フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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<   2016年 11月 ( 10 )   > この月の画像一覧

男と女――第六部(28)

 金子と三千代は七月三十日、小学三年生になった乾の夏休みを利用して、親子三人で富士登山に出かけた。五合目までは馬喰がひく子馬で登り、そこで一泊。金子は高所恐怖症だったが、乾のために翌日は夜が明けきらぬうちに、山頂をめざす登山者の行列に加わって登った。
 「雲の切れ目からあがってくる太陽の壮観を観ようというわけだ。人々は、それを御来迎と呼び、瞬間、讃仰の声を放ち、白衣の行者たちが、数珠をおしもんで経文を唱えたりしているあいだで紅肌に白い毛ずねを股まで露わに出した外人の娘や、日本の学生たちが、しきりにカメラをむけて、カチカチやっていた。大きな自然をみたりすると、人間の感性はその威圧を受け、たようろうとするおもいを抱くものらしいが、なにものにもじぶんを捧げるほどの敬虔な感情をもったおぼえのない僕の眼には、それはただ大仕掛けなキネオラマとした映らなかったが、それでも、心を洗われるような清涼な空気の味と、少なくとも窮乏な日常生活の煩いをふり落して、遠くに来ているなという、意地悪な、さばさばとした報復感だけは味わうことができた。」(『鳥は巣に』)
 このあと三人は火口を一周して五合目まで下山し、そこからは自動車で山中湖にあるホテルに泊まった。さらに富士五湖をめぐり、浅間温泉、上高地、中湯温泉、五千尺、を見てまわった。
 その先、槍ケ岳にも登るはずだったが、金子は腰痛で動けなくなって宿に残り、三千代と乾の二人だけが槍ケ岳の麓まで行った。あとで訊くと、三千代は雪渓にそった道を、乾の手をひいてハイヒールで登ったのだという。専門家によれば、雪渓の下には雪解け水が流れていて、その上を街を歩くのと同じような姿で登るのは無謀そのものだった。だがこれも向こう見ずの連続の三千代らしいやり方だった。こうして金子は腰の痛みをかばいながら、余丁町の家に帰り着いた。
 「生涯のたのしかった頃は、あの時が頂上だったかもしれない。負債も片づいたし、一銭の貯金もないながら、入ってくる金も多少あり、金があれば、遊び場に出かけて、みんなでそれを手ばたきにした。まるで、これまでの意地ばらしのような心境からであった。」(同)
 三千代は相変わらず武田麟太郎の許に出入りしていて、ときどき妹はるを連れて行ったが、彼女は武田の家でよく顔を合せる国民新聞社に勤める菊地克己と結婚することになっり、十月十二日に、ささやかな披露宴が行われて金子も出席した。
 十一月二十五日、国際連盟から脱退して国際的に孤立化を深めるの日本は、ヒトラーのドイツとの間で日独防共協定を調印し、国内ではそれを祝う祝賀会が盛大にもよおされた。
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by monsieurk | 2016-11-30 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(27)

