フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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パリの日本レストラン

 いまパリには日本食のレストランはどのくらいあるのか。一説では1000軒を超えるという。パリ1区のサン=タンヌ通りの両側には和食、ウドン、ラーメン屋などが軒を連ね、昼どきともなると、ラーメン屋の前に行列ができて、そのなかには多くのフランス人も多く混じっている。言わずと知れた日本色ブームだが、なかには外国人がスシを握ったり、ラーメンを茹でたりしている店も多いと聞く。d0238372_934074.jpg
 最初にパリに住んだ1970年代初頭、この界隈にはすでに数軒の日本レストランができていた。サン=タンヌ通りがオペラ大通りと交わる角に東京銀行の支店があり、パリ在住の日本人の多くが口座を開いて、故国との金銭の送金をしていた。戦前の横浜正金銀行の流れをくみ、海外貿易の決済や外国為替業務に慣れた東京銀行がもっとも便利だったのである。そのためこの界隈を大勢の日本人が往来し、それにつれて日本食を供する店が出来ていった。本格的な店としては1958年に開店した「たから」や、その後にできた「伊勢」などがあった。
 第一次大戦後の1919年、パリで開かれた講和会議に、日本は西園寺公望全権以下総勢100名を超える代表団を送り、バンドーム広場に面したホテル・ブリストルを借り切って仕事に当たったが、このなかには料理人もいて、近くのレストランの厨房を借りて、そこで代表団のために日本料理をつくった。明治以来、パリには多くの日本人が滞在したから、日本料理の需要も大きかったはずだが、本格的な料理店と呼べるものはなく、中華料理を食べるか、自炊して日本食まがいのものを食べて渇望をしのいだ。
 金子光晴の『ねむれ巴里』は、1930年(昭和5年)1月から翌31年2月にブリュッセルへ移るまでの記録で、当時の貧乏な日本人滞在者の生活を知るうえでも興味はつきない。金子は、『詩人 金子光晴自伝』でパリ時代を振り返って、「無一物の日本人がパリでできるかぎりのことは、なんでもやってみた。しないことは、男娼ぐらいのものだ。博士論文の下書きから、額ぶち造り、旅客の荷箱つくり、トーシャ版刷りの秘密出版、借金のことわりのうけ負い、日本人名簿録の手つだい、画家の提燈持ち記事、行商、計画だけで遂に実現にいたらなかったのは、日本式の一膳めし、丼屋、入選画家のアルバム等々だった。夏は、トロウビルまで出かけていって、海水浴客あいての日傘を並べて、客のみている眼の前で、秋草や、日本娘の絵を画いて売ろうという計画を立てて、わざわざノルマンディー海岸まで出掛けていったが道路上の商売許可がなかなかむずかしいので、すごすご帰ってきてしまった。」と書いている。このなかの「日本式の一膳めし」の計画というのは、画家の辻元廣が持ちこんだ話が発端だった。
 辻はフランスへ来る前に、半年ほど京都で本筋の板前の修業を積んできたといい、森三千代と再会してパリ13区のポール・オルレアンの貸しアパルトマンに住んでいた金子の許へ、本格的なちらし寿司をつくって持ってきてくれた。材料はヨーロッパにはない紅生姜、そぼろ、高野豆腐、干瓢などで、大抵の品はマドレーヌある日本食品の店にあるが、手に入らないものはマルセィユか、ベルギーのアントワープの船舶賄いの業者に頼みこんで、日本船の厨夫長から調達したものだという。辻は、「牡丹屋など、あんな料理とも言えん料理で法外な金をとって、あれでは、日本料理もわややで。ふらんす人はもともと、日本料理のほんまの味知らせたら、すぐ病みつきになるにきまってる。牡丹屋のとかしけない料理食うたら、二度と食いたいとは言わんわ。うちのアメリカの婆さん。わしのつくってやる料理の味おぼえて、わしがいなくなったら、食えんようになる言うて、出てゆきはせんかとはらはらしていよる。」と言った。彼は絵では食えないので、アメリカ人の老婦人の家に住み込んで、料理を作ったり雑用をしたりして生活していたのである。
 辻の話にでてくる「牡丹屋」はこの当時あった日本料理の店で、金子によればこの牡丹屋よりも古く、ロンドンに「生稲」という店があったという。森三千代を交えて、辻のちらし寿司を堪能したあとで、金子の思いつきで、丼物をつくって日本人相手に売り出したら儲かるのではという話になった。辻が板前、金子が営業、三千代が接客係り。親子丼ややたまご丼、天丼、鰻丼を次々に開拓して、在留日本人に売り出す。これより前に金子は、在留パリ日本人人名録をつくるという松尾邦之助の手伝いをしたことがあって、三百人余りの画家や留学生その他の所在が分かっていた。しかも彼らの多くは西洋の食事になじめずに、白飯を炊いて生卵をかけたり、牛肉を固形の調味料と砂糖で煮て、すき焼の代わりにしたり、パンの食べ残しに白ブドー酒を入れて、ぬか漬けの漬物を作ったりしていた。金子と辻はこの話を知り合いの画家たちに話すと、画家のなかには回数券をつくって、二か月分なり三か月分を前払いするから、それを資金にぜひ実現してほしいという連中がでてきた。だが店を借り、器物をそろえたり、材料の仕入れ先を確保するとなると先立つものは金で、結局この夢は実現せずにしぼんでしまった。
 私たちが最初に暮らした70年代はじめの日本食事情は、金子たちの時代とさほど違っていなかった。日本食の材料を扱う店は4、5軒に増えたが、豆腐は日本から粉を送らせて、それを練って固めて自前で作らなければならなかったし、魚の干物をつくるのに、自分で魚をひらいてベランダに干しておくと大きな蜂が飛んできて、肉を食い齧ったりした。フランスでは牛肉を薄く切る習慣がなく、すき焼きをするために、日本から薄切り用の機械を取り寄せて、凍らせた肉を自分でスライスしなければならなかった。
 オペラ大通りの、オペラ座とは反対側のパレ・ロワヤル広場のそばに、「大阪屋」というラーメン専門店が店開きしたものこの頃である。パレ・ロワヤルにある三ツ星レストランス「グラン・ヴェフール」のオーナーショフ、レーモン・オリヴェ夫人の角田鞠さんが子ども連れてよく来ていた。オリヴェは著名な料理人であるとともに、食に関する世界的資料のコレクターだった。粘度板に楔形文字で書かれた穀物の送り状や稀覯本など貴重な資料があって、それを取材させてもらったことから夫妻と知り合いになった。角田さんに「大阪」で顔を合わせた折に、「ご主人は家では料理はしないのか」と聞くと、「毎食フランス料理では飽きてしまう」といってラーメンを美味しそうに食べていた。
 キャトル・セプタンンブル(9月4日)通りから少し入った細い道にあった「さくら」では、女優のカトリーヌ・ドヌーヴの姿をときどき見かけた。「さくら」では奥さんが和服姿で給仕していたが、彼女に話では、ドヌーヴは毎週のように訪れるほど和食好きとのことだった。これらは今から40数年前のことである。和食が世界文化遺産に登録されて2年がすぎ、フランスでの和食ブームはますます高まる気配である。
