ムッシュKの日々の便り

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男と女――第六部(38)

 北京では日本人が住むところは街の東側に片寄っていて、商店は東単牌楼附近に集まり、将来このあたりに日本人街を形成するつもりのようであった。現に日本旅館や料亭の多くがこの表通りの裏路地にちらばっていた。北京に長く住み暮らして中国風に馴染んだ日本人は、近ごろ満州国や内地から入り込んできた抜け目のない連中にしてやられている様子だった。急ごしらえのカフェや飲食店が多く、すでに店を開いていた。
 金子はこうした状況を目にした感想を次のように述べている。
 「中国で暮らし、とりわけ、美しい北京を心から愛していて、日本へ帰る気もなくなっていたような人たちは、それを破壊しに来た日本の軍や、ぶったくりのような日本人のすることを、はらはらしながらながめ、内心では、憎んでいるのがよくわかる。」(『絶望の精神史』)
 中国研究家で、尚賢公寓という清朝時代の大官の邸跡の貸部屋に美しい中国人の妻と住んでいる村上知行に会ったが、彼は日本の非行を憎んでいたし、北京で中国人の子弟の教育に尽くしてきた清水安三や、上海で世話になった内山完造などもそうに違いなかった。
 「そういう人はまだ、ほかにもいただろう。『北京新聞』の東北弁の社長も、やはり、願わくば、北京で死にたいとおもっているような人柄であった。けっして、北京が日本の領土になってほしいとはおもわない人だ。こういう日本人の心を僕は、宝玉にもくらべがたいとおもったが、軍国日本から言えば、あきらかに非国民である。
 どこに国でもそうだが、とりわけ中国のなんでもない民衆のなかには、どうしても愛情をもたずにはいられないような、いかにも大国の民らしい人間がいる。そういう人につらい思いをさせたくないためにも、日本軍に侵略を中止してもらいたいと思う。
 たとえば、往年上海で、田漢や、唐槐秋とあそびあるいていて大世界の屋上にあがったとき、僕は急に便意を催し、田漢にさがしてもらって、くらい納屋のような便所へはいった。便所の中はうすぐらく、あちらこちらに、大きな樽がおいてある。その樽に腰かけて、用をたすのだ。
 みると、僕にむかいあって、一人の老人が腰かけている。黙ったまま。二人は用をたしている。老人はやがて、唐紙をとり出し、ゆるゆると二つに折っては、折り目から裂き、またそれを折って、四枚にした。なにげなくそれをながめていると、四枚のうちの二枚を、しずかに手をのばして僕のほうにさし出す。僕も、うなずいてそれをうけとったが、僕は、まだその老人の姿と、むずかしく説明するほどの行為ではないが、知る知らぬを越えた淡々とした好意のあらわれに、中国人の心の広く大きいものを感じたのが忘れられない。田漢たちに話すと、とんだりはねたりしておもしろがって笑った。」(同)
 北京では晴天がつづき、北京へ着いて二、三日すると緊張もほぐれて、城門の出入り毎に突きつけられる銃剣の閃めきにも驚かなくなった。勧められるままに紫禁城、天檀、鼓楼、赤壁などを見学した。紫禁城の見学には三日をかけて、その大がかりなことに驚嘆したが、主権者の虚栄心と脅しに平伏するだけで、三千代はかつて訪れた蘇州や杭州の淡々とした風情ほどの親しみを覚えなかった。
 彼女は紐先銘の弟が北京にいることを聞いて電話をしたが、弟は不在で、ついに紐の消息はつかめなかった。三千代は知らなかったが、南京が陥落したとき、彼は若い僧侶に変装して死地を脱出したのだった。中央軍軍政治学校教導総隊工営兵営長だった。
 三千代は金子とともに、中国人子女を教育する崇貞女学校校長の清水安三夫妻や、東京高師の同窓で上海で交遊のあった温桂英と面談し、また清朝の国務大臣をしていた人の娘の關梁好音の邸での純粋な中華風な茶会に招かれたりした。その席には康有為の娘の康同壁などが出席していた。
 少年時代から寄席に通い伝統芸能に親しんできた金子は、中国の民間芸能にも関心があり、京劇をせひ観たいと思っていた。しかし事変後、梅蘭芳は上海へ移っており、他のよい役者も南方へ行ってしまっていた。それでも西長安街の長安大戯院で、李宣誠が演じる「玉堂春」を、前門外の慶楽戯院では「宝軍山」を観ることができた。芝居小屋は芝居好きの庶民で一杯だったが、日本人の彼らを特別気にする風でもなかった。これに気をよくして大観楼影院で映画「生龍活虎」を観に行った。
 さらに王府井にある東安市場の茶楼で京津太鼓を聴いたが、これは蛇皮線弾きの巧みな手さばきにつれて、妙齢の美人が片手に四つ竹をもち、それで銭太鼓を叩きながら、三国志演義や金瓶梅の物語を節をつけて語るもので、大変面白かった。

 平成28年もお読みいただきありがとうございました。新年は4日から連載を再開いたします。
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by monsieurk | 2016-12-30 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(37)

