ムッシュKの日々の便り

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男と女――第三部(6)

 ホテルに宿泊しているほとんどは外国人だったが、白布で仕切っただけの隣室には、シャム(タイ)との国境のケダ州で農業をやっているという日本人の夫婦が泊まっていた。女は娘子軍の果てで、亭主の方はひもだった男だが、いまはいたわりあいつつ、異国の山間で余生を暮らす老夫婦だった。
 クアラルンプールにしばらく滞在した金子は、イポ、タイピンと北上して、バッタワースからペナン島にフェリーで渡った。ペナンはマレー半島第二の大きな街で、人口も凡そ二十万を数え、その内十八万人ほどが、ジョージタウンと呼ばれるイギリスの街を模した市街に住んでいた。この港は良港で、日本郵船などヨーロッパ行の定期船が寄港する場所だった。
 ヨーロッパへ行くなら、ここからインド洋を目指すのだが、金子にはまだその金はなく、かねてからスマトラに興味もあったので、スマトラ島へ渡ることにした。ペナンでは名所とされる極楽寺や蛇寺を訪ね、葉巻工場を見学したあと、十一月下旬、ペナンを午後四時に出航する週一便のイギリスの汽船Kuala号の二等船客となり、スマトラへ向かった。船は小型船で、翌日の午前七時に島の北海岸にある港ベラワン・デリに着いた。
 スマトラ島は、はじめイギリスが島の西北部メダンとデリー地方を領有していたが、十八世紀初めに、オランダが占有していたマレー半島の占領地と交換して、オランダ領になっていた。金子はベラワン・デリからタクシーで、スマトラ第一の商業都市メダンに入った。d0238372_510871.jpg
 メダン市は港の税関から続く軽便鉄道が通っていて、その線路を挟んで新メダンと旧メダンとに分かれていた。官庁、銀行、会社、大きな商店などはみな旧メダンの目抜き通りに軒を連ね、新メダンは最近開けたところで、中国人の小売店や、小料理屋、活動写真の小屋などがあった。金子が日本人の経営する宿に行ってほしいというと、タクシーの運転手は迷わずに新メダンの一つのホテルに車をつけた。そこにはヨシノホテルと看板がかけられていた。新メダンには、アズマホテル、ヤチヨホテル、スマトラホテルなど、日本人が営む同じようなホテルが四十軒以上あるということだった。
 スマトラ島に日本人が進出したのは第一次世界大戦の最中で、まず雑貨商がやってきて、その後も移住者は増え続けた。一九二〇年代のこの時点で、スマトラ島全体ではおよそ千六百人ほどの日本人がおり、そのうち三百人がメダンに在留していた。ここには三井、三菱など大手の会社が進出し、日本人会が本願寺を建立し、それに附属した小学校もあった。
 島に着いた翌日、旧メダン郊外のカンポン・キリンの一画にある、日本人の老婆の家の二階の広い一部屋を借りることにした。この老婆もかつては娘子軍の一人だった。
 窓から見ると、往来を挟んだ向かい側に、商品を陳列している柴田という人の家があり、その一軒隣りが奥地に山林を所有する池田某、さらに通りを少し行くと家具の設計を生業とする荒谷という人の家があった。
 世界不況に波はここにも押し寄せて来ていたが、深刻さはゴムに頼るスレンバンほどではなかった。金子はこの宿を根城にして四、五日滞在した。在留邦人にできるだけ多く絵を売るのが目的だった。そのために在留民との出会いに日を費やし、現地の人たちと積極的に交わることはしなかったが、彼が見聞きした現実から得た結論を次のようなものであった。
 「スマトラ全島は、近い将来に於て、外国資本の手によって解体されつくし、住民の生活様式にも、一大変転がこなければならないといふことは、疑う余地はない。
 爪哇〔ジャワ〕はもはや、骨も、皮も残つてゐない。馬来〔マレイ〕半島は、毒の注射をうけて、全身が痺れてしまつてゐる。そして、こゝ、スマトラはいま、俎のうへにのせられたばかりである。」
 「・・・スマトラの自然は、いつも樹木の下蔭になって、ひるでもまるで、夜のようだ。
 和蘭〔オランダ〕風な低屋根がならんでいるメダン全市も猶、森林の延長であるにほかならない。
 これらの植物の動静は、北方の森林にみるように、静的、哲学的、乃至は浪漫的な世界ではない。それは、むしろ、おもいきった動物性の表現である。
 のこぎり鮫のながい歯をそらにおし立てたような椰子の葉が、押しあい、へしあいしている。幹はまるでタンクだ。一ぱい汲みあげた水量のために、自分の重さでどいつもぎしぎしいっている。前世紀の巨大な恐竜の骨骼を、そのまま森にくみ立てたようなポンセゴン樹や、榕樹などが、奇怪きわまる肢体をくみあわせる。樹と樹とは、おしかさなったうえに、一そう、押しか朝なり、お互いに絞めあい、くさい息を吐き、全身汗まみれになって、血と血を吸いあい肥っている。」(『マレー蘭印紀行』)
 滞在中のある日、こんなことがあった。早朝、人声が騒がしいので窓を開けると、山に住む現地人が、木でつくった檻を担いで街へやってきたところだった。檻のなかでは大蛇がとぐろを巻いていた。下に降りて見に行くと、大蛇の全身はまるで金塊のような底光りを放っていて、わずかに鼻腔を動かしていた。
 どこからか中国人が大勢集まってきて、さっそく値をつけはじめた。中国人はなんでも食すが、大蛇の肉はとりわけ好物なのだという。やがて大蛇の首は切り落とされ、長く太い全身の皮がはがされ、肉は切りきざまれて天秤りにかけられ、男や女たちに買い取られていった。
 ジャワ、シンガポール、マレーそしてスマトラと、どこでも中国人が進出していて現地人にまじって活発な経済活動を行なっていた。中国本土では革命の機運が起り、その影響もこれらの地に及びつつあった。オランダやイギリスの官憲は警戒の眼を光らせているものの、その浸透を防げるものではなかった。金子も行く先々で次第に強まる日貨排斥の動きを感じずにはいなかった。
 スマトラにはもっと長く滞在したかったが、先を急がなければならなかった。「バレンバン――こゝは、バレンバン王国の古都――にくだるスマトラ縦断の汽車旅行は、いかなる犠牲をはらっても、是非決行したかったのであったが、時日をきって、待ち合わせなければならない人が、すでに巴里に到着しているので、第二の機会にゆずることのやむなきにいたった。」(『マレー蘭印紀行』)
 金子はこうしてメダンを発つことにし、その前夜、荒谷の家でEという人のコレクションを見せてもらった。いずれもスマトラの美術品で、「線がふとくて、感情が直截で、色彩が原始的で、大胆で、野蛮な意慾の世界が、なんの遠慮もなしにぐいぐいと表現されているのが小気味よかった。」(同)
 シンガポールへの帰りは、メダンからペナンを経由してシンガポールまで行く運賃の安い小さな中国船に乗ったが、これは失敗だった。周りの船客や船員は日本人の金子に厳しい眼をむけた。それでもボーイに一ドルを握らせて、相客の少ない部屋にもぐ込むことができた。シンガポールに着いたのは十一一月末だった。一カ月余りのスマトラの旅で、何とかフランスまでの船賃を稼ぎだすことができた。
 シンガポールではとりあえず馴染みの桜ホテルに入り、郵船シンガポール支店の船客係りである斎藤寛に連絡をとった。斎藤は三千代を先にパリへ向かわせた折に、パスポートを二つに別けるのに尽力してくれた人だった。
 斎藤は二、三日後にリバプール行きの船便があると教えてくれ、マルセイユまでの三等の切符代を支払った。このときの心境を、金子は自伝の『詩人』で書いている。
 「僕としては、たd、ゆきがかりの上で、遠い旅をつづけているので、ヨーロッパに対してさほどの食指がうごいているわけではなかった。むしろ、出来るならば、南方にもっと滞在するか、逆のコースをとって、中国の方へ戻りたいくらいだった。中国の方にこそ、もっと行ってみたいところが沢山あった。ヨーロッパは、僕にとって、もうわかり切った場所だった。面子上の問題ならは、日本を出たということだけで、沢山だった。誰も、じぶんに迷惑のかからない以上、僕らのことなんかそんなに気にしているはずがなかったのだ。
 だが、日本から、そんなふうにして遠ざかり、忘れられてゆくことは、はじめのうちこそ少々淋しい気もしたが、それですむものならば、その方が気がらくでもあったし、決してわるいものではなかった。苦労して、ヨーロッパへゆくことは、どう考えてもうっとうしいことだったが、女一人を先にやっていて、あとにしているとなると、責任上、金を送るか、じぶんが出むいていって始末をっする他はなかった。そのひっかかり一つでとも角、予定通りフランスまで行ってみることにしたのだったが、もう一度日本へ二人が帰るとなると、せち辛いヨーロッパの土地でどうやって帰路の旅費を入手できるものか、今度はもう全く目あてがつかないことであった。」(『詩人』)
 これが正直な気持だった。船待ちの二日間は、「南洋日日新聞」の長尾正平の家の厄介になった。この間長尾の蔵書から借りて、すでに読んでいたスティルナーの『唯一者とその所有』やレーニンの『帝国主義論』を拾い読みし、日本人が当地で創刊するという俳句の雑誌「ジャカトラ」(一九三〇年一月創刊)の表紙絵を描いた。
 日本郵船の「諏訪丸」に乗船したのは十二月六日。たいした関係もない女性が餞別をくれ、桜ホテルの主人がドリアンをもってきてくれた。だがドリアンは検疫の関係で船に持ち込むことはできなかった。
 夕刻に出航の銅鑼がなり、「諏訪丸」は壁を離れた。若者たちが爆竹を鳴らして見送ってくれた。このとき金子には、パリにいるはずの三千代から何の連絡も来ていなかった。


