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ムッシュKの日々の便り

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[美祭」、日本画の世界

 東京京橋にある美術店「加島美術」の二代目とは、彼が京都の老舗美術商「鉄斎堂」で修行をしていたときに知り合った。それ以来「加島美術」が発行する豪華なカタログ「美祭」を送ってもらっている。
 この秋に出た「美祭」16号は、店が所蔵する多くの名品を掲載しているが、巻頭には石川大波(いしかわ・たいろう)が描いた《プレンク像》(絹本、水墨、128×56cm)の軸装の写真版で載っている。[美祭」、日本画の世界_d0238372_1504967.jpg
 石川大波は江戸時代後期の幕臣で、江戸城のほかに、大阪城、京都二条城の警備の任にあたった。大波はこうした任務のかたわら、大槻玄沢や木村兼葭堂、谷文晁などと交流し、当時の知識人の常として画を学び、やがて洋風画も手がけるようになった。そしてその研究のために蘭学者とも友誼を結び、オランダ語の書物の挿絵である銅版画を参考にして、その技法を習得した。その打ち込みようは、Tarfelberg というオランダ名を画号の一つにしたほどである。
 大波の作品としては、重要文化財に指定されている《杉田玄白肖像》や《ヒポクラテス像》などが知られている。《プレンク像》は同じ系統のもので、描かれているヨセフ・ヤコブ・プレンクはウィーン陸軍軍医学校の教官で、杉田玄白の次男である杉田立卿が翻訳した『眼科新書』の著者として当時知られていた。この作品は、こうした類の書物に挿入されていた肖像画を模写したものと思われる。ひょっとすると杉田立卿の依頼によって描かれたものかも知れない。
 「美祭」16号には伊東深水の小特集もあり、深水の肖像画や素描を楽しむことができる。
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 写真の《夏日》(絹本、着色、45×50cm)は昭和30年頃の作品で、深水が現代的な人物画のを完成させた時期のものの一つである。深水は、「少しもの足りないくらいの絵」を描くのがいいとして、線も構図も冗漫なものを極力省き、それによって格調高い作品を生み出した。
 真っ赤な背の椅子に座り、黄色の着物の衿をととのえる洋髪の女性。もともと浮世絵美人画の伝統につらなる伊東深水の新たな境地を伝える一品である。
 東京深川の商人の家に生まれた彼は、小学校3年生のときに父親が事業に失敗し、家計を助けるために小学校を中退して東京印刷株式会社の活版職工となった。10歳のときであった。仕事の必要上、絵の手ほどきをうけた彼は、間もなく図案部に移り、会社の顧問をしていた結城素明に画才を認められて、その紹介で13歳のときに日本画家鏑木清方に入門した。
 こうして画業の道に進んだ深水が初めて入選をはたしたのは、14歳のときの第12回巽画会である。出品作は《のどか》と題したもので、木陰で憩う砂利馬車と眠り込む御者、2人の遊ぶ子どもたちを描いた風俗画であった。そして大正8年21歳のときに結婚。翌9年には初めての個展を催し、そこに出品した《指》は、妻の好子が夏の夕方、床几に腰かけて薬指にはめた指輪を満足そうに見つめる姿を描いていて、美人画の技法を確立したと評価された。このときから昭和47年に74歳で亡くなるまで多くの傑作を残した。
 深水は終生スケッチをおろそかにしなかった。下の《裸婦図》(紙本、素描、22×34cm)は、彼の引く線の確かさを示す好例で、素描ながら女体の美しさを表現した愛すべき小品である。
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# by monsieurk | 2014-10-07 21:30 | 美術

