フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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 アルベール・カミュのエッセー『結婚』(Noces)については、これまでにブログで、「ティパサでの結婚」(2014.01.08~2014.01.14)と「ジェミラの風」(2015.09.03~2015.09.15)を翻訳して紹介した。今回からはしばらく、三篇目の「アルジェの夏」を訳して紹介したい。カミュはアルジェリアの街オランで生まれ、首都のアルジェでジャーナリストとして文筆活動をはじめた。アルジェは彼にとって思い出多い街である。

 アルジェの夏

 人びとがひとつの街と分かちあう愛、それは多くの場合、秘められた愛だ。パリ、プラハ、あるいはフィレンツェでさえ、都市はそれ自身の上に閉じられていて、そこに固有の世界を限っている。だがアルジェは、海に面した他の街と同様に、口あるいは傷口のように空に向かって開かれている。アルジェで人が愛することが出来るのは、それによって皆が生きているものだ。すなわち、どの曲がり角からも見える海、太陽の一種の重み、人種の美しさだ。そして、いつものように、あの破廉恥さとあの饗応のなかで、一層ひそかな香りにまた出会う。パリでは、人は空間と羽ばたきに郷愁を抱くことがある。ここでは、少なくとも男は十分に満足し、その欲望を保証されているから、自分の豊かさを控えることができる。
 自然の富の過剰が、どんな無味乾燥をもたらすかを理解するには、アルジェで長く生活する必要がある。ここには学んだり、修養を積んだり、向上しようと思うようなものはなに一つない。この国には教訓がない。なにも約束せず、なにかを垣間見せるということがない。それは与えること、しかもふんだんに与えることで満足する。この国ではすべてが目にゆだねられており、人びとはそれを楽しんだ瞬間から、このことを知るのだ。この快楽につける薬はなく、この国の歓喜は希望のないままだ。この国が要求するのは、ものを明晰に見る魂であり、だから慰めはない。この国は人びとが信仰に関わる行為をするときのように、明確な行為をすることを要求する。ここは、この土地が養っている人びとに、素晴らしさと同時に悲惨さを与える奇妙な国だ! この国の敏感な人たちには官能の豊かさが備わっていて、それが極端な貧困と一致しているが、それは驚くには当たらない。苦さの伴わない真実などありはしない。そうだとすれば、私がこの国の顔を、もっとも貧しい人びとの境遇のなかでした愛せないからといって、なぜ驚くことがあろう?
 人びとはここでは、青春のあいだ、彼らの美しさに応じた生を見いたす。そしてその後は、下降と忘却だ。彼らは肉体に賭けたのだが、それはやがては失われることも分かって。アルジェでは、若くて溌剌とした者にとっては、すべてが避難場所であり、勝利への口実だ。港、太陽、真っ赤な頬、海に向ったテラスの白さ、花、スタジアム、新鮮な脚をした娘たち。しかし青春を失った者には、すがりつくものは何もなく、憂鬱がそれ自身から己を救い出せる場所はどこにもない。だが他所では、イタリアのテラス、ヨーロッパの僧院、プロバンスの丘の姿といった、人間が自己の人間性から逃れ、甘美な想いで、自己を解放することが出来る場所が沢山ある。だがここでは、すべてが孤独と若者たちの血を要求している。死にゆくゲーテはもっと光をと言い、これは歴史的な言葉となった。ベルクールやバブ=エル=ウエドでは、カフェの奥に座った老人たちは、髪をテカテカにした若者たちの自慢話に耳をかたむける。
 こうした始まりと終わり、それをアルジェで私たちにゆだねるのは夏だ。夏の数カ月間、街は人気がなくなる。だが貧しい人たちと空は、ここにと留まっている。私たちは貧しい人たちと一緒に、港や男にとっての宝物の方へと降りていく。それは温んだ水と、女たちの褐色の身体だ。夕暮れどき、こうした富に満たされて、その生活を飾るすべてである蝋引きの布と、石油ランプのもとへ戻ってくる。(続)
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by monsieurk | 2016-01-29 22:30 | 芸術 | Trackback(1) | Comments(0)
 三千代が鰻屋に戻ってきたあと、三十分ほどすると下駄の音をさせて金子が帰って来た。三千代の顔を見てびっくりしたようだった。この日も井上康文、吉田一穂、それに吉田一子と銀座へ出かけていたのである。金子は一子とはその後親しくなり幾度か会ったが、自分の心のうちを覗いてみて、妻の恋愛と比べてひどくみすぼらしいものに思えて、それ以上進展しなかった。
 出発予定日の前に帰ってきた三千代の方が主導権を握った格好だった。
「青春の放浪」によれば、のちに金子は三千代に、この時の心境を次のように語ったという。
「――発つ時は、正直に億劫だったんだ。誰か一人でも、やめた方がいいと言ってくれたらすぐやめたんだが。・・・なぜ、やめたらどうだいと、誰も言わなかったんだろう。俺はヨーロッパへは二十歳の時一度行って、よく知っている。二度行きたいほどの興味もない。苦しみを承知の向うみずな旅を、どうして、自発的に思いとどまらなかったろう。行くと言いだしたからは、周囲へのはりあいでゆくということもあるにはあるが、あの出発間際頃には、実のところ、そんなことはどうでもよくなっていた。君の問題も実際上、子供の処置を別にしては、未練は未練としても、ともかく精神上の平衡をとりもどしていたんだし、世間の風評もそんなに気にならなくなっていた。時には、君の恋人と君との一つ寝床のありさまを目にうかべても、嫉妬にかりたてられるかわりに、よその楽しげな情景でも見物しているような気がすることもあった。君がちょいちょい会いに行くのをだまってみていたのも、そんな気持あったからだろう。(中略)君等に憎悪の感情を持たなかったとはいわないが、正直いうと、俺は、そのころ、自分の憎悪や嫉妬にすら懐疑的だったのだ。なに一つにも、いいわるいと判断の下せない無気力な状態にいた。その上不義理な借金が身辺に重なっていた。不義理を不義理と感じる、いわゆる良心というものも麻痺していた。あたまも濁っていたし、仕事の上でも絶対的だった。(中略)俺をヨーロッパへひきずっていったものは、ヨーロッパの魅力でもなければ、面子でもない。愛欲生活への執着でもない。君も知っている俺の無意識な偏執的傾向、無気力の情勢といった方があたっているかもしれないが、俺をヨーロッパまでひっぱっていったものは、それなんだ。俺は当面のわずらわしさが厭さに、却って外国旅行なんて飛切り煩わしいことをえらんだことになる。」(「青春の放浪」)
 いまや二人にとって、ヨーロッパ行きは当初の輝きを失っていたが、紆余曲折をへた末に、予定通りに出発することが決まった。翌八月三十一日、金子は知り合いに頼んで家具一切を売り払った。その他の金もかき集めて五十円ほどになったが、下宿先の鰻屋への支払いがかさんでいて、それを払うと手許には十円足らずしか残らなかった。世間にたいして一番肝心な渡航の挨拶状は、もはや印刷が間に合わず、謄写版で五十枚ほどの葉書を刷って、出発の朝にポストへ投げ込んだ。
