ムッシュKの日々の便り

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男と女――第六部(18)

 金子は次いで「泡」を、「文学批評(ナウカ社)の一九三五年(昭和十年)六月創刊号に発表した。

  泡
  
    一

天が、青っぱなをすゝる。
戦争がある。

だが、双眼鏡(ねがね)にうつるものは、鈍痛のやうにくらりとひかる揚子江(ヤン
フーキャン)の水。
そればかりだ。

おりもののやうにうすい水・・・・・・がばがばと鳴る水。
捲きおとされる水のうねりにのって

なんの影よりも老いぼれて、
おいらの船体のかげがすゝむ。

らんかんも、そこに佇んで
不安をみおろしているおいらの影も、

藍のない晴天だ。
日輪は、贋金(しんこつ)だ。

    二

呉淞(ウースン)はみどり、子どものあたまにはびこる、疥癬(くさ)のやうだ。

下関(シャーカン)はたゞ、しほっから声の鴉がさわいでゐた。
うらがなしいあさがたのガスのなかから、
軍艦どものいん気な筒ぎちが、
「支那」のよこはらをぢっとみる。

ときをり、けんたうはづれな砲弾が、
 濁水のあっち、こっちに、
ぽっこり、ぽっこりと穴をあけた。

その不吉な笑窪(えくぼ)を、おいらはさがしてゐた。
 ・・・・・・・・

    三

――乞食になるか。匪になるか。兵(ピン)になるか。
――なもなければ、餓死するか。

づづぐろい、萎びた顔、殺気ばしっためつき、くろい歯ぐき、がつがつした湖南なまり、
 ひっちょった傘。ひきずる銃。
流民どもは、連年、東にやとはれ、西に流離した。
がやがやちいってやつらは、荷輛(かりょう)につめられて、転々として戦線から戦線に輸
 送された。

辛子のやうに痛い、ぶつぶつたぎった戦争にむかって、やつらは、むやみに曳金をひいた。
いきるためにうまれてきたやつらにとって、すべてはいきるためのことであった。
それだのに、やつらはをかしいほどころころ死んでいった。
・・・・・・・一つ一つへそのある死骸をひきずって・・・・・・・・

 ・・・・・・・・・
混沌のなかで、川蝦(かわえび)が、一寸づつ肉をくひきっては、をどる。
コレラの嘔吐にあつまる川蝦が。

水のうへの光は、
一望の寒慄(かんりつ)をかきたてる。
白痴・・・

䔥殺(せうさつ)とした河づらを、
跋足(びつこ)のふね、らんかんにのって辷りながら、おいらは、くらやみのそこのそこ
 からはるばると、あがってくるものを待ってゐた。

それは、のろひでもなかった。
うったへでもなかった。

やつらの鼻からあがってくる
大きな泡。

やつらの耳からあがってくる
小さな泡。

 金子は「泡」で、満州事変化以来、日本がつきすすむ中国との戦争の無惨さを冷静に描いた。
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by monsieurk | 2016-10-30 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(17)

 六月二十九日、三千代は「婦人文芸一周年記念講演と映画の夕」の講師の一人として招かれ、同じく講師つとめる武田麟太郎と再会した。
 「・・・武田麟太郎先生と会ったのは、昭和八・九年の頃のことで、当時、神近市子さんが主宰していた雑誌『婦人文芸』の講演会の、講演者控室でであった。
 たいへん暑い時だったとおぼえている。(中略)講演者控室に集まった人たちの中で、Kという女の人と私とが洋服で、私は、地のうすい白、その人はピンクのふわふわしたものを着ていた。
 武田先生はどこかの五六歳位の可愛いゝ男の子を連れて、こまかい横縞の木綿浴衣の着流し姿で、開場前から控室に来ていた。男の子を相手に先生は、しきりになにかすあべっていたが、ふと、私とKさんを眺めて、「ほら。このお姉ちゃん達が、これから舞台へあがってダンスをやるんだよ。坊やも、あっちへ行って見るかい。」
 と言った。
 Kさんと私は顔を見合わせたが、抗議する気にもなれないほど、その言いかたに愛嬌があった。そのあとで、私が控室の出入口のうす暗いコンクリ階段を下りて行こうとすると、すぐ後ろから、武田先生がついて下りて来た。すれちがいざまに、「今日は臨検があるのですか」と言葉をかけた。臨検という言葉を聞きなれていなかったので、私は、「え?」と小さく聞き返した。「婦人文芸」の執筆者達に左翼の人が多かったので、官憲の臨検があるのではないかとたづねたにちがいなかった。私が問い返したのに対して、「いい、いゝ」と言いながら、足早に先へ行ってしまった。先程、子供に冗談を言っていた先生とは、人がちがったような生真面目な、底暗い印象だった。この二つのまったくちがった印象のうって変わりかたが、私の心に深く残った。」(同)
 武田麟太郎は京都の三高時代に土井逸雄や清水真澄と同人雑誌「真昼」を発行して文学の道をこころざし、東京帝国大学の仏蘭西文学科に進み「辻馬車」の同人となった。この頃から、本所柳島元町の帝大セツルメントで働き、そこで知り合った東京合同労働組合の人びとを通して組合運動に関係するようになった。一九二九年(昭和四年)三月、刺殺された代議士、山本宣治の葬儀に参列するため京都に赴き、帰京したところで検挙された。ひと月ほどの拘禁生活から出ると、すぐに「暴力」を書いて「文芸春秋」の六月号に発表した。だが雑誌は発禁となり、「暴力」を削って発行された。それでもこの事件で、武田麟太郎は当時の文壇の注目を集め、華々しいデビューを飾った。
 一九二九年(昭和四年)二月には、日本プロレタリア作家同盟が結成され、プロレタリア文学の最盛期だった。ただ左翼運動全体は前年のいわゆる三・一五事件、その年の四・一六事件などの共産党員の相次ぐ検挙をきっかけに受難の時期を迎えていた。
 三千代が出会った昭和十年代の武田は、プロレタリア文学の行き詰まりから、主に東京の下町を舞台に働く女性や、生きる目標を失ったインテリ青年を登場人物にして、暗い世相を描きだすものに変わっていた。一九三二年(昭和七年)の「日本三文オペラ」(「中央公論」六月号、そして一九三四年(昭和九年)八月から十二月まで朝日新聞の夕刊に連載した「銀座八丁」は、風俗小説の先駆けとしてジャーナリズムで好評をもって受け入れられた。三千代の「柳剣鳴」にも触れた彼の「文芸時評」は、この年三月に創刊された「文芸評論」に書かれたものであった。
 三千代は「婦人文芸一周年記念」の講演会での二度目の出会いのあと半年ほどして、書き上げた原稿を持って、一人で武田の家を訪ねた。この日、武田の家には人がいっぱいいた。やがてそれらの人たちが帰り、夕方になって二人きりになると、三千代が持参した原稿を読み出した。武田は読み終わると、「これは、いけるな。」と言い、「改造」に出してはどうかと勧めながら、「巴里の宿」という題名をつけてくれた。結局、この百枚ほどの小説は、武田が主宰するかかわる「人民文庫」に掲載することになったが、その矢先に雑誌は廃刊となってしまった。
 三千代はその後、第一小説集『巴里の宿』(砂子屋書房、一九四〇年)を刊行するが、題名は武田麟太郎の命名によるものだった。こうして武田と三千代の師弟関係を越えたつき合いがはじまる。
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by monsieurk | 2016-10-27 22:30 | 美術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(16)

