ムッシュKの日々の便り

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男と女――第五部(11)

 ルパージュがイギリスから買ってきて、車のなかに置いておいた二十五個の根付が盗まれる事件があった。その後ティルルモンという街に、東洋の小さな彫刻があるというので、確認しに出かけた。しかしそれはアフリカの細工物と分かり、がっかりして帰ってきた。
 このころから金子と三千代のどちらが先に帰国するかを真剣に話し合うようになった。二人は相手を慮ってなかなか結論が出ず、ルパージュにも相談した。彼は金子を「lunatique(月の世界の人、気まぐれな人)」と呼んで、生活能力に疑問を抱いていたから、先ずは金子が先に帰国して、日本から三千代の帰国費用を送るように勧めた。そして金子の旅費は用立てようと言ってくれた。三千代に異存はなかった。
 十二月はじめ、ルパージュの車で西を目指す旅行をした。身体の芯まで冷え込むような朝、植物園横の交差点で車を待って乗り込み、毛布を膝にかけて、アスク、アロスト、ヘークルゲムを通ってガンに着いた頃には、雪まじりの雨が降り出した。
 次のブルージュを通過して、北海の避暑地ブランケンベルグに出て、さらにニューポールまで海岸沿いの街を通り、オステンドに到着した。夏ならばどの街も避暑客で賑わのだが、冬の海岸は荒涼とした砂山が広がり、肌をさす烈風が吹き抜けるばかりであった。三千代は、「いいわ、ドービルより、トロワビルより、カンヌよりずっといい」と言いながら、爽やかな顔をして車から外を眺めていた。
旅行から帰ると、ルパージュは金子のための三等の船賃を旅行会社のオフィスに払い込んでくれた。彼は日本までの船賃を払うつもりでいたが、東南アジアに心が残る金子がシンガポールまでにしてもらった。
 金子と三千代はスラバヤの松原晩香に、間もなく帰国することを知らせ、同時に原稿を送った。それが月刊「爪哇」の一九三二年新年号に載った、金子の「白耳義(ベルギ-)より」と、三千代の「遙かに偲びて」である。d0238372_16421442.jpg
 一月早々、ルパージュがお別れを会を開いてくれた。肝臓を悪くして普段はあまり肉を口にしないルパージュも、この晩はよく食べ、よく飲んだ。金子は東洋にある画龍点睛の諺を持ち出して、あなたが私に眼を入れてくれたお陰で、むだなヨーロッパの生活を捨てて、元気のあるうちに仕事をし直すことができると礼を述べた。
 食事の席で、三千代がフランス語で書き、ロベール・デスノスが訂正の筆を入れた 「PAR LES CHEMINS DU MONDE(世界の道から)」の話が出て、ルパージュが出版を引き受けてくれることになった。これは三千代が帰国したあとの一九三二年に、次女のフランシーヌの木版の挿画をつけ、詩集としてブリュッセルのレオンリプライト社から三二〇部出版されることになる。
 最後に、ルパージュが息子乾へのお土産にと、「鵞鳥双六」(ジュ・ドワ)のついた将棋盤と、ノア船に乗った動物たちの玩具をくれた。そしてこう言った。
 「――今度は何時来ます?
 ――サア。多分〔一九〕三十五年には来られるでしょう。
 ――で、マドモアゼル・ミチヨは? 一緒に来ますか?
 ――いいえ。恐らくあと二十年ですわ。だって子供が学校を卒業したときつれてくるつもりです。そしたらここへすぐお訪ねします。
 ムッシュウはしばらく考えていた。感慨にふけっていたのだろう。
 ――その時はここへ来られなくてもいい。先ず、墓地の方へやってきて下さいよ。」
(「ブリュッセル市」、『フランドル遊記』所収)
 金子と三千代は頭を垂れるばかりだった。
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by monsieurk | 2016-08-29 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第五部(10)