 九月一日は二百十日のいい伝え通り、朝から強い風が吹き、雨が降っていた。夕方、二人はそれぞれ鞄を一つずつ下げて東京駅に向かった。手許の金では目的地の大阪までの切符が買えず、とりあえず名古屋までの切符を二枚買った。朝から鰻屋に来ていた井上康文だけが駅まで見送りに来てくれた。汽車が動き出そうとしたとき、知らない女性が走ってきて、井上に森三千代のことを尋ねた。彼女が窓から顔をだすと、「女人芸術」第二号の原稿料だといって祝儀袋を渡した。なかには十円札が一枚入っていた。
 二人の苦難の旅がこうして始まったが、彼らはすぐにヨーロッパへ向けて旅立ったわけではなかった。名古屋で降りた二人は、「新愛知新聞」文化部の記者に会って、その場で書いた原稿を売込み、それで得た金でその日のうちに大阪に着いた。そして大阪に二カ月ほど滞在した後、秋の終わりに息子の乾がいる長崎に着いた。彼らが上海行きの連絡船の客となったのは、11月末のことであった。
 「義父が、西洋人が払下げたものらしい、豚革の大きなトランクを買ってきた。私は、気がすすまぬながら、上海丸の切符二枚を買いにいった。日取りが決まると、今度は、彼女が、子供とはなれたくないので、悲しみ悶えた。子供があそび惚けているあいだに彼女はそっと姿をかくした。波止場には、父親と妹二人と、高島〔長崎での知人〕とが見送りに来た。午後おそくの解纜で、一夜を過ごすと、翌朝は、もう上海であった。入れこみの三等船倉の広畳のすみっこに席をとると、彼女は病人のように、肩掛けをかぶって寝込んでいた。その肩掛けを持ちあげて顔をのぞいてみると、袖を噛んで嗚咽の漏れるのを殺していた。」(『どくろ杯』)
 金子光晴と森三千代の旅はこれから五年続くのだが、上海に滞在中も、森は土方のことを忘れたわけではなかった。ある日、金子は三千代宛ての土方の分厚い手紙が届いているのを見つけて、三千代があわてた。封筒には、手紙と一緒に、操り人形の三匹の馬を描いた絵が入っていた。土方が彼女の詩集に表紙にするために描いたものであった。三千代はかねてから自分の詩集をつくりたいと言っていたが、上海に来てからも東京の間で頻繁に手紙がやり取りされて、話が進んでいることを金子は初めて知った。手紙には、土方がバクーニンからマルクスに転向したことや、三千代が金子の言いなりになって上海へ行ったことへの怨嗟が書かれていた。そして三千代の詩稿は、子どもへの愛着と「コークスになった心臓」という長篇の恋愛詩を含むものだった。
 金子はそれを知ると、意地でもその詩集を上海で出してやることに決め、内山書店の店主の内山完造の紹介で、小さな印刷所を見つけて印刷を頼んだ。この話をすると、三千代は思いのほか喜んだ。金子がこのとき感じたのは、「そのよろこびの底ににじんで出るもう一つの人影に私はさしてこだわる気持ちはなかった。」「よそに恋人をもってその方に心をあずけている女ほど、測り知れざる宝石の光輝と刃物の閃きでこころを刳(えぐ)るものはない。」(『どくろ杯』)というものだった。半月ほどすると、三千代の薄い詩集『ムヰシュキン公爵と雀』が出来上がった。三千代と土方の愛の結晶ともいうべき詩集を読んで、金子の心は穏やかではなかったと思われる。事実、彼はこの詩集については多くを語っていない。
 彼ら二人のもつれあう関係はこれ以後も続いて行くが、それはまた別の物語である。それにしても、二人の間で繰り広げられた男女の関係はなんだったのか。
 森は『金子光晴全集』の月報12で、「今からよく考えてみますと、三人ともみな真剣なんですの。そういう時代に、金子は金子で、HさんはHさんで、私は私なりに、それぞれの立場で、ほんとうに自分の道を真実に――真実という言葉はなんかキザですけれども、生きようとして、そして苦しんだ果てのことだった、という気が今しているんです。」と語っている。d0238372_173468.jpg
 そしてもう一つ見逃せない森の証言がある。息子である森乾は早稲田大学のフランス文学科の教授となり、金子が亡くなったあとに、父光晴に捧げるオマージュ、「金鳳鳥――父・金子光晴に捧げる」を書いた。これは雑誌「群像」1976年11号の巻頭を飾った作品で、そのなかに次のような一節がある。母の三千代は初美、父は晴久として登場する。裕は語り手の彼自身である。
 「初美は或る程度魅力的で、また社交好きのはでな性格ゆえに、晴久だけに頼らず己が道を選択しようとしていた。
 それがもし自分が妻を拘束し、独占しようとする従来の亭主にすぎないと彼女が思うようになれば、彼女は自分を軽蔑し、離れてゆこうとするにちがいない。
 晴久が初美に寛大な良人たらんとした理由の第一は、そこにあった。
 そして真実彼が寛大な男であろうとする希求もあった。
 だが、もう一つ、これは死後、裕が生前の父親を理解しようと、分析をしてみたのだが、晴久には或いは自分もはっきり意識しなかったかと思われる「生れ育ち」からくる習癖のようなものがあり、それが寛容の第二の原因だったらしい。
 父親の一周忌から二ヵ月たった或る日、裕と晴久の思い出話をしていた初美が急に云った。
「おじいちゃんは、あたしの時もそうだったけど、恋人をつくると必ずその女には別の男がいるの。そして、その男と恋人がくっついたり、或いはわざと自分でその二人の仲をとりもとうとさえして、危っかしい崖淵に立たせるの。それを眺めて、自分をいじめて楽しんでいるようなところがあったわ」
「そうかも知れない。・・・一種のマゾヒズムかな」
 と裕は合づちを打った。
 自分をコキューの立場に立たせて、自分からいじめるそんな傾向は晴久だけの趣味とは限らない。真実、そういう破局に陥ることを望む人は少ないにちがいないが、心の中で自分をそういう立場において、一種の快感を感じると想像することは裕にだってあり得ると思った。
 己が女房を他の男と交接させて、自分はそれを目の前で凝視している。嫉妬、憎悪、羨望、憤怒のいりまじった感情が昂進し、自分も激しい興奮状態におかれるだろう。すると己がマゾがふしぎな経路で内攻し、今度は妻に対するサディスティックな欲望へと転化する。
 それが動機となって、マンネリ化し、何の衝動も妻に対して感じなくなっていたのが、突然新鮮な魅力を覚えるようになり、とだえていた性行為が復活する。
 そんなことは、ちょっと考えても、大いにあり得ることだった。
 そして、それは、大いなる犠牲を払って、他の男に妻を売る行為と等しく、喪失感から余計専有欲にとりつかれるかもしれない。」(「金鳳鳥――父・金子光晴に捧げる」)
 森三千代は先に引用した、「金子光晴全集」の月報12で、「私が無軌道だったんです。」とも語っているが、土方定一をはさんだ金子との愛憎劇は、あながち森の一方的な行為ではなかった。そこには金子の潜在的な衝動がかかわっていたのである。戦後になって、「青春の放浪」で自らの恋愛遍歴を赤裸々に明かしたとき、彼女は金子のうちに潜むこの欲望に気づいていた。それでも書かなければならなかったのは、作家としての業であった。(「男と女――金子と森の場合」第一部、完)
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by monsieurk | 2016-01-26 21:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