対談「青空のこと、梶井のこと」Ⅹ

  手紙

 いま宇野千代さんの話が出ましたが・・・
中谷 あはゝゝ・・・
 オフ・ザ・レコードでも結構ですが、二人の関係はどうだったのですか。梶井さんの片思いだったのでしょうか。
中谷 そんなことはないのです。宇野さんも承知の上ですけどね。
 その点について、宇野さんは黙して語らないわけですが・・・
中谷 語らないわけではなくて語ってはいますが、何でもない、ただの友情みたいに話していますが、梶井の方はそうではなかったのです。
 梶井は宇野さんに宛てて沢山手紙を出しています。筑摩の全集を出版する折に、それを出してくれと宇野さんに頼んだのです。そうしましたら、宇野さんは転々としている間に焼いてしまいましたとか何とか言って、・・・あるいはそれは本当かも分かりませんけどね。
平林 そうでしょう。あの当時は、梶井さんといったって、単なる文学青年ですからね。そんな手紙は何とも思われなかったでしょうし、読んだら捨ててしまわれたんでしょ。
 私たちにとっては残念な話ですね。梶井さんの別の面がそこからうかがえたかも知れませんし、一大恋愛文学があったのかも知れませんのに。
中谷 そんなわけで、梶井の恋文もなくなってしまいましたし、保田与重郎のラブレターも出てこないのです。
 保田の全集も近く出すのですけれど、それには書簡は全部入れないことになりました。保田もいっぱい手紙を書いているのですが、出さないことになったようです。
 手紙を公けにすると、批評であんな難しいことを書いている裏がみな分かってしまうということですかね。(笑)
平林 うちにも保田さんの手紙や壇一雄さんの手紙が沢山ありますが、手紙は大変面白いですね。
 梶井さんの手紙は面白いのもさることながら、後期のものは、発表されることを予期していたのではないかと思えるほど、整った立派なものですね。
平林 手紙も小説を書くのと同じように、幾度も書きつぶしたあと、ようやく書き上げたのでしょう。
中谷 手紙を書き直すのですから。いい手紙が書けないからといってね。私などは滅多に手紙を書きませんし、書いたって用件だけしか書きませんが。
平林 梶井さんがあまりいい手紙を書いてしまわれたからでしょう。(笑)
 それにしても、あれだけ数多くの手紙が散佚もせずに保存されているというのも、梶井さんはよいお友達を持っていたからですね。
 これはかつて角川文庫から出版された『若き詩人の手紙』という、梶井さんの手紙を集めた文庫本ですが、読み物としてもじつに面白いものです。梶井さんのと言いますより、一人の多感な青年の内面の記録としても白眉です。いまは残念なことに絶版となっているようですが。
中谷 いまでも梶井の全集は毎年増刷されているようですよ。もちろん、数は多くはなく、千部ずつぐらいですが、それでも全集が毎年増刷される作家がほかにいるでしょうか。この一事をもってしても、梶井は稀有の作家だということが分かります。
 愛読者が次々にあらわれるのですね。

