ムッシュKの日々の便り

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仙厓

 有楽町の出光美術館で、”大雅、蕪村、玉堂と仙厓~「笑」のこころ”という展覧会が開催中である。初日に観に行ったが、「仙厓の一人勝ち」という印象だった。これはそれぞれの力量というよりは、出品作品の量と質の違いというのが正しくて、出光美術館はもともと仙厓の蒐集に力を注いできており、代表作の禅画「○△□」をはじめとして、数多くの書画を所有している。出光の仙厓コレクションは、来日したフランスの作家で文部大臣だったアンドレ・マルローが絶賛したものである。今回の展示でも、大雅10点、蕪村4点、玉堂15点に対して、仙厓は25点と、量の上でも圧倒していた。
 仙厓義梵は寛延3年(1750)に美濃国正儀郡に生まれた。月船禅彗に師事し、その後博多の聖福寺の住持として20年つとめた。その間に禅問答だけでなく、洒脱で飄逸な禅画を描き、それを通して弟子たちに禅の精神を伝えたという。「寿老画賛」や「達磨画賛」などが典型だが、仙厓は住持をやめたあとは博多の庶民たちと交わり、ユーモアに溢れる奔放な画を描いた。「厓画無法」という言葉があるように、その筆法は自由自在である。
 「鯛釣恵比寿画」には、大きな鯛を釣りあげた恵比寿様が、顎が外れるほど大口をあけて笑っている。そこに、「よろこべよろこべ」と賛が書かれている。
 そして「さじかげん画賛」と題された作品。紙本墨画で、大きさは35.6×53.0センチの小品で、そこには画面いっぱいに一つの木製の匙が描かれているだけである。そして自由闊達な文字で、一言「生かそふところさふと」と書かれている。医者のさじ加減一つで、生死はどうにでもなるというブラック・ユーモアである。あるいは人の生き死には天のさじ加減ということだろうか。
 その隣に掲げられた絵のタイトルは「摺古木画賛」。こちらは擂り粉木と杓子だけ。そして賛として、「姑めの志やくし當りの非とけれハ / 嫁め子の足ハすり古木となる 厓井」とある。「しゃくしあたり」とは杓子に盛られるご飯の量をいい、姑に毎日いろいろ指図されているうちに、嫁の足は摺古木のように少しずつ削られてやせ細ってしまった、という意味である。
 今度の展示で知ったのだが、仙厓は面白い石に興味を持っていて、それを探すことが時として旅に出る動機になったという。面白かったのは、彼が生前愛玩したという「亀石」である。長さは7.6センチの濃茶の石で、形も色も亀に似ている。これを見つけた仙厓は同じ趣味の愛石家たちに見せ、「亀石」という銘をつけ、次のような巻物をつくった。
 「亀石之銘 亀之則石石之則 亀惟亀惟石合 為石亀 / わくらわに なにぞと 問ハ 志ら波のなきさに得たる 亀に似た石」
 もう一つは「神授硯」と題された黒い石である。いかにも硯の形状をしているが、硯面が波型の突起があって硯としては使えないが、その美しさは神代の豊玉姫が残した硯ではないかと思われるような見事なものである。彼はこれにぴったりの木の蓋をつくり、そこに「金剛」という銘を刻んだ。仙厓は天然の造型の神秘に禅味を感じると同時に、一方で友人たちに得意気に、こうした遺愛の品をみせたのだろう。
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# by monsieurk | 2011-09-13 17:47 | 美術 | Trackback | Comments(0)

