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フランスで歌曲になった惟然の句Ⅱ

 ミシェル・ルヴォンは1896年(明治29年)一度フランスに帰国し、そのときにパリ大学(ソルボンヌ)に『北斎研究』(Etude sur Hoksai)と『日本の華道について』(De arte florali apus Japonenses)という2つの論文を提出して、文学博士号を取得した。その後、日本で契約期間まで任務を全うすると、1899年(明治32年)に帰国した。そしてパリ大学で極東諸国歴史文明講座の嘱託講師となり、1919年には日本歴史文明講座の助教授、翌1920年には同講座の正教授となった。
 先に挙げた『日本文学選集、起源から20世紀まで』は、ソルボンヌの講師だった1910年に初版が刊行され、その後幾度か版を重ねた。副題の通り、古事記から源氏物語、枕草子などの物語、あるいは万葉から古今、新古今などの和歌、江戸時代の俳諧、本居宣長などの国学等、日本の文学史をたどりつつ、主な作品のさわりをフランス語に翻訳した大著である。
 欧米への日本文学の紹介としては、イギリスの外交官で日本研究者のウイリアム・ジョージ・アストン(William George Aston、1811-1911)が、1899年に横浜で刊行した“The History of Japanese Litterature”(『日本文学史』)やドイツ人カール・フローレンス(Karl Florenz、1865-1939)の ”Geschite der Japanischen Litteratur”(Amelangs Verlag、1906)(『日本文学史』)があり、さらにバジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain、1850-1935)は俳句を初めて英訳して紹介した。ルヴェンの仕事は時代的には若干後のものだが、平安時代に重心を置きつつ、日本の文学史をもれなくカバーしている点で画期的なものである。
 ルヴォンの原著は、法政大学などいくつかの図書館に所蔵されており、インターネット上には、アメリカ・ヴァージニア大学所蔵のものが、グーグルによって電子化されて公開されている。
 これによると、「徳川時代の詩」の部分で俳諧が取り上げられていて、芭蕉一門の十傑以外の一人として、杉風に次いで惟然の一句が、393ページに翻訳されている。
 そのくだりは、「《十傑》以外にも、芭蕉一門には他にも代表するものがいた。例えば、

        SAMMPOU(杉風)

Comme vont attendre ses enfants,
Pendant que s’élève si haut,
A l’excès, l’alouette!      

        IZEMMBO(惟然坊)

L’averse est venue;
Je suis venu et rentré en courant;
Le ciel bleu est venu!

とあって、惟然の句の注に、「彼もまたその習俗(裕福で、放浪のうちに人生を送った)や詩句の点で独特の詩人である。そしてその思想を、出きる限り少ない言葉で表現することにこだわった。その例がここに引用した句である」とあり、日本語の原詩を、

Shigure kéri
Hashiri-iri kéri
Hare ni kéri.

 と引用している。
 ルヴォンも言うように、広瀬惟然は慶安元年(1648年)に、美濃国(現在の関市)の酒造家の三男に生まれ、14歳で名古屋の商家、藤木屋へ養子に入った。だが貞享3年(1686年)、39歳のとき妻子を捨てて関に戻り、出家。そして2年後の貞享5年、松尾芭蕉が「笈の小文」の旅を終えて、岐阜に逗留した折に出会って門下となった。
 翌年、「奥の細道」の旅を終えた芭蕉を大垣に訪ね、その後は関西に滞在して芭蕉に近侍した。晩年は美濃に戻って暮らした。関市立図書館には、芭蕉と惟然の連句の碑が建っているという。惟然の没年は宝永8年(1711年)で、『惟然坊句文集』がある。
 このようにミシェル・ルヴォンの『日本文学選集』には、音楽家ジョルジュ・ミゴが7人うちの1人に選んで作曲した惟然の句が確かに紹介されている。ただ困惑するのは、ミゴが曲をつけたフランス語訳がルヴォン訳と若干異なっていることである。
 ミゴが用いた訳は、

L’averse est venue;
J’était sorti et je rentre en courant,
Mais voici le ciel bleu.

 である。この違いからは、二つのことが考えられる。ミゴがルヴォン以外の別の出典に依ったか、あるいはルヴォンが1910年の初版以後に改訳したかである。私が参照したヴァージニア大学の版は、1923年刊行の第三版で、ミゴが参照した可能性がある1910年の初版は未見である。
 ミゴが用いた訳の2行目と3行目は、逐語訳すれば「わたしは出かけていて、走って帰る、/ だが今はほら青空。」となり、ルヴォンの1923年の訳、「わたしはもどり走って帰った、青空が戻った!」よりも理屈っぽく、後者の方が、「venu(venir「やってくる」という動詞の過去分詞)」を繰り返している点でも、惟然の原句が「ケリ」を3度繰り返しているのを踏襲していて、改訳の可能性を感じさせる。いずれにせよ、1910年の初版に当たってみることが急務である。
 ミゴの楽譜には、「日本の7つの小さなイメージ」という表題に続けて、「Tirées du cycle de Heian(Ⅸ Siècles)」(平安時代(9世紀)から抜粋)という但し書きが添えられている。しかし言うまでもなく、惟然は江戸時代の俳人であり、その他の作品も万葉集など平安時代以外の和歌も選ばれている。一方ルヴォンの『日本文芸選集』は、時代考証に間違いはないから、もしルヴォンを典拠と考えると、なぜこうした混乱が起こったかが分からない。そもそもミゴは、何を基準にして7つの詩を選んだのか。ミゴは他に何か参照するものを持っていたのだろうか。目下のところは結論を出せずにいる。
 なお関市では、図書館が中心になって、ジョルジュ・ミゴの歌曲を、ピアノの伴奏で歌う計画が進行中だという。そのときまでには、なんとか疑問を解いてみたいと考えている。

 これから2週間ほど、ヴァカンスのためブログを休載する。(M.K.)
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by monsieurk | 2015-07-30 22:30 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