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by monsieurk | 2016-02-28 22:30 | フランス(生活) | Trackback | Comments(0)

孔子は神の子か

 最近ある席で、儒教ははたして宗教かという話になった。人間の思想を大きく分ければ、人間の存在の外側に、人間の意志や行為には左右されない超越的存在(神、アッラー、仏)を認めるか、それとも人間存在やそれがつくる社会を動かすものは人間の言動であるとするか、二つの考え方がある。前者は超越的存在を信じることから「宗教」と呼ばれ、後者は「経世」思想と呼ばれる。ユダヤ教、キリスト教(イエスが唱えた新約の世界)、イスラム教、仏教(仏は人間を越えた信仰の対象です)などはまさしく宗教であろう。
 これに対して、孔子が説く儒学(あるいは儒教)は、優れた人間の存在を認め、それを理想として努力することを奨励するが、目指されるのはあくまでも人間であって、人間を越えた超越者を想定してはいない。その意味では、儒学(教)は宗教ではなく人間の規範を説いたものだ。
 直接教えを受ける機会はなかったが、京都大学教授だった吉川幸次郎は、その著書『論語』(「朝日文庫」全3巻、あるいは『吉川幸次郎全集』第4巻、5巻、筑摩書房」)で「論語」を論述したが、冒頭の「まえがき」にこう書かれている。少し長くなるが、引用してみよう。
「「論語」は・・・孔子およびその弟子たちの言行録である。最も多く記録されているのが、孔子自身の言行である。・・・中国の歴史を通じ、「論語」ほどひろく人人によって読まれた書物は、他にない。そのさいしょのきっかけは、前二世紀、漢の武帝の政府が、儒学を国教とし、孔子が人間の規範としてえらび定めておいたという「五経」、すなわち、「易」、「書」、「詩」、「礼」、「春秋」の五古典を、人間必読の書として指定すると共に、「論語」をも、その附随としたことにある。しかし附随として指定された「論語」は、そのころすでに「五経」よりもよく読まれたようである。且つ知識人の読書であるばかりでなく、やがては一般の市民農民の教科書ともなった。(以下略)」
つまり『論語』および古典「五経」は、個々の人間やそれらの人間がつくる社会が、つつがなく、かつ楽しいものであるためには、私たち各人が則るべき行動規範を教えるものであり、その意味では人間主体の考え方で、超越的な存在による「救済」という考え(期待)は含まれていないと言える。「宗教」を超越的な存在への信仰と考えるなら、「論語」を中心的「教科書」とする「儒学(教)」は宗教ではない。
 もう一つ吉川幸次郎教授の「孔子も神の子であるという説」(『吉川幸次郎全集』、第5巻」を紹介する。
 孔子の『論語』は、新約の『四福音書』とともに、「人類の教師」の言行の記録である点では同じだが、『論語』には『聖書』に見えるような神秘の影は、その欠片すらないと、吉川教授はいう。
「「子(孔子)は怪と力と神を語りたまわざりき」という教師の態度は、「論語」の編集者である弟子たちが、教師の言行録を整理した際にも、厳重に保持されている」というわけです。そして「そのことが、後来の中国文明とキリスト教文明の決定的な差違を、基礎づけたといってよい。・・・西洋人は今でも、キリスト教という、神の存在を肯定する迷信に、執着する未開人であると、そうした心理が、あるいははっきり口に基地にされ、あるいはされずして、ある。・・・孔子の伝記、多少の神秘をまとわないではない。少なくとも孔子の死、あるいは死を予知した孔子については、それがある。」として、吉川教授は、以下に、孔子の死にまつわる説話あるいは誕生をめぐる説話を、『礼記』、『春秋公羊伝』、『経書』などをひもといて探っていく。
 そして、結論として、「「人類の教師」を神の子であるとする思想が、中国に全くないではなかったのであり、ある時期にはあったのである。それが早く消滅したところに、孔子とともに、また孔子の指導にしたがって、「怪力乱神」を好まない中国文明の方向があったのであろう。また現在の中国の人人も、西洋文明を、神を信じる文明として嫌悪し、侮蔑するゆえんが、あるのであろう。あるいはまた孔子を神の子としていた時代に会っても、政治の主催者の序列に、孔子を加えることを、その節の一つの動機としたこと、そこにもまたその文明の性質の反映があるであろう。」と述べている。
 イエスが神に選ばれて、神の意志・意図を人類に伝える役をはたしたというキリスト教の考えとは異なって、孔子は人間の中から出現した自分たちの「教師」であると、中国の人たちは考えているというわけである。
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by monsieurk | 2016-02-25 22:30 | | Trackback | Comments(0)

小野十三郎の「詩論」

 金時鐘が大阪の老舗の古本店「天牛」で小野十三郎の『詩論』(眞善美社、1947年)を買い、一読して霹靂のような衝撃をうけたことは、金時鐘が繰り返し語っている。
 小野十三郎(おの・とうさぶろう、本名は藤三郎)は、1903 年(明治36年)に大阪市南区に生まれ、天王寺中学校を卒業すると、1921年に上京して東洋大学に入学した。しかしわずか8ヵ月で中退し、親からの仕送りを受けながら詩作を続けた。小野の家は大阪の豊かな商家だった。
 詩作を続けるうちに知り合った、萩原恭次郎、壺井繁治、岡本潤たちがつくっていた詩誌「赤と黒」を見て刺激を受け、彼らの思想的影響もあってアナキズムの詩をつくるようになり、1926年には、岡本潤や秋山清たちと協力して雑誌「弾道」を創刊した。
 そのあと1933年には大阪に戻り、1939年、大阪の重工業地帯に取材した詩集『大阪』を発表し、これによって独自の詩風を確立したとされる。その一方、戦争が激しくなるなかで、吉本興業の文芸部に所属して漫才の台本を執筆した。同じ文芸部には秋田実などがおり、大衆の娯楽を積極的につくりだすことに力をそそいだが、同時に戦争中の思想的な締めつけを逃れるカモフラージュの意味もあった。
 戦後になって、『詩論』としてまとめられた詩をめぐる断章は、戦時中「文化組織」に連載されたもので、この雑誌は1940年に結成された「文化再出発の会」から刊行されていたものである。会の名称の通り、戦時下にあって日本の文化を再生させるという目標を掲げた体制翼賛的な組織であったが、そこに小野十三郎は、伝統的な和歌が詠う抒情を拒否する論を発表したのだった。小野がこのような批判を展開した背景には、斎藤茂吉たち歌人たちが、戦争に協力的な活動をしていたことに対する反撥があった。『詩論』には長短234の断章が収められているが、小野によれば、これは雑誌に発表された当時そのままのだという。本の「あとがき」には、「一本とするにあたってわざと元の無整理無秩序の姿のまゝで放り出すことにした。一體系をめがけることは私の目的とするところではない。短歌的抒情に対する詩人としての抵抗をぶちまけたまでだ。より科学的な批判の仕事をよぶ誘いの水である。」と記されている。