模作事件

 前回、ステファヌ・マラルメが「折ふしの詩句」を書き、出版を考えていたことを書いたが、この計画は、詩人が1898年9月9日に喉の病で急死したために陽の目をみることがなかった。だが、その意志は娘ジュヌヴィエーヴによって受け継がれることになった。父の死後、マラルメの崇拝者だったエドモン・ボニオ博士と結婚したジュヌヴィエーヴは、夫と共同して「折ふしの詩句」を編纂し、1920年にガリマール書店から出版した。この初版ではおよそ450篇の短詩が項目別に分類されて発表されたが、このなかに一篇の模作が紛れこんでいたのである。
 かつてパリ6区のサン・タンドレ・デ・ザール通りで古書店を営んでいたルネ・キフェール氏は、古書の売買と挿画入りの豪華本の出版を本業にするかたわら、模作の蒐集に執念を燃やしていた。私はマラルメのテクストの変遷を調査する過程で、彼の詩にも模作があったことを知った。キフェール氏が喜んで蒐集に加えてくれたことは言うまでもない。
 その模作とは「モロッコ革装幀のロンサール詩集の上に、ある女の旅行者のために」と添え書きのある四行詩で、詩句は次の通りである。
  Quand au dining car dine Alice
  Qu’elle penche son front têtu
  Sur ce petit livre vêtu
  Tout de rouge cardinalice.

  アリスは食堂車(ダイニング・カー)で食事のときも
  きかん気な額を傾けて読み耽る
  枢機卿の緋の衣をまとった
  この可愛らしい赤い本。
 dining carとあえて英語を使っているのも、高等中学校の英語教師だったマラルメらしい。ところが、これが模作だったのである。
 ジャン・ペルランは、友人のアンドレ・デュ・フレノワと共に、当時の大衆文芸誌「ジル・ブラス」の投書欄を受け持っていた。彼は模作(パスティシュ)をつくることが得意で、問題の一篇も筆のすさびに書いたもので、公にする気は毛頭なかった。ところが同僚デュ・フレノワがそれを発表してしまったのである。「ジル・ブラス」の1914年3月4日号の通信欄にはこうある。
最近の売り立ての際、ただ同然の値段で一冊の小型本が売買された。赤いモロッコ革装幀のロンサールの詩篇を選んで集めたものである。仮扉の裏はステファヌ・マラルメの自筆の四行詩で飾られている。「ある女の旅行者のために」と献呈の辞についで、四行詩。(ここに先述の詩が引用されている)
 偽装は巧妙だった。デュ・フレノワとて他意があったわけではない。友人の模作で文学愛好家に一杯喰わせようといういかにもフランス人らしい手の込んだ悪戯だった。だが、事態は意想外の方向へ展開した。1920年に『折ふしの詩句』が出版されてみると、あろうことか6年前の模作が正当な一篇として掲載されていたのである。ペルランはすぐにそれが自分の模作であると名乗りで出た。「メルキュール・ド・フランス」誌で、彼は次のように述べている。
ボニオ博士が私の模作を収集するなどとは思ってもみなかった。本が出版された時、そこに私の四行詩が載っているのを見て仰天してしまった。驚くと同時に、あきれもしたのだ。というのも1919年に『懐郷のロマンス』を書いた際、かつての模作に忍ばせていた韻を思い出させる韻を二つ混ぜておいたのだから。マラルメの名で発表された特徴的な二つの韻を、まさか私が彼から盗んだと糾弾されることにはならないだろうが。
 一方、ボニオ博士は釈明の手紙をガリマールに宛てて書いた。
私の過ちは詩人の娘の抱いた疑念を配慮しなかったことである。彼女はこの詩集に収められた他のすべての詩句については、それが生み出される都度、手帳に書き写していたのだから。
 ジャン・ペルランの模作は、ガリマール版の『折ふしの詩句』から除かれたのは当然である。ジャン・ペルランは20世紀の初めには、高踏派の流れをくむ中堅詩人として知られていたが、今日ではこのマラルメの模作一篇によって文学史にその名を残している。
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# by monsieurk | 2011-09-11 23:33 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