 この書評をきっかけに、三千代は武田の許を訪ねた。武田は小説家としてのキャリアは長かったが、三千代より三歳年下だった。武田麟太郎の死後に、三千代が書いた回想記「あの時 この時」にはこう書かれている。
 「私の妹の夫のKが、先生のところそのころよく出入りしていた関係で、妹〔はる〕と二人で、茅場町アパートの先生の住居をたづねることになった。エレベーターボーイのいない、自分で釦を押して上って行くエレべーターは、鉄筋の間を、一枚の鉄板に乗って上がって行くのが危なっかしく、のぞくと下まで見下されて、総毛立ったものだった。その時は、先に講演会で会ってはいたが、しばらく年月がたっていたので、初対面の感じで、双方、几帳面な挨拶をかわした。おおかたは雑談ですごしたが、先生は、突然のように、
 「中国人のとてもスマートな青年をよく知っているが、柳剣鳴は、きっとあんなのだろうなあ。」
 と、独りで呟くように言った。
 この次に原稿を持って来て、見てもらう約束をして、いとまを告げた。」(「あの時 この時――武田麟太郎先生の思い出」)
 このころ武田は、三高で同窓の大宅壮一がはじめた「人物評論」の編集所がある茅場町会館の六畳間に住んでいた。自動エレベーター付きの珍しいビルで、六階に編集室と住居の二部屋を大宅は借りていて、そこに居候していたのである。ライヴァルである矢田津世子や大谷藤子などが武田に師事しており、三千代も川端康成から小説上手と評された武田に書いた小説を見てもらう気持になった。
 金子が当時の詩壇に関する批評を書いたのは、大木惇夫が主宰する雑誌「日本詩」の第二号(十月刊)の「前月号月評」である。旧知の詩人たちを取り上げて容赦ない批評を加えた。
 たとえば、「川路〔柳紅〕氏の若づくりは決して、みっともないとは云いませんが、折角、才機で若さをつなぎとめてはいてもれ、作品にみなぎりわたる疲労素をどうすることもできないでしょう」。そして、「中西〔悟堂〕君が趣味にかくれようとすることは、中西君の卑怯とか、気の弱さとかいうことと同時に君の虚栄心――可愛い虚栄心だということが考えられます」。「岡本〔潤〕君の『晩餐』は面白いとおもいましたが、岡本君を知っているからの面白さで、十年間に格別、勉強のあとは見られません」と言った具合で、先輩も同輩も容赦はなかった。
 翌一九三五年の同誌四月号の「文芸時評」では、「堀辰雄がリルケを翻訳したり、三好達治が、歌よみのようなまねをしたり、している詩人達の仕事は、日のながいことである」、「萩原朔太郎の『氷島』も紀の国屋の店先でひろいよみした。この作家のミゼラーブルを世間がかっているのだなと思った」、「読書界では白秋ものがうれたそうだ。もっとも、いつか、村松梢風にあったとき――あれは、詩聖ですよ、といっていた。ゲーテのような詩聖という意味だったろうが、ゲーテのようなぼんくらあというつもりではなかろう」、「中原中也の詩集『山羊の歌』が出た。立派な装幀だ。無論、ほめようと思えば、いくらでもほめる言葉が用意されるが、それだけのことだ。からみついてこない。骨に錆びついてこない。知らん顔で素通りしてもなんでもない。アマチュア倶楽部の詩人にすぎないこんな風な詩人が、いかに純粋づらをして横行することよ」。
 とくにこの最期の中原中也を評した文章の、「からみついてこない。骨に錆びついてこない。知らん顔で素通りしてもなんでもない」という個所は痛烈である。『こがねば蟲』から十年余り、東南アジアやヨーロッパの旅で目にした現実、その間三千代との関係で味わった愛憎と比べて、これらの詩がいかにも作りものめいて見えてしかたがなかった。d0238372_6434170.jpg
 金子と三千代は乾を連れて、房州の海岸へ旅行に出た。布良(めら)に一泊して海づいに白浜の野島燈台を見て小湊まで行った。乾が風邪をひき予定よりはやく帰って来たが、野島燈台を見たことで、のちに書く「燈台」のアィデイアを得ることができた。
 五月十九日、三千代は折から来日中だったフランスの詩人ジャン・コクトーが滞在している帝国ホテルへ出向き、白つつじの一枝を添えて、詩集『Par les Chemins du monde』一冊を彼に贈った。すると翌日にペンクラブ主宰で開かれたコクトーの招待会に招かれ、柳沢健から正式に紹介された。コクトーは詩集のなかの「印度洋」をほめてくれた。
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by monsieurk | 2016-10-24 07:00 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(15)

