フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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<   2016年 06月 ( 10 )   > この月の画像一覧

男と女――第四部(8)

 五月のはじめ、松尾邦之助がパリにいる日本人の名簿をつくる仕事を手伝う者を探していると聞いて、パリの南側に位置するポルト・ドルレアの部屋貸しアパートを訪ねた。
 松尾邦之助は静岡県浜松市の生まれて、金子より五歳下であった。d0238372_11341480.jpg 東京外国語学校仏語科を卒業後、関東大震災の前年の一九二二年(大正十一年)十月、諏訪丸の二等船客となってフランスへやって来た。ちなみに二等の船賃は六百七十円だったという。
 パリでは政治学院(シャンス・ポ)へ入学すべく勉強したが神経衰弱になり、その後フランスの貿易商に勤めたあと、日本大使館の理事官の口利きで、一九二五年三月にはパリ日本人会の書記となった。
 日本人会は凱旋門に近い十七区のデバルカデール通り七番地に事務所を構えていて、松尾は二階の小さな部屋で執務し、夜は三階の穴倉のような部屋で寝た。建物の地下では斎藤という板前が食堂部を経営していて、在留邦人や船乗りたちで賑わっていた。
 柔道の普及のためパリにやってきた石黒敬七が週刊新聞の刊行を思いつき、松尾は一九二五年八月、石黒を社長にすえて「巴里週報」を創刊した。d0238372_11353217.jpg謄写刷りの週刊新聞は在留邦人に重宝がられ、大使館からの連絡や、読者の投稿のほかに、松尾も毎号のようにパリの名所案内や随筆を載せた。
 当時パリには、藤田嗣治、高野三三男、佐伯祐三などの画家をはじめ大勢の日本人がいた。第一次大戦前は二桁にすぎなかった在留邦人は、大戦後日本でフランス・ブームがおこり、一九二五年にはフランス在住者が九七四人、そのうちパリ在留が過去最高の八三六名を数えた。彼らの多くは「巴里週報」を購読し、日本人会は宴会場のほかに、あるときは喧嘩の場となった。やがて会は年に一度画家たちの展覧会を開くようになり、松尾は日本人社会の潤滑油的存在になっていた。
 雑誌「Revue franco-nipponne(「日佛評論」)」が刊行されたのは、一九二六年二月のことである。「巴里週報」の愛読者だという中西顕政の資金提供を受けると、松尾は藤田嗣治やギメ美術館の茶会で知り合ったフランス人オーベルタンに協力を求めた。オーベルタンは文部大臣官房長官などを歴任したあと、政治の世界を離れて仏教や東洋哲学の研究を行なっている人物だった。こうして松尾を中心にフランス語の「日佛評論」は、一九三〇年一月の第十二号まで刊行される。松尾は十四区のアミラル・ムシェ通り二十二番地のアトリエを借りて、そこに印刷機を置いて印刷所をはじめた。薄暗い中庭の奥にある印刷所は、仲間うちでは「穴」と呼ばれていて、「日佛評論」は第七号以降ここで編集、印刷された。
 松尾は一時帰国して結婚したあとパリに戻ると、雑誌を刊行するかたわら、一九二九年六月に日佛文化連絡協議会を創設して、機関誌「巴里旬報」も発行した。
 創刊号にはパリ在住の日本人有志のほかに、二十人をこえるフランス人が会員として名を連ねた。主な会員は、島崎藤村、堀口大學、山内義雄、野口米二郎、内藤濯、文人外交官の柳沢健などで、フランス人の会員には、アンリ・ド・レニエ、ジャン・ポーラン、シャルル・ヴィドラック、ポール・クーシェなど著名な作家や編集者、日本文学の研究者などがいた。
 協議会の仕事は、旅行者のためのパリ案内をはじめ、有料で、通訳、研究、調査、翻訳などを引き受けた。機関誌の「巴里旬報」は予約購読制で、一カ月三部の購読料が六フラン、六カ月で三十五フラン、一年で六十フランだった。金子光晴が松尾邦之助を訪ねたのは、『ねむれ巴里』で述べられている在留邦人の名簿ではなく、この「巴里旬報」の購読者名簿の整理と未納の購読料の取り立てだったと思われる。
 松尾を訪ねた日話はすぐにまとまり、金子は前金として五十フランを受け取った。そこで帰途にポルト・ドルレアンの東側にあるモンスリ公園の近くに貸し部屋を見つけて手付金を払い、間もなく引っ越しをした。
 クラマールを去る二、三日前、金子と三千代は散歩の途中で、疲れた顔のコミエに会った。三千代が日本へ帰ると思っていた彼は、パリへ引っ越すと聞いて、また逢えると喜んだ。立ち話をしている最中に爆音が聞こえて来て、空を見上げると大きな飛行船があらわれて頭上をゆっくり通りすぎた。コミエはそれを見送りながら、「あれを、処女の夢というんです。軍隊では。」といった。
 五月になるとパリでは一斉に花が咲きはじめる。五月一日はミュゲ(鈴蘭)の日で、郊外から摘んできたミュゲの花束を、街の辻々や地下鉄の入口で一斉に売りだす。パリっ児はミュゲを胸に挿したり、小さな花瓶に活けて、可憐な白い花から春の到来を感じる。三千代もミュゲを一束買って鏡の前に飾った。
 新たなアパートからマレショー大通りを東へ少し行くと北側がモンスリ公園で、大通りを挟んで南側には、シテ・ユニヴェルシテールと呼ばれる各国の留学生や研究者に宿舎を提供する建物が並ぶ一角があった。一九二五年に文部大臣アンドレ・オノラの提唱で建設がはじまり、日本館はパリで名を馳せた実業家薩摩治郎八が、三五〇万スランの私財を投じて建設され、大学都市に寄贈されていた。このころはカンボジア館が建設中で、赤く塗られた建物が異彩をはなっていた。 
 今度の部屋は四階にあり、窓からは下の大通りやモンスリ公園が見わたせた。床には小さな六角形の煉瓦が敷きつめられ、十サンチーム硬貨を入れるとガスが一日分使えたが、水道はなかった。壁には南京虫をつぶした跡があって、どうかした拍子に労働者の臭いがした。それでもパリの片隅に住めるだけで、不便な点や不潔さに目をつぶることができた。
 アパートのある建物の隣は果物屋、その隣が八百屋で、さらにその隣が馬肉屋だった。八百屋でアルティショを買ってきて、ガスで沸かした湯で茹でて、葉の根本のやわらかい部分だけをクリームをつけて食べた。はじめてだったが贅沢な味だった。
 金子が松尾から渡された名簿には二百人をこえる日本人が記載されていて、その三分の二ほどが購読料未納になっていた。約束では足代や、途中に休憩したコーヒー代などは、集めた金から差し引くことになっていたが、近いところから初めてみると、集金が容易でないことがすぐに分かった。松尾に勧められて会員になったものの、大方は貧乏暮らしで、訪ねて行っても断られるのが大半だった。なかには脱会するというもの、あるいはこんな仕事をしている金子に同情して、止めてしまえと忠告する者もいた。雑誌をフランス文壇の大家に届ける役もあったが、文学と縁を切ろうとしている金子には、なんの興味もわかなかった。d0238372_11364511.jpg 
 藤田嗣治に会ったのもこの仕事を通してだった。藤田はこの年の一月、一時帰国していた日本から戻り、モンスリ公園の近くに住んでいた。彼を訪ねると、エーテルを嗅いで意識を混濁させ、新しい芸術のヒントを得ようとしていた。そしてうわ言のようなことを口にしては得意げだった。居間のかたわらには、芝居の緞帳のようなものや、日本から持ち帰った小型の神輿などが積まれてあった。
 「彼は、フランス気質がたっぷり滲みこんだ日本人の一人であるが、それまで僕が想像していたフランス気質とはだいぶちがっていて、啓発されることが多かった。パリでがっちり生きてゆくには、あくまで日本人であることであり、フランスかぶれのした日本人などフランス人には何の興味もないという所説も拝聴した。また、そこで僕のしらないいろいろなフランス人に会った。彼が市内の家に転居してからも、僕らはときどき訪ねていった。」(『ねむれ巴里』)
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by monsieurk | 2016-06-30 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第四部(7)

