ムッシュKの日々の便り

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男と女――金子と森の場合(Ⅸ)

 金子光晴、森三千代の二人の生活を大きく変えることになったのは、金子が国木田独歩の長男、国木田虎雄(写真)とめぐりあったことだった。虎雄は1902年(明治35年)1月の生まれで、金子より6歳年下だった。病気で中学を中退した後、「日本詩人」や福士幸次郎が主催する「楽園」などに詩を発表し、金子とも面識があった。d0238372_1659819.jpg
 1926年(大正15年)に、改造社が一冊一円の「日本文学全集」を刊行したのをきっかけに、春陽堂など他の出版社もこれに追随して文学全集を出して、いわゆる円本ブームが到来していた。ブームにあやかって父独歩の印税が入ってきた虎雄は、再婚した妻とホテル暮らしなど贅沢を重ね、競馬に金をつぎ込んでいた。金子が、すべてを蕩尽する前にせめて上海へ旅行しないかともちかけると、上海旅行を二度も経験している金子に案内役を頼んできた。こうした経緯で、金子と国木田虎雄夫妻の上海旅行が決まった。金銭的にも文学上も行き詰っていた金子にとって、苦境脱出のまたとない機会に思えた。彼は三千代にろくに相談することなく、一カ月の上海行きを決めてしまったのである。
 「上海行の話が具体的になると、私は、妻にろくに相談もせず妻一人を吹きさらしの家に留守番させ、子供は私がつれて長崎にあずけ、国木田夫妻と私と三人で、約一ケ月の予定で上海へわたることを勝手にとりきめてしまった。そんなときの私は、自分勝手なタイラントで、のこされた妻の淋しさなどを忖度するゆとりのない浅薄な人間であった。」(『どくろ杯』)
 一方の森は、このときの金子のことをどう受け取っていたのか。「金子光晴の周辺 11」で次のように語っている。
 「 あの上海行きは国木田虎雄さんがいっしょでしたね。実はそれまで子供連れの生活で、私は子供相手で勉強がちっともできなかった。黒板をぶらさげといて、そこになにかを書きつけたりしているのを見て、金子がこういう機会に、じっくり一度勉強したらどうかといってくれたんです。それには子供といっしょでは専心できないということ、それからもう一つは、女と子供だけでは笹塚が寂しいところなんです。新開地でして、春の嵐の強いときなど、裏木戸なんかが音を立てて鳴りまして、ほんとに怖いみたい。それに子供を置いて留守にするというわけにもいかないし、私一人なら、なんとかまだ戸締りをして・・・。当時、金子の実家が大久保にあって、怖くなったら、泊まらせてもらうといいといって、それで私だけ置いていったんです。それがとんでもないことになっちゃった。(中略)
 松本 話はまた戻りますけど、そのとき、金子さんが乾さんを連れて東京を立たれます。森さんはそれでいいと、十分納得のうえだったのですか。
  それは不安でした。だから東京駅まで見送っていきましたときも、とっても心配でした。もうそれは、窓から乾が手を出さないようにとか、そんなことまでいちいち注意したりして。けれども長崎へ行ってしまえば、預けて世話をしてもらったりした、前の経験がありますから、その点、わりあい安心していました。行き帰りが心配で、国木田さんご夫妻がいっしょでしたから国木田さんの奥さんに一生懸命で頼み込んだりしましたもの。」
 森は家事や子どもの世話をするために落ち着いて机の前に坐る時間もなく、小さな黒板を家のなかにさげておいて、思いついたことをそこにメモ書きするといった有様だったのである。処女詩集を出して、ようやく詩人としてデビューした三千代には焦りがあった。子どもを両親の許にあずけて、金子が留守の間に文学や新しい思潮をあらためて学びたいという思いは強かった。
 金子が国木田夫妻と東京駅を発ったのは三月のことであった。耳かくしの髪型で、縮緬の羽織を着て裾をもつれさせながら、東京駅のホームを追いかけてくる三千代の姿を見て、国木田虎雄は、「三ちゃん、なまめかしいなあ」と言った。残された森は一人の慣れていたつもりだったが、いざ実際に一人になってみると、風が揺する家で、一人で夜をすごすのが怖くなった。すぐに金子の実家である大鹿の家に泊まらせてもらいに行った夜、心から「しまった」と思った.
d0238372_170548.jpg 金子は上海滞在中、ヨーロッパ帰りの長谷川如是や本間久雄が立ち寄ったのを歓迎する会に出たり、横光利一が来て旧交を温めた以外は、ほとんど毎日国木田の競馬場(写真)通いにつき合ってすごした。この間、杭州にも国木田夫妻を案内した。一カ月の予定が三カ月近くに延び、さすがに日本のことが気になり、国木田夫妻を残して帰国することにした。懐には競馬で儲けた百円ほどがあった。(続)

 次回は年明けの5日に再開します。
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by monsieurk | 2015-12-28 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――金子と森の場合(Ⅷ)