 金子と三千代が帰国して以降、中国大陸での戦争拡大につれて、日本社会の右傾化が進んだ。
 一九三五年(昭和十年)二月には、菊池武夫が貴族院で美濃部達吉の天皇機関説を批判し、美濃部はこれに反論した。しかし首相の岡田啓介が議会で天皇機関説に反対を表明し、美濃部達吉は九月に貴族院議員を辞職した。そして政府の思想取り締まりは一段と強化された。この年の三月には、日本共産党幹部が検挙され、共産党中央委員会は壊滅。機関誌「赤旗」は終刊に追い込まれた。
 武田麟太郎はかねて雑誌「文学界」に名前を連ねており、同人の会合が十月に行われ、その席で小林秀雄が再編を主張した。
 それは先輩作家たちに遠慮してもらって、横光利一や川端康成以下の若い者たちで雑誌をやろうというものであった。そして小林が同人の間をまわって話し合いの結果、里見弴、宇野浩二、豊島与志雄、広津和郎が身を引き、代わりに村山知義、森山啓、島木健作、舟橋聖一、阿部知二、河上徹太郎の六人が加わって、同人は全部で十三人となった。編集は小林秀雄と十一月に出所した林房雄がやることになり、武田はなんとなくはみ出した形だった。
 そうしたとき林房雄がプロレタリア作家を再結集しようといい出し、武田も賛成して発起人になった。創立総会は官憲の目が厳しい折から、入会勧誘状を出し、その返事をもって総会にかえた。締切の十二月十九日には、九十五人から参加の返事が集まった。
 年が明けた一九三六年(昭和十一年)二月二十六日、陸軍皇道派のの青年将校が千四百名あまりの兵を率いて挙兵し、内大臣斎藤実、蔵相高橋是清、教育総監渡辺錠太郎たちが殺害し、政治の中枢である永田町一帯を占拠して、国家改造を要求した。いわゆる二・二六事件である。前夜から大雪が降ったこの日、金子は自宅にいた。
 「前夜来の雪の寒い朝、余丁町の表口から国木田が、蒼ざめた顔をしてぶるぶるふるえながらやってきて、
 「たいへんだよ光(み)っちゃん」
といって、軍人たちがクーデターをはじめて、内閣の閣僚は皆殺されたと報道した。二・二六事件だった。僕も来るものが来た、という感じがした。たしか、その頃は、余丁町一〇九番地を引きはらって、表通りの電車道に添うた、一二四番地の貸家にうつっていたと記憶している。その家は、やはり五坪たらずの庭があり、柘榴のかわりに、すばらしく立派な柘植の木が一本植っていた。国木田は、左翼の出版の秘密図書を一抱えもってきた。僕は、鍬をふるって、その柘榴の木の根もとの雪をおこし、できるだけふかく地面を掘って、その本を悉皆埋めた。国木田の身のうえに迫ってくる危険を、我身のうえにも惻々と感じた。」(『詩人』)
 時勢は緊迫する一方だったが、武田麟太郎たちが主宰する雑誌「人民文庫」は、三月に創刊号を出した。その編集後記にはこうあった。
 「いつからか、こんな雑誌を出してみようと云ふ気運が私たち仲間に湧いた。云はば、今のところ徒党的な雑誌であるが、それでいいと思つてゐる、外から原稿は貰はず、仲間だけのですました、後々までこの調子でやつて行くかどうかは未だ解らない、唯、秋田、江口、青野氏には社会主義文学の三長老と云ふ意味で、若輩の私たちを助けて、勝手気気儘なところを、毎月何頁か書いて頂くことにした。」
 雑誌の費用はすべて武田が持った。参加者は「日暦」を主宰していた高見順や、新田潤、渋川驍、円地文子など旧日本プロレタリア作家同盟の人たちが多く、武田を師と慕う大谷藤子や谷田津世子も同人となった。皆が次第に発表の場を失いつつあった。三千代も武田の行動力に強く魅かれた。
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by monsieurk | 2016-11-27 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(26)

 金子はおっとせいのなかでただ一頭の、「おっとせいのきらいなおっとせい」として自分を描いている。しかしその「おいら」も、「やっぱりおっとせいはおっとせい」で、「ただ / 「むこうむきになっている / おつとせい」にすぎないと痛烈に自己を批判している。彼もまた俗衆のひとりであることを免れてはいない。
 金子の詩は、この時代にあって明らかに異質であった。
 「当時の僕には、詩の傑作はあまり問題ではなかった。僕は、当時の詩の周辺に対する諸疑念をたしかめ、じぶんの認識をしっかり心にきざみつけるため、納得のゆくためにだけ、詩を書こうと心組みした。そういう意味で、僕は、過去の僕の詩の書きかたと全くちがった方法で詩を書き出した。いずれは僕の人生の一つの総決算をして、プラスとマイナスをはっきりさせ、じぶんじしんにつきつけるためであった。」(『詩人』)
 先にも記したように、「おっとせい」を含めた詩集は、一九三四年(昭和九年)三月頃には、古谷綱武たちの「鷭社」から出版することが決まっていた。だがその矢先に「鷭社」が資金難からつぶれて、計画は頓挫してしまった。
 金子は『詩人』で、「僕は、しかたがなしに詩を書いた。詩集にするという話が、『詩原』をやっていた遠地輝武君からあって、まとめにかかった。遠地の方の話が駄目になってから素人の本屋さんが、印刷機械をもっているので、詩集『鮫』を、四号活字で豪華なものにする目的で、紙型までとった。武田麟太郎のやっていた『人民文庫』社で出版するという話が最後にあった」と書いている。
 この記述のように、「鮫」の一篇だけを、遠藤輝武が詩集として出したいといってきたが、これは実現しなかった。次いで素人で出版社をやっている秋山龍三が印刷機をもっているので、ここから出版しようという話が持ち上がった。このときは四号活字で組んだ豪華なゲラ刷まででき、紙型までとったが、資金と緊迫する時勢を考慮した結果、出版されなかったの思われる。
 こうして詩集は出版されずに終わったが、ゲラ刷を読んだ赤松月船が、雑誌「日本詩」に批評を書いた。これは詩の大部分にあたる百三十行を引用したもので、批評というよりは紹介に終始したものであった。こうして実際の詩集が刊行される一年前に、批評が出るという珍妙な事態が起ったが、赤松の引用と、のちの人民社版を比べてみると、金子がこの間に、「鮫」を推敲修正していることが分かり興味深い。詩集『鮫』はこうした難産の末、一九三七年(昭和十二年)八月に「人民社」から出版されることになる。




