フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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<   2017年 01月 ( 10 )   > この月の画像一覧

男と女――第七部(8)

一九四〇年(昭和十五年)は政情不安のうちに明けた。前年十二月二十三日、第七十三通常国会が開会された。三日後には衆議院議員二百四十名余りが、阿部信行内閣の不信任決議に賛同し、翌日には決議文を首相に手渡した。年が明けた一月十四日、阿部内閣は陸軍の支持を失って総辞職、二日後に米内光政内閣が成立した。
 米内は第一次近衛文麿内閣で海軍大臣に就任して以来、幾度か海軍大臣に就任した良識派だった。親英米派の米内を総理大臣に推したのは昭和天皇だったという。中国大陸で戦闘を拡大する陸軍によって、政治が壟断されつつある現状を打開したい勢力の抵抗のあらわれだった。
 こうした政局は、文化面にも影響せずにはいなかった。その一つがこの年に結成された「文化再出発の会」である。若手の評論家で幾つかの雑誌の編集者をつとめてきた花田清輝は、著名なジャーナリストで、思想家中野正剛の弟の中野秀人や、岡本潤と語らって新たな文化運動を起こす目的でこの会を立ち上げ、機関誌「文化組織」を発行した。一月に創刊号が出されてから、「文化組織」は第八号まで続き、文化の再編を提唱した。
 これに対抗するように創刊されたのが「詩原」である。昭和十四年十二月、新宿にあった帝都座の地下の「モナミ」で、青柳優、岡本潤、伊勢八郎、壺井繁治、秋山清、それに金子光晴も加わって幾度か会合がもたれ、新たな雑誌の発行と同人の選定が行われた。『現代日本文芸総覧』の「解題」では、「詩原」について次のように紹介されている。
 「「詩原」は昭和十五年三月、赤塚書房から発行された第二次大戦前の最後のアナーキズム系詩人たちの雑誌だった。すでに「一定の色彩はない。各人各様の詩誌だ」と創刊号「編輯後記」にことわらなければとても発行できない時代になっていたわけだが、壺井繁治、大江満雄、小野十三郎、倉橋顕吉、永瀬清子、山本和夫、中野秀人、池田克己らが寄稿、小堀甚二訳のハイネ「アツタ・トロール」が二号にわたって掲載されている。太平洋戦争がはじまる直前の時代で、もう詩人達の反逆も影をひそめているが、アナーキズムの詩人たちの抵抗の姿勢ははっきりうかがうことができる。菊判六十ページ前後で定価三十銭。編輯発行人は東京中野区上高田一ノ二七七伊藤方の伊勢八郎、発行所は東京市小石川区駕籠町五の赤塚書房。」
 金子光晴は「モナミ」の集まりに必ず顔を出し、創刊号には「詩評」を、第二号(四月号)には反体制の詩「死神」を発表した。そして両号には詩集『鮫』の広告が載った。
一方の三千代は、「早稲田文学」の一月号に、「都会文学について」と題した文章を寄せた。
 二月になって、中支戦線に出兵していた弟義文が、腹部と左腕に貫通銃創を負って送還され、名古屋の病院に入院した。生憎と父の幹三郎が病気で動けないため、三千代が名古屋へ出向いた看病しなければならなかった。
 そんななかでも彼女の創作意欲は旺盛で、同人誌の「文学草紙」に「我等の展望」を書き、三月には、これまで雑誌に発表した作品を集めた『巴里の宿』を、砂子屋書房から出すことができた。二七四頁に、表題作「巴里の宿」をはじめ、「雨季」、「小紳士」、「猫」、「梵鐘」の五篇が収められている。
 「巴里の宿」は、「巴里に寄せる」、「白い金魚」、「カルチェ・ラタン」、「アイーシャ」、「血を抱く草」の短章からなり、パリの屋根裏部屋に住む女性の鯉江を主人公にして、自ら経験した苦難をフィクションをまじえて描いたものである。たとえばこんな個所がある。
 「私の、はじめて飛びこんだ巴里は、そういうところだった。
仕事といっても、仕事らしい仕事はない。一日か二日、多くて二週間、三週間の臨時仕事で、それも、日本人の間をたのみ込んで、一月に一度あるか、二月に一度あるか。・・・だから、指から血を流す仕事もしなければならなかったし、あてが少ないと思いながら、山勘仕事にものらなければならなかった。金を中心にして、血みどろになって争奪戦をしなければならないこともあった。それが皆、日本人同志のことで、一人分の餌を十人で奪い合わなければならなかったのだ。一人の仕事のあるところへは、十人の人間がたからなければならない。地獄。私はいく度、目をつぶったかしれなかった。(中略)巴里での私の生活の均衡(バランス)のあぶなっかしさのなかに、私は、女性の顚覆の危機を屡々経験した。そして悪戦した。私の争闘は、内容的には、そういうものであったから、私は、むしろ男になろうと努力したのかもしれない。そして、この争闘は、現在の私の基礎になっているから、あながち、徒労なものではなかったといえる。」
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by monsieurk | 2017-01-31 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(7)