 いまでは稀覯本の類になっている『詩論』にはどんな批判が展開されているのか。自らの文化的基盤とは異なる日本の抒情詩で感性を育んだ金時鐘が衝撃を受け、その後の詩作の方向を定めたとする部分はどのようなものだろうか。
 例えば、断章15にはこうある。
 「現代詩に具わる新しい日本的性格とは、一口に言えば「批評」である。時代と自己との間隙を塞ぐ意欲的な批判精神を私は挙げたい。日本古来の詩歌の伝統に、そういう精神が全然無かったわけではないが、それは「自然」の智慧によって中和されていたために、かゝる隙間に、際立った矛盾や対立はみられなかった。そういうものをあまり露骨に表現することは詩歌の精神に反するとされたのである。「自然」の智慧が後退するとき、環境と自己との対峙は必然的に先鋭化する。詩に於ける自然の位置は次第に不安定となり、反対に現実社会の圧力は益々兄弟となって、智慧はその素朴なかたちで自然の中に静止していることが出来なくなる。「批評」は荒々しく詩の表面に躍り出て、その内容の非等質性と非親和性は古来の詩形式を拒否し、むしろ生理的な嫌悪感をもって、古い声調や韻律に立ち向かう。かゝる粗剛なる批評精神の発動を感じ得ない者には、抒情の変革ということは何の意味もないだろう。」
 では小野が唱える「批評精神」とはどのようなものか。断章16にはこうある。
 「・・・リアリズムは未だに「現実の再現」以上に考えられていない傾向があるが、言うまでもなくその本来の精神は現実の否定である。現実を否定することによってそれをより強く生かす思想である。かくの如きものが、今日の人民の詩に結びつくことは当然だと言わなければならない。そしてそれが他の散文芸術の場合に較べて、はるかに圧縮され、煮つめられたかたちで発現されることは詩の特徴である。批評が詩の純粋性の内部機構の最も枢要な部分を占めるとき、抒情の波長は自ずから更まる。これを正確にキャッチすることが詩作をするということだ。(後略)」
 そして断章199。「詩精神をめぐる操作としては、私の場合依然として「歌」の追放がすべてである。社会情勢の急激な転換によって、そのどさくさまぎれに容易に昔の地位を回復した「歌」などに未練はない。民衆の名によっていても、そういう歌はニセモノである。」
 こうして読んでくると、小野十三郎が強く否定するのは、一つは現実に目をこらさず、感傷に堕する精神であり、もう一つは和歌に象徴される、日本人の身に染みついたリズム感であることがわかる。後者については、フランスの抵抗詩人ルイ・アラゴンを例にして考察がなされる。それが断章217である。
 「ナチの支配下にあったフランスで最後まで抵抗運動の組織者として活動したルイ・アラゴンがそれによってフランス民衆の対敵意欲を燃え立たしめたと言われる詩の大部分が所謂ソネ(Sonnet)だとかバラード(Ballad)というような古い形式でもって書かれたことは私には興味がある。(中略)アラゴンがこういう形式にならって書いたことは一つの方便――おそらくフランスが当時おかれていた時代の混乱した雰囲気にもっともよくマッチする謂われがあっつたのだろう。しかし、彼がほんとうに詩人ならば、ソネやバラードというような形式に固有な韻律や音楽性に対してなんらかの抵抗があった筈だと思う。例えばかつてランボウが言ったように「新しい音楽を!」というような痛切な欲求が。彼の歌が勿論在来のバラードそのまゝの形式を踏襲しているものとは思わぬ。ただかつてシュールレアリストだった彼がそう容易に詩の歌謡などにたよれたと私は考えることが出来ないのである。詩に於ける音楽がそんなに甘いものであるかどうか。こゝに東西軌を一にして、リズムというものを「音楽」としてしか把握出来ない詩人の悲劇があるように思う。私たち生きる力としての詩の本来の在り方は、単に民衆を喜ばせ民衆に愛されるということに尽きるものではない。少なくともわが国の短歌や俳句の。三十一音字形式や十七音字形式に固有な韻律に対する私の嫌悪感から推してそう断定してよいのである。アラゴンはやはり二流の詩人だという気がする。私はかくありたいと願う民衆の中の民衆の詩人ではない。古い抒情に対する憎悪の表明が足りないのだ。」
 アラゴンの『断腸詩集(Le Crève-Cœur)』は、1939年から40年にかけて書かれた詩篇を集めたものである。この時期、フランスの支配層はナチス・ドイツの銃口をソビエトに向けさせようと腐心し、一方国内では左翼勢力とくに共産党を弾圧した。こうしたなかで国民は真の敵がどこかと戸惑い、祖国防衛の戦意もあがらぬままに戦争がはじまった。そして戦線が膠着する「奇妙な戦争」を経て、1940年6月パリが陥落。フランスは抵抗運動に入っていく。この間アラゴンはこれらの作品を誰のためでもなく、ただ自分のために書いたと語っているが、『断腸詩集』が地下出版されると、人びとに熱狂的に迎えられた。その理由の一つは、詩の多くがソネやバラードの形式でうたわれていたためである。アラゴンは自らの思いを広く共有してもらうために、あえて一般のフランス人に馴染みやすい音律を用いたのである。したがって、これをもってアラゴンを「二流詩人」と決めつけられるかどうか。むしろ糾弾されるべきは、日本の詩(和歌、俳句はもちろん)の多くが抒情詩で、アラゴンのような現実を直視した叙事詩が圧倒的に少ない事実ではないか。少なくとも、金時鐘が『詩論』から感得したのはこのことであった。その答えとして、生まれたのが『猪飼野詩集』であり、長編叙事詩「新潟」であった。また一方で、小野の批判に呼応する形で、塚本邦雄たちの前衛短歌の運動が推進されたといわれている。
 小野は1954年に大阪文学学校を創設し、詩、小説、児童文学などの講座を開いて多くの後進を育てた。1979年には『小野十三郎全詩集』が刊行されている。小野十三郎の仕事はもっと評価されていい。
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by monsieurk | 2016-02-22 22:30 | | Trackback | Comments(0)

金時鐘(Ⅱ)

 金時鐘の詩選集『境界の詩』(藤原書店、2005年)は、彼の初期の詩集『猪飼野詩集』と『光州詩片』を再録してもので、両詩集ともいまや入手困難なだけに貴重である。加えてこの詩選集には、金時鐘と鶴見俊輔の対談「戦後文学と在日文学」と詩人の辻井喬による「鏡としての金時鐘」が収録されている。d0238372_18195174.jpg