 パリから帰った三千代が金子とは別に住んだことは確かだが、以前のリッツ広場の宿に戻ったかどうかは不明である。宿は別々でも、二人は連れだってよく市内や郊外を散策した。よく行くコースの一つは、市の東側にあるローマの城砦風の聖セルベ教会からジョザファ公園までで、公園には以前に翻訳したエミール・ヴェルアーランの胸像があった。また公園の近くには光栄の浴場があり、一風呂浴びたあと石鹸箱をもってカフェで休息した。
 九月の末には、テルヴューレンの森に二人で出かけた。三千代がはじめてアントワープから出て来た日に、ルパージュの車でめぐって以来で、森には落葉が散り敷いていた。突然雷雨が来て、村のカフェに逃げ込んだ。その後、古びた寺院の囲いのなかの墓地をぬけると、雨に濡れて眼病のようになった、白く塗られたキリスト像があった。
 「――愛情の見本(サンプル)だよ。これが・・・
 ――白っ子だわネ。・・・・ミチヨは、誰にでも愛されますよう。愛されずともいつ迄も美しくありますように。」(「ブリュッセル市」、『フランドル遊記』所収)
 これが彼女を自力で守ってやれない金子の本心だった。
 二人は十一月のはじめ、ブリュッセルの北側のサンジョス区デル・ボカーヴェン(Ver Bochkaven)通りの洗濯屋の四階に部屋を借りて一緒に住みはじめた。その後まもなくして、ブラバン地方のビーセル城を訪れた。以前に来たときはルパージュの車だったが、今度は電車を乗り継ぎ、終点からバスに乗ってビーセルの街に着いた。教会前のカフェで、ベルギー名物の生玉葱と鰊をはさんだパンを食べ、コーヒを飲んで腹ごしらえをして、城に向かった。だが城に入る道はどこも鎖でふさがれて近づくことができなかった。外堀を泳ぐ白鳥の姿がみえた。それを見ながら話をした。
 「――美くしい。しずかネ。
 ――美くしい。しずかだ。醜いものは一つもない。何故だろう。戦は醜いものを皆、亡ぼすためのものだからだ。・・・時によれば、敵も、味方も、それが醜いものはみんななくなって、夫(それ)自身の存在も亡びてしまうことだってあるのである。・・・そして、こうして、城だけが残っている。・・・然し、亡ぼさなければならない。敵! 敵! 敵! !!
醜いもの。――国、家、社会、道徳、宗教、・・・すべての肉体をきたなくするもの、ありかすをのこすもの、打倒軍閥、打倒、帝国主義侵略主義的国家、・・・資本主義産業主義的組織――おお、併せて、集産的共産主義打倒である。
 ――わかってる。あなたはそして、Xを仮想敵国にしている。
 私は、黙って、ビールセル〔ママ〕城をみながら熟考していた。それはそうかもしれない。私のからだから跳返してくる反逆は、Xに対する嫉妬兆戦かもしれない。いや、夫(それ)はしれないどころか、明らかな事実だ。
 ――駄目!! あんたは、戦闘力がない。砲弾が欠乏している。
 ――・・・・・・。
 ――駄目。あんたは若駒(プーレン)の外套も買えない。ダンテルのローブ〔レースの服〕も買ってくれる力がない。
 ――君は、それでXへかえってゆくのか。
 ――おお、妾(わたし)の若い日はどうなる。
 私は彼女の、靴下と猿股のあいだからくびれ出た、貝釦(かいボタン)のように眩耀(クラクラ)する肉に、接吻した。(中略)
 ――戦争だ!戦争だ!
 ――勝たなくっちゃ・・・。
 ――そうだ。勝たなくっちゃいけない。
 ――大丈夫?
 ――砲弾は一つもない。
 ――では妾(わたし)Xの所へかえるわ。
 ――行き給え。陣門で取りかえしてやる。
 冬の寒風の林のなかで、ミチヨの唇が、鮮魚のように、おどっていた。」(「ビールセル城」、『フランドル遊記』所収)
  Xが土方定一を指すのはいうまでもない。三千代は海外放浪のあいだ、土方のことを忘れたことはなかったが、シンガポール以来手紙を送ったことはなく、彼が前年一九三〇年からドイツに留学しているのを知らなかった。そして彼女はさまざまな男と交際するうちに、自分の魅力を活かして生活する術をおぼえるまでにたくましくなっていた。
 息子の森乾は母森三千代について、「この時、物質面の貧困と闘っていただけではなかった。金子光晴という男をはじめとする、さまざまな男たち、あるいは男という存在一般と対峙し、たえざる精神的緊張にたえ、転覆の危機を乗りこえるための闘争を続けていたのであった。そして〈男になろうと努力〉するようになった時に、彼女は数々の男たちとの対峙から自由になり、男とか女とかの性をこえた〈人間〉となり、人間としての自我の確立に成功した」(「森三千代の文学と東南アジア」)と述べている。
 金子は、三千代が「じぶんからふくら脛の鶏のささ身のような上肉を惜し気もなく人にふるまってきた」(『ねむれ巴里』)のであり、それで人間的に成長し、女として輝く存在になっていくのを認めざるをえなかった。そしてこれは彼女が自分から次第に遠ざかっていくことを意味した


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by monsieurk | 2016-08-26 23:16 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第五部(9)