 シャンジュ・シュバリエがダンスの場だけですめばよいが、日本人の間ではパリへ来たがゆえに、伴侶を取りかえる事態がたまに起きた。金子はこのころ池本喜三夫を通じて武林夢想庵、文子夫妻と知り合いになったが、池本は一時文子の世話をしていたことがあり、やがて文子(写真)d0238372_10381184.jpgは夢想庵を棄てて別の男のもとに去ってしまった。
 金子が知ったもう一組のシャンジュ・シュバリエは、装飾画家の蕗谷紅児と妻りんだった。蕗谷は一九二九年に金策のために、妻と幼い赤ん坊を残して一時帰国し、その留守中に、妻は留学していた某大学教授に乗り換えてしまった。三組目は、生活能力がない若い文学青年の夫婦で、彼らもパリにさえ来なければそうした目に遇わずにすんだかも知れなかった。金子にとってもこれは決して他人事ではなかった。
 「馬鹿騒ぎ」の夕をきっかけに懇意になったコミエは、三千代に愛着するようになった。彼はその気持を、金子がいる前でも平気で示した。
 「僕も、彼が悪びれず、人の妻に心を寄せ、それをそのまま歪めもせずにふるまいに出してみせるのに、反撥を殆んど感じなくなっているじぶんにおどろいていた。僕のなかで、なにかが変わっていまっているのを、はっきり意識した。彼女に対する愛情の変化というようなちょろいことではなかった。澱んだ水が、しらぬまにどこかへうごきだしている感じであった。なにか組織更(が)えがはじまっていた。そのときの心境を、日本にいるときに体得しえていたら、事態はこんなふうにはこばれないですんだことは、当然であった。(中略)パリに来てクープルの組み替えが多いのだという確証が、僕にも実感としてつかめてきた。彼女にとって僕が、どう考えても満足な配偶者でないことがわかっていた。もっと適当なあいてがあらわれたら、手を貸してそのあいてに引渡すべきで、そのうえこだわるようなことはしない程のゆとりは僕にもできていた。」(『ねむれ巴里』)
 思えば土方定一の許に走った三千代を強引に引き戻すために、先の見通しのないままにパリまで来て、ようやくこうした心境になったのである。これは金子の偽らざる気持だった。
 コミエの三千代への執心は執拗で、そのことで妻のガブリエルと喧嘩をしたことまで金子に話した。三月二十七日、謝肉祭の日の三千代の日記。
 「カルナバルの最終日。
 ポート〔ママ〕・ベルサイユは、青い夜の蝋燭のように明るかった。
 自動車の中で私の丸帯の金糸の上でソービ色の花が萎んでいった。
 肉体の疲れと、悪夢のような限りない饒舌。
 踊り場で、タンゴのステップがそのままあらゆる焦燥と悲哀との地だんだであった。
 煙草を一服つけて・・・・。
 ムッシュ―、私の唇をそんなに見てはいけません。
 ワルツが又聞こえてくる。
 赤い長襦袢を着たマダム、階段の中途で、私はあなたの眼から、あなたの横顔から、氷のようなものをあびせかけられた。
 私は間ちがえた所に着陸した飛行家のやうに、うろたえる。
 そしてもう一度、私の飛行機は上昇しなければならない。」(「森三千代の日記 パリ篇」3)
 三千代は金子にコミエとのことを隠さずに報告した。ある日は呼び出しがあって彼女が行くと、彼が待っていてしつこく口説かれ、大勢の人がいるなかで二の腕や首筋まで舐められたといった。そんなことはここでは皆やっていると金子がいうと、コミエはよい人だが、彼の恋人になるのは嫌だから、クラマールを離れようと言い出した。
 池本の仕事はだいたい片がついたが、仕事の報酬を最初に決めておかなかったために有耶無耶のまま、池本は五月にパリを離れて地方へ行ってしまった。彼は一九三一年に、「明治維新とその農村社会階級におよぼした影響(La Restauration de l'ere de Meiji et sa repercussion sur les milieux agricoles Japonais)」を雑誌に発表し、ナンシー大学から理学および農学の博士号を授与された。金子がやった下調べは、この論文に活かされたと思われる。
 
 
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by monsieurk | 2016-06-27 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第四部(6)

 日本で一度しか会ったことがない詩人の中野秀人が、仕事の口をもってきたのはこれと前後したころである。中野はジャーナリストで右翼の思想家中野正剛の弟で、ロンドンからパリにきて絵の勉強をしていた。中野が言うには、パリ大学で経済と社会学を学んでいる池本喜三夫(きさお)という者が、帰国を前に博士論文を提出しようとしていて、そのための日本語の資料の整理を手伝ってくれる者を探している。彼はパリの南の郊外のクラマールという町に住んでいるので、そこへ移ってきてほしいということだった。
 クラマールはパリ南郊の大きな森の縁にあるコミュニティーで、近くにはロダンが館を構えたムードン、ロバンソン、焼き物で名高いセーヴルなど、緑に囲まれたところだった。
 金子はさっそくモンパルナスから出る、無蓋の屋上席がある軽便鉄道に乗ってクラマールの中野秀人を訪ねた。だがその日は中野の下宿を探し当てられずに、トゥルノン通りのホテルに帰ってみると、少し前から池本が待っていた。
 池本はこのとき三十一歳。父は北海道で農場を手広く経営しており、空知農学校を卒業したあと東京農業大学で学び、関東大震災があつた翌年の一九二四年にフランスへ留学した。おもに大革命前後のフランスの農村の変容を研究テーマにしてきたという。今度ナンシー大学農政経済学部に提出しようとしている論文は明治維新期の日本の農村史で、そのための日本語の資料を読み、まとめてくれる人を求めているということだった。
 池本はいったん話しはじめると饒舌で、周囲を引き込む野性味をもっていた。金子はこの方面には知識も興味もなかったが、さしせまって金になるので引き受けることにして、二カ月分の部屋代と一カ月分の生活費を前払いを条件にした。
 池本の方からは、資料が膨大だからぜひクラマールに移ってきてほしいという話が出たが、次の宿泊先を探している二人には渡りに船だった。こうして翌日には、金子と三千代はスーツケースに身のまわりの品をつめてクラマールの住人となった。d0238372_10441446.jpg見つけた部屋はクラマールの中心にある広場に面したカフェの二階だった。その後間もなく書かれた三千代の日記。――
 「二月二十七日
 ボア・ド・クラマールの近くのカフェの二階のホテルの一室。
 古びた天井には時代もののシャンデリアがとりつけてある。壁にはミュッセが女を抱いているエッチングが掲げられている。
 ミロアール〔鏡〕のついた立派なシュミネ〔暖炉〕、しかしそれは実用されるわけではない。スチームで部屋が暖まる。
 窓から春に近い透きとおる陽の光が射す。
 私は初めてベッドの上で昼寝から覚めた。
 心もからだも息〔ママ〕めるには丁度いい所のようだ。私の血は新鮮になるだろう。この空気がするだろう。