フランスで歌曲になった惟然の句Ⅰ

 岐阜県関市の市立図書館の知人から、メールで相談をうけた。内容は、当図書館にフランスの音楽家ジョルジュ・ミゴなる人物の楽譜が所蔵されており、そのなかに関市出身の江戸時代の俳人、広瀬惟然の俳句を翻訳したと思われるフランス語の詩に曲がつけられている。なぜ当地出身の俳人の句が、フランス語に翻訳され、しかもそれに曲までつけられるにいたったのか。それを知りたい。なにか心当たりはないか、というものであった。
さっそく調べてみることにした。
 ジョルジュ・ミゴ(Georges Migot、1891-1976)は、今ではフランスでも忘れられた作曲家だが、19世紀末の1891年にパリで生まれ、18歳でパリ音楽院に入学して、シャルル・ヴィトールに作曲法を習った。さらに管弦楽法も習得し、オルガン奏者としても名をはせた。
 当初はガブリエル・フォーレの影響を受けて、後期ロマン派の作風を得意としたが、1920年以降は中世の多声様式に傾倒して多くの曲をつくった。
 その作品は、オペラ、管弦楽、室内楽、ピアノ曲、歌と合唱など多岐にわたり、関市図書館に楽譜が保存されている作品は、ミゴが1917年につくった、「7 Petites images du Japon(日本の7つの小さなイメージ)」というピアノの伴奏による歌曲である。詩は表題の通り、日本の和歌や俳句を翻訳した短詩に曲をつけたもので、惟然の俳句は4番目にある。
 7つの短詩は、一番目が、後撰和歌集の陽成院の和歌、「つくばねの みねよりおつる みなのがわ こひぞつもりて ふちとなりぬる」で、これが

Comme la rivière Minano
Tombant du Mont Tsoukuba,
Mon amour, s’accumulant,
Est devunu une eau profonde.

 と訳されている。
 以下、「源氏物語」で桐壷更衣が読む、「かぎりとて 別かるる道のかなしきに いかまひしきは 命なりけり」、「古今和歌集」の詠み人しらずの歌、「秋風に あへずなりぬるもみじばの ゆくへさだめぬ 秋ぞかなしき」、そして4番目が惟然の句で、

 「時雨けり走入りけり晴れにけり」が、

 L’averse est venue,
 J’était sorti et je rentre en courant,
 Mais voici le ciel bleu.

 と訳されている。逐語的に再度日本語にしてみれば、

 にわか雨が来た、
 私は出かけていたが走って戻る、
 だがいまは青空。

 とでもなろうか。
そして、5、6、番目はそれぞれ「万葉集」から柿本人麻の「あしびきの やまどりのおの・・・」、「古今和歌集」の素性法師の、「いまこむと いひしばかりに ながつきの ありあけのつきを まちいでつるかな」、そして最後の7番目が「万葉集」から山辺赤人の歌、「春の野に すみれ摘みにと 来し我ぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける」となっている。
 問題はミゴがこれらの翻訳をどこで知ったか、出典は何かということである。ミゴの作曲が1917年ということを考えると、まず考えられるのは、1910年にパリで刊行されたミシェル・ルヴォンの”Anthologie de la litterature japonaise, des origins aux XXe siècle”(Librairie Delagrave、1910)、『日本文学選集、起源から20世紀まで』(ドラグラーヴ書店刊、1910年刊)である。
 ミシェル・ルヴォン(Michel Revon、1867-1947)は日本と深いつながりを持っている。彼はスイスのジュネーヴで、フランス人の父とスイス人の母の間に生まれ、父はジュネーヴから国境をフランス側へ越えたすぐのところにあるアヌシーの博物館に勤務していた。
 ミシェル自身はアヌシーから近いフランスのグルノーブル大学で法律を学び、法学士号を得た後、パリに出て検事局に職をえて、法律家としての経験をつんだ。
 そんな折、日本で政府の法律顧問をしていたギュスターヴ・ボアソナードが役職を去るに当たって、彼を後任に推薦してくれたのである。ボアソナードは来日前にグルノーブル大学で教鞭をとったことがあり、そうした縁であった。
 こうした経緯でルヴォンは1893年(明治26年)に来日し、東京帝国大学で法律を講じるとともに、司法省の法律顧問となった。さらに和仏法律学校(法政大学の前身)でも教鞭をとった。
 ルヴォンは職務のかたわら日本の文化に関心をもち、日本に滞在していたときから日本の文化や文学に関する著作を発表した。(続)
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by monsieurk | 2015-07-27 22:30 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