 金子光晴と森三千代の夫婦は、中国旅行から帰国すると、息子の乾をあずけていた長崎の三千代の両親のもとに寄り、乾と三千代のすぐ下の妹で、女学校を卒業したばかりのはる子をつれて帰京することにした。大正14年(1925年)5月のことである。この年、金子は31歳、三千代24歳であった。ただし帰京するといっても住む場所の当てがなく、金子は途中湯河原の旅館に三人をしばらく滞留させて、一足先に東京に戻った。中央線沿線の中野と高円寺の間に、仮普請の二軒長屋を見つけてそこに住むことが出来た。義母と折半した義父の遺産はすべて使い果たしていたから、生活の目途はまったく立たなかった。
 「この新しい世帯は、世間しらずのふうてんの天使たちの住家であった。妹のはる子は、風船に乗って空を飛んでいる天使だった。先になんの成算もなしで、しあわせにしてくれるあてなどないことが一目でわかるような私に、いっさい任せたような顔をしてついてくる三千代も、浮世ばなれした存在だった。子供は、いうまでもなく、この姉妹のペットだった。彼女たちは、私の能力を信じ、私が他人のあいだで尊重される存在のように過信していた。」(『どくろ杯』)
 金子は詩や短文を書いて雑誌に発表したが、原稿料は微々たるもので、到底大人三人と幼い子どもが口に糊するには足りなかった。友人、知人から金を借りて日々やりくる生活で、近所の店にも借金がたまる一方だった。金子はそんななかでも、森の希望をかなえさせたいと努力をし、昭和2年(1927年)3月、彼女の処女詩集『龍女の眸』(紅玉堂書店)が、野口米次郎の序文付きで出版された。自費出版であった。念願の詩人の仲間入りをはたした森の喜びは大きかった。d0238372_1717541.jpg
 その上、森との共著で中国旅行の小景詩を集めて本にする相談がまとまり、一冊一円で売ることにして、金子は知り合いの詩人や文士の間をまわって予約をとり、先払いをしてもらいに歩いた。二百部刷る予定で、百十人分の予約をとることができた。ただこうして集めた金も、あらかた足代や食事代に消えてしまい、家には半分も持って帰ることができなかった。それでもこの年の5月には、赤いラシャ紙の表紙の『鱶沈む』(有明社出版部)が刊行された。有明社は古くからの友人である小山哲之輔がやっている印刷所で、おもに浅草界隈のチラシの印刷をやっていた。
『鱶沈む』には表題のほか八篇の詩が収められている。「鱶沈む」はこんな詩である。

        一
白昼!
黄い揚子江の濁流の天を押すのをきけ。

水平線にのりあげる壊れた船欄干に浮浪人、亡命者の群。
流れ木、穴のあいた茣蓙の帆、赤くさびた空鑵、のほうずな巨船体が、川づらに出没するのみ。
おゝ、恥辱極るはれがましい「大洪水後」の太陽。

 盲目の中心に大鱶がふかくふかく沈む。

 川柳の塘添ひに水屍、白い鰻がぶら垂つてゐる。

錨を落せ!

船曳苦力のわいわいいふ瑪頭(メトー)の悲しい声をきかないか。
いや。底にあるは闇々たる昏睡なのか。
 ・・・排水孔のごみに、鷗らが淋しく鳴いてむらがる。

大歓喜か。又は大悲嘆であるか。
おゝ、森閑たる白日、水の雑音の寂寞。

黄い揚子江の濁流の天に氾濫するのをきけ。

        二(以下略)

 1917年のソビエトの誕生、さらに第一次大戦後の非戦運動の波は、日本にも確実に押し寄せていた。プロレタリア文芸運動のさきがけとなった、小牧近江や金子洋文たちの雑誌「種撒く人」が大正10年(1921年)2月に創刊され、これをきっかけにプロレタリア文学は急速に勢いを増し、それとともに従来の文学者たちは鳴りをひそめざるを得なかった。ただ左翼文芸運動は政治的な路線に強く左右され、社会民主主義と共産主義の対立が、文学のなかにも対立を呼び起こした。そしてこれら既存の路線を否定するアナーキストたちが詩壇では幅をきかせていた。
 彼らは金子より五歳から十歳若く、酒を飲んでは激論をたたかわし、挙句の果ては、灰皿を投げたり、椅子を振り上げたりの乱暴狼藉を繰り返していた。岡本潤、萩原恭次郎、壺井繁治と言った人たちで、金子の詩は時代おくれと思われている気配だった。一方、金子はそんな彼らの行動を苦々しく思っていた。「結構、彼らは、酒を飲んで、女をつくって、同志の家をけんたいで食いあるいて、その上上手に生きてゆく方途も知っていた。明治維新の志士と称するごろつき浪人どもが、大義名分にものを言わせて、大言壮語し、富裕な商人の合力にあずかっていたのと、それほど変わらないのではないかとおもう気持ちは、いまも変わらない」と、『どくろ杯』に書いている。
 この間、金子は借金がたまると借家を変えるといった繰り返しだった。横光利一に勧められて、三百円の賞金目当てに、小説「抱卵」を書いて改造社の第一回懸賞小説に応募したのは昭和2年(1927年)夏のことである。横光や佐藤春夫に見せると太鼓判をおしてくれたが、結果は次席となり、以後小説を書くことを断念した。「芳蘭」は上海の労働問題をあつかい、女工とも娼婦ともつかない女のことを書いた百枚ほどの作品だった。その後も詩を書いては雑誌に発表したが、次第に行き詰まりを感じるようになった。
 「孤独は、人間臭い馴合いの反面であった。詩や詩人から一まずぬけ出すことが、現状をはっきりつかむことの要件だとおもったので、詩的、文学的なものから、つとめて身を避けるようにした。妻の三千代は、私とは別の心境で、文学や詩に志しながら、初志を果たすことができず、育児と貧しいくらしの炊(と)ぎ洗濯にあけるここ一二年の空虚を取り返して、新しい時代の知識や感覚を身につけようと私からみると逞しい意欲をもっていた。そして、私などについていても、得るものは今日の役にたたない時代遅れな教養だけだということに、ようやく気づきはじめてきたらしい。(中略)ふたりを結びつけているものは、子供への愛情と、恋愛のほとぼりがまだどこかにのこっているからだ同士のひかれあいであった。」(『どくろ杯』)
 こうした意欲のずれが、やがて金子と森三千代のあいだに抜き差しならぬ問題を引き起こすことになる。(続)
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by monsieurk | 2015-12-25 21:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――金子と森の場合(Ⅶ)