 
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by monsieurk | 2016-05-31 22:30 | 芸術 | Trackback(1) | Comments(0)

男と女――第三部(5)

 金子はジャワやマレー半島で出会い、あるいは見かけた女たちの身の上にじっと眼を注いだ。後の『女たちへのエレジー』の幾篇かは、こうした眼差しのなかから生まれた。

 「女への辯」d0238372_5152636.jpg 

 女のいふことばは、
いかなあることもゆるすべし。
女のしでかしたあやまちに
さまで心をさゆるなかれ。

 女のうそ、女の気まぐれ、放埓は
女の着物の花どりのやうに
それはみな、女のあやなれば、
ほめはやしつつながむべきもの。

盗むとも、欺くとも、咎めるな。
ひと目をぬすんで、女たちが
他の男としのびあふとも、妬んだり
面子をふり廻したりすることなかれ。

いつ、いかなる場合にも寛容なれ。
心ゆたかなれ、女こそは花。
だが、愛のすべしらぬ偽りの女、
その女だけは蔑め。それは女であつて女でないものだ。

 この女性にたいする哀切な思いが籠められた唄は、直接はパリへ去った森三千代を念頭にうたわれているが、その背後には、女性全般とりわけ東南アジアの各地で出会った女たちがいるのは間違いない。(続)
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by monsieurk | 2016-05-28 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第三部(4)