 
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by monsieurk | 2016-11-23 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(25)

 おっとせい

そのいきの臭えこと。
くちからむんと蒸れる、

そのせなかがぬれて、はな穴のふちのやうにぬらぬらしてること。
虚無(ニヒル)をおぼえるほどいやらいい、
おゝ、憂愁よ。
・・・・・・

いん気な弾力。
かなしいゴム。

そのこゝろのおもひあがってること。
凡庸なこと。

菊面(あばた)。
おほきな陰嚢(ふぐり)。
・・・・・・

そいつら。俗衆といふやつら。
・・・・・・

おゝ。やつらは、どいつも、こいつも、まよなかの街よりくらい、やつらをのせたこの氷
 塊が、たちまち、さけびもなくわれ、深潭のうへをしづかに辷りはじめるのを、すこし
 も気づかずにゐた。
みだりがなしい尾をひらいてよちよちと、
やつらは氷上を匍ひまはり、
・・・・・文学などを語りあった。

うらがなしい暮色よ。
凍傷(しもやけ)にたゞれた落日の掛軸よ!

だんだら縞のながい影を曳き、みわたすかぎり頭をそろへて、拝礼してゐる奴らの群集の
 なかで、
侮蔑しきったそぶりで、
たゞひとり、
反対をむいてすましているやつ。
おいら。
おっとせいのきらひなおっとせい。
だが、やっぱりおっとせいで
たゞ
「むこうむきになってる
おっとせい。」
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by monsieurk | 2016-11-20 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(24)

 畑中繁雄は「燈台」を、「この国を蔽う絶対主義的支配権力、その中軸である天皇制にまっこうから挑戦するこの第一作」と評しているが、金子はキリスト教にかこつけて、日本人を政治的だけではなく、宗教的にも、倫理的にしめつける天皇制を卑俗な表象に転化することで、その虚飾を剝ごうとした。そして「燈台」が「中央公論」に載ると、豊島与志雄が「文芸春秋」で絶賛した。
 「中央公論に、金子光晴氏の『燈台』といふ詩を見出して、私は非常に嬉しかった。重立った営業雑誌のなかで美しい詩にめぐり逢ふと、砂漠でオアシスに出逢ったやうなものだ。『燈台』はいゝ詩だ。思念と感覚との融合がうれしい。私の喜びのてめに、その一節を茲に引出さして貰ふ。(中略)(この時評欄で右の一節が気持ちよく組んでもらへるとうれしいのだが・・・。)」
 さらに金子は、「紋」では天皇制のもとで唯々諾々と生きる日本人の内面を問題にした。

 紋

九曜(くよう)。
 うめ鉢。
鷹の羽。
 紋どころはせなかにとまり、
袖に張りつき、
 襟すぢに縋(すが)る。

溝菊をわたる
蜆蝶(しじみてふ)。
・・・ふるい血すぢはおちぶれて、
むなしくほこる紋どころは、
金具にさび、
蒔絵に、剥れ、

だが、いまその紋は、人人の肌にぬぐうても
消えず、
月や、さゞなみの
風景にそへて、うかび出る。
・・・・・・

日本人よ。人民たちは、紋どころにたよるながいならはしのために、
ふすま、唐紙のかげには、そねみと、愚痴ばかり、
じくじくとふる雨、黴畳(かびだたみ)、・・・黄疸(おうだん)どもは、まなじりに小皺
 をよせ、
家運のために、銭を貯へ、
家系のために、婚儀をきそふ。
紋どころの羽織、はかまのわがすがたのいかめしさに人人は、ふっとんでゆくうすぐも、
 生死につゞくかなしげな風土のなかで、
「くにがら」をおもふ。