 ここで天使に擬せられている少年については、十四歳になった息子の乾が念頭にあることは間違いない。邪まなことや疑うことを知らない彼らは、神なき世をわが物顔に支配しようとしている権力あるものたちの言うままになろうとしている。
 詩はこうした状況への危惧と悲憤をうたっているのだが、真意は象徴的手法でぼかされているため、一読した限りは単なる抒情詩としか受け取られかねない。この時期の金子の詩は多少とも、みなこうした韜晦がほどこされていた。
 一方の三千代は、一月に中国旅行の見聞記「声――北支所見」を「輝ク」一月号に載せ、七月には一年ほど前から話し合いをしていた同人誌「文学草紙」を創刊した。同人は彼女のほかに、古谷綱武、古谷文子、鎌原正巳、高野三郎、須賀瑞枝の六人だった。創刊後も中野の飲み屋「ピカ一」で会合をもった。三千代はその第一号に「弱年」を発表した。この他にも、「梵鐘」(「文学者」八月号)、「猫」(「文学草紙」八月号)、「街の童女」(「文学者」十一月号)、「精霊流し」(「文学草紙」十二月号)などを発表したが、いずれも短い散文であった。
 なかでも目につくのは、「輝ク」の十二号に発表された「傷病戦士の慰安会」で、タイトルの通り戦争で傷ついて兵士たちを慰めるために開かれた慰安会のルポルタージュで、時代を反映した作品である。
 実生活では、二人が社員として名前を連ねる「モンココ」の本社が中野へ移り、河野夫妻はその近くに転居し、大鹿卓夫妻は杉並に移転した。金子にとって痛手だったのは、詩集『鮫』の出版に尽力してくれた本庄睦男が、肺結核が悪化して七月二十三日に亡くなったことだった。享年三十五歳の若さだった。
 ヨーロッパでは、この年の春以降イギリスとフランスはドイツに対抗するため、ソビエト連邦をヨーロッパの安全保障体制に引き入れようと努力した。スターリンはそれと引き換えにポーランドへの権益を要求したが、これは拒否された。
 一方、ヒトラーはダンチッヒの併合とポーランド廻廊を通過する鉄道と道路を引き渡すように要求し、ポーランドがこれを拒否すると、ポーランド侵攻の準備をはじめた。そして八月二十三日、突如独ソ不可侵条約締結が発表され、ヨーロッパの人たちは来るべき戦争を覚悟しなければならなかった。
 ヒトラーは同じ日、ポーランドへの攻撃開始の日を定め、ポーランドの使節が八月三十日までにベルリンに来るよう要求した。しかしポーランドは交渉に消極的だった。
 一九三九年九月一日、ナチス・ドイツの軍が突如ポーランドにたいする電撃作戦を開始した。イギリスとフランスは翌二日総動員令を発令してドイツに宣戦を布告した。こうして第二次世界戦争がはじまった。この戦乱でフランスやベルギーがどうなるのか、とりわけ世話になったルパージュ一家の運命が、金子と三千代には気がかりだった。
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by monsieurk | 2017-01-28 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(6)

