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ムッシュKの日々の便り

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再び キルメン・ウリベ

 スペイン・バスクの作家、キルメン・ウリベについては、「バスクの文学、キルメン・ウリベ」のタイトルで、ブログに3回(2013.02.06、02.07、02.09)紹介し、さらに「キルメン・ウリベ詩集」(2013.02.09)では、翻訳者の金子美奈さんから贈られた『キルメン・ウリベ詩集』について書いた。 再び キルメン・ウリベ_d0238372_19184670.jpg
 薄い青色の表紙の『キルメン・ウリベ詩集』は、作者の来日を記念して金子さんが編んだ私家版で、「川(Ibaia)」以下、「海と陸のあいだで(Ez eman hautatzeko)」まで、12篇の訳詩が収録されている。
 その金子美奈さんから次のようなメールをいただいた。
 「お元気にしていらっしゃいますか? じつは昨年(2013年)9月から、スペイン・バスクの街サンセバスティアンに来ております。まもなく約1年の滞在を終え、8月上旬に日本に帰国する予定です。その前にフランス側(バイヨンヌ、ボルドー)にも少し足を伸ばしてみたいと思っております。
 偶然ですが、ちょうど昨日キルメン・ウリベと会ってきたところでした。すでにご存知かもしれませんが、「現代詩手帖」今年3月号に、ウリベの詩が数篇とエッセイが掲載されております。「詩選」に載せたいくつかの詩は少し訂正が加えてあり、新しい詩も一篇追加しました。スペイン内戦で亡命したバスク自治州首班のアギーレについてのものです。もし時間がありましたら、どうぞそちらもご覧ください。以下のページでは、原文を見ながらウリベ自身の朗読を聞くことができます。
http://www.shichosha.co.jp/editor/item_1103.html 
 添付の写真は昨年秋にウリベの町オンダロアで撮ったものです。町の雰囲気が少しわかるかと思います。」
 メールにある通り、金子さんは『詩集』の訳詩のいくつかに手を入れて、「川(Ibaia)」、「見舞い(Bisita)」、「言うことはできない(Ezin esan)」、「言語(Hizkuntza bat)」、「金の指輪(Urrezko eraztuna)」、「もっと、もっと遠く(Aparte-apartean)」の6篇と、新たに訳した、「バスク自治州アギーレ、亡命先にて(Lehendakaria deserrian)」を、雑誌「現代詩手帳」2014年3月号に発表している。これによってキルメン・ウリベの詩に関心をもつ読者に訳詩が届けられたのである。「手帳」には、エッセイ「夏の少年少女」も掲載されている。そして上記のホーム・ページでは、「川」、「言うことはできない」、[見舞い」の3篇のバスク語の原詩のテクストと、ウリベ自身の声による朗読、さらにバスク音楽にのせてウリベが詩を朗読している様子を映像として見ることができる。
 詩篇のうち、以前のブログでは「もっと、もっと遠くへ」を紹介したが、今回は、「金の指輪」と新しく翻訳された「バスク自治州アギーレ、亡命先にて」を引用してみよう。

   バスク自治州アギーレ、亡命先にて

  アギーレは亡命先で、怪物の腹のなかを隠れ家とした。
  ナチスから逃れてベルリンへと向かったのだ。
  そこならば誰にも見つからないだろうと信じて。
  
  そこで、彼は南米のとある国の領事を名乗る。
  そして今、政治集会に何千人もの人々を動員した
  あの確信に満ちた男、前線へ向かう若者たちに
  
  カールトン・ホテルのバルコニーから語りかけたあの勇敢な男は
  今、たった一人で列車に乗っている。
  逃亡の途中でスーツケースをなくし、
  そしておそらく、祖国をも失ったのだ。

