ムッシュKの日々の便り

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男と女――金子と森の場合(Ⅱ)

 森三千代は1901年に愛媛県北宇和島町で生まれた。父幹三郎と母とくの長女である。父は伊勢の神主の息子で、郷里の神宮皇学館を出たあと国学者の上田万年に学び、宇和島で中学校の国語の教師になった。
 三千代は3、4歳のときから父親について『大学』の素読を習い、全部暗記するような子どもだった。小さいときから父の本箱から古典などを引き出して読み、小学校、中学校はずっと主席で通した。
 いつしか文学者を志望するようになった彼女は、1919年、18歳のときに伊勢の小学校の教員をしながら、東京女子高等師範学校の入試の準備をはじめ、そのかたわら大阪在住の詩人や歌人がつくっていた「地平」に作品を投稿したりした。そして翌1920年、女高師の入学試験に優秀な成績で合格し、念願の上京をはたして文科の学生となった。d0238372_1655457.jpg だが将来の教師養成を目的とした女高師範は全寮制で規律も厳しく、文学を志す森にとって期待した環境ではなかった。それでも学校では古典を中心にした講義で、貪欲に知識を吸収し、関心のある同時代の詩は雑誌などで読んだ。さらに学校外に文学仲間を見つけて交流し、やがて「詩神」や「詩聖」などの雑誌に詩を発表するようになった。
 関東大震災が首都圏を襲ったのは1923年(大正12年)9月1日で、お茶の水にあった東京女子高等師範学校の校舎も全焼して、教職員と生徒は茗荷谷の仮校舎に避難した。生活の環境は激変したが、森の文学への情熱は変わらず、川路柳紅や百田宗治などが活躍していた「日本詩人」などを読んで、詩作を学んだ。金子光晴の名前は、そうした雑誌で眼にした。金子光晴の詩集『こがね蟲』が新潮社から刊行されたのは、関東大震災直前の7月だったが、一部の詩人に注目された詩集を森が読む機会はなかった。
 震災直後、金子も年下の友人で画家志望の牧野勝彦(吉春)を頼って2か月ほど名古屋に滞在し、その後は実妹の捨子の嫁ぎ先である西宮の河野蜜宅に1か月、さらに佐藤紅緑、富田砕花のところに寄食した。そしてこの間、やがて『水の流浪』として発表される作品をノートに書いた。作品の多くは最初の上海旅行の産物であった。
 金子が東京に戻ったのは1924年(大正13年)1月で、赤城元町に三畳一間の部屋を借りて牧野と同居した。金子はこのころの様子を『どくろ杯』でこう述べている。
 「牧野の口から、城しづかや、蒲生千代、森三千代の三人組の女性の名が出るようになったのは、その頃だった。大阪の方に中心のある或る文学グループにつながりのある連中で、城しづかだけは『令名界』に少女小説を書いていてその方面で知られていた。夢二に肖像画を画かれたとかいう話で、夢二ごのみの少女であると言うことだった。蒲生千代は和歌をやっていて、いまは東京に出てきて大森辺に兄と家を借り、兄はまだ学校に通っていた。森三千代は詩が志望で、現に、お茶の水の女子高等師範の生徒で寮生活をしているが、校舎が焼けて茗荷谷の仮校舎にいたのを、このごろ新校舎が建って戻ったとかいう。熱をこめた勝彦の話しかたも手つだって、狭い三畳の湿っ気た空間に、お垂(さげ)髪のリボンや、振り袖の友禅もようや、曙染めがゆらゆらして、吉井勇がうたう瀟南のおとめたちに抱くような、遠いあこがれの感傷がこころを搾木にかけ、詩をつくることなどにかまけて失った幾年が、殆んど無意味なことだったように私にはおもわれるのだった。」
 金子はまだ見ぬ若い文学志望の女性たちに夢想と興味をかきたてられていたのである。(続)

 この項はまだ続くが、明日から会議出席のためテロ事件後のパリへ出かけるため10日間ほど休載する。
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by monsieurk | 2015-11-29 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――金子と森の場合(Ⅰ)

 フランスのJ・P・サルトルとシモーヌ・ド・ボーヴォワールの、互いを拘束せず、それでいて終生固い絆で結ばれた男女関係が、一つの生き方として耳目を集めた時期があった。同時に金子光晴と森三千代が、互いの自主性を重んじようとした関係は、大正末から昭和のはじめという、姦通罪が存在した時代だったことを考えるとさら興味深い。ブログではこの稀有な場合を、彼らの作品を読みながらたどってみたい。d0238372_13572590.jpg
 取りあげるのは、森三千代の自伝小説3部作、「青春の放浪」(1951年10月、新潮)、「新宿に雨降る」(1953年1月、「小説新潮」)、「去年の雪」(1959年5月、「群像」)と、金子光晴全集(中央公論社版、1977年)の月報に15回にわたって連載された、松本亮との対談「金子光晴の周辺」。一方金子のものは、『詩人 金子光晴自伝』(1957年8月、平凡社)と、森の3部作に相応する自伝的作品、『どくろ杯』(1971年5月、中央公論社)、『ねむれ巴里』(1973年10月、同社)、『西ひがし』(1974年11月、同社)である。
 これらを用いて金子と森の遍歴を書いたものに、牧羊子(詩人・小説家、開高健夫人)の『金子光晴と森三千代――おしどりの歌に萌える』(マガジンハウス、1992年。のち中央公論文庫)がある。これは詩人と作家という芸術家同士の波乱の生活を描いて注目を集めた。ただ中公文庫版の「あとがき」で、佐伯彰一は、「この「途轍もないペア」が、晩年に至るまで演じつづけた途方もなくいりくんだドラマの跡づけ、解明は、とくに森三千代の側に則して、今後新しい作業がなされそうな気配があり、牧さんによる本書は、その最初の火つけ役を果たしてくれるに違いない」と述べている。
 戦後間もない1973年、金子は若い詩人志望の大川内令子と新たな恋愛関係に陥り、翌年には森が急性関節リューマチに罹って、やがて生涯ベッドで暮らすようになるのだが、この間金子は、森と大川内の間で結婚と離婚を繰り返した。佐伯がいう「新しい作業」とは、錯雑とした関係が森三千代にあたえた心理的ダメージを指している。しかしそれだけでなく、金子が上海旅行で留守の間に、アナキストの学生土方定一と起こした恋愛事件で、金子がどんな心理状態にあったのかもさらに考察してみる必要がある。時代に先駆けた男女の対等を信じようとする金子に、若い恋人へ走る妻への嫉妬は果たしてなかったのか、あったとすればそれをどう抑えたのか、この点ももう一度俎上にのせて考えてみる価値がある。(続)
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by monsieurk | 2015-11-26 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

