ムッシュKの日々の便り

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男と女――第五部(1)

 三千代が一人アントワープへ旅立ったのは十一月末である。パリからベルギー方面への汽車は北駅か東駅から出発する。この日、東駅には金子と長谷川青年の二人が見送った。三千代がパリに来てからちょうど一年が経っていた。
 「朝早く、巴里の東停車場から、アントワープ行の列車が出る。巴里ぐせがついて、昼近くより早く起きたことのない小谷〔金子〕と十三子〔三千代〕は、しぶい目をこすりながらメトロで東停車場に着いた。メトロの穴から出て駅前広場は、深い霧が渦巻いていて、駅の大時計が、どんよりしたくちなし色の、大きな首吊りの顔面のように宙づりになって、漂っていた。(中略)十三子が乗り込むなり、八車のベルが鳴り出した。座席をとって窓から顔を出してみると、小谷の姿がない。汽車がゆっくりうごきはじめてから、小谷が遠くから走ってきた。彼は、紙箱に入れたものを片手で前方に差出しながら走ちつづけ、それを、十三子の手にとどかせようとした。あやうく十三子がそれをうけとったとき、汽車は速力を増して、みるみる彼をおき去りいした。紙箱の中をのぞいてみると、ふだんは高価で手の出ない、季節はずれで珍しい大粒の青葡萄が一房はいっていた。この葡萄は小谷のふところをからっぽにしたにいちがいない。明日とはいわず今日の日から、いったい小谷はどうするつもりであろうと、十三子は思った。」(『去年の雪』)
 金子は大枚二十フランを払って買った葡萄の房を窓から渡して彼女を見送ったあと、長谷川と駅前のカフェでコーヒーとクロワッサンの朝食を食べた。離愁が七分、解放感が三分というのが正直な気持だった。
 ダゲール通りのホテルは引き払ってきたので、さっそく宿をさがさなければならなかった。大きな豚革のトランクは三千代が持っていったので、彼はファイバー製のスーツケース一つに荷物をつめ込んで、まだ霧の深い街を歩いた。
 モンパルナスの近くまで来ると、愛慾の孤独と強い執着が入り混じった悲痛な悔恨の情がおそってきた。これからどうして生きていけばよいのか分からなかった。この日は途中で見つけたホテルに部屋をとり、若い長谷川と泊まることにした。夜はソーセージをはさんだパンとシュクルット〔塩漬けのキャベツとソーゼージの煮物〕を買ってきて、部屋で食べた。
 翌朝、長谷川青年と別れて、モンパルナス駅近くにホテルを見つけ、そこにしばらく滞留することにした。ポケットにあるのは二十サンチームの硬貨ばかりで、それでも二、三日の宿代は出そうだった。部屋はシングルベッドが一つ置かれただけのものだったが、一日十五フランという安さがなによりだった。ただ下がコーヒー店のホテルは完全な連れ込み宿で、水道管のまわりの漆喰に穴があり、覗くと隣のベッドが見えた。夜は隣室の音や光景でなかなか眠れなかった。
 アントワープは、首都ブリュッセッルに次ぐベルギー第二の都会である。ベルギーは多言語国家で、南はフランス語を話すワロン地域、北はオランダ語の方言であるフラマン語を共通語とするフランドル地域に分かれ、首都ブリュッセルは両方の言語を用いている。この他にドイツとの国境には少数だがドイツ語を話す人たちもいる。
 アントワープ(地元のフラマン語ではアントウェルペン)はフランドル地方の中心都市で、フランス北東部に源を発し、てベルギーを通ってオランダに入り、やがて北海にそそぐシュヘルド川の右岸に位置している。川幅はここでは四百四十メートルに達し、フランスのマルセイユやル・アーヴル、イギリスのロンドンと並ぶ欧州航路の終着地の一つで、とくに貨物の積み下ろし港としてはヨーロッパ一、二を誇る。
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 アントワープの名前については、巨人アンティゴーンと英雄ブラボーの伝説が伝えられている。アンティゴーヌは附近を通行する船に通行料を課し、それを払わない者はその手を切り落として川に放り捨てた。だがついにローマの戦士ブラボーがアンティゴーンの息の根をとめ、手を切り落として川へ捨てたという。フラマンのAntは手、werpenは投げるという意味で、街の名前はこの伝説に由来するという。アントワープの中心部では、北から南へ、波止場が川沿いに五・六キロにわたって続き、そこには無数の客船や貨物船が係留され、仕揚げのためのクレーンが林立している。
 三千代の乗った汽車が国境を越えたあとの駅で、税関員が乗って来て全員のパスポートを見てまわった。三千代のパスポートも、シンガポールで金子とは別々になっていたので無事に入国を認められた。汽車は昼近くにアントワープ中央駅に着いた。霧はようやく薄れはじめたが、敷石の道路はまだ凍ったままだった。出島に教えられた住所を頼りに、シュヘルド川の河岸にある宮田の事務所を訪ねあてたとき、栗色の薄い外套しか来ていない三千代の身体は寒さで硬直しそうだった。駅からは直線距離で三キロもあった。三階建てのレンガ造りの建物の石段を二段上がって、ガラスに金文字で MIYAKO CO. LTD. と書かれた扉を押すと、なかはストーブの温気でむらかえるようだった。
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by monsieurk | 2016-07-30 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第四部(17)

