校正刷はほぼ仕上がっており、それによってマラルメが抱いた「賽の一振り」の最終的な姿を推定することができる。
 マラルメは「コスモポリス」から最終稿への変更に当たって、発表した詩句に30余りの修正(単語、大文字・小文字の修正、行変えの位置、括弧の削除)を加えた。その上で、縦長の1頁に配置した詩句群を、大きさが横50・2センチ、縦32・2センチを1面とする横長のページに再配置した。使用される活字は、全大文字から最小の小文字まで大きさが異なる4種類と、活字の太さが違う1種類の、合計5種類のローマン字体。それに大きさ、太さが異なる4種類のイタリック字体の総計9種類の異なる活字が駆使されている。d0238372_8265833.jpg
 文字の大小はおおむね内容の重要度に対応し、またイタリック字体はより微妙な事柄を記述する場合に用いられている。これらを声に出して朗読する場合、語群の位置は楽譜における音符と同様に、抑揚を指示し、ローマン字体とイタリック字体の活字の大小は、音色と大きさを示している。
 従来の定型詩では決まった音韻の詩句を上から下へ重ね、マラルメの時代に盛んになった自由詩にしても、一行の音韻数が不定になっただけで、詩句の並びについては従来の形式を踏襲していた。しかし「賽の一振り」にあっては、一語あるいは数語からなる語群が、位置を変えて配置されているために、従来の詩形では考えられなかった新たな律動を生むことになった。
 これは「コスモポリス」版の序文で、「読むことの動きをときに早め、ときに遅らせ、その動きに拍子を響かせる」と語られていた通りである。それはまた「書物、精神の楽器」で、「偉大さ、思考、あるいは歓喜の、巨大な噴出。一枚の頁に一行、また一行と、太字の活字でたどられる文章が、読者を息もつかせぬ状態に、また自らの熱狂をもたらす力に訴えて、書物の持続を保ち続けえないことがあろうか。〔主文の〕周りには、細かい活字が、その重要度にしたがって、説明的、あるいは派生的な、二次的な群をなす ―― ひと撒きの装飾音符が、小さく、それぞれの持つ重要度に基づいて副次的に配置される」と書かれていたことの実践でもあった。
 このようにして、テクストは種類の異なる活字による詩句が、波動を描いて印刷されており、読者はこれを左上方から右下方へとたどっていくのだが、ページの中ほどを中心に、上下の位置は抑揚の上がり下がりを示している。しかも位置がさがるにつれて、詩句が表現する内容がはらむエネルギーも下がり、ページを繰ると、エネルギーはまた上昇し、同じ運動が繰り返されるのである。
 そして、テクストから少し眼を離して眺めてみると、マラルメがひそかに仕掛けたもうひとつの意図が見えてくる。(続)
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by monsieurk | 2015-05-28 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの「賽の一振り」Ⅲ

 このマラルメの手紙にあるように、雑誌「コスモポリス」に発表されたものは、詩句の配置の点で彼の意図を十分に実現したものではなかった。編集部と妥協して、本来ならタイトル部分を含めて見開き11面の形で提示されるべきものを9面に圧縮しており、使用する活字に関しても満足ではなかった。もちろんこの破天荒の作品を掲載してくれたこと自体、「雑誌にとっては、ずいぶん冒険を冒すことではあった」ことは十分理解し、感謝していた。それでも、これまで誰もやったことのない印刷技術上の試みを完璧な形で実現したいという気持が強かった。d0238372_815396.jpg
 画商のアンブロワーズ・ヴォラール(写真)から「賽の一振り」の豪華本をつくりたいとの申し出があったのは、「コスモポリス」の刊行前であったが、マラルメは雑誌の校正刷に手を入れつつ、豪華本の構想を練った。そして画商との間で契約がなり、5月5日には契約金の半分の250フランを受け取った。話し合いの結果、豪華本ではルドンが挿画を制作し、印刷はフィルマン=ディド社が行うことになった。マラルメは改めて印刷のために紙面の入念な割付や使用する活字を指定した原稿をつくって印刷所に渡した。
 7月2日、「賽の一振り」の最初の校正刷の一枚がフィルマン=ディドから届けられた。だが時間をおいて届く校正刷はマラルメを満足さなかった。9月15日付けのヴォラール宛ての手紙が残っている。
 「ご存知の通り、ディド印刷所の方は限りなく長引いている。いままでに3回校正刷を受けとった。しかし、数か月の間を置いて、です。中間のものはかなり満足できるものだったが、最後のものは、不用意に、また私の指示なしに変えられていた。こうしたことは皆小さなトラブルだが、私の手元にはまだルドンに渡せるほど仕上がったものは何もないという点では重要だ。いま催促の手紙を書いたところだ。今度は少しきちんとしたものを貰えるものと期待している。あなたも、紙の漉きについて監督してもらえないだろうか。24頁だから、申し合せのサイズで全紙4枚だ。
 「エロディアード」の前に「賽の一振り」を仕上げようとの仰せは、結構だ。ヴュイヤールが「エロディアード」の挿画を描いてくれれば嬉しい。彼に打ち明けてみてほしい。彼がこの誘惑に負けないとも限らないから。それというのも、彼は何でもできるのだから。私の習慣にしたがって、書き加えた部分を校正刷の形で雑誌に発表する ―― あるいは、しない ―― 可能性については、今後話し合うことにしよう。いずれにせよ、あなたのところで初版を出す予定の、作品全体を雑誌に載せることは決してない。これは確かだ。もっとも、そこまで仕事は進んではいないのだが。この追加部分は、いまの私の構想では、かなりの分量になるはずだ。序章と終章、この二つだけでも、いまある断章の倍の分量にはなるだろう」。
 この手紙によって、夏休みが明けても校正刷はなかなか出来上がらなかったことが分かる。加えて、ヴォラールは9月14日付けの手紙で、「賽の一振り」を仕上げた暁には、「エロデイアード」をエドゥアール・ヴュイヤールの挿画つきで豪華本として出版する計画を提案し、マラルメも基本的に同意したのである。若手の画家ヴュイヤールとは雑誌「白色評論」の編集者タデ・ナタンソンを通じて知り合いであり、同じヴァルヴァンにナタンソンとミシア夫妻が買い求めた別荘でもよく顔を合わせ、その温厚な人柄と室内画を高く評価していた。マラルメは「エロディアード」を、幾つかの部分を備えた長編詩につくり直す構想を持っていたから、ヴォラールの申し出には乗り気になった。それにしても、まずは「賽の一振り」の完成が先決であり、校正刷の仕上がりが待たれた。
 そして恐らく11月一杯でフィルマン=ディドの校正刷が出揃ったと推定される。マリーとジュヌヴィエーヴは10月末にはパリへ戻ったが、マラルメは一人ヴァルヴァンに残った。マラルメがパリへ戻ったのは11月7日である。このときフランスでは、1894年に始まった「ドレフュス事件」の裁判で世論は二分されていた。
 マラルメは騒然としたパリを去って、翌1898年4月22日には、一人でヴァルヴァンへ向かった。この一週間前には、請われて詩篇を寄せた『ヴァスコ・ダ・ガマの記念アルバム』が刊行されたが、マラルメの関心は「賽の一振り」と「エロデイアード」の完成であった。前者はルドンが挿画を完成するのを待っており、「エロディアード」についても目途が立った。(続) 
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by monsieurk | 2015-05-25 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの「賽の一振り」Ⅱ