紋どころのためのいつはりは、正義。
 狡さは、功績(いさをし)。
紋どころのために死ぬことを、ほまれといふ。
・・・・・・・・

 紋どころを後生大事に守り、そのために虚栄をはり、体制に迎合して命まで軽んじる人たち。「おっとせい」では、自分もそうした俗衆の仲間であることを認めている。
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by monsieurk | 2016-11-17 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(23)

  畑中は「金子光晴全集月報6」の「森さんのことにふれながら」で、この時の様子を伝えている。
 「「鮫」にいたく感銘したあまり、余丁町のお宅に金子さんを訪れたぼくは、『中央公論』に詩一篇の寄稿を乞うた。そのときも金子さんは、初対面のぼくを前において、高村光太郎をはじめとして現代詩人の多くが、時代の空気に煽られて、まさに土井晩翠の現代版に逆もどりしてゆく傾向を大いに慨嘆され、ここに四十台そこそこの金子さんと三十前のぼくは大いに共鳴し、話に熱気がこもりはじめた、そのとき、奥手の襖があいて和服の婦人が入ってくるがちらりと見えた。「家内です」と紹介されて、ぼくはおやッとおもった。森三千代さんの笑顔がそこにあったからである。森さんが金子夫人であることをご本人はかつて一度も口にしなかったし、森さんがすでに詩文を『中央公論』にもちこんでおられたことを、逆に金子さんは知らなかったようでもある。
 金子さんの詩篇は、数日後郵便で送られてきた。「燈台」であった。」
 金子は同じく対談集『新雑事秘辛』で、「「鮫」以外のあの詩集の詩はだいたい、旅行からきてからのものですね」と語っている通り、壺井繁治の要請で、「蚊」が雑誌「太鼓」一九三五年十一月号に発表された。編集兼発行人は壺井の甥の戎居仁平治であった。
 雑誌が出ると、戎居はすぐに内務省警保局に呼び出された。検閲の係官は、「時局をわきまえぬ反戦詩であると断定し、語調きびしく次号からこういう類のものを載せると発禁にするといわれたが、〈蚊〉の削除販売の処分は免れた」(「『太鼓』発行名義人の回想」)という。軍人を蚊にたとえるとは何事かというのが検閲官の言い分だった。
 こうしたなか、今度は「燈台」が「中央公論」十二月号に掲載された。夏の房総半島への旅行で想を得たといわれる詩にはこう述べられている。

そらのふかさをのぞいてはいけない。
そのふかさには、
神さまたちがめじろおししてゐる。

飴のやうなエーテルにたゞよふ、
天使の腋毛。
鷹のぬけ毛。
青銅(あらかね)の灼けるやうな凄まじい神さまたちのはだかのにほひ。秤(かんかん)。

そらのふかさをみつめてはいけない。
その眼はひかりでやきつぶされる。

そらにさからふものへの
刑罰だ。

信心ふかいたましひだけがのぼる
そらのまんなかにつったった、
いっぽんのしろい蝋燭。
――燈台。
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by monsieurk | 2016-11-14 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(22)

 マックス・スティルナーの代表作『唯一者とその所有』は、辻潤によって一九二〇年(大正九年)に翻訳され、金子は若いときに読んでいたが、それをアジアの現実のなかで再発見したとき、たとえば、「革命と叛逆とは同義語と見做れてはばらない。(中略)革命は人に組織を命ずる。叛逆は人が勃興し彼自身を高めることを要求する」といった一節は、一層切実な主張として感得できた。そしてこの主張は、群れることを極端に嫌悪する金子の気質にぴったり呼応するものだった。こうして金子は批判精神を発動するようになった。
 詩にあっては批評こそが枢要なものであり、批評は現実の再現をこえて、現実を否定する。そして詩はそれを一層強く生かすべく圧縮し、煮つめられたかたちで発動する。金子は「鮫」を書くことで、こうした視点を自らのものとしたのだった。さらに「鮫」は、帝国主義批判の立場で書かれているが、その底にはすべてを否定する強い決意がただよっている。