 見本市が終わりに近づいたとき、しばらくベルギーのアントワープに行っていた出島がパリに帰ってきて、缶詰入りの餅の土産とともに、諏訪旅館の経営者の諏訪秀三郎が、アントワープで掘割に投身自殺したというショッキングな話を聞かせた。この事件はベルギーばかりでなく、パリ在住の日本人にも大きな衝撃をあたえた。死亡届けは松尾邦之助のあとを継いでパリ日本人会の書記をしていた椎名其二が代理で大使館に届けられた。それによれば諏訪のベルギー人の妻はこの年初めに亡くなり、諏訪自身は七月にベルギーに行って、八月三日にアントワープのエスゴー河岸で頭をピストルで撃ちぬいて死体となった発見された。現地の警察が検視の結果自殺と断定されたということだった。
 パリで成功したようにみえた諏訪の最後は、金子や三千代にとって、異国で生きていくことも過酷さをあらためて思い知らせる出来事だった。そして出島は二人のもとに、もう一つ話を持ってきたのである。
 出島はベルギーを根城に絵を描き、それを売っていたとき、港町アントワープで船舶賄業を主にしているミヤコ商会の宮田耕三という男と知り合い、その世話になった。二人の持ちつ持たれつの関係は出島がパリに移ってからも続いていていた。三千代の『巴里アポロ座』によれば、彼女が気持の上で金子と離れたがっているのを知った出島は、ある日彼女に「日本に帰りたいんなら帰れるようにしてあげよう」と言い出したという。ただ出島の言動には必ず下心があるのが分かっているので、すぐに同意はしなかった。
 この件は、金子の側からは次のように書かれている。
 「十月、十一月と、並木の落葉の吹きだまりが大きくなる頃になって、例にように、出島のアントワープ話が再燃し、その度毎に腰のねばりがつよくなってくる。万策尽きたふたりにとって、その話のいいところだけがのこって、腹にたまるようになった。(中略)
 出島のアントワープへのの紹介は、彼女は勿論、僕の方でも、川せきの近くで、落葉が水面につもってうごかない状態から、ようやくながれはじめたときのような解放感で、ほっとしても当然な筈であるのに、まだ一つなにかが心の底でためらっているのは、そのあいだでどんな具合に出島が得分を取ることがあるのか、その正体がつかめないからであった。だが、多少のことは我慢をして、彼の策術にくっいて、こちらの策戦をねるより他はまおのであったが、出島のやりかたでは、僕から彼女を離して、港町の顔役にうりつけ、じぶんと顔役とのむすびつきを堅くし、あわよくば、彼女を通して顔役の心をうごかし、とりもち役の恩義にふさわしい報酬を、期待してのことであるまで想像できた。彼は屡々僕の留守にやってきては、彼女にじぶん流の考えを授けて、かたくるしい物の考えかたをほぐして、じぶんの思い通りにあつかいやすくしようと骨を折っているらしかった。
 「また、出島が来たわよ」
 彼女は、僕よりももっと敏感に彼の下心のすべてをよみとっていた。出島の見えすいた魂胆には乗るまいとおもいながら彼女は、いよいよどん詰まりに来たパリぐらしの活路をなんとか切りひらいてゆくために、一応彼の口車に乗って、さて、アントワープに行って、それから又考えて、善処すればいいと考えているらしかった。」(『ねむれ巴里』)
 十一月のはじめ、アントワープにいる出島からは催促の手紙が来て、それには雇い主からの、帳場のタイプ打ち係りの採用許可状も同封されていた。間もなくして、戻ってきた出島が姿を見せた。
 「「ええか。話はきめて来たど。仕事は、まかないの計算だが、そんなことは、まあ、どっちでもええ。正月には、わしもゆく。舟乗りどもが酒のみに来よるが、多少はその、そのほうも世話してやらねばなるまい」
 社長のM〔宮田〕からもらってきたと言って、ダンヒルの茨び根の古びたパイプをとり出して、刻み煙草をつめたが、一吸い二吸いすると、煙にむせて、こほんこほんと咳入った。(中略)
 「僕もベルギーにゆくことになるよ」
 と僕が、突然言いだすと、
 「それもええが、それはまた折をみて、わしが高砂に話して呼ぶようにはからう」
 と、出島は、あわてて、両手で阻止ぬるさまをした。」(同)
 こうして出島に引きずられるような形で、三千代のアントワープ行きが決まったのだった。このころ金子たちのダゲール通りの部屋によく顔をだしていた、木工家具の修行をしている青年長谷川弘二や、工場勤めをしながら絵を描いている西村などは、三千代一人をアントワープにやるのは無謀だと真剣に引き留めたが、すでに外堀を埋められた感じだった。
 三千代はのちに、パリ滞在を次のように回想している。
 「巴里での私の生活の均衡(バランス)のあぶなつかしさのなかに、私は、女性の危機を屡ゝ經験した。さうして、悪闘した。私の争闘は、内容的には、さふいひものであつたから、私は、むしろ男にならうと努力したのかもしれない。そして、この争闘は、現在の私の基礎になつてゐるから、あながち、徒労なものではなかつたといへる。

 私は、私の巴里を憶つて目を瞑る。
 煙突の林をこめて、青い霧が限りなく流れてゐる・・・。そのなかに、眞紅(まつか)に燃えてゐるものは、むかしの私の窓の燈(ひ)であらうか。緋薔薇だらうか。あの頃の、私の滴らした鮮血であらうか。」(「巴里に寄せる」、『をんな旅』所収) 
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by monsieurk | 2016-07-27 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第四部(16)