 カルチュールラタン〔ママ〕のあのホテルで五晩泣きあかしたのは夢ではない。ここへ移った、私は目が月暈(つきかさ)のように腫れていた。
 私があの手紙を書いてから何日になるだろう。
 ――あなたの顔に千の鞭を打つ・・・・
 あ!・・・・・
 そんなに好きだったのだ。今でも、これからも。
 最も愛するものは、いつも去る。
 暖かい香る珈琲をのんで、枯枝・・・やがて芽吹く、ヴェールのような柔らかさの中で、春を息する。
 私の生命は蘇えるだろうか。」(「森三千代の日記 パリ篇3」)
 ある日、活動写真の雑誌を買うと、そこに土方定一に似た俳優の写真が載っていて、気持ちを抑えられずに手紙を書いた。思い出して涙がとまらなくなったのである。クラマールへの引っ越しはそんななかで行われた。
 引っ越した翌日、池本が沢山の本を持ってきた。日本の農業に関する参考書で、金子は気はすすまなかったが、三千代がそれを読んで、金子が抜書をつくった。
 パリの南の郊外一帯には大きな森が連なり、クラマールも隣接するムードンから続く森の端にある町だった。ムードンとは国道十号線を挟んで東に位置するセーヴルの背後は、ヴェルサイユにいたる広大なビアンクールの森があり、金子と三千代は請負仕事の論文の下書きに疲れるとよく森を散策した。二月の風はまだ冷たかったが、散り敷く落葉を踏んでの森の散策は、石造りのパリの街中の彷徨では味わえない新鮮な楽しみだった。
 彼らがとくに楽しんだのは、クラマールから南へ丘を一つ越えたところにあるロバンソンだった。ここには古い城があり、ホテルやダンス場のほかに、驢馬の乗り物、射的屋、食べ物屋があった。なかでも有名なのは樹の上につくられた「鳥の巣」と呼ばれるカフェで、三千代のお気に入りだった。老木亭(Café Vieil Arbre)、大木亭(Café Grand d'Arbre)など、そうしたカフェが二、三軒あった。店は木の又や枝の切株を利用して空中につくられていて、老木の幹にとりつけた木の梯子段を登っていくのだった。そこからの眺望は抜群だった。
 「森は香爐のやうに燻つてゐるし、一ところにかき集められた赤屋根の村落は、うす青い梨の花や、アプリコの花の温かい色に、美々しくつゞりあわされてゐる。一望のはてまでバラ色にうちひろがつた田野はのびのびとして、うねりの一ところに銀色を反射してゐるセーヌ河。しん氣樓めいたパリ市街の遠望のなかにローマのかぶとのやうな聖心寺〔サクレクール寺院〕、パリが空へかけわたした金の梯子、それはエツフェル塔である。」「巴里郊外の早春」、『をんな旅』所収)
 パリの雑踏が恋しくなれば、クラマールの町の道をセーヌ川の方向に下って、十二号線の始発駅メリー・ドイシイから地下鉄に乗れば、盛り場のモンパルナスは十五分の距離にあった。
 このころのクラマールには、名を知られる版画家の永瀬義郎や二科会の画家松本弘二夫妻などの日本人が住んでいた。永瀬は金子より四歳年上の三十九歳、松本は金子と同い歳で、二人は前年夏にフランスに来ていた。金子たちはこれらの人たちとすぐに顔見知りになり、交際するようになった。
 松本夫妻はロベール・コミエというポーランド系フランス人の家の部屋を借りていた。松本は出不精だったが妻は出歩くことが好きで、独り身の永瀬とよく連れ立って買い物などをしていた。クラマールに住む日本人同士は何かというと集まっては、ばか騒ぎをした。
 「私が、日本から巴里へ着いてまだ三ケ月目、巴里の南の郊外、クラマールの森のそばのリュー・ド・セーヌにゐたころ、知合いの日本人畫家夫妻が部屋借りをしてゐた家に、「馬鹿騒ぎの夕」といふ名で招じられた一夜のことをおはなししておかうと思ひついた。(中略)
 春浅いころのことで、クラマールの戸外はまだ寒さが酷しく、路は病葉にしめつて、乾いた石の頭だけ、割栗が白々とならんでみえてゐた。主人夫妻は、私達が着くと表へ飛出してきて、はやくも歡待を示してくれた。赤煉瓦を積み重ねた細い三階家の入口の石段の前の小庭には立ち枯れた草木がそのまゝに、赤い實をつけたりしてゐる。階下は二室打つ通しで、それが小奇麗に取り片づけられてゐた。若い主人夫妻と、主人の姉と、老母とが主人側で、そのほかにフランス人の男が二人と、女が一人まじつてゐた。主人は電氣局の技師、波蘭土〔ポーランド〕種のフランス人で、皮膚が白く、眉毛も髪の毛も亜麻色をして、草の穂のやうに白つぽけてゐた。姉は出戻りで、セーヌ河向ふの服屋にシヨツプガールをして通つてゐる。(中略)
 踊りははじまつた。
 暖炉には薪がくべられ、人間のからだには酒がまわつてきた。皆の顔が情熱に融け、皆の瞳がつながりあつた。主人は、背が低い方であつたが、踊は手に入つたものだつた。踊の最中、眼をとぢて、ワルツの調子にひきこまれながら、恍惚としてメロデイとともに流れ漾ふさまは、ほんとうに楽しげにみえた。踊は、かうして踊るものではないかと私は思ひさへした。そのころ、私は、週二度、踊を習ひに、女友達の家に通つてゐた。ここではそれが役に立つた。畫家の妻君は誰よりも踊に熱をもつてゐたが、お尻をふつて踊る踊はあまりうまくなく、それでも楽しくて止められぬといつたふうであつた。
 一をどり踊つて休んで乾杯した。菓子を食べたり、果物をたべたりして談笑した。
 踊の餘樂の圓舞がはじまつた。踊の途中で誰かが、
 「シャンジュ・シュバリエ!」
 と、叫ぶと、突然、皆が、踊つてゐる相手の組かへをした。自分の好きな人をつかまへて踊るのだつたが、相手を失つて、まごまごいてゐる同志にぶつかつてそのまゝ踊るものもあつた。組んだかとおもふとすぐ、「シャンジュ・シュバリエ」といふ聲がかかつて、忙はしく、くるくる舞ひをするのだつた。」(「馬鹿騒ぎ」『をんな旅』所収)
 これはクラマールでの体験にもとづくものだが、他の文章同様、金子の存在は消されており、社交ダンスのレッスンも実は女友だちの家ではなく、イギリス人の個人教授を受けていて、そのお陰で松本夫人よりも上手く踊れたという自慢がほのめかされている。
 この「馬鹿騒ぎの夕」は明け方まで続いた。疲れた三千代が長椅子で休んでいると、主人のコミエが二階の居間に連れて行って、自分でつくった楽器を見せてくれた。素人離れの細工がほどこされた見事な出来だった。するとそこへ松本夫人が上がってきて、日本語で、「ここにいたの? 大変よ」と言う。聞くとコミエの細君のガブリエルが、二人の姿が見えないとヒステリーを起こしているという。急いで階下へ降りて疑いは晴れ、最後は皆で明け方の森へ散歩に出かけて楽しい集まりは幕となった。
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by monsieurk | 2016-06-24 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第四部(5)