さらに注目すべきは、「鷭」の四月創刊号と七月の第二号に、金子光晴の詩集『鮫』が雑誌の発行元である鷭社から、近く出版されるという広告が載っていること、創刊号第一輯では、「金子光晴著 / 詩集 / 鮫 / 近刊 / 鷭社 / 定価未定」とある。そして七月一日発行の「鷭」第二輯では、「定価五十銭 / 送料六銭」と、具体的に記されている。これから推察すると、少なくとも六月の段階で、詩集を構成する作品は出来上がっていたと考えられる。しかし「鷭社」はは資金が続かず、雑誌も第二号をもって廃刊となり、予告された金子の詩集も刊行されなかった。
 金子はこれらの詩を創作するのと並行して、少しでも生活費を稼ぐために少年少女向けの読み物を書いた。それが出来上がると、乾を連れて小石川の講談社を訪ねては知り合いの編集者に渡し、引きかえに小遣い程度の金を受け取った。講談社は少年用のチャンバラや奇想天外の物語をつねに欲しがっており、金子は思いつくとすぐそれを書いて持ち込んだ。そうしたものはこのとき十数篇にものぼった。
 そっして原稿が売れた日は、決まって乾を新宿の裏通りの中華料理屋に連れて行った。その店は中華饅頭や餃子、台湾風のビーフンが売り物で、それらをご馳走した。そんなとき金子は、幼い息子にむかって、「あんたのオカアさんはあんたを放っといて、酒ばかり飲んでくる。寂しくて不満に思わないか?」と、自分の鬱憤を子どもにかこつけて呟いた。
三千代の小説が売れ出して、編集者が仕事場にしているアパートに原稿を取りに来るようになった。たまたま金子がそこに顔を出すと、詩壇に疎い編集者は誰だろうという顔をした。三千代が紹介すると、相手はちょっと白けた表情になって挨拶した。金子の方も訪問客の目当てが三千代であるのが分かっていたので、散歩に出かかてしまうことが度々だった。
 原稿が売れだすと、三千代の交際は派手になり、半分は仕事の必要から編集者や男友だちと酒を飲んだりダンスに行く機会が増えた。会合などに金子を同伴することはなくなり、息子の乾を連れて行くこともあった。
 あるとき三千代が泥酔して帰宅し、余丁町の家の玄関からあがると、そのまま畳の上に倒れ込んだことがあった。迎えに出た金子は、彼女の腕をとって奥へ連れて行き、洋服を脱がせ、ガードルをはずし、脚の絹のストッキングを脱がした。そして三千代が吐きたいと言うと、洗面器を持ってきて、その上に古新聞を敷いて介抱した。こうした光景を息子の乾が目撃していた。この間、父親は文句ひとつ言わなかったが、眉間には皺を寄せた不機嫌な顔つきだったという。 
 三千代の小説「柳剣鳴」が、神近市子が主宰する雑誌「婦人文芸」の八月号(七月刊行)に掲載された。すると当時の流行作家武田麟太郎が、「改造」の九月号の「文芸時評――婦人作家の作品」で取り上げ、「森三千代の『柳剣鳴』は妙に読み易い作品だが、読んで了えば、それでおしまいである。途中ところどころ、うまい表現にぶつかるのは、作者の詩人が出て来るのであろう。いい意味での色気があるが、反省のないのはどうしたものか」と評した。
 三千代の持ち味をずばり言い当てた批評だったが、これが小説を批評された最初でうれしかった。
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by monsieurk | 2016-10-20 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(14)

 金子は一九三二年五月に帰国してから、この年雑誌に発表した作品は、「馬来の感傷」(「セルパン」、一九三二年八月号)など三つ。翌三三年は一つもなく、三四年は、「馬来ゴム園開発」(「作品」一月号)など散文が四本で、詩は「鷭」に載った「馬拉加」と「旗」の二つである。
 「季刊文芸」とうたった「鷭」は、古谷綱武と壇一雄が中心となり、古谷綱正、雪山俊之が加わった雑誌で、一九三四年(昭和九年)四月に創刊された。同人誌ながら執筆者には中堅や新進の作家、詩人が顔をそろえ、正方形の瀟洒なフランス綴じの堂々としたものであった。
 創刊号の「詩篇」には、室生犀星や佐藤春夫が作品を寄せ、田中克己、中原中也とともに、金子光晴の「馬拉加」と「旗」が掲載されている。この二篇は散文詩の形式で、「馬拉致加」は次のような作品である。
 
 ところどくろ染があり、焼け穴のあいた古い製圖のうへに 烏口をついて、私は心(しん)に マラツカ港の眺望をくるりと劃る。

 穹窿の砥は淡みどりに灼けて、 一ぽんの毛すじのやうな罅(ひび)が入つてゐる。正午 雲翳なく、軽氣球があがる。
 防波堤(なみよけ)の椰子。
 セメントで圍つた海のガラス屑。

 土人どもを零落させたものは、鳳梨を組立てる精密な構圖、それとおなじ 正確で きなくさい頭脳なのだ。一大隊の肩で整列してゐる小銃の幾何學なのだ。
 どうやら骨董じみた銃口は のぞくと 鼻くそでまつ黒だが。

