フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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<   2015年 08月 ( 6 )   > この月の画像一覧

 待望久しかった塩川徹也訳のパスカル『パンセ』の翻訳が岩波文庫で刊行されはじめた。全部で3巻の予定だという。塩川氏は長年ブレーズ・パスカルの研究にたずさわり、これまでもパスカルに関する数々の独創的な論考を発表して、フランスでも高い評価をうけてきた。その彼がどんな『パンセ』の翻訳を提供してくれるか興味津々である。
 塩川氏は第1巻の「解説― 『パンセとはいかなる〈書物〉か』」の、「四 本訳書について」で、「「凡例」に記したように、本訳書は「写本」に直接依拠し、既存の刊本を底本とはしていない。そのかぎりで、これは独自の新版『パンセ』である。しかし決して独創的な新版、いわんや決定版を目指したものではない。これまでの説明でお分かりのように、未完の著作の準備ノートを中核として編まれた遺稿集はそもそも決定版の観念になじまない。そのような原理論は措くとしても、メナール版『パンセ』が未刊の現状で、それに取ってかわる決定版を構想するのは無謀でもあれば非現実的でもある。本訳書が目指すのは、メナール版『パンセ』の露払いをつとめることである。」と述べている。
 この解説にあるとおり、今回の塩川版『パンセ』は、これまでにフランスで刊行された本をもとに翻訳するのではなく、パスカル自身が残した自筆原稿あるいは口述した原稿からなる原本と、このほとんど全部と、これにはない断章も若干含む2種類の「写本」(「第一写本」、「第二写本」と呼ばれる)をもとにしている。以上の3つは、いずれもパリの国立図書館に保存されている。
 パスカルが残した原稿は、大きさも形もまちまちの62の束にまとめられているが、この62の束は2種類に分類することができる。1つは、束を包んでいる紙にパスカル自身がタイトルをつけているもので、これが27束ある。そしてこれに対応する「目次」も残されている。残りの35の束には、パスカル自身によるタイトルはつけられていない。
 第一写本と第二写本は、パスカルがタイトルを残している27の束に関しては、テクストもその配列も同一だが、タイトルのない35の束については、配列の順が両写本で異なり、含まれるテクストにも若干の異同がある。
 これら国立図書館に所蔵されている3種の文献、「パスカルの自筆原稿」(口述のもの、他人が浄書したとおぼしい原稿も含んだ)、「第一写本」、「第二写本」は、その複製が電子図書館「ガリカ(Gallica Bibliothèque Numérique)」で公開されており、ネット上で読むことが出来る。塩川氏は今度の岩波文庫版『パンセ』を編纂・翻訳するにあたって、公開されているガリカの複製版を主として参照したとのことである。
 ブレーズ・パスカルは1662年8月に亡くなったが、残された遺稿集は、1670年に、「死後書類の中から見出された宗教および他の若干の主題に関するパスカル氏のパンセ(pensées)」というタイトルをつけて初めて公表された。編者たちが、パスカルが親しくしていたポール・ロワィヤル修道院の関係者だったことから、「ポール・ロワィヤル版」と言われるもので、このときのタイトルから、パスカルの遺稿集は一般に、「パンセ(随想)」と呼ばれるようになったのである。
 「ポール・ロワィヤル」版は、パスカルが抱いていたであろう護教論的志向を軸に置きながら、信者であることを自認する読者に向けて編纂されており、加えてキリスト教的な色彩を帯びた人生論ともなっている。
 この版以後、未完のまま残されたパスカルのテクストを、多くの研究者が独自の考えに基づいて編纂したものが刊行されてきた。『パンセ』編纂の歴史は、それ自体が一つの物語だが、これまで広く流布してきたものを2つあげれば、その1つは、レオン・ブランシュヴィック(Léon Brunschvicg) が1897年に初版を刊行した、いわゆる「ブランシュヴィック版」である。
 フランス哲学界の重鎮だったブランシュヴィックは、パスカルが残した遺稿を、パスカルのプラン通りに再現することを断念し、それらを種類別に分類し、配列する方法をとった。