俺を欺し、俺を錯乱させ、まどわす海。
だが、俺は知ってゐる。ふざけてはこまります。海をほのじろくして浮上ってくるもの。
 奈落だ。正体は、鮫のやつだ。
鮫は、ほそい菱形の鼻の穴で、
俺のからだをそっと物色する。

奴らは一斉にいふ。
友情だ。平和だ。社会愛だ。
奴らはそして縦陣をつくる。
それは法律だ。輿論だ。人間価値だ。
糞、又、そこで、俺達はバラバラになるんだ。

 「俺」は、近代国家のお題目である、友情、平和、法律、人間的価値を決して信じない。そんなものを信じれば、たちまち鮫(奴ら)の鋭い鋸歯で喰いちぎられ、バラバラにされてしまう。ここには明らかにスティルナーの思想の影響が見てとれる。
 
 そして「鮫」の最後の第六章――

あゝ。俺。死骸の死骸。ただ、逆意のなかに流転してゐる幼い魂、からだ。
常道をにくむ夢。結合へのうらぎり。情誼に叛(そむ)く流離。俺は、この傷心の大地球 
 を七度鎚(つち)をもって破壊しても腹が癒えないのだ。
俺をにくみ、俺を非難し、わらひ、敵とする世界をよそにして、いう然としてゐる風を装
 ひながら
俺はよろける海面のうへで遊び、
アンポタン〔竜眼肉に似た大きな果実〕の酸っぱい水をかぶる。

あれさびれた眺望、希望のない水のうへを、灼熱の苦難、
唾と、尿と、西瓜の殻のあひだを、東から南へ、南から西南へ、俺はつくづく放浪にあき  
 はてながら、
あゝ。俺。俺はなぜ放浪をつづけるのか。
女は、俺の腕にまきついてゐる。
子供は、俺の首に縋(すが)ってゐる。
俺は、どこ迄も、まともから奴にぶつかるよりしかたがない。
俺はひよわだ。が、ためらふすきがない。騙(だま)す術も、媚びるてだてもない。一さ
 いがっさいは奪はれ、びりびりにさけたからだで、俺は首だけ横っちょにかしげ、
俺の胸の肉をピチャピチャ鳴らしてみせた。

鮫。
鮫は、しかし、動こうとはしない。

奴らは、トッペン〔ジャワの仮面劇の面〕のやうなほそい眼つきで、俺たちの方を、藪に  
 睨んでゐる。
どうせ、手前は餌食だよといはぬばかりのつらつきだが、いまは奴ら、からだをうごかす   
 のも大儀なくらゐ、腹がいっぱいなのだ。
奴らの胃のなかには、人間のうでや足が、不消化のまゝごろごろしてゐる。
鮫の奴は、順ぐりに、俺へ尻をむける。

そのからだにはところどころ青錆が浮いてゐる。
破れたブリキ煙突のやうに、
凹(へこ)んだり、歪んだりして、
なかには、あちらこちらにボツボツと、
銃弾の穴があいてゐるのもある。
そして、新しいペンキがぷんぷん臭ってゐる。

鮫。
鮫。
鮫。
奴らを詛はう。奴らを破壊しよう。
さまなければ、奴らが俺たちを皆喰ふつもりだ。

 「鮫」は、この年(一九三五年)の改造社の「文芸」九月号に載った。するとこれを読んで感動した「中央公論」の編集者、畑中繁雄が詩の寄稿を依頼するために訪ねて来た。
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by monsieurk | 2016-11-11 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(21)