 パリには早朝に着いた。駅から歩いてリュクサンブール公園まで来て、誰もいない噴水のかたわらのベンチに腰をかけて休んだ。リヨンまで出かけていきながら何の収穫もなかったことを三千代に告げることを思うと気が重かった。それでも帰る先はダゲール通りの部屋しかない。しばらく時間をつぶしたあと、公園を抜けてホテルまで歩き、絨毯を敷いた階段を二階の踊り場まで上がると、そこに肘掛椅子があり、フランス人形が一つ、裳を開いて座らされていた。金子は足の間に鞄をはさんで隣へ腰かけた。自分の人生の時間から外してもらいたいような時間だった。
 かつて国木田夫妻と上海へ出かけたときのように、今回のリヨン行きでは、わずかな有り金をすべて持って行ったために、留守の間三千代がどうやって生きていたのか分からなかった。あのときの二の舞という疑心暗鬼が金子の気持を暗くした。
 ようやく踏ん切りをつけて、部屋の扉をたたいた。中から眠そうな声で、「どなた」という答えがあり、金子だとわかるとスリッパをつっかけて鍵をあけにきた。部屋に入った金子は、寝台の下や洋服箪笥の中までのぞき込んだ。三千代はそんな金子を、「差押えのお役人みたいね」といった。憔悴した金子の姿からすべてを察した彼女は、皺くちゃの五フラン札二枚と十フラン札を出して小机の上に並べると、「あたし、明日の火曜日から、十日ばかり稼ぎに出ることにした。五十フランの手付の残りよ。おひるは、なにかうまいものを買ってくるから、寒そうな格好をして。氷の板みたいじゃないか。みんな脱いで床へもぐり込み、一寝入りしようよ、まだ、早すぎる」(『ねむれ巴里』)といった。
 三千代が翌日から行くというのは、アリアンス・フランセーズの仲間の知り合いの安南人〔いまのヴェトナム〕女性から紹介されたモデルの仕事だった。パリ郊外のオートゥイユに大きな豪邸を構えている彫刻家が日本人のモデルを探していて、そのモデルをやってみてはどうかという話だった。彫刻家はプリンス・カエタニと呼ばれるようにイタリア人の貴族だという。三千代はさっそくオートゥイユの屋敷を訪ねた。
 広い前庭のある玄関をおとなうと、立派な服装の執事が出てきた。主人は近くの競馬場に出かかているが、三千代が来たら待ってもらうようにということだった。一時間ほどするとカエタニが帰ってきて、広いアトリエに案内された。彼は五十がらみの立派な体格の男で、礼儀正しく親切だった。アトリエには多くの胸像が並んでいて、紹介してくれた安南人の女性の胸像もあった。
 三千代に本当に日本人かどうかを確かめた上で、翌日からぜひ通って来てほしいという。ポーズは一日に二時間。報酬は毎日四十フランくれ、最後の日にはまとめて一日十フランの割り増しをくれるという約束だった。金子にこの話をすると、ポーズは裸になるのかと聞いたが、カエタニとの約束は胸像をつくることなので、裸になるのは上半身だけだと答えた。
 こうして三千代のモデル仕事がはじまった。モデル台が高いので自分では上がれず、カエタニが軽々と彼女を抱いて台に乗せてくれた。そのあとに同じくらいの高さの台の足に車がついたものをそばに持ってくる。この台には粘土がのっていて、乾燥を防ぐたまに布がかぶせられていた。
 カエタニは長いコンパスのようなものを持ち出して、三千代の顔の寸法を測り、それを粘土に突き刺して大体の見当をつけ、不要な粘土を削りはじめた。こうして凡そ一カ月の胸像づくりがはじまった。d0238372_7502072.jpg
 ポーズをしている間、日本のことをはじめ色々なことを話した。彼はローマに大荘園がある由緒ある家柄で、台頭しつつあるムッソリーニとも旧知の間柄だった。邸宅の客間をさまざまな人種の彫刻で飾るのが夢だということだった。
 ポーズが終わると執事に命じてイタリア産のベルモットや、つまみを持ってこさせることもあった。また外出のついでに、車で彼女を近くまで送ってくれることもあった。こうして制作された胸像の正面に、カエタニの名前と並んで三千代の名前を漢字で彫り込んだ。
かつて彫刻家のオーギュスト・ロダンが、ヨーロッパをまわっていた踊子の花子をムードンの邸宅に住まわせ、彼女をモデルに幾つも彫刻をつくったが、三千代の胸像もこうして制作され、写真がいまも残されている。
 モデルの仕事は一カ月ほどで終わり、その後は日本料理店の会計係、オペラ通りにある日本人相手の土産物屋の店番、ポルト・ド・ヴェルサイユで開かれる世界見本市(フォアール)の売り子などの話が持ち込まれた。どれも一長一短で、十月初めから十一月中旬にかけて開かれる見本市で働くことにした。さっそく日本から出品する西陣の織元や陶器や漆器の輸入商の人たちに紹介された。なかにはパリ在住の臨時雇いの人もいたが、彼らの誰もがモンパルナス界隈にいる日本人と違って、地道でよく働く人たちだった。
 三千代の受け持ちは岐阜産の竹細工の玩具売場で、値が安いうえに売り子が着物姿の日本女性ということもあって人が集まり、売り上げも上々で給料の外に歩合給をもらうことができた。決まった時間に見本市へ通う毎日は、これまでとは違うパリを三千代に見せてくれた。
 「出勤の朝の巴里は、彼女がいあまだかつて知らなかつた巴里だつた。新しく買つた、腰にくゝりのあるフレンチコートを着て、寝足りないからだでよろめきながら、彼女は、霧の海のなかに浮いている地下鐡(メトロ)入口の方へ急ぐ。濃霧に行き悩む車の警笛が絶えずひゞく。歩いてゐる人はみんな咳をしてゐる。メトロに乗る前に、そこの角の珈琲店で朝食をとる。出し立ての朝のコーヒーのにほひが、巴里の朝のにほひなのだ。そのにほひに包まれて、人々と一緒に、立飲臺の向つてならぶ。珈琲店の床は洗はれ、椅子はまだ逆さにしてテーブルに上げである。立飲臺の向ふでは給仕が手わけして、目のまわるやうな忙しさで、つめかけてくる客に、真鍮のコーヒー沸しのねぢをひねつて、コーヒーをついで出したり、からのコツプを引つこめたりしてゐる。客は、勤人、労働者ばかりだ。女達も男たちのあひだへからだで割込んではいる。彼女達は、オペラやキヤバレで男たちのあひだへ挟まつている女達とは別種の女達だ。また、モンパルナスの夜の椅子に腰掛けに行く女達ともちがつてゐた。事務員、タイピスト、賣子、そのほかもつと力のいる労働に従事するもの等々で、男のやうに革外套を着てゐるものもある。横つちよにのせたベレ帽の額から金髪をはみ出させ、鼻の頭をまつ赤にしてゐる。彼女達は、一刻を急いでパンをおしこみ、コーヒーでのどへおし流す。おあほり高いコーヒーは、この人達を、巴里の日々の滑動のただなかへ送り出す。そして、節子〔三千代〕は、自分もこの連中の一人になつたことに共感と生甲斐を感じてゐた。」(『巴里アポロ座』)
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by monsieurk | 2016-07-24 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第四部(15)

 金子は世間を狭くする一方で、三千代は外へ出れば、誰かの奢りで映画や芝居を観たちレストランでの食事を楽しむことができた。それに彼女の向上心は相変わらず旺盛で、ぎりぎりの生活費から、「ル・モンド」や共産党の機関紙「ユマニテ」を買い、『十月革命』、『パリにおけるレーニン』、『即物主義詩集叢書』などの本をサン・ミシェル大通りの本屋から買ってきて辞書を片手に読んでいた。二人の間には、互いに干渉せず、生きのびることを第一にしようという暗黙の了解ができつつあった。
 金子はこんなことを思った。「―― 二人とも、パリの土になることになるだろう。
 幾度も、僕はそのことを考えた。どちらか一人がのこって、もう一人分の骨を日本へもって帰ることになるかもしれない。骨は別にもってかえってもしかたがないとおもう。持ってかえるとなれば、空鑵のなかに入れた方がいいなどと考える。帰れないということは、彼女の場合はすこしちがっていて、生きてもう一度子供に会いたいという思いが切実で、その話にふれると彼女はなんにも言わずに泣いていた。(中略)朝方など、ベッドの枕にうつ伏せになって泣いていることがよくあった。泣くがままにさせて邪魔しないで、僕は、その横で他のことを考えて、じっと眼をつむっていた。頭がだんだん大雑把になって、考えることも感じることも鈍くなり、所謂、張三李四で事志とたがい、芯から卑俗な小悪党根性が身についてゆくのがわかった。間尺に合わないわずかな金のために、なんでもやる気になっていた。だがそれすらも、よさそうな話はなにもなかった。」(『ねむれ巴里』)
 金子が『ねむれ巴里』で次に物語るエピソードは、彼がどれほど切羽つまった状況にあったかを伝えてる。
 金子は暁星中学時代の同級生である柴崎という男がリヨンにいることを知って、彼を訪ねて幾ばくかの金を借りる算段をした。小さな荷物を一つ持ち、往復の汽車賃と二、三泊するための百フラン札一枚を懐にしてマルセイユ行の夜汽車に乗った。d0238372_9325721.jpgリヨンはパリから四百キロのところにあるフランス第二の都会で、真夜中にリヨン駅に着いた。とりあえず駅でコーヒーを二杯飲み、駅前の部屋貸しのホテルに宿をとった。一泊十二フランだった。
 翌日は十一時過ぎに起きてホテルを出て、アドレスを頼りに山の手にある柴崎の家を訪ねた。玄関に出てきた柴崎は暁星の出身者ではあったが、金子が知っている柴崎とは同姓同名の別人だった。リヨンでは香水工場の職工をしていて、最近同じ職場の若いフランス人女性と結婚したのだという。彼らは親切に食事をご馳走してくれ、金のことは切り出せずにホテルに戻った。
 「あとにも先にも、自殺を考えたのは、生まれてからそのときがはじめてであった。その時の彼女のことは、こちらが心配するまでのことはあるまい。パリにごろごろしている男共はみんな淋しがっている。僕といっしょにいて、とんでもない苦難の巻添えをくうよりも、安定したくらしだけは確保している画家がいくらでもいて、遊ぶがままである。そのなかから気心のわかった、不愉快でないあいてをさがしだすことは、そんなに骨ではない。(中略)そのときも僕は、僕がねているベッドの下で地球がうごいているのを感じた。胸がいっぱいになったが、のどまでつまっているその感情は、非苦ではなくて羽目を外して、世界中がびっくりすつような大笑いの発作の前のような気持であった。それから僕はすこしばかりではあるが、これから着々とすすめてゆこうと思っている計画に、それを決行する勇気が加わってきた。」(『ねむれ巴里』)
着々と進めようとする計画がなにかは不明だが、金子は翌日の朝早起きするとリヨンの目抜き通りへ行き、デパートの二階の文房具売り場で、絵具一式を外套の内ポケットにしのばせると、そのまま出てきた。店員は誰も追ってこなかった。ホテルの部屋へ戻って日本女性を描こうとしたが、盗んできたのは油性絵具で水を含んだ筆にはのらなかった。それでもなんとか三枚の紙に女の姿を描き上げ、買ってくれそうなところを電話帳で調べて持参した。最初はマリア会に属する教会だったが、出てきた神父は花魁姿を見ると頭から拒絶した。そのあとは行きずりの医院、日本の銀行、商社とまわったが、日本人の対応はよけい横柄でけんもほろろだった。
 懐を勘定してみるとパリまでの汽車賃もない。しかたなく夜八時頃にふたたび柴崎の家を訪ねて事情を報告すると、同情したフランス人の妻が四つにたたんだ百フランを差し出して買ってくれた。柴崎夫妻が駅まで見送ってくれ、夜遅い列車でリヨンを発った。
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by monsieurk | 2016-07-21 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第四部(14)