 金子は自動車を雇って、スレンバンからクワラルンプール(金子はコーランプルと表記)へ向かった。クアラルンプールは当時もマレー連邦州の首府で、マレー半島のなかでもっとも殷賑をきわめる街だった。
 街に入ると、大王椰子の並木の間から、イスラム教寺院の独特の屋根がのぞき、そこから鐘の音が聞こえてきた。望楼ではメッカの方角に祈りをささげるイスラム教徒の姿が見えた。
 日本人がやっているホテルを探して宿泊することにした。女主人は、最近日本人の旅行者がめっきり少なくなったと言い、身の上話をはじめた。四十年ほど前に国を出て、あちこちと渡り歩いた末にある西洋人と結婚したが、その夫とも十年ほど前に死別し、わずかな遺産でホテルを買い取ったということだった。ホテルとはいえ、現地の女を客を連れ込むのに借りている部屋が多かった。
 彼女のような身の上の日本女性は、少し前までは東南アジアに各地にいたが、このころはマレー半島でもクアラルンプールに少しいるだけで、それも一、二年のうちに本国へ引き上げるように政庁から命令されているという。サルタンの後ろにいるイギリス政府が、非人道的な娼婦の存在を表向き排除しようという意向なのである。
 そもそも彼女たちがなぜ東南アジアにいるのか。金子は『マレー蘭印紀行』を執筆するときに調べたか、あるいは当人たちに聞いたのか、次のように書いている。
 「そもそも表南洋の各地に日本人がわたりはじめたのは、明治二十四五年から、日露戦争へかけての頃であった。港から脱走した下級船員、本国を食いつめたあぶれ者、前科何犯、そういった連中が、真面目な仕事には手が出せず、他に道がないのではじめたのが、娘売買であった。娘一人の価格は、先土地相場で二三百円見当、なにか一つ商売をしたいから資金を貸してくれと云っても相手になるものはなかったが、どこそこの土地は女二三人置けば必ず繁昌するというような話だと、それならよろこんで融通してくれるものがあったそうだ。
 女衒達は、船員と結託して、女一人タラップ入、食料つきで出発港、例えば門司から香港まで、普通運賃十五円のところを、二十五円乃至三十五円位わたして、船員のほまち〔傍点〕として、密航を依頼する。天草、島原の女たちは附近に大工場がなく、仕事に困っていたので、親たちが進んで、海外出稼ぎに出した。本人達も、外国に出て稼げば、美しい衣物も着られる。金の指輪も嵌められる。そのうえ、一家に送金して、親兄弟はいうに及ばず、親戚の誰彼までが、彼女一人のお蔭をこうむって、遊んで暮らす。代りに頭があがらず、むしろ近隣のほめものになるので彼女たちは、争って国を出る傾向さえあった。その他に、悪辣な誘拐者の手で全国から、泣きの涙で売られてゆく女達は、一先ず、香港のワンチャン界隈に頑張っている女衒の大親分の許に蓄積され、そいつらの手で、満州向き、支那奥地向き、南洋植民地向きと大別、三見通りに、彼女らの生涯の運命にふりわけられる。しかし、いかほど気強い女でも、いよいよ故郷が遠くなり、いざ眼色のちがう人間たちのあいだに餌食として投出されると、昼夜、泣き通す。そのうち慣れて、つらさをつらさとおぼえぬようになっても、自分の身のなりゆくはてが、よりどころなく耐えられなくなる。そうした女達の弱みを知りぬいて、嬪夫たちが、巧みにその心にとり入る。女たちのうさの聴手、なぐさめ役になりながら、女たちがからだでかせぎ貯めた金を、そくりそくりとばくち〔傍点〕のもとにかりてゆく。結局女たちは、彼らのために稼ぐことになる。嬪夫らの素性は大方、女衒あがりののらくら者で、徹頭徹尾、女の汗や膏で生きているのだ。」(『マレー蘭印紀行』)(続)
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by monsieurk | 2016-05-25 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第三部(3)

 「ニッパ椰子の唄」

赤鏽(あかさび)の水のおもてに
ニッパ椰子が茂る。

満々と漲る水は、
天と同じくらゐd0238372_52562.jpg 
高い。

むしむしした白雲の映る
ゆるい水襞(みなひだ)から出て、
ニッパはかるく
爪弾(つまはじ)きしあふ。

こころのまつすぐな
ニッパよ。
漂白の友よ。
なみだにぬれた
新鮮な睫毛(まつげ)よ。

なげやりなニッパを、櫂(かい)が
おしわけてすすむ。
まる木舟の舷(ふなばた)と並んで
川蛇がおよぐ。

パンジャル・マシンをのぼり
バトパハ河をくだる
両岸のニッパ椰子よ。
ながれる水のうへの
静思よ。
はてない伴侶よ。

文明のない、さびしい明るさが
文明の一漂流物、私をながめる。
胡椒(こせう)や、ゴムの
プランター達をながめたやうに。

「かへらないことが
最善だよ。」
それは放浪の哲学。

ニッパは
女たちよりやさしい。
たばこをふかしてねどべつてる
どんな女たちよりも。

ニッパはみな疲れたやうな姿勢で、
だが、精悍なほど
いきいきとして。
聡明で
すこしの淫らさもなくて、
すさまじいほど清らかな
青い襟足をそろへて。

 川を遡って、その日の夕方、センブロンの三五公司が栽培する第一ゴム園に着いた。十一月は雨季で、整然と並ぶゴムの樹のまわりは冷え冷えとしていた。バンガローのテラスで籐椅子にもたれていると、冷たい霧が家のなかまで流れこんできた。金子から故国の話を聞きに集まってきた人たちは、夜更けにはそれぞれの宿舎へ帰って行った。ボーイがベッドを用意してくれ、枕元にランプを点して、裾の方には蚊遣を焚いてくれた。習慣から寝る前になにか本を読もうとして、書棚にあった本を抜きだすと、表紙も本文もどろどろに崩れていた。すべての本がそうした状態で、白蟻が喰ったせいだった。
 三五公司は一九〇二年(明治三十五年)、厦門で設立されてあつかう主な品物は樟脳だった。そのため福建省の樟脳の木を伐採して利益をあげ、次いでマレー半島のゴム栽培に目をつけた。当地のゴム木の栽培とゴム生産はすでにイギリス人の手で進められており、三菱合資会社の社員愛久澤直哉を社長に据えた三五公司は、一九〇六年(明治三十九年)に、ジョホール王領ペンゲランで、イギリス人が経営していた凡そ二百エーカーのゴム園を買収して、ゴム園開拓をはじめたのだった。こうした経緯からも分かるように、マレー半島でのゴム園経営は宗主国のイギリス、インドネシアではオランダの資本が抑えており、日本は後発だった。それでも金子が旅をした一九二〇年代末には、三カ所のゴム園は三万エーカーまで拡大していたが、問題はゴムの価格が生産過剰で暴落していることだった。そのために主要生産国のイギリスとオランダの間で、生産制限をめぐって交渉が行われている最中だった。金子はその辺の事情を、「開墾」という文章で、ゴム園のA氏の話として次のように書いている。
 「――三五公司は、ゴム投資のユニバーシチといわれています。ゴム園経営者は、大概、三五公司の出身者といってもいゝですからな。三五公司は、はじめペンゲランを開墾しましたが、痩地なので、ここ〔スリメダン〕と、センブロンに主力をそゝぐことになりました。センブロンが第一園、ここが第二園、ペンゲランが第三園となっています。(中略)御承知の通り、ゴムは立派な国際的物産なのに、機械化合理化できないことが玉に瑕です。土人がゴム苗を勝手な所へ植放しにしておくと、時間通りそれが成長して立派にゴムが採れるようになります。少しも経費が要らないので、価が下がればそのまゝ放ったらかし、相場があがるとせっせとあつめては持込むので、忽ち生産過剰になり折角の価がくづれ出して、大恐慌というわけなのです。」
 金子は、三五公司の倶楽部に数日滞在したあと、マラッカをめぐり、クアラルンプール(金子はコランプールと表記している)を過ぎ、ペナン島に出て、さらにスマトラ島のメダンに渡り、ふたたびペナン島に戻って、そこから汽船に乗って、マラッカ海峡を一夜で下ってシンガポールに戻るという旅をすることになる。このおよそ一カ月の旅の間に、各地の在留邦人の絵を描いてパリ行きの旅費を稼いだのだった。(続)
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by monsieurk | 2016-05-22 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第三部(2)