メリー・ローランの楽譜挟み

 久しぶりに「メリー・ローランの楽譜挟み」を虫干しした。これを譲ってくれたのは、詩人で古書店を開いていたヴァレット氏で、もう30年近くも前のことである。ヴァレット氏は亡くなり、店も代替わりしてしまった。
 フランス象徴派の詩人ステファヌ・マラルメの晩年に、心から愛していた女友だちメリー・ローランがいたことはよく知られている。彼女は金髪をうたった名作に霊感を与えた存在で、マラルメも「折ふしの詩句(Vers de circonstance)」と呼ばれる短詩の幾つかを彼女に捧げている。この楽譜挟みの表紙にも、マラルメ自身の手で、八音綴り交韻の四行詩が書かれている。
  Musique dedans endormie
  Il suffit pour te render aux cieux
  Que la lèvre de cette amie
  Ouvre son baiser gracieux.

  なかに睡眠(まどろ)む楽の音よ
  お前を空に返すには
  この友が唇を開き
  優しげに口づけするだけでいい。
 ボール紙の上に褐色のビロードを一面に貼り、まわりを絹の小切れで縁取りした、縦38センチ、横95センチの秩で、楽譜を挟むようになっている。四行詩は褐色のビロードの上にさらに薔薇色の布を貼りつけて、その上に金粉を使ってすべて大文字で書かれている。詩の上には、「A Méry / SM / 1897」とある。
 楽譜から歌をよみがえらせるには、メリーが口を開きさえすればよいという意味の洒落た短詩で、若いとき舞台にたったこともあるメリー・ローランは、ピアノを弾き、すき通る声でよく歌をうたったという。メリーのサロンで、ピアノを前に座る彼女を囲むように、画家のジェルヴェックスとマラルメがいる写真が残っている。
 マラルメがメリー・ローランを知ったのは友人の画家エドゥアール・マネのアトリエであった。絵のモデルとしてしばしばアトリエに来ていたメリーは、色白の豊満な肉体と、なによりもたわわな金髪の目立つ、第二帝政時代好みの美女であった。
 当時のメリー・ローランは、皇帝ナポレオン三世かかりつけのアメリカ人歯科医トーマス・エヴァンス博士の庇護のもとにあったが、寛容な博士はメリーの自由を認めていた。全盛期の彼女のサロンには、文学者、画家、音楽家など知名の士が多く出入りしていた。
 マラルメがメリーと親しく交わるようになったのは、マネが死んだ1883年以降のことである。もともとマラルメには金髪にたいする偏愛があった。機知に富む金髪の美女メリーはマラルメを虜にした。一緒に散歩をし、音楽を聴き、会話を楽しみつつ、マラルメは金髪に恍惚となった。
 マラルメがメリー・ローランに宛てた手紙は、ベルナール・マルシャルの手で公刊されたが、メリーからの手紙は散逸してしまったために、マラルメとメリーの関係が具体的にどのようなものであったかを解明することは難しい。ただそれを知る手掛りとして、マラルメが彼女に捧げた幾つかの短詩がある。これらの短詩は、扇の面や、玩具の葦笛のまわりに巻かれた小旗や、復活祭の卵などの贈り物の上にかかれたものである。なかでも「郵便つれづれ」としてまとめられた、宛名と住所をよみこんだ百三十篇にのぼる四行詩は、角封筒の上に書かれて、実際に投函され、配達もされた。
 メリー・ローラン宛の一通はこうなっている。
  Paris, chez Madame Méry
  Laurent qui vit loin des profanes
  Dans sa maisonnette very
  Select du 9 Boulevard Lannes.