 金子光晴と森三千代が前後してパリに着いた一九二九年(昭和四年)、世界は激動のなかにあった。この年十月二十四日、ニューヨーク株式取引所で株の大暴落がはじまり、経済恐慌の波はアメリカからヨーロッパやアジアへ広がった。d0238372_10393835.jpg日本では生糸相場が暴落。十一月二十一日には、大蔵省が金解禁に関する省令を公布し、翌年の一月にはこれを実施した。
 影響は当然フランスにもおよんだ。二人がマルセイユに上陸したとき、税関でパスポートに入国許可の印をもらったが、そこには同時に「外国人のフランスでの労働を禁ず」というスタンプが青インクで捺されていた。フランス政府による自国の労働者保護の政策の結果だった。
 第一次大戦の結果、ドイツから多額の賠償金を得たフランスは、それをもとに大恐慌の影響を回避しようとした。しかし一九三〇年になって、イギリス・ポンドが金本位制を離脱すると、フランス経済は下降線をたどり、失業者が急増した。それでなくとも第一次大戦後、フランスにはロシア、東欧、アイルランドなどから外国人の流入が移民が増えていた。三千代は『をんな旅』で、自分たちが置かれた情況を次のように書いている。
 「外國人が職業をさがすことなんか、巴里では、コロナ葉巻の吸ひかけをさがすより至難なことです。全く、イタリー労働者の大群と、ロシアの浮浪人は、國外に遂はれ、外國人の査證(カルト・イダンチテ)は面倒になつた。労働證明書のない外國人を使用した傭主は、その使用人と共に、見つかり次第、罰則を喰つた。その上、その證明書を手に入れることは不可能に近いことであつた。だから、勢ひ、山かん、インチキ、もぐり、さもなければ、ルンペンの仲間の間を食べて歩いてゐるより仕方がない。働らくといつても、正面から働く方法は閉ざされてゐるのである。
 私が、はじめて飛びこんだ巴里は、さういふところだつた。」(「巴里に寄せる」、『をんな旅』所収)
 金子と三千代はフォンテーヌブローからトゥルノン通りのホテルに戻った。疲れた身体を支え合うように腕を組んで階段を上ろうとする二人へ、一階のバーから出てきた家主の老嬢が、「おかえり。おふたりさん。新婚旅行は、さぞたのしかったでしょうね」と声をかけた。
 木村毅の好意で借りているホテルも、あと半月ほどすれば出て行かなくてはならないのだが、行く先の目当てはまったくなかった。しかも三千代の使い残しや金子が持ってきた金はフォンテーヌブロー行であらかたなくなり、働き口を探さなくてはならないのだが、その算段もつかった。
 金子たちがパリに戻って、最初に訪ねてきたのは画家の辻元廣だった。香港で金子より先に籤引きで絵を売っていた人物で、二人より先にパリへ来ていたのである。辻は「アポロ座」で上演中の『上海』の苦力役の一人として舞台に出ていて、三千代が上永井に連れられて楽屋を訪ねた折に知り合ったのだった。
 このとき三千代は、姑娘役を斡旋してほしいと頼んだが、舞台経験のない彼女には無理な話だった。しかし三千代の話では、監督助手のフランス人と募集係の男に接吻を迫られ、それで断って逃げる拍子に一張羅の外套を釘にひっかけて破ってしまったのだという。元来嘘は苦手の彼女だが、金子との生活を重ねるうちに修行を積んでいたから、この話も簡単には信用できなかった。
 辻が訪ねてきたのは三千代の仕事の件だった。バレー畑の日本人舞踊家が、ヨーロッパ各地を日本舞踊をもって巡業するが、三千代のことを聞いて、ぜひその相方に頼んでほしいと言っているという。これが本当なら、金がもらえる上にヨーロッパ各地を旅できるわけで、願ってもない話だった。辻にその舞踏家のことを訊ねると言葉を濁して話さない。どうやら三千代一人を連れていく算段らしい。上永井にこの話をすると、舞踏家のことはよく知らないが、巡業中は一つ部屋で暮らすことになるのがヨーロッパの常識だといった。これを三千代に伝えると、彼女は尻込みした。
 「男と女のあいだの契約(ちかい)など、生きる、死ぬの生活の、黄金万能の鉄則の前では、みじんに砕けて当り前なことだという辛いこの街の底辺の寒気立つようなものの考えかたには、〔彼女は〕まだ程遠く、苦難とおもえたこれまでの旅も、落ちつくはてのパリの寒冷地獄にくらぶれば、甘えとたのしい旅の好味ののこり香のさめない、恥のかき棄てのわらい声もまじる金鞋道中のほがらかさがあった。」(『ねむれ巴里』)
 日本で料理の修行をしてきた辻自身は、パリの北はずれにあるポルト・クリニャンクールに住むアメリカ人の老嬢の家に入って、料理から身のまわりの世話をして重宝がられているということだった。
 同じときに、金子にも仕事の話が舞い込んだ。面識がない木村という男がやってきて、オペラ帰りの老婦人にサービスをする役をやらないかというのである。この男もかつてイギリス人の親方のもとで、これをやっていたが、最近日本人の一人が辞めたのでその後釜を探しているという。相手の婦人はみな五十歳がらみの未亡人で、濃厚なサービスをすれば相当な金になるという。こんな話が持ち込まれるほど、金子の悪評はパリ到着前から、日本人社会の一部で広まっていたのである。金子は木村が帰ったあとで、この話を三千代にしてみた。
 「「俺が男娼になって、君がくわえ楊枝というくらしも、正直言ってどんな気がするかきかせてくれないか」
 と、木村が帰ったあとで訊ねると、
 「それもおもしろいけど、さわられるのもきたないあんたともうねる気にはなれないわね」
 と、彼女は言う。女には、女マクローになれない手前勝手な誇りがあるようだ。(中略)
 「こんなことをしてぐずぐずいていると、私達、どんなひどいことになるかわからないわねえ」
 彼女は、今、はじめて知ったように、そんなことを言う。ゆく先のくらいことは、はじめからわかっていることだ。パリの疾風に襲われれば、糊はみなはがれて、くっついていたなにものも、もとの空無にかえる。夫婦づれでパリに着いた男女は、目の前でふわけ〔傍点〕されて、帰るときは別々に、女の根性は入れ変って、それこそエガリテ、リベルテに徹する道をおぼえて、新しい脱皮を遂げ、ちがった女になって帰る。しかし、日本の土を踏むと同時に、またもとの日本女にかえることになるのがおなじ筋道だが、それは、女の幸、不幸とは全く別な話である。」(『ねむれ巴里』)
 三千代はこんは話が出ていた間も、トゥルノン通りのホテルからさして遠くないラスパイユ大通りのアリアンス・フランセーズに通い、ダンス教師について上海以来の社交ダンスのレッスンに精をだしていた。
 切羽詰まった金子は、日本を出る際に立ち寄った大阪の新聞社からもらった特派員の辞令をもって、在仏大使館を訪ねた。当時の駐仏大使は芳澤謙吉で、駐在武官の蒲少将が応接してくれた。金子は武官を前に、パリにいる画家やその他の在留邦人の窮状を訴えて、なんとか彼らのためになる施設をつくりたいと、長広舌を振るった。すると少将は、「それはわるいことではない。多くは出来ないが、少しずつでよければ援助しよう」といって、千フラン紙幣を一枚わたしてくれた。干天の慈雨とはこのことだったが、難民のなかでももっとの力のない金子に難民救済などできるはずはなく、武官も腹のうちでは彼の魂胆を身透かしていたにちがいなかった。
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by monsieurk | 2016-06-21 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第四部(4)

 三千代の「日記」によると、フォンテーヌブローへ出かけたのは一九三〇年一月四日のことである。
 「一月四日
 フォンテンブローの記
 夜の九時に、ガール・ド・リヨンから南方へ行く汽車に乗り込んだ。時間を考えずに来たから七時半頃から駅前のカフェに休んで時間を待ったのだ。
 汽車はガラ空きで、四人しか一つの車輛にのってはいない。
 ずっと暗い闇の中をはしった。
 三つ目の駅がフォンテンブローで、ついたのは十時二十分であった。
 透きとおった寒い夜の中に降りると、いかにも大森林の中の駅らしく、樹木に近く、静かなものだ。
 電車に乗って、プラスデンクールに向った。
 諏訪のおやじさんにもらった名刺の紹介のホテル、Hôtel de l'aigle noirはすぐにわかった。
 風呂つきの八十法(フラン)という部屋はすばらしく立派で寝台は見た目にも豪奢である。
 もう晩いのでバスに入ってすぐにねた。」(「日記」)
 フォンテーヌブローは先にも触れたように、パリの南西六十五キロにある街で、街の西側には一万七千ヘクタールの広大な森がひろがっていて、今日でもパリや近郊の人びとの格好の行楽地となっている。森とは街を挟んで反対側、セーヌ川沿いには歴代の王たちが離宮として愛したフォンテーヌブロー城(写真)があり、d0238372_7292062.jpg二人が宿泊したホテルは王宮から百メートルの位置にあった。ここはいまも四つ星の高級ホテルとして健在である。
 フォンテーヌブロー滞在の二日目は雨で、街を散策してすごした。食事は節約して一人八フランの定食ですませたが、ホテルの部屋は家具など豪華そのもので、部屋の四面が鏡張りだった。三千代がベッドに横たわるとその姿が四面の鏡に映っていくつにも見える。それで遊びを思いついた。
 「 (前略)オテル・イーグル・ノアールではすごい豪奢な部屋に通されたんです。冬のことですから季節外れでして、他に客なんか一人もきていないんです。ルイ十五世式の部屋でして、すごい寝台が部屋のなかにドンと置いてありましてね。ガラスの切子細工のシャンデリアが、上からガチャガチャ、ガチャガチャとさがっていまして、部屋の四方は額縁みたいになった鏡がずっと取巻いて、下はフカフカの絨毯、椅子から長椅子、全部なにからなにまできんきらきんのルイ十五世式。そういうところへ通されちゃった。ベッドなんか大きいから、その上に体を乗せると、スポーンとなかへ入っちゃう。そうしたら金子が、こういうりっぱな部屋に入ったんだから、ロマン派の詩人で、宮廷のことや貴婦人のことを書いた詩人アルフレッド・ド・ミュッセの名前をあげまして、どうだい、ミュッセごっこをやろうじゃないかということになりました。私は、中国だとか南方の夜店だとか、パリに早目に着いている間にジプシーの店から、二フラン、三フランで買ってきた耳飾りとか首飾りとか腕飾りとか、みんなガラクタなんですけれどもハンドバックに入れて持ってまして。それを、裸になりまして、体じゅうに全部飾ってベッドに横たわるんです。金子は騎士になりまして、詩を朗読して聞かせるという、それがミュッセごっこなんですよ。
 松本 それはフランスでよくいわれていた遊びですか。
  いえ、自分たちで発明しただけのミュッセごっこ。
 松本 ははあ。
  そういう豪華な部屋だから、部屋にふさわしいような遊びをやろうというので、そんなことをして時間つぶしをしたわけです。
 松本 部屋は暖かいでしょうから、ほとんど裸になって、その飾りをつけて。金子さんのほうも裸になって、それなりの飾りだけつけて。
  そうそう。ジャワサラサを腰に巻いたりして、詩を朗読する、暗誦したりして。どうですか、ちょっと豪華でしょう。そういう、ちょっとした日々もあったんです。」(「金子光晴の周辺」6)
 この逸話には金子と森三千代の生き方がよくあらわれている。このフォンテーヌブロー行きにしても、二人の所持金がなくならないうちに楽しい思いをしようということで実行したのだった。そのあとの生活費の見通しは立たなかったが、いまできる経験を積むことが大事だった。
 一月五日は一日かけてフォンテーヌブロー城を見てまわり、夜は活動写真を見た。
 d0238372_7302618.jpgフォンテーヌブローの森の一角にあるバルビゾン村を目指したのは、翌六日のことである。広大な森には縦横に道が通り、それぞれに名前がつけられていた。リュ・ド・パリ(パリへの道)という、自動車も通る広い道を行くと十字路にぶつかる。その度に地図で確認して、葉を落としたマロニエの林や、白い石灰岩が隆起した場所を通過して、午後三時ごろ目指すバルビゾンに着いた。テオドール・ルソー、ミレー、コローたちバルビゾン派と呼ばれる画家たちの住居兼アトリエを見てまわった。
 森のなかにある落葉が水面を覆った池の畔のベンチで、ともに八十をこえたと見える老夫婦が並んで座っていた。隣でそれをじっと眺める三千代を見て、「この人生で、こんなことが窮極の幸福であるとおもわせたくない」(『ねむれ巴里』)と、金子は強く思った。
 七日はまたフォンテーヌブローの森をあちこち散策したあと、八日には汽車に乗ってパリへ戻ってきた。金子はフォンテーヌブロー行について、「この森でいくばくかの日をすごしたことが、無駄ではなかったとおもった。森の大気は乾ききって、規矩(ものさし)でさしたような、ジオメトリックな、その縦の平行線の無限の連続は、しかし、なにをこの僕に課そうとしているのであるか、それはおそらくいたいほど冷静な思索の序列となって残りえなくても、その爽快な雰囲気が僕のなかにゆれたなびくものとなって、そのあと十年、第二次世界戦争のときの僕の決意に廊然としたある影響を与えてくれたものと考えていいだろう。」(同)と書いている。
 三千代は、パリに着くとアリアンス・フランセーズへ赴いて、進級の手続きをすませた。こうしてひとときの宴は終わりを告げた。
 三千代の一月十三日の日記。
 「”Ma mère je suis triste・・・”
 きょう見たシネマの最後のティトルが目についてはなれない。
 母さん、私は悲しい。
 子供がそういって、母に訴える時、すべての母は、しずかにうなづいてやる。しずかに髪の毛をなでてやる。しずかに額に唇を近づけてやる。
 母さん、私は悲しい。と、おまえはいうか、私の坊やよ。お前の生活の戦いの中で。
 まだ六つになったばかりのおまえの生活の・・・。
 そして私はまたしてもtrés loin〔うんと遠いところにいるの〕を悲しむ。
 「母」という名、それは犠牲ということに等しい。
 