  
  アギーレは亡命先で、たった一冊の本を
  携えている。プルタルコスの『対比列伝』
  それだけが夜、眠りにつくときの支えとなってくれる。

  
  彼はある箇所を幾度となく読み返す。
  アレクサンダー大王がいかにして、
  誰一人手なずけることのできなかった荒れ馬をなだめてみせたか。

  
  大王は馬の耳元でこう言って聞かせたという。
  「怖がることはない、たえず背後から
  追ってくるあれは、お前自身の影にほかならないのだ」

  
  アギーレは、いつか祖国の人々に向かって、
  アレクサンダー大王が馬に言ったのと同じように
  耳元で語りかけようと思う。

  
  そっと優しく。「安心しなさい。怖れることはありません。
  背後からやってくるあれは、あなた自身の影、
  私たち自身の影にほかならないのです。

  
  バスク出身の政治家ホセ・アントニオ・アギーレは、スペイン第2共和政のもとで成立したバスク自治州政府の初代首相となった。だが1936年7月にはじまった内戦で、フランコ将軍率いる叛乱軍が勝利すると、亡命を余儀なくされた。最初はフランスに逃れるが、フランスがナチス・ドイツに占領されると、大戦中は、詩にあるように、しばらくなんとベルリンに潜み、次いでスウェーデンを経由して南米に渡った。その後ニューヨークやパリで、亡命バスク政府を組織し、フランコ総統の独裁政権と戦ったが、故国の地を踏むことなく1960年にパリで客死した。
  もう一篇の「金の指輪」は、代々漁師を営んできたキルメン・ウリベの一家に伝わる話しである。
  
      金の指輪

  
    父は海で結婚指輪を失くした。船乗りたちの習慣で、網を投げるとき指が引っかか 
    らないように、指輪を外して首に掛けていたのだ。
    それから何度目かの漁のあと、タラの身をあらっていた叔母は、魚の腹のなかに金
    の指輪を見つけた。
    指輪を洗い、そこに刻まれた文字と数字をよく見てみた。信じられないことに、それは僕の両親のイニ シャルと結婚の日付だった。
    事の次第からすると、父は結婚指輪を飲み込んだ魚を自分で仕留めたのだ。あの広大な海で。

 
    夏の穏やかな夜は、内陸から風とともに思い出を運んでくる。
    僕は空を見上げながら、偶然というのは大きな、大きな軌道をめぐる惑星のようだと思う。
    ごく稀にしか出会うことのない。

 
    その指輪の話はあまりに出来すぎた偶然だ。でも、それが何だろう。今大事なのは、長年のあいだ、その指輪の話は僕ら子どもの小さな頭のなかで、本当の出来事だったということだ。

 
    夜、海はまるで魚のような輝きを見せる。
    星々が鱗のようにきらめき、流れる。

 
 キルメン・ウリベが生まれ育った港町オンダロアは、金子さんが撮って送ってくれた写真で、その雰囲気を知ることができる。

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# by monsieurk | 2014-08-01 22:30 |