世界文学の新たな潮流

 雑誌「早稲田文学」の2015年冬号は、これまであまり知られていない世界の文学に焦点をあて、それを日本に紹介している7人の若手翻訳家の仕事を特集している。その一人として、スペインのバスク語の作家キルメン・ウリベを翻訳した金子奈美さんが紹介されている。
 特集で取り上げられているのは、ロシアの詩人で小説家ダニーラ・バヴィドフの『望遠鏡』(秋葉俊一郎訳)、中米グアテマラの作家エドゥアルド・ハルフォン『遠い』(松本健二訳)、ブルガリア生まれで、ドイツ語で書く作家イリヤ・トロヤノフの『世界収集家』(浅井晶子訳)、トルコの女性作家ヌルセル・ドゥルエル『鹿とお母さんとドイツ』(宮下遼訳)、東欧クロアチアの作家アンテ・トミッチ『どこに駐車したか忘れた』(亀田真澄訳)、アメリカのロイ・キージー『待ち時間』(藤井光訳)、そしてスペインのバスク語で書く作家ベルナルド・アチャガ『アコーディオン弾きの息子』(金子奈美訳)である。
 金子さんによれば、アチャガは1951年に、ピレネー山脈を挟んでフランスとスペインにまたがるバスク地方で生まれた。バスク語はスペイン側で凡そ58万人、フランス側で6万人が用いる少数言語だが、アチャガは他のスペイン側のバスク人同様、スペイン語とバスク語の二言語使用者である。彼は1988年に、架空の土地であるオババを舞台にした短篇の連作『オババコアック』をバスク語で書き、それを自身でスペイン語に翻訳して国際的に知られることとなった。金子奈美さんが翻訳して日本でも多くの読者を得た、同じバスク語の作者キルメン・ウリベをはじめ、多くの作家がアチャガのあとに続き、バスクが負った歴史といまを作品に描いている。
 『アコーディオン弾きの息子』について、金子さんはこう書いている。
 「俗に「真のバスク人はアメリカに叔父を持つ」と言うほど、バスクから米大陸への移民の歴史は長い。大航海時代の昔から、植民者として、出稼ぎ移民として、難民や亡命者として、多くのバスク人が南北アメリカに渡った。二十世紀におけるその最たる例は、一九三六年のスペイン内戦とその後のフランコ独裁(~七五年)からの亡命者だが、ピカソが描いたゲルニカ爆撃に象徴される迫害の記憶と、バスク語を消滅の危機に追いやったフランコ体制下の弾圧が残した怨恨は、七〇年代以降に新たな亡命者を生んだ。バスクの分離・独立を目指す武装闘争に身を投じた後、当局の追跡又は過激派組織ETAとの確執により、故郷から逃亡を余儀なくされた人々である。『アコーディオン弾きの息子』は、そうした故郷喪失者の一人となった主人公ダビの人生を通じて、バスクにおけるスペイン内戦から現代に至る暴力の歴史を描き出すと同時に、ダビの死後、彼の「古い」言葉と記憶が親友のヨシェバ(アチャガ同様に成功したバスク語作家として設定されている)によって掘り起こされ、私たち読者が手にする本へと化身するさまを物語っている。」
 金子奈美さんがウリベの小説を最初に翻訳したのは、『ビルバオ――ニューヨーク――ビルバオ』(白水社、2012年)で、これについては当ブログでも3回にわたって書いたことがある(「バスクの作家、キルメン・ウリベ」(2013・02・05、02・07、02・09)。そして今度2冊目の小説『ムシェ 小さな英雄の物語』(白水社、2015年10月)が翻訳・紹介されたわけだが、これはスペイン内戦下のビルバオから海外へ疎開した子どもの物語である。d0238372_825258.jpg
 キルメン・ウリベはスペイン内戦で生じた凡そ2万人といわれるバスクの疎開児童について、かねてから関心を抱いていたが、南米コロンビアの首都ボゴタで行った朗読会の席上、一人の聴衆の父親が海外に疎開した子どもの一人だったことを知らされる。この疎開児童の父親こそ、内戦当時スペイン共和国の内務大臣パウリーノ・ゴメス・サイスだった。こうして彼の家に保管されていた学童疎開に関する多くの資料を知るとともに、さるジャーナリストのアドバイスで、ベルギーに住むカルメン・ムシェという女性に会うことを勧められる。以下、金子さんが『ムシェ』の「訳者あとがき」に書いているものを引用する。
 「そこで作家〔キルメン・ウリベ〕が知ったのは、その女性の名前がバスクからベルギーに疎開したカルメンチュ・クンディンという少女に由来すること、そしてそのバスクの少女を引き取った彼女の父ロベール・ムシェが、フラマン語(ベルギー北部フランドル地方で話されるオランダ語)の書き手で、スペイン内戦で共和派を支援したのち、第二次世界大戦で対独レジスタンスに身を投じたために強制収容所に送られ、帰らぬ人となったということだった。(中略)こうして、ウリベはこれこそが自分の書くべき物語だと確信すると同時に、内戦の疎開児童たちについて書くための視点を得た。つまり、子供たちの体験を直接描きだそうとするのではなく、バスクの子供を受け入れた他者の視点から出来事を語ることで、そこにどんな人々が存在したのか、彼らはバスクの子供とどのような関係を結び、その体験が彼らの人生にいかなる影響を及ぼしたのかが浮かび上ってくる。」
 「ゲルニカ爆撃のあと、スペインのバスク自治州首班であったホセ・アントニオ・アギーレは、ついに子供たちを疎開させる決心を固めた。一九三七年の五月から六月にかけて、一万九千人の子供たちが、ビルバオの港からヨーロッパ各地に向けて出発した。彼らの多くはフランス、ソ連、イギリス、そしてベルギーへ逃れた。たった数名の教師に付き添われて、親元を遠く離れ、子供たちばかりで異国の地に向かったのだった。」これが『ムシェ』の書き出しである。
 時期こそ違え、第二次世界大戦末期に、縁故疎開のあてもないまま、小学5年生だった兄の集団疎開に特例で同行させてもらい、祖母とともに静岡と岩手を転々とした体験のある者としては他人ごとではない。カルメンチュと同じように、東京に残る両親と離れて、少数の教師に引率されてお寺で集団生活を送った日々のことは、70年が経ったいまも記憶に刻まれている。

 なお、『ムシェ』の邦訳が出版される機会に、キルメン・ウリベが再度来日して講演会が開かれる。日程は、
2015年12月5日(土)、場所:百年(吉祥寺)、20:00~21:30、定員50名でチケットは1000円。
2015年12月6日(日)、キルメン・ウリベ×今福龍太、場所:本屋B&B(世田谷区北沢2-12-4、第2マツヤビル2F)、12:00~14:00、1500円+1 drink order。
同日、キルメン・ウリベ他、「詩の朗読」、場所:カフェ・ラパンテリア(新宿2丁目12-9、広洋舎ビル)、18:30~20:00、入場無料(投げ銭制)。
 このほか、京都でも講演会が予定されているとのことである。
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by monsieurk | 2015-11-23 22:30 | | Trackback | Comments(0)

詩集『若葉のうた』

 晩年の金子光晴からのプレゼントには、もう一つの詩集『若葉のうた』がある。これは最初1967年(昭和42年)6月18日に、新宿の紀伊国屋書店で開かれたサイン即売会で頒布された。その後増補され、1974年(昭和49年)1月に勁草書房から増補版『若葉のうた』(写真)として刊行された。
 金子光晴の孫娘、すなわち森乾の長女若葉は、1964年(昭和39)6月に生まれた。このとき金子は70歳だった。

 森の若葉d0238372_7163940.jpg

なつめにしまっておきたいほど
いたいけな孫むすめがうまれた

新緑のころにうまれてきたので
「わかば」という 名をつけた

へたにさわったらこわれそうだ
神も 悪魔も手がつけようない

小さなあくびと 小さなくさめ
それに小さなしゃっくりもする

君が 年ごろといわれる頃には
も少しいい日本だったらいいが

なにしろいまの日本といったら
あんぽんたんとくるまばかりだ

しょうしちりきで泣きわめいて
それから 小さなおならもする

森の若葉よ 小さなまごむすめ
生れたからはのびずばなるまい

 これが「序詩」で、このあとに「孫娘・十二カ月」、「若葉の詩」、「はるばる未来からやってきたもの」、「愛情によせて」、「若葉と夏芽」、「跋」、「詩集のあとがき」と続き、全部で32篇の詩が収められている。このこうち「はるばる未来からやってきたもの」は250行をこす長詩である。夏芽ちゃんは若葉ちゃんに次いで生まれた妹である。

 春

 小さな手が、春をつかむ。つかんだ春をす
ぐ口にもっていって、なめる。
 春は、どんな味がする? 若葉よ。

 ママに抱かれてはいる大好きなお湯(ぶ)のよう
に、
 春はとろとろとあたたかくて、それに沈丁
の花の匂いがたかい。

 下の歯ぐきからのぞいた二枚の白い歯が、
若葉のはじめての春に
 そってさわってみる。そっと。

 それからまた、小さな手は、石鹸(しゃぼん)のように
浮いている雲を、
 光を、海を、大きな未来を、しっかりとつ
かむ。おもちゃの金魚といっしょに、

 若葉がはなしたら、ばらばらになるかもし
れない
 家じゅうのみんなのこころの糸を。

 金子光晴は「詩集あとがき」で、こんなことを述べている。
 「子はなんといっても母親についたもの。父親はともかく、祖父母となると、いまはやりの捨扶持の会社顧問といふほどのものだ。発言権もないし、実際にまかせられても、ゆく末までの責任がもてない。いくたびもおもふやうに、孫へのいとしさは、別離のいそがしさのために先手を獲られて、思慮をはづれた溺愛となる。他人ごととしては、片腹痛くてみすごしてきたことが、じぶんの身のこととなると、平静のつもりで、かいくれ目安のつかない始末になりがちである。煎じつめると、世渡りが下手といふだけで、なんの取り柄もない一老人の僕が、田をつくらずに人真似の詩など、なんのたそくにもならぬと知りつつ、今日猶、あきらめず書きつづけてゐるひりあひから、考えてもみなかった初孫をさづかり、そのよろこびと、断ちがたいきづなのできた不安とを、痴愚をさらけて詩らしいかたちにまとめあげ、同好のたがのゆるんだ爺々婆々連に、日向ぼっこをしながら披露する目的で、一冊に編んだ。むづかしい詩の世界、年若い人には、縁のない本だ。」
 