中谷追記――K〔原文は本名が記されている〕さんとのこの対談は、大そう快いものであった。Kさんは大学時代から梶井の文学に深く傾倒し、社会人になってからも常に梶井文学への関心を怠らず、広く梶井に関する研究書などにも眼を通している人である。だから、
ある点では、私などよりずっと梶井のことに明るく、教えられるところが少なくなかったことを感謝したい。
 対談の原稿は、Kさんがまとめたものを、私が読んで見て手を加えるということになっていたが、Kさんの草稿がよく出来ているので、私は全く手を加える余地がなかった。老人のもたもたした話を、よく上手にまとめてくれたものであった。
 私は久しぶりに、六十年前の「青空」のことを回想し、今は大分故人になってしまった同人達の若かりし日の姿を思い浮かべ、懐旧の情に堪えないものがあったが、しかしこの対談では梶井のことが主となっているので、他の同人達のことは殆ど語られていない。そこで、これらの人々のことに就いて少しばかり追記して置きたいと思う。
 「青空」を支えるのに最も功労のあったのは、外村繁(茂)と淀野隆三との二人であった。二人は家が豊かであったので、雑誌の費用の不足をよく補ってくれたものであった。また編集その他のことにも精力的によく働いてくれた。もし彼ら二人がいなかったならば、「青空」は或いは三号雑誌で終わってしまったかも知れないのである。
 話は飛ぶが、後に淀野は梶井の『檸檬』の出版や、また『梶井基次郎全集』の刊行に殆ど独力で尽力した。彼の尽力がなかったならば、悪くすると梶井の作品は散佚してしまったかも知れないのである。今日、梶井文学の愛読者は、淀野の貢献の大きさに思いを至して欲しいものである。
 外村繁が作家として大成したことは、読者のよくご存知のことであるが、梶井の全集が今尚、毎年必ず増刷され、梶井文学の研究熱がいよいよ盛んなのに比し、外村文学に対する評価はそう高くないようである。これは一つには、梶井文学が青春文学であり、外村文学が主として中年文学であることにもよるだろう。なぜなら我が日本では、若ものしか殆ど小説を読まず、若ものの関心はとかく青春文学に傾き勝だからである。
 外村文学の代表作は、筏三部作、『澪標』『濡れにぞぬれし』などといわれているが、私はむしろ晩年の短篇に好いものが多いように思う。ここで一つ一つの作品に就いて語っているひまはないが、それらの緒短篇はいずれも私小説であり、日本に多い私小説群のなかの第一級のものだと私は思っている。誰か外村文学の研究者は生まれないものか。私はその出現を期待して止まないのである。
 尚、「青空」の生き残りは北川冬彦と飯島正が東京に在住しているが、彼らに逢って旧を語り合う機会は殆どない。老懶、彼らを訪れることもしないが、健在を祈るや切である。大阪には北神正が健在で、梶井の命日には毎年、梶井家の菩提寺の常国寺で行われる梶井文学愛好者の会を主宰している。私も二度ほどこの会に出席したが、参会者はいつも三、四十人で、熱心に梶井文学に就いての討論が行われていた。
 「青空」の生き残りにもう一人、浅沼喜実が鳥取にいる。戦前は銀座の「たくみ工芸店」の店主をしていたが、戦後は故郷の鳥取に帰り、「たくみ」という料理屋を経営しながら、地方文化の為に尽し、山陰文化賞を受賞した。しかし昨年、老齢の為に「たくみ」の経営を人に譲り、その後は専ら読書に日を送っているとのことである。彼の自愛を祈って、この追記を終ることにする。

対談「青空のこと、梶井のこと」Ⅹ_d0238372_105248100.jpg
  中谷孝雄氏の「追記」の自筆原稿 (完)
# by monsieurk | 2014-10-04 22:30 |

