フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30

<   2016年 09月 ( 10 )   > この月の画像一覧

男と女――第六部(8)

 金子は海外放浪で身体の芯に溜まった疲労が抜けず、竹田屋の部屋でゴロゴロするほかは、三千代を訪ねて彼女が書いたものに目を通し、なんとか物にするのを手伝った。金子の眼からは、三千代は文筆家には向いていず、陽気で誰に対しても悪びれない態度が取り柄で、この外交的手腕で顔なじみが増えて小説家の卵になっていった。彼女のところでは一階の中華料理屋から一円ぐらいの定食を取り寄せて食べ、ときには抱き合った。
 竹田屋のすぐ近くには田村泰次郎が下宿していた。だが路上で会っても、挨拶することはなかった。また太宗寺の墓の裏手には三階建ての和風の大きな下宿屋があり、詩人の城左門、岩佐東一郎などと交遊のある奥村五十嵐もほかに、数百人のホステスが住んでいて、ときどきは心中事件が起きた。そして左翼活動家の検挙騒ぎもあったが、新宿の裏町には戦争の影響はあまり感じられなかった。
 金子が帰国を知らせる便りを知人に出したしたのは、二カ月ほどたってからだった。すぐ返事をよこしたのは国木田虎雄と正岡容だった。国木田は父独歩の印税をとうに使いはたし、妻のみち子と二人で非合法運動にかかわっていた。
 彼らはそのため住居を転々としていて、ときどき竹田屋にも姿を見せた。そんなときはエンゲルスの『反デューリング論』やクラウゼウィッツの『戦争論』を持ってきて、金子に読ませた。『反デューリング論』は、読んでみて心の糧になった。国木田が四谷署に拘置されたときは金子がもらい受けに行き、自殺未遂事件を起こした党員を国木田が竹田屋に連れてきたことがあったこの男のことは竹田屋のおかみさんが面倒をみたが、じつは警察が泳がせていた転向者で、彼の証言によって小林多喜二が特高警察に逮捕され、拷問の末に殺されたといわれる。
 対照的なのは正岡容だった。金子のいない間に正岡は浪花節にはまり、浪曲師の小金井太郎と義兄弟の盃をかわした。そして自分も舞台に上がって浪曲を唸るようなことをしていたが、小金井はやくざの一人でしかも酒乱だった。小金井太郎の浪花節は哀切をきわめたが、酒を飲めば態度は一変して、少しでも逆らえば半殺しにされないありさまだった。堪えきれなくなった正岡は、ある日、女房と二匹の猫とともに世帯道具を荷車につんで竹田屋に逃げげ込んできた。金子の部屋も、廊下も、狭い庭も荷物で一杯になった。閉口した金子は翌日、高円寺に家を探して彼ら二人をそちらへ移した。正岡自身も酒におぼれ、書くことへの意欲をなくし、酒を飲ませてくれる施主にたかることが仕事になっていく様子だった。
 古い友人で、その詩集『岬・一点の僕』の序文をかいたことがある神戸雄一が、実弟の大鹿卓に教えられて三千代のいる新宿アパートを訪ねてきた。さらに神戸に連れられて古谷綱武、冨永次郎などの若い人たちもやってくるようになった。富永は早逝した太郎の弟で、古谷は新進の文芸評論家として文壇に出たところだった。三千代は注文の原稿をかきながら、彼らとの議論によって帰国する前から気になっていた、日本文学の新しい傾向を聞かされて勉強し直す気になった。その後、鎌原正巳、高野三郎、高橋新作、須賀瑞枝などを同人とする雑誌「文学草紙」が刊行されることになる。雑誌の名前は三千代の命名であった。
 金子の竹田屋とちがって、三千代の新宿アパートは千客万来の様相を呈するようになったが、晩秋のある日、若い中国人夫妻が訪ねてきた。これが新たな恋愛のはじまりだった。三千代はこの出合いの模様を、二年後に小説『柳剣鳴』(「婦人文芸」一九三四年八月号)に書く。小説をもとに経緯をたどってみる。
 三千代は訪ねてきた青年と名刺を交換するが、名刺には「柳剣鳴(本名は鈕先銘・Niu Heien-ming)」とあり、見事な中国服を着た女性を夫人を妻だと紹介した。鈕とは清朝の皇帝の紐を意味する言葉で、先銘の父はいまは下野しているが清朝の大臣をつとめた人だった。先銘本人はイギリス人の家庭教師について学び、日本の士官学校を一九三一年に卒業して、一度帰国して妻を娶った。それが同伴してきた荘錦翼(仮名)で、大銀行家の娘だった。鈕は再度来日して陸軍大学校へ入学しようとしたが、両国関係が悪化して困難となり、間もなく帰国するという。
 上海の新聞記者の歳晩秀の紹介で、武者小路実篤のもとに出入りしていて、かつて武者小路の愛人だった真杉静枝を知り、彼女の紹介で三千代に面会を求めたということだった。小説ではその後の展開が次のように書かれている。
 「二三日の間、髪を油できれいになであげた、よごれ一つ身につけてゐない、身だしなみのよい青年の姿が、文代(三千代)の眼のなかにのこつてゐた。彼の語つたひどくていねいで、所々言ひまはしのあやふやな日本語も耳にのこつた。
 夜更かしをした翌日、晝前に眼をさました文代は、アパートの風呂に入つた。(中略)冷水に浸した手拭で、夜更かしに充血した眼を冷やしながら、湯ぶねの中で両足を伸した。いろいろな快樂を知つてゐる肉躰が、白くそよそよしく〔ママ〕透けて見えた。
 風呂場の外に足音がして、アパートの老婢の聲で来客をしらせた。扉の隙間からすべり込ませた名刺をとつてみると、柳剣鳴であつた。」(『柳剣鳴』)
 三千代は清潔な好男子の中国人青年の魅力の虜になった。彼女が好きになる男のタイプには二種類あった。一言も話しをしないうちにいきなり好きになってしまう男。これこそ本当の恋で、恋愛が終っても女の心にもやもやしたものを残す。もうひとつは初めは嫌いでも好きでもないのが、付き合っているうちに悪くはないと思われてくる男。恋愛になった頃は、なんの遠慮もなく本当のことが打ち明けられ、男が熱心になるのはこちらの方であった。鈕先銘はこのどちらでもないタイプだった。
三千代はのちに、「巴里のオペラの桟敷などでみかける外国の貴公子のような、情熱で燃え上がったような大きな目と、わきまえのある、憂鬱なおもざしが、私の心に、かつて今まで感じたことのなかったある感情を湧き立たせた」(『新宿に雨降る』)と書いている。
[PR]
by monsieurk | 2016-09-28 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(7)