 北京

 二人にとって初めての北支の旅について、三千代も詩やエッセイ、紀行文を残していている。「曙街」1~3(「都新聞」、一九三八年五月日日~三日)、詩「声――北支所見」(「輝ク、一九三九年一月号)、紀行文「北京晴れたり」、「北京浅春記」、「万寿山の菓子」、「八達嶺驢馬行」(『をんな旅』所収、富士出版社、一九四一年)である。これらは他の紀行文と同様、彼女の一人旅の形をとっているから金子は姿を見せない。一方金子は、帰国後に発表した幾つかの詩のほかに、戦後になって『絶望の精神史』(光文社、昭和四〇年)のなかで旅での想いを記した。
 二人は天津に一週間ほど滞在したあと、十二月二三日に、奉天発の満鉄の列車で北京へ向かった。「北京正陽拈に着いたのは、旧臘廿三日の午前十一時十五分で、時間表通りの正確な着拈であった。事変後開通してから、二三時間、時としては四五時間も予定より遅れた列車が、この頃やっと規定通りに発着するようになったということであったが、猶、奥地への旅をひかえている私には、そんなことにも行先の心強さを感じた。」(「北京晴れたり」、『をんな旅』)
 北京駅に降りたってみると、街の雰囲気は天津とはまるで違っていた。
 「天津ではひとまずまとまっていた感情が、北京へ着いてからなぜか支離滅裂になってしまった。北京には、天津のような租界といううしろ盾がないうえに、うねうねした漆喰壁の胡同(フートン)(小路)の奥に散在して、ひっそりと日本人達が住っているという希薄感がその理由の一つかもしれないが、そればかりとは思われない。日本を出発する時、否、こゝへ着くまで予想もしなかった一種底深い静けさが、うす気味悪く北京市を領していたからであろう。」(同)
 二人は駅で拾ったタクシーで邦字紙の北京新聞社を訪ね、社長のKの紹介で王府井にある洋風旅館のC飯店に落ち着くことが出来た。中国人が経営する旅館で、部屋にはバス、トイレがあり、場所も北京随一の繁華街で便利だった。
 翌朝は、疲れと寝心地のよさから十時ころに起きて顔を洗おうとすると、湯も水も出ない。呼び鈴を鳴らすと、老人のボーイが部屋に来てしきりに何かをしゃべる。言葉が分からないので鉛筆を渡すと、卓上の新聞の端に、「今天十時、人接収」と書き、すぐにここを立ち退いてもらいたいという。この大きな旅館は接収されることになり、満員の客たちは全員立ち退き、従業員も三十分後には全員が後片付けの後引き揚げるということだった。しかたなく二人は解いたばかりの荷物をまとめて、近くのホテルに行ってみたが、C飯店を追われた客で満員だった。
 やむなくKに電話をして、彼の骨折りでようやく交民巷の外れの正陽門拈わきのF飯店に空き部屋をみつけることができた。安っぽい旅館だったが、バスもついていて、ボーイたちも愛想がよかった。ただ一階には日本人経営のダンスホールがあり、夜眠ってからも日本の流行歌が聞こえてきた。
 かつて北京は、一九一九年の「五・四運動」や一九三五年の「一二・九」運動など、日本の侵略に対する抵抗の発祥の地であった。一九三七年八月八日、日本軍の入城以後八年間にわたって占領されたが、国民党政府はこの間教育を保全するために北京と天津の高等教育機関の南遷や西遷を決め、国立の北京大学、精華大学、天津の私立南開大学などの名門大学に在籍する大勢の教職員と学生たちは、数千キロの長距離を移動して南方の武漢や内陸の昆明へ赴いた。戦乱をさけて市内を脱出した避難民も数多悔いた一方で、大多数の市民は北京にとどまるしか選ぶ道はなかった。
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by monsieurk | 2016-12-27 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(36)

 天津の街の真ん中を寒々とした白河が流れていて、流れよった氷がそのまま凍っていた。街の建物の多くは日本軍の爆弾で瓦礫のようになり、市政庁は牌楼と塀だけが残るといった惨状だった。それでも夜の街は日本人でごった返していた。二人は永瀬の案内でイギリス租界や南郊へ行って大洪水のあとの白河を見た。
 「「日本を出るときは、まさかこんな夜なかに天津の街をほっつき歩けるとは思わなかった」
 と、奇妙な気がしてならなかった。」ついこの間までここは戦場ではなかったかと思うからだ。そして戦争だからこそ安全なのだという論理にはなかなか到達しにくいのであった。しかも私の目にうつっている明朗北支は、軍の力のお蔭で仮りに支えられているもので、われわれは日本人であるということで、誰も彼も、軍の威光を背なかに背負って歩いているのだということを認めないわけにはゆかない。」(同)
 金子と三千代は天津で目にしたものを記述し、市庁舎の跡地についても書いている。だが苛烈をきわめた南開大学への爆撃について触れていない。
 三千代は天津見物の合間に、ひそかに紐先銘の消息を求めた。紐の実家が須磨街にあると聞いていたので、幾度か電話をしてみたが要領を得なかった。そこで人力車で家を探し当てて、閉まっている鉄門を叩いたが応答はなかった。
 街を歩くといたるところが宣伝ビラの洪水で、「日軍信頼」、「防共産党」などと印刷されていた。主に華北青年会がつくったものだということだった。日本租界では日本にいるのと変わりはなく、日本の通貨も一律五銭という不文律のレートが決まっていた。金子はこうした表面的な中国の人たちの追従的な態度の裏にあるものを見逃さなかった。
 「彼らのこのうって変わった阿諛的態度には、潔癖な日本人には不愉快になるものもあろうし、軽蔑を投げたくなるものもあろう。しかし、それは、彼らがどんな大きな天災地変にも対応して生きのこっては繁栄してきた歴史を考えるとき、とほうもない彼ら民族の辛抱の強さであることがわかってくる。これこそ中国の人たちがよく口にする「没法子」、「仕方がない」という言葉に象徴されるものである。彼らは「仕方がない」、だからまたやり直そうと考えるのだ。金子はこの天津の人たちの生き方のうちに、この不屈さを感じ取っていた。ルポルタージュの最後は、次のように結ばれている。
 