パブロ・ネルーダⅣ

 1970年、ネルーダはチリの大統領候補に指名されたが、最終的には社会党の候補者で左翼共同戦線の統一候補となったサルヴァドール・アジェンデの支持にまわった。この結果、アジェンデは民主的な選挙によるはじめてチリ大統領となった。パブロ・ネルーダⅣ_d0238372_12112865.jpg写真はアジェンデ(左)と並ぶネルーダである。
 アジェンデはネルーダを駐フランス大使に任命し、2年にわたって大使をつとめ彼は、この間、チリがヨーロッパ諸国やアメリカに負った負債の軽減交渉に当たった。ただこの2年のパリ駐在中、ネルーダは健康を害し、肺疾患が次第に悪化した。
 1971年、ネルーダはノーベル文学賞を受賞した。選考にあたって異論がでたのは冒頭に紹介したとおりだが、彼の作品の多くをスウェーデン語に翻訳した、アルチュール・ランドヴィストなどの強力な推薦が功を奏した結果だった。そして何よりも、その長年にわたる文学的営為は、ノーベル文学賞に十分に値するものだった。彼はストックホルムでの授賞スピ-チで、「ひとりの詩人は同時に連帯と孤独への力だ」と語った。
 1973年9月11日、チリではピノチェト将軍によるク・デタが起こり、民主的に樹立されたアジェンデ政権は武力によって倒された。ネルーダが心臓病のために、祖国のサンタ・マリ病院で死去したのは、このク・デタの12日後、9月23日の夕方だった。埋葬の日には、多くの人たちが街頭に出てその死を悼んだ。
 これが政権への抗議の機会となることを恐れたピノチェトは、大量の警官を動員して取り締まりにあたった。さらに数週間後には、ネルーダの家が警官隊に襲われ、本や原稿は持ち去られるか破り捨てられた。パブロ・ネルーダⅣ_d0238372_1213416.jpg
 1974年、彼の回想録が、『私は告白する 私は生きた』というタイトルで出版された。そこにはピノチェトや他の将軍たちによるモネダ宮殿(大統領官邸)襲撃と、アルバドール・アジェンデの最後に関する記述も含まれていた。
 ピノチェトが去り、チリが民主化された後の2011年6月、一人の判事が、ネルーダがピノチェト政権によって毒殺された疑いがあるとして、死因について調査を行うように命じた。12月、チリ共産党はマリオ・カロサ判事に、ピノチェト政権下の1973年から1990年までの間に虐殺されたとされる数百人の遺体を掘り出して、あらためて調査するように申請した。パブロ・ネルーダⅣ_d0238372_12135626.jpg
 ネルーダが転々としたい3個所の家は、現在記念館として一般に公開されている。そして彼が生涯に残した多くの詩篇は、スペイン語で書かれたもっとも美しく力強いものとして民衆に愛唱されている。

 
 「おお、チリよ、海とぶどう酒と
  雪の細長い花びらよ
  ああ、いつ
  ああ、いつ いつ
  ああ、いつまたお前に会えるのだろう?
  また会うそのとき
  お前は白と黒の泡のリボンを
  俺の身にまきつけてくれるだろう
  そしてお前は、お前まえの領土に
  俺の詩を解き放とう
 
  あそこには、なかば風で、なかば魚の
  人たちもいれば
  また水でできている人たちもいる
  だが、俺は土でできているのだ・・・」(『ぶどう畑と風』)

 パブロ・ネルーダの祖国チリへの愛はどの詩篇にもあふれている。
# by monsieurk | 2014-07-29 22:30 |

パブロ・ネルーダⅢ

 1943年にチリに帰国したネルーダはペルーを旅行して、マチュ・ピチュを訪れて強い感銘をうけた。

 
  「マチュ・ピチュよ
   大地の梯子をよじのぼり
   消えうせた森の肌を刺す藪の中を
   わたしはおまえの処まで登ってきた
   山のてっぺんの都市よ 石の階段よ
   大地も死の経帷子のなかに隠さなかった者の住処よ
   おまえの中には二本の平行線のように
   稲妻の誕生と人間のそれとが
   棘のような嵐の中に息づいている
   ・・・・・」(『マチュ・ピチュの頂き』)

