ムッシュKの日々の便り

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森三千代詩集『龍女の眸』

 森三千代の最初の詩集『龍女の眸』(紅玉堂出版、1927年)を入手した。出版の経緯については、ブログ「男と女――金子と森に場合(Ⅷ)」(2015.12.25)に書いたので参照してほしいが、詩集は縦12.2cm×横18.7cmの四六版。桃色に近い薄茶色の表紙に、右か左へ横書きで、「詩集 / 龍女の眸 / /森 三千代 / 水面から首を出す龍を描いた丸い図案 / 1927 / 紅玉堂出版」とある。「詩集」、「森三千代」、「1927」の文字が赤で印刷され、他は黒の活字である。
 内容は、内表紙、野口米次郎の「序」二頁、森三千代の「自序」三頁、「遥かに父母に捧ぐ」の献辞一頁、そして一九二三年から二五年にかけてつくられた詩の本文が八九頁、そのあとに、尾崎喜八、大鹿卓(金子光晴の実弟)、そして金子光晴の「跋」八頁、「目次」二頁と続く。定価は一円だった。
 今回入手した本には、森三千代のペン書きで、「著者 / 南江二郎様」という献辞が書かれている。南江二郎は本名を南江治郎(1902-1982)といい、早稲田大学で坪内逍遥や小山内薫に学び、1921年(大正10年)19歳で、処女詩集『異端者の恋』を上梓し、1924年(大正13年)からは詩誌「新詩潮」を主催した。この間、彼は日本で初の人形劇の雑誌「マリオネット」や「人形芝居」を出して、同じように人形劇の普及運動に熱心だった土方定一とも交流があった。森三千代が南江に詩集を献呈したのも、多分にこのことが関係していると思われる。南江はその後NHKに入って番組制作にたずさわり、最後は理事をつとめた。
 この『龍女の眸』は稀覯本なので、森三千代の「自序」と幾つかの詩篇、それに金子光晴の「跋」を引用してみる。金子は「跋」では、「光晴」とだけ記している。
 まず「自序」で、森はこう述べている。
 「山上の空氣は澄み切つてゐました。老杉の樹の間から薔薇色の琵琶湖がほほゑむ爽かな朝の窓で時々ほととぎすの鋭い聲を聞きながら、白木に机に向つて書きためたものを整理して一冊にまとめようとしたのは、今から三年あまり前の事となつてしまひました。その頃はお茶の水の寄宿舎に學んでゐて、夏休みを利用して叡山に登つたのでした。サツフオが好きで、いろいろなロマンテイツクな夢にばかり耽つてゐた當時のものは、いま讀んでみてもろくなものはなく、この集では彼の時代のものはほんの一部分に止まり、おほかたその後の慌ただしい生活の中から生れ出たのであります。
 自然のままならば、當然就くべき教職といふ運命は私のやうな人間には無理だといふことをさとつて、それからのがれ、一夏は奥州に十和田湖を尋ね、東京へかへつてから一子を舉げて後、今度は長崎の両親の家で自分と子供と病後の身體を守りながら彼の地のエキゾテイシズムに深い興味を感じつつ、その間絶えず自分の貧しい詩藻を少しでも練るやうにと心がけてゐました。様々の労苦を伴つた生活は、私をしてただのロマンテイツクであった境地から蝉脱せしめ、眞正面に物を直視する習慣をあたへました。さうして私の詩は自分の欲しいと思つてもどうしても得られないもの對する郷愁と、現在の苦悩や悲哀をみつめつつ明日を期するその希望とに育くまれました。さうして得たこの集三十八篇の詩は、その時々に自分の意に満ちてはゐたものの、翌日は、否一時間後は、否一瞬後はもう不満な過ぎ去つたものでありました。
 ほんとうに新しい詩、何時見ても新しい詩、それを私は作り出したいのです。そのために私はまだまだ變つてゆくでせう。絶えず新鮮なゆたかな草と水とのために遂はれ続けてゐる遊牧の羊のやうに、私は今日の境地から明日の境地へ、更に明後日の境地へと進んでゆきたいと思ひます。もう苦しくなつて止めてしまひたいと思ふときがきつと来るにちがひありません。でも私は私をとりまゐてくれる様々な愛情の眼にはげまされてもつともつと先へ進むと確信します。
 十六七歳の頃、郷里の暖い山の斜面で、草の中に袴をはいた両足を投げ出して、いつまでも夢みる心を語つたり、稚い詩を育みあつたミス・ミヤハラ――その頃は美しい少女であつたが、いまどこにゐることか。ああその頃からの私は病みつきでした。一目でもいい、あの人の眼にこの本を觸れさせたい。
 東京へ出て来てからの學校との肌が合はなくて、私は始終憂鬱でした。その頃、某氏の紹介によつて門を叩いた松浦一先生の教訓は忘れることが出来ません。御かげでpoem の本道を踏みはづさずに辿ることが出来たと思つてるのは私のうぬぼれでせうか。殺風景な都會生活に荒みがちな私の愛情生活をもり育ててくれた人々――。
 どんな旋風が吹いて来ても、それ等の美しい眸が私自身の精進をはげましてくれるのを喜びとしてゐます。
 終にのぞみ、序文を寄せて下さつた野口米次郎氏、跋文をいただいた尾崎喜八氏、大鹿卓氏に厚く御禮を申上げます。そして更にさまざまな意味で援助を賜つたT氏に深い感謝を捧げます。
                                   森 三千代」
 萬年齢でいえば二十五歳十一カ月にしかならない森は、これまでの生活と思い、目覚めつつある意欲を率直に吐露している。ただ意図するように、詩集に収められた作品が、「ほんとうに新しい詩、何時見ても新しい詩」であるかどうか。ここでは三篇の詩を紹介してみよう。

 詩集冒頭の「海邊の家」。

男の胸にかほを塡めてゐると
哀しさがきりきりと目がしらに集つた。
男の肩幅は濱防風の咲いてゐる
頑丈な岩のやうだつた。

七月の夕陽を受けた障子の桟には
唐桐の花の影が濃く揺れてゐた。

絶え間ない遠い潮騒・・・・・。
食事の後まだ片附けない七輪の火が
白く濁つた灰をかぶつて
湯がしんしんと音を立てて沸つてゐる。
あの湯を咽喉に注ぎたくなつた。

じつと天井を見つめて
皮肉に口を結んでゐる男。
私は一日一日目立つてふくらんでゆくお腹をそつと撫でた。

男――
それは女にとつて
時に、離れがたない仇敵である。

 これは経済的に不如意になりつつあった金子光晴との生活を背景とする詩であろう。次の「雪」は、失ったものを追想する作品である。

ああまだ私が生れなかつた以前、
横つてゐたといふ眞白な花いつぱいの丘。
ああまだ私が生れなかつた以前、栄えてゐた街。
金色の街。
地平の果てを鳴り渡る銀笛(フルーツ)に
朗々と匂ひ出た遥かな氷郷の曙・・・・・

ああまだ私が生れなかつた以前、あつたといふ純潔。

 『龍女の眸』には、森が訪れた場所をテーマにした詩も多く収録されている。そうした詩篇の一つ、「居留地の散歩」。

秋になつた。
草の穂に陽の光が老け
踏み入れば銀色のきりぎりす飛ぶ。
海面はスレートの如く青く平か

粘板岩の敷石をゆく。
私の靴の踵に
紅い枯葉は肋骨(あばら)のやうにこはれてゆく。
ああ沈思と恍惚の深いことよ。

居留地の煉瓦塀から空に
秋は礫の如く飛ぶ聡い鳥がある。

 詩集の最後に置かれた「跋」で、伴侶の金子光晴は次のように書いている。
 「ここに三千代の詩集を世に送る欣びに邂逅した。
 月日がかけり、年々が落ちのびてゆく。二人のあひだにもいい日よりも悪い日が、美しい事よりも、つらい、苦しい、にがい思ひが多かつた。殊に女としてのお前のこころが、その純情を抱きしめる力を、おお なんと屡々歪ませられるところであつたらうか。
 私は、この詩集の内容に就いて可否を云々する役目ではない。
それには社會の批評といふものがある。よいものであるか、わるいものであるか、よいものとしても、それが理解されるまでに長い年月を要するものであるか。または案外早く時好に投ずるやうな種類のものであらうか? 私は、むしろお前の作品が、その時代のなるがままのとりあつかいひをうけることによつて、お前自らの眞實性のうごきをみるべきよいチヤンスをえたことをおもふ。
 ただ謂ふ。お前は勇ましく詩を精進してきた。そして、そのシンセリテーはお前の生涯を通してこの先、どこ迄ものびてゆくべきものであることを。                                              光晴」
 詩人の先輩としてまた生活をともにする者として、詩を志す森三千代を理解した愛情あふれる文章である。何ごとに対しても正面から立ち向かおうとsincerety・誠実さこそが、彼女の最大の特質であった。それがこの詩集にはよく現れている。ただ彼女の誠実さと一途さゆえに、金子は実生活の上でこれからも悩まされることになる。
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by monsieurk | 2016-04-28 22:30 | | Trackback | Comments(0)

森三千代詩集『ムヰシュキン公爵と雀』

 森三千代は詩人として文学者の経歴をスタートさせ、生涯で4冊の詩集を出したが、そのうちの一冊、『ムヰシュキン公爵と雀』が刊行された経緯に関しては、ブログ「男と女、金子と森の場合(第二部)」(2016.03.17)で述べたとおりである。この詩集はいまでは入手困難な稀覯本で、国立国会図書館にだけ一冊所蔵されている。これは電子化されていて、館内では閲覧し、必要な箇所を複写することができる。この所蔵本(特 255/ /48)の裏表紙には、「著者 上海北四川路余慶坊一二三号 森三千代、上海蘆澤印刷所」となっている。一九二九年一月二十一日印刷、二十三日付けで発行された。詩集の「序」で、森三千代は次のように書いている。
 「『ムヰシュキン公爵と雀』これは、私の『龍女の眸』『鱶沈む』の二つの詩集以後の作品を集めたものでございます。
 私はいま、欧羅巴へ行かうととして、その途上、この詩集を上海で印刷する運びとなりました。
 これ等の詩は、私の思想的の動揺を来した時代に成つたもので、私にとつては一区劃をなすものであると思はれます。そして、それはすべて未だ故國にある時のものばかりを特に集めました。
 私の家庭生活が、定住を失つて、船のやうに動き初め、一人の小供を両親の手に託して来て、私は淋しい。こんな時に出来たこの詩集である故に、私は殊更にこの詩集を愛する心が強いのです。私の生活の中の赤線、それがこの詩集なのでございます。」
 詩集には全部で十六篇の作品が収録されている。そのうちの「坊や」は、一九二六年(大正十五年)三月、二人で最初に上海旅行をした折に、長崎の両親のもとに残してきた子どもを思ってうたった絶唱である。

坊やの書いていつた兵隊さんは
帽子がよこつちよになつてゐるのね。

坊やのいつたあとで
障子の桟に、
白い包み紙のまゝのキヤラメルが一つ
のつけてあるのを見つけたのよ。

坊やの乗つたお船はどんなに大きかつたこと?
そして、お船は揺れたこと?

坊やのお船に乗つた夜は
母さんも同じやうな不安な波に夜つぴて揺られてゐたのです。

今朝、長崎の港に上陸して
第一番に誰に抱つこしたの。

ながい間、隔つてゐたおぢい様やおばあ様
そしてまだ年若い叔母様たちに
いちいち挨拶してゐるちいちやなお手々

坊やはいくつと聞かれた時に、忘れずに
『みつちゆ』と言へたでせうか。

けふ街を歩いてみると
どの子もどの子も坊やによく似てゐるやうで
ほんとうはちつとも似てはゐないのです。

ひとりで家に帰つてみると
坊やの書いた兵隊さんが
誰よりも坊やによく似て見えるのよ。

私は、障子の桟のキヤラメルを
そつとつまき上げて、またもとの通りに置きました。

 この詩の次の頁には、子どもの落書きのような挿画が添えられている。これも土方定一から送られてきたイラストなのであろうか。それとも森三千代が肌身離さずに持ってきた、息子乾の絵なのだろうか。
 詩集『ムヰシュキン公爵と雀』に収録された十六篇のうちの他の作品は、土方と金子との間で揺れ動く心情を描いたものが多くあり、ここではそのなかの三篇を紹介する。
 先ずは表題となっている「ムヰシュキン公爵と雀」――

さて、顔をあげるとどいつも此奴も私の顔を見て笑つてゐる
私はまた、昨夜何かくだらぬことをやつたに違ひない
であるから、わがムヰシュキン公爵は、えへらえへらと
低能児のやうな御挨拶を申しあげた

で、諸君!
雀のやうに語り給へ
雀のやうに歌ひ語り給へ
雀のやうに笑ひ給へ
君の道をゆく人にも、愛する人にも
かく言ひて、また、一しほてれたるわがムヰシュキン公爵である。

 ムヰシュキン公爵とは、言うまでもなくドストエフスキーの『白痴』の主人公を指しているが、これを印刷にまわす際に読んだ金子が、「これは自分のことだ」と思ったとしても、それは決して僻みではない。次の「野菊の蜘蛛」では、暗喩はもっと露骨である。

ふみつぶすのは何でもない。
殺すのは何でもない。

銀糸の刺繍した白の緒が
眞新しい足袋にからんでゐる、
厚いフエルトのすぐそばに
緑の美しい蜘蛛が
すうつと糸をひいておりた。

男が秋の枯野からとつて来た
一束の野菊からおりた小蜘蛛・・・・

ふみつぶすのは何でもない。
殺すのは何でもない。

蜘蛛!

