ムッシュKの日々の便り

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トゥルノンのマラルメⅤ

 ジュヌヴィエーヴの誕生

 「エロディアード」は当初、舞台での上演を目的とする詩劇となるはずであった。だが主人公の舞姫は、詩句としての姿をなかなかあらわさなかった。その上11月19日、難産のすえに長女が誕生した。大きな青い眼の、黒い髪がふさふさとした、色の白い子で、ジュヌヴィエーヴと名づけられた。このために創作は一時中断を余儀なくされた。
 オーバネルに宛てた手紙の一節で、マラルメは近況を伝えている。
 「私の方は、いまだに再び仕事に取りかかろうともしないでいます。意地悪な赤ん坊が、その泣き声で、黄金のような冷たい髪の、重い長衣を着た石胎のエロディアードを遁走させてしまったのです。
 ただし赤ん坊はそれほど馬鹿ではないようです。私がルグヴェという名前を発音すると泣き出すし、エマニュエル・デ・ゼッサールの滑稽な身振りを真似すると腹の皮をよじって笑うし、――同様に、貴兄のことを語ればにこにこ笑うのですから。」(1864年11月27日付)
 名前を聞くと赤ん坊が泣き出すというエルネスト・ルグヴェは、伝統を重んじる詩人・劇作家として知られ、デ・ゼッサールの手足をぎくしゃくさせる仕草は、仲間内でよく話題にされていた。
 妻のマリーが産後の回復につとめている間、マラルメが家事を引き受けた。学校の授業と家事を一人でやらなくてはならない状況では、創作の筆を執ることはできない。まして、いままで誰もくわだてたことのない詩法に挑戦しようとする破天荒のこころみは、極度の精神集中を要求する。とうてい日常生活の片手間に行なえるものではなかった。
 マラルメが恐れたのは、一度取り逃がしたエロディアードが、はたしてまた脳裏に立ち戻ってくるかどうかである。なにも書くことができない、不能の状態に陥ることが恐ろしかった。同じ11月のカザリス宛に書かれた手紙では、その不安を打ち明けている。
 「・・・ジュヌヴィエーヴは母親の乳を吸って、当然ながら、バラの花のように元気だ。だが可哀相なマリーは乳を吸われて、青白く疲れっぱなしだ。私はといえば、老いた老人のように這って歩いている。そして口をだらりと開け、睫毛の垂れ下がった眼を曇らすような、愚にもつかないことがひっきりなしに行なわれるのを、鏡のなかで眺めては、何時間もすごしている。・・・
 こんなときは、ほとんど仕事ができないのは君には分かるだろう。だが再び、詩それもエロディアードに取りかかるために、ここ数日、ソネの長さの小詩篇を創作したが、まだ君に送るほど十分には完成されていない。君に気晴らしの数刻をあたえるために、最近の散文詩のうちの一篇を同封する。これはやがて「引き裂かれた頁」の題で印刷されるはずだ。・・・詩句の点では、私はもうおしまいだと思う。私の脳髄には大きな隙間が幾つもあって、それが継続する思考や、専念することを不可能にしている。私はいま残酷にも、君だけが知っている、若いときの荒淫の報いをうけているのだ。そうなのだ。私は恐怖に慄きさがら、廃墟のような自分を見つめている。手紙では、友人たちに、仕事をしていると嘘をつくつもりだが――しかしそれは本当ではない。詩人はこの地上ではただ一人の詩人でなくてはならない。それなのに私は生活のせいで死体なのだ。いつの日にか、愛好家のタイトルを望むことができるだろうか。」(11月の木曜日)
 マリーは赤ん坊にドイツ語の歌を聞かせながら、産後を養っていた。そんな彼女に代わってマラルメが家事を引き受けた。その上学校での授業では、相変わらず乱暴な生徒たちに手をやく毎日であった。重なる疲労がマラルメから、「エロディアード」を創作する気力をすっかり奪ってしまった。あげくのはてに、そうした脱力感を若いときの女友だちとの交情のせいではないかと疑いだす始末だった。「荒淫」と訳したpriapismeとは、もともとは医学用語で陰茎硬直症のことである。
 マラルメとカザリスは、性欲や肉体的なことまで隠さずに話しあえる間柄で、以前の手紙では、「生まれてくる赤ん坊が私の仕事を中断させようとしているし、実際もう私は、妻がそこにいるだけで、仕事を中止してしまった。――意地の悪い悪魔が、彼女に対しても、私にひどく辛辣な態度をとらせてしまう。その理由は分からないが。――その上、その気持が、このところ続く悲しくて灰色な日々、

  猥らな詩句の夢にひたる詩人

 をつくりあげ、私はそんな猥らな詩を書きもしたのだが、それは君には送るまい。詩人の夜毎の敗北など、乳色の滴りでしかなく、私のものなど所詮醜い染みにすぎないのだから。」(10月30日と推定)と述べている。
 ここに出てくる「乳色の滴り」の原文はvoies lactéesで、これはVoie lactée「銀河、天の川」の複数形だが、二人の間では「天の川」にかけたもっと性的な意味が暗示されているように思える。
 手紙のなかで、「エロディアード」に取りかかるための筆ならしと述べられている作品はなにか。そしてこの手紙に同封された散文詩とはなんだったのか。(続)
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by monsieurk | 2015-06-30 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