 吉田一子には下の鰻屋からうな重をとってご馳走し、そのあと金子が二人を神楽坂の映画館に連れて行ったが、金がないので弁士の徳川無声を呼び出し、二人だけを只で入れてもらった。上映していたのは無声映画の『モロッコ』だった。映画の内容に刺激されて、帰り道に土方とのことやヨーロッパ行きの計画を事細かに話した。新聞記者をしていてもまだ人生経験の浅い一子は驚いた様子だった。図にのった三千代は思わず、「そんなわけだから、私はほんとうは行きたくないの。あなた、私の代わりに金子とヨーロッパへ行ってみる気はない?」と言った。一子はしばらく黙っていたが、「いいの本当に」と弾んだ声を出した。その晩一子は泊まっていくことになり、二枚の蒲団をくっつけて三人で寝た。
 翌日、三千代は鞄に着替えや身のまわりの品をつめた鞄をもって家を出た。土方と会って上野駅から常磐線に乗り、高萩についたときは夜がとっぷりと暮れていた。森三千代はおよそ一カ月におよんだこの高萩での出来事を、「青春の放浪」のなかで、「高萩日記」として書いている。d0238372_14373725.jpg
 高萩は茨城県東北部にあって太平洋に面し、明治以降は炭鉱の町として知られていた。鉱山労働者が多く社会主義の影響もあり、なかにはアナーキズムを信奉する若者もいた。土方が頼ったNもそのメンバーの一人で、小学校の教員をしながら詩を書いていた。Nは二人のために宿をとってくれており、夏休み中なのでなにくれとなく世話をしてくれた。昼間は宿の子どもをつれて近くの海へ海水浴に行ったが、太平洋の波は高くて海水浴どころではなかった。夜、土方は吊った蚊帳のなかに机を持ち込んで、遅くまでドイツ語の翻訳をしていた。
 問題はやはり金であった。日々の生活は小学校教員のNの安月給に寄りかかるばかりで、最初のうちは東京のアナーキストの動向を帝大生の土方から聞きたがっていたNも、次第に冷淡な態度をみせるようになった。来た当座は親しかった人たちが離れてゆくにつれ、三千代は淋しい思いに駆られた。二人だけになりたいと願ったのに、恋愛がはやくも行きづまりつつあると思うと恐ろしかった。夏の陽の下で静まり返った町も憎悪の対象になりかけていた。
 高萩へ来て二週間余りがたった八月中旬、三千代がしきりに思うのは長崎に置いている乾のことで、「恐怖の海」という詩を書いた。

「一本のシガーのように煙をひいてゆく船もない。
 まっ黒い傾いた捨舟のかげから、不意に湧上がる海、狂った雨雲の下の展望は、
 きょう、私にとってなんというわびしさだろう。
 ・・・・・・
 坊や、お前にだけはすまない。
 おまえが、私から引き裂かれていった時、関門の海峡の夜、連絡船の舷から、
 ――水のあるお舟はこわい、と泣いたことを、
 私は、ほんとにすまないと思う。
 そして、きょう、私は、おまえとおなじように海が怖いのだよ。(後略)」

 そもそも高萩に来た目的の一つは、炭鉱夫の生活の実態を知ることにあった。しかしその機会が来ると、土方は炭住の生活を三千代に見せないようにした。
 「労働者の生活をみせたいといって、私をここまで連れてきたのだ。だが、みせものではないからと、そのことにこだわっている。採炭場まで行かないのは、女をつれてあそび歩いているようにとられるのが気差しいからだ。なにしにきたんだろう。帰り道、彼は不機嫌にだまりこんだ。日傘が赤いのに帯が青いのは色彩感覚がにぶいと悪口を言う。労働者たちの理解ある仲間、美学の大学生。それじゃ、なぜ、私のような女をこんなところへ連れてくる気になったのか!「あなただって、あの生活には縁遠い人だということをじぶんでしらないからだ」と、私は、彼のせなかをどやしたくなった。」(「青春の放浪」)
 金をつくるために、土方は三千代が着替えにもってきた着物を土地の芸者に売りにいったが、売れずに帰って来た。いよいよ金を送ってもらうしかなかった。結局、頼れるのは金子だけだった。
 ある朝、三千代は起きぬけに顔も洗わずに、鞄をもって階段を降りかけた。すると土方はその鞄をひったくり、着ていた着物を脱がせて鞄のなかの着替えと一つにまるめにすると、それを焼こうとした。そうすれば彼女が東京へ帰ることを止められると思ったのである。三千代が着物をひったくると、土方は追いかけて来て二枚の着物の袖を引きちぎった。
 それから二日後に金子から為替が届いた。金子が上海から帰ってきて、三千代を土方の許へ探しに行ったときに着ていたモーニングを売り払ってつくった金であった。土方はなんとか三千代を引きとめようとして、その金をぱっぱと使いはじめた。しかしもう二人には東京へ帰る以外に道はなかった。高萩を引き払い、途中日立の河原子に一泊して、上野駅に着いたのは八月三十日であった。土方は市電で鶴巻町の一つ手前の停留所まで送ってきた。
 「電車がとまった。立上がった彼に、気強く、「左様なら」と言った。これでもう会えないのだと思いながら、引止めもせず、手を束ねている自分を私はみすみす眺めてすごしていた。一月あまりの二人の生活に疲れてもいたし、引止めることの無意味さをも知りすぎてもいたからだった。電車がうごき出してから、たいへんなことをしてしまったと気が付いた。鶴巻町で降りるなり、無我夢中で駆け出して、あともどりした。彼がまだそのへんにいるにちがいないと思ったのだ。彼が歩いていそうな横町横町をさがしてみた。こんな別れかたはしたくなかった。帯のあいだに四つの五十銭玉をはさんだまま別れることは、生涯の悔いになる。一時間ばかりむなしくかけずりまわったが、彼はもうこの世のどこにもいない。」(「青春の放浪」)
 帯びの間に挟んでおいた五十銭玉は、河原子で土方が料理を数多く注文するのを見て、用心のために取っておいたものだった。電車のなかで喫茶店の入ろうと言われたときも、空の財布を見せてことわったのである。虚しく鰻屋の二階へ帰ってみると、金子はいなかった。勢い込んで帰って来たのに肩透かしを食ったような気分で、すぐに肴町の郵便局へ行き、「明日夕方七時、阿佐ヶ谷駅で落ち合おう」と、土方の自宅宛てに電報をうった。だが翌日、土方はとうとう姿を見せなかった。彼はすぐには自宅に帰らなかったのである。(続)
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by monsieurk | 2016-01-23 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
 ある日、病院に来た金子が、「富久町の実家に刑事がやってきた」と言った。三千代が驚くと、旅券のことで訪ねてきたのだという。ヨーロッパ行きの旅費や滞在費が本当にあるかどうかを調べるためであった。鰻屋の二階にこられたら計画は駄目になっていたが、このことを見越して、金子が住所を実家に移しておいたために事なきを得た。
 そして彼らの計画を耳にした詩人仲間の井上康之や尾崎喜八が、洋行記念のアンソロジーを出す企画をたて、予約募集のチラシをつくってくれた。金子がそれを持ってきてくれて、三千代はベッドの枕許の壁に貼った。回診に来た医師はそれを見て、「ヨーロッパ行きですか。全快にごほうびですな」と言った。
 金子光晴・森三千代渡欧記念詩華集『篝火(TORCHE)』は、七月一日に素人社から出版された。執筆したのは、井上康文、金子光晴、勝承夫、中西悟堂、尾崎喜八、陶山篤太郎の六人で、定価は一円二十五銭だった。金子の作品は「航海」をはじめとした詩十五篇で、いずれも海外をテーマにしたものだった。
 詩「展望より」では、「私は、ある晩、彼女を恋したが故にすべての美しい地獄(プロフォンジス)を一夜で下った!」と詠われている。明らかに三千代との間の苦悩の反映であった。