「賽の一振り」が最初に発表されたのは、雑誌「コスモポリス」であった。「コスモポリス」は1896年1月に創刊され、タイトルが示すように、記事や作品は英語、フランス語、ドイツ語の原文のまま掲載された。世界の主要な都市に特約書店があり、サンクトペテルスブルクではロシア語版も印刷されていた。
 マラルメが「コスモポリス」のパリ支局から執筆の誘いを受けたのは、1896年10月のことである。これが「賽の一振り」制作のきっかけとなった。ロンドンで雑誌に協力していたエドマンド・ゴスの勧めもあり、また「宇宙(コスモス)」を連想させる雑誌の名前も一役買っていたかもしれない。
 このときパリ近郊のヴァルヴァンに一人いたマラルメは、パリにいるマリーとジュヌヴィエーヴに宛てた11月25日付けの手紙の一節で、「私は12月には世間を締め出すつもりだ。親切な銀行家〔父の出費が多いと嘆く手紙を寄越したジュヌヴィエーヴのこと〕に対する負債を払うためにも、「白色評論」と「コスモポリス」の仕事をしなければならないから」と書き送っている。この年の冬は「賽の一振り」の創作に全力を投入し、その甲斐あって原稿は翌年2月には完成し、3月上旬には校正刷がつくられた。こうして詩篇は「コスモポリス」の1897年5月号に発表されたのだった。
 代赭色の表紙をした同誌の頁を開いた読者は、目に飛び込んできた活字に度肝を抜かれた。読者は頁から頁へと読み進むうちに、これが筋ともいえない筋をもつ一篇の詩(あるいは「批評詩」)であることを悟った。じつはこの奇怪な形態を有する詩を解く鍵といえる作者自身による解説が、本文に先立って付記されていて、「ステファヌ・マラルメによる詩篇「賽の一振りは断じて偶然を廃することはないだろう」に関する指摘」と題された序文は、以下のような内容のものであった。d0238372_1548717.jpg
 「「空白」は、事実、重要な役割を引き受けており、まずは〔読者を〕驚かせる。詩法がそれを要求したのであって、抒情的なものであれ、無脚韻のものであれ、詩句の断片は通常は、紙面の中ほどの凡そ3分の1を占め、そのまわりを沈黙が取り囲んでいる。私はこの〔1面の詩句の分量という〕尺度を冒すことなく、ただそれを分散させるのだ。〔頁がめくられる毎に〕、ひとつのイメージが他のイメージの継起を受け入れつつ、それ自体は消えたり、また現れたりするように紙面が介入する。そして、そこでは通常なら、規則的な音韻の特徴や詩句が問題とされるのだが、―― この場合はそれよりも、何らかの適切な知的演出において、「思念」のプリズムを通した再区分と、それらが現れる瞬間、そしてそれらが競い合う時間の持続の方が問題なのであり、テクストが要求する潜在的な導きの糸の、遠くあるいは近くに、相応しいと思われる、さまざまな場所に〔詩句ないし語が〕置かれるのである。あえて言えば、語群や語群の間の語一つ一つを分離することの、文学的利点は、「ページ」の上の一度に目に入るヴィジョンにしたがって、読むことの動きをときに早め、ときに遅らせ、その動きに拍子を響かせることのように思える。つまりそれは他では、詩句あるいは完璧な一行がそれである単位として捉えられるのだ。・・・つけ加えるなら、撤退、延長、逃走をともなった、思想あるいはそのデッサンそれ自体の、このあからさまな使用から、声を出して読もうとする人のためには、結果として楽譜が出来上がることになる。支配的なモチーフと二次的モチーフ、さらに近接したモチーフとの間の印刷活字の相異は、声の発出の上での重要度を示唆しており、また〔そのモチーフが〕頁の中ほど、上、下にあるかどうかは、抑揚の上昇あるいは下降をしるすことになる。・・・この試みが、自由詩や散文詩という、予想外のものをともなう、特殊ではあるが、現代ではすでにお馴染みになった探求に関与するものであることは容易に認識されるであろう。」

 「賽の一振り」で扱われるテーマの最初の萌芽は、散文詩の「イジチュール」にさかのぼり、以来30年の長きにわたって準備されてきたものであった。マラルメはさらにこの詩で、最近になって展開した詩論(たとえば「詩の危機」)、書物論(「書物、精神の楽器」)、あるいは余白についての議論(「神秘、文芸における」)や、刊行した「パージュ」での実践の成果を十全に活用した。「序文」の最後では、「これらの結集は、私の認識では、〔文学とは〕異なる影響、コンサートなどで耳にする「音楽」の影響のもとでなし遂げられるのである。音楽からは「文芸」に属するように見える多くの方法が再発見されるが、私はそれらを取り戻すのだ。このジャンルはそれによって、徐々に、シンフォニーのようなものになることが望ましい」とも述べている。
 雑誌が刊行されると、5月5日、イタリアを旅行中のアンドレ・ジッドから熱烈な讃辞と感想が寄せられた。フランソワーズ・モレルも引用しているように、マラルメはそれへの返信のなかで解説を試みた。「「コスモポリス」誌は勇断があり、素晴らしかった。ただ、私は「「コスモポリス」には重要事の半分しか提示できなかったが、すでにそれだけで、雑誌にとっては、ずいぶん冒険を冒すことだったのだ! 詩篇はいま印刷されている。私が考えた具合に。パージ付けについて言うと、そこにこそすべての効果があるのだ。ある一語、大きな活字のある一語は、ただそれだけで、〔他に何もない〕空白の1頁全体を支配しているが、私はその効果は確かにあると思っている。しかるべき最初の校正刷を、貴君宛てでフィレンツェへ送ることにしよう、・・・星座〔のイメージ〕は、そこで、厳密な法則にしたがって、そして印刷されたテクストに可能な範囲で、必然的に、星座の動きの形を取ることになるだろう。船は、そこではあるページの上部から別のページの下部へと、〔船体を〕傾けているなどである。なぜなら、それこそが〔この詩の〕視点のすべてであって(ある「定期刊行雑誌」では私はそれを省かざるを得なかった)、ある行為や事柄についての一つの文章のリズムは、それらを模すものでなくては意味がないし、さらに紙の上に象られ、〈文字〉により元の版画から奪いとってこられたリズムが、それらの何かを表わさなければならないからだ」。(続)
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by monsieurk | 2015-05-22 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

マラルメの「賽の一振り」Ⅰ

 ステファヌ・マラルメの最後の作品となった「賽の一振り」( Un Coup de dés)は、文学にまったく新たなジャンルを拓くべく、詩句や書物をめぐる長年の考察の末に生みだされたものである。
マラルメの研究者フランソワーズ・モレルは、2007年10月に、マラルメの『賽の一振りは断じて偶然を廃することはない』(Françoise Morel:Stéphane Mallarmé, Un Coup de dés jamais n’abolira le hazard – manuscript et épreuves – édition et observations de Françoise Morel, la Table ronde)の新版を刊行した。
 この本には、冒頭の注記にもある通り、「コスモポリス」版の本文、「コスモポリス」版に「序文」として収録されたマラルメ自筆の原稿四枚、アンブロワーズ・ヴォラールにより、オディロン・ルドンの挿画を付して刊行されるはずであった豪華版のために、マラルメ自身が清書した21頁におよぶ自筆原稿(これには印刷のための指示が細かく記されている)、さらにマラルメが赤鉛筆で多くの訂正と指示を書き加えた上記豪華版の校正刷りが、それぞれファクシミリ印刷されて収められている。そして、このマラルメの校正・指示を忠実に反映して活字化した新版と、フランソワーズ・モレルによる「賽の一振り」の内容と形式についての考察の6つから構成されている。豪華版のための自筆原稿のすべてが公表されるのはこれが初めてで、マラルメ研究者や読者から長らく待望されたものである。d0238372_1540599.jpg
 豪華版のためにマラルメ自身が清書した21頁の自筆原稿は、編著者であるフランソワーズ・モレルの母フランソワーズ・シャルパンティエ=モレル夫人のコレクションに属するものである。夫人の父(編著者の祖父)アンリ・シャルパンティエは詩人で、マラルメ・アカデミーの事務長を務めていた。
 モレルによる考察の最大の特徴は、マラルメ自身の詩や主要な散文に当たって、「賽の一振り」に用いられている語が、彼の用いた語彙や言語構造のなかで担っている役割を検証してみるという、その徹底した方法にある。その結果、私たちはモレルの引用を通して、マラルメの主要な作品を渉猟し、彼の思想を再検討する機会を与えられることになる。
 フランスの伝統的な詩では、決まった音韻数をもつ詩句が重ねられているのに対して、「賽の一振り」では、一語あるいは数語からなる語群が位置をさまざまに変えつつ、紙面に配置されている。多様な意味を担った語群は、5種類のローマン字体と4種類のイタリック字体の、それぞれ大きさと太さが異なる九種類の活字を駆使して印刷されている。マラルメはこれを「楽譜」と呼んだことがあるが、「賽の一振り」は紙面に刻された凍える音楽だともいえる。
 見開き2ページを1面とする全11面にわたって展開される220行の作品のテーマは、「賽の一振りは / 断じて / 偶然を / 廃することはないだろう」というタイトルを兼ねた文と、末尾の「どんな思考も賽の一振りを発する」という文とに要約されている。この2つ文の間に「しかし」という接続詞を補って読めば、この作品が円環構造を持っていることが分かる。したがって、「賽の一振り」にマラルメの絶望や敗北感を見るのは誤りであって、人間の宿命を認めつつ、それに果敢に挑むことこそ(「賽の一振り」という行為がその象徴である)が人間の生の証だという信念が表明されている。
 こうした内容をもつ作品は、タイポグラフィーの点でも決定的な形式をそなえる必要があった。マラルメは豪華版の印刷を依頼したフィルマン=ディドに、一つの語や詩句の大きさ、それが占める位置や語頭の位置、それを取り囲む白地の空間について、詳細な指示を繰り返した。しかしマラルメは、この決定版の完成を目にすることなく急死してしまった。(続)
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by monsieurk | 2015-05-19 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