 三千代が「日記」で「額縁作っている所を見にゆく」と書いているのは、パリに戻って早々、クラマールの版画家永瀬の紹介で、モンパルナスに近いラスパイユ通りの額縁をつくるアトリエを訪ねたのである。この件については、金子の『ねむれ巴里』のほかに、三千代も『巴里アポロ座』で「オーキ工房」という一章を設けて書いている。
 三千代がオーキとしている人物は、事実は松田というハワイの生まれの画家で、アメリカ経由で半年ほど前にパリへやって来た。彼はフランスへ着くなり漆器会社にデザイナーとして雇われ、生活費を切りつめて資金をつくると、古い額縁の模造品をつくるアトリエを設けた。ルネサンス風の唐草模様を彫り、まがい物の金粉を塗り、それをわざと削り取って古色をつけたものだった。だがこれがフランス人画家の間で評判になりつつあった。彼は工房を開くと、食いつめた日本人画家を集め、彼らの生活の安定を計るという触れ込みで事業をはじめた。趣旨に賛同した永瀬などは設立基金に名を連ねていた。
 金子と三千代が訪ねたときは、すでに数人が鑿で模様を彫ったり、ヤスリをかけたりして額縁づくりに励んでいた。松田はフランス語ができず、横浜生まれの混血児のブーランジェを雇って外交を任せていた。彼は言葉巧みにモンパルナスの一流画廊のドランの信用を得て、近々額縁の展覧会を開くという話まで持ってきた。
 金子と三千代はアトリエで働くことにして、金子は見よう見真似で額縁にジャワで見た面や魚などを彫り、三千代は仕上げのヤスリかけを受け持った。ヤスリかけは手が荒れて辛いうえに、日給は二十フランの約束だった。パリに戻ってすぐにダゲール通り二十二番地のホテルの四階に空部屋がでて、そこへ移っていたので稼がなくてはならなかった。
 金子は額を部屋まで持って帰り、鑿に布を巻いて金槌の音を立てないようにして夜中まで彫った。だが部屋の掃除にきた女中が、床の合わせ目に入った木屑を見つけて宿の主人に言いつけた。ペルシャ人の彼女が検分にきたが、「夜中にあんまり音をさせないでくださいね。他のお客さんが眠れませんから」と言っただけで出て行った。
 額縁づくりがどれほどで続いたのかは定かではないが、やがて金子は大本教の西村とは別人の西村という人物から、工房の仕事をやめるように忠告された。彼はメニルモンタンのある工場で漆器に中国風の線画を描いて、自分一人が食べられるだけの手間賃を稼ぎ、静かに生活していた。ただ彼は金子がパリで出会った初めてのインテリで、新刊本にも目を通していた。金子は勧められて、詩人で小説家のブレーズ・サンドラルの小説『黄金』(一九二五年)や『ダン・ヤックの告白』(一九二九年)を読み、その鋭い表現にうたれた。『黄金』はスイスの百万長者がカリフォルニアの金の発掘で没落する物語で世界的な評判を得た作品だった。金子はこれからまた本を読むことをはじめ、文学に復帰するきっかけとなった。
 金子が額縁づくりを辞めたのには、もう一つの出来事があった。ある日アトリエに出島春光という日本画家が来て、松田から金をせびり取ろうとした。出島は日本人社会では強面で通っており、金のありそうなところを訪ねてはゆすりまがいの手で金を持っていくと評判の男だった。このとき松田は囲っていた女にあり金を持ち逃げされた直後で、出島も仕方なく引き下がったが、アトリエにいる金子を見ると外に呼びだし、二人で組んで金儲けとしようと誘った。
 出島は本名を啓太郎といい、金子と同じ一九一五年(大正四年)に東京美術学校予備科(日本画科)に入学したから、二人は名前や顔を知っていた可能性がある。出島は美校を中退すると、チェコのプラハやベルギーのブリュッセルで絵を描いて展覧会に出品した。
 彼の自慢話は、ベルギー国王が展覧会に来た折、つかつかと進み出ると、いきなり国王の手を握って、「ボンジュール・ムッシュ」と挨拶した。これがその日の夕刊に写真入りで出て、一躍名が知られたというのである。その後パリへ来て、墨絵で風景画を描いて少しは評判になったが、それで食べられることはなかった。
 出島は金子が大使館の武官から金を借用におよんだ話を聞いており、同類と思ったのかもしれない。こうして出会った二人は、連れ立ってなにかと仕出かすことになる。
 出島に金が必要なのにはわけがあった。彼は年増のフランス女と生活をともにしていたが、彼女の全身をマッサージするだけで、身体は決して許されなかった。女には別に情夫がいて、出島が持ってくる金は女と情夫に吸い上げられていたのである。それでも出島は文句もいわずに、パリへ来たばかりの日本人などの許を訪ねては、半ば強引に借金を繰り返していた。
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by monsieurk | 2016-07-18 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第四部(13)