 彼は『パンセ』につけた序論で、「パスカルが未完成のままに残した殿堂を完成する権利はわれわれにはなく、ことにそれを完成する力があるなどと考える不遜な心は持ちえない。他面、業績の素材をそのままにしておかず、近づきがたく理解しがたい混沌状態のまま残さないようにするのが、われわれの義務である。なにか一つの方法を選ばなくてはならない以上、われわれにとって残されている道は一つしかない。それは、パスカルの『パンセ』について、廃墟の遺跡博物館において行われている方法をとることである。そこでは、再建も付加もせず、各々の石についてその出所を明らかにし、秩序だった集合によって他のものと照らし合わせることである。無秩序でも、最高性でもなく、たんなる分類である。」(前田陽一訳)と述べて、パスカルが残した同じような内容の断章を、14の章に分けて収録した。
 これによって、一般読者が『パンセ』に近づき、パスカルを理解しやすくしたのである。読者はこの版によって、アフォリズムを読むようにしてパスカルの思想を受け取ることになった。だがブランシュヴィック版では、パスカルが見出しをつけ、目次まで残した27束の配列までが無視されてしまった。
 その後、1938年に刊行されたトゥルヌール(Zacharie Tourneur)の版からはじまり、戦後のラフュマ(Louis Lafuma)へと引き継がれた、第一写本の配列こそがパスカルの意図をもっとも良く反映しているという「第一写本」優位説が提唱されることになった。
 糸口は、「ポール・ロワィヤル版」の序文にある、「さまざまな束に綴じて」あった原稿を、まず「発見されたときと同じ混乱のままに写し取らせた」という言葉だった。その後、パスカルの自筆原稿の方は、「ポール・ロワィヤル版」出版のために現在の形に並べかえられたというのだが、これが事実なら、自筆原稿の綴りよりも写本の方が一層元の分類に近いことになる。そしてトゥルヌールは、「第一写本」こそ、このときに筆写されたものだと主張した。しかも重要なことは、第一写本の前半は、一応キリスト教護教論の形をなしている点である。
 その後、『パンセ』のテクストの研究が進み、第一写本こそがパスカルの死んだ直後の原稿の分類状況を忠実に伝えていることを論証したがラフュマであった。彼はこれに基づいて、1952年に、「テクスト」と「覚え書(Notes)」の2冊からなる『パンセ』を刊行した。ここに至って「第一写本」優位説はほぼ確立した。
 以上が、パスカルの『パンセ』をめぐる経緯の概略で、塩川徹也氏も今回の岩波版のテクストの配列を、写本をもとに行っている。
 なお「解説」中の、「メナール版の露払い云々」は、塩川氏が師事したパリ大学教授でパスカル研究の第一人者、ジャン・メナール(Jean Mesnard)の校訂による『パスカル全集』(Edition critique des Œuvres complètes de Pascal, 4 tomes, Desclée de Brouwer,1964-1992、邦訳、白水社刊)が刊行中だが、肝腎の『パンセ』の巻はいまだに陽の目を見ていない。今回の塩川版は、テクストの確定、その読解と注釈とともに、『パンセ』の構成を考える上で注目すべき仕事になるのは間違いない。
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by monsieurk | 2015-08-31 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 メリー・ローランとステファヌ・マラルメの親しい関係はよく知られているが、彼女にはもう一人、親密な関係をもった文学者がいた。それがフランソワ・コペ(1842-1908)である。
 コペはマラルメと同年に生まれ、二人がメリー・ローランと関わった時期もほぼ重なっている。しかし彼女とコペとの関係は、これまでほとんど語られてこなかった。
フランソワ・コペは多産な作家で、毎年のように、詩集、戯曲、短編集を刊行した。なかでも主人公のザネット役を、名女優サラ・ベルナールが演じた『行人』(Passant、1868年)の成功で文壇に地歩をきづいた。
 終生独身だったコペは、ほぼ30年にわたってメリー・ローランに心からの愛情を注ぎ、480通におよぶ手紙や短信――これまで未刊行――や多くの詩を送って、メリー・ローランを神秘的なブロンドの女神と褒め讃えた。
 