 三百年むかしの人の血を吸つた蚊が 私のすねのまわりでさわいでゐる。哀しい唄よ。洗い晒したこのけしきよ。私は、あぶり出しをゑがくやうに、碧空のをくにながめるのであった。
 黄いろくなつた寫眞の、サルタン殿下のヘルメツトを。
          ――マラツカ城壁にのぼりて――

 そして「旗」――

 丘のうへには、秀筆(ちびふで)を立てたやうな椰子。雲はながれる。青空のかぎりを國々の旗で、かざりわたしたやうに。その旗の翻へる方へ、なびく方へ、身軽な旅装ひ。

 路ばたの紅芋のなかに鞄をおろし、景色をもつと新しくうつすために眼鏡を拭き、海や、風や、遠方にある自由をみあげる時のやうに、はるかに、かなしげにみあげる。
 一つの國が引越してゆくパノラマのやうな空を。

 郵便切手の赤繪の港。
 古めかしい税關(カストム)。
 卵を据えたやうな回教寺(モスケ)の塔から、むくむくと湧く白雲。風景の心臓を戦かせてすぎる驟雨(スコール)の前ぶれ。背すじを走る寒さ。味氣なさ。ゆきずりにむしつた木芙蓉(ヒビスカス)の花を私は、手からちらしてゐた。
 自由、それは高昧な氣流ではない。旅の氣まぐれでもない。

 自由、それは、國も 家も 人のしごとも、こゝる迄も、根こそぎうごいてゆく眺望のなかで、旗をみあげて喝采するやうな、あだな、さびしいこゝろだ。

               ――馬来半島ジョホールを越えて――   

 この二篇はいうまでもなく、東南アジア旅行から生まれた作品である。
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by monsieurk | 2016-10-17 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(13)

 詩集には森三千代よる「後記」とともに、フランシーヌ・ルパージュの次のようなフランス語の文章が印刷されている。

 Ecrire quelque mot, ma chère michiyo, est déjà chose difficile pour quelqu’un de qualifié, pour moi c’est presque impossible.Je vous remercie de m’avoir fait confiance pour ilustrer vos poèms par quelque bois. J’espère que mes gravures vous plairont, mais je crains que ces oppositions brutales de noir et de blanc ne correspondent pas aux images que vous suggèrent vos poésies.En Europe, nous admirons beaucoup votre Art, nous en sentons toute la beauté, mais le sens profound nous en échappe souvent.Aussi, ce fut parfois difficile pour moi d’inter-préter graphiquement vos poèmes d’une sensibilité si delicate, et si différents de notre Occident, et qui, malgré votre long séjour parmi nous, gardent la forte empreinte de votre pays natal.

               FRANCINE LEPAGE.

 親愛なる三千代、言葉を書くのは、訓練を受けた人にとっても難しいのに、私にはほとんど不可能です。あなたの詩に木版で挿画を添えるのに、私を信頼してくださったことを感謝いたします。私の版画を喜んでくださるのを期待しますが、黒と白の強烈な対照が、はたしてあなたの詩が暗示するイマージに合っているかどうか心配です。ヨーロッパでは、あなた方の「芸術」は大いに賞讃され、私たちはその美に感じ入っていますが、それでもその深い意味を逃してしまうことがよくあります。同様に、あなたが私たちの許に長らく滞在していたとはいえ、故国の特徴を色濃く留め、私たち西洋のものとは大きく異なる、きわめて繊細なあなたの詩を造形することは、私には大変むずかしいことでした。

                       フランシーヌ・ルパージュ 
 
 手元の詩集の扉の裏には正富汪洋に宛てた献辞が書かれている。正富は一八八一年(明治十四年)に岡山で生まれ詩人で、詩誌「新進詩人」を創刊した人である。さらに裏表紙には中野区の「キェピタル・アパート 森三千代」という鉛筆の書き込みがある。
 三千代はこの詩集を上海で知り合った魯迅にも一部贈呈した。『魯迅日記』の一九三四年(昭和九年)三月十二日の項に、「『東方の詩』一冊受けとる、著者の森女史より寄贈されたもの」とあり、三月十七日には、「夜、山本夫人(ハツエ)に返信。森三千代女史に手紙。寄贈書の礼。」と書かれている。
 この礼の手紙が残されていて、それは以下のような文面である。
 「拝啓 一昨日 御頒与ノ「東方の詩」ヲイタダイテ御蔭様デ スワッテ色々ナ處ニ旅行スルコトガ出来マシタ。厚ク御禮ヲ申シ上ゲマス。
 蘭ノ話ト云ヘバ料理屋ニ集マッタ有様モアリゝゝト目ノ前ニ浮出シマス。併シ今ノ上海ハアノトキト大ニ変ツテドウモサビシクテタマリマセン。
                           魯 迅 上
 森三千代女史机下
           三月十七日」

 上海にいたとき、魯迅と三千代の間で話題になった蘭の話というのが、どんなものだったのか不明だが、『東方の詩』のなかの「上海」では、次のような光景を描いている。

炎のやうな杭州緞子(フーチャウどんす)に
にぎり拳のやうな女の一方の足が包まれてゐる。
むかつくやうに臭い。
――艶のうせたもの、羞かしいもの。

踊つたことのない足だ。さうではない。
人に荷はれて宙に揺れてゐるだけの足だつた。
古い商品に斬新な商標を貼る上海の商人は、
それを、「福州の木茸」とつけた。

その店先に立止つて
女政客は、拳をあげて罵つた。
長い煙管を杖についた老人は
一日、あきもしないで、それを眺めてゐた。

だが、苦力(クーリー)や、黄鞄車(ワンポツオ)や、乞食は
あえぎながら、よろめきながら、
針のやうな細い眼で睨まえて、
食はない胃の腑が、」でんぐり返つた。
――あれあ、甘(う)まさうだ!