  パリなるメリー
  ローラン夫人 俗塵遠き
  「極上」のそのお住まいは
  ランス大通り9番地。
 日本語に移してしまえば短詩の面白味は消えてしまうが、律格はまもられ、宛名や町名が脚韻を踏むように工夫されている。相手の名前、住所、あるいは先方の属性を示す言葉が選ばれていることが肝心で、洒落た言葉や思いもよらない韻律が繊細微妙な効果をあげている。
 当初は思いつきの遊びとしてはじめたマラルメも、次第にこうした技巧に夢中になり、出版さえ考えるようになった。1894年には、「郵便つれづれ」の一部をアメリカの雑誌「ザ・チャップ・ブック(The Chap Book)」に発表し、のちには他の「折ふしの詩句」とともに一冊の小型本にしようと手帳に控え、序文まで用意した。
 マラルメは序文で、この企ては、「通常の角封筒の型と四行詩の配置との明らかな関係」から発想されたと述べている。たしかに初めの動機はこうした戯れであったに相違ない。角封筒の型と大きさが、四行詩にぴったりだと感じたとき、マラルメは宛先と宛名を詩によみこむことを考えついたのであろう。
 マラルメの中には、純粋詩を追求しては神経失調に陥るまで思索を重ねる一方で、文字と戯れ、韻律を楽しむ洒落っ気もあった。あらゆる機会をとらえて、言葉を操作し、思いがけない効果を見つけることこそ、平凡で退屈な日常に命を吹き込むなによりの方法であったのだろう。
 表面的には詩人の手遊び、詩人の遊び心とみられかねないこうした詩に、マラルメが執着した理由もそこにあった。
 金粉で四行詩を書き込まれたマラルメ手製の楽譜挟みは、百年以上をへた今も、マラルメの心の微妙なゆらめきを伝えてくれる。
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# by monsieurk | 2011-09-10 19:16 | マラルメ | Trackback | Comments(0)

三浦一馬

 気鋭のバンドネオン奏者、三浦一馬の演奏会が近くの市民館であった。今年21歳の三浦は、NHKテレビの「フロントランナー」でも取り上げられた注目株で、昨夜の演奏会も期待にたがわぬ刺激的なものだった。
 前半はアルゼンチンの巨匠アストル・ピアソラ(Astor Piazzolla)の曲で、幕開きからの3曲はピアノ(BABBO)とのデユオ。三浦のバンドネオンはタンゴ特有の哀愁を帯びたメロディーを刻み、とくに2曲目の「アディオス・ノニーノ(Adiós Nonino)」は烈しい旋律ではじまり、やがて抒情的なメロディーを繊細な奏法で奏でた。青と赤だけの単純な照明が現地のバルの雰囲気をかもしだし、伸び縮みするバンドネオンの縁に当たった光がときおりきらめく。
 三浦は1990年にピアニストの両親のもとで東京に生まれ、幼いときに一時イタリアに滞在した経験をもつ。パンフレットにある経歴によれば、10歳のときにバンドネオンの音楽を聴いて衝撃をうけて、日本人奏者の小松亮太に師事した。その後2006年に別府アルゲリッチ音楽祭で、現在バンドネオン界の最高峰といわれるネストル・マルコーニ(Nestor Marconi)と出会ったことが転機になったという。
 16歳の彼は自作のCDを売って渡航費を捻出すると、アルゼンチンに渡りマルコーニに師事した。2年前の1999年にイタリアで開かれた国際ピアソラ・コンクールで日本人初、史上最年少で準優勝をはたし、一躍国際的にもその名前を知られることになった。
 バンドネオンは「悪魔の楽器」といわれるほど習得が難しいという。1847年にドイツ人ハインリッヒ・バンドがアコーデオンの影響のもとで考案したもので、左右にある70個ほどのボタンを操作し、蛇腹を伸び縮みさせて空気を送りこんでリードを震わせて音をだす。アコーデオンのボタンが規則よく並んでいるのに対して、バンドネオンのボタンの配置は不規則である。最初はドイツの民族音楽に使われていたが、20世紀になって交流の深い南米のアルゼンチンやウルグアイに多く輸出され、やがてタンゴの演奏に取り入れられるようになった。
 4曲目からはアストル・ピアソラが創始した「キンテート」つまり、「クインテット」の編成での演奏だった。バンドネオンとピアノに、ヴァイオリン(衣田真宜)、コントラバス(高橋洋太)、エレキギター(大坪純平)が加わって、ピアソラ作曲の名曲、〈天使のミロンガ(Milonga del ángel)〉、〈現実としての三分間(Tres minutos con la realidad)〉、〈ブエノスアイレスの冬(Inviemo Porteño)〉、〈ブエノスアイレスの夏(Verano Porteño)〉が次々に披露された。
 演奏の合間に三浦一馬が行った紹介によれば、アストル・ピアソラは伝統的なタンゴにクラシックやジャズの要素を融合させてまったく新しいタンゴを創造したという。そこには家族とともに一時ニューヨークに住んでいた影響があり、強いリズムと重層的な構造をタンゴに持ち込んで、その上にタンゴ特有なセンチメンタルなメロディーを自由に展開したのである。
 最初は「踊れないタンゴ」、「タンゴの破壊者」と酷評されたが、やがて現代タンゴの代表的な作曲家・演奏家としての名声を確立した。三浦一馬の特別編成になる「キンテート」は、ピアソラの演奏を忠実に再現しており、とくに大坪純平のエレキギターの音が効果的なアクセントとなっていた。
 音楽を表現する言葉の持ちあわせが少なくて恐縮だが、一時間をこえる演奏は、官能の満足の裏に張りついている死の影を描出していたとでもいえばいいのか。彼が年齢を重ねれば、音楽はもっと陰翳を深めることだろう。
 最後は師匠であるネストル・マルコーニと息子のレオナルド・マルコーニの2曲も披露され、アンコールではピアソラの代表作〈リベルタンゴ(Libertango)〉が演奏されて、満席の会場はいつまでも拍手が鳴りやまなかった。三浦一馬のファースト・アルバム『タンゴ・スイート』に次いで、11月には「キンテート」の編成によるセカンド・アルバム『ブエノスアイレスの四季』がリリースされる予定だという。
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# by monsieurk | 2011-09-08 12:18 | 音楽 | Trackback | Comments(0)