 私はどれだけおまえの為に犠牲となったろう。何もなっていなかったような気がする。
 私は自分勝手なのだ。”母さん、私は悲しい”
 と、おまえ前の声が聞こえる。

 歩道を雨が叩いている。リュクサンブルグのプラタナスのやせほそった冬の指先が、空に合掌している。
 私はもう自分の部屋に帰って、フランス語の文法を読もう。
 ・・・・・・・・・・」(「森三千代の日記 パリ篇」2) 
 
 
 
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by monsieurk | 2016-06-18 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第四部(3)

 金子の『ねむれめ巴里』によれば、三千代はこのあと下に降りていって、イタリア人が営む近くの惣菜屋(シャキトリ)から、キャベツとソーセージを煮込んだシュクルットと肉を詰めて丸ごと焼いたトマト、それにソーセージを挟んだパンを買ってきて、ブリキの入れ物でコーヒーを沸かして二人で食べた。長い船旅の食事に辟易していた金子には、こうした簡単な食事が美味かった。
 もしこの記述が事実とすれば、金子がホテルを訪ねたのは、総菜屋がまだ店を開けていた夜も早い時間だったと思われる。そうだとすると、到着が十二時近かったという三千代の記述は記憶違いということになる。『ねむれ巴里』の続きにはこうある。
 「食事がすむと二人はベッドに入った。ベッドは、日本のふとんを三枚重ねたくらいのひくいもので、男と女が相寄って寝るには恰好のものであった。欲情は、新鮮さをとり戻し、新婚の若者同士のような交歓がつづいた。その途中で、誰かがドアを叩いた。
「××です。御留守ですか?」
 と声を掛け、扉のハンドルを廻したが、鍵がかけてあった。
「いま、金子が来たところです。また来てください。主人を紹介します。いまは、疲れてねているところです」
 と、彼女が大声で言うと、訪ねてきた人は舌打ちをしてかえっていった。
「一番熱心にやってくるのよ、あの人・・・」
 と、彼女は、僕の首に腕をまわして僕の耳もとで囁いた。」(『ねむれ巴里』)
 三千代の心のなかの土方が消えていなかったとしても、身はまた別であり、二人は一カ月ぶりの再会を肉体で確認したのだった。ただ話の絶妙のスパイスとなっている、この夜誰かが訪ねてきたのが本当かどうか。虚実のほどは分からない。ただ三千代は金子にたいして男友だちのことを隠さず、交情についてもあけすけに語るのはいつものことだった。
 翌日から三千代が先に立ってパリ見物がはじまった。金子はモーニングと外套を着て、ペナンで買った新品の靴を履いて出かけたが、しばらくすると靴擦れで足が痛くなった。地図を片手に左岸のもモンパルナスから、セーヌ川をこえた右岸のモンマルトルと歩きまわった。フランスではクリスマスを盛大に祝い、レヴェイヨンといって大晦日の真夜中をみなで祝福する他は正月を祝う習慣はなく、普段通りの生活が続いていた。
 金子と三千代はパリ見物の途中、彼女が着いて早々世話になった諏訪ホテルを訪ねて礼をいった。ホテルの主人は諏訪秀三郎といい、和歌山出身でこのとき七十五歳だった。一八七二年(明治五年)、十五歳のとき陸軍幼年学校の選抜留学生としてパリに派遣され、二年後に一度帰国した。その後井上馨のお供でパリに戻り、数年間勉強したところで帰国命令が出て日本行きの船に乗船した。だがパリの恋人が忘れられず、途中の経由地から引き返したため、軍籍を剥奪されるという経歴の持ち主だった。諏訪は一八八〇年(明治十三年)にベルギー人の寡婦と結婚して、モンマルトルのクリシー大通り六番地(Boulevard de Clichy 6)の五部屋ほどのアパルトマンを買い取ってホテルをはじめた。資金は夫人の持参金だったという。
 ここには初めてパリに北多くの日本人が泊り、そのなかには南方熊楠もいた。南方はある手紙で、障子を隔てて聞いた諏訪のフランス語はフランス人と変わらないと伝えている。
 諏訪にどこか見物しておくところはないかと訊ねると、フォンテーヌブローの素晴らしさを話し、そこにあるオテル・レーグル・ノアール(Hôtel l'aigle noir・黒鷲ホテル)に泊まるように勧めて、紹介状まで書いてくれた。二人は所持金がなくならないうちにと、翌日フォンテーヌブローへ向けて発つことにした。
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by monsieurk | 2016-06-15 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第四部(2)

