ムッシュKの日々の便り

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男と女、金子と森の場合(第2部)Ⅵ

 金子光晴と森三千代がシンガポールを発ったのは1929年(昭和4年)7月10日のことである。宿の支払いがたまっていたが、懇意になった新聞社の長尾と大木、領事館の安西が交渉してくれて安くまけさせてくれた。もと女衒の親分だった家主の矢加部は、領事部や新聞社に弱みを握られていたのである。
 ジョンソン埠頭からボートでオランダの船会社KPMのMIJR号に乗り込んだ。埠頭まで大木が見送りに来て、フル-ツ・ソルト一壜を選別にくれた。ジャワ(爪哇・現在のインドネシア)の首都バタビア(現ジャカルタ)までの二等の船賃は一人45ギルダーで、手持ちの金はほとんどなくなった。ただ二等の食事はヨーロッパ風で、この旅で初めて食事らしい食事ができた。それでもこの先の旅費を稼ぐために、絵を買ってくれそうな客を探すにはジャワへ行くのは避けられない選択だった。
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 オーストラリア航路の船は、途中2ケ所で荷の積み下ろしをしただけで、4日後の7月13日朝8時にバタビアの新港タンジョン・プリオクに着いた。当時はオランダ領インドと呼ばれていた土地であった。二人の荷物はトランクとスーツケース、それに小さな鞄が一つだった。
 ジャワの滞在については、森三千代の「爪哇の宿」(『森三千代鈔』)や『をんな旅』で詳細にたどることができる。記述は当時つけていた日記に基づくものと思われ、到着直後の様子は次のように記されている。
 「暑い、長い桟橋であった。ごみのように船のちらばっている海上は、ぎらぎらする波の起伏で威嚇する。むかつくような船酔いのなごり。パラソルの下で、玉の汗を拭き拭き、一生懸命になって私は海関の建物まで辿りつこうとする。
 海関からすぐ移民局の旅行者係にまわった。そこで、百五十盾(ギルド)の入国税を払わなければならない。その前にパスポートを見せて身元調べがあった。
 〔爪哇〕日報社を頼って来た旨を述べて、移民局の電話を借り、日報社に到着したことを知らせた。すぐ、バタビアから自動車をまわすから、そちらで待つようにという、日報社の社長からの返事であった。入国税は、旅行者が六ケ月以内に退去する時はそのまま返却してくれることになっていた。」(「爪哇の宿」)
 「爪哇日報」は1920年(大正9年)に、「南洋日日新聞」の記者だった佃光治が創刊した新聞で、主筆は英文学者の加藤朝鳥、記者は松原晩香でスタートしたが、翌年には元「報知新聞」の記者だった斎藤正雄が譲りうけた。齋藤は西条八十や前田春声たちの詩誌「詩洋」の同人だった人で、シンガポールの古藤の仲介で手紙を送っておいたのである。電話の通り、間もなく新聞社の人が車とともに迎えにきてくれた。
 港からバタビア市内まではおよそ20キロの道のりで、道と並行して走る掘割に沿ってアッサムの並木が続いていた。街は緑が影を落とし、シンガポールに比べるとずっと落ち着いていた。「爪哇日報」は旧市街のマラッカ通りにあった。周囲には邸宅が並び、石造りの門を入った新聞社も同じような一軒家だった。観葉植物や熱帯樹が植えられた前庭に面したテラスで、社長の齋藤と会った。
 齋藤は日本では詩や小説を書いて、金子とは共通の知人がいることが分かり、当分この家に逗留してバタビアを見物したらいいと言ってくれた。午前中は新聞の編集作業で忙しく他の人たちは手を休めずに二人をちらちら見るだけだった。記事は正午には校了となって植字にまわされ、午後4時には印刷され、夕方に配達される仕組みだった。発行部数は1500部で在留邦人のほとんどが購読していた。
 二人が案内されたのは、編集室と食堂兼広間を通り抜けた先にある植字室と壁一つを隔てた細長い部屋だった。
 部屋には蚊帳を吊ったベッドが一つと、立鏡台、花柄の大きな傘をかぶせたスタンドがあり、鎧戸をあけると裏庭に出ることができた。到着したこの日の夕方、斎藤社長と編集を手伝っている弟に連れられ、中華街の「大東酒楼」に案内された。食後は自動車で3時間ほど夜のバタビアをドライブした。オランダ人たちは旧バタビアが湿地帯なのを嫌ってウェルトフレデに新市街をつくり、官庁や商業の中心をそちらに移していた。彼らの住宅もここにあった。一行はロキシーというオランダ料理店のテラスで休息した。遊びに来ているのはオランダ人がおもで、華僑の美しい娘や洒落者の混血児も混じっていた。
 帰りは椰子林の漆黒の闇のなか、ジャガタラ街道を車を飛ばして戻った。新聞社に帰りつくと、三千代は美しい電気スタンドの下で、疲れた体を伸ばして、社の書庫から借り出す田ジャバの歴史を読んだ。夜寝ていると、馬の首に鈴をつけた馬車が近づいては遠ざかる音が聞こえた。そして家に住みついている三角の大きな頭をしたトッケイ(大蜥蜴トカゲ)がけたたましい声で鳴いた。(続)
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by monsieurk | 2016-03-29 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女、金子と森の場合(第2部)Ⅴ