 子どもが生まれ、親子三人の生活は心はずむものだった。金子は赤ん坊のおむつを替えるなどして世話を楽しんだ。春になったある日、三千代が赤ん坊を背負い、金子が手におむつの入った袋を持って銀座を歩いているところを新聞社のカメラマンに写真を撮られて、それが新聞に載った。春めいた日の銀座風景ということでカメラマンの興味を惹いたのである。すると二人を知っている者たちが、男のくせにおむつ袋を持って歩いているなどみっともないと非難の手紙をよこした。だが金子は意にも介さなかった。
 このころ神田の出版社「紅玉堂」から、先輩の口利きで、翻訳詩集『仏蘭西名詩選』とアルセーヌ・ルパンの『虎の牙』の訳を出したが、出版社からはなかなか金を払ってもらえなかった。それでも彼ら親子三人は、大森の不入斗〔いりやまず〕に下宿を見つけて、そこに引っ越した。屋根に石油缶のブリキを張った二部屋限りの長屋で、夏の暑さがこたえた。
 困ったのは、生後六か月になった乾が、いくら乳を飲んでもみな吐き出してしまうことだった。医者の診断は母親の三千代が脚気になったせいで、乳を赤ん坊に飲ますことを禁じられてしまった。やむなく牛乳や粉ミルクに変えたが、一度母乳の味を覚えた赤ん坊はゴムの乳首に慣れず、ミルクを飲まなかった。それに夏痩せが重なり、乾はみるみる痩せていった。
 二人は、赤ん坊の命があるうちに長崎の三千代の両親に一目合わせたいと考え、さらに子どもを育てた経験のある両親にすがる思いもあって、八月末に長崎へ向かった。三千代の父は伊勢から長崎の東山学院中学へ転任になっていたのである。
 金子は三千代と子どもを両親に預けると、すぐに東京へ戻って行った。長崎はエキゾチックな風情を湛えた土地柄で、三千代は気に入り、脚気も次第に治って、赤ん坊に乳をあたえられるようになった。金子は手許に残していた掛け軸や骨董のほとんどを手離し、正月には「毎日新聞」に佐藤紅禄の代筆で正月の随筆を書いて百円の稿料を得た。こうした集めた金を手に長崎へやって来ると、三千代にこの際上海へ旅行しようと言い出した。d0238372_1629977.jpg当時長崎と上海には定期航路が開設されていて、二十四、五時間の船旅だった。
 森三千代の回想――
 「松本(亮) 長崎にはどのくらいいらっしゃったわけですか。
  翌年の四月ごろまでいました。
 松本 その機会に上海へ行かれるわけですね。
  ええ。すっかり子供は快復して、私も脚気が治りますしね。(後略)
 松本 ときどきは金子さんもごいっしょですか。
  ええ。少しは。金子は子供と私を長崎へ送ってきただけで、すぐ東京に帰りまして、私たちは健康が快復して、迎えにきたとき、いきなり上海に行かないかって言い出して、上海行きということになりました。佐藤紅禄先生のところへ行って、先生のお仕事をお手伝いしてたか、それとも自分の仕事を、先生になにかお世話を願ったか、そんなことで上海行きのお金が出来たんじゃないでしょうか。そのとき、谷崎潤一郎先生からいただいた紹介状なんか持ってましてね、上海での中国人の方たちへの紹介状を。だから、ちゃんと手はずを整えてやってきたんです。子供を長崎にあずけて出かけました。そんなわけでこのときの上海旅行は、後の上海滞在とは違って、苦労はありませんでした。私なんか洋服などありませんでしたから、春の洋服をつくってもらったり、それから杭州の景色を見に、ずっと泊りがけで出かけたりしました。贅沢はしないけれども、苦しまない旅行です。金子もずいぶん楽しんだようですよ。一カ月ほどの旅でしたけれども。」(「金子光晴の周辺10」)
 金子光晴は、さらに詳しくこの旅の模様を伝えている。
 「上海の滞在は、私たちにとって小さな祭りだった。谷崎の紹介状が懇切をきわめていたので、いたるところでおもいがけない便宜をはかってもらえた。なんの見どころもない、そのうえ因縁の浅い私を、彼がなぜ、そんなに厚遇してくれたのか今も猶理由がわからない。郭沫若には上海にいなくて会えなかったが、他の人たちとは、皆、会うことができた。村田孜郎〔大阪毎日新聞の記者〕は着いた日、私たちを四馬路に案内し、天蟾舞台〔てんせんぶたい〕の京劇をみせてくれた。内山完造〔内山著店の主人〕はすぐ前の余慶坊の住居を用意してくれ、始終こまかい世話を焼いてくれた。田漢とは、胸襟をひらいて語りあい、湖南の友人たちのパーティに再三誘ってくれた。銀の宮崎議平や、石炭の高岩勘二郎が私たちを援助して、蘇州、杭州、南京(蒋介石の首都となる前の荒廃したままの金陵の地)を、折角来た序〔ついで〕というので見物させてくれた。江南はまだ、革命後の軍閥の五省の督軍孫伝芳の治下にあった。陰謀と阿片と、売春の上海は、蒜と油と、煎薬と腐敗物と、人間の消耗のにおいがまざりあった、なんとも言えない体臭でむせかえり、また、その臭気の忘れられない魅惑が、人をとらえて離さないところであった。私たちは日本へ帰ってからも、しばらくその祭気分から抜けられなかった。」(『どくろ杯』)(続)
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by monsieurk | 2015-12-22 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――金子と森の場合(Ⅵ)