トクルノンのマラルメⅣ

 創作

 こうした悲鳴は、トゥルノン滞在の間だけでなく、ブザンソンブサ、アヴィニョン、パリと、教師生活をおくる間中、彼についてまわることになる。しかし、マラルメは決して詩を書くことをあきらめなかった。友人に宛てた、いささか誇張された悲嘆にもかかわらず、翌1864年1月には初期の傑作「青空」が生まれた。そして トゥルノンの暮らしに慣れたのだろうか、1864年は創作活動の上で実りの多い年となった。
 ブルボン通り19番地の狭い家で、学校の授業を終えると夜を徹した詩作の日々が続いた。そうしたなかから生まれた作品を、年表風に列記すれば次のようになる。
 「青空」に次いで2月には、「ある娼婦に」(のちに「静かな女に」、さらに「不安」と改題)、「――苦い休息には飽きた・・・」がつくられ、3月には、「懲らしめられた道化」(初稿)と「花々」、4月に入ると、敬愛する三人の詩人、テオフィル・ゴーティエ、シャルル・ボードレール、テオドール・ド・バンヴィルを頌した散文詩「三つの散文詩」(のちに「文学的交響楽」)がつくられた。
 さらに7月2日には、散文詩「バルバリー風琴」(のちの「秋の嘆き」)、「首」(「哀れな青白い少年」)の2編が、詩人のグラティニーが主筆をつとめる地方新聞「キュッセ=ヴィシー週報」に掲載された。
 マラルメは学校の同僚ともあまり交際することはなかった。例外はドイツ語講師のフルネルで、古典的な詩を書く彼とは不思議にうまがあった。
 トゥルノンに赴任して最初の夏休みに、マラルメはローヌ川沿いの古都アヴィニヨンを三度にわたって訪れた。ここにはサンスの高等中学校時代の恩師で、文学の上の友でもあったエマニュエル・デ・ゼサールが転任してきていたからである。そしてアヴィニヨンに滞在中、南仏方言派(フェリブリージュ)と呼ばれる詩人たちと知り合いになった。アヴィニヨンは、美しい風光でマラルメを感動させるとともに、新しい友人をもたらしたのである。
 南仏方言派の詩人とは、ジョゼフ・ルーマニーユ、フレデリック・ミストラル、テオデール・オーバネル、ジャン・ブリュネなど7人を中心にした詩人たちを指す。プロヴァンス地方の言葉は、公用語がフランス語に統一された16世紀以降、次第に使われなくなり、表記法も定かでなくなっていた。それが19世紀に入ってロマン主義が台頭すると、地方文化や地方語に強い関心が寄せられ、プロヴァンスの古い言葉を復興し、それで詩文をつくる運動が起った。先の七人が1854年5月に集まって綴り字の制定を討議し、プロヴァンス語で創作することを決めたのである。
 こうして始まったプロヴァンス語復興の運動は、翌1855年には機関誌「プロヴァンス年鑑」の刊行や、次々に新たな作品を生み出していった。そして1859年に、ミストラルの長編叙事詩「ミレイユ」が、自身のフランス語訳をつけて出版されると、パリの文壇で一大センセーションを巻き起こした。当時文壇の中心にいた詩人ラマルティーヌは、「ミレイユ」礼賛の辞を新聞に発表し、パリ社交界の人たちの前で自らこれを朗読した。
 マラルメにとって、デ・ゼサールを通じて彼らと知り合いになれたことは大きな収穫だった。とくに8月の二度目の訪問では、ミストラルの自宅を訪ねて懇談し、テオドール・オーバネルとも親しく話すことができた。このときからオーバネルとは深い友情で結ばれることになった。
 この年の9月19日、マラルメはデ・ゼッサールの紹介状をたずさえてパリへ行き、かねてから尊敬する詩人カチュール・マンデスの許を訪れた。デ・ゼサールはマラルメより3歳年上で、高等師範学校を出るとすぐにサンスの高等中学校へ赴任してきて、マラルメと文学上の友となった。彼は若くして詩集『パリ詩集』を、ボードレールの『悪の華』を出したプーレ=マラシから出して、一部の人たちから注目されていた。
 デ・ゼッサールはマンデスとは知己の間柄で、彼の紹介状をもってマンデスを訪ねたマラルメは、自作を雑誌に発表するための助力をマンデスに期待していた。
 このときマラルメは革表紙の小さな手帳を携帯していて、そこにはこれまでに創作した詩篇を清書していた。それは、「窓」、「不運」、「花々」、「ある娼婦に」、「ため息」、「青空」、「新春」のちの「春の訪れ」)、「夏の悲しみ」、「乞食に」(のちに「施し物」)、「「鐘つき男」、「懲らしめられた道化」(初稿)、「――苦い休息には飽きた・・・」の13篇だった。
 マラルメは、たまたまマンデスの家に滞在していたヴィリエ・ド・リラダンとマンデスの前で、自作の幾篇かを朗読して聞かせた。マンデスはこのときの様子を、貴重な証言として書き残している。
 「昼食のあと、ヴィリエ・ド・リラダンはその部屋に籠もった。――この頃『エレン』を書いていた。――それで私はステファヌ・マラルメと一緒に(これがその青年だった)セーヌ川に沿って散歩した。中背というより、背は低く、生真面目であるとともに悲しげな、苦労はあっても和やかな顔をしていたが、その顔にはすでに困窮と失望とさらされた痕がしるされていた。手は非常に小さくて細く、少女のようで、挙動にはちょっと洒落者の風があった。しかしその眼はまったく幼児の眼のように澄んでいて、透明な純潔を示していた。そしてその声は抑揚の流動のなかに、特別の作意が少しあるが、優しい声だった。自分で語った悲しい事情には何の重要さも認めてはいないといった様子で、私に次のように話した。――ロンドンでは貧乏なフランス語教師としてかなり長いあいだ、大変不幸な生活をしたことや、人びとが大変無関心なこの大都会で、孤独や貧窮、優鬱症のような病気にずいぶん苦しんだこと、その病気が一時は知的な仕事や文学的意志を不可能にしたことなどを語った。それから私に読んでほしいと詩を渡した。詩は細かい書体で、正確にきわめて繊細に手帳に書かれていた。かたい革表紙の本綴じのごく小さな手帳で、銅のとめ金具でぱちんと閉じられる。私は、河岸を歩きながら、ステファヌ・マラルメの初期の諸詩篇を読んだ。そして感嘆した。このときすでに、あの夢と感受性の魅力と芸術の奇蹟が存在していたからだ。・・・私は急いでマラルメを家に連れて帰って、その詩をヴィリエに読んでやった。ヴィリエは直ちに私の熱狂を共にした。」(カチュール・マンデス『1867から1900年に至るフランス詩の運動』)
 このようにマンデスはマラルメの才能を高く評価してくれたが、その作品が活字になる機会はすぐには訪れなかった。(続)
 
 
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by monsieurk | 2015-06-27 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