二人の運命の間に、
すうつと糸をひいておりて来た小蜘蛛。

 事実関係からすれば、二人の間に降りてきた蜘蛛とは、金子と三千代の間に割り込んできた土方定一なのだが、ここでは枯野から野菊をとって来た男こそ土方で、そこから糸を引いておりた小蜘蛛こそ金子なのである。三千代の心理のなかでは、金子と土方の立場は逆転していた。そしてもう一篇の「落日時」――

この大ランプの中に
燃えてゐるのは、いつもの街か。

刻は、
一切をあげて、いま
孤つの高い燈台となつて
昇天しようとする。
うかみ上つてよかうとする、
明るい飛行船のやうでもある。

危つかしく、
行きつく所もない・・・。
(中略)

私を焦がすのは、夕陽か
否(ノーン)、それは火だ! 生活の
絶えまない炎とあらし。

刻よ、
昇天する大燈台よ、
どこへでもいゝ
この私をつれていつてくれないか
二度ともどつて来たくない。

 これは彼女の心からの願いだった。しかし、どこでもいいから連れて行ってくれと願ったのは、金子に対してではなく土方定一であった。金子はそんな三千代の心を知ったからこそ、目算のないこの旅に強引に彼女を連れだしたのだった。詩集の最後は目次になっていて、全十六篇の詩のタイトルの一番最後に、「装幀  T.H.」と印刷されている。
 三千代は詩集が出来上がると、さっそく一冊を上海で交流があった魯迅に贈呈した。一月三十一日の魯迅日記には、「達夫来る。『森三千代詩集』一冊を渡され、ちまき十個を贈られる。」とある。三千代は郁達夫を通じて、魯迅に詩集を贈呈したことがわかる。
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by monsieurk | 2016-04-25 22:30 | | Trackback | Comments(0)

サムライ外交官 堀口九萬一③

 堀口一家は新たな任地へ行く間は、日本に戻って待機するという生活を繰り返しましました。そこでブラジルの次のルーマニアに赴任するまでの4カ月ほどを、いつものように東京大森の「望翠楼ホテル」を宿にしました。九萬一は毎日のように外務省へ通い、大學は訳詩にはげみ、文学仲間との交友も復活しました。
 そうしたなかで、彼にとって後に大きな意味を持つ出会いがありました。「文玄社」の詩歌部門の責任者だった長谷川巳之吉と接点をもったことです。そして大學は、この頃、書き溜めてきたフランス詩の訳稿をまとめ、「月下の一群」というタイトルをつけて新潮社に託しました。

 堀口一家が日本に滞在中の、1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が起ります。幸い大森の「望翠楼ホテル」は被災をまぬがれ、一家は前の晩から大學を訪ねてホテルに宿泊していた佐藤春夫ともども無事でした。「望翠楼」は高台の固い地盤の上に建っていてそれが幸いしたのです。
 一家は、12月初旬に熱田丸で横浜を発ち、パリ経由で任地のルーマニアへ向かいました。日本とヨーロッパ間の船旅は1カ月余りかかり、時間をもてあました大學は、最近買い込んだフランスの新進作家ポール・モーランの小説『夜ひらく』を翻訳することにしました。熱田丸がスエズ運河を通り、地中海に出て、マルセイユに到着したのは1月中旬です。堀口一家はここで下船すると、マルセイユで一泊したあと、汽車でパリに向かいました。パリ到着は1924年1月末のことでした。
九萬一、妻のスチナ、岩子、瑞典(この二人はスチナが母親です)の4人は、パリにしばらく滞在したあと、大學を一人残して任地のルーマニアのブカレストへ向いました。大學はパリに宿を定めると、先に渡仏していた画家の旧知の版画家長谷川潔や画家の鈴木龍一と再会を果たし、鈴木の案内で藤田嗣治のアトリエを訪問しました。

 父の九萬一は、ルーマニアの後スペイン公使となり、1914年7月に第一次大戦が勃発すると、パリの大學を呼び寄せました。このスペイン滞在中に大學が親しくなったのが画家のマリー・ローランサンです。1883年10月パリに生れたローランサンは、パリの南の郊外セーヴルにある国立製陶所で陶器の絵つけを学び、さらにパリ市立の学校でデッサンを学んで、1903年には画塾アンベール・アカデミーに入って本格的に絵の勉強をはじめました。当時の画塾には、ジョルジュ・ブラックやジョルジュ・ルパープが画学生として通っており、彼らを通してキュビスムの影響をうけました。

 ローランサンが1907年に、「アンデパンダン展」に出品した《招待》が好評で、その後、画商クロヴィス・サゴの店で、パブロ・ピカソと知り合い、ピカソは彼女をモンマルトルにあった若手芸術化の住まいだった「洗濯船」へ連れて行き、美術評論を書いていたギヨーム・アポリネールに紹介しました。二人はたちまち恋に落ちます。
 ところが1911年、アポリネールはルーヴル美術館から《モナリザ》を盗んだ嫌疑を受けて逮捕、拘留されるという事件が起ります。彼は無罪となりましたが、ローランサンの気持はこれをきっかけに冷めてしまいます。しかしアポリネールの方は彼女が忘れられず、その想いをうたったのが、名作「ミラボー橋」です。ローランサンは間もなく、エコール・ド・パリの画家として世に知られる存在となります。
 そんな彼女の転機となったのが、1914年6月にドイツ人の画家オットー・フォン・ヴェツチェンと結婚したことです。彼女たちが新婚旅行をかねてスペインとの国境に近いアルカションに滞在していた8月3日、ドイツの侵攻に対してフランスが宣戦を布告し、第一次大戦がはじまりました。結婚によってドイツ国籍となったローランサンはフランスに留まることができず、二人はピレネー山脈を越えてスペインへ亡命しました。
 堀口九萬一が公使としてスペインに赴任したのはまさにこの時期です。そして第一次大戦が勃発すると、パリにいた大學をマドリッドに呼び寄せたのでした。ある日、大學は弟の瑞典の肖像画を描いてもらうために、画家たちが共同でアトリエを構える建物を訪ね、そこで知り合ったのがマリー・ローランサンでした。二人はお互いのなかに同じ感性を見出し、たちまち意気投合しました。
 大學はやがて彼女から絵の手ほどきをうけるとともに、アポリネールをはじめ、「エスプリ・ヌーヴォー」と呼ばれるフランスの詩人たちの情報を教えられます。戦禍を避けて異郷に暮らす二人の交流は、1916年に、ローランサン夫妻がバルセロナに居を移すまで続きました。ある日、ローランサンは「日本の鶯」と題した詩を大學にくれたということです。

 彼は御飯を食べる
 彼は歌を歌ふ
 彼は鳥です
 彼は勝手な氣まぐれからわざとさびしい歌を歌ふ

 大學はローランサンから得た情報で、マックス・ジャコブ、アンドレ・サルモン、ピエール・ルヴェルディ、ジャン・コクトーたちの詩を知り、それらを翻訳することになります。
 父の九萬一は1925年(大正14)に外交官生活から引退し、一家は帰国します。大學はこの年の4月から、東京神田の文化学院大学部の教授となり、フランス近代詩の講座を担当することになりました。33歳にして初めて定職に就いたのです。彼が長谷川巳之吉の来訪を受けたのはこの頃のことです。長谷川は大學より1歳年上で、大正12年の初めに出版社「第一書房」を立ち上げていました。第一書房から出た堀口大學の最初の本は、ポール・モーラン著堀口大學訳『レヰスとイレエン』でした。
 
 長谷川は帰国した大學を訪ねると、大學は1年半も上梓されずになっていた「月下の一群」の原稿を新潮社から取り戻し、新しい訳を加えて配列をやりなおしているところでした。「月下の一群」という表題は、フランス象徴派の詩人ポール・ヴェルレーヌの詩からインスピレーションを得たものでした。長谷川は原稿を見せてもらうと、即座に出版を申し入れました。書物は、長谷川自身が装釘し、ノート用の上質フールス紙大判750ページの本文に、16葉の別刷挿絵の詩人たちの肖像入りという豪華本でした。値段は4円80銭でした。
 訳詩集『月下の一群』の出現は、フランスの新詩人の作品を紹介したというだけでなく、これまでになかった詩情と新たな日本語を文学にもたらした点で画期的なものとなりました。上田敏、鷗外、荷風の訳詩に連なるものとして世間に迎えられました。事実、高い定価にもかかわらず初版1200部は数ケ月で品切れとなり、長谷川巳之吉はすぐに廉価版を出しました。
 大學は随筆集『詩と詩人』のなかの「『月下の一群』の頃」のなかで、こんな逸話を披露しています。
 「1913年、父がメキシコの任地を去つて、スペインに新しいポストをもつことになつた。僕も一緒に欧州に移り、勉学の都合上、ひとりベルギー・ブリュッセルに滞ることになつた。この頃から僕のサンボリズムに対する傾倒が始つた。その最初がまずグウルモンであつた。グウルモンによつて與へられた智的有頂天は、僕の一生を通じての精神上の最大の事件として残るだらうと僕は信じてゐる。最初に譯したのが『シモオヌ』に呼びかける一聯の詩であつた。『月下の一群』中これらの譯篇は、いはば僕の最初の譯詩の試みだ。
 丁度、その頃、グウルモンの詩集《Divertissements》(「消閑」)が出版された折だつたので、別に一冊初版本を求め、これに試譯の稿を添へて、今度はこちらが得意然として、この新発見の詩人をマドリッドの父に報じてやつたりしたものだつた。知性と感性の二つとも卓抜なこの詩人は父にも氣に入つて、「消閑」一巻の贈りものは大いによろこばれたことであつた。」
 メキシコ時代、大學は父の手引きでフランス近代詩を読んで、たちまちその魅力のとりこになりました。九萬一はフランス高踏派の詩人たち、シュリ・プリュドム、ルコント・ド・リール、アルフレッド・ミュッセなどの詩篇を愛好しており、それらを息子に読ませて、難解な箇所の解釈や説明をしてやったのですが、外国にあった大學は、これらの詩篇を1篇ずつ日本語に訳していきました。
 そんな彼が父より早く、象徴派の理論的支柱と目されていたレミ・ド・グールモンの新刊詩集を手に入れて、幾篇かを日本語に移したものを添えて送ったのです。息子の得意に益して、父の満足は大きかったにちがいありません。

 グールモンの原詩、九萬一の漢訳、そして大學によるその和訳、さらにはフランス語からの直接訳の四つを並べて鑑賞すると、それぞれの言語のもつ感性の違いが分かって大変興味深いものです。
 九萬一は随筆集『游心録』(第一書房、1930年)や『外交と文藝』(第一書房、1934年)のなかで、フランス文学についてのエッセーやフランソワ・コペやアナトール・フランスを訪問した逸話を披露しています。そのなかに、ステファヌ・マラルメが友人の名前や住所を四行詩に詠い込んで、それを実際に封筒の上に書いて投函したというエピソードを紹介したものです。
 九萬一はこの話を文芸雑誌「フランス共和国」の編集長だったアドルフ・ブリソン(九萬一はブリッソンと表記している)の記事から引用しています。ブリソンは1860年にパリで生まれ、高等中学校を卒業するとすぐに雑誌の世界に身を投じ、「アナル」や「祖国」、「ゴーロワ」といった雑誌の編集長をつとめました。そしてインタビューという形式の記事をはじめたのも彼だといわれます。
 そのブリソンにデンマーク人の友人がり、あるときマラルメの許を訪れてアルバムに一篇の詩を書いてもらいました。しかし、その意味がもう一つ分からなかったので、知り合いのマラルメの弟子筋にあたる著名な詩人3人に、明確な意味の教示を手紙で依頼しました。帰ってきた返事は、それぞれまるで別々の解釈であったというのです。
 この逸話は、マラルメの詩の難解さを象徴するものだが、ブリソンはその上で、「マラルメが奇怪、異常を好んだことは豈にその詩ばかりではない。日常の行事が随分常規を脱して居たことは左の一事でもよく分かる。マラルメは手紙の宛名を御手のものの「詩」の型で書いて差出した事が屡ゝあった。例へば普通ならば、

   巴里、ボッカドール町六番地      アンリ・ド・レニエ殿

と書くべき筈の處を、左の如き四行詩で書いたものだ、

 Adieu l’orme et le châtaignier!
Malgré ce que leur cime a d’or
S’en revient Henri de Regnier
Rue, au 6 même, Boccador.