 金子と森は、お腹のなかで育っていく子どももことにはあえて触れずに、浅草や東京の下町を探訪して日をすごした。森は夏休みに三重へ帰省せずに、金子と一緒に旅行してまわる計画ができた。『水の流浪』が新潮社の詩人叢書の二十巻目として出版することが決まり、前金を手にすることができた。そこへ青森の弘前に帰っていた福士幸次郎から誘いがあって、東北を旅行することになった。金子にとっても久しぶりに東京を離れて気分を一新するよい機会だった。『どくろ杯』にはこうある。
「松島を見物し、平泉を詣でて、朝、弘前から一つ先の碇ケ関に着いた。温泉場を流れる岩木川の支流平川の畔に、福士夫妻と幼い娘たちの住む小家があり、川をへだてたすじ向いの百姓たちの疲労休めにくる小宿を借りて、私たちが住んだ。雨戸を開ければ、福士家の動静が見通しだった。足のふくらはぎまでしかない流れをわたって、福士は遊びに来たし、私も、彼女を背負ってその河をいったり、来たりして、百姓の湯治客たちの眼をおどろかした。私たちの放埓なくらしぶりが話の種となってひろがり、碇ケ関の温泉場へのゆききも、人々が立止まり、あとをふり返って見送った。」
 詩壇の論客である福士幸次郎(写真)は、d0238372_10231628.jpg金子の才能を早くから高く買い、『こがね蟲』の出版記念会の音頭をとってくれた一人だった。金子の方もそうした彼に恩義を感じて、今度出版する『水の流浪』は福士に献ずることにしていた。ただ実生活上の福士は、貧乏ながら、それに超然とした一風変わった人物だった。碇ケ関に滞在中にこんなことがあった。
 ある日金子たちが昼食の用意をしていると、鉢巻きをした福士が飄然とあらわれて、煙草を買いたいので銅貨を二枚貸してほしいと言った。聞くと、朝の七時に銅貨を七枚手に握って家を出たのだが、川を渡ってくる途中、石につまずいた拍子に七枚とも川のなかに落としてしまった。落とした場所はわかっているので、川上に石を積んで堰をつくって流れをとめ、いままで探して五枚は見つけたが、どうしてもあとの二枚が見つからない。巻き煙草の「バット」を買うにはあと二枚必要だから、それを貸してほしいというのだった。川に落とした銅貨を四時間近くも探していたのである。金子と森は呆然とするばかりであった。二人は碇ケ関に一カ月近く滞在したあと、十和田湖をまわって八月末に帰京した。
 秋になって学校がはじまったが、四カ月に入ったお腹が目立つようになった森は、寮に戻るわけにはいかなかった。何の目途もないまま、赤城元町の家の二階の八畳間で二人の生活がはじまった。近くの寄席や映画館を見て歩き、知り合いに出会う危険をおかして、上野の展覧会や動物園を訪れたりした。
 学校に知れるのは時間の問題だった。案の定、上野行きから二、三日すると、級友の津田綾子が赤城元町の家を訪ねてきた。聞けば、動物園で二人を見かけた同級生が二人を家まで後をつけて、舎監に伝えたのだという。森と親しい津田が選ばれて様子を確かめに来たのだった。
 もはや学校に隠してはおけなかった。事実が学校に知れれば、放校ではすまずに、四年間の授業料や寮費を返還しなければならない可能性もあった。学校から森の親元に通知され、折り返し、父親が上京するとの電報が届き、その翌日父親が姿をあらわした。
 「初対面は、妙に双方とも遠慮がちで、まるで脛にきずもつ同士が、そのきずにふれられるのを怖れてでもいるような案配式で、下をむいたり、眼がぶつかるといそいでそらしたりしていた。彼女は、台所で酒のしたくをしていた。坂下にある惣菜のえびの天ぷらを私が買ってきた。十銭に三個という、その当時でも人がびっくりする安価であったが、父親は「うまい。さすが東京はちがったものじゃ」と舌鼓をうった。いい加減で私が階下に引きさがったあとで、彼女が酒のあいてをしながら、こまかい事情を話すことに手筈がきまっていた。私は、三畳の古巣に戻って、ぼろ布団を引きかぶっていた。夜更けになって、(中略)みしみしと彼女は下りてきて、私の黴臭い布団にもぐり込み、私のうえから羽交いじめにしながら、「すっかり話したわ。黙ってうなずいてきいていたけど、御小言は出なかったわ。そして、最後になって、金子さんと添うつもりか、もし、みこみがないとおもったら、子供は心配ない。こちらで引きとって育てることにして、別れるように話してやるって。やっぱり、おやじね」と言って、熱い息の唇を私の顔に押付けてきた。「それで、なんと言って答えたの」「別れないと返事したわ。それでよかったの?」彼女は、興奮で声をうわずらせていた。」(『どくろ杯』)
 翌日、父親は女子高等師範学校に出向き、北見舎監に会って話をつけてくれた。北見先生は案外物分かりがはやく、病気退学として取りはからってくれた。このため普通退学ならば必ず本人の負担となる四年間の月謝も免除となった。森三千代は国元に帰ったことにして、医者の診断書を二通送ってことはすんだ。北見先生は父親に、「あの娘は、頭が切れるし、女としては傑物だが、教育家には向かない。奔放な情熱家だから、もっと他の天地で、十分に羽翼をのばさせてやりたい。何十年娘たちを教育してきたが、勝手放題なことをしておきながら少しも悪びれないで、堂々と自分のしたことの正当さを主張してひきさがらないあんな娘のようなのは始めてだ」と言ったという。娘に甘い父親は得意そうだった。父は三日二晩、二人から酒びたりにされたあと、伊勢に帰って行った。こうして式も披露宴も抜きにした二人の結婚生活がはじまった。
 そして二人は大正14年(1925年)2月12日に婚姻届をだした。保証人には室生犀星がなり、2月27日には、三千代が高樹町の日赤病院で男の子を生み、乾(けん)と名づけた。名づけ親は佐藤紅緑で、3月1日に牛込区役所に届けた。(続)
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by monsieurk | 2015-12-19 22:22 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――金子と森の場合(Ⅴ)