七月下旬、三千代が退院する日が来た。入院から四十六日目だった。荷物は金子が先に家に持って帰っていたので、退院すると二人で新宿に出て、その後神田へ行き洋食屋でカクテルを一杯飲んだ。するとその酔いが日本橋三越に着いたころにまわってきて、急に貧血を起こして車道にへなへなと崩れ落ちてしまった。とりあえず日本銀行のわきの芝生まで連れて行かれたが、意識が朦朧としていた。通りかかった紳士が仁丹を飲ませてくれ、タクシーで鰻屋の二階へ連れて帰られた。
 夕方にはすっかり元気になり、家主の鰻屋の夫婦をはじめ近所の人たちが、病院帰りの三千代を温かく迎えてくれた。伝染病患者を出して、消毒やなにかで迷惑がかかったにもかかわらず、そんなことはおくびにも出さず、市井の人たちの人情が身にしみた。一方で、気になるのは土方のことだった。彼女が伝える先に、知人の噂からヨーロッパ行きの計画を知ってしまうのではないか。三千代は夕方に近くの郵便局から電報をうち、翌日の三時に神楽坂の喫茶店の紅屋で会いたいと知らせた。
 翌日、喫茶店に向かって坂を上っていると、途中にある本屋から土方が出て来て、黙って横に並んだ。d0238372_1702029.jpgヨーロッパ行きの話を切り出さなければと思いつつ、久しぶりの逢瀬が気まずいものになるのが怖くて言い出せなかった。土方はこの日は七時からの会合に出なくてはならないと言いいい、さらに「女人芸術」という雑誌が刊行されること、それには三千代の友人たちの名前がみな載っていると告げた。それを聞くと、淋しさと悔しさで目がくらむ思いになった。金子は当然このことを承知していながら、それを教えなかったのは、入院中の自分を目隠しにしておこうという彼のエゴイズムのせいだと思った。入院中の彼の心づかいに対する感謝の念もこれで帳消しだと、無理に思い込もうとした。土方に身体ごと攫ってほしいという思いが募ったが、二人とも金がなくどうにもならなかった。別れの時間が迫るなか、喫茶店で空のコーヒー茶碗を前にしているとき土方が突然言った。
 「「ヨーロッパへ行くんだってね」
定一は、えっと私が聞き返すほど平常な調子で言った。
「止める?」
 定一はそれに答えず、「向うへ行ったら、向こうの『リューマニテ』〔フランスで出ていた左翼系の新聞〕を送ってくれないか」と、他人事のような平静さで言った。定一の冷淡さのなかに、私のおそれていた誤解がのぞいてみえたので、私は矢継早やに、私が考えていた、ヨーロッパで定一と出会うという虫のいい計画の一くさりを述べ立てた。定一は、そんなことはおめでたい三文芝居のすじがきだといわんばかりな顔付きで、私が真剣になる程わざといいかげんに聞き流すふりをした。」(「青春の放浪」)
 金子と森の間で出発の日は九月初めと決めた。長崎の両親はヨーロッパ行きを喜び、留守中は乾を手許で養育することを引き受けてくれた。金子の仲間の詩人たちが主催して、はやばやと山水楼で送別会を開いてくれた。また別のグループは、四谷にある白十字の二階で送別会を開いた。こうして三千代の外堀は次第に埋められていき、土方との関係をどうするかで追いつめられた気持だった。金子とは、ヨーロッパ行きに同意する条件として、出発までの間は自由にさせてほしいという約束ができた。九月一日まではあと一カ月少々しかなく、土方は残された時間を一緒に茨城県の海岸で過ごそうといい出した。
 「「なんでもない、つまらない海岸なんだ。君が考えているような花やかな避暑地とはちがうよ」と、ことわりを言う定一の心では、私がぜいたくな、小ブルジョアの家の妻のつもりでそれを征服していることに、イデオロギー的な勝利感をさえおぼえているようだった。「金子氏は、それは金をつくることはうまいだろうさ」などと、揶揄的に言うのも、金子の実情を知らないからだった。が私は、弁解もしなかった。」(「青春の放浪」)
 土方は目当ての茨城県高萩の知り合いに手紙をだしたが、返事はなかなか来なかった。そんな折、神楽坂を歩いていると、女性作家の先輩である生田花世と出会った。話は『女人芸術』のことになり、間もなく第二号の締め切りだという。翌日、彼女が編集発行人の長谷川時雨(写真)の許へ連れて行ったくれることになった。d0238372_16593618.jpg
 翌日は四谷にあった長谷川邸に行き、前に書いた「青幣党〔チンバンタン〕の息子」の原稿を置いてきた。帰りがけに長谷川が、「ヨーロッパへ行く途中から原稿をどしどし送ってくださいよ」と、声をかけてくれた。三千代はいつになく張り切った心地になった。ヨーロッパ行きに一つ張り合いができた思いだった。
 鰻屋の二階へ帰ってくると、ちょうど旅券が届いたところだった。濃いオリーブ色の厚紙の表紙で、それを開くと金子と二人の写真が並んで貼られており、日本帝国外務省の印が捺してあった。三千代の写真は、どうでもいい気持で金子に渡したもので、口紅が黒々とあくどく映っていた。
この日の夕方、同郷の女友だちで、国民新聞の記者をしている吉田一子が、ヨーロッパ行の話を聞きつけて訪ねてきた。(続)
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by monsieurk | 2016-01-20 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
 三千代は多摩川で泊まった翌日の六月三日、二日ぶりに鰻屋の二階に帰って来た。そしてその晩、発熱した。猩紅熱だった。彼女は土方と恋愛関係になってからは、金子に触れられるのをきたないもののように拒んでいたが、金子はそうされればなおさら欲望が募った。夜になって三千代がうとうとしだしたとき内股に触ると、火のように熱かった。往診を頼んだ医師はすぐに手配をして、大久保にある伝染病院(避病院といった)へ入院させた。問題は病気に感染しやすい子どもの乾だった。金子は翌日、四歳になった息子をまたまた長崎へ連れていくことにした。長崎の両親は事情を了解して、あずかってくれることになった。
 一週間後、帰京した金子は毎日一回は病院に顔をだした。病院の食事が不味いと言うので、寿司や洋食弁当や宿でつくらせた鰻の重箱などを差し入れた。感染を防ぐために病室には入れなかったが、一時間ほどいて帰ってきた。
 絶対安静の四、五日がすぎると熱は平熱近くに下がった。病院の生活は規則的で、六人部屋(大人二人のほかはみな子どもだった)に寝起きしている三千代は、三週間たつと健康な人と見分けがつかないほどに回復し、このころから身体の皮膚が少しずつはがれはじめた。全身が新たらしい皮膚に剥けかわるまでは退院を許されず、新陳代謝を促進するために毎日入浴させられた。病院ではそれ以外にすることがなく、一番の気がかりは、多摩川の日に別れて以来連絡をとれない土方のことだった。病院から手紙を出すと、それを読んだ土方が夜の九時ごろに訪ねてきた。面会時間は過ぎていたが、急用があると言い訳をして、階下の広間で会うことが出来た。伝染を怖れてしり込みする三千代を、廊下の隅の更衣室のところまで引っ張っていって貪るように接吻した。土方は帰りがけに、「鶴巻町の方へ手紙を出したが、読んでくれた」と聞いた。d0238372_1353311.jpg
 以下は「青春の放浪」である。
 「私は、その手紙を見なかった。翌日、金子が来るのを待ち構えて、手紙のことを追求すると、彼は狼狽して「うん、来ていた。でも、もうないよ」と口ごもりながら言った。
「破ったんじゃない?」
「うん」「なかを読んだ?」彼は、黙っていた。ながいあいだ彼の心の中でふすぼりつづけている忿懣の実体に、私ははじめてふれた気がした。それは、失ったものをえたような安堵でもあった。