 どんなに郵便配達夫を困らせたことやらと、マラルメの傳記々者は附け加へて居る。」と書いています。しかし、ブリッソンの心配は杞憂で、郵便はすべて宛て先にきちんと届けられたのでした。
 象徴派のステファヌ・マラルメの詩は、初期の詩篇の幾つかは上田敏などにより翻訳されていましたが、マラルメが扇の面や写真、復活祭の卵の上、そして相手の名前や所番地を詠み込んで角封の上に書いた四行詩について日本に紹介したのは、九萬一のこの文章が最初でした。九萬一はブリソンの記述に沿って、揶揄する意味で取り上げていますが、マラルメは洒落た言葉や思いもよらない韻律を駆使する短詩の制作に真剣に取り組んだのです。とくに宛名を詠み込んだ「郵便つれづれ」は出来上がるたびに手帳に控えておき、これらの内の27篇が、まずアメリカの雑誌「ザ・チャップ・ブック」にフランス語のまま掲載されました。
 これがまとまってフランスで出版されるのは1921年のことですが、ブリソンはそれよりも前にマラルメの試みを聞き知っており、それを雑誌で披露したのです。そしてそれに目をつけた九萬一のフランス文学に対する造詣の深さは、当時の日本の水準をはるかに超えていました。
 ちなみに、引用されているアンリ・ド・レニエ宛ての詩は、

 「さらば 楡の樹、栗の樹よ
  その頂は黄金に色づいてはいるが
  ボッカドール通り六番地の
  アンリ・ド・レニエを思い出そう」

 とでも訳せます。
 翻訳ではとうてい繊細な技巧と味わいを写すことはできないが、マラルメは次第にこうした技巧にのめり込んでいったのでした。そして、九萬一のこの文章がマラルメの四行詩を紹介した最初のものであったのは間違いありません。
 九萬一は、1925年(大正14年)に外務省を退官、以後は、好きな著作と読書、それに講演という日々を送り、敗戦の年1945年10月10日に亡くなりました。大學は会葬の礼状を次のように認めました。

 「長城九萬一死去の際は、早速懇篤な御弔詞とお供物を賜はり有難うございました。恭しく霊前に供へさせて戴きました。御承知のやうに元気な人でしたが、風邪心地でもんの四五日臥床してゐるうちに、流星の速さで衰弱し、何の苦痛もなく忽然他界いたしたのでした。枯木の朽ち折れるやうな、見るから安樂な往生でした。」としたあとに、二つの挽歌が印刷されていた。

挽歌一

越えの故山に逝きましぬ
いくさの果てを見とどけて
紅葉とともに散りましぬ
子の養ふを待ちもせで

挽歌二

帰するが如き逝きましぬ
山の時雨の日ぐれ時
眠るが如くみまかりぬ
敗れし國の秋のはて

 堀口九萬一、80歳の生涯でした。
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by monsieurk | 2016-04-22 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)

サクライ外交官 堀口九萬一②

 無罪となった九萬一は復職し、1899年(明治32年)、ベルギーへ赴任中に、ベルギー人のスチナ・ジュッテルランドと再婚。翌年11月、今度は辞令をうけて、南米のブラジルへ赴任します。身分は二等書記官でした。
 日本とブラジルの間では、3年前の明治28年に通商協定が結ばれ、2年後に珍田捨巳が初代の日本公使として着任していました。九萬一が赴任したとき、公使館には5、6人の公館員がいるだけでした。ブラジル全土の在留邦人も数えるほどしかいなかった時代です。九萬一の着任後の大きな仕事の一つは、ブラジルが日本人の移民先として適しているかどうかを調査することでした。
 ところが赴任4年目の年、重要な案件が生じます。ブラジルの九萬一のもとに、外務大臣となった小村寿太郎から暗号電報が届いたのは、明治36年(1903年)12月20日のことです。
電報の内容は、ブラジルの隣国アルゼンチンが、イタリア・ゼノアの造船所で2隻の軍艦を建造中だが、これをロシアに先んじて譲り受ける交渉を行うようにというものでした。事実このときロシアは、アルゼンチンが注文した二隻の装甲巡洋艦「リヴァダヴィア(Rivadavia)」と「マリアノ・モレノ(Mariao Moreno)」を入手すべく、アルゼンチン政府と交渉中で、この情報がイギリス政府から日本にもたらされたのです。
 1902年には、日英同盟が結ばれていましたが、イギリスの思惑はロシアの南進政策にたいして日本を加担させるのが大きな目的でした。
 アルゼンチンが軍艦建造をイタリアに注文したのは、チリとの間で戦争の危機が高まり、チリがイギリスに軍艦を注文したのに対抗するためです。しかしその後ブラジルが仲裁に入って戦争の危機が回避されると、両国とも建造中の戦艦が不要となり外国への売却を希望したのです。
 ロシアは購入代金の分割払いを主張し、即時一括払いを求めるアルゼンチンとの間で交渉は難航していまいた。こうした状況を知った小村寿太郎は、海軍の意向をうけて、大蔵大臣に説いて、閣議決定をへず大蔵大臣の責任で購入代金を即金で支払う決断をとりつけて、こうした国内での根回しの上で、堀口九萬一宛に訓電をうったのです。
 九萬一は昭和15年の春、アルゼンチンから経済使節団が来日した折に、東京中央放送局(JOAK)の依頼で、軍艦譲受けにまつわる秘話を放送していますが、それを昭和16年3月に日露戦争回顧談として発表しています。(「「日進」「春日」譲受け秘話」、『世界の思ひ出』所収)。
 回顧談によると、アルゼンチンとの交渉は次のように行われたということです。
 
 電報に接した九萬一は、公館が近く、家族ぐるみの付き合いをしていたアルゼンチン公使を訪ね、軍艦買受の交渉に出向くのに当たって、外務大臣に面会できるように取り計らってほしいと頼みました。すると公使はその場で電文を書いて、本国に打電してくれたのです。これには社交的な妻スチナと四歳になった岩子の存在が大きかったのです。アルゼンチン公使の家にも同年輩の娘がいて、両家の交際を親密なものにしていたのです。
 九萬一は翌十二月二十一日にブエノス・アイレス行きのイギリス客船があるのを知ると、ただちにリオデジャネイロを出航し、二十五日夜にはブエノス・アイレス港につきました。通常、客船は夜間には入港しないため、艀を特別に手配してもらって上陸し、ホテルに荷物を預けると、そのまま馬車を駆って外務大臣の私邸をめざしました。
 幸いこの日はクリスマス当日です。外務大臣邸では夜にもかかわらずパーティーが続いていて、外務大臣は遠来の客を迎えてくれたといいます。
 九萬一は、日本が二隻の軍艦を入手したいこと、代金は即時に支払う用意のあることを伝えました。すると外務大臣は、軍艦売却は海軍大臣の所管であり、彼と話をする必要があるが、海軍大臣も今夜はまだ起きているだろうと言って、自ら電話をかけて翌日の面会の約束をとりつけてくれました。翌日は海軍大臣のほかに、大統領にも謁見することができました。両者ともに軍艦を日本に売却することに異存はなく、午前中に契約書の調印を終えることができたのです。
 九萬一は、この旨をすぐ本国へ暗号電報で報告しました。彼の記憶では午後四時ごろのことであったと述べています。
 外務省資料館には、外務省記録「各国へ軍艦建造並ニ購入方交渉雑件」(分類番号:5.1.8.1-4)が保存されています。ただ記録は、イギリスで行われた契約交渉、林駐英公使への訓電や契約交渉に関する報告電報で、堀口九萬一臨時公使との間のやり取りは残されていません。したがって、アルゼンチンで行われた交渉の経緯については九萬一の回想が唯一のもので、日露戦争前夜の秘話と伝える貴重な証言です。
 
 譲渡契約が成立すると、2隻の代金1,493万7000円が、翌27日にロンドンで支払われました。こうして2隻の巡洋艦「リヴァダヴィア(Rivadavia)」と「マリアノ・モレノ(Mariao Moreno)」は日本のものとなりました。ただ艦内の艤装はまだ終わっていず、諸々の工事は日本へ回航する途中で行うことになりました。アルゼンチン海軍の大尉が、船大工や船員の監督としてイタリアのゼノアから乗船し、この工事にあたりました。ちなみに回航の責任者は、終戦時に首相となる鈴木貫太郎でした。「日進」、「春日」と命名されたイタリア製の巡洋艦は7,700トンと小型でしたが、旗艦三笠以下の第一戦隊に編入されて、黄海海戦や日本海海戦では六・六艦隊の一翼をになうことになり、横須賀を出航しました。
 ブラジルにあった九萬一にとって、日露戦争の経過は最大の関心事でした。日本軍はこの年の暮れには、多大の犠牲をはらって203高地を占領しました。
 ロシアはバルチック艦隊を喜望峰をへて日本海にまわし、一大海戦のときが迫っていました。こうした戦況は本国から送られてくる電報で知らされてはいましたが、強大な軍備をほこるロシア相手の戦争の成り行きに不安はかくせませんでした。歴史が示すようにその後の戦況は、奇跡的に日本優位で推移しました。明治38年(1905年)3月の奉天会戦では、日本側が5万人、ロシア側16万人の死傷者を出しながら、日本の勝利で決着し、「日進」、「春日」が参戦した日本海会戦では、バルチック艦隊は全滅。一方日本側の損害は水雷三隻沈没だけでした。
 
 この結果をうけて8月、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領の仲介により、アメリカのポーツマスで、日本全権の小村寿太郎とセルゲイ・ウィッテの間で平和交渉が行われ、9月5日には日露講和条約が調印されました。
 九萬一はこの情報をどのような気持で受けとめたのでしょうか。残された記録からは知るよしもありませんが、ロシア公使の鼻をあかして2隻の巡洋艦を購入し、明治維新以来最大の危機である対ロシア戦争に貢献できたことは、外交官としての仕事冥利であり、祖国を遠く離れていただけに満足感もひとしおであったに違いありません。
 九萬一がブラジル勤務を終えて帰国したのは明治38年12月、日露講和条約が締結された2カ月後です。このとき初めて、大學と長女の花枝はスチナと異母妹の岩子に会いました。

 九萬一の次の任地は明治42年(1909年)に赴任したメキシコです。この中米の大国で30年余りにおよぶディアス大統領の独裁に変化の兆しがみえたのは1908年のことです。
 長年、権力の坐にあったディアス大統領は、アメリカ人の雑誌記者との会見で、メキシコ国民は民主主義を実現するまでに成長したので、来る1910年の大統領選挙には出馬する意思はなく、反体政党の出現を歓迎すると語りました。
 このディアスの不出馬宣言をうけて、フランシスコ・マデロは立候補を表明します。大統領選挙が近づくにつれて、国中で暴動事件が起こるなど緊迫した状況になると、ディアスは態度を変え、大統領選挙人選挙投票日の直前にマデロを逮捕し、投獄してしまいました。こうしたなかで、7月10日に大統領選挙が実施され、ディアスが6選をはたしました。マデロは翌日釈放され、10月にはアメリカへ亡命しました。
 しかし事態はこれで終わりませんでした。マデロは亡命先のアメリカから、行動目標を発表して大統領選挙での不正を指弾し、11月20日午後6時を期して、武装蜂起するようメキシコ全土に呼びかけたのです。
 北部ではパンチョ・ビジャが貧農層を組織して勢力を拡大しており、南部では小作人のエミリアーノ・サパタが立ち上がり、大土地所有者から土地を奪取して、これを農民に配分することで力を急速に蓄え、政府軍にゲリラ戦を挑んでいましだ。農民を中心にしたビジャやザパタの戦闘部隊には、妻や子どもたちがつき従っており、彼女たちは銃をとって戦闘に加わり、負傷者を勇敢に助けました。
1911年2月になると、マデロが帰国し、反乱軍は各地で政府軍を破り、首都のメキシコ市でもディアスに退陣を迫る示威運動が起こりました。ディアス大統領はこの年5月に、フランスへ亡命しました。
 そして半年後の11月6日には、マデロが大統領に就任しました。こうした状況の中で、息子の大學がメキシコにやってきて一家は公使館で一緒に生活することになりました。

 メキシコの政情は、マデロが大統領に就任して安定したか見えたのですが、支配層はその後着々と態勢を立て直し、一方革命派は分裂を深めていきました。大統領選挙では国民の90パーセントの支持を得て政権の座についたマデロは、行政能力に乏しく、大統領としては凡庸だったといわれています。マデロは誠実な人物でしたが、下層階級の要求に応えることはなく、外国資本や大土地を所有する支配層が求める社会の秩序を守ることもできなかったのです。こうした左右からの反マデロの機運をとらえて動いたのが、駐メキシコ米国大使ヘンリー=レーン・ウィルソンです。
 彼はマデロ政権の軍事的な支えであるウエルタ将軍に働きかけて、マデロから離反させ、政権転覆に踏み切らせたのです。第二次革命の狼煙は、1913年2月9日、メキシコ市であがりました。
 これは堀口九萬一のメキシコ滞在中の最大の政治的事件でした。革命と戦乱の20世紀の幕開けとなった「悲劇の十日間」といわれるこの事件について、九萬一はいくつかの記録を残しています。なかでも昭和11年(1936年)に刊行した『世界と世界人』に収められている「メキシコ革命騒動體験記」はこの顛末を、当時の日記をまじえて詳しく伝えています。