トゥルノンのマラルメⅢ

 初めての教師生活

 マラルメ夫妻がホテルを出て移り住んだブルボン通り19番地の家は、学校には近かったが、陰気で、とても快適とはいえなかった。アラルメはリューマチの痛みがひどく、手足を動かすことさえままならなかった。その上、ミストラルが運んでくる凍るような寒気は身にこたえた。新たな環境への嫌悪の情は、ときとともに募るばかりだった。
 マラルメがすすんで地方の教師生活を選んだ理由は、それが「素朴で、慎ましく、平穏」(カザリス宛、1863年1月30日付)けであり、わずらわしい事柄から逃れて、詩作に没頭できると考えたからである。
 同棲と離別を繰り返したロンドンでのマリーとの生活のはてに、詩作に全精力を傾注することだけが、煩瑣な現実を乗り切る唯一の途であると覚悟を決めて、地方の教師の職を願い出たのだが、着任早々、後悔の念が萌しはじめた。
 トゥルノンに裁判所さえなければ、窓から見える「汚らしい家という家に火を放って、哀れな隣人どもの頭蓋骨に弾を撃ち込みたい」(カザリス宛、1894年〔3月23日〕)という、凶暴な気持にかられるときさえあった。「田舎は決してよくはない。元気で活動的で、健康にみちあふれた人のためにはなるだろうが、・・・・だが、消極的で、病的で、脆弱で、無力な魂、パリとの接触のたびに興奮し、群集のなかでは活気づき――なんらかの事を成し遂げられる、そういった魂は、肉体的な気晴らしさえない田舎、惨めな村では死んでしまう。」(同)d0238372_6211928.jpg
 こうした後悔にさらに拍車をかけたのが、教室での授業であった。かつて祖父デモランは、マラルメが高等中学校を卒業して、将来教職に就くために大学へ進みたいという孫に対して、教師というものは、「生徒を前にしたら臆してはだめだ。さもなければ、たちまち嘲罵にさらされてしまう」(祖父デモランからマラルメに宛てた手紙。1862年1月25日付)と言って、声が細く、繊細すぎるマラルメに教職は向いていないと、強く反対したことがあった。この祖父の忠告は不幸にも的中したのである。
 新任のマラルメの挙動と小さな声は、とうてい生徒たちに威厳を感じさせるものではなかった。教室はたちまち彼を馬鹿にした喚声と、紙礫(つぶて)で一杯になった。
 ルイ16世の治下、トゥルノン中学(コレージュ)は王立陸軍学校として創設され、学生が優秀なことで全国に名を知られていた。しかしマラルメが着任した第二帝政当時、伝統を誇るこの学校は、「トゥルノンの我儘者」と綽名されるように、生徒の素行の悪さで有名だった。
マラルメは祖父が予言した過酷な運命を免れることはできなかった。穏やかで、平穏な環境を手にしようと選んだ教師の職が、彼にとっては地獄となった。授業がどれほどの苦痛をもたらしたかは、親友のカザリス宛ての手紙が物語っている。
「〔毎日が〕蜂の巣をつついたようにうるさい授業の連続だ。授業は一日を分断し、私の頭を打ち砕いてしまう。私はほとんどまったく尊敬をうけていず、ときには石礫、嘲罵の喚声に悩まされることもある。」(カザリス宛、1866年4月28日)
「私のもっとも美しい詩想の躍動や稀有な霊感も、教師という嫌な仕事で中断されてしまう。そして、答案を尻にかかえ、子どもたちを私のマントにくるんで帰ってくると、私はすっかり疲れはて、もう休養をとるのが精一杯なのだ。」(カザリス宛、1965年1月15日付)(続)
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by monsieurk | 2015-06-24 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

トゥルノンのマラルメⅡ

 馴染めぬ環境

 12月のトゥルノンは一年でもっとも寒気の厳しい季節である。町はローヌ川に沿った川筋にあり、両側から丘陵が迫り隘路になっているために冬は風が強い。地中海へ向けて、ローヌ渓谷を吹き抜けていく烈風は、「ミストラル」と呼ばれるこの地方の名物である。
 マラルメはトゥルノンに到着したその日に、友人のアンリ・カザリス(写真)に手紙を書いたが、トゥルノンの第一印象をこう述べている。d0238372_2039628.jpg
 「愛しいドイツ女のマリーは、ちょっと外出した。繕った靴下を私のボードレールの上に載せたままね。靴下をどけて本を手にすることもできないが、それはそれで面白い。それで君に返事を書くことにした。――マリーは以前よりずっと元気になった。もうローズ・ティーのような血色をしている。いつになったら、彼女の血はその若々しさを取り戻すだろうか。――まだ病気なのは私の方だ。リューマチで身体が動かない。そのせいで肘掛椅子に釘づけの有様だ。トゥルノンを悩ます強い北風にさらされている。四里四方の亭主どもの角をへし折るほどの風が吹きまくっている。」(1863年12月9日付)
 そして3日後の12月12日には、アルベール・コリニョン宛に手紙を書いた。コリニョンは、当時創刊されたばかりの雑誌「ラ・ルヴュ・ヌヴェル」の編集長で、マラルメはシャルル・コリニィを通じて知り合った。手紙では創刊号を送ってもらった礼を述べたあと、次のように書いている。
 「・・・私は、もっとお役に立てる環境にないことを残念に思っています。もっとも、ここでは誰とも知り合いになろうとは思いません。私が遠く離れて住んでいるこの陰気な田舎町の住人たちは、豚とあまりに仲睦まじく暮していますので、私はただただ嫌悪を覚えるばかりです。ここでは豚が、よそで猫がそうであるように、家に棲みついた精霊なのです。
 私は豚小屋でないような住居をまだ見つけられずにいます。いまだにホテル暮らしで、2日後でなければ、自分の住まいに落ち着けません。旅行鞄もまだ解いておらず、お約束のポーの未発表の詩三篇の翻訳はできずにいます。〔翻訳までの〕繋ぎに、ごく短い三行詩(テルツァ・リーマ)を一篇お届けします。あなたの雑誌の第二号に掲載していただけますか。」(12月12日付)
 マラルメがかねてからエドガー・アラン・ポーの詩の翻訳に打ち込んでいたことは、友人たちの間ではよく知られていた。シャルル・コリニョンは、雑誌を創刊するに当って、ポーの詩の翻訳なら掲載してもよいと、マラルメに伝えていた。
 マラルメはこのときまで、散文「パリの詩情」と、詩篇「願い」(のちに「たわいない願い」と改題)を、雑誌「ル・パピヨン」に、詩篇「不運」、「鐘つき男」と散文「芸術の異端――萬人のための芸術」を「アルティスト」誌に、そして「パリの詩人に抗して」と散文詩「冬の太陽」を、ノルマンディーの保養地ディエップで発行されていた「浴客新聞」に発表していた。しかし、これらはいずれもロンドンに渡る前のことであり、コリニョンの申し出は、地方に引き籠らざるをえなくなったマラルメにとって、パリとの絆を絶やさないための希望の灯火だった。
 約束したポーの詩の翻訳は完成せず、その代わりとして、かつて創作した三行詩(おそらくは「貧者への憎しみ」か「乞食に」のどちらか)を送ったのである。だがマラルメの期待にもかかわらず、詩篇は「ラ・ルヴュ・ヌヴェル」に掲載されなかった。(続)
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by monsieurk | 2015-06-21 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