 おばあちゃん

 『若葉』のおばあちゃんは
もう二十年近くもねてゐる。
辷り台のやうな傾斜のベッドに
首にギブスをして上むいたまま。

 はじめはふしぎさうだったが
いまでは、おばあちゃんときくと、
すぐねんねとこたへる『若葉』。

 なんいもできないおばあちゃんを
どうやら赤ん坊と思ってゐるらしく
サブレや飴玉を口にさしこみにゆく。

 むかしは、蝶々のやうに翩々(へんぺん)と
香水の匂ふそらをとびまはった
おばあちゃんの追憶は涯(はて)しなく、ひろがる。

 そして、おばあちゃんは考へる。
おもひのこりのない花の人生を
『若葉』の手をとって教へてやりたいと。

 ダンディズムのおばあちゃんは
若い日につけた宝石や毛皮を
みんな、『若葉』にのこしたいと。

 金子光晴は1975年(昭和50年)6月30日、気管支喘息による急性心不全で亡くなった。そして1949年(昭和24年)の発病以来ながくリュウマチを患っていた森三千代は、2年後6月29日に76歳で永眠した。奇しくも1日違いだった。
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by monsieurk | 2015-11-20 22:30 | | Trackback | Comments(0)

詩集「愛情69」

 先のブログで紹介した詩誌「あいなめ」は、金子光晴が若い詩人たちに呼びかけて、1964年(昭和39年)8月15日に第1号が刊行された。以後隔月で、A4判、16~40ページの雑誌は1970年(昭和45年)2月15日まで30冊刊行された。これは金子の69歳から75歳にあたるが、毎号必ず詩や散文を発表して旺盛な創作力を示している。d0238372_1032865.jpg
 その一つに創刊号の「赤羽よし子におくる詩」以来断続的に発表された「愛情」シリーズがある。これらの詩篇は詩集『愛情69』にまとめられて、1968年(昭和43年)10月に筑摩書房から刊行された。真っ赤な箱入りの詩集は、タイトル通りにさまざまな愛の形をうたった作品69篇からなる。69という数字の意味はおのずから明らかで、老いと迫りくる死を感じつつ、人間の性愛と哀しみを見つめた詩は、どれも一筆書きの絵を眺めるような印象をもつ。 
 手許の詩集は1500部限定出版のうちの1058で、内扉に金子光晴の筆による署名と印が捺され、扉絵には孫の若菜さんが描いた真珠の首輪をした女性の肖像が使われている。
 なにはさて詩を読んでみよう。69篇全部を紹介したいが、著作権との関係でほんの5編ほど引用する。

「愛情 1」

 愛情のめかたは
二百グラム。

 僕の胸のなかを
茶匙でかき廻しても
かまわない。
どう? からつぽだらう。

 ――愛情をさがすには
熟練がいるのだ。
錠前を、そつと
あけるやうな。

 ――愛情をつかまへるには
辛抱が要る。
 狐のわなを
しかけるやうな。

 ――つまり、愛情をおのがものにするにはたいそうな覚悟
が要るのさ。
愛情とひきかへにして、
ただより安く、おのれをくれてやる勇気もいる。
おのれ。そいつのねだんは
十三ルピ。

「愛情 4」

 S・S嬢よ、
その卵のやうなお尻を
すこしばかり
さすらせておくれ

 ほんのすこしばかり
君が気にならぬほどでいいのだ。
ゆめゆめエロティスムなどと
いふやうなものではないのだから。

 君なら、そんなことを
すぐ忘れてくれるだらう。
刑法などといふ
むづかしい問題ではない。

 S・S嬢よ。君のお尻の
なめらかさは、すばらしい。
きつと、僕の陰気なこころが
あかるい方へと辷りだすのに
手をかしてくれるにちがひない。

「愛情 19」

 詩も文章ものこれとおもはないが、
せめて、じぶんの髑髏一つを、
生きたしるしにのこしたかつた。

 それにしても、髑髏では、なんと、
男、女の差別もむづかしく、
そのうへ、口々をしたくでも
かんじんの舌もない始末だ。

 たしか、今昔ものがたりに
髑髏になつても、舌だけのこつて
法花経をさへづりつづけたといふ
執念ぶかい糞坊主の話があつた。

 比翼塚で、仲よく眠るにしても
髑髏同士では、万事休すで、
まちがへて、たがひちがひにねかされても、
苦情を言つて、なほさせることもかなはぬ。

「愛情55」

 はじめて抱きよせられて、女の存在がふわりと浮いて、
なにもかも、男のなかに崩れ込むあの瞬間。

 五年、十年、三十年たつても、あの瞬間はいつも色あげしたやうで、
あとのであひの退屈なくり返しを、償つておまだあまりがある。

 あの瞬間がけのために、男たちは、なんべんでも恋をする。
あの瞬間だけのために、わざわざこの世に生れ、めしを食ひ、生きてきたかのやうに。

 男の舌が女の唇を割つたそのあとで、女のはうから、おづおづと、
男の口に舌を差し入れてくるあの瞬間のおもひのために。

 そして最後に「愛情 69」――

 僕の指先がひろひあげたのは地面のうへの
まがりくねつた
一本の川筋。

 外輪蒸気船が遡る
ミシシッピイのやうに
冒険の魅力にみちた
苑かわすぢを
僕の目が 辿る。

 落毛よ。季節をよそに
人のしらぬひまに
ふるひ落された葉のやうに
そつと、君からはなれたもの、

 皺寄つたシーツの大雪原に
ゆきくれながら、僕があつめる
もとにかへすよすがのない
その一すぢを
その二すぢを、

 ふきちらすにはしのびないのだ。
僕らが、どんなにいのちをかけて
愛しあつたか、しつてゐるのは
この髯文字んいほかには、ゐない。

 必死に抱きあつたままのふたりが
うへになり、したになり、ころがつて
はてしもしらずに辷りこんでいつた傾斜を、そのゆくはてを
落毛が、はなれて眺めてゐた。

 やがてはほどかねばならぬ手や、足が
糸すじほどのすきまもあら世事と、抱きしめてみても
なほはなればなれなこころゆゑに
一層はげしく抱かねばならなかつた、その顛末を。

 落雷で崩れた宮観のやうに、
虚空に消えのこる、僕らのむなしい像。
僕も
君も
たがひに追ひ、もつれるやうにして、ゐなくなつたあとで、

 落毛よ、君からぬけ落ちたばかりに
君の人生よりも、はるばるとあとまで生きながらへるであらう。それは
しをりにしてはさんで、僕が忘れたままの
黙示録のなかごろの頁のかげに。

 等身大で向き合う男と女をうたった詩篇はユーモアを湛えていて、決して野卑に堕すことのない上質なエロティシスムが漂っている。
 1969年に刊行された昭森社版の『金子光晴全集』第1巻の「解説――主観的一瞥」で、清岡卓行は、「今日までの金子光晴論から多くを学ぶものであるが、ぼくは、詩人論以前のものとして、どういても彼の表現する女性像をここで問題とせざるを得ない。それはあまりにも特徴的であり、しかも彼の全詩業を貫流しているため、ひとは、却ってそのことを気にしないのかもしれない。 / それは一言でつくすなら、食慾にデフォルメされた生命力であり、それを前にした詩人の恐怖と恍惚である。」と述べている。
 これは主に、「こがね蟲」や「鱶沈む」や「人間の悲劇」など、初期の詩集の作品を対象にした感想だが、詩集「愛情69」では、金子の描く女性は愛らしく、いとしいものに変わっている。
 この間、1948年(昭和23年)春、金子の許を訪ねてきた詩人志望で、28歳年の離れた大川内令子と恋愛関係になり、三千代と令子の間で離婚と結婚を繰り返したこともあった。この金子の一人芝居のようなもつれた関係も、最後は1965年(昭和40年)3月に令子と協議離婚して、その9日後には三千代と3度目の婚姻届けを出し、森の家に入籍することで終わった。『愛情69』の背後には、生涯をともにした森三千代をはじめとする半世紀にわたる遍歴があったのである。
 金子自身、『愛情69』の跋で、「うたよみは、じぶんのこころをうたふものとばかりはきまらない。いつのよにも、平中のやうなやからは絶えせぬもの。しかもその平中が、うわずみのどんなきれいごとの色恋よりも、なま身のせつない愛執と業因にさいなまれ、六道を経めぐった人情のいとしさ、かなしさを、いたらぬながらわがこころとして、悧巧ぶったいまの世の狭いなりはひのひまひまに、六十九篇のうたにあつめて、梓にのぼすことのあとさきを、世にうかれ人、ものぐさの友、飴枉(あめね)ぢのやうにねぢくれながら、なめれば甘い、甘い、わが仲間の凡下のために書きしるす。