日本を愛したフランス人、ノエル・ヌエットⅢ

 版画

 ノエル・ヌエットのスケッチを印刷した3冊のアルバムは、日本人が見過ごしがちだった東京の魅力を再認識させるとともに、画人ヌエットの名前を広く世に知らせることになった。そんなある日、彼のもとを一人の画商が訪ねてきた。上野末広町に店を構える版画商の土井貞一で、聞けば彼の息子は静岡高等学校時代のヌエットの教え子だという。土井は版画にするために、東京風景をあらためて描く気はないかというのである。広重の浮世絵を見て育ったヌエットにとって、自分の版画を日本で出すことは夢であった。話はすぐにまとまった。
 土井はこれまでと同じように、ペンをつかって陰影を線で描くことを勧めた。ヌエットはこれまでのスケッチを見直し、百をこす気に入りの場所から20数箇所を選んで、大判の絵をペンで描いていった。
 宮城のお濠に松が陰をおとし、その先には近代的なビル群が立ち並ぶ「馬場先門」。雪の降りつもる日に、道を行く着物姿の女性を描いた「紀尾井町」。神田川を中央に配し、遠景に水道橋とニコライ堂の丸屋根が見える「御茶ノ水」。青さを残す空に浮かぶ雲は夕日を浴びて桃色に染まりつつある。そして、雨のそぼ降る掘割とそこに舫った舟を描いた「芝・古川」。街頭と背景の料亭に灯の入った「不忍池」。「神楽坂」では、夜の料亭街が長袖の女とともに描かれている。どこかの料亭に呼ばれた芸者だろうか。・・・
 ヌエットはこうした東京の風物を慣れたペン画で24枚描いたが、これを版に起こす彫り師の仕事は大変だった。残されている版画をみると、「彫エンドウ」、「摺セキ」、あるいは「刀池田」、「摺横井」といった名前が欄外に小さく刷られている。腕のある職人たちが、一枚に何週間もかけて繊細きわまる線を忠実に再現してくれたのだった。
 ヌエットによれば、土井貞一は「馬場先門」と「芝の山門」の2点をまず黒一色で刷り、そのあとで全作品を色刷りにする決心をした。こうして合計24枚の東京風景の版画が完成した。1936年(昭和11)のことである。版画は1枚3円で販売され、友人たちはヌエットを「広重四世」(幕末に広重を名乗った絵師は三人いた)と呼んでくれた。ヌエットにとっては名誉なことであった。
 この間、ヌエットは二度フランスに帰っている。一度は外国語学校と再契約をした1933年の夏休みで、このときはアメリカ経由で祖国へ行き、翌34年に母が亡くなったときは、シベリア鉄道で往復した。日本に戻ってきたヌエットは、自分の生活基盤がいまや日本にあることを実感した。そして外国語学校の他に、一高や幾つかの私立大学でも講義を行うようになった。   
 このころ書かれた詩の一篇――
「花咲く桜は岡を白い色で覆い
 谷間には小流が音を立て
 枝は柔らかいモスリンのように
 壁の肩や家の面にかかる。

 雪で埋まったかのように見える丸天井の下を道が走り
 古い有名な寺の境内では
 娘たちの歌声に交って
 蜜蜂の羽音が鳴る。

 夜は、月光が辷るように動き
 半開の花々の姿を
 石畳の上に休みなく描き出す。

 ところが、ある朝、不意に風が起り
 何もかも消えてしまった!
 少年たちが忙しく花びらを掻き集めている!」(『水蝋樹(イボタノキ)の香』

 戦争

 一陣の風が満開の花を吹き散らしたように、日本は暗い時代を迎えつつあった。満洲事変を起こした日本は、1933年3月に国際連盟を脱退。3年後には二・二六事件が起き、翌1937年7月の盧溝橋事件をきっかけに日中戦争がはじまり、1940年9月には日独伊三国同盟に調印した。それでもヌエットは、1939年、40年、41年と講義をつづけた。日本は1941年12月8日、真珠湾を攻撃し、英米に宣戦を布告した。彼はこのころの生活をこう振り返っている。
 「第一次大戦のときはわれわれフランス人の側にいた日本が、われわれの敵ドイツと共同戦線を張るのを見て私の心は痛んだ。・・・東京の空気は厳しくなっていった。1941年、ついに完全な戦争となった。外国語学校は(一ツ橋から)滝野川へ移った。私は麹町富士見町の気持のよい家に住んでいたが、生活は悲痛なものであった。フランスからのニュースは悪いものばかりだった。家族に関する消息はほとんど入手できなかった。」(『東京のシルエット』164頁)
 ヨーロッパでも1939年9月1日、ドイツが突如としてポーランドに侵攻し、9月3日、イギリスとフランスはドイツに宣戦を布告し、第二次大戦が開始された。当初優勢だったドイツ軍は1940年6月にはパリに入場して、フランスは事実上ドイツの占領下に置かれた。日本ではフランス語の本を輸入するのが禁止された。困ったのが授業で使う教科書である。そのためヌエットは、自分で教科書を執筆することにした。こうしてスケッチを挿画にした随筆集「En écoutant le veilleur de nuit(『夜回りの音を聞いて』)」が、1940年に白水社から出版され、1942年には、2冊目の「Papillons endormis(『眠れる蝶』)」が、外語学院出版部刊として第三書房から出された。
ヌエットが書いたこれらの文章は、同じ年、久持義武によって翻訳され、『日本風物誌』と題して三學書房から刊行された。同書の最後に置かれた「ベルベット館の小塔」は、神戸に旅行した折に訪れた外国船の船内で、フランスの古城の景観図を見た感慨を綴ったものである。最後は次のようにしめくくられている。
 「世紀と人間にかくも苦難をなめさせられていながら、しかも更生をやめぬ巴里!(中略)汝の千変万化な相貌ゆえに、かくもいつくしんできた巴里! 見捨てたつもりでいた巴里! 日本のこの港にまでわたしを連れ戻しにやってきた巴里! 今までになく親しみをおぼえる巴里!」(同書140頁)。
  外国人にとって日々に厳しさを増す東京にあって、ドイツ軍の占領下に喘いでいるであろうパリとパリの人々が、これまでになく懐かしいものに思えるのだった。
 その一方、ヌエットの身辺では警察や隣組による外国人への監視が強化され、食糧は配給制となり、家々の灯火は消されて街は闇に沈んだ。そんな中で彼が強く感情を揺さぶられた光景が二つあった。一つは若い女性たちが橋のたもとや人混みの十字路で、通りかかる婦人や娘たちに呼びかけて、前線にいる兵士に送る千人針を頼む姿であり、もう一つは靖国神社で行われる戦死者の葬儀だった。彼はその様子をこう描いている。「喪服につつまれた遺家族は前もって神社の前の庭で莚の上にすわるのであった。だんだんに夜となる。すると闇の中から式次第を読み上げる声がきこえ、陸軍または海軍の軍楽隊が非常に荘重な、非常にゆるやかな、非常に感動的な曲を演奏するのであった。」(『東京のシルエット』11頁)
 1944年秋からB29による東京空襲がはじまった。外国語学校の講義も行われなくなった。ヌエットは麹町富士見町の家の庭に自分で防空壕をつくり、空襲警報のサイレンが鳴るとベッドを出て、防空壕へ非難する夜が続いた。そんなある夜、彼は空を仰いだ。「不意に探照燈が光りを集めて一台の飛行機に向けた。それは非常に高く飛んでおり、あたかも銀の撚糸機のように見えるのであった。対空火砲が怒った大犬のように轟わたり、砲弾の炸裂が飛んでゆく敵を追っていた。つぎに、突然輝ける星にも似たものが雨のように降って来た。壮観でもあり恐るべき様でもあった。あゝ私はこの光景に追われてゆく恐怖にみちた婦人たちを思い出す。しばらくして空が赤くなってきた。深川、本所、浅草の火事がはじまっていたのである。」(『東京のシルエット』12-13頁)
 激しさを増す空襲で、ヌエットが愛し描いてきた東京が次々に姿を消していった。麹町の家も1945年3月1日の大空襲で焼けた。彼はこの夜まず靖国神社へ逃れ、その後で麻布へ向かった。歩いていく途中はどこも火の海だった。イギリス大使館の前では名物の桜の樹が燃えていた。皇居の上空には大きな薄光が見え、お濠に赤い空が映っていた。午前四時ころようやく大使館の友人の家にたどり着き、長椅子で仮眠をとることができた。下町の空襲で末広町の土井版画の店も焼け、ヌエットの版画のストックや版木がどうなったか分からなかった。
 3月下旬、ヌエットは多くの在日外国人たちとともに軽井沢へ強制疎開させられ、憲兵の厳しい監視下で暮らすことになった。彼が終戦を知ったのは軽井沢の森の中であった。