対談「青空のこと、梶井のこと」Ⅸ

  酒と病気

  
 中谷先生たちは、東京に来てからよく神楽坂へ飲みに行かれたようですが、本郷から神楽坂へは歩いて行かれたのですか。
中谷 いや、それは電車で行きました。前に申した通り、震災の直後でしてね。銀座などは復興の最中で、いたる所でカンカンやっておりました。神楽坂一帯は幸いなことに被害が少なくてそのままだったのです。東京の中でも、もっとも賑やかな場所の一つではなかったですか。
 もう京都時代のような武勇伝なかったのですか(笑)、東京では。
中谷 いや、東京でもありましたよ。・・・よく喧嘩しましてね。
 ほう。
中谷 よく酒を飲むと議論になって、やがて喧嘩になるんです。私は酒を飲まないものですから、仲裁役をつとめるわけですが、損な役回りでした。
 それは主に梶井さんと外村さんですか。
中谷 そうです。二人で酒を飲んで、やりあっているうちに、わけが分からなくなってくるのです。そうすると、お前は飲んでないのだから、どっちが正しいか判断しろと、こうくるのです。どっちが正しいかなどと言ったら、それこそまた始まりますからね。(笑)とんでもない事になる。
 中谷先生以外の人たちは、皆さんお酒が強かったそうですね。
中谷 皆一升酒を飲むのんです。二人集まれば、二本、三人集まれば三本、一升壜が空になる。・・・実際、あいつらは、皆よく飲みよったなあ・・・
 貧乏だ、貧乏だとお書きになっていても、毎日お酒を飲む金はあったんですね。
中谷 貧乏と言ったって、学生の貧乏は貧乏のうちに入りませんよ。月末になれば家から金を送ってくるのですから。一番貧乏したのは私ですよ。なにしろ、もうその頃、女房と子どもがいましたからね。家からの仕送りで親子三人が生活していたのですから。
 梶井さんもお酒の点では例外ではなかったのですね。
中谷 梶井だって、相変わらずの一升酒でしたね。大体、梶井というのは私をもうひと回りごつくしたような男で、肺病さえなかったら、永く生きる身体つきの人ですけれどね。
平林 骨も太かったですしね。がっしりとした身体でしたね。
 梶井さんが胸を悪くされたそもそもは、梶井さんのお祖母さん、父方の祖母にあたる方が開放性結核で、このお祖母さんから感染したようですね。
 中谷先生もご存知の小山榮雅氏が、梶井さんのお兄さんの謙一さんとされた対談が、「国文学、解釈と鑑賞」の昨年4月号に掲載されておりますが、そのなかの謙一さんのお話では、梶井兄弟は鳥羽に転居したとき、お祖母さんと一緒に住んでいて、お祖母さんの部屋に遊びにいっては、お祖母さんがしゃぶった飴玉を貰ったりしたということです。
 年譜を調べてみますと、梶井一家がお父さんの宗太郎さんの仕事の関係で、鳥羽へ行ったのが明治44年、梶井さんが11歳のときで、それから大正2年まで鳥羽での生活が続きます。その間、大正2年6月に祖母のスヱさんが肺結核で亡くなり、この年の10月、一家は大阪へ戻っています。そして大正6年、17歳のとき、これは北野中学の4年生になった年ですが、薬を服用しています。結核の兆候があったのかも知れません。
中谷 私たちが出会ったのは、先ほども申したように、大正8年10月ですが、とても胸を病んでいるようには見えませんでした。
 奥様から見てもそうでしたか。