  うたよみはへたこそよけれあめつちの
  うごきだしては、たまるものかは、
                  四方の赤良」と書いている。

 69篇の詩は、「なま身のせつない愛執と業因にさいなまれ、六道をへ廻った」金子光晴が私たちに呉れた贈り物である。
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by monsieurk | 2015-11-17 22:30 | | Trackback | Comments(0)

詩集「鮫」その他

 金子光晴が1923年(大正12年)に『こがね蟲』を出版して以後の歩みを年表風にたどってみる。
 翌1924年7月、29歳の金子は、『こがね蟲』を読んで訪ねてきた、東京女子高等師範学校(現、お茶の水女子大)の学生、森三千代(写真)に魅せられ、奪うようにして結婚した。三千代は1901年(明治34年)の生まれの23歳で文学を志していた。そして結婚の2か月後には、結婚と妊娠が学校当局に知られて即刻退学となった。d0238372_1712619.jpg
 翌1925年3月には、長男の乾(けん)が生まれた。だが乾は乳脚気でやせ細り、やむなく長崎の三千代の実家に預けに行って5か月ほど滞在した。この間、夫妻は中国に渡り、上海、蘇州、杭州、南京などを凡そ1か月見てまわった。このときの見聞を詩にしたのが、三千代との共作『鱶沈む(南支旅行記念詩集)』(有明社出版部刊、1927年)である。
 帰国後は東京へもどって親子三人で暮らしたが、1927年(昭和3年)3月になると、金子は2歳の乾をふたたび長崎の妻の実家に預けると、国木田虎雄とともに上海へ行ってしまった。一人ほっておかれた三千代は、3歳年下のアナキストの学生土方定一(のちの美術評論家)と恋愛関係におちいり家を出た。この経緯について、森は中央公論社版『金子光晴選集』第14巻の月報11(第14巻付録)で、次のように語っている。
 「 あの上海行きは国木田虎雄さんがいっしょでしたね。実はそれまで子供連れの生活で、私が子供相手では勉強がちっともできなかった。黒板をぶらさげといて、そこになにか書きつけたりしているのを見て、金子がこういう機会に、じっくり一度勉強したらどうかといってくれたんです。(中略)それで私だけ置いていったんです。それがとんでもないことになっちゃった。
 松本(亮) 二か月ほどあとに金子さんが上海から帰ってきたとき、森さんがいない・・・
  詩の勉強をするつもりが、Hさんに会ったために、イデオロギーの勉強をしちゃったんです。その前から、そういう時代的な気運というものに誘われていたんですね、イライラしてたんですよ。そういうものを金子は感じてもいたんですね。だから、勉強したいという私の気持がわかってたんですよ。
 松本 このへんのこと、金子さんが上海から帰って、草野心平さんに案内されて、森さんのいるHさんの部屋を訪ねていくあたりから、パリ目的の旅に発たれる直前までの辛い、思いきった生活の様子は、森さんの「青春の放浪」に大変に詳しく書かれていますね。」
 金子から見れば事情はどうだったのか。森は「青春の放浪」のなかで、金子からのちに聞かされた当時の気持ちだったとして、次のように書いている。
 「君の問題も実際上、子供の処置を別にしては、未練は未練としても、ともかく精神上の平衡をとりもどしていたんだし、世間の風評もそんなに気にならなくなっていた。時には、君の恋人と君が一つ寝床のありさまを目にうかべても、嫉妬をかりたてられるかわりに、よそのたのしげな情景でも見物しているような気がすることもあった。君がちょいちょい会いに行くのをだまってみていたのも、そんな気持があったからだろう。離婚とか、制裁とか、訴訟とか、そんな声が蟹の泡のようにぶつぶつと俺の周囲に沸立っていたが、そして、俺はそれをいいかげんにあしらってはいたが、元来俺の気持とは関係のないことだった。君等に憎悪の感情を持たなかったとはいわないが、正直いうと、俺は、そのころ、自分の憎悪や嫉妬にすら懐疑的だったのだ。なに一つにも、いいわるいの判断の下せない無気力な状態にいた。その上不義理な借金が身辺に重なっていた。不義理を不義理と感じる、いわゆる良心というものも麻痺していた。あたまも濁っていたし、仕事の上でも絶望的だった。不信用な人間という折り紙もつきはじめていた。日本にいたって、俺としては、行先ろくなことはない。(あの頃の金づまりはひどくて、高萩へ送った金だって〔三千代はヨーロッパ行の話が出ると、決心がつかぬまま土方定一と茨城県の高萩へ一か月ほど逃避行に出たが、結局は金に困って金子に金を送らせたのである〕、じぶんのモーニングと、友達の背広を質に入れた金だった)俺をヨーロッパへひきずっていったものは、ヨーロッパの魅力でもなければ、面子でもない。愛欲生活への執着でもない。君も知っている俺の無意識な偏執的傾向、無気力の情勢といったほうがあたっているかもしれないが、俺をヨーロッパまでひっぱっていったものは、それなんだ。俺は当面のわずらわしさが厭さに、却って外国旅行なんて飛切り煩わしいことをえらんだことになる。」
 金子自身も『どくろ杯』で、このときの気持を縷々述べているが、三千代が聞かされたこの告白がもっとも正直な気持だったのだろう。
 二人はこうしてなんの成算もないまま、長崎で日本郵船の三等船室に乗り込み、上海へ向かった。なぜ上海だったかは、所持金がそこまでしかなかったからである。こうして足かけ4年にわたる、東南アジア、ヨーロッパをめぐる二人の放浪がはじまった。
 それは文字通りの極貧生活で、旅費がなくなると金子が得意の絵を描き(写真)、d0238372_16591477.jpgそれを売って旅費をつくっては先へ旅をつづけることの繰り返しで、上海、香港、シンガポール、バタビア(現、ジャカルタ)を転々とした末に、1929年(昭和4年)11月中旬、旅費の関係で三千代だけがパリへ向かい、金子は12月になってようやくシンガポールからマルセイユ行きの船に乗った。
 二人がパリで落ち合ったあとも逼迫した生活は続き、翌1930年(昭和5年)11月、三千代は日本乎貿易会社での仕事を得て、ベルギーのアントワープへ向かい、やがて金子も彼女を追って首都ブリュッセルに行き、最初のベルギー滞在中に知り合った友人ルパージュの斡旋で個展を開いたところ、好評で旅費を稼ぐことが出来た。
 こうして得た金で、彼らが別々に帰国したのは1932年(昭和7年)のことである。この彷徨の様子は、『どくろ杯』、『ねむれ巴里』、『西ひがし』に描かれている。これら3部作が書きはじめられたのは、40年後の1969年(昭和44年)、金子光晴75歳のときであった。
 ここで『鱶沈む』と、5年にわたる放浪のあとに出版された詩集『鮫』(人民社、1937年)から、代表作を1篇ずつ引用してみる。d0238372_17195096.jpg

「鱶沈む ――黄浦江に寄す」

白晝!
黄色い揚子江の濁流の天を押すのをきけ。

水平線上に乗りあがる壊れた船欄干に浮浪人、亡命者たちの群・・・・・。
流れ木、穴のあいた茣蓙の帆、赤く錆びた空
 鑵、
のはうづな巨船體が、川づらに出没するのみ。
おゝ、恥辱なほどはれがましい「大洪水後」の太陽。

 盲目の中心には大鱶が深く深く沈む。

 川柳の塘添ひに水屍、白い鰻がぶら垂つてゐる。

錨を落せ!
船曳苦力のわいわいいふ碼頭(マトー)の悲しげな聲をきかないか。
いな、底にあるは闇々たる昏睡であるか。
 ・・・排水孔のごみに、鷗らが淋しく鳴いて群る。