 戦後

 ヌエットが東京へ戻ったのは、終戦から2カ月たった1945年(昭和20)10月22日である。さっそく麹町富士見町の家を訪ねてみると、そこにはコンクリートの土台と焼け焦げた一本の木を除いてなにもなかった。彼はこの光景を克明にスケッチした。そのあとかつて描いた場所をめぐって、廃墟と化した東京を描いていった。門柱だけがぽつんと残る神楽坂の坂道をとぼとぼと登って行くもんぺ姿の女性。焼け野原となった神田。釣鐘だけが鐘楼の台座に放置された浅草の寺。赤坂の廃墟には人が歩く道の脇に一軒のバラックが建っていた。
 滝野川の外国語学校も焼失し、上野の美術学校の校舎を借りて講義が再開された。しかしどこに寝るのか。彼は六度も家を転々としたあと、1947年になって空襲を奇跡的にまぬがれた日仏会館に止宿することになった。館長はじめ住むものがなく、フランス使節団から建物を保存するために住まないかという誘いがあったのである。
 間もなく東京外国語学校は石神井に移転し、通うのは大変だった。そのため彼は17年間勤めた外国語学校を辞職する決心をした。幸いなことに、1947七年には、辰野隆が東大仏文科の講師の座を提供してくれ、早稲田大学、学習院大学、アテネ・フランセでも教鞭をとることになった。そしてこの年フランス政府から「レジョン・ドヌール勲章」を授与された。
ヌエットはその後しばらく江戸川のアパートに住んだあと、牛込矢来町に日本家屋を見つけることができた。ここはお気に入りの神楽坂にも近く幸せだった。
 ヌエットの最初の個展が開かれたのは1950年(昭和25)年12月のことである。銀座の万年堂画廊での展覧会は、彼にとって待望のものであり、案内状には作家の永井荷風が一文を寄せてくれた。
 「江戸時代に於ける江戸の町々の光景が葛飾北斎と一立斎広重の版画に描き残されているように、また明治時代の東京の風景が小林清親の版画において窺い見られるように、大正から昭和時代の東京、戦前戦後の東京の面影は詩人ヌエット先生の巧妙な余技によって永く後世に伝えられるのであります。われわれ日本人として戦争の罹災者として先生の作画にたいして無限の感謝と無限の喜びを感じます。」
 荷風の日記『断腸亭日乗』の4月20日には、「山内義雄氏Noël Nouët: En écoutant le veilleur de nuitを贈らる」とあり、10月8日には、「山内義雄氏よりヌエット氏著巴里寄贈」と記されている。東京の散策者であった荷風はヌエットの著書とともに絵にも共感を抱いていたのである。
 同じく1950年、戦前にフランス語で出した「Paris depuis deux mille ans(『パリ二千年 史』)」が、静岡高校時代の教え子、小林正と鈴木力衛によって翻訳され、『パリ』という書名で東大出版部から刊行された。2年前まで東大仏文科主任教授だった辰野隆は序文で、「先生は極めて控え目で、物静かな君子である。何時顔を合せても、穏かで、柔和で、相手に親しみと信頼の念を起させる。先生に於いては、地味と滋味が程よく調和されて、厳師と云はんよりは寧ろ好い小父さんと呼びたくなる人柄が備はっている。その人柄を僕は――僕等の仲間は――珍重するのである」と書いている。
 ヌエットは旧制静岡高等学校には始まって多くの学生を教えてきたが、1951年には1年間にわたって明仁皇太子のフランス語教師をつとめた。
 彼は1957年(昭和32)、東京大学に学位論文「Edmond de Goncourt et les arts japonais(「エドモン・ド・ゴンクールと日本美術」)を提出して文学博士の学位を得た。日本政府は1962年(昭和37)に、教育分野における長年の貢献と、日本や文化を外国に紹介した努力にたいして勲四等瑞宝章を贈って報いた。ヌエットはこの年、35年におよんだ日本での生活に終止符をうつ決意をした。横浜からフランス郵船のカンボージュ号に乗船したのは5月12日のことである。
 パリでは妻イヴォンヌに再会し、ブーローニュの森に近い16区ミュラ通り45番地のアパルトマンに住んだ。毎日街や森を散策し、一日一枚スケッチをすることを日課にした。かつてNHKの国際放送で仕事をともにした高橋邦太郎が、この家を訪ねたときのことを紹介している。
 「去年〔1966年〕4月、ぼくはパリの寓居にヌエットさんをたずねた。ヌエットさんはアパートの一階、質素な一室で、
 「もう、わたしも老いた。再び東京を見ることはあるまい」
 といいながら自作の弁慶橋の版画を示した。
 弁慶橋の上には高速道路がかかり、もう、そこに描かれた時の風景ではない。しかし、ぼくは、ヌエットさんには、破壊され、旧態はここに留められているだけだとは言いかねた。」(「本の手帖」第61号、1967年2月号73頁)
 東京都は1965年(昭和40)に東京都名誉都民の称号を贈った。このときヌエットの外国語学校の教え子で、その後朝日新聞の記者になった酒井伝六が記述したヌエットの小伝が東京都の公報に掲載された。日本を愛し続けたフランス人、ノエル・ヌエットは1969年(昭和44)9月30日に亡くなった。84歳だった。
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by monsieurk | 2015-05-16 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

日本を愛したフランス人、ノエル・ヌエットⅡ

 再来日

 日本へまた行ける機会を得たことはノエル・ヌエットを興奮させた。日本での生活を思い出すとき、最初に出会った二つのことがとくに強く蘇った。一つは畳の香りであり、もう一つは坊さんが木槌でたたく木魚の音だった。畳は初めて寝た日本間を思い出させ、木魚の音は神秘的に感じられた。 「この小さな音は、不意に狭い露地から、庭の垣根を越えて、あるいはまた店の陳列を越えて、どこからくるのか正確には知りえない状態で私の耳に聞こえてくるのが通例であった。そして静かにその音が消えたかと思うと、こんどは或る町角へきたとき不意に、同様にどこかわからぬ別の家から強く鳴り出すという具合だった。」(『東京のシルエット』23―24頁) だが、妻のイヴォンヌは日本へ再び行くことを承諾せず、ヌエットは一人でシベリア横断鉄道に乗った。東京へ着いたのは1930年(昭和5)春のことだった。
 勤務先の東京外国語学校は神田一ツ橋にあって、静岡高等学校のときとは違って多くの外国人教師がいた。フランス語で話ができる同僚の外にも、ラテン系のイタリア人、スペイン人、ポルトガル人の教師とも心を許す仲となった。学生たちも外国語を専門に学ぶ意志をもつ者たちで、授業時間も多く、一人一人の学生の顔もすぐに覚えた。住まいは麹町富士見町のさる日本人の家に下宿した。そこにはヨーロッパ風の一間があった。
 こうして待望の東京での生活がはじまった。神田には多くの私立大学やフランス語を教えるアテネ・フランセなどがあった。神田を特徴づけているのは、駿河台から九段下にかけて軒を並べる古本屋と大小の出版社だった。ヌエットは講義の合間をぬって古本屋街に足をむけた。時に掘出し物もあった。ある日、店先を覗いていた彼は、政治家で作家としても著名なエドゥアール・エリオが、駐仏日本大使館員に贈った献辞つきの著書をみつけた。ヌエットの友人も僥倖に恵まれた。エドモン・ド・ゴンクールの自筆献辞のついた著書をわずか五十銭で購入したという。
 当時の神田の古本屋には外国語の原書が多く売られていた。第一次大戦後のヨーロッパの経済的混乱で円の価値が高くなり、英語、ドイツ語、フランス語の本が大量に購入されたからである。ヌエットは売られているフランス語の古本に一つの特徴があるのに気づいた。原書の最初の方だけが頁を切られ、鉛筆の書き込みまであるが、終わりの方は頁が切られずに、そのままになっている本が多いことだった。フランスの本は仮綴で、購入した読者はペーパー・ナイフで頁を切り離して読み進む仕組みだった。英語やドイツ語の本は最初から製本されているから、こうした手間をかける必要がないが、フランス語の本はどこまで読んだかが一目瞭然である。フランス書は読者の努力をごまかすことが出来ないのだ。