トゥルノンのマラルメⅠ

 「トゥルノンのマラルメ」をしばらく連載することにする。これは最初のフランス滞在から帰国して間もない、1970年代末に執筆したもので、角川書店から当時出ていた雑誌「ザテレビジョン」用の200字詰め原稿用紙89枚に書かれている。取材を受けた際に貰った原稿用紙を使ったものと思われる。このときは未完に終わったが、その一部はその後に刊行したマラルメをめぐる著作に生かされた。今回、マラルメが取り組んだ初期の「エロディアード」の検討を追加して、40数年ぶりに発表することにした。

  トゥルノンへの旅

 南フランス、アルデッシュ県の小都市トゥルノンを初めて訪れたのは、1971年夏のことである。パリを朝発ってリヨン駅で3時間ほど待ち、ニーム行きの普通列車に乗り換えて、トゥルノン駅に降り立ったのは午後4時をすぎた時刻であった。夏の陽はまだ頭上にあった。
 トゥルノンは、リヨンからローヌ川に沿って、南へ80キロほど下ったところにある。ローヌ川をはさんだ対岸は交通の幹線が通り、パリからリヨンを経てマルセイユやニースへ行く特急列車が日に何往復もし、フランス一交通量の多い国道6号線がコート・ダジュールまで延びている。それに対して、ローヌの右岸にある町々を訪れるには、国道6号線を車で下るか、リヨン発ニーム行きの普通列車を利用するかだが、この列車は一日に6往復と本数が少ない。
 列車はリヨン駅を出ると間もなくしてローヌ川を渡り、その後はローヌ渓谷に広がるブドウ畑をぬって南下する。リヨンからトゥルノンまでの距離は95キロほどだが、乗車時間は1時間半かかる。d0238372_11493293.jpg
 トゥルノンはステファヌ・マラルメが、1863年12月から1866年12月にブザンソンに移るまで、丸3年滞在した町である。マラルメが数々の作品をものした町がどんなところか、その雰囲気に浸るのが旅の目的であった。
 パリから電話で予約しておいた宿は町の中心にあった。「リセ(高等中学校)広場1番地」という住所から推測した通り、ホテルはマラルメが英語教師として勤務したトゥルノン高等中学校(現在はガブリエル・フォール高等中学校と呼ばれる)とは、小さな広場をはさんで向かい側にあった。マラルメの事跡を訪ね歩くには恰好の場所だった。
 翌朝、まず向かいの高等中学校を訪ねた。学校は夏休みとあって静まりかえっていた。門番(コンシエルジュ)に訪問の趣旨を話すと、快く構内を見せてくれるという。d0238372_11515663.jpg
 楡の樹が校庭を取り囲み、三方に三階建ての校舎があり、最上階は寄宿生のための宿舎(パンション)になっているとのことだった。高い楡の梢では、パリでは耳にしない蝉がしきりに鳴いていた。
 マラルメが英語教師として、新妻のマリーを伴ってこの高等中学校へ赴任したのは、1863年12月9日のことである。マラルメはこの年の8月、逃避先のロンドンで、マリー・ジェラールと結婚式をあげ、1カ月後の9月17日、英語の教員適格証明書を得ていた。
 証明書を手にした直後、彼は文部大臣に宛てて、できればピカルディー地方の都市サン・カンタンのポストを得たいという希望を手紙で書き送った。文部大臣デュルイからは、数日後に返事があり、「ライト氏が休暇の間、トゥルノン帝国高等中学校の英語の補充講師として採用する」と伝えてきた。
 マラルメ夫妻はロンドンから帰国すると、しばらくパリと高校中学校時代をすごしたサンスに逗留したあと、トゥルノンへ向った。トゥルノンでは数日間ホテルに投宿し、その後ブルボン通り(現在のジョゼ・ペルナン通り)19番地に部屋を借りた。(続)
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by monsieurk | 2015-06-18 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

梶井基次郎全集Ⅱ

 梶井基次郎の全集を出版しようという友人たちの献身的な努力は、まず『梶井基次郎全集』上・下(淀野隆三、中谷孝雄編、六蜂書房刊、写真)となって結実した。出版は上巻が昭和9年(1934)3月、下巻が6月で、菊変型の豪華本であった。d0238372_8394657.jpg
 その後は、昭和11年1月と4月刊行の『梶井基次郎小説全集』上・下(淀野隆三編、作品社、四六版)。この普及版の昭和12年3月刊行と続き、戦後は昭和23年には、京都にあった高桐書院から全3巻の出版が計画された。
 高桐書院は、敗戦直後の昭和21に京都市中京区麩屋町通二条上ルで開業した出版社で、発行人は馬場新二だった。彼は戦争中に桑名星文堂から刊行された書物の何冊かを復刊し、東方学会や京都市役所とも関係をもって、それらの出版物を手がけた。
 そして三条通堺町角に移転した昭和22年からは、淀野隆三が編集に参画し、翌23年には発行人となった。淀野がまず手がけたのが梶井基次郎全集であった。
 いま手許に、京都在住の画家でエッセイストの林哲夫さんから恵贈を受けた、「決定版 梶井基次郎全集 全三巻」と題したパンフレットがある。林さんは淀野隆三の若き日の日記を雑誌「SPIN」などに復刻するなど、淀野が残した資料を蒐集していて、そのなかから高桐書院が出版を計画した折の予約募集案内を提供してくれたのである。d0238372_842102.jpg
 パンフレットは写真のように、当時の状況をうかがわせるザラ紙に印刷されている。冒頭には、「梶井基次郎全集刊行に際して」という文章が載り、その文末に刊行委員として、志賀直哉、宇野浩二以下11名が名を連ね、さらに、題簽 川端康成、装幀 清水寥作、編纂 淀野隆三、と記されている。次頁からは、「諸家の賛辞」として、萩原朔太郎、宇野浩二、川端康成、横光利一、丸山薫、井伏鱒二、小林秀雄の推薦の辞が載っているが、その一つ、井伏鱒二は「恍惚たる限り」と題して、「かつて「作品」誌上に梶井君の「交尾」が発表されたときには、これこそ真に神わざの小説だと私は驚嘆し、作中において河鹿の鳴く声や谷川の水音は私の骨髄に徹してまことに恍惚たる限りであった。言葉では捕捉できない絶対の無限。かういう快楽は煩悩具足のわれ等一生のうちに、さうたびたび感得できるものではない。 / 故人の全集上梓されるにあたって、謹んで満腔の敬意を表す次第である。」と書いている。
 全集は全3巻の予定で、第1巻が「檸檬」から「Kの昇天」までの作品と初期習作、それに日記の第1帖から第3帖までと、梶井の略年譜。第2巻が「冬の日」以下の作品と遺稿、それに第4帖から第10帖までの日記、批評感想随筆。第3巻が書簡集、未発表書簡集、臨終之記、索引となるはずであった。だがこの企画は、第2巻まで刊行したところで、高桐書院が倒産したために未完に終わった。
 友人たち編者の執念で、梶井基次郎の全集が完成したのは、昭和34年(1959)に筑摩書房から刊行された全3巻である。ここには高桐書院版で実現するはずであった、作品、遺稿、日記、書簡のすべてが網羅されている。その後昭和41年には、未収録だった一篇「橡の花」を収録した再販が出され、さらにその後同じ筑摩書房から、全3巻本に梶井文学への批評などを足した全4巻全集が刊行されて、私たちは梶井が残した作品や日記、書簡などを読むことができるようになった。ただその後も全集未収録の手紙がときどき発見されて、梶井文学の愛好家を喜ばせることがある。
 なお高桐書院からは、淀野隆三の肝いりで、前のブログで取り上げた鈴木信太郎先生の『「ステファヌ・マラルメ詩集」考』の上巻も刊行されたが、同書院の倒産によって中断。下巻は、その後淀野が移った東京の三笠書房から出版されたというエピソードもある。
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by monsieurk | 2015-06-15 22:30 | | Trackback | Comments(0)