「愛は失われたが、私はかつて霊感をあたえてくれた
 後光に包まれた額にいまだ苦しめられている。
 私を詩人にしてくれたのはそのブロンドの髪だ。」

 手紙に書き込まれた多くの短詩や、新年になどに贈られた状況詩では、メリーはこう描かれている。

「わたしの鳥さん、きみをマドリガルに詠いたい、
 でもそれはきみにとってはどうでもいいこと
 きみの身体、きみの髪、きみの肌は
 百合を、黄金を、薔薇を想い出させる」(1887年12月30日)

 さらに彼は、マラルメの「郵便つれづれ」に対抗するように、手紙の宛名を4行詩に詠い込んだりもしている。

「征服者の甘美な雰囲気を湛える夫人よ、
 きみは、レンヌ大通り、9番地で、
 ああ、わたしの手紙を、心のように
 その半透明の爪で開いてほしい」(1884年5月24日付)

 あるいは、

「卵みたいに禿げた郵便配達夫よ
 この折った手紙をレンヌ大通り9番地の
 ローラン夫人のもとへ運ぶことで
 きみの広い心を見せてくれたまえ」(1892年9月25日付)

「沢山の宛名の中から、シテールの郵便配達よ
 レンヌ大通り9番地、タリュ荘の
 主、メリー・ローランと
 間違えずに、読み取ってくれ!」(同日付) 

 メリー・ローランは、ブーローニュの森の近くにあった別宅、タリュ荘を 1890年冬から翌年にかけて改築したが、マラルメはこのとき、家具の購入から部屋の模様替えまで、すべてを手伝った。彼女のローマ通りのアパルトマンが19世紀の過剰な装飾で飾られていたのに対して、別荘の方はずっとシンプルだった。それは間違いなくマラルメの趣味が生かされた結果だった。そして別荘の改築がなると、フランソワ・コペはマラルメに遠慮することなく、すぐに一篇の詩を送った。

「メリー、わたしは君の新たな住まいのために
 わたしのやり方でセメントと
 わたしの優しい心で
 きみの家の石を一つ一つ積んだよ」

 メリー・ローランはまるで二人を競わせるように、この詩を恋のライヴァルであるマラルメの詩と並べて扉の上に掲げた。ただ、メリー・ローランをめぐる関係も、マラルメとコペの文学上の友情には何ら影響をあたえなかったように見える。二人は著書を交換し合い、共通の友であったヴィリエ・ド・リラダンが貧窮のうちに死去した際は、遺族のために奔走するマラルメを、コペが何かと手伝った。
 オーストラリアのマラルメ研究家、アンドリュー・ハンウィック(Andrew Hunwick)は、いまだ未公開のコペの手紙を調査した。彼によると、ジャック・ドゥーセ文学文庫に所蔵されているコペの手紙は、赤革で5冊に装丁されていて、各巻の背表紙には猫の顔が描かれているという。整理番号はMNR MS 21-25 で、手紙は年代順に分類されてはいず、また手紙の多くは日付がないとのことである。
 メリー・ローラン宛ての最初の手紙は、コペが上院の図書室で働いていた時期(1869年-1872年)にさかのぼり、多くの手紙には「子猫」(これは彼が自分につけた渾名)、あるいは「大きな鳥」(彼女に愛情を籠めてつけた名前)の絵が描かれているという。そして猫は、しばしば花を差し出しながら愛を懇願する姿をしている。
 以下は、ハンウィックの“Méry Laurent, icon of the fin de siècle”(Essays in French Litterature, The University of Western Australia, 40, November 2003. 後に“Méry Laurent, Manet, Mallarmé et les autres…“、Beaux-Arts de Nacy, 2005.に仏訳を再録)が引用しているコペの手紙である。