 森三千代は弟を連れて大島への旅行に出かけた。考えてもいなかった金子との関係が生じたために、旅は吉田一穂とのことや、今後の行く末を考える機会となった。しかし吉田への未練はなかなか断ち切れず、大島では雨に降りこめられて気晴らしもままならなかった。大島から帰ってからも、新学期が始まるまでは、大森の蒲生千代の家でやっかいになり、金子には手紙はそこへくれるように伝えていた。あらめきれない金子は、一日に二、三通の手紙を書いた。なかには新聞の端をちぎって一言書き、封筒に入れたものもあった。金子は四月になって関西へ旅行に出かけた。その間も手紙を書き続け、帰京したのは五月の初めだった。
 「五月のはじめまでは、〔森が〕寄宿舎へは帰らず、大森にいるとわかっていたので、夜行列車で朝早く着いた大森駅で下車すると、朝霧にけぶって、藁塚などのあるいなか路を踏んで、彼女の寝込みをおそった。不意打ちのことで、家のなかはしばらくざわめいていたが、やがて彼女が現れた。ふたりは馬込村の青麦の畑のなかを一時間ほどつれ立ってあるいた。「冷却期間を置いてくるつもりの旅だったが、結果は、振出しにかえっただけだった」と、私は正直にその通りに言ったが、彼女は、しっかりした返事をしなかった。しかし、ふたりのあいだの感情には、こなれたものが感じられ、問答も、掛けあいめいていた。二日後に牛込を彼女が訪ねると約束をつがえて、その日は別れた。」(『どくろ杯』)
 手ごたえを感じた金子は、さっそく新たな下宿を探すことにした。いままでの下宿は三畳と狭い上に、取り巻き連がしょっちゅう出入りするので、逢引には不都合だったからである。こうして肴町にある島村抱月主催の劇団「芸術クラブ」のすぐ前に下宿屋を見つけた。階段の下に畳五畳半を敷いた三角形の部屋で、森がそこを訪ねてくるようになった。
 「彼女を抱いてから、周囲の表情は一変した。私の身辺のすべてが生色を取りもどした。彼女の前の恋人がすでに郷里から上京して、彼の別の恋人の家におさまっていることをたしかめたので、彼女をつれて、了解をつけに出かけていった。あいてをひどく迷惑がらせたらせたうえに、こちらの意向が届いたかどうかも疑わしかったが、おもい立つとすぐにやらなければすまない私の、我儘な性質がさせたことであった。婉曲にできるかもしれないことを、ずばずばとやってのけることで、新しい生活に弾みをつけようとする危い跳躍であった。恋愛をつづけるための必要経費の捻出にも、張合いが出た。」(同)
 金子はさらにこう続けている。「この恋愛の特徴と言えば、「明日をも知らず」というところにあった。会っているときだけしか保証のない、燃えている瞬間にしか値打をもたない、それだけに激しく燃える、そのときどきに賭けるような、まるで夫や妻の目をしのぶような危機感にみちた出あいであった。それは、彼女が言い出して、私が納得したのだとおもうが、どちらかが熱のさめたとき、あいてがさめきらないうちでも自由に離れていっても、あと追いしないことを誓約した。それは、十年前の私が考えていたこととも符合した。人間のこころの底をついたこともなし、酸い甘いを味いくらべてみたこともない若いあいだの、あいてにも、じぶんにも負わせる残忍なおもいつきと言う他はない。門限に帰るのも忘れて、二匹の蛇〔ながむし〕のようにまつわりついていることもあった。(中略)それから七月になったある朝、私がまだ寝ているうちに彼女は、ガラス戸を開けてあがってきて、私の頭のうえからかぶさりかかり、私の耳に唇をあてて、子供ができたらしいと告げ、その子を産んでみたいと言った。ありうる結果ではあったが、子供が生まれてくるには、どう考えてもむずかしい情況であった。」(同)(続)
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by monsieurk | 2015-12-16 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――金子と森の場合(Ⅳ)