 十二月の「日本学芸新聞」のアンケート「長期戦下の文化国策に直言する」では、「我々としてはただ寛厚を庶幾するほかは仕方がないだろう。文化国策に直言するよりはむしろそれに順応する文化人一般に直言したいことの方が多い。一例がペン部隊の事にしても、当局の意図や人選振を批判するよりも、文壇の元締め根性の方が問題だ。長期戦下で元締めたちとその努力範囲に一任することは文化に関する仕事の限りでは返って冗が多いことになるのではないか」と答えている。
 要するにペン部隊をつくって国に奉仕させようとする内閣情報部への批判を避けつつ、それに迎合する文化人をやり玉にあげるのだが、いかにも隔靴掻痒で、苦しげである。十二月四日には、従軍ペン部隊の第二陣として、長谷川伸、中村武羅夫など九名が南支へ向かった。
 一九三九年(昭和十四年)一月四日、近衛文麿内閣が総辞職して、翌五日には平沼騏一内閣が成立。六日にはドイツのリッペントロップ外相が、日独伊三国同盟を正式に提案した。日本は三国相互の武力援助はソビエト連邦だけを対象とし、その他の国に対しては状況によって対象とするという妥協案をもってこれを受け入れることに決した。
 戦時色が日常生活にもさまざまな影を落すようになったが、金子の創作意欲は衰えなかった。新年には詩篇「章句――ジャン・モレアスに」を「新女苑」一月号に発表したのにはじまり、「天使」(「中央公論」四月号)、「泥濘の歌」(「文芸日本」六月号)、「混血論序詩」(「文芸」六月号)、「ニッパ椰子の唄」(「文学者」十一月号)「八達嶺」(日本学芸新聞」十一月二十五日号)などが主なものである。これらの多くは後に詩集『落下傘』(一九四八年)や『女たちへのエレジー』(一九四九年)に収録されることになる。
 このうちの「天使」は時勢にそぐわないタイトルの詩だが、いったいどんな意図で書かれたのだろうか。まずは詩の一部を紹介する。

 天使

  一

 しゃぼん玉があがるやうに
嬰児(あかんぼう)たちが
そらにうまぶ。

神の煉乳(コンデンス・ミルク)で育つた
薔薇の膚は
風邪をひかなあい
むつきもいらない。

その背には
雉鳩のつばさ。

・・・・・・・

  二
  
 だが、いま、嬰児たちは顔蒼褪め
アビオグラムのなかを遁れまはる。

成層圏まで、父なる主宰者はゐまさず
嬰児たちは孤児となりはてた。
塵や、木の葉や、新聞紙とともに、かれらは
宙に吹きちらされる。

口いつぱい蟹の泡を噴き
うろたへ、
逆さになり、くるくる廻り、
べたべたなキャンディを手に握り、
肉柱のにほふ甘つたるいからだ、
すつぱい林檎。
円光(ニンプ)を背負つた
無心な天使らは
地球にやすらふところがない。

踏んづけるほどおつぱいが押しあつても
天使らを養ふものはゐない。
気球のあがる
屋上のたたきのうへで、
飴いろのにぎやかな一群を
秋空たかく、私は
かなしげに見送る。

あれは邪(よこしま)と
疑をしらぬもの、
えらばれた扈従たちよ。
いずくにゆく。

 昼の月、
浮雲とともに
神の声色、遠雷のつぶやく
くにざかひのそらを天使らは
おそれげもなく
膝で
匍いまはる。
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by monsieurk | 2017-01-25 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(5)