 ところで、金子が三千代の居場所を探し当てて再会したのは、正確には何日のことなのであろうか。金子の記述をもとにした幾つかの伝記や年譜では、一九三〇年一月二日だったとしている。一方三千代の『去年の雪』によれば、 それは前年一九二九年の十二月も押しせまった暮れのことだったという。
 三千代はパリ時代について、小説の『去年の雪』、『をんな旅』、『巴里アポロ座』で取り上げ、さらに当時の日記の断片が堀木正路の手で構成されて、雑誌「面白半分」の一九七二年(昭和二七年)四月号から八月号まで、「森三千代の日記 パリ篇」と題して公表されている。
 日記は一九二九年十二月十七日からはじまるが、金子がホテルを訪ねてきた日のことには触れられていない。この日のことを書いているのは『去年の雪』で、この一節にはこうある。
 「突然、なんの前ぶれもなしに、シンガポールで別れたままの小谷(金子)が、ホテル・ロンドル〔三千代の記憶違い〕をたずねあてて、やって来た。おしせまった歳末の夜の十二時ごろだった。その朝早く、リヨン停車場に着いた彼は、十三子(三千代)が二ケ月〔ママ〕前巴里へついてから三たび移り変ったアドレスを次から次へ一日かりでさがし歩いてやってきたのだ。彼が部屋にはいって、手にさげた鞄を床におくなり、十三子は、「あと一日で、私もう、ここにはいなかったのよ」と、つっかかるように言った。それはほんとうだった。月がかわると、早々、十三子は、国際博覧会の日本商品市の女売子になって、スペインのマドリッドへ発つ筈だった。申込みをして採用の通知がきたばかりのところだった。」(『去年の雪』)
 三千代が一人でパリに着いたとき、所持金は節約しても一カ月生活できるかどうかとう額であり、早く仕事を見つける必要があった。大使館で居住登録をした折にも仕事の斡旋を頼んだが、それは出来ないと拒絶された。幸い頼って行った上永井が親切で、画家を中心に知り合いを紹介してくれ、彼らは当時パリでは珍しかった女一人の三千代を、モンマルトルやモンパルナスの盛り場へ食事に誘ったり、劇場やバーに同行したりしたが、その親切の裏にある魂胆が見え見えだった。
 公表されている最初の日記は到着から十日ほどが経った十二月十七日のもので、次のように書かれている。
 「蝸牛のようにぐるぐる旋回した六階の階段を上り切ると、もうものも言えない位、息が咽喉の奥でぜいぜいいって動脈の音だけが、いやにはっきり聞える。
 鍵穴の中で鍵が一つくるりとまわって、扉が内側へそっと身をひくと、廊下より冷たい部屋の湿ったような寒い空気がさっと香う。
 そんな六階の小さな部屋の中で、私は朝、昨日ののこりのバナナの皮をむいて頬ばりながら、床の中で、聞くのだ。都会の音楽を。私はじっと耳をすます。聞いたこともない音楽だ。それは心の中にどっかにあるようだ。一つの悲しげな痛ましい調子をもって胸の中へ鳴りひびいている。(中略)
 あんなことはなんでもない、あんなことはなんでもない。
 意志しないそれが何であるものか。
 私はどんな勢いで夜学へいったろう。何もかも無視して。それで洗われている。」
 ここでいう「あんなこと」が何を指すのか。彼女の意志とは関わりなく行わざるを得なかったものとは何か。日記では具体的に記されていないが、異国の地で女一人が生活する上での気に染まぬ事柄だったことは容易に想像される。その嫌な思いを振り切るためにも、彼女は外国人にフランス語を教える「アリアンス・フランセーズ」の夜学に通うことにしたのだった。
  『をんな旅』の「パリに寄す」では、「よごれたラベルを貼りつけたスートケース。ひしゃげたトランクを先棒にしたまゝで、私は、いきなり、巴里の生活の波のなかに飛び込んでゆかなければならなかつた。その波に溺れながら、呑なれながら、その度に、巴里の機構(からくり)を會得し、その中の一個の存在として、自分を意識してゆかなければならなかった。
 それは全く必要なことだつたのだ。巴里へ着いた私は、一ケ月の生活を支えかねる無経済状態だったからだ。巴里は、笑顔のうしろから、早速、その鞭を鳴らしはじめた。」と述べている。
 そもそもなぜ二年におよぶ旅の果てに、いまパリにいるのか。十二月十七日の日記の最後には、こう書かれている。
 「私は剣に誓う。
 自分の生涯で最後であるこの恋とともに生き、そして死ぬことを。
 私の勉強、それはみなあなたへの為であるかもしれない。私の心からの衝動だけではないかもしれない。
 私の芸術。それはあなたへの高まる欣求とともに養われてゆくだろう。
 私にとつてはみんな一つだ。一つの中心をとりまく一箇のみいら〔傍点〕である。」(『日記』)
 彼女の心中で、別れてきた土方定一への想いは決して消えていなかったのである。次の二十日の日記には、「ベッドの上で、六階の上の廊下のような細長い部屋、場末のホテルで、私は子宮を病んでいた。」と書かれている。
 日記によると、二十二日は朝から雪が降り、夕方には霙に変わった。d0238372_1516564.jpg
この日は地下鉄パストゥール駅に近いパリ十五区のシテ・ファルゲールの上永井(写真)のアトリエを訪ねたシテ・ファルゲールは画家たちのアトリエが集まっているところで、上永井のアトリエではストーブががんがん燃えていた。暖をとるのもここへ来た目的の一つだった。この日の朝、部屋を貸してくれた木村毅がスペインへ出発した。
 十二月二十四日の日記。
 「Noëlの日
 十二時にノートルダムの金が鳴りひびいた。
 あたしは部屋の中で袢纏をひっかけてみたり、脱いで見たり・・・
 あたし、どうしたのかしら
 文法も読めなくなってしまった。
 カッフェを沸かして、飲む。そして考えてしまう。
 三日まえから、又、おなかが空かなくなってしまった。いつもの例のくせ〔傍点〕よ。あの時もそうだったわ。Monsieur Hizikata。そして、いまも・・・・
 雪雪雪雪雪雪 Yuki
雪があんなに降っている。あたしの心臓の壁の上に。
 寒いこと、冷たいこと。冷たい冷たい雪だこと。

 でもまあ、なんて部屋の中はむしむしして頭の痛いことでしょう。
 空を少し開けて下さい。

 中華飯店で晩餐。
 Mr. Bô, Mr. Katsumata, Mrs. Bô, Kaminagaiとあたし。

 それからタキシ―でモンマルトルへゆく。

 ムーラン・ルージュはグレタ・ガルボだけど満員で入れない。d0238372_15181327.jpgそれからCafé, Mikadoへゆく。
 リキュールを飲んでボルガボードマンのオルケストラ。パイプオルガンがわたしの耳のそばで鳴る。
 それからサクレクールへ上っていった。

 トリニテの教会は儀式の最中であった。
 天上でのような合唱が高いところから聞える。

 Café・Olympiaの乱舞よ。
 あたしのキモノがそんなに珍しいの?
 あなた達はキモノと踊りたかったんでしょう。でも面白かったわ。
 すいぶん面白かったわ。」
 クリスマス・イヴは一年のうちでも一番大切な祝日で、人びとは教会へ行き、団欒を楽しむ。異国にいる三千代たちは、雪の寒さにもかかわらず盛り場に繰り出して楽しんだのである。左岸の中華料理屋で、上永井やその友人たちとの食事のあと、タクシーでセーヌ川を越えて右岸のモンマルトルへ行った。ムーラン・ルージュは人気のグレタ・ガルボが出演していて満員で入れず、近くのミカドで酒を飲みながら音楽演奏を楽しみ、もう一つの盛り場であるイタリア大通りを通ってトリニテ教会をのぞくとミサの最中だった。荘厳なパイプオルガンと合唱を聴き、カフェ・オランピアに落ち着いてダンスを踊った。この日三千代は着物姿だったから、フランスの男たちは珍しがって相手を申し込んできた。ホテルへ帰り着いて寝たのは明け方の五時であった。
 翌二十五日のクリスマスは、午後三時にようやく目を覚ました。そのあとまた上永井に誘われてオペラ通りへ行くが、劇場はどこも満員でモンマルトルへ行った。冬のパリでは午後三時をまわれば夜の帳がおり、ムーラン・ルージュの電飾の水車が静かにまわっていた。牡蠣で有名なレストラン・ピエールで食事をして、映画を見た。この日は柳井、中西、鈴木といった人たちと会った。当時パリにいた画家たちと思われるが詳細は不明である。
 二十七日、午後二時に起きて、手紙を一本書き、近くのリュクサンブール公園にある美術館で絵を見る。アリアンス・フランセーズの同じクラスのドイツ人女性に出会う。鈴木のアトリエへ行くと、勝俣、長瀬がおり、やがてモデルが二人やってきて、絵を描くのはそっちのけでダンスがはじまった。
 木村毅が戻ってくれば部屋は明け渡さなければならないので、次の部屋探しにホテル・セレクトへ行ってみるが空いた部屋はなかった。夕方六時に上永井のアトリエへ行くと、画家の辻に会う。辻は「アポロ劇場」で役者の真似事をやっており、彼について劇場へ行った。劇場は地下鉄トリニテ駅に近く、カジノ・ド・パリの隣で、楽屋口から入れてもらう。上演していたのは『上海』で、主役の中国人役を女優のジャン・マクドナルドが演じ、辻は苦力の一人で出ていた。芝居には東洋の女の役もあるというので採用を頼んだ。
 舞台が十一時はねたあとまたモンマルトルへ行き、ピガール広場のブラッスリで午前一時まだ話し込んだ。
 こうして日記をみると、三千代は女性の特権をいかして、パリの独り暮らしを楽しんでいるように見える。金子が不意に現れたのは、こうした状況のなかであった。
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by monsieurk | 2016-06-12 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第四部(1)