 詩集からあと二篇を引用してみよう。

 「出発(LE BAGAGE EST PRÊT)」

眠つてゐるからだを動かしてはいけない。陶器のやうなもろい夢に
抱かれてゐるからだを動かしてはいけない。〔なぜなら陶器のように脆い夢に抱かれているのだから〕
バナナの畑は、薄明(あけがた)のなかで、そつと寝てる、いつぱいに熟つた
バナナの房と房とが、重つたまま〔バナナのひとつの房が別の房にふれながら〕・・・
霧と瓦斯〔ガスの口の霧〕のなかに、たくさんなバナナの思想と〔ひとつの思想が別のものに触れ〕、からだとが重つて〔身体もまた別の身体にふれながら〕
眠つているのをあたしは見ながらゆく。〔この行フランス語にはなし〕

バンドン行の汽鑵車が汗をかいて、火の粉をからだ中から散らして
走る。
どこへ逃れ、何から逃れゆくのだ。
たくさんのあたしから逃れてゆくあたしは誰だ。〔あたしから逃れるのは誰だ? それはあたしなのか?〕

水平線を横切るものは、森なのか。
さうではない。それは、この世のありとあるタンプル、パゴダが次
から次へ並んで、しののめの果を旅立つてゆくのだ。
                                  ジャバ

 タイトルの「出発」を、“Le bagage est prêt”というフランス語にするのは、当時の三千代の語学力を考えると無理な気がする。おそらくはこうした箇所にデスノスの手が入っているのであろう。だとすると、やはり日本語の詩が先にあって、それを彼女がフランス語に訳し、それにデスノスが修正を加えたという順序なのであろう。
もう一篇、「革命家ピーター・エルヴェルフェルトの首の光栄のために( A LA GLOIRE DE LA TÊTE du révolutionaire Elverfert 」。この日本語の詩は、三千代が帰国した直後の雑誌「女人芸術」(昭和七年六月号)に掲載された。

椰子科や、棕櫚科に属する部厚な植物が〔あらゆる椰子と、棕櫚の葉が〕大砲のはらや、機関銃の歯のやうに、気味の悪い光を落とし込んでゐる〔恐ろしい光で銀色を帯びる〕。
それは月だ。
羊歯のなかで、白粉にまみれてまつ白に煙つてゐる。

懶惰で楽天的な土人達〔官能的なジャヴァの人たち〕が、古い棺桶のやうな形の木琴を鳴らしながら、椰子酒を飲んで〔スカラベのように〕踊つてゐる。
それはひとつの溝〔退廃〕だ。

オランダ人のキャピタリズムが、コンクリートで固める。〔この行はフランス語になし〕
その溝は、彼らの手足を動けなくする。
気味の悪い月光と、宗教と、キャピタリズムと
三重の呪縛にかゝつてゐる彼ら――
〔彼らは三つの呪いに縛りつけられている、すなわち
迷信、宗教、キャピタリズム。〕

ピーターエルヴェルフエルトの首から呪縛を解く日はないか。

 この詩はいうまでもなくジャワで見た、エルヴェルフェルトの晒し首をうたったものである。金子が同じ情景をうたった詩は、先に引用した通りである。 三千代は、ルパージュの並々ならぬ好意で実現した三百部余の詩集の販売を、新宿の紀伊国屋に頼んだがさっぱり売れなかった。
[PR]
by monsieurk | 2016-09-25 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(6)

 詩集の最初に置かれた詩篇「Le CŒUR EN COKE」のフランス語原文を引用してみる。

Mais! tu ne reviens plus.
La pluie du parc
Est claire comme la moisissure verte.

Le courant d'air, la glace de Sibérie
T'éloignent de moi.
Je saisis ton col comme l'aigle,
Ta tête tombe comme une marionnette.
Je pose mes cheveux contre ton épaule, puis

Mai tu ne reviens plus.
・・・・・・

Comme les asperges du marché en plein saison,
Ma sensualité, d'abord précieuse, devient banale.

Mais, quand le soleil s'écoule sur le mur
Blanc, comme du mercure,
Je me souviens de ton sourire aigu
Dont la pointe pique mon cœur,
Mon cœur expose comme une bombe,

Puis, devenant du coke noir・・・
Mon cœur noirci trébuche
Sur le pavé, sous les arbres.
・・・・・・・

Ce soir
Le revolver
Comme une souris dans ma poche
Est tour à tour froid et chaud.
Il est calme
Je renonce à mon suicide
Et j'écoute la cloce de Notre-Dame.

Travail !
Un enfiant qui désire voir un spectacle populaire
Cherche à regarder entre les jambes du public,
Essaie de grimper sur des épaules,
Sans parvenir à voir;
Ainsi je suis empêchée par la foule.