 金子や三千代が魯迅と内山書店のサロンではじめて会ったときから凡そ五年半、その間に日中関係は大きく様変わりした。
 一九三一年(昭和六年)九月、関東軍の参謀たちは満州占領をくわだて、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破。これを中国軍の仕業と主張して総攻撃を開始した。さらに関東軍は中国国内に軍を進め、一九三二年一月には日本海軍陸戦隊は抗日運動を弾圧するために上海に出兵。国民党政府は妥協的な態度をとったが、十九路軍は市民や労働者の支援を受けて頑強に抵抗した。このとき魯迅一家は銃声が響くなか、内山書店などの身をひそめて五十日におよぶ避難生活を強いられた。
 日本政府は三月一日、清朝最後の皇帝溥儀を執政とする満州国の建設を宣言した。これに対して中華民国は国際連盟に提訴し、日本の提案も受けて、国際連盟は真相解明のためにイギリスのリットン卿を団長をする調査団を派遣した。調査団は満州の現地、日本政府、中国の蒋介石らから事情を聴取するなどの三カ月にわたる調査のあと、同年十月に報告書を公表した。報告書の結論は、満州には中国の主権のもとに自治政府をつくり、国際連盟が派遣する外国人顧問の下で、充分な行政権を持つものとするというものだった。 
 その後報告書をめぐって烈しいやり取りが行われ、一九三三年二月、日本軍に対して満州からの撤退を勧告する決議案が賛成四十二カ国、反対は日本一カ国で可決された。これを受けて翌三月、勝岡洋右外相は総会で日本の国際連盟からの脱退を表明した。こうして日本と中国との対立は決定的となった。
 魯迅は日本へ留学した経験があり、上海でも国民党の弾圧から逃れるために、内山書店の内山完造の庇護をうけるなど、日本人庶民の親切と技術の高さをよく知っていたから、日本人をひとまとめにして非難するようなことはなかった。彼は東京帝国大学中国文学を卒業して魯迅の許を訊ねた増田渉に、一九三一年から毎日『中国小説史略』や自らの小説集の講読を続けたし、三千代との交流などもそのあらわれだった。しかし、魯迅が日本の大陸政策を認めることは決してなかった。
一九三四年三月三日、銀座の「明治製菓」の二階で、『東方の詩』の出版記念会が開かれ、長谷川時雨の「女人芸術」を引き継いだ雑誌「輝ク」の同人の女流文学者が大勢出席した。これを契機に、三千代は詩ではなく小説一本でやる決心をした。
 その三日後の九日には、金子の実母りようが亡くなった。六月になると、彼女は望月百合子から日本舞踊を習いはじめ、八月には大田洋子たちと合作で書いた映画のシナリオ「人生芝居」の撮影が開始され、その現場を訪れた。さおして九月十五日には、横浜開港記念館で「芸術の謝肉祭」と題した講演を行い、十一月十日には、本郷の帝大基督教青年会館本道の詩人祭で講演するなど、作家として認められるようになった。
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by monsieurk | 2016-10-14 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(12)

 モンココの事務所から一軒置いた隣の、新宿区牛込余丁町一〇九番地余丁町の借家は二階建てで、持ち主は教員だった。家の入口には藤棚があり、季節になると一尺ほどの房が下がった。庭には柘榴の老木が植わっていて、秋には何千個もの実をつけ、屋根から張り 出した亜鉛の屋根庇に夜通し実を落とし、それが転がる音が耳についた。金子と三千代は戸籍上は籍を抜いていたが、海外への放浪の旅に出る前、長崎で別れて以来、四年四カ月ぶりに、親子は一つ屋根の下で暮らすことになった。ただし互いの感情や生活は拘束しないという暗黙の了解のもとであった。
 毎日の炊事と小学校二年生の乾の面倒は、同居する三千代の妹のはる子がみてくれた。乾は冬になると自分の身体より大きな剣道道具を竹刀に通して肩に負い、その重たさでふらふらしながら、すぐ裏手にある小学校に寒稽古にでかけた。 
 山之口はこの家にもよくやって来て、あるとき嫁さんが欲しいと打ち明けた。世話好きの小学校の先生がいて、その人が世話役となり、両国橋を越えたところにある喫茶店で、お見合いということになった。金子と三千代、その他三、四人がテーブルを囲んでコーヒーを飲みんだが、山之口も先生が紹介した女性も、はにかんで互いに顔を会わせない。金子が、「貘さん、この方と二人だけで、近所を一廻りしてきたらどう?」と言うと、二人は言われた通りにおとなしく外へ出て行った。三十分ほどで帰ってくると、女性が結婚を承諾したという報告だった。
 こうして二人は余丁町に近い牛込柳町の弁天アパートで新婚生活をはじめたが、箸一つ、茶碗一つから用意する必要があり、金子や三千代のところにあったもので間に合わせた。他にいるものはないかと尋ねると、山之口莫は、「これは言いにくいんだが、金子さん、無理でしょうね。――仏壇のいらないのありませんか」と言った。
 金子は自分の実家にあった紫檀の仏壇を、中の座布団を敷いたリンや仏像も一緒に入れたまま、彼に担がせて持っていかせた。そして残った元禄や享保頃から続く過去帳は小庭の枯葉や紙くずとともに燃してせいせいした。
 金子は家からモンココの事務所へ通い、月給と三千代が書く原稿料で暮らす目途がどうにか立った。「――これで、また三文文士の生活にもどらずにすむか、とおもうと、なんとなく担道に出たようなくつろぎとともに、一抹の寂寥を感じた」(『詩人』)のだった。