 事件は1913年(大正2年)2月9日に起きました。この日は日曜日で、朝7時ごろ九萬一の以前からの知人が公使館にかけつけてきたといいます。
 以下は彼の日記です。

 「朝の七時頃、不断からの知友で、メキシコに広大な米の田圃を持ってキング・オブ・ライスと呼ばれているイタリアイタリア人ダンテ・クッシ氏が、自動車を飛ばして公使館へ来て、今、市の中央に革命が起っている! と告げた。自分達が革命勃發の報道を初めて耳にしたのは、實にこのイタリア人からであった」とあります。
 息子の大學ものちにこの革命の顛末を、「白い花束」(全集六巻)に書いていて、大部分は父九萬一の記述にもとづくものです。ただ革命勃発の一報を誰からきいたかについては記述が異なっています。
 大學によれば、公使館に第一報をもたらしたのは、くだんのイタリア人ではなく、妹岩子の友人アントワネット・リヴースであったというのです。リヴースは二頭馬車に乗って駆けつけてくると、市の中心部で戦争が起こったから、今朝の約束のテニスはどうしたらよいだろうかと尋ねた。これが真相だといいます。大學の記憶では、花のような14歳の少女の口から革命騒ぎを聞き知ったというのですが、代理公使である九萬一と、息子の大學は別々の人から情報を知らされたというのが真相かもしれません。大學は九萬一の記述を読んでいて、その上でなお妹の友だちの名前を上げているのを見ると、その可能性は高いと推測されます。大學が事態を知らされた時刻が同じ朝の7時頃であったというのは、九萬一の記述にあわせたとも考えられます。
 九萬一によれば、この後すぐに近くのオーストリア公使館の現地人スタッフが来て、公使からの伝言として、市内で戦闘が行われている旨を知らせると、あわただしく帰っていったと述べています。
九萬一は急いで朝食をすませると、マデロ大統領夫人を慰問すべく、市の西チャブテベックにある大統領官邸を馬車で訪問しました。
 戦闘勃発の一報を聞いて、九萬一が早速、大統領官邸に夫人を見舞ったのは、妻のスチナが、日ごろからマデロ大統領夫人と昵懇の間柄であったからです。夫人から大統領自らが出陣したことで、事態は沈静化に向かっていると知らされ、日本公使館公邸に戻ってきました。
 しかし反乱軍の勢力は予想以上に強大で、この日の午後には、彼らは一度退去した国民宮殿を奪い返し、ここを根拠地として政府軍と対峙することになりました。政府軍の士官が反乱軍に内通した結果でした。

 市内には砲撃の音が響き渡り、市民たちはみな家に隠れて路上からは人影がなくなり、時折、自動車がフル・スピードで走り去るばかりでした。こうして情勢がにわかに緊迫した午後2時ころ、突然、大統領夫人一行が日本公使館を訪ねてきました。
 9日の早朝に起きた軍事クーデタは、モンドラゴン将軍とルイス将軍に率いられた部隊が、軍事刑務所に収監されている前大統領の甥で、死刑判決を受けていたフェリックス・ディアスと、前大統領の側近を奪還する行動に出たことに端を発していました。そして刑務所をまもる政府軍の抵抗にあって目的を達しないまま市街戦がはじまったのでした。
 情勢は政府軍が優勢で、一進一退を繰り返してこの日は暮れました。ただ政府軍にとって痛手だったのは、朝の戦闘で司令官のヒラール将軍が重症を負ったことでした。マデロはその後任にヴィクトリアーノ・ウエルタ将軍をあてたのですが、これが大きな誤算でした。ウエルタは反乱軍を包囲する一方、包囲されたモンドラゴンたちにひそかに使者を送って取引を行いました。そしてこの陰謀の仲介役をつとめたのが、アメリカ大使のウィリアム=レーン・ウィルソンだったのです。
 マデロ大統領も、夫人たちが日本公使館へ避難していることを知っていて、自身でときどき電話をしてきて、両親や夫人の安否を尋ね、政府の士気はきわめて高いなどと伝えてきました。
 2月11日、この日は午前10時から午後6時まで激しい市街戦が行われ、死者300人、負傷者は500人に達しました。夜は政府軍、反乱軍ともに攻撃をやめますが、街は真っ暗で人一人通る気配はありません。
 この日の夜、大統領からの電話で、夫人だけが大統領官邸に戻っていきました。いつまでも他国の公使館に身を避けていては、政府軍の士気にもかかわるとの配慮でした。ただ大統領の両親や妹たち一家は引き続きとどまっていました。
 2月12日。早朝から砲撃の音が響き、緊張でぐっすり寝ていた人たちは、その音で眠りを破られました。大勢が寝泊りしている公使館では食料が底をつきはじめ、決死の人たちが隣町のタクバヤまで自動車を走らせて、食料品の調達にでかけなければなりませんでした。帰ってきた自動車を調べると、二、三箇所に銃弾の痕があったといいます。
 
 九萬一の日記には、「他国の公使館でも、各自その本国へ電報を出したいのだが、誰もそれを持って電信局へ行くものがいない。ところが外交官仲間に、日本公使館からは、毎日必ず一回は電信局へ使いの者が行くといふ噂が立った。すると各国国の公使たちは、数日溜つていた電信を持つて日本公使館へやつて来て、「おついでにどうぞ宜しく御願ひいたします」と頼む始末だった。今では一里の道の往復が全く命がけの仕事となつて来た。
 それにも拘らず日本公使館からは毎日欠かさず電報を出した。各国は日本公使館を非常に徳として、本當に助かつたと感謝し、同時に日本人達は国家のといえば、死を冒すことなんか何とも思わない勇気をほめた」と書かれています。

 九萬一の記述に多少誇張があるとしても、軍事クーデタが起きて以来、こうした光景が繰り返されたと思われます。なお、この日、3、4発の流れ弾が公使館の窓ガラスを破りましたが、幸い人びとに被害ありませんでした。
 マデロ大統領にツキがなかったのは、前年の11月、アメリカの大統領選挙でマデロに好意的な民主党のウドロー・ウィルソン(同名のアメリカ大使とは血縁関係はありません)が、大統領に選出されたのですが、彼の任期は3月から始まることでした。このときはまだ共和党のタフト大統領が政権の座にあり、ウィルソン大使の反マデロ行動を支持していたのです。
 内乱勃発以来6日目で、死傷者は5000人をこえ、その多くは非戦闘員の市民でした。メキシコ市郊外のバルブエナの野原では、連日遺体を焼く煙がたなびいていました。

 2月16日、アメリカ大使ウィルソンはマデロ大統領に辞任を迫りましたが、大統領はこれを拒絶したという噂が伝わってきました。九萬一とスチナは大統領官邸を訪れて、マデロ夫人を慰問しました。スチナはその後衣服を取りに公使館へ来て、すぐ大統領官邸に戻って行っていきまた。
 2月19日、ウエルタは大統領に辞職を迫りますが、マデロは殺されても断じて辞職はしないとはねつけました。そこで大統領を脅迫するために、今夜にも大統領の家族がいる日本公使館を攻撃するという噂を流し、それを三人ほどの居留民が伝えに来ました。
 向こう見ずなウエルタのことでしから、本当に攻撃するかもしれないと考えた九萬一は、直接ウエルタに会って真意を確かめることにしました。そう思い立つとすぐに車を用意させて、荒井通訳官と、万一のために医薬品の入ったカバンを携帯した鈴木医師、それに予備の運転手とともに、ウエルタが占拠している大統領官邸へ乗りつけたのでした。このときの様子は、九萬一の筆によれば次のようなものでした。

 「名刺を出してウエルタに面會を求めた。彼はすぐに出て来て、余を応接間へ案内した。そこで自分はフランス語で「風聞によれば、貴下の命令に依つて今晩マデロ大統領の両親、及びその家族達の避難してゐる日本公使館を焼打ちすると云ふ事だが、それは實際の事であるかどうか、率直に云つて欲しい」と、彼は切り出しました。するとウエルタは言下に、そんな風説は全然虚報であるから安心して頂きたいと答へた。そして彼は言葉を續けて、閣下の御安心を得る為、部下の兵隊をして、日本公使館を警護せしめる事に致しませうと云つた。自分はそんなことをすれば公使館から食糧の買出しに出る者や、電信を出しに行くものや、大統領の家族を慰問に来る多くの人達が、一々誰何(すいか)されたりなどして、却て迷惑でもあり不便でもあるから、公使館を警護する代りに、公使館所在の地区一帯即ちカルチエ・ロマ区を遠巻きに警護して貰ひたい申し出た。・・・」(同書、二六四頁)
 ウエルタは了解し、副官にこの命令をすぐ電話で伝えるようにとりはからったということです。九萬一はこれを見るとさらに言葉を続けました。
 「日本には昔から『窮鳥懐に入る。猟夫もこれを殺さず』と云ふ諺があつて、逃げて来て、救ひを求むものには、一視同仁これを庇護するのが日本の國風である。たとへマデロ大統領の家族でなくとも、危急の場合に日本公使館へ逃げて来たメキシコ人なら、誰彼の差別なく皆庇つてやる。今度のことも要するにメキシコ人に對する日本人の同情の發露である。殊にメキシコのこの頃のやうに、革命が頻発し、朝にして其の夕の測られざる形勢にあつては、誰が明日、ともすれば、或は貴下の家族が、今日のマデロの家族と同じ運命の道を辿つて日本公使館へ逃げ込んで来ない事を断言出来やうや? その時に於ては勿論自分は同じ方針で、貴下の家族を庇護してやる心組でゐる。自分がメキシコメ人を庇護するこの眞意を了解して頂きたい」と意氣込んで話しました。すると、ウエルタは、今回マデロ家族に對して手厚い擁護を與へられた事は、日本公使に對して深く感謝する處であると述べたといいます。(同書、二六四―五頁)
 
 会談のあと、九萬一はウエルタの了解をとりつけて、政庁の一室に監禁されているマデロと面会することができました。両親や妹たちが日本公使館で無事にいることを伝えると、大統領は幾度も感謝の言葉を口にしました。
 こうした捨て身のウエルタ訪問は好結果に終わりましたが、公使館に戻ってくると、大統領の兄のグスタヴォが、昨夜のうちに砲兵工廠で銃殺されたという悲報が待っていました。両親や妹たちは悲嘆にくれていました。前日の17日、ウエルタは大統領の兄グスタヴォを昼食に招待し、その場で逮捕したのである。彼はその夜殺害されたのです。マデロが頑として辞職を受け入れなかったために、身の安全を保障するのと引き換えに辞表に署名させ、辞表は一時外務大臣のラスクラインがあずかり、無事国外へ出たのを見届けたのちに、ウエルタに辞表が手渡される手はずになっていました。しかしウエルタは約束を履行せず、この夜、マデロの辞職と自らが仮大統領となったことを公表しました。
 2月20日、この日、外交団はそろってウエルタ仮大統領を国民宮殿に訪ね、マデロ大統領と副大統領に危害を加えないよう申し入れを行いました。これに対してウエルタは、誓って両名の生命は保障すると言明し、夜7時、マデロ大統領の家族は日本公使館を引きあげて、シリオン夫人の家に移りました。
 しかしマデロと副大統領のピノ・スアレスは、22日の夜、逃亡をくわだてたとして殺害されたのです。九萬一の外務大臣宛の公電は、メキシコの官報に「二月二十二日午後十一時政庁監禁室ヨリ監獄ニ護送セラルル途中「マデロ」党員之レヲ奪ヒ取ラントシ其闘中殺害セラレタル旨」が発表されたと伝えています。
 2月24日、前大統領フランシスコ・マデロの葬儀が行われ、九萬一は家族全員を連れて列席し、日本人居留民の多くも出席しました。式は時勢をおもんばかって簡素なものでしたが、多くの人たちが出席することで、抗議の意を示しました。前内閣の閣僚の逮捕や逃亡のニュースが、しきりに新聞に報じられました。2月26日の午後、九萬一は妻のスチナや息子の大學と、マデロの墓に詣でて献花をしました。大統領の墓には、労働者と見られる人たちが大勢墓にやってきて花環を置いていった。その一つには、「デモクラシーの犠牲」と書かれていたということです。

 以上が、日本の代理公使堀口九萬一が体験したメキシコ革命の顛末です。16カ月続いたマデロの政権はこうして幕を閉じたのでした。
 九萬一はこの年4月に、帰国命令をうけてメキシコをあとにしました。本国の外務省でも彼からの報告によって、殺害されたマデロ前大統領やその一家と九萬一との深い関係を知っており、彼のためにもメキシコでの任務を解くことが望ましいと判断したのです。(続)
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by monsieurk | 2016-04-19 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)

講演、サムライ外交官 堀口九萬一①

 さる3月27日、新潟県長岡市の中央図書館の招きで講演を行った。昨年は長岡出身の堀口九萬一の生誕150年、没後70年目にあたり、それを記念する会であった。当日は市内の長興寺のお墓で、九萬一の孫、堀口大學のお嬢さんである堀口すみれ子さんにお会いして一緒に華をたむけた。このときの講演の内容を3回にわけて掲載する。

「サムライ外交官 堀口九萬一」

 堀口九萬一の生涯は、懸命に近代化を急いだ日本の歩みとぴったり重なります。幕末、わが国は欧米列強の圧力を辛うじて撥ねのけて、近代化の道を推し進めましたが、これには優れた人材が必要でした。このため明治新政府は多くの外国人を雇い入れ、同時に人材をひろく全国に求め、試験によって優秀な若者を選抜しました。九萬一は学力を唯一の武器に長岡から中央を目指した一人でした。
 「明治の煙突二本論」という言いかたがあります。国家がまだ若かった明治にあって、こうして選抜された人材は、体制側、反体制側双方に供給されたという説です。言うまでもなく体制側の煙突は太く、九萬一は難関をくぐり抜けて体制のなかに地位を得たのでした。その一方で、もう一本の煙突は反体制側に人材を提供しました。平民社を結成して、日露開戦の気運のなかで非戦論を主張しつづけた堺利彦や幸徳秋水、普通選挙運動の先頭に立った尾崎行雄といった人たちです。年齢としては、尾崎が九萬一の6歳上、堺、幸徳は5歳年下で、彼らはみな同時代人です。
 反体制を貫いた人たちの生涯や事績にくらべて、体制のなかにあって仕事をした堀口九萬一の存在はあまり知られておりません。そこで私は『敗れし国の秋のはて 評伝 堀口九萬一』(左右社、2008年)を書いたのですが、タイトルの「敗れし国の秋のはて」というのは、息子の大學が、父九萬一の死去にあたって書いた2篇の挽歌のなかの文句です。外交官で漢詩をよくし、フランス語に通じ、文学の素養も深かった九萬一は外交官として国家に忠誠をつくし、仕事にはげんだ九萬一は、私には興味のつきない存在です。