大歓喜か。又は大悲嘆であるか。
おゝ 森閑たる白日、水の雑音の寂寞!!!
 ・・・・・・・・・・・
黄い揚子江の濁流の天に氾濫するのをきけ。

 二(以下略)

 次は十年後の1927年(昭和12年)8月に人民社から刊行された詩集『鮫』から、金子光晴の代表作の1つとされる「おっとせい」――

  一

そのいきの臭えこと。
くちからむんと蒸れる、

そのせなかがぬれて、はか穴のふちのやうにぬらぬらしていること。
虚無(ニヒル)をおぼえるほどいやらしい、
おゝ 憂愁よ。

そのからだの土嚢のやうな
づづぐろいおもさ。かったるさ。

いん氣な弾力。かなしいゴム。
そのこゝろのおもひあがっていること。
凡庸なこと。

菊面(あばた)。
おほきな陰嚢(ふぐり)。

鼻先があをくなるほどなまぐさい、やつらの群衆におされつつ、いつも、
おいらは、反対の方角をおもってゐた。

やつらがむらがる雲のやうに横行し
もみあう街が、おいらには、
ふるぼけた映画(フィルム)でみる
アラスカのやうに淋しかった。

  二

そいつら。俗衆といふやつら。
ヴォルテールを国外に追ひ、フーゴー・グロチウスを獄にたゝきこんだのは、
やつらなのだ。

バタビアから、リスボンまで、地球を、芥垢(ほこり)と、饒舌(おしゃべり)で
かきまはしてゐるのもやつらなのだ。
(中略)

  三

おゝ。 やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせたこの氷
 塊が、たちまち、さけびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷りはじめるのを、すこし
 も氣づかずにゐた。
やつらは氷上を匍ひまはり、
・・・・・文學などを語りあった。

うらがなしい暮色よ。
凍傷(しもやけ)にたゞれた落日の掛軸よ!

だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、拝禮してゐる奴らの群衆の
 なかで、
侮蔑しきったそぶりで、
たゞひとり、
反対をむいてすましているやつ。
おいら。
おっとせいのきらひなおっとせい。だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで
たゞ
「むかうむきになってる
おっとせい。」

 揚子江の濁流に深く深き沈む鱶、深淵の上を辷りはじめた氷塊や、それに乗っているオットセイはそれぞれ何を象徴しているのか。「群衆なかで、侮蔑したそぶりで、たゞひとり、反対をむいてすましている」オットセイもまた、息の臭いオットセイの仲間であるが、詩にうたわれている鱶とオットセイの違いは、オットセイがそれを自覚している点にある。
 5年におよぶ放浪の旅で、人間や社会のなんたるかを徹底的に思い知らされた金子は、自分がオットセイの一人なのを自覚したときから、ふたたびエネルギッシュに詩をつくりはじめる。
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by monsieurk | 2015-11-14 22:30 | | Trackback | Comments(0)

詩集「こがね蟲」

 金子光晴の『下駄ばき対談』(現代書館、1975年)は、帯に「金子光晴老が、下駄を鳴らして訪問した方々」とある通り、野坂昭如、寺山修司をはじめ、作家、詩人、漫画家などとの気の置けない対談を収めていて、金子の飾らぬ一面がのぞけて面白い。
 そのなかの一篇、西脇順三郎との対談「思い出」のなかで、金子は詩を書きはじめたときのことに触れて、「わたしの書くものは北欧の影響が大きいのですよ。文学ではありません。クラシックの絵です。フランドルの、フランス語の読み方だとジェローム・ボッシュ〔ヒエロヌムス・ボス〕、それからブルーゼル〔ピーテル・ブリューゲル〕とか、ヴァン・アイク〔ファン・エイク〕兄弟、メムリング〔ハンス・メムリング〕とか、スナイデル〔フランス・スナイデル〕とかテニエルス〔ダフィット・テニールス〕とかあのへんが好きで、よくお寺や画廊に通いましたね。」と語っている。西脇はこれを、「それは大変おもしろい話だ。」と受けているが、金子光晴の詩を世に知らしめた初期詩集『こがね蟲』や『大腐爛頌』などの作品を解く鍵がここにある。
 金子はさらにつづけて、「メムリングの肖像なんか、非常に鮮明で、こまかい木の植込みなんかがうしろに描いてあったりするでしょう。ああいうカチッとした、ガラスに映ったミニアチュールみたいなものが詩でも書きたかった。」とも語っている。d0238372_1135777.jpg
 詩集『こがね蟲』(新潮社、1923年・大正12)の諸篇は、ヨーロッパ滞在中に書いた作品を、帰国後京都洛北の等寺院の茶室にこもって推敲したものである。そのなかの一つ、「鐘は鳴る」の一部を引用してみよう。

 鐘は鳴る

金色の美しい空に、
朝の鐘楼から、鐘は響きわたる。
喜を告げる最初の鐘。
空は無限に振盪し、
鐘の響は森を越え、街道の上に彷徨ふ。
春を告げる最初の鐘、

ああ、如何に純真な魂が
お前の金無垢の鐘を大空に呼び醒ましたか。
如何に策術と、弄技を避けて
それは人人の心を高く渡りゆくか。
ああ、早朝の偽無い祈よ。のぼれ!
聡明な空の言葉よ。のぼれ!

今、小村の家家は、幸の窓を開く。
畑土は翼の如く濡れ輝いてゐる。
耕人らは、陽炎ふ丘丘に、
驢馬を叱咤し、燃ゆる車を曳いて、幻の如く現はれる。
火よりも清澄な此青空の夢よ。
耕人らの無言の巨手を
陽の光の中に滴(こぼ)れ出る百万の種子よ。
精霊は戦く擾乱もて夫らを受取る。
鐘は鳴る。鐘は鳴る。鐘は鳴る。

    二

 然し、大麦の穂が、丘から丘に、
黄金の豊稔な実を並べる頃、
風は、その重たすぎる髪毛(かみ)の中から、
早、晩夏の衰亡をさがしてゆく。

夕暮は、一切を物影多くする。

刈入は始まり
地上は、再び華やかな筋肉を賞讃する。
巨大な積藁、積藁は、
地平線上に勝鬨の如く積上げられる。
没陽は、最後迄、燃ゆる其額にある。

   三 

小村よ、・・・・
(後略)

 『詩人 金子光晴自伝』で語っているように、彼は少年時代から絵の才能を認められ、一時は画家を目指した。そんな金子はベルギーに滞在中に、16世紀、17世紀フランドル派の作品に魅せられたのだった。「鐘が鳴る」などは、まさしくフランドルの農村風景を描いたピーテル・ブリユーゲルの絵を言葉に翻訳したような作品である。ここにはさらにブリュッセル時代に彼が沈読したベルギーの詩人エミール・ヴェラーレンの詩の影響が見て取れる。ヴェラーレンは1855年にアントワープに近いサン・タマンで生まれ、のちにマラルメなどフランス象徴派の詩人と交流したが、その詩には幼少時を過ごしたフランドル地方の生活が色濃く翳を落としている。金子は1925年(大正14年)に訳詩集『ブェルハァレン詩集』(新潮社)を出したが、その冒頭の詩篇「厳冬(一月)」――

厳冬苛烈な夕かたまけて、
衰へやつれゆく
 微仄と、暗雲の層。
夜目にも白く、冬はさらばふ。

運命に虐げられた者のやう、
耕土、畑地は、さしも老憊し、死にはて眠る。――こ
 こに春の呪文を殖くは誰ぞ。
たゞ遠く、西の方へ、
その物憂げな余韻(ひびき)悲しく、あわたゞしく
貧しい晩鐘の鐘、雪の上に残る。

藁屋根と、家畜小舎は、
そが悲傷(いたみ)を裂開くがごとく
さしも、憂愁(うれい)ふかく立現はれた。
庭園の内、生籬添ひに、
揺れる物干竿の先に、
風に涸き、凍りついた
田舎男の灰色のシャツを人は見た。

殊に 寂れた小村、小村は、
その小屋や、繞壁園囿を緊束し
その恐怖をかき集む。
さて、その家居は廃れし街道に並ぶ。
扉口のどの竈にも
切り取られた光線が
 斜めに辷り入る。