 凍氷(こおり)の底に忘れられてある鍬はいう・・・・没法子(メイファーズ)!
 驢馬は、驢馬の目やにはいう。没法子!
皿を持ったままの掌の骨。皿はいう没法子!
 骨もいう。没法子!

 そして支那には、没法子より強いものはないのだ。
 収税役人(とりたてやくにん)よりも、
 始皇帝よりも。
 
 日本の侵略にあってもじっと堪えて時を待とうとする中国の人たちの姿を「没法子」という一言に集約した金子の慧眼はさすがだが、この含意を当時の読者がどれだけ読みとっていただろうか。
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by monsieurk | 2016-12-24 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(35)

 北支行き

 一九三年十二月十二日前後、金子と三千代は三度目の中国旅行の途についた。これより前、三千代の「小紳士」が雑誌「文芸」の十一月特集号に載った。息子乾をモデルにしたもので、多くの読者をもつ文芸誌にはじめて作品だった。ようやく文壇の認められた喜びは大きかった。
 金子の『詩人』には、「僕は、この年の十二月二十幾日〔金子の記憶違い〕の押しつまった頃になって、森をつれて北支に出発した。渡航はなかなかむずかしかった。文士詩人ということは伏せ、むろん、報道員などの肩書はなく、洗粉会社の商業視察の許可をえて、神戸から、上海にわたった。」とある。
 渡航許可は籍を置いている「モンココ」本舗の市場視察という名目で、上海、天津、北京、山海関、張家口とまわる予定だった。ただ旅費等は会社からは一銭もでず、すべては三千代が原稿で稼いだ金だった。
 二人が神戸から乗船したのは軍需品の輸送船で、すし詰めの三等船室にかろうじて場所を見つけるという状態だった。この船中で南京陥落のニュースを聞いた。
天津は一八六〇年の北京条約によって開港され、二〇世紀初頭にはイギリス、フランス、日本など八カ国の租界が置かれ、一九三七年当時は四カ国の租界が残っていた。日本人租界の人口は一万六千人と膨れあがっていた。
 柳条湖での衝突に端を発する満州事変以後、日本軍は北平(北京)や天津に迫り、中国軍は万里の長城の南に撤退して、戦闘は一段落した状況だった。北支は対中国、対ソ連の前線基地として支配下にあった。
 天津航路では、河幅が三百メートルにもなる白河の河口に二つの投錨地があった。太沽(Taku)は河口の南岸に位置し、塘沽(Tangku)はさらに八キロさかのぼった北岸にあった。塘沽は京山鉄道沿いにあり、通常はこちらに寄港するのだが、この年の中国北部は三十年振りという大洪水に襲われて河底が浅くなり、船はそれ以上白河をさかのぼることができなかった。そのため金子たちの船は沖合十五キロの太沽バーに繋留し、船客は小型汽船や小舟に乗りかえて塘沽の瑪頭まで行った。
 北中国の十二月末の寒さは、「たたき割ったガラス罎のぎざひざをさわるよう」だった。そのなかを駅まで歩いていく日本人の列を、血走った目をした兵士が銃剣を構えてにらんでいた。街の周辺の田や畑を氾濫した水が浸し、それがひく前に零下何十度の寒さで凍ってしまったため、いたるところが汚いシャーベット状を呈していた。
 天津では同人誌「楽園」の同人だった永瀬三吾が、「京津日日新聞」の社長兼主筆をしていた。到着するとすぐに、彼が日本人租界にある自宅の温かい部屋を提供してくれた。街では兵隊を満載したトラックが何台も走りまわり、銃剣をかまえた兵士が立って警戒にあたっていた。
 天津には戦争の爪痕がいたるところに残っていた。この年七月二十七日、日本軍は天津の駅を占拠し、翌二十八日には電話局、市政庁、警察、大学などを空襲した。なかでも抗日運動の拠点と見られた南開大学への攻撃は猛烈をきわめた。中国軍は二千人の戦死者を出し、難民は十万人におよんだ。
 金子は出発前に中央公論社の畑中繁雄から紀行文を頼まれていたので、天津滞在中に「没法子(メイファーズ)――天津にて」と題した文章を送り、「中央公論」一九三八年二月号に掲載された。戦中のルポルタージュとしても貴重なもので、金子は船中の様子からはじめている。
 「三等船客というものは、デッキにいるとき風体がへんなのですぐわかる。感心にワイシャツを着ていてもネクタイなしで、素足に冷飯草履をはいていたり、どてら姿によごれたタオルで百姓がぶりをしていたり、婦人連中にしたところが、髪をばさばさにし、おしろい気もうせ、船酔いと疲れで揉み苦茶になった顔をちょっと出したかとおもうと、痛いような寒風とくらくらする外光に辟易して、たちまち首をすっこめ、ひょろひょろしながら船底の嘔吐用の小さな金盥のおいてあるところへ降りてゆく。船に万一のことがあった場合の遭難注意啓示には、救助担当者、一等船客は事務長、二等船客は事務員、三等船客は貨物主任と書いて貼り出してあるところをみても、三等船客は人間よりも貨物の部類に属するもので、ボーイたちの扱ひも貨物同様に手荒だし、したがって、どんなに紳士らしい風采をしてみてもはじまらないので誰もなげやりになるのである。特に、今年は各等の船切符はもう売切れ途いうほど、猫も杓子もが北支へ志している際とて、満員の上を通り越し、茣蓙一枚の上に二人ないし三人という割あてで、あおむいて寝る等は贅沢で気がひけるくらいであった。すこしでも場席をつごうするために他人の頭のほうへ足をすみのばし、たがいちがいになって寝ているものもあった。人熱蒸(ひといきれ)、ペンキや船底ですえたもののにおい、半病人になって寝ている母親にとりついて、起(おつ)き、起きとせがんでは泣く子供たち。があがあいうラジオ。つきもどす声。まずい食事。だが、平時のように苦情を言いくらすものはなかった。」(「没法子(メイファーズ)――天津にて」)
 乗船していたのは、軍属、女給を監督する料理屋の女将、女工の監督、植民地ゴロ、大阪弁の商人など千差万別だったが、ほとんどが世間が動揺している間に利権をものにしてあぶく銭を掴もうという魂胆のものであった。
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by monsieurk | 2016-12-21 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(34)