 「私は自宅に帰ってきました。感動に酔い、きみに会え、きみを抱きしめられて幸せでした。きみを私のもの、私一人のものにする以外のことは望まず、願いもしません。」あるいは、「私は20歳のように恋をしています」と書いている。
 「私は肖像画を持っていることに満足しています。いつも眺めています。」そして、仲間の葬式からの帰りに、たまたま彼女を見かけると幸せを感じた。「大きい鳥さんが突然バルコニーに姿を見せました、日本の着物の部屋着を着て。」
 別の手紙では慎重さを心がけ、メリーの庇護者だったアメリカ人の歯科医エヴァンス博士と彼女の仲を乱すことがないように注意を払っている。
 「貴女にはもっと用心してもらう必要がありますから、・・・オデオン座やフォワヨでは諦めることにしましょう。あそこで私たちは知られすぎていますから。」
 メリー・ローランも、コペが創作上で不安を感じたときなどは、それを払拭するような忠告をあたえた。コペは1884年12月18日付けの手紙で、学士院の会員に選ばれるために諸々のことを行ったこと、その結果、ついに念願の会員に選出されたことを、勝ち誇った調子で伝えている。
 「私は500通以上の手紙やカードを受け取りました。きみを少々笑わせるために、モンテスキュー〔エドモン・ド、モンテスキュー、貴族でマラルメや後にはマルセル・プルーストとも親しく交わった〕のものを送ります」。このときの別の手紙では、金の飾り紐で縁取りされた、学士院会員の正式な服装を着た猫のデッサンが描かれている。
 コペの手紙は、文壇で生きていくためのさまざまな仕来りについても揶揄をこめて伝えている。  「私は、服を着てヴィクトル・ユゴーの家へ夕食に行くために、たった今起きたところです。ただただ鞭で打たれたくないという気持からね」。あるいは「私たちはどこかで簡単な夕食を取りましょう、そのとき『居酒屋でのお祭り』の奇行について、きみに話してあげるよ」。
 さらにメリー・ローランは、コペが何か重大な決断をするとき、――たとえばラ・フレジエール=アン=マンドルに田舎の別荘を購入するときなど――それを真っ先に知らせた相手であった。また彼がよく罹った病気など、生活上の瑣事についても逐一知らせている。
 彼は彼女の許に足しげく通ったが、そうした訪問のことも事前に手紙で伝えている。たとえば、「ネクタイをはずしてしまいたいと心から思います」、あるいは、「私が土曜日の5時にむさぼりたいのは、たった一つ大きな鳥さんです」といった調子である。
 メリーは劇場やシャンゼリゼ大通りの流行のレストランに、コペと一緒に行かないときは、マラルメ、リュイジ・グアルド、女性の作曲家オーギュスタ・オルメス、女優のオルテンス・シュネデールといった友人とともに、彼を自宅の食事に招待した。
 メリー・ローランとコペの関係には紆余曲折があった。(「昔のように夕食に行きましょう。それはもうすっかり昔のことになってしまいました。」そして、「また馬鹿をはじめようというわけです!」)。
 彼らの関係は、おそらくコペの子どもを流産するといった事態を含めて、幾つもの危機を乗り越えて続いたのである。そして二人が愛人関係でなくなったあとも、彼らの友情は変わることがなかった。
 コペは、「私の深い愛情をどうか疑わないでください」とも、「彼女は変わってしまった・・・。でも私たちはずっと友人のままです、それはこれまでにないほどです」とも書いている。
 コペは終生、メリー・ローランに愛情をささげたが、それは彼女を女神のように思っていたからである。「きみは分かっているだろうが、私はきみを愛の神殿の特別の祭壇に祭って、その前では私の甘美な思い出の蝋燭がいつも炎をあげている。」