 このときの森三千代はどんな精神状態にあったのか。彼女が伊勢ですごした女学生時代は、西欧近代の恋愛至上主義の風潮が移入された時期であり、イプセンの『人形の家』の女主人公ノラに憧れ、閉鎖的な家に縛られる女性のありかたに強く反発を感じていた。愛は純粋なものであり、女性にとっても恋愛は自由で、また結婚生活も愛がなくなればは当然解消され、惰性や偽善からそれを続けることは悪と考えられていた。
 d0238372_15322761.jpg東京の女子高等師範学校へ進学を希望した動機の一つには、文学を志したことであったが、もう一つには親元を離れて自立したいという思いもあった。森三千代が金子を訪問したとき、彼女はすでに詩人吉田一穂と恋愛関係にあった。北海道出身の吉田一穂は、金子より3歳年下の早稲田大学予科文科の学生で、詩や童話を書いていた。金子の『こがね蟲』の出版記念会にも参加し、1923年(大正12年)の夏には、金子や大鹿卓、牧野、宮島と大島に旅行したこともあった。
 「金子光晴の周辺9」(『金子光晴全集第4巻月報』のなかで、森三千代は、松本亮の質問に答えてこう述べている。
 「松本 (前略)この時期、ちょっとお聞きしているところでは、森さんは、吉田一穂さんとたいへん懇意だったということですが。
  そうなんです。吉田一穂さんとは、恋人同士だったんですけど、吉田さんには、お嫁さんになる人が決っていたんです。そのことは同人雑誌の友だちの蒲生千代さんから聞きまして、それで悩んでいたんです。吉田さんは当時はまだ大学の文科の学生で、下宿生活をしていました。その下宿である女の人とかち合ったことがあるんです。でも、それが吉田さんの婚約者かどうか、その時知らなかったんです。あとになって思い合して、そうだったなと思ったんです。そういうことがあったあとだったものですから、非常に悩んでいました。金子と会ったことで私の運命は大きく変りました。学校をやめることになって・・・
 松本 女高師をもう少しで卒業という・・・
  ええ。退学したのは四年生になった一学期のあとですから、あと一年足らずというわけです。
 松本 それで約束通り、最初に会った二日後に行かれて、その時金子さんはいかがでした。
  それがたいへんだったの。」
 森が金子と最初に会った二日後にまた金子の許を訪ねたのは、初対面の日の帰り際に、そう誘われたからでる。金子によれば、最初の訪問のとき、森は「炬燵へは入らず、炬燵ぶとんのむこうに逃げ腰のまま坐った。私と彼女の距離は、大袈裟に言えば百里の行程に感じられた。〔牧野〕勝彦の侫弁が私をよほどうり込んであったのでなければ、彼女は、ただならぬ気配を察してそのまま、逃げかえったにちがいない。文学や、詩について彼女は、私に質問した。詩や小説を書く目的でお茶の水の国文科に入学したが、所をまちがえたことにすぐ気づいた。校規を無視して自由奔放にふるまって、しばしば問題になりながらも、四年の学業を終り、秋には卒業を控えているということを勝彦からきいていたが、彼女があこがれる現代文学に就いては、おもしろいほどなにもしらなかった。もちろんそんなことは私にとってはどうでもよかった。彼女と文学を語ることよりも、彼女をふんづかまえることの可能性の方が問題だった。」
 この日は、金子の他に彼女を案内してきた牧野、実弟の大鹿卓や宮島貞丈もいたので、金子はもう一度訪ねてくるように言ったのである。森三千代の印象は、牧野に聞かされて想像していたよりもずっと野性的だった。そして友人たちが三々五々帰ったあと、金子は、「彼女がのんだ紅茶茶碗の唇がふれたところをさがして、そこから、底にのこった冷えたのみのこしをすすった。」
 森は約束通り、3月25日の午後に金子の義母の家を再び訪ねた。金子の『どくろ杯』によれば、「私が仕かけたかすみ網に、彼女はじぶんからかかりに来た」のである。この日の様子も、森は松本亮に語っている。
 「松本 その時はほかに人はいなかった・・・
  誰もいませんでした。お母さんもいなかった。金子は、相変らず炬燵にあたっていましてね。
 松本 そのへん、詳しく話していただけませんか。