 金子と三千代が乗った郵船はどこへも寄港せず中国大陸に沿って南下し、十数日かかって、6月中旬にイギリス領シンガポールに着いた。二人は夏服の用意がなく、金子は礼服の縞のズボンに上はシャツ、三千代は裾の長いアッパッパのようなものを着て下船した。6月のシンガポールは大変な熱暑だった。
 人力車を雇ってカンナの花と椰子檳榔がつづく大通りを走り、シンガポール建設の父トーマス・ラッフルズの像や教会、当地随一の豪華ホテル「ラッフルズ」を横目で見ながら、大通りに面した小さなホテルに旅装をといた。宿代は一日5ドルだった。d0238372_16291917.jpg
 植民地都市シンガポールでは、上海や香港と違って丸い帽子を被ったインドネシア人やマレー系の人たち、赤いターバンのヒンズー教徒などさまざまな人種が見うけられた。下船した二人は「南洋日日新聞」の社長兼主筆の古藤秀三を訪ねた。「南洋日日新聞」は1914年(大正3年)に創刊され、公称の発行部数は1800部を数えた。古藤の下で記者の長尾正平と外電部の大木正二が働いていた。古藤はシンガポールの日本人会長でもあり、長身で寡黙な人だったが二人の面倒をよくみてくれた。この日の夕方、街はずれにある自宅に招かれた。家は高床式で、床下は人が立って歩けるほど高く、屋根はアタップ葺きだった。陽はまだ暮れきらず、家の外には大きなマンゴスチンの木があり、まずはその実をとって饗応された。古藤は、展覧会をするなら日本人倶楽部を紹介すること、滞在が長くなるようならホテルを引き払って部屋をかりた方がいいと忠告してくれた。そしてその言葉通り、租界のなかのラングーン通りにある「大黒屋ホテル」を紹介してくれ、翌々日にはここへ移った。
 森三千代は「新嘉坡〔シンガポール〕の宿」(『森三千代鈔』所収)で、シンガポール滞在中ずっといつづけたこの宿のことを次のように書いている。
 「このホテルの部屋は、玄関のポーチの上にのっていて、部屋全体が張出しのようで、三方の鎧窓を開けると、どこからでも風が吹き通しにわるわけだった。第一、部屋がゆったりとして、装飾などはないが、支那寝台のシーツの糊気もとれず、さっぱりとしているのが快かったうえに、ベッドにはりわたしたレースの蚊帳に、ほつれ穴やしみのないのもうれしかった。
 スラングーン〔ママ〕路の表通りで、一歩出れば賑やかな商店街だったし、どこへ行くにも出場がわるくなさそうだった。
 一ケ月十二弗という部屋代も格安だった。」(「新嘉坡の宿」)
 後で知ったことだが、宿の主人の矢加部はかつて女衒をしていたとかで、夫妻とも九州出身だった。子どもが二人いて、18歳の息子は郷里へ戻り、下の娘は大阪の女学校に寄宿していているということだった。「一生の日数を勘定すれば、南で暮らした日数の方が長いくらいで、日本へ帰へれば、四季、浴衣一枚で国違いを相手に気儘にくらすようなのんきなわけにはゆきません」と矢加部は言った。「国違い」とは日本人ではないという意味で、実際、大黒屋ホテルの宿泊客は、二人以外はみな外国人だった。
 隣室は美人のタイ人女性で、夕方になるとイギリス人が自動車で迎えに来て、夜遅く帰ってくる毎日を送っていた。廊下の先の小部屋には小柄な印度人がいた。ガンジーの信奉者で雑貨の行商を生業にしていた。階段の降り口にある広い部屋にはユダヤ人一家がいたが、宿泊人の誰とも言葉を交わさなかった。この一家が出ていくと、入れ替わりに3人の中国人学生が入ってきた。彼らのところへは女子学生がやって来て大騒ぎするので、二日目には家主に追い出された。一階には郵便局に勤める中年のマレー人が一人いた。そのほか別棟に水浴場があり、そこへ行く途中の物置のような小部屋にはマレー人の女が一人いた。病気の彼女は一日中寝てすごしていた。
 宿は部屋貸しのため、食事は外でしなければならなかったが、ラングーン通りを少し行くと市場があり、その近辺には中華料理の惣菜店やインドカレーの露店などがあった。日中の暑さには閉口したが、一日に一度は必ず来るスコールは爽快だった。窓を開けて昼寝をしていると突然のスコールで、部屋に霧のように飛沫が吹き込み、慌てて鎧窓を閉めなくてはならなかった。二階の窓まで届く大きな扇芭蕉が植わっていて、スコールが葉を叩いて激しい雨音をたてた。天井や壁にはヤモリが張りついていて、それが時々蚊帳の上に落ちて来て、三千代は顔色を変えて金子に飛びついた。夜は新聞社の大木に誘われて、領事館の安西を交えて炒米粉(チャビーフン)を肴にビールを飲み、夜がふけるまで話をした。
 金子は部屋で展覧会のための絵を描いた。仙花紙が手にはいらず、木炭紙に日本画を画いた。だが到着後一週間もしないうちに、三千代が四十度の熱を発し、次いで金子も同じ症状にみまわれ、二人して枕を並べて寝込んだ。蚊が媒介する風土病のデング熱だった。鷲尾という医師が診てくれ、一週間ほどで治り、あとは免疫ができるということだった。新聞社の人たちが見舞いに来てくれ、大木は毎朝フルーツ・ソルド〔果物からとった塩で身体を強壮にするとされた〕を差し入れてくれた。
 鷲尾医師がある日、こんなものがあると東京の新聞を持ってきてくれた。そこには、「ここに奇っ怪至極なのは金子光晴で、誰一人その生死を知るものはない。ある新帰朝者が、インドの酒場で彼がドラムを叩いていたのをたしかに目撃したよし」という記事が、他の詩壇のゴシップとともに載っていた。三千代の「去年の雪」によると、「寝床のなかで考え込んでいた小谷〔金子〕は――どうだ、もう日本へかえろうじゃないかと、言い出した――わたしは行くわ。わたし一人で行くから、あなたは帰るがいいわ」といった場面があった。土方からの手紙はここまでは届かなかったが、三千代の心から彼の存在が消えたわけではなかった。振り捨てて来た思いのためにも、パリへいって新しいものを得たい気持は強く、またパリに行けば土方に再会できるかも知れないという思いもあった。金子の方はそんな三千代の気持を知ってか知らずか、シンガポールまで来たことに安心しているようでもあった。
 二人の熱は一週間ほどでひき、金子はまた絵を再開した。熱帯の風物は強烈で、水彩絵具ではその激しさを写すのが難しかった。シンガポールでは沢山のものを目にした。タンジョン・カトン(亀岬)の真紅に染まる夜明け、アルカフ・ガーデンの日本式庭園、中華街にあるルナ・パーク式の娯楽場「新世界」の出し物、虎の尾のような蛇やコブラ、羽のはえた蜥蜴、黒豹。街で出会う人種もさまざまだった。広東人、キリン人〔タミール人の出稼ぎを現地ではこう呼んだ〕、ベンガルやアラビアの商人、シャム人、グダン人、マレーの地元民、そして混血児。こうしたなかで、「いちばん凄まじいものは、印度人の火葬で、薪の山のうえにおいた死体が硬直して一瞬立ちあがる状景、またおかしかったことは道ばたからみえる印度人の床屋で、床板のうえに寝たり坐ったり、あらゆる姿勢をして、全身の毛をくまなく剃ってもらっている図である。生毛一本のこさないヒンズー(タミール族)が、全身くまなく油を塗り、薪のような細長いからだのすみからすみまでのこまかい筋肉を浮き出させ、それから顔に牛糞の灰を塗り、赤い腰巻(サロン)をはいて、お化粧が終わり、一人の伊達男が出現するのである。」(『どくろ杯』)
 この土地で、人びとは自分の信仰や習俗のままに灼熱のなかを生き抜いていた。二人は暑さとマラリヤ蚊への恐怖から、早くこの灼熱の世界を抜け出したいと思い、金子は絵の仕事を急いだ。幸い古藤たちの助力で、「シンガポール風景小品画展」を日本人倶楽部で開くことができたが、ここでも結果は散々だった。会のあとで乾杯をしてくれた小久保という商人が、「たくさんな絵かきさんがここへ来たが、金子さん。あんたぐらいへたな人もめずらしい」(『どくろ杯』)と遠慮なく言った。この言葉を聞いても怒る気にはならなかった。絵かきなどではなく、南洋をまわっている浪花節語りのような芸人の方が斜に構える必要もなく、まして詩人だったなどと口にするのは無駄なことだった。 「詩人の私のところへ好んで訪ねてきた彼女はそれについてどうおもっているだろうときいてみたかったが、それも笞の追打ちにすぎない気がして黙った。女を責めるのは、責めるものの罪の方が大きい。とりわけ、女の欲望を責めるのは、じぶんのことを棚にあげての片手落が正義で通るくにや、時代でしか通用しないことだ。」と金子は思った。
 こうしてシンガポールでは旅費を稼ぐことができないのが分かり、古藤の助言もあって、もっと多くの日本人がいる爪哇(ジャワ・現在のインドネシア)へ渡る決心をした。古藤はバタビア週報社の社長に宛てた紹介状を書いてくれた。だがジャワはヨーロッパ航路からすればひどい回り道で、三千代は未知の辺土へ迷い込んでいくようで心細さが募った。(続)
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by monsieurk | 2016-03-26 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女、金子と森の場合(第2部)Ⅳ