 マラルメとメリー・ローランとの間で交わされた手紙は、ベルトラン・マルシャルが編纂して、ガリマール社から1996年に刊行された(Bertrand Marchal : Lettres à Méry Laurent, Gallimard,1996)。だがメリー・ローラン宛てのものを含めて、フランソワ・コペの手紙は現在もまだ未刊行のままである。時間があれば、ジャック・ドゥーセ文学文庫に通って、フランソワ・コペの手紙を調査したいところだが、誰か日本の若いマラルメ研究者が、この調査を買って出てくれないだろうか。
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by monsieurk | 2015-08-28 22:30 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
 鈴弁事件のことを百合子から聞かされたことが、武田泰淳が「未来の淫女」を書くきっかけになった。作品では、同事件は「馬伝事件」として語られ、主人公も「馬屋光子」と名づけられていて、武田自身も、「もちろん一般的象徴であって、特定のモデルにしたがったものではない」、「ただし光子的存在、光子的運命を感得したことが、私に創作の衝動をあたえた」と述べている。
 百合子が鈴木弁蔵の孫(百合子や修の父が、鈴木弁蔵に見込まれてその娘と養子縁組し、二人の子が生まれた。その後、娘である母親が亡くなり、父は再婚。そこに生まれたのが百合子と弟の修である。したがって百合子と祖父の弁蔵との間には直接の血のつながりはない)と知ったことは、武田に強い衝撃をあたえ、作家として創作意欲を掻き立てられたのだった。
 「未来の淫女」によると、中華民国の祝日に横浜中華街で、光子の口からそれを知らされたことになっている。
 「横浜の中華記念日に焼きそばを食べてから数日後、私は札幌へ向けて出発した。だが、ろくな講義もできずに戸位素餐〔のらりくらり〕、一ケ月ほどして私は又東京に舞いもどっていた。私の関心はすでに捉えがたいあの女の心から、確実な光子の肉体の方へグイと傾いていた。ひどい貧乏にも負けず、社会的不安にも衰えず、ひたすら快楽を求めて成熟をつづける馬屋光子の肉体は、たしかに私にとって安心できる場所であった。伝七の血の流れをうけた、健康素朴な光子の身体、その身体ゆえに生まれている燥鬱症〔あほう〕的精神状態には、世界情勢を追いかけ廻して息せき切らせ、神経をそそげだてている島国インテリの一人である私を、明確に批判するものが含まれていた。」
 自分が鈴弁の孫であることを告白したとき、百合子には、武田がはたしてそんな自分を受け入れるかどうかという、賭けに似た気持があったはずである。だが武田はそうした過去とともに百合子を全面的に受けとめた。それどころか、個人的関係をこえた、作家としてのある啓示さえ受け取る。
 「(光子)がたんなる私の女ではなくて、馬屋光子〔傍点〕であること。その事実がその頃の私にとって、次第に重要な意味を帯びつつあった。女を抱くことは、只その一人の女を抱くことではない。それはある血統、ある血続の一員である女を抱くことだ。そのような重々しい、無限にひろがる物を抱きしめているような想いが、馬屋光子を抱くたびに、私の胸にみちた。」
 こうして百合子は、武田泰淳にとってかけがえのない存在となった。
百合子は結婚後、武田の創作活動を支え、晩年は後述筆記まで引き受けた。そして1976年に武田泰淳が亡くなると、13年間にわたって夫武田泰淳、一人娘の花とともに過ごした山荘での思い出を、『富士日記』として綴り、見事な才能を開花させたのだった。
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by monsieurk | 2015-08-25 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 これを書くきっかけは、梶ヶ谷にある行きつけの古書店の主人の話だった。彼は最近になって武田百合子の『富士日記』を読んで感動した。とくに彼女の文体が素晴しいと、興奮の面持ちで語った。武田百合子は言うまでもなく武田泰淳の夫人で、武田が亡くなったあと、『富士日記』をはじめ堰を切ったように作品を発表し、高い評価を受けた。
 『富士日記』を含む武田百合子の作品は、中央公論社から刊行された、7巻の『武田百合子全作品』におさめられており、第3巻『富士日記(下)』の「あとがき」で、いいだものが、「アプレ・ガールとしての百合子さん」と題して次のように書いている。
 「戦後文学と戦後思想の出発を記念する場合には欠かすことのできない神田神保町のカストリ・バー「ランボオ」を、千客万来のサロンに化した魅力(シャルム)の源泉は、まだ鈴木という姓であった時代の美少女のウェイトレス百合子さんですが、そこに通いつめた武田泰淳さんの作品に『物啖う女』というのがあります。今の文庫本では『物食う女』となっているようですが、元の「啖う」の方がいい。とにかく、「女」はハングリー精神でパクパク、パクパク、神経衰弱的左翼くずれ文士を驚嘆させるほどに、よくクラウのです、大きな声の、食欲がほとばしり出るエネルギー放射の塊なのです、「物語の女」百合子は。」
 武田泰淳の「もの喰う女」は雑誌「玄想」の昭和23年10月号に発表された作品で、筑摩書房の『武田泰淳全集』では第1巻に収録されている。