 七月になるとパリは閑散とする。多くの大衆がヴァカンスを楽しむようになるのは、このときから六年後の一九三六年五月に、レオン・ブルムの率いる民戦線内閣が、週四〇時間労働と労働者に二週間以上連続した休暇をあたえることを決める以降である。ただ裕福な人たちが夏の休暇を海岸や山で過ごす習慣はすでに定着していた。
 英仏海峡に面した港町ル・アーヴルの西につらなる海沿いの街、オンフルール、トゥルヴィル、ドーヴィルは昔から保養地として有名で、三千代の発案で避暑客相手に、金子の絵を展示して稼ごうということになった。上海やシンガポールと同じことをフランスでもやってみようという思いつきだった。
 そうと決めれば早い方がいい。せっかく見つけたダゲール通りの快適な宿を一時解約し、荷物の一部を知人にあずけ、七月二十八日の夕方、オペラ座の裏手にあるサン・ラザール駅からノルマンディー行の汽車に乗った。
 このノルマンディー行きについて、金子の『ねむれ巴里』では翌年の夏のことになっているが誤りである。三千代の「日記」にはこうある。
 「七月二十八日
 あの波斯(ペルシャ)人の気のいいおかみさんと別れ、私はノルマンディーのトルービル〔ママ〕へ出発した。大荷物を人のうちへあずけておいて小荷物だけを持って、夕方の五時二分の汽車にのった。
 線路はセイヌに沿っていた。巴里を出てすこしゆくと、もうずっと麦畑と牧場ばかりの田舎である。山羊のむらがっている所、牛のねそべっている所、小さな村にはきっときわだった教会があった。途中で夕立が来た。汽車の窓を針の先で傷つけたようなに雨がかすめた。
 リジウでのりかえた。
 八時半頃、トルウビルの駅についた。
 とにかく一軒のカフェでの二階のホテルに泊まった。四人ベッドのへんながらんとした細長い部屋ではあるが、一晩だからがまんして泊まった。
 その下にレストランでディナーをたべる。ムル(ムール貝)をたべる。夜、街を真直に行って、海を見にいった。
 海岸にアメリカ式のカジノがある。
 ノルマンディ風の別荘が海岸に建ちならび、木ではりつめた散歩道をはさんでカフェがある。オーケストラが鳴っている。
 ハーブル(ル・アーヴル港)の港の灯が見える。
 落ちてゆく大きな五日月が川の上にかかっていた。」(「森三千代の日記 パリ篇」8)
 このときのノルマンディー滞在について、三千代は「日記」と「ドービルの蝦」(『をんな旅』所収)で詳しく書いている。
 到着の翌二十九日は家探しに費やした。「部屋貸し」という札の出ているところを一軒ずつ訊ね歩くがなかなか見つからない。山手の方はみな月貸しで条件に合わず、川沿いの「ホテル・ド・ラ・ペ(平和ホテル)」の十九号室を借りることにした。避暑客が多いドーヴィルではなくトゥルーヴィルに滞在したのは、こちらの方が宿代が安かったからである。金子は部屋で即席の絵を描いた。
午後、海岸へ出てみると赤白の縞のパラソルが花ひらき、その下で人びとは布張りのデッキで編み物をしたり昼寝をしたりしていて、海に入る人は誰もいなかった。夕方に目抜き通りを散歩すると、貝殻細工や耳飾り、腕輪を売る店があり、パリに劣らぬ装飾品を売る店もあった。夜になって海岸を散歩すると大勢の人が歩いている。桟橋の尖端からはドーヴィルの街の灯が間近に見えた。
 三日目の三十日は橋を二つ越えて、目的地のドーヴィルへ行った。d0238372_11193665.jpg
 「三日経った日の午前、出来上がつた畫を四五枚持つて、海岸傳ひに、カジノの支配人に面會にゆきました。だが、その交渉は、たゞ一度で失敗に終りました。カジノは、海水浴場唯一の大きな社交場で、劇もあれば、賭博もあります。此處で畫展をことはられたといふことは、たしかに致命傷でした。内部の知人か、よい紹介でもたつたら、話は、あるひはもつと進展したのかもしれませんが、ぶつつけといふことがそもそもいけなかつたのです。畫展を専門にやつてゐる畫廊(ギャラリー)が別にあると聞いて、いつてみましたが、巨額の前金の問題で、てんでお話にならないのです。窮餘の一策で、海岸へ店を出して、畫いた畫を片つぱしから路傍にならべて賣らうといふのです。少し安くして賣らねばならないけれども、その代り、數がいくから結局おなじことになるだらうといふ目算です。しかし、この海岸には露店といふものが一つも出てゐないので、S〔金子〕が、海岸管理人の許へいつてきいてみると、
 ――この海岸は、海岸の美観のため、小賣商人、その他の大道店を一切禁じてゐる。と、いふ返事です。
 ――ドービル、地獄へ墜ちろ。
 私たちは一口も口を利く元氣もなく宿所へたどりつきました。」(「ドービルの蝦」、『をんな旅』所収)
 こうして二人のもくろみは何の成果も得ず徒労に終った。「ドービルの蝦」という妙なタイトルがついた文章は、ノルマンディー滞在中をほとんどパンとバターだけで過ごしたので、最後は名物のラングスト(大蝦)を食べようと店をのぞき歩くうち、一軒のレストランの店先で大きな鋏をもった蝦を見つける。その甲羅にはマヨネーズの花文字が書かれていて、それを見た金子は、「お前たち、食っちゃいけない」と書いてあると言うと、パリ行きの切符を買いに駅へ歩いて行ったという落ちで終わっている。蝦を食べれば帰途の汽車賃がなくなってしまう有様だった。
 「八月一日
 午後一時四十五分の汽車で巴里へ帰途につく。
 モンパルナスのリュー・ド・ゲーテの一軒のホテルにつく。
 窓からサクルコーヨ(ママ、サクレ・クール)が見える。額縁作っている所を見にゆく。」(「森三千代の日記 パリ篇」8)
 日本から届いた金もほとんど使いはたし、いよいよ何か働き口を探さなくてはならなかった。
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by monsieurk | 2016-07-15 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第四部(12)