雪は、平原の只中に、
その羊毛と、房を撒きこぼす。
地平の涯の沈黙の大木は、
遠く、遠く、永遠の方へ
・・・・・・・

 金子の「鐘は鳴る」と比べてみれば、季節こそ冬と夏の違いはあれ、うたわれている小村が同じフランドルの地方のものであることは容易に想像される。そしてもう一つの共通しているのは、金子の詩もヴェラーレンのものも長編詩である点である。金子は冒頭にあげた西脇順三郎との対談で、「ぼくははじめ小説を書きたかったと言ったでしょう。要するにぼくの詩というのは長編ものなんですよ。ほかの人は短篇詩で、ぼくは長篇詩を書いた、それだけの話なんです。長編詩を書くには長いものを書くのだからいろいろテクニックが要るし、長いものを飽きさせないようにやっていくために、あの手この手を使う子だけのことで・・・」と言っている。だがこのテクニックは簡単なものではない。このテクニックを身に着けた金子光晴は、海外で養った独自の現実認識とイロニーの感覚をもって、戦争に突き進む日本の姿を詩に描いていく。
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by monsieurk | 2015-11-11 22:30 | | Trackback | Comments(0)

金子光晴『詩集「三人」』

 2007年1月20日放送のNHK・ETV特集「父とチャコとボコ~金子光晴・家族の戦中詩」は、詩人金子光晴の未刊詩集が見つかったと伝えた。金子の研究家、原満三寿が古書市で発見したもので、d0238372_16504357.jpg外箱の背と表に、「詩集三人」と書かれ、中はB6大の厚さ2センチほどのノートに、金子作の24篇の他に、「チャコ」こと妻の三千代や愛称「ボコ」の息子乾の作も含め、38篇の詩が黒インクを用いた金子の自筆で丁寧に清書されていた。
 金子は第二次大戦中の1944年(昭和19年)、激しくなる東京の空襲を避けて、妻の作家森三千代と息子乾(けん)を連れて、山梨県南都留群中野村平野の山中湖湖畔に疎開したが、見つかった手作りの詩集はこの疎開先でつくられたものだった。
 金子は自作の24篇のうち8篇を戦後になって改作して発表したが、残りの16篇は全集にも未収録で、これが『詩集「三人」』として講談社から刊行されたのは翌2008年のことである。冒頭の金子作の「詩」の一部を引用してみる。

 癩の宣告よりd0238372_16493115.jpg
 百倍もいやなものに、
 けものたちのまねきに、

 不承知な拉致のまへに、
 世界を鬱陶しくする
 帽庇のかげに
 死の誓約、

 うりわたされる魂どもの
 整列にまぢじつて
 ボコは立たされる。
 
 嫌悪でいつぱいなボコが、
 自由がなによりのボコが
 おしやれなボコが
 ・・・・・・
 往生際のわるいボコが
 けづりたての板のやうな
 蒼白い裸で立たされる。

 盗まれたらかへらない
 たつた一人きりのボコを、
 ボコなくては父親が
 生きてゆく支へのないそのボコを
 父親は喰入るやうにみてゐる。
 (後略)

 金子光晴が疎開した経緯については、『詩人 金子光晴自伝』(平凡社、1957年)の第三部、「子供への召集令状」に詳しく述べられている。
 それによると、1944年(昭和19年)4月に、一子・乾に徴兵検査の通知が舞いこんだ。乾は暁星中学を4年で中退し、2年ほどぶらぶらしていた。慢性の気管支カタルを病んでいて、自室にこもって本ばかり読んでいたが、徴兵検査は第二乙種合格だった。そしてこの年の11月に、乾に召集令状が届いた。このとき光晴と三千代が相談して、乾を病人に仕立てて召集を免れさせることにした。
 しかし翌1945年(昭和20年)3月、乾に2度目の召集令状が届く。「僕は子供を応接室に閉じ込めて、生松葉をいぶしたり、リュックサック一杯本をつめて夜中に駅まで駆け足させたり、はてはびしょびしょ雨のなかに、裸体で一時間立たせてみたり、あらゆる方法で、気管支喘息の発作を誘発させようと試みたが、かえってそれが鍛錬になって、風邪もひかなかった。しかし、発作ははじまった。そんなことをして、とうとう、その年はゴマ化した。」
 引用した「詩」はこうした切羽詰まった状況をうたったものである。金子は近所の医師に診断書を書かせて息子を召集から逃れさせたが、もはや猶予はならなかった。加えて激しさを増す東京の空襲。「この戦争では犠牲になりたくない。他の理由で死ぬのならともかく・・・」と決意した金子は、12月初めに一家3人で、山中湖付近の平野村へ疎開したのである。
 借りられたのは旅館「平野屋」の別棟で、食堂兼勉強部屋の8畳間、3人の寝室にした6畳、それに女中部屋の3部屋きりの安普請のバンガローだった。彼ら3人がついたときあたり一面は雪におおわれ、窓からは凍りついた山中湖と富士山が見えた。
 次の年には平野村へ二度目の召集令状が届いたが、このときは村に一人いた70歳過ぎの老医師に診断書を書いてもらい、金子自身がそれを東京の本部まで持参して召集を猶予してもらうことに成功した。こうして金子光晴、森三千代、乾の三人は平野村で1年4か月を過ごし、その間にそれぞれ詩をつくった。
d0238372_16521929.jpg
 「チャコ」こと森三千代作、「聞えるかい坊や(爪哇・ジャワにて)」は以下のようなものである。森には金子と連れだって、東南アジアを放浪した経験があった。

 私の馬車は くらい掘割に沿つて
 鈴をしやんしやん鳴らして走る。
 蔽ひかゝる椰子の葉が
 ひつかいてゐる南方十字星の下。

 ――向ふからも馬車がきましたね。
 あのカンテラが旅人の眼のやうにやさしくみえるのは
 私の心が長い旅で疲れているせいかしら。

 今夜、わたしのこゝろは
 故郷にのこしてきたあの小栗鼠をぐつと
 抱きしめてはなすまい。
 ――坊や 坊や、ほら、聞えるかい。
 トツケイが闇に鋭く叫ぶのが。

 次は「ボコ」の乾の「三人の仲間」。

 こんなに一致した他の何ものもない。
 今ではもう、誰が先に生まれたのか
 恐らくは分裂したアミーバのやうに
 一緒にこの世に生れ出た吾等親子三人が
 細かい神経でそれぞれ他の二人をきづかひ
 離れまいと一生懸命で
 この寒い夜を抱きあふ
 けんけんがくがくの争ひ、この世かぎりの乱闘
 だが、次の瞬間には眼を見合せての微笑。
 “もう喧嘩はしまいね。”
 だが、したつていゝのだ。
 小鳥が互いに背をすりあつて羽虫をとりあうやうに
 三人の仲間にとつて
 それは憂ひ、やるせない今を忘れるこのたまらない外界の大きな圧迫の
 唯一のはけぐちをみいだしあふすべだもの。

 そして金子光晴はこう書いた。

 「希望」

 戦争がすんだら、とボコはいふ。
 パリーの図書館に引きこもりたい。

 戦争がすんだら、と父はいふ。
 どこでもいゝ国でない所へゆきたい。

 戦争がすんだらとチャコはいふ。
 飛行機で世界戦跡をめぐるのだ。

 戦争がすんだらと三人はいふ。
 だが戦争で取上げられた十年は、
 どこへいつてもどうしてもとりかへ
 されないのだ。

 のちに大学教授でフランス文学の研究者となった「ボコ」の森乾は、詩誌「あいなめ」の『金子光晴哀悼号』(さかえ書房、昭和50年12月)で、「詩人の誇り 息子みたから金子光晴」と題して書いている。「詩人の場合、個人の天賦と努力に負うところが多いし、血のにじむような艱難辛苦を重ねても、物質的報酬はほとんど皆無である。自分と同じ轍を息子にだけはふませたくないと父親は考えるにちがいない。わが父、金子光晴もやはり自分の息子には、商売往来にものっていない詩人という職業を選ばせたくなかったらしい。(中略)ところがむかしは詩を書く以外はほとんど何もしない詩人がいく人もいた。 / それも純粋詩しか書かないので、読者も少なく、餓死一歩手前のぎりぎりの生活をしていた。ただ現代のように貧困が悪徳視される時代ではなかったので、「詩人の誇り」のようなものを持ちつづけて割合悠然としていた。(中略)執念深いまでに詩に愛着していた父の死は、最後の古いタイプの詩人が消滅したという点でかえってサバサバする面もあろうが、あんなに詩に片よった愛憎をよせる詩人ばかはもう出現しないだろから、我国の詩壇や詩人にとって一つの損失であることも事実だろう。」
 金子光晴が亡くなって今年で40年。いましきりに金子の詩が読みたくなっている。
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by monsieurk | 2015-11-08 22:30 | | Trackback | Comments(0)