 マルセイユを発った夜行列車は、アヴィニョン、リヨンと寝静まった駅を通過して、パリの南六十キロほどのフォンテーヌブローを通過するころに夜が明けた。窓の外を冬枯れの田園風景が流れ去った。終着のリヨン駅(Gare de Lyon)に着いたのは、朝早い時間であった。d0238372_7431866.jpg  駅の構内を覆うガラス張りの天井の下にまで霧が流れ込んでいた。金子は『ねむれ巴里』で到着したのを東駅と書いているが、これは記憶ちがいである。パリには六つの主な鉄道の駅があるが、南から来る列車はリヨン駅(Gare de Lyon)に着く。
  一緒だった中国人留学生たちとは、プラットホームを歩いているうちに自然と別れるかたちとなり、金子は駅前ホテルのカフェのテラスに座ってカフェ・ナチュールを飲んだ。フランス人がよく飲む薬草入りのコーヒーで、眠気が覚めるとともに、パリに来た実感が湧いた。
  森三千代を探すことが先決だったが、どこにいるのかが不明だった。そこでカフェに備えつけの電話帳で日本大使館の所在地を確かめ、駅前でタクシーを拾って、十六区のトロカデロ広場に近いグリューズ通り二十四番地にある大使館へ向かった。街はまだ霧が深く、行きかう車はみなヘッドライトを灯していた。
  大使館の受付で訊ねると在留邦人名簿を見せてくれ、うしろ方に彼女の住所が書き込まれているのを見つけた。それはパリ五区のホテル・ロンドルとなっていた。受付の人が、地下鉄(メトロ)でも十分ほどだと親切に教えてくれたが、地下鉄の乗り方がよく分からないので、ふたたびタクシーで行くことにした。
  この三千代の滞在しているホテルを探し当てる件でも、『ねむれ巴里』には混乱がある。金子は大使館から真っ直ぐに、訪ね当てたように記述しているが、このとき三千代はすでにホテル・ロンドルには居ずに、パリ六区のリュクサンブール公園にある上院(セナ)の建物の前からセーヌ川の方向へ伸びるトゥルノン通りにあるホテル・トゥルノンへ移っていたのである。したがって金子は、三千代がパリに来て以来転々としたホテルを訪ね歩いた末に、夜になって彼女がいるホテルを探し当てたというのが事実である。d0238372_7453979.jpg
  ホテルの一階は食堂とバーになっていて、出てきた厚化粧の女主人が、日本人女性は四階にいると教えてくれた。再会の場面は、『ねむれ巴里』では以下のように描かれている。
 「狭い階段をあがってゆくと、ドアが二つあったが、くらいので部屋の番号がよめない。構わず、一つのドアをノックすると、「誰ですか」と答えたのは、まちがいなく彼女であった。
「僕だよ、金子・・・」
 と答えると、
「来たの?」
 おどろいて立ちあがるような気配だった。
 ――誰かいっしょにいるのかもしれない、とおもったので、僕は、早速に手を掛けたドアの手を離して彼女が誰かと一緒にでもいたときのばつの悪さを考えて、一度念を押して、
「入っても、大丈夫なの?」
 と訊ねた。その扉は、内から開かれた。見廻した部屋のなかは、彼女ひとりだった。それでも猶僕はためらって、
「いいのかね。誰かが帰ってくるのではないか?」
 とためらい、もしそうならば、入らないでそのまま立ち去って、どこかの部屋をじぶんでさがそうと思案がついていた。賽の目のようにどっちへころぶかわからないあぶない運命のうえでぐらぐらしながら僕は、それがどっちへころげても、足をすくわれることのないように、心の訓練ができているのだという自負が、あいてに対してよりもじぶんのために是非とも必要なのであった。それでいて、僕の感覚は、そのうすぐらい部屋のなかから、ごまかしきれない証拠をさがして、棘の立ったように立ったまま、部屋のなかを見廻していた。彼女の方でも、言訳らしいことは言わないで、いっしょに立っていながら、口早に、彼女の情況を説明した。」(『ねむれ巴里』)
 三千代の説明によると、船が紅海に入ってアデンに近づいたときから、すっかり食欲がなくなり、毎日三十八度近くの微熱が続き、船医に診てもらったが原因は分からなかった。紅海病(紅海特有の熱気のための日射病)かもしれないということで冷凍室の隣の隔離病室に入れられた。壁は白いペンキで塗られ、丸い窓が一つあるだけだった。一日に一回、事務員と船医が見にきて、午前には冷凍室に用事がある司厨夫がのぞいて、枕元に果物などを置いて行ってくれた。スエズ運河を通り、地中海をこえてマルセイユに到着したのは十一月二十七日だった。
 マルセイユに着いても病状はおさまらず、マルセイユには一泊もせずに夜行列車でパリへ向かい、金子がカフェを飲んだホテルに一泊した。それからモンマルトルにある唯一の日本旅館である諏訪ホテルに二、三泊して休養した。
 ホテルに客を探しに来る案内人が親切にしてくれたが、すぐに同棲を迫ってきた。その男を避けるために、スラバヤで松原晩香からもらった紹介状をもって画家の上永井正を訪ねて、カルティエ・ラタンの五区にあるオテル・ロンドルを紹介されて部屋を借り、大使館へ行って居住登録をした。十二月になると健康も回復し、上永井から画家仲間などを紹介され、食事に招待されたりパリを案内されたりして、あまり所持金を使わずに過ごすことができた。
 いまのホテルへ移ったのは、上永井の知人の家の食事会で、仏文学者で評論家の木村毅に会い、木村が急にスペインへ行くことになり、一カ月分の部屋代を払ったばかりだから、誰か住まないかと言った。三千代は渡りに船と借りることにした。それがこのホテルだと、この一カ月ほどの日々を話して聞かせた。ホテルの部屋には中庭に面して窓があり、そこから穴の底のような中庭と向かいの部屋が見わたせた。(続)
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by monsieurk | 2016-06-09 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第三部(8)