 鶴見俊輔は対談のなかでこう語っている。
「辻井喬の文章で「鏡としての金時鐘」(『現代詩手帳』2003年6月号)、これにとても感心したんですね。金時鐘の作品は、日本の一人の詩人が全力を挙げて論を展開した例がないというんです。金時鐘の作品は我が国の近代、現代とその中に自足している詩の世界を告発していることは明らかだから、これにとり組んだ一冊の本がないということは日本の近代、現代詩そのものの欠落を示している、と、すごいことを言うなと思って、感心したんです。」
 では辻井喬は、「鏡としての金時鐘」でどう書いているか。
 「私はいつも金時鏡についての評論が意外に少ないのを不思議なことに思っていた。おそらくそれは彼の作品が内側に持っている現実への毅然とした拒否の姿勢、自らへの曖昧を許さない厳しさが、我が国の現代詩の風土にとって異質だからだろう。
 しかしこれは変だ。同じように異質なボードレ-ルやランボーやT・S・エリオットの作品については比較できないほどたくさんの訳、解説、分析の書が出版されているのである。
 金時鐘の作品について無言にならざるを得ない何かの、しかし多分根本的な欠落が我が国の現代詩の風土にあるのだとすれば、その風土のなかで理解され享受されている西欧の現代詩は、もしかすると趣味の領域へ脱色され、批判精神も歴史認識をも排除されたものとして受取られているのではないか。
 金時鐘の詩にはそういったことを考えさせるようなものがある。それは、ある人にとっては恐い要素であり、ある人にとっては自らのいい加減さを映し出す鏡であり、別の人にとっては、これこそ本当の現代詩だと励まされ、詩への関心を新たにするような何かであるに違いない。
 金時鐘が生まれた1929年に書かれた中野重治の詩「雨の降る品川駅」を、金時鐘は受取るだろうか、あるいは拒否するがろうか、と考えてみると、日本語で書かれた彼の詩がわが国の詩の読者のなかに置かれた時の困難がはっきりしてくるように私は思う。
 私の勝手な結論を言えば、金はこの中野の詩を理解し、理解したことによって拒否するのではないか。
 私は中野重治の、故国朝鮮へ帰ってゆく仲間に向けたこの詩を読んだ時、感情を素直に表現した、美しい、しかし哀しい詩だと思った。そして私はこの哀しさを拒否するところから現代詩は出発しなければならないのだと思った。これは私の学生時代の経験である。
 しかしそれはただ意志的に拒否しようとすれば可能なことだろうか。
 小野十三郎はこの問題に即して短歌的抒情の否定ということを言い、その主張は現代詩、特に関西に在住の多くの人々の、詩についての考え方に影響を与えたが、それがどうのようにしたら可能かについての、方法論的展開は行わなかった。
 彼の作品の集大成である『原野の詩』を読むと、金時鐘の作品にはこの問題についての見事な回答が示されていると思う。
 この点について、先年物故した秀れた評論家高野斗志美は彼の「金時鐘論『原野の詩』との対話」のなかで、
 「金時鐘の詩には、いつも、決意がある。それは、ぬきさしならぬ場に足をふむ者の決意である。語のコンビネーションが形をあらわすのはそこにおいてだ」
と言い、続けて、
 「日本語によって書かれている現代詩に、生きることの意志を問う情熱はほとんど断たれている、そう言っていい」
と断言し、
「(生きようとする意志が=註・辻井)発語を求める意志の次元に転換されていくというドラマを期待することはできない」
と言い切っている。(中略)
 たしかに、金時鐘のように、強い内省の叫びを湛えた思想詩を、石牟礼道子の『はにかみの国』(石風社)のような例外をのぞいて現代の詩は創り出せているだろうか。
 主体を安全な場所に避難させておいて(ということは現実社会の矛盾には目をつぶって)、知的操作やレトリックを楽しむ宗匠たちが多過ぎるのではないか。金時鐘が行っている近代、現代に対する、告発とは、そのような具体性を私たちに突付ける、批判の鏡のように私には思われる。」
 それにしても、なぜ辻井喬(実業の世界では西武グループを率いた提清二)が、在日の詩人、金時鐘の詩の本質を見抜いたのか。この点について、鶴見俊輔は、辻井喬自身がさまざまな経験を積みつつも、絶えず孤独で、その結果、「日本の社会の中にある一つの孤独が、日本乎社会にあるもう一つの孤独を認めさせたという感じがする」と述べている。提清二は父康次郎の妾腹の子として生まれ、父に反撥して学生時代に共産党に入党、だがやがて学生運動から離れて衆議院議長になった父親の秘書となった。その後は実業界に転じ、異母弟や父の取り巻きとの葛藤など現実の厳しさ、醜さを身をもって体験した。表現者としての彼は、この体験のなかで人間を観察しつつ感性を磨いた人である。辻井喬は自らの体験と重ねて、在日朝鮮人として孤独のなかで自分の道を歩んでいる金時鐘を見つめ、それを鏡として日本の現代詩の作者たちの覚悟の欠落を指弾するのである。
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by monsieurk | 2016-02-19 22:30 | | Trackback | Comments(0)

金時鐘(Ⅰ)

 2015年度の大仏次郎賞を、金時鐘(キム・シジョン)の『回想記「朝鮮と日本に生きる――済州島から猪飼野へ』(岩波新書、2015)が受賞したというニュースを知って、遅ればせながら読んだ。d0238372_14584034.jpg
 いま86歳の詩人金時鐘は日本統治下の元山市で生まれ、済州島で育った。少年時代は校で日本語を学ばされ、ハングルは話せたが満足には書けなかった。彼は典型的な皇国少年の一人で、天皇のためなら特攻隊員になるつもりだったという。それが1945年の日本の敗戦を機に、自分が朝鮮人であることを自覚させられた。そして彼の運命を大きく変えたのが、1948年4月に起きた、「済州島四・三事件」だった。
 この事件は済州島の住民が朝鮮半島を南北に分断する占領政策に反対して蜂起し、それを軍と警察が弾圧したものでる。蜂起した成人以外にも島民は無差別に殺戮され、犠牲者は3万人余りに上ったといわれる。金時鐘はこのとき20歳、南朝鮮労働党の党員だった。蜂起に加わった彼は辛うじて弾圧を生きのびて、青酸カリを懐に日本へ亡命。同胞が多く集まる大阪・猪飼野にたどりつき、教員になるとともに、大阪の古書店でたまたま手に入れた小野十三郎の『詩論』のなかの「詩は批評だ」という言葉に衝撃を受け、やがて日本語で詩を書くようになった。『回想記』はこうした生涯を綴ったものだが、一つの逸話が強く印象に残った。d0238372_1503111.jpg
 それは金少年が国民学校の4年生のときにあった出来事である。