トウルノンのマラルメⅩⅢ

 古序曲の意味

 マラルメの詩が象徴的なものになっていく分岐点が、「エロディアード」の創作であったことは、多くの評者が一致している点である。
 ただしその場合でも、マラルメは詩を構成する素材の多くを現実から汲み上げていることには変わりはなく、この「序曲」でも、現実から出発して、そこから生み出された観念とイメージの、意外で、非日常的な結合によって、魔術的で神秘的な幻想をつくりだす。ギイ・ミショーやフロミラーギュ教授が指摘するように、詩人はオーバーラップやアナロジーを駆使し、暗喩の網目を幾重にもめぐらしている。
 「古序曲」は直接的な現実の枠組みや書割り、あるいはそこから生じる感情を抽象して、独特のイメージに結晶させる過程を知る上で格好の作品なのである。
 「エロディアードの古序曲」全体を支配するのは、冒頭に置かれた「廃された」abolieという一語である。フランス人がこの詩を朗読した録音が幾つかあるが、それらはすべて〈li〉の音を尻下がりに発音し、そのあとのヴィルギュル〈 , 〉で、通常よりも長い休止を置き、おもむろに〈et〉「そして」と朗読している。これによって「廃された」は、叙述の舞台となる城館がなかば崩壊し、乳母とエロディアードしか住んでいないことを暗示するとともに、これから記述される事柄が、すべてあるかなきかの不確かなものであることを示している。
 もつとも「廃する」abolir という動詞そのものは、abolir une loi 「ある法律を廃する」といったように、日常的に用いられる言葉だが、マラルメは、この言葉の重い響きにことさら惹かれていた。
1899年、詩人の死後にベルギーの出版社ドマンから出版された『詩集』には、49篇の詩が収録されるが、そのなかの3篇、「喪の乾杯」、「夕べの誇りはすべて煙となり」、「重くのしかかるくものもとに沈黙し」に登場し、いずれも詩全体の雰囲気を決定する重要な言葉として機能している。
 徹夜で仕事をした詩人は、部屋にただひとつ開いた窓から、夜明けとともにローヌの川面が少しずつ青味を帯び、やがて最初の朝日によって薔薇色に映えるのを眺める。「裸の黄金」de or nu、「真紅の忘却」oubli cramoisi(これはのちにespace cramoisi「真紅の空間」と改められる)、「泉水の涙」les larmes du bassinなどの表現は、みな彼が目撃した光景の描写にほかならない。
 引越しのあと、最初に書かれたオーバネル宛ての手紙で、「私が気に入ったのは、唯一ある窓のカーテンを開くと、ローヌ川の流れが見えることです。湖底のように静かで動きません。ここでは私は自然に囲まれて暮らしています。日の出、日の入りを二つながらに見ることができます。さらに秋を目の当たりにしますが、それは赤や黄の紅葉の秋ではありません。憂鬱な泉水の霧の立ち込める秋です」(1865年10月16日付)と伝え、またルフェビュールに宛てて10月か11月に投函された手紙でも、ここの秋は、「樹木が赤や黄に色づく秋ではなく、川水の霧がたちこめる秋だ。窓からは緑の代わりに、大きな泉水のようなローヌ川がある」と、同じような表現を用いている。これら2通の手紙の表現から見ても、マラルメがローヌ川を「泉水」bassin に見立てていることは明白である。
 詩篇の第9行目、「葉叢もない! 宿命の水はあきらめに徹し」とうたわれているのは、オーバネルに語った「湖底のように静かで動かないローヌの流れ」であり、後の訂正稿では、「漣の音もない! 陰鬱な水はあきらめに徹し」と変更される。
 やがて対岸の低い丘の上まで昇った太陽は、川霧を通して(「泉水の涙の上に広げられた羽の穴」)川面をきらめかせる。時は秋。「水は内なる燃え残りを消して / 秋の孤独を映している」。
秋はマラルメにとって特別の季節である。1863年につくられた散文詩「秋の歎き」で、彼は「奇妙なことに私は〈凋落〉という一語で要約されるすべてを好んだ。だから一年中で私が好む季節は、すぐ秋に先立つ夏のけだるい日々」であると述べている。
 「古序曲」で曙が「攻め立てる」のは詩人の部屋ではなく、背後に聳える城址の塔である。「は、紋章の翼となって、われらが納骨と供儀の塔を選んだ」のである。ここでは明示されてはいないが、そこは主人公のエロディアードと乳母が住んでおり、その「ひとつの枠に囲まれた特異な部屋は、/ 戦好きの幾世紀の武具一式、色褪せた金銀細工、/ 昔の彩色として往時の雪白を保つ」。
 オーバネルに宛てた手紙の一節で、マラルメは自分の部屋の様子を、「簡単な造りで、古い戸棚が一つ、コルドバ革を張ったアンリ三世式の椅子や綴織りを張ったルイ十三世の椅子、当世風の振り子時計が一つ、それにベッドには古い糸レースが掛かっている」(同上)と描写している。
 これらの道具立ては、マラルメの想像力のなかでは、「名誉の失った悲しい国々の城館」に相応しく、武具一式や色褪せた金銀細工、巫女の姿が織り込まれた雪とも見まがう壁掛け(タピスリー)に変貌する。そして乳母は、差し込む光で部屋が緋色に染まるのに触発されて、父である国王が遠く戦地へ赴いている間、自分が仕え、育てているエロディアードの不吉な運命を予感する。それが「罪科」以下、畳みかけけられる言葉であり、聖ヨハネの首を所望したエロディアードは火刑に処せられかねないことを暗示している。
 だが彼女は処刑されることはなく、あくまでも自らの理想に殉ずることが暗示される。「エロディアードの古序曲」の初期形は、次のように終わる。

夕暮れの、いや、赤い夜明け、
すべてを終わらせる最後の日の出だ、
悲しみはせめぎ合い、人びとは時刻さえ覚えないほどで
この予言者の時代の緋色は、まるで
羽のなかにその眼を隠す白鳥のように
自分の貴い心のなかに、追放された、少女のうえに涙を流す
荒廃した泉水を遠ざける秋の
冷たい、憂愁を帯びた、伝説の白鳥は、
まるで青白く、その眼を古の遁走の前にさらす
一つの星は、死に絶えて、もはや輝くことはない!

そして・・・

 後に「古序曲」の終幕は次のように改稿されて、エロディアードの運命は一層明確に示されることになる。

羽のなかにその眼を隠す白鳥のように
自分の心のなかに、追放された、少女のうえに涙をながす
まるで年老いた白鳥が羽のなかに眼を隠すように
少女は苦悩の羽でもって希望の永遠の並木道へと去った
一つの星によって選ばれたダイヤモンドを見るために、
その星は、死につつあり、もはや輝くことはない!

 アレ・デュ・シャトー2番地の家に引っ越したことで、より身近になったトゥルノンの古城とローヌ川の流れは、マラルメの詩的世界の形成にとって大きな役割をはたした。それは「エロディアード」に舞台装置を提供しただけでなく、彼の他の二つの主要な作品、「イジチュール」と「骰子一擲」でも、古城と水と石とが物語の舞台をつくりだすことでも明らかである。
 「古序曲」は、マラルメが現実の事物から出発して、それを詩句へと変容させる秘術をうかがわせる格好の素材であるとともに、彼の詩に死を予感させる独特の雰囲気をかもしだす書き割りの最初の登場でもあった。

 トゥルノンでの丸三年におよぶ滞在で、「エロディアード」や「牧神の午後」こそ完成できなかったが、『第一次高踏派詩集』に掲載された詩篇をはじめ、いわゆる初期詩篇と呼ばれる作品を創作することができた。マラルメが辞令をうけて次の赴任地であるブザンソンへ転任したのは、1866年12月27日のことであった。

 

 
 
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by monsieurk | 2015-07-24 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

トゥルノンのマラルメⅩⅡ

 「古序曲」

 「さて、ごくかいつまんで、この3か月のことを君に話さなくてはならないが、それはまったくぞっとするような話なのだ! 私は「エロディアード」に夢中になってこの3か月を過ごした。私のランプがそれを知っている! 私は音楽的序曲を書いた。まだほとんど下書きの状態だけれども、それは前代未聞の効果のあるものとなるだろうし、君が知っている劇仕立の舞台など、この詩句と並べると、レオナルド・ダ・ヴィンチの油絵と比べた場合の通俗的なエピナル版画でしかないと、自惚れでなく断言できる。」
 1866年4月21日ないし28日に書かれたカザリス宛てのこの手紙が告げてものこそ、エロディアードの「古序曲」と考えられる。私たちが知るもっとも古い1866年の日付をもつテクストの冒頭部分を訳してみる。