 船がセイロン島のコロンボに寄港した。ここでは一昼夜停泊するので、下船して街を歩き、セイロン人の店で、五メートル四方もあるインド更紗の壁掛けを必要もないのに買い、その足で植物園へ行った。d0238372_15382352.jpgその後船舶の食糧の仕入れを生業とする南部兄弟の店を訪ねると、諏訪丸の船員たちも来ていて、女主人と猥雑な話題で盛り上がっていた。南部の二人の兄弟は、シンガポールとスエズのポートサイドで同じ賄い業をやっているとのことだった。その夜は、店で顔をあわせたイギリスへ留学する青年と一緒に絨毯の上でごろ寝をしてすごした。二人が帰船すると、待っていたように諏訪丸は出航した。
 夜中に金子が眼を覚ますと、譚嬢は陳君とは離れ離れに金子の下のベッドで寝ていた。掛け梯子をつたって下りると、譚嬢のシャツがめくれて鳩尾の辺りが裸になっていた。しばらく彼女の寝顔を見ていたが、お腹の割れ目から手を入れて身体を触ると、じっとりと汗ばんでいた。腹から背中の方へ手をまわすと肛門らしきものを探り当てた。その手を抜いて指を鼻にあてると、日本人と変わらない糞臭がした。同糞同臭だという思いと、フランスの詩人ポール・フォールの、「お手々つなげば、世界は一つ」という小唄の一節が浮かんできて可笑しかった。
 甲板に上がると、満月に照らされた海が船をのせる丸盆のように小さく見えた。甲板では、日本人たちが酒盛りをしていて、飲めない酒を無理強いされて、あとは船室の藁布団で昏々と眠る羽目になった。金子はのちに詩篇「航海」で、このときのことを、
 「彼女の赤い臀の穴のにほひを私は嗅ぎ
  前檣トップで、油汗にひたつてゐた。」
 とうたっているが、破廉恥ともいえるこの行いは、金子光晴のエロス、そして人間観察の原点をはしなくも示している。
 金子の糞尿趣味(カストロジー)は少年時代からのもので、美校の入学したときも、「(先生は)モデルは眺めて描くもので、とえりかこんでいじるもんじゃないなんていうの。こっちは触ることが好きなんだ。見るとか、嗅ぐとかいうより、触るってことは下等な感覚らしいんだが、ぼくは触らないとだめなんだ。女の体なんかも触ってゆくと骨格なんかがわかるでしょう。肥っているけど骨は華奢だとか、尾骶骨が突ン出ているとか、そういうとこね、触ると快感があるんだなあ。仕方がないんだこれ、癖だから」(『人非人伝』)という具合だった。
  金子にとって、人間探求の対象は女であり、しかもその究極は彼女たちがもつ器官であった。この逸話のもう一つの要素は、彼がそこに「同糞同臭」を感じ、「お手々つなげば、世界は一つ」と思っていることである。しかもそれがイデオロギーなどではなく、彼の生理に根ざす確信であることが重要だった。ただ金子は船旅について、こうも書いている。
  「中国人と日本人の差別は、彼ら四人の留学生たちにとっては問題かもしれないが、僕には、男と女でしか人間の区別がつけられず、その他のタブーは、僕にとっては恐怖でしかなかった。彼女らが、僕ら日本人に手榴弾を投げ、僕ら日本人仲間が、彼女らを強姦したあと、銃剣で突刺しながら、奥へ、奥へ、踏みこんでいった、数年後を待ってはじまる恐るべき事態を、僕は、ゆめにも想像していなかった。むしろ、排日をめざして、軍事教育を受けに渡仏をする彼や、彼女の方が、はっきり現実を見ていたにちがいなかった。」(同)
  船はインド洋を越えペルシャ湾に入った。次の寄港地のアデンは、詩に愛想をつかしたアルチュール・ランボーが、アビシニア(現在のエチオピア)の国王相手に商売をするための根拠地にしていた所だが、そんな活気はすっかり消えうせていた。
  港の堤防の外では、流れてくる餌をねらって多くの鱶が泳いでおり、街では着飾った女たちが歩いていた。それを目にした金子は、「愚妻が餓死寸前で僕を待ちうけているかもしれない(それも待ちきれなくなって、なにか別の手段、例えば牛を馬に乗換えているかもしれない率も大きい)そんなパリは、僕にとってはこのもの淋しい亜丁(アデン)の港と変わりない荒廃の場所であって、パリを横目で見すごして、イスタンブールの路地裏にでも住みついたほうがいいという誘惑」(同)にかられたりした。
  紅海に入ると気温が急激に上がり、船内は蒸し風呂のようになった。甲板に出てみると、岸が近く、砂漠のなだらかな風紋の丘を、ラクダと人が歩いているのが見えた。アデンからはフランス人の将校が二人と、アフリカ人の若い兵隊が乗り込んで来て、彼らの船室に入った。将校の二人は大男で、中国人の女性をちらちら見たり、口笛を吹いたりして落ち着かなかった。そしてフランス語で話で話しかけたが、国を出る前にフランス語を勉強してきたはずの謝嬢も譚嬢も、一言もフランス語で答えることができなかった。フランス将校たちは、次の寄港地のポートサイドで、大きな靴の片方を忘れたまま下船していった。
 スエズ運河を抜けて地中海に入ると、気候は暦通り冬になった。次の寄港地ナポリに半日停泊したあとは目的地のマルセイユで、シンガポールを出てから二十五日ほどの船旅であった。
 金子はスーツケースから一張羅のモーニングを出して着こみ、その上に冬の外套を羽織り、新品の靴を履いて下船した。十年振りのマルセイユはまったく変わっていないように見えた。税関で通関をすませ、所持金を換えると、フランが弱く交換レートは一フランが八銭で、二千フランほどになった。
 初めての土地でまごついている四人の中国人留学生を連れて、日本人の案内人に勧められるまま車でマルセイユの名所を見物し、貧相な日本料理屋で日本めしを食べたあと彼らと別れた。
 気がかりなのは、この案内人が教えてくれた三千代の消息だった。彼女は一カ月半ほど前にマルセイユに着いたが、インド洋で高熱の病気になり、船医の世話で少しな回復したが到着したときも熱があった。土地の日本人が心配して賄人の家で養生してはと勧めたが、本人は「死ぬならパリの土を踏んでから死ぬ」といっ聴かず、その日の夜行でパリに向かったということだった。数えてみると、パリへは十一月末に着いているはずだったが、その後の消息はわからなかった。
 金子は駅へ行ってその日のパリ行き夜行列車の切符を買った。汽車が出るまでには四、五時間あるので街を歩いていると、最初に同室だった日本人たちと出会った。彼らの希望で曖昧宿に連れていったが、三千代のことが気がかりな金子は女を相手にはしなかった。時間が来て、空っぽのスーツケースを手に夜汽車に乗ると、四人組の中国人留学生とまた一緒になった。彼らは心強いと喜んでくれた。


 
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by monsieurk | 2016-06-06 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第三部(7)

 乗り込んだ諏訪丸のタラップを船底の三等に降りると、いつもと変わらぬ嘔吐を誘うペンキと人間の膏の臭いがまじった独特の臭気がした。しかし考えてみると、この船底ですごす間、ひどい食事さえ我慢しさえすれば、とろとろと寝ながら毎日が過ごせるわけであった。日本郵船の記録によると、諏訪丸は一九一四年に竣工した排水量一一、七五八トンの客船で、一等船客一二九名、二等五九名、三等客六二名の収容が可能だった。d0238372_15422014.jpg 
 金子が入った三等の八人部屋には、すでに四人の日本人の相客がいた。一人はロンドンへゆく留学生、もう一人はインドへ日本のリンゴを売りに行く年輩の商人で、商売品のリンゴは船の冷蔵室に入っているとのことだった。三人目は新聞記者を自称する男、そして四人目は仏教大学の教授で寺の住職も兼ねていて、フランス語訳のサンスクリットの仏典を研究するために派遣されたということだった。
 金子は乗船すると船べりの一番採光のいいベッドが空いていたので、その上段を占拠した。丸い船窓にブリキの風入れをはめ込んで涼風を楽しんでいると、船が大きく揺れた拍子に波がとび込み、頭からずぶ濡れになった。同室の四人はそれを見て笑っているのに違いなかった。そんなことから四人とは自然反目しあうことになった。
 二、三日経ったころ、くだん坊さんが面白いものがあると、金子をハッチにところへ連れて行った。そこから覗くと、中国服を着た肉付きのいい女性が、舞いとも体操ともつかない奇妙な踊りを一心にやっている。ときには中腰になり、上体を前に倒して、お尻を後ろに突き出したりする。そのポーズが艶めかしかった。後で知ったのだが、それは五禽の舞という健康法の一つだった。ボーイに確かめると、香港から乗って来た中国人留学生の一行四人のうちの一人で、ハッチを挟んで向こう側の船室にいるということだった。
 船がペナンに寄港したとき、街へ出て、中国製の安い革靴をさらに値切って手に入れた。パリに行ったときに下ろして履くつもりだった。
 航海がまたはじまった。エンジンの音、波の縦揺れ横揺れの翻弄されて、精神はいつも朦朧としていた。同室の日本人になじめないまま、ある日ボーイに訊ねると、中国人留学生四人がいる船室も八人部屋でベッドは空いているという。さっそくそちらへ移ることにした。日本郵船の船内はいわば日本の領土で、わざわざ外国人と一緒になるものはいなかったから同室の者も止めにかかったが、それにはかまわずスーツケースと靴の箱、それに身のまわりの品を持って、中国人の若者たちがかたまって過ごす船室に移った。せっかく彼らだけが水入らずで和んでいる船室の空気は、一ぺんに白けたものになった。
 それでも二組の中国人男女の留学生たちとは、半日もたたないうちに眼で挨拶をかわすまでになった。金子の片言の中国語はまったく通じず、筆談をかわすと、神経質らしい色白の女性は謝と名乗り、同じベッドに寝ている柳という青年はフィアンセで、二人はフランスで軍需品の製造を見学するのが目的だということだった。デッキで五禽の舞を毎日欠かさない女性は譚といい、パリへ軍事経理学の勉強をしに行くという。もう一人の陳は飛行将校でいつも下唇が下がった顔をしていた。譚嬢を追いまわすが相手にされていない様子だった。譚嬢は褐色の肌をした肉付きのよい女性だった。
 金子が中国人だけの船室に移ったことは、船客や船員たちの評判となり、ボーイは来るたびに二等の客へ出す菓子やコーヒーを差し入れては何かと話し込んでいった。金子は身銭で、ボーイに同室の四人にも茶菓を頼み、それがきっかけで彼らとは一層親しくなった。
食るものに目のない中国人の彼らは、沢山の食糧を船内の持ちこんでいて、絶えず口を動かしていた。譚嬢はときどきそれを金子にも持ってきてくれた。
 「彼女は、僕の裸の胸のうえに、蜜柑をのせていったりする。口のなかから、しゃぶっていた飴玉を指でとり出してのせてゆくこともあった。僕は、それを、うす目でみていた。飴玉を挟んだ指の手首をつかまえて、その指を舌先でなめると果して甘かった。その指先には、他に、薫香のような匂いの、苦い味がしみこんでいた。(中略)僕と彼女のその場限りのふるまいを、陳君が弛んだ唇をして、なめ取るように、そっくりみていたのに気付いた僕は、このかかわりがこのまま発展してゆけば、事と志が相反して、どのようなむずかしい事態にたちいたるかもしれないとおもう一方、はじめから志がそこにあったのかもしれないという気もするのであった。」(『ねむれ巴里』)(続)
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by monsieurk | 2016-06-03 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)