 バトパハには市内に百人、市外に四百人ほどの日本人が住んでいた。彼らはゴムの値下りで苦しんでいたが、それに代わって鉄鉱の石原鉱業の業績が好調だったから、他の場所より経済的に恵まれていた。
 倶楽部に故国の新しい事情を持っている金子が泊まっているというので、話を聞きに来る者もあった。さらに郊外の事務所に招待されることもあり、そんなとき金子は、彼らの肖像画を描いて、なにがしかの金を稼いだ。バトパパでの滞在が一週間をすぎたころ、芳陽館ホテルの主人鎌田政勝に勧められ、西海岸に沿ってマレー半島を横断する旅に出ることにした。
 センブロン河に沿った地には、三五公司が経営する三つのゴム園や、公司から独立した大小のゴム農園があり、材木会社や鉱山もあった。こうして金子は十一月、バトパパから三五公司のモーター船に便乗してセンブロン河を北上することにした。
 センブロン河はバトパハ河をしばらく遡ると、サパコンで二つに枝分かれし、左に行けば石原鉱山にいたるバトパハ河の支流のシンパン・キリ川、右を遡ればゴム園にいたる支流のセンブロン河となる。d0238372_5311093.jpg 
 「川は、森林の脚をくぐって流れる。・・・泥と、水底で朽ちた木の葉の灰汁をふくんで粘土色にふくらんだ水が、気のつかぬくらいしずかにうごいている。
 ニッパ――水生の椰子――の葉を枯らして屋根に葺いたカンポン(部落)が、その水の上にたくさんな杭を涵して、ひょろついている。板橋を架けわたして、川のなかまでのり出しているのは、舟つき場の亭か、厠か。厠の床下へ、綱のついたバケツがするすると下ってゆき、川水を汲みあげる。水浴(マンデ)をつかっているらしい。底がぬけたようにその水が、川水のおもてにこぼれる。時には、糞尿がきらめいて落ちる。」
 「空は、軍艦の腹のように灼けて、燻ぶってそばへ寄りつくこともできないくらい、暑苦しい曇天であった。
 その空のしたで、植物どもは、一属、一群かたまって互に進撃し、乗越え、蔓延(はびこ)っていた。マングローブの枝を垂らしている近辺には、蘆竹はなかったし、ニッパ椰子の領域にはまだ、「猿喰わず」のたぐいは繁りあっていなかった。
 油虫のからだのようになめっこいオイル椰子、精悍で、くろぐろしたサゴ椰子のむらがるあたりには村落があり、二つ、三つの木の風見がくるくる廻っている。えび色の亜鉛屋根でアラビア風の丸屋根を真似た回教礼拝堂が、ごむの林のあいだにみえかくれする。
 さかのぼりゆくに従って、水は腥(なまぐさ)さをあたりに発散する。」
 「そして、川は放縦な森のまんなかを貫いて緩慢に流れている。水は、まだ原始の奥からこぼれ出しているのである。それは、濁っている。しかし、それは機械油でもない。ベンジンでもない。洗料でもない。礦毒でもない。
 それは、森の尿(いばり)である。
 無図は、歎いてもいない。挽歌を唄ってもいない。それは、ふかい森のおごそかなゆるぎなき秩序でながれうごいているのだ。」(「センブロン河」、『マレー蘭印紀行』)
 金子光晴は森林のなかを深く分け入る船旅で、自然の力をあらためて体験した。それはエクスタシーにも似た感動だった。のちに詩集『女たちへのエレジー』(一九四九年、創元社)に収められる「南方詩集」のなかの一篇「ニッパ椰子の唄」の原型は、この体験から生まれた。金子はこの旅の間も、ときどきに浮かんだ発想をノートに書きつけることを欠かさなかったのである。(続)
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by monsieurk | 2016-05-19 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第三部(1)