Pays natal !
On ne m'a chassé de nulle part,
Je ne subis pas l'exil de la Sibérie !
Sous le ciel d'œillet de la nuit de Paris,
Je marche pensant à mon retour,
J'ai mangé trop de gâteaux du pays étranger.

Je retournerai bientôt,
Devant moi, tu passeras comme un
Habitant de Mars.

Je fixerai tes prunelles glaciales,
Je deviendrai une vraie excilée・・・
C'est un excil d'amour.

S'il faut que tu insultes l'esprit,
Si tu ne peut marcher que dans un chemin
De matérialisme, Ce fut ma grande faute :
J'ai toujours aimé un homme mécanique.

            Paris.

 如何には、これに対応する『東方の詩』所収のテクストを掲げる。ただフランス語の詩句と異同のある箇所は〔〕で補う。

コークスになった心臓

五月!
おまへは来ない。
公園が青黴のやうに明るい雨だ。

気流と大シベリヤの氷塊が、
おまへをわたしから距てゝゐる。
――おまへの背広の襟を鷲のやうにつかんでゐる。テアトロ デイ ピコリの〔この部分フランス語になし〕操り人形のやうに、おまへの首が落ちる。
おまへの肩へ髪をつけて、それで、
なんにもいらない。〔なんにもいらない。〕
だがおまへは来ない。
・・・・・・

市場のアスパラガスのやうに、
〔はじめは貴重だった〕あたしのすべての感覚は平凡になったゆく。

それでも白壁へ水銀のやうな陽が流れると、
おまへの鋭角の頬笑みを思い出す。
おまへは、その鋭角で、
よくあたしの心臓を突き刺した。
あたしの心臓は、
爆裂弾になつて、大音響立てて爆破した。
それからコークスのやうに黒くかたまつて・・・
敷石道を、並木道を、黒い心臓がつまづきながら行く。
・・・・・・・

ピストルの手ざわりは
今夜
冷たく 熱い。

廿日鼠のやうに、あたしのポケットの中で、
息をひそめてゐる。
死ぬのを止めて
ノートルダムの鐘を聞く。

働かう。
でも見世物を見る子供のやうに、
股の間から、肩の隙間から覗きこまうとしても、〔肩によじ上ろうとしても〕
ぎっしりつまつてゐいて、あたしを入れてくれない。〔何も見えない。群衆に邪魔さらるのだ〕

故国!
誰もあたしを逐ひ出しはしなかった。
〔シベリアへの流刑は堪えられない!〕
その下を(帰る)ことを考えて歩いてゆく・・・
あたしは他国のお菓子を食べすぎたやうだ。
いつか、故国へあたしも帰る時が来るだらう。
おまへは火星から来た人のやうに、
あたしの前を通り過ぎるだらう。
フン!〔この箇所フランス語になし〕
その氷河の眸を噛む。〔おまえの氷のような眸をじっと見よう〕
その時、あたしはほんとう流謫の囚人となるだらう。

愛情の流謫!!

若し、おまへの仕事のために、
殉情を無視しなかればならぬならば〔もし精神を侮辱しなければならぬのなら〕、
若し、おまへの靴が、理論と鉄の塹壕〔が唯物主義の道を〕しか行けないならば、
それは大きな仕損じだつた。
――あたしは人造人間を恋したのだ――。
                        
               パリ

 この「コークスになつた心臓」は前にも触れたように、金子の『どくろ杯』によると、別れてきた土方定一との恋愛がうたわれていて、上海滞在中すでに書き上げられていたが、上海で上梓した『ムイシュキン侯爵と雀』には収録されなかった。
[PR]
by monsieurk | 2016-09-22 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(5)

 ブリュッセルのイヴァン・ルパージュから、原稿を渡しておいたフランス語の詩が立派な詩集となって送られてきたのはこの頃である。どうして三千代の住所を知り得たのかは不明だが、おそらくルパージュに残した宇治山田の森の実家に届いたのであろう。
 詩集は縦十八・ニ×横十二・三センチで、表紙には、「 Michiyo Mori / ―― / PAR LES CHEMINS / DU MONDE Poèmes / Bruxelles / 1931 / Frontispice par F. Lepage(森三千代 / 世界の / 道から / 詩篇 / ブリュッセル / 1931 / F. ルパージュによる口絵」とある。次女のフランシーヌ・リパージュの木版の口絵、イヴァン・ルパージュ氏への献辞に次いで、森三千代による序文一頁、そのあとに十八篇の詩が二十三頁にわたって印刷されている。収められた詩はタイトルが示す通り、彼女が金子光晴とともに、一九二八年十一月に長崎を出て、上海、香港をはじめとする中国、シンガポール、インドネシア、マラッカなどの東南アジアを旅してヨーロッパに来るまでに得た題材をうたったものである。
 三千代は「序文」には、フランス語でこう書かれている。
 「私は日本女性です。
 以前は袖に牡丹とあやめの模様があり、胸を藤の房で飾った色とりどりの着物を着ていました。
 私はこの古い衣裳を仕舞いこみました。
 では私はどんな服をきればよいでしょう?
 私は支那を通過し、上海に六カ月滞在しました。私は蘇州、杭州、漢口を通って揚子江を遡りました。そのときは、南京緞子の、襟が高い、袖のわれた中国服を身にまとい、翡翠のボタンがついた絹の靴を履き、杭州八景で飾られた白檀の大きな扇を持ちました。
 その後、私は香港で一カ月、マレーシア、シンガポール、ジャワで六カ月を過ごしました。暑いジャングルをさまよい、ヒンズー教の歌が聞こえる街々を通り過ぎました。
 ジャワでは、ワーヤン劇の人形たちが着ているのと同じサロン(ジャワ風のスカート)を身に着け、金メッキのボタンがついたカバヤ(上着)を着て、踝には金の輪をつけ、足には水牛の革の靴を履き、耳にはボルネオ・ダイヤの耳飾りをつけました。
 それから紅海と地中海を通って、私はヨーロッパに到着しました。いま、私はパリの女のように、白い羽根のついた小さな帽子を斜めに被り、モロッコ革の緑のコートを身にまとっています。それが今年の流行です。私の踵の高い靴が硬い石畳をコツコツ叩きます。
 でも、すべての服は、着たり、脱いだり、取り替えたりできますし、汚れたり、使い古したり、穴が開いたりしますが、一つ決して動かないものがあります。それは、大きな鏡の前で、しなやかに金色に輝きながら生きている、私の裸の身体、真っ黒な髪、三日月のような眉です。
 ここであなたが読まれる詩は、そんな日本女性の魂が感じたことなのです。
     