平林 ええ、そんな感じはぜんぜんありませんでした。咳もそんなにしませんでしたね。か弱い咳はしませんでした。
中谷 いや、やっぱり時々は咳き込んでいたよ。
平林 多少は咳をしていましたが、私などは一度も怖い病気だなどと思ったことはありませんでした。
 私たちから見ると、これは皆さんの友情だろうと思うのですが、仲間の方々の誰一人として、梶井さんの病気を気にするようなことはなかったのですね。
中谷 それは誰もありませんでした。
平林 誰もなかったですね。
中谷 本当に、皆、同じにやっておりましたよ。
 梶井が私にこんなことを言ったことがあります。「広津〔和郎〕さんのところへ行ったら警戒された」と言うんです。「お茶をもってきた茶碗を、ほかのものと一緒にしないで、俺に出したものだけ一つ別にしてお湯で洗った」、非常に不愉快だったというのです。
 ですがこれは当たり前でしてね。ことに広津さんの奥さんが、そうされるのは当たり前なことなんですが、私たちのうちで、そんな警戒をした者はありませんでした。
 広津さんと面識ができた頃というのは、そうとう病気も進んでいたでしょうから・・・
中谷 湯ヶ島の頃ですから、相当悪くなっていましたね。
平林 でも、そういう事は随分気にはしていたようですね。私たちの間ではぜんぜんそんな事はありませんでしたが、よそへ行ったときは、店屋物をとられたりすると、ハッとしたりして、随分気にはなったようですね。そんなことをした相手が悪いようなことを言っていました。(笑)
 けいからんというわけですか。
平林 ええ。(笑)
中谷 これはやむをえないことでして・・・本心は、けしからんなどとは思っていないのでしょうが、ちょっと嫌な気がするというのでしょうね。
平林 怒るというよりも、訴えるような言い方をいたしました。自分でも、嫌だな、情けないな、という気持がしたのでしょうね。
 それなら、もう少し用心すればよいのにと思うような点がありますね。
平林 そうなんです。本当にもっと用心すればいいのに・・・自分で死んだようなものですよ。・・・めちゃくちゃですもの。
中谷 あれはね。湯ヶ島で静養しておりましたとき、広津さんや尾崎士郎や宇野千代たちが、ひと夏、あそこへ行きますね。その折、宇野千代に惚れましてね。それで気持がくしゃくしゃするというので、ビールを随分飲んだらしいのです。
 やけくそで飲んだのでしょうが、それで静養先でかえって悪くなってしまったのです。
平林 見栄もありますでしょうし・・・自分はそれほど大した病気ではないよと見せようとする。私たちには、熱があるとか、咳が出るとか申しましたけれども、ほかの人には弱味を見せたくないと、健康そうに振舞ったのではないでしょうか。
 それこそ頑健な身体つきで、色も浅黒くて、外見からはとても病気とは見えなかったと、どなたかも証言なさっています。
平林 それから、いまの大学生と比べてみると、「青空」の人たちは、皆大人でした。物の言い方でも、考え方でも、顔つきにいたしましても。そのなかでも梶井さんは大人でしたね。
 ご主人ではないのですか。(笑)
平林 いえ、梶井さんの方が大人に見えましたよ。(笑)梶井さんは私にはとってもやさしくて、兄貴みたいな人でしたけれど、よくかばってくれましたもの。
中谷 もういい、そのくらいで。(笑)(続)
# by monsieurk | 2014-10-01 22:30 |