 九萬一は、慶応元年(1865年)、越後長岡の藩士、堀口良治右衛門、母千代の長男として長岡城下で生まれました。良治右衛門の身分は足軽でした。慶應4年、戊辰戦争が勃発し、4月11日に江戸城が無血開城されたあと、掃討戦は4月末には長岡藩の藩境に達しました。河井継之助が率いる長岡藩は奥羽北越列藩同盟に加盟し、官軍と戦う決意をかためます。5月19日にはじまった長岡をめぐる攻防では、人口6000を数えた城下一帯が戦場となり、そのほとんどが灰燼にきしました。この戦のなかで、銃卒隊の一人として戦った堀口良治右衛門は戦闘で命を落とます。
 長岡藩の人びとは、明治維新後、辛酸をなめますが、「苦境を乗り越えるには、教育が大事」と、食べるものを節約して教育の充実にあてました。長岡藩の惨状に、支藩の三根山藩から救援に米100表が送られてきますが、大参事小林虎三郎たちの方針で、この米を旧藩士たちに配らず、それを売った資金で学校を設立することにしました。この逸話は山本有三の『米一俵』という戯曲で描かれたとおりで、九萬一もその恩恵をうけて成長しました。母一人となった堀口九萬一は、寺子屋で読み書きを学び、明治になって学区制が整うと、小学校に入学。賊軍だった長岡藩の遺児は、教育をたった一の武器として逆境を乗り越えようとします。彼は優秀で、よく漢学を勉強しました。この頃の九万一に関しては、遠山運平、ペンネームを「夕雲」という人の聞き書き、「堀口九萬一翁立志篇」というものがあります。これは遠山が出していた雑誌「日本大正解」の昭和17年5号に載っているもので、この長岡の地で一生懸命勉学には励んだかを、九萬一自身が語ったものです。この長岡中央図書館の所蔵されていた、コピーを親切に送ってもらいました。寺子屋では入塾するとすぐに、三字経、孝経、千文字を教え、その後は唐詩選、四書、五経の素読が主な課目でした。そして師匠が書いたものを手本に、同じ文字や文章を繰り返し練習しました。当時紙は貴重品でしたから、墨で真っ黒になった紙を一枚ずつ木の枝にかけて乾かし、それをまた使ったということです。こうして九萬一は小学校、長岡中学校へと進み、学生のかたわら授業生として小学生を教えました。

 九萬一の運命が開けたのは明治18年のことです。この年の1月、司法省法学校の第4期の学生を募集するという公示がありました。司法省学校は、正式に司法省仏国法律科専門学校といい、フランス法の修得する準備過程で、フランス語を教授するところでした。明治5年に、司法省の嘱託として来日したデュ・ブスケや、のちに日本の民法制定に貢献したギュスターヴ・ボアソナードなどのフランス人教師が、フランス語と並んで自然法哲学、刑法、商法など法学教育をほどこしました。さらには今日でいう一般教養科目も教えたのです。優秀な学生は次々とフランスへ留学し、逆に成績不良の者は容赦なく退学させられ、欠員が生じると選抜試験が行われて、常に20名の定員が守られていたのです。縁故にない九萬一にとっては、官僚の登竜門である司法省法学校への入学は大きなチャンスを意味しました。
 東京にいる友人の伝で、司法省法学校に入学試験の科目を問い合わせると、試験は『論語』の弁書(べんしょ)と司馬光の『資治通鑑』の白文訓点であると知らせてくれました。入学試験には全国から1500人余りの受験者があったということです。入学後は語学や法学をはじめ、洋学を中心に教育が行われることになっていましたが、試験科目は予想通り、『資治通鑑』と『論語』でした。受験者が多く試験と採点に日数がかかり、結果はなかなか発表にならず、数日後合格者がようやく発表されると、そこには九萬一の名前もありました。
 こうして堀口九萬一は明治18年10月に、晴れて司法学校の官費生となり、フランス語や法学の基礎を徹底的に叩き込まれることになりました。講義はお雇い外人教師によってフランス語で行われ、寄宿舎内での会話もフランス語ですることを義務づけられ、その上、毎日日記をフランス語で書いて提出し、厳しく添削されました。
 法学校は、九萬一の在学中に東京帝国大学法学部と合併されましたが、この時代の九萬一について資料が乏しくよく判らないのですが、大きな野心をいだいて、ひたすら勉強に励む日々が続いたのだろうと思います。そんな中、彼が25歳になった明治22年(1889年)に、かねて婚約中の友人の妹である江坂政(まさ)と結婚しました。このとき彼女は数えの18歳で、結婚後まもなく二人は本郷区森川町1番地に、借家をみつけて移り住みました。ここは東京帝国大学の赤門のまん前で、この家で明治25年1月8日に長男大學が生まれました。大學という名前はここから来ています。
 大學誕生の翌年7月、九萬一は晴れて東京帝国大学法学部を卒業しました。司法省法科学校に入学して、東京帝国大学を卒業したのは、さきに述べたように途中で学校が合併したためで、卒業後はただちに司法官試補に任ぜられて新潟へ赴任しました。ただ新潟にいたのはわずか2カ月だけで、法曹界の空気になじめずに辞任し、9月には外務属官となって東京に帰任することになりました。こうして外交官となった彼は、すぐに領事官補として朝鮮の仁川への赴任を命じられ、家族を残して朝鮮へ向かいました。

 日本と朝鮮の関係は明治政府の誕生以来緊張していました。朝鮮の宮廷や政権内部には、日本が日清戦争に勝利したあとの三国干渉で、多くの占領地を返還するという事態になったとき、これを日本からの圧力を弱める好機とみて、王妃の閔妃(びんぴ)を中心に、ロシアへ接近して日本を牽制しようとする勢力が台頭しました。
 こうした情況の中、明治28年9月に、予備役陸軍中将の三浦梧楼が、特命全権公使として朝鮮に赴任したことで、事態は大きく動き出します。三浦を公使に推薦したのは井上馨で、病床にあった外交の重鎮、陸奥宗光はこの人事に反対でした。しかし長州出身の三浦の起用は、伊藤博文、井上馨、山県有朋たち長州閥によって決定されたのです。
 三浦は着任すると、朝鮮王宮の勢力図を逆転させて、日本の影響力をもう一度確保しようと考えました。そのために起こしたのが「王城事変」でした。これは三浦が着任したおよそ1カ月後の10月8日の明け方、日本兵や多くの民間人が京城の王宮に乱入して、親ロシア派の閔妃(びんぴ)を殺害するという前代未聞の事件です。三浦より1カ月早く朝鮮に赴任していた堀口九萬一は、否応なくこの事件に深くかかわることになりました。
 今日参照できるものだけで122通の公電が、外務省と朝鮮や各国在外公館の間でやり取りされました。これらはすべて『日本外交文書』第28巻第1冊の、「王城事變」の項に収録されています。この異常な事件は、どのような経緯をへて実行に移されたのか。私の本では、外務省資料や事件に加わった人たちの残した回想、堀口九萬一自身が後年公にした文章をもとに、九萬一がはたした役割を明らかにしました。
 三浦公使は、当時、孔徳里で蟄居状態にあった大院君を担ぎ出して、韓国政権の実権を握る閔妃の勢力を排除しようと計画したのです。大院君は若い国王高宗の実父で、長らく摂政の立場にあったのですが、高宗の妃の閔妃とその一族が力を持つにつれて権力を失っていきました。そしてこのとき、大院君は事実上幽閉されていたのでした。九萬一は、彼の目から見た事件の様子を記録に残しています。それが『外交と文芸』(第一書房)に収録された「十月八日事件の発端(無言の問答)」です。

 事件10日ほど前、公使の三浦は、九萬一を呼ぶと、「此の際どうしても国王の厳父大院君を再起せしむる外に方法が無い、さうして、それは一日も早い程よいのだ。處が困った事には大院君はある嫌疑のために三、四ヶ月以来孔徳里の離宮に幽閉されてゐる。・・・内外人を問はず、大院君に對しては一切面會禁断だ。・・・その他に又一つ厄介なことは、是非共筆談が必要なことだ」と言いました。そしてこの任務を、漢文を自在にこなす九萬一にやってもらいたいという頼みでした。筆談が必要なのは、通訳を介して行うことができない交渉であるとともに、朝鮮では要人のまわりで立ち聞きが普通に行われ、情報が漏れるのを防ぐためでもあるというのです。
 領事官補の九萬一にとって、これは公使からの命令に等しいものですから、彼に一も二もなく承諾して、和服に着替えて観光客になりすまし、馬夫の格好をした領事館づきの巡査一人をつれて、馬で孔徳里を目指しました。巡査は朝鮮語を流暢に話せました。
 このとき同じく朝鮮に居て、九萬一とも交流のあった与謝野鉄幹も、詩歌集『うもれ木』に収められている「孔徳里」のなかで、閔妃暗殺事件に触れて、大院君訪問のことを述べています。与謝野鉄幹は自分と鮎貝(あゆかい)房之進が面会に同行したと受け取れる取れる記述をしていますが、彼がこの訪問を行った事実はありません。残る問題は、鮎貝房之進が九萬一に同行したか否かですが、資料の上からこの点を確認する手だてがありません。ここでは、九萬一の「十月八日事件の発端(無言の問答)」の記述をもとに、事実をたどってみることにします。

 京城から孔徳里までは馬でおよそ一時間の道のりでした。九萬一は、朝鮮観光に来た日本人で、帰国を前にぜひ殿下に拝謁したいと思ってきたが、朝鮮語を知らないので筆談を許されたいと申し出ました。大院君はこれを了承して、侍従に筆と朝鮮紙の巻紙を持ってこさせ、筆談が始まりました。
九萬一は、まず即興の七言絶句を書きました。すると大院君は微笑しながら、これに続けて詩を書き加えたといいます。九萬一の言によると、このあとは散文のやりとりとなり、もし三浦公使が大院君を助けるならば、自分は祖国の救済にあたるという言質を引き出すことに成功しました。最後に大院君は、真紅の大型の名刺を手渡し、これを三浦公使に渡して、次に来るときには三浦公使の名刺を持ってくるように言ったといいます。そして筆談に用いた巻紙五本を燃やそうとするのを九萬一は押しとどめ、面談の記念と三浦公使に諒解させるためにも必要であると述べて、それを拝領してきたというのです。
 堀口九萬一が述懐する事の次第は以上のようなものです、当時、公使館に勤務していた九萬一の上司の内田領事の報告とは、幾つかの点で食い違っています。最大の疑点は、九萬一が筆談の巻紙を持ち帰ったのは事実かどうかですが、これは確かではありません。

 閔妃暗殺は、実際にはどのようにして行われたのか。
 事件は九萬一が大院君との面会に成功した9月29日から一週間後の、10月7日から8日にかけて起こりました。大院君の離宮は10人余りの韓国警備兵に守られていましたが、彼らを脅迫して倉庫に閉じ込め、制服制帽を奪って同行した巡査たちに着せ、三浦の命を受けたもののほか、大勢の壮士たちも一緒になって、無理やり大院君を引き出しました。8日の午前3時ころ、大院君を乗せた輿を日本人たちが守って孔徳里を出発し、途中からは日本の守備隊も加わり、一行は午前7時近くに京城市街に着き、日本人の一行は用意した梯子をかけて塀を乗り越え、斧で扉をうち破って宮城内部へ侵入しました。
 宮女の一人から王妃のこめかみに禿げ跡のあることを聞きだし、殺害した3人の女性の遺体をあらためて見ると、一人の遺体に禿げの跡があることが分かった。生き残った女性たちの見せると、口々に王妃に間違いないと証言しました。遺体の衣服の隠しからは、朝鮮国王よりロシア皇帝に宛てて、ウェーバー・ロシア公使の残留を依頼する書状がみつかったのです。日本側の証言では、このことを告げられた大院君は手をうって喜んだとされます。王妃の遺体は門外の松林に運び、薪を積んだ上に横たえて火をつけて焼き捨てました。