 「霜枯れたある朝、とうとう宮本校長の愛のしごきに見舞われる羽目に陥りました。突然先生が来て「これはおまえが落としたんだろう?!」と言うのです。見ると縄跳びをした荒縄の切れ端が落ちている。身に覚えのないことだったので、私は臆することなくはっきりと否定したのですが、その否定の仕方が習慣づいている自分の国の、言葉の仕組みでの答えだったです。
 朝鮮語は英語とおなじように「である」か「でない」か、つまり「Yes」か「No」しかないので、そうでないという朝鮮語の丁寧語は「アニムニダ」といいます。直訳すると「でありません」です。違うってことですね。それで昂然と「違います」と答えたんですが、とたんに目も眩むばかりのびんたを横っ面に喰らいまして、朝礼が始まるまで平手打ちは続きました。「お前が落としたんだろう?!」「違います」「そうだろう?!」「違います」・・・・寒い朝のびんたは鼻の先がちぎれるほど痛いもので、鼻血をたらしてこらえました。朝礼の鐘が鳴って問詰は終わりましたが、校長先生は踵を返しながら「いいえと言え」、と一言言って朝礼台の方へ向かわれました。」
 金少年はこうした仕打ちを受けても、宮本校長に恨みをいだくことはなかった。ただこのときから、「いいえ」という日本語が骨身に染みる言葉となった。そして身に刻まれたこの体験から、日本語と朝鮮語の違い、背後にある文化や社会の仕組みの違いを学んだというのである。
 金時鐘は、「たしかに会話のなかでは、「いいえ」という打ち消しは丁寧語の中間的な柔らかさをもっているいい言葉です。相手の言い分をひとまず認めて、柔らかくいなすわけです。(中略)この「いいえ」という言葉は日本人のよく練られた、対人関係をこなしてゆく知恵であるように思います。逆風を立てずにすごそうとする日本人のうまい処世術ですね。もってまわった言い方をしますと、日本人の思考秩序の特性の一つとも言えます。物事の是非を正すよりは平穏である状態を優先させようという、暮らしの知恵です。」と書いている。一方で朝鮮語は是非を優先させる言語であり、それは彼らの思考秩序のあらわれである。
 「植民地は私に日本のやさしい歌としてやってきました。けっして過酷な物理的収奪ではなく、親しみやすい小学唱歌や童謡、抒情歌といわれるなつかしい歌であったり、むさぼり読んだ近代抒情詩の口の端にのぼりやすいリズムとなって、沁み入るように私の中に籠もってきました。これ皆が定型韻律のやさしい歌でありました。統治する側の驕りをもたない歌が、言葉の機能の響き性(音韻性)としてすっかり体に居着いてしまったのです。」ただ、思考回路の異なる二つの言語の間で引き裂かれつつ自己を形成していった詩人は、「なつかしんではならないなつかしさのなかで、私の少年期がかくもほんのり黄ばんでいるのです」とも述べている。人間がよって立つ文化的基盤とは何かを考えさせられる重いエピソードである。
 金時鐘の詩は、『猪飼野詩集』(東京新聞出版局、1957)所収のものをはじめ、どれも素晴らしいが、彼の詩業の全体を見渡すものとしては、『原野の詩 1955-1988 集成詩集』(立風書房、1991)、『境界の詩――金時鐘詩集選』(藤原書店、2005)があり、また金素雲の詩の翻訳である、『朝鮮詩集』(岩波書店、2007)や、『空と風と星 印東柱詩集』(岩波文庫、2012)などがある。
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by monsieurk | 2016-02-16 22:30 | | Trackback | Comments(0)
 大地との絆を感じ、ある人たちへの愛を感じ、心が親近性を見出す場所がどこかにあるのを知ること、ここにはすでに、人のただ一度の生に対する多くの確信がある。ただもちろん、これだけで十分というわけではない。しかし皆があるときには、こうした魂の国に憧れる。「そう、そこだ、われわれが帰りゆく先は」と。プロチノスが切望したのはこの結びつきであり、この地上に、それを見出そうとすることに、なんの不思議があるだろうか? 結合はここでは、太陽と海という言葉であらわされる。それは、苦痛と偉大さを生じさせる肉体のある種の風味として心に感じられる。超人的な幸福などなく、日々が描く曲線のほかに、永遠などないことを、私は学んだ。こうした取るにたりない、だが本質的な幸福、この相対的な真実が、私を唯一感動させるのだ。その他のもの、「理想的なもの」を理解するには、私の魂は十分ではない。獣のようでなければならないわけではないが、私は天使たちの幸福には意味を認めないのだ。私はただ、この空が私より続くのを知っているだけだ。そして私が死んだあとも続くものを除いて、何を永遠と呼べばいいのだろう? 私はここで、それぞれの条件に置かれた被造物の自惚れのことを言っているのではない。それはまったく別のことだ。人間であるのは、いつでも容易なことではない。まして一人の純粋な人間であることはなおさらのことだ。だが純粋であるとは、あの魂の国をふたたび見出すことだ。そこでは世界の類似性が感じられるようになり、血の脈動が、あの午後二時の太陽の激しい波動と重なり合う。祖国とはそれが失われるときに、認識されるのは周知のことだ。自分自身のことに悩まされすぎる人たちにとって、故国とは彼らを否認するものだ。私は残酷であろうとも、誇張して見せようとも思っていない。ただこの生で私を否定するは、なによりもまず、私を殺すものだ。生を昂揚させるすべては、同時にその不条理を増大させる。アルジェの夏では、たった一つのことが苦悩よりもさらに悲劇的なこと、それが決して幸福な人間の生ではないことを私は学んだ。ただしそれは一層偉大な生への道でもあり得る。なぜならそれは、ごまかさないことに通じるからだ。
 事実、多くのものが愛そのものを避けるべく、生きることを愛しているように装う。人びとは楽しもうと、また「経験を積もう」とこころみる。だがそれは精神の見方だ。快楽の追求者であるには、まれな資質が必要だ。一人の人間の生活は精神の助けなしに、彼の後退と前進、同時にその孤独と現存で達成される。ベルクールの男たちは、働き、妻と子を護る。しかも多くの場合、愚痴もいわずにそうするのを目にして、彼はひそかな恥じらいを感じているのではないか、と私は思う。もちろん私は、幻想など抱いていない。私がいま語っている生には、愛など多くはありはしない。だが少なくとも、それは何もごまかさなかった。私には決して理解できない言葉がある。例えば罪という言葉だ。この人たちが生に対して、決して罪を犯さなかったのを、私は知っている。なぜならもし生に罪があるなら、それは生に絶望することではなくて、別の生を希望し、あるいは生の仮借ない大きさを免れようとすることだ。この人たちはごまかさなかった。彼らは生きることへの情熱で、二十歳のとき夏の神々となった。そしてすべての希望を奪われ、いまもそのままだ。私は彼らのうちの二人が死ぬのを見た。彼らは恐怖で一杯だったが、落ちついていた。その方がまだいいからだ。人間の悪がひしめくパンドラの箱から、ギリシア人はいろいろないものをとび出させたあとで、もっとも恐ろしい希望をとび出させた。私はこれ以上感動的な象徴を知らない。というのは、希望は人びとが信じているのとは反対に、諦めに等しいからだ。そして生きるとは諦めないことなのだ。