 三千代が詩集『東方の詩』を出版したのは、一九三四年(昭和九年)二月である。フランス綴じの詩集の奥付には、「昭和九年二月二十五日印刷 昭和九年三月一日発行 定価金壱円送料四銭 著者 森三千代 発行兼印刷人 東京市神田区猿楽町一丁目五番地 守部市美 印刷所 図書研究社印刷部 発行所 東京市神田区猿楽町一丁目五番地 図書研究社」とある。
 手元の本は、四六版、版画六葉(フランシーヌ・ルパージュ)、本文七四頁、跋〈フランシーヌ・ルパージュ)一頁、後記五頁、目次四頁。定価は一円である。 これは先のフランス語の詩集『Par les chemins du monde』に収めた十八篇のうち、「コークスになつた心臓」以下十一篇の日本語ヴァージョンと、以前に雑誌などに発表した日本語の十八篇の計二十九篇からなっている。 詩篇はタイトルが示す通り、金子光晴とともに、一九二八年十二月に長崎を出て、上海、香港をはじめとする中国、シンガポール、インドネシア、マラッカなどの東南アジアを旅して得た題材をうたった二十八篇とパリを舞台にした一篇で、フランシーヌ・ルパージュ作の挿画六点が添えられている。 冒頭の一篇「印度洋」――

まつさをい海。
でこでこしたラムネの罎のやうな海。
その海の上で、あたしのからだがねぢれる、
サキソフオンのやうに。

私の聡明、形のわからないものゝなかに、思想のゆれてゆく小径を考えてゐる。
ヘナヘナになつて、雲形にもまれてゐる感情の上に、
船欄のバランスが変形するのを、わたしは眺めていゐる。
未熟な果実のやうなまつさをな海の上の朝だ。

ごらんなさい。
宿酔うの、はれぼつたい顔、あたしの眼は充血してゐる。
波のなかに浮いて漾つているけふの玩具。
めがね、ピストル、とかげ、シルクハツト、鋏、かうもり傘、いかり、・・・・それから
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by monsieurk | 2016-10-11 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(11)

 こうして山之口貘との交友がはじまって間もなく、帰国直後に上京してから一年ほど住み暮らした竹田屋を出て、一時は奥村五十嵐がおり、女給たちも多いアパートへ移り、次いで太宗寺の墓地が見える新宿一丁目の北辰館に変わった。
 北辰館の持ち主は警官上がりで、十人ほどの女給が住んでいたが、仕事柄明け方まで帰ってこないので、夜通し起きている金子には静かで都合がよかった。ここでやがて『マレー蘭印紀行』や、『女たちへのエレジー』となる草稿に少しずつ手をいれた。
 この時期、交遊が生まれたのは画家の田川憲で、彼は木版もつくり、『鮫』をはじめ戦後刊行する二、三の詩集の挿画を担当することになる。
 金子が北辰館へ移って間もなく、新宿余丁町の実家から急用があると迎えが来た。このころ実父の和吉との長兄の正は東大久保におり、余丁町には実母のりょうと、妹の捨子(本名は捨)が結婚した河野密夫妻、弟の大鹿卓夫妻が大きな屋敷に住んでいた。
 河野密は千葉の大きな醸造業者の後とり息子で、金子の二歳下だった。一高から東京帝国大学法学部へ進み、在学中に新人会に参加した。将来は代議士をめざしていた彼は、卒業後は日本労農党に入党、次いで社会大衆党へ移った左翼の運動家だった。捨子との出会いは河野が大学を卒業した直後に、千葉の海岸に友だちと海水浴に来ていた彼女をみそめて捨子の父の和吉に娘を妻にくれと申し込んだという経緯だった。
 金子が余丁町の家へ行ってみると、捨子が化粧品製造の会社を興そうとしており、金子に製品のデザインと命名をやってほしいということだった。捨子はこれより前に、「サロンエプロン」という割烹着を大胆にカットしたものを考案して、「主婦之友」の代理部を通じて全国に販売したところ、若い主婦たちに受けて大いに儲けた。その資金をもとに、山本十重松や山本喜代松などの出資を得て、化粧品をつくることになり、主婦之友社の営業部長である中野武雄の知恵で、フランス帰りの金子に白羽の矢が立ったのである。
 新会社の主力製品は洗粉とクリームで、粉白粉、乳液など品揃えも豊富だった。金子はこれらの製品のネーミング、新聞や雑誌の広告の絵と宣伝文、容器のデザインなどを担当することになった。彼はさっそくモンココという社名を考え出した。
 そのモンココの名の由来について、作家で、一時期自身もサントリーのコピーライターだった開高健が、金子から聞いた話を披露している。
 「金子さんはずっと、ある小さな化粧品会社の宣伝文を書いていた。いまでいうコピーライターである。戦前、《モンココ》という化粧品があった。戦後は《ジュジュ》となった。(中略)いつか《モンココ》の命名の由来を金子さんに聞いたら、面白い話を教えられた。何でもパリで食うや食わずの放浪をしていたとき、金持ちの日本人がヴァカンスで遊びにいくからそのあいだ留守番をしていてくれとたのまれ、ベッドにもぐりこんでいたら、その女がやってきて、留守とも知らずに、《モン・ココ! モン・ココ》といってドアの向こうで鳩のくが鳴きをした。金子さんは空きっ腹でムシャクシャしていたから、ベッドのなかから、モン・ココじゃねいやいと叫んだ。日本へ帰ってからそのことを思い出して、化粧品の名につけた、という。(“モン・ココ”はフランス語では“かわい子ちゃん”というような意味)」(『日本詩人全集 金子光晴・草野心平』第24巻付録)
 モン・ココの由来にはもう一つ別の説がある。モン・ココは、モン(私のというフランス語)とココ椰子のココの合成語で、ココはココナッツの形から女性器の隠語であるという。そうだとすると、モンココ洗粉とは私の陰部を洗う粉ということになり、金子はそれを承知の上で社名に「モンココ本舗」を提案して、正式に採用されたのだった。
 「モンココ洗粉」は女性の洗髪用シャンプーで、細長い金属の容器に入っていて、蓋をとって粉状の洗粉を掌におとし、それで髪を洗うものだった。その容器には尖がり帽子をかぶり、ワンピースを着た、やたらに脚の長い白人の美女が描かれていた。このデザインもすべて金子の考案で、パリの地下鉄の駅などで見かけた広告の影響だった。
 モンココ本舗に事務所は河野の所に置かれ、工場も最初は敷地内にあったが、のちに資金を提供する人があらわれて、工場は高円寺に移った。金子は毎日事務所に出勤することなど考えられなかったから、顧問ということにしてもらい、一カ月五十円の給料をもらうことになった。生まれてはじめて定収入を約束されたのである。
 「それは、老母の母性的な心づかいからで、三重県にのこしてある子供を親の手元に引取らせ、親子三人の揃った生活の幸福を孫に味わせたいという祖母の気持でもあった。
 すでに、気持として、各自勝手な方向にむかっていくより仕方がなかった両親が、たがいに、旅館ぐらしのくたびれのあとで、成長していく子供を中心に、子供の父、子供の母に戻って、一つ囲いのなかにあつまったという感じだった。あまりにながい苦難のあとだったので、かえって、おたがいの恩怨は二つとも消えていたし、心境はあまりにちがいすぎているので、たいがいのことは抵抗少なく、あまり波風なく、平穏に処理することのできる習練もつんでいた。そのまま一つに流れていくものならそれでもいいし、また、おたがいにもっとよい条件ができて離れた方がいいときには、それでもいいというような、自由な黙契のもとに、両親なしであじけないおもいをさせた子供のために、すこしは犠牲になりあおうというような相談ができ、余丁町の一〇九番地というところの借家を借り受け、森は、近くの若松町のテイトアパートに一室借りて、昼間は事務所がわりにそこにいることにした。」(『詩人』)
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by monsieurk | 2016-10-08 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(10)