梶井基次郎全集Ⅰ

 梶井基次郎は、昭和7年(1932)3月24日に亡くなった。梶井の最後の日々については、母ひさが看護日誌をつけており、これをもとに「臨終まで」と題した手記(中谷孝雄が若干手を入れた)を、「作品」の梶井基次郎追悼号(昭和7年5月号)に発表した。d0238372_20402784.jpg
 梶井の最後となった3月23日から24日にかけての出来事をこう伝えている。全文を写してみる。
 「廿三日、今日も朝から息苦しい。然し、顔や手の浮腫は漸々減退して殆ど平生に復しました。これと同時に、脚や足の甲がむく〱と浮腫みを増して来ました。そして、病人は肝臓がはれ出して痛むと言ひます。これは醫師が早くから氣にしてゐたことで、その肝臓が痛み出しては、いよいよこれでお仕舞だと思ひましたが、注射をしてからは少し痛みが樂に成りました。私は一度充分に眠るともつと樂になるだらうと思つて、醫師に相談してルミナールを二錠呑ませました。病人は暫くうつうつとしてゐましたが、其處へ弟がやつて来ますと、早速その聲をきゝつけて、直ぐ醫者へ行つて頓服をもらつて来てくれと言ひます。弟が、今頃行つても醫者は往診で不在だから駄目だと言つても「さがして呉れ――自轉車で――處方箋を貰つて来て呉れ――」と、止切れとぎれにせがみました。弟はやむを得ず「ようし」と引受けて立上がりましたが、直ぐ臺所へ廻つて如何したらよいかと私に相談します。私は引受けた以上は病人にために醫師を探してやるのが當然でもあり、またこれが最後となつては心残りだからと言つて、弟を出してやりました。
 陰うつな暫時が過ぎてゆきました。其處へ弟が汗ばんだ顔で歸つて来て「基ちゃん、貰つて来たぜ、市営住宅で探し當てた。「サアお上がり」と言つて薬を差出しました。病人は飛び付くやうにして水でそれを呑み下しました。然し最早や苦痛は少しも楽に成りません。病人は「如何したら良いんでせう」と私に相談です。私は暫く考へてゐましたが、願はくば臨終正念を持たしてやりたいと思ひまして「もうお前の息苦しさを助ける手當はこれで凡て仕盡してある。是迄しても樂にならぬでは仕方がない。然し、まだ悟りと言ふものが残つてゐる。若し幸にして悟れたら其の苦痛は無くなるだらう」と言ふますと、病人は「フーン」と言つて暫く瞑目してゐましたが、やがて「解りました。悟りました。私も男です。死ぬなら立派に死にます」と仰臥した胸の上で合掌しました。其儘暫く瞑目してゐましたが、さすがに眼の内に涙が見えました。それを見る私は「あゝ、可哀想な事を言ふた」と思ひました。病人は「お母さん、もう何も苦しい事は有りません。この通り平氣です。然し、私は恥かしい事を言ひました。勇に濟みません。この炎天下茶屋中を馳け廻つて醫師を探せなどゝ無理を言ひました。どうぞ私を赦して下さい」と苦しげな息の下から止ぎれ止ぎれに言つて、あとはまた眼を閉ぢ、たゞ荒い息づかいが聞えるばかりでした。どうやらそのまゝ眠つてゆく様子です。
 やれ 眼つて呉れた、と二晝夜眠らなかつた私は今夜こそ一寸でも眠らねばならぬと考えて、毛布にくるまり病人の隣へ横になりましたがちつとも眠れません。ふと私は、一度脈をはかつてやらうと思つて病人の手を取つてみましたが、脈は何處に打つて居るやら、遥か奥の方に打つか打たぬかと思ふ程で、手の指先一寸程はイヤに冷たく成つて居ます。呼吸はと見ると三十位しか無い「はて、おかしいぞ」と思ひましたが、瞳孔を見てやらうにも私は眼が悪くてはつきり解りません。「こりや、ヒョットすると今晩かも知れぬ、寝て居るどころでは無い」と、直ぐ家を飛び出して半丁程離れた弟の家へ行き懐中電燈を持つて直ぐ来て呉れと言つて、また走り歸りました。弟二人、次弟の妻、それの両親など飛んで来て瞳孔を視ましたが開いては居ません。弟達は直ぐ電報を打つたり醫者を呼ぶために出かけて行きました。
 醫者は直ぐ駆けつけて呉れましたが、最早實に落着いたものです。「ひどく苦しみましたか・・・たいした苦しみがなければ、先づ結構は方です」といつた具合で、私はもうこれでお仕舞ひですかと尋ねますと、まだ一日位は保つだらうと言ふのでした。然し、醫師を見送つて行つた者に向つては「あと二時間」とハツキリ宣言したとの事です。危い處で私は病人の死を知らずにゐる處でした。
 やがて、一同が枕頭に集つて、綿の筆で口の内外へ水を塗つてやりました。私が「基次郎」と呼ぶと、病人はパツと眼を見開きますが、「お母さんだぜ、分つて居るか」と言つても何の手應へもなく直ぐまた眼を閉ぢて仕舞ひます。漸々と出る息が長く引く息は短く、次第々々に呼吸の數も減つて行きます。そして、最後に大きく一つ息を吐いたと思ふと、それ切りバツタリと呼吸がとまつて仕舞ひました。時に三月二十四日午前二時。」(「作品」昭和7年5月号)。
 24日の夜遅く、異母弟の順三が奈良県明日香から着いた。順三は順誠と名を変えて僧侶になっていた。納棺をすませたあと順誠が棺の前で経を読んだ。遺言により寝棺にはお茶の葉を詰め、顔の周りを草花で飾った。戒名は泰山院基道信士であった。
 25日、告別式は、梶井が最後にようやく一家を構えた自宅で執り行われ、兄弟、親戚とともに近所の人たちが焼香してくれた。午後3時出棺、阿倍野葬儀場で荼毘にふされた。遺骨は大阪市南区(現中央区)中寺町にある常国寺の梶井家の墓に納められた。満31歳1カ月の生涯だった。
 その死後、梶井の作品は読み継がれた。「作品」の追悼号には、生前、梶井と交流のあった人たちが執筆した。そして特集の最後に、「梶井基次郎全集の刊行に就いて」と題した囲み広告が載った。
 「梶井基次郎君の全集を刊行いたします。まだ具體的な計畫を發表するまでには到りませんが、創作集「檸檬」に収められた作品をはじめ「のんきな患者」その他目下整理中の遺稿、感想評論、日記、書簡などを網羅して、梶井君の文學的業績を記念して彼の全面貌を傳へたひと思ひます。(中略) 尚ほ、甚だ恐縮ですが、梶井君の遺墨、書簡などお持ちの方は、至急責任者まで御貸與下さらば幸甚です。
      東京都府下和田堀和田一、〇二三
                中 谷 孝 雄        
          責任者   淀 野 隆 三
                三 好 達 治」
 彼ら友人たちの努力で、梶井が残した作品、日記、書簡などが収集されて、やがて梶井の文学と人物の全貌を伝える全集が編まれることになった。生前、作品のほとんどを同人誌に発表しただけの無名の青年作家としては異例のことであった。(続)
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by monsieurk | 2015-06-12 22:30 | | Trackback | Comments(0)