 この引用に続いて、金子はアントワープ中華街について書いている。河岸や裏通りには中華料理の店がかたまっている一角があったが、パリやロンドンとは違った純粋の中国の味だったから、西洋人は近づかなかった。行ってみると狭い窓には小鳥の籠や、女の古い衣裳などが吊るされていて、麻雀をかき混ぜる音が聞こえた。
 「欧州大戦〔第一次大戦〕以来。支那人〔ママ〕と、日本人の地盤がアントワープに築かれ、脱走船員や、ばくちうちが巣食っている。・・・油傘の支那女が濡れたケイ〔河岸〕の石ばたを、かながしらをぶらさげて、下駄を曳ずって歩いている。
 日本は、世界に宿分として移民してゆくが、支那はそのいたるところを「支那」に変えてゆく。(中略)
 支那は、それでいて、経済を最後に占領するだろう。日本人は、ここのアントワープにいる人に於いても、一般の殖民地人種と同じように――日露戦争時代の軍国的侵略思想によって、ノスタルジアが加わって、日本独尊の僻見にわずらわされている。彼らは、二十年居て、猶、味噌汁と、茶漬をすてない。――彼らは、淫売以外に、西洋人のあいだへ入ってゆかないで、日本人同志で、流しものになったように淋しく生活している。
 ――戦わなくばいけない。支那をこらし、アメリカをこらす時だ!
 (そして、我々も助かるのだ!)
 日本は、アントワープ港から夥しい鉄材を積込んだ。支那人は、ブリュッセルの大学生が二百人、日本の大使館の前で中華民国万歳を三唱し、アントワープの支那料理「中華楼酒楼」は日本人のとくいを拒絶した。
 日本の旧式な、露骨な侵略主義は、ヨーロッパのどこでも、好意をもたれてはいない。」(「安土府」、『フランドル遊記』所収)
 政治にあえて関心を持とうとしなかった金子だったが、中国人の反日感情は東南アジアを旅行中も肌身で感じていた。前年十一月、三千代がアントワープにきたとき、日本では浜口雄幸首相が東京駅で狙撃され重傷を負った。そして金子がアントワープに来たこの三月、日本では桜会の一部将校や思想家の大川周明たちが軍事クーデタで、宇垣内閣の樹立をはかって未遂におわる事件があった。
 金子は一週間ほどいてブリュッセルに戻った。離婚手続きをしたあとも、三千代はブリュッセルにやってきて、二人で週末にルパージュ邸へ招かれるのは変わりはなかった。
 宮田には金子が従兄でないのはすぐ分かった。例の銃撃騒動以来三千代に惹かれていた彼を悩ましたが、女が自分の元を逃げ出したという噂が広がるのを抑えるために、手がけている商売用のチンチラ兎の資料収集に、彼女をブリュッセル駐在ということにした。都商会は事業を拡大して、船舶賄のチャンドラー部、鉄を中心とした輸出の貿易部、それに積荷の集荷と輸送担当のチャータリング部の三本柱が確立しつつあるのは事実だった。
 こうして三千代は宮田の好意で給料をもらいつつ、ブリュッセルで生活することになった。金子は相変わらず青物屋の二階にいたが、宮田の手前ここで同居することはできず、金子が探したプラス・リッツのカフェ兼手ホテルの一室に住むことにした。金子は雑誌へ送る原稿をときどき書くなど精神的にも物質的に多少の余裕が生まれていた。
 三千代は、パリ東部のヴァンセンヌで開かれるパリ国際殖民地博覧会で働くことが決まった。博覧会は主にフランスの植民地インドシナやアフリカの人びと、アンコールワットの遺跡、そして物産を展示・紹介するものだった。首相ジャン・ショレスの提唱で開かれ、明らかに西洋が植民地を文明化したかを示す意図があった。会期は五月から十一月までで、主催者の一人が宮田の知人であり、そのコネが大きかった。
 三千代は八月早々、パリに出かけていき、かつて住んだダゲール通りの南にあるポニエー通り(現ランクール通り)三十二番地のペンションを借りて、そこから博覧会会場へ通った。
 三千代がパリに発った二日後、金子はルパージュとともにアントワープへ行った。この旅行の目的がなんであったかは不明だが、その後間もなくして金子もパリへ向かった。汽車は途中シャンティの森を通ったが、真夏の光を浴びた森の美しさが目についた。展覧会で得た金がまだ懐にあり、心の余裕がその印象を一層強きしたのかもしれなかった。
 パリでは三千代のペンションに泊まり、隣室のロシア人の学生がバラライカを弾くのが聞こえた。夜はモンパルナスのクーポールやドームへ足を運び、三千代の友だちのアイーシャにも会った。またかつての生活が戻ったようでもあった。
 上海で別れた画家の宇留河泰呂に路上で偶然出会い、出島から戸田海笛が病死したことなどを聞いた。しばらくするとルパージュが博覧会見物に出かけてきて、一緒に三千代のいるスタンドを訪ねた。三週間ほどで金子はブリュッセルに帰り、王立サント・マリー教会の丸屋根が見えるラ・ポスト(郵便局)通り一八三番地のホテルに部屋を探した。
 三千代は八月一杯で博覧会の仕事をやめてブリュッセルに戻ってくると、二人はヴェル・ボシュカーヴェン(Ver Bochkaven)という、画家の名前のついた通りの二十三番地の洗濯屋の二階に部屋を借りてまた同棲生活をはじめた。
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by monsieurk | 2016-08-23 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第五部(8)

 三千代は二週間ほどするとまた訪ねてきて、今度は金子がついてアントワープへ出かけた。三千代は彼を従兄弟と紹介していて、宮田の事務所を訪ねて、これまで世話になった礼を述べた。彼は金子のために事務所の近くのホテルに部屋をとってくれた。
 アントワープ滞在中、金子がまず訪れたのは十六世紀に建てられたルネサンス様式の市庁舎で、前の広場には伝説のブラボーの像が建っていた。三千代が案内した日本人を煙にまいたというノートルダム大聖堂は、一三五二年から百七十年をかけて建造されたベルギー第一の大きさを誇るゴシック様式の教会で、内陣ではルーベンスの最高傑作といわれる祭壇画《キリスト昇架》、《キリスト降架》、《聖母被昇天》の三副対を観ることができた。
 アントワープは、フランツ・ハルス、ルーベンス、ファン・ダイクなどフランドル派の画家を産んだ芸術の街であり、王立美術館で彼らの作品をじっくり味わった。
 街の中心にはヨーロッパ最古の印刷所の一つ「プランタン・モレトゥス博物館」があり、印刷に関する当時の文献が陳列されていた。書籍の販売所も当時のままで、廻廊をめぐる小部屋には古い木製の活字や、印刷された最古の聖書も並べられていた。
 これらが伝統のアントワープとすれば、いまの街の象徴は波止場の後継であり、停泊する貨客船だった。船は、イギリスの木綿、南米の麦粉、北米の材木など世界各地から荷を運んできたし、ここからは鉄材、機械類が運び出された。そのため沖中士たちが昼夜を問わず船をかこんで働いていた。そして女たちは河沿いのバーで水夫たちを待ち受けていた。金子がアントワープで描いた水彩画が残っているが、その一枚には大きなスクリーンにブルーフィルムを映写し、その前で三組の男女が床に寝そべり、あるいは椅子に座って抱き合っている姿が影絵のように描かれている。三千代はこうした雰囲気のなかで暮らしてきたのだった。
 海岸通りを離れた街の中心の目抜き通りには、百貨店やカジノ、ダンスホールがあった。そして中央駅の裏手にはヨーロッパでも有数の動物園があった。「安土府」には、三千代の日記が引用されている。二人はそれぞれ日記をつけていたのであろう。
 「動物はみんなしばられたり、オリに入れられたりしていました。だが、彼らは、まだ幸福でした。なぜって、人間はオリへ入れられたうえ、たべものもないのに、動物はまずその方は安心です。動物は、出勤しているせいでしょう。
 (中略)――孔雀ほどつまらない鳥はいない。まさに、輸出向の九谷焼茶道具(ティーセット)です。みると、わたしはこわくなる。皇室の戸籍をよくしっている奥さんのように嫌わしいのです。(中略)
 斑馬。罪人のように、シマのシャツを着ています。しかし罪人ではない。かあいそうに、牢格子の棒が染りついたのでしょうか。いいえ、格子にむこうであいびきをするとき、姿をみせたり、かくしたりするのに便宜なのです。
 狐、スカンク、蛇、かわうそ、鰐・・・・毛皮用、カバン用、その他で人類に有用な動物です。
 資本家――二銭で一円のおつり、――それは人類に有害な動物です。」(「安土府」、『フランドル遊記』所収)
 金子が三千代に魅せられてきたのは、この日記に見られるような筋の通った物の見方、そのセンスだった。金子が自分の覚書に、三千代の日記の一節を引用したのもそのためだった。
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by monsieurk | 2016-08-20 22:30 | 芸術 | Trackback(1) | Comments(0)