 船が岸壁を離れて黄泥でにごった揚子江を下りはじめると、三千代と佐藤英磨はデッキに上がって、遠のく夜景に見入っていた。若い詩人の佐藤は金子を頼りにパリまで行きたいということだった。金子は夜景には興味がなく三等船室の藁布団で寝ていた。船倉の客室は客が少なかった。ただペンキを塗り替えたばかりで、その臭いが鼻をついた。
 船が東シナ海にさしかかると海は緑色にかわり、うねりが高くなった。気温も上がって、金子は浴衣一枚に着替えた。三等船客に立ち入りを許されているのは荷揚げのハッチの周りの狭い範囲で、そこでしばらく涼んで船室にもどり、三千代と佐藤との間にもぐり込むと、彼女が足をからめてきた。
 「女の浮気と魅力は背なか合せに微妙に貼付いていて、どちらをなくしても女は欠損する。欠損した女はいくら貞淑でも、茶碗のかけらほどの価値もない。それにわが日本は、退屈な貞淑からやっと足抜きができたばかりのところなのに」と考えていると、三千代が、「エンジンの音が、坊やの泣声のようにきこえてならないのよ」と、佐藤に聞こえないように低い声でいった。「それなら、ここから引返すのだな。香港あたりがそれには頃合だぜ」と、金子はさらに低い声で答えた。
 船上では何もすることがなく、夜も昼もうたた寝するだけだった。隣の佐藤を気づかいつつ、片方の手で彼女を探り、彼女の手をつかんで自分のものを探らせた。そんなことをしながら金子は思った。
「彼女は、何故ついて来るのだろう。パリがそんなに魅力ともおもわれない。(中略)彼女のつくりあげているパリは、人の土産話か、翻訳の書物か、映画からつくりあげた絵そらごとを、リボンで結んだものにすぎない。(中略)
 なにかを突きぬけ、なにかをやり直そうとしているのかもしれない。彼女には、女の野心がある。今日の人類の歴史をつくったのは女の野心のたまものといってもいい、単純でひたむきな野心だ。狂気ととなりあった、おもいきった、ときにはむごたらしくもあるその野心だ。――彼女ほどつきあいのいい女はない、とおもって感心していたが、それは、じつは表面的な感想で、女にうみつけられたことで彼女も、ほかの女と格別変わったことはないはずだ。私の希望的解釈を別にすれば、彼女は、矛盾によっていきいきと変幻する、もっとも女らしい条件にかなった執心のつよい型の女のひとりだ。(中略)それに、女のからだのいちばん爛熟した年齢でもあって、その時代をやりすごしては、もはや女はくだり坂で、うつ手が後手々々になる心配があって、なすことごとを臆病にすることになる。私といっしょにすごした半生の貧乏としみったれた下積みぐらしをかなぐり捨てるならいまが好機だ。私もそのことには同感である。それには、私などといっしょにいたのでは埒があかないこともわかっているから、私が彼女を離そうとしないで、更にしんにゅうをかけた、あて先知らずな苦難の旅に彼女をともに曳きずっていく気持は一つ、私じしんが新しい生活の纜の切り手になろうとするはかない望みと、それができるとおもう男の自惚からであった。」(『どくろ杯』)d0238372_21162969.jpg
 数日の船旅のあと、明け方に香港に着いた。香港はまだ深い霧のなかにあった。麓から山の頂までつづく街の灯りはまだ消えずに輝いていた。沖に停泊した船のまわりを物売りのサンパンがとりまき、男や女たちが船上の客にしきりに声をかけてきた。やがてランチに乗って上陸した。煤で汚れた上海と違って、香港は薄黄色の建物が並ぶイギリス風の都会だった。
 街を散策しつつ宿を探して、海岸通りを出はずれたワンチャイにある薄汚い三階建ての日本旅館「旭館」を見つけて泊まることにした。旅館は部屋数が少なく、二階はこの家の人たちの部屋で、三階が客室になっていた。ほかに客はおらず、三つの部屋を続きで使うことができた。
 香港は石段と檳榔樹の街で、水をはじめ諸事物価が高く、金がない三人にとっては住みにくいところだった。淡い緑色をした海には、イギリスの軍艦が停泊していて、ときどき威嚇するように空砲を響かせた。
 香港での知り合いといえばただ一人、かつて井上康文の紹介で会ったことのある、詩の愛好家の北沢金蔵という青年だけだった。彼が領事館の書記官として香港に来ており、さっそく領事館を訪ねると快く会ってくれた上、その夜自宅に招待された。三千代とともにアパートへ訪ねて行くと、新婚の夫人とよく走りまわるテリアとともに歓迎してくれたが、三千代の一足しかない絹の靴下が犬の首輪にひっかかって伝線がいってしまった。
 金子は香港で絵の展覧会を開きたいこと、さらに佐藤英磨のパスポートを取るのに力を貸してほしいと頼んだ。佐藤はパスポートもなしに日本を出てきていたのである。展覧会の方は何とかなると思うが、パスポートは難しいという返事だった。
 10日ほどして、滞在費を節約するために貸し部屋探しをはじめ、中国人街に貸し部屋を見つけた。しかし旭旅館に遊びに来た者から、「画家の先生は、電話のある旅館にでんとしていなければ、あいてにされませんよ」(『どくろ杯』)と説教されて、旅館で頑張ることにした。
 北沢書記官の奔走で、日本人倶楽部で展覧会が開けることになり、急いで水彩画を60点ほど描きあげた。画仙紙にかいた絵は皺がより、それを窓に貼りつけて伸ばした上で、額縁代わりに金紙を切って縁どりした。展覧会の会期は3日間で、三千代は靴下が伝線しているのを気にしつつ、売り子兼会場係をつとめ、佐藤英麿も何かと手伝った。大勢の日本人が観にやって来たが、結果は一枚も売れなかった。
 やがて絵が売れない理由が分かった。金子より少し前に、辻元廣という油絵画家が安いロッタリー券を発行して、空籤なしの方式で絵を売りさばいていたと、「南洋日日新聞」の記者が教えてくれた。彼は新聞に金子の展覧会の紹介記事を書いてくれていた。その上で、金子にもこのロッタリー方式を勧めた。絵を売らなければ香港を出て先へ行くことはできず、それから夜も寝ずに150枚の絵をかきなぐり、売れなかった50点とともに、1枚2ドルで土地の親分に売りさばいてもらった。こうして手にした金は賄いつきの旭旅館の払いでほとんど消えてしまった。佐藤英磨のパスポートは手に入らず、彼は上海に帰ることにした。佐藤送り出した4日後、金子と三千代は日本郵船で香港を出発した。次の行く先はシンガポールで、手許にある金はわずかに10ドルだった。
 森三千は『東方の詩』に収録された詩で、香港をこう詠った。

  香港の海

A

眼がしらにつきあげてくる悲しみをどうしよう。
にこりともせぬ、
彫りつけられた面のやうに固い海づらが、うそ白く光る。
眼のまへに、鳶色の帆が、疲れた枯葉の蝶のやうに、じつと翅をや
すめたまゝだ。

波の上に据えられた航空母艦。
今日でもう廿日。みじろぎもしない灰青の胴。

動け、一糎。
行け、わたしの旅。
ぷつりと何か一つ切り離たれたらなにもかも一どに動き出さうのに。
それだのに、動かない。永久に動きたくないやうに。

雲のなかで、空蝉がつゞけ撃ちに鳴り出した。
右の方にならんだ艦隊が、小さな息のやうな砲煙を吐く。
海はやはり動かない。
空蝉だけが消えてゆく海づら。
動かない、なにも動かない。
わたしはどうすればいゝのだ。

   B

昨日出発し、明日また出発しやうとする。
永久の出発のなかにある今日。
わたしは、いまさら、なにを求めるはりあひがある。

にぶい曇雲が低く迷つてゐる。
海は、袋のなかで氷の砕片をゆすぶるやうな音をさせる。
九龍の燈火は、一つ一つ濡れて、
泣いた児の眼のやうに
大きく見開いて、近づいてくる。
胸苦しくなる・・・・・
この深夜、海はなぜこんなに、壮麗な心の酔態を、わたしのまへに
見せるのか。
――降参しました。
といつて、わたしはあたまを下げる。(『東方の詩』)(続)
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by monsieurk | 2016-03-23 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女、金子と森の場合(第2部)Ⅲ