 「男と女――金子と森の場合」(第三部)の連載を再開する。

  シンガポールの港で、三千代が乗船した船を見送ったあと、金子光晴は桜ホテルに戻ってきた。なにはさてパリへ行く旅費を稼ぐ必要があった。そのためにはまだ足を踏み込んでいないマレー半島へ渡り、点々とある日本人が経営するゴム農園を訪ねて、これまでのように絵を売って歩くことだった。三千代が出発してから五日目に、ようやくマレー半島へ出かける算段がついた。
 十一月のはじめ、白服に中折れ帽子をかぶり、スーツケース一つをもって、午前十一時にシンガポールをバスで出発した。すでに雨季がはじまっていた。バスがジョホール海峡をまたぐ橋をこえると検問所があった。そこはもうジョホール王国の州都ジョホール・バルの州都だった。d0238372_16585732.jpg
 検問をすませ、近くの市場で現地の人たちにまじって羊の焼肉であるサッテを食べ、別のバスに乗りかえて、ジャラン・タンジョン・ラボー(現在の国道五号線)を北上した。いまにも分解しそうなバスは、芭蕉の林、植林されたゴムの樹々の間や密林をぬけて、午後の四時ごろにバドパハに着いた。
 バトパハとは、Batu(石)とPahat(ノミ)が合わさった地名で、海峡を往来する船に供給する飲み水を貯めるために、石をノミで穿ったことに由来するという。当時すでに人口四万人を数え、ゴム農園の経営を中心として、マレーでは日本人が数多く進出したところとして知られていた。ここは十九世紀末まではルマ・バツと呼ばれ、わずかな戸数の寂れた河辺の村にすぎなかったが、日本からゴム会社三五公司の資本が投下されて事務所が置かれ、さらにセンブロン川の流域や、バナン山麓が開拓されるにしたがって、その根拠地として日本人の勢力下に急速に発展しのである。
 金子が訪れた一九二〇年末、ゴム産業は不況に陥り、代わって石原産業の鉄鉱石が主力となっていた。当時のイギリス領マレーでは、外国人の土地所有は認められなかったが、経済振興のために外国人に対しても門戸を開放しており、昭和の初めから多くの日本人が一旗揚げるために、この地に渡ってきていた。考えて見れば金子自身もそうした一人で、この地の日本人社会で絵を売って、パリまでの一人分の旅費を稼ごうと考えたのである。金子はこの日、バトパハの河口にある渡船場の前にある日本人倶楽部の三階に泊めてもらい、しばらくここに滞在することにした。d0238372_171388.jpg
 この倶楽部は山からやって来るゴム園や鉱山の従業員が宿泊したり、ひと時の遊興を楽しむための施設として設けられたもので、玉突きをしたり、早便でつく日本の新聞を読みに来る人もあった。三階の部屋には中国式の寝台がいくつも置かれていて、夜になると中国人のボーイが、ランプと洗濯ずみの浴衣をもってきてくれた。
 「バトパハに着いて第一の夜、私は、はるばる馬来の奥にひとりで入りこんできた空隙さのなかで、秒針(セコンド)をきゝ金気(かなけ)くさい鑢目をまさぐった。それをただ、私は旅の憂愁にのみずけてしまえないで、馬来のこゝの貧しさに触れた、切な悲しみと思做(おもいな)した。
 豆洋燈が一個点っている。支那ベットに張りわたした白蚊帳のうえを、守宮(チンチャ)が、チッ、チッ、と、かぼそい声で舌をならしてわたる。その影が、シーツのうえに大きく落ちて、うすぼんやりぼやけたまゝで凝っとうごかない。(中略)
 わずか、一日行程軌道から入りこんだだけだのに・・・。過ぎ去って偶しまったような、離れて私だけきてしまったような、区切りのついた、そして、もう誰からも届かなくなった私なのである。届かないものを信用できなくなった私を淋しまずにはいられないではないか。」(『マレー蘭印紀行』、「バトパハ」)
 三千代を一人旅立たせたことへの心残り、淋しさ。反面そこにはほっとした気持もまじっていた。これが三千代と分かれた金子の本心だった。この夜は手紙を書こうとした。そうすれば手紙だけは数日遅れで彼女を追いかけていき、また本国に残してきた幼い息子にも届くはずであった。だが日本語の複雑な象形文字を綴る気力と頭の働きが失せた思いだった。
 翌朝、三階の部屋で鎧窓を押すと、それはまるで蝶がうしろで羽をあわせる形に開き、滔滔と流れるバトパハ河が目の前にあった。三方の窓から河風が部屋を吹き抜け、火焔樹・カユ・アピアピが見えた。
 「パトバハの街には、まず密林から放たれたこころの明るさがあった。井桁にぬけた街すじの、袋小路も由来もないこの新開の街は、赤甍と、漆喰の軒廊(カキ・ルマ)のある家々でつゞいている。森や海からの風は、自由自在にこの街を吹き抜けてゆき、ひりつく緑や、粗暴な精力が街をとりかこんで、うち負かされることなく森々と繁っている。」(同)
 これが、金子が生涯にわたって懐かしむことになるパトバハの第一印象だった。朝食は倶楽部の真向かいにある岩泉茶室で、ピーサン(芭蕉)二本と、ざらめ砂糖とバタをぬったロッテ(麺麭)一片、コーヒー一杯をとることにした。そしてこれが滞在中の習慣になった。熱暑がまだ襲ってこない朝は、一日で一番爽やかで、落着きのある時間だった。だが川霧が流れるなかで、すでに一日の胎動ははじまっていた。金子は食事のあと、渡船場にたむろしている人力車で、街中や郊外をまわって画材になる風景を探し、スケッチをしてまわった。絵がたまれば、倶楽部の二階で展覧する許可を、シンガポールからバトパハ日本人会理事の松村磯治郎(交南洋行社長でゴム園の経営者)に得ていたので、急がなければならなかった。
 夜は空地の草むらで、夜空の下の活動映画の興行があった。現地の人たちがそこここにかたまって観ていた。古ぼけた喜劇や西部劇だった。籐椅子に坐っていつのまにかうとうとしていると、にわかに大騒ぎが起こった。目を覚ますと、スクリーンでは主役のカウボーイが令嬢を引き寄せてキスをしようとしている。現地の人たちは悲鳴に似た声をあげて身をよじっている。話の筋はわからないが、このキスのシーンを待って毎晩やってものが多いということだった。
 そのうちに、夜になると倶楽部の書記役のSと相棒のスマトラ木材のKが誘いに来るようになった。バドパハには小学校がなく、Sが近々倶楽部の三階の廊下を教室にして、生徒を受け入れることになっているという。そうすればシンガポールに出している子どもたちも親の手元で学べるようになるのだった。
 金子はSとKと一緒に目抜き通りが一本だけのバドパハの夜の街を歩いた。両側には不意のスコールにあったとき、それを避ける軒廊(カキ・ルマ)があり、その奥に華僑がやる娼家があって、田舎から出て来た裸足の現地の若者たちがたむろしていた。紅蝋燭を点し、抹香に煙るなかをのぞくと、断髪やお下げ髪の女たちが、白粉玉をのばして化粧したり、寝そべって麺をすすっていたりした。彼女たちは三人が日本人と分かると、つと顔をそらした。それが数少ない日本人が支配しているバトパパでの、華僑たちのせめてもの反抗のあらわれだった。
 裏通りには、うどん、チャンポンなどと書いた日本の飲食店があった。店主は四十五六になる日本人女性で九州天草の訛りで話した。店には赤ん坊を抱えた現地の主婦や娘たちが客をまっていた。店主の女はSに、シンガポールの知人にあずけている一人娘をぜひ入学させてほしいと、しつこく頼んでいた。その夜は酔いつぶれたSを二階に引きずり上げてベッドに寝かし、しばらくベランダで夜の街を眺めていた。自分にあてがわれたベッドに寝よとすると、母親ほども年の違う店主の女がSを愛撫しながら、そこでもまた娘のことを頼んでいた。金子の脳裏に、いまはペルシャ湾あたりを航行しているはずの三千代の姿が思わず浮かんだ。彼女との約束をはたすために、骨身を削ることの虚しさをふと感じた。
 翌朝、階段の横の壁の高いところに、色褪せた写真が飾られているのに目がとまった。肩が看護婦の服のようにひだで脹らんだ旧式の洋装をして、頬のふくよかな若い女性が二人写っていた。一人はこの店の主人だった。もう一人は彼女の姉か同僚か。しばらくするとその写真の上を白い色のやもりが横切った。(続)
 