 この事件は伊藤博文内閣に衝撃をあたえました。京城には新聞「ニューヨーク・ヘラルド」の、著名なアメリカ人の特派員コックリルがいあわせ、待衛隊教官のアメリカ人ウイリアム・マック・ダイ(ジェネラル・ダイ)から閔妃殺害の事実を知らされると、すぐ本社に記事を打電しようとしました。しかし三浦公使は電信局に圧力をかけて記事を差し止めさせたのです。しかし10月14日には、情報はワシントンに届けられて事件は各国の知るところとなり、日本政府はその対応に追われました。
こうして事件に関係した日本人56人を一刻も早く帰国させることになりました。56名は全員同じ船で仁川を出発して宇品(広島)港へ護送されました。ただ、「彼ら被告が宇品埠頭に現れるや、各地より集合した歓迎者は沿道堵列をなし、被告一同に寛大な同情と情熱的な歓迎を表した」と退韓命令を受けた一人は書いています。
 明治29年(1896年)1月14日、閔妃殺害に加担したとされる陸軍の将校たちを裁く軍法会議が開かれました。そして1月20日からは、広島地方裁判所で、岡本柳之助、三浦梧楼、杉浦溶、堀口九萬一らに対する予審が開かれました。九萬一の妻は、彼が事件にかかわった9日後に、結核が悪化して長岡で亡くなりました。収監されていた九萬一は葬儀に立ち会うことも出来ませんでした。
 明治29年2月19日、軍法会議は8名の将校に対して無罪の判決を下し、裁判所でも三浦以下48名全員に免訴の決定が下りました。「容疑者の誰も彼らによって企てられたとされる罪を実際に犯したことを証明する十分な証拠が無い」という判断で、被告たちは全員釈放されました。犯罪は3人の朝鮮人の仕業ということにされて、真相は闇に葬られたのです。九萬一はその後、外交官の職に復帰したが、この事件にかかわったことは、彼のその後の進路に影響を与えたと考えられます。(続)
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by monsieurk | 2016-04-16 22:30 | 時事 | Trackback | Comments(0)

梶井基次郎と映画

 書庫の隅から、すっかり忘れていた雑誌のバックナンバーが出て来た。中谷孝雄氏が生前主宰していた俳句文芸誌「鈴」の第8号(平成5年7月30日発行)で、そこに「〈座談会〉梶井基次郎を語る(後)」が載っている。出席者は中谷孝雄、平林英子、飯島正の三人。みな生前の梶井基次郎と交流のあった人たちである。まずはその冒頭を引用してみる。

飯島 そしてね、これはあんたに初めて言ったことがあるんだ。「浪漫」の座談会やったろ。
中谷 うん。
飯島 あのときおれ、映画が梶井に影響してるってこと言ったの。
中谷 は、はあ。
飯島 覚えてるか。
中谷 うん。
飯島 僕はどうもそういう感じがするな。
中谷 あのね、今NHKにおる柏倉っていう人が、とにかく、ちょっと偉い人になってるのよね。
飯島 そうか、知らない。
中谷 それに僕は二度ほど会って話しことがあるんだ。ちょっとした対談会でね。そしたらね「梶井さんの小説は映画から来てる」って言いよったよ。
飯島 そうなんだよ。おれがそう思ってるんだ。
中谷 ああ、君がそう思うのかね。うん。
飯島 というのはね、あの人の小説読むとね、まるで映画のドキュメンタリー読んでるような感じする。
中谷 ああそうか。
飯島 見てばっかりいるんだよ。観察ばっかりしてる。
中谷 ああそうそう。見てばっかりか。(笑い)
飯島 それをみんな拾い上げてるんだ。だから「城のある町にて」なんかもその一つだ。それが丁寧に、詳しく書いてある。
 も一つ、僕はそのとき言わなかったけどね、映画を見てね、恐らく彼は筋なんかどうでもいいんだね、結局映る物が、花が映ったり、山が映ったり、川が映ったり、小動物が映ったりするでしょ、ああいう所を一生懸命見てたと思う。その感じがよく出てるんだよ、あの人の小説に。
中谷 ああ、なるほどね。
飯島 そのいまのは何。NHKの人がそう言ったって。
中谷 うん、それがね、梶井のやっぱりファンでね、フランスへ彼はNHKから出張っていうか、駐在でフランスへ行っておったけども「その折りも梶井全集だけは持っていきました」って言っておったからね。それで非常によく読んで、よく知ってるんだけど、その映画のことをぽっと言われてね。おれは映画は知らんからね。(笑い)(後略)

 中谷さんが触れている「対談会」というのは、雑誌「文芸広場」に掲載した「青空のこと、梶井のこと」と題した対談で、私が中谷さん宅を訪ねて、奥さんの平林英子さんを交えて行ったもので、このブルグにも再録した(Ⅰ~Ⅹ、2014.09.07~10.04)。中谷さんが雑誌「鈴」を送ってくれたのも、こうした経緯を踏まえてのことである。
 ここに登場する飯島正さんは、中谷さん同様、梶井とは第三高等学校時代からの友人で、映画評論家として著名な人である。飯島さんは第三高等学校の寮では梶井と同室になり、このころから外国映画への関心が強く、新京極の映画館に新作がかかるとすぐ観に行った。そして観おわると、筋書だけでなく、監督、出演した俳優の名前、感想などをノートに詳しく記すのを習慣としていた。そして当時は貴重だった外国の映画雑誌を定期的に取り寄せていた。あるときそれが寮に届いたのを見つけた寮生が、女優の写真見たさに勝手に開封してしまった。飯島が烈火のごとくに怒ったのは言うまでもない。飯島さんにとって、雑誌は女優のポートレ-トに見惚れるためのものではなく、貴重で神聖な情報源だったのである。
 梶井や中谷さんは、東大に進学して同人雑誌「青空」を刊行するが、飯島さんは最初、同じ三高出身の浅野晃、伊吹武彦、大宅壮一、水野亮たちが出した第七次「新思潮」に加わる。だがやがて「青空」の同人となって、作品を幾つか寄せかが結核のために休学しなければならなかった。梶井とは、同じく胸を病むものとして終生特別の友情で結ばれていた。
 梶井文学における映画の影響は、「城のある町にて」、「太郎と街」、「交尾」といった作品にみることができる。この点に関ついては、かつて拙著『視ること、それはもうなにかなのだ 評伝梶井基次郎』(左右社、2010年)で、次のように述べた。
 「「太郎と街」の場合、こうした新しい文学運動〔その一例が新感覚派〕のほかに、もう一つ当時盛んになりつつあった映画の影響を考える必要がある。梶井は三高時代に同室だった飯島正などの影響もあって、活動写真館へ通っていたが、句読点で短く文章を区切っていく描写は、そのリズムといい、映画の技術用語でいう「移動ショット」そのものである。ただ「太郎と街」の書き出しはこうした諸々の影響を感じさせるとはいえ、梶井の感性の特徴をよく示しているのはいうまでもない。街の客観的な描写ではじまった文章は、たちまちバイアスがかかって幻想味を帯びてくる。
 「太郎は巨大な眼を願望した。街は定まらない絵画であった。幻想的なといえば幻想的な、子供だましのポンチ絵には、土瓶が鉢巻をして泳いでいたり、日の丸の扇で踊っていたりするのがあるが、ブーブー唸って走っている自動車などを見れば吹き出したくなる位だ。菓子屋のドロップやゼリビンスは点描派の画布の様だし、洋酒瓶の並んだ棚はバグダッドの祭りの様だ。」(全集第一巻、三七七頁)
 梶井の意識は、眼にし、耳にする現実を薪にして燃えあがる。すると今度は見られている方の現実が、あたかも熱せられた空気を通して見られるように、ゆらゆらと揺らめきだし、現実味を失って網膜上に虚像を結び、鼓膜をうつ。梶井は意図的にこうした心の状態をつくりだし、その結果生ずる錯覚を楽しむ習慣を身につけつつあった。」
 これは幻視者・ヴィジオネール(visionnaire)としての梶井の誕生を探った箇所だが、いまもこの見解は変わっていない。考えてみると映画そのものが、現実を素材にして一つの幻視を提供する手段なのである。
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by monsieurk | 2016-04-13 22:30 | | Trackback | Comments(0)

男と女、金子と森の場合(第2部)Ⅹ

 スラバヤからバタビアへの帰途は、ジャワ島南部を横断する汽車の旅で、ジョグジャ、バンドン、ボゴールを通ってバタビアに戻った。そして10月20日、バタビアからオーストラリアのKMP汽船に乗船した。ただ船賃を節約するため、来たときとは違って、一人15ギルダのデッキ・パッセンジャーの客となった。これは船室もベッドもなく、4日間をデッキで過ごすのである。日本人がデッキの客となるのはまれで、まわりはインド人やマレイ人の兵士、タミール人の出稼ぎ労働者たちだった。
 鞄類とともに、ズックの折り畳みの寝具を一つ持ってデッキに上がり、それを三千代の寝床にして、金子はそばに新聞紙を敷いて寝た。食事のサービスもなく、乗船前に買い込んだバナナの大きな房2つと、船内で売りに来るコーヒーを飲んで飢えをしのいだ。困ったのはスコールで、デッキはたちまち水浸しになり、流されないようにデント綱にしがみついた。さらに難儀したのは便所だった。デッキには便所がなく、三千代が用を足すときは、船尾の手摺に近い床に紙を広げて済ませた。しゃがんでいる彼女の身体をかくすように、金子は両手を広げて立っていた。
 4日目にシンガポールに着き、以前も世話になった「星州日報」の長尾正平の世話になり、ヨーロッパ航路の郵船を待つことにした。その間、デッキの旅も貴重な体験だろうと話題にすると、笑う者もいたが、なかには、「日本人の体面がありますよ。一等国の国民がヒンズーといっしょにデッキで旅をするなんて非常識よりも、国辱です」(『どくろ杯』)と決めつける者もあった。
 長尾は植民地の実態に触れて、白人のアジア支配やその搾取のうまみにあこがれて、あわよくば白人に代わって自ら植民者になろうとたくらむ日本の資本家たちやその手先になっている者に反感を抱いていた。彼の蔵書には、マックス・スティルナーの『唯一者とその所有』やマルクスの本などもあり、金子はそれらを借りて読んだ。『こがね蟲』に見られるように、金子はもともと感覚的な耽美主義者で、思想は苦手だった。それに三千代の恋人だった土方の存在もあって左翼に対して懐疑的だった。その彼がこの旅で植民地の実態にふれ、さらに長尾の影響もあって次第に白人の植民地支配に対して怒りと批判を持つようになっていた。
 手許には東京を出てから初めてまとまった金があり、長尾もパリまでの旅費の捻出に骨を折ってくれたが、有り金を計算すると、三等に乗るとしても、マルセイユまでの二人分の旅費には足りなかった。三千代は事の次第をこう回想している。
 「ジャワからシンガポールに上陸したとき、持ち金を勘定したんですね。そのとき相談を受けました。二人でパリまで行くには足りないけれど、一人でとりあえず行くか、それともここから二人で日本へ帰ってしまおうか、そういう相談を受けました。日本を発ってはじめて相談というものをしたんです。珍しいことだったと思います。そのときまでは金子がどんどん自分で引っぱってきましたけれどもね。その相談の結果、よかったら私先に一人で行くと言ったんです。でもそうは言ったものの、いざ船に乗ったときは、しまったと思いました、心細くて。」(「金子光晴の周辺 4」)
 一方、金子の回想では――、
 「三等でも二人の旅費にはまだ足りなかった。そこでまず、不安ではあるが、一足先に、彼女をパリにやり、そのあとから、マレイ、スマトラ、事に酔ったら、ビルマ、インドと立寄って私があとかを追う。そのあいだを二ケ月と決めて、彼女に切符を買ったあとの有金をもたせ、パリで待つようにくれぐれも手筈を話した。もたせた残金で、私なら、三ケ月でも四ケ月でもくらしてみせるが、ヨーロッパははじめての彼女にとっては、すこし無理かもしれないと思った。」(『どくろ杯』)
 スラバヤの展覧会で絵を売って稼いだ金は50ポンド゙で、そのうちの30ポンドでマルセイユまでの特別三等の切符一枚を買った。特別三等には藁床のベッドがあり、一品料理の洋食もついた。残りの20ポンド゙は、パリで生活する当座の金として三千代に渡した。金子自身はマレイの奥地でゴム園を経営している人たちに絵を売って船賃を稼ぎだす算段だった。シンガポールで次の郵船を待つ間は一週間ほどだった。この間に斎藤という外交官のはからいで、パスポートを二つに分けて、各自がそれぞれのものを持つことにした。
 10月末、三千代は郵船の加茂丸に乗った。見送りは金子一人だった。
 「彼女をつかんでいる手を離して、なにか運命の手にゆだねるということは、永遠の別離を意味することである。
 船底のまるい窓から覗いている彼女が船がはなれてゆくにつれて小さくなってゆくのをながめていると、ついぞ出たことのない涙が、悲しみというような感情とは別に流れつたった。「馬鹿野郎の鼻曲り」と彼女が叫びかけてきた。「なにをこん畜生。二度と会わねえぞ」
 罵詈雑言のやり取りが、互いの声がきこえなくなるまでつづいていた。彼女の出発について移った桜旅館にかえると、空中にいるような身がるさと湿地にねているような悪寒とを同時に味わった。」(『どくろ杯』)
 この離別のシーンを、森三千代の方は次のように書いている。
 「十三子(三千代)の乗り込んだ船を波止場の岩壁に立って、小谷(金子)が見送った。丁度、小谷が立っている水平の位置に、三等船客の丸窓があり、そこから顔をのぞかせた十三子と彼とが向いあった。小谷は、無理に笑顔をつくって、ときどき思い出したように手を振ったが、笑顔はすぐにいびつになった。ゴム園を歩いて船賃をつくり出すことは、彼としても確信があるわけではなかった。ここからすぐ二人で日本へもどることもできると、小谷は、その時までは心のなかでひそかに両端を持していたのだが、十三子が船にのってしまっては、賽はもう振られてしまったのだ。十三子は巴里について一ケ月の滞在費も持っていないのだ。そして、補給のあてはなにもないのだ。小谷はそのとき、自分の力と誠実の限界をはかり知って、己を放棄することで、ある解放感をおぼえながらも、かなしさ、さびしさは、果てしなかった。その小谷の気持が、十三子にも、ひしひしとわかった。あとを追いかけてくるという小谷の計画に十三子は、半分の期待しか持てなかった。小谷が来られなかった場合のなりゆきはやみくもで、考えてみる気にもなれなかった。考えれば、足もとの奈落をのぞきこんだように、全身が総毛立った。そしてこのようなはめに立ちいたったじぶん達の運命に、むしょうに腹が立った。その怒りをなにかにぶつけなければ、心がおさまらなかった。出帆の銅鑼が鳴り、岩壁に下してあったタラップが上げられた。船がうごきはじめ、十三子から岩壁が退っていった。
 「めっかちの、つんぼの、鼻まがり。おまえなんか、どっか消えて、なくなっちまえ」排水のさわがしい音に消されそうになるので、声を限りに、岩壁にしょんぼり立っている小谷にむかって叫んだ。小谷がマッチの軸ぐらいに小さくなって、やがて見わけられなくなるまで、ながめていた彼女は、女ひとりで相客のいない船室の藁蒲団のベッドの上に、突き上げてくる嗚咽といっしょに顔を伏せた。(「去年の雪」)
 1928年(昭和3年)の12月、長崎を出て上海に渡って以来、二人は上海、香港、シンガポール、ジャワ、そしてまたシンガポールと続けて来た。金銭的な苦境と三千代を恋人から引き離すために出かけてきた二人旅だったが、一年後の1929年(昭和4年)10月末、二人はついに別れ別れとなった。果たしてこのあと、約束通りに三千代の後を追ってパリに行きつけるかどうか、一人でパリに向けて出発した三千代がどうなるのか、金子にも当の三千代にも何の目算もなかった。(第二部終)
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by monsieurk | 2016-04-10 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女、金子と森の場合(第2部)Ⅸ