ジョルジュ・ミゴその後

 フランスの音楽家ジョルジュ・ミゴが作曲した《日本の7つの小さなイメージ》(Sept petites images du Japon)について書いたブログ(「フランスで楽曲になった惟然」、2015.07.27、07.30、08.16)を読んだ持橋章子さんから連絡をいただいた。
 持橋(旧姓、根来)さんは、平成10年度、お茶の水女子大学大学院人間文化研究科博士前期課程人文専攻に、修士論文『ジョルジュ・ミゴとジャポニスム――《Hagoromo》を例として――』を提出して修士号を取得され、現在は鎌倉女子大学などで講師をされていている。その後メールを交換した末に、上記の修士論文と論文「近代フランス音楽における日本の表象――ジョルジュ・ミゴ《Hagoromo》を例として――」(比較日本研究センター研究年報第4号)のコピーを送っていただき、ジョルジュ・ミゴについて数々のご教示にあずかった。
 修士論文は第1章で、ヨーロッパとくにフランスの音楽分野における「ジャポニスム」の影響を概観し、第2章では、ジョルジュ・ミゴが1922年に作曲した《Hagoromo》の成立の背景や作品の分析を通して、日本文化がフランスでどのように受容され、影響をあたえたかを具体的に分析した大変示唆に富むものである。持橋さんの問題関心は、たとえば次のような記述から読み取ることができる。
 「「ジャポニスム」という用語については、やはり美術研究における意味と音楽研究におけるそれとはかなりその内容に相違があると言える。つまり、美術の世界では「ジャポネズリー〔日本(骨董)趣味、日本美術品〕」が時代の推移にしたがって、「ジャポニスム〔日本趣味〕」へと質的な転換をしていったが、この場合、影響源は美術の世界の内部にあるものである。ところが、音楽の世界では、その影響源は日本の音楽ではなく、外部、すなわち美術品や文学によるところが大きい。そのため、「ジャポネズリー」という用語は美術用語をそのまま転用しても問題はないが、音楽における「ジャポニスム」となれば、美術研究とは別な概念の定義が必要になってくる。 / そのためには、具体的な作品の研究をすすめることで、徐々に概念を明確化していくしかない・・・」
 こうした意図のもとで、持橋さんは先行研究も多いドビュッシーやストラヴィンスキーではなく、「(彼らと)時代的にそう遠くない作品を選択した。また、松本太郎の報告書に見られるほとんどの作曲家が日本的作品を一曲ずつしか書いていないのに対し、ミゴは三作品書いている。そのため他の作曲家と比べて、本人を取り巻く日本文化の様相が見えやすいと判断したことも、ミゴの作品を取り上げた理由である。そのなかでも特に《Hagoromo》に焦点を当てたのは、《Hagoromo》は舞台作品であり、テクスト、音楽に加えて、舞台美術等も検討材料にできるため、より詳細な検証が可能であると判断した」ために、ジョルジュ・ミゴの《Hagoromo》を研究対象に選んだ。
 こうしてミゴが《Hogoromo》で用いたテクスト、作曲した旋律、舞台装置、衣装などの詳細な分析を行い、そこからミゴ(および台本制作の協力者、ルイ・ラロワ(Louis Laloy))が、どのような形で日本文化を取り込んだのかを明らかにしている。
 分析過程を一つ一つ紹介できないのは残念だが、例えば用いられたテクストは、1914年に雑誌Quaterly Reviewに掲載されたフェノロサによる英訳を仏訳した可能性を探った上で、最終的には、《Hagoromo》のテクストも、《Sept petites images du Japon》を作曲する際に彼が用いた、Michel Revonの“Anthologie de la Littérature Japonaise des origines au ⅩⅩe siècle”からの引用であることを確認している。
 舞台装置に関しては、フランス東部の街ストラスブールに本拠を置く、「ミゴ友の会」(Les Amis des œuvres et la pensée de Georges Migot )の事務局長で音楽学者のマルク・オネゲル氏(Marc Honegger)と直接コンタクトをとり、ミゴは舞台装置をイメージするに当たって、何か特定の浮世絵を用いたことはなかったとの証言を得ている。この点では、交響曲《海》(La mer、1905)の楽譜の表紙を北斎の浮世絵で飾ったドビュッシーとは異なっている。持橋さんはこの違いから、「ミゴがこのような方法をとらず、直接的な表現からむしろ遠ざかった、というところに時代の変化が感じられる」としている。
 本橋論文では、マルク・オネゲル氏からもたらされた貴重な資料が活用されているが、1922年のモンテカルロでの公演で、天人を演じたソニア・パブロフの写真、1938年3月10日にナントでの上演の際の舞台写真やチラシ、新聞記事などがあり、さらにはミゴ自身が創作した自筆の短歌(短歌形式の短詩)2首の自筆原稿のコピーも含まれている。持橋さんに寄せられたマルク・オネゲル氏の情報では、ミゴは“Académie du tanka”(短歌アカデミー)で、実際に短歌を創作して楽しんだとのことである。
 事実、20世紀初めのフランスでは、文化人の一部で日本の短歌や俳句が一種のブームとなり、音楽の分野でも、ミゴだけでなく直接間接に日本から影響を受けた作品が数多く創作された。これについては、持橋さんが付録として掲げている、松本太郎「仏蘭西樂界に現はれた日本(資料)――日本的作品の年代的記録――」、(『音樂研究 第2号』、東京:日本音樂文化協會、1943)が詳しい。ここにはアンドレ・メサジェールの《お菊夫人》(MESSAGER, André: Madame Chrysanthème) にはじまり、70余りの作品が列挙されている。しかもそのうちの9つは、日本の短歌や俳句の翻訳をテクストにした作品で、ミゴの《日本の7つの小さなイメージ》もその1つである。
 持橋さんはこう述べている。「これ〔松本による資料〕を見ると、1912年のストラヴィンスキーに端を発し、1920年から1925年にかけてはブームと言っていいほど多くの作品が発表されている。 / この背景には、ヨーロッパにおいて進んだ短歌、俳句の翻訳と受容がある。(中略)他の作曲家の作品に頻繁に用いられている翻訳は、ポール・ルイ・クーシュウ(COUCHOUD, Paul-Louis 1879-1959)による“Sages et poètes d’Asie”(「アジアの賢人と詩人」)(1916)である。このなかに”Les épigrammes lyriques du Japon”(「日本の抒情的風刺詩」)という一章があり、俳句の仏訳がされている。このクーシュウの訳詩に曲がつけられているのがジャック・ブリュアンの《Quatre Haї-Kaї》(「4つの俳句」)、クロード・デルヴァンクールの《Ce monde de rosée――14 ‘Uta’anciens》(「露のこの世界――14の昔の‘歌’」)、ジャック・ピロワの《Cinq Haї-Kaї――Epigrammes lyriques du Japon》(「5つの俳句――日本の抒情的風刺詩」)である。(中略) 当時はミゴのなかに俳句や短歌がかなり具体的なかたちで入ってくる状態であったことは確かだといえる。」
 持橋さんは修士論文とともに、ミシェル・ルヴォンの初版本(国立国会図書館蔵)の惟然の句の部分をコピーして送ってくださった。ルヴォンの翻訳は初版以来一切変更されておらず、結果として、ジョルジュ・ミゴが用いた惟然の句の訳の出どころは相変わらず不明のままである。ただ持橋さんの論考によって、ミゴが短歌形式の短詩を創作していたことが明らかとなり、以前のブログで推察したように、ミゴ自身が惟然の句のルヴォン訳に手を加えた可能性が高まったと言えるかもしれない。
 持橋さんの論文では、《Hagoromo》の楽譜に沿って音楽の特徴が分析されている。結論の部分だけを引用すれば、――
 「《Hagoromo》には、「舞踏的、抒情的、装飾的、多線的、多形的」というミゴ自身の説明のように、新しい音楽の状態を目指すミゴの音楽的方向性がみられた。それは、デコール〔背景装置〕の流動性と、倍音の効果の重視の二点に凝縮される。デコールを人間に担当させたり、空から降らせるなど重力と空気に委ねたことは、移ろいゆく物事の様相をひとつの作品のなかで表現するためのミゴ独自の方法であった。」、「倍音あるいは共鳴によって、楽譜に書かれた音と書かれていない音の両方を引き出し、音楽の要素としたミゴの意図はやはり、「多線的、多形的」なシンフォニー、「可塑的」なシンフォニーを構成することであった。倍音によって旋律線は様々な線を描く。つまり旋律は単独では存在せず、絶対的なものではない。ここでは倍音、共鳴、といった基盤の上にのせられた旋律であるということが意味をもっているといえよう。楽譜に書かれている音は、あらゆる規則から解放されているとはいえ、半音という音程の規則には従わざるを得ない。そのような旋律単独の存在よりも、倍音から得られる書かれていない音の可能性に重点を置いていたミゴの音楽は、のちにあらわれる微分音楽への方向性をも示していると言えよう。 / このようなミゴの音楽には、日本的要素はそれと分かる形であらわれているとは言いにくい。そのようななかで唯一、謡曲の影響かと思えるのは終結部の楽器のあつかいと、曲の後半に向かってテンションが高まっていく日本の序破急の概念に似た展開である。ただしこれは、ミゴが実際に能を見たという事実が明らかにならないため推測の域を出ない。」
 ではミゴはなぜテーマに日本の謡曲「羽衣」を選んだのか。「ミゴが新しい音楽の試みをおこなうとき、その素材として求められていたものと、日本の題材がうまく重なった結果であるといえよう。それは霧や雲がかかる山山であり、揺れ動く波であり、花が空から舞い落ちるような風景であった。」
 このようにミゴの《Hagoromo》は、ドビュッシーやプッチーニがその音楽に日本的要素を直接取りこんだのとは違い、日本の文化がフランスの音楽家の内面に働きかけ、それが創造の根源にまで作用して新たな芸術作品を生み出したジャポニスム――その典型がジョルジュ・ミゴの《Hagoromo》であった、これが持橋章子さんの結論である。その意味では、短歌や俳句の翻訳を直接テクストに用いた《日本の7つの小さなイメージ》(Sept petites images du Japon)は、これに至る一里塚と位置づけることが出来るかも知れない。
 なお、これも持橋章子さんのご教示によるが、「ミゴ友の会」(Les Amis des œuvres et la pensée de Georges Migot )は、現在もストラススブールで活動を続けていている。ホーム・ページはhttp://georgesmigot.info。ただ主催者は、Marc Honneger (彼は音楽学校でミゴから教えを受けた)から、作曲家のEmmanuel Honnegerに代わっている。子息かと思われる。
 