                          森三千代
                          ブリュッセルにて、一九三一年」

 詩集に収録されている十八篇とは、「Le CŒUR EN COKE(コークスになった心臓)」、
「FOUJI(富士)」、「PLUI ET IRIS(雨と菖蒲)」、{HARMONIE HNDOUE(印度教楽調)」、
「L'OCĒAN INDIEN{印度洋)」、「LUNE ET PIANO(月とピアノ)」、「SINGAPOLE(新嘉坡)」、「LE BANC DE CORAIL(珊瑚礁)」、「L'HIVER(冬)」、「LE BAGAGE EST PRÊT(出発)」、「CANOT(小舟)」、「A LA GLOIRE DE LA TÊTE du réévolutionaire Elverfert, percée par une lance et toujours exposée près de la chaussée de Jagattara, recevant les malédictions du soleil et de la lune.(剣に突き刺され、太陽と月の呪ひを受けながら、ジャガタラ街道に曝されてゐる革命家ピーター・エルヴェルフェルトの首の栄光のために)」、「LE JOUR ET LA NUIT(昼と夜)」、TROIS POĒSIES DE NANKIN(南京三詩)」、「LE LAC BAKUSHU(莫愁湖)」、「SHANGHAI(上海)」、「LA NEIGE(雪)」、「SAGUIMUSUMĒ(鷺娘)」である。これ等のうち、「莫愁湖」は一九二六年十月の「日本詩人」、「雪」と「鷺娘」が詩集『龍女の瞳』(紅玉堂、一九二七年)に発表されたほかは、このフランス語詩集が初出である。ただ残りの十五篇のうち、「小舟」と」「昼と夜」の二篇以外はのちに詩集『東方の詩』(図書出版社、一九三四年)や雑誌などに、対応する日本語の詩が発表されていることから、はたして最初に日本語で発想されて、それをフランス語にしてデスノスに手を入れてもらったのか、最初からフランス語のテクストが書かれたかは、にわかに判断できない。
[PR]
by monsieurk | 2016-09-19 05:41 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(4)

 三千代の帰国を誰より喜んでくれたのは、「女人芸術」の主宰者の長谷川時雨だった。帰国早々の四月、長谷川の肝いりで、岡本かの子、マス・ケート、千田是也、千田イルマなどの帰朝座談会「婦人新帰朝者のみてきた社会相」に、フランス帰りの代表として出席した。
 さらに「女人芸術」の同人作家、真杉静枝が親切にしてくれた。真杉は三千代と同じ一九〇一年(明治三十四年)十月の生まれで、タイピストや事務員を経て、一九二五年に大阪毎日新聞の記者になった。このころ金子の友人の正岡容と関係が出来て心中事件をお越し、二年後には武者小路実篤と恋愛関係になり、彼が刊行する雑誌「大洞」や、長谷川時雨の「女人芸術」に作品を発表していた。
 真杉は新たに創刊された雑誌の編集長に紹介したり、編集者と会うときの心得などを伝授し、女が一人で生活をはじめるのに当たって必要なお盆や急須など、自分が使わなくなったものを譲ってくれた。真杉自身が原稿一本で生活しようとしており、その上で感じる不安や憂慮を、二、三の詩集を出したほかは、文学世界とは無縁に生きてきた三千代に興味を持ったのかも知れなかった。
 三千代は金子に、「「しごとは、大体、真杉さんとコンビでゆくけど、まあまあといったところね。一度、あんなことでいいか、眼を通してほしいの」
 「目を通すまでのことはあるまいが、みせて「もらう。それにしても、たいへんだな」
 「お客が多すぎて、書いている時間がないの。十一時頃お客に起こされて、次々と立てつづけに夜の十時頃、ぐったりとなって何の気力もなくなり、朝になるとまたお客で起こされ、筆をとる暇なんかないわけでしょう。気のすむようなものを書ける暇なんか、ある筈はないでしょう」(「腫物だらけな新宿」、『鳥は巣に』所収)と近況を訴えた。
 三千代は後頭部をバリカンで短く刈った断髪で、口紅を濃く塗り、手足の爪に真っ赤な」マニュキアをほどこしていた。帰国直後はフランスで仕込んだネタをもとにしたエッセーや評論を書いたが、いまは小説を書こうとしていたが、詩人としてスタートした彼女は、小説家の仲間からなかなか認められなかった。ある雑誌の新年号のグラビアに「今年期待される女流作家」という特集が組まれ、彼女の先輩や友人の作家十人ほどが紹介されたが、三千代の名前はなくひどく落胆した。
 金子はそんな彼女を必死に慰め、いま自分がいる部屋を執筆に使ってはどうかと勧めた。ジャーナリズムに知られるのが先決であり、勉強しながらで辛いことだろうが、そうするより仕方がないとアドバイスした。
[PR]
by monsieurk | 2016-09-16 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(3)