 
 ネルーダと同世代の左翼知識人は、スペイン内戦を通してスペイン共和派を支持し続けた。その代表的存在がイギリスのジョージ・オーウェル、アメリカのヘミングウェイ、フランスのアンドレ・マルローたちであった。しかし国際義勇兵の一員や飛行隊長としてスペインの戦場に立った彼らは、やがてソビエトの内部事情やスターリンの打算を見抜いて離れていく。
 一方ネルーダは、1945年3月、共産党に推されて立候補して上院議員に当選した。その4カ月後には正式に共産党に入党し、パブロ・ネルーダⅢ_d0238372_10252697.jpg翌46年の大統領選挙では、左翼共同戦線の候補ゴンサレス・ヴィデラのためにキャンペーンを取り仕切り、ヴィデラは当選した。だが大統領になるとアメリカと手を握り、共産主義者を弾圧するようになった。ネルーダは上院でヴィデラの裏切りを弾劾する「私は告発する」という演説を行ったため、ヴィデラは逮捕令状をもってこれに応え、ネルーダは地下に潜らざるをえなかった。彼と妻は支持者の家から家を隠れ歩いた。やがて共産党は非合法化され、2万6千人が選挙権を剥奪された。
 ネルーダはやむなく外国に亡命して3年間を過ごすことになった。アルゼンチンのブエノス・アイレスにいたとき、将来のノーベル文学賞受賞者で、当時グアテマラ大使館の文化アタシェだったミグエル・アンヘル・アストゥリアスと顔形が似ていることを利用して、彼のパスポートを使ってヨーロッパへ行き、パリで開催された「国際平和会議」に突如姿をあらわした。ネルーダはその場で詩を朗読し、会場から熱烈な拍手をうけた。詩人のために色々と骨をおったのは画家のピカソだった。このニュースで面目を失ったチリ政府は、彼の出国という事実自体を否定した。
 ネルーダはその後も、フランス、イタリア、チェコスロバキア、ソビエト、中国を旅行してまわり、1952年に祖国へ戻った。この間もその後も彼の旺盛な創作意欲は衰えなかった。詩集『大いなる歌』(1950年)、『ぶどう畑と風』(1954年)、『エレメンタルなオード集』(同年)、『旅』(1955年)、『新しいエレメンタルなオード集』(同年)を次々に発表した。
 ネルーダは1953年に「スターリン平和賞」を受賞し、この年にスターリンが死去すると、スターリンを悼むオードを書いた。こうしたネルーダについて、長年の友人だったオクタヴィオ・パスは、「ネルーダは次第にスターリニストになっていった。一方、私は年々スターリンから離れた。それでもネルーダを彼の世代のもっとも偉大な詩人であるというのを惜しまない」と語っている。
 1956年のソビエト共産党第20回大会で、フルシチョフは有名なスターリン批判を行い、独裁や大粛清などの歴史的事実が公けにされ、ネルーダもスターリンへの個人崇拝を悔やむことになるが、コミュニズムへの信頼は揺らぐことはなかった。
 彼の詩集は世界の主要な言葉に翻訳され、その政治的立場にかかわらず高い評価をえた。ネルーダの自らの政治的立場を隠そうとはしなかった。パブロ・ネルーダⅢ_d0238372_1028130.jpgキューバ危機やヴェトナム戦争ではアメリカの政策を正面から批判した。
 彼の発言は、政治的に敵対する勢力にとってきわめて厄介なものだった。アメリカのCIAが資金を出して設立された「文化の自由のための協会」という反共団体は、ネルーダを主要な標的にした。ネルーダが1964年のノーベル文学賞候補に押されたときには、彼が過去にトロツキー暗殺に加担したという虚偽の宣伝を広め、結局この年の文学賞はジャン=ポール・サルトルに決まったが、サルトルは授賞を辞退した。(続)



 
 
# by monsieurk | 2014-07-26 22:30 |

パブロ・ネルーダⅡ

 ネルーダは1921年には、アルベルト・ロハス・ヒメネスが編集長をつとめる学生新聞「クラリダード」に協力するとともに、多くの政治的デモに参加した。彼はのちに、「このときから、政治がわたしの詩と人生に入り込んで来た。詩から街の動きを閉めだすのは不可能だったし、同様に、若い詩人の心から愛と、人生の喜びと悲しみを閉めだすのも不可能だった」と述べている。
 そんな彼は1923年になる、持っていた家具と父親からプレゼントされた時計を売った金で、詩集『黄昏』を自費出版した。そして翌1924年には、パブロ・ネルーダⅡ_d0238372_1114539.jpg
『20の愛の詩と1つの絶望の歌』が刊行された。「これは私が大好きな本だ。ここには深い憂鬱にもかかわらず、生きる歓びがある・・・『20の愛』には、学生街、大学、スイカズラの匂い、共有された愛の思い出など、サンチャゴの“ロマンス”がつまっている」と述べている。
 その冒頭の一篇「女の肉体」――