 六月のある日、金子は職探しの途中、ふと思いついてかつて宿泊していたトゥルノン通りのホテルを訪ねた。三千代に部屋を貸してくれた木村毅はホテルにはおらず、日本に帰国したとのことだった。ただ宿主の老婆が金子を見ると、「ああ、ちょうどよかった」といって、一通の封書を手渡した。宛名を見るとモリミチヨとなっており、日本からのリヨン銀行宛ての送金通知だった。
 この封書の送り主について、金子の『ねむれ巴里』では、三千代の父からと書かれており、森三千代の『巴里アポロ座』でも、長崎の父親に帰国の旅費を頼んだと書いているが、「森三千代の日記 パリ篇」の編者堀木正路は、「実際はこの金は、三千代の奨学金提供者だった関西の実業家Tからのもので、三千代が光晴に内緒でたのんだ帰国の旅費三〇〇円(約四千フラン)だったと、三千代は筆者に語っている。」と記している。(「森三千代の日記 パリ篇」5)
 Tとは株式会社壽屋(現サントリー)の創業者鳥井信治郎で、森三千代は東京の女子高等師範へ進学する際、鳥井が創設した給費生の第一回三十名の一人に選ばれたのである。女は彼女一人で、応募用紙に添付した写真に興味を抱いた鳥井は、三千代を名古屋の高級旅館に招いてご馳走し、分かれ際には手の甲に唇を当てたりした。
 その後も鳥井は上京する度に会いに来たり、金品をあたえたりしたが、二人の関係はそれ以上には進まず、鳥井はパトロンとしての立場をまもった。この出来事は三千代の短篇小説「山」(『国違い』、文林社、一九四二年)に、フィクションの形で描かれている。三千代がパリに着いた直後の日記にも、Tに手紙を出したという記述があり、切羽つまった三千代が金子には黙って帰国を考え、費用を依頼したことは十分に考えられる。おそらくそれが長崎にいる三千代の父親経由で送金され、金子に先に知られてしまったのである。
 「ともかくもその金は、大旱の慈雨というものであった。一フランが八銭の当時の相場で計算してみると、四千フランばかりであった。(中略)みみっちい話だが、二人の食事を二食にして、一人十フランとみて、二人二十フラン、十日で二百フラン、一カ月で六百フラン、雑用を入れても半年は、それでしのぎがつく。夫婦といっても、それを勝手に僕が使用する権利がないことはわかっているが、窮乏のなかで、きらきらと眩ゆい金銭の魅力は、最初にそれを鷲づかみにしたものの、逆手にとってつよい力でぼきぼき折りでもしない限り、離させることはむずかしい。
 銀行にいって、僕のサインで金はまず、僕のふところをふくらませることができた。モリミチヨという名前が、男の名か、女の名か、フランスの銀行員には判別がつかない。それは当然の話だ。」(『ねむれ巴里』)
 翌日、寝起きの三千代をせき立てて、セーヌ川を越えた右岸へ出かけた。一八七五年にガルニエの手で建設されたオペラ座と、コメディー・フランセーズがあるパレ・ロワヤルまでの大通りはオペラ大通りと呼ばれ、高級品をあつかう店が軒をならべていた。
 まず三千代が欲しがっていた薄革の藍色の手袋を買い、流行のモロッコ緑の絹のワンピースを選んで、店先で上海以来着たきり雀だった服と着替えさせた。次いでシャンゼリゼ大通りへ行くって、「ブランシュ」という白色のブラウスや下着を専門とする店で、肌着とストッキングを求めた。三千代は金の出どころを訝りながらも浮き浮きしていた。
 その後、地下鉄でモンマルトルに行き、金子は待望の靴を買って履き替え、崩壊寸前の靴は、「三つの風車(トロワ・ムーラン)」というカフェの裏のゴミ捨て場に放り投げた。そして一人二十フランの昼食を奮発したあと、劇場に入って二階の桟敷席で「リゴレット」を観た。ただこの芝居は金子が知っているのとは違ったドタバタ劇で、三千代は金子の説明に首をかしげていた。こうして一日が終わり、その夜は房事もはずんだ。
 金子は翌日、三千代に分からないように残金を調べてみた。すると早くも半分以上がなくなっていた。それそっくり彼女のハンドバックに入れた上で、一部始終を隠さずに告げた。すると彼女は待っていたであろう金なのに、あまり心にとめない様子で、「あ、そう」と気の抜けたような返事をしたと、金子は『ねむれ巴里』で書いている。
 だが実際はそうではなかった。金子光晴全集の月報「金子光晴の周辺 7」で、聞き手の松本亮が、長い旅の間に金子と別れたいと思ったことはなかったかと訊ねると、森は一度は上海で前田河に帰国の旅費を借りに行ったとき、二度目はパリでの使い込みが分かったときだと述べているのである。
 「そのときは、パリに、故郷から私の帰国の旅費がきたんです、一人分だけの。それを金子が黙って使い込んだんです。金子は私が知らないと思っていたらしいんですけれども、私にはすぐピンときたんです。だけど責めたってしょうがないんだし、責めれば苦しいだけの話だからと思って、それで知らない顔をしていたんです。私がのんき坊主で、ぼんやりしていると金子は思っていたらしいんです。けれども、私は、なんとかしてもう、別れたいと心のなかでは思っていました。」
 ただ使ってしまったものをとやかく言ってみても返ってくるものでもなく、残金の一部を手付金にして、新しい場所に引っ越すことにした。d0238372_16243220.jpg幸いダンフェルロシュローの広場から近い十四区のダゲール通り二十二番地に、小じんまりとした部屋貸しのホテルを見つけて引っ越したのは、二日後の七月初めのことだった。
 「部屋の格式からして、オルレアンやクラマールや、ポート・クリニャンクール〔ママ〕のそれとは比較にならなかった。床はたゝきや瓦敷きではなくて、ニスを塗つてつるつるにみがいた、踊場のやうな木の床だつた。壁は裸かな漆喰ではなくて、にぎやかな花模様の壁紙で張りつめられ、ひろびろとした、流行型の、脚の低い二人寝臺の上おほひも、絨毯も、窓掛けも、落ちきのあるあたゝい橙黄(オレンヂ)の調子で統一され、夜になると、おなじ橙黄色の絹笠を透かしてスタンドの光が、唐草彫りのある衣装戸棚の扉いつぱいの、全身の映る姿見にもうつつて、まるで、この部屋だけに人生の幸福がかくれてゐるやうに思はれるのだった。」(『巴里オペラ座』)d0238372_16261651.jpg
 部屋には瀬戸の洗面台があって、水もお湯も出た。寝台の横にはセントラルヒーチングの暖房装置がついていて、肘掛け椅子も置かれ、廊下には絨毯が敷かれていて、夜遅く帰ってきても足音で隣人を起こすこともなかった。
 家賃は一カ月四百フランとこれまでの倍以上だったが、それだけの価値はあった。家主はペルシャ人の娘と母親で、同じ東洋人だからといって親切にしてくれた。ダゲール通りは両側に店屋が並び、地下鉄のダンフェルロシュロ駅はすぐ近くで、交通の便も申し分なかった。
 森三千代から「日記」を託された堀木正路は、その後について次のように聞かされたという。
 「三千代はこのあと、口惜しさをまぎらすために、独りでスイス旅行に出かけたそうだ。正確に何日後かはきかなかったが、多分二、三日後の早朝、パリから汽車にのりジュネーブ着。すぐにレマン湖見物の船にのり、湖中に浮かんでいるシロン城や、対岸のローザンヌに渡り、その夜はローザンヌに一泊。翌日ふたたびジュネーブに戻り、街路樹の美しい市内を散索〔ママ〕し、午後の汽車で夜おそくパリに帰った。「私はのんき坊主だから、その旅行で気持もさっぱりして、その後はもう、別れようとは想いませんでした」と、三千代は言った。」(「森三千代の日記 パリ篇」5)
 三千代の日記は、七月十四日の項の、
「共和国政府記念当日。
 ゆうべ外へ出ると、夕方もう街のカフェは道路いっぱいに椅子を出してダンスだ。
 道を歩いていると若い男女がとりまいて、アンブラッセ(キス)、アンブラッセ(キス)、という」という記述のあとは、七月二十八日まで空白になっている。おそらくこの間に、三千代の憂さ晴らしのスイス行が決行されたのであろう。
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by monsieurk | 2016-07-12 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第四部(11)