 「落下傘」は「洪水」とは違って、詩集『現代詩人集Ⅰ』(山雅房、一九四〇年)や戦後の『落下傘』(日本未来派発行所、一九四八年)に収録されたテクストとの間に異同はない。ただ冒頭の、「ながい外國放浪の旅の途次、はるかにことよせて望郷詩一篇」という前文と、詩を飾ったカットの作者を示す註、「深澤索一畫」は削除されている。
 東南アジアや、パリ、ベルギーで苦労した金子が、ときに望郷の念にかられたのは事実だった。日本からの距離が遠くなり、時間が経つにつれて故国は理想化されるもので、金子の場合も例外ではなかった。故国は何よりも言葉が通じ、顔色で相手の考えが分かる国、同伴する三千代とは違って「女たちの貞淑な国」であり、「額の狭ひ、つきつめた眼光、肩骨のとがつた、なつかしい朋党達がゐる」。金子はそこを「戦捷の国」と呼び、落下傘で降りてゆく。
 ここに描かれている日本や日本人は、戦時中どこにでも見られた一般的風景であり、人びとである。しかしその「戦捷の国」が、いま途轍もない破滅に向っていこうとしていて、北支の旅で、「ひもじいときにも微笑む / 躾」をうけたはずの人たちが、戦場で豹変するのを目撃した。そして「草ぶきの廂にも / ゆれる日の丸」がいつしか出征する人たちを送るものとなり、残された者も、忠君愛国のスローガンのもとに一色に染まりつつあった。
 金子の反戦意識は生理的な恐怖に発していた。戦争はまずは自分や家族の死をもたらす。そしてこの恐怖は、戦争によって人間性を奪われ殺人者と化す兵士への嫌悪に結びつく。戦後になって、友人の郁達夫が日本軍によって殺されたのを知ったとき、金子はこう書いた。
 「戦争中、僕が周囲で見てきた軍人の凶暴な性格は、上の命令で仕方なしに歪められた性格とばかり僕は見ることができない。上から下まで区別なく、日本人は、ある低い沸点で同様に沸き出し、本来の卑屈さ、乱破(らっぱ)根性がむき出しになるのだ。兵隊たちがいずれも素朴な、好人物の人の息子とわかっていても、その性格は絶対に信用できず、その行為は、どれほど憎んでもあまりがある。」(『日本人について』)
 七月、日本ペンクラブが国際ペンクラブを脱退。八月には内閣情報部の要請で、漢口攻略戦の取材を目的に、初めてペン部隊が結成され、陸軍班二十四名、海軍版八名が戦地へ派遣されることになった。
 金子もこうした情況を考慮せずにはいられなかった。「中央公論」七月号の掲載された「無憂の国――爪哇素描」は、ジャワ島の見聞記だが、文末には小文字の但し書きが添えられている。「猶バンドン、ガロ、トサリ、スラバヤ等に就いて天然を、人事を語りのこしたことが沢山あるが、紙数を限られてゐるのでそれを説尽すことができない。ただ、邦商の発展のかげには、東洋の覇者としての日本の爪哇一般は好意をもつてゐて、我らに頼ろうとする傾向があり、自然安値と云ふ条件においても感情的に日本品を欣ぶためであることを一言書添へておきたい。」
 現地の人たちが日本の品を買う傾向が増えているのは事実だったとしても、それが「東洋の覇者」への信頼によると、あえて書き添えた部分はいかにも不自然である。出版統制を慮る編集者畑中と金子があったに違いない。
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by monsieurk | 2017-01-22 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(4)

 ところで、「中央公論」六月号に掲載されたもう一篇「落下傘」は次のような詩である。

  落下傘
  
   ながい外國放浪の旅の途次、はるかにことよせて、
   郷詩一篇。
  
 落下傘がひらく。
じゆつなげに、

旋花のやうに、しをれもつれて。

晴天にひとり泛びたゞよふ
なんといふこの淋しさだ。
・・・・・・・

   二

 この足のしたにあるのはどこだ。
・・・わたしの祖国!