 「よく考えてみると、私はこの二年ばかり、革命にも参加せず、国家や家族のために働きもせず、ただたんに少数の女たちと飲食を共にするために、金を儲け、夜をむかえ、朝を待っていたような気がします。」と書き出される作品では、「私」はこのころ二人の女性と付き合っている。一人は弓子という新聞社に勤める女。この弓子は「私」以外にも食事などを共にする男友たちが多く、思うに任せない。
 もう一人の房子は、「神田のかなり品の良い喫茶店で、昼の十二時頃から、夜の十時ごろまで立ち働いているので、自由に気楽に会いに行けます。」という存在である。房子は明らかに当時まだ鈴木姓だった百合子がモデルで、武田泰淳は彼女を以下のように描写している。
 「久しぶりでその喫茶店へ出かけ、隅の席に腰を下ろすと、彼女はすぐにお辞儀をしてから注文をききます。それから勘定台の向う側のボーイに「わたしにもドーナツを一つくださいな」とたのみます。ガラス容器の中に、チョコレートなどと一緒に並べてあるドーナツをボーイが一つつまみ出してくれる。すると彼女は私の方へ顔を向けたまま、指先で上等のドーナツに歯をあてるのです。よく揚った、砂糖の粉のついた形の正しいドーナツを味わっている。その歯ざわりや舌の汁などがこちらに感じられるほど、おいしそうに彼女はドーナツを食べます。まるでその瞬間、その喫茶店の中には、いや、この世の中には彼女とドーナツしかなくなってしまったように、私が来たという安心、そのお祝い、それから食べたい食べたいと想いつめていた慾望のほとばしりなどで、彼女は無理して、月給からさしひかれる店の品物を食べてしまうのです。そこには恋愛感情と食慾の奇妙な交錯があるのです。」
 評論家のいいだものを初め、当時の武田泰淳と百合子の関係を知っている人たちの証言では、これは実際にあった話で、武田はこうした百合子に惹かれていったのだという。
 この作品が書かれた1948年(昭和23年)、武田泰淳は36歳、鈴木百合子は23歳で、二人はこの3年後に結婚した。
 武田は「もの喰う女」に続いて、当時の百合子をモデルにした「未来の淫女」を書くが、これは作品集『未来の淫女』(目黒書店、昭和26年)に収録されただけで、全集には入られていない。この作品集の巻末につけられた「自作ノート」にはこうある。
 「昭和廿一年、第一作「才子佳人」が先輩の好意で発表されてから約一年、私は何を如何に書くべきか全くの昏迷状態に在った。この作品は戦時中の草稿に手を加えたにすぎず、浪漫抒情を古語古詩の美的土壌に探るというその意図は、戦後の持続が困難であった。美も真も善も、新しい自我の鑢〔やすり〕にかけ、重苦しい巷塵を通過した複雑な光線で灼き試みてからでないと、創作を誘い、小説を生む力はない。このきまりきった過程に苦しむうちに「秘密」「審判」の二作を得た。しかし新しい自我、第二の「私」はたやすく確立じゃできない。おのれの醜、おのれのエゴイズムを発見しただけでは、芸術の魔神は遠ざかるばかりである。(中略)
 「未来の淫女」(昭和24年「文春別冊」13号)は「血と米の物語」(同年「風雪」10月号)と共に、長篇の一部である。社会小説なるものを、野間宏君とは異ったやり方ででっちあげるのが、私の念願の一つである。彼の如き膂力や信念に恵まれぬ私は、文字通り乱暴にでっちあげるより方法がない。馬傳事件、馬屋一家、同光子は、もちろん一般的象徴であって、特定のモデルにしたがったものではない。ただし光子的ぞんざい、光子的運命を身ぢかに感得したことが、私に創作への(勇気というには軽薄かも知れぬが)衝動をあたえた。「彼女」は、連鎖反応を無限に起す原子核的人物となった。(後略)」
 ここにある通り、百合子(作中の馬屋光子)は、横浜で外米の輸入を手広く行っていた鈴木弁蔵の孫として育った。だが大正8年に起きた米騒動の際に惨殺され、それをきっかけに一家は没落したという過去をもっていた。この事件は当時「鈴弁事件」として新聞で大々的に報じられた。さらにその後の戦争によって、彼女の生活はさらに困窮した。
 戦後、百合子は弟の鈴木修、のちの劇作家の八木柊一郎、いいだももたちと、知り合いの矢牧一宏の伯父が持っていた旧海軍の隠匿物資の砂糖を原料にして作った粒チョコを、東京近辺の菓子屋に行商してまわることで、食いつないでいたという。だが原料はすぐに底をつき闇商売がたちいかなくなると、彼女は森谷均がやっていた昭森社に編集者のふれこみで勤め、やがて森谷の命令で昭森社の一階にあったバー「ランボオ」に勤めることになった。この間、四度の堕胎を経験し、四度目には失神してしまうといった経験もしていた。
 いいだももによると、彼らは商売物の粒チョコには決して手をつけないのが掟だったから、百合子は甘いものに飢えており、武田に会って食べ物をねだるときは、決まって当時は高価だったチョコレート・パフェだった。(続)
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by monsieurk | 2015-08-22 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 M.G.アストンに惟然の句の翻訳がないとすれば、明治期の日本学(Japanology)の先駆者の一人、バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain)はどうであろうか。
 岐阜県関市にある惟然記念館(弁慶庵)に勤務する沢木美子は、「Haiku Journal」vol.1, no. 4(2001年4月)掲載の「惟然と一茶」で、惟然の口語俳句がのちの俳人たち、なかでも化政期の一茶に影響をあたえたとした上で、「〈おもたさの雪はらへどもはらへども〉と〈しぐれかりはしり入りけり晴れにけり〉の二句がチェンバレンによってアメリカへ紹介されているそうである」と述べている。この書き方からすると、沢木自身は翻訳を確認しておらず、しかも「アメリカへ」というのがどういう意味か不明だが、この指摘からも、チェンバレンの翻訳に当たってみる必要がある。