 金子は松本亮との対談集『新雑事秘辛』(涛書房、一九七一年)の「「鮫」のまわりのこと」で、詩篇「鮫」がヨーロッパからの帰途のシンガポールで発想されたと、次のように語っている。
 「その「鮫」ですがね、その十年来、長い詩らしいものをかいたのは始めてでしょう。で、「鮫」を長尾君の部屋で発想して、シンガポールの町やそこらをぶらぶら歩いて材料を集めて、乱雑ながら一応まとめてね。それを日本へもって帰って、新宿の竹田屋へ落ちついてから、そこでもう一ぺん書き直したんですよ。ですからね、同じ『鮫』の中の作品でも、その当初は、あの長いやつだけしかなかったなんです。」
 金子は海外を放浪する間、小さな手帳や大学ノートに時どきの印象や出来事を書き残す習慣をまもっていた。「「鮫」の場合は、帰りのシンガポールでずいぶんいろんな材料、感じたものを大学ノートに、歩きながら書いたんですね。それは、半月くらいかかっているかもしれませんね。それをそのまま持ってきたんですよ。作らないで材料だけ集めて、メモしてね。」(同)
 シンガポールでは、一夕大使館勤めの安西と郊外にあるカトンへ出かけて、日本料亭で遊んだことがあった。店へは桟橋を渡って行くのだが、座敷の畳を敷いた簀子の下は海で、そこでは鰐が潜んでいて、残飯や野菜くずが落ちて来るのをじっと待っているという話を聞かされて、金子は強い衝撃をうけた。
 そもそもヨーロツパへの往路、ジャワに滞在していたときに鮫を身近に感じる経験があった。
 「鮫の生態に対する嫌悪みたいなもの。それを感じたのは、バタビアのずっと沖合に、俗にサルマジといって人の住んでいない島があるんですよ。そこへジャワ日報の人たちにつれていってもらってね。帆船で行ったんですよ。(中略)そしてその島にあがると、枯木があってね。それが枯木の葉も何もついてないところに、ぶつぶつに赤い花が咲いてるってふうで、すっ頓狂な感じですよ。その島の裏のほうが入江になっていて、それがまた、なんかぬるぬるしたような泥ぶかい入江で、木にいっぱい、木登り魚がくっついていた。鮫が卵を産みにくるところで、そりゃ不気味なかんじがある。だから、鮫の実感からきたんですね。その実感がなければ、あそこまで長い詩を鮫でひっぱってゆくことはできないね。」(同)
 さらにさかのぼれば、一九二六年(昭和二年)に、三千代と一緒に中国を旅したときに得た題材を描いた詩を『鱶沈む』にまとめたが、表題の「鱶沈む」にはすでに、

  「おゝ、恥辱なほどはれがましい「大洪水後」の太陽。

  盲目の中心には大鱶が深く深く沈む。
  川柳の塘(つつみ)沿ひに水屍、白い鰻がぶら垂つてる。」

 と書かれていて、金子には海(川)とその底にうごめく鱶(鮫、鰐)の強烈なイメージが棲みついていたことがわかる。ただ、「鱶沈む」の段階では、中国大陸大規模に進む欧米列強(日本も含む)の搾取の実態を見聞し、犠牲となった者たちの水死体に喰いつく鰻が、不気味にぶら下がっているといった上海の現実をリアルに表象した。ただ加害者を象徴する大鱶はまだ「深く深く沈ん」でいた。
 金子はその後に経めぐった東南アジアの各地で、植民地の生活の苦難つぶさに眺めた。そして自分自身も精神的、物質的に追い詰められた生活を送るなかで、この現実を自らのものとして行った。そして長尾のところで読んだ本の影響も見逃せない。
 「シンガポール日報の長尾正平氏の家でごろごろしながら、僕は、スチルネルを再読し、レーニンの『帝国主義論』を熟読した。僕の考えはいつのまにか、ふるい植民政策を批判するようになっていた。搾取と強制労働で疲弊した人間のサンプルには、事欠かなかった」(『自伝』)。さらに、「(西洋の)石と鉄の文明の大きなシステムが、僕には『魔道』のように見えてきた。その頃、僕は、神と国家と家とすべての権力を否定する考えのとりこになっていた。ドイツのマックススティルネルによって、性の引き算の勉強をしていたからだ」(「政治的関心」)とも述べている。
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by monsieurk | 2016-11-08 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
 鮫

   一

海のうはっつらで鮫が、
ごろりごろりと転がってゐる。

鮫は、動かない。

それに、ひとりでに位置がゆづって並んだり、
 ぶっちがひになったり、
又は、渺かなむかうへうすぼんやり
気球のやうに浮上ったり、

どこまでもひょろけた背のたゝない、
竹のやうに青い、だが、どんよりくらい、
 塩辛い・・・眩(くら)りとする鹹水(かんすい)へ
石塊の塡(うずま)った、どぎどぎした空罐が、
かるがると、水にもまれておちてゆく。