男と女――第五部(7)

 パリにいるとばかり思っていた金子の手紙は、ブリュッセルからのものだった。
 「ここ二ケ月は八百屋の二階の貸部屋にいる。水とパンでも一ケ月位はしのげる。タッセル〔ルパージュ〕氏が時々、晩餐に招いてくれるので、その時だけは、食事らしい食事ができる。こちらはそんな有様だが、そっちはどうか。アントワープからブリュッセルまでは汽車で二時間で来られる。できるだけ早く会いたい。こっちから出かけてもいいが、そちらの都合が、つけば、こっちへ来ないか。タッセル氏にも紹介したい。君からもよく礼を言ってもらいたい。きょうまでは居所が転々としていてアドレスの知らせようもなかった。ともかく君の返事を待つ。来る時間がわかれば駅まで迎えにゆく。」(『去年の雪』)
手紙にはこうした内容が書かれていた。三千代はさっそく宮田に一週間の休暇をもらい、展覧会の開催中にブリュッセルへ向かった。中央駅には金子がルパージュと待っていて、彼女を紹介した。握手をしたルパージュの手は大きくて温かかった。パリで別れて以来の金子は見覚えのありすぎる青い背広を着ていて、すっかり憔悴していた。d0238372_7301042.jpg
 この日は三人で昼食をしたあと、ルパージュの車で南へ十キロあまり離れたテルヴューレン公園の森を抜けて、十四世紀の初めに建てられた三つの塔をもつベールセルの古城を見学した。街まで送ったもらった二人は、オ・ボン・マルシェというデパートの食堂で、「アンリ四世」という名の料理をたべて宿に戻った。
 部屋の暖房兼調理用のストーブには、牛骨とセロリと野菜をとろとろに煮込んだ大鍋がのっていた。金子は具をつぎ足して、毎日これを食べ、寒い夜はオランダ製のウォツカを壜から一口飲んで眠りについたといった。ベッドは狸の寝床のような臭いがした。
 三千代は、ベッドのうえにガーターベルトとぶら下がったままの靴下を投げ、たった一枚のシュミーズを脱ぎ、乳房をおどり出しながら、彼女の癖でアントワープでの出来事をなにもかも性急に細大もらさず報告した。
 「――だって、その男って馬鹿馬鹿しいんだもの・・・どこの男だって? しらないサ。いったいアンベルスって、インテリなんて一人だって居やしない。気のきいたことなんてわかるやつない。その点淋しいよ。それは西陣の織物染物に研究に派遣されたんだった。その男、二、三人は月に、ヨーロッパをまわってビューロー〔事務所〕へやってくる。そいつたちを案内してやるのが仕事サ。文部省だとか、プロフェッサーだとかいうサンサシオン〔感覚〕のないのもくる。奴らは、あんなことでいいんかしら。(中略)
 ――で、そいつ、始めケイ〔河岸〕をみせてやった。――そいつの心持はスッカリわかってる。遠い国ねきて自分の国の女と歩くもんだから、スッカリもう詠嘆的になったやがる。カジノへでもつれていって、かえりにダンスへでもゆけば、あがっちゃうにきまってる。だって、誰が糞! もう愚劣な奴は沢山だ。あたしドンドン、ノートルダムのなかへ入っていった。それから、うしろむきの椅子にもたれて、お祈りをはじめてやった。――奴さん。ビックリしている。それからマゴマゴはじめたが、しまいに妾(わたし)と同じ真似をして頭をもたれにのせた。あたしはもう決してうごかないで、困らしてやろうと思った。
 ――それで結局どうした?
 ――結局? 日がくれる迄いて、うちへかえってきた。だって、可笑しくってたまらなくなるんだもの。」(「安土府(アントワープ)、『フランドル遊記』所収)
 三千代はブリュッセルに一週間滞在し、その間に二人は電車に乗ってディーゲムへ行き、ルパージュ家の人たちに歓迎された。そしてブリュッセル市内や近郊を散策したが、その間にこれからどうするかを話し合った。
 展覧会を開いてかなりの大金(大部分はルパージュからし出ているものだった)を手にした。二人が一緒に日本へ帰る旅費には足りず、金子のなかでは三千代との間に一度かたをつける方がいいとの思いが募った。独身の方が三千代の就職に都合がよいのが第一の理由だった。これには三千代も異論はなく、むしろ彼女の決心の方が固いようであった。
 彼女がアントワープへ帰る日、二人はブリュッセルの南十八キロにある、ナポレオンの敗北で名高いワアーテルローへ汽車で出かけ、ピラミッド形の記念塔に上った。雨が降っていて展望はきかなかった。そこでこんな会話があった。
 「――では、今日はアントワープへかえるんだネ。
 ――かえる。でも、かえる前にすっかり話をきめてかえらなくっては、承諾したのネ。
 ――じゃ、ふたりは別れるんだな。
 ――わからないのネ。別れるんなら苦労はしない。別れないの。ただお互いに自由になるだけなの。」
 こうして三千代はアントワープへ戻り、三月九日、アントワープの帝国領事館に離婚届を出した。金子の戸籍には、「妻三千代ト協議離婚届出昭和六年参月九日在アンベルス帝国領事蓑田不二夫受付同年四月七日送付」とある。ブリュッセルでの話し合いの結果だったが、金子には強い未練が残った。彼らが戸籍上ふたたび夫婦となるのは二十二年後の昭和二十八年(一九四八年)十二月二十二日のことである。
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by monsieurk | 2016-08-17 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第五部(6)