廃された、泉水の涙の上に
広げられた羽の穴は、危険を凝視する、
裸の金色で真紅の忘却を攻め立てる
曙は、紋章の翼となって、納骨と供儀の塔を選んだ、
睡蓮の領主にふさわしい宝石、曙と
黒い翼の無用の気まぐれ・・・
ああ、名誉を失った悲しい国々の城館!
葉叢もない! 宿命の水はあきらめに徹し、
翼も、忘れ難い白鳥の訪れもない! 水は
内なる燃え残りを消して
秋の孤独を映している。
その夢により悲嘆にくれた白鳥の
頭が青白い霊廟か羽の中へ沈んだそのとき、
星の歌が湧き上がる、だが、
その古の星は、いまだ瞬いたこともなかった。

罪科! 火刑の薪! 古の曙! 刑罰!
緋色! 燠! 緋色の共犯の沼!
そしてその薔薇色の上に、開け放たれた、このガラス窓。

窓枠のはまったこの特異な部屋、
尚武の幾世紀の具足、色褪せた金銀細工は、
古色蒼然として、青ざめた往時をしのばせる
そして、夕暮れ、司祭たちから贈られた、古代の雪とも見まがう
タピストリーには無駄な襞がより、
巫女たちの眼が埋め込まれている。
・・・・・・
 
 「古序曲」はのちに「呪文」と副題されるように、同時に創作された「舞台」の導入役をはたすもので、主人公エロディアードの不吉な運命を、乳母が独白する形式を取っている。
 聖書の伝えるエロディアード(ヘロディア)は、太守ヘロデ=アンテパスの兄ピリポの妻で、彼はこの義姉との結婚を望んでいる。しかし洗礼者ヨハネから「それは律法で許されない」と反対され、ヨハネを逮捕する。ヘロデ=アンテパスの誕生日にエロディアードの娘サロメは、見事な踊りを披露した褒美として、母に唆されてヨハネの首を所望して、それを得る。だが新約の「マルコによる福音書」や「マタイによる福音書」が伝えるこの物語と、マラルメの「エロディアード」とは、主人公の名前と、のちに「聖ヨハネ頌歌」Le Cantique de saint Jean が創作される以外に関連はきわめてうすい。マラルメにこの詩の構想をあたえたものとしては、ギイ・デルフェルなどが主張するように、彼が1864年に読んだフロベールの小説『サラムボー』の第3章や、ダニエル・ウィコウスキが指摘する、トゥルノン城の城主の娘で、ヴァラモン公爵への愛のために死んだとされるエレーヌの物語をあげることができる。
 主人公エロディアードは、聖書に登場する、母親エロディアードと娘のサロメを一人にした人物であって、「舞台」で描かれる物語の筋自体は単純である。乳母は彼女が仕える王女エロディアードを夢想から呼び覚まそうと、三つのこころみを行う。まず手に口づけをし、髪を芳香で燻らせ、次いでほどけた髪を直すために触れようとするのだが、エロディアードはこれらをすべて拒否する。彼女は現実世界に呼び戻されることに強い不安を覚えるからである。

その口づけ、試みよというその香料、ああ、
口にするのもぞっとする、かてて加えて冒瀆的なその手、
だって、お前は私に触れようとしたのだと思う、
それらはいつの日か、塔の上で禍事なしには済まないだろう・・・
おお、エロディアードが慄きながら見つめる塔よ。

 ここにはやがて起こるエロディアードとサン・ジャン(洗礼者ヨハネ)の出会いが暗示されている。そして詩篇は、エロディアードが自ら選んだ孤独への讃歌で終わる。
 「舞台」では王女のために普通の女性としての幸福を夢見て、さまざまに忠告する乳母の現実主義と、それを拒否して神秘的で孤独な美の世界に自ら閉じこもろうとするエロディアードとの相克が描かれる。エロディアードは実人生と愛を拒絶し、「唯一死ぬことによってのみ到達しうる完全なる成就、主体と本質の融合、実存在の事実性に結びつくものすべてを、方法論的に捨象することで実現する「それ自身」への変貌」を願うのだが、こうしたエロディアードの願望(これはマラルメが直面していた詩作と重なり合う)は、現実を肯定する乳母には到底理解できない。「舞台」は詩人としての苦悩を、エロディアードと乳母の対話という形式で描いており、「古序曲」では、エロディアードの運命を予告する乳母の独白が展開される。「古序曲」の初期形は全体で98行からなるが、そのうち翻訳した冒頭25行から明らかなのは、ローヌ川を前にして建つ古城や、アレ・デュ・シャトーの家からの夜明けの光景が、多くの素材を提供している事実である。
 この点について、トゥールーズ大学文学部のルネ・フロミラーギュ教授が、1956年に同大学の文学部年報に発表した論文「マラルメの新解釈、エロディアードの古序曲」に詳細な分析を載せている。私はトゥルノン訪問のあとでこの論文の存在を知り、教授に問い合わせたところ、訂正加筆された論文を一部送ってくれたのだった。以下この論文を手がかりに、実地検分で得た知見を交えて検討してみることにする。(続)
  
 
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by monsieurk | 2015-07-21 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