 
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by monsieurk | 2016-05-16 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

日本のシュルレアリスム運動

 瀧口修造の研究家で、彼のデカルコマニーの蒐集家である土渕信彦氏が、フランスの雑誌「MĒLUSINE」を送ってくださった。土淵氏のコレクションについては、ブログ「瀧口修造とデュシャン」(2011.12.14)で触れたことがある。
 mélusine とは、ケルト神話に出てくる下半身が蛇の美女である。この奇妙な名をもつ雑誌の最新刊第36号の内容は二本立てで、前半が「MASCULIN / FEMININ(男性 / 女性)」、後半の特集が「LE SURREALISME AU JAOPN(日本におけるシュルレアリスム)」である。
 この特集を企画した、マルティーヌ・モントーと永井敦子上智大学教授は、冒頭の論文「アセファール(無頭人)から禅へ」(「アセファール」とは1930年代に新しい宗教を求めてジョルジュ・バタイユがつくった秘密結社)で、「わたしたちは、9篇の論文を通して、シュルレアリスムと日本の間の相互影響、それが日本の思想、文学表現(エクリチュール)、美術にあたえた衝撃の一面を明らかにする。
 1925年、ヨーロッパから帰国した西脇順三郎は、ヨーロッパ文学の新らたな風潮を日本に紹介した。こうしてシュルレアリスムは、瞬く間に成功を見た。500人ほどの文学者や画家が運動に参画したが、その熱狂ぶりは、1868年の維新以来の開国のなかでも特筆すべきものであった。」と、シュルレアリスム運動が日本に受容された様子を要約している。
 9つの論文とは、土淵信彦「瀧口修造――その生涯と作品」、「山中散生の生涯と詩」、「俳諧、ジャポニスム、シュルレアリストが見た日本」、「写真による超現実の探究」、「メタ美学の政治、シュルレアリスムと日本の植民地主義」、「オクタビオ・パスによる日本の伝統と西欧のモデルニテ」、「シュルレアリスムと禅、アンドレ・ブルトンにおける禅の指向」、「岡本太郎《太陽の塔》の起源と探究、1930年代におけるシュルレアリスム」で、文学や美術でのシュルレアリスムの実践が、これほど多角的に論じられ、フランス語で紹介されたのは初めてのことである。
 土渕氏の論文については、「詩人であり評論家でもあった瀧口修造は、生涯にわたってシュルレアリスムに強く影響されたが、その造形芸術の創作を年代を追って詳述している。著者は、マルセル・デュシャンが彼に及ぼした大きな影響、とくに晩年における影響を強調している」と紹介されている。
 土渕論文には、瀧口が創作した「デカルコマニー(décalcomanie)」(紙と紙などの間に絵具を挟み込み、その上から圧力をかけることで、作者の意図しない偶発的な形を絵画の創作)も複製されていて、フランスの読者の興味を惹くのは間違いない。
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 これは瀧口修造の「デカルコマニー」の一例で、特集の最後には、北園克衛、山中散生、飯島耕一たちの詩もフランス語に訳されて収録されている。
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by monsieurk | 2016-05-13 22:30 | | Trackback | Comments(0)