 翌日、ディーゲムを見てまわった。かつて住んでいたカフェは雑貨と牛乳を売る店になっていたが、古い教会の塔も濁った川も変わりはなかった。木靴(サボ)を売る店もテラコッタのパイプを売る店もそのままだった。
この日から週に二度ほどはディーゲムを訪れるようになり、毎週土曜日には晩餐に呼ばれた。ルパージュの屋敷はさながら美術館だった。廊下から屋根裏まで美術品がつまっていた。玄関には現代絵画が飾られ、サロンはなかでも大切な根付と鍔のコレクション、シャム(タイ)の蒔絵が置かれ、ユトリロやカリエールの絵がかかっていた。
食堂には古い中国のサラ、オランダやベルギーのガラス類、昔アンコールワットから持ち帰った石仏の首、そして中世やゴチィックの聖母像があった。庭よりの噴水が見える部屋には、ルパージュがとくに愛好する歌麿をはじめとした浮世絵。二階には、十九世紀ベルギーの画家フェリシアン・ロップスやヴェルボカーベンの絵。ベルギー独立戦争を描いた版画。その一枚の市街戦でピストルを撃つ小さな姿の人物はルパージュの曽祖父だった。二階にある書斎や夫人の部屋も蒐集した美術品があふれていた。ルパージュは日本に関するフランス語と英語の書物を集めて知識を深めていた。
 日本趣味(ジャポニスム)の持ち主に共通するように、以前のルパージュは古い日本を讃美していたが、いまは明治維新以降の近代化を認めるようになっていた。金子との会話も終始日本の西洋化、西洋と日本との比較をめぐるものだった。
 食事に最中も、いま食べているものは日本にもあるか。どう違うか。その他、風景について、女性について、生活様式について質問攻めにした。ルパージュにとって金子は詩人であり、絵をよくし、江戸文化にも通じているインテリだった。同時に金子にとってもルパージュは、長い歴史の上に成立している今日の西洋の文明を知るための恰好の教師だった。彼を通して金子が得た結論は、紙と野菜の日本人に対して、西洋人はどこまでも、獣皮と、石と、鉄で武装された人類であることだった。会話をしてどうしても分かり得ないのは、独学の言葉が不十分なのもさることながら、考え方の根本的な相違があるからにちがいなかった。
 ルパージュ邸での食事は豪華だったが、ロクト通りのホテルでは、下の八百屋から鍋を借りて来て、ストーブで煮物をつくって自炊し、暖をとるストーブの石炭は、バケツをさげて毎日買いに出かけた。こうした生活費はルパージュが貸してくれた。
ルパージュは自ら車を運転して金子を旅に連れ出してくれた。あるひは夜明け前にブリュッセルを出発して、シュヘルド川の上流の街々を訪ねた。フランドルの平野は低い丘陵が多く、風車の羽根がゆっくりまわっていた。ルネという街で昼食をとりつつ、話しはベルギーと日本と風景の比較になった。金子は問われるままに、「ヨーロッパの今までみた自然は、水といえば瀦水池だし、森と云えばブールバールの延長だし、どんなに複雑であってもみんな方程式にはまっています。・・・そこへゆくと日本の自然はむしろ乱雑です。日本人の採る形は、そこから一部分をはなして自分のものにする丈です。従って多分に感傷的で、単純に、情緒的です。・・・日本人はそれだから、不二山を要約して、公約数にして、画くことができるのです。」(「エスコー〔ママ〕をさかのぼる」、『フランドル遊記』所収)これにたいしてルパージュは、「風景論は大変面白い。日本の自然は大体想像がつくようです。」といった。
 パリでは執筆する意欲は完全に失せていたが、こうした刺激もあって、ブリュッセルではまた筆をとる気になった。金子は「スマトラ島」という紀行文を書いて日本に送り、「改造」の四月号に掲載された。この年は他にも九篇のエッセーを書くことになる。
 そして有り余る時間を使って画廊をめぐり、ヒエロニムス・ボス、ピーテル・ブリューゲル、フランス・スナイデルス、ジョルダンスなどを見てまわった。こうした刺激とルパージュの勧めがあったのだろう、金子はふたたび絵筆を執り、ブリュッセルや日本、そして旅の途次目にした中国、東南アジアの風景や人物像を水彩で描きはじめた。d0238372_15164494.jpg 
 こうして溜まった絵を中心にして、ベルギーの四人の画家たちとのグループ展が、二月二十八日から三月二日まで、マルシェ・オ・プーレ通りのライゼン宝石店の二階の画廊「ノ・パントル」で開かれた。この裏にはルパージュの尽力があった。金子はこの展覧会について、『ねむれ巴里』のなかでこう述べている。
 「僕はブリュッセルにこもって、水彩画を画き、二ケ月程して数が揃うと、テニエルスのながれをひいたフランドルの画家と、スコットランドのメルヘン風な風景画家と三人〔実際は四人〕で展覧会をひらいた。ルパさんの肝煎りで、三四十枚ほどの小さな画だが、ほとんど売るというよりも、押しつけて買わせる労をとってくれた。」(『ねむれ巴里』)
 金子の息子の森乾が、勤務先の早稲田大学の在外研究員として一九九九年に、パリに滞在した折、当時九十四歳のルパージュの未亡人を訪ねて、この展覧会のカタログと新聞評の切り抜き、大切な思い出として保存されてきた金子の水彩画、それに金子と三千代がルパージュに宛てた手紙をみせられた。
 カタログによれば、グループ展に出品したのは金子の他は、ジャック・ローディ、フェルナン・レイ、アメデ・リナンで、金子は三十枚の水彩画と四点のデッサンを出品していた。水彩画は三点の肖像、二点のアントワープ風景、十点の日本風景、さらには中国、インドネシア、ジャワ島などである。そしてルパージュ家に残された絵とカタログの題名が一致するものが多かったという。出展作のいくつかは宝飾業者や靴下製造業者が買ってくれたが、売れ残ったものはルパージュ自身が買い取って、代金を金子にあたえたのではないかと推測される。d0238372_1521189.jpg 
 保存されていた新聞評は四紙で、その一つ「ラ・ガゼット」紙は――
 「このグループ展で最良の作品は金子光晴の画である。彼は数カ月前からブリュッセルに滞在している。
 この日本の画家は、パリのモンパルナスにいる彼と同国人の画家たちと何の共通性ももたない。モンパルナスの日本の画家たちは、フランス絵画を模倣することで、己が独創性を失おうとしている。ところが金子氏はブリュッセル、アントワープの風景、ベルギー人の肖像画を描く時にすら、日本の版画の繊細なタッチ、色彩の美しさを保ちつづける。彼は我国では無名の存在にすぎなかったが、いまや金子は忘れられぬ名となった。」(「金子光晴のブリュッセルの画」、森乾『父・金子光晴伝 夜の果てへの旅』所収)
 森乾は、この新聞評は過分な褒め言葉であり、画廊が提灯持ちの記事を書くように新聞社に働きかけた結果ではないかと推測している。金子の絵はしょせん詩人の余技であり、他の三人も絵も平凡なものであった。
 ただこの展覧会を開いたことは、金子に勇気をあたえた。彼はアントワープの三千代に宛てて手紙を書いた。
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by monsieurk | 2016-08-14 22:32 | 芸術 | Trackback(1) | Comments(0)