旧鈴木信太郎家Ⅱ

 旧鈴木信太郎家が豊島区によって記念館に生まれ変わった際に、展示したいと要請を受けたのは、鈴木先生の学位論文であり主著である「『ステファヌ・マラルメ詩集』考」の清書原稿と豪華本『半獣神の午後』のために翻訳され清書され原稿である。前者についてはブログ「鈴木信太郎『ステファヌ・マラルメ詩集』考」(2015・01・18)で取り上げているので、ここでは『半獣神の午後』の訳稿について紹介する。なお、この清書原稿はすべて、『牧神の午後――マラルメ・ドビュッシー・ニジンスキー』(平凡社、1994.6刊)のなかで複製し紹介している。
 鈴木信太郎博士が、L’Après Midi d'un Faune を初めて翻訳し、『フォオヌの午後』と題して、雑誌「明星」に掲載したのは大正11年11月のことである。このときの翻訳は断片であったが、全篇は大正13年に春陽堂から出版された『近代佛蘭西象徴詩抄』に発表され、さらに昭和5年新潮社刊の『世界文学全集第37巻、近代詩人集』から、表題は「半獣神の午後」と改められた。
 その上で昭和14年度の東京帝国大学の演習で『半獣神の午後』を取り上げ、一行一行について厳密な解釈をほどこした。これは『半獣神の午後研究』として、昭和16年に一度印刷されたが、刊行されずに破棄されてしまった。その後昭和21年になってようやく雑誌「饗宴」に3回にわたって掲載され、翌22年に単行本(要書房)に収録されたのだった。
 そして、その後しばらくして、『半獣神の午後』の豪華本を作る計画が持ち上がったのである。この辺の事情について、昭森社の社主で、豪華本を数多く出版した故森山均が次のように語っている。
 「・・・もう一つ自分の限定版書肆としての別号蘭台山房本について少し書いておこうと思う。この房号は黄眠先生〔日夏耿之介〕から贈られたもので、終戦後もこの名によって鈴木信太郎氏訳川口軌外挿絵によるマラルメの『半獣神の午後』その他を造りつつある。」(「限定版手帖」吾八刊、第2号、昭和24年10月)
 私の手許にある原稿は、この豪華限定本のためのものである。鈴木先生はわざわざ縦25字、横10行、上部に S. Suzukiと筆記体で印刷した原稿用紙を特注し、緑色のインクで一字一字清書された。
 原稿には茶色の色鉛筆で、「徐扉」、「奥附」といった指定やページ数が書き込まれていて、印刷寸前まで行っていたことを示している。しかしこの豪華本出版の計画は実現せずに終わった。豊島区郷土資料館の古賀暁子さんによると、鈴木家にはかねてこの出版のために描かれたと推測される川口軌外画伯の数点の絵が保存されていて、現在は豊島区資料館に寄贈されているという。
 資料館の特別のはからいで、絵のなかから3点を紹介するが、下の写真のようにいずれも未完の状態と思われる。挿画は何らかの理由で完成されず、豪華本の出版も頓挫したのではなかろうか。
 自筆原稿とこれらの挿画が、記念館完成の際には並べて展示されて、出版されずに終わった豪華本の夢を見ることができるとすれば、かつて鈴木信太郎先生の講義を聴講し、薫陶を受けた者としては大きな喜びである。
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by monsieurk | 2015-06-09 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(1)