 現地の汽車は昼間だけしか運転せず、夜までに行きついたところで停車する。一、二等は外国人専用で、三等車は現地の人や中国人が利用するのだが、二人が乗ったのも三等車だった。窓は小さく、椅子は木製だった。
 ぺカロンゲン市をすぎると汽車は海岸線を走り、窓外には章魚の木が並んで植わっているのが見え、水牛の背中に白鷺が止まっている光景も見かけた。夕方5時ころ中部ジャワのスマランに着き、ホテル・スタッションという日本人経営の古ぼけた旅館に泊まった。翌日は午後3時にソロ行きの乗り合いバスに乗り、4時間半かかってソロに着いた。ソロは8世紀からの宮廷文化の中心地で静かな街だった。高地にあるせいで気候も爽やかだった。到着した日は夜市(バッサル・マラン)が開かれているためホテルはどこも満員で、ようやく中国旅館を見つけて泊まることができた。
 翌28日の朝、トーコー(洋行)・Tの奥さんに案内されて、街をめぐり、博物館や王宮庭園を見学した。ソロ王は古いジャワ王朝の末裔で、オランダ政府から年金をもらい、ジョクジャ汗国とならんで名目だけを残していた。街の一角には士族の屋敷があって、金の小剣を背中に帯びて、髪を結い大きな簪をさした武士たちが、サロンに裸足で歩いているのを見かけた。王宮の庭ではワーヤン劇をやっていて、役者はみな貴族の子弟だった。彼らは幼い時から古楽器を習うということだった。ソロ、ジョクジャの二侯国は、古い伝統をもつ舞踏劇を残すことで安住をえていた。
 ソロには日本人の雑貨店も多く、土地の人たちの対日感情もよいとのことだった。街の周囲には煙草畑やコーヒー園が広がり、奥地の山間部には銅の鉱脈があって働いている日本人もいた。彼らの日常には娯楽は少なく、夕方になると人びとは一軒の家に集まって御詠歌をうたうということだった。
29日、ソロから二時間ほど乗り合いバスゆられてジョクジャ汗国に着き、日本の雑貨と古代ジャワ更紗を商う富士トーコーの澤辺磨沙男の家に泊めてもらった。その翌日は、澤辺の店の番頭が運転する車で、世界最大の仏教遺跡ボルブドールの石の大回廊を見物した。遺跡は一辺が123メートルの方形の基壇上に、5層の方壇と3層の円壇がピラミッド状に重ねられ、頂点には大きなストゥーパが置かれ、高さは優に30メートルを超えていた。全体が仏教世界をあらわした曼荼羅で、方壇の回廊には仏教の説話を描いた浮彫が1460面続いていた。夕暮れ近くには、タマンサリ(水城)の跡を見学した。城は堰を切るとたちまち浮城になったというが、18世紀に起きた大地震で崩壊したまま放置されていた。
 ジャクジャには数日滞在し、9月初めには数時間の汽車の旅でジャワ島の東に位置する商業都市スラバヤへ向かった。駅に着くとすぐにウエルフ街にあるの「爪哇日報」スラバヤ支社を訪ねた。だがバタビアの斎藤社長から、世話には及ばずという連絡が入っていて、二人を迎えた支配人松原晩香の態度はけんもほろろだった。仕方なく華僑が経営するホテルに旅装をといて、三千代が一人で事情を説明しに行くと、松原は事情を了解してくれて、世話をしてくれることになった。
 松原は早稲田大学で演劇を専攻した坪内逍遥の弟子だった。1920年にジャワに来て、「南洋日日新聞」の佃光治が「爪哇日報」を創刊したとき、その下で記者をしていたが、「爪哇日報」を齋藤正雄が譲り受けたときに、バタビア支社に来たという。もともと松原とはそりが合わない間柄だった。オランダ政府の方針で邦字新聞は一社しか認められず、スラバヤの「爪哇日報」(De JAVA NIPPO)は、バタビアの「爪哇日報」の販売と、内地向けの月刊誌「爪哇」を、4、5人の社員で印刷し発行していた。スラバヤ滞在は二週間の予定で、松原の紹介で日本旅館に泊まることができた。スラバヤには日本人の大きなコミュニティーがあり、領事館S・M、貴金属商店の店員Kといった人たちと昵懇になった。カリシアには松本楼などの日本料理の店があり芸者もいた。松原と領事館のS・MやKは酒飲み友だちだった。金子と三千代が着いたとき、スラバヤでも夜市が開かれており、二人は彼らに連れられて毎晩夜市に繰り出した。
 夜市では、色とりどりの電飾で照らされた広場に幾つかの商品館があって物産を販売し、その周りには郷土品を売る露店や食べ物の屋台、小屋掛け舞台、踊りの舞台、さらにはオランダ人が経営するダンスホールやバーなどが店を開き、大勢の人でにぎわっていた。
 松原は新聞記者という職業柄顔が広く、誰彼となく声をかけられた。松原は三度の飯よりも芝居が好きで、若いとき浅草の劇団に入って舞台を踏んだこともあり、ジャワのワーヤン劇の研究家としても造詣が深かった。夜市では、皆で電気自動車に乗ってぶつかり合い、観覧車で空中へ吊り上げられてスラバヤの夜景を見下ろしたりした。そして16、7歳の踊子が踊るバリのダンスやサリモト一座の芝居を楽しんだ。松原が早撮りの写真をみつけて、衝立に描かれた漫画の顔の穴から、三千代と二人で顔を出して写真を撮ってもらった。写真の店を出していたのは、バタビアの日本人倶楽部の書記をしているWで、わざわざ出向いてきたという。思いがけない再会だった。d0238372_17504962.jpg
松原は三千代に木偶芝居の武士の人形を一つ買ってくれた。大きさは30センチほどで、眼がつり上がり鼻が尖った顔を白く塗り、金の冠を被っていた。手足は棒で動かす仕組みで、胸から下にはきれいン更紗の衣装をつけていた。三千代はのちにこの木偶人形を、ベルギーで世話になったルパージュへの贈り物にした。
 9月14日付けの「爪哇日報」のスラバヤ版に、「金子光晴の画展日本人会館で」という見出しの記事が載った。
 「詩人画家金子光晴氏は。此土曜日日曜日に掛けて午前午後当地日本人会館にて東印度風景及び風俗画の展覧会を開く事になった。同氏は浮世絵の日本画を書き、其方面に於いては内地でも有名な画家である。来島以来数十点を書いたが何れも出来栄え能く多分展覧会は成功するだらう。」すべては松原の助力のお蔭だった。たまたま寄港した日本船の船乗りたちが大勢、松原のはからいでやってきて、南洋の記念品でも買うように買ったくれたせいもあり、まとまった金を手にすることができた。
 10月16日には、スラバヤ婦人会の主催で、「アイダ河上鈴子嬢舞踏会」が開かれることになった。上海から来た河上鈴子が西洋式の舞踏を見せる機会に、芝居好きの松原がストリンドベリーの劇『犠牲』を上演したいと言いだした。ついては金子と三千代にも出演してほしいという。絵心のある「爪哇日報」の社員が大道具の背景を描き、三千代が妹役、姉は新聞社の印刷工の頭の禿げたおじさん。松原が姉妹の父親役、金子は顔中に赤髭をつけた中尉をやることになった。しかしいざ稽古となると、たまたま来合わせたハンガリー人の画家の接待で忙しく、ぶっつけで本番を迎えた。三千代だけがやきもきした。
 「当日は早くから見物がつめかけていた。
 西洋舞踏がすんで、余興の第一番に、姉娘になるおじさんの日本舞踊の幕が開いた。女の着物を着て、薄化粧をしたおじさんが、あねさんかぶりをして、『梅にも春』を踊った。横目をつかい、しなをして、小面憎いほどすましこんで、真面目くさって踊り終えた。
 次は、『犠牲』の一幕である。
 厚紙の背景がかつぎこまれた。切角〔せっかく〕の泥絵具の彩色が、おおかた剥げおちていた。泥絵具の粉末をとかす時、膠を入れるのを忘れたからであった。
 幕があくとまず、洋服を着た私が一人で窓に立って歌を歌わなければならなかった。もともと歌を歌うことは聞いていなかったので、舞台に上る前に、世話役になって来ていた貴金属商のKさんに、なにを歌ったものでしょうと相談すると、Kさんも当惑して、なんでもいいじゃありませんかと言うことだった。庭の千草を歌いはじめた。あまり高い声で歌いはじめたので、途中でかすれてしまった。そこへ、印刷工のおじさんが、どこで手に入れて来たか、もしゃもしゃの赤毛の鬘をかぶり、アッパッパを着てぬっと出て来た。せりふのやりとりがはじまったが、この人は、旧派の芝居のせりふまわしを心得ているとみえて、ねちねちした抑揚をつけて、それも、全部ひどい東北訛りであった。見物席は立錐の余地もなく、うしろの方に人が立ってあふれていた。つかつかと上がって来た中尉は、顔中、むちゃくちゃに赤髭を付け、眉毛と眼のくまどりだけは、白虎隊のように、勇ましげに吊上っていた。Mさんの仕業だった。中尉は、おじさんのせりふを聞くなりぷっと噴出して、そのまま笑いがとまらず、観客席の方を向くことが出来なかった。出て来たままで、言うべきせりふは度忘れしてしまっていた。テーブルの白布の下にもぐりこんでいたプロンプターがしきりにせりふをつけるのだが、聞きとれないで耳に手を当てては幾度も聞き返した。プロンムプターの声が見物席にとどくと、どっと、くつがえるような笑い声が起った。
 余興芝居は大成功だった。深刻なストリンドベリーの劇が、喜劇に終わっても、見物の人達の心には、歓を尽したものが残った。勿論、そこに来ていたオランダ人の観客達は、それが北欧の大家のストリンドベリーの戯曲をやっていたのだとは、しまいまで夢にも気が付かなかったろう。」(「スラバヤの夜市」)
 苦しいことの多い旅のあいだで、スラバヤの人たちの親切とこの日の出来事は、金子と三千代にとって忘れられない思い出となった。(続)
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by monsieurk | 2016-04-07 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女、金子と森の場合(第2部)Ⅷ