さいはひなるかな。わたしはあそこで生れた。
 戦捷の國。
父祖のむかしから
女たちの貞淑な國。

もみ殻や、魚の骨。
ひもじいときにも微笑(ほゝゑ)む
躾。
さむいなりふり
有情(あはれ)な風物。

 あそこには、なによりわたしの言葉がつつかり通じ、かほいろの底の意味までわかりあ
  ふ、
 額の狭ひ、つきつめた眼光、肩骨のとがつた、なつかしい朋党達がゐる。

「もののふの
 たのみあるかの
 酒宴かな。」

洪水(でみづ)のなかの電柱。
草ぶきの廂にも
ゆれる日の丸。

さくさしぐれ。
石理(きめ)あたらしい
忠魂碑。

義理人情の並ぶ家庇。
盆栽。
おきものの冨士。 

    三

ゆらりゆらりとおちてゆきながら
目をつぶり、
「神さま。
 どうぞ。まちがひなく、ふるさとの楽土につきますやうに。
 風のまにまに、海上にふきながされてゆきませんやうに。
 足のしたが、刹那にかききえる夢であつたりしませんやうに。
 萬一、地球の引力にそつぽむかれて、落ちても、落ちても、着くところがないやうな、悲しいことになり
ませんやうに。」 ― 終 ―

(深澤索一畫)
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by monsieurk | 2017-01-19 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(3)

 この詩には以下のような前書きがつけられていた。
 「一九三七年、河北省一帯石家荘から白河に氾濫する三十年ぶりの大洪水が、冬季に入つて猶、水去らず、凍結して一大氷原を出現した。村家流失、生残るもの無一物となつて丘陵に逃れる。しかも厳寒に食なく凍死者相つぐ。歴世支那為政者民の歎を顧ず。皇軍よく白河を治るは、治水者王たるの意に適ふものか。有所感、慨慷一篇。」
 これは言うまでもなく痛烈な反語であり、日本軍が巨大なエネルギーを秘め、ときに氾濫す白河を治められず、「治水者たる王」であり得るはずはない。さらに詩集『落下傘』(一九四八年)に収めれた改作では、詩の最後に、

およそいつになつたら
この氾濫と、
没有法子が解放されるか。

 という一節が加えられた。忍従を強いられる民衆の解放、彼らのひそかな抵抗の精神「没法子」が実現するのはいつか。金子のなかでは、天津で書かれたエッセイ「没法子」よりも一層悲観的な色を濃くしていた。
 金子は東南アジアを旅行中に、英国やオランダの植民地で、虐げられる現地人や経済を牛耳る華僑の横暴を散々目にし、欧米の主張を額面通りに受けとることはなかった。だからといって、日本軍は現状を打破して中国やアジアに新たな路を切り開くという、国民一般が信じている考えには到底同意できなかった。
 「僕の会う人々は、インテリにせよ、そうでない人たちにせよ、あの戦争を超個人的な、ひどく厳粛な、勿体ぶったものとして、おしつけてくるのが常だった。そのイミに於いては、学校の先生も、文士も、工場主も、芸能人も、職工も、同じ口調だった」、「戦争がすすむに従って、知人、友人達の意見のうえに、半分小馬鹿にしていた明治の国民教育が底力を見せてきだしたのに、僕は呆然とした。外来思想が全部根もない借りもので、いまふたたび、小学校で教えられた昔の単純な考えにもどって、人々が、ふるさとでもかえりついたようにほっとしている顔を眺めて、僕は戸惑わざるをえなかった。古い酋長達の後裔に対して、対等な気持ちしかもてない僕、尊厳の不当なおしつけに対して、憤りをこめた反撥しかない僕は、精神的にもこの島国に居どころが殆どなくなったわけだった。」(『詩人』)
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by monsieurk | 2017-01-16 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(2)

 そして「中央公論」六月号には、二篇の詩、「洪水」と「落下傘」が掲載された。「洪水」では、北支での見聞が次のようにうたわれている。

 洪水
    
      一

まるで古新聞みたいだな。
よごれた氷ども。

まるで皮膚病みたいだな。

碼頭ロックを咬み、
みぢんにひゞいり、
しづかにまた、張りつめる。

大運河を越えて
渤海まで、みわたすかぎりの洪水が石になつたのだ!