 スケッチ

 ヌエットは二度目の来日にあたって、シベリアを横断している列車のなかで、今度の滞在中には、ぜひ東京の姿をとらえようと心に決めていた。その点で外国語学校がある一ツ橋はまことに地の利をえていた。彼は講義と講義との間に時間があると、すぐにカバンを携えて、日本橋や銀座の方へ出かけて行った。外出のとき決まって鞄を肩から下げるか、大きな紙入れをもって出かけた。そこに本や、デッサンをする紙とインク、ノートブック、予備の眼鏡、写真機、ときには弁当を入れた。そして鞄には、途中で買った本や骨董品、道で摘んだタンポポなども入れられるから、帰ってくるときには「兎を飲み込んだ蛇の腹」のようにパンパンにふくらむことになった。
 ヌエットはこうして時間を見つけては東京の街を歩いた。まず気づいたのは、銀座やその付近で見かける横文字の看板の多いことだった。レストラン、喫茶店、バー、あるいは普通の商店がフランス語の名前をかかげていた。日本に慣れたヌエットは、こうした店にフランス語を話す人がいるわけではないことを知っていた。銀座には「モナミ」という菓子屋があり、そこでは日本の古いしきたりにしたがって、背中に店の名前を染めた上衣を店員に着せていた。あるとき友人と銀座を通りかかると、藍色の地に白い文字で背中にモナミと横文字を染め抜いた上衣を着た男が通りを横切っていった。ヌエットはすかさず連れの友人に、「ほら、私の友人(モナミ)が行くよ」と叫んだ。
 一枚の写真が残っている。橋の上からスケッチしているヌエットを左側から撮ったもので、石の欄干にスケッチ帖を寄せかけ、万年筆で一心に風景を描いている。黒いソフトを被ったヌエットを取り囲んで、二人の日本人が手元をのぞき込んでいる。背景は大小のビル、東京のどこの街角であろうか。
 「奇妙なことだが、私はビルディングに興味を感じていた。私は常に全体的な眺め、『沈んでいる』眺めを見下ろすことができるように屋上へあがることを試みるのだった。三越、味の素、京橋の第一精養軒、尾張町の服部、その他ほとんどすべての大ビルの上から私はスケッチした。物見高い人がきて覗いた。しかし、ときどき海の方を向いて描いていると、あまりに御熱心な店員がきて、私に警告するのであった。『その方向を描くのには特別の許可が必要ですよ。あなたはスパイと間違えられる』と。こうして途中でデッサンをやめたことは一再にとどまらなかった。あるとき、駿河台の高台から後楽園を描いていると、一人の警官がきて水道橋の交番へ私を拘引し、尋問した。やがて彼は私の身分を確かめるために外国語学校へ電話をかけた。そのあとで結局、彼は私を釈放する決心をした。後楽園は当時は弾薬庫であったことを想い出さねばならない。」(『東京のシルエット』59-60頁)
 ヌエットはパリで内藤濯を通して知り合った遊学中の画家石井柏亭に絵を習ったが、スケッチには教えられたように、鉛筆ではなく万年筆を用いた。これには少年時代に見た広重の浮世絵の線の影響もあった。西洋絵画の伝統では、素描の線は消さるか塗りこめられる。色と形は存在しても、線は本来存在しない抽象的なものだからである。ところが浮世絵では、この存在しないはずの線がものと形を表現する決定的要素なのである。広重をはじめ、浮世絵がそのことを彼に教えてくれたのである。
広重といえば、彼は上野と浅草の間にある東岳寺に広重の墓を訪れたことがあった。寺には墓とともに版画商や愛好家が建てた碑があるが、そのかたわらにもう一基の墓があるのを見つけた。それは広重の作品を愛したアメリカ人ジョン・スチュアート・ハッパー(1863―1936)のもので、東京で教師をしていたハッパーは広重の版画を多く集め、死後は偉大な芸術家のわきに葬られることを望んだのである。