 春になって、金子たち二人と秋田は、商売かたがた蘇州へ旅することにした。東洋のベニスとうたわれる蘇州では、しだれ柳が緑を増し、陽炎が揺らめいていた。蘇州城内の中国旅館に投宿して、秋田が名所である双塔寺、寒山寺、滄浪亭の絵を即席で仕上げて、日本領事館へ売り込みに行った。すると領事が寒山寺の絵を50ドルで買ってくれた。これで三人は1週間、早春の蘇州を楽しむことができた。だが売れたのはこれだけで、旅費がなくなり三人は上海に引き上げてきた。
 上海に戻ると、秋田が身体の変調をきたした。結核だった。すぐに唐辛子婆さんこと石丸りかの宿に引き取り、看病をしたがよくならなかった。そこに鼻のぽん助が訪ねて来た。例の春本の残りを38ドルで売り払い、その金で秋田を日本に返すことにした。金子と三千代は彼を乗せた上海丸が准山瑪頭を出て行くのを見守った。金子の『どくろ杯』には、このときの二人の会話が描かれている。
 「「君は、奴はが好きになったんじゃないか。どうも、そうらしいぜ。」
 彼女は、あわてて否定しようともしないできこえないふりして茫然と闇のなかをみつめていた。私は、なぜ、彼のいるところでそれを言わなかったと後悔した。善良な日本人の彼は、どんなに身のおきどころもなくこまったか、それがみてやりたかったのだ。その困惑ぶりは二挻の人力車の私の車ではなく彼の膝のうえに彼女を乗せた表情でよくわかっていた。
 じぶんの女という切実感がそのときほどうすれて、彼女にとっては、ただ大きく男というものの範疇のなかにじぶんもいるにすぎないとおもわれたことは、少なくとも近頃にない生な刺激であった。」(『どくろ杯』)
 一方で、森三千代の書いた「通り雨」では、ことの経緯は異なっている。
 「草刈(金子)の車がはじめ棍棒を上げて走り出し、勝子(三千代)の車があがろうとするとき、彼女は躓くように飛下りて、いま棍棒をあげかけた秋山(秋田)の車に走りよって跳びのった。草刈の車がすでに走り出しているので、秋山は、彼の膝に腰かけた勝子の心を判断するひまもなく、そのまま先へいそがねばならなかった。(中略)顔を正面にむけ、秋山は、勝子の断髪のうしろ髪がうるさく頬に触るのをじっとこらえたまま、一分も、表情も姿もくづすまいと闘っているのがわかった。」(「通り雨」)
 三千代によれば、彼女の行動は、物分かりがよいような格好をして、妻の行動をじっと眺めている金子への挑発だったように見える。さらに「通り雨」には、貧乏暮らしと、その反動の贅沢への憧れが率直に綴られている。
 「だが、なんという新鮮な欲望だろう。及びもつかない豪奢な、ショー・ウインドウの硝子の向うで移り変る。欲望は単なる欲望とはいえない。生きたいというのとおなじほど、女にとってははげしい欲望なのだ。誰があれを買ってゆくのだ。誰かが、それを着て、得々として、音楽会や、ダンス・パーティに出かける。なぜじぶんは二十線玉一枚に銅貨一枚をもってお腹をへらして、苦力たちといっしょに、ガーデン・ブリッジのてすりにもたれかかって、ぼんやり濁った川面を眺めているのだ。人生の華やかな中心はいったい、どこにあるのだろう。なんというぼろぼろな自分の人生だろう。勝子は、みんな、それが、草刈などと連立っているための貧乏くじとしかおもえなかった。」(「通り雨」)
 上海は彼女にとってまだ見ぬ西洋の窓であった。物質的不如意に加えて、目の前で繰り広げられる男女の自由な関係が、三千代の思いを強く刺激した。魯迅と許広平、郁達夫と王映霞の二組は自由恋愛を実践していた。
 3月になって、郁達夫を通して女性作家、黄白薇姉妹と会った。黄は本名を黄彰といい、1894年に湖南省で生まれた。長沙第一女子師範で学んだあと結婚したが、夫や姑の虐待にあって故郷を逃げ出し、上海から日本へ渡り、1923年に東京高等女子師範に入学した。歳は三千代より7つ上だが、同窓ということもあり二人は心を許す友となった。
 「上海生活の一ばん印象の深かつたある夕。女子高等師範時代の級友、黄白薇姉妹と、三人で、新雅亭の卓をかこんで、恋愛論をたたかわせたこと。この支那の女流文士の大胆さは私を顔負けさせました。」(『東方の詩』)
 黄白薇は東京高等師範在学中に、6歳年下で東京高等師範学校に留学中だった楊騒と出会い、激しい恋愛を経験していた。ただ楊は初恋の人が忘れられずに帰国し、黄薇も1926年には帰国して国民党政治部で日本語の翻訳や武昌中山大学の講師をつとめ、やがて上海に移って作家活動をはじめたのだった。魯迅や黄白薇との交流は、わが身をふり返る三千代にとって大きな励みとなった。時代の潮流に敏感な彼女は、革命の機運が渦巻く中国の現状と、そこで活動する中国の作家を見るにつけ、土方に導かれた左翼思想をもっと学びたい、文学で身を立てたいという思いがあらためて募った。
 「その頃、日本で、澎湃としてみなぎり起つてゐたプロレタリア文学の気運は私にもひゞきをつたへ、私はすぐにも日本へ帰つてそのなかに飛び込まなければならない衝動にかられたり、それが出来ない状態のためにいらいらしたり、動揺と不安と、楽観とが交々私を襲ひました。結局、私が日本を出発するに至つた動機のために、私は先へ先へと押し出されるより仕方がありませんでした。」(『東方の詩』)
 二人にとって上海滞在はそろそろ限界だった。三千代は、金子と別れて、土方と乾がいる日本に帰ろうかと思い、前田河に相談したことがあった。だがそれを知った金子が追いかけて来て引きとめられた。こうしたこともあって、金子は旅を先に進める決心をしたが、まずは旅費をどうしてつくるかであった。さしずめ得意の絵を描いて売るしか方法は見当たらなかった。
 「幼い頃、京都の日圭という画師の弟子の百圭という貧乏画架に四条派のつけたての手ほどきをしてもらい、東京に出てきてからは、牛込の見付内の、逓信博物館のあるへんにいた、版画家の小林清親に画をみてもらい、その後は自我流で上野の東京美術学校の日本画に入学し、いくばくもなく退学させられた。(中略)しかし、清親とは風の変った風俗画を画くので、すこしは認めてくれるものもあり、広重風な上海名所百景を画くことにおもしろ味を見出して、五品、十品と半紙大の画仙紙に書きためていた。」(『どくろ杯』)
 虹口の文路にある日本人倶楽部の二階で開いた展覧会で、狼毫の自由自在な毛筆で描かれた絵はよく売れた。会期は三日間で、三千代がひとりで会場係と売り子をつとめた。買ってくれた多くは在留邦人だったが、魯迅も二枚買ってくれた。『魯迅日記』には、1929年3月31日の項に、「(前略)午後柔石・真吾・三弟及広平と金子光晴浮世絵展覧会を観にゆく。二枚を選んで賄う。二十元」とある。魯迅が買った二枚の絵は、《大世界唄女之図》と《鉄橋》で、『北京魯迅博物館蔵画選』に収録されている。
 金子たちの送別の宴が開かれたのは、5月初めのことである。このときも内山夫妻が催してくれたもので、謝六逸が夫婦のパリ行きを祝ってと題して漢詩をつくってくれた。そして翌日、二人は一緒にパリまで行くという佐藤英磨とともに、日本郵船の三等船室の客となった。荷物はそれぞれの身のまわりの品と売れ残った絵だけだった。行き先はパリではなく香港だった。絵を売って得た金は、たまっていた宿代や食事代を払うと、香港までの船賃しか残らなかったのである。(続)
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by monsieurk | 2016-03-20 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女、金子と森の場合(第2部)Ⅱ