鮫はかぶりつかない。
お腹がいっぱいなのだ。

奴(やっこ)たちの腹のなかには、食(は)みでる程人間がつまってゐるのだ。
切口の熟れはじけた片腕や、
もりっと喰取ってきた股から下や、
小枕びやうな胴体が。

鮫はもう、「何も要らねえ」と、眼を細くして、
 うっとりうとりしてゐるのだ。

 これが長編詩「鮫」の書き出しである。
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by monsieurk | 2016-11-05 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(19)

 青野季吉は「毎日新聞」紙上で、「事変このかたのジャーナリズムの支那論や現地通信はほとんど現象的、擦過的だが、時には荒唐無稽なものだあるが、金子光晴の『泡』は戦争の支那というものの実体をじかに感じさせる」と激賞した。
 そして同じく衝撃をうけた壺井繁治が、岡本潤とともに余丁町を訪ねて来た。そして彼は、「金子光晴の現実社会への批判精神はニヒリスチックな否定の形をとる時、最も強さを発揮する特徴を持っており、『泡』はそういう作品の一つである」。「『洗面器』(のちに詩集『女たちへのエレジー』に発表)を読んでも解る通り、非情にニヒリスティックな側面を示しているが、『泡』ではもっと、絶望となっている。そしてそんな絶望がそのまま現実への痛烈な批判となっているところが、わたしには強いショックを与えた」(『激流の魚』)と書いた。金子の詩の本質をいい当てた批評であった。
 金子は自らの東南アジアやヨーロッパ放浪を、詩をつくるためのものではなかったと言うが、この旅から帰ったとき、詩人は辛辣な歴史や、歴史のなかで翻弄される人たちへの親近性をそなえた強靭な言葉で詩嚢を豊かにしていた。
  このころモンココから得る顧問料と、三千代の原稿料で生活は安定したので、彼らはモンココから一軒置いた隣の、余丁町一二四番地の広い借家に移った。ここは電車通り面した場所で、庭には樹齢五百年といわれる黄楊の樹があった。
 亡くなった義父荘太郎の姪である山家ひで子に会ったのはこの頃でことである。ひで子は山家流の小唄の師匠で、金子の義母の須美が彼女のところで働いているが、金子と暮らしがっているということだった。須美は荘太郎が病床にあったときから若い愛人の西村に溺れ、金子たちが海外にいる間に行方が知れなくなっていた。金子は大鹿一家への遠慮から須美を引き取るのを躊躇したが、三千代は賛成した。こうして須美が新たな借家に同居することになった。
 須美については後日談がある。余丁町の家には、三千代が命名した雑誌「文学草紙」の
同人が出入りしていたが、その一人冨永次郎(兄の太郎は夭折した)の父親が妻を亡くして独りでおり、須美と結婚させることになった。二人は同居したが、家事の出来ないて彼女はたちまち離縁されて、余丁町の家に戻ってきた。
 金子の自伝である『詩人』には、次のような記述がある。
 「当時の僕には、詩の傑作はあまり問題ではなかった。僕は、当時の詩の周辺に対する諸疑念をたしかめ、じぶんの認識をしっかり心にきざみつけるため、納得のゆくためだけに、詩を書こうと心組みした。そういう意味では、僕は、過去の僕の詩の書きかたと全くちがった方法で詩を書きだした。」
 こうして出来上がったのが「泡」であり、「鮫」であった。
あるとき、国木田虎雄がやってた。
 「シンガポールを出るとき、乱雑に書いておいたながい『鮫』という詩があった。国木田はそれをよんでいたが、
 「ちょっと、これを貸してくれ」
 と言って持っていった。彼は、その詩を、当時、大木戸〔四谷の〕の方でアパートぐらしをしていた中野重治にみせた。中野が、その詩に興味をもって、雑誌にのせてもいいかと、ことづけてよこした。
 「あんなものを出してくれる雑誌があるのかねえ。出してくれて、そのうえすこしでも稿料がはいったら猶更結構だ。だが、はたして、面白がるかどうか・・・」と、僕は返事をした。その詩が、改造社から出て手ていた『文芸』という雑誌にのった。」(『詩人』)
 これは詩篇「鮫」が「文芸」九月号に掲載された経緯である。そしてこの作品は、金子自身が述べている通り、これまでとはまったく違ったものであった。
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by monsieurk | 2016-11-02 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)