対談「青空のこと、梶井のこと」Ⅷ

  愛読書――漱石、直哉

  
 話は変わりますが、梶井さんが好きだった作家は誰でしょう。三高時代から色々よく読んでいますね。
中谷 梶井に本を読ませたのは、お兄さんの謙一さんです。北野中学の5年生になった4月、33日間という長い間休学するのですが、これが梶井が胸を悪くした最初の兆候だったのです。この時、謙一さんが、森鷗外の『水沫集』を買ってやったのです。これに梶井はひどく感心した。そして鷗外訳の『即興詩人』を読み、次いで謙一さんが友人から借りてきた『漱石全集』を片っ端から読んだ。
 漱石に対する傾倒ぶりは大変なもので、私たちが知りあった頃でも、話のなかに漱石のことが出てくると、第何巻の何ページには、これこれと書いてあると、文章を暗誦してみせましたからね。
 漱石の全集は、第一回の全集が大正6年に岩波から出版されましたから、梶井はそれで読んだのですね。漱石を読みはじめて、鷗外からは遠ざかり、一時、鷗外には思想がないと言っていましたが、晩年にはまた鷗外を認めるようになりました。
 その頃の日記や手紙にも、漱石の名前がしきりに出てきますね。それと白樺派の作家、なかでも志賀直哉のものをよく読んだようですね。評論家のなかには、志賀直哉と梶井さんの文体比較をこころみた人もいます。
中谷 たしかに志賀さんのものも読んでいました。もっとも当時の文学青年で、志賀直哉を読まない者など一人もいなかったのですから。
 梶井が志賀さんの短篇を原稿用紙に一字一字写したというのは有名な逸話ですが、それをやったあと、「志賀直哉も、すき間があるよ」と、私に言っておりました。
 影響というなら、梶井は三高で理科系の学問をやりましたね。そのことの影響が大きいと思います。初めはエンジニアを目指していたわけですから、素質も当然あったのでしょうが、物を見る上で理科系の学問を学んだことは大きいです。
平林 私たちは一種の勘で書きますけど、あの方は、何事もガッチリと自分の眼でみて書かれるのです。
 しかもそうして見たものを、じつに正確、的確な言葉で表現する能力がありますね。
中谷 梶井の文章には理科系の用語が交っておりましょう。あれなども独得の言葉遣いですね。
 いつでしたか、あれは梶井が湯ヶ島へ療養に出かけたあと、一週間ほどして見舞いに行きますと、「僕はいま雲を書こうと思っている」というのです。「そのために、毎日ここへ来て雲を観察しているんだが、いや、難しくてとても書けない」と語っていたことがあります。これには驚きましてね。
 私などは、「雲が出て、流れた」と書くだけですが、梶井は雲だけを、雲の変化だけを書こうと思い立ったのですね。遺稿に「雲」という断片があったと思いますが、多分あれがその時のものでしょう・・・
 梶井の文学は、あのまま行けばどんなものになっていたのでしょうかね。
 湯ヶ島時代に書かれた「闇の絵巻」や「交尾」、あるいは「愛撫」といった作品の延長ですね。
中谷 梶井が死ぬまでに、梶井のことを本当に認めてくれたのは萩原朔太郎さんですよ。そして詩の雑誌に、二、三篇、短いものを載せてくれたでしょう。
 萩原朔太郎氏が「評論」の昭和10年9月号に書いた、「本質的な文学者」というのは、熱意のこもった、じつにいい文章ですね。「彼は肉食獣の食慾で生活しつつ、一角獣の目をもって世界を見ていた・・・」というのは。
中谷 梶井は川端康成氏に夢中だったのですが、川端さんから梶井が褒められたというのは聞いたことがありません。
 ほう。
中谷 川端さんは、梶井の追悼式を目黒の蕎麦屋、「藪蕎麦」でやったのですが、その席で、「梶井さんのために何もできなくてすまなかった。当時の私には梶井さんの小説がよく分からなかったのです」と、こういう風に言いました。川端さんに分からないはずなどないのですが・・・
 梶井さんと川端さんというのは、本質的に違いますでしょう。梶井さんは精神的には健康な人ですし、川端さんは逆ですから。
中谷 それと川端さんは、ちょっとハイカラでしょう。ですから藤沢恒夫君など「辻馬車」の人たちの方が好きで、支持していたのではないでしょうか。(続)
# by monsieurk | 2014-09-28 22:30 |