 チェンバレンはイギリスの軍港として名高いポーツマス近郊のサウスシーで、海軍少将の父と母イライザの間に、1850年10月18日に生まれた。母は『朝鮮・琉球航海記』の著者であるバジル・ホールの娘で、母方の祖父と同じ名前をつけられたのである。
 6歳の1856年、母が亡くなると、祖母に伴われてフランスに渡り、ヴェルサイユに住んで、英語とフランス語で教育されながら育った。その後イギリスに戻って、オックスフォード大学への進学を目指すが失敗。大学をあきらめて銀行に就職した。
 その後縁あって、1873年23歳のときにお雇い外国人として来日し、翌74年から88年まで、海軍兵学校で英語を教えた。さらに1886年からは東京帝国大学の外国人教師となり、この間 Things Japanese(『日本事物誌』、1890年)など、日本の社会や文化を欧米に紹介する多くの著作をものした。その中には先に述べたように、「俳句」を初めて翻訳するなどの業績を積んだ。その後1911年に離日。以後はスイスのジュネーブに住み、1935年2月に当地で没した。
 チェンバレンの著作は多いが、文学関係の著書としてあげられるのは、先ずはThe classical poetry of the Japanese.( 『日本人の古典詩歌』、Trübner & Co. Ludgate Hill, 1880)である。現在、比較的簡単に手に入りやすいのは、カナダのトロント大学が所有している第2版のリプリント版で、これを入手して全頁に目を通してみた。だが結論から言えば、この本には惟然の句の訳は見当たらない。
 もう一つの可能性は、チェンバレンの Bashō and the Japanese Poetical Epigramで、これは”Asiatic Society of Japan” (Vol.2,no.30, 1902)に掲載された。いますぐにこれを参照する手立てはないが、これに載ったチェンバレンの俳句の翻訳を含めて、様々な人によって 英訳された俳句のアンソロジーが、Faubion Bowersの手で編纂されて出版されている。それが、The Classic Tradition of Haiku: Anthology (Dover Publications、1996)で、これはすでに電子化されているので、Amazonで購入しKindleで読んでみた。
 ここには宗祇から正岡子規まで、52人の俳人たちの翻訳があり、芭蕉、蕪村、一茶などの有名な句の翻訳がみられるが、残念ながら肝心の惟然の句の翻訳は見当たらなかった。チェンバレンは惟然を翻訳したが、バウワーが編纂する際に割愛したのかもしれない。
 こうしてジョルジュ・ミゴが、ルヴォン以外から、惟然の翻訳を引用したかどうかの探求は振り出しに戻ってしまった。ただ、ミゴが用いた訳、”L’averse est venu; / J’était sorti et je rentre en courant. / Mais voici le ciel bleu.”(にわか雨が来た;私は出かけていたが走って戻る。/ だがいまは青空。)は、惟然の原句の音の繰り返しを、忠実に再現しようとしたルヴォンの訳に比べて、一層映像的でありで、タイトルにある「日本の7つの小さなイメージ」にふさわしいのは確かである。
 いまのところ確証はないが、ミゴがルヴォンの翻訳を参照しつつ、自らの美意識にしたがって、歌の歌詞にふさわしく改良を加えたと考えることは十分に可能である。
 ルヴォンが訳した多くの和歌や俳句のなかから、6つを選び出した〈他の一つはアストンの仏訳から)ミゴは独自の選択基準を持っていたはずで、その点からも改訳の可能性は高い。
 ドビュッシーやフォーレに影響されて作曲をはじめたミゴは、一時期、日本文化に強い関心をもち、1917年の『日本の7つの小さなイメージ』に続いて、1920年には『羽衣(HAGOROMO)』を作曲している。その後は、中世音楽の魅力にひかれて行ったのは既に述べたとおりである。
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by monsieurk | 2015-08-19 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(4)
 フランス図書の近藤文智さんの力添えで、ミシェル・ルヴォンの『日本文学選集』(Michel Revon:Anthologie de la littérature japonaise)の第3版(1918)と第6版(1928)を入手することが出来た。残念ながら1910年に刊行された初版は未見だが、3版と6版の間にページ割りにいたるまで、まったく異同がなく、これから推察すると各版とも初版を踏襲している可能性がきわめて高い。
 そこで手許にあるジョルジュ・ミゴの『日本の7つの小さなイメージ―平安時代((9世紀)から引用』(Georges Migot : 7 PETITES IMAGES DU JAPON, Tirées du Cycle de HEIAN, (Ⅸe siècle))の歌詞と、ルヴォンの訳とを比べてみることにする。
 上が、ミゴが曲をつけたテクスト、下がルヴォン訳で、7番目の山辺赤人の「春の野に すみれ摘みにと来し我ぞ 野をなつかしみ 一夜寝にける」の訳は、ルヴォンの翻訳中には見当たらない。