 一九三三年(昭和八年)三月、実弟の大鹿卓が、詩人の神戸雄一、太宰治、今官一、評論の古谷綱武たちと、同人雑誌「海豹」を創刊した。「新進評論家としてうり出してきた古谷綱武から、あたらしい文学とか、文壇とかいうものの空気を、はじめて教えられた。僕にもやっと当時の日本の文学界の動静がわかりはじめ、――とても、僕らの手におえないものだ、ということが納得がいった。」(『詩人』)
 そんな金子のもとに、国吉真善という名前の人から手紙が届いたのは六月である。手紙は、「琉球料理を味わう会」の案内状で、佐藤惣之助の「是非きてくれ」という添え書きが入っていた。国吉が以前から北千住で泡盛屋を開いていて、沖縄から直送の泡盛を飲ませることは知っていた。佐藤は金子が下戸であるのが分かっており、その彼がわざわざ誘うのだから、単なる飲み会ではないことは推察がついた。それでもまだ疲れの抜けきらない身で、佐藤の顔をみるだけに北千住まで出かけて行くのは面倒だった。三千代も、「私も、どっちでもいいですよ。泡盛というものは、なじみがないし、強いそうだからひどくよったりするとみっともないし」(『鳥は巣に』)というので、一度は欠席と決めた。だが当日の六月二十八日の夜になって気がかわって、三千代と二人で出かけた。
 目指す泡盛屋はすぐに分かった。二階の座敷には詩に関係する若い人たちが座って、部屋のまんなかには背の低い泡盛の甕がすえられ、二、三時間もたたないうちに参加者たちは舌がもつれ、立ち上がるとひらふらするほど酔っぱらっていた。そのなかで琉球の詩人伊波南哲が蛇皮線を弾いて、郷土の哀調をおびた歌を披露した。
 伊波は名を知られはじめていた人で、金子見知っていた。彼の蛇皮線にあわせて、山之口貘が立ち上がると口笛をふきながら踊った。手や足のさばきの小気味よい踊りだった。そのあと山之口は金子のそばにきて、田舎の中学校で詩を書いていたときから金子の『こがね蟲』のファンだと、自己紹介をした。これは金子にとっても意外だった。
 沖縄那覇生まれの山之口はこのとき三十歳で、金子より九歳年下だった。d0238372_1753863.jpg 沖縄にいたときから詩や絵を発表し、十九歳のとき一度上京して日本美術学校や本郷絵画研究所で学ぶが、約束の父から送金がなく友人の下宿を転々とした。翌一九二三年、関東大震災にあい、罹災者恩典で帰郷した。そして二年後、ふたたび上京したが停職はなく、公園や駅のベンチ、土管、キャバレーのボイラー室等に寝泊まりして放浪生活をつづけた。そうしたい中なかで詩を書き、最初の詩集『思辯の苑』を出した。
 「琉球料理を味わう会」があったころ、山之口は両国にある鍼灸医学研究所の通信事務の仕事をしながら研究所が経営する医学校で鍼灸を学び、佐藤という在日朝鮮人の校長の好意で学校の水の漏る地下室にハンモックをつって暮らしていた。
 金子はすぐに純朴な彼を気に入った。山之口は竹田屋を訪ねたいといい、金子は承諾した。そして彼は約束通り、翌週の水曜日の午後に金子を訪ねてきた。
 「その時はまだ、金銭に換える仕事らしい仕事を持っていなかった僕は、この若者を歓待すべき入用の費用をもっていなかったので、近所の質屋にゆき、そこの土間で、はいている礼装用のふとい棒縞のズボンと、すでに入っているありきたりのスボンとをいれかえその差額をもって宿に帰り、けげんな顔で上下をながめている彼をともなって、当時電車通りにあった白十字という家で、一人前一円五十銭也の定食をおごった。そんなことは、ほんの一例で、僕の人生は、考えてみると、はじめからそんなやりくりだらけである。貘さんは、一言一言、ゆっくりと、彼がうそを言わないとは言わないが、そのうそさえも、肌身に沁みて、しっくりと語るので、その調子にうながされて、こちらもつい、本音に似た返事をしてしまい、そのあとで、引出さなくてもいいじぶんのボロを引出して、始末に困るといった気持になるのであった。彼が若い身空で抱いているものは、貧乏と誠実であった。」
 山之口貘の記憶によれば、「かれはそのとき、一冊の大学ノートを、ぼくに見せた。それが『鮫』という長い長い詩で、一字一句、繊細な楷書でノートを埋めつくしていたのである」(『金子光晴詩集』解説)という。
 二人は互の住まいを行き来したが、山之口は金子が訪ねた日のことを、次のように書いている。
 「当時のぼくは、本所両国駅前のビルディングの空室に住んでいたのであるが、その空室に、ぼくのことを訪ねて来た金子光晴は、フランス帰りの人のようには到底おもえなかったほど、へんてこな恰好をしているのに、ぼくはおどろいたのである。そのときのふたりは、別に、詩の話などするでもなく、エスキャールという近所の喫茶店で、珈琲をのんだにすぎなかった。」(同)
 へんてこな恰好というのは、その日は雨で、金子は破れ傘をさし、ちびた下駄を履き、着物の裾をまくりあげながら駅の階段を上って行く後ろ姿をさしたものである。
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by monsieurk | 2016-10-05 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(9)