 上海の冬は寒く、三千代は火の気のない部屋でベッドにもぐりこんでいることが多かった。金子の方は寒さのなかを上海の街を歩きまわった。そして寒さに堪えられなくなると、二人は目の前の内山書店に行ってストーブにあたらせてもらい、美喜子夫人が入れてくれる宇治茶を飲んで一息つくのだった。三千代は1934年(昭和9年)3月1日に発行した詩集『東方の詩』の「後記」で、次のように書いている。
 「・・・私が上海についたのは十一月の暮れでした。北四川路余慶坊、内山書店の対ひの、最初の上海旅行の時にゐたとおなじ家に落ちつきました。(中略)上海の生活もなかなからくではありませんでした。故郷の坊やに手紙をやりたくて、内山のをぢさんに郵便切手をもらひにいつたこともありました。
 朝起きても私の胃の腑はからつぽでした。私は抽出しの中や、靴下の底まで探しても銅貨一枚見当たりません。黒砂糖のやうな香ひのする支那煙草をいつもぷかぷかやってゐる、天草生れの下宿のおばあさんが、そんな時、見るに見かねて、――パン食べまつせえといつてくれたものです。」(『東方の詩』)
 内山書店は主人の人柄から千客万来で、日本から来た文学者だけでなく、めぼしい中国の文人もよく顔をみせた。金子はここで田漢、郁達夫、魯迅や許広平と知り合いになった。d0238372_15141226.jpg魯迅(写真)は蒋介石が反共クーデタを起こすと広州を脱出して、1927年(昭和2年)10月に上海へ亡命し、日本人租界の虹口(ほんきゅう)に住んでいた。魯迅は47歳、連れ合いの許広平は29歳だった。金子は魯迅とも親しく口を利く仲になった。『どくろ杯』では、「ときには、私がそばへよって話しかけても、ばつが悪そうに、相当ひどい虫歯の口でとってつけたように笑顔をみせながら、〈上海に長居しすぎているのではありませんか〉と、警告をふくんだようなことを洩らした」と書いている。
 金子と三千代の上海での日々はこうして過ぎていったが、三千代は別れてきた土方定一のことを忘れたわけではなかった。その後も二人の間には手紙のやり取りがあり、あるとき、三千代宛ての分厚い封書が届いているのを金子が見つけた。そこには分厚い手紙とともに、彼女が出したがっている詩集用のデザインが入っていた。仔馬三頭を土方が描いたもので、これを知った金子が意地になって印刷所を見つけ、それを表紙にした三千代の詩集『ムヰシュキン公爵と雀』を出版することにした。この経緯は、先のブログ「男と女――金子と森の場合」(ⅩⅦ、2016.01.26)で書いたとおりである。
 印刷屋を営んでいたのは島津四十起(しじき)で、佐藤春夫の小説「老書生」のモデルとして知られていた。上海で金鳳社という印刷所を経営するかたわら、中国全土をまわって、商店や会社、銀行などの在留邦人の名簿の記載料と広告をとって収入にしていた。金子は打ち合わせで訪ねていくうちに昵懇となり、島津の妻が留守中に店の若い書生と浮気をしたこと。書生は追い出したが妻は離別せず、その代わり一生こき使って償いをさせると打ち明けられた。金子が三千代の土方との顛末を話すと、満州にいる知り合いの芸者の写真をわざわざ取り寄せて、三千代と別れてこの女と結婚しろとしきりに勧めた。二人はコキュ同志だったが、女にたいする考えは正反対だった。島津は不倫した妻は徹底的に懲らしめると言うのに対して、金子は、女にも自由をあたえるべきだと言って譲らなかった。これはあながち金子の強がりではなかった。『どくろ杯』では、揺れる心のうちを次のように書いている。
 詩集をつくる話がまとまると、三千代は思いのほか喜んだ。「そのよろこびの底ににじんで出るもう一つの人影に私はさしてこだわる気持はなかった。過去を剪みとる意をこめて断髪にしてからまだ一年にならない襟もとのポイント形に剃りあげた短い草萌えいろに、私は、陶製のかいだんをおりてゆきながら、そって唇をつけた。菜館の前で彼女は別れ、ハスケル路の近くのイギリス人がひらいているダンス教習所へ正式な社交ダンスを習いにいった。よそに恋人をもってその方に心をあずけている女ほど、測り知れざる宝石の光輝と刃物の閃きでこころを刳るものはない」(『どくろ杯』)
 さらに晩年になってからだが、当時の三千代をこう回顧している。「彼女は、なにか、眩ゆいものをもっていた。視力の弱いものは、彼女を見ていると疲れると言った。おそらくその眩ゆさは、彼女の気の多さ、好奇心のつよさ、欲望のはげしさ、健康な若いからだから発する熱気かもしれなかった。(中略)恋愛関係になったときも彼女は、うち割ったところ、あいてが一人よりも、四、五人あった方がよかったのではなかったかとおもう。」(「良妻・悪妻・いま病妻」、文芸春秋、1974年10月号)
 金鳳社の島津から、武漢三鎮を守まわって、在留邦人名簿の会費を集め、あわせて新たな広告を取ってきてほしいという依頼をうけて、三千代と二人で漢口へむかったのは12月11日のことである。漢口までは5日5夜、揚子江を遡る70時間の船旅だった。三千代の回想では、「官船一等といふのですから、寝具の仕度ぐらゐはあるつもりでゆくと、うすい毛布が一枚で、暖房の設備もありません。隙間をもれてくる揚子江の河風の冷たさに震えながらの夜は、水深をはかる水夫の声と、夜つぴての隣室の麻雀牌をくづす音で、あけ方まで眠りつくことができませんでした。
 縹渺として果てしのない揚子江の水の上に、九江や大冶の湊があらわれる風景忘れるをことができません。」(『東方の詩』)
 二人は集金を済ませて対岸の武昌(ウーチャン)には有名な黄鶴楼があり見学に行った。武漢で12月17日に、人力車夫が日本の陸戦隊機銃車と衝突する事件があり、反日ムードが高まっていた。その上北上してきた蒋介石軍駐屯しており、中国人兵士たちは金子を見つけると、「東洋(トンヤン)、トンヤン」と罵声を浴びせ、唾をはきかけた。
 1929年(昭和4年)の正月は上海で迎えた。金子35歳、三千代は28歳だった。秋田義一は正月に一度日本に帰ったが、一カ月ほどでもどって来た。d0238372_093223.jpg
 三千代が待ち望んだ32ページの詩集『ムヰシュキン公爵と雀』は、1月21日に印刷が上がり、23日付けで発行された。現在、国立国会図書館に所蔵されている詩集の裏表紙には、「著者 上海北四川路余慶坊一二三号 森三千代、上海蘆澤印刷所」となっている。彼女はさっそくこの一冊を魯迅に贈呈した。1月31日の魯迅日記には、「達夫来る。『森三千代詩集』一冊を渡され、ちまき十個を贈られる。」とある。三千代は郁達夫を通じて、魯迅に詩集を贈呈したことがわかる。
 これと前後して、プロレタリア作家として名をあげた前田河広一郎が上海にやってきた。前田河は1921年に雑誌「内外」に発表した「三等船客」で注目され、その後「種撒く人」や「文芸戦線」に小説や評論を発表して注目されていた。今回は「改造」から連載小説を頼まれて、その取材ということであった。取材費なのか金を持っていて豪勢な旅だった。
 1月26日には、内山完造が前田河を歓迎する宴を催し、魯迅と許広平、郁達夫夫妻、林語堂などとともに、金子と三千代、秋田義一も出席した。これをきっかけ金子と三千代は前田河と親しくなり、フランス租界のバーやダンスホールを飲み歩いた。それでも前田河は小説の取材が気になるとみえて、内外綿の工場をみてまわり、女工たちの寮の浴槽に入れてもらったりした。秋田はそんな前田河を、「なんでも利用して、自分の役に立てればそれでいい粗雑極まる物質主義者」だったと嫌ったが、第三者の金子から見れば、「どっちも、日本人好みの感傷家であることが、可哀そうになるくらい似ている」(『どくろ杯』)のだった。(続)
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by monsieurk | 2016-03-17 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女、金子と森の場合(第2部)Ⅰ

 金子光晴と森三千代の上海滞在は1928年(昭和3年)11月末から、翌29年5月に香港へ向かうまで半年余り続いたが、そのあいだ二人は上海の日本人租界の中心だった北四川路123番地の石丸りか方の二階を借りて住んでいた。ここは有名な内山書店の筋向いある里弄とよばれる集合住宅の一角で、二年半前に上海に来たとき、書店主の内山完造の世話で転がり込んだ宿屋だった。家主の石丸りかは長崎の出身で、スウェーデン人と結婚したが、夫に先立たれてこの「日の丸旅館」を経営していた。金子は彼女に「唐辛子婆さん」という綽名をつけた。二人が到着としたときの所持金は5円60銭で、持物は豚革の大きなトランクと、ファイバー製のスーツケースに入れた夏冬の衣類だけだった。d0238372_2053028.jpg
 到着直後、三千代がマラリアに罹り高熱を出したが、内山夫人の美喜子が差し入れてくれたキニーネを飲むとすぐに回復した。そして金子が来たことを聞いた旧知の田漢が、上海郊外の斜橋徐家匯路の映画スタジオを宴会場にして歓迎会を開いてくれ、文人や映画関係者が4、50人出席してくれた。
 問題は生活費をどうやって稼ぐかであった。宿は泊まるだけで賄いなどはなく、三千代がままごとのように見よう見真似で飯を炊いた。
 所持金は10日も経たずになくなり、仕方なく『艶本銀座雀』という春本を書き上げて、借りてきた謄写版で刷って売ることにした。色彩で描いた表紙もつけ、180冊ほどを仕上げて、家主のところで花札を引いている連中のなかから、彼女が選んだ男(これには「鼻のぽん助」と綽名をつけた)に、1冊1メキシコ銀貨1ドルの卸値で売らせることにした。鼻のぽん助は、上海にいる羽振りのいい日本人にひそかに売っているようだった。金子と三千代は銀貨を手にすると、広東料理の「新雅」で豪勢な夕食をし、唐辛子婆さんに連れられてドッグレースへ出かけるなどして、金はたちまちなくなった。
 ある日、繻子の中国服を着こんだ画家の秋田義一がひょっこり訪ねてきた。秋田とはかつて詩誌「楽園」の同人だった仲で、気心の知れた相手だった。前日に日本から着いたということだった。誘われるままに三千代と連れ立って蘇州川を渡り、五馬路の中国旅館へ行った。秋田はそこに泊まっていて、部屋には画架が置かれ、描きかけの薔薇の絵がのっており、画架にはバラの絵葉書がピンでとめられていた。急いで絵を仕上げて売らなければ宿賃も払えないということだった。金子と秋田は絵を持って、買ってくれそうな人物を次々に訪ねたが、買い手はおいそれと見つからない。鐘ケ淵紡績の支配人からは5ドル札を3枚恵まれただけで体よくあしらわれた。
 金子の『どくろ杯』には、切羽詰まった秋田が「どくろ杯」を持ち出す挿話が書かれている。秋田は、蒙古で手に入れた処女の頭蓋骨を酒器にしたものを金子と三千代に見せる。中国でどくろ杯は昔からあったものである。秋田はこれを高く売って一儲けしようとして、日本人経営の宝山玻璃廠というガラス工場に勤めるガラス吹き職人が、これに異常な興味を示す。しかし金のない職人は買うことができず、墓からどくろを持ち帰って自分でどくろ杯をつくろうとする。やがて彼は、そのどくろ杯が発する燐火に悩まされ、神経衰弱になってしまうという挿話である。
 金子はこの話がよほど気に入たらしく、著書のタイトルにしたほどだった。挿話では、どくろ杯を見せられた金子は、手に取っていろいろと想像をめぐらすが、三千代は彼の腕をつついて、はやく箱にしまってほしいと言ったことになっている。金子は、「じぶんの頭の皮を剥がされる痛さに実感があるかららしかった」と、彼女が被害者になる自分を想像して怖れているように書かれている。だが事実は、森三千代の方が、『どくろ杯』より先に発表した小説「髑髏杯」で、この出来事を紹介しているのである。
 森三千代は戦後、上海での体験に根ざした一連の小説を発表した。それらは「春灯」(「改造」1947年3月)、「女の火」(「世界文化」、1948年2月)、「火あそび」(「東北文学」、1948年3月)、「髑髏杯」(「新小説」、1950年2月)、「根なし草」(「文学界」、1950年4月)で、このときの上海を舞台にした短篇であった。
 短篇「髑髏杯」では、かつて恋人であった須貝のところで偶然知りあい、主人公の朋子(他の連作にも名を変えて登場する)と同棲している酒飲みのガラス吹き職人斎田が髑髏杯に異常な興味をもち、ついには墓地から髑髏を盗んで、自分で髑髏杯をつくろうとする。肺を病んでいる斎田は喀血を繰り返し、ついに自殺してしまうのだが、生きることへの興味を失った朋子は、斎田の死を他人事のように眺めるだけであった。これが三千代の「髑髏杯」の粗筋だが、金子の『どくろ杯』との間に共通点が多いことがわかる。ガラス吹き職人がどくろ杯に異常な興味をもち、自ら墓をあさってどくろ杯をつくるという物語の設定、ガラス吹き職人は長生きできず、酒に溺れ、血を吐いて死ぬところも同じである。こうしてみると、二人にはこれに類した体験が実際にあったのか、それとも二人が話をするなかで、この異常な物語が形づくられていったのであろうか。(続)
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by monsieurk | 2016-03-14 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