 世間は戦勝のニュースに湧きたっていた。だが金子の周辺では、それとは違うことが起きていた。前年の夏に三千代を頼って上京してきた義弟の義文に召集令状がきた。また会社で可愛がっていた社員の青年が北支で戦死した。
 金子は、「戦争中の新聞雑誌の報道や論説は、いつでも眉唾ものときまっているが、他の学説が封鎖されていると、公正な判断をもっているつもりの所謂有識者階級も、つい、信ずべからざるものを信じこむような過誤を犯すことになる。人間は、それほっど強いものではない。実際の戦場の空気にふれ、この眼で見、この耳で直接きいてこなければ、新聞雑誌の割引のしかたも、よみかた〔傍点〕もわからなくなってくる」(『詩人』)との思いから、三千代を連れて北支へ行ってみることにした。
 詩人と小説家という身分では渡航許可は下りそうもないので、モンココの商業視察という名目で申請した。このときの金子の心中には、土方のときと同じように、この旅行で三千代と武田の仲に冷却期間をおこうという思いがあったかもしれない。
 三千代は三千代で、別れた紐先銘(柳剣鳴)と会う期待から中国行に賛成した。しかしそんな偶然は万に一つもないことは分かっていた。彼女の本心は、「戦争という大舞台を背景にして、ロマンスの終止符がどんなふうに打たれるかに興味があるのだと思つた。新しくはじまるロマンスにそれが出発点になるかもしれない。それならばそれもおもしろいではないかとも考えた。してみると、やはり彼女は、剣鳴とめぐりあふことを目算においてゐたのだらうか。いちばんほんとうのことは、剣鳴との事件を心の中でむしかへして、なんとなく腰の持ち上げにくい、臆却な北支行の誘惑剤にしてゐるのだつた。」
 彼女は北支行の計画を武田に伝えた。武田は彼女の旅の目的が中国人青年将校の行方を探すことなのをすぐに察したから、機嫌が悪かった。それでも彼らは逢瀬を重ねた。この点でも、三千代の行動は土方のときと同じだった。出発の前には二人だけの送別会と称して二日間飲み歩き、うらぶれた仕舞屋(しもたや)に泊まった。
 「三日目の夕方、河岸を変へ山の手の酒場を二三軒のみ歩いたあと、夜更けて彼女は、彼におくられてわが家の方へ帰っていつた。二日間の灼けつくやうな思ひ出が、彼女の膚にまだうづいてゐた。だが、それだけのことであった。
 暗い道を、二人は一言も言はずに歩きつゞけた。彼女の心には、あせりがあつた。二人が本当に結びついたと思つたあの瞬間はもう二度とかへつて来なかつたのだ。「私達、恋愛したら死ぬかと思つていたの」と彼女は言つた。「僕もだ」と彼は言つた。しかし、さう言つたすぐあと彼女は、死ぬことなど絶対にない気持ちになつてゐることに、彼女自身気附いてゐた。憑きものがおちたような男女の交渉がのこつてゐるだけのことに、半ばがつかりしてゐたではないか。」
 「肉体の交渉は、あの極度に高潮した精神と精神との融合を裏付け、たしかめるにすぎない。だから肉体の交渉には、馴れあいがある。肉体の交渉に酔ひか〔ママ〕またつゞくのは、最初の瞬間の宿酔にすぎないのではないだらうか。これは、あとになつて珊子が思つたことだつた。」
 こうして二人は家の前で別れる。
 「家の中で、二階から人の下りてくる気配がきこえた。
 女中の寝てゐる茶の間の前廊下を足音をしのばせて二階の部屋に上つて謙吉と顔を見合わせると、彼女は自分の上機嫌をかくすことができなかつた。
 「二日間打ち通しの送別会をやつたのよ。昨日はとうとう友達の家で寝込んぢやつたの。夕方起きるとまたお酒よ。ゆうべは夜あかしで、今日は疲れて一眠りしなくちゃ、とても帰れなかつたのよ。」
 謙吉は、その嘘のまづさにおどろゐた。しかし、帰つて来たのだ。北支行きはこれで中止にもなるまいと、彼はほつとしながら、彼女がねまきに着換へるのを手伝つてやつた。(中略)鏡の奥から、謙吉のものほしげな目がのぞいてゐた。謙吉の欲してゐることが、珊子には手にとるやうにわかるのだつた。酔つてふらふらするからだで着物を脱がしてもらひながら、そのあとで謙吉が待ちかまへてゐることを、彼女が知らないはずはなかつた。彼女はふと、雄之助とのある場合の思出に刺激されて、謙吉の誘ひにのつてゆきさうな自分を感じた。」
 『女弟子』では、謙吉が自分の部屋へ引き揚げたあとには、極寒の北支へ行くために揃えた、毛糸のジャケット類、兎の毛皮のついたチョッキなどの他に、気まぐれで注文したスキー用の女性用のズボンが、箪笥や行李から出されて積まれており、あとは旅行鞄に詰めるばかりになっていたと書かれている。こそらくこれは実際にあった光景だったと思われる。
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by monsieurk | 2016-12-18 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(33)