トゥルノンのマラルメⅩⅠ

 転居

 マラルメ一家が夏休み前からの計画通り、ブルボン通りからアレ・デュ・シャトー2番地のアパルトマンに引っ越したのは、新学期の開始に間に合うように、9月29日、パリからトゥルノンへ戻って間もなくのことである。そこは通りの名前からも分かるように、大革命のときに破壊された城址に寄り添うように建つ小さな建物であった。アパルトマンは二階を占めていて、部屋の窓からはローヌの流れが見下ろせた。この窓からの眺めが、「エロディアード」に新たな展開をもたらすことになったのである。
 トゥルノン市資料館に保存されている資料によれば、建物は1840年に建築家ヴェイェが建てたもので、建設にあたっては崩壊した城の石材が多く利用された。そしてマラルメが借りた当時は、建築家の甥のルイ・トレィヤが所有していた。
 私が訪ねたとき、通りの名前はマリウス・ジュヴェヌトン大通りと変わっていたが、かつてマラルメ一家が住んだアパルトマンには、ジル・マニェという人が住んでいた。部屋の間取りと窓からの眺めを確認したいという願いを快く聞き入れてくれた。
 マラルメが仕事のために使ったとおぼしい部屋には、幅は比較的狭いが丈の高い窓が一つ東を向いてあり、そこからはローヌ川の川面、その上に架かる吊り橋、そして対岸のタン・エルミタージュの市街の彼方に、低い丘の連なりが見渡せた。
 「エロディアード」、とりわけその導入部である「古序曲」が、ここからの光景を一つの源にしていると直感したのはこのときである。そしてこの直感は、翌朝、吊り橋を対岸のタン・エルミタージュの側に渡り、きらめく川とその向うに朝日に照らしだされる城址を眺めたとき確信に変わった。
マラルメは転居後、ふたたび「エロディアード」の創作に没頭した。ただ、それはこれまでのような「悲劇」ではなく、純粋な詩篇としてであった。この重要な転換については、先に一部を引用した10月16日付けのオーバネル宛の手紙で語られている。
 「半獣神」は他日思う存分書き改めるために、数か月の間は机の抽斗の中に打ち捨てておき、「私は「エロディアード」を開始するが、もはやこれは悲劇ではなく、(同様の理由によって)詩篇とします。つまり、とくに、こうすることによって、神秘については言うにおよばず、仕草や衣装や背景や小道具を得することになるからです。」
 括弧のなかの「同様の理由」とは、バンヴィルやコクラン兄から「半獣神」が舞台に適さないと指摘されたことをさしている。つまり「半獣神」が拒否された以上、「エロディアード」も大衆を目当てにした舞台に乗せる「悲劇」とするのを断念する。そのことによって、演出に必要な約束事から解放されることになるというのである。
 こうしてマラルメは1865年秋から、詩篇としての「エロディアード」を書き始めた。『エロディアードの婚礼(Les Noces d’Hérodiade)』 をまとめたガードナー・デーヴィスは、バンヴィルたちの前で披露された草稿を吸収した「舞台」Scèneは、1865年の暮れには、一応の完成をみたと推定している。そしてその後に、マラルメは「古序曲」Ouverture ancienneに取りかかったのである。(続) 
 
 
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by monsieurk | 2015-07-18 17:14 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

トゥルノンのマラルメⅩ

 バンヴィルの勧め

 マラルメは冬の間、忍耐強く「エロディアード」の創作に努めた。そしてこの間、2月には、1年前に創作した批評的散文詩「文学的交響曲」が、雑誌「芸術家」に掲載され、3月には、マリーとジュヌヴィエーヴのいる光景をうたった詩篇(おそらくは「詩の贈り物」の前身である「朝明け」)と散文詩「未来の現象」をカザリスに送った。
 だが4月になって、「エロディアード」を続けようとすると、筆がまったく進まない状態に陥った。リヨンよりも南に位置するとはいえ、トゥルノンの冬は寒く、ローヌ川に沿って吹き抜ける強風がつのり、寒さのために散歩もできなかった。
 苦境にあった彼のもとに、テオドール・ド・バンヴィルから激励の手紙が舞い込んだのは、5月あるいは6月初めのことである。バンヴィルは「エロディアード」を舞台用に創作し、フランス座(テアトル=フランセ)で演じられるものを目指すように勧めてきた。マラルメはこの勧めに従って、「エロディアード」を作り変える気持はなかったが、バンヴィルの提案が刺激となって、半獣神を主人公にした別の作品を創作して、それを舞台にかけるというアイディアが浮かんだ。
 このために難渋をきわめる「エロディアード」は、次の冬まで一時先延ばしにすることにしたのである。こうして6月に入ると、「主人公が半獣神である十二音綴詩句の幕間狂言」の制作が開始され、夏休みの間に一応の完成をみたと推測される。そして9月には、マリーと赤ん坊のジュヌヴィエーヴをトゥルノンに残してパリに行き、バンヴィルと有名な俳優のコンスタン・コクランに面会して、作品を朗読して聞かせた。
 バンヴィルは「半獣神」に、オデオン座で上演したばかりの自作の叙情詩劇「森のダイアナ」との類似を認めた。この詩劇では二人の水の精ユーニスとメリット、それにサチュルヌ神グニフォンが登場するが、マラルメは躊躇することなく、同じテーマを取り上げて、三場からなる作品に仕上げたのである。バンヴィルはマラルメの手法の独創性と知的官能性を認めたが、結局採否の判断はフランス座の審査委員会に委ねられることになった。
 判定を待つ間、彼はオデオン広場にあるホテルに宿をとり、空いた時間を利用して、ヴェルサイユに祖父母を訪れたほか、友人たちに会いに出かけた。
 このころには、パリのドゥエ通りに移っていたカチュール・マンデスの家でヴィリエ・ド・リラダンとも再会し、先輩のフランソワ・コペをはじめ、やがて高踏派を形成するレオン・クラデル、グラティニー、キューバ生まれのエレディア、ジャン・マラたちと出会った。おそらくマンデスやヴィリエには「半獣神」を朗読して聞かせ、彼らは賞賛したに違いない。
 だがフランス座の判定は逆であった。「私の「半獣神」の詩句は大いに喜ばれたのですが、ド・バンヴィルもコクランも、この詩には顧客の要求している肝心の筋というものが欠けているから、詩人の興味しか満たすまいと断言した」のであった。マラルメは翌年もテクストの推敲を続けるが、その後は長い間仕舞い込まれることになる。(続)
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by monsieurk | 2015-07-15 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