 金子は、不機嫌な表情で、いつまでも黙り込んでいたが、くしゃくしゃになった険しい目を上げた。
「じゃ、あの男、ここへ来たんだね」
 こんどは私が尋問される番かと思った。隣のベッドを気にしながら、彼はかぶさるように上から顔を寄せ、声を低めた。
「形勢が不利だよ。君ばっかりじゃない。俺の方もだ。要するに妻の姦通を容認しているというのが不可解だというわけだ。」
「私だって、それは不可解だわ」私は、言葉をさしはさんだ。
「そうかもしれんね。正直をいうと、自分でもよくわからないんだ。まだ、俺にはぴんと来ていないんかもしれないな。なるようになれと放任しているわけでもないんだ。世間のやつは、愛すればこそ俺がふみつけにされて黙っているのだといい気に解釈して、俺のことを意気地なしあつかいにしているんだ。ありがたい幸せだ。だが、そんなことは、まあ、どっちでもいい。実際問題の方が困るんだよ。金のことにしろ、なる話もならない。全く世間の奴ってへんだよ。じぶん達に関係のないことじゃないか。そういう先例が容認されることで、じぶん達の場合が脅威なんだな。それはそれとして、俺の希望をいえば、これ以上、彼とつづけてもらいたくないんだ。やりきれなくなっているのは事実だよ。それについて、この間から考えている名案があるんだ。・・・君、起きられるかい。屋上へ出てみないか」と言って、彼はいまの話がもれやしなかったかと周囲を見まわした。

 コンクリの狭い階段を、すれすれになって一足ずつ足をはこび、三階の上にある屋上に出た。階段の途中で金子が突然凶器でもふりかざしそうな不安を感じて、私はしりごみして立止まりそうになった。屋上に出ると、私はまた、別の不安におそわれた。隙を見て突落とされるのではないかとおそれた。それほど、今日の金子は真剣な顔色をしていた。(中略)
「どうだい。ヨーロッパへ行ってみないか」
「ヨーロッパ? そんな算段がつくの?」
「なんにもまだないよ。まず、行こうかと思いついたところだ。決心がつけば、あとのことはそれから考えればいいんだ」
「定ちゃんと私を、それで引離そうというのね。この問題を、それで世間からうやむやにしてしまうというの?それじゃ、あなただけが一番得じゃないの」金子は苦笑した。
「まあ、よく考えてごらん。君にだってヨーロッパ行は一石二鳥だと思うがな。長崎のお父さんは、絶対に君のこんどの事件はゆるさないといっていられるよ。よけいなおしゃべりをしたようだが、俺だってしかたがなかったので、まずお父さんに君の話を疑念程度に話して打診してみたんだ。ヨーロッパ行ということにすれば、掛声だけでお父さんも世間の奴らもおどかしてしまえる。ほんとうにヨーロッパへ行かれれば君も日頃の望み通り飛躍できる。君の恋人のためにだってその方がいい。とも角一緒に日本さえ出てしまえば、あとはまたどうにでもなる」耳では聞きながしながら、私のからだの中で、あらゆる火が爛れるように明滅した。
「坊やはどうするの?」
「連れていってもいいけど、どうせ苦しい旅だから、途中でもしものことがあったら可哀そうだ。あずかってもらえたら、やっぱり長崎へおいてゆくんだな」
 私のあたまの中を、そのとき一つの小狡い考えが走りまわった。金子と一緒に日本を出る。ヨーロッパへ行ったら離婚する。定一をよびよせる。誰も知っている人もない異国で定一とのたのしい詫住いがはじまる。子供もいつかは手許に引取れる時が来る・・・。人間はじぶんの都合のいいことばかり考えるものだ。
「そうか。行くね。それでよかった。・・・ほんとうに行くんだろうね。あとで変ると困るんだ。君の決心がついたら、明日からでもいろんな手続きをはじめなければならない。手続きができてから、行かれないなんてことになると、今度こそはほんとうにひっこみがつかないからね。・・・そうなったらこれよりしかたがないよ」と、金子は、顎の下へ手をやって、首をくくる真似をしてみせ、猶、再三、念をおして帰っていった。」(「青春の放浪」)
 毎日病院に来ていた金子は、その後は数日おきにしか来なくなった。外務省へ旅券の申請をしたり、金策にはしりまわったりと忙しい日々を送っていたのである。(続)
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by monsieurk | 2016-01-17 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
 その後も、三千代は土方との逢瀬をやめなかった。草野心平が、夏休みで帰省した知人の部屋に恋人連れで泊まっており、そこへ二人で押しかけ、帰郷して空いている別の学生の部屋にもぐりこんだ。草野の恋人は新橋の雛妓で、旦那になるはずの人をふり捨てて、立派な鏡台一つを持って心平のもとへやってきたのである。
 あくる日、三千代が起きて顔を洗っていると、下宿のおかみが後ろに立って、「昨夜、警察の人が来て、駆け落ち者がこの家に泊まっている」と言ったと告げた。明らかに早く出ていけという暗示であった。
 この日、土方が草野に剃刀を貸してほしいと言うと、恋人の雛妓が鏡台の抽斗から立派な西洋剃刀を出してくれた。土方は三千代を後ろ向きにして膝の上に腰かけさせて断髪の襟足を剃り、そのあとに白粉をはたいた。自分が剃らなければ金子が剃るにちがいないと、そんなことをしたのである。彼は金子が三千代に触れるのを極端にいやがった。
 こうした状況では、その下宿に留まることはできず、彼らは街をさまよわなくてはならなかった。一日中歩きまわって午後遅く渋谷に出たとき、多摩川へ行ってみようということになった。d0238372_17241650.jpg京王電車を多摩川で降り、松林のなかに一軒だけある旅館で鮎の天ぷらを食べて、そのままそこに泊まった。翌朝目覚めると、廊下を掃除している女中と目が合った。女中は驚いてバタバタと逃げて行った。三千代は宿代が気になったが、なにもかもさらけ出した捨て鉢な気持だった。
 遅い朝食をすませたあと土方が帳場に交渉に行き、着ていたレインコートをカタにおいて、後日支払うことで話をつけた。この日、鰻屋の二階へ帰ってみると、金子と子どもがしょんぼりと坐っていた。
 「私の顔を見るなり金子は、「大分、評判が大きくなって来たぞ。君達が歩いているのとすれちがったという男が言っていたよ。君が媚びるような上目づかいで彼の御機嫌をうかがいながら歩いているのがあわれでみていられなかったって」
と言った。それを聞くと、私は、おもわずかっとなって、「そんなこと言ったのは誰。誰だか言ってごらんなさい」
 と、いきまいた。口惜し涙が、ぼろぼろこぼれた。それでいて、心の底でぐらぐらとなった。内心びくびくしながら、金子のあきらめたような表面の平静さにもたれかかっての一切の仕打だったのに、世間の噂や與論がよってたかって、その地盤さえゆるがせにかかっていると知ると、絶望と狼狽で私は、どうしていいかわからなくなった。同時にへたへたと、からだじゅうの力が抜けてゆくたよりなさを覚えた。」(「青春の放浪」)
 では金子の方は、どうして妻の不行跡を黙認していたのか。『どくろ杯』ではこう述べている。