 三千代は武田麟太郎の許を訪ねることを繰り返していた。三千代が武田麟太郎とのことを書いたのは、先に引用した回想「あの時 この時―武田麟太郎先生の思い出―」(「風説」、昭和二四年三月号)の他に、「銀座を行く武麟」(「小説新潮」、昭和二八年五月)、「最後に会った日のこと」(六興社版『武田麟太郎全集』月報、昭和三七年七月)があり、雑誌「アリーナ」(中部国際人間学研究所刊)二〇〇五年号には、「銀座を行く武麟」の前身と考えられる「女弟子」が掲載された。この未完の原稿は、三千代の九冊目の日記帖に書かれていたもので、金子光晴の蒐集家の桑山史郎が東京神田の古書店で見つけ、同誌に発表されたものである。
 「女弟子」の内容は、「銀座を行く武麟」と重なる部分が多いが、一層生々しい記述がされている。小説の冒頭部分――
 「謙吉と珊子のやうな夫婦のありかたは、外見には一寸理解しにくいものであった。彼等は五年間あまりの別居生活ののち、岩や波にせかされて別れ別れになつた漂流物がふたゝびもとの場所に出会ったやうに一つ家に住むことになつたのだ。それといふのも、波や岩にもまれてゐるあひだ遠くからおたがひの姿をながめあつてゐた彼等は、どちらも相手がそのあひだ仕合せさうには見えなかつたので、両方でそれぞれ、やはり相手には自分が必要なのだと思ひこむようになつたからであつた。」
 謙吉は金子で、珊子が三千代であるのいうまでもない。二人は一つ家に住み、化粧品会社の広告の文言を珊子が考え、謙吉が絵を描いて収入を得ている状況も二人の実生活そのままである。
 珊子は白皙長身の中国人青年と恋愛をしていて、彼を家に泊めた翌朝、謙吉を鉢合わせしたりする。作中ではこの青年は柳剣鳴という名前で呼ばれている。
 作中の謙吉は、「信じ易く、人には親切好きで、陽気でにぎやかなことのすきな彼の性格の表面の底は、真空のやうな底知れない人生の空しさに通じてゐた。いくらのぞいても我執や野望などといふもののかげもさゝない恬淡さは、生活のうへでは無気力なあらはれとなり、世俗のうるさいことから一切のがれようとする放任主義は無責任の結果に終るのだつた」と語られる。
 珊子が柏木雄之助(武田麟太郎)の家を訪ねるようになったのは、柳剣鳴のことを描いた小説に、雄之助が月評で二、三行触れたのがきっかけだった。柏木の家は麹町の広い表通りから細い道に入ったところにある二階家で、「下駄箱の上ででも原稿が書けるといひ、ごみごみした市井のあひだからいきいきとした世相を拾つてくる彼のやうなタイプの男の住む場所としては、この環境はおさまりすぎてゐると、いつも珊子は思ふのだった」、「彼は原稿を書きながら机のまはりに客をひきつけて、談笑の仲間入りをしながら筆を動かした。そのやうな仕事振りが、彼の妻の芳子が質草といつしよに家の前から自動車にのつて、地方から彼を頼つて出てきた青年のために金をとゝのへてかへつてくる。さうした暮らしかたといつしよに人々の語り草となつた。」
 実際の武田も、借金をして創刊した「人民文庫」が毎号のように発禁処分をうけて廃刊に追い込まれ、その後始末を一人で背負い込んでいた。そのため高利貸しや高利貸しを世話する男たちが書斎にやってくるのだが、武田はそんな彼らを前に坐らせて新聞小説の続きを書いていた。三千代が魅了されたのは、そんな生き方と作品だった。
 「珊子は、その恋愛の彼方に、一筋の光明をものぞむことはできなかつた。八方に分散してゐる彼の愛情をどうやつて、彼女一人の手にとりおさめることが出来よう。彼は、たくさんの男や女たちのものであつた。たくさんの雑誌社や書肆のものだつた。彼は、数万、数十万の読者たちに属する人間だった。
 たゞ一人の女から一人の男を奪ふことだつて、容易なことではないのに、彼をとりまく森羅万象から彼をひきはなして、全く自分のものにすることができるだらうか。しかし、それなればこそ、珊子は、その一瞬に燃えてみたい気もするのだった。」
 ある日、二人の雑誌記者と取り巻きの若い男、柏木、珊子の五人で銀座へ繰り出すことになり、タクシーに乗ったことがあった。珊子は柏木の前の補助席に坐り、柏木の膝がうしろ向きの彼女の身体の一部を押す格好になった。「その部分で彼のあつたかい血の流れを感じるのが、珊子にはめづらしかつた。肉躰は、精神のやうには嘘がつけないものだ。自動車の動揺で彼の膝が強く押す時があつたが、ひつこまうとはしなかつた。彼女がその膝がわきへそらせらるのをおそれてゐるやうに、彼女がからだの位置をづらすのを彼もおそれてゐる。そのお互いの持つてゐる危惧もわかりあつているやうに思われた。」
 この年の十一月には、日独伊防共協定が締結され、中国では戦線が拡大する一方だった。十二月十三日には日本軍は南京を攻略し、南京大虐殺を引き起こしたが報道は一切されなかった。
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by monsieurk | 2016-12-15 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(32)