「ちかえもん」

 最近、幾度目かの文楽ブームの予感がすると聞く。きっかけの一つが、NHKの連続テレビドラマ『ちかえもん』で、「木曜時代劇」の枠で、1月14日から3月3日まで8回にわたって放送された。脚本は藤本有紀。松尾スズキが近松門左衛門を演じて大変面白かった。
 舞台は元禄16年(1703年)の大阪浪速。浄瑠璃作家の近松門左衛門はスランプに陥っている。これまで書いてきた時代物が以前ほど受けず、新作の執筆も一向に進まない。史実としては、竹本義太夫が大阪道頓堀に竹本座を開いたのが貞享2年(1685年)のことで、翌年近松が彼のために時代浄瑠璃『出世景清』を書いて前途を祝福した。
 それ以後二人は手を携えて仕事をし、近松作品は次第に義太夫の声価を高めて行った。しかし戦国の世が終わって百年余り、大衆の求めるものは忠義を主題とする時代物ものではなくなっており、客足は遠のくばかりであった。
 ドラマのなかでも、近松は座長の竹本義太夫や周囲から不満をぶつけられるが、時代物に代わって何をテーマにしたらよいか悩む日々がつづく。
 そんな近松が堂島新地の遊郭「天満屋」に入りびたっていると、島原から流れてきた「天満屋」の遊女お初と醤油問屋平野屋の手代徳兵衛との心中事件が起こる。これは元禄16年4月7日(1703年5月22日)に、西成群曽根崎村の露天神の森で実際にあった事件で、近松はさっそく若い二人の情死を取り上げて、わずか1カ月で新作を書き上げ、5月7日(6月20)に、竹本座で初演の幕を明けた。d0238372_11484322.jpg
 テレビドラマ『ちかえもん』は、近松が事件をもとに世話物『曽根崎心中』を書き上げ、それが舞台にのるまでの経緯を、彼をとりまく人間模様とともに、大阪らしいコメディー・タッチで描いていた。
 『曽根崎心中』初演の場面では、文楽界から桐竹勘十郎などの人形遣や、三味線の竹澤団七などが参加して、元禄時代の舞台の様子が再現された。当時は舞台と客席はごく近く、人形遣いも現在の三人ではなく一人遣いで、その様子も再現された。
 なかでも秀逸だったのは、竹本義太夫の役を演じた俳優の北村有起哉で、この役をやるために、一から義太夫を習ったという。そのために竹澤団七師匠の音源をひたすらしい聴き、自宅やカラオケボックスで練習を重ね、師匠に聞いてもらって修正するという日々を重ねたという。テレビでは、本職の吹き替えではないかなと思わせるほどの出来栄えだった。
 義太夫節はその名のとおり、初代竹本義太夫が元祖で、大阪に生まれ育った彼が、大阪弁の抑揚とアクセントにもとづいて、近松のテクストを太棹三味線の奏でる旋律に乗せ、あるいはそれと掛け合いをしつつ、地の文から登場人物のセリフまで、喜怒哀楽を語り聞かせるものである。
 近松門左衛門の世話物はどれも美文で綴られていて、読む者を魅了する。だが4篇、5篇と読み続けるうちに、一句一句が巧みな七五調で書かれているために、かえって単調に感じられるのも事実である。それが三味線の音にのって、大夫によって語り出されると、どの作品もそれぞれ多彩な情緒纏綿たる世界が出現する。浄瑠璃の世界に一度はまると、病みつきになるのは必定である。『ちかえもん』の再放送が待たれる。
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by monsieurk | 2016-05-10 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

広重の版画展

 東京六本木のサントリー美術館で開かれている、「原安三郎コレクション 広重ビビッド展」を連休中に見てきた。
 日本化薬会社社長だった原安三郎が長年にわたって蒐集した浮世絵の展覧会で、タイトルに「ビビッド」という言葉が添えられているのは、展示された作品のほとんどが初刷りで、これまでほとんど公開されたことがなく、きわめて保存状態がよいことによる。
 展覧会の案内によると、原安三郎は四国徳島に生まれた。家は特産の藍玉を商う商家だったという。昭和の初めに、帰国する宣教師から浮世絵を譲り受けたのが蒐集のはじまりで、本人が旅が好きだったこともあり、歌川広重や葛飾北斎などの風景画を中心に2000点ほど蒐集した。
 今回の展示の目玉は、広重の傑作とされる「六十余州名所図会」の揃いもの70点と、最晩年の「江戸名所百景」120点のうちの62点(残りは途中で入れ替え)である。どれも作品集ではお馴染みだが、たしかに保存状態がよく、どれ一つとして染み跡や色落ちがない。もっとも色落ちしやすい赤は、120年前に摺られた当時のままの鮮やかな色を保っており、藍の色も鮮明で、55「阿波 鳴門の風波」の渦巻く海水を表現した藍色のグラデュエーションなどは、いくら見ていてもあきない(写真では再現すべくもないが)。d0238372_9553928.jpg
 そしてこの藍の色とともに、今回あらためて気づかされたのは、微妙な発色をする茶色の見事さである。この「鳴門の風波」でいえば、白波がまるで抱き込むように打ち寄せている海中の岩肌の茶。そしてそれから灰青へと変化していく色づかいは類例がない。
 これまた解説によれば、初摺り場合は、広重と摺り師が細分にわたって検討しながら絵具と摺り具合を決めたという。それがよく分かるのが、17「江戸 浅草市(初摺)」と18「江戸 浅草市(後摺)」の比較で、18の後摺りの方が、同じ版木を用いているのに、まるで別物のようによく仕上がっている。
 広重の風景画の場合は、摺り師はしばしば「当てなしぼかし」という技法を用いたのだという。これは「拭きぼかし」の一種で、版木を濡らして、その上から絵具をのせてぼかす技法で、見当だけでぼかしをつくるところから、こう呼ばれる。摺り師の腕が問われるものである。
 展覧会では3階の第2、第3展示室に、葛飾北斎の「千鳥の海」シリーズの10点、それに「富嶽三十六景」のうちの「神奈川沖波裏」以下の6点と、「諸国名所奇覧」6点があり、いずれも原コレクションの一部である。これらを見ながら、北斎が風景のなか描き込んだ人物たちの線の鋭さに感動した。波浪に翻弄される小舟を懸命に漕ぐ船頭たちの貌や足腰。山中を行く旅人たちの引き締まった姿。保存状態がよい版でなくては鑑賞できない、こうした細部を見ることができた。一昨年、パリで開かれた「HOKUSAI」展が大人気だった理由の一つが、ここにあったことを再確認した。

 「広重 ビビッド」は6月12日まで、火曜日休館。
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by monsieurk | 2016-05-07 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