「その歳、昭和三年(1928年)という時代を念頭に置いて、彼女たちの恋愛事件が及ぼす周囲の意見について考えてみてほしい。むろん、とるにも足らない私一身の周囲は、狭く限られてはいるが、それでも、この時代の縮図のように、相反する意見や、雑多な解釈が混駁し、それが皆、明治、大正の時代々々の諸観念から根をひいたものであった。前年からの大恐慌による社会不安が引きつがれ、人心が爆発的な言動に魅せられる傾向さえあらわれていた。この事件を法律に持ち込まないことを歯がゆがり、すすめにのらない私の優柔不断をあざわらう人たちが、文筆のしごとにたずさわる人のあいだにもあった。起訴すれば、男、女ともに数年の体刑を申しわたされ、起訴者はそれによって世間への体面をつくることができたが、言うまでもなくそれで夫婦が元に戻る例は少なかった。恋人たちの側では、旧時代に属する私が、そんな手段に出るものと決めこんで、恋情を一層ぬきさしならなくしただろうことも想像できる。その敵視は、私にとって手痛くもあり、情けなくもあった。私は、青春時代の最初の自己形成期に、大正の自由思想をふんだんに呼吸して、明治人からすれば骨抜きになった人間である代りに、善を善とし、悪を悪と決めることのできない懐疑思想をその身につけて、それはそれなりに良心だとおもいこんでいる人間の一人のつもりであった。(中略)合法的なことを毛嫌いして、むしろ、準縄にしたがわない精神をいさぎよしとする文人気質のようなものがのこっていた。従って、負けおしみや、虚栄心や、気まぐれや、癖や、道理で片づけられないものをたくさん大切にかかえこんで生きていた。しかし人の推量の裏をいったり、天の邪鬼に出たりすることには、むかしから快感をもっていた。彼女の恋愛についても、素直な嫉妬心などは恥かしいことのように、じぶんのうちに閉じこめて、起訴などは論外で、そのことで私がうかれてでもいるように、はしゃじ廻って、まだしらぬ人にまでふれてあるいた。(中略)事実、この恋愛事件では、五割方彼女の格があがった。他人が大切にしてくれることで、たしかに女の価値はあがる。いったいにねうちというものは、それだけのものらしい。ねぶみする人が信用ある人間ならば、猶更のことだ。また、彼女が、あいての男をほめあげることで、残念ながらあいてが輝くばかりの存在とおもわれ、それといっしょに彼女のこころもからだも、私の手のとどかないところにあがってゆくようにおもわれるのであった。」(『どくろ杯』)(続)
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by monsieurk | 2016-01-14 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
 金子は、「その人に一度会ってみようかな」と言い出し、二人は引き返した。
 三千代が家に入って二階に上がり、金子について帰ることを土方に伝えた。すると土方は階下に住む家主の畳屋に部屋を引き払うことを告げ、すぐに本をまとめた。三千代は二人きりで話をしたかったが、成り行きを心配した草野心平が顔をだしたためにそれも適わなかった。彼女は身の回りのものを集めて小さな風呂包みをつくった。この間、金子は下の三畳の敷居に座って待っていた。
 やがて草野心平を先頭に、三千代、土方が階段を降りてきた。金子はあらためて自己紹介したが、土方は答える必要はないといった不愛想な態度でそっぽを向いた。髪を前に垂らし、顔色は悪いが二重瞼で、ややしもぶくれの顔立ちだった。照れ隠しに、大学の様子などを尋ねる金子にもむっつりと黙り込んでいた。
 気まずい空気に、「そろそろ出かけようか」とまず金子が立ち上がり、それを潮に草野と土方が先に立って池袋の方へ砂利道を歩き出した。腕にオーバーをかけた土方は、一度も金子と三千代の方を振り返らなかった。金子と一緒に帰ると告げても、土方はひき止めようとはしなかった。それは人を強制しないという彼の主義なのは分かっていていたが、三千代には不満であり、もどかしくもあった。彼女は駅に着く前に、土方に近づくと、「定ちゃん、明後日の一時、東京駅の二等待合室よ」とささやいた。この言葉が聞こえたらしく、草野が抗議するように三千代の顔を見たが、何も言わなかった。土方は「うん」と少し傲慢そうにうなずいた。四人は同じ電車に乗り新宿で別れた。
 金子と三千代は、富久町の金子の実家に向かった。金子だけが預けていた息子を受けとって連れて来た。乾は三月ぶりの母親の顔をみると、昨日別れたようにすり寄って来て、三千代の手につかまった。やっと母親にありついたといった感じだった。つないだ手からは、以前と変わらぬ温かいものが流れてきた。息子の両手を父と母がつないで歩く姿は、よそ眼には幸福な一家と見えるかもしれなかった。三人は新宿で暗くなるまで遊び、京王線に笹塚まで乗って、暗い夜道を元の借家に帰った。
玄関の三和土には留守中に上げ込まれた新聞がそのまま山積みになっていた。子どもを寝かせると二人は向かい合った。
 「二人きりに向きあうと、私は、定一のことについて金子が開き直ってなにか問いただすのではないかと身構えた。ことを表立てれば、金子にだけ有利で、法律までが加担している。私の方にも理屈は、いくらでもあった。金子と一緒の四年間の生活は、世間並の生活とはいえなかった。詩人としては少しは知られていた金子も、生活の上では無能力だった。そんな苦情も事態がこうなっては、誰も味方してとりあげてくれるものはなさそうだった。金子は、それを承知していてあわれんでいるのか、憎んでいるのか、故意のように、そのことに触れて来ない。異常な時間が、平凡にすぎていった。金子は、やがて立上って、茶の間の次の八畳の床の間においてあった旅行鞄をさげて戻って来た。
「おみやげがあるんだよ」
 三ヶ月ぶりで飄々と上海からかえってきた時、金子が、がらあきの我が家の茶の間にその旅行鞄をおいて、おちつかないままに、家じゅう、うろうろしたり、立ちどまったりしている姿が目に見えて心がしんとした。(金子など、この世にいることすら忘れていたのに)
 彼は鞄の金具を二つばさりばさり、とひらいて、雑誌やよごれたワイシャツや、石鹸箱をひっくり返し、底から、黄色っぽいシナ服を一着とり出した。杭州緞子で、光のかげんで虹のように、桃色にも、みどり色にも映えた。落葉が重なりあったような全体の地紋が美しかった。私はすぐに着てみると言って、帯をほどきにかかった。はるばるもってかえって来た土産を、こんな状態で渡さなければならない彼の張合いなさをおもいやると、せめて、いそいそと身につけてみせたかった。断髪にシナ服姿で立っている私を見上げて金子は、例のまぶしいような微笑を浮かべて言った。
「似合うよ。それを着てランデェ・ブに行くといいよ。・・・五馬路の古着市で買ったんだよ。安いもんだよ。ただの六弗だ」(中略)
「定ちゃんのこと? 駄目よ。あの人は、派手なことや目立つことが嫌いだから、こんなもの着ていったら、いっしょに歩かないにきまってるわ」
 金子はじぶんの方で言い出しておきながら、私が定一の名を口にすると、面白くなさそうに顔をそむけたが、やがて気づかわしげに、
「このうちへは連れて来たのかね」
と、たずねかけた。不用意に、私は、危うく連れてきたと言おうとして、「まさか」と否定した。」(「青春の放浪」)
 三千代は翌々日、中国服に身を包んで、約束したとおり東京駅の待合室で土方と会った。そして終電車で笹塚に帰ってくる、真夜中の駅に金子が立って待っていた。家に子どもを一人寝かせてきているので、いらいらした様子で、電車の線路に幾度か耳をつけて近づく電車の音を聞いたと、はにかんだような調子で話した。三千代はそんな話を聞くと、さすがにすまないという気持になったが、土方に一日会わないと心が渇いた。それで二日に一度は出かけて行って、なるべく金子とは出会わないように、これまでとは違う街をさまよい歩いた。暗い堀端の立ち木を陰で抱き合っていると、警官が近寄って来て、二人が逃げ出すと、警官はどこまでも追いかけてきた。