 「女の身体は、いくつもの白い丘と白い太腿
  お前は世界にも似て、降参して横たわっている
  ぼくのたくましい農夫の肉体はお前のなかを掘って
  大地の深みから息子を躍りあがらせる

  ぼくはただのトンネルだった。鳥たちはぼくから逃げさり
  夜はその破壊する力でぼくに襲いかかった。
  生き残るためにぼくはお前を武器のように鍛えなければならなかった
  いまやお前はぼくの弓につがえる矢となり、石弓に仕込む石となった。

  だが復讐の刻が過ぎ、ぼくはお前を愛すのだ
  なめらかな肌と苔と乳のある、貪欲でどっしりとした女の身体よ
  ああ、壺のような乳房! ああ、放心したようなその眼!
  ああ、恥骨のほとりの薔薇! ああ、お前のけだるそうでもの悲しげな声!

  ぼくの女の身体よ、ぼくはお前の美しさの虜になる
  この渇き、果てしない欲望、ぼくのくねる道。
  ほの暗い河床には、永遠の渇きが流れ
  疲れが流れ、はてしない苦悩が続く。」(翻訳は上の写真の、Claude Couffon et hristian Rinderknechtによるスペイン語とフランス語の対訳によった。)

 ネルーダが20歳で刊行したこの詩集は、多くの言語に翻訳されて国際的な評価をえた。「女の肉体」では、女の肉体を丘や道などに喩える暗喩(アナロジー)は具象的で分かりやすい。これはネルーダの特徴であって、各国語に訳された詩集は100万部をこすベストセラーとなる。だがチリで再版されるのは1932年のことであり、ネルーダはあいかわらず貧しかった。ネルーダは詩作をつづけ、1926年には詩集『無限なる人間の試み』と散文詩集『指輪』を続けて刊行した。
 大学を卒業したネルーダは、フランス語教師になる道をあきらめ、1927年にはミャンマー(旧ビルマ)のラングーン駐在の領事に任命されて、外交官生活をスタートさせた。なぜ外交官になったのか、彼は『回想』で次のように明かしている。
 チリ人はみな旅行好きで、ネルーダもご多分に漏れなかったが金がない。そこで外国へ行くために領事になることを思いつき、外務省へ行ってポストを与えてくれるように頼んだという。外務省の事務室には世界地図がかかげてあった。彼が赴任するように命じられたのは地図に穴の開いている場所だった。それがビルマのラングーンだったというのである。こうしてネルーダのアジア滞在がはじまった。
 ラングーンに赴任すると、旧ビルマだけでなくアジアの各地を訪れた。どこもこれまで名前を聞いたことがない土地だったが、この旅の体験は創作の上で多くの素材を提供してくれた。こうしてネルーダは外交官としてのかたわら、多くの詩を読み、詩作をつづけた。それらはやがて詩集『居住者とその希望』として結実することになる。
 アジア滞在が与えてくれたのは詩の素材だけでなく、ジャワでは最初の妻となる女性と出会った。彼女はマリカ・アントニエッタ・ハーゲナー・ヴォーゲルツァンクといい、オランダの銀行に勤めていた。
 一度、チリに帰国したネルーダは、次いでアルゼンチンのブエノス・アイレスの大使館に派遣され、その後1934年には、待望のマドリッド駐在の総領事として赴任した。奇しくも、彼が10代のときに詩を読んでくれて励まされた女流詩人、ガブリエラ・ミストラル(彼女はラテン・アメリカで初めて1945年にノーベル文学賞を受賞した)の後任だった。
 マドリッド滞在はネルーダにとって大きな幸運だった。赴任してまもなく、彼は多くの詩人や作家たちと交流するようになった。ラフェエル・アルベルティ、フェデリコ・ガルシア・ロルカ、ペルー生まれの詩人セザール・ヴァヘロたちで、ネルーダが編纂した雑誌「詩のための緑の馬」のまわりには、多くの若い詩人が集まった。なかでもガルシア・ロルカとは毎日のようにカフェで会い、このころ演劇を手がけていたロルカについて、よく舞台稽古を見に行った。そしてときには舞台装置や背景についてアイディアを出した。
 ネルーダが滞在したスペインは激動の最中にあった。スペインでは1931年4月、ブルボン王朝最後の国王アルフォンソ13世がフランスへ亡命し、共和政府が誕生した。しかし王党派や右派勢力は巻き返しをはかり、以後1936年の総選挙までの2年間は「暗黒の2年」と呼ばれるほど情勢は混乱した。