雑誌「反世界」

 ステファヌ・マラルメの詩「賽の一振り」の最初の日本語訳は秋山澄夫によって行われ、1967年7月20日発行の季刊雑誌「反世界」の創刊号に発表された。タイトルは、「詩篇 骰子一擲いかで偶然を廃棄すべき」となっており、その後思潮社から本として刊行された。雑誌「反世界」は、金子光晴、木々高太郎、吉田一穂の編集になるもので、前川和彦が発行人をつとめる「木曜書房」から刊行された。
 この創刊号は、秋山澄夫のマラルメの翻訳を中心にした詩の特集号となっており、高橋玄一郎の評論「道に沿って」は、マラルメの「賽の一振り(アン・ク・ド・デ)」を例にあげて伝統的な詩への反抗を訴え、「<文学は、いま、言うをえない、根本的な危機にある>と思ったマラルメは、此の<危機意識>を通し、新しい詩的構造の創造をつねに夢みていた。それは<イジチュル>から<アン・ク・ド・デ>をつらぬく一筋の詩的反体制の糸である。」と述べている。
 雑誌には、木々高太郎、金子光晴、吉田一穂の三人の編集人の鼎談「フラム号・船室夜話」が載っているが、その中で、
吉田 今度、秋山澄夫君が、「骰子一擲」を訳したんだ。十年も死と戦いながら、それを一冊の本にすると、大きいやつにしなきゃならない。これは校正刷りです、まだ。(本を見せる)
 木々 大したもんだね。僕もマラルメのこの詩を読んだことがある。むずかしいが判らぬ詩ではない。
 吉田 いま三校をやっているんだ。僕はこれ〔秋山訳〕に原文を書き入れてきて驚いたことにはね、マラルメが死んでからもう七〇年、一世紀近くたちましょう。しかしこれがね、サンボリズムの最後の詩ですよ。その詩をよく調べてみてね、藤村から白秋はむろんのこと朔太郎も、われわれと何の関係もない世界だということがわかった。マラルメにおいてしかりだとすれば、彼らは近代詩なんてものじゃないな。和歌、俳句の胎内潜り、要するに新体詩ですよ。(中略)
 ものの考え方が平面的なんだ。だからずるずる引きずられて書きまくって、自由詩だといっているが、おれはクラゲ詩だといってんだ。なぜそうかというと、音律というものが、唯一の詩学的規範であったということだ。しかもそのプロソディ〔作詩法〕は感情律で、抒情詩を詩と思いこませてしまった。つまり立体的でもなく、批判精神も欠けている
と、新たな詩の到来に期待している。彼らの目指す批判精神の充溢した詩とは、例えば雑誌に掲載されている木々高太郎の詩などを指すのであろう。
 木々高太郎(本名、林髞(はやし・たかし))は、明治29年に山梨県で生まれ、慶應義塾大学の医学部を卒業した大脳生理学の専門家で、ソビエトに留学してイワン・パヴロフのもとで条件反射の理論を学んだ。その傍ら中学時代から校友会誌に投稿する文学青年でもあり、上京後は金子光晴たちと親交をもった。昭和9年には木々高太郎の筆名で、雑誌「新青年」に短編推理小説「網膜脈視症」を書いてデビューし、以後多くの推理小説(当時の言葉でいえば探偵小説)を発表して昭和12年度の直木賞を受賞。戦後は第三代の日本推理作家協会会長をつとめた。そんな彼が多くの詩を書いていたことはあまり知られていないが、この「反世界」創刊号にも二編の詩を発表している。その一篇「骰子の一擲」は、言うまでもなくマラルメに触発されたものである。
         骰子の一擲
                 友・吉田一穂に献ずる