 そんなこともあって、三千代も土方たちの仲間と同じように、自由思想では、夫婦関係は屈辱的な桎梏で、女のスキャンダルを罰する法律は平等の敵だと思うようになった。土方に言わせれば、二人の恋愛を守ることがすでに権力への戦いだった。彼は三千代との逢引のために、大切にしている原書を一冊ずつ手放した。
 金子は相変わらず金策に歩きまわらねばならなかったが、交通費を考えて朴歯の下駄を履いて友人、知人の家を訪ね歩いた。歩き癖で下駄の歯が斜めに擦り減ってしまい、尾崎喜八の家で鋸を借りて、それを平らにしようとした。だが尾崎夫人が出してくれた鋸が切れない代物で、二時間かけても片方の下駄の歯を二枚切るのがやっとだった。そうした毎日のために帰宅はいつも深夜近くになった。
 借金がまたまた嵩み、挙句のはては笹塚の家をそっと出て行くしかなかった。わずかな道具類を処分すると、三人はピクニックに行くような格好で家を出た。だが次に住む場所の目当てはまったくなかった。歩いていると、幸い早稲田鶴巻町の横町の道で貸間札を見つけ、交渉すると借りられることになった。
 そこは鰻屋の二階の八畳一間で、部屋は鰻屋の看板の裏側が見える往来の方に傾斜しており、歩き疲れた乾が横になると、ひとりでに窓の方へころがっていった。間代は九円ということだった。親子三人はそのままこの八畳に住みついた。大家の鰻屋は中国服を着ていた三千代を見て、中国の留学生の家族と勘違いしたようだった。(続)
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by monsieurk | 2016-01-11 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
 「私は、先方の出かたにおびえて、いっそそのまま引上げてしまおうかとさえおもったが、ものうさだけが私をそこにあえてひき止めていた。こころのゆるみを覗っていたように、彼女一人が家からこぼれ出て、日傘を肩にかついでくるくる廻しながら近付いてきた。彼女と並んで私があるきだすと、「来なければいいのに。待っていてくれれば、もう帰ろうとおもっていたのに。坊やは、大丈夫?」と、私の折角はりつめていた気合をそらすように言った。「坊やはつれてきた。君に会いたがってるんでな。しかし、君はどうする気なんだ。いまの男がいいのか。それとも帰ってくれるのか。俺の気持としてはかえってほしいんだが、そうでなくてもしかたがない」「坊やをつれて来たんじゃかえるよりしかたがないけど、あんたは狡い」」(『どくろ杯』)
 この場面より前、家のなかではどんなやりとりがあったのか。「青春の放浪」では――
 「部屋を出ていく時、隅っこに放り出してある赤い日傘に気がついて、それを小脇にかかえた。狭い廊下を降りたところに、厠があった。半開きになった扉から、いきなり定一の声がとんできた。
「喧嘩しちゃえよ」
「ええ」
 一寸立止まってためらってから、私は、駒下駄に素足を下した。
 いつもの黒縁眼鏡の奥で人なつっこそうな目をしばたたいている心平が、借りもののような分別顔をして、裏口の羽目にもたれながら、刺すように私を見た。
「会う? そのほうがいいよ」
「金子は、どこにいるの」
 私は、その辺を見回した。
「石の橋の袂に待たしてあるんだ」」
 森三千代が土方定一と最初に会ったのは、先に述べたように、彼が金子に会いに草野心平と訪ねてきたときだった。それから顔を合わせる機会はなく、処女詩集を出してから、詩人の集まりに出席するようになり、新宿の紀伊国屋の二階であった会合で、土方と再会した。金子が上海に出かけてしばらく経ったときだった。社会主義思想が日本の若者の心情を揺さぶっていた時代であり、森も真実を追求したいという熱意にかられていた。そんな自分の勉強を助け、何かを教えてくれる者を欲していた。だが金子は一つの主義にかぶれることを極端に嫌っており、意識して彼らの議論からは遠ざかっていた。それが森には不満だった。そんな心境ああるとき土方と再会したのである。土方はクロポトキンなどの本をよく読んでおり、若い労働者とも交流があり、サンディカリズムを信じているようだった。彼女は土方に再会した二日後に、過去と決別するつもりで、丸の内の美容院で髪を切って断髪になった。土方は彼女にとって、新たな思想への導き手と同時に恋人になった。
 「青春の放浪」の文章はこう続く。d0238372_18274862.jpg
 「五月はじめの日盛りは、じとじとと汗ばむほどだった。私は日傘をひらいて、ほこりっぽい道を歩き出した。空地をへだてて三軒、五軒としか家の建っていない、そこは盛り場から遠い場末の郊外の、うらぶれた一画であった。麦畑がひらけたところに小さな石橋があった。待ちくたびれているらしい金子の姿を、私はすぐに見つけた。私は、肩にのせた日傘の柄をくるくるまわし、舞台でも踏むような気組で、わざとのろのろと近づいていった。会えばどうという目算はなにもなかったが、さしあたりせめられるのが怖かった。急に動悸が打ちはじめた。私は、無理に笑顔をつくった。金子も眩しそうな笑顔をうかべ橋のそばをはなれて、二足ばかり前に出た。
「どうしたい」
 彼の口癖の舌のねばったような言いかただった。
 金子は、床屋へ行って来たばかりの、めずらしくさっぱりした頭をして、窮屈な位きっちりしたモーニングに縞ズボンをはき、葬式にでも参列するような恰好をしていた。二人は並んで歩き出した。
「いつ、帰ったの?」
「東京へ着いたのは三日前だ」
「この居どころ、心平さんが知らせに行ったの?」
「いや、いないから方々さがしたんだよ。心平が知っているらしいときいて、今朝起きぬけをおそって、無理に連れて来てもらったんだ。心平さん、大分、迷惑だったらしい」
「みんな知ってるのね?」
 金子は、答えをしぶって、もみ苦茶な顔をしたが、「きいたよ。それで、つまり、幸福なんだね?」と、ふれるのがこわごわなしどろな言いかたをした。
「幸福?」
 考えてもいなかったことなので、私はどぎまぎした。――やはり、幸福なんてことが問題なんだ、金子でも。幸福でないとは言いたくなかったが、つい、
「さあ。幸福でもないわね」
迎合する調子で言ってしまった。
「一度帰らないか。そんなら」
 私の心を金子は濡れた手でさぐった。
「一度?」と私は問い返した。一度という意味がはっきりしなかった。
「坊やも淋しがってるしな」
 彼がひとりごとのようにつぶやくのを、私は聞き咎めて、
「連れて来たのね」
 ほとんど殺気立ってたずねた。
「うん、上海からの帰りに長崎の家へ寄ったから、当然つけてよこしたわけさ」
 金子は、悪いことでもしたかのように気を兼ねた。(中略)
 ・・・子供をつれて来るとははじめからわかっていたが、無理にそれを考えまいと努め、考えなければそれですむようにさえ思ってきた。だが一度考えがそこへゆけば、つけた紐でたぐられて、ばたばたと崩れるように引き寄せられてしまう。子供の肌のやわらかい、しめっぽい触感、つかんではなさない小さな手の手ごたえ、眠りこけた頭のぐらりとなった重たさ、折角忘れていたそれらの感覚が、なつかしさが、一時に堰を切って奔騰して私の記憶にかえって来た。」(「青春の放浪」)(続)