飢ときびしい沈黙がのしかかつたのだ!

ねむたい眼をあげて、
どこまでつゞくのだ
氷原よ。

石鹸(じゃぼん)よ。
にほふ水平線よ。

うつくしい屍(しがい)のうへを
蛾が孵つて
さまよふ月よ。

      二

 父よ。母よ。子よ。祖父母よ。いま、かれらをおし
流した雲のやうにおほきな濁水は、
 水の肋骨のしたに封じられたのだ!

 畝や、塚の土まんぢう、家竈、井戸や、石臼などは、
くらい水の底にじつとしづんでゐるのだ!
 だが、氷のしたには、なんの物音もない。

 氷のうへにも、なんの物音もない。

河北を一枚で蔽ふ氷盤の、なんといふこの静謐さだ。

 地をびしびしと縛り、天に楔(くさび)うつ、音なき銃聲にも
似た
 なんといふきびしい經律なのだ。

光はまだか。
五千年の秕政の
革る日はちかいか。

虹のやうな凍え。
漂流物。
鳥鼠洞穴。

苦寒にいきのこつた
老人子供が
氷上に孔を穿ち、
あくた火に寄りくる魚くづを
辛抱強く待つてゐる。
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by monsieurk | 2017-01-13 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第七部(1)

 第七章

 緊迫する世相

 金子と三千代が北支の旅からいつ帰ったか、二人の残したものから特定することはできない。たが金子がこの年(一九三八年、昭和十三年)の「中央公論」六月号に発表した詩篇「洪水」の最後に、「一九三八・一・一五作」との記述があり、この詩が帰国直後に書かれた可能性が高い。このことから、二人は一月十日前後には帰国したと推定される。
 三千代は帰国するとすぐに、出発前に武田麟太郎が逗留するといっていた箱根底倉の宿へ電話をした。すると来てほしいという返事があり、すぐに梅屋旅館へ訪ねて行った。
 その後の二人の間がどうなったかは、三千代の「女弟子」や「銀座を行く武麟」からはうかがうことができない。ただこのころ、三千代が麟太郎の麹町の家の前で矢田津世子と偶然出会ったことがあった。それが二人の鞘当として文壇仲間の噂になった。噂を流したのは武田本人だったという。
 息子の乾は両親の仲について、次のように述べている。
 「実際は、おそらく、土方定一との情事を除いては、三千代に、良人と子供を犠牲にしてまで燃焼する情熱がなかったのではなかろうか?三千代も分別盛りになっていたし、うたかたの恋よりも少女時代から憧れていた小説家としての大成の方が魅力があったのかもしれない。(中略)三千代の小説の語彙の豊富さは、三千代が原稿紙を前にして坐っている傍で、光晴が頭をひねり、口先でぼそぼそ言う手助けが大いに貢献していたようだ。」(「夜の果てへの旅」)
 三月になって、金子一家は北多摩郡吉祥寺街一八三一番地に転居した。これには以下のような経緯があった。以前、三千代は金子とともに乾を連れて井の頭公園へ遊びに来たことがあった。息子を電気自動車に乗せて遊んだ帰りに、百坪単位で売地が近くに並んでいるのを見つけると、地主の吉祥寺の町長の家を訪ね、その一つを購入することに決めた。一度に払う金はなかったが、美貌の三千代が気に入った町長の井野は、何年もかかる月賦で譲ってくれた。
 そしてこの年、金子の実兄の知り合いで、東中野に住む横山という裁判官が大審院長になったのを機会に、手狭になった家屋を売りに出すというのを聞くと、破格の安値で購入し、それを解体して吉祥寺の土地に運んで再建した。
 ただ吉祥寺のこの辺は、電気こそ通っていたが、ガスや水道は引かれておらず、水は井戸を掘ってモーターで汲み上げ、炊事には薪を焚かなければならなかった。
 世相は一層緊迫してきた。四月一日には国家総動員法が公布され、さらに警視庁検閲課が出版の統制を強化することを決定した。
 金子は「文芸春秋」時局月報(五月号)に、「シンガポールの裏街から――軍港街につどう諸人種気質」を発表した。これはタイトルの通り、シンガポールに滞在中に見聞した、タミール人、インド人、ベンガル人、華僑などの気質や生活ぶりを伝えたものである。なかでも支配者の列強を除けば、東南アジアの経済の実権を握っている華僑については次のように書かれている。
 「彼ら〔中国人〕は少し油断したら、何でも持ってゆく、とがめれば返す。返せば、あとは同等だ。恩怨はないではないかという顔つきで、よくいえば、実に淡々として、今度会っても、どこを風が吹くかという顔をしている。くよくよ思い悩む良心などはてんで持ち合わせていざることだ。支那人のこれと一連の性格は、よく研究したら面白いとおもう。支那通や、支那研究者が、支那人が国民として老成しており、個人として大きく円満だと考える点も、実際的に支那人とかかわりあったものが、老獪で無節操で始末の悪い国民だとするのも、彼らの同じ生活態度の二面観察にほかならないとおもう」、「事変前、蒋介石の大きな巾着はこの南洋華僑で、そのためには猛烈な働きかけをしたこと、いつか「南洋華僑の排日」という題で、本誌上に略述したとおりである。(中略)しかし、大きな土人購買層は、彼らの悪辣と、懸値(かけね)商法に嫌悪をおぼえていたので、少し高値でも正札つきの日本商品に信を置くような時代になってきて、華僑自身も長年の習慣を反省しつつ日貨に対抗しようとしている。」そして、「最後に、われら同胞について一言すれば、永年の排日貨と、不況にいためつけられながらも、すこやかに発展している。しかし、何としたことであろう。沢庵一本の注文に、雑貨屋の番頭さんが、タクシーに乗ってわざわざとどけにきてくれるとは・・・。」
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by monsieurk | 2017-01-10 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(40)