  ・・・言いにくい(笑)。そうですねえ。少し話をしているうちに、おちつかないから、うちは鍵をかけておけばかまわないんだから、表に出ようかというので、神楽坂の紅屋という喫茶店へ行ったんです。そこでいっしょにコーヒーをのみました。その時金子は、大きなノートを一冊持ってきてまして、それをひろげて、今度これをまとめて一冊の本にしようと思うという話をしました。それが『水の流浪』だったんです。そんな話をしながらも、金子はなにかソワソワしていて。その時は私が伊豆の大島へ旅行しようと計画しているときだったんです。一人では心細いから、ちょうど学校が休みになるから、郷里から弟を呼び寄せていっしょに行くつもりだという話をしましたら、金子は、大島には一度行ったことがあるから、いっしょに行ってあげてもいいんだけれど、などといっていました。それから外へ出て、江戸川べりへ出たんだと思います。道々歩きながら、暗い――暗いというのは、人通りのない川べりのさみしい道で、いきなり、僕はあなたが好きなんだけれど、恋人になってくれませんかと、そんな意味のこと言ったんです。それで私、実は、吉田一穂さんとのことがあるんですと打明けて、吉田さんとのことを気持の上ですっかり解決して、吉田さんに会って事情を話してから、それからご返事しますから、といったんです。そうしたら、気持だけは、いますぐはっきり返事してくれって。でもそんなこといわれてもと、困っていたの。すると、気持だけでもはっきりしないのなら、今このノートを川の中へ叩きつけちゃうなんて、突然その分厚いノートを川へ放り込もうとするんですよ。びっくりして、ちょっと待ってちょうだいというわけです。いいわ、ウンというから、ということになってしまって。ずるいのね(笑)。そういうところはやんちゃですね。そうです。その晩は蒲生さんの家に泊めてもらったんです。」
 この日のことを一方の金子はどう記憶しているのか。『どくろ杯』では――、d0238372_15342949.jpg
 「炬燵やぐらを前にして私の演じたコメディは、それをうしろめたいと感じさせない、時代感情がうしろにあって、私はそれをおのが情熱とおもい、彼女もおそらくそうおもいこんでいただろうが、じつは、情熱のようにかき立てる性質のものではなく、萎靡がちなこころを笞うつためのうそ寒いエゴイズムで、それなればこそ、私は涙をながす潮刻までちゃんとこころえていたのだ。
 「君がもしいやと言うなら、それはせんかたのないことだが、私には活路が見つからない。むろん詩などを書きつづける気力はない」と言うと、ノートにペンでこまかく書いた詩集『水の流浪』の草稿を破りにかかった。真中から引破ると、彼女はおどろいて、私の手首をおさえ、「やめてください」とおろおろ声で言った。破りかけたノートにもつしみったれた惜しみを見透かされまいと私は、惜しみとたたかって破る手に力を入れたが、それは歌舞伎のさあ、さあ、さあであいての出方を見通しての芝居に類するものでうしろぐらい仕業であった。焼けたビスケットのように熱くて、甘ったるいにおいのする彼女の顔が、眺めているときの距離の限界を越えてこちら側に来ていたので、運命はそこから出発するよりしかたがなかった。彼女にとっては、気弱さがまちがいのものであった。後にお互いの精根をすりへらした長旅の道づれとなる、その踏出しが、この時代がかった瞬間にあったとも考えられる。唇でふれる唇ほどやわらかいものはない。寮の門限を気にして、あわてて彼女が帰っていったあと、風は落ちて、表障子にさすまっ真正面の夕日が、玄関の格子戸の影を映して、百挺の蝋燭を立ててその焔が、一ゆらぎもしない瞬間のようにみえた。」
 金子光晴の『どくろ杯』が書かれたのがこの出来事があってから45年後、森三千代の対談はさらにその10年後のものだが、状況から推測して、二人は森が語るように、間もなく外へ出かけたのであろう。したがって『水の流浪』の草稿を記したノートを破ろうとする大時代の出来事は江戸川べりで起こったと考えられる。金子の『どくろ杯』の記述は多分に修辞的である。
 翌日、森がふたたび金子を訪ねてきた。そして泣きながら、吉田とのことが自分の気持のなかで整理がつかない。昨日は金子が吉田の知人と知って、相談したい下心で訪ねてきたのにあんなことになってしまった。昨夜は寝もやらずに考えたが、金子との関係を続けていけば、結局は自分自身を苦しめ、しかも自分の立つ瀬もなくなると気づいて、謝りに来たと言った。金子はそれを聞いて、一度はあきらめる気になった。
 森の回想によれば、彼女はこの日から2、3日は、大森の蒲生千代の家に泊まらせてもらい、大島行きに同行する弟が伊勢から上京するのを待った。そして伊豆旅行に発つという日の明け方、まだ彼女たちが寝ているうちに金子が訪ねて来て、詩集『こがね蟲』を一冊もってきた。森はこの大島旅行のあいだに、はじめて『こがね蟲』を読んだ。(続)
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by monsieurk | 2015-12-13 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――金子と森の場合(Ⅲ)