旧鈴木信太郎家Ⅰ

 さるフランス文学の研究会で、東京都豊島区の郷土資料館の学芸研究員である古賀暁子さんと知り合いになった。その際古賀さんから、豊島区内にあるフランス文学者で恩師の鈴木信太郎先生が長年住まわれた家を、「鈴木信太郎記念館(仮称)」にする取り組みが進行中であり、完成の暁に、私の手許にある鈴木先生自筆の原稿なども展示したい旨の申し出を受け、よろこんで同意した。
 同資料館が発行している「かたりべ」114号には、「『旧鈴木家住宅』の特徴と軌跡」が掲載されている。これによると鈴木家住宅は、豊島区東池袋5丁目にあり、豊島区の指定有形文化財に指定されたという。
 鈴木信太郎先生一家は,1918年(大正7)に神田佐久間町から北豊島郡西巣鴨町へ移り住んだ。当初は既存の住宅で生活していたが、1921年に二階建ての木造住宅を敷地の西側に新築して生活の場と、その後1928年(昭和3)には、木造住宅の東側に鈴木先生の書斎兼書庫となる「書斎棟」を新築した。
 この建物は、フランス留学中に購入した本を、日本に送る途中船火事で焼失した苦い経験から、火災に強い耐火構造として設計され、当時の個人住宅としては珍しくコンクリート造りで建てられた。
 「書斎棟」の入口は鉄製の防火扉、窓には防火シャッターを設置するなど、耐火・防火への備えを施し、室内には天井まで届く作り付けの書棚が並び、仕事机と椅子、窓上の上にはステンドグラスが嵌められた。これらはすべて鈴木先生自身がデザインしたもので、1931年にはここに鉄骨の「新二階」を増築して、子ども部屋としたという。
 この備えが効果を発揮したのは、1945年4月13日の城北大空襲のときである。空襲によって、先生の住宅は「書斎棟」の一階部分と二階の鉄骨の梁を残して焼失したが、多くの稀覯本は無事だった。鈴木先生の次男である鈴木道彦氏は、昨年上梓した『フランス文学者の誕生 マラルメへの旅』(筑摩書房、2014)で、被災の模様をこう述べている。
 「家は焼夷弾の直撃を受けたのではなく、三方から火災が迫って来て、延焼で燃えたのである。(中略)
 予定通りに書斎の廊下の上げ蓋を開き、鉄扉を閉め、今後の移動の便を考えて私は自転車をひきずりながら、当てもなく逃げ惑う避難民のとなった家族五人は、我が家の見える少し離れた坂の上に到達した。そしてほどなく、火が鈴木家に燃え移って、炎が至るところから舌のように出てくるのが見えた。「ああ、もうあんな家には住めないな」と、母が悲鳴のような声をあげたのはそのときである。(中略)
 私たちは近所に住む独文学者で日本浪漫派に属する芳賀壇の好意で、彼の屋敷の二階に全員が避難した。それは十四日の晩からだったと思うが、この記憶も曖昧である。
 確実なのは、焼け跡に残っていた書斎である。最後に焼け落ちた「新二階」には、猛火でやや歪んだ鉄骨だけが残骸をさらしていた。しかしその下にある書斎と蔵は、まわりのすべての家が燃え落ちて、遠くまで見通せるようになった空間に、ぽつんと取り残されて立っていた。内部の状態は見当もつかない。しかし一度火に包まれた建物は過熱しているので、すぐに開けると自然発火すると言われていたから、私たちはしばらく書斎と蔵をそのまま放置しておいた。
 一週間ほど経って、そのあいだには雨も降ったので、もうそろそろ内部を調べてもいいだろう、ということになった。しかし猛烈な焔に煽られて平らな表面が膨れ上がった鉄扉は、暗号数字を合わせる錠も歪んで動かず、押せども引けどもびくともするものではない。そこで最後の手段として、鉄扉の前の地面を土台に沿って掘り下げて、モグラのように地下から中に入ることになった。
 私は勤労動員から帰ってきた兄と二人で、かわるがわるスコップをふるい、汗みどろになって穴を掘った。こうして土台のコンクリートに沿って掘り進めていくと、建築用語で地中梁と呼ばれる部分があった。そこだけ土台の厚さが多少薄くなっているところである。ちょうど私が掘っているときに、その場所を探りあてたので、そこから廊下の下に掘り進むと、幸いにも、上げ蓋のように予め切り離しておいた廊下の開口部が、まさに私の頭上にあった。私は根太と根太のあいだから廊下に這い上がり、暗闇を手探りで進んで、何とか書斎の南側の庭に面した窓のところまで到達した。ガラガラとシャッターを開けると、急に飛び込んできた外光のなかに、庭で心配そうに眺めている父信太郎の姿が見えた。本が無事だと知ったとたんに、その顔が何とも言えない表情でくしゃくしゃと歪んだのを。これは今もはっきり憶えている。」
 鈴木先生一家は、敗戦直後は焼け残ったこの書斎に畳を敷いて暮らされたが、翌年には西側に木造平屋建てを増築した。この時代には、「臨時建築等制限規則」なるものがあり、新築は15坪以内という制限のなかで、玄関、ホール、6畳間、台所、浴室、便所を建て増した。さらに1948年には、埼玉県下吉妻(現春日部市下吉妻)の鈴木家の本宅から、明治20年代に建設された離れを移築して、これを座敷棟とした。増築はその後にも行なわれて、1956年には書斎棟の二階を設け、幾度かの改修をへて現在の旧鈴木家住宅となったのである。
 私が本郷の仏文科へ進学したとき、鈴木信太郎先生はすでに退官されていて、中央大学でマラルメの詩を講じておられた。幸い私の主任教官だった井上究一郎先生の口添えで、特に許されて、マラルメの後期ソネを取り上げる授業を聴講することができた。そしてこの間、友人の廣田昌義氏とともに、出版されたばかりの豪華訳詩集『ヴィヨン遺言詩集』(筑摩書房、1961年刊)を持参して著名していただいたのが、ご自宅を訪問した最初だった。その後も幾度かお訪ねしたが、いまは懐かしい思い出である。(続)
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by monsieurk | 2015-06-07 05:00 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