 いまパリには千軒を超える日本食の店があるという。一区のサン=タンヌ通りの両側には、和食、ウドン、ラーメン屋などが軒を連ね、昼どきともなると行列ができて、フランス人も多く混じっている。 第一次大戦後の一九一九年、パリで開かれた講和会議に、日本は西園寺公望全権以下総勢百名を超える代表団を送り、バンドーム広場に面したホテル・ブリストルを借り切って仕事に当たった。このなかには料理人もいて、近くのレストランの厨房を借りて、そこで代表団のために日本料理をつくったという。
 金子は自伝の『詩人』でパリ時代を振り返り、「無一物の日本人がパリでできるかぎりのことは、なんでもやってみた。(中略)計画だけで遂に実現にいたらなかったのは、日本式の一膳めし、丼屋、入選画家のアルバム等々だった。」と書いている。このなかの「日本式の一膳めし」の計画というのは、画家の辻元廣が持ちこんだ話が発端だった。
 辻はフランスへ来る前に、半年ほど京都で板前の修業を積んできたといい、ある日金子と三千代の許へ、本格的なちらし寿司をつくって持ってきてくれた。材料はヨーロッパにはない紅生姜、そぼろ、高野豆腐、干瓢などで、大抵はマドレーヌある日本食品の店にあるが、手に入らないものは、マルセィユかベルギーのアントワープの船舶賄いの業者に頼んで、日本船の厨夫長から調達したものだという。辻は、「牡丹屋など、あんな料理とも言えん料理で法外な金をとって、あれでは、日本料理もわややで。ふらんす人はもともと、日本料理のほんまの味知らせたら、すぐ病みつきになるにきまってる。牡丹屋のとかしけない料理食うたら、二度と食いたいとは言わんわ。うちのアメリカの婆さん。わしのつくってやる料理の味おぼえて、わしがいなくなったら、食えんようになる言うて、出てゆきはせんかとはらはらしていよる。」(『ねむれ巴里』)といった。
 彼は絵では食えないので、アメリカ人の老婦人の家に住み込んで、料理を作ったり雑用をしたりして生活していたのである。 辻の話にでてくる「牡丹屋」は十六区のヴィヌーズ通りにあって、旅館と会席料理の仕出しを営んでいた。諏訪旅館や東洋館や「ときわ」などに比べれば後発だった。三千代を交えて、辻のちらし寿司を堪能したあとで、金子の思いつきで、丼物をつくって日本人相手に売り出したら儲かるのではという話になった。
 辻が板前、金子が営業、三千代は接客係り。親子丼や玉子丼、天丼、鰻丼を次々に開発して、在留日本人に売り出す。金子は松尾邦之助の手伝いで在留邦人の名簿を持っており、彼らの多くは西洋の食事になじめずに、白飯を炊いて生卵をかけたり、牛肉を固形の調味料と砂糖で煮てすき焼の代わりにしたり、パンの食べ残しに白ブドー酒を入れてぬか漬けの漬物を作ったりしていた。
 金子と辻がこの話を知り合いの画家たちに話すと、なかには回数券をつくって二か月分なり三か月分を前払いするから、それを資金にぜひ実現してほしいという連中がでてきた。だが店を借り、器物をそろえ、材料の仕入れ先を確保するとなると先立つものは金で、結局この夢は実現せずにしぼんでしまった。ただ器用な辻は金子の分解寸前の靴を修理してくれた。これが唯一の成果だった。
  定期収入がなくなった金子は、新興宗教である大本教のパリ布教支部の西村光月という人物と知り合った。教祖の出口王仁三郎の一代記を絵本にして布教に役立てる案を出し、西村はその絵の幾つかを日本の本部に送ったようだが、色良いよい反応はなく、この金儲けの口もとん挫してしまった。
  三千代も仕事探しに精をだし、パリでは名の知れた伴野商会の女店員の口が決まりかけたが、最後には不採用になった。どうやら金子が大使館の武官から金を詐欺まがいに受け取ったことが噂になっていて、その悪名が影響したようであった。
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by monsieurk | 2016-07-09 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第四部(10)

 松尾邦之助から頼まれた会費集めにパリ中の会員を訪ねるほかに、二人で街をあちこちと歩きまわった。『巴里アポロ座』にはその様子が描かれている。
 「二人はよく出歩いた。あてもなく街を歩くといふことはくたびれることだつた。殊に巴里のやうに、軒づたいにしらず歩いてしまふやうなところでは猶更であつた。芝居の花道のやうな、舗道にこぼれたカフエのテラスの椅子は、疲れた散歩者の憩ひ場所でもあり、ゆきゝの人を眺める見晴しでもあつた。巴里はいたるところに、足を休めるに適宜なこの憩ひ場所があつた。」(『巴里アポロ座』)
  二人はモンパルナスやモンマルトルの盛り場を歩き、イタリア大通りに並ぶシネマで活動写真をよく観た。活動写真は映像から筋を追うことができた。芝居のセリフはまだよく聞き取れなかったが、ゲテ通りにあるテアトル・モンパルナスで、ソビエトの演出家F・メイエルホリドが演出するゴーゴリの『検察官』が上演されたときはわざわざ観に行った。
 散歩では宿から近いモンパルナス墓地や、リュクサンブール公園のボードレール像(写真)を見たり、d0238372_21481833.jpgペールラシェーズの墓地を訪れた。ここは一八七〇年のパリ・コミューンのとき、多くの市民がたてこもって最後の抵抗をこころみたところで、彼らが銃殺された壁には赤い花環がいつも捧げられていた。さらに郊外のサン・ドニの教会も訪れたが、歴代の王の墓が黒ずんでいて不気味だった。ヴェルサイユを見学した折は、三千代はルイ十四世の寵妃ポンパドゥール夫人の豪華な寝台にもぐり込み、パリの地下のカタコンブからは、十六世紀の人骨を一つ土産に盗んできたりした。 
 困ったのは、金子がペナンで買い、パリに来て下ろした靴が半年も経たずに底が擦り切れてしまったことである。底のゴムがめくれ、気をつけないと何かにひっかかって前のめりになってしまう。とくに地下鉄の階段を降りるときが危険だった。三千代も東南アジアの旅以来の冬服しかなく、着たきり雀で、暑くなりはじめたパリの日々をすごしていた。
 金子はモンスリ公園の近くで靴の修理屋を見つけ、靴を脱いで修理を頼んだ。靴下のまま入口の柱にもたれていると、つばのある帽子をかぶり、首から前掛けをした中年の親爺がゴム底に手をかけると、いきなり剥がして、そばのごみ入れにぽいと投げ入れてしまった。親爺は、両手をひらく仕草をすると、「これは、もう穿けない。修繕のしようがない」といった。
 怒り心頭に発した金子は、一瞬おやじに殴りかかろうとしたが思いとどまった。屈強な相手は勝てそうもなかったし、騒ぎになって警察沙汰になれば、パリ在住の手続きをしていないことが分かってしまい、パリ追放という結果がとっさに思い浮かんだからである。結局、相手の理不尽なやり方を色々あげて抗議したが、拙い語学力では半分も通じず、修理屋はぽかんと金子の顔を見やるばかりだった。
 金子は無事だったもう片方と、底が剥がされた靴をごみ箱から拾い出して、パリ市庁舎近くの百貨店へ行って革と麻糸と針を買い、リュクサンブール公園のベンチに坐って靴を修理した。しかし素人が底を縫いつけた靴はいつ分解するかも知れず、外出のときは麻糸で靴を足の甲に縛りつけ、なるべく人に見られないように満員電車を選んで乗った。これから待ち受ける悲劇が足の方からやってきたようで、不吉な将来を思わずにはいられなかった。
 金子は池本喜三夫からの定期収入がなくなり、会費徴収も思うにまかせず、パンも食べずに、壁にくっついた破れたベッドで小さくなっていることが多くなった。三千代は反対に、パリ生活を楽しむのに貪欲だった。そしてモンパルナスの「白鳥」というダンス場で、藤田の甥からモデルとして有名だったアイシャを紹介された。
 アイーシャ・ゴブレット(写真)d0238372_17332384.jpgは、フランス領マルチニック生まれの父とフランス人の母の間に生まれた。父はサーカスの曲芸師で、彼女も六歳のときから場内を走る馬の乗り手をつとめた。その後は舞台に立ち、褐色の肌と大きな目が観客を惹きつけた。その点でジョゼフィン・ベーカーを先取りした存在だった。やがてモンパルナスに住んだ彼女は、この界隈に巣食う若い画家たち、パスキン、キスリング、モジリアニ、フジタらのモデルとなり、多くの肖像画に描かれた存在だった。
 ただ三千代が出会ったころは、画家たちが有名になる一方で、アイーシャはかつての思い出に生きる中年女になっていた。「彼女の若さはもう、パスキンやキスリングやモジイリアニ〔ママ〕が、カンバスの上にのこりなく移してしまつた。その残骸を抱いたアイーシャの心に、美術の秋の季節の、一年一年は、どんな淋しさを増してゆくことだらう。」(「アイーシャ」、『をんな旅』所収)それでも街の灯がともると盛り場に繰り出すは昔のままで、三千代は気に入れられ、家にも呼ばれる仲となった。
 アイーシャは三千代に、「巴里といふところは、完全無缼なべつぴんさんにはあきあきしてゐるんです。目だけでもいゝんです。誰も眞似手のないやうな色つぽい秋波が送れたらね。お尻のふりかただつていゝんです。個性的だつたら。さういふものを世間が血眼になつて、朝から晩までさがしまはつているところです。巴里ところは。」(『巴里アポロ座』)といいきかせた。
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by monsieurk | 2016-07-06 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第四部(9)