 金子と三千代がバタビア滞在中によく行ったのは旧港のスンダ・クラバ港だった。三千代はのちに「去年の雪」や「爪哇の宿」でこのことを繰り返し書いている。
 「旧港の市場の赤瓦の屋根がすぐに見えはじめる。市場前の船着場の石崖に、舳をそろえてひしめきながら、漁船が波にゆられている。押し立てた船首には、原色で魚の目玉や、怪物の顔が描かれ、帆綱は、彩った幣束のようなものでかざられていた。ジャバ〔ママ〕人の漁夫達の近海漁業の、昔ながらの野趣にみちた小舟なのだ。小谷(金子)は写生帖を出して、熱心に写生した。サロンの腰を折りまげてしゃがんだ漁夫の妻が、舟の上で、こんろに火をおこし、くさい煙を立てて干魚をやいている。腹を突出した裸の子供たちが、舟から舟へうつりあるいて遊んでいる。これらの舟は、夜明前のまだ暗い星空の下を、篝火を焚き、焦茶色の帆を張って、海賊船のようにひっそりと出てゆくのだ。椰子の生えた突堤が、海の中まで突出ていた。水飛沫が突堤を越えて走るのが見えた。その突堤のはずれまで、小谷と十三代(三千代)が黙々とあるいてゆく。突堤から海の向こうまで、そのまま歩いてゆきそうな二人の姿だった。世界の果てだった。少なくとも、十三代にはそう思えた。こんなところがあるのを考えたこともなかったし、なおさら、来ようなどとは想像も及ばなかった。」(「去年の雪」)
 7月の末、斎藤正雄と三人で早朝に新港タンジョン・プリオクから小舟に乗り、2、3時間かけて沖にあるサンゴ礁の無人島へ遊びに行った。金子はこのときのことを『マレー蘭印紀行』の「珊瑚島」で書いている。d0238372_11181642.jpg
 「うつくしいなどという言葉では云足りない。悲しいといえばよいのだろうか。
 あんまりきよらかすぎるので、非人情の世界にみえる。
 赤道から南へ十五度、東経一〇五度ぐらいの海洋のたゞなかに、その周囲一マイルにたりるか、足りないかの、地図にも載っていない無人島が、かぎりなく散らかっている。(中略)
 美貌の島。・・・・
 人生にむかってすこしの効用もない、大自然のなかの一部分のこうした現実はいったい、詩と名付くべきものか。夢と称ぶべきであるか。あるいは、永恒とか、無窮とかいう言葉で示すべきか。(後略)」
 金子は言及していないが、三千代の「猿島」(『新嘉坡の宿』所収)によると、島で釣りをして獲物を焼いて食事をしたりしているうちに、雲行きが怪しくなってきた。あわてて舟に乗ると大時化が襲ってきた。船はいつひっくり返ってもおかしくないほど波に翻弄されて、命からがら戻ってきたという。
 こうして新聞社の人たちとも昵懇になり、金子はせっせと絵を描きためた。森三千代の回想――
 「松本 そこ〔旧港〕では金子さん、ずいぶん写生されたようですが。
  そのへんにバナナ畑がありまして、そこへ行く途中に、オランダ風のはね橋なんかあり、金子はそれなどを丹念に水彩で描いていましたが、なかなか風情のある景色がいっぱいあり、ずいぶん気に入っているようでした。(中略)日が暮れてきますと、船頭さんたちが、日本の船頭さんと同じように立ちはたらいてますし、女の人はサロンをつけた腰を曲げて火を焚いて、夕食の支度なんかしてますし、こっちの丘のほうには、ガス燈がともるんです、ポーッと。明治時代に、ガス燈がともったときの話のように、それは私なんか知りませんけれども、そうゆうふうにガス燈をともしにくるんです。一つひとつ。それがすみれ色のきれいな色で。すると今度はコウモリがたくさん飛んでくる。そんな夕方まで遊んで、帰ったりしたことがよくありました。」(「金子光晴の周辺 1」)
 金子の方は『どくろ杯』で、「おそらくつきないほどの画材がある土地であったが、四十度近い炎天を、ときには帽子をかぶるのも忘れてほうついたあげく、視力がへこたれて、おもったよりも仕事がはかどらなかった。傍若無人にねたり起きたりのくらしぶりが禍して、とうとう新聞社にも居られず、松本という、大黒屋よりも腹のふとい、やはりむかしは女衒の親分のやっている宿屋の小室に移った(後略)」と述べている。
 なぜ突然、「南洋日日新聞」社長の斎藤正雄が金子たち二人を追い出したのか、その原因は諸説あるが、金子も三千代も明らかにしていない。金子は「塚原って奴に、聞いてみたら、それはあんたが悪い。齋藤さんのところにいるんだから、絵も齋藤さんの肝入りで展覧会をすべきですよ。齋藤さんと松本のじいさんは仲が悪いんだから」(『人非人伝』)と述べていて、展覧会のことを知り合った松本に相談したことで、斎藤が臍を曲げたことになっている。その他、齋藤が旧知の西条八十に、金子がジャワに滞在していることを知らせると、西条から金子などの世話をする必要はないという返事があったことが原因だという説もある。金子がかつて西条八十の畏敬する萩原朔太郎を批判したこと、朔太郎の『月に吠える』と『青猫』を西条から借りたまま返さなかったことで、西条の心証を害していたという。いずれが真相かは不明である。
 松本旅館に移ってからも二人の生活は変わらなかった。8月12日にはバタビア博物館を訪れ、15日には東洋一といわれるボイテンゾルグ植物園(現在のボゴール)を見学した。
 「 いろんな椰子の種類も見ましたし。いろんな竹や、根がぶきみに浮き出た榕樹(ガジュマル)の大樹、苔むした樹木の幹に赤い花が一厘咲いているというような、ほんとうにいろいろ珍しいものがありましたね。
松本 そういうようなもの、金子さんはずいぶん興味をもたれたでしょうね。
 ああいうところで、いろいろな植物に興味をもちはじめたと思うんです。ずいぶんノートに書きためているようでした。昔はそういうもの、ちょっとも興味のない人でしたね。(中略)とにかく驚きでしたものね、あそこのすべてが。」(「金子光晴の周辺 1」)
 二人が植物園で見たのは、鬼蓮や大歯朶、かずかずの蘭、椰子、竹などで、金子は後年、詩篇「歯朶」(『IL』所収)で次のように書いている。
 「しだの涼しい衣ずれをきき、レース編みをもれる陽のせせらぎをさまよって、植物のからだを循環している血液と、僕の身うちにながれてゐる樹液とがまざりあひ、一つにつながれた解放感と、かなしみの情でしかあらはしにくい恍惚とを、はじめて味はうことができたのは、じゃがたらのボイテンゾルグ植物園のなかにある、大歯朶の林のなかに迷ひ入つたときであった。(中略)

 ・・・・
 身にまとふものを
 われ先に、ふみぬぎ、
 月に浴る少女たちの
 裸の白で、湧きかえる沈黙。
 
 ことば一つにも、性別なしでは
 こころのすまぬ仏蘭西でも
 Fougère〔羊歯〕よ。
 君はやっぱり、女性なのだ。

 みわたすかぎりの繁みは
 女たちへの、傾斜。
 ふみいるひとあしは
 女たちへの、埋没。

 しなやかなしだに乗って、
 しだにゆすられて
 かるがるとあそぶには、
 月よ。僕のからだでは、もう重すぎる。

 ここでは歯朶は女性そのものに変身していて、金子のエロスのあり様をよく示している。
金子と三千代は、8月26日の朝7時35分発の北部海岸線の急行でバタビアを発った。目指したのは、チルボン―ペカロンガン―をへた、スマランだった。(続)
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by monsieurk | 2016-04-04 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(3)

男と女、金子と森の場合(第2部)Ⅶ

 7月15日の午後、早撮りの顔写真をもって民籍局に行き、在留手帳の交付を交付してもらい、パポートを返してもらった。その帰りに新市のウエルトフレンデにまわりって目抜き通りを見物した。広場にはジャワの二代目の総督ヤン・ピーターソン・クーンの銅像があった。三千代はオランダの百貨店ゾーンで口紅を買い、さらに草色のパジャマを注文した。そして軒を連ねる日本人の店の一つで影絵人形を染め出したサロン〔インドネシアの女性が着る腰巻様の服〕を買った。
 チューリオン川の岸辺では、大勢の現地の女性たちが洗濯をしている光景に出会った。ディレントイム公園では、オランダ人女性がフットボールに興じたり、若い男女が自転車に乗ったりしていた。その後、馬車を雇ってジャガタラ街道を行き、途中でピーター・エルヴェフェルトの梟首を見た。d0238372_8425177.jpg
「そこは、旧バタビヤ、ウエルトフレンデ間の停車場になっていた。馬車を乗りすてて、五六間はいると、目的のエルベフェルトの首がある。首は長い石塀の上にのっかり、下から突刺した槍が二寸ばかり尖先を出している。首も槍も赤く錆びついたような色をしていた。顔なりにそっくりコンクリでかためて化石させたもののようである。石塀の向うは、広い芭蕉畑で、破れた芭蕉の葉が、夕暮の中でカタカタ鳴るのが、首が笑っているようで無気味だった。」(「爪哇の宿」)と森三千代は書いている。梟首の印象は二人にとってよほど強烈だったとみえ、金子光晴も「エルヴェルフェルトの首」という散文詩(初出は「コスモス」1935年11月号)に詠っている。
 「バタビアの第一の名物は、総督クーンの銅像でもない。凱旋門でもない。それはピーター・エルヴェルフェルトの首だ。
 全くそれは一寸よそに類のないみせものである。
 ピーター・エルヴェルフェルトといふ男は、生粋な謀反人であつた。彼は混血児で、奸侫な男だつた。十八世紀の頃和蘭(オランダ)政府を顚覆し、和蘭人をみなごろしにする計画をたて、遂行のまぎはになつて発覚し、蘭人側のあらん限りの呪ひと、憎しみのうちに処刑され、その首が梟首されたまゝ今日までさらいつゞけられてゐるのである。(中略)
 謀反人エルヴェルフェルトの首は、壁のうへで、いまもはつきりと謀反しつゞけてゐる。たとへ彼の××が、いかなる正義も味方しないとしても、××である故をもつて、まつさきに正しいのではないか。ススーナンにも、サルタンにも和蘭にも、コムミュニズムにも、次々にきたるすべてのタブーにむかつて叛乱しつゞける無所有の精神のうつくしさが、そのとき私の心をかすめ、私の血を花のやうにさわがせていつた。私はエルヴェルフェルトの不敵な鼻嵐をきいたのだ。
 遠雷がなりつゞけてゐた。私の辻馬車(サード)は、じゃがたらの荒れすさんだ路をかけぬけようとあせつてゐた。うちつゞく椰子林のなかの光は鈍く、反射し、でりかへし、あたかも、天地のすみずみに、いたるところにしかけた火薬がふすぼりだして、いまにも爆破しさうな瞬間のやうにおもはれた。そして遠方にならんだ椰子の列は、土嚢をつんだやうな灰空の下で、一せいに悲しい点字の音のつゞくやうに機関銃をうちはじめた。
 私は目をつぶつて、胸にゑがいた。剣に貫かれた首の紋章。ピーター・エルヴェルフェルト。」(詩集『老薔薇園』)
 ××には「革命」の文字が入るところで、発禁処分を恐れて伏字にしたのである。1926年6月には治安維持法の改正が行われた。出版物に対する取り締まりが強化され、言論に対する弾圧は容赦がない時代になっていた。森三千代は、「金子光晴の周辺 12」で、「金子とは旅行中も、そういうこと〔社会主義思想〕で話し合ったことは一度もないんです。私一人で勉強したり、一生懸命に考え込んだり・・・ほんとは金子とも話したかったんですけど、どちらからも、そういう話はしようともしなかったし、話したりすると、喧嘩になりそうだったんです。しないほうが、おだやかな旅行が出来ました。
 あとになってからは、ああ、やっぱり金子も、私と同じようなことを考えて、旅行してたんだなあと思ったんです。金子が書いたものを読んで。」と語っている。金子も口にこそ出さなかったが、欧米の植民地だった中国や東南アジアの悲惨な姿を心に刻んでいたのである。
 7月18日、「爪哇日報」に、「詩人画家金子光晴氏並に夫人(女流詩人森三千代)は渡仏の途新嘉坡よりジャワ見物に来島した。当分バタビアに滞在する」という記事が掲載された。
 7月19日、金子と三千代はそれぞれ風物詩をつくり、「爪哇日報」の編集部に渡した。隣の植字室からは係の小父さんの鼻にかかった歌が聞こえてきて、それを聞きながら買ってきたオランダのレースを洋服の襟につけた。十人ほどいる新聞社の人たちとも親しくなり、その人たちに連れられて中華街の外れにある温泉へ行って故国の気分を味わった。
 7月20日、デング熱の影響か、日中は外出する気になれず、陽が落ちてから旧港までカノンを見に行った。草原のなかに置き忘れたように古い大砲の砲身が投げ出されてあった。砲底の蓋が人間の握り拳の形になっていて、人差し指と中指の間から親指の先が突き出て、男性のシンボルを表していた。子を授かりたい女たちが、糸で綴った南国の花を砲身にかけるのだが、それが陽に焦がされて茶色の変色していた。男砲と女砲の一対があり、女砲は運ばれて行く途中に海に沈んで、いまは夜になると男砲を慕って泣く声が聞こえると伝えられていた。
 7月21日、先に原稿を渡した、金子の「月が出る」と三千代の「スコール」、「南方の海」が新聞に掲載された。
 7月22日には、徒歩で世界をまわっているという竹下康園が新聞社を訪ねて来た。三千代が応接し、署名簿を出されたのでボードレールの詩の一節を書いた。そして竹下の徒歩旅行の件を新聞記事に書いた。
 7月23日、竹下は斎藤正雄から若干の寄付を得てスラバヤへ向かって旅立っていった。この夜は、空き地にテントを張った現地人のサーカスを見に行った。三千代はサロンを穿きサンダルをつっかけた姿で桟敷におさまったが、周りの女たちがみな彼女を見ながら笑っている。どこか変なところがあるのだろうと自信がなくなった。
 三千代は、「この日は、郷愁殊に深し。故郷のことが気にかかる。家に手紙を書く」と日記に記している。すると翌朝入れ違いに長崎からの手紙が届いた。「朝、長崎の家から手紙来る。昨夜手紙を書いたのは、蟲が知らせたといふものか。
 坊やが丈夫ださうだ。なによりも、それが一番うれしい。坊やの描いた絵が三枚封入してある。
バタビヤには、ジャバ産の子馬のサドといふうしろ向きに腰をかける馬車が、鈴を鳴らして到るところに走つてゐる。坊やを一度それに乗せてやりたいと思ふ。」(「バタビヤ日記」)(続)
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by monsieurk | 2016-04-01 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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