 金子光晴と森三千代の出会いの次第は、次のようなものであった。金子の『どくろ杯』によれば――
 「突然、牧野を通じて森三千代が、ある悩みごとで私に会いたいと申し込んできた。実際は、牧野〔勝彦〕が彼女にすすめて会いにくるように、取りはからったものにちがいない。そんなことになると彼は、すばしこく目はしの利くところがあった。彼女が訪ねてくる日取りは、大正十三年〔1924年〕三月十八日と決まった。勝彦、〔宮島〕貞丈、実弟の大鹿卓があつまってきて、その当日の手筈を決める相談をした。めずらしい女客を迎えるというのでみんな興奮していた。三畳の部屋はむさ苦しく、その上奥の一畳の上が夜具戸棚になって下だけしか使えず「自働車部屋」とあだ名がついていたので、始めての女客を顰蹙させることにちがいないということになり、そこから三四丁の道のりの、私の義母のいる新小川町の小家の二階を借りることにした。当日は、弟の卓が三畳部屋に待っていて、訪ねてきた彼女を案内して新小川町につれてくるという打合わせになっていたが、時間がおそいので、勝彦が二軒の家のあいだを二度も様子をみるために走って往復した。陽のいろはうららかで春めいていたが、ふく風は肌寒いうえに、ほこりっぽかった。私は一間しかない二階の八畳部屋に、箪笥を背に、置炬燵をして、坊主頭で陣取っていたが、心は駆けあるいている勝彦とおなじおもいでいた。」
 では森三千代のこの日の記憶はどうか。金子光晴全集(中央公論社版)月報連載の「金子光晴の周辺8」によると、――
 「松本 金子さんに会われた印象というのはどんなでしたか。d0238372_17212036.jpg
  それが、ちょっと詳しくお話することになりますが。牧野さんといっしょに出かける約束ができましてね。私が女高師の三年生の三月で、春休みになったばかりでした。約束の時間に牧野さんが、私の寄宿舎の門の外まで迎えにきて、そこからいっしょに赤城元町の金子の家まで行ったわけです。電車をおりてから神楽坂(当時の写真)をのぼって、郵便局の横町を入ると右側に板塀があり、そこに木戸がありました。牧野さんが木戸を開けまして、またなかに入って、細い路地の玄関部屋の前まで私をつれて行きました。そこに大鹿卓さんが立っていたんです。金子の弟の。そして卓さんがいうんです。今日はこちらではなく、森さんがおいでになったら、新小川町のほうに案内してくれ、とういうことで、自分がここで待っていたと。それで卓さんにつれられて、新小川町の家へ、またトコトコと、三人で神楽坂の裏の道を歩いて行きました。
 松本 牧野さんと三人づれですね。
  そうです。どうしてそういうことになったのかあとで聞きますと、その新小川町の家というのは、金子の義母の家で、そこに金子が待っていたんです。若い女のお客がくるときに限って、サトウ・ハチロー〔佐藤紅緑の息子、後の詩人〕が赤城元町の部屋へやってくるんですって。その頃、金子のところへは『楽園』の若い連中や詩を書くような人たちがよく集ってたんです。ハチローさんはちょっと悪童ですから、わざと若い女性が困るような猥談なんかをやって、困らせるんですって。だからそれを避けようと、新小川町のほうへ行って待ってるということになったわけなんです。
 新小川町のほうへ行きましたら、格子戸のところで、金子の義母という人が出迎えてくれました。その人はとっても若々しい粋な女の人でした。挨拶したりして、二階へ案内されました。二階には、もう牧野さんと卓さんがあがってまして、もう一人、宮島貞丈という人が取りまきみたいにして坐ってました。金子はといいますと、部屋の真ん中の大きな置炬燵に入ってました。三月のポカポカとあったかい日だったんですけれども、炬燵にあたって、むっくり顔をもたげてこちらを見るんです。明るい、南向きらしい窓がありまして、障子にいっぱい陽がさして、とても日当りのいい部屋なんですよ。それなのに炬燵にあたっているんで、びっくりしました(笑)。
 そこではじめて金子に挨拶をしましてね。だけど、印象は、と聞かれましても、もうはじめから何か引きずりまわされたみたいになっちゃって。舞台回しのほうがすごいのでびっくりしちゃって、本人の印象のほうなんかよくおぼえていない・・・。でも、やさしい感じの人だと思いました。
 松本 その、舞台回しというのはそういうふうな・・・
  あっちに行ったりこっちに行ったり・・・
 松本 その日はあまりそこにいなかったわけですか。
  しばらく話をして・・・。私は、やっぱり詩のことを質問したんでしょうね。なんか答えてくれたんですけど、要領得ないような、ボソボソ何かいっただけ。欄間に掛っている小さな油絵をさして、話の途中で突然、「あれは牧野が描いた絵ですよ」なんて、余計なことをわざといったりして。私は、うっかり「山ですか」といったんです。真っ赤な岩みたいな絵なんですよ。そうしたら、「いや、あれは大島の海です、海岸です」といわれて(笑)。それで余計どぎまぎして、赤くなっちゃったりして・・・。なんか突飛なことをいう人だなと思ったんですよ。
 松本 なるほど。そういう突然変異的なやり方は生涯そうだったんですね(笑)。そのときは、午後からいかれたわけですね。
  そうです。
 松本 それで夕飯まで・・・
  いえ、長居しないで、遠慮して早く帰ってきました。帰りぎわに金子がいいました。「明後日またきませんか」と。それで私、一日おいてまた行ったんです。というのは、学校が始まると、そんなにちょいちょいはながい外出できないから、行くなら春休みのいまのうちだと思ったんです。」
 これが森の側から見た当日の成り行きだが、ここには金子の記述と矛盾することがある。それは牧野勝彦の役回りで、金子の記憶では牧野は金子とともに森がくるのを待っていて、彼女の来るのが遅いので、二つの家の間を行ったり来たりしたことになっている。だが森によれば、牧野は学校の寄宿舎まで森を迎えに来たという。森の金子訪問を牧野が橋渡ししたことを考えれば、当日牧野が道案内のために寄宿舎から同道したというのが真相であろう。ただ森の到着を待つ間に二つの家を往復した者がいたという金子の記憶も、状況が状況だけに強く記憶に残ったはずである。だとするとそれは誰だったのか。考えられるのは、この日同席したというもう一人の人物、宮島貞丈だったかもしれない。彼は元刑事の息子でひょうきんなタイプの金子の取り巻きだった。
 炬燵に入って森の到着を待った金子がもった森三千代の第一印象は――
 「下の格子戸が開く音がして、下駄で駆け上がりそうな見幕で、注進の勝彦が、「来た、来た、来た。来た」と言いながら、安普請の階段を乱暴に、どたどたとあがってきた。つづいて、鼻ばかりが並外れて高いので「たかさん」と呼ばれている弟の卓のうしろから、束髪に結った和服姿の、オリーブいろの袴の紐を胸高に結んで、女高師の桜のバッチをした三千代があらわれた。私をまんなかに、三人の若者が居ながれて、行儀よく坐った。私は、大詩人の貫禄をしめさねばならない羽目なので、つとめて融然と応対した。彼女はこたつには入らず、土産にもってきた小さい洋菓子の箱を置いて私の正面に坐り、顔をあげた。それが彼女とのはじめての対面であったが、中高の目のぱっちりした丸顔の勝誇ったような顔立ちの娘だった。」(続)
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by monsieurk | 2015-12-10 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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