 ここには少なくとも、アルジェの夏の厳しい教えがある。でもすでに季節はふるえ、夏は移り行きつつある。あれほどの烈しさとひび割れのあとの、九月の最初の雨がある。それは解放された大地の最初の涙のようで、数日間、この国がやさしさにまみれるかのようだ。しかし同じ頃、イナゴマメがアルジェリア全土に愛の匂いをふりまく。夕方、あるいは雨が上がったあと、すべての大地は、その腹を苦いアーモンドの匂いのする精液で濡らしたために、夏の間、それを太陽に曝して休息する。そしてまた新たに、この匂いが人と大地の婚礼のために捧げられ、私たちのなかに、この世で真に雄々しい唯一の愛を立ち昇らせるのだ。それこそが儚くも高潔な愛だ。

 注(2)

 挿画として、バブ・エル・ウエドで耳にした喧嘩話で、一語一語再録する。(話し手は、あのミュゼットのカガユウ〔作家オーギュスト・ロビネがミュゼットの筆名で書いた、アルジェリア人の主人公カカユウの冒険奇譚〕のように、いつでも話すわけではない。それは驚くには当たらない。カガユウの言葉はときに文学の言葉、つまり、再構成されたものなのだ。「やくざ」の連中がつねに隠語を話すとは限らない。彼らは隠語を使うが、それはまた別のことだ。アルジェっ子は特有の語彙と特別な文法を用いるが、それがフランス語に入れられることで、独特の味が生まれるのだ。)
 そのときココが前に出て、相手に言う。「ちょっと待て、待てよ」。相手が言う。「なんだよ」。するとココが彼に言う。「ぶんなぐってやろうか?」そして手をうしろにまわす。だがそれは見せかけだ。ココが、彼に言った。「手をうしろにやるんじゃない。さもないと、6-35〔ピストルの型〕をお見舞いするぞ。それとも二、三発喰らいたいか」。
 相手は手をまわさなかった。そしてココは一発お見舞いした――二発ではなく、一発。相手は地べたにころがった。「ウッ、ウッ」と唸った。そのとき大勢の人がやってきた。喧嘩が、はじまった。なかの一人がココに向かっていった。二、三人。俺が言った。「おい、俺の兄弟に指一本でも触れてみろ――誰だ、お前の兄弟ってのは? 兄弟じゃなきゃ、兄弟みたいなものだ。」そこで俺は一発パンチを喰らわせた。ココがそいつ殴り、俺が殴り、リュシアンが殴った。俺は一人を隅に連れて行って、頭でやった。「ボン、ボン」。そこへ警官がやってきた。俺たちは鎖につながれたというわけ。バル=エル=ウエド中を引きまわされて、赤っ恥をかいた。「ジェントルマンズ・バー」の前には仲間や娘っ子がいて、また大恥をかいた。そのあとで、リュシアンのところの親父が、俺たちに、「お前たちは正しい」って、言ってくれたんだ。
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by monsieurk | 2016-02-13 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
 ところで、こうした死のイメージが、決して生から切り離されてはいないことを、どうしたら理解してもらえるだろうか? ここでは諸々の価値が密接に結びついている。アルジェの葬儀人夫たちが好きな冗談は、空の車を引いているときに、道で出会う美しい娘たちに、「お姉さん、乗るかい?」と呼びかけることだ。例えそれが難儀なことであれ、そこに象徴を見るのを何も妨げることはない。死亡通知に左目でウインクして、「可哀想に、奴はもう歌えないな」とか、夫を決して愛したことがなかったオランの女のように、「神様が私にあの人をお与えくださり、神様が私からあの人をお取り上げになった」などと答えることは、同じように冒涜的に見えるかもしれない。でも、いずれにせよ、死が持っている神聖さなど私には分からないし、逆に、恐怖と敬意の間にある距離を強く感じる。ここではすべてが、生へと招かれている国で死ぬことの恐怖を呼吸している。だがそうではあっても、ベルクールの若者たちが逢引をし、娘たちがキスと愛撫に身をまかせるのは、この墓地の同じ壁のもとなのだ。
 こうした民衆が万人に受け入れられないことは、私もよく分かっている。ここでは、知性はイタリアでのような場所を占めてはいない。この人種は精神とは無縁なのだ。彼は肉体を信仰し、讃美している。彼らは肉体から、力と、素朴なシニスム(2)と、子どもっぽい虚栄心を引き出すが、その虚栄心は彼らにとっては、厳しく裁かれるのに値するものなのだ。人びとは、彼らの「メンタリティ」、つまり、ものの見かたや生きかたを、当たり前のように非難する。そして生のある種の強烈さは、不当なことを伴わずにはいないというのは本当だ。ただここには、過去や伝統を持たない民衆がいる。だが詩はないわけではない。――とはいえ、それは私がその特質をよく知っている詩、残酷で、肉欲的で、優しさからはほど遠く、彼らの空と同じで、私を感動させ、惹きつけるただ一つの真実の詩。文明化された民衆の対極は、創造者である民衆だ。浜辺をくつろいでいるこの野蛮人たち、私は、彼らはそれとは知らずに、いま、文化のある一つの顔をつくりつつある最中なのだという突飛な希望を抱く。そして人間の偉大さは、その顔に、真の素顔を発見するだろう。現在にすべてを投じたこの民衆は、神話も慰めもなしに生きている。彼らは富のすべてをこの土地に託し、以後、死に対してはまったく無防備のままである。天からの授かりものである肉体の美しさは、消費されてしまった。そして彼らには、未来のないこの豊かさには、いつも独特の渇望がついてまわる。ここで人びとが行うすべてが、不毛への嫌悪と、未来に対する無頓着ぶりを示している。人びとは生ることに性急で、もしも一つの芸術が生まれるはずだとすれば、それは持続への憎しみに従順なものだろう。この憎悪こそが、かつてドーリア人たちをかりたてて、森のなかで、彼らの最初の柱を刻ませたものなのだ。そうなのだ、この国の民衆の、激しい、熱狂的な顔、そして優しさのまるでない夏の空には、節度と同時に過度なものが見出される。この空を前にすれば、あらゆる真理は口にするのが快い。この空には、人を惑わすいかなる神性も、希望も贖罪もしるされはしなかった。この空と、それを仰ぎ見た顔のあいだには、神話や、文学や、倫理あるいは宗教を引き止めるものはなにもない。あるのは、小石や、肉体や、星だけで、それらだけが手で触れることができる真実なのだ。(続)

(2)最後の「覚書」を参照のこと。