男と女――第五部(5)

 荒廃した生活を昨日まで送って来た金子にとって、暖炉で赤々と燃える火は安定の象徴とも見えた。幼かった二人の娘たちはすっかり成長して、姉のアンヌ・マリは大学で宗教美術を専攻し、妹のフランシーヌは絵を描き、木版画を制作していた。
 「――あなたは火がお好きですか。とても美しいではありませんか。
 マダムは、そう云ってじっと火を眺めている。 二人の子供達もじっとそれをながめている。火がその顔の一面をあかるくして、息ついている。生活は、ここでは少しのうごきもない。落ちつきそのもので、内容こそ新しい無宗教的な家庭であったが、更にふかいところにはエグリス〔教会〕や、市庁(オテルドビル)と同じような、中世期につづいているのであった。
 弄馳、流浪、・・・そして反逆のための反逆。アジアからヨーロッパに、さらにどこへ放されてゆくのかあて途もない私の現在とのあいだの生きかたのちがいは又どうであろう。
 私は、――家庭という檻をむげに讃嘆するほど自身を引片付けはしない。しかし、このマダムと二人の娘の均衡された生活のしずかさを、呪詛するには。私の気力がなかった。」(同)d0238372_59643.jpg
その夜パリから戻ったルパージュは、金子が十一年振りに訪ねてきたことを知ると、翌日自ら自動車を運転してやって来た。駅近くのホテルにはエレベーターはなく、以前はすらりとして紳士だった彼はすっかり肥満して、五階まで階段をふうふういいながら上ってきた。
 そもそも金子がルパージュを知ったのは、父のもとへて入りしていた骨董商の鈴木幸次郎にくっついて最初のヨーロッパ旅行をしたときだった。鈴木は得意先の一つだったベルギーのルパージュに金子を紹介し、その縁でブリュッセルの郊外ディーゲム(Diegem)にあるルパージュの邸宅のそばの居酒屋の二階に一室を借りて、一年九ケ月をすごした。
 ルパージュの祖父は、レオポルド一世がオランダから独立戦争を起こしたとき、それを援けたといい名門で、ディーゲムの区長という名誉職についていた。彼は金子より十二歳年上で、ブリュッセル自由大学を卒業すると、二十七歳のときオルガ・マルガと結婚し、義父が経営する陶磁器製造を手伝い、その経営とオステンドの牡蠣養殖に投資して財をなし、広い果樹園も所有する実業家であった。日本の美術と最初に出会ったのは、十五歳のときに読んだルイ・ゴンスの『日本美術』で、すぐに日本の工芸品の蒐集をはじめた。彼は根付や鍔の蒐集家としてヨーロッパ中に名が知られており、蒔絵、印籠その他の美術工芸についても優れた鑑識眼の持ち主だった。加えて彼自身も絵画や彫刻をよくした。
 ルパージュは、関東大震災のあと幾度も手紙を出したが返信がなく、金子は死んだと思っていた。生きてまた会えるとは思ってもみなかった、と再会を喜んでくれた。そして、国立サント・マリ教会の近くに別の宿を探してくるから、ここはすぐに引き払えといって、下りて行った。一時間のしないうちに、ホテルの外からルパージュが大声で呼ぶのが聞こえた。五階まで上がって来るのをためらったらしかった。
 サント・マリ教会の近くからディーゲムへ行く郊外電車に乗ることが出でき、その便を考えて、教会の裏手にあるスカラピーク区ロクト通り(rue de l'Hoecht)百十三番地の、野菜と雑貨を売る家の二階の部屋を借りてくれた。その後、魚市場のわきのマルセイユ料理店「マリウス」へ行き、目の不自由な画商のヴォスを交えて昼食をとった。金子の得意な絵を考え、やがて展覧会を開かせることを考えていたのかもしれない。
 その晩は、あらためてルパージュ邸に招かれて団欒を味わった。食堂のしきりはかつて金子がプレゼントした印度更紗で、柱に貼った箔縫の「南無阿弥陀仏」も、壁の能面の昔のままだった。ルパージュ家には専属の料理人がいて、フルコースの晩餐を味わいつつ、別れて以後のつもる話を語り合った。金子は結婚して子どもがいること、妻がアントワープの日本人の許で働いていることを明かし、いずれ機会をみて会ってもらうことを約束した。
 この日は夜が更けて電車がなくなったため、ルパージュ家の三階の小部屋で寝ることになった。そこは収穫した梨を貯蔵して熟させるための場所で、羽毛の掛布団のベッドに入り、手をのばして棚の上の梨を取って齧ってみると堅くて歯がたたなかった。
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by monsieurk | 2016-08-11 22:30 | 芸術 | Trackback(1) | Comments(0)