森三千代の詩集『東方の詩』

 森三千代は文学人生を詩人としてスタートした。彼女が1924年(大正13年)、23歳のときに金子光晴の許を訪ねたのも、『こがね蟲』を発表していた詩人の意見を質そうとしてのことであった。
 d0238372_103098.jpg森が二十代から三十代後半の人生を送ったのは二つの大戦間であり、文学の上では、激動する政治に呼応する形で、ダダイスト、シュルレアリスト、アナキスト、コミュニストたちが次々に登場した時代であった。国語教師の娘として地方で生まれ育った森の本質はプチブルジョア的なものであったが、金子光晴との結婚によるこの後の歩みは、愛の遍歴がそのまま社会秩序への抵抗になるといった形を取った。こうした彼女の生の息吹から生まれたのが、彼女の5冊の詩集である。
 その5冊とは、『龍女の眸』(紅玉堂書店、1927年)、金子光晴との共著『鱶沈む』(有明社、1927年)、『ムヰシュキン公爵と雀』(蘆澤印刷所、上海、1929年)、『Par les chemins du monde(世界の道から)』(Léonlivrat ,Bruxelles, 1931年)、『東方の詩』(図書研究社、1934年)である。
 この度、神田の古書店「けやき書房」から『東方の詩』(写真)を入手した。四六版、版画六葉(フランシーヌ・ルパージュ)、本文七四頁、跋〈フランシーヌ・ルパージュ)一頁、後記五頁、目次四頁。定価は一円である。
 これはフランス語の詩集『Par les chemins du monde』の日本語版で、そもそものフランス語詩集は、ブリュッセル滞中に金子ともども森が世話になったイヴァン・ルパージュが送別会を催してくれた折に、娘フランシーヌの版画6点をつけて出版を勧めてくれたものである。
 金子と森三千代は度重なる曲折をへて 1932年(昭和7年)4月に帰国し、そこへ印刷を終えた詩集がブリュッセルから送られてきた。彼女はさっそく新宿の紀伊国屋に販売を頼んだがさっぱり売れず、3年後の1934年3月、版画はそのままにして詩を元の日本語にして出版したのが『東方の詩』である。
 収められた詩篇はタイトルが示す通り、彼女が金子光晴とともに、1928年12月に長崎を出て、上海、香港をはじめとする中国、シンガポール、インドネシア、マラッカなどの東南アジアを旅して得た題材を詠った28篇と、パリを舞台にした1篇、そしてフランシーヌ・ルパージュの挿画6点(写真はそのうちの1点)からなる。
 冒頭の一篇「印度洋」――d0238372_152379.jpg


まつさをい海。
でこでこしたラムネの罎のやうな海。
その海の上で、あたしのからだがねぢれる。
サキソフオンのやうに。

私の聡明、形のわからないものゝなかに、思想のゆれてゆく小径
を考えてゐる。
ヘナヘナになつて、雲形にもまれてゐる感情の上に、
船欄のバランスが変形するのを、わたしは眺めていゐる。
未熟な果実のやうなまつさをな海の上の朝だ。

ごらんなさい。
宿酔うの、はれぼつたい顔、あたしの眼は充血してゐる。
波のなかに浮いて漾つているけふの玩具。
めがね、ピストル、とかげ、シルクハツト、鋏、かうもり傘、いか
り、・・・・それから

 フランス綴じの詩集の奥付には、「昭和九年二月二十五日印刷 昭和九年三月一日発行 定価金壱円送料四銭 著者 森三千代 発行兼印刷人 東京市神田区猿楽町一丁目五番地 守部市美 印刷所 図書研究社印刷部 発行所 東京市神田区猿楽町一丁目五番地 図書研究社」とある。
 そして詩集には森三千代よる「後記」とともに、フランシーヌ・ルパージュの次のようなフランス語の文章が印刷されている。

Ecrire quelque mot, ma chère michiyo, est déjà chose difficile pour quelqu’un de qualifié, pour moi c’est presque impossible.

Je vous remercie de m’avoir fait confiance pour ilustrer vos poèms par quelque bois. J’espère que mes gravures vous plairont, mais je crains que ces oppositions brutales de noir et de blanc ne correspondent pas aux images que vous suggèrent vos poésies.

En Europe, nous admirons beaucoup votre Art, nous en sentons toute la beauté, mais le sens profound nous en échappe souvent.

Aussi, ce fut parfois difficile pour moi d’inter-préter graphiquement vos poèmes d’une sensibilité si delicate, et si différents de notre Occident, et qui, malgré votre long séjour parmi nous, gardent la forte empreinte de votre pays natal.

        FRANCINE LEPAGE.

(親愛なる三千代、言葉を書くのは、訓練を受けた人にとっても難しいのに、私にはほとんど不可能です。

あなたの詩に木版で挿画を添えるのに、私を信頼してくださったことを感謝いたします。私の版画を喜んでくださるのを期待しますが、黒と白の強烈な対照が、はたしてあなたの詩が暗示するイマージに合っているかどうか心配です。

ヨーロッパでは、あなた方の「芸術」は大いに賞讃され、私たちはその美に感じ入っていますが、それでもその深い意味を逃してしまうことがよくあります。

同様に、あなたが私たちの許に長らく滞在していたとはいえ、故国の特徴を色濃く留め、私たち西洋のものとは大きく異なる、きわめて繊細なあなたの詩を造形することは、私には大変むずかしいことでした。

                フランシーヌ・ルパージュ)

 詩集『東方の詩』には、森三千代自身が足かけ5年にわたる金子光晴との海外放浪を回顧した興味深い「後記」も含まれている。この度入手した詩集の扉の裏には、正富汪洋に宛てた献辞が書かれている。正富は1881年(明治14年)に岡山で生まれ詩人で、詩誌「新進詩人」を創刊した人である。さらに裏表紙には中野区の「キェピタル・アパート 森三千代」という鉛筆の書き込みがある。
 次回から再開するブログ「男と女。金子と森の場合(第二部)でも、この詩集から幾篇かを紹介する機会があると思う。
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by monsieurk | 2016-03-11 22:30 | | Trackback | Comments(0)