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by monsieurk | 2016-01-08 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
 上海を発った長崎丸は二十時間余りで長崎港に着いた。そこで不吉なことが起こった。
 「「長崎丸」で長崎に着いた朝、船からおりて、桟橋をあるきながら私は、横木につまずいて膝を突いた。瞬間、不吉な予感がして、東京の彼女のうえになにかあるという確信をつかんだようにおもった。それは、想像の力ではなく、叡智の働きでもなくて、動物的な嗅覚のようなものであった。五体がばらならになってゆくような気持で私は、子供をつれ、長崎から東京へ鈍行の汽車ではるばる揺られていた。」(『どくろ杯』)
 息子の乾の手をひいて笹塚の家に着いてみると三千代の姿はなく、玄関の三和土に配達された新聞がたまっていた。親戚の家に泊まりに行っていることも考えたが、それならば書置きがあるはずで、彼女が家を出たことはほぼ確実だった。そのときの思いを金子は次のように述べている。
 「ろくに金ものこさないで、女一人を一ケ月あまり〔実際は三カ月近く〕放っておいた落度が私にあったし、その上、彼女とのあいだに、互いに恋人ができたら、未練らしく二人の生活を追うことはよそうという二人のあいだのとりきめがあったので、彼女に新しい恋人ができたとすれば、私が引きさがるより他はないわけだった。しかし、仮定と実際とでは、情況がまったくちがっていた。母親に会えるというので、いさんでついてきた子供がそばにいる。この幼いものに母親を会わせなければ、顔向けができない。それから、雲をつかむような、あいての男への羨望と憤りが吐逆のようにこみあげてきた。」(同)
 金子は翌日の朝、乾を新宿大久保に実母と住む妹にあずけて心当たりを探すことにした。三千代の行き先はそれほど努力しなくてもすぐわかった。草野心平(写真)と親しいアナーキストの青年、d0238372_17153832.jpg土方定一と一緒だということだった。岐阜出身の土方は東京帝国大学で美学を専攻する学生で、金子より九歳、森より三歳八カ月年下だった。水戸高等学校時代から詩を書き、前年大正15年(1926年)、草野心平に連れられて中野にあった金子の家に一度来たことがあった。そうした関係から、金子は草野に先導を頼んで、二人が暮らしているという池袋近くの長崎村を訪ねて行った。
 これについてはブログ「詩集『鮫』その他」(2015.11.14)で書いたことがあり、そのときは「金子光晴の周辺 11」での森の証言を引用したが、森は昭和26年(1951年)1月、雑誌「新潮」十月号に発表した小説「青春の放浪」(のちに著作集『森三千代 鈔』(濤書房、1977年)に収録)で、このときの様子を赤裸々に書いている。作品はほとんどが事実に基づくもので、出来事と当事者三人の心情が実名で克明に描かれている。小説の冒頭――

 「こんなにたあいなくさがしあてられようとは思ってもみなかった。
 「定ちゃーん」
 二階の窓下の往来から定一を呼ぶ声がして、その声が原っぱの空地の方へまわって、もう一度
 「おーい」と、呼んだ。特徴のあるあの太い低音(バス)をきくと、私はふたりの恋愛はこれで息の音がとまったと思った。私は顔をしかめて、蒲団のなかで、からだをもがいた。
 「あんた。ここをおしえたのね。心平さんに」
 「しかたがなかったのさ。そんなこといったって」
ふんとした顔つきで、定一は天井を見た。
 彼がぱっと勢いをつけてはね起きたあと、私はひとりでくらくらとなった。腹這いになり、はだかの腕を出して、夏みかんの袋や紙袋がちらばって枕許の、定一のバットの箱から一本ぬいて吸った。窓の障子にまわった陽が、枕のそばまで、かんかんにあたっていた。私は、右腕をあげて、二の腕の内側をのぞいてみた。鮑のはらわたのような色の痣が新しくついていた。私は口をもっていってそれをしゃぶった。今朝がたのけんかの名残だ。」
 喧嘩の原因は、前夜の夕食に食べた鰊の蒲焼だった。みかけは美味しそうだったが、食べる口のなかでかさばって喉を通らなかった。三千代がほとんどを食べずに残すと、土方はいやな顔をした。その後彼は、三千代の書いている詩をきたないといってけなしはじめた。彼は三千代の周りの周囲の人たちが書く詩を認めようとせず、彼女の詩もきたないというのである。
 「彼の仲間は、アナーキストだった。彼の言ったことが胸につかえて私は、一つの寝床にねてからも、いつものように彼のからだになじんでゆけなかった。
 始発電車のとどろきが、地を這って遠くからきこえてくると、それまで息もしないように寝ていた定一が、すっくと起きあがり、すばやくシャツをつけ、ズボンをはいた。先手を打たれて、しまったとおもいながら私は、彼が詰襟の学生服の上着に腕を通し、金釦をゆっくりはめるのを、薄目をあけてながめていた。彼が襖に手をかけると、それ以上おちついているわけにもゆかなかった。私はとび起きるなり、彼のからだに取りすがって、彼がはめた釦を一つ一つはずし、はいたズボンをたぐりおろして脱がせた。心平の呼声に降りて行った定一はが、五分もたたないうちにもどって来た。
 「金子氏が上海から帰って来たんだってさ。いま、心平が連れてきているんだ、君、会うつもり?」
 「金子がここへ来たの?」
 私は、寝床の上にぱっととび起きた。心平の声を聞いた時、不安な予感が身内を走ったが、心平が連れて金子自身ここへのりこんで来ることには、さすがに考え及ばなかった。いまにも階段をぎしぎし鳴らせて金子があがって来そうで、おちつこうと思ってもそれは無駄だった。
 「会うわ」」(「青春の放浪」)
 この文章には時間的に錯綜した点があって、喧嘩から尾引く気まずい思いは夜明けまでつづき、始発電車が走りはじめたころ、土方は起きて身支度をはじめた。それを森が床に呼び戻し、身体で和解をとげたあと、陽が枕辺まで差し込む時刻までうとうとしていると、草野心平の声が外から聞こえたのである。ではこれを金子の方から見るとどうなるのか。
 「池袋から低地をくだってゆくそのあたりは、長崎村といって、その土地は十年くらい前までは、みわたすかぎり稲穂の波であった。震災後から建ちはじめたらしい、スレート屋根の工場現場のような殺風景な家並がつづいて、しろっぽけたバラックの前を、水の涸れたどぶ河がひびわれをつくっていた。草野は私と彼の親友とのあいだに立ってよほど困ったらしい。親疎は問題にならないくらい、青年の方に厚い筈なのに、私のほうも拒りきれないというところに彼の好人物さがあった。彼らの起居している二階家のみえるところまで来ると、「ちょっと、待っていて」と言いすてて走っていったが、彼が相手から背信を攻められているのか、彼がなだめ説得しているのかわからないが、しばらくの間暇取っていた。私は溝河のふちを行ったり来たりしていたが、私の人生にとってのそれは、ふしぎな空間であった。私は、じぶんがなんのために、そんなところにいるのかわからなかった。カーンと耳が鳴っているような遠距離で、あたりは人の気配もせず、死絶えたような森閑さであった。」(『どくろ杯』)(続)
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by monsieurk | 2016-01-05 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)