男と女――第五部(4)

 ベルギーから戻ってきた出島が金子のいるホテルを探し当てて、アントワープから預かってきた三千代の手紙を渡したのはこのころである。手紙には、こちらはこパリより一段と寒く凌ぎにくいが、船舶賄業の社長は親切で、ベルギー人の青年と机を並べてタイプを打っていること、みなよくしてくれるがここの空気には馴染めない。はやく来てほしいといったことが書かれていた。
 金子にとって、三千代がいなくなったパリにとどまる理由はもはやなかった。一人になってモンパルナスのホテルで虚しく日を送ることがもはや意味をもたず、しかも日本を出てからの大きな疲労が、身体にも心にも大きな黒い油じみのように広がるのを感じた。
 「僕は、この身につけていた一切をぬぎすててしまいたくなって、書物や、ペンばかりでなく、外套までも、ホテルに置いて、からだ一つで寒気のたけだけしい冬のパリを出て、ベルギー行の汽車に乗った。出島やその他のパリのつきあいにも知らせず、従って見送る人もなく、スーツケース一個の元の姿で、ブリュッセルにむかった。(中略)
 ベルギー領に入った時、乗客の荷物しらべがあった。関税を払わなければならないものはなにもなかった。爪哇(ジャワ)でもらった木偶芝居の人形と、セイロンで買った大きな壁掛の更紗も、ひっかからずにすんだ。ブリュッセルのガール〔駅〕の近くのホテルの五階の小さな部屋に入ったが、ポケットには、少々のはした銭が入っているだけで、このベルギーの都会で、どうやって生きるか、まだ考えていなかった。まだと言うよりも、考えまいと心で避けていた。」(『ねむれ巴里』)
 ベルギー到着以後の動向について、金子は自伝的作品である『ねむれ巴里』と『西ひがし』で触れているが、パリ時代にくらべて簡単であり、細部がわからなかった。それを補ってくれるのが、一九九四年に平凡社から刊行された『フランドル遊記 ヴェルレーヌ詩集』である。この「遊記」とヴェルレーヌの詩篇の翻訳については、編者の堀木正路が解説で明らかにしている。
 森三千代の晩年、聞き書きをここみていた堀木は、三千代が亡くなる二カ月前の一九七七年五月、数冊の日記を託された。日記の一部はこれまでに公表され、本書でも参照してきたが、その日記の間に「北欧フラマン・ブラバン日記」と書かれた、茶色の表紙のノートがはさまれていた。これがベルギー時代に記されたと思われる覚書であった。
 『ねむれ巴里』の記述によると、ブリュッセルに着いたとき、金子はたった一人の頼み綱のイヴァン・ルパージュに手紙を書き、それを読んだルパージュが翌日の昼ごろ自動車を運転してホテルに来てくれたことになっている。しかし、『フランドル遊記』では、経緯が違っている。d0238372_10574998.jpg
 「ムッシュウ〔ママ〕・イバン・ルパージュの、ディーガム〔ママ〕の風車小路の七番地に、・・・十一年ぶりでふたたび訪ねてきた私を、マダム・オルガと、二人の娘、フランシン〔ママ〕とアンヌマリーとが迎えた。ムッシュウ〔ママ〕は、パリーへ、煉瓦(フォアイエ)を買いにいって、晩にかえってくるということであつた。二人の娘は、頭髪を北国風に、あぶらでまんなかからカッカリわけている。(中略)
 マダム・・・猫のように円顔で骨の柔らかそうなマダムは、若さがまだ残っていた。少なくとも感情はまだ若さの領域に生きているのである。この十一年間が苛い年月でなかったことを物語っている。しかし、北国的な静居が、彼女の育ちの素直さと教養に培われて、決して、快楽的な分子をあらわさなかった。彼女は茶を子供達に命じながら、大きな薪を暖炉に投げわたした。
 北ヨーロッパの一月は、寒さもひどいが、三時半というと、もう、うすぐらくすなり始める。薪は、オバール色の炎をあげた。燠は、ルビーから、緋びろうどのように変化した。火の粉があがった。」(「ブルッセル市」、『フランドル遊記』所収)
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by monsieurk | 2016-08-08 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第五部(3)

 年が変わって早々のある夜、三千代が眠っている部屋の扉を、なにか喚きながら拳固で烈しく叩く者がいた。酔っぱらった白熊だった。三千代は真っ暗な部屋の隅で息をひそめていた。白熊は手だけでは済まずに、靴で扉をけりでしたが、そのうち静かになった。喚き疲れて扉の外で眠ってしまったらしかった。やがて夜が明けるころ、白熊が起き上がって階段を下りて行く足音が聞こえた。その間、三千代は寒さと恐怖でふるえながら、ベッドの上に座ったままだった。
 事務所が開くと、さっそく彼女が老人に訴えると、「ま、よくドアを叩き割ってはいりませんでしたな。アントワープでは、よくあることです」と言いつつも、宮田に伝えてくれた。宮田は三千代を連れて、アントワープの日本人の間では長老格の畑中岩吉に相談にいった。
 畑中はもとは大阪相撲の力士で、パリ万国博覧会のときに相撲の一行の一人としてやってきて、その後は大阪相撲を抜けてイギリス人の興行師と組んでヨーロッパ各地を流れ歩き、アントワープに根を下ろしてもう何十年にもなる男だった。彼はバー兼ホテルを一軒持っていた、ベルギー女性との間に娘がいた。ここにいる日本人女性は、三千代のほかは、花子(通称ハナあるいはアンナ)というこの娘だけだった。宮田にチャンドラーの仕事を斡旋したのも彼で、宮田から事情を聞くと、三千代を表向き宮田の女ということにすれば、誰も手を出さないだろうと言った。宮田も納得したようだった。 
 港に日本船が入っている間は、宮田の事務所では連日どんちゃん騒ぎが続き、日本人女性が珍しいので、宴席の接待をする三千代の正体を聞き出そうとしたり、連れ出そうとしたりした。だが彼女が宮田の女だということが伝わると、呼び方まで「あねさん」と変って立てられた。d0238372_17394544.jpg
 宮田は市内での商談やちょっとした会合にも三千代を連れて行くようになり、ハンドバッグや靴などをプレゼントした。そのためにわざわざ三千代を同行して、好みの色やデザインを自分で選ばせた。こうして身の安全はひとまず保証されたが、はたしていつまでそれがいつまで名目だけですむのか、今度はそちらが心配だった。
 港町のアントワープは河岸や裏町には七、八十は入れる「大正バー」をはじめ多くのバーがあり、船が入ればどこも船員たちで満員になった。そのため女をめぐるいざこざや刃傷沙汰がたえなかった。
 宮田にはベルギー人の妻がいてバーを経営させていた。彼は毎日そこから事務所に通っていたが、ある夜、三千代がようやく寝ついたころ、激しい物音で目が覚めた。ガラス窓を通してピストルが撃ち込まれたのだった。弾は壁の天井にちかいところにめり込んでいた。外の道から部屋にむけて撃ったにしがいなかった。事務所の外をうろつく宮田の妻の姿を見たという人があり、彼女を追いはらうために脅かしたにちがいないと忠告した。
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by monsieurk | 2016-08-05 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第五部(2)