 アルバム

 ヌエットはお気に入りの場所のスケッチがたまると、それを関係のあった白水社に持ち込んだ。白水社はフランス語・フランス文学に関する本を主に出版する書店として、1915年(大正4)に創業された。1921年(大正10)には、『模範仏和大辞典』を刊行するとともに、学生向けの雑誌「ふらんす」を創刊していた。
 ヌエットは白水社の編集長草野貞之を訪ね、自分のスケッチを見せて、これを「ふらんす」に載せてくれないかと頼んだ。ヌエットは草野とは旧知の間柄で、第一次「ふらんす」の後をうけて出された雑誌「La Semeuse(種まく女)」の1926年5月号は、「ノエル・ヌエット特集」を組んでいた。草野は彼の申し出をこころよく受け入れてくれ、幾つかの作品が雑誌「フランス」(1928年に再び「フランス」と改題)に連続して掲載された。
 スケッチは好評だった。これを見たある出版業者が、それを絵葉書にすることを提案してきた。ヌエットは喜んで同意し、雑誌のための鉛版を活用して、絵葉書集「古き東京、新しき東京――一外国人のペン画」が売り出されることになった。このポケット版の絵葉書集はよく売れたが、ヌエットはほとんど無報酬だったという。それでも自分の描いた絵葉書を友人に送ることができて満足だった。
こうして絵を描くことが、フランス語の授業とともに大きな楽しみになった。彼は感動を催す風景を求めて、東京中を歩きまわった。
 ヌエットの野心はさらに大きくなった。当時、芦田均が社長をしていた新聞「ジャパン・タイムス」に知り合いがおり、東京スケッチを新聞に載せてくれないかと頼んだところ、この申し出を快諾してくれたのである。こうして「ジャパン・タイムス」は3年間にわたって、ヌエットが描く首都東京のパノラマを毎週掲載した。
 社長の芦田均は最初の50枚たまると、これで画集をつくることを提案した。ヌエットに異論があるはずはなく、東京の歴史を解説する短い文章を書いた。「TOKYO AS SEEN BY A FOREIGNER VUE PAR UN ETRANGER」が、The Japan Times & Mail から出版されたのは1934年(昭和9年)12月20日で、手元にある本には定価2円とある。
 50点の東京風景を収めたこの画集(アルバム)には、画家の有島生馬が好意的な序文を寄せてくれた。それは英語とフランス語に翻訳されて掲載されているが、それを再度日本語にすれば――
 「詩人というのはとりわけリズムに憑かれた存在のように見える。しかし、詩人たちはどちらかといえば絵画の愛好家である。ゲーテは音楽より絵画を好んだ。ヴィクトル・ユゴー、ボードレール、ヴェルレーヌ、他の大詩人の多くが素晴らしい詩集とともに、魅力溢れるスケッチを残している。ときわけ日本には『文人画』つまり『詩人画家の流派』の例が数多く見られる。
 ノエル・ヌエット氏もまた、詩を書くための愛用のペンで、精彩に富んだスケッチをものしている。そして彼は偉大なる散歩者であるように思う。彼の絵の題材はその現場で、もっとも芸術的なアングルで選び取られている。
 私たちがこの五十点のアルバムを持ちえたことは幸せだった。・・・・」
 こうして50点の万年筆によるスケッチが、1枚目の『宮城』から、50番目の『水道橋近くのパノラマ』まで展開され、それぞれにヌエット自身の短い説明書き(キャプション)が、これもフランス語と英語で添えられている。「封建時代の城の様式で建てられた宮城の古い櫓の一つ。奥には天守閣がみえる。宮城には多くの庭園があり、たわんだ松の枝が大きな堀の水面まで垂れ下がっている。宮殿へ近づくことは一般には許されていないが、その周囲はどの方角も、首都の最も美しい場所となっている」とあって、『宮城』のスケッチが掲載されている。絵の下部には「24 Oct 32 N. Nouët」というサインがある。
 2枚目は『日本橋』。「日本橋、日本の橋。最初は1903年に建造された。最初は木製で、以後12回つくり変えられた。近代的な橋は1911年の日付である。江戸時代、日本橋は非常ににぎやかな場所で、多くの浮世絵がそこを往来する画趣ある人たちとともに描いている。帝国の街道の距離を測る基点がこの橋である。」このスケッチは1934年2月21日に描かれたことが日付から分かる。このようにして、国会議事堂、ニコライ堂、東京帝国大学、東京駅、市谷の土手の松、丸の内大通り、上野駅、浅草観音、東郷元帥の旧邸、霊南坂などなどが描かれる。
 最後の50枚目は『水道橋近くのパノラマ』である。「神田の駿河台の高台からのパノラマ。鉄道の線路が運河の堀にそって走り、水道橋駅を過ぎる。江戸のこの場所は多摩川の水路だったことからこう呼ばれた。この川は17世紀に掘削された。工場のような建物は兵器廠で、かつて水戸徳川の屋敷があった場所に建てられた。1625年の日付をもつ庭園は保存され、多くの目利きをひきつけている。その名前は後楽園といい、天気が良い日には山並が地平線をくぎり、富士山の頂が夕映えの西の空に紫色のシルエットを見せる。」このスケッチは1933年3月7日に描かれた。
 ヌエットの画集では、裏表紙に1934年に建設されたばかりの日比谷劇場を背景に、着物姿の女性がこちらを振り返っている姿を描き、そこに赤字で右から左へ「東京」、「一外人の見た印象」、「ジャパン・タイムス社」と日本語で書かれているが、日本語の記述はこれだけである。それにもかかわらず画集は好評をもって迎えられ、よく売れた。そこでジャパン・タイムス社は、翌1935年(昭和10)、別の50点のスケッチを収めた第2集を発行した。こちらには有島生馬の序文に代えて、西条八十の詩を序文として載せた。
 ヌエットのスケッチ集はこれだけでは終らなかった。1936年(昭和11年)には、日仏会館から「Tokyo, ville ancienne, capitale moderne, cinquante croquis(東京 古い都・現代都市)」と題して、同じく50点のスケッチを収録した作品集が同じ型式で刊行された。ヌエットのキャプションはフランス語と英語のほかに日本語訳も添えられた。日仏協会理事長で貴族院議員の子爵曽我祐邦が序文を寄せて、こう述べている。
 「東京は日本の顔である。尊い伝統が残っている古い顔であると同時に、近代文化を反映している若々しい姿でもある。過去の集団であると共に未来にも通じている。
 これらの東京の姿は、ノエル・ヌエット氏の豊かな画集が我々に思い出させて呉れる。氏の筆になった素描は、実に丹念に描かれ、真情の籠ったクロッキーである。この画家は、如何にも東京をよく眺め、その姿を示す良心を持っている。描く風景もよく選れた。古いというも新しいと言うも、二つが別々に分れているのではない。新しい東京は、古き都の中に生まれつゝある。散策者は、古い町から突如として、モダンな姿をした町に入ることがある。それ故、往々外国人は、真の東京を見ずに過ぎることがある。ノエル・ヌエット氏は斯様な点を考えて、この画集の各頁に注意を呼び越している。見るからに、いとも優れた感情の画家と愉快な散歩をしているかの感が深い。」(同書5頁)
 たとえば22枚目の『谷中五重塔』では、手前に両側を板塀に囲まれた石畳のゆるい坂道が描かれ、その先には平屋の屋根々々。さらにその遥か遠くに遠く五重塔が望める。そして坂を下りきったところを左から右へ横切る道を、いましも天秤棒の前後に桶を下げた物売りが通り過ぎようとしている。豆腐屋だろうか、魚売りだろうか。いまにも呼び声が聞こえてきそうである。この絵のヌエット自身のキャプション――
 「庭園に挟まれた本郷のとある横町。遥かに谷中の五重塔が見える。現在東京には五重塔は之を入れて6、7基しか残っていない。」ノエル・ヌエットはスナップ写真のように昭和十年台の東京のたたずまい、この街が示す情緒をすくい取って定着させたのだった。(続)
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by monsieurk | 2015-05-13 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

日本を愛したフランス人、ノエル・ヌエットⅠ

 かつて雑誌「東京人」に連載した「東京を愛した文人画家 ノエル・ヌエット」(同誌、2011年4月、5月、6月号)を再録する。

 未知の国の首都
         
 2009年、東京・小平市にある「ガス・ミュージアム」で、「没後40年ノエル・ヌエット展 東京を愛した仏蘭西人」と題した展覧会が開かれた。ヌエットは戦前から戦後にかけて東京に住み、多くの日本人にフランス語を教えるとともに、東京の風物を版画やスケッチに残した人である。展示された24点の東京風景は、レンガ造りのミュージアムにふさわしい郷愁を誘う作品ばかりだった。
 ノエル・ヌエット――、フランス語を学んだ者は、「ヌエットさん」と呼んで親しんだものである。私は1950年代後半、高校生のときにフランス語を学びはじめたが、当時の「アテネ・フランセ」は神田駿河台の文化学院の中にあり、中庭で若い女性に囲まれて温顔をほころばせているヌエットさんの姿をよく見かけたものだった。私はヌエットさんに直接教えてもらう機会はなかったが、ヌエットさんの授業はやさしく、丁寧で、学生を叱ったことがないという評判だった。しかし、ヌエットさんがこれほど多くの東京風景を描いていたのを知っていた人は、それほど多くはなかったはずである。
 ノエル・ヌエットは1885年(明治18)、フランス北西部ブルターニュ地方のモルビアン県ヴァンヌ市に近いロクミネで生まれた。父のアンジュは医師、母はマリーといい、彼の本名はフレデリック=アンジェス・ヌエットである。十代で詩人になることを夢見て、パリ大学文学部〔ソルボンヌ〕で文学を専攻し、パリのモンマルトルに住んだ。
 卒業後は出版社に勤務し、高校時代から書きはじめた詩が著名な雑誌「レエルミタージュ」などに掲載された。このとき用いたペンネームがノエル・ヌエットだった。ノエルとはフランス語でクリスマスを意味するが、もともとはキリストの生誕を喜ぶ叫びで、中世では国王が町に入場する際にも叫ばれた言葉でもあった。
 そのノエル・ヌエットの詩は、たとえばこんなものである。
 「濡れて光る一つ一つの粒は
  凝結した熱情のようなものだ
  私の手にずっしりと重い房は
  思想をもっているかのようだ。

  黄金色の光りの日々に
  私の知らぬ葡萄畑の中で
  この迷える憐れなるものが
  その眼に何を映したかを私は思う。

  草々の間を吹きぬける
  神秘的な暁の風。
  大樹の知る
  地と天の秘密。
  ・・・・」(『無限を渇望する心』)
 ヌエットは後に自分の詩作をかえりみて、こう書いている。
 「私は強く息を呼吸しながら、机から遠からぬ場所を大股で歩き、すこしずつ私の頭の中で形づくられる語や句を急いでノートしたものであった。そのときには、私は澄んだ興奮状態になり、それが大きな幸福感を私にあたえるのだった。よい詩句や、みごとな比喩が見つかったときの歓喜! 隣りの家から聞える音楽の音符、窓から呼吸できる芳香、遥か彼方に見える地平線や樹、それらが私の想像力を刺戟するのだった。」(『東京のシルエット』110頁)
 彼はこうした詩を集めて、1910年には第一詩集『葉がくれの星』(Les Ētoiles entre les feuilles)を出版し、スピリチュアリスト賞を受賞した。さらに翌年の1911年には第二詩集『無限を渇望する心』(Le Cœur avide d’infini)、1913年には第三詩集『野原の鐘』(Les Cloches des champs)を立て続けに刊行した。これらの詩集は好評だった。評論家のモーリス・アレムは、「彼の芸術は即興性と単純さと静謐さからなっている。感情や印象は彼の詩の糧であり、彼はそれを感じた瞬間に、ほとんど加工しない形のもとに翻訳する。だから彼の詩句にはいかなる技巧もない」と指摘している。第三詩集の裏表紙には、次の詩集『Paulo majora』の刊行が予告されていたが、この詩集は出版されなかった。
 1914年7月、第一次大戦が勃発すると、ヌエットも動員されて軍隊に入った。第一次大戦はフランスのみならずヨーロッパ全土に未曾有の惨禍をもたらした。フランスはドイツの侵攻を食い止めるために、東部ヴェルダンに要塞を築いていたが、ドイツ軍はこれを迂回する作戦をとったために役に立たなかった。やがて戦線は膠着し、各地で塹壕戦が繰り広げられた。幸いヌエットは前線に送られることはなかったが、とても詩を書く気にはならなかったのである。
 戦火は1918年11月になってようやく止んだ。ヌエットも日常の生活を取り戻した。パリでは戦前にもましてさまざまな文化活動が行われ、文学サロンも再開された。ヌエットもこうしたサロンに出入りする機会があり、フランシス・ジャム、アンリ・ド・レニエ、女流詩人のアンナ・ド・ノアイユなどと知り合いになった。そしてその詩が、フランス座(コメディー・フランセーズ)の「詩の会」で朗読されるという光栄に浴した。
 彼は、日本からパリを訪れた歌人の与謝野晶子・鉄幹夫妻と知り合い、さらにパリに留学していたフランス文学者の内藤濯や山田珠樹とも親しく交流することになった。内藤濯の『星の王子パリ日記』の、1922年(大正11)12月20日の項には、「珠樹、茉莉の部屋に詩人ノエル・ヌエット氏夫妻がお茶に招かれる。ここに同席して二時間近く話しこむ」という記述が見える。ただ、ヌエットが最初に日本と触れたのはこれよりもずっと早く、少年時代、母マリーが所有していた日本の浮世絵を目にしたときである。