トゥルノンのマラルメⅨ

 悲劇の創作

 ルフェビュールの親切な手紙に対して、マラルメは2月の初めにようやく返事を書いた。彼はそのなかで、自分が創ろうとしている詩篇の意図を、あらためて次のように述べている。
 「「エロディアード」に関してあたえてくれた詳細、ありがとうございました。ただ、私の役には立ちません。私の作品のもっとも美しいページは、エロディアードという神聖な名前を含むだけのものとなるでしょう。私の得たインスピレーションはごくわずかなものですが、それも、この名前に依っているわけで、たとい私のヒロインがサロメと呼ばれていたとしても、私はこの暗く、はじけた柘榴のように赤いエロディアードという言葉を考え出したと思います。ともあれ、私はこれを純粋に夢想された存在、物語とはまったく無縁のものとして創作したいと強く望んでいます。ご理解ください。恋人の名を私同様に呼んだ、ダ・ヴィンチの弟子たちや、ほかのフィレンツェの画家たちの絵を援用することはありません。」
 つまり詩の大まかな枠組みとしては、踊りの褒美に洗礼者ヨハネの斬首を望んだというサロメ伝説を利用するが、清らかな処女でいて残忍な主人公は、エロディアードと呼ばれなければならないのである。しかも「私の作品のテーマは美であり、見せかけのテーマは、それに赴くための口実にすぎない」ともいう。つまり聖書の伝える逸話はあくまでも表面的なテーマでしかない。
彼が「悲劇(tragédie)」と呼ぶこの最初のテクストがどのようなものかは不明である。ただ、いずれにせよマラルメは全力を傾け、それが相変わらず大きな苦難を与えた。1月15日付けカザリス宛ての手紙 ――
 「不幸なことに、私は揺籃の周囲に漂っているあの魅力を少しも楽しんではいない。・・・仕事ができないときに、ミューズのあたえる大きな至福の代わりをするように思われる内心の幸福を味わうには、私は詩人でありすぎるし、唯一の〈詩情〉に熱中しすぎている。しかしそのくせ、自分が羨ましく思う他の人たちのように、人間の名前に値する唯一の仕事である詩に休みなく専念することができるには、頭脳があまりに無力で、あまりにも脆弱だ。・・・
 それでも、私は一週間前からまた仕事をしている。本気になって、「エロディアード」の悲劇に取りかかった。だが、文学だけに専念できる文学者ではないのは、悲しいことだ! 失えば二度と見出せないような私のもっとも美しい〔詩想の〕躍動や稀有の霊感も、教師という忌まわしい仕事で中断されてしまう。」
 さらにルフェビュール宛ての手紙の後半でも悲観的な見通しを述べている。
 「でも私が悲劇をつくりあげることは決してありますまい。私の哀れな脳髄は、いかなる思考にも堪えられず、門番の手で掃除された小川にも似ています。私は卑怯者です。さもなければ、不幸で、死に瀕している愚か者です。ときに光明を見出すこともありますが、八百行の詩句をつくるあいだ、その灯りを燃やし続ける術を知らないのです。」
 マラルメは詩篇として創作しようという考えを改めて、このころには舞台にのせる悲劇として構想するようになっていた。同様な表現は、1865年2月22日付のカザリス宛の手紙にも見ることができる。
 そして、このルフェビュール宛ての手紙では、もう一つ大変重要なマラルメの信条告白がなされている。それは、当時フランスの文壇で脚光を浴びつつあったテーヌの評論について述べられた個所である。ルフェビュールがテーヌの論文を読むように勧めたのであろう(ただ現存するアラルメ宛ての手紙には該当する個所は見当たらないが)、マラルメは友人の指摘に感謝しつつ、次のように書いている。
 「私に言わせれば、テーヌは芸術作品の源泉を印象にしか見ず、思索をないがしろにしています。芸術家は、原稿用紙を前にして、初めて芸術家になるのです。彼は、たとえば一人の芸術家が、その作風を完全に変えることができるなどとは決して信じていません。しかし、それは間違であって、私はそれが私自身の身に起こったのを経験しました。子どものとき、学校で二十ページの課題作文を書いたことがあり、私は一気に書き上げました。決してつかえないと評判でした。でも、それ以後は、逆に凝縮〔された文体〕を極端に愛するようになりはしなかったでしょうか。始めのうちは、心情を吐露することを考えて、心に浮かぶままに書いていたため、私の文体はおそろしく冗漫でした。純真で、直観に頼っていた中学生と、訂正の筆を加えないと言われることを嫌う文学者と比べた場合、嘘をつかず、ごく自然に振る舞った当時の生徒以上に異なるものが他にあるでしょうか。」
 マラルメが「エロデイアード」でこころみているのは、インスピレーションに頼るのではなく、思索を重ね、語と語を適切に配置することで生み出される詩的効果の追求であった。それは何も書かれていない白い原稿用紙に、一語一語を書ききしながら、語と語の響き合いと、そこから立ち上るイメージを一つ一つ確認する気の遠くなるような作業だった。(続)
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by monsieurk | 2015-07-12 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