 
 洗面器

 洗面器のなかの
さびしい音よ。

くれゆく岬(タンジョン)の
雨の碇泊(とまり)。

ゆれて、
傾いて、
疲れたこころに
いつまでもはなれぬひびきよ。

人の生のつづくかぎり
耳よ。おぬしは聴くべし。

洗面器のなかの
音のさびしさを。

 この詩には序文がついている。「(僕は長年のあひだ、洗面器といふうつはは、僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つてゐた。ところが、爪哇人たちは、それに羊(カンピン)や、魚(イカン)や、鶏や果物などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたへて、花咲く合歓木の木蔭でお客を待つてゐるし、その同じ洗面器にまたがつて広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ、しやぽりしやぽりとさびしい音を立てて尿をする。)」
 金子は、女が洗面器で放尿し、ビデ代わりにする光景を中国旅行中に目にしたとのちに語っている。このイメージは彼のなかに強烈な残像として残り、それにジャワで見た光景が加わって詩に結実したのだった。
 彼の詩はどれも、対象にたいする冷徹な眼差しがうかがえるが、それは人間という存在についても同様で、生ぬるい、いわゆるヒューマニズムとは無縁のものである。彼はフェムニストだといわれ、女性に捧げられた詩も多く、彼女たちに向ける目が優しいのは事実である。だがそれもフェミニスト特有の優しさとはどこか違っている。
 この点に関して作家の小池真理子は、「金子は女性に魅かれ、女性なしでは生きられなかったにもかかわらずず、女性が持っている即物的な性、動物的な側面を目いっぱい嫌悪していた。性的満足を得るためだけに関わる女性と、恋心を抱く女性をきっぱりと区別していたところもあった。(中略)とはいえ、彼の女性嫌悪は、女性蔑視では決してない。嫌悪と蔑視では、天と地ほどの差がある」(「鑑賞――男たちへのいたみうた」、金子光晴詩集『女たちへのいたみうた』後書き、集英社文庫)と書いている。
 女性ならではのこの鋭い指摘は、「洗面器」にも当てはまる。そしてこの詩から浮かび上がるのは、女性だけでなく人間そのものがもつ悲哀である。多くの人が「洗面器」を、「鮫」や「おっとせい」と並ぶ、この時期の傑作としてあげるのはそのためである。
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by monsieurk | 2016-12-12 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(31)