  一週間あまり経って、近くに出る射的場で撃ち落とした煙草のゴールデンバットをみやげに、やっと中華料理店の横丁の狭い道を入った。
  「アパートの入口は、料理屋の裏口の方にあった。番号のついた下駄箱があるのに、狭い土間には、女の厚草履や、靴が入り乱れてぬぎすててあった。空いている箱に靴を入れて僕は、二階部屋の番号をよみながら、ちょっとのあいだためらった末に、扉を一つ、二つ、かるこ叩いた。返事がなかったので、すこしためらっていると、やがて人のいる気配がして扉が開き、彼女の顔があらわれた。
  「ああ、やっと。伊勢からはもっとはやくくるようなこと言ってきていたので、待っていたけど・・・」
  と、彼女としては、おもった通りのことを言った。
  「それがね。早く着いてはいたにはいたのだけど、まず、じぶんの居所を決めてからとおもって、まごまごしていたのさ。ああ。いまではもう決った。太宗寺のすぐ横だから、ここからは、目と鼻の先だ」
  部屋に入ると、冷えあがるつめたさであった。十銭をさし込むと、ガスの火が点いた。貧乏くさいが、日本らしくて、ふしぎなことにそれがなつかしかった。
  「手紙でよんだが、金持の息子は、港で別れて、それっきりか?」
  「気にしていたのね。そうではないかとおもった。・・・それよりも、坊主の病気がたいへんだったのよ」
  しけった靴下をむいで、瓦斯の火にあてると奇妙な臭気を立てて部屋じゅうにこもった。そして女が一人一晩ねていた匂いと濃厚にまじりあって、男と女のあいだで忘れていたものが不意に戻ってきた。まだ暖かいシングルベッドの裾の方に靠れて手さぐりしてみた。しぜんにからだが馴れた組合せになり、熱っぽいベッドに入ってから、しばらくは久闊を感じあい、なかでぬいだ下着や靴下が、ベッドの外へ放り出された。
  「帰ってから、彼とは会っていないのか」
 そのことがなによりも僕の方でもわかっていながらの、毛糸玉にじゃれつく猫のような痛痒いたのしみなのであった。むろん、その彼は、日本を出るときの彼のことであった。それにくらべると富豪の息子のほうは、格別のことはなかった。」(「腫物だらけな新宿」、『鳥は巣に』所収)
 三千代は上京後しばらくして、一度土方定一と会った。新宿駅で待ち合わせ、喫茶店で話をしたが、このときはじめて土方がドイツに留学したことを知らされて驚いた。たが彼はドイツにいったすぐに結核にかかり帰国し、このことで三千代とのことは駄目になったとあきらめたと言った。話をしていると、二人のいる世界が大きく隔たってしまったことをいやでも気づかされた。そしてこれを最後に二人は二度と会うことはなく、土方は翌年一月、齋藤とみという女性と結婚する。
 三千代のなかには、海外を放浪している間も胸に燃やし続けた一途な思いは、いったい何だったのか。パリ行を持ち出されて、土方から離れ、金子に戻っていったことは、三千代にとって、真実に生きることを放棄する思いだった。気の弱さからくる現実との妥協。気の弱さゆえの安きにつく道を選んだことが、ずっと彼女の心をむしばんできた。そして何より、新しい道を歩もうとしていた土方への共感と恋情。それが終わったのである。
[PR]
by monsieurk | 2016-09-13 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(2)

 金子にとっても、二年半留守にした間の変化を知り、「ほんの一掬いの文筆の場の水加減をはかりに」(「岩渕町の引出階段」、『鳥は巣に』所収)、東京へ行ってみる必要があった。そのためには子ども連れは不自由なので、もうしばらく預かってほしい旨を頼むと、森の父は承知してくれた。
 金子が東京へ行ったのは帰国後間もなくの五月のことである。東京駅に三千代は迎えに来ていなかったが、出発のときと同じく井上康文が出迎えてくれた。二人は駅近くの喫茶店で話しをしたが、井上は金子の変わりように驚いたようだった。『こがね蟲』の詩人の輝きは影をひそめていた。d0238372_2149271.jpg 
 金子はその後新宿に出て、映画館の「武蔵野館」が経営する木造の「新宿ホテル」に投宿した。そこには早稲田出身の作家の宇野浩二や広津和郎などがいた。三千代がいるアパートは新宿二丁目の「新宿アパート」の二階ということだったので、翌日その辺りを探すと四谷に行く電車通りの左側に太宗寺という寺があり、電車通りを挟んで反対側には大衆的な中華料理店があって、その店の横に、人一人がやっと通れるほどの路地があり、路の入口に「新宿アパート」という立て看板があった。
 「彼女の住居の見当がついたが、そんな場合、なにはともあれ、事の本体に飛込んでゆくという率直な気質を僕はもっていなかった。(中略)彼女を訪ねる前に、一応こちらの居所を決めて置こうと考え、その細い坂路をあがっていった。家数にして十間ぐらい、入口の二枚ガラス戸の下半分を曇り硝子にぼかし、上の半分に、竹田屋と白字をのこしてあった。
 扉の手をかける、すこしきしりながら開いた。」(「腫物だらけな新宿」、『鳥は巣に』所収)
  出てきた中年の女主人と交渉すると部屋代は一カ月十円というので、即金で払うと玄関わきの、二坪ほどの庭に面した八畳の部屋に通された。一日中陽が差しこまない陰気な部屋で、目の前は看護婦会の二階建ての建物で、ときどき二階から覗かれたりした。布団は借りてもらうことにして、食事は近くの「コーヒー王」という喫茶店で済ませることにした。コーヒーが五銭、カレーライスが十銭から十五銭だった。
  竹田屋の主人は電気器具の店に朝から出勤し、細君が部屋貸し商売をしていて、小学校にあがったばかりの、つばきという女の子がいた。壁をへだてた小部屋には、娘が学校へ行くとすぐに連れ込みの客が来て、ここがモンパルナス駅の周囲のホテルを同じであるのが分かった。お馴染みの客と顔見知りになり、おかみさんが手の離せないときは、金子が適当な部屋に案内して、お茶を出したりした。考えて見ると、ほんの目と鼻の先にいる三千代のところへ顔をだそうとしない自分を、われながら気心の知れない人間だと思った。