銅版画家、丹阿弥丹波子

 丹阿弥丹波子さんの銅版画の展覧会が、日本橋・蛎殻町にある「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」と、茅ヶ崎の「茅ヶ崎市美術館」で同時に開催されている。
 「はるかな符号」と題した前者の展覧会では、浜口陽三の代表的な作品32点と並んで、今年88歳を迎えた丹阿弥さんの作品27点を見ることができる。会場で入手できるパンプレットには、次のような紹介が書かれている。
 「二人の作家が用いる銅版画のメゾチント技法では、最初にベルソーという道具を用いて銅の板を一面に布目のように細かく彫ります。その状態で版にインクを詰め、プレス機にかけると、画面の背景となる深みのある黒が刷りとれます。この「目立て」と呼ばれる作業は作家によって独自の方法があり、黒にも個性があります。一枚の作品の黒を作るために数か月という時間と、ひたむきな作業を要し、そこから精神性の高い作品を生み出す点がメゾチントの特徴です。
 微光を含む闇を基調として、透明な色彩によってもの柔らかな無限の広がる画面を作りつづけた浜口陽三。黒一色の中に研ぎ澄まされた色彩感覚を織り込み、偽りのない光りや、確かな存在の息づかいによって半ば心象風景を描き出した丹阿弥丹波子。二人は表現の方向こそ異なりますが、高度な技法に惑わされることなく、澄んだ境地を得た銅板画家です。」d0238372_1223049.jpg
 「時のきらめき」と題した茅ヶ崎市美術館の丹阿弥さんの個展では、最初期のものから最近の作品まで、野に咲く草花、野菜、グラス、風景など、身近にあるモチーフを描いた作品およそ100点を鑑賞できる。
 丹阿弥さんは、日本画家の丹阿彌岩吉と桐塑人形作家の母とみゑの次女として、1927年(昭和2)東京に生まれた。ちなみに3歳上の姉は女優の丹阿弥谷津子さんである。
 父の画室で日本画に親しんで育ち、文化学院女子部に在学中に木炭のデッサンを習い、1954年に油彩《南信風景》で、第22回独立展に初入選した。以後も油彩を描いて展覧会に出品するが、1956年(昭和31)7月に、「ブリジストン美術館」で開催された第1回日仏具象派展で、長谷川潔のメゾチント作品に出会って衝撃をうけ、版画の制作を目指した。そして翌57年、東京神田の文房堂で開催された銅版画講習会に参加し、講師をつとめた駒井哲郎の指導を受けた。このときから駒井に師事して銅版画の制作をはじめることになった。
 茅ヶ崎の会場では、初期の作品8点を見ることができるが、その幾つかは駒井の作風に通じるものがあって興味深い。d0238372_1272621.jpg
 そしてこれら8点のうちの2点、《お魚》(1960年頃)の一部と《瓶と水差 No2》(制作年不詳)にはメゾチントの技法が用いられている。
 上に引用した紹介文にもある通り、メゾチントではベルソーと呼ばれる道具が重要な働きをする。ベルソー(berceau)とはフランス語で「揺りかご」の意味で、動詞bercerは「静かに揺する」という意味である。
 ヨーロッパでは、メゾチントの技法は17世紀に発明され、そのための道具であるベルソーも早い時期につくられていた。d0238372_1244867.jpg
 これは写真のように、ゆるい円をえがく堅い金属の先に無数の細かい刃を刻んだもので、これを左右に揺すって銅版の表面に傷をつけて目立てをするのである。1930年代にフランスに渡った長谷川潔は、この道具の存在を知っていて、それを用いてあの精緻な作品を制作したのだった。
 これに対して、カラー・メゾチントの技法を開発した浜口陽三は、銅版画の制作を始めた当初は、ベルソーの存在を知らなかったという。彼は私との対談で次のように語っている。
 「浜口 ・・・ぼくがメゾチントで最初につくったのは《永代橋》(1951年)で、新橋の近くの掘割から見た風景ですが、これをよく見ると分かるのですが、ドライポイントで版板のプレパレーション〔下地つくり〕をやっています。
 ―― 縦、横、斜めに細かい線が入っていますね。
 浜口 そう、このときはベルソーなどなかったですから、ドライポイントの要領で、ペンでこまかい筋を無数に引いているのです。そうして、うすくしたいところは、ペンなどの先を艶ベラみたいにしたもので、こすって調子を出しているのです。
 そうやって、全部を一度真っ黒にして、白くしたいところは、削ればいいと考えたわけです。(中略)第一、ベルソーという道具があることさえ、知らなかったのですよ。
 ところがあるとき、戦前ニューヨークで知り合った e e カミングス〔詩人〕の奥さんのマリオンが送ってくれたのです。それはこういう話でした。
 ある日、e e カミングスとマリオンから手紙が来て、「ハマグチ、敗戦でお前も生活に困っているだろう。絵を送れば百ドルくれると書いてありました。
 当時の百ドルは大金でしたけど、お金をもらっても仕方がありませんから、日本で買えないものを買って、送ってほしいと頼んだのです。
 そうしましたら、ぼくと非常にしたしくしていたフランス人の友人〔その後の調査でフランスに住んでいたイギリス人だったことが分かった〕がニューヨークにいまして、彼がカミングスとも知り合いだったものですから、彼がカミングスからお金をあずかって、どこかから版画の道具であるベルソーを探してきて、それを東京のぼくのところへ送ってくれたのです。」(『浜口陽三の世界』、ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション、2012年)
 つまり浜口陽三はメゾチントという技法を独習し、のちに海外の知人の厚意でベルソーを手に入れたのだった。浜口はその後1953年の暮にフランスへ渡り、そこで本格的に版画制作を開始した。
 では浜口に少し遅れて、日本で版画をはじめた駒井たちは、どうやってベルソーと出会ったのか。この点に関して、「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」の学芸員、神林菜穂子さんから興味深いエピソードを聞かされた。それによると、駒井はベルソーなる道具の存在を知ると、神田にある創業明治20年の老舗文房堂を通じて、その形状や役割を日本人の職人に教えて、5本だけ作らせたのだという。こうして誕生した5本の和製ベルソーのうちの3本は、駒井哲郎、丹阿弥丹波子、佐藤暢男が所有することになった。残る2本のベルソーが果たして誰の手に渡ったかは目下不明だが、神林さんによれば、この5人が日本におけるメゾチントの草分けであったことは間違いないという。
 丹阿弥さんもインタビューで、「文房堂では、銅版画の道具を海外から積極的に探し求めてとりよせてくれました。齋藤さんという熱心な方がいらして、ベルソーをはじめて日本で5つ作らせた時、電話をくださり、その後アメリカからも取り寄せてくれるようになりました」と語っている。
 「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」開催の展覧会の図録には、1957年に出た「文房堂」の画材目録が載っていて、そこには版画制作用の道具である、ドライポイント付三菱刀スクレーバー Y(円) 330、三菱刀スクレーバー(木柄) Y600、バニツシャー(修正ヘラ) Y300、菱形刀 ビュラン Y600、などと並んで、ロッカー(連発刀)A幅10m/m Y300、ロッカー(連発刀)B幅7m/m Y 280、とある。ロッカーはベルソーの英語名で、この頃には文房堂が版画製作のための道具を海外から取り寄せるようになっていたことがわかる。
 
 「時のきらめき 丹阿弥丹波子 銅版画展」(茅ヶ崎市美術館)は6月7日まで
 「浜口陽三・丹阿弥丹波子二人展 はるかな符号」(ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション)は6月30日まで開催
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by monsieurk | 2015-06-03 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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