 三千代のこの紀行文は旅の三年後に発表されたもので、戦後になった書かれた金子の『絶望の精神史』では、この八達嶺への旅は次のように書かれている。
 「昭和十三年元旦、僕らは八達嶺に登り、万里の長城を俯瞰した。日本兵の錯乱寸前の狂的な緊張の目が、僕らを必死に見まもっていた。彼らの、いま立たされているぎりぎりな場所が、理解できるように思った。彼らは、門口に「祝出征」の造花の花環を飾られた家々から連れてこられた庶民たちである。僕の心には、主人が駆り出されて蕎麦屋の店をしめた家をのぞいた、寂しい印象が残っている。死の危険よりも、もっと耐えがたい、柄にもない悪鬼羅刹の立場を強制されることで、極端に自己を圧縮され、破裂しそうになっているのだ。彼らを戦力として、あやつっている軍の幹部たちのほうは、長年の夢が実現して有頂天となり、いまや、なにごともわが思いのままになる快味にひたっている。軍の名で、非理を押し通すことを、いたって当然のことのように思い上がっていた。」
 金子と三千代は八達嶺から北京へ帰ると数日を過ごし、さらに天津にもう一度戻ったあと一月中旬に帰国した。天津を離れる前にこんなことがあった。
 「いよいよ帰途につく数日前のことである。天津の喫茶店で、若い男女が休んでいるところへ、前線からかえってきたばかりの「アモック〔狂ったように暴れる〕」状態からさめない兵士がはいってきて、理由もなしに、いきなり銃剣で男を刺殺する事件があった。大きくなりそうな事件だとおもったが、軍は、「そういう兵士はいない」と、取りつく島もない挨拶ばかりで、弱腰の領事館当局は、泣寝入りで引っ込んだ。大杉栄を殺した甘粕大尉が、満州で大ボスになっていたように、軍は、おのれの非行をかばって、いっさい触れさせぬ態度を、ようやく公々然とおし通すようになった。
 日本に帰ってきて、神戸から東京へかえる列車の中でも、僕は同じような事件を目撃した。現地からかえってきた将校が、いきなり軍刀をひきぬいて、隣席の者に切りつけた。戦争の強烈なショックに耐えられないで、発狂したものであったが、新聞には一行も報道されなかった。」(「中国のなかの日本人」、『絶望の精神史』)
 これが金子と三千代が自分の眼で見た中国大陸の現実であった。そこでは新聞や雑誌ではもはやうかがい知れない事態が展開されていた。
 「北支の旅から帰ってくると、僕は、この戦争の性格が、不幸にも僕の想像とちがっていなかったことをたしかめえて、その後の態度をきめることができた。」と、金子は『詩人』で述べている。十二歳になった息子の乾は、帰国後の金子が、「「こんどの戦争がやはり欺瞞だとはっきりわかったよ。ぼくらは自分の眼でそれをたしかめてきたんがから」
 晴久〔光晴〕が訪問した友人に、気負った口調で言った声を裕〔乾〕はいまでもはっきり覚えている。」(「金鳳鳥」)と書いている。
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by monsieurk | 2017-01-07 20:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)