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by monsieurk | 2015-11-05 22:30 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

デボルド=ヴァルモールの詩Ⅱ

 齋藤磯雄はさらに続ける。
 「先づこの詩の隅から隅までふるへてゐる一つの感受性、――すべての弦が整へられた楽器のやうに敏感な、狂ひのない、微妙な感受性、――それは紛れもなく「女性」の感受性である。啻(ただ)に主題のみならず、韻律、抑揚、音色の喚起する一切の魅力は純粋に女性の魅力である。諸君は反問するかも知れない、女性の作品が女性的であることほど當然なことはあるまい、と。しかしながら、ボオドレエルが正しく指摘するやうに、およそ女流作家のなかで、その作品が何らかの男性的滑稽によって汚点を与へられてゐない者は極めて少い。女性にあって畸形の形相を帯びる男性精神の焼直し、――あの醜さが、ヴァルモオル夫人にあっては微塵もその痕跡を留めない。「デボルド・ヴァルモオル夫人は女であった(とボオドレエルは言ふ)、常に女であり、絶対に女以外のものではなかった。しかし彼女は異常な程度に於て、女のあらゆる自然的な美の詩的表現であった。若い乙女の物憂い望みを歌ひ、棄てられたアリァヌの沈鬱な悲嘆を歌ひ、或は母性愛の濃やかな熱情を歌ふにしても、彼女の歌は常に女の甘美な調子を失はない。借物もなく、不自然な装飾もなく、ただドイツの詩人の言ふやうな永遠の女性だけしかない。」(『浪漫派芸術』「現代作家論」第3章)d0238372_16324720.jpg
 閨秀作家ジョルジュ・サンドを阿魔とも雌ともあばずれとも罵ったこの勁直の詩人、「女は自然だ、故に穢らわしい」と書いたこの激越な女嫌ひが、ヴェルモオル夫人の魅力に抗ひかね、おのが平生の嗜好と理論に反して、この「狂ほしい無意識の詩筆」、この「自ら氣づかぬ完璧」を嘆賞するさまほど、興味深く、感動的なものはない。何物にも――おのれ自身にさへ――欺かれぬ批評精神である。」
 ヴァルモールを称揚したのはボードレールだけではなかった。19世紀でもっとも影響力を持った批評家サント=ブーヴは、晩年の著書『ヴァルモール夫人』のなかで、「彼女は鳥が囀るように詠う。・・・彼女こそ私の最後のミューズ(詩神)だ」と述べている。そしてポール・ヴェルレーヌは、「私たちは大きなはっきりとした声で、マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモールのすべてが良く・・・彼女は今世紀いや全世紀を通して天分と才能をそなえた唯一の女性だ。・・・彼女は今日の詩人たちにあって、すでに使われなくなった韻律、すなわち11音綴を用いて、大いなる喜びをもたらした」と書いている。
 マルスリーヌは1786年に北フランス・ノルマンディ地方の街ドゥエで生まれた。母はカトリーヌ・リュカス、父のフェリックス・デボルドは箪笥の紋章画工だった。父は大革命で零落し、その後、母と娘はロッシュフォール、ボルドーなどを転々とした末、ついに二人はフランス領のグアドゥループ島に住む従兄を頼って移住した。だが移住したグアドゥループも政情不安で、移住民の従兄の生活は苦しく、期待した経済的援助も細々としたものだった。そしてこうした状況のなか、母は14歳にマルスリーヌを残して他界した。
 苦難のすえに何とか帰国したマルスリーヌは、ドゥエに居残っていたどん底の老いた父を助けるために、たまたま舞台衣装をつくる仕事につき、その傍ら、母と放浪していたとき、船賃を稼ぐために子役として街々の劇場を渡り歩いた経験から、声楽と演劇の勉強をはじめた。その効あってやがて歌手兼俳優として舞台に立つ機会を得た。
 こうして彼女はドゥエからルアン、パリ、ブリュッセルへと凡そ20年にわたって舞台生活を続けた。この間、俳優で劇作家のアンリ・ド・ラトゥシュと激しい恋におち、1810には長男が生まれた。だが1816年にこの子が5歳で亡くなり、これがきっかけでラトゥシュは彼女の許を去った。
マルスリーヌは翌1817年に、8歳年下の俳優プロスペール・ランシャンタン、俗名ヴァルモールと出会い、正式に結婚して4人の子どもに恵まれた。この結婚生活で彼女はきわめて貞淑だったが、ラトゥシュのことは心に秘めて終生忘れなかった。熱烈だった彼と思い出は、数々の詩篇でオリヴィエの仮名もとに詠われている。
 マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモールは、1819年に処女詩集『哀歌とロマンス』(Elégies et romances、1819)を出版すると、数々の新聞に取り上げられて詩人としてデビューした。そして1823年に舞台生活を引退すると、以後『悲歌その他』(Elégies et Poésies nouvelles、1825)、『涙』(LesPleurs、1833)、『貧しき花々』(Pauvres Fleurs、1839)など多くの詩集を刊行した。彼女は1859年7月23日、テュイルリー公園を見下ろすリヴォリ通り59番地の自宅で息をひきとった。墓はモンマルトル墓地にある。
 高等学校の学生だった頃、フランス語を学びはじめて最初に読んだ一つが、マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモールの詩篇だった。初学者にも理解できる、やさしいフランス語で書かれた詩は、哀憐きわまりない詩情を湛えていて、異国の若者の心にも沁みた。当時、彼女の作品はもっぱら甘美なロマン派の代表的なものとして鑑賞されていたが、最近はもう一つの側面、彼女がグアドゥループ時代の体験をもとに、「クレオール」を題材として書いた作品にスポットが当てられるようになった。例えば2006年には、彼女が1821年に発表した中編小説集『アンティル諸島の通夜』がL’Harmattin社から再販され、そのなかの一篇である『サラ』などに注目が集まっている。この視点からもデボルド=ヴァルモールの作品の再評価が待たれる。
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by monsieurk | 2015-11-02 22:30 | | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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