  
[PR]
by monsieurk | 2016-09-10 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(1)

 照国丸は香港にも上海にも寄港せずに、関門海峡を通過して予定より三日早く神戸に着いた。悪化する一方の日中関係が原因だった。
 上海では四月二十九日に朝鮮人の尹奉吉が天長節の祝賀会場で爆弾を投げ、上海派遣軍司令長官の白川義則大将、第三艦隊司令長官野村吉三郎中将、駐華公使重光葵らが負傷、白川は翌月死亡する事件が起こっていた。このため照国丸は、上海では呉淞(ウースン)から黄浦江に入り、そこで民間の在留邦人を収容して帰ることになった。市内では海軍陸戦隊と中国の十九路軍との戦闘があり、銃声が船にも聞こえてきた。船客が上陸することは一切禁止された。
 国内では五月十五日に、陸海軍の青年将校や士官学校生が首相官邸などを襲撃して犬養毅を射殺する、いわゆる「五・一五事件」が起こり、翌日内閣は総辞職した。金子はこうした情況のなか、三年半ぶりに帰国したのだった。
 日本郵船から船客の身寄りにはあらかじめ電報で入港の日時を知らせるので、神戸の岸壁には大勢の人たちが集まっていた。三千代が宇治山田にまだいるのなら出迎えに来ているかも知れないと思い、デッキから一当たり探したが姿は見えなかった。
 タラップがつけられると、新聞記者やカメラマンが上がってきて、一等のサロンに流れ込んだ。チャップリンを取材するためだった。混乱がやりすごした金子は、スールケースと二、三の小さな包を持ってデッキに出ると、三千代の実弟の義文があらわれ、荷物をもって税関まで運んでくれた。久闊を叙し、近くの食堂で簡単な食事をしながら三千代の消息を尋ねると、前の週に東京へ一人で発ったということだった。三千代は帰国したとき男とは一緒ではなく、郵船からの連絡で同じように迎えに来た弟の彼と二人ですぐ山田に帰り、県立日赤病院に入院していた乾につきっきりで看病をした。乾はなにか食べると苦しんで、コーヒー色をしたものを吐きつづけ、これはもうだめだと思うことが何べんかあった。だが三千代が寝食も忘れて世話をした甲斐があって、いまはもう命の心配はなくなり、それを見届けた彼女は、先週一人で東京へ発ったということだった。金子と義文は大阪へ出て、上本町から近鉄に乗って宇治山田へ向かった。
 義父の森幹三郎が昔から住んでいる家は、伊勢神宮の外宮に近く、岩渕町の明治小学校の運動場と塀を接していた。乾はこの春この小学校の一年生になっていた。家の入り、箪笥階段を二階に上って、義理の父母たちに挨拶をしていると、絣の着物に袴をつけ、足袋を履いた正装の乾が金子の前に坐って、「お父さま。久々ぶりでございました。ながの道中、おかわりもなく、御苦労さまでございました」と、教えられた通りの挨拶をした。それでも金子が両手をだすと、すこしはにかんで叔母たちの方をうかがったが、彼女たちに促されて膝の上に乗ってきた。病後で身体が軽かった。
 このあと、彼らは駅前の宇仁館という唯一の西洋料理屋へ行って、乾はハヤシライスを食べ、ソーダ水を飲んでご満悦だった。その席で、実弟が姉からあずかったといって三千代の置き手紙を差し出した。
 「子供は幸いよくなりました。彼は、私をよびよせてくれたのです。私も、命をかけて看病しました。もう大丈夫です。ご安心ください。これからすぐ東京へ行って、じぶんの仕事の根拠をつくります。会ってゆきたいけど、一日でも心がいそぐのです。この手紙をみたら、あなたもきて下さい。もうすこし準備ができるまで、もう半歳、子供を父にあずかってもらいます。固い父ですが、話のわからない父ではありません。それから、船中の人は、神戸へ着くと出迎えの者からじぶんの家の破産をきき、すべてを船中だけのことにして消えました。策略ではなさそうです。あれはあれでおもしろい男です。では。」(「世界の鼻唄」、『西ひがし』所収)とあった。
 上京した三千代は、なによりも部屋を探さなくてはならなかったが、手がかりはなく、金子の実弟の大鹿卓に相談した。大鹿は実母のりようとも相談の上で、新宿二丁目のアパートを紹介してくれた。三千代は二階の一部屋を借りて、住所を宇治山田の実家に知らせた。
[PR]
by monsieurk | 2016-09-07 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第五部(13)