対談「青空のこと、梶井のこと」Ⅶ

  三高劇研究会(2)

  
 梶井さんは、「河岸」(大正12年)と「攀じ登る男」(大正13年)という二つの戯曲を書いていますし、原稿は散逸して残っていないのですが、「浦島太郎」という戯曲作品もあったらしい。これは表題を書いた一枚だけが残っているということです。
 外村さんも、三高文芸部の「嶽水会雑誌」に、「煉獄」という戯曲を発表しています。これが大正13年7月です。そして、この年の10月に、「劇研究会」が計画して、練習を積み重ねた公演が、校長の一言で中止されるという事件が起こるのですね。
中谷 そうです。あの事件については、私もそうですが、梶井が非常に憤慨しましてね。
 公演をやろうということになったのは6月頃で、実際に稽古にかかったのは、夏休みが明けてからです。出し物は、チェーホフの「熊」、シングの「鋳掛屋の婚礼」、それに山本有三氏の「海彦山彦」の三本で、「熊」は私が演出し、「鋳掛屋」は梶井、「海彦山彦」は外村が演出と主演を兼ねるということになりました。
 公演は「三高劇研究会」というのはまずかろうというので、多青社という劇団名をつくり、私たちも本名ではなく、梶井が瀬山極、例の「瀬山の話」に使われる名前で、画家のポール・セザンヌをもじったものです。そして私は加納健。
 「鋳掛屋の婚礼」には、ご存知の通り、女の人が幾人か出てきますが、老女の役は浅見篤がやることになりましたが、男だけでは駄目だというので、同志社女学校専門部の石田竹子さんと梅田アサ子さんという二人に応援してもらいました。ともかく皆が熱中していた。「青空」の同人になった小林馨は、「熊」の老僕の役。これは小林の東北訛りがぴったりなんです。
 もう一人、外村と仲のよかった熊谷直清が、外村の演出助手をやりました。熊谷は「青空」の同人にはならなかったのですが、彼の家は「鳩居堂」といって、筆や墨、あるいは外国製の文房具などを手広く扱う老舗でして、「青空」に広告を載せてくれて、資金をずいぶん援助してくれました。
 当時、京都で学生の演劇が舞台にのることなど、滅多にありませんでしたから、皆張り切って、寺町通丸太町にあった仏教青年館を借りて、舞台稽古も幾度かやりました。そうして衣装もそろう、公演のプログラムや街に貼るビラも刷り上がる、さていよいよ明日公演という前日になって、校長の森外三郎さんが、公演はいかん、中止せよと言ったのです。
 私たちはずいぶん抗議したのですが、中止せよの一点張りでしてね。関東大震災の直後だからというのが表向きの理由でした。そして後始末に使えということで、百円渡されました。
 やむなく中止したのですが、なにしろ公演前日ですからね。当日は、新聞に公演中止の広告を出すは、会場の前に立って、前売り券の払い戻しはするわで、後始末のために心身ともにくたくたになりました。
 外村さんによると、その日の夜、皆さんは例の祇園神社の石段下の「カフェ・レーヴン」で、痛飲されたのだそうですが、外村さんが酒を飲むようになったのは、それが切っかけだったということです。
中谷 悔しかったですね。
 梶井さんも、この事件はよほどこたえたとみえまして、昭和3年に「嶽水会雑誌」の百号記念号に原稿を請われた折に、「『青空』のことなど」という稿を寄せていますが、その中で、この公演中止に触れています。
 「・・・中止に気落ちした面々がまた心を取直して何の希望もない経済的なまた労力的なあと片づけを黙々とやりはじめたときの気持は今思い出しても涙が零れる。それのみか――これはだんだんあとになって耳に入って来たことであるが――私達の公演を援けたフロインディンに就いて下等な憶測が、学校当局ではどうであったか知らないが、生徒達のなかに働いてゐたらしいのである。これには胸が煮えたぎる程口惜しかった。恥あれ!恥あれ!かかる下等な奴等に!そこにはあらゆるものに賭けて汚すことを恐れた私達の魂があったのだ。彼等にはさふいふことがわからない。これが実に口惜しいことだった。それから何年も経ってからであったが、ある第三者からふとそのことに触れられた。場所も憶えてゐるが、それは大学の池のふちである。その瞬間、ながらく忘れてゐたその屈辱の記憶が不意に胸に迫って来て、私の顔色は見る見る変わったので、何も知らないその人を驚かしたことがあった。こんな屈辱は永らく拭はれることのないものである。」と書いています。
「『青空』のことなど」には、「〔劇研究会〕は名目通りの劇研究があったといふよりも、寧ろ広汎な文芸に対する私達に飽くなきアスピレイションが団結してゐたのであった。」という個所もあります。
中谷 梶井が書いている通りです。「嶽水会雑誌」というのは、文芸部の雑誌ですが、文芸部のメンバーと「劇研究会」のメンバーとは重なる部分が大分ありまして、私や梶井は違いましたが、外村は文芸部にも属して、「嶽水会雑誌」の編集もやっていました。そんな関係で、「劇研究会」の雑誌「眞素木(マシロギ)」に書いた、梶井の「矛盾の様な真実」や私のものなどが「嶽水会雑誌」に転載されたりしました。
 「眞素木」は、雑誌といっても会員の原稿をそのまま綴じて製本し、回覧したもので、たしか三冊ほどつくったと思います。「眞素木」という名前は、のちに「青空」の随筆欄の名称にのこしました。
 中谷先生たちが、三高から東大へ進学されたあとも、「劇研究会」は続いていたのですね。
中谷 ええ、一年下の淀野隆三、浅沼喜実、北神正たちが引き続いてやっておりました。
 「青空」の第1号三百部が刷り上がって、大正13年の暮れに、その三百部の半分を「青空社」の事務所を置いている東京の外村さんのお宅に送り、残りの半分を、中谷、梶井、外村の三人で担いで、意気揚々と(笑)京都へ向かわれましたね。そして先ず「あけぼの」に行くと、そこには劇研究会の後輩たちが待っていて、歓迎してくれたということですね。
中谷 皆が喜んでくれました。
 三百部の「青空」第1号は、どこへ行ってしまったのでしょう。
中谷 もう殆ど残っていないんじゃないでしょうか。
平林 後輩の方々も、義理で買わされたのでしょうけど、貴重なものとは思わず、読んだあとは捨てておしまいになったんでしょう。(笑)
中谷 私たちの作品はともかく、梶井の「檸檬」にしたって、何の反響もなかったですから。(笑)(続)
# by monsieurk | 2014-09-25 22:30 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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