 『鮫』の反響は多くはなかったが、発売後間もない八月十七日には、前橋にいた萩原恭二郎から手紙が来た。彼が主宰する「コスモス」に、詩「エルエルフェルトの首」を載せて以来の知り合いだった。
 「ほんとうの詩人の詩といふものに自分はしばらく接しないでゐた。君のやうにものを把み上げてゆく人を詩人といふのだとおもひます。これだけの認識と技術、量と質をもってゐるものなら、序文があろうがなかろうとあらうと問題ではない。存在である。実にかうした人のゐることは、自分の生き甲斐を増させるものであり、またいつか自分のものも正当に見てもらへると思って、実によろこばしい。」(『萩原恭次郎の世界』)と書かれていた。感激した金子はすぐに返事を書いた。
 さらに雑誌「詩作」十月号の新刊紹介の欄で、無名氏がこう書いてくれた。
 「(『鮫』は)しばらく振の著者の詩集だ。一くせある詩人として昔から知られてゐる著者のこの新しい詩集は中々の逞しさだ。正直のところ最近の詩壇での秀逸と言つてよからう。良き構成をもち、熱情をもち、底深くドス黒い血のやうな生々しさが読者を襲ふ。著者の南洋放浪時の所産ときくが単なるエキゾーチズムではない。鋭い感覚と人間的な情熱が虚無に向つて吼えてゐる力強い聲がきこえる。『鮫』という詩はいゝ詩である。その一節を抜く――
 鮫は彼らから / 両腕をパックリ喰取つた。 / そして、いういう彼らのまはりを / メッカの聖地の七めぐりを真似て / 彼らを小馬鹿にしながらめぐる。 / 鮫はAUTOのやうにいやに / てかてかして / ひりつく水のなかで段々成長する。」
 さらに岡本潤は、「人民文庫」十月号の「金子光晴詩集『鮫』」で次のように評した。
 「復讐の文学といふ言葉があるとすれば、『鮫』一巻は実に復讐の集積である。(中略)
 南洋から欧羅巴を裸一貫でうろつき乍ら、どうにもならぬところまで追ひつめられた彼が、詩を復讐の擲弾としたといふことは決してなまやさしい偶然ではない。(中略)純粋詩論家や浪漫主義者などのお天気感情ではどうにもならぬドンランな現実世界に彼がのたうち生きている証拠である。(中略)『おつとせい』に於いて、彼は俗衆への侮蔑と嫌悪を吐き出してゐる。俗衆に瀰漫するさういふ『思ひあがつた凡庸さ』こそが、彼の侮蔑と嫌悪の対象なのだ。彼はおつとせいの中のおつとせいである。たゞ『むかふむきになつている、おつとせい』である。何故むかふむきにならずにゐられないかは、気まぐれな生理的条件によるのではなく、社会の風潮を凝視する、必然を視る眼がさうさせるのだ。この刺すやうな凝視は『塀』に於いてやゝ悲愁を呈し、『燈台』に於いて鋭烈をきわめ、『紋』に於いては辛いユーモアをたゝへてゐる。『泡』や『どぶ』には虚無(ニヒル)を感じさせるものがある。そのニヒル的なものの裏には常に彼自身のどぎつい社会的憤懣がたぎってゐるので、それらの詩はことごとく東洋的な退嬰とは反対の方角に指針する。特に長詩『鮫』に於いて、そのニヒル的なものは、あくまでも肉体的な逞しい相貌を呈して復讐すべき敵にたちむかつてゐる。その不敵な面だましひと臓腑! 詩集『鮫』はピンからキリまで、謂ふところの『日本的なもの』に逆立する。この詩集が今日出版されたといふことは、それが出るべき必然を以て出ただけに一つの驚異だとさへ僕はいひたい。」
 長年、交流のある岡本潤の評はさすがに的を得たものであった。ただ金子の詩の正体がこうして明かされることは、取り締まり当局の目を引くきっかけになりかねなかった。たまたま道で出会った前田鉄之助は、「君、いい加減にした方がいいよ。当局だって、めくらばかりがいるわけじゃないんだから」と忠告した。
 一方で、北海道大学の形成外科医で、詩を書いている河邨文一郎が「おつとせい」を読んで衝撃をうけ、わざわざ余丁町の自宅を訪ねて来た。彼はこの機会に金子に師事して弟子第一号となり、終生にわたって親密な関係を結ぶことになる。
 詩集『鮫』を出版したあと、金子は「人民文庫」十月号に、詩篇「洗面器」を発表した。「人民文庫」は発行する度に、発禁処分をうけていた。
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by monsieurk | 2016-12-09 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(30)

 翌二十九日、前年の冨士登山で味をしめた金子たち三人は、この夏は那須へ避暑にでかけようとして家を出たとき、号外の新聞が配達されて、通州事件が起きたことを知った。北平(北京)の東の郊外にあたる通州で中国の防共自治政府保安隊によって、日本人居留民二百人以上が殺害されたというニュースであった。
 金子は旅行の中止も考えたが、自分たちにはさしずめ関係がないと思いなおして、そのまま旅行に出かけ、十日間ほど那須から塩原の温泉地をめぐった。
 こうした時勢のなかで『鮫』を出版するのは危険だと、一時見合わせる意見も出た。しかし「人民文庫」を編集している本庄陸男がやって来て、金子を説得した。
 「戦時にはいっては、僕の『鮫』も、一先ず形勢をみて出版すべきだという説も出て、僕も引込めるつもりでいたところ、『人民文庫』の編集をしていた本庄陸男が余丁町の家にやってきて、その考えに異議を申し立てた。「こんな形勢になったからこそ、この詩集の意義がると僕は思います。是非出してください」という、真正面な言葉によって、僕は意をひるがえした。本庄君のようなヒタ向きな人間のことばを、日本ではすでに久しく耳にしなかったからだ。二人は余丁町から新宿に歩いて、角筈の角のオリムピックという店で夕食をとりながら、出版の手筈をあれこれと相談した。本庄君はもう、よほど胸の病勢がすすんでいたらしい。」(『詩人』) 
 難産の末、こうして『鮫』が出版された。B六版、九十九頁、定価一円。厚紙の箱入りで、表の題字は郁達夫の揮毫の文字が大きく印刷され、扉の文字と絵は吉田一穂、挿画一点と各ページの上部のカットは田川憲〔憲一となっている〕の木版画が飾った。収録された詩篇は、「おっとせい」、「泡」、「どぶ」、「燈台」、「紋」、「鮫」の六篇で、奥附には、「昭和十二年七月八日 印刷 / 昭和十二年八月五日 發行、金子光晴著 / 鮫、定價 壹圓 / 送料 十銭、著者 金子光晴 / 發行者 武田麟太郎 / 印刷者 銀山一郎 / 印刷所 櫻文印刷加工株式会社 / 発行所 東京市神田区淡路町二ノ七木口ビル 人民社」とある。
 そして詩集の冒頭には「自序」があり、こう書かれている。
 「武田麟太郎さんに序文をお願ひしたが、別に書くこともなささうだといふこと。僕が自分で筆をもつたが矢張、必ず言はねばならぬこともありません。一言、鮫は南洋旅行中の詩、他は歸朝後一二年の作品です。なぜもつと旅行中に作品がないかと人にきかれますが僕は、文學のために旅行したわけではなく、鹽原多助が倹約したやうにがつがつと書く人間になるのは御めんです。よほど腹の立つことか、輕蔑してやりたいことか、茶化してやりたいことがあつたときの他は今後も詩はつくらないつもりです。
 僕の詩を面白がつて發表をすゝめてくれた人は中野重治さんで、序文をたのむのはその方が順序と思ひましたが、このあついのにたのむのをやめました。」
 人民社が最初に出した単行本であった。二百部を発行したが、売れたのは半分ほどで、残りは金子と武田の家の押入れに長く置かれていた。幸い発禁処分は免れたが、金子自身はその理由を、
 「『鮫』は、禁制の書だったが、厚く偽装をこらしているので、ちょっときては、検閲官にもわからなかった。鍵一つ与えれば、どの曳出しもすらすらあいて、内容がみんなわかってしまうのだが、幸い、そんな面倒な鍵さがしをするような閑人が当局にはいなかったとみえる。なにしろ、国家は非常時だったのだ。わかったら、目もあてられない。『泡』は、日本軍の暴状を暴露、『天使』〔収録されていない〕は、徴兵に対する否定と、厭戦論であり、『紋』は、日本人の封建的性格の解剖であって、政府側からみれば、こんなものを書く僕は抹殺に価する人間であるわけだ。」(『詩人』、なお「天使」は戦後の詩集『落下傘』に収録された。)
 金子がいう通り、『鮫』は天皇制とはじめ社会の病巣をあばく批判が、おっとせいや鮫などに仮託されて象徴的に描く技法が用いられていたから、検閲官の目を逃れることができた。その他、世間に出まわった部数が実質百部程度だったことや、「人民文庫」は当初から監視の対象で、幾度も発禁処分を受けていたが、金子自身は執筆メンバーではなく、長らく日本をあとにして無名に近かったことも幸いしたと思われる。
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by monsieurk | 2016-12-06 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(29)