 照国丸は利用客は増えた一九二九年(昭和四年)一月に進水したばかりの豪華貨客船で、一等船客一二一名、二等六八名、三等客六〇人名を収容できた。船内は益田権六の蒔絵の装飾がほどほどこされ外国人客にも人気があった。当初は横浜とロンドンを結んでいたが、アントワープまで乗り入れていたのであろう。d0238372_1782681.jpg 
 当時の航海スケジュールによれば、アントワープからロンドンまで二日。その後はロンドンを出てイベリア半島をまわり、スペインのジブラルタルまでが四日。さらにここからマルセイユまで三日。マルセイユからスエズ運河を通り、コロンボまでが十八日。そこからシンガポールまでさらに六日の航程であった。アントワープから船で行けばマルセイユまで九日を要したわけである。
 一方、金子の記述のようにブリュッセルから汽車でパリへ出て、そこで乗り換えマルセイユに行ったとすると、二日目の夜にはマルセイユから乗船することができた。『西ひがし』の「マルセイユまで」では、このルートをたどったことになっている。
 パリの東駅についた金子は深夜にリオン駅を出る汽車で翌日マルセイユに行けば予約した船にギリギリ間に合うので、それまでの時間をパリで費やすことにした。先ずタクシーで向かったのは、モンパルナスのクポールやドームのある界隈だったが、真冬の季節では名物の路上に張り出した椅子はすべて店内に引き込まれていた。スーツケースを置き、椅子に座ってしばらく往来を眺めていたが、知った顔は見かけなかった。
 周囲の人たちの会話を聞いていると、話題はこの日の夕刊で報じられた満州事変のニュースで、フランス人は一様に日本軍の暴挙を非難していた。関東軍は一九三一年九月十八日の奉天郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破して満州事変に突入し、この年一月三日には錦州を占領し、戦線を中国へと拡大した。金子が夕刊で見たのは、このニュースであった。
 ニュースはベルギーでも報じられているに違いなく、日本人をかばってくれるルパージュの立場やアントワープにいる三千代のことが心配だった。
 夜になって、リュクサンブール公園の近くの中国料理屋に立ち寄り、来たときの船で一緒だった中国人女子留学生の譚の消息をたずねると、二カ月ほど前に帰国したとのことだった。このあと地下鉄の駅近くのカフェに入ってインクとペンを借り、三千代に手紙を書いた。宮田に無理を頼んで、適当な貨客船で帰らなければ、事態はますます難しくなる一方だ。ついには子どもとも会えないような結末になるかも知れないと書いて、アントワープの彼女宛てに投函した。そして予定通りリヨン駅から夜汽車に乗り、翌七日の昼前にマルセイユへ着いた。
 日本郵船の事務所で確認すると、貨客船の香取丸は積荷が少ないから翌日一月八日の早朝五時に出航予定で、特別三等だから藁ベッドと毛布もついているとのことだった。夜のうちに船に乗り込むと、浄土真宗の住職や天理教大学の先生がおり、金子のベッドの下には若いフランス文学の研究者が寝ていた。彼は宮崎嶺雄といい、金がなくなり大使館から強制送還されたのだった。金子より後に日本を出てきたので、新芸術派がプロレタリ文学に代わって台頭し、小林秀雄の批評が文学世界を一変しつつあるといった、最近の文壇事情をよく知っていた。彼は話をする以外は、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の原書を読んでいた。
 金子は乗船して間もなく、ブリュッセルを去るにあたっての気持をノートに記した。それが、『フランドル遊記』に「ブリュッセル市」として紹介されているものの一部である。
 「――ミチヨ。もう忘られないことなんて一つもない。正直なところ人は、次の瞬間には、観念的印象しかもてるものではない。ブリュッセルは私から剥脱してゆくだろう。人の愛情も、親切も、あととなり、先になり、亡びてゆくものをどうすることもできない。ブリュッセルが亡びてゆくように、君も亡びてようくだろう。君が私に対するものも私が君に対するものも、いつまで保証されよう。
 現に君が、トーケイ〔東京〕に残した男に於けるが如く・・・他のものに対しても又同様のことが云える。・・・私と君のあいだには何一つのこるものはない。一枚の記念写真もない。日記も書かなかった。・・・二人のあいだにある乾坊・・・あれだって二人につながるなにものでもない。彼は立派に独立した一個の人間的存在である。ブリュッセル市民に、幸福であるようにというように、私は、君にむかってもその言葉を云おう。君と遊んだ、君と歩いた、君といっしょであったがために特別たのしかったブリュッセル市の朝な夕なの片顔が、今は猶、眼の先にうかべてみることができる。しかし、それもいつまでも、私のなかでハッキリちていることができよう。(中略)
 八年という年月がふたりをくっつけていた。夫れが八年という長さであるがために、たちきり難いものを残すことを軽蔑するのだ。・・・それがために相互がもっと朗らかな心持で恋愛とか生活とかをつづけてゆくことができなければ、それは一番悪い結果だ。(中略)
 ブリュッセル――それだって、いつおもい出す機会があるかしれたものではない。恐らく、もう決しておもい出さないか、瞬間的におもい出すことがあっても・・・それをジッと追及する時間など、考えられないことである。そんなに環境が重いのである。生きることが苦しいのである。風景も、美術品も、私の注意の対象にならない。それほどLA VIE〔人生〕がゆきづまりになっているのである。
 人間のからだと心を奪ってゆくものは金である。”Mais, Merci, Bruxelles, Merci, Lepage, Merci, Michiyo〔そして、ありがとう、ブリュッセル、ありがとう、ルパージュ、ありがとう、三千代〕・・・・・”」(「ブリュッセル市」、『フランドル遊記』所収)
 これは金子が三千代にむけた惜別の言葉だった。
 書くのに疲れると、船倉をあがって二等船客のサロンへ行き、黒板に張り出されるニュースの電文を読んだ。可能な限り最新の新聞記事を閲覧することができた。中国北部で起こっている関東軍の越境事件が、上海に飛び火しそうになっていたが、二等船客はだれも関心を持っていないようだった。最後は軍事力に頼ればいいと考えている日本人の安直さに違和感をいだいた。(第五部完)
[PR]
by monsieurk | 2016-09-04 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第五部(12)