玄関風呂の行方

 昔から愛読している小説の一つが尾崎一雄の短編「玄関風呂」である。尾崎の初期短編集『続暢気眼鏡』(砂子屋書房、昭和13年)に収録されたもので、初出は「早稲田文学」の昭和12年6月号。400字詰め原稿用紙にして13枚の短編である。
 ある日、作者である尾崎が用足しから帰宅すると、それを待ち構えていた細君が、物を買うから3円を用意しろという。何を買うのかと尋ねると、何なのかをなかなか言わない。「とにかく大きいものなの」、「中がガランドウなの」、その上、蓋があるとか、一人じゃ持てないなどといっていたが、問いつめると欲しいのは風呂桶だった。一軒置いた隣に住む巡査の一家が引越しをすることになり、5円で買った中古の風呂桶を3円で買ってくれと言われて、細君は買う気になったのだった。
主人公はその夜、早稲田通りにある大観堂という古本屋で必要な3円をつくり、居合わせた囲碁好きの知人と碁をうって夜中の12時ごろに家に帰ると、玄関に風呂桶と附属品一式が置いてあった。
 「家のものは皆よく眠つてゐる。私は家内の枕元にきつちり三圓の銀貨を置き、二階へ上らうとしたが、思ひ直して家内の頭をゆすぶつた。漸く起き上つて眼をこすつてゐる家内に、
 「風呂桶を買つたのはいいが、一體どこへ置くつもりだ」と云つた。
 「どこへ置くつて? お風呂を――あ、さうか」と、急に目が覚めたやうに、家内は考へ込んで了つた。」
 一家でいろいろと考えた末に、玄関で風呂をたてることにした。尾崎が男の子と入るときは、細君が女の子と玄関の外で見張りをし、細君が女の子と入るときは尾崎が男の子と遊びながら、それとなく警戒した。大抵は夜に風呂をたて、近所の細君ももらい湯にくることもあった。
 それで玄関風呂の顛末はどうか。最後はこうしめくくられている。
 「「うちでは玄関で風呂を立ててゐるよ」
 ある時井伏鱒二にさう云つたことがある。すると彼は目を丸くして、
 「君とこの玄関は、随分たてつけがいいんだね」と云つた。これには、こつちがまた目を丸くした。彼は玄関をしめ切つてたたきに水をくみ込み湯を沸かすとでも思つたのだらう。呆れた男である。その後、何かといふとこれを持ち出し、彼を閉口さしてゐる。」d0238372_1662881.jpg
 写真は早稲田文学の面々で、左から丹羽文雄、尾崎一雄、浅見渕、そして井伏鱒二である。
 この玄関風呂には後日談がある。それは1953年(昭和28年)に、池田書店から出版された『尾崎一雄作品集』第一巻の月報「梅花帖 1」に、当時早稲田大学高等学院の教諭だった引法春見が書いている、風呂桶のその後の行方である。貴重な資料なので長くなるが引用してみる。
 「「玄関風呂」の風呂桶を私が譲りうけたのは、此三月〔1953年・昭和28年〕高等学院を出て早稲田大学生になった鮎雄ちゃんが二歳の時であるから一昔半も前のこまかいいきさつはすっかり忘れてしまったが、たゞ、今でもはっきり一つだけ覚えていることは、当時風呂桶の希望者が何人かあったうちで一番低い価格の二円五十銭で私の家のものになったことである。入札の定式からいえば全く反対の現象である。鶴巻町の通りにあった喫茶店「山査子」のマダムや、壇一雄氏のは確か十円であった。近所の家々でも希望者があったようだ。今なら二円五十銭と十円では大した相違はないが、当時は新宿の「秋田」の酒などはお銚子一本が二十銭か二十五銭で、おまけに何品かのつきだしのお代わりまでも出来た時代であったから、その差額は実に大きいのである。そもそも私がこの一件にのりだしたのは、私の長女がその頃小学校の三年生であったが、この子が産婆さんが余程生湯の使い方の名人であったのか、生来の風呂好きで、むづかっている時、お風呂へ行こうというと、ぴたりと泣くのをやめて機嫌が直るといったくらいであったこの子の申出によったのである。(中略)私と妻とが尾崎家の風呂桶の話をしていると、これを耳にした風呂好きの長女が、海に行かないでいゝからその金で是非風呂桶を買ってくれと強硬に申入れをしてきたのである。〔海水浴へ行くつもりで〕五円の予算をたてゝいた矢先であったし、娘の熱意もわかったので、早速妻を尾崎家へやった。引取りに行った妻の帰ってきてからの話によると、尾崎夫人はどうしても二円五十銭しかとらないというのである。私は先口に十円というのがあるのを知っていたし、子供の喜ぶのもわかっていたし、元値の三円をもたしてやったのであった。五十銭は子供に何か買ってやってくれといって頑としてうけとらないで、その上、そばを御馳走になり、冷たい麦湯をつめた麦酒瓶一本をもちだして、ジャンジャン飲め、といって歓待されてきたというのである。私はそれをきいた時尾崎一家の友情と、貧しても貧しない気品、好い意味での意地っ張りを強く感じた。それというのも、山査子には既に風呂桶はあったので、七円五十銭は欲しかったのだが、マダムの十円のいい値に対するレジスタンスが彼も今日を成している所以だと私は思う。私の家ではお蔭でそれこそ長女は文字通り欣喜雀躍、毎日朝からとでもいいたい位風呂に入り浸り、海にでも入ったつもりで、鼻歌まじりの御機嫌であった。」
 尾崎一雄と愛妻の「芳兵衛」こと芳江夫人の面影が偲ばれるエピソードである。
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by monsieurk | 2016-03-08 22:30 | | Trackback | Comments(0)

押収された本の行方(2)