 詩人のうちでの変種である、
 女や花には詩を求めず、
 女は抱いてねるだけ、花は嗅ぐだけだった。

 彼の詩は天界の銀河系から
 銀河系の向うの反世界から
 そして電波天文学から来るのだったから、
 ロケットがあげられ、宇宙遊泳が始まると、
 彼は哄笑し、あざわらった。
 群小ロケット共よ!
 俺の飛翔をみよ! と

 詩人にも若い時があり、若い友達がいた。
 君はスピノーザをよむかね。
 ――石を投げると
 石は神の法則に従って飛ぶ。
 だが若し、石に意志があるとしたら、
 石は自分の意欲で飛んでいると
 感ずるに違いない。――
 このスピノーザの恐ろしい言葉に懊み、
 やがて俺はマラルメを読んだ。
 思想は石の投擲の如く、
 自分の意志でも独創でもないかも知れぬ。
 だが、――喘いで天空を仰ぐ、
 難破する船の上からも
 乾坤一擲!
 二者択一! だけは出来る。

 あらゆる存在、あらゆる実存、
 あらゆる生命がスピノーザの石であろうとも、
 人間には、骰子の一擲が出来るのだ。
 マラルメよりも更に寡黙なその詩人が、
 一行だけの詩をかき
 一行だけの詩をよしとするのは、
 やはり彼の哲学から来た。
 その詩を友達の一人が理解するなら、
 彼の哲学からは
 それは完全無欠の実在であった。
 壮大なる一擲よ、
 雄渾なる一行よ、
 ああわれ人間たるを悔いず、
 ああわれ詩人たるを悔いず。     (1967)
 木々高太郎のこの詩は「賽の一振り(骰子の一擲)の一つの解釈になっている。以下は蛇足と宣伝。「賽の一振り」の翻訳と解釈については、ステファヌ・マラルメ『賽の一振りは断じて偶然を廃することはないだろう』(行路社、2009年)を参照されたい。
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# by monsieurk | 2011-09-06 17:43 | マラルメ | Trackback | Comments(0)
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フランスのこと、本のこと、etc. 思い付くままに。


by monsieurk
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