 二人は急速に愛し合うようになり、食事やダンスに一緒に出かけ、熱海にも行ってお宮の松の句碑の前で写真を撮ったりした。鈕先銘は妻を国に返し、二週間後にフランスへ行く予定も延期する。
 ダンスホールに踊りに行った夜、彼は三千代をアパートまで送ってくる。小説ではその場面は次のように描かれている。
 「文代が自動車を下りると、剣鳴もつゞいて下りた。
 ――部屋まで送つて下さいますの。
 ――お別れですから。
 ――のどが乾きましたわ。一寸まつて。
 彼女は、戸を下ろした街のなかに、都合よくまだ起きてゐる果物屋の店に走つていつた。果物の包みを抱えた彼女を先に立てゝ二人は部屋に入つた。すると柳剣鳴はいつのまに手に入れたものか、レーンコートの両方のポケットから一本づつビールの罎を出してテーブルの上に置いた。(中略)
 ――僕は四時までお邪魔してゐて、一番の電車でかへります。
 ――私たち、
 文代は言ひかけて狼狽して興奮を抑へようとしてゐるのを彼はぐつと眼でとらへた。
 ――お知り合ひになるのがおそすぎたのですわ。
 彼はじつとみつめてゐたが、いきなり近かよつて接吻した。彼女の夜會服の肩がはづれた。彼はつるつるしたまるい肩にもう一度接吻した。
 彼女はからだのなかで荒れ狂つていた血が、ふと静かに流れ出すとはじめて別離の思ひがはつきりしてきた。男の腕をゆつくりと彼女は自分のからだからはなして、少し身をづらせた。もう彼女は、自分の思出のなかで生きはじめてゐるのを意識した。一つの戀の冒険がすぎたのだ。二三日して行つてしまつて、もう再び會ふこともないこの男と何の約束もすまい。朝までもう二時間。子守歌のやうならちもない話をする。
 だが、剣鳴は病人のやうに眞つ青だつた。大きな眼が光つてゐた。彼の額に亂れた毛がかゝつてゐた。
 ――苦しまないでね。あなたは、なんの責任もないのよ。
 と、彼女は言つた。
 ――僕、妻と離婚します。
 文代はそれを否定しようとすると、剣鳴は、荘錦翼の父が先達て満州國に國籍をうつしてしまひ、また、彼女の弟が満州國の軍人になつてしまつた、それは、中華の軍人である剣鳴にとつては、充分に困つた問題で、離婚する理由があるのだと言つた。
 ――だつて、荘さんは、
 と言ひかけて、文代は沈黙した。
 ――私は日本の女よ。
 しばらくして、冷やゝかに彼女は言つた。
 ――それはわかつてゐます。しかし、僕はあなたと結婚します。
 ――當面した事實の重大さに、文代はひしひしと壓された。譫言のやうに、うつろな目で云ひつゞけた。
 ――そんなこと考へないことにしませうね。
 朝になつて、あなたは、その扉からいつておしまひになる。左様ならと言つて。あなたを愛したことを私は死ぬまで思ひ出してゐますわ。それでいゝのですわ。
 ――あなたのそこ決心をひるがへすまで僕は出發をのばしますよ。
 文代は、部屋を出たついでに階下へ下りて、脱ぎすてた彼の大きな靴を彼女の下駄箱にしまつて、明日の朝、人の目につかないやうにその靴の上にスリッパを乗せた。」(『柳剣鳴』)
 性格的に陽性の二人は相性がよく、鈕先銘は真剣の三千代との結婚を考えた。彼は、「今から三年後に必ず迎えに来ます。中日の戦争は、きっと避けられない。僕はその時、攻めて来て、この東京の城下の誓いをさせてみせる。その条件として、君を出せという」(「新宿の雨降る」)と言いながら帰国し、やがてフランスへ留学した。
三千代はフランスの鈕先銘に宛てて幾通も手紙を出すが、日中戦争によって二人は隔てられ、再会を果たすのは十五年後のことである。
 三千代の体験した恋愛を描いた小説が雑誌に発表されたのは一九三四年(昭和九年)のことで、当然金子は原稿を読んで、添削のアドヴァイスをしたはずである。ここにも二人が築きあげた、世間の常識とは異なる関係をうかがうことができる。
 三千代の新宿にあるアパートに、すぐ下の妹はる子が乾をつれてきたのはこのころである。書くものが売れはじめていた三千代は忙しく、乾の面倒はもっぱらはる子がみた。金子は竹田屋から新宿アパートに出かけていって、ときどきステーキを焼いたりした。金は三千代の稼ぎだったと思われる。
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by monsieurk | 2016-10-02 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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