 裁判で有罪となった文学作品としては、シャルル・ボードレールの『悪の華(Les Fleurs du Mal)』の例がすぐに思い浮かぶ。『悪の華』の初版は1857年6月25日ごろ、パリのプーレ=マラシ・エ・ド・ブロワーズ書店から並製本3フランで発売された。すると7月5日には、「フィガロ」紙にギュスターブ・ブールダンが批評記事を書き、そこで『悪の華』を背徳の書だとして激しく非難した。d0238372_10333386.jpg
 この記事を受ける形で、2日後の7月7日、公安総局は内務大臣に宛てて、「『悪の華』と題されたシャルル・ボードレール氏の書物は、宗教と道徳とを擁護する法に突つけられた挑戦であります。」として、「聖ペトロの否認」、「アベルとカイン」、「魔王(サタン)への連禱」、「殺人者の葡萄酒」、「地獄墜ちの女たち」、「吸血鬼の変身」、「宝石」の7篇をやり玉にあげた。その後新聞には、ボードレールを擁護する意見も掲載されたが、当局はボードレールを告発する手続きを着々と進めた。ボードレールは7月22日の母親宛ての手紙で、予審判事のもとへ出頭して3時間におよぶ尋問を受けたこと、判事は大変親切に見えたことなどを伝えている。だがこうしたボードレールの甘い期待にもかかわらず、彼は告訴され、1857年8月20日にセーヌ軽罪裁判所第六部において公判が開かれることになった。裁判長がデュパティ、陪席判事がドレヴォーとナカールの二人、検察側の代表は、この年5月に行われたフローベールの『ボヴァリー夫人』裁判を担当したばかりのエルネスト・ピナール検事だった。これに対しするボードレールの弁護士はギュスターヴ・シェ・デスタンジュ、プーレ=マラシとド・ブロワーズの弁護にあたるのはランソン弁護士だった。ちなみにこの日出廷した被告は、ボードレールとド・ブロワーズだけで、プーレ=マラシは欠席した。
 このときの裁判記録は、1871年5月24日にパリ裁判所の記録保管所が火災に会った際に焼失してしまい、現在残っているのはピナール検事の論告と、ギュスターヴ・シェ・デスタンジュ弁護士がボードレールのために行った口頭弁論である。裁判はヴァカンスの季節ということもあり、この一回の公判で結審した。判決文は以下のようであった。
 「ボードレール、プーレ=マラシおよびドブロワーズ〔ママ〕は、公衆道徳良俗侵害の軽罪を犯したという理由により、すなわち、猥褻かつ背徳的な箇所ないし表現を含む『悪の華』と題する著作を、パリおよびアランソンにおいて、ボードレールは出版し、プーレ=マラシおよびドブロワーズは出版かつ販売したという理由により、
 前述の箇所が、詩集20、30、39、80、81および87の番号を有する詩篇に含まれているという理由により、
 ならびに1819年5月17日法第8条、1819年5月26日法第26条により、
 ならびに刑法典第463条により、
 ボードレールを、300フランの罰金刑に、プーレ=マラシおよびドブロワーズを、各100フランの罰金刑に処し、
 詩集の、詩集20、30、39、80、81および87の番号を有する詩篇の削除を命令し、
 被告人に訴訟費用の連帯支払いの義務を言い渡す。」
 ところで初版本は当初何冊ぐらい印刷されたのだろうか。1968年のプレイアード叢書『ボードレール全集』の編者によると、印刷されたのは1300部で、全体の1割ほどの「増し刷り」と著者の取り分をこれから引いて、凡そ1100部が公に申告されたと考えられる。オランダ紙に刷られた特製本が定価6フランでこれが20部。その他が並製本であった。ボードレールが言うところでは、「本の差し押さえのあと、価格は大いに変化した。上質本の何冊かは、20フラン、いや40フランで売れた。」
 ただ当局の差し押さえを逃れた本がどれほどあったかは正確には分からない。いずれにせよボードレールたちは判決により、『悪の華』の初版本を作り直さざるを得なくなった。その結果、1861年に第二版が新たな装いで出版されるまでには、5種類の『悪の華』が存在することになった。それは――
1 削除を命じられた6篇の詩(禁断詩篇)をすべて含むもの。
2 6篇を削除して、刷り直し分を挿入していないもの(およそ200部)。
3 6篇を削除した後、刷り直したページを挿入したもの(刷り直しページというのは、たとえば「宝石」を削除して、その前半部と表裏をなす「女巨人」の後半部、後半部と裏表をなす「異国の香り」の前半部を裏表にして刷った一葉を挿入したもので、この形の本がごく少部数しか見つかっていない。)
4 1857年に削除され、アランソン裁判所の記録保管所に供託されていたページを、20世紀になって盗み出して補ったもの。
5 プーレ=マラシが製本しないまま保存し、ほとぼりが冷めるのを待って、1857年という年号を入れた表紙と扉を印刷し直して売り出したもの。
さらにボードレールが出版直後に献呈した本や彼自身が所持していた一冊には、鉛筆による50箇所の書き込みがあり、これはのちに版画家のブラックモンに献呈された。以上のような5種類の初版本で、現存するものはきわめて少なく、『惡の華』初版は稀覯本中の稀覯本となった。
その後、ボードレールは新しい詩篇を加えた『悪の華』の再販を目指し、装いを改めた第二版が同じ出版社から1861年に刊行された。収録された詩篇は序詩「読者に」を含めて127篇。このうち95篇は初版に掲載されたもの(101篇から削除を命じられた6篇を引いたもの)で初版刊行後に制作され、雑誌に発表された33篇のうちの31篇と、これまで未発表だった「一日の終わり」1篇、合計32篇があらたに加えられた。さらに初版では5章だった構成が第2版では6章となった。第二版の章立てと各章の含まれる詩篇の数は、「憂鬱と理想」85篇、「パリ情景」18、「葡萄酒」5、「惡の華」9、「反逆」3、「死」6篇である。
 近代詩のさきがけとなった『惡の華』が、こうして広く読者の手に渡ることになったのである。
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by monsieurk | 2016-03-05 22:30 | | Trackback | Comments(0)

押収された本の行方(1)

 日本での文学の猥褻をめぐる裁判としては、D・H・ローレンス著、伊藤整訳の『チャタレー夫人の恋人』と、雑誌「面白半分」に掲載された、永井荷風作と伝えられる『四畳半襖の下張』裁判が有名だが、「面白半分」の発行人だった佐藤嘉尚が、『「面白半分」怪人列伝』(平凡社新書、2005年)で裁判の顛末を書いている。d0238372_11141983.jpg
 事件は「面白半分」の1972年7月号に作品を復刻して掲載したところ、これが刑法175条の猥褻文書に当たるとして、編集長の作家野坂昭如と発行人の佐藤嘉尚が起訴された。(『四畳半襖の下張』についてはブログ「Kafu」、2012.11.17を参照)
 「面白半分」は発売から17日後に警視庁保安一課によって摘発されて、当日の午前、当時品川区にあった編集室が家宅捜査を受けて、およそ3万部配本された雑誌のうち、全国の書店に残っていた3500部ほどが証拠品として押収された。その後、最高裁まで争われた裁判は、野坂に罰金10万円、佐藤には15万円の罰金という有罪判決が下って結審した。
 被告側は裁判で、伊達秋雄弁護団長など5人の弁護士と丸谷才一特別弁護人という弁護体制を敷き、吉行淳之介、開高健、石川淳、中村光夫など文学者、評論家や国語学者、編集者などが法廷に立って名論卓説を展開した。
 開高健は、「こんなことはあんまりないことだなと思いながらも、描写のうまさ、文章のうまさ、人間観察の細かさ、それから男の眼からみた女というものの特質、特徴、そういうことを研究しつつ読み進むわけです。つまりそうなると、これは某出版社が以前自社の出版物の特長を表す言葉として「面白くてタメになる」という言葉を使っていましたが、この『四畳半襖の下張』は、経験者にとっても、面白くてタメになる(おとなの)童話であるといえるんじゃないかと、私はまたまた愚考するわけです。」と話し、法廷内の爆笑を誘った。傍聴人に静粛を求めた裁判長も、最期には自分も笑ってしまうという有様だった。
 また詩人の田村隆一は、「(裁判は)こと野坂さんや佐藤さんの問題じゃなくて、やはり日本の現代及び将来の社会の運命に関わるトライアルだと思っております。ですから、日本でほんとうに活力のある言論表現、そういうものの自由が保障されていないと、いわゆる、生き生きとした、いい社会が生まれないような気がします。どちらかといえば私は、無制限に無原則に、いわゆる性の解放とか、そういったものを、むしろ支持しないほうなんです。しかし今回の問題点だけは絶対擁護したいと思いますね。」と、真面目な正論を展開した。これに対して検察側は終始一人の証人を呼ぶこともなく、ほとんど沈黙をつらぬき、結果として被告二人は有罪となった。
 佐藤嘉尚は判決について、裁判では「「言葉のズレ」がある上に、議論するテーマが「猥褻か猥褻でないか」といった、人間の頭の中の想像力という最も裁判になじまない分野のことだから、全く噛み合わない。この裁判が終始コッケイだったのは当然なのだ。」と書いている。そしてこのことの象徴が裁判の終結の仕方だった。
 発売17日後の6月22日に、全国の書店で売れ残っていた「面白半分」は3507冊で、これらは証拠品として押収された。猥褻裁判で有罪となった場合、判決文には、「証拠品はこれを没収する」という一文が入るのが普通だが、なぜかこの裁判ではその文言がなく、そのため刑事訴訟法に則って、押収された雑誌は本来の所有者である佐藤に返還されることになった。
 最高裁の判決の1年数カ月後、警視庁保安一課から佐藤に、証拠品を返すので取りに来てくれという連絡があった。「面白半分」社が倒産して、千葉の館山でペンションを経営していた佐藤は、さっそくワンボックスカーで警視庁まで受け取りに行った。すると全部で3507冊押収されたはずなのに、返されたのは2710冊だった。797冊不足している。
 佐藤は当然係官に質問した。すると保安課長は、「判決が出てから全国の県警の倉庫に保管していた『面白半分』を集めたらこれだけでした。何しろ十年近いですからね。いろんなことがありましてね。火事で焼けたり水害で水浸しになったりということもあったらしくて、今回はまあこんなところで了解していただいて」などと弁解した。さらに数カ月後、警視庁の係官が、その後に見つかったといって、よれよれに汚れた「面白半分」5冊を館山署まで持ってきて、「これ以上集まりません。勘弁してください」と言った。佐藤は、「警察の倉庫って日本一安全だと思っていましたけど、泥棒が入るんですか!」と精一杯の嫌味を言いながら受けとった。結局、792冊がどこかへ消えてなくなってしまったのである。
 佐藤は共同被告の野坂昭如に、半分返しましょうかというと、野坂は、「面白半分」のあの号はいま神保町で一冊2万円はするから、倒産して苦しい佐藤がときどき5冊か10冊ずつ売ればいい。まとめて売っては値が下がるから、絶対だめだよと念を押したという。
 このせっかくの忠告にもかかわらず、佐藤は初対面の人に名刺代わりにタダであげてしまい、手元にはほとんど残っていないという。
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by monsieurk | 2016-03-02 22:30 | | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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