 1936年2月行われた総選挙は投票率が70パーセントに近く、人民戦線を組む共和派が勝利したが、世論は左右の陣営に二分され鋭く対立した。叛乱が起こったのはこの年7月17日のことである。地中海に面したスペイン領モロッコの街メリーリャで、セグイ大佐に率いられたムーア兵(北アフリカのイスラム教徒)と外国人傭兵がク・デタを起こした。共和政府によってカナリア諸島の閑職に追われていたフランシス・フランコ将軍がこれに呼応し、共和派政府とそれを支持する人たちと反乱軍との間で軍事衝突が起きた。スペイン内戦のはじまりだった。
 ネルーダに衝撃をあたえたのは、内戦が勃発した1カ月後の8月19日、親友のガルシア・ロルカが、フランコに忠誠を誓う叛乱軍によって逮捕され、銃殺されたことだった。ファシズムの暴挙を前にして、彼はスペイン共和派への支持を鮮明にし、政治的活動をするようなった。パブロ・ネルーダⅡ_d0238372_1141686.jpg1937年には、マドリッドで開催予定の文化擁護作家会議の準備のためにパリへ赴き、共産主義者の詩人ルイ・アラゴンとともに、スペイン人民戦線支援集会で講演してスペインの状況を訴えた。
 「あのわれらの死者たちの膨大な森から、どうしてひとつの名を引きはなすことができよう! 記憶するにも値しない敵によって虐殺された鉱夫たち、アストリアスの死んだ鉱夫たち、大工や石工たち、町と野の賃金労働者たち、おなじく殺された数千の女たちよ! 虐殺された子どもたち・・・溌剌とした誇りに輝くスペイン、精神のスペイン、直観と伝統と発見のスペイン、フェデリコ・ガルシア・ロルカのスペイン。/ 彼は百合のように、手ななづけがたいギターのように、犠牲に供せられ、暗殺者どもが、彼の傷口を踏みつけ、彼のうえに投げつけた土のしたに、死ぬことになろう。・・・」(講演「フェデリコ・ガルシア・ロルカの思い出」)
 しかし、こうした活動はチリ政府を刺激して、ネルーダは本国に召還された。チリに帰った彼は、スペインの題材にした詩篇の創作を続け、それはスペイン人民戦線の兵士たちの手で詩集『心の中のスペイン』として1937年に発表された。
 1938年、チリでは大統領選挙が行われ、ネルーダも支援したペドロ・アグイレ・セルダが当選して人民戦線内閣が誕生した。新政府はスペイン共和派の難民をチリに受け入れることを決めると、翌39年、ネルーダをスペインからの移民を扱う特別領事に任命してパリに派遣した。こうして2000人をこす難民が海を渡った。
 1939年9月3日、第二次大戦が勃発すると、彼はチリに帰り、やがてメキシコ・シティ駐在の総領事に任命された。ここで43年まで3年間をすごしたが、その間にレオン・トロツキーが暗殺される事件が起きた。ロシア革命の功労者トロツキーはスターリンによって追放され、ヨーロッパを経由して1936年からメキシコに亡命していたが、1940年8月20日、トロツキーの秘書の恋人になりすましたラモン・メルカデルによって、ピッケルで後頭部を打ち砕かれ、翌日収容先の病院で死亡したのである。メルカデルは単独の犯行を主張して背後関係を隠したが、犯行はソビエト秘密警察(GPU)の仕組んだものだった。
 この事件でメキシコ人の画家ダヴィド・アルファロ・シケイロスが、暗殺を示唆した一人として逮捕された。ネルーダはメキシコのカマチョ大統領の依頼で、シケイロスへチリ入国ヴィザを発給し、画家はそれでチリに入国することができた。彼はチリでネルーダの私邸に滞在したが、このことがのちにネルーダにとって大きな問題となるのである。
 一方、ヨーロッパの戦火は、ナチス・ドイツの攻勢で連合国側は劣勢に立たされていた。だが1942年8月から43年2月にかけてに闘われたスターリングラード攻防戦で形勢は逆転。ネルーダはこの報に接すると、すぐに「スターリングラードに捧げる愛の歌」を創作した。ソビエトに対する情熱的な愛と支持をうたいあげた長編詩は印刷されてメキシコ市の壁という壁に張り出された。(続)
# by monsieurk | 2014-07-23 22:30 |