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by monsieurk | 2016-02-10 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
 アルジェの街の映画館では、ミントのドロップをよく売っていて、そこには恋が生まれるのに必要なすべてが、赤い文字で刻まれている。(1) 問い。「あなたはいつ私と結婚してくれるの?」、「わたしを愛していますか?」(2)答え。「気が変になるほど」、「春には」、といった具合である。お膳立てをした上で、それを隣の娘に渡すと、娘は同じように答えてくるか、さもなければ冗談にまぎらせてしまう。ベルクールでは、この結果、結婚した例も見た。人生全体がミントのドロップの一度の交換にかかっているのだ。そしてこれは、この国の人たちの子どもっぽさを物語っている
 青春のしるし、それは多分、安直な幸福への素晴らしい適応力だ。とりわけ、浪費とさえ言える生きることへの性急さだ。ベルクールでは、バブ=エル=ウエドと同じように、人びとはごく若いときから働き、人生の経験を十年間で汲み尽くしてしまう。三十歳の労働者は、すべてのカードを使い果たす。彼は妻と子どもたちの間で終焉を待つ。彼の幸福はどれも唐突であり、情け容赦のないものだった。彼の人生もまた同様だった。そのとき人びとは、すべては取り上げられるためにあたえられる、そういう国に生まれたことを理解する。こうした豊かさの過剰のなかで、人生は、唐突で、要求が多く、気前のいい偉大な情熱の曲線をたどる。そうした人生は何かを作り上げることにはなく、焼きつくすことにある。だから、反省や、より良くなろうとするのは問題にならない。例えば、地獄という観念は、ここでは愉快な冗談でしかない。そんな想像力は、徳の高い人にしか許されていない。美徳など、アルジェリア全土でまったく意味のない言葉だと、私はつくづく思う。ここの人たちに原則が欠けているというのではない。彼らには彼らなりの道徳がある。だがそれはきわめて独得なものだ。彼らが母親を「ないがしろにする」ことはない。街頭では、自分の妻を敬わせ、妊婦には敬意を払う。一人の相手に二人でかかっていくこともしない。なぜなら、「それは汚いこと」だからだ。この基本的な掟を守らない者に対しては、「あいつは男じゃない」と言って、事を片づいてしまう。私には、これは正しく、力強いことに思える。私たちはいまもこの街頭の掟を無意識にきちっと守っており、私が知る限り、それは唯一公平無私のものだ。だが一方で、ここでは商人の道徳は知られていない。警官に囲まれた男が通ると、周囲の人たちの顔に、同情の色が浮ぶのをよく見た。その男が盗みを働いたのかどうか、親殺しだったかどうか、非協力者であったかどうかを知る前に、「可哀そうな奴」だと言い、あるいは、讃嘆のニュアンスを込めて、「あいつは、海賊だってさ」と言ったりする。
 傲慢さと生とに生まれついた民族がいる。彼らは怠惰について、きわめて特殊な資質を育てている。彼らにあっては、死の感情はもっとも胸をむかつかせるものだ。官能の喜びを別にすれば、この人たちの楽しみは馬鹿げたものだ。ペタンク愛好協会と「親善クラブ」の宴会、三フランの映画と町のお祭り。三十歳以上の人たちの娯楽としては、これで十分なのだ。アルジェの日曜日は、なかでももっとも陰鬱なものだ。精神というものを持たない彼らに、神話でもって、生の奥深くにある恐怖を包み隠すことができるだろうか? 死に触れるもはみな、ここでは滑稽か、さもなければおぞましい。宗教も偶像も持たないこの人たちは、群衆のなかで生き、そのあとはたった一人で死んでいく。私は、世界中でもっとも美しい景色に面した、ブリュ大通りの墓場ほど醜悪なものを他に知らない。黒の喪服に取り囲まれた悪趣味な土饅頭は、死がその素顔をのぞかせるこの場所の、途方もない悲しみを露骨に見せている。「すべては過ぎ行く、想い出を除いて」と書かれたハート型の奉納絵馬。そしてこれら一切が、愛する人たちの心が、わずかな手間で、私たちにもたらすあの嘲笑的な永遠というものを強調している。どの絶望にも同じ言葉が用いられる。それは死者に呼びかけ、二人称で語られる。「私たちの思い出は、お前から離れることはない」。これは不吉なまやかしであって、人びとはそれで、よくて黒い液体にすぎないものに肉体と欲望を貸しあたえるのだ。その他、沢山の大理石の花と鳥のなかに、こんな無鉄砲な誓いもある。「お前の墓に花が途絶えることはないだろう」。だが人はたちまち安心する。黄金の漆喰の花束が碑銘を囲んでいて、それは生きている者にとっては時間の節約になる。(だから麦藁菊〔不死、永遠と同じ綴り字〕という仰々しい名前は、走っている電車にいまだ乗っている人たちの感謝の念を負っているのだ)。物事は時代とともに進んで行かなくてはならないから、ときとして〔墓の飾りとして〕古典的な頬白が、真珠の飛行機に代えられて人を面食らわせることもある。飛べない天使がそれを操縦しているが、理屈は無用で、天使には素敵な一対の翼がついている。(続)
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by monsieurk | 2016-02-07 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
 ただ街のもう一方の端では、すでに夏は、私たちにすでに、これとは対照的な別の富をもたらしている。私が言いたいのは、沈黙と倦怠のことだ。こうした沈黙は、それが影から生まれるか、それとも太陽から生まれるかで、その質は同じではない。総督府の広場には真昼の沈黙がある。広場の周囲に立つ木陰では、アラブ人たちが、花の香のする冷たいレモネードを5スーで売っている。「冷たいよ、冷たいよ」という彼らの呼び声が、人気のない広場を渡っていく。その叫び声のあとでは、ふたたび沈黙が太陽のもとに落ちてくる。物売りの水差しのなかで、氷が裏返り、そのかすかな音が私の耳に聞こえる。シエスタの沈黙がある。海軍省の通りの垢じみた理髪店の前では、穴の開いた葦のカーテンの背後では、蝿がたてるメロディーをもったうなり声で、沈黙の深さを計ることができる。他方、カスバのモール人のカフェで沈黙しているのは肉体だ。肉体はこうした場所から離れることができず、お茶のコップを手離すことも、自分の血がたてる音で時間をまた見出すもできない。そしてとりわけ夏の夕方の沈黙がある。