Comme la rivière Minano
Tomabant du Mont Tsoukouba,
Mon amour, en s’accumulant,
Est devenu une eau profonde.

Comme la rivière Minano
Tombant de la cime
Du mont Tsoukouba,
Mon amour, s’accumulant,
Est devenu une eau profonde. ( EX-EMPEREUR YÔZEI p.113)



Il est triste
Que ce chemin nous sépare !
C’est la destinée.
Je voudrais poutant vivre
Cette vie ― avec vous.

Il est triste
Que ce chemin nous sépare :
C’est la destinée !
Je voudrais pourtant vivre
Cette vie (avec vous) ! (MORT DE KIRI-TSOUBO p.183)



Au vent d’Automne
Ne pouvant résister
Se dispersent les feuilles d’érables.
Où vont ells ? on ne sait !
Et moi je suis attristé.

Au vent d’automne
Ne pouvant résister, se depersent
Les feuilles d’érable.
Où vont-elles ? On ne sait.
Et moi, je suis attisté. (KOKINSHOU p.145)



L’averse est venue ;
J’étais sorti et je rentre en courant.
Mais voici le ciel bleu.

L’averse est venue;
Je suis venu et rentre en courant;
Le ciel bleu est venu ! (IZEMMBÔ p.393)



Durant cette nuit longue,
Longue comme la queue du faisan doré
Qui traîne sur ses pas,
Dois-je dormer solitaire !

Durant cette nuit longue, longue
Comme la queue tombante
Du faisan doré
Qui traîne ses pas,
Dois-je dormer solitaire ? (HOTOMARO p.87)



Seulement parce qu’elle m’avait dit :
《Je reviens tout de suite.》
Je l’ai attendue, hélas !
Jusqu’à l’apparition de la lune de l’aube
Du mois aux longues nuits.

Seulement parce qu’elle m’avait dit :
《Je reviens tout de suite》,
Je l’ai attendue, hélas ! jusqu’à l’apparition
De la lune de l’aube
Du mois aux longues nuits ! (LE BONZE SOCEI p.111)



Sur la lande printanière
Pour cueillir des violettes
Je me suis aventuré.
Son charme me retint tellement,
Que je suis resté jusqu’au matin.

 両者を比べると、惟然の句の訳に関しては文言の違いがあるものの、他のテクストでは、陽成帝と柿本人麿の歌の訳に、それぞれ、“de la cime”(高嶺から)と“tombante”(垂れる)が加えられている以外は、句読点、カッコ、感嘆記号などの異同である。このことからも、ミゴがルヴォンの翻訳を用いと推測してほぼ間違いない。だが、惟然の句の訳の違いがなぜ生じたかはやはり気にかかる。

 ここまで書いたところで、フランスからW.G.Astonの書いたThe history of japanese Literature のフランス語訳、Littérature Japonaise par W. G.Aston traduction de Henry-D. Davray(Librairie Armand Colin,1902)が届いた。この本のLe Manyociouの項の内のP.43-44に、ミゴが7番目に置いた山辺赤人の訳が以下のように載っている。

Sur la lande printanière,
Pour cueillir des violettes,
Je me suis aventuré.
Son charme me retint tellement
Que je suis resté jusqu’au matin.(AKAHITO)

 ミゴとの違いは句読点だけで、これから見ても、ミゴがアストン訳(正確にはヘンリー・D.ダヴレーの仏訳)を参照にしたと考えてまず間違いない。やはり残るのは惟然の訳の出どころである。(続)
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by monsieurk | 2015-08-16 22:30 | 音楽 | Trackback | Comments(0)