パブロ・ネルーダⅠ

 愛読する詩人の一人に南米チリのパブロ・ネルーダ(Pablo Neruda)がいる。
 ネルーダは、1971年にノーベル文学賞を与えられたが、その授賞理由は、「ひとつの大陸の運命と、多くの人びとの夢に生気をあたえる源となった、力強い詩的作品にたいして」というものだった。ただ選考に当たっては、委員の幾人かは受賞に難色をしめしたといわれる。かつてネルーダが、ソビエトの独裁者スターリンを讃美したためである。
 1960年代後半、ネルーダについて意見を求められたアルゼンチンの作家ルイス・ボルヘスは、「彼はきわめて繊細な詩人だと思う、大変繊細な詩人だ。だが人間としては称賛に値しない。彼は非常に低劣な人柄だと、私は思う」と語り、さらにネルーダは自分の評判を危険にさらすのを恐れて、アルゼンチンの独裁者ペロンに反対したことはないといい、「私はアルゼンチンの詩人で、彼はチリの詩人だった。彼は共産主義者の側であり、私は彼らに反対だった。だから彼が、私たち二人が出会うのを避けたのは賢明だったと思う。もし会えばきわめて不愉快なことになっただろうから」とつけ加えている。
 ボルヘスの評価の賛否は意見が分かれるところだが、ネルーダが終コミュニズムに信頼を寄せていたのは事実で、それは同世代のフランスの詩人ルイ・アラゴンが共産主義者として生きたのと同様であった。
 パブロ・ネルーダは本名をリカルド・エリエセール・ネフタリ・レイス・イ・バソアルト(Ricardo Eliecer Neftali Reyes y Basoalto)といい、1904年7月12日にチリ中部のパラルで生まれた。彼はその後両親とともにチリ南部の湿気の多い密林のなかの小さな村テムコに移り、そこで少年時代をすごした。
 ネルーダはこのころの思い出を、「少年時代の田舎」(『指輪』、1925年)で、次のように語っている。
 「・・・苔のふちを歩調をとって歩きまわり、大地と草を踏みつけた、少年時代の情熱よ。おまえはいつでもよみがえってくる。・・・北風が吹きすさび、冬枯れの寒さが身を刺す頃の、村の影は濃くて大きいのだ。だがまた雨季のさなかに、穂のように揺れて変わりやすい天気があらわれて、思いがけず太陽のかがやく日は、えも言えず気もちよかった。川の氾濫する冬の日よ、母とおれは吹き狂う風のしたでふるえていた。どっとあたり一面に降る、いつやむともわからぬ憂鬱などしゃ降りの雨よ。森のなかで立ち往生した汽車が 悲鳴をあげたり吼えたりしていた。板張りの家は、くらやみにすっぽりとつつまれてぎしぎしと鳴った。野生の馬のような疾風が窓をたたき、柵をひっくりかえし、やけっぱちに乱暴に。すべてを吹き倒して海に抜けた。だがまた、澄みわたった夜もあり、天気がよく木木の茂みがそよぎ、ほの暗い夜空は降るような星をちりばめていた。・・・ひそやかな時間のうえをすべり去った少年時代の田舎よ。降ったばかりの雨でしめった森羅万象のうえに横たわっている孤独な地帯よ、おれはおまえの処を、帰ってゆく憩いの場所として、おれの運命に提案するのだ。」(大島博光訳)
 村の情景を描いたこの詩に汽笛を鳴らす汽車がでてくるが、彼の父親は鉄道員であった。新しい鉄道線路を建設するために砂利などを運ぶ敷設列車の車掌で、そのかたわら敷設現場の監督のような仕事もしていた。そのために長らく家を留守にすることもあって、ネルーダは母と密林に囲まれた村で過ごすことが多かった。