トゥルノンのマラルメⅧ

 鏡に映る自分

 このころ、アヴィニョンで知り合ったルーマニーユ宛てに送られた手紙。
 「・・・このところ、私は詩をつくってはいませんが、リズムよく動く小さな娘ができました。瞳は青で、それはとうてい韻にのせることはできません。髪はもうあなた方のプロヴァンスの偉大な詩のもつ勢いそのまま、ふさふさしています。この詩は不幸なことに、ほかの詩を私から奪ってしまいました。その詩さえ私に書く力があるかどうか。彼女の泣き声で新しいミューズを追い払ってしまったのでしょう。」(1864年12月)
 カザリス宛ての手紙の文面に比べて調子が明るいのは、ルーマニーユと知り合って、まだ日が浅いからである。さらにもう一人の南仏方言派の詩人、ミストラルに宛てた手紙。
 「私は気が狂いそうな状態にあります。世事は、それに身を入れるにはあまりに茫漠としているように見えます。詩句をつくっているときしか、自分が生きているという実感がしません。それ以外は仕事をしていないのですから、退屈しています。あついは、退屈しているゆえに、仕事をしておりません。
 こんな状態から抜け出すこと!」(1864年12月30日)
 マラルメの願いにもかかわらず、この状態は年が1865年とあらたまっても、一向にあらたまらなかった。トゥルノンを吹き抜ける風は冷たく、部屋に閉じこもって、いたずらに時をすごすばかりだった。そんなとき決まって脳裏をよぎるのは、華やかだったパリでの友たちとの交わりであり、自分一人だけが取り残されているというやりきれない思いだった。
 「私は鏡に映る自分のぼやけた生気のない顔を見ると、鏡の前から後退りしてしまう、自分が空虚だと感じて泣くこともあるし、頑として白い紙の上に、ただ一語も書きつけることができない。愛する人はみな光と花に囲まれて、傑作をものにする年齢を生きているというのに、23歳にして老朽し、窮しようとは!」(アンリ・カザリス宛、1965年1月末、木曜日)
 マラルメはこうした不毛な状態を友人たちから遠く離れているせいだと考えていた。
 「・・・あらゆることが与って、私を無感応に陥れた。優柔不断な私には、あらゆる度外れの刺激が必要だった。熱っぽく煽り立てるようなことを言う友人たちから受ける刺激、絵画から、音楽から、騒音から、生活からうける過度の刺激が必要だったのだ。この世に避けるべきものが一つあるとすれば、それは強者のみを勢いづける孤独というものだ。ところが、私は自然とともにあることもなく、醜悪な土地で、並外れた孤独の人身御供となっている。」(同上)
 マラルメから送られてくるこうした悲痛な手紙は、友人に不安を与えずにはおかなかった。「エロディアード」への期待が大きいだけに、マラルメが陥っている鬱状態からなんとか救いだそうと、彼らは手をつくした。
 ユージェーヌ・ルフェビュールはパリから送った年賀状で、そうした心配を披歴している。
 「・・・親愛なる家長殿、君の二人の娘さんのご機嫌はいかがですか。「エロディアード」の方は、隣の娘を恐れて姿を隠したままですか。それとも二人とも大きくなりましたか。いま手許にエロディアードについてのラテン語で書かれた悲劇があります。シェイクスピアと同時代のもので、ボルドーの高等中学用に、英国人〔ブキャナン〕によって創作されたものです。もちろん主題は、君のものとはなんの関係もありません。このなかでは、主題は「ハムレット」の悲劇の王と王妃のように、誇張した調子であつかわれています。もう一つ、崇高なるものについて書かれたチェスターフィールド卿の随筆をもっていますが、これは素晴らしいもので、今日なら、ドイツの哲学者の誰かが書きそうな洞察と真実とに満ちています。ミシュレの「人間性」についての『バイブル』はもう読みましたか。おそらく、君の計画がさらに大きくなって、どこかアジア的な主教の複雑な混合を垣間見させようとするのだったら、この本が少しは役に立つと思います。少なくとも、このなかに今日まで箴言の生命そのものであった宗教の正確な「感覚」(と、私は思いますが)を見出すことでしょう。この本について話すのは、これに含まれている歴史的市場のためであって、君が〔ユゴーの〕『世紀の伝説』といった類に興味を持っているなら、役に立つことでしょう。」(続)

 
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by monsieurk | 2015-07-09 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

トゥルノンのマラルメⅦ

 同封された散文詩

 ところでカザリス宛ての手紙に同封されたもう一つの作品の散文詩は、「未来の現象」と推定されるが、ここにも「エロディアード」は影を落としている。
 散文詩の内容は、まさに地球が滅びようとする時代のものである。落魄した未来の世界にあって、「過去の事物の見世物師の布張りの小屋だけが建っている。あまたの街灯は黄昏を待って、不滅の病魔と幾世紀にもわたる罪業に征服された、不幸な群衆の顔を浮きあがらせる。男たちは、みじめな果実を懐妊し、その果実とともに地球が滅びゆく、みすぼらしい共犯の女たちのかたわらに立ちつくしている。一つの絶望の叫びとともに、水の下に沈み込む太陽を、はるかに哀願しているすべての眼の不安気な沈黙のなかで、見世物師の長広舌が聞こえるばかりである。「・・・私は、ここに生きたまま(しかも至高の科学によって、幾歳月を通して保存してきた)古の女を一人もたらした。」
 見世物師が自慢げに披露するこの古の女性こそ、マラルメが夢想のうちに想い描いていたエロディアードにほかならない。
 「なにやら知らぬ物狂おしさ、生来にして素朴、黄金の恍惚とでもいおうか、髪と名づけたものが、その唇の血の滴るばかりの裸形に光輝いた顔の周囲を、織物の優雅さそのままに、うねっている。虚しい衣服のかわりに、彼女は肉体をもっている。類まれな宝玉にも似たどのような眼といえども、この好ましい肉体からでる眼差しには及びもつかない。乳房は張り切って、あたかも永遠の母乳が充満したように、乳首は天に向かっている。滑らかな脚は原始の海の塩を保っている。」
 詩篇「エロディアード」の女主人公こそ、こうした豊かな肉体と輝くばかりの金髪をもった美女として生まれてくるはずであった。そして見世物師の口上のような美女が、本当に古から甦ったとすれば、そのときこそ世紀末とはいえ、少数の心ある者、困難な時代を生きる詩人たちは、「炎の消えたその眼にふたたび火がともるのを感じながら、彼らのランプの方へ歩いていくだろう。脳髄はしばし混乱した栄光に酔いしれて、韻律につきまとわれ、美に先立たれて生きながら得た時代に生存していることも忘れて。」
 マラルメは自分が生きている時代を世紀末と意識していた。一方で、もし自分のうちに育んでいる美の化身エロディアードを、詩句として造形することができたならば、創作意欲を喪失している同世代の詩人たちのなかに、その情熱をふたたび燃え上がらせることができると信じていた。だがエロディアードは、見世物師の口上とは違って、なかなか姿をみせなかった。
 マラルメのようなタイプの詩人の場合、詩作には精神の極度な緊張が必要だった。しかし、ジュヌヴィエーヴが生まれてからは、そうした状態は望むべくもなかった。
 「親愛なるアンリ、・・・ペン軸の上には、埃が溜まったまま、もう幾日にもなる。ここは非常に寒い。悲しいほどの寒さなので、私はマリーの部屋の暖炉の隅にしじこまっている。この部屋には子どもがいるので、火が必要なのだ。火はまるで火事みたいだ。私はそこへ教室での授業に疲れ果てて戻ってくる。今年は授業が私からほとんどすべての時間を奪ってしまった。その上、ジュヌヴィエーヴが泣き声で私の頭をがんがんさせる。そんな具合で、休息する時間はほんと一刻しかない。それも夜なので、凍った毛布に身を埋めるのだ。その前に、一瞬でも机に向かって、ものを書こうという気を起させるようなよい友もいなければ、ハッとするような考えも浮かびはしない。したがって、私は手紙も書かず、詩作もしない。といって家庭的な幸福が、こうした仕事の穴を埋めてくれるとはとても思えない。どんな楽しみであれ、それを楽しむために仕事をしていない自分に気がつくと、私はひどく苦しむことになる。」
 これはマラルメが親友カザリスに宛てた12月26日付の手紙の一節で、この時期には同じような嘆きは他の友人に対しても続けざまに発せられた。
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by monsieurk | 2015-07-06 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