 金子の『西ひがし』によると、夕食会の翌日、金子はブリュッセル中央駅からパリへ出発し、駅頭では三千代とルパージュ、アンヌマリ、フランシーヌが見送ったことになっている。
 「彼女が眼まぜをしたが、彼女としては、なにかの魂胆があるらしくおもえたが、その意は、通じるべくもなかった。窓近くへ来て、誰もわかるものはいないのだから、日本語で一言二言言えばいいのに、とおもいながら、この機より他にみすみす機会がないと分かっていても、僕の方でも、目まぜに答えることもせず、いたずらに流れゆく「時間」を虚しく見送ることに、運命をゆだねているのであった。」(『西ひがし』)と書いている。
 だが三千代の方は、このときの別れについてまったく別のことを語っている。『金子光晴全集』の「月報7」の対談で、森は、「マルセーユじゃなく、アントワープから乗りましたもの。その当時はアントワープまできていたんです、日本郵船の船が。(中略)自分のことをいって恐縮ですが、だいぶ前に私が『群像』に書いた「去年の雪」という小説がありまして、それに書いていますけれども、金子とベルギ-で別れるところがありまして、それで金子と、キャバレーのようなバーですね、向こうは日本とちょっと様子が違いますから、キャバレーといいましてもバーみたいなものですけれども、そういうところで、最後に日本へ行く金子を見送ったことになっているんですが、事実そうだったんです。ですから、駅とか波止場までは行っていないんです。だから私は、アントワープの港から出たもんだとばかり思っていたんです。」(「金子光晴の周辺」7)というのである。
 事実、森三千代の小説『去年の雪』では、次のように書かれている。
 「照国丸に乗り込む当日、小谷がブリュッセルからやってきた。出帆は、翌朝未明といことだった。荷物を三等船室に持ちこんでしまうと、あとはなにもすることがなかった。十三子(三千代)は、小谷(金子)を誘って、アントワープを案内してまわった。暮れでからおそく、彼等は盛り場の『タベルン・チガーヌ』のテーブルで向いあっていた。(中略)
 「君をのこして大丈夫かなあ。切符はまだ書きかえられるよ。どうせ、船底の蚕棚だ。誰が入れ代ったって、船の方はおんなじわけだ」
 この期におよんでも、小谷はまだ、ふんぎりがつかずにいる。
 「私は大丈夫よ。巴里でおちついたら、すぐ、お父さんの家の方へ、アドレスを知らせるわ。ないよりも、早くお金をつくって、巴里へ送ってくれるのが急務よ」
 「わかっているさあ。日本へかえるなり、金つくりをはじめるつもりだ」
 うけあっている彼のことばに、なにかうつろな、こだまのような自信のなさがあって、十三子の胸底にそれがひびいた。(中略)
 彼女は小谷に笑顔をむけた。安堵した小谷は、あ、そうそう、と、そばにおいた小鞄をあけて、いつも思いついたことを書きつけておくノートを取り出し、用心ぶかく、頁の一ところをひらいて見せた。十三子がいっしょにのぞきこむと、それはなにも書いてない頁の、綴じ目に近いところに、長さ五センチ位のねじれた毛が四、五本はさんであった。
 「なに。これ・・・・」
 「記念に拾っといたんだ。もう君ともしばらく会えないからね」
 「いやね。捨てた方がいいわ」
 十三子が手で払おうとすると、小谷はいそいでノートを閉じて、胸にしまいこんだ。」
 そのとき扉が開いてジプシーのバイオリン弾きが入ってきて、二人のテーブルにやって来た。話すことが尽きかけたところだったので、彼女が頼むと「ハンガリア狂想曲」を情熱的に弾いてくれた。彼女は千フラン札を小谷に渡して、チップのするので小銭に換えてくるように頼んだ。
 「小谷が気軽に帳場の方へ立っていったあとで、十三子は、メニューの裏に走り書きした。
 ――これ以上つきあっていると、私の方が船に乗りこむことになりそうです。だから、これで左様なら。今夜の汽車で巴里へ発ちます。早く、宏(乾)のところへ帰ってやってください。
 そのあとへ、楽師のチップは私がやってゆきますから、もう不用、お金はここのお払いにして下さい、と書き添えた。テーブルの目につくところへ、その走り書きをおき、小谷が席へもどって来ないうちにと、ハンドバッグを持って、そっと立ち上った。つかみ出した十フランを楽師の、楽器をおさえている手に近づけ、「もう少し、弾きつづけて下さい」と言い捨て、かくれるようにして、『タベルン・チガーヌ』を出た。」(『去年の雪』) 
 金子ははたして、汽車でブリュッセルの中央駅からパリ経由でマルセイユへ行き、そこから船に乗ったのか。それともアントワープまで乗り入れていた日本郵船の照国丸に乗ったのか。あるいは三千代がいなくなったあと、ブリュッセルに引き返して、翌日ルパージュたちの見送りをうけて旅立ったのか。さらに、三千代自身はこのあと帰国までどこで生活したのか。これらの事実を確認する手立ては残されていない。ただ金子の『ねむれ巴里』の終わり近くに、「ルパ〔ージュ〕さんとしてみれば、きれいに僕を日本に帰すには、旅費を僕のために払ってやるほかにやりかたはないし、その日がながびくほど迷惑が大きくなってゆくこともわかっていたので(中略)、こんどは、さっさと、僕も腰をあげるつもりになった。アントワープに行って、M〔宮田〕氏に改めて彼女を託し、旅費を送りしだい彼女も発てるようにたのみこんだ。」という記述がある。これが本当だとすれば、金子は最後にアントワープへ行き、そこから乗船した可能性はある。
[PR]
by monsieurk | 2016-09-01 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)