 藤田のところには、シュルレアリストの詩人ロベール・デスノスが厄介になっていた。詩では食えないので銀行に勤め、藤田の愛人のユキと懇ろな関係のようだった。藤田はそんなことにお構いなく、せっせと絵を描いていた。
 三千代は東南アジア以来書き溜めてきた詩をフランス語にして,、パリで出版する計画を温めていた。「一つのからだで前うしろに頭のある神様のやうに、詩は彼女にとつて、二様の性質を持つたものだつた。一つの顔は清浄で彼女の心を高め、誠實の守護神ともなるものだつたが、もう一つの顔は巴里の表面に浮かび上らうとする野心と虚栄の修羅妄執の形相だつたのだ。」(『巴里アポロ座』)d0238372_1664062.jpg 
 三千代はこんな思いを抱きつつ藤田に相談すると、彼は普通の詩集を出しても詩人は何万人もいるパリでは注目されない。むしろ「ガリ版で刷って、日本の着物でも着て、クーポールやドームの喫茶店に夜人の出盛るころに行って」(同)売り歩くように勧め、フランス語はデスノスに添削してもらうことになった。藤田のところには、シュルレアリストの詩人ロベール・デスノス(写真)が厄介になっていて、詩では食えないので銀行に勤め、藤田の愛人のユキと懇ろな関係のようだった。
 絨毯に寝転んだデスノスは、手にした草稿と三千代の顔を見くべながら、鉛筆で豆粒のような小さな字で手を入れた。彼女が不出来なフランス語を恥じると、デスノスは、「フランス語なんかになっていない方が結構。その點、どうぞ御斟酌なく」といい、しばらく預かるといった。三千代は帰り道、心の重荷を一つ取り除けた気持になった。出版が実現するかどうかは、もうどうでもいい気分だった。
 五月三十一日の日曜日、クラマールのコミエが永瀬から住所を聞いて、モンスリの部屋を訪ねてきた。初夏のような日射しの強い日だった。日本語が通じないは彼は、机の上にあった仏和辞典を開き、aimer(愛する)、impossible(できません)、cruel(つれない)などの単語を指さしながら三千代を口説いた。
 最後は金子を交えて三人でモンスリ公園へ散歩に出たが、金子は途中から姿を消してしまった。内心ではハラハラしながら、男があらわれると干渉しない態度をとるのは金子のいつもの態度だった。
 三千代は思いのほか早く戻ってきた。コミエにしつこく迫られたが、なんとか振り払い、それでも次の日曜日にもう一度会うことを約束させられたと告げた。『巴里アポロ座』にはこのときの様子が描かれている。
 「節子(三千代)が宿へかへると、友田(金子)が待ちかかまへてゐて、シャルパンチエ(コミエ)とのランデー・ブの模様を聞きたがった。節子は、はだかをみせつけるやうな氣持で、出来るだけこまかくその情景を語つた。それを聞いてゐる友田は、迫つてくる夕闇の中で、おちつきを失つた。ぎろぎろした眼をかがやかせながら、腕組をして窓際に立つてゐた。友田のなかにかき立てられてゐるものがなんだか知つてゐる節子は、それによつて自分もかき立てられてゐるのをおぼえた。」(『巴里アポロ座』)
 これは小説であって虚実のほどは定かではない。ただここには二人の関係、とくに三千代から見た当時の二人の間の機微がよく示されている。
 一週間後、コミエとのランデヴが鬱陶しい三千代は、金子と相談の上で、出がけにドアに、“ Je prie, dérangez pas.(お願い、そっとしておいて下さい)”」と張り紙をして、夜まで映画を見て歩いた。金子は新たに負債を背負い込んだような惨め気持になった。アパートに帰ると、扉にピンで止めるおいた紙が、赤いバラとともに部屋に差しこまれてあり、紙の裏にはペンで次のように書かれていた。
 「親愛なる奥様。
 あなたは、子供が人形をこはすやうに、一つの真摯な、堅固な愛情をこはしてしまはれました。私は、あなたに對して、責めることも、憤ることもできない。あなたが私を愛して下さらないなら、私には何の資格もないのですから。しかし、あなたは、私をなぶりものになさる権利はなかつたのです。ふたゝびはこゝへはまいりますまい。左様なら。」(『アポロ座』)
 この日、三千代は日記にこう書いた。
 「姦通罪というものがあるであろうか、知らない。
 姦通なんて不必要な言葉だ。字引から抹殺しちゃえ。
 Polonais〔ポーランド人〕――
 Regardez pas ça moi〔そんなに見つめないで〕
 困ったな。
 アンブラッセ〔抱擁〕、ベゼ〔接吻〕、それから、
 つまんないじゃないか。ダンスでもやろう。」
 さらに、このころの日付のない日記――
 「十年まえ、ある男はいった。
  どうしても学校へ入りたいの?
  どうしても東京へ行きたいの?
  十年後、又ある男はいった。
  三千代さん、フランスへ行くのを止めて下さい。
  
  どっちもあたし、聞かなかったけど。
  
  今から十年後、私が地獄へゆく時に
  誰が引きとめてくれるだろう。
  誰にも抱かれずに、霜の上に・・・・
  
  坊や、おまえだけは、それを聞いた時、
  想い出してくれるだろうか。(お前の三千代母ちゃんを!)」(「森三千代の日記 パリ篇 3」)
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by monsieurk | 2016-07-03 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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