トゥルノンのマラルメⅥ

 詩篇「夜明け」

 手紙にはカザリスに送られた小詩篇はソネの長さとあることから、これを「詩の贈りもの」の初稿である「夜明け」とするのが、ベルトラン・マルシャルをはじめ、大方の研究者の一致した見方である。
 「夜明け」は、厳密なソネの形式をそなえてはいないが、十四行の長さがあり、なによりそこで詠われる情景が、赤ん坊と母親のかわたらで、夜明けまでランプのもとで筆を握る詩人をうたっている点で、マラルメ一家の情景を思わせるものである。

 イデュメの一夜の子をお前にもたらす!
 色青ざめた、血が滴り、黒々と、羽根が抜け落ちた翼に、
 強い香りと黄金とで豪華に飾りたてられたガラスを通して、
 まだ生気のない、ああ、打たれた窓を通して、
 曙は天使のような私のランプに襲いかかった。
 棕櫚よ! 敵意ある微笑をつくろうとするこの父に
 曙がその仕事の残骸を見捨てたとき、
 青ざめた不毛な孤独はうめいたのだ。
 おお、揺籠をゆする女よ、お前の娘と無垢そのものの
 お前の冷たい脚とで、この悲しい誕生を和らげよ。
 ヴィオラやクラヴサンを思わせるお前の声、
 お前のしなびた指で乳房をしぼり
 汚れない青空の大気に渇いた唇に、女よ
 巫女の白さとなって注いではくれまいか。

 ここに登場する父は、夜を徹して「エロディアード」の創作に没頭しつつも、成果を得られずに虚しく夜明けを迎えたマラルメ自身にほかならない。
 東の空はようやく白みはじめ、明るさを増す東雲の一角は、まもなく昇ってくる朝日に照らされて、血の滴るように赤く染まっている。一晩中、机の上を照らしていたランプは、外の明るさが増すにつれて、光りを減じたように感じられる。ランプの火屋と、書斎にしている部屋の窓を通して白みかけた空が見える。
 マラルメはここで曙を翼になぞらえているが、これは彼特有のイメージであって、やがて書かれる「エロディアード古序曲」でも、まったく同じ隠喩が用いられることになる。
 「夜明け」にあっては、この他にもマラルメが偏愛する表現が頻出する。ランプが「天使のような」と形容されるのもその一つで、ランプこそが詩人の夜を徹した苦しい創作の努力を証言する唯一のものなのである。
 ところで、こうした努力の末に生み出された詩は、なぜ「イデュメの夜の子」といわれるのだろうか。そもそもイデュメとは何を意味するのか。
 旧約聖書の「創世記」によれば、イデュメとは、アブラハムの孫、イサクの長子エサウが住んでいた土地で、現在のパレスチナの南の地方を指す。
 イサクは妻リベカとの間に、双子の息子エサウとヤコブを得たが、長男のエサウは、「赤くして体中裘(けごろも)の如く」であったとされる。イサクは年老いて盲目になったとき、長男エサウを呼んで、好物の鹿を獲ってきてご馳走すれば、エサウをエホバの前で祝福しようと約束する。
 エサウはこの言葉に勇んで鹿を求めて狩りに出るが、その間に母のリベカは愛する次男のヤコブに命じて、羊を煮て夫の好物の羹(あつもの)をつくり、そうしてヤコブにエサウの服を着せて、手と首を山羊の毛皮でおおってエサウのように偽装させて、イサクの祝福をまんまと次男イサクの上にもたらしたのである。
 長男の権利とエホバの恵を失ったエサウは、エドムすなわちイデュメの地へ移ったのだった。双子の兄の踵を握って生まれてきたヤコブは、その名前(押しのける者)の通り、兄の上にもたらされるはずであったエホバの祝福をわがものとし、一方エサウは全身を毛で被われて生まれてきた、その出生からして疎まれる存在であった。母の愛は最初から弟に傾いていたのである。旧約聖書のこの挿話に照らしてみると、「イデュメの夜の子」の意味は明らかである。つまり夜を徹した苦心の末に生み出された詩句は、裘(けごろも)をまとった姿をした怪物であり、その恐ろしい形相に、「敵意ある微笑をつくろうとするこの父に / 曙がその仕事の残骸をうちまかせたとき、/ 青ざめた不毛な孤独はうめいた」のだった。
 こうして生まれた詩をもって、父である詩人は、隣の部屋で休む母と子のもとを訪れる。詩の第9行以下は、その隣室の情景である。
 誕生したまもないジュヌヴィエーヴを抱いた妻は、赤ん坊がむずかったのだろうか、乳房をふくませ、乳房を搾るようにして乳をあたえている。乳こそは母性の本質だが、彼女の指は家事と育児に疲れて、萎えている。そして明け方にむずかる赤ん坊を胸に抱いて、部屋着の裾から脚がでているのもかまわず優しくあやす母親。素足は朝の冷気でつめたく冷えるのも気づかずに、古典楽器のヴィオルやクラヴサンの音色を思わせる声で、調子をとりつつ、ドイツ語で子守歌をうたって娘をあやし続けるのである。
 マラルメが家庭の情景をこれほど率直に描いた例はきわめて珍しい。ただマラルメは一見私小説風の詩篇のなかに、彼らしい仕掛けをほどこすことを忘れなかった。
 その一例は、夫人のマリーの足をpiedsをわざわざ持ち出していることである。彼は冷えた白い足を、innocent無垢そのものの、と形容しているが、言うまでもなくこのpiedsは、人間の足と、詩の脚韻(pied)と掛詞になっていて、生まれたばかりの詩篇が前代未聞の脚韻を踏むように、創意がこらされていることを暗示している。詩に籠められた音楽性は、夫人の歌声と同様に、古の楽器にも比すべき展仮名調べを奏でるとの自負である。
 やがて書かれることになる、「エロディアード古序曲」が、Ouverture musicale 音楽的序曲とも呼ばれていることを考えると、この「夜明け」の一節ははなはだ興味深い。(続)
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by monsieurk | 2015-07-03 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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