 テムコの村のまわりはニロールの密林がうっそうと茂り、森や草原にはインディオのマプチュ族が住んでいた。テムコはもともとマプチュ族の土地だったが、19世紀末には、彼らは自分たちの土地を追われ、テムコのまわりに藁小屋を建てて暮らしていた。彼らは毛織物や卵や羊を売りに村へやってきて、夕暮になると、男たちは馬に乗り、女は徒歩で帰って行った。
 ネルーダには農民の伯父が二人いた。彼らは農民といっても牛飼いを兼ねた仕事で、馬を乗りまわし、ピストルを腰に、ギターを爪弾き、いつも女たちがつきまとっていた。少年時代のネルーダのまわりでは、大自然とそれと共存する生活が営まれていた。それらが多感な少年の心を育んだ。
 彼が詩を書き始めたのは10歳のときである。それは少年が母に贈った詩だった。だがそれを読んだ父親は、「そんな詩をどこで書き写してきたのだ」といった。息子が詩を書くことを苦々しく思っていた父は、あるとき彼の詩の本やノートを焼いてしまった。父親の望みは息子が技師や建築家になって世間並みに出世してくれることだった。
 だが詩作をあきらめない少年は、地方新聞や雑誌に投稿し続けた。その際、父親に知られないためにペンネームを考える必要があった。たまたま手にした雑誌に、チェコの作家ヤン・ネルダの名前を見つけ、それにあやかって、パブロ・ネルーダを筆名にすることにした。パブロはフランスの象徴派の詩人、ポール・ヴェルレーヌから頂戴したものである。
 ネルーダは1920年、16歳でチリの首都サンチャゴに出て、「チリ大学」に入学した。建築とフランス語を学ぶはずだったが、建築の勉強はそっちのけで、フランス象徴派の詩人の作品を読みふけった。パブロ・ネルーダⅠ_d0238372_1322122.jpg
 彼は『回想』のなかで、こう述べている。「私は大学に入る前に、シュリ・プリュドムやヴェルレーヌを知っていた・・・その頃、美しいフランス詩の詞華集が出て流行となり、みんなが争うようにして手に入れた。私は貧乏で買えなかったので、人から借りて書き写した。・・・大学における文学生活は私を圧倒した。私のような田舎者にとって、フランスの詩人たちをよく知っていて、ボードレールを語るような人たちに会うことは、大きな魅力だった。私たちは夜を徹してフランスの詩人たちを論じあった。」
 彼は学生寮に住んで、フランス語の教師になる過程に進むとともに、友人たちから刺戟を受けて、毎日のように詩を書いた。そして最初の詩集『祭りの歌』を1921年に出版したが、そこにはヨーロッパで流行していたシュルレアリスム風の作品、歴史的叙事詩、政治的マニフェストのような内容のもの、自伝的要素をうたいこんだもの、エロティックなものが含まれており、詩集はこの年の「学生連合コンクール」で賞をうけた。(続)



 
 
# by monsieurk | 2014-07-20 22:30 |
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


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