 昼が夜に移りゆくほんの短い一瞬、私のなかのアルジェが、この点に結びつくには、隠れた徴と呼びかけに、満たされる必要があるのだろうか? この国をしばらく離れていた間、私はこの国の夕暮れを、幸福の約束のように思い描いた。街を見下ろす丘には、乳香やオリーヴの木のなかに、幾筋も道がある。そして私の心が戻っていくのは、これらの道だ。私はそこで、緑の地平線上を黒い鳥の群れが空へ飛んでいくのを目にする。太陽が急に消えた空では、何かが和らぐ。茜色の雲の小さな群れが引き伸ばされ、大気へ溶け込んでいく。その直後、最初の星が現れ、人びとはそれが形をつくり、厚さを増す空のなかで固まっていくのを眺める。そして突然、貪婪な夜がやってくる。アルジェの束の間の夕暮れ。私の心にこれほど多くのものを解き放つものが、他に何があるだろうか? 夕暮れが私の唇に残す甘美な味わい、それは飽きる間もなく、夜のなかへ消えてしまう。これが持続する秘密なのだろうか? この国の優しさは気を動転させ、それでいて密やかなのだ。それがあるだけで、少なくとも心は、すべてをそれにゆだねてしまう。パドヴァニの浜辺では、毎日ダンスホールが開いている。横に長く、海に向かって開かれた巨大な長方形のホールでは、この界隈の貧しい若者たちが夕方まで踊っている。しばしば、私はそこで奇妙な一刻を待った。日中、ホールは斜めに張り出した木の庇で保護されている。太陽が沈むと、それが引き上げられる。するとホールは、空と海の両方の貝殻から生まれた、不思議な緑の光でみたされる。窓から離れて座っていると空しか見えない。そのなかを中国の影絵のように、踊っている人たちの顔が次々に通り過ぎていく。ときおりワルツが奏でられる。すると緑色を背景にして、黒い横顔が執拗に回転する。まるで蓄音機のターンテーブルに固定された、切り抜きのシルエットのようだ。次いですぐに夜が来る。それとともに、灯りがともされる。だがこの微妙な瞬間に、私が感じる興奮と微妙な想いをなんと表現したらいいだろう。私は少なくとも、午後のあいだ、踊り続けた背の高い素敵な娘のことを思い出している。彼女は身体にぴったりとした青い服を着て、ジャスミンの首輪をしていた。そして汗が服の腰から脚までを濡らしていた。彼女は踊りながら笑い、頭をのけぞらせた。彼女がテーブルのわきを通るとき、花と肉の混じった匂いを残していった。夕暮れがやって来た。ぴったり相手にくっついた彼女の身体はもう見えなかった。でも空では、白いジャスミンと黒い髪が、染みのように交互にまわっていた。そして、彼女がふくらんだ喉を後ろにそらすと、彼女の笑い声が聞こえ、踊っている相手の横顔が急に屈みこむのが見えた。無垢について私がつくりあげた観念は、こうした夕べから得たものだった。そして激しさを負った彼らの存在を、その欲望が舞う空から決して引き離してはならないと悟った。(続)
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by monsieurk | 2016-02-04 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
 アルジェでは、人びとは「海水浴をする(prendre un bain)」とは言わずに、「水遊びする(se taper un bain)」と言う。でもそれはどうでもいい。人びとは港で泳ぎ、ブイの上で休む。きれいな娘がすでに乗っているブイのそばを通るときは、仲間に、「おいカモメだぜ」と叫ぶ。これこそ健康な喜びだ。こうした喜びが、若者たちの理想なのだと信じる必要がある。なぜなら、彼らの多くはこうした生活を冬の間も続けるのだし、毎日、昼になると、裸になって太陽に当たりながら、質素な昼食をとるのだから。それは彼らがナチュリストたち、あの肉のプロテスタントたち(そこには、精神のそれと同様のいまいましい肉体の教条主義があるのだが)の、退屈なお説教を読んだからでは決してない。そうではなく、彼らが「太陽の子」だからだ。私たちの時代には、こうした習慣の重要性を人々は、それほど高く評価しないだろう。二千年この方、はじめて肉体が浜辺で裸にされた。人びとは二十世紀にわたって、肉体を隠し、衣服を複雑にすることで、ギリシャの天衣無縫ぶりと素朴さを、慎ましやかなものに変えた。そしていま、こうした歴史をこえて、地中海の浜辺で繰り広げられる若者たちの競争は、デロスのアスリートたちの素晴らしい動作と一つになる。そして、いくつかの肉体のかたわらで、このように肉体でもって生きることにより、肉体がニュアンスを帯び、生命を、さらにナンセンスを恐れずに言えば、肉体にはそれ固有の心理があることを悟るのだ。(1) 肉体の進化には、精神のそれと同様、歴史もあれば回帰もあり、進歩や欠陥もある。それは色のニュアンスの違いだけだ。夏、港で泳ぎにいくと、肌という肌が、白から黄金色にまで、さらには褐色に、そして遂には肉体の変貌可能の限界であるタバコ色へと、同時に移り行くことに気づかされる。港は、カスバの白い立方体の戯れに支配されている。水面に立てば、アラブの街のどぎつい白い地を背景に、さまざまな肉体が赤銅色の壁を展開する。そして、八月になって、太陽が大きくなるにつれて、家々の白は一層目をくらますほどに輝き、肌は前よりも一層濃い色になる。だから、太陽と季節にしたがって、石と肉との対話に、どうして同化せずにおられよう? 午前中は、水に潜ったり、水しぶきのなかで大笑いしたり、赤や黒の貨物船のまわりで、櫂をゆっくり漕いだりして過ぎていく。(ノルウェーから来た貨物船は木の匂いがするし、ドイツから着いたものは油の臭いで一杯だった。沿岸巡航船にはブドー酒の古い樽の匂いがしみこんでいる。)太陽が、空のあらゆる隅からこぼれ落ちる時刻、渇色の肉体をいくつも積んだオレンジ色のカヌーが、私たちをまた狂気じみた競争に連れもどす。そして、果物の色の翼が二重についた櫂がたてるリズミカルな水音を突然中断させて、ドックの静かな水の上をずっと滑っていくとき、私はいま滑らかな水を通過して、わが兄弟である褐色の神々を運んでいるのだと、どうして確信ぜずにおられよう?

 (1)ジッドが肉体を称揚する仕方が気に入らないと言ったら、物笑いの種になるだろうか? 彼は欲望を抑えることを肉体に要求し、かえって一層肉欲を研ぎすませてしまう。さすれば彼は、娼家の隠語で、〈compliqués〉(面倒な人たち)とか、〈cérébraux〉(頭でっかち)と呼ばれる人たちに近いのだろう。キリスト教も欲望を抑えることを望んでいる。だがもっと自然であって、そこにはある種の苦行が見てとれる。私の友人のヴァンサンは樽屋で、ジュニアの平泳ぎのチャンピオンだが、彼は物事をもっと明快に見ている。彼は喉が渇けば飲むし、女が欲しくなれば寝る女を探す。そしてもし万一その女が好きになれば、結婚するだろう。(もっともまだそれには至っていないが)。彼はいつもこう言っている、「これで万事うまくいくさ」。――この言い方は、欲望の充足についてなし得る弁明を、うまく要約している。
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by monsieurk | 2016-02-01 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)