男と女――第六部(39)

 王府井にはさらに、数十軒の中古本屋が軒を並べる通りがあった。事変後、中国の出版界は休止状態で、古本の日本に関係する本や日本語の手引きの類が飛ぶように売れ、反対に過激な思想の書籍や排日的な論調の著者の本はきれいになくなっていた。政府側の通達によるものか、本屋が自発的に引込めたのかは分からなかった。ただその統制ぶりが不気味だった。
 一見平穏な北京で戦時を実感させるのは毎日変わる為替相場だった。二人は外出のときに、宿の帳場で小出しに円を両替したが、十円につき十銭も減ることがあり、それが三、四日続くと、なにか異常事が勃発したのではないかと不安にさせられた。その上、偽札が横行していて用心が必要だった。
 年が明けた一九三八年(昭和十三年)元旦、金子と三千代は八達嶺の万里の長城へ行くことにした。厳冬のさなかの旅行に周囲の人たちはあきれたが、戦火が収まり大同まで列車が通じ、張家口までは軍の許可なしでも出かけられるようになっていた。
 早朝一番に乗り込んだ列車は、通路はもとより網棚の上にも人が乗っている有様だった。列車は途中、激しい抗日運動があった精華大学のそばを通り、ようやく青龍橋站という山間の駅についた。ここからは満鉄の従業員の世話で案内人がついて、三千代は驢馬に乗り、
金子は徒歩で行くことにした。途中で山から下りてくる駱駝の隊商の一行とすれ違った。磧につくと、そこには日章旗がはためく小屋があり、兵士が驢馬の上の三千代に銃剣を突きつけて、誰何した。
 八達嶺へ行くというと、「なんだ。日本人か。そんな恰好をしているからまちがえるじゃないか。」と言って笑った。三千代は偽のアストラカンの外套と帽子に、スキーズボンという異様ないでたちだった。写真を撮ってはいけないこと、山の裏側には八路軍の兵三百五十人ほどが残っているから、注意するようにと厳重に言い渡された。城壁の下で驢馬を乗り捨て、崩れた石段を登った。ちょうど正午だった。
 「正月元旦、私は八達嶺の嵐を力一ぱい吸いこんだ。自分が荒鷲になって羽ばたくような音を耳にきいた。頂上の城櫓のなかは破片で狼藉をきわめ、周囲の石壁には墨や刀痕でいろいろな字が刻みつけてあった。洛陽人張奎文だとか、日奴国仇也とかいう中国人の刻字のあいだに、部隊の名を連名で刻みつけた皇軍の刀の痕もあった。激しい風の音が櫓の窓穴でひゅうひゅうと唸り、洪水の押寄せる時のように轟々と虚空にとゞろいていた。」(『をんな旅』、「八達嶺驢馬行」)
 万里の長城の上から彼方をのぞく三千代の心には、中国軍を率いて日本軍の戦っているはずの紐先銘の幻があった。
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by monsieurk | 2017-01-04 22:30 | 芸術 | Trackback | Comments(0)