詩華集『篝火(TORCHE)』

 詩選集『篝火』の誕生には、金子光晴の妻、森三千代が光晴の留守中に、東京帝国大学の文学部美学科の学生だった土方定一のもとに走った事件が深くかかわっている。この件についてはブログ「男と女――金子と森の場合(ⅩⅤ)」(2016.01.20)に書いたとおりである。
 金子と森の間には息子乾がいたが、その息子を長崎にいる三千代の両親にあずけ、三千代一人を東京に残して、金子は詩人の国木田虎雄夫妻とともにおよそ一カ月、上海など中国を旅した。帰国してみると三千代は家に居ず、土方と同棲していたのである。金子はそんな三千代を連れもどし、息子乾と三人の生活をふたたびはじめるが、三千代は二日こちらにいれば、三日むこうに泊まるといった生活をやめず、帰ってきても、金子が身体に触るのを拒みつづけた。
 その後間もなく彼女が高熱で倒れた。猩紅熱だった。三千代は隔離病院に入院させられ、回復するまでに四十日ほどかかったが、その間金子は生活のための金策に歩きまわったすえに、妻を取り戻すために、日本を脱出してパリへ行くことを持ち出した。すると三千代はあっさりと承知したのである。ただ条件として、出発前に土方と約束している茨城県高萩へ二人で旅行することを持ち出し、金子はこれを受け入れた。それで二人が関係に終止符を打ち、仲間うちでも評判になっているコキュの立場が終わるならばと思ったのである。
 こうして瓢箪から駒のように、金子にとっては二度目、森三千代には初めての渡欧話が決まった。するとそれを知った詩人仲間から記念詩集を刊行する話が出て、井上康文と尾崎喜八が中心となって購入予約の募集をはじめた。金子光晴・森三千代渡欧記念示詩華集『篝火(TORCHE)』がつくられた経緯はこうしたものであった。
 詩集は奥附によると、昭和三年(一九二八年)六月二十八日印刷、七月一日発行で、編集兼発行者は井上康文。印刷兼発行所は詩集社、発売所、素人社で、定価は一円二十銭とある。
 詩集では表題に次いで、フランス語で、「TORCHE ANTHOLOGIE DES NOUVEAUX POETES JAPONAIS (新しいら日本詩人たちの詩撰集)」とあり、その下にローマ字で、参加した著者の名前が記されている。それはABC順に、井上康文 / 金子光晴 / 勝 承夫 / 中西悟堂 / 尾崎喜八 / 陶山篤太郎の六名である。
 これに次ぐに二頁には「序言」が載っており、彼らの意気込みが知れるので全文引用してみる。
 「詩の大河は一つの過渡期に逢著したかのやうに、今やその流れを休めてゐる。来るべき河床の傾斜を待つてゐるのか、沼澤の安易を眠つてゐるのか、それは停滞して、夏の太陽の下で生温くなつてゐる、この間に起らないとは云へない水の腐敗に警戒せよ!外からの衝動が缼けてゐるならば、内からの刺戟を加へねばならない。閑日月の安樂を抛つて、創造の苦しき悦びを取り上げなければならない。生の徴候を示さねばならない。
 何よりも先づ詩的精神の弛緩を打て!働きかける事それ自身が藝術家の任務だといふ事を、行為によつて、作品によつて示せ!一つの篝火はそれ故に上げられる。これは一つの合圖に過ぎない。これは他の多くの篝火を豫想する。夜の奥底に點々たる焔が見える。勤勉な兄弟達が夜を警めてゐる。それが何時かは互に交通するだらう。そして一般的な詩の輝く朝を呼ぶだらう。焚木から焚木へ、野営から野営へ、兄弟よ、火を移し合はう!」
 おそらく井上康文が書いたと思われるこの「序言」に続いて、「詩華集・篝火・目次」とあって、以下に井上康文の「どろ靴」を含めた八篇、金子光晴十五篇、以下、勝承夫、中西悟堂、尾崎喜八、陶山篤太郎の詩篇が掲載されている。
 このうちから金子光晴の十五篇は、最初のヨーロッパ旅行の体験から想像し、これから出発する旅先の光景を先取りしてうたったものである。最初の詩篇「航海」――

熱い。・・・白いペンキ塗の船欄干に
豹のやうな波の照返し、
麦酒(ビール)が、みんな生湯(ぬるまゆ)になつた。

・・・私の船は今、木曜島沖を横振してる。
あたまでつかちな煙突と、痛風窓。

放縦なダヤーク人の裸な良侯(ボンクリマ)だ。!
私は、骨片の音のする首飾を、
胸のところでカタカタ鳴してみた。

彼女の赤い臀の穴のにほひを私は嗅ぎ、
前檣トツプで汗にひたつてゐた。

あはれな海鳥がピーピー鳴きながら
骨牌(かるた)のやうに静にひるがへる。

 そして、「展望より」。

   1

女を抱いたとき、街中の火が彗星になつて
私の頭のなかをさかさにづり落ちた。
 :・ 女のからだ全世界の歓樂があつたからだ。(中略)

   2

さくらの花辧のやうな鯛(さがみうを)の群が
くらい日本の海をめぐつて夜夜唄ふ。

私は、あの晩、彼女を戀したが故にすべて美しい地獄(プロフォンジス)を一夜で下つた!

黒い機関車が火の粉を散して踊る。旅よ。
櫻嫩葉の繁みが頭のうへでゆれてゐる焼杭の驛棚に凭れて 愛慕切なる夜 私は天へむかつて発車したいと願つた。
初夏雨霖、燈火の街をみはらしながら、ふとわが名をよぶ遠い 遠い母の聲をきいた。

 詩集には結局、森三千代の詩は収録されなかったが、「私は、あの晩、彼女を戀したが故にすべて美しい地獄(プロフォンジス)を一夜で下つた」という一節は、彼女との曲折を考えると何か暗示的である。
 七月八日、『篝火(TORCHE)』の出版記念会が丸の内の山水樓で開かれた。出席したのは、金子と森三千代、それに井上康文、尾崎喜八、陶山篤太郎、草野心平、岡本潤、岡村二一、渡辺渡、井上秀子、八百板芳夫、ほか二名であった。さらに別の日には、四谷の白十字の二階でも他のグループによる送別会が行われ、こちらは、金子・森のほかに友谷静栄、大木惇夫、サトウハチロー、恩地孝四郎、中西悟堂、大鹿卓、吉邨二郎など合計十九人が集まるという盛会だった。こうして三千代を土方から引き戻すために思いついたヨーロッパ行は既定の事実として動き出した。そして三千代は金子に認めさせた通り、土方と過ごすべく、高萩へ出かけて行った。
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by monsieurk | 2016-05-04 22:30 | | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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