 広重

 幕末の日本は諸外国と修好通商条約を結び、1859年(安政6)に、フランスの初代公使としてデュシェーヌ・ド・ベルクールが赴任したが、ベルクールは日本滞在中に広重の浮世絵の美しさに魅せられて蒐集した。広重がコレラで世を去ったのは、ベルクールが着任する1年前の1858年である。
 広重は1833年に刊行した『東海道五十三次』で一躍人気浮世絵師となり、その後『木曾街道六十九次』『近江八景』『名所江戸百景』を次々に発表して喝采を博した。ベルクールが集めたのは『江戸百景』で、1864年に帰国するときにフランスへ持って帰ったのである。ベルクールは晩年になって、このコレクションを姪に譲り、ヌエットの母がこの姪の親しい友人であったことから、広重版画はヌエット家の所有となった。箱の中に大切にしまわれていた版画を少年ヌエットは目にしたが、やがてそこに描かれた極東の国へ行き、そこに長年住んで、絵の対象を実際に見て、それを自身が描くことになるとは想像もしていなかった。彼はこう述べている。
 「私がいつか日本に住み、東京の中で広重の描いた場所にめぐり会い、皇居となった将軍の古城の姿を私自身も描くということを誰がいったい予想できたであろう? まことに運命とはかくのごときものである」「私はとくに、広重が興にまかせて最初の構図として描いた風景のある版画をさがし求めるのを楽しみにする。きわめて大胆なこれらの作品はスナップ写真を想わせる。思うに、広重はわれわれに『突然眼に映った物』の印象をあたえることを歓びとした唯一の、(あるいはほとんど唯一の)芸術家である。即興的に作られたこれらの下画の中には偉大なる巧みさが認められる。構図のないことが優れた構図となっている。」(『東京のシルエット』193-196頁)
 ヌエットは広重の風景画の特徴をこう定義するが、これは彼の詩の創作態度に共通するものではないのか。そうだとすれば、少年時代に目にした広重の浮世絵が無意識に与えた影響は大きかったのではないだろうか。
 ヌエットが風景に親しむ習慣を育てたのは、ブルターニュにいた少年時代、父と一緒にした散歩だった。彼はパリに移ってからも散策に時間を費やした。彼が好んで足を向けたのは、16世紀から17世紀の面影の残るパリの古い地区だった。こうして街角の凹みに何気なくたたずむ聖母像や古い橋などを発見した。さらに彼が見出したのはパリの風物だけではなかった。
 「パッシーでジャン・リシュパン(詩人)に会ったのも、あるレストランの入口でアナトール・フランス(作家)が美人をつれて車から降りてゆくのを見たのも、ジャンヌ・ダルク祭の日に、リヴォリ通りでモーリス・バレス(政治家・作家)に会ったのも、自宅へ帰りゆく老画家ジャン・ポール・ローランと擦れちがったのも、こうして歩いているときであった」「歩くことが私の思考作用を助けるのだ。私は考えるために話すことを必要とする『南方人』ではない。私は気持が定まらず、頭がスッキリしないときには歩き出す。」(『東京のシルエット』144-145頁)
 ヌエットは、やがて訪れたニューヨークでも歩き、ロンドンを歩き、モスクワを歩き、北京を歩いた。ニューヨークでは雲のなかにそびえる高層建築を賛美し、モスクワではプーシキンの像に敬礼し、北京では大理石の橋と宮殿の庭を横切って、玉座の間に通じる石段の上でスミレをつみ、ホコリのなかに横たわるラクダや黒豚の群をよけて歩いた。この散策の習慣は、やがて訪れる東京でも変わらずに続けられることになる。

 来日

 ノエル・ヌエットは1920年、35歳のときに結婚したが、新婚生活をはじめて間もなく新妻が突然病気で亡くなった。悲嘆は大きく、しばらくは何も手につかない状態が続いた。そんなヌエットの生活に転機をもたらしたのが、1925年に、パリの日本大使館に勤務する日本人外交官からもたらされた情報だった。彼は大使館員にフランス語を教えていたが、ある日、静岡高等学校がフランス人教師を探していて、適任者を推薦してほしいと外務省を通して在仏大使館に依頼してきたというのだった。
 ヌエットは正式なフランス語教師の資格をもっていたわけではなく、雑誌社に勤めるかたわら文章を書き、詩人になることを望んでいた。だが大使館員がもたらした未知の国での新たな生活が彼をひきつけた。話はとんとん拍子に進み、ヌエットは3年間の契約で旧制静岡高等学校へ赴任することになったのである。ヌエットはこの年にイヴォンヌと再婚しており、二人がマルセイユからフランス郵船の定期船に乗ったのは1926年(昭和元)1月のことだった。
 船は地中海を横断して、19世紀末に開鑿されたスエズ運河を通ってアラビア海に入り、アフリカ大陸を右手に見ながら南下、やがてインドのコロンボ、シンガポール、インドシナのサイゴンと寄港し、香港、上海に停泊して中国を垣間見たあと、最終地の横浜へ着いたのは、3月13日である。港に接岸するはるか前から遠く富士山が見え、はるばる極東の国へやってきたことを実感した。
 上陸した横浜の市街地には、2年半前に襲った大地震の跡がまだ残っていた。ヌエットは下船すると、出迎えてくれたフランス語学者の永井順などとともに、その足で汽車で東京へ向かい、駅から近い丸の内ホテルに投宿した。永井たちは彼を黄昏のなか、二重橋に案内して、皇居のシルエットをヌエットに見せた。大きな濠にかこまれた宮城の青銅の大きな屋根が樹々の上に見えた。東京ではじめて目にした風景はヌエットの一番お気に入りの場所となった。
 一夜が明け、彼は朝食も早々に街へ出た。街ゆく男たちの多くはサラリーマンで、パリや他のヨーロッパの首都と変わらない洋服姿だったが、時折見かける女性は皆が着物姿だった。彼はそれを驚きと喜びをもって眺めつつ、日本へ来たことをあらためて感じた。
 3月18日、ヌエットは静岡へ向かった。静岡には茶の買い入れに来ているイギリス人やアメリカ人の家族がいて、すぐに知り合いになった。そして静岡高等学校での授業がまもなく開始された。学生を前に授業をするのは初めての経験だったが、学生たちは静かで、さほどの困難もなくヌエットは教師生活をはじめることができた。
 旧制高等学校は文科と理科に分かれ、さらに各コースが、専攻する第一外国語によって、英語専攻が甲類、ドイツ語が乙類、フランス語が丙類の別があった。フランス語を第一外国語とする丙類がおかれていたのは、一高、三高、大阪高等学校、浦和高校、福岡高校、東京高校、静岡高校と、全国の高等学校のなかでもごく限られていた。
 ヌエットは授業をすべてフランス語で行ったから、最初のうち学生たちは彼の言うことをほとんど理解できなかったが、それにもだんだん慣れていった。そしてしばらくすると、ヌエットは毎週東海道線に乗って東京へ出ることになった。日曜日に静岡を発って、東京の士官学校で月曜日に講義をして、その夜に静岡へ帰るというスケジュールだった。当時の東海道線は丹那トンネルが開通する前で、箱根を越えるには御殿場経由だったから時間がかかった。それでも週に一度の東京行きは大きな刺激をあたえてくれた。 1928年(昭和3)には、フランス語で書いた“Paris depuis deux mille ans”(『パリ二千年史』)を東京の白水社から刊行した。
 こうして契約の三年がすぎた。1929年(昭和4)3月、帰国のための旅費が支払われ、ヌエットはシベリア鉄道で帰国の途についた。汽車の旅行は二週間を要したが、途中モスクワで半日ほどを過ごすことができた。このときも彼は好奇心に導かれるままにモスクワの街を歩きまわった。
 ノエル・ヌエットはパリへ帰ると詩人としての活動を再開し、日本の風物を含む自然への愛をうたった詩を集めて、第四詩集『水蝋樹(イボタノキ)の香』(Le parfum des troènes) を老舗の出版社ガルニエから上梓することができた。ちょうどこの頃パリの15区にあるシテ・ユニヴェルシテールにつくられた日仏会館の開館式に出席し、日本人留学生にフランス語を教えることになった。1930年になると、今度は東京外国語学校でフランス語を教えてほしいという要請があった。ヌエットは申し出を喜んで引き受けた。こうしてふたたび日本へ行くことになった。(続)
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by monsieurk | 2015-05-10 22:30 | 美術 | Trackback(1) | Comments(1)