 十二月四日、中国では蒋介石が張学良たちに監禁される西安事件が起きた。張学良は蒋介石に内戦の停止と一致協力して抗日に当たることを要求した。事変を聞いた共産党の周恩来は急遽西安を訪れて、蒋介石、張学良と話し合い、その仲介で蒋介石は要求を認めて解放された。これをきっかけにして国共の内戦は停止し、抗日民族統一戦線が結成されることになった。
 そして十二月中旬、三千代が自宅で雑誌「輝ク」の忘年会でやる芝居の稽古を、望月百合子、詩人の英美子や息子の乾たちとやっているところへ、突然、上海で知り合った郁達夫が訪ねて来た。印刷機を東京で調達するというのが表向きの口実だったが、国共の和解の動きをうけて、日本に滞在中の郭沫若を故国に連れ帰りに来たのである。
 金子は近くの中華料理店から、チャーシューや老酒を買ってきて遠来の客をもてなした。そしてこのときに、出版予定の詩集『鮫』の装幀に用いるつもりで、「鮫」の字を郁達夫に揮毫してもらった。
 後日、神田の「大雅楼」で歓迎会が催された。出席者は、郁達夫、郭沫若と二人の息子、谷川徹三夫妻、古谷綱武、金子光晴と三千代、乾が出席した。会食の途中で郭沫若が調理場に入って行ったあと、料理の味が急に美味くなったという逸話が伝えられている。彼が気合いを入れた結果だった。会は和気藹々としたもので、郁達夫と郭沫若は最後には歌まで披露した。
 郁達夫が来る直前、武田麟太郎がはじめた「人民文庫」の編集者である本庄陸男が余丁町の家を訪ねてきて、詩集『鮫』の出版を促し、金子もそれを承諾したところであった。「鮫」の字の揮毫の裏にはこうした事情があった。金子が武田や本庄と親しくなったのは、三千代の関係ではなく、義妹はるの夫となった菊地克己の仲介であった。菊地は秘密の共産党員だったが、仲間が検挙されたうえ拷問されるのを見て転向していた。ときどき警察が通りがかりのふりを」して様子を見に来たりするので、彼は普段用心深くしていたが、酒が入るとひどい扱いを受けた警察への鬱憤を口にした。金子は人民文庫から出版された彼の著書『花霧荘』のために、挿画を描いたことがあった。
 あるとき金子の家で、菊池と正岡容が顔をあわせたことがあった。生活環境も趣味もまったく違う二人が、戦争嫌悪の点では話しが一致した。菊池は、この戦争が長引けば、必ず協賛革命が来る」といい、正岡は「なにがなんでも共産革命だけは来てほしくないが、戦争はいやだ」といった。金子が戦争についての不満を話し合った相手は山之口莫だった。
一九三七年(昭和十二年)六月、近衛文麿の内閣が成立。七月七日の深夜、盧溝橋で日中両軍が衝突する日華事変がおこり、日本と中国は本格的な戦争状態に突入した。
 十七日には蒋介石が廬山で周恩来と会談し、陜甘寧辺区政府を承認して対日抗戦のための総動員令を下した。それに対して、日本軍は七月二十八日に華北で総攻撃を開始した。
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by monsieurk | 2016-12-03 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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