 事務所の部屋では二人の男が将棋をさしていて、もう一人老人がストーブのそばで手持ち無沙汰気に坐っていた。将棋をさしている四十がらみのいかつい大きな男が宮田耕三だった。出島の紹介状を渡すと、眉の太いどんぐり眼をあげて、「日本の娘さんには、この土地はあまり関心できないが、折角来たんだから、まあ、いてごらんなさい。手伝ってもらうことがあったら、考えとくから」(「去年の雪」)といった。無愛想だが、心配していたような木で鼻をくくったような態度ではなく、思わずほっと安堵の溜息が出た。
 宮田はこのとき三十六歳だった。金子と同年の一八九五年に北海道の現美唄市で生まれ、二十歳のとき私費でロンドンへ留学し、第一次大戦後にアントワープへ移ると船舶関係の仕事に従事した。その後、二十四歳で独立して、船舶賄業(シップチャンドラー)と貿易を行う都商会を立ち上げて成功した。シップチャンドラーには国際的な不文律があり、日本の船には日本人、イギリスの船にはイギリス人の賄人が世話をすることになっていた。したがって多くの貨客船が出入りする各国の港には日本人のシップチャンドラーがいて、競争も激しかった。アントワープ港には、三菱系の日本郵船、三井系の大阪商船をはじめ、東洋汽船、帝国汽船、川崎汽船などの船がひっきりなしに出入りした。これらの日本船籍の船はドックの十三番から十七番に停泊することになっていて、宮田(写真中央)の都商会はそこからすぐ近いフラムス・カイ(Vlaamse Kaai フラマン河岸)八番地に事務所を構えるまでになっていた。d0238372_945843.jpg 
宮田はヨーロッパ在住の邦人の間では、面倒見がよいことで知られていて、これまでにも大勢の人間が彼の世話になってきた。ストーブのそばにいた老人の神戸もその一人で、かつては船のボーイだったが脱走して、ヨーロッパ各地を放浪したあと、宮田の世話になっていた。いまの唯一の念願は、宮田の世話でなんとか無賃で船に乗せてもらい、日本に帰って故郷である京都の土になることだった。
 しばらくして宮田が神戸に、三千代の荷物を事務所の二階の小部屋に運ぶように命じた。部屋は二階へ階段の途中のかぎになった踊り場のへりについていて、シングルベッド一つで一杯になる狭さだった。それでもベルギーの寒空の下で眠る場所が確保され、安堵する思いだった。
 宮田のところには、このとき神戸の他に二人の日本人がいわば食客として世話になっていた。宮田の将棋の相手をしていたルーベンスという渾名で呼ばれる画家の佐藤尚人、それに久保という板前で、ロンドンの日本旅館に雇われてアントワープまで来たのだが、ヴィザ(査証)が不備のために身動きがとれなくなり、ここで賄い方を引き受けている男だった。港に日本の船が入り、船長や高級船員などがやって来たときは存分に腕をふるった。ただ彼は一言も外国語が話せなかったから、素材の買い出しのときは、買い物籠をさげて、三千代のあとについて魚市場や青物市場へ出かけるようになった。
 事務所で事務をとるのは、宮田の他に外回りをする「白熊」という渾名の久保滝蔵と、タイプを打つ若いベルギー人の青年だった。久保は宮田の片腕的存在で、色が白く力が強いのが渾名の由来で船から脱走した元船員だった。彼の特技は小舟で港に入ってきた汽船に近づき、まだ船が動いているうちに船の舷にロープの鉤をひっかけ、それをつたって船に乗り込むと、同業者の先を越して賄いの契約を強引に取ってしまうことだった。
 アントワープのような荒々しい港町でのし上がるには、相応の度胸と腕力が必要だった。宮田はそれを兼ね備えており、乱暴者の白熊も宮田には一目置いていた。こんななかに飛び込んだ三千代だったが、タイピストの若いベルギー人は親切で、彼女にタイプや仕事の仕方を教えてくれた。
 このときベルギー独立百年記念の博覧会が開かれていて、日本産業協会の佐々木や田代が滞在していた。三千代は宮田の家で彼らと食事を一緒にし、田代は街に不慣れの彼女をあちこちと連れていってくれた。ロシアダンスや小レビューを観たり、アントワープでは一流のダンス・ホール「グローブ」で、ポルト酒を飲んで踊り明かしたこともあった。
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by monsieurk | 2016-08-02 22:30 | 芸術 | Trackback(1) | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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