「瀬山の話」の位置Ⅳ

 岡崎西福ノ川町というのは、聖護院と光明寺の間にある町で、下宿を出て東へ三百メートルも歩けば、光明寺の境内へのぼる石段に達する。そして光明寺の境内を北に抜けるとそこが真如堂。真如堂を出て坂を下り、白川通を東に渡り数百メートル行くと、鹿ケ谷の疎水に沿った「哲学の道」に行き当たる。この静寂が領する道を南に下ると若王子に行くことができる。
 雪がちらつく冬の日、梶井が主人公の「私」にたどらせようとするのは、東山山麓をめぐるこうした道筋である。筆者は岡崎西福ノ川町を出発して、この道順を実際に歩いてみて、以上の推測が間違っていないという確信を得た。
 そしてもしこの推測が正しいとすると、『瀬山の話』の執筆は、梶井が岡崎西福ノ川町の下宿へ移ったのち、すなわち大正十三年一月八日の第三学期開始より後ということになる。
 先にも述べたように、泥酔のあげくようやく下宿までたどり着いても、大声で家主を起して逃走した出来事といい、二条寺町の果物屋で偶然購った一顆のレモンが、ささくれだった心を思いがけなく鎮めてくれ、やがてそのレモンを丸善の画集の上に置くといった悪戯まで仕出かす例のレモン体験は、みな北白川の澤田宅に下宿していた時代に起った出来事である。習作『瀬山の話』をはじめ、多くの習作に素材を提供している頽廃と錯乱の日々は、大正十一年から十二年にかけてのことで、この時代を思い出す梶井の脳裏には、北白川の下宿があったことは間違いない。
 ただ実際に岡崎へ下宿を移した後でなければ、『瀬山の話』の道筋を、主人公の「私」が思い描くはずのないこともまた事実である。
 なぜ『瀬山の話』草稿の執筆時期にこだわるのか。京都での乱行の日々、宿酔いで胃の腑同様に頭が変調をきたしていた日、梶井はいつものように街を徘徊している途中、何気なく一顆のレモンを購った。このレモンの重さや色、香り、掌に伝わる冷たさが、肺尖カタルを病んでいつも熱をもつ身体の不快感を忘れさせ、心の底に澱〔おり〕のように沈んで離れない「不吉な塊」を、一瞬とはいえ氷解させる体験を味わったのであった。
 梶井は、これを直ちに『秘めやかな楽しみ』という詩に書いた。だが心の不可思議な働きを垣間見せてくれたこの体験は、一篇の詩に書いてすむような事柄ではなかった。梶井は、この体験が啓示している幻視の意味を考え続けていたのである。
 大正十三年の初めといえば、卒業試験を間近にしていた時期である。二度も落第している梶井にとって、この試験をなんとかパスすることは至上命題であったはずである。そんな追いつめられた状況のなかで、試験勉強を中断してまでも、『瀬山の話』を書かなければならないほど、レモン体験が、このとき梶井の内部で発酵していたということなのであろう。
 詩篇『秘めやかな楽しみ』を発端として、『瀬山の話』を経て、やがて『檸檬』が誕生するのだが、この発展の過程で、一顆のレモンをめぐるエピソードが、どんな変貌をとげるのか。その経緯を詳細に検討する作業こそ、梶井文学の誕生に立ち会うことにほかならない。同時にそれは、梶井基次郎という稀有の幻視家の意識構造を明らかにする作業でもある。
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by monsieurk | 2015-05-07 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

[瀬山の話」の位置Ⅲ

 『檸檬』の誕生にいたる草稿を系統的に論じて、この習作の意義を最初に指摘したのは三好行雄である。その上で三好は、習作の成立を大正十二年の暮以前と推定した。これ以後この説は踏襲されて、大谷晃一の『評伝梶井基次郎』でも、濱川勝彦の編纂になる『鑑賞日本現代文学入門 梶井基次郎』の年譜でも、習作が大正十二年暮には書かれたとしている。だが果たしてそうであろうか。
この説に立てば、梶井はこれを書いていた大正十二年暮には、上京区寺町通荒神口下ル松蔭町の梶川方に下宿していたはずである。梶川宅は寺町御門の東側にあった家で、梶井はその二階の四畳半を借りていた。
 家主の梶川一家は、七十歳余りの老婆と娘で三十歳になる小学校の女教師の二人暮らしで、この下宿の様子は習作『貧しい生活より』や『ある心の風景』のなかで活写されている。
 問題は、梶井が『瀬山の話』の冒頭で、「岡崎の下宿」と書いたとき、この寺町の梶川宅の二階を念頭に置いていたかどうかである。梶井は、主人公「私」の下宿のある場所を「岡崎」と明示している。岡崎と寺町通では、京都の街を東西に分ける鴨川をはさんで反対側にあり、岡崎とは明らかに別の場所である。
 では梶井がこの梶川宅に移る前に下宿していた澤田三五郎方はどうであろう。ここは『文学アルバム梶井基次郎』に、彼が借りていた部屋の写真が掲載されている下宿で、京都市左京区北白川西町にあった。梶井はここで大正十年十一月から大正十一年十月まで凡そ一年を過した。そしてこの間に、彼の頽廃と乱行の生活が進行し、借金がかさんで、挙句のはてに下宿からは食事を断られる目にあっている。
 習作のなかに出てくる第二の回想、夜更けに下宿の前まで帰ってきたのに、下宿に入らず、自分の名前を大声で叫んで逃げ出したのは、北白川西町の澤田方で起こった出来事であった。しかし北白川は、岡崎より北に位置する一帯で、もし執筆に際して、梶井の頭のなかで、この下宿が想定されていたとすれば、主人公の「私」にたどらせようとする散歩の道順が妙である。
 主人公が、久しい間胸に描きつつ果たせないでいる散策の道筋とは、「岡崎にある私の下宿から黒谷の山門、そこから真如堂を抜けて東山の麓の若王子へゆく道々」(全集第2巻182頁)である。左京区北白川西町には京都大学農学部付属の植物園があり、澤田宅はその南側に当たるが、ここから若王子へ行くには、記述とは逆に、先ず真如堂を通って、黒谷の光明寺とたどるのが順である。
 梶井が書いている道順を行くとすれば、起点はあくまでも岡崎になければならない。梶井は、主人公の「私」を架空の下宿に住まわせたのだろうか。岡崎は、梶井が通っていた第三高等学校のある吉田町のすぐ南にある町で、入学以来毎日のように通っており、町の隅々まで熟知している。そんな岡崎に主人公の下宿を設定したのであろうか。だがこの岡崎に梶井が実際に下宿していた時期がある。
 大正十三年一月八日、第三学期が始まったが、開始早々、目前に迫った卒業試験に備えるべく、気分転換をはかる意図もあって、下宿を変えたのだった。その下宿先が、上京区(現左京区)岡崎西福ノ川町の大西武二郎方で、二階の南向きの六畳間が、新しい落ち着き先であった。すでに二度落第している梶井にとっては、二月に行なわれる卒業試験は、文字通り背水の陣であったはずである。(続)
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by monsieurk | 2015-05-04 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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